金髪ロリ僕っ娘ラノベ

プロローグ

 彼女が生まれた村は貧困極まる山岳部にあった。

 土地は毎年の農作に耐えられず際限なく痩せて、農作物の取れ高も年々右肩下がり。酪農すらままならず、幾十年前より人が食べる分を育てるので手一杯。誰も彼もは十分な栄養を得られず、骨と皮からなる腕を振るいなけなしの種を地に撒く日々。加えて水源にも乏しく、最近では飲み水にも事欠く有様である。干乾びた土地が罅割れて満足に耕す事も叶わない。風呂に入るなど持っての他、肌の色が変る程に垢の積もった身体からは絶えず悪臭が発せられる。

 付近の雑木林からは獣達の足音さえ数を減らしている。高い金を領主に支払い狩りに出ても獲物は疎ら。稀に得られても全ては村民と同じく骨と皮ばかりで肉が薄い。肋骨の浮いた獣の肉は焼けばゴムのように堅くて不味い。

 それでいて要求される租税の額は横這いどころか、年々増えてゆく傾向にある。特に昨今には領主の代替もあって勾配が厳しい。満足に農耕を営む事も難しく、得られた農作物も大半が税の取立てに応じて奪われてしまう。

 農民達は田畑の脇に自生する僅かな植物から日々の糧を得ていた。そのままでは歯の立たない、名も知らぬ樹木の根や葉を煮込んで水と共に流し込む。そういった食事を誰も彼もここ数年続けている。味など苦味以外に何も無い。ただ、明日へ生きることだけを考えて皆々は毎日を暮らしていた。

 だから、そうした人が暮らすには劣悪とも言うべき環境は、嘗て紛いなりにも人間らしい暮らしていた記憶を持つ彼女にとって、非常に苦しく辛いものだった。彼女の今に住まう世界は、少数の上流階級が圧倒的多数の下流階級を支配する貴族制が全盛の国である。一握りの者達が世界の富の大半を牛耳った上で、更には過酷な従属を公に強制させる世界である。

 魔法などと言う理解不能な現象が右へ左へ飛び交う世界。生態系すら全く異なる異形の生物達が闊歩する日常。自身の死と再び与えられた生。更には何故か変化していた性。それら異常性を認識するまでも無く、彼女は貧困に晒される毎日に呪詛を吐き散らかしていた。

 現状を打開しようと望んでも満足に身体が動かない。まったく栄養が足りていない。それに引っ張られるようにして、精神面もまた日毎に衰えていく。望み多くありながら何も出来無い。一人、また一人と朽ちていく知り合いの姿を眺めて、自分もまた同様に後を追うのだろうと虚ろに考えていた。

 日々、辛辣な環境に生きる気力すら奪われる。けれど、死への恐怖から明日へ足掻く自らの振る舞い。生物的な矛盾すら感じながらも、それを解決できないもどかしさに身を打ち震わせていた。

 ただ生きているだけでも毎日が辛い。

 しかし、死にたくはない。

「…………」

 葛藤は常に後者へ軍配が上がる。だから、今日という日にしても、彼女は生きる糧を得る為に食べ物を探し野山を歩くのだった。継ぎ接ぎだらけの碌に原型すら伺えない靴を更に延々と磨り減らして、まだ見ぬ食料を求め道なき道を進む。

 村の食糧庫は空になって久しく埃だけが延々と積もり、各家庭の備蓄も雀の涙ほど。暖かな今のうちに得るものを得ておかなければ、村民全ては越冬叶わず全滅必至である。彼女の家庭も例外ではない。

 しかし、痩せこけた脆弱な子供の手足では農作業を手伝う事もままならない。自分の食い扶持は自分で稼ぐ。それが鉄則となった村で孤立しないよう、幼い彼女は別の形で叶う限り身体を動かすのだった。

 そうして散策を始めてより小一時間、頭上の陽光も段々と高度を落とし始めた頃合である。向かう先を見つめて不意に彼女の瞳が大きく見開かれる。

 そこは領主の森より程近い丘であった。

「……キノコだ」

 毎日の日課となった散策の最中、彼女は行く先に意識を奪われた。

 少し進んだ辺り、樹木の根元へ数本だけ並んで生えるキノコを見つけたのだ。

「っ!」

 空腹から走り寄って根元よりもぎ取る。

 しかし、それは過去に彼女が見たことのないキノコだった。

「これは……」

 全体は白い色をしており、傘は広く地面と水平に広がっていた。遠い過去の知識に照らし合わせればシロオオハラタケに近い形状をしている。しかし、そんな大層な名前も、この世界の生態系にあっては全く信用なら無い知識である。

「…………」

 ただ、自然と唾液だけは溢れて彼女の咥内を満たした。

「食べれるといいんだけど……」

 呟いて毒の有無を考えずに片っ端から懐へと仕舞い込む。

 食べられるかどうかが分からなくとも、何かしらを手に入れたことで少なからず気分が満たされたらしい。辛辣であった表情が僅かながら和らいでゆく。多少の毒ならば無視して食してしまうのではないかという勢いがあった。

 やがて、目の届く限り全ての茸をもぎ終えた頃合である。しゃがみ込んだ身体を起こさんとゆっくり腰を持ち上げた。すると、どうしたことだろう。顔を上げた彼女の目に映ったのは数メートルを離れて群生する同種のキノコ達だった。幾十本と白い傘が並ぶ光景に思わず目を輝かせる。

「こ、こんなに沢山……」

 思わず呟きを漏らしつつ駆け足で歩みを進める。

 食欲に支配されて自然と歩幅も大きく前へ前へと爪先が出る。

「これだけあれば……」

 もしも毒がなければ今日、明日と食べて過ごせるだろう。それも自分一人ではなく家族全員がお腹一杯になれる。乾燥させれば日持ちだって良い筈だ。等々、甘い誘惑が彼女の身体を否応無く突き動かした。

 そして、それが非常に良くなかった。キノコに意識を奪われていた為だろう。足元への注意が疎かとなっていた。駆け出した先で足を滑らせた彼女は急な斜面へと身を落とす羽目となる。

 バランスを崩した身体は前のめりに動いて足首を捻る。

 横転して地面より顔を出した岩肌に身体を打ち付ける。

 打ち付けた部位に強い痛みが走って、自然と目をきつく閉じる。

 そうして彼女は成す術も無く斜面の先へと転がって行った。

 大凡、数メートル程度の落差である。けれど、傾斜は然程でなかった為に、転がり落ちた距離こそ大したものだが、決して致命的な転落ではない。とは言え、当たり所が悪かったのか、僅かばかりを気絶する羽目となった。

 やがて、幾らばかりか闇に過ごしたところで、彼女は意識を取り戻す。仰向けに倒れたまま望む背の高い樹木の葉々と、その先に覗える蒼い空。即座に自身が雑木林の一角に両手両足を投げ出し横たわると知る。ややあって、天上に浮かんだ太陽の位置から、気を失っていた時間は指して長くないことを理解した。

 身を起こさんと四肢を動かせば、応じて身体中に痛みが走り、土まみれの顔が苦痛に歪む。しかし、幸いにして身動きが取れないほどではなかった。擦り傷や切り傷は多く見受けられるものの、それ以上に面倒な怪我は見られない。それを理解して彼女はゆっくりと上半身を起こす。

「ここは……」

 次いで、捻ってしまった足の具合を伺いつつ、ゆっくりと立ち上がった。傍らには今し方に滑り落ちたばかりの斜面がある。そして、反対の側には延々と続く森、加えて、他に周囲より浮いて思える異色の何かがあった。

「あれは……」

 それを一目見た彼女は激しく意識を引かれた。

 こちらの世界へ渡ってより久しく目にしていない代物である。

 四角い筐体に黒い輪が幾つか連なったフォルムは、例え数年を隔てようとも忘れることはない。過去に触れた文明の象徴とも言うべき対象である。無論、彼女はこちらの世界でそれを目の当たりとした経験は一度としてない。

「自動車……」

 だがしかし、目前に鎮座した車両は彼の良く知るそれとは大分異なる。

 濃い緑色に着色された表面は無骨な装甲に覆われて、足となるタイヤは左右に四本づつ、計八本が備えられている。そして、車体は非常に大きく全長十メートル近い規模があった。一般には装輪車と呼ばれる類の特殊車両である。

「トラック……?」

 樹木へ頭から突っ込んだそれは、大半を木々に覆われて全容を伺うことは出来無い。また、道など皆無の山中へ如何にして入り込んだのか、幾ら考えても彼女には検討が付かなかった。けれど、現実としてそこには確かに自動車があった。

「…………」

 まさか素通りする事も無い。

 彼女はゆっくりと運転席へと歩み寄った。

「壊れてる……」

 トラックのフロントガラスは何やら盛大に砲撃を受け砕け散っていた。拳銃の類ではない。かなり弾頭の大きな重火器に因るものだと思われた。黒く焼け焦げた運転席は見る影も無い。ボンネットは跳ね上がって、運転手は下半身を多少だけ残し木っ端微塵である。ただ、運転席より後ろまでは被害が及ぶ事も無く原型を留めていた。伊達に軍用車両でないらしい。

「ぐちゃぐちゃだ……」

 運転席と助手席に並んだ二人分の遺体は凄惨極まる。ここ数年で随分慣れた彼女とは言え、思わず目を覆いたくなる光景だった。死後幾らか経過している為に、遺体の随所からは蛆が沸いている。まるで巨大な蛆の集落だった。

 吐き気を催す悪臭に口元を手で覆いつつ、彼女は開いたドア窓から運転席と助手席を確認する。すると、運転席の傍らには車体の所属を示す書類が見つかった。その一端に示された文字は彼女にも馴染みのあるものである。

「……自衛隊?」

 日本、陸上自衛隊、そういった懐かしい単語が目に飛び込んでくる。

「どうして、こんなところに…………」

 自分と同じように此方の世界へ飛ばされたのだろうか。そんな疑問が彼女の脳裏に浮かぶ。自分と言う前例があるのだから、他に同様の現象が起こっても不思議では無い。そう考えたのだ。ただ、自衛隊のトラックが正面から砲撃を受ける状況が想定出来ずに一考である。

「…………」

 けれど、幾ら悩んだところで答えは出ない。彼女は意味の無い疑問と仮定の堂々巡りに見切りをつけて積荷を確認することとした。車両全体を隠すよう周囲を覆う樹木を避けて、巨大な車体の後方へ回る。そして、偶然にも半開きとなっていた荷台へと攀じ登った。

 ともすれば、そこには彼女が何より望んだ品々が積載されていた。

 パッと見では分らない。しかし、目を凝らしてみると積まれたダンボールには、そこに収められた物品の名が打たれていた。僅かな沈黙を経て、それを確認した瞳が大きく見開かれる。

「しょ、食料、それに水までっ……」

 思わず声を上げて喜ぶ。

 そこで見つけたのは天井一杯まで積まれた食料や医療品の数々。そして、物々しい重火器の数々だった。後者は評価に困るところだが、前者に関しては今の彼女にとって天の恵みにも等しい。自然とその顔は笑みに染まっていった。

 荷台に乗ったダンボールの一つを強引に崩し取る。そして、箱詰めされた携帯食料の一つを乱暴に取り出し、震える手元を必至に押さえつけて缶詰された食料を開封した。ともすれば立ち上る懐かしい醤油の香り。

「っ!!」

 まさか、我慢なんて出来無い。

 彼女は欲望が任せるままに貪り食った。目の前には世界を変えてより一度として食べる事の叶わなかったご馳走がある。その衝動は生まれて数年、一度として癒されることの無かった飢えと渇きから齎された。

 手元の食料を口へ詰め込めるだけを詰め込む。そして、今度は別のダンボールからボトル詰めされた水を取り出し、口の中のものを胃へ押し流すように飲んだ。それこそ食堂が裂けてしまうのではないかと思うほどに飲んだ。浴びるように飲んだ。

「あ、あぁ……」

 自然と嗚咽が漏れる。

 けれど、それは息苦しさからではなく喜びからだ。

 箸の使い方すら忘れてしまったように無様にも素手で缶詰された内容物を口へ運ぶ。本来ならば湯煎して食べる筈のそれを、しかし、彼女はそのままガツガツと貪るのだった。口の中に広がる塩味、香辛料の辛味に自然と頬が綻ぶ。手が汚れる、口の周りが汚れる、何を気にする事も無かった。

「おいしい……、おいしい…………」

 それからしばらく、彼女は狂ったように泣き喚きながら食事を続けた。

 懐に忍ばせたキノコの事なんて既に寸毫も憶えていない。ただ、今は懐かしい味のするおかずの数々を口へ運ぶことだけが、彼女の世界だった。急な活動を余儀なくされた胃が悲鳴を上げるが、それも限界まで高められた食欲の前には無視された。

 静かな森の中に彼女が食事を摂る音だけが響いていた。

 そうして、これまでの貧困故相当に腹が減っていた為か、成人男性の一食分として備えられたレーションを彼女は二つ腹に収めた。御飯はベータ化しており食べられなかったので、おかずのみである。また、同時に二リットルボトルの水の半分を飲み干していた。

 病的に細い四肢と最低限に内臓器の厚みだけを残す腹部。まるで御伽噺に聞く妖怪の様な姿を晒して、彼女は満腹となった腹をゆっくりと擦るのだった。肉の薄い彼女の腹は胃の膨れが恐ろしくも容易に見て取れた。

「は、はは……」

 嘗て無い満腹感が彼女の元にあった。

「はは……はははは……」

 痛いほどに腹が膨れた彼女は地面に身体を横たえた。

 どさりと背を下にして仰向けになる。

「助かった、助かった……」

 誰に言うでも無く呟く。

 その顔は涙と鼻水と、そして今に終えたばかりの食事の跡とでグチャグチャだった。けれど、それを拭うことすらせずに彼女は笑う。ふっと沸いて出た幸運に声を上げて笑うのだった。

「まだ、生きてる……、生きてるんだよ、私は……」

 乾いた笑いがあたりに木霊する。

 けれど、それを聞く者は居ない。

 それからしばらくを彼女はカラカラと笑いながら過ごすのだった。他に何も無い。唯一思うのは安堵。まだ自分は死なずに済むのだと、明日から続く未来を思って良いのだと、その幸福を噛み締めて笑い声を上げるのだった。

 久しぶりの食事は小一時間に渡った。

 満腹感に腹を擦るなど何ヶ月ぶり、何年ぶりかと過去を振り返る。

 遠い過去のものとして忘れてしまったかと思われた化学調味料の味。強烈な塩味と甘味、旨味、辛味、雑多に混ざり合った複雑な刺激に狂喜乱舞する。塩すら満足に振り掛けることの叶わなかった食生活を思えば、涙など幾ら流しても流し足りない。一口を含んだだけで深い深い感慨があった。今という時間に限定すれば、まさに彼女は天国にあった。

 しかし、それも終えてしばらく、食後より時間が経ち腹が落ち着いてくると、彼女は目の前に鎮座したトラックを前に頭を悩ませることとなった。先刻は食欲に突き動かされて何をするでもなく積荷に手を伸ばした。そして、今はそこに残る大量の物資を前に今後を思っている次第である。

「…………どうしよう」

 彼女が数えた限り、そこには彼女は数ヶ月を暮らせるだけの食料と水があった。しかし、それだけの物資も村へ持ち帰り村人全員で分けたのなら一、二週間で終わってしまうだろう。先刻まで飢餓の限界に居た彼女としては悩ましい問題である。

 一人荷台に乗って頭を巡らせる。

 トラックは天井が付いているので、しばらくは放っておいても雨風に物資が傷むことは無いだろう。むしろ後部の戸を閉めてしまえば下手な家屋よりも機密性に優れる。この世界では最高の倉庫として機能する。

「それに……」

 彼女の視線の先には食料と別に金属光沢を放つ重々しい銃器の姿があった。拳銃とその弾丸はもとより、機関銃、無反動砲、迫撃砲、誘導弾、ロケット、多種多様な火器のオンパレードだった。どれも個人が扱うには手に余る。特に彼女のような子供には構えることすら難しい重量物である。そして、知識面でも彼女には運用方法の知れぬ代物ばかりであった。唯一利用出来るとすれば拳銃くらいだ。けれど、その銃を向ける相手が居ないのだから手にしたところで意味が無い。むしろ彼女の目には災厄の元と思えた。

「…………」

 使わないのなら他者に見つからぬうちに破棄すべきだろうか。しかし、今の村の状況を鑑みるに万が一へ備えるべきでもある。とは言え、その万が一とは如何なる時で、誰がどういった目的で運用する事になるのか。そもそも、これらを理解出来る人間が自分以外に居るのか。そんな具合に様々な思いを抱えて、食料の扱いとは別に彼女の頭を悩ませる。

「なんて贅沢な悩み……」

 食料は嬉しい。けれど、それも恒久的なものでなければ意味が無い。下手に村へ伝えては争いが起きる。じゃあ、それを目の前の武力を持ってして沈める。満遍なく公平に全てを行き渡らせる。皆が幸せにお腹を膨らませる。

 そこまで考えて彼女は思わず笑ってしまった。

「明らかに全滅コース……」

 先刻の自分を思い起こせば、一人でどうにか出来る話では無いと用意に思い至る。まさか四六時中を監視する訳にもいかないし、配り終えた食料の動きを監視する事など不可能だろう。その後、如何なる道を村が歩むかは想像に容易い。過去に知る被災地では、訓練された自衛官達でも食料目掛けて突撃する難民に耐えられなかったのだ。彼女にはどうすることも出来無い。

「いっそ一人で……」

 トラックの荷台に住み着いてしまおうか。

 そんな事を考える。

 けれど、家に置いてきた家族を思うと後ろ髪を引かれる気もした。母親と父親は存命である。そして、幼い彼女を必至に此処まで育て上げたのだ。そこには前世の肉親に対する以上の愛情がある。それを無視して一人腹を満たし過ごすのは辛い。

「…………どうしよう」

 何度目になるとも知れない溜息を吐く。

 とは言え、先刻までの絶望的な空腹とは違って心に余裕がある。そこまで深刻な問題ではなかった。これまでの日常と比較しては容易。目の前に詰まれた食料から得られる安心は多大だった。

「……とりあえず、帰ろう」

 あと数刻で日が暮れる。荷を動かすにせよ廃棄するにせよ今からでは時間が無い。そう考えを纏めると彼女は家に帰る事とした。ただ、何も持ち帰らないのも勿体無い気がして、傍らにあった拳銃の一丁と弾倉の幾らかを懐に偲ばせる。それくらいなら使用方法も分かるし、体格的にも問題無いだろうと判断した次第だった。ただし、食料は万が一にも他者に知られると面倒なので全て置いていくこととした。幸いにして保存食品。腐る事は無い。また、缶に密閉されたそれらだから野生の獣に食われることもない。

 その後、彼女は元居た丘上を基点として森を散策。どうにか帰り道に都合をつけて遭難の憂き目を脱した。万が一に備えて保持した食料と水のボトルを腹の中へ片付けて、歩み慣れた帰路を進んだ。

 トラックの放置されていた場所は村から結構な距離があった。加えて、丘から落ちたこともあって身体も所々が痛む。彼女が自宅に到着する頃には既に日も暮れてあたりは薄暗くなっていた。

「ただいま」

 家の敷居を跨ぐと彼女を迎えるように両親が顔を出した。

「おかえり、今日は随分と遅かったわね」

「ただいま、母さん。キノコを見つけたんだけど、見て貰えるかな?」

 帰宅して早々、懐に仕舞いこんだ白いキノコを母親に見せる。

「アリス、大切なお話があるの」

「え?」

 けれど、普段ならそれを満面の笑みで向かえ両手離しに褒める母親が、しかし、今日に限っては至極真面目且つ深刻な表情で娘の言葉を遮るのだった。その様子に言われた側も困惑の表情を浮べる。

「向こうの部屋でお父さんが待ってるから、一緒にいらっしゃい」

「う、うん」

 母に連れられて家の奥へと移動する。

 彼女の家は居室二部屋とキッチンからなる木造住宅だ。とは言え、造りはぞんざいでいつも隙間風が筒抜ける。元の世界の精巧な建築技術を知るアリスにすれば、精々物置小屋にしか思えない家だった。

 けれど、今の彼女にとっては掛け替えのない一戸である。

「おぉ、アリス、今日は遅かったな」

「ただいま、父さん」

 彼女を迎え入れた父親は小さく笑みを浮かべてみせる。

「まあ、座りなさい」

「はい」

 彼に促されてアリスと彼女の母親は父親の腰掛けるテーブルの対面に座る。

「父さん、大切なお話って何?」

「あぁ……」

 娘に問われて父親は少し躊躇した風に顔を顰める。

 その姿から彼女は自身の父親が言わんとする事が大層な事柄だと身を堅くした。隣に座る母親は既に事の次第を聞き及んで居るのだろう。心配そうな顔で二人を見つめている。

 妻と娘の憂い深い表情を前に父親はゆっくりと口を開いた。

「アリス、私はこの村を出ようと思うんだ」

「……村を?」

 父親の言葉に彼女は首を傾げる。

「これからする話は……、絶対に誰にも言ってはいけないよ?」

 そうして語る父親の声は普段のそれと比べて幾分か小さい。

 遮音性の著しく低い住宅だから、隣家への配慮があるのだろう。

「う、うん……」

 いつに無く真剣な父親の眼差しに彼女は多少戸惑う。

「アリスも、もっとちゃんとした御飯を食べて、女の子らしい生活をしたいだろう?」

「それは、その……、私は…………」

「だから、私は村を出ようと思うんだ。この村はもう駄目なんだ。土地は痩せ水は枯れ、けれど、税は月毎に重くなるばかり。人の数だって目に見えて減って来ている。いずれは誰も居なくなる」

「でも、勝手に村を出たりして、もしも領主の城の人達に捕まったら、どうするの? 私達は大変な目に遭うじゃないの? 前に父さんがそう言っていた。村人に引越しする自由は無いんだって」

「そうだ、それはお前の言うとおりだ。しかし、このままでは長く生き永らえる事は出来無いだろう。ならば私は少ない希望に掛けてでも外へ希望を見つけたいと、そう考えているのだよ」

「でも、今の代の領主、アレン、だっけ? あの人に捕まったら……」

「だめだよアリス、領主を呼び捨てになどしたら、他の誰かに聞かれた日には何と告げ口をされるか分からない。だから、そんな日々も含めて、これ以上はお前達に苦労をかけたくないんだ」

「父さん……」

 彼女達の住まう領地の農民には居住、移転の自由が無い。それは農作物の一定の取れ高を維持する為に貴族が行った政策の一つだった。彼女の知る世界にあっては、万人に保障されていた一つの権利が侵される形である。

「賢いお前なら、分かってくれると思っている」

 娘を見つめる父親の瞳は彼女の澄んだ蒼と違い深い緑色を湛えていた。まだ歳幼い八歳の娘に対して、しかし、彼は同輩に語りかけるよう深く言葉を吐く。それは彼女が幼い時分より多分に知能を発揮してきた所以である。

 そして、彼女にとっての父親と言えば、自身を育て上げてくれた最大の恩人である。なまじ前世の知識がある分だけ、その影響は大きい。その彼が言うのだから、従わない理由は無かった。また、彼女にしても現状を憂いているのは同様だ。

「でも、どうやって? 村の周りの山々は生半可な装備では越えられない。今の私達の家にそれだけの蓄えがあるの? 食料は勿論、水だって、野生の動物から身を守る武器だって必要」

「ああ、その辺りは大丈夫だ。お前達には特に苦労させてしまったが、今まで少しずつ溜めてきた食料がある。それを使えば私達家族四人なら山を越えられる筈だ。勿論、多少の苦労は伴うかもしれないが」

「だけど、妹はまだ三歳。それだけの体力が無いと思う」

「そこは父さんと母さんが頑張る。お前は心配しなくていい」

「…………」

 今に至るまで多分に葛藤があったのだろう。そうして語る父親の姿に彼女は自身の意見など意味が無いことを知る。ならば、相手の心労を多少でも軽くしてやるのが娘の勤めだと考えを改める。

「本当に、父さんはそれでいいの?」

「ああ、私はお前や妹、母さんがこれ以上苦労する姿を見たくない。都市部へ出れば少なからず仕事があるだろう。始めのうちは大変かも知れないが、このまま村で死を待つよりは幾分かましだ」

「都市部……」

 噂話にしか聞いた事の無い地域だった。

 この村に生まれ育ったアリスはこの村の事しか知らない。ともすれば、外へ出てみたいという願望は決して小さくなかった。元々は都会人の彼女である。今まで貧困に押さえられてきた好奇心は甚く刺激された。

「分かったよ、父さん」

「アリス、理解してくれるか?」

「うん」

 父親の問い掛けに娘は小さく頷く。

「出発は、明日の明朝に決めてある。準備は既に整っているから、後は荷物を持って家を出るだけなんだ。アリスも寝る前に支度をしておくといい。ただ、あまり多く持っていくのは駄目だよ」

「大丈夫だよ、持ち歩くべき荷物なんて大してないんだから」

「そ、そうか……」

 父親の言葉に軽く笑って答える。

「ゆっくりと休んでしっかりと身体を休めるのよ?」

「分かっているよ、母さん」

「ありがとうね、アリス」

 そうして、彼女は椅子から立ち上がると隣の部屋へ向かった。そこでは既に夢の中へ落ちた妹の姿がある。その隣に身体を横にして、彼女もまた休みを得る事とした。歩き詰めて疲弊した身体が熱を持って和らぐ。

 ただ、色々と多くあり過ぎたのだろう。明日の脱村はどうしようか。見つけた食料と武器の類はどうしようか。悩み出せばきりの無い問題達である。眠らなければならないと強く思うほどに眠れない。

 それから彼女が眠ったのは、その傍らに両親が身体を横たえて、しばらくが経ってからであった。

◆ ◇ ◆

 翌日、人知れず村を発ったアリス達は村を出て山道を歩いていた。

 数刻を経て既に森の中へ足を踏み入れて、周囲は樹木以外に何も無い。人が歩むには厳しい獣道を一家は黙々と進んでいた。表立った道を行く事は叶わない。そこで万が一にも領主の手の者に見つかっては大変だ。他者への見せしめとして公開処刑は免れない。

 だから、こうして彼女達は未開拓の山中を進んでいる。

「アリス、大丈夫か?」

「うん、平気」

「貴方も辛くなったら言うのよ? おぶってあげるから」

「大丈夫だよ、慣れてるから」

 両親からの心配に彼女は笑みを返して歩を進める。

 先頭を進むのは父親、その胸には片手に抱いた妹がある。その後ろに続くアリス、最後は母親という隊列だった。父親が手にした鎌で切り開いた道を続く二人が歩んでいく。出発した際にはまだ日も昇っていなかった。しかし、幾らかを歩いた今は朝日が峰を越えて、頭上に茂る樹木の葉の合間よりキラキラと輝いて見える。

「父さん、予定ではどれくらいで着くの?」

「そうだな……」

 彼は少しだけ悩んでから言葉を続ける。

「このまま山中を五、六日ほど歩くと、やがて山を抜けてルルブという村に着く。そこで少し休憩をしてから、更に街道を三、四日ほど歩いてファーレンへ向かう予定だ」

「ファーレンって、もしかしてこの国の首都の?」

「ああ、アリスは物覚えが良いな。そのとおりファーレンはこの国の首都だよ」

「でも、六日も歩いて水は大丈夫なの?」

「その辺りは大丈夫だ。この国と隣国との領境にナータスという大きな湖があるんだが、そこから流れる川より十分な量を補給出来る筈だ。昔、祖父と共に水を汲みに行った覚えがあるのだよ」

「場所、覚えてるの?」

「大丈夫、しっかりと思えているよ」

 答える父親の足取りは大したものだ。

 片手に娘を抱え、もう片手には道を作る鎌、更には大きな荷物を背負い、けれど、山道を物ともせずに歩んでいく。伊達に毎日農作業に従事していない。栄養不足も深刻に思える肉体ながら、大した健脚だとアリスは一人関心する。

「二人とも、荷物、他に何か持とうか?」

「なんの、この程度の荷物などなんてことない」

「貴方だってもう持ってるじゃない、アリス」

「でも、父さんや母さん、大変そうだし」

「お前はそれだけ持っていれば十分だ。下手に苦労して体力を落としてしまっては元も子も無いからな。今は私達のことは良いから自分のことだけに集中しなさい。まだまだ先は長いんだ」

「う、うん……」

 背負う皮袋の重みを両足に感じつつ、アリスは二人に頷く。

「お姉ちゃん、大丈夫?」

「大丈夫だよ、マリー」

 父親の腕に抱かれながら自らを心配した風に顔を覗かせる妹。その姿にやんわりと笑みを返してアリスは向かう先へと目を向けた。永遠に続くように思わせる薄暗い森。けれど、その先には幸せが待っているのだと信じて足を動かす。

 しばらくを歩いた一同は、山中に樹木の途切れた小さな空間を見つけた。数百平米程度の領域が多少だけ凸凹とした歪な楕円形に切り開かれて、幾本もの倒れた樹木と焦げ付いた根とが点々と並ぶ広場となっている。過去に小規模な山火事の類でも起こった跡だろう。

「ちょうど良い、ここで少しばかり休憩にするか」

「ええ、それが良いわね」

 父親の言葉に母親が頷く。

 アリスとしても幾分か足に来ていたところだった。小さく頷いて、近くにあった丸太へと腰掛ける。背負った荷物を地に下ろすと、肩への圧迫感が急に失われて、圧倒的な開放感と共に身体が癒されるのを感じる。

 一家は広場の片隅で休みを取ることと決めた。

「アリス、腹は減っていないか?」

「うん、大丈夫」

「本当か? 体力があるうちに食べておかないと、後で食べられなくなるぞ?」

「うん、でも今はまだ大丈夫」

 昨晩にたらふく食べた彼女だから、今はまだ然して空腹を感じていない。日は昇ったが昼にはまだ遠い。飢餓に慣れた身の上にあっては、我慢すれば明日まで一切を食べずとも過ごせるだろう。身体がそういう風になってしまっていた。

「そうか、なら水だけでも飲んでおくといい」

「分かった」

 父親の言葉に頷いて荷物から水の入る皮袋を取り出す。そして、その幾らかを口に含んで喉を湿らせた。行軍に辺り幸いだったのは、付近一帯の気温が大して高くない点だろうか。これで山を下ってゆけば次第に暑くもなってゆくのだろうが、現地点では標高が高い為に気温はそれなりだ。数刻を歩んだ後でも発汗は緩い。

「まだまだ先は長いのだから、身体を大切にするんですよ?」

「うん、大丈夫だよ母さん」

 母親は傍らで自らの膝の上に座る娘へ水を与えている。その姿を眺めて、彼女は自然と瞳を細める。父親と母親は両手に荷物を抱えながらも気概に優れ、歳幼い妹にしたって調子を崩した様子は見られない。

 彼女達一家の進行は非常に順調だと言えた。

「早く着くといいね」

「そうね、その為にも頑張って歩きましょう」

「私も、歩くよ?」

「ふふ、マリーも頑張りましょうね」

 我が子に不安を与えまいと思ってだろう。旅立ってより母親の顔には笑みが絶えない。その姿を眺めてアリスは何があっても絶対に目的地まで辿り着いてやるのだと強く心に決める。

 そこで、ふと思うことがあった。

 水袋の口を縛り置いて、それとなく傍らに座った父親へと語りかける。

「父さん、少しいいかな?」

「ん、なんだい?」

 今、一家は歩む場所は昨晩に彼女が散策していた丘に程近い。

「私、この近くで食料のある場所を知ってるの」

「ん、食料のある場所? どういう事だい?」

 昨晩には提言が難しかった。けれど、家財道具一切合財を持って旅立った今ならば教えても問題あるまい。むしろ、この旅を確実なものとする為に是非とも利用すべきだと彼女は考えたのだった。

「昨日、この辺りで食べるものを見つけたの」

「何か美味しい木の実のなる木でも見つけたのかい?」

「ううん、違う。もっと凄いもの」

 多分、説明は難しかろうとアリスは思う。だから、何はともあれ現物を見て貰おうと彼女は考えていた。聊か寄り道になってしまうけれど、それを持って有り余る利益があるのは間違いない。

「だから、父さん、少しだけ寄り道して貰えないかな?」

「寄り道か……」

 娘の言葉に父親は頭を悩ませる。

「駄目?」

「そうだな……」

 水の入った袋を手に頭を悩ませる。

 けれど、それも大した時間ではない。

「まあ、お前が言うのなら確かなものなのだろう。それほど離れていないと言うのなら行ってみる価値はあると父さんも思う。どんな木の実やキノコがあるにせよ、往復分の駄賃にはなるだろう」

「ありがとう、父さん」

「それじゃあ、休憩が済んだらまずはそっちへ向かうとするか」

「うん」

「案内を頼むぞ?」

「分かった、任せて」

 父親の言葉に彼女は笑みを浮かべて頷く。

 もしも件の食料を手に入れたのなら、きっと、この旅は確実なものになるだろう。遥かな技術を持って完璧に缶詰された食料品の数々は、彼女にそう思わせるだけの魅力を伴っていた。幸先も頗る優れて、彼女の脳裏には無事に首都へと辿り着く自ら一家の姿が浮かび上がる。

 けれど、そんな淡い希望は予期せぬ出来事を前に木っ端微塵と打ち砕かれる。

 空に轟々と響く大きな風切り音。

 同時に上がった耳を裂くような甲高い咆哮。

 周囲一体の空気が場に立つ者さえ巻き込んで震えた。

「な、何だっ!?」

 彼女の傍らに座っていた父親が異変に気づいて立ち上がる。

「貴方っ!?」

 同様に母親も狼狽した風に声を上げる。

 その腕の中ではマリーが不安そうな顔をしている。

 そして、アリスにしても聞き慣れない物音に身を堅くした。音源はどこかと視線を巡らせる。一聴して獣の咆哮、けれど、届けられた声量は桁違いにある。それも随分と近い場所から聞こえてきた。過去に無い体験に自然と緊張が増す。

 ともすれば、それは自ら彼女達の前に姿を現した。

「ほぉ……、人間か」

 何よりも非常に巨大な肉体を誇る化け物だった。

 雲のように地上へ陰りを落として悠々と空に浮かんでいた相手は、やがて、一家を見下ろしつつ、ゆっくりと翼の羽ばたくを緩め降りてくる。その一振りに応じてアリス達は身を吹き飛ばされぬよう身を支えるに必至だった。

 やがて、それは広場の半分を占めるまでに至る図体をズシンと、地響きを伴い地に下ろす。鼻頭から尻尾の先まで全長六十メートルは下らない。足先から頭の先端までも全高二、三十メートルはある。広場の大半を占める巨漢は彼女達人間からすれば圧倒的だった。

「なっ!? 竜だとっ!?」

 父親が驚愕に声を上げる。

「そう言えば、最近は久しく人間を食べていなかったな……」

 竜は驚いた事に人間の言葉を介した。多種族の言語を理解する竜は同じ竜の中でも特別な存在である。人間の間では古竜と呼ばれる種別に属する。そして、一般的な竜と比較しても取り分け強い力を持つ。

 しかし、田舎の村より外の世界を知らない一家の誰も彼もは、そういった事情を理解するには至らなかった。ただ、その存在が彼らにとって圧倒的であるには代わり無い。普段、森へ出て相手をする畜生の類とは格が違う。

「わ、我々をどうするつもりだっ!」

「決まっているだろう? 腹が減ったから喰うんだよ」

「っ!?」

 突如として現れた竜。

 ぐわと巨大な口を開いて真っ赤な舌を露とする。

「お、おかあさっ、おかあさぁああっ!?」

 母親に抱かれたマリーが悲鳴を上げる。

「このような広まった場所へ身を出したのが愚かだったな」

 竜は歪に口元を歪めると、何やら笑みらしき表情を浮べて見せる。

 種族こそ異なれど言葉を介す相手にあって、一家の皆々は相手の嗜虐的な思考を即座に理解した。人間がそうであるように、竜にしても性格の如何は千差万別。そして、アリス達は何処までも運が無かった。

「そ、そんな、我々は……」

 誰も彼も緊張と絶望から身を固く強張らせていた。

 順調だった旅路は一変して最悪の展開を迎えることとなった。

「まずは、そこの娘から喰らうとするか」

 グァと大きく口を開いて竜が吼える。

 その圧倒的な迫力を前にアリスは竦み上がった。

 懐には拳銃が仕舞われている。しかし、それが何の役に立つのか。彼女は何を成す術もなく、近づいてくる竜の鼻先を前に呆然と己の運命を呪う他なかった。鋭い、人の身体ほどもある牙が近づいてくる。

「あ、アリスっ!」

 しかし、それに彼女が切り裂かれる事はなかった。

「ぐぉおおおおおっ!」

「と、父さんっ!?」

 彼女を喰らわんと迫った顎が閉ざされる瞬間。傍らより飛び出した父親が彼女の身を突き飛ばした。危ういところで死地を逃れたアリスは尻を打った痛みすら忘れて顔を頭上に上げる。

 すると、そこには牙に上半身を砕かれて、その口の合間よりぶら下がる父親の姿があった。だくだくと湧き出る赤い雫が雨のように彼女へ降り注ぐ。その生暖かい感触にアリスの脳裏は混乱を極める。

 けれど、叫び声をあげることは敵わなかった。

 傍らより上がった二つの悲鳴が、それを後一歩といったところで押し留めたのだ。

「アナタァアアアアアッ!」

「お、おとうちゃあああああっ!」

 母親と妹が顔を両手で覆い絶叫していた。

 耳が痛く感じるほどの悲鳴だった。

 それが多少だけアリスに冷静さを取り戻した。

 けれど、所詮は脆弱な人間の子供。まともに頭が回り始めたところで然したる意味は無い。バリバリと骨を折って竜の顎が動く。応じて段々と奥へ、奥へ飲み込まれていく父親の姿が、より鮮明に脳裏へ届けられるだけだった。

「アナタッ! アナタァアアアっ!!」

 叫びを上げながら母親が竜の元へ走る。

「か、母さんっ!」

 それを押し留めようとしてアリスは彼女へ腕を伸ばす。

 しかし、それもあと少しというところで空を切った。

「自ら歩み寄るとは、随分と殊勝な餌だなぁ? 笑えるじゃぁないか」

「母さんっ! 駄目っ! 駄目だよぉっ!!」

 アリスの叫びも虚しく、竜の顎が再び蠢く。

 そして、父親に同じく、母親もまた頭から喰われてしまった。

 がしゅっと汁気のある音が辺りに響く。今し方に同じく赤い雨がアリスの身体を色濃く染める。母親に抱かれていた妹もまた、一緒に喰われてしまった。痛みに悲鳴が上がったのも僅かな間である。ビクンビクンと痙攣していた肉体はすぐに力を失い、竜の口から垂れ下がるようにぐったりとなった。

「あ、ああ……、なんで、こんな…………」

 僅かな間に家族を失い愕然とするアリス。

「人間とはなんと脆いことか」

「…………」

 竜の瞳がニィと細められる。

 グチャグチャと音を立てて口が動く。応じて垂れ下がっていた母親の身体は内へと引き込まれてゆき、最後は全て咥内に収まってしまった。衣服も何もそのままである。やがて、一頻りの咀嚼の後に竜はごくんと大きく喉を鳴らして全てを飲み込んだ。

 それは至極、生物としての食事を思わせた。

「さぁて、お前も喰ってやろう」

「っ!?」

 相手の言葉にアリスはハッと我に返った。

「家族の後を追うがいい、私の腹の中へとな」

 すぐ目の前まで迫った凶悪な牙。

 ゆっくりと近づいてきた竜の顎を前にして、彼女は懐より拳銃を取り出した。映画やら何やらで得た知識から安全装置らしきレバーを上げて、躊躇無く引き金を引く。死を前にして何もかもが必至だった。

 パァンと甲高い音があたりに響く。

「ぐぉあああっ!?」

 すると、運が良いことに銃弾は竜の右目を捉えていた。

「に、逃げないとっ」

 竜の悲鳴を耳として、彼女は広場に隣接する森へと駆け出した。

「くっ、待てっ! この人間があぁっ!」

「だ、誰がっ!」

 銃を片手に樹木の合間を走る。

 大柄な竜は木々を薙ぎ倒してその後を追う。本来なら数秒と持たぬ追いかけっこだった。けれど、雑多に茂る樹木に遮られて追い手は満足に進む事が敵わない。背後に確実な死を感じながらも、危ういところで生き永らえている自分を信じて、アリスは必至に走り続けた。

「キサマァっ! 人間の分際で私を傷つけるとは生意気なっ!!」

 大きく竜の爪が振るわれる。

 その先端がアリスの背を浅く切り裂いた。

「っ!?」

 けれど、彼女は走るのを止めない。

 痛みに身体を転がしそうになる。

 バランスを崩し転がり損ねるも、危ういところで一歩を踏み出して身体を支る。そして、更なる勢いを持って走り続ける。木の枝に身を突かれて切り傷や刺し傷が出来るも構わない。ただ、只管に生き残りを掛けて足を動かした。

「ちっ、強情な娘だ……。絶対に獲って喰ってやろう」

 そんなだから竜もまた執拗に彼女を追いかけた。

 そんな具合に追いかけっこは数分。

 やがて、しばらくを走ると何やら見えてくる物があった。

 それは昨晩に彼女が見つけた朽ちたトラックである。荷台が開けられた様子は無い。その様子を確認して、彼女はその戸へと勢い良く飛びついた。そして、いざ牙が腹を突き刺さんと、危ういところで内へ身を滑り込ませる。

「はぁ……、はぁ……、はぁ……」

 高まった呼吸を往なさんと荒く肩で息をする。

「人間の娘、出てくるといい。そのような箱へ逃げ込んだところで意味は無い」

 外から響くのは竜の声だ。

「だ、誰が出るものかっ!」

「そのまま喰らってしまっても良いが、それでは面白みに欠けるだろう?」

「何が面白みだっ!」

「それに、流石にそのデカ物をそのまま腹に収めるのは堪える」

「っ……」

 竜からの問いかけに叫びを上げながらも、彼女は周囲に視線を巡らせる。完全に閉じ切れなかった荷台の戸から漏れる明りに、積荷の数々が僅か照らし出されていた。特に目に付く重火器の数々は彼女にとって唯一の生命線。けれど、その大半は使い方の分らない代物である。

「ど、どうすれば……」

 焦りが彼女から平静を奪う。

「出てこないというのなら、無理矢理にでもこじ開けてやろう」

「っ……」

 声に応じて大きく荷台が揺れた。

 周囲に積まれていた積荷が崩れて彼女に襲い掛かってくる。それを危ういところでやり過ごす事が出来たのは奇跡。ぐらぐらと不安定な足元に縋るよう、彼女は何か無いかと辺りへ目を凝らした。

「さぁ、出て来いっ!」

 金属と金属が打ち合う耳障りな音が大きく響く。

 かと思えば、次の瞬間、トラックの荷台の屋根部分が大きく剥ぎ取られた。その巨体を利用して、硬く閉ざされた箱を無理矢理に開くよう、天井部分が引き千切られたのだった。鋼鉄製のそれがまるで粘度のように形を変える。暗闇に慣れ始めていたアリスの目に外の明りが飛び込んできた。

「なっ!?」

「さぁて、追いかけっこは終わりだ」

 トラックは竜の腕の中にあった。両足で器用に車両を固定して、荷台の上辺だけをもぎ取ったらしい。よって、彼女の見上げる頭上には、かなり近い場所に竜の牙が並んで見えた。その至る箇所には彼女の家族のものと思われる血が付着している。

「っ!」

 アリスは拉げた荷台の壁を乗り越えて外へと飛び出した。

 数メートルを飛び降りて地面に降り立つ。本来ならそのまま走って遠く逃げ出すべきだろう。けれど、そうなっては再び追いかけっこの始まりである。それでは先が見えている。彼女は唯一の希望たるトラックの荷台を見つめて、数十メートルだけを走り竜に向き直った。

「ほぉ、逃げないのか?」

「家族の敵を取るまで私は逃げない」

「折角父親が残してくれた命を無碍にするのか?」

「お前を倒せば良いだけの話」

「はっははは、それはまた、随分と大きく出たな? しかし、それでは今し方に私より逃げ出したのは何だったのだ? それは随分と必至の形相であったと記憶しているのだがなぁ? なぁ?」

「う、うるさい、黙れっ!」

「所詮、貴様等人間は我等竜にとって餌に過ぎぬと理解しろ」

「何が餌だ、誰が竜如きに食べられてやるものか」

「竜如き? 人間の分際で随分な物言いだな?」

 手にした車両をガシャンと地に落として竜がアリスに向き直る。積まれていた積荷の数々がその付近へと豪快に散らばった。その品々を背に置くようにして、竜は彼女へと面を向ける。

「さぁ、早く逃げるがいい。私は逃げる餌を追い掛けるのが好きなんだよ。この目の痛み、倍にして返してやろう。楽には殺さない。じっくりと、たっぷりと、時間を掛けて喰ってやる。生きたまま、延々と痛みを与え続けてやろう」

「くっ……」

 じりじりと近寄ってくる竜を前にアリスは後退を続ける。

 トラックから飛び降りた際に位置が入れ替わり、今の彼女は竜を挟んで目的のそれと反対側にある。利用を願う道具の数々は最早手が届かない位置にあった。手に残ったのは拳銃の一丁のみ。

「この世は力が全てだ、己の脆弱さを呪うがいい」

「うるさいっ! 竜が強者で人間が弱者だと、いつ誰が決めたっ!」

「ほぉ? まさか、私が人間に劣るとでも言うか?」

「あぁ、劣るともっ! お前は私を倒すことなど出来無いっ!」

「はっはははは、それは傑作だな。餌の分際で何を語る人間よ。貴様等が家畜を喰らうのと同様に、私もまた貴様等人間を喰らうのだよ。それが、こうして家畜に罵られるとは、お前は私を笑わせてどうするつもりだ? 金でも無心するつもりか?」

 正直、アリスは勝機など微塵も見出していなかった。時間を稼ぐべく会話を続けているに過ぎない。何か良い手は無いか。自分はまだ死にたくない。こんな幸薄い一生は御免だ。そんな思いから、全ては頭を巡らせる為の時間稼ぎだった。

 しかし、何を思ったのか竜はそんな彼女の言葉に随分と興を載せられた様子だ。

「人間如きが、それも魔法すら使えぬ民が竜に敵う筈が無い」

「魔法? そんなちゃちな代物が怖いのか? 竜は」

「なんだと? ならば貴様は何が出来ると言うのだ。私は知っているのだぞ? このような山奥で貴様のような無様な姿格好をしている人間共の起源を。所詮は負け犬の分際で何を偉そうに語る」

「負け犬がいつまでも負けたままだと思わないで欲しい」

「犬の時点で竜には勝てぬと分からぬか?」

「なら、犬が竜に勝ったらどうする。お前は犬に頭を垂れるか? そのデカイ図体を引き摺って犬が引く縄に首を与えるのか? それはそれで見てみたい気もする。精々情けなくワンと鳴くのだろうな?」

「ほぉ……、良い度胸だ」

 竜の足の爪がぐっと地に突き刺さる。

「父さんと母さん、マリーが残してくれた私なのだから、敵を取るまで死なない」

「取れるものならば取ってみよ、この世は力こそ全て」

「図体が大きいだけのトカゲが良く喋る……、絶対に、跪かせて見せる」

「ならば、その意志を現実のものとしてみせるがいい、人間の娘よ」

 竜が吼えた。

 それは人の言葉では無い。

 獣が放つ強大な雄叫びだった。

 ビリビリと空気が震えるほどの咆哮を前にアリスは身を硬くする。けれど、それで生きる事を諦めたりはしない。まだ何か、出来る事があるのではないかと必至に頭を巡らせる。そして、危地に直面した時の脳とは存外良く働いてくれるものだ。

「…………さぁ、終わりだ」

 緩慢な動作で足を動かして竜がゆっくりと迫ってくる。

 十メートル、九メートル、八メートル。

 その姿を眺めるアリスの目に映るものがあった。

 それは竜の股の合間から覗く黒く湿った地面である。そして、その湿りが伸びる先にはトラックの車体が横転していた。竜の手によりぞんざいに扱われたそこからは、刺激臭を発する液体がゆっくりと漏れ出しているのだった。

「そうだ、最後に一つ、尋ねたいことがある」

「今更だな?」

「さっき、目を撃たれた時、竜とて銃を受けた傷口は痛んだのか?」

「ああ、痛かったとも。しかし、その脆弱な銃では我が強靭な鱗を突き破る事は不可能だろう。偶然にも眼へ当たったとしても、見ろ、この程度の負傷がせいぜいだ。人間の知恵など高が知れている」

「だったら……、今度はもっと凄いのをあげるよ」

「……なんだと?」

 竜の眉がピクリと震える。

 それに応えるよう、アリスは手にした銃を撃ち放った。

 狙った先は竜の股の合間より更に後方。静かに漏れ出した揮発燃料の池である。外へ漏れ出してしばらく、既に気化の始まった液体は十分に発火態勢が整っていた。そして、彼女が撃ち出した弾丸は違い無く標的へと向かって行く。

 弾頭は池の傍らに転がる鉄片へと当った。

 僅かな火花が飛んで池まで散る。

 途端、轟音を伴い強烈な爆発が巻き起こった。

 引火した液体燃料は一気に膨張。そして、圧倒的高温は周囲に散在していた火器の弾薬へ火をつける。種別を選ばず一斉に着火した弾丸の数々が四方八方へ狙いなど知らず打ち出される。

 そして、その幾らかは彼女に迫る竜の背中へと突き刺さるのだった。

「ぐぅぉおおおおおおおおっ!?」

 竜も少女も爆風に身体を吹き飛ばされる。

 それと同時に追い討ちを掛けるよう雨のように降り注ぐ銃弾。

 幾ら竜の鱗とは言え幾百、幾千発もの多種多様な弾頭を受けては無事に済まなかった。特に重火器の弾薬は強烈だ。拳銃の弾こそ弾く鱗も、戦車の装甲を打ち破る一撃には絶えられなかったらしい。鱗の多くは無残にも拉げて、その内の肉へと突き刺さる。そして、内部より炸薬を破裂させて巨漢を幾度と無く震えさせた。

 そんな中でアリスは爆風に吹き飛ばされ後方にあった樹木へと叩きつけられる。しかし、竜の巨漢が盾となり銃弾に身を打たれることは無かった。滲む視界の中で、彼女は悲鳴をあげて倒れ行く竜の姿をしっかりと目に納めていた。

「…………」

 悲鳴を上げて暴れに暴れる竜の必至な姿は、それこそ森を彷徨い逃げていた自分と同じもの。如何に狂った生態系、摩訶不思議な生き物が闊歩していようと、ここは間違いなく現実なのだと彼女は今一度だけ現在の生に理解を深めるのだった。

 やがて、一帯は炎を吹き上がらせ激しく燃え始める。

 その彼女はその様子を眺めて、勝者たる自身まで炎に巻かれぬよう、重い身を引きずり場を後とするのだった。段々と炎を激しくさせる木々を避けて、遠く、遠く、逃げるように足を動かす。

 幾ら思っても戻ることの無い家族は竜と共に火の中へ。

 ただ一人だけ生き残った彼女は、更に明日を生る為に、依然として見知らぬ山の奥深くへ歩みを向けるのだった。そう、見事に竜を打ち破ったアリスであったが、しかし、彼女は村へ帰ろうとはしなかった。

 万が一にも家財道具の消えた自宅が同じ村人に確認されていたのなら、その身は迫害必至にあるからだ。よって、彼女は家族の残した荷物を背負って当初の目的に従いルブルを目指す事になった。

 とは言え、目的地の大凡の方角しか聞いていない彼女にとって、そこへ辿り着くまでは苦難の連続であった。森の深い場所を歩んでいた為、山賊の類に出くわす事は無かった。しかし、山もまた非常な危険を伴う。いつ尽きるとも知れない食料と水に怯えながらの進軍であった。

 幾つも山を越え、谷を越え、川を越える。

 そんな中で、最後の最後、幻に思えた天命は彼女に味方した。

 十日に渡る行軍を終えてアリスは目的の場所へと辿り着いたのだった。

 見晴らしのいい大きな草原が一杯に広がる山の裾野の農村である。

 その姿を道行く先に見つけた彼女は我を忘れて走り出した。身体の痛みも飢えや渇きも一時だけ霧散。そして、村一帯を覆う背の低い垣根を前にしたところで、小さな身体に持てる精根の全てを使い果たし倒れたのだった。