金髪ロリ僕っ娘ラノベ

第一話

 雨晒し野晒し、倒れた肉体を誰かに見つけて貰う。

 それは人の良い老夫婦。

 手厚い看護を受けて傷ついた少女は再び歩む力を得る。

 それから延々と続く毎日が幸せな生活。

 そんな御伽噺の一節より取ってきた風を思わせる一節は、やはり、何処まで行っても御伽噺の中の出来事に過ぎない。気を失って倒れることしばらくして、現実、アリスは激しい空腹から自らの腹の鳴る音で意識を取り戻した。

「……うぅ」

 多少だけ身体を横にした為だろう。ゆっくりと上半身を起こしたところで、彼女は幾らばかりか体力が戻っているのを感じた。しかし、空腹ばかりは如何ともし難く、ここ三日ばかり水しか口にしていない肉体は激しく空腹を訴えていた。

「何か、何か食べるものを……」

 のそり、のそりと身を起こして、その正面に眺める集落の一角を眺める。

 そこから臨む限りにしても、彼女が暮らしていた村と比較せずとも裕福な村民の暮らしが伺える。柱の太い確りとした作りの家々が立ち並び、田畑は遠目にも色濃く十分に肥えて映り、遠く数多の家畜が草を食む姿も伺える。

「……た、食べ物」

 目の前の光景を受けて、自然と少女は一歩を踏み出していた。

 それこそ地に生る野菜をそのまま丸齧りするにも然したる抵抗を感じない程度に辛辣な生活を送ってきた彼女である。手近い小屋に下がる干からびた茸にしても、今の空腹にはご馳走に等しいだろう。

「…………」

 ゆっくりと垣根を越えて、最も近い場所に立つ小屋へと足を忍ばせる。

 そこには屋根から下げられた根野菜と、他に水瓶らしい大きな瓶が置かれていた。そして、空腹の為に碌に頭も回らず、また、飢餓の極まる貧村に暮らしていた経験から、全うな物乞いでは何を恵んで貰えるとも知れぬと考える彼女である。その身は勝手に動いて獲物を狙っていた。

 小屋の周囲に人影は無い。

 まるで人影に警戒する小動物の如く、少女は周囲をきょろきょろと忙しなく伺う。やがて、一歩、二歩、三歩と足を進めて、目的のご馳走を目の前まで迎えた。

「食べ物……」

 そっと、音を立てぬよう、吊るされた野菜の一つを拝借する。

 ついでに壷の脇に置かれていた杓子を手に取り、そこに瓶へ収められた水を一杯、並々と掬い上げる。

「水っ……」

 堪らず口を付けると、さらさら流れるように、水は少女の乾ききった喉へと流れていった。そして、喉が潤いに癒えたのと同時、彼女は手にした根野菜へと形振り構わず喰らいついた。

 歯応えに長けるそれを強引に口へ一含みだけ齧り取り、ごりごりと音を立てて噛み砕く。それこそ味など分かったものでない。ある程度だけ咀嚼しては、再び水を口に含んで内容物を胃へと流し落とす。

 そして、また手にした野菜へと喰らい付く。

 そんな繰り返しは拳大の野菜一つが丸々消えるまで続けられた。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 野菜を一つ腹に収めて、そのあまりの勢いに息を荒くしながら少女は今一度だけ周囲を伺う。そして、目の届く範囲に誰も居ないことを確認して、もう一つだけ下がる野菜を取ろうと手を伸ばす。

 けれど、そこまでしたところで、不意に彼女の耳へ人の声が届いた。

「おい、ちゃんと見張っておけと言っただろうっ!?」

「分かってるよ、少し便所に行っていただけじゃねぇか」

「逃げられたらどうするんだよ!」

「逃げられる訳ないだろ? 外から鍵を閉めてあるんだぜ?」

「念には念をって村長が言ってただろ!?」

 それは若い男の二人組みであった。

 彼女が居る小屋の影より、彼女が居る側、小屋の出入り口がある側へ近づいてくる。足音と共に段々と大きく響き聞こえる声に少女は一瞬のこと身を固める。しかし、次の瞬間には地を蹴り駆け出していた。

「ったく、うっせぇなぁ、俺にばっかり面倒な仕事を押し付けやがって」

「五月蝿い、ぼやく暇があるなら大人しく自分の仕事をこなしていろ」

「はいはい、分かりましたよ。見てりゃいいんだろ? 見てりゃ」

「ああ、そうだ。お前はジッと見ていればいいんだよ」

 彼女が小屋を盾に身を隠すのと時を同じく、二人の男がそれまで少女の立っていた場所までやって来た。一人は背の高いきりりとした顔立ちの男。もう一人は少し腹の出た髭面の小男である。

「わーったよ、わーったった。だから、お前はとっとと向こうへ行ってろ」

「いいか? また見張りをサボったりしたら酷いからな?」

「大丈夫だよ。ほら、さっさと何処へでも戻れ」

「まったく、これだからコイツという奴は……」

 背の高い男が髭面の男を追い立てている様子だった。

「ほら、早く向こうへ行ってくれ」

「いいかっ! 絶対にこの場を離れるんじゃないぞ?」

「うっせよ、分かってるよ。村長の孫だからって威張るんじゃねぇよっ!」

「村長の孫は関係ない。俺はこれがお前の仕事だから言っているんだっ!」

「へいへい、分かりました、分かりましたよっ!」

 どうやら背の高い男は髭面の男をこの場へ連れ戻して来たらしい。

 一頻りだけ小言を並べると、すぐにその場を後としてしまう。そして、そんな彼の背を憎らし気に眺めるのが髭面の男である。それまで少女が立っていた辺りに腰を下ろして、はぁと大きな溜息を吐く。

「ったく、あの野郎、何するにも威張り腐りやがって……」

 一人になっても絶えず愚痴を吐きこぼす男。

 その姿を小屋の影に隠れて、少女はジッと何をするでもなく伺っていた。

 手には握ったまま杓子がある。既に水は飲み干して中身は空っぽである。咄嗟のことで元在った場所へ返す暇もなかった。けれど、それに男が気づいた風もなくあることに、ホッと一息をついている様子だった。

「…………」

 彼女に小さな身体には今に食べた野菜一つでもある程度の充足感が得られた。

 しかし、満腹と言うには程遠い。

 その未練が延々と彼女の視線を男と、男の傍らにある野菜や水瓶に向けさせていた。

「しかし、どうしてこんな辺境に亡国の王子様がいるのかね……」

 男は何気なく背後を振り返る。

 そこには厳つい錠の落とされた木製の扉がある。

「まぁ、おかげで金が転がり込んで来るってんなら、別に何でも構わねぇか」

 地べたへ直接に尻を落ち着けて、胡坐をかいた太股に肘を置き、やる気も無さ気に頬杖など突いている。その姿は背の高い男が声も大きく叱り付けたに相応しい様相だろう。怠惰な感が溢れている。

「とは言え、それも役人に捕まったら、きっと殺されるんだろうなぁ……」

 男は誰が誰に語りかけるでもなく、ぽつり、ぽつりと独り言を繰り返す。

「折角、ここまで逃げて来たって言うのにざまねぇな……」

 その様子を物陰から眺めて、少女は小屋の中に人が捕まっていることを理解した。それも男の言葉に習えば亡国の王子である。彼女にしても自らの貧困が如何なる理由で成されているか、そして、その頂点に立つのが誰であるか、そういった事情は理解している。

 だからこそ、その姿に自然と興味を持った。

 それは生まれてよりの貧村から開放されて、喉の渇きを癒して、腹を満たして、久方ぶりに生まれた余裕から来る疑問である。そして、行動力に定評のある彼女だからこそ、自然と足は動いた。

「…………」

 男に見つからぬよう小屋の外を見て回る。

 すると、丁度、男が腰掛けた面とは反対側、その背の高い位置に窓を見つけた。特に何もはめ込まれていない、ただ日の光を取り入れる為だけに明けられた小さな窓である。高さは彼女の頭程度だろうか。

「よし……」

 上手い具合、脇に空の桶を見つけて、少女はそれを足場に小屋の中を覗き見る。

 すると、果たして、そこには男が語ったとおり人が一人、縄を掛けられ捕らえられていた。歳の頃はアリスと然して変わらぬ風を思わせる。また、髪の色も同様に黄金色である。ただ、土埃にまみれて輝きを失った彼女のそれと比較して、彼のそれは多少煤けていても、黄金の黄金足る所以を誇示していた。

 加えて言うなら顔立ちも頗る整って、愛らしくも凛々しく、将来はさぞ良い男になるだろうと感じさせる。それこそ物語に見る白馬の王子様の幼少を描いた風に感じられる男の子であった。衣服もまた相応に煌びやかで、あちらこちら解れ汚れていながらも、元の作りの良さが際立つ。

「…………」

 しかし、本人は随分と疲弊しているらしく、身を床に横たえたままピクリとも動かない。もしかしたら気を失っているのか、それとも寝入ってしまっているのか。加えて、身体のあちらこちらに怪我を負っている。

「……王子様、か」

 その姿を眺めて、アリスは一つ思考を巡らせる。

 亡国の、と冠が乗るとは言え、王子様などと言う代物を眺めた初めての経験である。彼女が彼であった記憶を踏まえても過去に無い出来事だった。そして、その当人が弱々しくも倒れているという姿が衝撃的であった。

 そう、それこそ今の自分と同じように。

「…………」

 眼差しは彼を凝視するように一点へ向けて集中する。

 どうしてなのか、彼女はその姿から目を逸らすことができなかった。

「……これもまた酷い話」

 誰に言うでもなく小さく呟く。

 ともすれば、自然と彼女の手は小窓へ向けて伸ばされていた。

 窓枠は非常に狭い。しかし、ただでさえ小さな子供の、それも飢餓に飢え苦しみや痩せ細った彼女ならば、然したる苦労もなく抜けることができた。そうして、音を立てぬよう小屋の中に詰まれた荷物を足場にして、ゆっくりと下へ、下へと降りていく。

 その間にも王子様が目を覚ます素振りはない。

「……よし」

 両の足で冷たい石床に立って、まずはほぅと一息を吐く。

 扉の外からは依然として男の声が聞こえてくる。しかし、小屋の中へ注目した様子は口調よりなんら感じられない。時折、思い出したように何かを喋るけれど、大半は愚痴や暴言の類だ。

「…………」

 少女は王子様へとゆっくり近づいた。

 正面へ回り込むと、その目が閉じられているのに気づいた。

「……君、大丈夫か?」

 小さく、本当に小さく、耳元へ直接に語りかけるよう囁く。

 けれど、それでも相手は意識を取り戻す様子もない。そこで彼女は脈が正常であることを確認した上で、その頬を小さく叩いてみた。

「…………」

 しかし、一度や二度では反応が無い。

 そこで幾度か、抓る、捻るなど手を加えて刺激を与え続けた。

 すると、多少だけ頬に赤い部分が生まれたところで反応が返った。

「……うぅ」

 それは僅かな呻き声だった。

 その反応を目の当たりとして、アリスは咄嗟に彼の口元へと自らの手を押し当てる。

「しっ!」

「……んぅ……ぅぅん?」

「静かにして欲しい、私の言っていることが分かる?」

 王子様の瞳が確かに開かれたことを確認して、ゆっくりと、相手に言い聞かせるよう強く問いかける。口元を押さえたのと別の手は人差し指を立てて口の前に置いてある。これは彼女からすれば忘れて久しい表現だろう。

「んっ……んぅ……」

「静かにする? するなら貴方は逃げることができるかもしれない」

「ん、んぅ……」

 アリスが言うと、彼はコクコクと激しく首を縦に振るった。

 きっと相手が自分と同じく幼い子供であったことが警戒心を解いたのだろう。然して暴れることもなく、王子様は彼女の言葉に従うのだった。開かれてしばらくは虚ろだった瞳もすぐに意思の光を取り戻す。

「絶対に声を上げないこと。外に見張りが居る」

「ん、んぅ……」

 最後に注意を重ねて、アリスはゆっくりと彼の口元から手を離した。

「んはぁっ……」

 それと同じく、息継ぎをし損ねた魚のように王子様は大きく息をして呼吸を整える。

「聞きたいこと、言いたいこと、何があっても構わないけど、まずはここから出るのが先決。そこの窓から外へ出られるから、私に続いて同じように外へ。ただし、絶対に物音を立てないで」

「あ、ああ……」

「とりあえず縄を解くから、ジッとしていて」

「…………」

 大人しくなった彼を前に、アリスは固く締められた縄を何とか解く。長く山中を彷徨っていた為に指先は傷だらけ。しかし、この期に及んで弱音を吐く訳にもいかず、必至になって結びを解いた。

「よしっ……」

「解けた……」

「それじゃあ、大人しく私に続いて外へ向かう」

「あ、ああ、分かった」

 そうして、、アリスは言うことだけ言って素早く身を動かす。

 そんな彼女の姿に関心した風に、彼もまた後を慌てた風に追う。部屋の内側、窓枠の周囲には雑多に荷物が置かれており、それを足場にすれば外から入り込んだのと同じく、外へ出ることも叶う。

「そこ、足場に注意して」

「分かった」

「あと、そこは音が鳴りそうだから踏まないで」

「あ、ああ」

「私が踏んだ場所を踏んで昇って」

「分かった、君が踏んだ場所だな……」

 少女の指示に頷きつつ、王子様は彼女が昇るに踏んだ足場を重ねて、その後へ懸命について行く。アリス自身もまた、誰かに見つかる恐怖に耐えながら、必至に元居た小屋の外を目指す。

 そして、何よりも幸いにして、王子様もまたアリスに同じく窓枠を越えるだけの身の小ささがあった。ほぅと胸を撫で下ろしたアリスは、一足先に外へと降りて、彼が地に降り立つのを待つ。

「そう、そこのところに桶がある」

「分かった、ここだった、な」

「そう、そこにあるから注意して。バランスを崩したら大変だから」

「ああ……」

 そして、覚束無い足取りでなんとか両の足を地面につかせた。

 自分が小屋の外へ脱出できたのだと一息、王子様が背後のアリスを振り返る。その表情は拿捕を解かれ小屋の外へ出ることの叶った喜びで笑顔に満ちていた。眦には涙すら浮かんでいる。

「た、助かった……」

 自然と洩れたのは安堵の一言であった。

 けれど、そんな彼の言葉へ安易に頷くほどアリスは愚直でない。

「まだ安心できない。早くこっちへ」

「わ、分かった」

 彼の手を取って脇の茂みへと逃げ込む。

 木の葉を揺らさぬように、足元の木の枝を折らぬように、静かに、静かに、野に身を這わせて獲物を狙う野獣の如く、二人は小屋から距離を取る。そうして、草木の合間からも小屋が見えなくなった頃合である。そこまで来て、ようやっとアリスははぁと大きく息を吐き散らすのだった。

 強張った肉体を弛緩させて両肩を大きく落とす。

 そこは小屋から大分離れた木陰だった。

「良かった……、見つからずに済んだみたい」

「あ、ああ、助かった、本当に、助かった……」

 それに促されて王子様もまた両膝に手を突いて大きく息を吐き出した。

「まさか昨日の今日で自分が人を助ける側に回るとは思わなかった」

 誰に言うでもなく、アリスは頭上高く茂る木々の葉を見上げて呟く。

 すると、そんな彼女の言葉に背をしゃんと立てた王子様が仰々しく頭を垂れる。

「ありがとうっ! 君のおかげで助かった。本当、ありがとうっ!」

「いや、別にいいよ。こっちが勝手にやったことだから」

「あのまま放っておかれたら、きっと、すぐにでも国の役人に突き出されていただろう。それこそ公開処刑は免れない。そうなっては、ああ、それこそ僅かに残った復興の芽まで自ら摘んでしまうこととなった」

「あぁ、やはり王子様というのは本当なのだね」

「あ、そ、それは……」

 緊張から開放された為か、つらつら口数も多く語り始めた彼にアリスが言う。すると、王子様はしまったと自らの口を押さえて身を硬くする。身に纏う衣服の仰々しさを思えば、そこいらの村人を装えるとは到底思わない。しかし、本人にしては至って致命的な失態であったらしい。

「き、君も……、僕を狙うか?」

 安堵から一辺、急に表情を変えて彼はアリスを見つめる。

「いいや、そんなものには微塵の興味も無い」

「……そうなのか?」

「こうして助けたのも、そう、単純に君の境遇が私のそれとと似ていたから、それだけ」

「……君も、何処からか逃げてきたのか?」

「そう、酷く遠いところから逃げてきた」

「そうだったのか……」

 アリスが頷くと、王子様は少しだけ思案顔になって顔を俯かせる。

 彼に晒す彼女の姿は非常にみすぼらしいものだ。衣服は既に衣服と呼べるだけの機能を果たしていない。シャツは破れて、ズボンは穴だらけだ。今が暖かい季節でなかったら、三日と持たずに凍え死んでいただろう。加えて、土埃や血液の飛沫に汚れて、漂う悪臭も相応である。そして、子供一人の長旅にも拘らず、荷物らしい荷物と言えば、背中に背負った泥の染みにまみれた鞄一つである。

「ありがとう。本当に、ありがとう……」

 そんなアリスだからだろう。

 王子様は今一度だけ深々と頭を下げるのだった。

「別に、そんなにしてくれなくてもいい」

「しかし……」

「そもそも私はあの村の人間ではないし、そもそも、あそこへ辿り着いてから間もなく君を見つけたから、右も左も分からない状況だった。そんなだから、他所者が摘み食いのついでに悪戯をしたようなものだと考えてくれればいい」

「……そうなのか?」

「ええ、気にすることは何もない」

 彼を助けたことに然したる意味も持ち合わせていない様子でアリスが淡々と応える。だけれど、助けられた当人はそう容易に済むものもないらしく、居心地の悪そうな表情を拭えないでいる。

「いや、しかし、それでも助けて貰ったのは事実だ」

「だったら、そうして頭を下げて貰ったのだから、もういいよ」

「……すまない」

 アリスの姿や態度に何を思ったのか、謝罪を続ける王子様は只管に平身低頭であった。そして、彼がそんな具合だから、相手をするにしても良い、良い、良いと言葉を繋げるに他が無い。

 やがて、同じ繰り返しが幾十か回ったところでアリスが仕切り直す。

「それよりも、早くここから離れたほうが良いと思う」

「え、あ……、そ、それもそうだな」

「村の人間が気づいたら間違いなく探しに来る。君を見張っていた男は、君を役人に売ることで村に金が入ると言っていた。だから、額にもよるだろうが相手も血眼になって探しに来ると思う」

「本当か!?」

「嘘をついてどうするの?」

「そ、それもそうか……」

「私はこの辺の地理に詳しくないのだけれど、君は?」

「すまない、僕も人に連れられていたのでさっぱり分からない」

「仕方が無い、それじゃあ一先ずは村より遠ざかる形で山を降りよう」

「分かった」

 先導するよう歩みだしたアリスに続いて王子様もまた足を動かす。

 足元に蔓延る蔦を踏み拉いて、行く手を遮る樹木の葉を押しのけて、額に汗を流しながら必至になって歩く。元来、野山で活動することに慣れ親しんできたアリスと異なり、王子様は多少だけ覚束無い様子である。しかし、それでも必至になって彼女の背中へ噛り付いて来ているあたり、決して身体を動かすことが苦手とは思えない。

「大丈夫?」

「ああ、この程度の行軍は何でもない」

「それなら、もう少しだけ早く進むことにする」

「わ、分かった」

「なんとか日が暮れる前に十分な距離を取りたいから」

「……そうだな」

 交わす言葉も少なく、アリスと王子様は森の中を歩んだ。

 すると、しばらくして妙な音が二人の下へ届けられる。

 それは遠くかーんかーんと鐘を突いた風に響く音であった。聞きなれない物音に二人とも歩みを止める。耳を済ませると、それは多少だけ規則性を持って、三度叩いては間を置いて、また三度叩いては間をおいてを繰り返す。

 しばらくその音に耳を済ませていた二人だが、やがて、何かに思い至ったらしい王子様がおもむろに口を開いた。

「これは、まさか僕の……」

「うん、間違いない……」

 顔を見合わせて互いに頷きあう。

 自然と身体の震えているのは共に見てみぬふりだろう。

「畜生、早く逃げないと……」

「今の音から村の方角が確認できた」

「こ、これからどうするんだ?」

「このまま西へ抜けて首都ファーレンを目指す」

「……それが君の目的地なのかい?」

「ええ、父さんが言ってた」

「そうか……」

「王子様というくらいだから、やはり貴方はファーレンから逃げてきたの?」

「いいや、僕は王邸の別荘から逃げてきたところなんだ。王都ファーレンから二日ほど西へ行ったところにあるのだけれど、その距離が致命的だった。大臣達の謀反に気づかないまま気づけば包囲されていた」

「なるほど、それでこんなところを彷徨っていたんだ」

「従者と共に逃げ出したのだけれど、それも僕を逃がそうとして……」

 そうして語る王子様の表情は頗る渋かった。

「そういうことなら、私と一緒にファーレンへ行く?」

「い、いや、ちょっと待ってくれ。僕が王都へ向かったら、それこそ自ら罠に掛かりに行くようなものじゃないのか? 今も相手は血眼になって探している。僕を殺さなければ王族の血は絶えたことにならないんだから」

「……そうなの?」

「ああ、この血を完全に絶やさぬ限り謀反は何処まで行っても謀反。枕を高くして寝るには僕を殺して今の王族の血を完全に切らなければならない。既に親類は皆、誰も彼も殺されてしまっている」

「なるほど……」

「だから僕は王都へ向かうことは、その、できないんだ……」

 王子様は申し訳なさ気にアリスを見つめる。

 けれど、そんな彼の態度に対して彼女は呆気カランと応えた。

「でも、今に限ってはそれが逆にそれが好都合だと思うけど?」

「……え?」

「そうは思わない?」

「こ、好都合だって? それは何故だい? 僕には意味が分からないよ」

「こうして山間の村で目撃された後だもの、相手だってまさか自分達の膝元へ帰って来ているとは思わないでしょう。それとなく髪型を変えたり、服装を弄ったりすれば当分は追っ手を誤魔化せると思う」

「い、いやしかし……」

「貴方は顔立ちも綺麗で女の子みたいだから、いっそのこと女装してしまったら良いと思う。ええ、そうしましょう。私の髪をあげるから、それでカツラを作って被れば良いじゃない」

「……か、カツラ?」

「それでは駄目? 少なくとも当てなく延々と山中を駆け回るよりはましだと思う。子供の足じゃあ国境は越えられない。近隣の村に向かったとしても、さっきと同じように役人へ売られるのがオチ」

「ぅ……」

「だったら王都のスラム街でもなんでも、身を隠して残飯でも漁る方が賢いと思う。木を隠すには森、人を隠すには都市。そもそも王都の伝令が伝わらないほどに都市部から離れた集落だなんて、それこそ貴方が生きていけるほどに優しい場所じゃない」

 アリスはジッと王子様の顔を見つめる。

 自らの実体験が多分に含まれていることもあって、彼女の語る態度は酷く重々しい。それこそ視線に質量すら感じて思えるほどの、禍々しさすら感じられる強烈な眼差しであった。

「わ、分かった……」

 ならばこそ王子様も首を横に振ることはできなかった。

 アリスの迫力に負けて小さく頷く。

「それで、いい?」

「確かに君の言うとおりだと思う……」

 また、他に頼る当てのない彼だからこそ、彼女の行く先を変えさせるような無理強いなど叶う筈もない。アリスが三度(みたび)を問いかければ、素直に彼女の話を認めるのだった。

「分かった、それじゃあ先を急ごう」

「あ、ああ……」

 延々と鳴り続ける鐘の音に背筋を震わせて、二人は再び足を動かし始める。居っての存在を意識してだろう。それまでと比べて歩む勢いも三割増といったところか。額にだらだらと汗を流しての強行軍である。

「ところで、どれくらいで着くか見当はついているのかい?」

「父さんは三、四日を歩けば着くって言ってた」

「そ、そんなにかかるのか……」

「多分、子供の足を計算した上だから、無理をして急げば多少は早く着くかもしれない」

「それでも三日、早くて二日くらい?」

「多分、そうだと思う」

 はぁはぁと息を荒くしながら、前後に並んだまま二人は会話を続ける。先を進むのはアリス、その後を王子様が続いている。伊達に野山で毎日の大半を過ごしてきた彼女でない。その足取りは大したものだ。

「ところで、僕、君の名前をまだ聞いていなかったんだけれど、いいかい?」

「私の名前?」

「そう、教えては貰えないかな?」

「私はアリス、アリス・レステンクール」

「それじゃあ、アリスと呼ばせて貰っても構わないか?」

「好きなように呼んでくれて構わない」

「なら僕のことも好きなように呼んで欲しい。僕の名前はルーシュ・ファーレンハイト。本当は色々と間やら後やらに付いて長い名前なんだけれど、その辺は無視して、ルーシュ・ファーレンハイトって言う」

「分かった、ルーシュと呼ぶことにする」

「ああ、ありがとう」

 木の葉の互いに擦れ合う音、靴の土を踏む音、それらに混じって二人の声がそれとなく辺りに届く。鐘の音は依然として届けられるものの、人の気配は周囲に感じられない。まだ彼を捕らえた村人達は遠いようだ。

 大凡、鐘の鳴り始めが捜査の始まりだとするならば、両者の間には十分な距離がある。そして、付近一帯は木々の茂る深い森にあってこそ、逃げ延びることも可能だとアリスは考えていた。

 それから数刻を二人は必至になって駆けた。

 途中、数度の休憩を挟みながらも、暗くなるまで移動を続けた。

 日が落ちてしまうと辺りは真っ暗となる。夜空には月が出ているが、それも背の高い樹木の葉に遮られて満足に届かない。足元は暗がりにあって、満足に歩むことも叶わない有様である。

 そこで日が完全に落ちてよりしばらく、二人はその日の移動を終えることとした。

 しかし、万が一にも追っ手が迫っていては叶わない。焚き火を灯すことも叶わず、二人は暗闇にあって互いに身を寄せ合い木の幹に瀬を預けていた。再び朝日が昇るまで数時間、その間を息を潜めて過ごすことと決めたのだった。

「……ねぇ、少し、いいかな?」

 地面に腰を下ろしてしばらく、何一つ会話の無い沈黙に耐えかねたのか、ルーシュが恐る恐るといった風にアリスへ語りかける。肩と肩の接する距離で、小さく囁かれた言葉の、その吐息が彼女の耳へとかかった。

「何?」

「僕は君に聞きたいことがあるんだ」

「私に聞きたいこと?」

「ああ、聞いてもいいかな?」

「別に構わないけれど、何?」

「う、うん……」

 アリスが頷くと、ルーシュは少しだけ躊躇して言葉を続ける。

「その、なんというか、君はどうして僕を助けてくれたんだい?」

「……どうしてって?」

「だって、そうだろう? 僕を役人に差し出せば、それ相応の報酬が貰える筈だ。正直、こういうことを言うのは君に失礼かもしれないが、質素に暮らせば数年は働かずに済む程度は貰えると思う」

「確かにそうかもしれない」

「では、どうして君は僕を助けたんだ?」

「それは、まあ、なんというか……」

 予期せぬ問いかけにアリスは返す言葉に戸惑う。

「教えて貰えやしないか?」

「いや、教えてって言われても……」

 何と応えるべきか頭を悩ませる。

 ただ、あまりにも相手が真剣な表情をしているものだから、彼女もまた嘘を並べることに抵抗を覚えた。そこで仕方なしにアリスは自らの身の上をルーシュへ語る羽目となるのだった。

 全ては起きてより数週と経たぬ出来事にあって、目を閉じれば何もかもが鮮明に思い起こされる。一部、説明の面倒な部分だけを端折って、彼女は自分達一家の村での生活から始まって、自分が今この場に至るまでの経緯を彼に簡単に説明した。

 ともすれば、全てを聞き終えたルーシュの顔といったら大したものだろう。

「…………」

「……どうしたの?」

「い、いや……」

 小さく俯いて、何を言うでもなく地面を見つめる。

「何か言いたいことがある?」

「そういう訳じゃないんだけど、その……」

 大凡のところは察しがつくアリスである。

 それだけ尋ねて口を閉ざす。

 ともすれば、しばらくの沈黙を守ったルーシュだが、ぽつり、ぽつり、今度は彼が自らの身の上を語り始めた。そして、それは彼女が思ったとおり、その出自に違わぬ大層華やかなものであった。

「僕は生まれたときから何不自由なく幸せに暮らしていた」

「…………」

 独白するように言葉を続ける王子様。

 少女は黙ってそれに耳を傾ける。

「父さんと母さんに愛されて、毎日、美味しいご飯を食べていたよ」

 ルーシュの語りは酷く淡々としたもので、まるで他人の生い立ちでも横から眺めている風である。けれど、時折、その表情を苦々しくも変化させて苦悩する姿に、アリスは彼の葛藤を理解する。

「下らないことに腹を立てて家出をすることも沢山あった」

「…………」

「そして、それが至って普通の毎日なのだとばかり考えていた」

「……そう」

「だけど、本当は全然、違っていたんだね」

 ゆっくりと木の葉の越しに夜空を見上げて、王子様は続ける。

「君の話を聞いて、僕が暮らしていた毎日は非常に大変なものだと知ったよ。今まで如何して平然としていられたのか。思えば使用人の暮らしに疑問を持ったことすらなかった。にも拘らず、不平ばかり口にしていた」

「…………」

「それがどれだけ恵まれたことなのか、こうして君と出会わなければ、僕は一生を通して理解することはなかっただろう。自分の生活がどういった礎の上に成り立つものなのかを、永遠に知らず済ませていただろう」

「……それで?」

 段々と語調に感情が混じり始めたルーシュ。

 対して、アリスの反応は恐ろしくも冷たいものだ。

 彼の言葉の全ては決して彼女の今までの生活に無関係ではない。それを理解するだけの頭が、不幸にもアリスにはあった。だから、自らを悔いて嘆く相手に優しい言葉を掛けることはできなかった。

「今更、本当に今更だと思うけれど、僕は君に謝らなくてはならない」

「……確かに今更」

「すまない、本当に、すまない……」

 雲行きの怪しい語り草を受けてアリスはそれとなく隣を窺う。

 すると、ルーシュの眦にはいつの間にやら涙がこんもりと浮かんでいた。何かに耐えるよう口元を強張らせて真っ直ぐにアリスを見つめている。そうして、頭上に生える木の葉の合間より落ちてきた光の一筋が彼の顔に差して、湛える雫をキラキラと瞬かせるのだった。

「…………」

 これまた絵になる光景だと、アリスは心の内にひっそりと思う。

「許してくれとは決して言わないが、どうかこのとおり、謝らせて欲しい」

 そうして王子様は少女にひしと頭を下げるのだった。

 しかし、謝罪を受けた当人にしてみれば、それも迷惑な話だろう。

「別に、謝罪も何も関係ない」

「あぁ、分かっている。君の許しを得られることは絶対に無いのだと」

「つまり、そっちの自己満足と愚痴に付き合えばいいの?」

「い、いや、そういう意味では……」

「仮に君が本心からそう思っていたとしても、傍で聞いていればそういう風にしか聞こえてこない。そういうことは教会で十字架を前に膝を落としてやればいい。過ぎたことに意味は無いのだから」

「…………」

 つらつらと並べられるアリスの言葉にルーシュは口を閉ざす。

「私が君のような立場の人間を恨んでいないと言えば嘘になる。けれど、それを君に当るのは筋違いだろう。なら、この場で何を語ることも無いし、何を語られることも無い。それが君にできる唯一の謝罪だと思う」

「…………」

 自然と王子様の顎は落ちていた。

「だから、別に気にすることは無い。普通でいいと思う」

「……分かった」

 頑なに返すアリスの言葉にルーシュは小さく頷いた。

「すまない、無様な姿ばかり晒してしまって。本当に情けない限りだ」

「そう思うなら謝るのを止めた方が良いんじゃ?」

「あ、ああ、そうだな……」

 小さく身動ぎを一つしてルーシュが返す。

 過去に同年代の異性から真っ当に咎められた経験が無いのだろう。直接に顔へ出すことは無いが、居心地が悪そうに接した両の腿をもじもじとやっている。その姿はアリスと比べて余程に女らしくも思える。

「まあ、それだけ。これから先は長いから、気にしないで」

「心遣い、感謝する」

「……どういたしまして」

 幼い割に語るルーシュを眺めて、アリスは自然と自らの内に篭る熱の霧散するのを感じていた。ただの子供に過ぎない彼に何ができるものかと、家族の最後を胸の奥に押し留めて自らに言い聞かせる。

 それから二人は今後の進退を巡り多少だけ言葉を交わした。

 けれど、出会って間もない二人の間柄では、そうそう話が続くことも無い。どちらとも無く口数が減ってゆき、やがては再びの沈黙が訪れることとなった。

 付近一帯に響くのは姿も見えぬ虫の音と、遠く轟いて獣の遠吠えか。

 二人はそれぞれ互いに眠りにつく順番を決めて、夜を明かすこととした。

 先に見張るはルーシュ、その後にアリスという順番である。これはルーシュ達ての願いである。少しでも自らの貢献で報いたいと願う故だろう。そういった理由もあって、不安ながらアリスはしばらくぶりに他者の傍らで眠りに付くことと決めたのだった。

 しかし、彼女の眠りはそう長く続くことも無かった。

 頬に感じる瑣末な刺激から、眠りについて一刻と経たぬ間にアリスは目を覚ます。

「……何か?」

「近くから人の気配がする……」

「っ……」

 ルーシュの言葉にアリスの身が強張る。

「ほら、そっち……」

 声も小さく傍らの茂みを指差す。

 すると、確かにその先より人の声が聞こえてきた。何を喋っているのかははっきりとしない。しかし、それが自分達と同じ人間の声であることは二人とも確認できた。そして、声は決して一人ではなかった。

「まさか、こんな時間まで探しているなんて……」

「もしかしたら、村人だけじゃなく役人が出て来ているのかもしれない」

「なるほど」

 そして、そうこうしている間にも声達は二人の下へと近づいてくる。

「このままだと見つかるね」

「ど、どうする?」

「なんとか相手に気づかれないよう逃げるしかない」

「行くのか?」

「すぐに行く」

「分かった」

 二人は即座に身を起こして荷物を纏める。

 とは言っても、荷物らしい荷物を手にしているのはアリスだけだ。ルーシュは着の身着のまま村を脱してきたので手ぶらである。実のところ、明日の水や食料にすら事欠く有様だった。

 とは言え、今はそれを嘆いている余裕などない。

「こっち」

「ああ」

 再びアリスが先導する形で二人は森の中を歩み始める。

「あ、アリス、このままだとファーレンからは離れてしまうけれど……」

「追っ手がそちらから向かってきているから仕方が無い」

「あ、ああ、だが……」

「首都の方角は頭にあるから大丈夫。それよりも今は追ってから逃れるのが先決。明日に死ぬか今日に死ぬかと聞かれたら、ルーシュはどちらを選ぶの?」

「分かった、君の言うとおり進もう」

「ありがとう」

 草木を掻き分け必至の形相で二人は進む。

 しかし、日の明かりが望めない夜にあっては思うように進まない。足元に蔓延る蔦につまずいたり、影を見落とした大木へ身体をぶつけたりと、焦りが増すに従い面倒事ばかりが重なる。特に野山に慣れない王子様が歩みを顕著に遅れさせた。

「す、すまない」

 幾度目とも分からぬ転びに、これまた幾度目とも知れぬ謝罪の言葉が洩れる。

「それは構わないから、早く起き上がって先を急ぐ」

「あ、ああっ」

 それに淡々と応えて、アリスは叶う限りの勢いで彼を牽曳する。

「そっちを見て、ここからでも明かりが見える位置に相手が迫って来ている」

「くっ……」

「今はとにかく急いで距離を取らないと」

「分かった、もっと急いで歩く」

 幸いにして二人はまだ相手から存在を気取られていない。それだけを頼りに森の中を逃げ惑う。相手は大人、それも幾人、幾十人という集団である。手には武器さえ携えているだろう。まともに相手をして敵う筈もない。

「こっち」

「うんっ……」

 身体中の皮膚を木の葉に擦り切らせて、それでも必至に二人は歩んだ。

 しかし、如何せん相手は松明を手に道を進んでいる。対してアリスとルーシュとは暗闇の中を手探りだ。その差は互いの距離として顕著に現れた。しばらくを進むと、やがて、二人の目にありありと追っ手の掲げる明かりが映り始める。

「このままだと捕まる」

「そ、そんな……」

「四方八方より迫ってきているみたいだから、このままだと囲まれて終わる」

「囲まれるって、ああ、なんてことだ……」

「なんとか間をすり抜けて包囲の外へ脱出するしかない。向こうに見える二つの明かりが分かる? あそこの間の隙間が特に大きいから、そこを突いて一気に抜けるのが良いと思う」

「……分かった」

 嘆く王子様の尻を叩くように、アリスはなけなしの勇気を振り絞り歩みを進める。

 遠く響く追っ手の声が段々と鮮明になってくる。その数は村人が総出で追って来たのではないかと思えるほど。加えて、相手も一度は捉えた獲物が逃げ出した為か、酷く気が立っている様子だ。耳に届く声の大半は怒声交じりである。

「できるだけ物音を立てないように走って」

「あ、ああ」

 はぁはぁと上がる息を必至に堪えて、木々の合間を縫うように進む。

 そうして、いい加減に足が引き攣ろうかという頃合まで駆けたところで、二人はアリスが指し示した二組の追っ手が掲げる明かりの合間へと至る。右から左から共に喧しい声が響いていた。

 日中、そして日が暮れてよりも、延々と相手より遠ざからんべく歩んできたのに対して、現状は今までに類を見ないほど追っ手に接近している。その圧倒的緊張から、二人は息すら殺して慎重に山を進んでいた。

 前方左右、やや前方左右、やがて完全に左右へ。

 追っ手達の間で飛び交う会話すら筒抜ける位置まで至る。

「おいっ! そっちには居たかっ!?」

「いいや、しかし、居ないということは追い込んでいるのだろう!」

「糞っ、世話ばっかりやかせやがってっ!」

「とっとと役人に売り払って金が欲しいぜぇっ!」

「役人が先に捕まえちまったら俺達の取り分はなくなっちまうんだろっ!?」

「ああ、だからこそ、絶対にとっ捕まえてやるぜぇ」

「小僧を一人捕まえるだけで一年分の税が免除なんて、維持でも捕まえてやるっ!」

「別に生きていようが死んでいようが構わないんだろ?」

「あぁ、首根っこ引っこ抜いて持っていけばいいんだってよっ!」

「クソッたれ、こんな夜中まで山狩りさせやがって、ぜってぇ殺してやる」

 耳に届く言葉の全ては王子様を咎めるばかり。そんな風だから、自然と彼の歩みは勢いを増して、アリスの背をせっつくように距離を縮める。唯一の救いは大きな怒声と、彼らの進む多数の足音に二人の気配が隠されている点だろうか。

「アリス、急がないと……」

「ここでこちらを気取られたら意味が無い。慎重に進む必要がある」

「くっ……」

 日中までの勢いとは一変して慎重な足取りだった。

 交わす言葉も蚊の鳴くほどである。

 じりじりと額に浮かび上がる汗の雫を拭うことすら忘れて、ただ無我夢中に足を前へ、前へと向けて動かす。蔦に足を取られぬように。葉の重なりに足を取られぬように。木の枝の一本すら折らぬように。

 命がけの鬼ごっこだった。

 一瞬が永遠にも思えるほど、二人の時間はゆっくりと流れていた。

 けれど、終わりは必ず訪れる。

 それからしばらくして、アリスとルーシュは二つの明かりの集団を左右に見送り、やがて、村人達の包囲を抜け出るのだった。先程とは逆に段々と遠退いていく喧騒、朧に闇へ解けてゆく松明の揺らめき。

 応じて二人の足取りも何かに急かされるよう勢いを増してゆく。

「はぁ……はぁ……」

「ぅう……ぁ……はぁ……」

 それまで緊張に押さえ込まれていた生理反応が態を現し、二人は急に息も荒く肩を上下させ始める。どちらともなく隣り合い肩を並べて、互いに視線を交わすと、小さく口元に笑みを浮かべ合う。

「やった……」

「あぁ、やったぞ……」

 その言葉を確認するように歩みを止めて正面から向かい合う。

「もう、大丈夫だと思う」

「ああ、良かった。良かったぁ……」

 そして、一度でも安堵を理解してしまえば、堰を切った風にそれまで必至に押し留めていたものが二人の両肩へと圧し掛かってきた。ルーシュは堪らずアリスへと抱きついて、その胸に顔を埋めた。

 予期せぬ行いに驚いた彼女にしても、その思いが理解できない筈はなくて、自然と彼の頭を撫でていた。ルーシュは彼の胸の中で、良かった、良かったと、延々、嗚咽を漏らすように繰り返すのだった。

 とは言え、そう長い間をジッとしていることも叶わない。

 しばらくを待ったところでアリスはルーシュに声を掛ける。

「まだ完全に安全とは言い難い。もう少し、日が落ちている間に頑張ってあるこう」

「……わかった」

 ぐしぐしと手の甲で涙を拭ってルーシュが顔を上げる。

 そこまでを達して二人の努力は水泡と帰した。

「まったく、こっちの苦労も知らずに随分と泣かせてくれますねぇ……」

 不意に届いた第三者の声。

 まるで冷水でも背に流し込まれた風にアリスとルーシュが身を強張らせる。

「ねぇ? 王子様。いや、元王子様ですかね」

 それと同時に二人の周囲へ一斉に人の気配が生まれた。

 夜の闇に落ちた樹木の影、そこに彼と彼女を囲うように幾十人もの人間が居た。誰も彼も鎧兜を身に纏い、手には剣や槍を携えている。これが王子様を追いかけて来た国の役人だろうとアリスは理解した。

 そして、その全てを従ええた人物が一人、二人の前に一歩を踏み出す。

「さぁて、大人しく父親の後に続いて貰いましょうか。ルーシュ元王子」

「な、なんで……」

 ルーシュは大きく瞳を見開いて、その人物を驚愕に見つめていた。

 まず第一に彼らへ声を掛けた者である。

「なんで? それは貴方がファーレンハイトの血を引いているからに決まっているじゃないですか。それを理解しているから、貴方もこうして山中を彷徨っているのでしょう? そのような汚らしい乞食の娘と共に」

「っ……」

「まあ、それもここまででしょうがね」

 すらりと背の高い男である。身なりも確りしており、昼に見た村人とは種類の違う人間なのだと誰の目にも明らかであった。語り草は何処か人を鼻にかけた風にあって、まるで道端に落ちた糞尿の如く二人を見下している。

 否、アリスに至っては直接に目を向けることすら躊躇っている節がある。

「…………」

 今にして思えば自分は垢塗れ泥まみれで大層のこと臭うのに、よくまあルーシュは胸に抱きついたものだと、アリスは内心で一人ごちる。ただ、そんな感慨に浸っている余裕も僅かである。

「さぁて、それでは全てを終わりにするとしましょう」

「な、ならば、せめて……」

「何ですか? この期に及んで死にたくないなどと喚くのは止めてくださいね?」

 二人を囲う者達が段々と距離を詰めて来る。

 じわりじわりと高まる緊張感は、今し方までの追い駆けっこすら生温い。

「せめて、彼女だけは助けてくれっ! お願いだっ!」

「彼女? そこの汚らしい乞食のことですか?」

「他に誰が居るというんだ!? 頼む、このとおりだっ!」

 役人の言葉にも負けず王子様は正面に立つ男へ頭を垂れる。

 腰を大きく曲げて深々と、土埃に汚れながらも形の良い旋毛を相手に晒す。両手の平はぴんと伸ばされて腿の横へ。肉体の疲労など忘れてしまった風に、綺麗な姿勢で顎を胸に付くほど深く引く。

「はっはっは、これはお笑いだっ! なんて愉快なこともあったことか」

「な、なんだとっ!?」

「まさかこの私が、乞食を庇う貴方に頭を下げられるとは、ええ、堪らない冗談ですよ」

「冗談っ!? 決して冗談などではない。頼む、どうか見逃してやってくれっ!」

「乞食ですよ? 乞食。既に城が陥落したとは言え、元々は王族たる貴方が、我々の謀反さえなければ、やがては一国を背負い歩む筈であった貴方が、どうして乞食如きの命を請うというのですかっ! それも私という親の敵とも言える相手に」

「そんなことは知ったことじゃないっ! ただ、僕は彼女に生きて貰いたいだけだっ!」

「そうですか、そうですか、そうですかぁ……」

「見逃して……貰えるか?」

「そういうことでしたら、まずは貴方より先に、そちらの乞食を殺さなければなりませんねぇ?」

「なっ!?」

「だってそうでしょう? 次は乞食を殺されて泣き叫ぶ貴方が、元王族が拝めるのですから。こんな素敵な娯楽は滅多に無い。いや、今後一生を経ても無いかもしれません。ならば是が非でも殺さなければ」

「そ、それでもお前は同じ人間かっ!? 何故にそんな酷いことができるっ!?」

「人間、色々な種類がいるのですよ。そんなことも分からないとは、やはり、貴方は王となり一国を率いる器ではなかったようですね。これは我々が国を貰い受けて、ええ、とても良かったと思いますよ」

「くっ……」

 くつくつと笑う男の顔には夜の闇にも増して黒い影が落ちていた。

「さぁて、それでは処刑といきましょう」

 男が一歩、アリスへ向けて歩み寄る。

 相手が子供二人と見て周囲の役人を向ける必要もないと判断したのだろう。若しくは自らの手で彼女を殺すことに何かしらの意義を見出したのかもしれない。舌なめずりなどして見せる姿は、当人からすれば精神異常者としか評せなかった。

 ただ、いずれにせよ彼が腰から抜いた剣の切っ先は本物。

 それは躊躇無くアリスへ向けて掲げられた。

「さぁて、まずはその足を叩き切ってあげましょう」

「…………」

 しかし、彼女は何も語らない。

 ズボンのポケットへ収めた右腕の取り出すタイミングだけを淡々と計っている。

「どうしたのですか? 恐怖で何もものを言えなくなってしまいましたか?」

「…………」

 僅か差し込んだ頭上よりの明かりに、キラリ、白銀の刀が光る。

「……反応がないと楽しくありませんねぇ」

「待てっ! 止めてくれっ!」

「まあ、王子がその分だけ叫んでくれているので良しとしましょうか」

「止めろぉおおおっ!」

「それでは、恨むのなら自らを巻き込んだ王子を恨んでくださいね」

「っ……」

 振り上げられた切っ先が弧を描き振り下ろされる。

 その瞬間を狙い、アリスはズボンのポケットに重々しくも下がっていた銃を抜く。黒くずっしりとしたそれは狙いを定めるまでもない。一歩を踏み込めば触れられるまでに迫った相手。その胸へ目掛けて引き金を引いた。

 ぱぁんと甲高い音が辺りに響く。

「なっ!?」

 一瞬、周囲一帯の時間が止まった風に誰も彼もが動きを止める。

 それから数秒、男が構えた剣を取り落とす。次いで、胸元を両手に押さえてはがくりと膝を突いた。血液が喉をせりあがり、口から溢れ出したそれが、ぴしゃり、地面をどす黒く染めた。

「き、貴様っ!?」

「何をしたっ!?」

「じゅ、銃だっ! この娘、銃を持っているぞっ!?」

 やがて、状況を理解した誰かの一言により皆々は動きを取り戻す。

 一斉に混乱が伝播して辺りが騒がしくなる。

「殺せっ! 殺してしまえっ!」

「正面に立つなっ! 撃たれるぞっ!」

 二人を囲む役人達が一斉に二人の下へと詰め寄ってくる。

 元より数歩を進めば取り押さえられる位置にあって、二人には退路など皆無に思われた。しかし、それでもアリスは諦めなかった。すぐ隣に立つルーシュの腕を取り、もう一方の手で銃を掲げ声高々に言う。

「そこを退きなさいっ!」

「っ!?」

 銃口を向けられた男が一瞬だけ怯む。

 その隙を逃さず、彼女は躊躇無く引き金を引いた。

 また、ぱぁんと甲高い音が響く。

 銃は男の身に着けた甲冑を貫通して、その胸部を見事に射止めていた。撃たれた者は数秒と身を支えることも叶わず、すぐに地へ伏して動かなくなる。再び、数瞬の間だけ一帯の空気が凍りつく。

「なっ!?」

「あの大きさで鎧を抜けたのかっ!?」

「どうなってるんだっ!」

「そもそも乞食がどうして銃をっ……」

 二人を取り囲む者達は口々に彼女への警戒を叫ぶ。

 それを救いと見たアリスは間髪置かずに地を蹴った。無論、片腕はきつくルーシュの身を掴んだままである。掴まれた側は急に身を引かれて身体を倒しそうになるが、危ういところで一歩を踏みとどまる。

 それに危機感を感じたアリスが声も大きく叫ぶ。

「走るよっ!」

「あ、ああっ!」

 ともすれば、彼女の気迫に気圧されてルーシュは言われるがままに走り出した。それと同時に銃が二度だけ鳴り響いて、二人が向かわんとする先の男達を撃ち倒した。一人は腹を、もう一人は腿を撃たれて地面に倒れる。

「に、逃げたぞっ!?」

「追えっ! 追って捕らえるんだっ!」

「しかし、相手は珍妙な銃をっ……」

「弾はすぐに尽きるっ! いいから追えっ!」

「捕まえろっ! そっちへ行ったぞっ!」

 役人達は武器を構え、二人の後をすぐさまに追いかけて来る。

「ルーシュ、もっと急いでっ!」

「わ、分かってるっ!」

「それと私の左を走って。右を走ると君であっても撃つよっ!」

「あ、ああっ」

 しかし、敵の追随を大人しく許すアリスではない。後ろを振り向くことは無く、腕だけを後ろへ向けてがむしゃらに銃を撃ち続ける。やがて、マガジンが空となっては、あらかじめズボンのポケットへ忍ばせておいたそれに交換する。

 この辺りは竜を打倒して以来、村へ付くまでの間を暇さえあれば練習していた成果である。暗闇の中にあっても手早く弾倉を次げ変えて、間髪置かずに後方より迫る役人達へ撃ち放つ。

 ぱぁんぱぁんぱぁんと忙しなく火薬の爆ぜる音が響く。

「ぐぁっ!」

「た、弾が止まないっ!?」

「無理だ、これ以上は危険だっ!」

「う、腕を撃たれたっ!」

「正面に立つなっ! 向こうから回り込めっ!」

「あ、足は相手の方が早いんだぞっ!?」

「ええいっ、貴様らは何をやっているんだっ!」

「だ、駄目ですっ! 足を、足をやられましたっ!」

「木の影に隠れるんだっ!」

「馬鹿っ! それじゃあ追えないだろうがっ!」

「い、痛いっ! だ、誰か肩を、肩を貸してくれっ!」

「糞っ! 逃げるなっ! この糞餓鬼共がっ!」

 ともすれば、彼女の牽制に慄いた役人が一人、二人と脱落していく。銃弾は当らずとも既に二人を葬った彼女の銃に恐怖が伝播していた。どうやら相手は飛び道具を常備していなかったらしい。逆に銃弾や弓矢の類が飛んで来ることはなかった。

 やがて、その数が半分になるころには、誰も彼もが戦意を消失して、その歩みを鈍くしていった。加えて、相手は鎧兜に武装しており、夜の山中を駆けるには不向きである。子供と大人の足の違いがあっても、自然と両者の距離は開いた。

 そうしてアリスが手持ちの弾を全て撃ち終えた頃合には、既に二人を追う役人の姿は遠く夜の闇に消えていた。延々と聞こえていた罵詈雑言も、掠れ届けられた苦悶の声も全く聞こえてこない。

 周囲一帯は静寂を取り戻す。

 聞こえるのは虫の音と二人の駆ける音だけだ。

 しかし、それでも油断はできないのだと、失敗から多くを学んだ彼女達は延々と足を動かし続けた。ルーシュにしても弱音を吐くことは無い。一昼夜を通して山中を彷徨うのだった。最後の方は交わす言葉も無くなり、ただ延々と何処へ出るとも知れぬ道なき道を歩んでいた。虚ろな眼差しのままに歩む、それこそ死体の如くだろう。

 そして、その歩みが元在ったとおり首都を目指す頃には、西の空が薄っすらと白み始めていた。役人に捕まった場所からも、村からも十分に離れて、互いが満足するまで歩きとおした。そこでようやっと、二人は眠りに付くことが叶うのだった。