金髪ロリ僕っ娘ラノベ

第二話

 途切れることなく人の流れる街頭より幾らばかり日陰に歩む。

 背の高い建物の合間を抜けるよう移動して、喧騒を遠く薄暗い影を求めて奥へ、奥へと進んでいく。賑やかな声は段々と形(なり)を潜めて、鼻に付く腐臭と共に散乱したゴミや汚物が目に付くようになる。それでも足を止めずに進んで行けば、やがては一度疎らとなった人の姿が再び集まりを見せ始める。やがては世間より取り残された貧民や社会不適合者が身を寄せ合う一角へと辿り着く。

 首都ファーレンにあっても貧民街の存在は例外でなかった。

「うぅ……」

「大丈夫? 身体の具合はどう?」

「あ、ああ、あまり良くなってはいない……」

「……そう」

 役人の手を逃れたアリスとルーシュは無事にファーレンへ辿り着いた。しかし、慣れない山歩きが祟って、王子様は体調を崩してしまった。行く当てなど一つもない二人の足は自然と貧民街へ向かい、そこでルーシュは延々と寝込む羽目になった。

「水、飲める?」

「……水?」

「汲んできた。発汗が酷いからできるだけ水分を取った方がいい」

「ありがとう……」

 勿論、屋根のある場所など他に大勢居る人間の誰かが陣取ってしまっている。貧民街にあっても行き場の無い二人は、仕方なく背の高い建物の影に隠れて日々を過ごすこととなるのだった。

 今日でファーレンへ到着して二日目である。

「そう、少しずつでもいいから、水分はしっかりと摂って」

「わ、分かった……」

「きっと連日続いた栄養不足に体力不足で身体が弱ってたんだと思う」

「僕は、死ぬのかな?」

「まさか? その若さで早々に死ぬ筈なんて無い」

「……そうかな?」

「病気を患うと弱気になるから、自然とそう思うだけだと思う」

「……そうだといいな」

「だったらここ数週を延々と山中で過ごしてきた私はどうなるの?」

「あ、ああ……、そうだった、すまない」

「いや、いちいち軽口に落ち込まなくてもいいよ」

「……ありがとう」

 ルーシュは地面へごわごわの毛布を敷いて身体を横たえている。その傍らに膝を突いてアリスは看護に勤めていた。幸いにして今は気候も暖かく、外で眠ったとしても然したる不都合は無いだろう。ただ、熱に魘される当とにしては、やはり柔らかなベッドが恋しいことだろう。それが元王族ともなれば尚更だ。

 寝具の類と言えば、唯一、アリスが背に下げていた鞄が枕代わりになっている程度だろう。その中には彼女が村を出るに差し当たり家から持ち出した品々が収められ、僅かばかりの膨らみを伴い彼の頭部を支えている。

「本当に、君には面倒ばかりをかけてばかりだな……」

「そう思うのだったら早く身体を治して欲しい」

「ああ……、すまない」

「もう謝らなくてもいいよ」

「しかし、僕は君に……」

「病は気からとも言う。そういうのはいいから前向きになって」

「そ、それはまた無茶な」

「今までの無茶に比べれば大したことじゃないでしょう?」

「まあ……確かにそうだけど……」

 熱に頬を赤くしながら、ルーシュはアリスの言葉に粛々と応じる。容態はここ数日で悪化の一途を辿っており、看護をする側としても心配がない訳ではない。しかし、それを口にしたところで何も始まらない。

「良く寝てちゃんと水分を取っていればすぐに治る」

「これは、そういうものなのか?」

「それ以外に今まではどうだったの?」

「そ、それは、その……」

「私や私の家族はそれで万事無事に過ごしていたのだから、同じ人間ならルーシュにしたって大丈夫。二、三日もすれば元気になる。人間の身体だって病気と同じように生きているんだから」

「病気と同じように生きている?」

「……違う?」

「い、いや、妙な言い回しをするものだから、その、少し驚いただけだ……」

「そう……」

「気を悪くしたらすまない」

「別になんともないよ」

「……ありがとう」

「だから、そういう訳だから、しっかりと休んでちゃんと水を飲むこと」

 いつか記憶にある母親からの看病を思い起こしてアリスは幾度となく言葉を重ねる。それはこの世界で母親から受けたものであり、また、元の世界で母親から受けたものでもある。

「……なんだか、アリスは僕の母さんみたいだ」

「母さん?」

「あ、いや、なんでもない。気にしないで欲しい」

「まあ、それで君の体調が早く治ると言うなら母さんにでも父さんにでもなるよ」

「……やさしいね、アリス」

「そう?」

「ああ、とても優しい。城の外でこんなに優しくされたのは初めてだ」

「……それは良かった」

 ルーシュの寝込む建物の影は貧民街にあっても非常に奥ばった位置に所在している。なので二人の他には周囲より届く物音も無い。建物自体は彼女達の側に窓の類も無く、また扉も硬く内から閉ざされていた。それを妙だとは感じながらも、他に人の居ない場所は見当たらずに、結局、今の場所に落ち着いている次第であった。

 下手な場所に居を据えては子供の二人連れなど容易に大人の餌食となってしまう。加えてルーシュは人に追われる身の上である。他の誰が国の人間に通じているとも知れず、自然とそういった場所を探す羽目となったのだった。

 また、ルーシュは今まで着ていた服を売り払い、代わりに街の市で購入した襤褸を纏っている。おかげで今の彼の姿は周囲の環境に違わぬ浮浪者のそれである。アリスと並んでも何ら遜色ない。

 伊達に王族の衣装でない。数日を山中に過ごし、あちらこちらが解れて泥に塗れたそれであっても幾らかの値で売れた。そして、ルーシュの衣服を売って得た金銭は、彼の代わりの服を売って多少あまり、今の彼女達を支える大切な糧となっている。

 彼女達がここ数日に口とした食料品もそこから出ていた。

 そういう意味ではアリスとルーシュとは互いに持ちつ持たれつの関係でもある。ただ、そうして得た金銭も残り僅かとなり、今晩の食事を終えたところで尽きる定めにあった。それを理解しているから、内心、アリスは非常に焦っていた。

 父親は首都になら仕事があるだろうと言っていた。

 しかし、彼女のような子供、それも女にどんな仕事があるというのか。

 今まで一歩として村を出たことのない彼女には、どうやって金銭を稼げばよいのか、この世界の仕組みというものが見えていなかった。加えてルーシュの世話もあるのだから、その困惑と苦労は推し量るまでもない。

「ゆっくりと眠っていれば熱は下がるから、自分の身体を信じて頑張って」

「ああ、分かった」

「それと、重ね重ね言うけれど、水はしっかりと飲むんだよ?」

「大丈夫、ここまで丁寧に看病されたなら、意地でも治すさ」

「そう、その意気だ」

 少しだけ瞳に力を取り戻したルーシュ。

 その姿にアリスは幾らかの安堵を覚えて小さく頷いた。

「しかし、まさか城のベッドより今に敷いた毛布の方が居心地がいいなんてね」

「いや、流石にそれは言い過ぎ」

「言い過ぎ? 僕は割と真面目に思うよ」

「…………」

「こうして君に看病されている自分が信じられないけどね」

「人生、色々だよ……」

「確かに、そのとおりだな……」

 そうして一頻り二人は何をするでもなく見つめ合っていた。

 しかし、そう延々と過ごすことも叶わない。ルーシュの体調は元より、アリスにしても今後を生きる為の糧を得る必要があった。手元に残る金銭などすぐに尽きるだろう。それこそ彼が本調子を取り戻すよりも早くである。

「それじゃあ、私はそろそろ働き先を探しに街へ出て来る」

「分かった」

「もしも誰か良くない輩がやってきたら、私の銃を使ってくれていいから」

「ありがとう。これなら弾が無くても脅しにはなるかな」

「それでも駄目なら、とにかく人の多い場所へ逃げて。流石にその格好なら誰にも貴方の身の上なんてばれないと思う。流石に無法者であっても、意味も無く人目に付く場所で堂々と子供を襲ったりしないだろうから」

「ああ、分かった」

「それじゃあ、ちゃんと寝ていてね」

「いってらっしゃい」

 多少の不安を感じながらも、四六時中を付き合っていられる余裕が無くて、アリスはルーシュの元を去る。ここ二日間は無事に過ごして来たのだから、どうか今日も無事であってくれと祈りながら彼の下を去るのだった。

 向かう先は貧民街を抜けて人々の多く行きかう表通りである。

 ファーレンへ向かう途中に見つけた川で水浴びを済ませて、身に集った積年の垢は落としてある。衣服も幾らか水洗いを繰り返して、最低限、傍らにいても鼻へ不快が及ばない程度には身作りがなっていた。勿論、見た目はやはり浮浪者のそれだけれど、見た目が歳幼い子供にあっては、傍らを過ぎても咎められることはない。

 アリスは道を行き交う人混みに紛れて、金策に頭を巡らせるのと平行して、ファーレンという都市からこちらの世界についてを学ぶ。出自の村以外で集落を見るのは始めての経験であった。そういった諸事もあり、街へ辿り着いてから今に至るまでは延々と情報収集に努めてきた。

 そこで得た一番のキーワードが魔法である。

 こちらの世界は多くの国で何よりも魔法を優先している。剣より銃より魔法が強い社会であった。そして、魔法とは先天的な才能に与えられる技術であって、同時に遺伝的な能力でもある。

 そのような性質から、この世界の人間は一定以上の魔法を使えるというだけで、ある程度の社会的地位が保証される。金銭や人種に並び、魔法技術を軸として社会制度、身分制度が形作られているのだった。アリスの良く知る世界と比較すれば、学生時分の学力に相当する。路上を行き交う人々の語るところを傍らに盗み聞いて、互いに類似するところが多々見受けられれば彼女にも容易に理解がいった。明確な先天性且つ遺伝性を伴うならば尚更、学力よりも確かなもの足りえるだろう。

 そして、その流れはかなり古い時代から続いているらしく、王族から貴族といった類は大抵が強力な魔法を扱える者に占められている。

 とは言え、魔法を使える者が誰しも王族や貴族かと言えば、それは違う。例えば指先に火や明かりを灯す程度の簡単な魔法ならば、かなりの数の人間が利用できる。よって、魔法社会にあっても能力の如何が社会的地位の上下に大きく関わる。

 家々の釜戸に火を灯すのは燐寸か魔法か、夜に暗がりを灯すのは灯篭か魔法か、等々、魔法とは人々の生活へ広く浸透しているのだった。アリスの知る世界で言えば科学技術に相応する位置付けである。

 そのような理由もあって、特に銃器に代表される魔法を伴わない手軽且つ強力な道具の一切合財は、現在の秩序を乱す元として公に規制されていた。許されるのは剣や槍といった原始的な武器に限られていた。 

「……魔法か」

 何気なく呟いて、自らには縁の無い現象に嘆息する。

 彼女の家系は魔法とはとんと縁の無い家系にあった。

 だから、彼女もまた魔法を使うことは叶わない。

 とぼとぼと賑やかな通りを歩きながら、何か自分にできる仕事は無いものかと頭を悩ませる。できるならば健全な仕事に就きたいというのが彼女の願いであった。だからこそ、今に歩むも表通りである。

「何か、何か仕事を……」

 せめて男であったのなら選択肢も広がっただろう。そうアリスは強く思う。例えば先日に聞き耳を立てたところ、街には冒険者ギルドなるものがることを彼女は知った。有体に言って人材派遣組織の統括元であり、手に職の無い人間はそこで何かしらの仕事を得ることができる。しかし、大半は肉体労働であり、また、危険な仕事も決して少なくない。よって、彼女のような歳幼い子供の、それも女が足を運んだところで仕事など得られる望みはなかった。

 ともすれば、あとは商店や貴族の屋敷等での奉公が主たる勤め先となるのだが、しかし、彼女の見てくれはあまりにも汚らしい。一目見て断られるのが世の常であった。試しに二度三度だけ頼み込んだところ、第一声より顔を顰められて、挙句の果てには殴る蹴るの暴行を受けて追い遣られる羽目となった。

 だから、彼女は他に自分の手で仕事を見つけるなり作るなりしなければならない。

「……はぁ」

 とは言え、ここ二日間を彷徨っても何ら得られるものはなかった。

 だからこそ、自然と魔法と言う単語へ意識が向いてしまう。

「魔物の討伐とか、どう考えても野垂れ死にだし……」

 どうしたものかと街を彷徨うアリス。

 すると、その目に止まったのは貧民街を抜けて表通りに面した広場。

 その一角に在っても殊更に人気の多い一帯である。

 日の出から数刻を経て今はいよいよ一日が活気付き始めた頃合。そんな時間帯にあって一際に賑やかな場所であった。人の声も勢い良く、雑踏の犇くは今まで歩んできた大通りに大いに勝る。

「……?」

 疑問に思った彼女の足は自然とそちらへ向いた。

 人の流れに流されるよう、彼女は賑やかな方へ、賑やかな方へと向かっていく。すると目の前に現れたのはずらり列を成した露天である。縦横に同じ寸法で綺麗に並んで敷布の上に雑多な商品が並べられている。

 その規模は彼女の生まれ育った小さな村社会と比較すれば圧倒的であった。

 それこそ元在った世界の行事ごとを思わせる活気がある。

「なるほど、市場だったのか……」

 あちらこちらから活気の良い声が響いて聞こえる。

 その賑わいにアリスも今までの憂鬱な気分を少しだけ払拭する。そして、折角こうして足を運んだのだから、少しだけ眺めてみようと周囲の人々に混ざり露天の品々に目を向けて歩み行く。

 扱われる商品は大まかな区分ごとに纏められて、それぞれ集まりを成していた。そして、偶然にも彼女の出会った区画は食料品を扱う場所にあった。過去に見たことの無い数々の見事な果実や野菜、更には肉の切り身に塩漬けの魚。ご馳走の山とも言える光景を目の当たりとして、思わず腹の虫さえ鳴らしてしまう。

「ここで買えば、少しは安くなるかも……」

 掲げられた値札を眺めながら、彼女は市場を見て回る。

 もとより好奇心に優れる彼女だから、辛辣な今現在の身の上にありながらも、その瞳は爛々と久方ぶりの光を取り戻して思えた。眺める品々の多くは彼女の見たことのない物であった。つまり元在った世界にも存在していなかった食品達である。

「…………」

 生まれ故郷で過ごしていた自分より強く感じていた生態系の相違。それが一同を介して彼女の前に現れた瞬間であった。ここ最近になって増えていた独り言すら絶えて、目の前に並ぶ品々に圧巻される。

「……凄い」

 自然と歩みは勢いを増して、当初は片隅にあったその身も気づけばいつの間にか市場のど真ん中に至るまで進む。右を見ても左を見ても人、人、人、その活気は自然と彼女の気分を高潮させる。

 ただし、自らの身の上を理解する彼女だからこそ、他の客達がそうするように商品を手にとって眺めることは叶わない。つい先日に頬へ打ち込まれた拳の痛みを思い起こし、遠くその様子を眺めるに限られる。彼女が前を通っただけでも顔を不機嫌とする露天店主もいるくらいだ。

「……いいなぁ」

 一口でいいから目の前の食べ物を食べてみたい。

 そういった強烈な欲求に度々かられる。

 けれど、懐に残る金銭はごく僅かである。

「…………」

 ルーシュの体調を考えれば無駄にすることは叶わない。否、そもそも彼女の手元にある金銭は彼の服を売って得たものなのだから、彼の為に使うのが道理。そう考えると、露天に向けて一歩を踏み出すことは絶対に叶わなかった。

 そうしてアリスは一頻り市場を見て回った。

 やがて、歩き通しで少し足が疲れてきたなと思ったところで、彼女は多少だけ露天の疎らな場所を見つける。公の場で身を止めることに聊か考えるところもあったが、他に休めそうな場所も周囲には見当たらなくて、彼女はしばらくそこで足を休めることとするのだった。

 石畳の僅かな段差に尻を下ろしてふぅと一息を吐く。

 正面には多少だけ距離を取って市場の列に従い露天の数件が見える。ただ、彼女の腰掛けた場所は街を囲う背の高い壁が一部だけ内側へ迫り出しており、市場の列の並びにそぐわないらしく、そこだけ合間が空いているのだった。何やら待ちの外側には背の高い物見矢倉を思わせる建造物が建っている。

 座り込んだ彼女の目の位置では、その前の通りを行き交う人々の足が忙しなく右へ左へ動いている。その流れを何を思うでもなく眺めながら、アリスはじわじわと熱を持って痛む足の裏を癒していた。

 それから、どれだけが経っただろうか。

 しばらくして不意に彼女の下へ届く声があった。

「おい、知ってるか? 今回の騒動の顛末」

「あ? 何の話だ?」

 それは彼女から少し離れて、同じく足を休ませんと腰掛けた男二人の会話である。商売に精を出す売り子とは声の質が聊か異なって、自然とアリスの耳へ飛び込んできたのである。市場へめり込むように突き出た凸の一番に高い辺り。そこに背を任せて彼らは立ち話をしていた。

「お前、前王家の御后様の公開処刑の話、まだ聞いてないのか?」

「あぁ、それか。それだったら俺も知ってるぜ? 三日後に執行だってな」

「それそれ、幾ら敵の嫁さんだからって酷いことをするもんだ」

「けど、それがどうかしたのか? こんなこと街の人間なら誰だって知ってるだろ」

「それなんだけど、ちょっと面白い話を聞いたんだよ」

「面白い話? なんだよそれ」

 二人もまた彼女と同じように市場を見て回った末の足休めだろう。

 何をするでもなく気だるげに世間話をして思える。

「それがさ、なんでも実は前王家の親縁にあった大臣達が復権を狙ってるらしい」

「復権を? 号令まで出されたっていうのに、この期に及んでなのか?」

「俺の友達が偶然にも見ちまったんだよ、その会合の場を」

「おいおい、そりゃどえらいものを見たな……」

「ルーシュ王子の名が出た時点で、そいつも慌てて逃げ帰ったらしいんだが、もしもこれが本当だとなると、またこの街もごたごたするんじゃないかって思ってさ。一応、考えておいた方がいいんじゃねぇか?」

「それが本当だとしたら、この街はまた一悶着ありそうだな……」

「だろ? ったく、勘弁して欲しいよな」

「ここんところのごたごたは市井の身にあっちゃ堪らないわな」

「まあ、お上が入れ替わったばかりとあっちゃあ、これも仕方ないのかね?」

「とはいえ、俺達まで損するのはごめんだけどな」

「ああ、その辺りはしっかりとしておかないと後で泣く羽目になりそうだ」

「ジョンの野郎みたいにはなりたくないからな」

「まったくだな、あんな無様は酒の席でも笑えねぇよ」

 そうした男達の会話はアリスにとって寝耳に水であった。

 今の自分達の危機を思えば地獄に垂れた天国より続く一本の糸。微かな希望だけれども、それが自らの内で一気に燃え上がるのを彼女は感じた。既に殺されたと思われていたルーシュの母親の生存と、その奪還を目指す同士の存在。直接に彼女には関係ないだろうが、今に寝込む彼の性格を考えれば、アリスとしても多少の恩恵を得ることは叶うだろう。

「…………」

 それまで胸に溢れていた憂鬱な思いが一挙に払拭された。

 自然と腰が浮かび上がる。

 善は急げだと言わんばかりに駆け出すのであった。

 並み居る人の合間を抜けて、はぁはぁと息を荒くしながら足を動かす。自然と顔には笑顔が戻って、心なしか気だるくあった身体の調子すら勢いを取り戻して、熱い血潮を全身に巡らせる。

 そう多く時間を必要とせずに市場を抜けて、アリスは貧民街を一直線に目指すのだった。それこそ水を得た魚のように、行きと帰りとでは豪い差であろう。途中、幾度か人にぶつかりそうになっても、弾む声にごめんなさいと返すだけの気力が戻っていた。

 けれど、そんな彼女の足並みは貧民街へそろそろ着こうかといった頃合で急に止まることとなる。そこは人気も少なく大きな建物の合間にできた僅かばかりの細路地であった。

 どうして歩みが止まったのか。それは何故ならば彼女が向かう先にあって、見知らぬ男が一人、どんと威勢良く身を立てていたからである。年の頃は四十を少しばかり過ぎた頃合か。禿げ上がった頭と無様にも肥え突き出た腹が印象的な巨漢である。

 そんな男が大して広くない道路の真ん中に仁王立ち。

 加えて、何故だか駆けるアリスを正面から見つめているのだった。

「…………」

 普段の彼女ならば、場所が場所なだけに多少の注意も払ったろう。しかし、今は何よりもルーシュへ伝えたいことがあり急いでいた。まさか相手が自分に用などあるまいと、アリスはその脇を通り抜けようとする。

 すると、急に男の腕が動いて彼女の襟首を掴み上げるのだった。

「っ!?」

 驚いた彼女は短く悲鳴ならない悲鳴を上げる。声が満足に発せられなかったのは、男によって引き上げられた衣服の襟首がぎゅうと首元を絞めたからだ。見れば彼女は男の腕に吊るされて両足を地面より浮かせていた。

「おいおい、無視しないでくれよぉー」

「えっ、え……?」

 一瞬、何が起こったのか理解できずにアリスは目を白黒させる。しかし、あまりに強引な腕の引きと、続けられた男の言葉により相手の目的と自らの置かれた状況を早々に理解するのだった。

「ここん最近、君のことをよく見るんだよなぁ、この辺りで」

「なっ!?」

「なんていうか、一目惚れ? みたいな」

「は、はな、離せっ!」

「んふふふ、ここなら人目に付くことも無いだろうし、色々とできるよねー」

 楽しげに語る男は、おもむろに懐から荒縄を取り出した。

 その様子を目の当たりとしてアリスは男の目的を明確に理解する。

「い、色々とか、誰がっ!」

「君みたいな浮浪児って堪らないよな。一人ぐらい居なくなったって誰も気にしないだろうし、俺の家でじっくりと飼いならしてやるよ。えへへ、今晩はじっくりと楽しめそうだねぇ? ねぇ?」

「この……っ!」

 アリスは必至になって暴れた。

 両手両足を滅茶苦茶に振り乱して身を揺らす。

 けれど男は身の丈が高く図体もかなりのものである。同じ年代の少年少女と比較しても小柄で痩せ細った彼女が暴れたところで、なんら抵抗らしい抵抗にはならなかった。それを眺める男がただ楽しげに笑みを深めるばかりだ。

「ひひ、いいなぁ、あぁ、君はブロンドだから、できるだけ長持ちさせてあげるよ」

「は、離せっ! こ、このぉっ、くそっ!」

「あはは、いいよ、君みたいな子は少しばかりやんちゃな方が見ていて楽しい。それを強引に力で捻じ伏せて無理矢理に犯すのが最高に愉快なんだよ。あぁ、堪らない、堪らない、堪らないから早くかってやろうね」

「んぐっ……」

 男が手にした縄でアリスを縛り上げていく。

 両腕の上から縄を巻いて身体の自由を段々と封じてゆく。

 はぁはぁと息も荒く顔を近づける男に思わずアリスは顔を顰めた。元より身体こそ女のそれだが、中身はそうもいかない。その上、相手はお世辞にも褒められたものでない最底辺の顔立ちを誇る。

「や、止めっ!?」

「でも、あんまり五月蝿くされると困るから、お口にこれを嵌めてねぇ?」

「んぶっ……」

 縄に加えて更には猿轡まで噛まされるアリス。

 唇、舌先に触れたそれは少しだけ湿っており、また、口へ咬まされると嫌悪感を誘う苦味、生臭く饐えた匂いが咥内から鼻腔へ抜けた。自身もまた身に覚えのある感覚に彼女の表情は辛辣なまで歪む。

 同時に今まで以上に彼女の身体は激しさを増して暴れ始める。

「さぁて、こんなもんかなぁ?」

 けれど男の腕力には叶わず、縄は彼女の両手を完全に封じるにまで至った。

「そんじゃまぁ、あとは足輪を嵌めて、と……」

 男が懐から金属製の輪っかを取り出した。

「んんぅううっ!」

 その禍々しい光沢を目の当たりとして、アリスは堪らず大きく身を後退させる。

 すると、上半身を縛り上げたことで気が緩んだか、彼女を捉えた紐を持つ手が不意に外れた。男からの引きを失って、自然とアリスの身体はバランスを崩す。そうして、見事に地べたへ倒れ行くのだった。

 しかし、それが彼女にとっての幸運である。

「んがっ!?」

 倒れ行く彼女の片足が、見事に男の急所を殴打したのである。

 堪らず股間を押さえて蹲る男。

 その傍らで転がるアリスは、けれど、相手の負傷を知って即座に身を起こした。頭や肩を強かに打ちつける羽目となったが、泣き言を吐いている余裕など無かった。いつ復帰するとも知れぬ相手の頭を蹴りつけて、彼女は脱兎の如く逃げ出す。

 勿論、上半身を縄でぐるぐる巻きにされたままである。

「まっ、んぐうぇぃ、まてぇええええっ!」

「ふぁふぇふぁふぁはふふぁあっ!」

 すると、急所を打たれたにも関わらず、男もまた立ち上がりアリスの後を追いかけ始める。股間が痛むのか足は激しく内股になっている。眦には涙すら浮かんでいた。けれど、彼女を諦める気は無いらしい。

 双方、互いに満足に走れる状況には無くて、その進む勢いは似たり寄ったり。

 鬼ごっこは延々と続き、やがて、貧民街へ至っても二人は走り続けることとなった。

「ふぶっ、ふぶっ、ふぶっ……」

「ま、まてぇっ! 待つんだよっ!」

 しかし、猿轡を咬まされたまま満足に呼吸も叶わないアリスに対して、男の股間の痛みは時間と共に引き始める。そんなだから、幾らかを過ぎた頃合になれば、段々と二人の距離は縮まっていった。

 加えて、場所が場所だけにアリスを助けようとする者も居ない。

「逃がすかぁ、折角の獲物を逃がしてなんてやるもんかっ!」

「んんぅっ! んっ、んっ……んぶふっ……」

 やがて、男の指先が再びアリスの服を掴み上げる。

「んんぅっ!?」

「やったね、捕っかまえたぁっ!」

 男が狂喜の声を上げる。

 その目は激しく血走りアリスを見つめていた。はぁはぁと荒く息を繰り返す顔が勢い良くアリスの口元へと近づいていく。汗と油にまみれた肉体が、外から彼女を覆わんと迫り来る。

 しかし、その全ては僅か遅く叶うことは無かった。

 次の瞬間、男の瞳が驚愕に見開かれる。

「アリスを放せっ!」

 甲高い声が辺り一帯に響いた。

 かと思えば、それと同時に男の腕が血液を撒き散らして肩の付け根から切り飛ばされる。ぶつんと低い音が聞こえたかと思えば、くるくると回る腕の一本が空を飛び、やがて地面へどしゃりと音を立てて落ちる。

「げぇっ!?」

「っ!?」

 二人の視線が自然と声の聞こえてきた方向へ向けられる。

「アリスを、アリスを放せっ! この変態がっ!」

「ひ、ひ、ひぃいいいいいいいいいっ!?」

 僅かに遅れてやってきただろう痛みに男が咆哮を上げる。

 それと同時にアリスの名を呼ぶルーシュが彼女の下へと駆けて来た。

「だ、大丈夫かっ!?」

「ん、んーふぅっ!?」

「すぐに外してやる、だから大人しくしてるんだ」

「んぅっ、んっ……」

 彼は酷く慌てた様子でアリスの下へと走り寄る。そして、何やら小さく手元を震わせると、瞬く間に彼女を拘束する縄と猿轡を切り飛ばすのだった。男の腕を断つにも同様であるが、その手は刃物を握る素振りすら見せていないにも関わらずだ。

 拘束が解けると、いの一番にアリスは口の中の嫌な色々を路上へ吐き散らした。

「あ、アリス?」

「それ、……汚いから、ルーシュも早く放った方がいい」

「あ、ああ、分かった」

 応えて猿轡を放り捨てるルーシュ。

 その姿を眺めて、アリスはほぅと深く安堵の息を吐くのだった。

「ありがとう、今のは流石にもう駄目だと思った……」

「間に合って良かった。ああ、僕も凄く驚いたよ」

「本当にありがとう。助かった」

「いや、これくらい当然だろう、君は僕の命の恩人なのだから」

 傍らで喚く男を放って二人はジッと視線を交わす。

「本当、良かった……」

 それは本来ならばある程度の時間を要するものだっただろう。しかし、そう長く向き合う余裕も無く、今度はルーシュの身体が左右に振れた。そして、それは瞬く間に大きな揺れとなって彼の身を地へと倒させる。

「る、ルーシュっ!?」

 それをアリスが危ういところで抱きとめる。

 ともすれば、彼女の腕に伝わってきたのは湯でも抱いているよう暖かな感覚であった。

「ルーシュっ、この熱はっ!?」

「あ、ああ、魔法を使ったから、だと思う」

「魔法?」

「大丈夫だよ、きっと寝ていれば落ち着いてくるから……」

「そんな、こんな身体で無理をしてっ……」

「でも、僕が無理をしなければ気味は今頃、そこの男に犯されていただろう?」

「だ、だけど……」

「良かった、あぁ、良かったよ、アリス」

「ちょ、ちょっと、しっかり、しっかりっ!」

「……そ、それじゃ、ちょっと、おやすみ……」

「さ、さっきとは言ってることが全然違うっ! ルーシュっ!?」

 そうして多少だけ言葉を交わしたかと思えば、彼はアリスの腕の中で意識を失う。脈こそ健在だが、その肌の火照りは尋常でない。アリスは男からの追い立てを終えて息を整える間もなく、今度はルーシュを抱えて走り回る羽目となるのだった。

◆ ◇ ◆

 その後、体調を崩したルーシュが全快するには三日三晩を要した。

 碌に栄養を得ることも叶わない状況にありながら、それだけの期間で後引きも無く復帰できたのも、全てはアリスの根性の賜物だろう。

 気を失ったその日一昼夜など、夜を徹しての看護であった。数刻毎に乾いた布で身体の汗を拭いて、それでも衣服が湿れば自らの着る衣服と取り替えて、更には水に浸した襤褸を延々と額へ乗せては濡らし、乗せて濡らしと繰り返し続けたのである。

 その働きが功を奏したのか、翌日、日が高く昇る頃にはルーシュも会話が叶う程度まで復帰するのだった。ただ、依然として身体は熱っぽく咳き込むこと度々、昼を幾分か過ぎても動き回るには至らない。二晩を越えてやっとのことで身体を起こすまでに至り、更に一晩を越えて今に至る次第である。

 今朝、目を先に覚ましたのは彼であった。

 苦労が実った分だけ達成感も一入であった。何より他に誰も居ない二人きりの今だからこそ、仲間足る彼の無事が自分のことのように至極嬉しかったのだろう。顔色の良くなった相棒を眺めて、自然と彼女も満足感から笑みが浮かぶ。

 その姿を得る為であったのならば、路上に落ちた人の食べ残しを公衆の面前で拾うにしたって、今にして思えば然したる抵抗ではなかったと知る。獣に混じってゴミ箱に頭を突っ込むこともどうということのない行いだと考える。足りなかった金銭は彼一人分に費やすことで、何とか持たせる事ができたのだった。

 おかげで二人は互いに笑い合う今日を迎えることが叶った。

 ファーレンの街へやって来て五日目の朝のことである。

 そこでアリスはルーシュに元気が戻ったことを重々に確認した上で、一昨日に市場で聞いた噂を語ることとした。それは延々と彼の復帰を願いつつ、その胸のうちに秘めてきたとっておきだろう。

 彼の母親の生と、それを確たるものにすべく動きある仲間の存在。

 二人にとっては起死回生へ向けて全てを掛けるに足り得る事柄である。

「そ、それは本当かっ!?」

「本当、確かにこの耳で聞いたから」

 ともすれば、ルーシュは驚愕に目を見開いて彼女に問いかける。その姿と言ったら村の倉庫で初めてアリスを見止めた時にも増して感じられる。目も口も鼻も顔中の穴と言う穴が開いて思えるほどだ。

「まさか、そんな、まさかお母様が生きていたなんて……」

「……良かったね」

「あ、あぁ……、これほど喜ばしいことは、ない」

 ルーシュはアリスの話を耳にした途端、目から鼻から汁という汁を飛ばして喜びの声を上げた。それこそ今だけは誰の前に無様を晒しても構わぬと、今までそれとなく形式張っていた面構えもくしゃくしゃにして、赤ん坊がそうするように破顔して見せるのだった。

「良かった、良かった、あぁ、お母様……」

「…………」

 その姿をアリスは黙って穏やかに見つめる。

 既に自分には叶わぬ願いだから、例えそれが他者の喜びであっても思うところが多分にあるのだった。ここ数日の何もかもを忘れさせてしまうほどの騒動が、今も彼女の多くを麻痺させている。もし、この身を落ち着かせることが叶ったのなら、きっと、自分は彼とは全く反対の感情に流されるのだろうと、まるで他人事のように考えていた。

 他方、一頻りを喜びに打ち震えていたルーシュだが、そんな彼女の姿を目に留めて彼もまた数日前の語りを思い起こす。永遠に続くかと思われた安堵と喜びは早々に消え失せて、顔に陰りが差す。

「……そ、その、すまない」

「何が?」

「いや、ほら……、僕ばかり喜んでしまって……」

「母親の生を素直に喜べるのは、子供として非常に良いことだと思う。私はそれを不愉快に感じることは無いから気にしないで欲しい。むしろそうして気を使われる方が居心地が悪い」

「……ありがとう。そう言って貰えると助かる」

「今は素直に喜んでおくのが良いと思うよ」

「あぁ、ありがとう、ありがとう……」

 アリスの言葉にルーシュは延々とありがとうを繰り返す。

 今し方の姿を眺めて尚、よほど嬉しかったのだろうと、彼女は彼と彼のまだ見ぬ母親を想い、その親子仲を良さを垣間見た。

「でも、無事に治ってくれて良かった」

「あぁ、母さんの無事を聞いたら、今まで以上に調子が良くなった気がする」

「それは良かった」

「君が教えてくれた母さんの仲間だと言う人達のこと、すぐにでも調べに行きたい気分だ」

「もう動いても平気? 一応、熱が下がって一晩は経ったけれど……」

「あぁ、このとおり身体を動かしたところで何一つ問題ないだ。喉の調子も悪くないし、悪寒だって微塵も感じない。鼻は少しだけ愚図つくけど、これくらいだったら動き回ったって問題ないだろう?」

 アリスに言われて、ルーシュは両腕を大きく動かすと、自らの健常性を示して見せる。久方ぶりに一点の曇りなく浮かび上がった彼の笑顔は、まだ大して高くない位置にある日の光を受けてきらきらと輝いていた。

「そう、それならいいかな?」

「ここまで治ったんだから、もう君一人にばかり苦労はさせられないよ」」

「それじゃあ一緒に君のお母さんを探そうか」

「君も手伝ってくれるのか?」

「他にやることもないし、それだったら君の手助けをしたい」

「しかし、僕にはアリスにそこまでして貰う理由が……」

「この前は君のおかげで助かった。そういう意味では命の恩人だと思う」

「けど、それを言うなら僕だって君に何度助けられたか分からないよ」

「だったら良いじゃない、そういう間柄だっていうことだよ」

「そういう、間柄?」

「友達みたいなものだと思うけれど、それは嫌?」

「……友達?」

「うん、友達」

 アリスの何気ない発言にルーシュは何やら驚いた風に言葉を失う。

 そして、何を思ったのか、友達、友達、友達と同じ呟きを繰り返し始めた。一言を口に出す度に、それ一つ一つをじっくりと噛み締めて、味わって、飲み込んで。まるで物を食べているように延々と繰り返す。

「ど、どうかした? 気に障ったなら謝る。ごめん」

 そんなだから、アリスは言葉が過ぎたかと身を小さくして頭を下げる。

 今更ながら相手はこの世界の、この国の王子様であったのだと思い返す。そんな相手に友達とは無いだろうと、自らの失言に口を押さえた。都合数年を歩んでも未だになれることのない封建制度の弊害だった。

「い、いや、気に障ってなんかいやしないっ! 謝らないで欲しいっ!」

「……そうなの?」

「ああ、少し、いや、かなり驚いただけだ」

「驚いた?」

「驚いたというか、なんというか、その、今までそう言ってくれる人が周りに居なかったから、だから、嬉しくて、どうして返したら良いか分からなくて、頭がぐるぐると回ってしまったんだ」

「そ、そう……」

 一体どんな生活をしてきたのだと疑問に思うアリス。

「本当に僕のこと、友達だと思ってくれるのか?」

「君が思って良いと言うのなら、是非とも友達だと思いたいけれど……」

「僕も君のことを友達だと思いたい。凄く友達だと思いたい」

 ルーシュは目を輝かせてアリスに向き直る。

「じゃあ、友達で良いんじゃないかな?」

「あ、ありがとうっ!」

 その一言で感極まったのか、ぎゅっとルーシュがアリスに抱きついた。両の腕が病み上がりを感じさせないほどに力強く背中へ回される。そして、不意の出来事に目を白黒させる彼女へ、畳み掛けるように言葉を続けた。

「ありがとう、嬉しいっ、嬉しいよっ!」

「あ、う、うん」

「是非とも僕と友達になって欲しい、アリス」

「うん、こちらこそよろしく、ルーシュ」

「ああ、よろしく、アリス」

 自然とアリスもルーシュの背に手を回す。

 思い起こせば彼女自身もまた、こうして抱擁を交わせるような間柄の人間など、家族を除けば一人として居なかったことを知る。こちらの世界での交友関係は全てが貧しさ来る疑心と暗鬼にまみれていたのだ。純粋な意味での友達など一人として居なかった。また、仮に多少だけ仲良くなったところで、その相手はすぐに死んだり、何処かへ売られたりして村から消えてしまったのだ。

「私もこういう友達は君が始めてかもしれない」

「そ、そうなのかい?」

「とても貧しい村だったから、こういうの、今までなかった」

「…………」

 色々と気分が高ぶってのものだろう。普段ならば特に構えることなく堪えるところを、ぽろりと心中を吐露してしまうアリス。そんな彼女の告白を耳として、殊更にルーシュの腕へと力が篭められた。

「これからは僕が居るよ、友達だよ、ずっと」

「ありがとう、そうだね、友達だね」

 そうして二人はしばらくの間を、互いの熱を感じ合い過ごすのだった。

 村を脱する前のアリスの精神状態を思えば考えられない一時(いっとき)だろう。

 とは言え、その日一日を安穏と過ごせるほどに二人は環境に恵まれていない。多少だけ朗らかな気持ちになったのも束の間、その日を生きる為、すぐに動き出さなければならなかった。

 それじゃあ行こうか、よし行こう。そうして二人は手早く荷物を纏めると、数日間だけ世話になったねぐらを後とする。ファーレンの街へ着て初めて、アリスとルーシュは二人連なって街へと出かけることとするのだった。

 ルーシュについては追っ手の目に付く可能性が考えられた。しかし、それもここ数日に渡りこれと言って街に憲兵の姿が見られることもなく、今あるとおり浮浪者を装いフードの一枚でも被れば平気だろう、といったところで落ち着いた。なにせ数日に渡り水浴びの一度も無く貧民街で寝て過ごした彼だから、そこから王族という様相は想像に難しい。髪はぼさぼさだし身体からは悪臭が漂っている。熱を出して延々と汗をかいていたのだから、脇や股からはさぞすっぱい風味が香るだろう。その上、更には傍らには本場の浮浪者、痩せこけたアリスの姿もあるのだから間違いない。

 そういった具合に紆余曲折しつつも、二人は表通りを歩み始めるのだった。