金髪ロリ田舎暮らし日記

六日目

 翌日、我が家の庭先へ、空からヘリコプターが下りてきた。

「うぉおおおおおおお」

「なんか、でっかいのが来たのぉー」

「と、とぶぅっ! 我が家が飛んでいってしまうっ!」

 まだ日が昇って間もない頃合、寝床から起き出してすぐのことであった。寝ぼけ眼のまま井戸水に顔を洗い、少しばかり気分の良くなったところである。遠方より機械の動作音が近づいてきたかと思えば、瞬く間、音は大きくなり、耳を塞ぎたくなるほどにまで膨れ上がったのだ。

 そして、今、目の前にはローターをゆっくりと止め行く機体が地に留まり立つ。

 つい先日に雑草を刈り上げたばかりの庭先である。刈ったまま放置してあった枯れ草が、四方八方へと飛び散って、少しばかり地肌が覗いて見えた。

「知り合いか?」

「こんなもんで乗り付けてくる知り合いなんか居るかよっ!」

 反射的に吼えたところで、ふと、昨晩の出来事を思い起こす。

「……と思ったけれど、一つだけ心当たりがある」

「昨日の話か?」

「あぁ、見てみろよ、噂をすればなんとやらってやつだ」

 眺める先、へりのドアが開いて、記憶に新しい顔が現れた。

 トンと軽い音を立てて、一メートルばかりの高さを飛び降りる。ふわり金色の髪がはためいては、小さな身体が大地へと降り立った。暴虐武人なお嬢様である。また、傍らには例によって、厳ついスーツ姿の男が二人、同様に機上より降り立つ。

 それを俺と化け狐とは、玄関脇に立ち呆と眺めていた。

 井戸は玄関正面とは家屋を挟んで間逆にあり、丁度、騒ぎを聞きつけて駆けて来たところである。庭へ向かうには玄関の隣を通ることとなり、その最中に、庭先の奇想天外を目撃したのだ。

「あぁ、この朝の早い時間でも暑いですわねっ!」

「お嬢様、なかでお待ちになりますか?」

「だから、私が行かなければ意味が無いと昨日も言ったでしょう?」

「はっ、申し訳ありません」

「それでは、ちゃっちゃと行きますわよ」

「お供します」

「当然ですわっ!」

 ヘリから降り立った少女が悠然と歩みを進める。

 向かう先は間違いなく我が家である。玄関の側へ、俺と化け狐の立っている側へと、足早に向かって来る。胸を張って、ズンズンと、酷く偉そうな歩み立ちである。

「おい、こっちに来るぞ?」

「そんなの見れば分かるってーの」

「どうするんだ?」

「いや、どうするも何も……」

 どうしよう。

 考えていたところで、相手はすぐに並び立つ俺と化け狐の下までやってきた。俺とポンコツ狐、お嬢様と連れの男二人、それぞれが玄関の扉を前として、正面から向き合う形となる。

「昨日はよくもやってくれましたわねっ!」

 ズビシと人差し指で指し示された。

「いや、俺は何もしてないんだが……」

「あんな気色の悪いペットを飼っているなんて、貴方の性格は最低ですわねっ! 口裏を合わせて、私を追い出そうとしたって、そうは行きませんわよっ!? 覇王の秘法は諦めませんわっ!」

「お前にだけは言われたくねーよっ! っていうか、ペットじゃねぇーよ!」

 恐らく、昨日の蜘蛛を指してのことだろう。相変わらずぶっ飛んだこと言ってくれる。そもそも、どうやって蜘蛛と口裏を合わせろっていうのだ。後ろに控えた男二人も、無言で突っ立ってないで、主人の勘違いに突っ込みの一つでも入れればよいものを。

 そして、お嬢様がお嬢様なら、我が家のアホ狐もアホ狐だ。

 何を勘違いしたのか、ズズイと一歩を踏み出した馬鹿が声高々に反論。

「おい、小娘、儂はこやつのペットなどではないぞぃっ!」

「お前じゃねーよ!」

「……違うのか?」

「別の話だよっ! っていうか、お前は昨日、居なかっただろうが」

「あぁ、そう言えばそうだ……」

「それとも、そういう自覚があったのか? もしかして俺に飼われたいのか?」

「そりゃぁー、儂はとてもとても美しいからなぁ? 人間が愛でたくなるのもしかたるまいてぇ? 存分に可愛がるがいい。ほれほれ、この艶やかな髪を梳く権利をやろう」

「うっせっ」

 いちいちむかつく。

 適当に下らない文句の数々を受け流す。

 すると、他方、好奇心を刺激されたのか、お嬢様がアホ狐に注目した。

「あら? 何かしら、この小さな子は。綺麗な金髪ね? 私ほどではないけれど」

「なんじゃと? この儂の毛並みが人間如きに負けると言うか?」

「なんですって? 失礼な子供ね? 折角、この鳳凰院夕陽子が褒めてあげたというのに、こういうときは素直に、わーい、ありがとうおねーちゃーん、とか言って私を褒め称えるべきですわ」

「わーい、ありがとうおねーちゃーん!」

「わーい、ありがとうおねーちゃーん!」

「きぃいいい、むかっ腹ですわっ! この二人、むかっ腹ですわっ!」

 言われたとおり、アホ狐共々、二人してお嬢様の声真似をするとキレられた。

「お前が言えって言ったんだろうが」

「いちいち五月蝿い娘だのぉ……」

「やかましいですわっ!」

 地団駄を踏んで悔しがるお嬢様。

 後ろに控える黒スーツ二人は、その姿を無言のまま眺めるばかり。

 もしかして、このお嬢様、何かの罰ゲームでも受けている途中ではないか。逆に勘ぐってしまいそうになる。それとも金持ちというのは、皆こうなのだろうか。楽しそうな人生である。

「ええもう、貴方達など相手にしているだけ時間の無駄ですわっ!」

「あ、おい、こらっ」

 これ以上は相手をしていられないとばかりに、俺と化け狐をスルーして、玄関を抜けようとする。基本的に戸は開けっ放しなので、敷居を跨いで、昨日に同じく、土足のまま上へと上がられてしまった。戸を閉めると風の通りが悪くなって暑いのだ。我が家の玄関はいつだってフルオープンだぜ。

「お前っ、だから靴脱げよっ! ひとんちだろっ!?」

「冗談じゃありませんわ。そんなことをしたら貴方の水虫が移りますわっ!」

「だから、水虫じゃねーよっ!」

「ほぉ……、この数日で儂の水虫がうつったか……」

「なんだとっ!?」

 聞き捨てなら無い言葉に化け狐を振り返る。

「寝ているお主の足裏へ、毎晩、毎晩、この足の皮を削っては、その削り粉をパラリ、パラリ、パラリ、振りかけた甲斐があるというものだ。儂は歓迎しよう、よくきた、水虫の世界へ」

「なんてことしてくれたっ!」

 思わず化け狐の胸倉を掴んで、宮島張り子の首振り牛が如く、ガックンガックンと首を揺する。けれど、相手は何ら堪えた様子無く、カラカラと笑い声を上げるばかりだ。まったく効いていない。

「ははは、冗談に決まっておるだろ」

「嘘でもそういうこと言うんじゃねーよっ! 驚くだろっ!?」

「……実は嘘じゃないけどな」

「ぉおおおおお、嘘だって言ってくれよっ!」

 そんなことしている間に、少女は勝手に我が家を進み行く。

 まさか、放っておく訳にもいかない。二十回くらい水虫狐の首を揺さぶったところで気付いて、大慌てにその後を追った。監督も無く放っておいたら、間違いなく家を壊されてしまう。それだけは避けたい。

 ドタドタと床板を鳴らして、大慌てにお嬢様を追う。

「待てよこらっ! 勝手にひとんち探検してんじゃねーよっ!」

「私は鳳凰院夕陽子ですわっ! 誰の指示も受けませんわっ!」

 すると、相手はこちらを見向きもせず、偉そうに言って返す。

 その歩みが止まることはない。

「鳳凰院夕陽子は関係ねーだろっ!」

「私は鳳凰院夕陽子ですわっ!」

「何度も言われなくたって知ってるよっ!」

 ズンズンと先を歩み行く鳳凰院夕陽子。

 昨日に我が家の虫食い事情を学習した為か、先頭は黒いスーツの片割れだ。次いで、彼女が歩み、その後ろをもう一人の黒スーツが殿として着く。どうやら、女郎蜘蛛との遭遇が、相当に堪えた様子だった。

「おい、いい加減にしないと警察呼ぶぞっ!? 警察っ!」

「構いませんわよ? 警察など鳳凰院の名を出せば尻尾を巻いて逃げ出しますわっ!」

「こ、このぉ……」

 嘘じゃないだろうあたりが恐ろしい。

 お嬢様一行はズンズンと廊下を進み、古民家を奥へと進んでいく。

「それで、お主よ、この者達をどうするつもりだ?」

「どうするって、お前、追い出すしかないだろ。放っておいたら家が滅茶苦茶になる」

「だったら、さっさと追い出すがいい」

「それが叶うならすぐにでもやってるよ。見ろよ、あのマッチョ。あんななのに殴られたら死んでしまう」

 すぐ後ろを付いてくる化け狐に答える。

「なんじゃ、情けない男だのぉー」

「うっせぇ、だったらお前が何とかしろよ」

「なんとかしたら、何かくれるか?」

「な、何が欲しいんだよ?」

「そろそろ便所の紙が切れそうだから、無くなる前に探してくるといい。あの柔らかさに慣れてしまっては、そこいらの葉っぱで尻を拭く気にはなれんからな。あの拭ったときの感触が堪らぬ」

「マジかっ!? お前、便所紙使い過ぎだろっ!? この前に見たときは、まだ沢山残ってた筈だぞ! どうして三日やそこらで無くなるんだよっ! あと一ヶ月は持つ筈だったのにっ!」

「そりゃお前、あれだけ拭き心地が良ければ、便の出も良くなるものだ」

「出過ぎだろっ!」

「毎日快便、心に余裕が生まれるな」

「このクソッたれ。俺の分が無くなったらどうするんだよっ!」

「そこいらの葉っぱで拭けば良いだろ?」

「こ、この野郎……、いつかお前のその自慢の毛並みをうんこ色に染めてやるぞ」

「ふふん、できるものならやってみるが良い」

 などなど、切実な生活事情を議論しているうちにも、お嬢様は進む進む。角を曲がり、その姿は古民家の奥へと向かっていくではないか。段々と薄暗がりな区画へと至り、そろそろ、例の謎部屋も近づいてきた頃合である。

「お、おい、便所紙は取ってきてやるから、ほら、あのお嬢様を何とかしろよっ!」

「よし、何とかしてやろう」

 俺が言うと、化け狐は深く頷いて、前方へ駆ける。

 黒スーツの傍らをするり抜けて、一行の向かう先へ仁王立ちである。向かう先を邪魔されて、面々はその場で歩みを止めた。その行いに自然とお嬢様の眉が釣り上がって、不服そうに声が上げられる。

「なんですの? 道を塞ぐなんて無粋ですわよ?」

「便所紙の為だ、お主には悪いが、今すぐにこの家から立ち去って貰おう」

「便所紙とはトイレットペーパーのことかしら?」

「うむ、そのとおりだ」

「この屋敷はトイレットペーパーすら満足に買えないのかしら?」

「このままだと、明日からは、そこいらの葉っぱで尻を拭く羽目になるっ!」

 胸を張って言い放つ化け狐。

 なんだろう、この胸にキュンとくる恥ずかしい気持ちは。

「貧乏とは哀れですわね。貧困とは罪ですわね」

「全くだの」

「まあ、そういうことならば、よろしいですわ」

「なにがよろしいのだ?」

「この私が、最高品質のものを、貴方が望むだけ、幾らでも用意いたしましょう。香りも拭き心地も一級ですわ。イギリスの王室も御用達の一品ですから、貴方達のような田舎者ならば、満足すること間違いありませんわ」

「本当かっ!?」

「ええ、望むならば、一生分を差し上げてもよろしくってよ?」

「それならば良しっ!」

「良くねーよっ!」

 便所紙で買収されかかったアホ狐。

 黒スーツの脇を抜けて、大慌てで傍らまで駆け寄る。

「なんじゃ、折角、儂が交渉して便所紙を勝ち取ったというに……」

「明らかに交渉負けしてるだろうがっ!」

「だって、香り付きだぞ? 香り付いた便所紙で尻を拭けるんだぞっ!?」

 目をキラキラと輝かせて言う化け狐。そんなに香り付きの便所紙が良いものなのか。

「どうせウンコ臭に上書きされるんだから、香りなんて関係ないだろーが」

「なんじゃ、風情の無い男だのぉ……」

「全くですわ。先程から、ウンコウンコと汚らしい。人としての品性を疑いますわ」

「まったくだ、人としての品性を疑うのぉ」

 やれやれだとばかりに、両手の平を天井に向けて、肩など竦ませて見せるお嬢様。その姿があまりにも様になっていて、思わずむかっ腹である。隣では、そんな彼女を真似てのことだろう。同じ立ち振る舞いを見せる化け狐。こちらも様になっていて、更にむかっ腹である。

「お前らが言わせてるんじゃねーかよっ! 誰が好き好んで言うかっ!」

 段々と本格的に腹が立ってきた。

「っていか、お前はどっちの味方だよっ!」

 今更ながら化け狐に向き直って強く尋ねる。

「儂は弱者の味方だ。正義を愛する心を忘れたことは無いぞい」

「じゃあ俺と俺の家を守れよ」

「しかし、それ以上に今は便所紙が無くなるという事実が切実なのだ」

「現金な正義の味方だな、おい」

「世の中、理想だけでは食っていけないということだ。勉強になっただろう?」

「うっせ、ハゲ、死ね」

 頼りにならない化け狐だ。

 話にならないとばかりに、俺はお嬢様へと向き直る。

「そもそも、覇王の秘法って何だよ? どうしてそんなものが俺の家にあるんだよ? ここはかなり長い間、それこそ数年どころの話じゃないくらい放置されてたんだぞ? そんなところに何があるんだ?」

「当然ですわっ! 我が鳳凰院家の情報網にすら、先日にようやっと引っ掛かったのです。それがそう易々と人の手に行き来している筈がありませんわっ! むしろ、当然と言って然るべきですわっ!」

「じゃあ、どうしてそんな凄いものが、こんな田舎にあるんだよ」

「そこまでは知りませんわ。ですけれど、最後にその名が史上へ挙がったのが、凡そ二百年前と言われておりますから、当時の持ち主が、この地へと覇王の秘法を隠したことは間違い在りませんわね」

「二百年も前の話かよ……」

 エヘンと胸を張っていうお嬢様に溜息一つ。

 良くそんな昔のことを調べ上げたものだろう。

「なにより、その当時の持ち主というのが、我が鳳凰院家の八代前の党首なのですから、元々は我が鳳凰院の持ち物なのですわ。それを今、二百年を経て取りに来たのですから、貴方は素直に渡す義務がありますわっ!」

「え? そうなのか?」

「覇王の秘法は代々、我が鳳凰院家が管理してきたものですわ。それが、ここ二百年に関して、ちょっと行方不明になっていたところ、ようやっと、先日に所在が浮かび上がったということですわっ!」

「なるほど……」

 しかし、だからと言って、我が家を土足で上がられるのは嫌だ。

「でも、二百年も前の話だろ? 所有権主張されても、今更過ぎるし……」

「あくまで拒否するということですわね?」

「っていうか、くれてやってもいいけど、人に物を頼むにも態度ってものがあるだろ?」

「この鳳凰院夕陽子に頭を下げろと言いたいのかしら?」

「当然だろう?」

「ふふん、そこまで言うのなら、こちらも大人しく引き下がる道理はありませんわ。ジョン、ピエール、この貧相なアジア人をけちょんけちょんにしてしまいなさい。二度と私に歯向かえないように、痛い目を見せてあげるのですわ」

「いや、お前だってアジア人だろ? 名前からして」

「わ、私の血の十六分の三はフランス人ですわっ! この金髪がその証っ!」

 自らの頭髪を親指でズビシと指し示して言うお嬢様。

「白人コンプレックスの塊みたいな発言は逆に痛々しいぞ? それに同じ貧相なら、お前の胸だって随分と可哀想なことに……」

「やっておしまいなさいっ! こてんぱんにっ!」

 呆れた風に言うと、お嬢様が切れた。

 そして、彼女が言うに応じて、その背後に控えていた黒スーツ二人が動く。

 一歩を踏み出したかとおもいきや、腕がすっと伸びてきた。硬く握られた拳が、恐ろしい勢いで頬目掛けて迫り来る。まさか、いきなり殴りかかってくるとは思わなかった。赤子の頭ほどもある、非常に大きな拳骨である。しかも二人分だから、迫るそれも二つ。

「っうぉお!?」

 これはヤバイ。

 そう感じることはできても、咄嗟のこと、身体は硬直して動かなかった。

 けれど、頬に衝撃が訪れることはなかった。

「こんな阿呆でも、一応は家主だからなぁ。手を上げさせる訳にはいかんのだ」

 気付けば、男二人と俺との間に化け狐が立っていた。

 しかも、あろうことか差し迫った拳を二つとも、その小さな手の平に受け止めていたのである。その表情は先刻までと何ら変化が無い。飄々とした態度で、全く堪えて思えない様子だった。

「な、なんですってっ!?」

 そんな居候の驚愕極まる身体能力を目の当たりとしてお嬢様が吼えた。

「ジョンっ! ピエールっ! 何を遊んでいるのかしらっ!?」

「お、お嬢様っ、ですが……」

「手が……手が……」

「どうした? 儂はまだ何もしておらんぞぃ」

「どうしたと言うのですっ!?」

 今にも泣き出しそうな男二人の姿にお嬢様が慌てる。

 他方、化け狐は悠々と言葉を返す。

「図体ばかりデカイというのも、情けないものだのぉ……」

「こ、この娘、異様に握力が……」

「っ……、ゆ、指が折れる……」

 男二人の顔が苦悶に歪んでいた。

 化け狐に拳を握られた状態で、立ったまま身を捻らせる。どうやら必死になって痛みに耐えている風であった。見れば、二人の拳には、小さな指がめり込んでいる。ペキペキと、音を立てて、段々と拳が歪んでいく。本来ならば骨がある筈の場所へ、化け狐の細い指が、無遠慮に、粘土でも潰すように沈んでいくのだ。

「暴力は感心しないなぁ? 暴力は……」

「う、うぉおおおおおっ!」

「ぐぁあああっ!」

 ついに、立っていられなくなったのか、黒スーツ達が床に膝を突いて悲鳴を上げはじめた。それまでの無表情はどこへ行ってしまったのだろう。声を荒げて、痛みにのた打ち回っている。

 皮膚が破れて、折れた骨が肉を突いては、ポタリ、ポタリ、赤いものが滴り落ち始める。段々と拳が拳としての形を失っていく。内側へ、内側へ、化け狐の指がゆっくりと、嫌な音を立てて沈んでいく。

「ちょ、ちょっとっ! 何をしているのっ!?」

 頼りにしていたボディーガードの情けない姿を目の当たりとして、お嬢様は酷く混乱した様子で声を上げる。それまでの我が侭な調子は消え去って、おろおろと慌てふためくばかりである。

「このまま砕いてしまっても良いのだが?」

「お、おい、あんまり酷いことは……」

 俺も流石に慌てる。

 っていうか、この狐っ娘、こんなに凶暴な性格をしていのか。

「ふふん、これに懲りたのなら、あまり無茶はしないことだ」

 ゆっくりと語りながら、化け狐が男の拳を離す。

 すると、二人は自らの右手を抱き締めるように背を丸めて、両膝を床に突いたまま屈み込む。とても痛々しい姿だった。とは言え、今し方には俺を殴ろうとしたのだから、同情心などは一切沸かない。

「ちょ、ちょっと、二人とも、しっかりなさいっ! 拳を潰された程度で情けないですわよっ!」

 それは無茶というものだ。

「お、お嬢様ぁ……」

「も、も、申し訳ございません……」

 涙目になりながら、湿った声を上げる黒スーツの二人。そんな彼らを前として、なんとか状況を立ち直らせようと必死なお嬢様。けれど、ボディーガード達は身を屈めたまま、情けない声を上げるばかりだった。戦意は完全に砕かれて思える。

「ほれ、今日のところはさっさと出て行くがいい」

「くっ……、こ、この屈辱、絶対に晴らして見せますわよっ!」

「この儂に喧嘩を売ろうなんぞ、百万年早い」

「お、覚えてなさいっ! 絶対に覇王の秘法は手に入れて見せますわっ!」

「って、また来るのかよ……」

「当然ですわっ!」

 自らの不利と悟ったのだろう。お嬢様一行は大慌てに我が家を後とするのだった。負傷した男二人を無理矢理に立ち上がらせて、ドタドタと足音も喧しく来た道を戻る。人使いの荒い奴だ。

 もう少しで目的の一室だったろうから、今日は残念賞といったところか。

 やがて、一行はヘリコプターへと乗り込むと、そのまま空へと飛び去って行くのだった。耳喧しいローターの音は、すぐに山間へと消えて聞こえなくなる。後に残ったのは、相変わらずな蝉の音だけである。

 なんとも騒々しい連中だろう。

◇ ◆ ◇

 お嬢様一行が逃げ帰ってから、遅めの朝食を食べた。詳しい時刻は知れないが、太陽の位置からして十時を過ぎたくらいだろうか。

 あれやこれや、先の件に関して話をしていたら、いつの間にか時刻は過ぎてしまっていた。何をする間もなく、グダグダと午前中の涼しい時間を消化である。

「それで、便所紙はどうするんだ?」

 食後、縁側に隣り合う畳部屋で寝転がっていると、枕元に化け狐が立って言う。

「あー、そっちも何とかしないとな……」

「葉っぱは嫌だぞい」

「今までは葉っぱで拭いてたんだろ? 別にいいじゃん」

「嫌だ。紙で拭きたい」

「贅沢言うなよ」

「フッ、一度でも紙に拭う快楽を知ってしまっては、なかなか妥協できないものよ……」

「なんだよ、人間みたいなこと言いやがって」

 贅沢な狐である。

 しかし、コイツの言うことには一理ある。このままでは俺まで、尻を葉っぱで拭う羽目となるからだ。今や便所紙の調達に関しては、一蓮托生の間柄と称しても不都合無い。早急に解決しなければならない課題である。

「まあ、仕方ない、なんとかして便所紙を手に入れるぞ!」

 上半身を起こして、声を上げては気合を入れる。

「おぉ、ヤル気になったか?」

「事態は一刻を争う。早急に対処しなければ、俺の尻穴だってヤバイ。葉っぱに慣れたお前の野生な尻穴と違って、俺の尻穴はとってもデリケートだからな。このままでは切痔になってしまうこと請け合いだ」

「なんだとぉ? 儂だってデリケートだぞ!」

「どこが? 葉っぱだろ?」

「葉っぱだって、具合の良い葉っぱをよぉく揉みほぐせば柔らかくなるのだ」

「だったら、初めからそれ使えよ?」

「だけど紙のが、うむ、やーらかいのだ」

「狐の癖に贅沢な……」

「ほら、そういう訳だから、さっさと便所紙を何処からでも持って来い」

「便所紙は人様の営みが作り出した品なんだよ。手に入れるには金が必要なんだよ」

「そこいらでくすねて来れば良かろう?」

「俺が警察に捕まるだろーがっ!」

「なぁに、便所紙さえ手に入れば儲けもんだ」

「俺は全力で損だよっ!」

 しかし、そうは言っても便所紙は必要だ。今までは元々便所に置いてあった和紙や、俺の鞄の中に突っ込んであったティッシュペーパーなどを利用して凌いでいた。今後、この家で長期的に暮らすともなれば、ある程度の供給元を確保する必要がある。この歳で痔なんて冗談ではない。

「お前、何か金になるような物を持ってないか?」

「金目のものか?」

「生憎、俺は教科書とノートくらいしか持ち物がないからな」

「ならば、それを売り払って便所紙を買えば良いだろう? あ、いや、そのまえに、その教科書やノートとやらの拭き心地を試してからでも遅くはないか……」

「勉強道具で尻を拭くんじゃねーよっ!」

「分からんぞ? 拭いてみれば、もしかしたら具合が良いかもしれん」

「良くて堪るかっ!」

 ヤクザの取立てを逃れた数少ない私物だ。こんなところでアホ狐の尻にくれてやるには惜しすぎる。悔し過ぎる。そして、勉強道具の存在を語りに出して、今更ながら、自分がまだ義務教育中にある学生だと思い起こした。学校も行かずに、こんな山奥で何をやっているのやら。

「そう言うなら、ほら、お前だって髪の毛とか売れるんじゃないか? そのキラキラ具合だったら物好きが買うだろうに。っていうか、間違いなく買うな。客を選べば大きく儲けられそうだぞ」

「なぬっ! 儂の毛かっ!?」

「そこいらの変態親父の前で、私の髪の毛、買って? とか言えば、きっと、数万くらいにいはなるって。おお、いいじゃん、それで行こうぜ。便所紙なら数年分はまとめて買えるぞっ!」

「お主、その股の間にぶら下がっているものを根っこから引っこ抜くぞい?」

「いい案だろ?」

「いくないわっ!」

 どうやら、割と大切なものらしい。

 良い案だと思ったのに残念である。

「じゃ、他に何か金になりそうなものないのか?」

「うぅむ……、そういえば山向こうにアレがあったような……」

「アレ?」

「ちょいと面倒じゃが、便所紙には変えられぬ。ちょいと待っておるがいい」

「え、あ、おい、何処へ行くんだよ」

「金目の物をかっぱらって来るぞい」

「は?」

「では、ちょいと行ってくるのだー!」

 何を思い出したのだろう。こちらが止める間も無く化け狐は縁側より庭へと飛び出した。かっぱらうなどと、物騒な話だ。俺まで面倒事に巻き込まれては堪らない。詳しい事情を聞きだそうと、大慌てに起き上がり、後を追おうとした。

 しかし、どうにも足の速い奴だ。縁側の板を踏んだ時点で、その姿は林の中へと消えてしまった。まさか人里から金品を奪ってくるつもりではなかろうか。そう考えると、頭痛の種が一つ増えた気分だった。

 後に残ったのは差し出したまま行き先を失った右腕である。

「まったく、何だよアイツは……」

 とは言え、行ってしまったのだから仕方が無い。

 俺は俺で、自分にできることを行うとしよう。

 差し当たっては、依然として問題の山積みである我が家の掃除だ。

「……まあいいか」

 その日、俺は屋敷の周囲の草抜きに精を出して一日を過ごした。