金髪ロリお姫様ラノベ

第二話

 姿見を越えて向こうへ行っていた時間は、こちらの時計で凡そ二時間ほどだった。帰ってきてまず確認したのが、ズボンのポケットに入れっぱなしになっていた携帯電話のディスプレイである。そこに示された時刻と部屋の目覚まし時計とは全く同じ時刻を指し示していた。

「やっぱり、夢じゃないし……」

 自室の中央には折りたたみ机が置かれ、その上には角少女に貰った巨大な宝石の塊が乗っかっている。彼女の言葉を信じるならばダイヤモンドだそうだ。正直、夢でも見ていた気分である。

 今し方までの出来事が自分にとってどれだけ衝撃的だったかと言えば、一時的にとはいえ、昨晩の放課後に耳とした友人達の語らいすら忘れるほどであった。実際、こうして部屋に帰ってくるまで完全に忘れていた。

「しかし……、どうすればいいんだよ、これ」

 ダイヤならば売ってお金にできるだろう。

 けれど、これだけ巨大な代物となると何処へ売り払えば良いのか分からない。そもそも普通に買い取って貰えるものなのだろうか? 下手な店に持っていっても相手にされない気がする。米粒ほどの結晶でも数十万、数百万とする稀少な鉱物である。まさか、こんな巨大な塊が一介の学生の手元にあるとは誰も思わないだろうに。

「…………」

 それに凄く重い。

 宝石店へ運ぶまでが非常に億劫だった。

 正直、台車の類でもなければ運べない。何故に角少女のような小さな子供がほいほいと運べていたのか疑問が残るほどだ。やはり、角が生えているだけあって、彼女も人外の怪力を保持しているのだろうか。

「…………」

 そして、角少女と言えば去り際に見た彼女の顔である。

 酷く落ち込んだその様子は妙に強烈なものとして脳裏に残ってしまっていた。伊達に可愛らしくない。目を閉じると鮮明に浮かび上がってくるものだから、なんというか、考え始めるときりが無い。

 どうにも胸が苦しかった。

「まあ、これはひとまず部屋の置物になって貰うか」

 それっぽく飾っておけば良いだろう。

 正直、人様からの貰い物なのですぐに売り払ってしまうのも申し訳ない。もしも本物だと言うなら、このまま静かに我が家で過ごして貰うとしよう。就職したら立派な台座でも買い与えてやれば良い。

「よしっ」

 あまり動かすのも面倒だし、適当に背の低いラックの上を空けて場所を確保した。重量からして漬物石に使うことも考えた。けれど、これは彼女の国でも宝として扱われているのだから、うちの糠味噌の臭いが染み付いてしまっては申し訳が立たない。却下である。

「んぬぅ……、よいしょっと」

 漫画本の並ぶ棚の上へ無理矢理に設えた。

 重量を考えると聊か不安が残る。けれど、他に置く場所もないので当面はこの場所で良いだろう。絶妙な迫力を伴うそれは俺の部屋で明らかに浮いている。しかし、まあ、こればかりは文句を言っても仕方がない。

 向こうにあったときには違和感無く場に溶け込んでいたのに、日本の狭い家屋へ置いた途端に自己主張を激しくする。近いうちに両親から詰問を受けること間違いない。友人からの土産だと言い訳を考えておく。

「けどなぁ……」

 置物が揺らがぬことを確認して、俺は一息吐くと共にカーペットへ座り込む。

 その視線は自然と天井へ向けられた。

「…………」

 この一日二日で色々と面倒事が過ぎて、考えるべき事柄が随分な量を貯まって感じられた。卒業式まで二週間を残す学校のこと、屋根裏部屋から通じるトカゲ世界のこと。大きく二つだけれど、それぞれが非常に重い。

 特に後者は悩む必要なんて無いのに、何故か自然と悩み始めてしまう自分がいる。

 今もそうである。

「食料庫が燃やされてショックって、なんかなぁ……」

 姿見の中の出来事は凄く他人事に感じる。

 けれど、少女の悲しそうな顔だけは妙に身近なものに感じてしまう。

 カーペットの上にごろり横になって、近くにあったクッションを引き寄せ頭を乗せる。そのままの体勢で何気なく脇腹を擦ってみるけれど、包帯の感触がシャツの下から返ってくるだけで、やっぱり痛みは微塵も感じられない。

 そのまましばらくごろごろと転がっていると、不意に母親の声が響いて聞こえた。くぐもって聞こえる声の調子からして、階下のリビングから声を張り上げているのだろう。俺の部屋は二階にあるので、上階に直接の用が無いとき、母親はいつもこうして俺を呼びつける。

「浩二ー? 母さん、ちょっと急な用事で出かけることになったから、お昼ご飯は店屋物を取るなり外で買うなりして済ませてくれない? お金はリビングのテーブルの上に置いておくから」

「あー、分かったー!」

「あと、家を出るときはちゃんと鍵を掛けなさいよー?」

「はいはい、それも分かってるよーっ!」

「それと、ガスとか使ったらちゃんと元栓締めるのよー?」

「大丈夫だよーっ! ガスなんて使わないからーっ!」

「そーお? じゃあ、母さん行ってくるから、戸締りとか頼んだわよー!」

「あーい、いってらっしゃーい」

 部屋の扉越しに大声でやり取りする。一軒家なので特に問題はない。多少、近所に迷惑をかけてしまっているかもしれないが、割と何処の家も似たり寄ったりなので気にすることはない。

 しばらくすると庭から車の走り出す排気音が聞こえてきた。

「っていうか、もう昼になるのかぁ……」

 起きたのが八時過ぎ。

 姿見に吸い込まれたのがそれから十数分後。

 カーペットの上に寝転がったまま、勉強机の上に置かれた時計を眺める。すると、時刻は丁度正午零時を指し示していた。人間とは現金なもので、そうして時間を確認すると腹が減るのを感じた。これはパブロフの犬を笑えない現代人の習慣だと思う。

「まあ、飯でも食べるか」

 寝転がったばかりだけれど、多少の空腹に身を起こす。

 自室を後としてリビングへ下る。今に伝えられたとおりダイニングテーブルの上には五百円玉が一枚と百円玉が二枚置いてあった。母親がこうして金を渡して自分で昼食を食べろと言うことはかなり珍しい。

「何しに行ったんだろ……」

 それをズボンへ入れっぱなしとなっていた財布に放り込んで家を後とする。

 玄関を開くと、今日もまた憎たらしいほどに良く晴れた青空が待っていた。気温は大して高くないけれど、風がないので割と暖かく感じる。休日に外へと出かけるには良い具合だった。

「……なに食べよう」

 せめて昼食のときくらいはと、頭の中にあるもやもやの全てを捨てるよう勤めて意識する。手頃に丼モノで済ませようか。それとも少し値は張るがラーメン屋へ向かおうか。はたまた休日だし色気を出して商店街のレストランでランチメニューでも頼んでみようか。そんなことを考えつつ自転車を走らせた。

◆ ◇ ◆

 結局、向かった先は近所の大手牛丼チェーンだった。

 駐輪場に自転車を止めて店内へと入る。未だ暖房の効く室内は自転車で走ってきた自分には聊か熱く感じられた。とは言え、汗がだくだく流れるほどでもないので、足早に空いた席を探す。

 良い頃合も手伝って、店内は大勢の客に賑わっていた。休日だと言うに作業服姿の大人も結構な数だけ見られる。自分が滑り込んだ席は、カウンター席に空いた最後の一つだった。

「ふぅ……」

 ペダルをこいで多少だけ疲れた足を椅子に座り休ませる。

 けれど、一息ついたのも束の間である。それは視界の片隅に気づいたこの上ない不幸だった。メニューを取ろうと腕を伸ばしたところで、カウンターとは多少だけ離れた四人掛けの席に見知った顔を見つける。

 それは阪部とその友人達であった。

 相手はこちらが入店した時点で既に気づいていたらしい。阪部の他にも彼と同じグループの友人達が俺を捉えていた。何やら口元に笑みを浮かべて楽しそうに話をしている。雑多な店内にあってもその声は否応なくこちらへ届けられた。

 相手と目が合ってしまったので、仕方なく小さな作り笑いを返す。

「あ、気づいたみたいだぜ?」

「っていうか、相変わらず鈍いよなー」

「そういえば、あいつの家ってこの辺だったっけ?」

「あー、そうだっけ? 俺は行ったことないから分らねぇけど」

「昔、一度だけいったことがあるんだよ、たしか」

 そんな何気無いやり取りが伺える。

 それだけならまだ良かった。けれど、阪部達が座る席の隣には何故か富川とその仲間の姿まであった。いや、更には阪部や富川のグループとはあまり接点の無いクラスメイト達の顔もちらほら見られる。

 合計すれば十数人からなる大所帯だった。

 クラスの男子の七割近くが集合している計算になる。

 何故に席へ着くまで気づかなかったのか。多分、色々と考えごとをしていた為に回りが見えていなかったのだろう。けれど、それにしたって目を覆いたくなる酷い失態だった。勿論、誰も彼もは私服姿である。

 加えて、その卓上にはまだ料理が一つとして置かれていない。悲しいことに彼等もまた入店してから大して経っていないらしい。彼等が食事を終えて店を後とするまで、まだ随分な時間を必要とすることが伺える。

 そして、それまでの間を俺は一人でカウンター席だ。

 こんな拷問が今まであっただろうか。

 割と声も大きく喋っている奴は差し当たりない会話している。けれど、それとは別の幾人かは、こちらを眺めてつつも何やら近くの席の奴と声も小さく話をしている。勿論、俺の下まで届かない。それも一昨日であったら全く気にならなかっただろう。けれど、昨晩の出来事を思い起こすと、自然と全てが自分に対する侮蔑であるように感じられた。

 そもそも何故にクラスの連中がこの場に集まっているのか。

「…………」

 これだけ規模の大きい集まりなのに、自分には一言として声が掛けられない。そんな事実が凄く心に痛かった。こうして現実を突きつけられることで、放課後に聞いた全てが決して嘘や聞き間違いでないのだと理解した。

「す、すみません、豚丼並み盛りで……」

 一刻も早く店を抜け出したくて、カウンターの内側を通りかかった店員に声を掛けて品を注文をする。一度は席に着いておきながら、何も食べずに外へ出られるほど俺の肝は据わっていない。

「……どうして、俺なんだよ」

 知らずそんな呟きが漏れていた。

 そして、そんな俺の心中など知る由もなく皆々は楽しそうに話に華を咲かせている。時折、ちらりちらりと視線を向けられるのは、きっと、その話題に自分の身の上が含まれているからだろう。

 彼等も表だって露骨な語りをすることはない。むしろ、そうして談笑に花を咲かすクラスメイト達の顔には、何故に俺がそちらへ向かわないのか疑問が浮かんで思えた。多分、勘違いではないと思う。

 きっと、昨日までの自分だったら何も考えずに歩み寄り、空席を見つけたのなら食事を共にしてただろうから。けれど、それも事情を聞いてしまった今では絶対にできない。彼等の席へ近づくのが怖い。

 また、要らぬ話が耳に届いてしまいそうで。

「…………」

 意味もなくズボンのポケットから携帯電話を取り出して弄る。

 小遣いを無駄遣いしない為にも、特にゲームの類は入れていない。だから、適当にブラウザを起動して見たくもないウェブページを回って過ごした。映し出される内容なんて、まるで頭に入ってこない。

 こんな惨めな気分は初めてだった。

 やはり、自分は人として関わり難い人間なのだろうか。

 嫌われて当然の性格をしているのだろうか。

 知らず何か大きな過ちを繰り返していたのだろうか。

 自分は極めて普通の生活をしていた筈なのに、それは普通じゃなかったのか。

 でも、それなら俺の何処がおかしいのか。

 もしかしたら、クラスメイトに限らず家族にも疎まれているのではないだろうか。

 絶え間なく都合の悪い疑念が浮かび上がる。カコカコと携帯電話のキーを叩く指は勝手に動いて、自分が与り知らぬところで勝手にネットのリンクを巡ってゆく。ほとんど無意識だった。

 そして、要らぬ通信料金を重ねること数分の後、地獄にクモの糸が垂らされた。

「おまたせしましたー!」

 カウンターを挟んで店員の明るい声が届く。

 ハッとして顔を上げると盆に乗った豚丼の姿がある。

「あ……、どうも」

 注文した品の名前と共に、湯気の上がる丼が目の前に置かれた。

 店内の混雑具合からすれば、想定していた以上に早く届けられた。地獄に仏をみた気分で俺はすぐさま箸を割って手を伸ばす。空腹を装い一息に片付けてしまうつもりだった。長居したくない。

 そうして、パキンと音を立て割った箸を豚肉の一切れに伸ばそうとしたとき、不意に聞き覚えのある声が耳に届いた。毎日、必ずと言って良いほど耳にしていた声である。口を開いた瞬間こそ確認できなかったけれど、音源を間違えることはない。

「っていうか、何で後から来たのにあいつの方が早いんだよ?」

 それは富川のグループの一人で、俺が一番仲が良いと思っていた男だった。

 普段なら何てことの無い、冗談にも満たない一言として済ましたと思う。

 けれど、今の自分にはそれが妙に強く響いて聞こえた。まるで胸を杭で打ちつけられたような、身体が震えそうなほどの衝撃が全身に走った。同じ相手から伝えられる同じ、あいつ、という言葉でも、状況を変えて言えばここまで変るものかと驚いた。

「…………」

 ただ、周りの人間が宥めたのかそれ以上は何も聞こえてこない。

 それが逆に俺の傷心を刺激した。

 なんて自分はちっぽけで惨めな存在なのか。

 そう思わずにはいられなかった。

「くそ……」

 憎いのか悲しいのか寂しいのか、色々と感情が混ざり合って自分にも自分の中にあるものが理解できない。ただ、普段より心臓は早く脈打っているし、筋肉痛とは違うズキズキと疼くような痛みが身の内にあった。

「俺だって、別に……」

 嫌われたいなんて思う筈がない。

 これでも友達との関係は良好であるよう頑張ってきた。小遣いが少なかったり親が厳しかったりしてクラスの友達と話を合わせ難い分だけ、他の誰よりも努力を重ねてきたと思う。

 会話をするときは話題が尽きぬよう気を使ったし、何処かへ遊びに行くときは率先して皆を引っ張った。学校生活でも他の奴が嫌がるような仕事だって自ら進んで引き受けたし、試験前には試験内容について教師が語った話をまとめて渡したりしていた。ノートのコピーも同様だ。

 けれど、それだけじゃあ足りなかったのだろうか。

 まだ自分は皆と同じ位置に立てていないのだろうか。

「……こんなの、全然分らない」

 誰にも聞こえぬよう短く呟いて、その鬱憤を晴らすように丼へかぶりついた。

 食道へ流し込むように米と肉とをかき込む。

 然して美味くない四百二十円の豚丼は、今日に限っては何の味も感じられなかった。気持ちの悪い何かが口から入って喉へ落ちていく感触だけがあった。食事を摂っている気がしなかった。

 涙が出そうだったけれど、危ういところで堪える。

 もしもここで泣いてしまったのなら、きっと、取り返しのつかないことになるだろう。週明けからどんな顔をして学校へ向かえば良いのか。いや、こうして今日に出会ってしまっただけでも辛い。すごく苦しい。

「ぅう……」

 唇をタレにべとつかせ、頬を米と肉で一杯に膨らませながら考える。

 自分は嫌な奴なのだろうか。

 自分は邪魔な奴なのだろうか。

 自分は何の役にも立てない奴なのだろうか。

「…………」

 この三年間は意味の無い時間だったのだろうか。

 その前の六年間も意味の無い時間だったのだろうか。

 そんなの絶対に嫌なのに。

「……畜生」

 別に阪部みたいにクラスのヒーローになれなくても良い。けれど、こんな風に爪弾きにされるような態度を俺は取っていただろうか。いや、そんな筈はないと強く思う。間違いないと精一杯に思う。けど、これだけ思っているのに、今のこれは何だろう。

 さっぱり、分からなかった。

 そして、思考の堂々巡りを繰り返していると丼は瞬く間に嵩を減らしていった。元より食の早い自分である。過去に無い勢いでかき込んだ一杯は数分と経たずに胃の中へと収まっていた。

 どんなに腹が減っていてもここまで早く食べた記憶は無い。

 お腹が痛い。

 けれど、それも我慢だった。

「……うっ」

 気持ちの悪くなるのを必死に押さえて、目の前に注がれた風味の無い冷茶を乱暴に飲み干す。口の中に残った脂っこい感触を無理矢理に飲み込む。そして、コップを卓上に下ろしたその手で伝票を手に取った。

 勿論、すぐに席を立つ。

 脇目に伺うと、阪部達の席には丁度今に品が届いていた。

「…………」

 その姿を最後に一度だけちらり横目に確認する。

 彼等がこちらを嘲笑っているように感じた。

 俺は逃げるように店を後とした。

「くそっ……」

 からからと音を立てて店舗で入り口に備えられた鐘が鳴る。

 そして、あとは脇目も振らず逃げるように家へ帰った。

 まだ三月だと言うに、汗水を垂らしてペダルをこいで全力疾走だった。行きに必要とした時間の半分もかからず自宅まで辿り着いた。過去最高の記録だったけれど、何の感慨も無かった。ただ無心でペダルをこいで、気づいたら家が目の前にあった。そんな感じだった。

 この三年間を世話になった自転車は、愛着を殺して庭に乗り捨てた。

 母親が留守なのを良いことに、玄関の戸を大きな音と共に叩き閉めて自室へと駆け込む。そして、汗を拭うことすら忘れてベッドへと転がり込んだ。ハァハァと息を荒くしながら身体を横たえた。

 こんな自分、一昨日には想像できなかった。

「なんだよ、畜生っ! 畜生ぉっ!」

 身体に熱が篭ったせいか、矛先の定まらない怒りが身の内に溢れていた。

 悔しくて、悲しくて、卑しくて、自分が許せなかった。

 本当はもっと楽しくやっている筈なのに。中学三年の三月という最高に遊べる時期なのに。クラスメイトだって大勢集まって楽しくやっている今なのに。どうして自分だけこんな目に遭わなければならないのか。

 そんなに俺は性格が悪いのだろうか。

 今までの苦労はなんだったのだろうか。

 皆は友達じゃなかったのだろうか。

「…………」

 何もかもが疑わしくて、世界の全てが敵に回ったような錯覚を覚えた。

 いつか本で読んだ記憶がある。中学生という年頃の子供は非常に多感で情緒不安定なのだと言う。下らないことにも一喜一憂して、場合によっては自ら死んでしまう者も、決して少なくないのだと言う。

 ならば、今のこれがそうなのだろうか。

「……分らない、何がどうなってるのかサッパリだ」

 呟いてぼふっと枕へ顔を落とした。

 口や鼻から吐き出された豚丼の嫌な臭いが枕カバーに染みて顔全体にまみれた。

 色々と最悪だった。

「…………」

 それから、しばらくをそうして何をするでもなく身体を横たえていた。

 時計など確認しなかったので明確な時間は分らない。ただ、結構な時間をそうしていたと思えた。一時間は経たずとも数十分は経過したのでなかろうか。少なくとも、延々とうつ伏せていたことで首の周りが痛む程度には続けていた。

 いじけていた。

 そんな俺が身を起こしたのは、傍らより届いた妙な音の為だった。

 ミシリと、何か、非常に良くない音が聞こえた。

「……あ?」

 身体を起こして音の聞こえてきた方へ目を向ける。

 すると、そこにあったのは今日から増えた部屋の置物である。

「あ……」

 なんとなく理解した。

 慌てて立ち上がり棚の上からそいつを退ける。

 すると、彼を支えていた棚の天板は見事に凹んでしまっていた。巨大な宝石塊の底部分には凹凸があって、それが千九百八十円の安物を割っていた。耐久性に乏しい木屑から作られた木板には過ぎた代物であったらしい。

「ったく、どうするんだよこれ……」

 いじけていたかと思えば、今度は慌てる。

 岩の塊を抱いたまま、きょろきょろと部屋を見渡す。すると、割と近いところに週刊誌を幾冊か見つけた。見栄えは悪くなるが背に腹は代えられず、他に手も無いので足先に引き寄せる。

 なんとか棚の上に雑誌を並べて、そこへ再び置物を戻して一件落着だ。

「はぁ……」

 無駄に苦労した気分だった。

 あの少女も大層な代物を送ってくれたものである。金持ちにはどうだか知らないけれど、凡人には過ぎた礼である気がしてならない。気持ちは非常に嬉しくあるけれど、実益を語るとなると話はまた別だった。

「しかし、お礼ねぇ……」

 目の前に鎮座する巨大な宝石を眺めて何気なく呟く。

 思い返されたのは、やはり去り際に見た彼女の絶望に染まる顔である。

「…………」

 そればかりが繰り返し脳裏に浮かぶ。

 何故だろう、どうしても放っておけないのだ。

「……食料庫、だっけ」

 最後に齎された向こう側の問題を思い出す。

 この後、彼女達はどうするのだろうか。大広間で聞いた話ではかなり以前より兵糧攻めにあっているのだと言う。きっと、食料庫が狙われたのもその一環だろう。効果のほどは少女やトカゲ達の様子から良く理解できる。

「…………」

 今頃、彼女達は何をやっているのだろう。

 やはり今後の食い扶持を巡って頭を悩ませているのだろうか。それとも、再び敵に襲われて既に城は渦中にあるのだろうか。何れにしても、自室で考えているだけでは到底答えなど得られない。

「まあ、こうして眺めている分には綺麗、なんだけどな……」

 窓から差し込む陽光を反射して、置物はキラキラと輝いていた。その姿を眺めていると、どうにもジッとしていられなくなる。眩い鏡面反射は少女の艶やかな長い黄金色の髪の毛を想起させる。

「や、やっぱり、貰いっぱなしは良くないよな……」

 別に二度と戻って来れない訳ではないのだ。

 危険を感じたのなら即座に逃げてくれば良いのだ。

「……よし」

 短く呟いて決心を固める。

 それは身の内に篭った嫌な熱を全て吐き出す為に。

 それは今後を気持ち良く過ごす為に。

 俺は再び鏡の世界へ向かわんと、久しく触っていなかった勉強机の引き出しを漁り始める。そして、目的のものが見つかったのは、それから小一時間が経ってからのことであった。

◆ ◇ ◆

「それで兄ちゃん、本当に全部ここに置いちゃってええんかい?」

「ええ、お願いします」

「なんや、自宅で商売でも始めるつもりか?」

「商売とは少し違うけど、まあ……、大凡はそんな感じです」

「その歳で思い切ったことをするもんだねぇ? まあ、こっちとしちゃあ懐が潤って嬉しい限りだけどさ。あぁ、でも、ここで下ろしちゃったらもう返品は勘弁してくれよ? 袋が汚れるし傷つくから」

「はい、その辺は承知してる……ますから」

 俺は目の前の軽トラに乗せられた荷物をしげしげと眺める。会話の相手は車両の持ち主であり、また、乗せてきた荷物の販売主である。自ら買い付けたとは言え、その光景は圧巻だった。

 荷物は一袋三十キロの米袋である。

 それが合計で二十袋だけ荷台に乗せられていた。

 締めて三十万の買い物である。俺が自身の財布から支払った額としては生まれて一番だろう。ちなみに、その財源を確保するに当たっては、小学校入学以来のお年玉や小遣いの積み立てやらで貯めた貯金を全額引き出した。気分は街灯募金に諭吉を与える傷心のリーマンに同じくある。

「分かったよ、そんじゃあ下ろすとするかい。ああ、兄ちゃんも手伝ってくれないか? 流石にこれだけの荷物を一人で下ろすのは骨だ。手伝ってくれたら一袋余分にオマケしてやるから」

「本当ですか?」

「ああ、実はそう頼もうと思って積んできたんだよ」

「そういうことだったら、是非ともお願いします」

「ほんじゃま、儂が荷台から下ろすから、兄ちゃんはそれを運んでくれんかね」

「分かりました。よろしくお願いします」

 軽トラックは道路脇へ庭に接するよう止められている。

 荷台に乗った米屋の親父さんがそれを次々に芝生へと下ろしていく。俺は下ろされた荷袋を片っ端から庭へと並べていった。三十キロの二十袋とはかなりの分量であって、今日ほど自宅の庭をありがたく思ったことはない。荷を持って数歩を歩くだけ済むのは、作業への決意の敷居を数段だけ低くしていた。

 ただ、それでも米袋は重かった。

 少女から貰った宝石の塊とどっこいどっこいと言った具合か。

 作業は黙々と続けられて、三十分ほどで全ての荷物は庭に整列される運びとなった。その頃には俺も米屋の親父さんも汗だくで、額の汗をシャツに拭うので必死だった。今日は汗ばかりかいている。

 そして、支払いを済ませた俺は米屋を見送り、次いで自室上の屋根裏部屋から姿見を庭まで下ろす作業に移った。絶対に鏡面を割らぬよう、細心の注意を払っての作業だった。絶対に鏡面へ触れぬよう全面に布を被せて、その機能を確かめてからの荷下ろしである。米袋を運ぶよりも苦労した。

 鏡は物置の中へ設置して誰にも傍目には家人にも見つからぬよう配慮してある。万が一にも破損しないよう固定も完璧。そして、買い付けたばかりの米袋は掘っ立て小屋の前にして綺麗に整列済みだ。これならテンポ良く運び入れることができるだろう。

「よしっ!」

 午後三時を少し回った頃合、必要なものは庭に全て揃った。

 姿見を潜るに当たって衣類は一緒に向こう側へと飛ばされた。向かう方向は逆だけれど、少女からのお土産もまた同様である。ならば米袋だって同じだろう。そう考えて、俺は目の前に並べた食料の一袋を両手に持つ。

 相手は三十キロなので持ち上げていられるのは僅かな間だ。

 しかし、姿見を抜ける間だけならば十分だろう。

 また、背中には他に用意した雑品を詰め込むリュックが背負われている。全体の重量としてはかなりのものだろう。体重が二倍近くに増えた感覚がある。これが九十キロの世界かと思わず感慨だ。

「行くぞ……」

 プルプルと震える腕に鞭打ちながら、俺はその肩を鏡面へと触れさせた。

 やはり触れる瞬間は緊張するもので身を硬くする。

 すると、例によって強烈な引力に身体を引かれた。瞬く間に視界が暗転。目の前が闇に包まれる。同時に地面が急に消失してしまった風に足元へ浮遊感が訪れる。次いで、自らを囲う大気の気温や湿度が急激に変化した。鏡の世界はこちらの世界より少しだけ気温湿度共に低いみたいだ。

「とっ……」

 やがて、数秒と経たず足裏に固い感触が戻る。それは薄い金属板でできた物置小屋の床とは異なり、自重を力強く支える石床の固く冷たい反発である。前回のように転ばないよう慌ててバランスを取った。

 暗転を挟む視界の変化は貧血にも似ている。熱い湯の溜まった浴槽から勢い良く上がったとき、血流の変化により視界が暗くなる感覚だ。そして、与えられた闇が晴れれたとき、目の前には数刻前に訪れたばかりの一室がたしかに広がっていた。姿見が置かれた部屋に変化は無い。

「よし……」

 二度目の移動は帰宅に同じく立ったまま行えた。

 コツは掴んだような気がする。

 姿見が手の平が痺れるのを感じて、何はともあれ両手に抱えていた袋をどさりと床へ置いた。部屋には誰も居なかった。流石に数時間が経っているので、少女も場所を移したのだろう。

 では、猿人はどうだろうか。

「すみませーん」

 隣の医務室へ続く扉を軽くノックする。

 すると、なんじゃぁ? という耳に新しい声と共に近づいてくる足音があった。大人しくそれを待っていると、やがて向こうから扉は開かれて、白衣を着た猿の化け物が顔を覗かせたのだった。

「おぉ? おぬしは先刻の人間ではないか?」

「あ、ああ、そうだよ……ですよ」

 至近距離で眺めるその姿は、やはり、すぐには慣れないものである。

 思わず一歩を後ずさりそうになった。

「なんじゃ、どうしたんじゃ? まさか忘れ物でもしたかの?」

「いや、そういう訳じゃなくて、ほら、あの子にお土産を貰ったままこっちは何も返せなかったから、代わりの物を持ってきたんですよ。そう大したものじゃないけど、良かったら呼んできて貰えませんか?」

「そっちの世界の土産とな?」

「ほら、食料庫が焼かれたとか何とか、そんな話を聞いたから……」

「というと、食べ物かのぉ?」

 俺が言うと猿人は興味を引かれたのか話に食い付いてきた。

「大したものじゃないけど、そっちの不足分の足しになれば良いと思って」

「ふむ……」

「ああ、忙しいようだったら勝手に置いて行くけど、それでもいい?」

「いや、分かった。しばしここで待っているが良いぞ」

「呼んできてくれますか?」

「約束はできんが、とりあえず、姫様に話だけはとおしてみよう」

「よかった。どうもありがとうございます」

 化け物トカゲと違って猿人は割と話の分かる相手のようだった。そう長くない考慮の後に彼は頷く。そして、絶対にこの部屋から出るでないぞと念を押して、医務室より何処かへ向かっていった。

 それから一人、姿見の部屋で待つこと十数分。

 やっぱり忙しそうだし無理だったかなと諦め始めた頃合になって、今度は逆に医務室の側から扉がコンコンと叩かれた。はーい、と言葉を返せば、すぐに扉は開かれる。ともすれば、そこにはトカゲと猿人を伴う先の少女があった。

「あ、どうも、忙しいところを何度もごめ……すみません」

「自分の世界に帰ったのではなかったのですか?」

「いや、まあ、帰ったには帰ったんですけど、お土産のお返しとかしたほうがいいかなって思って、これ、大したものじゃないけど貰ってくれませんか?」

 そうして自分の隣に置いた大きな米袋を指差す。

「……それは何ですか?」

「俺の世界の主食です。米って言うんだけど」

「米? それはこちらの世界の人間が言う米と同じものですか?」

「え、えっと……、これくらいの小さな粒上の穀物で、水で煮て柔らかくして食べるんですが、こっちの世界の米ってどんなものですか?」

 と言うか、先刻のダイヤもそうだったけれど、全く同じ響きの単語があることに驚きを隠せない昨今である。そもそも何故に世界すら異なる化け物達と言葉を交わすことができるのか。いつか明らかとしたい疑問である。

「なるほど、ならば同様の品だと考えて良さそうですね」

「そ、そうですか。こっちにも同じものがあって良かった」

 リュックの中身は必要無さそうだ。

「ですが、それを運ぶ為にまたわざわざやって来たのですか?」

「え、ええ、まあ、帰り際に食料庫が燃やされたとか物騒な話を聞いたんで、少しでも足しになればと思って持ってきたんですけど、邪魔だったですか?」

「いえ、決してそんなことはありません。袋の中を見ても良いですか?」

「あ、どうぞどうぞ」

 少女が米袋へと歩み寄る。

 護衛だろうトカゲも一緒に寄ってくる。

 ついでに猿人も気になるのか付いて来た。

 三十キロ用のそれは一般的なスーパーで市販されている米のそれとは異なり、厚手の紙袋で作られている。その口の部分を縛る堅牢な紙紐を解いて、俺は彼女達の目に触れるよう中身を晒して見せた。

「どうですか?」

 クパァと広げた先にある白い粒々を少女の前に向ける。

「はい、たしかに米ですね」

「混じり物がないとは、なかなか綺麗な米ですね、姫様」

「ええ、私もそう思います」

 それを前にして少女とトカゲは軽く所感を交わしてみせる。

「こんな具合なんですけど、これ、食べて貰えますか?」

「はい、その心遣いうれしく思います」

 少女が米袋から俺に向き直る。

 その表情はこちらを後としたときよりだいぶマシになって思えた。

「貴方の言葉通り、城の食料庫は人間の手によって焼かれてしまいました。加えて、街の周囲は人間に囲まれており、満足に作物を育てることすら叶いません。ですから、こうして食料を頂けるのは非常に嬉しいです」

「そ、そうですか、やはり大変な状況なんですね……」

「ええ、ですから、貴方もこれ以上は無闇にこちらの世界へやってくるのは止めた方が良いです。城の者は誰も気が立っています。人間である貴方を見たのなら、多くは問答無用で襲い掛かってくるでしょう」

「ま、マジですか!?」

「事情を知っている者は極僅かです。ですから、不用意に立ち入らないほうが良いと私は思います。好意でやって来てくれた貴方にこう言うのは失礼かもしれませんが、その身を大事に思うなら、これ以上はこちらに出入りしないほうが良いかと……」

「な、なるほど……」

 真剣な表情で語る少女の言葉を前に、これは出過ぎた真似だったろうかと肩身が狭くなる。もしかしたら、自分が友人達に嫌われた理由も、こういった勝手な好意の押し付けが原因だったのではなかろうか。そんな風に思った。

「善意でやって来てくれた貴方には感謝します。ただ、姿見にしても必ず人目に触れない場所に置かれているとは限りませんから、これ以上の行き来は止めた方が良いと私は思います」

「……そうですか」

「人間、お前の我々に対する思いは私も非常に良いものだと感じている。姫様もお前の身を気遣り仰っているのだ。それを理解できるのならば、これ以降は無闇にこちらへ足を踏み入れるでない」

「わ、分かりました。そうさせて貰います」

 少し悲しくなったけれど、この身の安全には代えられない。

 大人しく従って首を縦に振った。

「それじゃあ、せめて向こうに用意した分だけでも受け取ってもらえませんか? 勢いに任せて準備してしまったので、自分一人では処理しきれない量が残っているんですよ。これ以上は迷惑を掛けませんから」

「ん? まだあるのか?」

「ええ、これと同じのがあと二十袋ほど……」

 米屋へ足を運んだ際の勢いは少女達の話を聞いて急激に萎えた。

 トカゲの問いに意気消沈しつつ庭に並んだ米袋の数を返す。

 まさかあのまま庭に放置する訳にもいかない。母親が帰ってきたらまず間違いなく問題になるだろう。そして、貯金の全てを使い果たしたと答えたのならば、今晩は家から締め出されてもおかしくない。父親には拳骨を喰らうだろう。だから、なんとしても家族に見つかる前に処理しなければならない。

 さて、少女達が頷いてくれなかったらどうしよう。

 そんな風に考えていると、かなり驚いた様子でトカゲが問い返してきた。

「に、二十袋もあるのか?」

「さっき、この町には数千人が住んでいると聞いたんで、持ち金の限り買い込んできたんですよ。それでも大した足しにはならないかも知れないけど、せめて町の人達の一食分の食事くらいにはなりませんか?」

 三十キロの米袋が二一袋あるので、仮に人口が五千人であったならば、一人頭百二十六グラムだけ分配できる。米屋の専門用語では一号弱といったところだ。化け物達が一度に食べる分量がどの程度かは知らない。けれど、まあ、多少の助けにはなるのでないかと考えた次第である。

「やっぱり、それじゃあ腹の足しにもならないですか?」

 図体のデカイ化け物を思うと、やはり、意味のない行いだったろうか。

 ダイヤのお礼にしてはちっぽけな感が否めない。

 けれど、高校入学を来年度に迎える自分にとっては精一杯の仕事だった。と言うか、勢い任せに買い付けてしまったけれど、貯金を全て失ってしまって、親にはなんと言い訳をすれば良いのか。赤い羽根募金に参加したとでも語っておこうか。

「こ、これと同じ量をあと二十も、たった数刻で用意したのですか?」

「本当はもう少し用意したかったんですけど、これ以上はお金がなくて無理でした」

 少し申し訳ない気分になって、はははと軽く笑みを返す。

 けれど、そんな俺に少女達は愛想笑いすら浮べてくれずに、ただ、何やら驚いた様子でこちらを見つめているだけだった。もしかして、また何か自分は地雷を踏んでしまったのだろうか。昨晩からの情緒不安定も手伝って、とても危うい気分になる。

「おぬし、もしかしてかなりの金持ちか?」

「え?」

 不意に猿人が問い掛けてきた。

「これだけの米を、この僅かな時間で用意するとは大したものじゃ」

「いや、別に俺の家は大して裕福でもないですよ」

「本当かぇ?」

「え、ええ、むしろ中流階級より少し下のほうにあって、母親なんかは俺にかかる学費やら、住宅のローンやらで毎日色々と苦労してる感じです。簡単に言うと平民って言葉がしっくりくると思うけど……」

「と言うと、なんじゃ、まさか、おぬしの世界では誰もがそれだけの米を容易に用意できるのか? それもこの短時間で」

「流石に二十袋も一度に買うような奴は滅多にいないけど、ある程度の蓄えさえ払えば用意する分には問題ないと思うよ。これで大体、一般的な人間の稼ぎの一ヵ月と半分くらいの額だから……ですから」

 猿人の問いに父親の月給を思い起こしつつ答える。

「なんと……」

 すると、少女達は何やら大層驚いた様子で声を上げるのだった。

「そ、それは凄い世界ですね……」

「平民の子供の手で、これだけの米を用意できる世界があるのかっ!?」

 三者ともグッとこちらを食い入るように見つめてくる。

「ま、まあ、ある程度の蓄えがある子供なら……」

 頭上より見下ろしてくるギョロリとしたトカゲの瞳、皺深く厳つい猿の顔、化け物達から目一杯に見つめられて、思わず返す言葉に詰まった。足は知らず一歩後ろへと退いている。少女に限っては可愛らしく思えるが、それも他の二つのせいでプラスマイナスゼロといった具合だ。

「だから、その、持って来てもいいですか? 庭に放置したままなんで、親の目に見つかる前に場所を移したいんですよ。勝手にやったことだから、このまま放っておくと叱られてしまうというか、何というか……」

 たじたじと身を引きながら語らなくても良いことまで語ってしまう。すると、こちらの心中が伝わったのか、少女とトカゲ、それに猿人はこちらから一歩を退くと、互いに向き合って何やら小さく頷きあう。

「姫様、これは……」

「はい、きっと私も同じことを考えています」

「これはチャンスだと思いますぞ」

 語らずとも意思の疎通が叶うのだろうか。

「あ、あの……」

 どうにも置いてきぼりが過ぎる自分の身の上が悲しくて恐る恐る声を掛ける。

 すると、再びこちらを向き直った少女が今までとは多少だけ声調を変えて語りかけてきた。その眼差しは随分と真剣なものだ。思わず、彼等の意図を知らぬこちらまで背筋を糺してしまうほどである。

「人間、貴方にお願いがあります」

 な、なんですか?

 そう答えた俺に彼女達は奇想天外な話を持ちかけてきた。

◆ ◇ ◆

 少女の願いとは言葉にすれば至って単純なものだった。

 姿見を挟んで俺の世界から食料を買い付けて欲しいのだと言う。

「な、なるほど……」

 答える俺の前には姿見の向こうから運び込んだ米袋がずらりと並んでいる。こちらからの強い願いもあって、早々に庭の荷物を運び込ませて貰ったのだ。その全てに中身がちゃんと入っていることは、既に彼女達全員に確認して貰った。そして、ともすれば彼女の願いはより強固なものとなった。

 ちなみに、残る米袋に関しては、物は試しにと全てを縄で数珠繋ぎにして、それを片手に鏡面へ触れることで運び入れた。どうやら直接に自分が持ち上げていなくても、それとなく持っている状況下にあれば一緒にやって来てくれるらしい。不思議なものである。

「勿論、宝庫より十分な謝礼はします。だから、どうかお願いできませんか?」

 そうして語る少女の眼差しは必死だった。

 可愛らしい彼女の切実な瞳に見つめられては、まさか嫌だとは嘘でも言えまい。

「そ、それなら、まあ、自分に叶うかぎりなら喜んで手伝う……います」

「本当ですかっ!?」

 割と表情の変化に薄い少女の顔にパァと華が咲いた。

「ただ、なんというか、先立つものが乏しいので、その辺をどうにかしないと……」

「それは当然、我々が用意します」

「でも、こっちの世界ってお金とか違わなくないですか?」

「人間、貴方の世界では金や銀、プラチナは希少価値がありますか?」

「あー、うん、銀は微妙だけど金とプラチナはそれなりの値段で売れると思う」

「それは食料と比べてどの程度の価値がありますか?」

「それは、どうだろう……。金の延べ棒が一本三百万とか聞いた話があるから、えっと、純度にもよるだろうけど、これくらいの金があれば、ここに並んだ米をあと十回くらい運び込めるんじゃないかな。多分」

 以前にテレビの鑑定番組で見た金塊を両手で描きつつ答える。

「すると、そちらの世界では随分と金の価値が高いようですね」

「そ、そうなの?」

「ええ、こちらの世界の二倍から三倍くらいです」

「なるほど」

「食料を買い付けて貰えるなら、こちらからお渡しする金の半分は貴方の手に残して貰って構いません。ですから、しばらくの間だけでも食料を恵んで貰えませんか? よろしくお願いします」

 そうして、少女は深々と頭を下げるのだった。

「人間、私からもどうか頼む。このとおりだ」

「儂からもじゃ、どうか姫様の頼みを聞いてくれんかの」

 彼女の傍らに立ち並ぶトカゲと猿人も同様である。

 そして、そこまで強く願われてしまっては断れない。

 どうせ今は中学三年の三月、受験も終えて時間ばかりが有り余っている。加えて、一緒に遊ぶ友達も一人としていない。それならば人助けに、いや、化け物助けに一肌脱ぐのも吝かでない。というか、ここまで関わってしまっては無碍にするなど絶対にできない。

「そういうことだったら、できる限り協力する……します」

「本当ですか?」

「ええ、向こうに居ても他にやることもないし」

「人間、貴方に感謝します」

 一度顔を上げた少女が再び頭を下げて、更に深々と礼をくれた。

 長い金髪がゆらり揺れて、形の良い旋毛が露となる。

 そんな彼女の姿を眺めていると、なんだか、もの凄くむず痒い気分になった。

 ここまで強く他者から意識を向けられた経験など過去になかった。いや、割と近い位置にある家族からは、それ相応のものを貰っているかもしれない。けれど、一歩でも家を出たのなら、誰も彼もは俺など然して意識などしてくれない。

 そう、今にして思えば教室でも、自分はかなり空気に近い立場にあった気がする。

「あ、でも、少しだけ問題があるかも……」

 少し現実的な目で眺めて、少女の提案に幾つか面倒を見つける。

「なんでしょうか?」

「流石にそれだけの荷物を一人で運ぶのは大変かなぁ、とか」

 ここにある米袋にしても、トラックから荷を降ろし、次いで数メートルを運ぶ作業に三十分強を必要とした。同じような繰り返しを考えたのなら、それはかなり時間を食う作業だろう。

「それでしたら、こちらの世界からオーガを数名共に向けましょう」

「お、オーガ?」

「はい、貴方も医務室で一度は見ていると思うのですが」

「それって、まさか、あの筋骨隆々の妙に大きな彼を指してるんですか?」

「多分、その理解で間違っていないと思います」

 脳裏に思い浮かんだのは身長五メートル近い大男の姿である。まさか、あのような化け物を共に連れて行ったのでは、食料を買い込むどころの話でない。人目につくや否や警察を呼ばれてしまうだろう。

「ま、待ってください。それだけは駄目です」

「何故ですか?」

「こっちの世界には彼みたいな巨大なのはいないんですよ。だから、手伝い云々の前に大変な騒ぎになっちゃいますから。下手をすれば国に連れて行かれて戻ってこれなくなりますよ」

「……そちらの世界に、オーガは存在しないのですか?」

「オーガっていうか、貴方みたいな角の生えた女性も、そちらの鱗の生えた兵士さんみたいな方も居ません。いや、そもそも、地上をこうして二足歩行で歩き回ってるのは人間くらいなものです」

「……人間しかいないのですか?」

「厳密には違うかもしれないけど、まあ、そう認識して貰って間違いないと思います」

「なるほど、それはまた、とても変った世界ですね」

「俺からするとこちらの世界の方が激しく変って思えますけど……」

「そうですか?」

「え、ええ……。まあ、お互い様だと思います」

 都合数時間だけ顔を合わせた仲だけれど、依然としてトカゲ顔や猿顔は馴染まない。例のオーガとやらに至っては、叶うなら二度とお会いしたくない。この世界の人間はこんな化け物を相手によく戦争など決意したものだ。しかも、その原因は人間と彼等との一方的な奴隷関係にあるのだと言うから驚きだ。開いた口が塞がらない。むしろ逆の方が自然な気がする。どうやったら、こんな魑魅魍魎達を鎖に繋いでおくことができるのか。この世界の人間は俺の世界の人間とは性能が違うのだろうか。

「しかし、そうなると下手に手伝いを共にすることは難しいですね」

「せめて、こう、もう少し人の姿に近ければ言い訳もできるんですけど」

「人に近い姿ですか……」

「姫様、それでしたらエルフ達に頼んでみては如何でしょうか? 力仕事を任せるには聊か頼りありませんが、人間と比較してはよほど丈夫にできています。それに外見も多少耳が長い程度です」

「なるほど、エルフですか」

「たしかに彼等の人間嫌いを思うと難しいかもしれません。ですが、姫様の願いならば決して無碍にはできないでしょう。それに事情は彼等の明日にも関わるのですから、きっと頷いてくれる筈です」

「……そうですね、頼んでみることとしましょう」

「エルフ?」

「ええ、あとで適当な者を呼び出しておきます。それを貴方に確認して貰って、叶うようでしたら手伝いとしてください。城内に居る者で、できる限り人間に姿形の近い者を探してみます」

「そういうことだったら、まあ、良く分からないけどお願いします」

「いえ、こちらから頼み込んだのですから、願われるまでもなく当然です」

 そうして語る少女は、今までも強く感じていたのだけれど、決して外見や年齢に相応の人格とは思えなかった。これも一国を預かる姫様としての素養だろうか。先刻こそ頼りなくも感じたけれど、今は非常に凛々しく思える。

「ところで、その、この後って自分はどうすればいいですか?」

 とりあえず当面の目的は達成した訳だが。

「時間の方は大丈夫ですか?」

「あ、はい、どうだろ、ちょっと待って……」

「はい」

 今更ながら時刻が気になり、ズボンのポケットから携帯電話を取り出す。二つ折りの筐体をパチンと開けば、ディスプレイには午後四時半との表示がなされていた。思っていたよりも時間が経っていた。

 とは言え、夕食まではあと二、三時間ほど余裕がある。

「あと少しくらいなら付き合えますけど、他に何か用とかありますか?」

「それでしたら、必要となる費用の受け渡しや、買い付けて貰いたい食料の細かな説明をしたいのですが構いませんか? 流石に口頭で伝えるには難しい話だと思いますので、詳細を書きとめようかと」

「ああ、そういうことなら全然大丈夫だよ……ですよ」

「では、私と一緒に来てくれませんか? 城の者のにも貴方を紹介したいです。その姿は人間そのものですから、間違っても我々の身内に貴方が撃たれるような事態は防がねばなりません」

「そ、それはたしかに重要ですね」

 俺も化け物に襲われて死ぬなどごめんである。

「大広間での出来事を見ていた者達は大勢いますから、そこまで困難を極めるとは思いません。ですから、どうか肩の力を抜いて接してやって下さい。多くは初めて見る姿かと思いますが、誰も根は良い者達です」

「分かりました」

「それではこちらです、どうぞ」

「あ、はい」

「ラヴド、万が一に備えて、貴方はしっかりと彼を守ってください」

「はっ、心得ております」

 そんな具合に俺は夕食までの時間を彼女の城で過ごすこととなった。

 彼女やトカゲ、猿人は一緒に食卓を囲ってはどうかと持ちかけてきたけれど、その辺りは家庭の事情で無理だと断らせて貰った。門限を守らないと小遣いを減らされてしまうのだから仕方がない。

◆ ◇ ◆

 翌日、俺は鏡の世界から少女より助力を得ることに成功した。

 こちらの手伝いに回ってくれたのはエルフを名乗る女性二人だった。どちらもまだ十代前半を思わせる風貌の持ち主だ。何故に力仕事を前提として若い女性なのかと言えば、男性は兵役についており人手が足りなかったのだと言う。ちなみに、二人とも妙に可愛い。

「これは、ここで良いのですか?」

「そう、しっかりと倒れないように固定して欲しい」

「はい、分かりました」

「ところで、君達に一つ頼みがあるんだけど、どっちでもいいから、一人、ここで姿見を見張っていて貰えないかな? もし万が一にもこれに何かあると、君達も向こう側に帰れなくなくなるし」

「では、私がその任に就かせて頂きます」

「それでは私が貴方と共に食料の買出しに向かわせて頂きます」

「あ、ああ、よろしく頼む……みます」

 そんなこんなで物置に仕舞ってあった姿見を庭先に置いて、今から食料の買出しへ向かおうという魂胆であった。ああ、ついでに少女から貰った金塊も日本円に換金しなければならない。

「じゃあ、早速、出発ということで」

「はい」

 少女の片割れ、銀髪ロングの彼女を連れて家を後とする。もう一人の金髪ショートな彼女は留守番である。二人を預かった身の上として、姿見は必ずや守らなければならないのだ。店舗から自宅まではトラックで運んで貰う予定なので、彼女達の役割としては、荷下ろしに付き合って貰えさえすれば他はどうでも良かった。

 一人を共にしたのは二人からの強い意見である。俺が誰も見ていないのを良いことに不正をするのではないか。そんな風に疑っているらしい。まあ、鏡の世界での人間達の所業を思えば仕方ないことかもしれない。なんでもエルフは見た目綺麗な者が多いそうで、男女問わず多く人間に囚われて、色々と良くない仕事に使われているのだと言う。あちらの世界でも人間の性欲は大したものだった。

「あ、こっちだから」

「はい」

 家の門を後として、住宅街を二人並んで淡々と歩む。

 向かう先は近所の商店街である。そこなら質屋もあるし、米屋から八百屋、肉屋、魚屋と一通りが揃っている。また、大手チェーンでは頼めない配送も行ってくれる。距離も歩いて向かえるだけあって非常に都合が良い。

「…………」

「…………」

   時刻は午前十時を多少回った頃合だ。

 良い具合に日も昇って、動き始めるには具合の良い気候である。

 ただ、幾ら気候に優れても周囲を取り巻く空気はあまり良いものでない。共通の話題もなく、また、彼女達エルフは特に人間を毛嫌いしているという理由あって、出会って今まで交わした会話は非常に少ない。初めて少女から紹介を受けたときは露骨に顔を顰められた。今でこそ俺のことを貴方とは呼んではいるが、それも全ては一国のお姫様である少女から、この人間の言うことをちゃんと聞くように、と重ねて申し付けられているからに他ならない。

 まあ、とは言え、自分にとっては貴重な作業員なので我慢である。

「…………」

「…………」

 片道一キロ半の距離を何を語るでもなく歩む。

 時間にすると三十分弱の散歩となるだろう。

 かなり可愛らしい彼女だから、一緒に歩いていることに聊か緊張する。けれど、そんな淡い優越の感情も、その顔に張り付いた硬い表情を眺めると萎える。なんだか、テレビドラマに見る古風な軍人でも相手にしている気分だった。

 キョロキョロと周囲の様子を伺っているのは物珍しさからか。

 そんな彼女を逆に俺は眺めてあれやこれやと勝手な想像を膨らませた。

 それからしばらく、アスファルトに固められた路上を歩んでいると、遂に我慢が限界に達したのか不意に声を掛けられた。一体、彼女は何を尋ねてくるのだろうと少しだけ緊張する。

「あの、少し話をしても良いですか?」

「何?」

「人間、例えば貴方は私達があの姿見を通して、こちらの世界へ攻めてくるとは考えていないのですか? そうなれば食料の不足や戦に苦労することもない。聞いた話、こちらの世界では魔法が存在しないと聞きました」

「あ、あぁ……。そういう方法もあるのか」

 彼女に言われてなるほどと思った。

 同時に、よりによってそんな物騒な提案をされるとは思わなかった。

「貴方を鍵として使えば、時間はかかるだろうが同胞を運ぶのも不可能ではない。そして、私達は貴方の語る飢えのない豊かな土地を手に入れることができるだろう。にも拘らず、その危険性を無視して何故に我々に手を貸す?」

「い、いや、でも、それはそれで難しいと思うけどなぁ……」

「魔法を使えぬ人間が我々に勝るとでも言うのか? いくら数が多くとも魔法が使えなければ勝機などありえない。今この場でお前を縛り上げて、こちらの世界を侵略することだって不可能ではない」

「それはそうかもしれないけど、でも、なんていうか、ほら、君達は人間の大砲とか鉄砲とか、そういうのにも随分と苦労してるんだよね? 昨日、お姫様がそんな話をしていたと思うんだけど」

「ああ、だがそれがどうした? そんなもの空を飛べる者がいれば問題ない」

 いつの間にか敬語が消えていた。

 よっぽど人間が嫌いなのだろう。語る言葉の端々にも悪意と害意が滲み出て感じられた。そして、少女やトカゲが至って普通に接してくれていた為に、今更ながら彼女達化け物が牙を剥いた場合を想像して恐ろしく思った。

「魔法を使えない人間を殺すなど、赤子の手を捻るようなものだ」

 キッと挑むような視線を向けられた。

「そ、そりゃ、たしかに昔はそんな風に上からの力押しが罷り通ったみたいだけど、今の世だとそう簡単にはいかないらしいよ。君達の言う空を飛べる者ってのがどれだけ凄いのか俺は全然知らないけど」

「ほぉ、何故そう言える?」

「俺も良く知らないけど、こっちだと大砲が凄い進歩してて、最近は大陸を跨いで飛んで来るんだよ。しかも照準は凄く正確で、誤差も数メートルっていう気狂い染みた精度っていう……」

「た、大陸だと?」

「しかも一発で街一つが蒸発する威力らしい。そんなのがあちらこちらに転がってるから、あんまりこっちの世界に野心を抱かない方がいいよ。空を飛んでる大砲の弾を打ち落とす大砲とか、そんなのもあるらしいし」

 いつかテレビで見たミサイルを思い起こす。

「……それは嘘で私を脅しているのか?」

「い、いや、別にそんなつもりじゃないよ。第一、実際のところ俺は魔法とか全然分らないから、やってみないと分らないと思う。けど、それをしても双方共に幸せな結果にはならないと思うから、止めた方がいいと思うよ」

「…………」

 オークとか、トカゲとか、あんな化け物に襲われるのはごめんである。

「他にも、例えば君達の街を囲っている人間の軍は十万を超える大所帯だとと聞いているけど、こっちの世界だと人口十万を超える街なんてそこらじゅうにあるし、世界全体だと百億人以上の人間が住んでるらしいよ。この国だけでも一億人数千万はいるし」

「なっ……」

 加えて言うなら、この場で反旗を翻されても非常に困る。

 トラックから荷を降ろす手伝いが居なくなってしまう。

「それに人間だって道具を使って空を飛ぶもの。それも最近は君達の言う鉄砲の弾と同じくらいの速さで飛ぶらしいから、幾ら空を飛べる何かがそっちの世界にいても、容易に打倒できるとは思えないよ」

「な、なんだと? 嘘を並べるのもいい加減にしろっ!」

「いや、本当だよ」

「っ……」

「戦争になると被害は甚大って歴史の教科書にも書いてあったよ。爆弾一つ落として一度に数十万人が死んだとか、百万人以上が怪我を負ったとか。正直、俺には実感の沸かない世界だけど」

 この国も昔はそんな騒ぎの只中にあったというのだから、歴史とは、世の中とは不思議なものだろう。今の平和な時分に生まれて心の底から良かったと思える。少なくとも鏡の世界に生まれなくて助かった。

「……そんな、人間如きが、まさか」

「できれば、今の話は他の人達にも伝えておいて貰えない? 君みたいに考えるのが当然の社会だと思うから。ほら、君以外は誰もこっちの世界を見たことがないし、今みたいな話だって何も知らないし」

 変に企みを持たれて、その犠牲になどになりたくない。

「わ、我々は人ではない。訂正しろっ!」

「え、あ、ああ、エルフだった、ごめん」

 何気無い一言への鋭い突っ込みに小さく頭を下げながら歩みを進める。

 謝罪から顔を上げると、何やら彼女は顔を下げてしまっていた。自分が鏡の世界へ足を踏み入れたときと同様に激しい文化差を感じているのだろう。考えてみれば彼女がこちらの世界へ来た第一号なのである。立場的には自分と全く同じだ。

「…………」

「…………」

 それからしばらくを無言で歩いた。

 道行く人々は彼女の美貌に引かれてちらりちらりと頻繁に視線を寄越して思える。一人一人は一度や二度でも、それが重なれば結構な数だろう。そんな可愛らしい女性と共に歩いているから、やはり、どうにも居心地が悪かった。

 やがて、目的地たる商店街へ辿り着く。

 ただ、その商店街というのが実は結構なシャッター街であって、最近は人の姿も少ない。だからこそ営業時間内でも自宅配送等のサービスを受けられるのだけれど、休日だというに人も少なく閑散としている。

「ここで買うのか?」

「そう、一応そのつもり」

 短く問われて頷く。

 果たして彼女の目にはどんな風に映っているのだろう。

 まあ、考えても仕方がないことだ。さっさと買い物を終わらせて家に帰るとしよう。一人置いてきた彼女の相方のことも気になる。今し方に語られたのと同じような策を巡らされては敵わない。

「とりあえず質屋に入って君等の主人から貰った金を日本円に代えるから」

「……分かった、お前に任せる」

 彼女の了承を得て商店街を歩む。

 幾ら寂れた商店街とはいえ、それまで歩いてきた道路と比較すれば人通りは多い。誰も彼もが連れの綺麗な容貌に注目しているのは明らかだった。やはりこの国で銀髪白人というのは人目を引く。それに関して本人が気分を害していなければ良いが、下手に尋ねて機嫌を損ねるのも嫌だ。仕方なく黙々と歩くことに専念した。

 質屋らしい店舗の存在は以前から知っていたけれど利用するのは今日が初めてだ。その見せ前で立ち止まり、肩掛け鞄に突っ込んである金塊を今一度だけ確認。多少緊張した面持ちで自動ドアを抜けた。

 いらっしゃいませーという掛け声と共にカウンター奥に控えた丸眼鏡の男性がこちらへと顔を向けた。自然とエルフを視界に納めて、その顔が多少の驚きに染まる。今朝に彼女と初めて会った自分もまた、同様の顔をしたのだろうか。そう考えると少し恥ずかしい気分になる。

「いらっしゃいませ」

「すみません、金って売れますか?」

 エルフさんには斜め後ろに控えて貰い交渉を始める。

「き、金ですか?」

「ええ、これをお願いしたいんですけど……」

 そう語りながら鞄より金の延べ棒を取り出した。かなり重かったので、それらを全てカウンターの上に並べ終えると、開放感から文字通り肩の荷が下りて身体が軽くなるのを感じた。

 対して、こちらが僅かながら清々しい気分を得たのとは対照的に、店員は随分と驚いた様子で俺が差し出した金塊を前に目を白黒させていた。口をパクパクと開き閉じしながら、何やらカウンターの上と俺の顔とを交互に見比べている。

「これなんですが、幾らくらいになりますか?」

「い、いや、お客さん、これどうしたんですか……」

「知り合いからの貰い物なんですが、お金に代えたくて……」

「貰い物って、そんな、これだけの金を学生さんがですか?」

「え?」

「えぇと、もしかして、そちらの方が持ち主ですか? お客さん、他所の国の方ですよね?」

 驚愕から一変、今度は店員の顔に戸惑いの色が浮べられる。

「いや、彼女には買い物に付き合って貰ってるだけですけど」

「っていうと、君の名義でこれを売りたいと?」

「そうなんですけど……、もしかして駄目ですか?」

「そりゃあ、君、幾らなんでもこんな怪しいもの買い取れないよ。だって君、学生さんだろう? 歳は幾つなんだい? というか、これって本物の金なのかい? まさか悪戯じゃないだろうね?」

「い、いえ、本物の金ですよ」

「しかし、幾らなんでも保護者の同意なしにこんなものを買いとる訳にはいかんよ」

「えっ、そうなんですか?」

 店員の言葉にショックを受ける。

 そういえば以前にも古本屋で本を売るに際して保護者の印を求められたことがあった。冷静に考えてみれば当然と言えば当然だ。自分みたいな子供がこれだけの金を持ち歩いていること自体おかしい。おいそれと手を出せる筈がない。常識的に考えれば偽物か、若しくは盗品だと考えるのが普通だ。

「何処の誰から貰ったのか、せめてそれくらいは教えてくれないと無理だよ。その上でお母さんなりお父さんなりを連れてきて欲しいね。じゃないとうちじゃあ怖くて手が出せないから」

「え、えっと、学生証とかならありますけど……」

「いや、駄目だよ、そんなもんでポンと数百万を渡せる訳ないだろう」

 まさか、この段階で躓くとは思わなかった。

 カウンターの先を眺めて思わず呆然としてしまう。

「おい、妙なことをしているが、どうかしたのか?」

 そんな俺の変化に気づいたのだろう。後ろに控えていた彼女が語りかけてきた。

「あ、ああ、いや、保護者がいないと買い取って貰えないらしい」

「保護者?」

「こっちの世界じゃあ、自分みたいな子供がこれだけの金を持ち運ぶなんて現実的じゃないんだよ。だから、それを怪しんでこれを偽物とか、盗品とかと考えてるみたいなんだ」

「なるほど、たしかに商売人としてそれは当然だろうな」

「どうしよう、これじゃあ何処へ行っても換金なんてできない」

「ふん、所詮はお前も人間か。随分と読みの甘い行動だったな」

「いや、だって、質屋なんて利用した経験なかったし……」

 彼女にまで強く言われて思わず凹んだ。

「ふむ……」

 これでは少女との約束を果せない。まさか金で食料を買い付ける訳にはいかない。他に質屋や貴金属店は幾らかあるけれど、他所を回っても然して変らぬ対応を受けることは目に見えている。

「どうしよう……」

「お客さん、そういう訳だから、とりあえずこれは持って帰って貰えないかい?」

「あ、は、はい……」

 とどめばかりに店員から金塊を押し返された。

 仕方ない、下手に粘って警察に通報されては叶わない。ことが両親にばれたら面倒だし、万が一にも姿見の異常性に気づかれてしまっては、事態はとんでもない大事となってしまう。それこそ何がやって来るが分らない。

「……分かりました」

 渋々と金の延べ棒に手をかける。

 そんなとき、傍らのエルフが口を開いた。

「おい、確認するがこちらの世界の人間は魔法が全く使えないのだな?」

「え? あ、あぁ、それは間違いないよ」

「ならば、私が幻術をかけて無理矢理に金を買い取らせることができる」

「ま、魔法?」

「勿論、金を渡さずに有り金全てを奪い取ることも可能だが、どうする?」

「ちょ、ちょっと待って、ここでそういうことを言っちゃ駄目だってっ!」

「っ……」

 慌てて彼女の口元を押さえて下がらせる。

 恐る恐る後ろを振り返ると、そこにはこちらを訝しげに眺める店員の姿があった。その手はカウンターの影に置かれているけれど、まさか、警察へ連絡など入れられていなかろうなと背筋に嫌な汗が垂れた。

「っこの、貴様っ! いきなり何をするっ!」

 俺の手を払いのけて彼女が吼えた。

「と、当然だろっ!? そんなことを店員の前で口にしたら警察呼ばれるだろっ!?」

「なんだと? この世界の人間は我々の言葉が理解できるのかっ!?」

「はぁ? 言葉も何もアンタは普通に日本語を喋ってるでしょうにっ!」

「日本語だとっ!? そんなものを誰が喋っているものか! 姫様の膝元に集まった我々の公用語は、いつだって由緒正しき古代竜の言語だ。そんな訳の分らない人間の言葉など話すものかっ!」

「だ、だって今もこうして俺と話をしてるじゃないかっ!」

「それはお前が同じ言語を話しているからに決まってるだろうがっ!」

「はぁ!? 俺は生まれてから死ぬまで日本語しか話さないって決めてるんだよっ! これの何処が古竜語だよ? 誰が聞いたって立派な日本語だろうっ!? 嘘つくんじゃないよっ!」

 訳の分らないことをのたまう彼女に思い切り反論する。

 すると、そんな俺の語りに背後から声が掛かる。

「ちょっと、お客さん。もしかして病院から抜け出してきた性質かい? こう言っちゃ失礼だが、騒ぎを起こすなら他所でやってくれないか。こっちも警察なんて呼びたくないが、面倒事を起こすなら遠慮しないよ?」

「え、あ、そ、そんなことしません。すみません。すぐに出て行きますっ!」

 頭を下げて慌てて鞄へ金の延べ棒を収め始める。

 相手もかなりこちらを怪しんでいる。警察へ通報するという言葉も決して嘘や威嚇ではないだろう。店員の顔に浮かんだ疑念の眼差しがそう強く思わせた。とんでもない。早く逃げないと。

「いや……、待てよ、分かったぞっ!」

「な、何が分かったんだよ」

 エルフさんが何か閃いたらしい。

 これ以上の面倒事は勘弁して貰いたい。

「おい、お前は何故に異世界より召喚されておきながら、こうして何の苦も無く我々と意思疎通が叶うと思う? まさか、たった数日で古竜の言葉を学んだという訳ではあるまい?」

「はぁ? この期に及んでなんの話だよ」

「それは姫様の召喚魔法が、お前に我々と意思疎通を可能とする何かを与えたからだろう。だからこそ、お前は全く異なる世界に住む我々と会話ができるのだ。考えてみれば当然の帰結だ」

「だ、だったら何だって言うんだよ?」

「私にはお前が古竜語によって、そこの男へ話しかけているように聞こえた。何を馬鹿なことをしているのかと疑問に思った。対して、その男がお前に語りかける言語は全く理解できないものだった。あまりにも普通に会話をして見えたから、疑問に思ったのだ」

「つまり……、どういうこと?」

「くっ、頭の悪い奴だな。つまり、お前の喋る言葉は少なくとも我々が喋る古竜語を用いる者に対しても、また、お前が元から暮らす世界の者に対しても、意思疎通の道具として有効だと言う話だ」

「ほ、本当なのかっ!?」

「証明は出来ないが、そう考えるのが打倒だと思う」

「そりゃまた、とんでもない話もあったもんだ……」

「要はお前が語れば両方の言葉として周囲に響くということだ」

「…………」

 思わず言葉を失う。

「ならば、今一度問う、この者に魔法を掛けて金を買わせることが私にはできる。どうする? 他に手があるならば身を引くが、そうでないのならば、私は祖国を救う為に我を通させて貰うぞ?」

「ちょ、ちょっと待った。いきなりそんなこと聞かれても……」

「保護者とやらの同意を得ないで金を売ると、何か後々に問題でも起こるのか?」

「いや、まあ、別に金が偽物だったりしない限り大丈夫だと思うけど……」

「貴様、まさか姫様より頂戴した品を偽物だと疑っているのか?」

「ち、違うっ! 違うからっ!」

「ならば問題あるまい。相手の過失として保護者の同意とやらを済ませてやる。それならば問題あるまい? 私は早く食料を持ち帰らねばならないんだ。こんなところでグダグダしている暇などないっ!」

 そうして語る彼女は妙な迫力があった。

「そもそも、お前の家の庭に家人が寄り付かぬよう術を張ったのも、元を辿れば同系統の精神感応と結界を合わせた魔法だ。今更になって使用を躊躇したところで何の意味がある? こっちは一刻を争うんだ」

 そういえば、少女が語っていたけれど、エルフは人間よりも遥かに強力な魔法の使い手だと言う。その魔法とやらが具体的に何をどこまで起こせるかは分らない。けれど、下手にこの場で抗って、現代社会の仕組みを知らない彼女に刑事事件を起こされては堪らない。高校進学すら取り消されてしまう恐れがある。

「わ、分かった。それでいいから、だからことを荒立てないでくれよ」

「そうだ、初めからそう頷いておけば良かったんだ」

 俺の譲歩に多少だけ気を良くして彼女が頷く。

 まったく、少女もとんだ人員を提供してくれたものである。気づけばシャツの背はぐっしょりと汗に濡れていた。凄く嫌な汗だった。きっと、鼻を近づけたのならさぞかし臭うに違いない。

 結局、同行人、いや、同行エルフのおかげで金を日本円に代えることができた。

 決して無事にとは言えないが、店先での諍いの全ては彼女の魔法とやらで全て無かったことになり、こちらは相手が提示する金額での現金を、相手はこちらが持参した金塊を、それぞれ手にする運びとなった。

 もう二度と質屋など行かないと強く思った次第である。

 ちなみに少女から渡された金は全てを換金すると日本円で四千万円になった。

 生まれて初めて手にする金額に思わず手元が震えた。勿論、財布には入らなかったので鞄へと忍ばせた。紙幣らしからぬズッシリとした重さを肩に受けて、自然と軽い興奮状態に入っているのを感じた。歩くに際しては右足と右手が一緒に前に出そうだった。

 そんな訳で色々と面倒事はあったけれど、その後は当初の予定通り、俺と彼女は少女に頼まれた食料品を買って回ることとなった。

 流石に主婦の買い物とは一線を賀した量なので、店舗によっては先日の米屋に同じく多分に怪しまれた。けれど、こちらが必要額を現金で提示すると、手の平を返したように誰も彼もは商品を売ってくれた。

 米屋の米全部、八百屋の野菜全部、魚屋の魚全部、肉屋の肉全部、もう商店街の商品の全てを買い込む勢いだった。流石にこれだけの買い物を一介の学生が、しかも近所に住まう人間が行えば色々と問題が起こる。それを相棒の彼女に相談したところ、便所紙で尻を拭う気軽さで、それぞれ販売に立ち会った人間の記憶を消してくれた。なんだか、ここまでくると逆に清々しくもある。

 また、商店街で買いきれなかった商品は近くにあるスーパーまで足を伸ばした。商品の持ち帰りは商店街での配送各車に頼み込んで、無理矢理に相乗りとさせて貰った。この辺りはドライバーに男性が多かったのでエルフの美貌様々、加え魔法の素晴らしさだろう。正直、俺よりもよほど役に立っている。

 本当に根こそぎ買い漁ったので、今晩あたりは食材を買えずに苦労する付近住民の姿を見られるかもしれない。少し申し訳なくもあるけれど、化け物たち数千人の生き死にが懸かっているので勘弁して貰いたい。

 そして、全ての買い物を済ませて家に帰ると、そこには既に商店街からの配送が到着していた。家には父親と母親が居るのだけれど、例によってエルフの魔法でこちらの企みに気づいた様子は微塵もない。我が家の前にトラックが列を成しているにも拘らず普段どおりの生活を営む両親の姿は少し怖いものがあった。

「ただいまー」

「ただいま帰りました」

 最後の一便に同乗して帰路を進み、家門を抜けて庭に入る。

 すると、金髪ショートのエルフ少女が既に荷運びしていた。トラックを運転してきた店の人間も一緒になって汗を流している。見れば庭には所狭しとダンボールやら巨大な紙袋やらが並べられていた。まるで市場でも開けそうな勢いがある。

「お帰りなさい、荷物は届いていますのですぐにでも運び入れができます」

「これを全部向こうへ運ぶのは大変そうだなぁ……」

「人間、貴方は一度に幾十袋の米を運び込んだと聞いています」

「あ、ああ、そういえば紐か何かで繋げば一緒について来るんだっけ」

「そうなのですか?」

「一度実験のつもりでやってみたら上手くいったんだよ。君達だって僕と手を繋いでこっちへ来れたんだから、多分、俺に繋がっていれば問答無用で移動してくれるみたいな」

「しかし、その考え方だと、この大地の扱いはどうなるんだ?」

「あ、いや、それはちょっと分らないけど……」

「ふん、考察の甘い男だな。所詮は人間か」

「だって、他に何かある? 状況を説明できるような理由が」

「大凡はお前が持ち物だと認めているものを共に転移させるのだろう」

「っていうと、何? もしも俺がこの星は俺の物だって思えば一緒に来ちゃうの?」

「ああ、そうなるな」

「怖っ! すっごい怖っ!」

「まぁ、お前にそこまでの力量があるとも思えんがな」

「いや、無くていいよ、そんな恐ろしい話あって堪るもんか」

 銀髪の言葉に思わず身震い一つである。

 地球がまるまる世界を移るなんて想像ができない。そもそも、この場に置かれた姿見はどうなってしまうのか。宇宙空間にポツンと取り残されるのだろうか。いや、その理論で話を進めれば、最終的には宇宙すら共に鏡の世界へ移せることになる。姿見は何処へ行ってしまうのか。

「…………」

 あぁ、何が何だか分からなくなりそうだ。

 そう考えると銀髪の言葉は言い得て妙に的をいて思えた。

 所詮、俺の力量など米や野菜を運ぶのが関の山である。そして、それで本心から十分だと思える。何事も程々が良いのだと昔の偉い人も言っていた。今ならそれが良く理解できる気がする。

 質屋で一悶着あった言葉の問題も同じだけれど、きっと、魔法云々に関してはあまり突っ込まない方が身の為だろう。分らないものは分らないまま終わったほうが良いことも多々あると思う。

 その後、一通りの作業を終えると時刻は午後六時を回っていた。

◆ ◇ ◆

「人間、ありがとうございます。まさかこれほどの食料を買い付けて貰えるとは、頼んだ側からしても想像以上のことです。本当に貴方には幾ら感謝してもし足りない。この通り、国の民を代表して礼を致します」

 その日、一通りの作業は終了したあとで俺は鏡の世界の城に呼び出された。

 購入した食料品の全ては城内にしっかりと収められている。鮮度の落ちやすい生物の類は城下を回って今日中に町民へと配給するらしい。また、米なども今晩から食卓に出回るのだと聞いた。

「いや、滅多にできない経験でしたから、こっちも楽しかったです」

「具の無いスープばかりで飢えを凌いでいた民達も、きっと、今回の振る舞いには泣いて喜ぶでしょう。篭城を始めて長いですが、これでまた我々は戦う気力を得ることができます」

 少女の手には俺が渡した金塊の清算書と食料品を購入した各種明細がある。

 お金のやり取りはしっかりしておかないと後々怖い。同行した銀髪エルフに明細書の真偽を保障をして貰って、ひとまずは一件落着といった具合だった。流石に数千人分の食料とあって、一度に何日分も仕入れることは叶わず、引き続き明日からも同様に買出しを行う約束をしている。けれど、とりあえずはホッと一息を吐けた。

「人間、想定以上の働きだ。私からも礼を言わせて貰う」

 今居る場所は場所は城の中央に設けられた謁見の間である。

 そこで王座の前に立つ少女から感謝の言葉を受けているところだった。彼女の傍らに立ったトカゲも同様に頭を下げて感謝の言葉をくれる。それが以前にも彼女と共にいたトカゲかどうかは分らない。けれど、何故だか同じトカゲだと思えた。

「いえ、自分よりもむしろ一緒に来てくれた彼女達を褒めてやってください。彼女達の力がなかったら、自分だけだったら金を向こうの貨幣に代えられずに意気消沈して戻ってくるところだった……でしたから」

「いいえ、それにしても全ては貴方の協力が前提の賜物です」

 周囲には俺を囲うように様々な化け物が犇いていた。

 正直、凄く怖いので早く終わりにして欲しい。けれど、それを素直に口とする勇気は微塵も無い。先のオーガと言う化け物さえ超える重量級すら身を並べているのだから、ちっぽけな人間には荷が重い。なんか漫画に出てくるドラゴンみたいな恐ろしい奴までいる。小さな少女の家臣にしては違和感を拭えない。

「貴方が人間でなければ、大々的にその存在を国民へ明けることもできました。しかし、今の状況ではそれも非常に難しくあります。こうして城のうちで済まさざるを得ない私の懐の小ささを許してください」

「別にいいですよ、それより、本当にお金貰っちゃっていいんですか?」

「はい、この窮地を救って頂いたのですから、当然の謝礼です」

「それと、明日からは昼間に学校があるんで、こっちへ来るのは日が傾き始めた頃になってしまうんだけど、それでもいいですか? できるだけ急いで帰るようにするから……しますから」

「そちらの世界では、日が傾いても市が開いているんですか?」

「え、ああ、それは大丈夫ですよ。大手なら二十四時間やってますから」

「なんと……」

 俺の言葉に周囲の化け物達がざわめき立つ。

 厳密には市ではないのだけれど、想定する規模としては彼女の言うそれと変わりないだろう。ただ、放課後はあまり時間を掛けられないのが難点だ。今後は土日にもっと大量の食料品を運び込む必要があるだろう。

「ところで、この後で時間はありますか?」

「この後ですか?」

「ええ、貴方が苦労して食料を買い付けてくれたのですから、ささやかではありますが晩餐を振舞いたく思います。互いの親睦を深める意味でも、是非とも席を共にして貰いたいのです」

「あ、えっと、すみません、ちょっといいですか?」

 少女に言われてズボンのポケットから携帯電話を取り出す。

 ディスプレイに目を向ければ、そこには午後五時半との表記があった。

 夕食まであと一時間である。

「…………」

 友達の家でゲームをするのが楽しくて、あと少し、あと少しと帰宅をずらした小学校の時分を思い起こす。結局、夕食の時間を一時間ほど過ぎてから帰った俺を待っていたのは両親からの肉体的折檻であった。あの時、無理矢理に尻を叩かれた痛みは今でも決して忘れない。

「あの、非常に申し訳ないのですが、これから家族と食事を取る予定があって……」

「そ、そうですか……、それは残念です」

 俺も凄く残念だった。

 化け物の作る料理には非常に興味がある。

 物凄く、とっても、食べてみたかった。

◆ ◇ ◆

 それからの一週間は鏡の世界と元の世界との往復だった。

 既に高校受験と合格発表を終えて、後は卒業するだけの身の上にある。学業は午後四時頃に終業となる。部活動も既に退部手続きを終えているから、そこから先は自由時間だった。そこで俺は他に何をするでもなく自宅の庭へと急ぐのだ。

 鏡の世界へと足を運んでエルフな手伝いを向かえ、傾国の食料調達に励む訳である。ちなみに、この手伝いというのは当初に組んだ金髪銀髪のエルフ達である。金髪の彼女と銀髪の彼女を交互に姿見の見張りと据えて、毎日四時半頃から商店街やスーパーの食料品を買い漁るのが日課となった。

 まるで自分が敏腕商人にでもなった風だった。

 利率は五十パーセント、破格である。

 そして、そんな一風変った生活習慣を送り始めて五日目の金曜日、それは起こったのだった。元より危惧していなかった訳ではない。けれど、注意していたにも拘らず、最悪のタイミングで起こってしまった。

 場所は商店街の一角である。

「あれー? 浩二じゃん」

「あ、本当だ」

「えっ? なんでアイツが女連れなの?」

 それは阪部とそのグループだった。

「あ……」

 気づかない振りをして通り過ぎれば良かったのに、思わず声を上げてしまった。そして、気づけば彼等と目があっていた。相手は学校帰りらしく、制服姿でアイスクリームなど片手にしていた。対して既にこちらは一度帰宅済みであるから私服だ。

「おいおい、何やってんの? 浩二君」

 普段なら自分達から近づいてくることなど無いのに、今日に限って彼等はこちらへと歩み寄ってきた。しかもかなり意欲的に近づいてくる。恐らくは銀髪の彼女を珍しんでのことだろう。

「人間、知り合いか?」

「あ、ああ、学校の友達、かな」

 十数メートルあった距離は瞬く間に詰められてしまう。

「ちょっとちょっと、もしかしてデート? 私服に着替えちゃったりして」

「っていうか、すっげぇ可愛い」

「何処の国の人? 銀髪とかマジでパネェんスけど」

 俺と彼女を囲うように彼等は立ち位置を取る。傍から見れば不良に絡まれる苛められっ子として映るだろうか。それはなんだか凄く嫌な気分である。唯一、彼等の言葉がエルフである彼女の耳に届かないのが救いだった。もしも全てが筒抜けであったったら、そう思うと背筋が寒くなる。

「べ、別に彼女とかじゃないから、だから、また今度にしてくれないか?」

「なんだよ、俺達にも紹介してくれよ」

「そーそー、お前ばっかり一人で美味しい思いしてんじゃねぇよ」

「俺等って友達だろ? 一緒に遊ぼうぜ」

 先週の土曜日に丼物屋で遭遇して以降も、学校での俺は普段どおりを決め込んでいた。勤めて何も知らない振りをしていつもどおりの自分を演じていた。だからだろう、彼等もまた遠慮なく語りかけてくる。

 いや、もしかしたら全てを承知した上でかもしれないが。

「これからやることがあるんだよ、今日は無理だから、ほら、また今度な?」

「おいおい、そんなこと言うなって、たまにはいいじゃん」

「そうだよ、俺もこの間の子に振られちゃって、今丁度フリーだし」

「っていうか、マジで可愛いわ、何歳? 俺等とタメ?」

 じわじわとにじり寄って来る阪部達に何と答えれば良いだろう。

 彼等を下手に刺激しては、この一週間を何の為に自分を殺してきたのか分らない。けれど、彼等に関わっていたら食料品の運び入れが行えない。既に商品は配送済みであるから、それだけは避けなければならない。隣の活火山の心具合も然ることながら、明日は朝から晩まで雨の予報なのだ。

「カラオケ行こうぜ? 俺、海外の歌とか超聞きたいし」

「あ、それ賛成、俺も聞いてみたい」

「いいねぇ、俺等が奢るから、それでいいしょ? 行こうぜ」

 既に彼等は俺に声を掛けているのか隣の銀髪に声を掛けているのか分らない。教室で眺めている限りでは割と小ざっぱりして感じられた彼等である。けれど、女を前にするとここまで卑しくなれるのかと、何故だろう、少し悲しい気分になった。

「おい、この者達は何と言っているんだ?」

 痺れを切らしたのか隣の彼女が問い掛けてくる。

「いや、なんか、君のことを気に入ったらしくて……」

「私のことを気に入った? 人間風情が何を喚いているんだ」

 途端に彼女の顔が怒りに染まる。

 一応、こちらの世界では無闇矢鱈に魔法を使わないようお姫様たる少女を通して約束をしてある。けれど、それも彼女の気性の荒さと人間嫌いのほどを思えば、あまり信用できなかった。

「いちいち相手にすることなどない、さっさと行くぞっ!」

 心底憎らしげに呟いて彼女は歩き出す。

「あ、ちょ、ちょっと、待ってよ」

 慌ててその背を追った。

 銀髪は阪部達の身体を肩で押しのけて前へ進もうとする。

「退けっ、下種がっ!」

「え? この子、何て言ってんの?」

「おい、浩二、ちょっと通訳してくれよ」

「っていうか、もしかして怒ってる?」

「ねぇ何語? これって何語?」

 多少だけ驚いた様子で阪部達が俺に向きなおる。

「いや、ちょっと今は色々あって急いでるから、ほら、また今度ってことで」

 本当はもう少し穏便に済ませたい。来週には卒業式が待っているのだ。それに高校へ入学してからも決して彼等の全てと無関係にはいかないだろう。調べた限り阪部のグループのうち二人とは同じ学校へ通う予定である。ここで嫌われて変に噂でも流されたら堪らない。

 けれど、銀髪が歩いていってしまうから、大人しく彼等の言葉に従っている余裕も無い。仕方なく自分もまた彼女のあとを追って歩みを進める。

 すると、何を思ったか阪部が彼女の手を強引に握った。

「おい、ちょっと待ってくれたっていいじゃんっ!」

 俺の胸ほどまでしかない華奢な身体がぐらり背後に振れる。

 本人は軽い調子でやったのだろう。

 しかし、今回ばかりは相手が悪かった。

「貴様ぁっ!」

 急に後ろへ向きなおった彼女が、振り返りざまに彼の身体を蹴り飛ばした。

「ちょ、ちょっとっ!」

 思わず俺も声を上げてしまった。

 小さな身体に似合わず銀髪の回し蹴りは見事且つ強烈だった。不意を打たれた阪部は脇腹を強く打たれ成す術もなく吹っ飛んだ。ゴヘェと無様な悲鳴を漏らすと共に、数メートルだけ離れてアスファルトの上へ転がる。

 その瞬間、他の通行人も含めてその場の時が止まった。

「人間如きが私の肌に触れるなっ! 汚らわしいっ!」

 そうして吼える彼女の目は今まで一番、強烈な怒りの炎を燈していた。

「お、おい、ちょっと拙いって……」

「死ねっ!」

 尚も追撃を加えようとする彼女と阪部の間に身を滑らせる。

「ここで問題を起こすと今後の活動に支障が出るから、な? 止めてくれよ」

「くっ……」

 俺の言葉は彼女以外にも聞こえているから、表立って変なことは言えない。ギリギリのところでお姫様を引き合いに出して彼女の怒りを抑える。少女から聞いた話、彼女達は人間を殺すことに何の躊躇もないらしい。非常に危険だった。

「ほら、と、とりあえず行こう」

「糞っ……」

 俺が率先して歩き出すと、彼女は渋々といった様子で付いて来た。

 如何せん銀髪は目立ち過ぎる。この場に長く留まるのは危険だった。万が一にも警察がやって来たら、彼女の身元を証明するものなど何も無い。密告者の烙印を押されて拘置状まで一直線だ。ともすれば彼女も抵抗するだろうから、あぁ、大変だ。

「…………」

 自然と頭が痛くなるのを感じた。

 商店街を抜けてからは大通りを避けて、人目の少ない細い路地を選んで家を目指すこととした。いつかこういう日が来るのではないかと予感めいたものを感じていたけれど、まさか、阪部達を相手にするとは思わなかった。

「っていうか、幾らなんでもいきなり暴力は止めてくれよ」

 足早に歩を進めながら隣を行く彼女に声を掛ける。

「……なんだと?」

「この世界の人間は君達に何か悪いことをした?」

「黙れ、人間など何処の世界にいようと同じだ」

「だからって問答無用で暴力に訴えるの?」

「五月蝿い、口で言っても分からぬから、身を持って教えてやったまでだ」

「でも、仮にも俺の友達な訳だし……」

「友達だと? あの人間共は端から私しか見ていなかっただろうが。気色悪い視線を向けてくれて、思い出しただけで鳥肌が立つ。思い返しただけで、その身をバラバラに切り刻んでやりたくなる」

「…………」

 彼女の言葉に自分もまた阪部達の態度を思い起こす。

 それは完全に正しい。

 しかし、それとこれとは別問題だ。

「彼等は俺の通う学校でいつも中心にいるんだよ。こんなことがあったら、その、次に学校へ行ったときにどんな扱いを受けるか分らないだろうが。高校に入ってから、もし苛められたりしたら、どうしてくれるんだよ」

「はっ、あのような下種など放っておけ、下らない」

「下らないって、そんな、俺にとっちゃ死活問題なのに……」

「死活問題? なにが苛められるだ。同じ人間の数人を、それも魔法すら使えない者を相手にどうして怯む事がある。お前がこちらの世界でよく話をしている医者のガロンなど、ああ見えて人間の魔法使いを幾十人と相手に立ち回る猛者だぞ? 奴を恐れずして何故に同じ人間如きを怖がる必要があるんだ」

「い、いや、そういう意味じゃなくて」

「そんなに怖いのならば私が殺してやろう」

「だから、こっちの世界には色々と面倒な規則があるんだよ。そう簡単に殺すとか口にしちゃいけないんだよ。それだけでも犯罪だって後ろ指差されて、面倒事に巻き込まれる可能性があるんだからな?」

「ふん、人間の作った規則など私が知るか」

「なっ……」

 なんて酷い言いようだろう。

 会話の余地なんて微塵も無い。

「なんでそんな酷いこと言うんだよっ!」

「黙れっ! 私は姫様の命でお前と共にいるに過ぎん。どうして貴様の面倒に付き合わねばならん。自らに降りかかった火の粉を自ら振りらったまでだっ! それ以上の言葉は許さんぞっ!?」

「こ、この……」

 ぐっとこちらを見上げてくる瞳は真っ赤に燃えていた。

「それだったら、お前達の主張はなんなんだよっ!? 人間に迫害されたから人間を憎んでるだって? それこそ力にものを言わせて阪部達を蹴り伏せたさっきの行いが、お前達を迫害した人間の行いとどう違うって言うんだっ!?」

「何だとっ!? 貴様、まさか我々をあの忌々しい者共と同じだと言うのか?」

「ああ、そっちの事情を知らない俺からすれば、そう大して変らないなっ!」

 俺の言葉に銀髪の身体がピクリと震える。

 それと同時に一瞬だけ歩みが止まった。

 再び歩み始めた彼女の背からは嘗てない怒気が立ち上って感じる。

「……今この場で死にたいのか?」

「俺がいないと食料を運ぶことはできないぞ? それでもいいのか?」

「こ、この……、人間風情が粋がりおって……」

「お前が多少人間に触られたのを我慢できなかった為に、同じ国の同胞が飢え死んでもいいのか? それいいなら好きにするといいさ。けど、国に帰ったお前を仲間はどういう顔で迎えるだろうな?」

「貴様っ!」

「エルフだかなんだか知らないけど、こっちだってこっちの都合があるんだよ。少なくとも姫様とは約束したじゃないか。無闇に暴力を振るったり魔法を使ったりしないって。それはどうするんだよ」

「だから、あれは降りかかる火の粉を払ったまでだと言っただろうがっ!」

「なんだよ、お前にとっての人間ってのは火の粉ほどに熱いものなのか?」

「っ……」

 俺の言葉に銀髪の色白な頬が朱に染まった。

「俺はお前達のお姫様を助けたくて動いてるんだ。お前なんて関係ない」

「私だって貴様など知ったことかっ! 国が助かるならば他はどうでも良いわっ!」

「だったら、せめて事前に交わした約束くらい守れよ。じゃないとこっちだって満足に動けないだろうが。もしも今回の一件で阪部が怪我とかしてたらどうするんだよ。俺はあいつの親になんて言えばいい? 素直にお前を差し出せばいいのか?」

「ならば私にどうしろと言うんだっ!」

「今日までの四日間と同じように、面倒を起こさないよう静かにしておいてくれよ。郷に入りては郷に従えって言葉がこっちの世界にはあるんだよ。他人に迷惑掛けないように生きていくことが大切なんだよ」

「ならば、お前が私の自尊心を守ってくれるというのか? 世界が違えど人間は人間に違いない。何故に自らを殺してまで怨敵に従わねばならん。自分には自分の世界があるだろうがっ!」

「それがこっちの世界なんだよっ!」

「ふん、これだから人間は先が見えないと言うんだ」

「そっちこそ自分ばかりを見過ぎじゃないのか?」

「黙れっ! それ以上の愚弄は許さんぞ!?」

「だったら、なんなんだよ?」

「言っておくが、貴様を殺さずに両手両足をもぎ取ることくらい、私にかかれば造作も無いことだと理解しているのか? その眼球と耳をもいで、達磨にして、ただ扉を開けるだけの鍵にしても良いのだぞ?」

「なっ、ま、また脅しかよっ!」

「これまでの貴様の物言いにしても同じだろうが。まさか、今更になって善意を語るつもりか?」

「っ……」

 言い合いは一向に平行線だった。

 商店街から自宅までは片道三十分ほどである。そうこうしているうちに我が家が歩む先に見えてきた。その前の通りには例によって各店舗からやって来たトラックの類が列を成し停車していた。垣根を挟んだ庭ではその荷台より荷物を下ろす金髪の姿も見える。その回りでは他にトラックの運転手達も同様の作業に従事していた。

 これ以上、彼女と口論を続けていては皆に迷惑がかかる。

「分かったよ、これで話は終わりだ。いいな?」

「はっ、勝手にしろ、人間が」

 ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた彼女を眺めて、次からは別のエルフを用立てて貰おうと強く思うのだった。そう、叶うならもう少し大人しくて、喧嘩っ早くない性格の持ち主として。