金髪ロリ達観クールラノベ 第一巻

第一話

「………小さい神社だな」

道路に面した鳥居を抜けて、その先に続く石畳の緩い坂道と幾段かの階段を上る。道は直線的に社殿まで続いており、両側には路を囲むように幾本もの樹木が植えられていた。石畳の道を抜けると、そこは小さな広場になっていた。奥には十数段の階段を置いて、8畳程の規模の小さな社殿があった。また、広場に入ってすぐ右側には、老朽化が進んで今にも倒壊しそうな舞台らしき小屋がある。

「それにしても、ボロいし……」

夜の静かな境内に、人が地を踏みしめる音だけが響いていた。

武人の呟きどおり、そこはかなりこじんまりとした神社であった。見るべき要所も無ければ、足を休ませるベンチさえ用意されていない。確かに、重ねてきた年月はそれなりに感じられるが、有り余った時間を消費する場所としては、明らかに不向きであった。東京暮らしに慣れた彼としては、数百円を支払って漫画喫茶やゲームセンターにでも足を運びたい衝動に駆られたが、生憎とこの周辺にそのようなハイカラな店は存在しない。しかたなく拝殿の前に作られた階段の段差に腰を下ろして足を休める事とした。

「はぁ……、なんだってこんな田舎なんだ」

まだ時刻は8時を回ってさえいない。それにもかかわらず、周囲から聞こえてくるのは虫の鳴く音ばかりである。しかも外灯の類が設置されていない神社は真っ暗だ。人の喧騒も、車の排気音も、全く聞こえてこない。田舎では当たり前のこの空間が、東京を出て来たばかりの彼に取っては、酷く落ち着けない環境に思えた。普段から傍にあるものが突然なくなると、人は軽いパニックに陥るのだという。

「しかも蚊が多いし、最悪だよ」

自らの腕に吸い付いた薮蚊を叩いて殺し、手についた黒い染みを渋い顔で眺める。もとより窓を開ける必要さえ無い、完璧な空調環境の整った高層マンションの一室に居を構えていた彼としては、許しがたい不快感であった。これならば携帯ゲーム機の1つでも、荷物の中から漁ってくるべきだったと、過去の自分を小さく罵る。

深い溜息をついて見上げた空は雲ひとつなく、月明かりに照らされて青々と広がる夜の空が、木々の枝の間から目に映った。そこに浮かぶ星の瞬きも、良く澄んだ大気の元にっては、同じ空であるにもかからず、東京とは比べ物にならない程の数があった。

「…………それに暑い」

とはいえ、湿度が60%を越える夏の熱帯夜にあっては、いくら心に響く感動だって色褪せるのは仕方が無い。武人としては、頭上に広がる美しい光景よりも、エアコンの良く効いた効いた自室が恋しかった。

それから、暫くは拝殿の前に腰を落ち着かせて、ジンジンと痺れる両足を休めていた。しかし、何もやることなく一定の場所でジッとしていることが苦手な性格もあって、その数分後には、重い腰を再び上げて立ち上がった。

それから、特に目的もなく境内をウロウロと歩き回ったり、無造作に立てられた石塔に触れてみたり、拝殿の裏に回ってみたりと、有り余る時間を潰すべく行動に出た。だが、如何せん何も無い場所だ。規模の小さな神社であったこともあり、散策は数分と経たぬうちに終わった。第一、夜で周囲は真っ暗だ。見るべきものがあったとしても、満足に確認することも叶わない。いや、気づくことすら難しい。

身体を動かした事で、自然と額には汗が浮かぶ。また、気づかぬ間に蚊に血を吸われており、暫くすると腕や足の数箇所から猛烈な痒みが湧き上がってきた。耐え切れず掻いた爪の先には、薄っすらと赤いものが滲んでいる。

不快指数は鰻上りだった。

「ああもう、イライラするなぁっ!」

方向性の定まらない怒りを露にしてそう言い放つと、突然、彼はズボンのポケットから財布を取り出した。そして、何をどう考えたのか、先程父親から貰った幾枚かの千円紙幣のうち一枚を取り出し、それを拝殿に設置された賽銭箱へ放り投げた。

武人の手から離れた紙幣はヒラヒラと宙を舞い、狙い通り賽銭箱の中へ、吸い込まれるようにして入っていく。こんなことをして鬱憤が晴れるのかと、正直疑問に思うような行為ではある。だが、自暴自棄になって街頭のボランティア団体に高額の寄付をする大人が世間に絶えず存在する以上、彼の行為も内面的にはそれなりに効果のあるものに違いなかった。

「ったく……」

無駄に息を荒くして、武人はその場で地団駄を踏む。彼は同世代の人間と比較して、割と感情の起伏が激しい青年である。度重なる自己の不利益と疲労に耐え切れなくなったのだった。

賽銭を投げ入れて、しかし、拝殿に吊るされた鈴付きの縄を揺らす事も無く、暗い地面に視線を落としていた。月の明るい今夜にあっては、外灯が一切無くとも、地に落ちている木の葉の形さえ難なく判断できる。今日は満月だった。

武人が黙ると、周囲に響くものは虫の鳴く音色だけになる。

俯いたまま顔を上げない彼は、ただジッとその場で立ち尽くしていた。

何故に自分がこのような田舎に引っ越さなければならないのか? 今後の生活はどうなるのか? 新しい高校では上手くやっていけるのか? 等々、不安と苛立ちの交じり合った愚痴と疑念の無限連鎖である。彼の精神的なキャパシティは同世代の人間のそれと比べて小さいのだ。

そんなときであった。

武人の他に誰も居ないはずの境内に、人が地を踏む音が響いたのだ。

サクっという枯葉を踏む乾いた音が彼の耳に届いた。

それに驚いた武人がビクリと身体を震わせて顔を上げる。すると、その視界の隅に写ったのは、社殿の奥から現れた一人の少女であった。こんな時間に子供が一人で? などという疑問は、都会っ子の彼にしてみれば意味の無いものである。ただ、突如として現れた少女を目の当たりにして、彼が驚いた理由はその容姿にあった。

「き、着物……?」

その身に纏っているのは薄手の着物である。無地の淡い青色を基本にして、地味な百合の刺繍を施しただけの簡素な作りをしている。帯は柄の無い白一色だ。しかし、月明かりを浴びて黄金色に輝く腰下まで伸びた長髪、雪の様に色白い肌、掘りの深い端整な顔立ち、するりと伸びた長い四肢、彼女を形作る造形の素晴らしさに、武人にはそれが天の羽衣に勝るとも劣らない一品に感じられた。

彼が子供だと知覚した通り、少女の身の丈は武人の腹の辺りまでしかなかった。小さな身体とあどけなさを残す幼い顔つきから判断するに、年齢は一桁に違いない。加えて、何故か少女は靴を履いていなかった。素足のまま地面の上に立っているのだ。日本人とは思えない程の白く滑らかな素肌が、着物の裾からスラリと覗いている様は、明らかに年下な相手にも関わらず、女性経験の無い武人の心を強くと揺さぶった。

武人を見た少女は、その目を細めて音も無くにんまりと笑う。

そして、ゆっくりと口を開いた。

「まさか、このご時勢に千円も貰えるとはおもわなんだ。礼を言うぞぇ」

「ぞ、ぞぇ?」

発せられたのは随分と古めかしい言葉遣いである。その突拍子も無い反応に、武人は思わず鸚鵡返しに聞き返してしまっていた。

「これだけあれば、良い油揚げが買えるだろうのぉ」

少女の手には一枚の紙幣らしき紙切れが握られている。光源が月明かりのみという暗がりの下で、数メートルの距離を置いてその額面を判断するのは不可能だった。しかし、今の言葉を信じるのならば、それは千円札ということになる。それは丁度、武人が賽銭箱へ放り込んだ額と等しい。

「ぬしに感謝じゃ」

少女は手にした紙幣を顔の前に持ってきて、ヒラヒラと揺さぶっては、嬉しそうに笑ってみせた。

「だ、誰だよ君は……」

他に対処の言葉も浮かばなかった武人は、そう短く呟いた。まさか人が出てくるとは思ってもいなかったのだ。驚きに自然と足が後ずさっていた。少女は社殿の左側から現れて、そこから数歩だけ武人へ近づき、そして立ち止まった。二人の間には数メートル程度の距離がある。

「我の名かぇ? 我は……そうじゃなぁ……」

尋ねられた少女は、その本来ならば悩むはずの無い回答に、しかし、暫し口を閉ざして思考を巡らせた。そして、再び音の無くなった境内の重苦しい沈黙に耐えかねた武人が、おずおずと口を開こうとしたとき、それを遮るように自らの名を告げた。

「静奈(しずな)とでも名乗ろうかのぉ」

凛とした声が耳に届いた。暗い夜の境内にあって、真紅に光る少女の瞳が彼を捉える。それは良く磨かれたルビーさえ劣って見える程の輝きを持ち、見つめ合う者の意識さえ奪い取ってしまいそうな深い色合いの瞳であった。

「静奈?」

特にその意味を考える事も無く反射的に問い返していた。

「そうだぞぇ?」

武人の言葉に頷いて、自らを静奈と呼称する少女はゆっくりと歩き出した。一方で武人はといえば、段々と近づいてくる少女にどう対応すれば良いかが分からずに、その場で棒立ちになったままだ。思考は軽く混乱気味で、相手の姿をぼぅっと眺めていた。

「どうした? 我の姿がそんなに珍しいか?」

気づけば少女は彼のすぐ前にまで来ていた。手を伸ばせば届く位置に、その華奢な身体はある。着物の裾からスラリと伸びた四肢は、黄金色である髪の色と同様に、日本人離れした白の色彩を、月夜の光を受けることでぼんやりと闇に浮かび上がらせている。その様子は、相手が同じ人間でありながら、まるで別世界からやってきた存在であるように、神秘的に感じられた。

「い、いや、別にそんなんじゃないよっ」

彼女の姿に見とれてしまっていたことによる、罪悪感と羞恥の混ざり合った感情の渦に呑まれて、慌てた武人は両手を振って否定した。すると、そんな彼の姿が面白かったのか、静奈はその目を細めてニタリと笑みを作ってみせた。

「それにしても、この辺では見ない顔よのぉ。何処から来たのじゃ?」

「え、えっと、東京からだけど……」

自分のペースを掴めないまま、少女の問いに従って素直に答えた。

「ほぉ、それはまた遠いところからよく来たな」

すると、静奈の口からは感嘆の声が上がった。

「我も其の地へは幾回か訪れた事があるが、それも幾分昔のことゆえ、今の姿は想像に難しいぞぇ。どうじゃ、其の都はどんな具合か?」

「どんな具合って言われても……、そりゃ、まあ、普通に都市部って感じだよ。ビルとか沢山あるし、車も引っ切り無しに走ってるし、人は多いし」

対処に困る質問を受けて、しどろもどろしながら答える。そもそも、どのような地方に住んでいようと、それこそ海外に住んでいようと、東京の姿などテレビやインターネットを通して幾らでも目にすることが出来る筈だ。この時代錯誤な振る舞いの少女は、もしかして知的障害者の類であったりするのではないだろうか? そんな疑問がふと武人の頭に浮かんだ。

「そうか、都は今も尚その繁栄を保っているのか。人の営みというものも侮れぬものよのぉ。今一度見に行ってみるのも悪くは無いかもしれん」

「……なんだよそれ」

まるで自分が馬鹿にされているような感覚である。これで相手が老年の者であったのなら、こういった会話もありだろう。けれど、彼の前に立つのは、まだ歳半端な女の子である。それが、「人の営みも侮れぬ……」などと言われた日には、武人としてもどうして良いのか判断がつかない。

「夜も遅いし、そろそろ家に帰ったほうがいいよ?」

本来、こんな事を子供に言って聞かせるような性格をしている彼では無い。だが、他にかける言葉も無く、また共通の話題も見出せない武人は、そう苦し紛れに口を開いた。

「ふふん、我の家の門限は際限無しじゃ。好きなまでこの場で遊んでいるが良いのだぞ? ぬしも暇ならば我の相手をせよ」

「いや、悪いけど、僕は君と遊んでいられるほど暇じゃないんだ。一人で遊んでいてくれないかい? っていうか、門限に際限が無くても、君みたいな子供が夜に一人で出歩くのは危ないと思うけど?」

実際は滅茶苦茶に暇を持て余している。しかし、もとより子供の相手をすることは苦手な武人だ。それが、このようなおかしな言動の、何処の誰とも知れぬ相手ともなれば、避けて通りたいと思わないほうがおかしい。

「そうなのか? 残念じゃな」

それに、公園で遊んでいた子供にお菓子を与えただけで警察に捕まってしまうこのご時勢である。下手に見知らぬ小さな子供と係わり合いを持つのは危険である。君子危うきに近寄らず、とは彼の座右の銘であった。

けれど、そんな武人の心情を知ってか知らずか、心底残念そうな表情を作ってうな垂れる少女の姿はあまりにも儚くて、彼の意思は答えて数秒と経たずに揺らぎ始めた。それはまるで、断った彼が悪者であるかのような落胆振りである。肩を落として伏せられた顔は、まるで静かに声も無く泣いているようにも見えたのであった。

「ぅぐ……」

基本的に、強く出られると断ることの出来ない性格の彼は、そんな少女の姿を目の当たりにして、すぐに前言を撤回せざるを得なくなった。

「わ、わかったよ。遊んでやるよ」

渋々といった様子で頷く。

すると、静奈の伏せられていた顔がスッと上げられた。

「本当かぇ?」

上目使いで伺いを立ててくる様子はとても可愛らしい。

「でも、少しだけだからな?」

口を尖らせて言う武人の言葉に、静奈は小さく頷いて、嬉しそうに目を細めた。

「わかっておる。ならば、はよう遊ぼうぞ。こちに我のお手玉がある。これで一緒に遊ぼうぞ」

そして、少女は懐からボロボロの布の塊を幾つか取り出した。小さな手に掴まれて、継ぎ接ぎだらけの布生地に包まれた小豆が、シャラシャラと軽い音を響かせる。所々に綻びの確認できるお手玉は、その生地の模様が元はどのようなものであったのかさえ分からない程に薄れてしまっている。きっと年老いた家族に譲って貰ったのだろう。相当に年季が入っていることが伺えた。

「お手玉か……、話には聞いたことがあるけど、実際にやるのは初めてだ」

お手玉などという古風な玩具を始めて見る現代っ子の武人は、思わず目をしばたかせた。要は大道芸の真似事だろう、というのが彼の認識だ。

「ならば我が主に教えてやるぞぇ」

武人の前にあって、静奈は手にしていたお手玉のひとつを宙に投げた。投げられたお手玉は放物線を描いて右手から左手へ、彼女の顔の前を通過して移動する。その間に、手の内に握られていた他のお手玉を、始めに投げたお手玉と同様の軌跡を採るよう、順番に宙へ投げ上げてゆく。そして、全てのお手玉は静奈の両手の間を縦に楕円を描くようにして、クルクルと綺麗に回り始めた。

「ほら、こうして遊ぶのじゃ。簡単じゃろう?」

少女はお手玉をしながら、得意げな表情で語りかけてくる。

だが、目の前で行われているそれは、武人からすれば単なる遊びというより、確たる技術の上にある技能にとして感じられた。下手な者が行えば、それはそれで遊びとして認識出来る。だが、目の前の少女が興じるそれは、遊びというには少々過ぎた代物であった。なんせ、彼女の手の内で回されているお手玉の数は合計で8個にも及ぶ。そして、全てが流れを滞らせること無く、延々と綺麗に回り続けているのだ。その様子を目の当たりにした武人は、投げかけられた言葉に頷く事も忘れて、感嘆の声を漏らしていた。

「凄いなぁ……」

ポカンと口を半開きにしたまま、華麗に操られているお手玉に目は釘付けであった。

「そうかぇ?」

一方の静奈は、驚く武人の反応が理解できないのか、お手玉を操る手をそのままに、首を傾げて見せた。

「凄いよ。だって、こんなに沢山のお手玉を回してるじゃないか。驚いたよ」

月夜の晩にあっても、時間帯が時間帯である。手元は薄暗く視界は良くない。そんな悪環境での披露である。それを、自分よりも年下の子供がやってのけているという事実が、武人を深く感心させていた。

「我のお手玉はそんなに凄いのかぇ?」

今までお手玉に関して誉められたことが無かったのだろうか。自らの有する技能を理解していない素振りの静奈がかしげた首をそのままに聞き返す。

「そうだよ、凄いよ」

武人は素直に頷いて答えた。

「そうなのかぇ、我のお手玉は凄いのかぇ」

しきりに感心してみせる武人の様子に静奈も気を良くしたらしい。笑みを浮かべ頷いてみせた。

「ならば、お手玉の凄い我が教えれば、きっと、すぐにぬしもお手玉が凄くなろう。さぁ、共に遊ぼうぞぇ?」

少女は両手の間で回していたお手玉の流れを止め、宙で回っていたお手玉の全てを両手の内に回収する。

「ぼ、僕は……無理かもなぁ……」

「なぁに、人間は器用な生き物なのだ。すぐに出来ようになるだろう」

そして、渋る武人にそのうちの3つを手渡した。

「さぁ、我の動きに合わせて一緒にやろう」

手の平に乗せられたお手玉を見つめて、武人は考える。

新居の片づけが終わったら電話すると父親は言っていた。けれど、その連絡は未だに来ていない。家一軒分の荷物を運び込もうというのだ、時間もそれなりに必要だろう。義人と別れてから、時刻まだ30分程度しか経過していない。ならば、今この時間は、少女と共にお手玉に興じてみるのも悪くないかもしれない。

「そうだな、やってみるか」

お手玉の数を5つに変えて、再び両手を動かし始めた静奈に習うように、武人も手渡されたお手玉を宙に放り投げた。当然、お手玉という遊びを初めて行う武人が、静奈の様に上手く出来るはずも無く、布袋は数秒と持たずに手の間からこぼれて地に落ちた。しかし、普段ならばすぐに飽きてしまうであろう、そんな古めかしい遊びを、しかし、彼はポケットの中の携帯電話が鳴るまでの間、夢中になって興じたのであった。

翌日、普段から使用している目覚まし時計の電子音とは異なる、耳の痛くなるような甲高い金属音を耳にして武人は目を覚ました。

「っ!?」

それまで深い眠りの中にあった意識は、数秒の間をおくことなく即座に覚醒する。心臓の鼓動は一瞬で平時のそれを越える。開かれたばかりの瞳に写ったのは、テフロン加工も艶やかな新品のフライパンと、これまた買ったばかりの曇りひとつ無いスチール製のお玉、そして、朗らかな笑みを浮かべる父親の姿であった。

「おはよう、目は覚めたようだな」

息子の目が開かれたことを確認して義人は満足げに頷いた。

「い、いきなり何すんだよっ!」

薄手の掛け布団をベッドの上から剥ぎ捨てて、抗議の声を上げる。元より粗雑な性格の父親であるとは認識していた。だが、流石に朝からこのような横暴に出られては堪らない。憤怒を露に食って掛かる。

「何ってお前、目覚まし見てみろよ」

だが、そんな息子の怒りを軽く受け流した義人は、ベッドの横に据え付けられたナイトテーブルの上に鎮座するアナログ式の目覚まし時計をお玉で指し示した。鼻の上に皺を作る武人は、それでも、到底冷め切らぬであろう感情の波立ちを抱えたまま、素直にそちらへ視線を向けた。

するとどうだろう。時計の針は昨晩にアラームを設定した時刻を30分も過ぎているではないか。昨日は神社から家に帰った後、夕食に際して父親から、転校先の学校の始業時間が午前8時50分であると聞かされていた。対して、目覚まし時計の針が指し示す現在の時刻は、午前8時10分であった。通学には1時間程度を見積もっておけと説明されていた手前、この時刻が、本日の遅刻を確実なものとしているのは、その場の二人にとって明白であった。

「なんでアラームが鳴らないんだよっ!」

当の本人も、それまでの怒りを忘れて軽い混乱状態である。

「そんなこと俺が知るかよ。っていうか、転校初日に遅刻なんて最悪だぞ?」

「ぐっ……」

ベッドの上に座ったまま、武人は寝癖で乱れた頭髪を掻き毟る。その様子をニヤニヤと薄笑いを浮かべて眺める義人の姿は、どう見ても、朝を寝すごしてうろたえる自らの息子の様を楽しんでいるように思われる。

「なんでもっと早く起こしてくれなかったんだよっ!」

「言っておくが、俺は2度ほど声を掛けたぞ? それでも起きなかったのは何処のどいつだと思う? 目覚まし時計だって、しっかりと鳴っていたんだぞ?」

「そ、そんな馬鹿なっ!?」

「馬鹿はお前だ、さっさと起きて学校の支度をしろ」

「クソッ……」

父親の言葉に素直に従うのには抵抗を感じるが、この上なく正論に違いない。ベッドから降りた武人はクローゼットを開き、その中からハンガーにかけられた真新しい制服を取り出す。急いで登校の準備をし始めた。

「あと、飯はどうする? 一応作ってあるけど食ってくか?」

「そんなの食べてる暇があるわけ無いだろっ!? 食べないで行くっ!」

「そうか? せっかく奮発してピザトーストなんか作ってみたりしたのになぁ」

「アンタはうるさいよっ!」

武人も自分が義人にからかわれている事は重々承知している。時折ちょっかいを出してくる父親の無視を決め込んで、手早くパジャマから学生服へと着替えを済ませる。教科書の類は学校で貰う手筈となっている。準備すべきは学生服と、中身の無い空の学生かばん、それに筆記用具だけである。

「けどお前、今から幾ら急いだところで、町へ出る電車が無いんだから、今日の遅刻は確実だぞ?」

「な、なんだよそれっ!?」

「この辺りを東京と一緒にするなよな。電車なんて多くても一時間に2,3本しかないんだ。一本逃せば遅刻するのは当然なんだよ」

「だったら僕はどうすればいいんだよっ!? 転校初日から遅刻なんて、目も当てられないじゃないかっ!」

「そうだなぁ、ひとつ、手が無いというわけでもないんだけど……」

微かな望さえも絶たれ焦り具合を加速させる息子に、義人は人差し指を一本立てて、芝居がかった調子で言ってみせた。

「だったら教えろよっ! 早くっ!」

転校生にとって、転校先のクラスへ上手く溶け込めるかどうかは、初訪問時の第一印象が大きく影響する。それは小学校から中学校へ、中学校から高校へ、学外進級を経験したことのある者なら誰でも理解できるだろう。教育課程の遷移毎に行われる一連の自己紹介。そこでどれだけ面白いことが言えたかにより、以降の学校生活を送る中で、自らを囲う友達の輪の色が決定される。そして、それは転校に関しても例外ではない。その事を過去2回の転校経験から理解している武人としては、今の状況は気が気でなかった。

「別に電車に乗らなくたって、これに乗っていけばいいだろう?」

そして、吼える息子に父親は一本の鍵を差し出した。

鍵に繋がれたホルダーには、小さな字で細長く Kawasaki という英字が掘り込まれている。それは昨晩、家の庭先でチラつかされた鍵と同一のものであった。無論、何の鍵であるかは言うまでも無いだろう。

「まさか、本気であれに乗っていけって言ってるの?」

「他に手があるか?」

「それだったら父さんが車まで送ってくれればいいだろっ!」

「こっちへ来るときはバイクで来たから、車はまだ東京だ」

「な、なんだよそれっ! 普通は車優先だろっ!?」

「どうする? 自分で運転するのが嫌なら俺が乗せていってやろうか?」

「ば、馬鹿言わないでよっ! そんなの死んでも御免だねっ!! っていうか、命が幾つあっても足りないだろっ!!!」

「そうかぁ? わりかし安全には気を使っているんだがなぁ」

「寝言は寝て言えっ!」

そして、幾ら吼えてみたところで現状は改善されない。幾ら父親に当たってみたところで学校の始業時刻は遅れてくれない。ただ、刻々と時刻は無常に過ぎてゆくだけである。

「クソッ」

背に腹は代えられない。苦虫を噛み潰したような表情で、父親が手に揺らしていた鍵を引っ手繰った武人は、玄関を目指して駆けることと相成った。

「乗るの久しぶりなんだから、気をつけて行けよぉ~」

そんな息子の後姿を、父は嬉しそうな笑みを浮かべて見送った。

午前8時55分を過ぎた長野県立木崎高等学校の朝に、突如として爆音が鳴り響いた。

水冷4ストロークV型2気筒エンジンから発せられる鼓動は力強く、装着されたディトナ社製のフィッシュテールマフラーはJMCAの認定を受けているかどうかも危うい轟音を響かせて、校内で机に向かう生徒達に、その存在感をこれでもかと言うほどに主張していた。

そして、その音源である自動二輪に跨った武人は、初めて訪れる高校にあって、誤って裏門から校内へ侵入してしまい、駐車場を求め彷徨いながら、周囲へ耳障りな騒音を撒き散らしているのであった。腕時計が示す時刻は既に始業時刻を過ぎてしまっている。そのことが、エンジンを止めて押し歩く、という常識的な思考さえ棄却させてしまうほどに、彼を追い立てていた。高が遅刻程度で何を焦る必要がある、と淡白に考える事が出来ないのは、彼が小心者故である。

とはいえ、それだけの喧しい自動二輪が校内を走行していれば、高校側が黙っている筈も無い。幸か不幸か、武人は自ら駐車場を発見する前に、その場へ駆けてきた高校の教職員によって発見された。

武人が必死になって事情を説明すると、その場へ駆けて来た中年の男性教員は、ひとまず彼を学徒用の駐輪場まで案内してくれた。そして、通常ならば自転車が5台は止められるだけのスペースを占有して、無理やり自動二輪を止めさせると、その足で武人を職員室まで連れて行った。

職員室では登校初日にして教頭及び校長から厳重注意を受けることとなった。ただ、幸いにして彼が元住んでいた東京の交通事情をよく理解する教師が職員室におり、その助けを受けて事なきを得た。

その後、学校の紹介を受ける間もなく、武人はこの学校での新たな配属先である2年B組へ向かうこととなった。案内役は同クラスで本日一時間目に行われる授業を担当するのだという数学教師だ。なにぶん彼が遅刻してきたことで、朝のホームルームを利用した転校生の紹介が行えないという理由から、一時間目の授業を削って、その時間に当てるのだという。ちなみに、その数学教師というのが、職員室で彼の弁護をしてくれた教師でもある。

身の丈は義人と同程度だろうか。武人より頭一つ分大きく、190センチ程ある。ほど良く整った顔とスラリと伸びた足の長い長身は、女子生徒達にさぞ人気があることだろう。教師という職業柄故か、穏やかな笑みを浮べる面構えには滲み出る知性が感じられる。所謂、頼れる兄貴を絵に描いたような人物であった。彼は横を早歩きで進む武人に、同じく足早に歩きながら行き先の指示をだす。教室へ向かうまでの間に、この学校の校風と、2年B組の生徒達の大まかな雰囲気を教えてくれた。

そして、いよいよ転校先の教室が武人の目の前まで迫った。

先導して数学教師が教室のドアを開け、その中へと入っていった。武人は教師の合図があるまで、廊下で待機である。差し迫った瞬間を前に、どうせなら教師と一緒に入ったほうが気分的に楽なのに、などと心中で愚痴を零す。

「あぁ……、何度転校しても、こればっかりは慣れないよ」

胸に手を当てて、鼓動を早くする心臓を落ち着かせようと深呼吸などしてみる。数学教師が入って数秒の後に、教室からは幾人もの生徒達が上げる、歓声にも似たざわめきが聞こえてきた。どうやら、このクラスに転校生が来るという情報が、事前に伝わっていなかったらしい。こうなると、彼にかかるプレッシャーも更に荷重を増す。

彼は小中高と進学転校を繰り返すも、そのこと如くで酷い虐めに合っていた。今回の引越しに至った理由の一端には、そんな事情も含まれている。もしここで再び虐めに合うようなことが起これば、それこそ親に向ける顔が無い。だからこそ緊張も一入だった。

「…………」

幸いなことに、顔の造りは自他共に認める造形を有しているので、第一印象で引かれることは無いだろう。しかし、人目に晒されることに慣れていない武人である。30人を超える同世代の男女を前にして自己紹介は、相当に覚悟の要る作業であった。まだ生徒の目に触れられていない今でも、足が震えるほどに緊張してしまっている。これでは教室に入ってから、そこでクラスメイト達を前にして、上がってしまう可能性が非常に高い。

「…………」

しばらくして、教師の説明が終わったらしい。

教室の中から武人を呼ぶ声が聞こえてきた。

「は、はいっ」

緊張により多少裏返った声で返事を返して、右足と右手を同時に前に出しながら、武人は教室の中へと入っていった。

すると、その姿を目の当たりにした生徒達から一斉に声が上がる。

「おぉぉ……」 「なんだ、男かよ」

「あ、ちょっとカッコいいかも」 「イケメンかよ……」

「結構良くない?」 「ブサメンよりはいいけどさぁ」

「ふーん」 「私はタイプじゃないなぁ」

合計38名の生徒を抱える長野県立木崎高等学校の2年B組、クラスメイト全ての視線が、武人を品定めするように集中していた。教室の至る所から各人、思い思いの感想が聞こえてくる。だが、届く数多の声も緊張に震える彼にしては、右耳から入ってすぐに左耳から抜けていってしまう。転校経験自体は過去に二度ある彼だが、この瞬間だけは、いつまで経っても、何度の転校を経験しても、決して慣れることが出来ない。

ただ、そんな中で唯一、彼の頭に強く響く声があった。

「あ、貴方は昨日の……」

騒がしい教室にあって、その声は周囲の生徒達の喧騒を抜けて武人の元まで辿り着いた。理由は、投げかけられた言葉に込められた意味が、明らかに他の者達と異なっていたからである。

「えっ?」

思わず、声のした方向へ視線を向ける。

そこに居たのは艶のある黒髪のおかっぱが印象的な、背丈の小さい女の子であった。学校指定の制服に身を包み、二重の大きな眼差しが優しそうな印象を与える、休日の図書館が似合いそうな可愛らしい女子生徒だった。

少女が居るのは、教室に並ぶ机の列の最後尾にあって、その最も窓側にある、生徒達にとっては、全国共通で一番人気のある席である。多くの生徒達の好奇の視線に晒されてなお、少女の瞳は揺らぐことなく、驚きの表情で武人を見つめていた。クラスメイト達の好奇心は自然と二人の関係に向けられることとなった。

「もしかして知り合い?」 「マジで!?」

「っていうか、どういう関係?」 「山野さんの元彼?」

「えぇっ!!」 「そうなのっ!?」

勝手な憶測は僅かな間に、その形を支離滅裂に変えて、生徒達の間を止める間もなく巡る。あっと言う間に教室のざわめきは頂点へ達し、その喧騒は壁を一枚はさんだ隣のクラスへも届く程となった。

しかし、それを長く許すほど教師も生徒に優しくは無い。

「ほらほら、転校生も困ってるじゃないか。静かにしなさい」

放っておいては収集が付かないことを悟った数学教師が、活発な意見交換を始めた生徒達の前で手を打ってみせた。それを前にして、生徒達はおとなしく騒ぎを収めた。ただ、耳に届く音は失せようとも、好奇の視線が向けられていることには変わり無い。下手に静まり返った分だけ、武人は自らに向けられる視線を更に強く感じてしまう。

「ほら、芹沢君、黒板を使っていいから自己紹介をして」

教卓の前から退いた数学教師が武人を促す。

彼としては、ここが正念場であった。

容姿は決して悪くない。寧ろ良い。転校先である2年B組に在籍する同姓の生徒全員と比較しても、彼が最も良い顔の作りをしていると言える。彼の隣に立つ数学教師もかなり良い顔をしているが、武人もそれに負けず劣らずである。だから、特に意識して自己アピールをしなくても、外見を武器とすれば、あとは普通にしているだけで自然とクラスに溶け込むことは出来るだろう。

そして、元より口下手な武人には積極的な自己紹介など無理な話だ。極めて無難な自己紹介を心に決めて、壇上へ歩みを進めた。皆が口を閉じ静まり返った教室に、武人の歩く足音だけが響く。

チョークを手に取り、黒板に自分の名前を控えめに書いた。

「名前は芹沢武人です」

幼い頃より習っていた硬筆塾のおかげで、そこに示された字は達筆であった。彼の書いた字を当たりにして、生徒達の間から小さな歓声が上がる。それはそれで、極度の緊張にありながらなかなか心地の良いものであった。

「この度は、父の仕事の都合で此方の学校へ転校する運びとなりました」

教卓の後ろでは、クラスメイトの視線が届かない所で膝がガタガタと震えている。だが、そんな緊張も決して顔には出すことなく、彼曰く「強靭な精神力」によって押さえつけている。高が数分の事である。必死に自分に言い聞かせていた。

「この学校へ転校してくる前は、東京の東京学芸大学附属高等学校に通っていました。環境の大きく異なる町にあって、まだ右も左もわからない状況にあります」

涼しい顔の下には、極度の緊張によって、強張ったまま動けないでいる顔筋がある。額にはうっすらと冷や汗を流しているが、幸いにして前髪が長いので隠れてくれていた。ここまで来ると、病的と言っても良い精神の脆弱性だった。

「よろしければ皆さん、この学校のこと、地域のこと、色々と教えてください」

短い挨拶を終えて、武人は静々と頭を下げた。

そんな時だ、武人のごく平凡なる転校挨拶の締めは、教室の隅で上がった女子生徒の大仰な叫び声によって、無残にもかき消されることとなった。

「ちょ、ちょっとぉっ! それって本当なのっ!?」

それまで座っていた椅子を倒し、一人の女子生徒が立ち上がった。

「なんでそんな奴がここに居るのよっ!」

立ち上がった女子生徒は、目を丸くして隣に座る女子生徒と向き合っていた。スチール製のパイプが床を打つ大きな音を耳にして、教室中の生徒の視線が、武人からその女子生徒へと移動する。立ち上がった女子生徒の隣の席に座っているのは、先程、武人に声を掛けてきたおかっぱの小柄な女子学生である。

「…………ぇ?」

出鼻をくじかれたのは武人である。

頭を下げようとして、腰を半分曲げた姿勢で静止したまま、声を発した女子生徒に目を向けて固まっている。

「山野、それって本当なのっ!?」

武人の自己紹介などそっちのけである。その女子生徒は大きな声を上げて、隣の席に座る友人、山野と呼ばれた少女に詰め寄るようにして話しかけていた。

「なんだ、どうした柳沢」

数学教師が声を掛けると、椅子から立ち上がった女子生徒はハッとした表情を作って正面を向いた。

「え、あ、いや、なんでもありません。すみません」

そして、あわてた様子で今し方自らが倒してしまった椅子を元あった通りに直して着席した。その様子を、隣の席に座る山野は何を言うでもなくジッと見つめている。視線の先にある女子生徒は、クラスメイト達の無言の重圧に耐えられずに、机に向かい顔を伏せてしまった。

「まあ……、じゃあ、そういう訳だから、皆も彼が困っていたら手助けしてあげるようにな」

これで話は終わりだ、といった様子で数学教師が強引に話をまとめにかかる。そんな彼と目と目が合った武人は、自分の腰が中途半端に曲がったままになっていることに気づいて、慌てて背筋を伸ばした。

「それで、このクラスの担任から仰せつかった君の席は……、この列の一番後ろに空きがあるだろう。そこが今日から今学期が終了するまでの間、君が利用する席だ。黒板から遠くて悪いが我慢してくれ」

そして、これまたなんという偶然だろう。数学教師の指し示した席は、例の山野と呼ばれた少女の後ろの席であった。教室に並ぶ机の縦列のうち一番窓側の列、その最後尾である。

「はい」

素直に頷いて数学教師の指し示した席へと向かった。机と机の間を通る際に、幾人かの生徒が軽い挨拶をしてきたので、それにも確りと応じておくことを忘れない。

また、山野と呼ばれた少女の後ろという事は、必然的に先程素っ頓狂な声を上げた女子生徒の左斜め後ろの席となる。横を通り過ぎる際には、どういうわけか、鋭い視線で睨まれた。困惑を隠せない武人は、しかし、今この場で問いただすことも出来ずに、自らの席へ腰を落ち着けた。

「じゃあ、このまま1時間目の数学に入るからなー」

そして、武人が席に着いたことを確認した数学教師は、本来の業務を全うすべく、教室内を見渡して声を上げた。

1時間目と2時間目の間にある10分間の休みは、武人にとって非常に慌ただしいものとなった。転校生といえば、休み時間には席の周りを囲んで質問攻め、というのが定石だ。そのご多分に漏れず、彼もまた、このクラスにおいて一躍時の人となるのだった。

ただ、彼の場合は一般的なそれとは多少異なる。

きっかけは、この高校に転校してきた記念だと言って、1時間目の数学の時間に、担当教師が武人を幾度となく名指しして数学の問題を解かせたことによる。周囲の生徒達は知らないようであったが、彼が転校前に在学していた東京学芸大学附属高等学校は日本屈指の進学校である。それを理解していた数学教師ならではの話題作りであったのだろう。もしかしたら、腕試しを兼ねていたのかもしれない。

そして、教師の出す問題の全てを、武人は一切悩むことなく、スラスラと解いて見せたのである。問題を解いた本人は転校生であったので、事の裏を理解していなかったのだが、提示された問題のいずれもは、このクラスにあって解ける者の殆どいない、難問奇問ばかりであった。その全てを出題から間髪置かずに解いてみせたのだから、関心を持たれない筈が無い。

「おいおい、芹沢君って凄いじゃんっ!」 「顔だけじゃないのかよ」

「めちゃくちゃ頭いいんだね」 「なんであんな問題をスラスラ解けるんだよ」

机の周りには男女関係無く、クラスメイトの大多数が集合していた。

この時点で、彼のクラスに対する印象付けは大きな成功を収めたと言っても過言ではないだろう。周囲から浴びせられる賞賛の言葉に、武人も段々と良い気分に浸り始めていた。しかし、全てが順風満帆には進まなかった。その妙にキツイ言葉が届いてきたのは、授業の間にある10分間の休み時間が七割ほどが経過した後であった。

「ねぇ、貴方」

高音の良く通る声は、生徒達の喧騒の間を抜けて武人の耳を強烈に射止めた。

「ぇ?」

音源は彼を囲う生徒の輪の外にあった。会話に夢中になっていた武人が首を横に捻ると、そこには一時間目の数学が始まる前に、椅子を倒して叫び声を上げた女子生徒、柳沢の姿があった。

周囲を囲う生徒達を押しのけるようにして、武人の前に現れる。どういう訳か眉を吊り上げて、憤りを隠そうともせずにいる。自分は何か彼女を怒らせるようなことをしたのだろうか。疑問に思い自己を問いただしてみるが、答えは出なかった。

「な、なに?」

そして、彼女の隣には山野の姿もあった。

発せられた声の雰囲気に良くないものを感じ、自然と肩を強張らせて応じる。すると、柳沢は自分の隣に立つ山野を指差して口を開いた。

「貴方、この子を知ってるわよね?」

その質問には何の意味があるのか。彼がこの街に着いたのは昨日の事である。この学校に来たのは今日が始めてだ。まさか知っている筈が無い。素直に首を横に振った。すると、その回答に何の怨恨があるのだろうか、柳沢と呼ばれた女子生徒は目くじらを立てて声を荒げた。

「嘘を言ってるんじゃないわよっ!」

「な、なんでっ!?」

いきなり憤怒の形相で怒り始めたのである。

「この子に見覚えが無いわけ無いじゃないっ!」

「いや、そんなこと言われても会ったことないし、知ってる訳が無いと思うけど……」

背丈の小さな山野とは異なり、柳沢は日本の平均的な女子高校生をやや越える背丈と、それに見合うバランスの取れたプロポーションを持っていた。背中を流れる長髪は艶やかな黒色をしている。整った顔形や、規則正しく着こなされた制服と相まって、その姿は、まさに大和撫子を絵に描いたような風貌であった。

「だから、それが嘘だって言ってるのよっ!」

「……何か勘違いしてない? もしくは人違いとか」

柳沢は興奮した様子で武人へ詰め寄る。

可愛い女の子に寄られるのは嬉しいが、それが好意的なものでないのならば話は別である。一体、自分に何の非があって攻められているのか、武人にはサッパリであった。

「黙っていたって、すぐに足はつくわよ?」

だが、そんな彼の胸中などお構いなしに、柳沢は自らのペースで話を続ける。足が付く? 一体僕が何をした? 幾ら過去を思い返してみても答えは出なかった。

「ちょ、ちょっと待ってよ。僕が何をしたって言うんだよ」

「白々しいわね。言っておくけど、下手に嘘をつくと後々厳しいわよ?」

「そんな、嘘だなんて……」

彼女は、既に武人が何某かの犯罪者であると決め付けてしまっている様である。その物言いには問答無用で非難の言葉が並ぶ。ハキハキとした思い切りの良い性格と相まって、攻められている側は、何の負い目も無い筈なのに、まるで自分が悪であるような錯覚に陥ってしまいそうになる。

だが、知らないものは知らないのだ。武人も毅然として柳沢の言葉を否定する。

「なんで僕が罪人扱いされなきゃならないんだよ。僕は君の事なんて知らないし、この町にやって来たのだって昨日なんだ。それが何の脈略も無くこの扱いは、幾らなんでも酷いだろう。っていうか、一体僕が何をしたっていうんだよ」

述べた意見は至極当然なものである。

「別にこの町へやってきたのが昨日だろうが一昨日だろうが、現に事件は起きたんだから、そこに居合わせたのが貴方だというなら、疑われるのは当然でしょう?」

「だったら、せめて事情くらい説明してよ。事件って何だよ」

一向に平行線を辿りそうな気配を感じて、武人は仕方無く相手に話を合わせて言葉を返した。出来れば、このまま係わり合いにならずに終わらせたかった。だが、こうまでしつこく絡まれたのでは、話を聞くほかに無いだろう。

すると、相手もそれに頷いて答えた。

「いいでしょう。とは言っても事の全てを知る貴方には、何を説明したところで全く意味の無いことなんでしょうが」

「だから、そういう風に決め付けないでよ」

武人としては、折角の好調な滑り出しを見せた転校が、ここへ来て唐突に暗礁に乗り上げた気分であった。

深く椅子に腰掛けなおして相手に向き直る。だが、意を決したその矢先、柳沢が話を始める間もなく、1時間目と2時間目の間にある短い10分間の休み時間は、始業の鐘のチャイムと共に終わってしまった。周囲の生徒達共々、教室に設置された黒板の右上にある掛け時計へ視線を向ける。すると、時刻は既に授業開始時間を回っており、見れば教卓の前には次の科目を担当する教師の姿があった。

「ほら、お前ら席に着けー」

チャイムが鳴り終わると、始業時刻を過ぎてなお自分の席に戻ろうとしない生徒達の姿を見かねた、年配の男性教員が声を上げた。頭皮は頭のてっぺんまでが禿げ上がり、残った髪は旋毛の周囲を申し訳程度に囲っている。深い皺の幾つも寄った顔は、そろそろ定年が近いことを示していた。

「この話はまた後でしましょう」

「したくないけど、分かったよ」

流石にそれに逆らってまで武人と言い合うつもりは無いらしい。教師の指示に従って周囲の生徒共々、柳沢は自分の席に戻っていった。この様子だと、次の休み時間にも即効で絡まれることとなるだろう。こんな田舎の町へ引っ越さざるを得なくなった、というだけでも鬱なのに、それに加えて、更に転校初日から罪人扱いされるとは、一体どんな喜劇だろう。深く大きなため息が、自然と武人の口から漏れた。

武人の予想とは異なり、柳沢と武人の言い争いは、授業が全て終わった放課後に行なわれることとなった。柳沢曰く、授業間の休みでは語るに時間が足りないのだそうだ。おかげで武人はその日一日を喉に小骨が引っ掛かったような気分で過ごす羽目となった。

彼女の話はこうである。

昨日の出来事だ。JR海ノ口駅付近のコンビニエンスストアで窃盗事件が起きたのだという。しかもそれは、店内に置かれた商品の2割近くを盗み出すという、前代未聞の大窃盗事件であり、今朝発行された地元新聞の朝刊にまで掲載されたような大きな事件なのだという。加えて、商品は大量に盗まれたものの、おかしなことにレジ内の現金は1円も盗まれていなかったのだそうだ。

そして、柳沢が言うにはその犯人が武人らしい。

これは武人自身も仰天した。

そこまで話が大きくなれば、犯人の単独での犯行であるとは、普通は考えないだろう。グループ犯であると仮定するのが妥当である。しかし、問題はそのコンビニエンスストアの防犯ビデオに写った武人の姿であった。どういう訳か、一度も立ち寄った事の無い店舗にあって、彼の姿をした何者かが、店内の物品を次から次へと手持ちの大きなゴミ袋に詰め込んでいく様子が映像として残されていたのである。犯行は大胆であり、何袋ものゴミ袋を商品でパンパンに膨らませた犯人は、それを両手に抱えられるだけ抱えて、そのまま歩いて店を後にしたのだという。犯行が弊店間際の夕刻であったことも災いした。店内には従業員しか居らず、周囲に人の姿も少なく、通報される事もなければ、現行犯では捕まえことも出来なかったのだという。

そして、驚くべき事に、窃盗にあった店舗というのが、山野の両親が経営している店舗なのだそうだ。

加えて、彼の姿をした何者かは、店の商品を奪う際に、店内で一人店子をしていた山野を拉致して、店舗の裏に荒縄でグルグル巻きにした状態で放置したらしい。それから暫く経って、店内の異変に気づいた山野の母親が警察へ連絡して事件は発覚したのだという。これにより、ことの経緯から事件は強盗事件として扱われることとなったのだそうだ。季節を間違えれば殺人未遂にさえ成っていたかも知れない。

他に生徒の居なくなった放課後の教室で、以上の説明を柳沢は一人で行った。山野はその隣で黙って二人の様子を見ているだけだ。どうやら、山野は柳沢とは対照的なおとなしい性格の女の子らしい。

「どう? これで分かったかしら?」

一通りの説明を終えた柳沢は、山野と武人を前にして一人満足気に頷いた。勝ち誇った表情を作り、自信満々の様子で聞いてくる。実際の被害者であるという山野は、彼女の隣で口を閉ざしたままである。武人の姿をした何者かによって襲われたという話からして、もしかしたら、それがトラウマとなっているのかもしれない。

「ど、どうって言われたって、そんなの僕は知らないよ」

武人には全てが冗談に聞こえた。

「自白すれば多少は罪も軽くなるわよ?」

「じょ、冗談じゃないっ!」

幾ら罪が軽くなるとは言え罪状は強盗罪である。前科一犯が付くにしても、これは大きすぎる。法定刑は5年以上の有期懲役だ。一度でも確定すればその後の人生など有って無いようなものである。

「っていうか、自首って言うのは、罪を犯した奴が捜査機関に発覚する前に出頭をすることで、その刑を減軽することができるようになるシステムだぞ。今更自首したって僕にとっては何一つ良いことなんて無いじゃないかっ!」

「あら、そうなの?」

「そうだよっ!」

武人の母親は東京で弁護士をしている。なので、彼自身もそういった方面には多少の知識がある。

「じゃあ残念、何をするにしても全てが遅かったようね」

「だから、僕はやってないって言ってるだろっ!」

武人はまだ柳沢の言うことが嘘や妄言だとしか考えられなかった。

「貴方も随分と粘るわね。幾ら否定したところで防犯カメラにはちゃんと写ってたのよ? それを否定するだけのアリバイでもあるっていうの?」

「ぐっ………」

柳沢は武人の言う事などまるで聞いていない。自分の言い分を通すことしか頭に無いようだ。とはいえ、アリバイ云々を問われると、彼としても返す言葉が無い。説明された犯行時刻には、人通りなど皆無の田舎道を一人で歩いていたのだ。

「ねぇ山野、貴方だってコイツに襲われたんでしょ? 何か言ってやりなさいよ」

どうやら、柳沢は自分の友達が襲われたことに甚く腹を立てていたらしい。それが武人に強く突っかかってきた理由だろう。お節介にも程がある、無関係な奴がでしゃばって来るなよ、と心の中で呟いて武人は山野に向き直る。

柳沢に促されて山野はようやく重い口を開いた。

「確かに、見た目はまったく同じ」

「ほら見なさい。襲われた本人がそう言っているんだから、逃れようなんてないのよ」

耳に響く甲高い声の柳沢と比べて、山野の声は、女性の割には低くて抑揚の無い、妙に落ち着いたものだった。それまで黙っていたのは自分を恐れての事だろうと勘繰っていた。だが、武人の推測には反して、語る少女の態度には、怯えの色など微塵も感じられなかった。

「でもっ、僕は君の事なんて知らないんだよ。本当に僕だったの!? 見間違いとかじゃないの!? 世の中には同じ顔の人間が3人は居るって言うだろっ!?」

敵が二人に増えて慌てる武人。

「ええ、間違いない」

少女は小さく呟いて頷く。

「けど、犯人の一人称は“私”だった」

しかし、続けられた言葉はそれまで柳沢が作ってきた話の流れと方向性を異にするものであった。予期せぬ回答を得て、武人は反射的に声を上げていた。

「え?」

彼の一人称は生まれて此の方ずっと“僕”である。

「それに口調や態度もかなり違うと思う。昨日の貴方はもっと乱暴な………、そう、少し幼い子供の様だった」

山野はジッと武人の目を見つめて語る。

「それに、当然だけど私は貴方に襲われて必死に反抗した。そのとき、無我夢中で振り回した手が、相手の手の甲を引っかいてしまったの。結構深い傷だったと思う。血もそれなりに流れていたし、私も爪が剥がれてしまった」

山野は右手の人差し指に巻かれていた包帯を外して見せる。包帯の下から現れたガーゼを外すと、そこには見ているだけで痛々しい気分にさせられる傷口があった。赤い爪下の肉が外気に触れて痛んだのだろう。小さく眉を顰める。

「けど、貴方にはその傷が無い」

んっ、と指し示された人差し指の先には武人の手の甲がある。

「だから、私には分からない」

「そ、それは本当?」

救いの手は思わぬところから差し伸べられた。

「本当」

問い返す武人に山野は小さく頷く。

「ちょ、ちょっと待ってよ。顔は一目見て分かるくらい似てるんでしょ? 本当にそれって手の甲だったの? もっと分かりにくい所を引っかいたんじゃないの? 例えば服に隠れてしまうような」

「混乱していたのは確かだから、その可能性もあると思う。けど、私は手の甲だったと記憶してる」

「言っておくけど身体の何処を見たってそんな引っかき傷なんて無いからな?」

なんとなく先の読めた展開に武人は先制する。

「そんなの見てみなくちゃ分からないじゃない」

しかし、それも柳沢を相手にしては意味の無いことであった。

「まさかここで服を脱げと?」

幾ら周囲に生徒の姿が無いとは言え、ここは教室である。いつ部活動を終えたクラスメイトがやって来るとも分からない。しかも二人の女子生徒を前にしてである。過去に女性と付き合いを持った事が無い武人としては大冒険にも程がある。

「分かってるなら話は早いわ。さっさと脱ぎなさい。でなけりゃ無理やり剥くわよ」

「…………」

有無を言わさぬ口調で柳沢が一歩前に出る。

それにあわせて武人の足は一歩後ろに下がる。

「別に下着まで脱げって言ってるんじゃないんだから。貴方も男でしょう? さっさと脱ぎなさい。それとも何? もしかして脱げないだけの理由があるの?」

「あ、あるわけ無いだろっ!」

そう言われてしまっては脱がない訳にもいかない。柳沢の言葉に素直に従うのは悔しい。しかし、ここで傷が無いことを示す事が出来たのなら、それは武人に取って非常に有利に働く。

渋々と言った様子で制服の上を脱いだ。

学校指定のワイシャツを脱ぎ、その下に来ていた無地の白いTシャツも脱いだ。

当然、そこには傷など無い。

「まだよ、ズボンも脱ぎなさい」

「ず、ズボンもなの?」

「防犯ビデオに写っていた犯人は長ズボンだったから、裾をまくる程度で十分だと思う」 思わず上ずった声を上げてしまった武人に、山野の口から救いの手が差し伸べられる。

「まあ、山野がそういうならそれでいいわよ」

「わかったよ………」

それくらいなら抵抗するまでも無い。大人しく言われたとおり、ズボンの裾を可能な範囲で捲り上げた。

「綺麗なものね」

「くっ…………」

淡々と感想を述べる山野とは対照的に、柳沢は悔しそうな表情を作る。まあ、これまで散々に武人の事を攻めていたのだ。ここへ来て予想が覆されたとあれば、むしろ非を咎められるべきは柳沢ということになる。

「これで満足した? 僕はやってないだ」

その姿を目の当たりにして武人は、やれやれと溜息を吐いて見せた。

「山野さん……だっけ? 一番良いのは、君の剥がれた爪に付いているであろう犯人の体組織をDNA鑑定することだよ。それだけ深い怪我を負わせたのなら、血液の一滴や二滴付着しているだろうから」

「申し訳ないけど、爪がもう捨ててしまったの」

病院で治療した際にね、と小さく付け加える。

「まあ、それをするまでも無く、僕が無実だって事は証明されたと考えていいんだよね。これって十分証拠になることだものね」

「ただ、顔は本当に貴方にそっくりだった。本当に瓜二つ。似ていると言うより本人そのものだと言ってもいいと思う。背丈も同じくらいだし、身が細いところもそっくり」

「だから、それは他人の空似って奴じゃないの?」

捲り上げたズボンを元に戻し、近くに机に放り投げてあったシャツに袖を通しながら問いかける。

「分からない。現実的に考えればそうかもしれない。けど、違ってるところを探す方が難しいくらい似ていたから」

「そんなこと言われても、僕はやってないとしか言えないね」

「ええ、それは理解してる」

脱いだ服を着終えた武人は教室に設置された時計へ目を向ける。

「それじゃあ僕はもう帰っていいかい? もう6時を過ぎてるし」

「ちょ、ちょっと待ちなさいよっ」

「なんでだよ? 僕が無実だってのは分かっただろ?」

「それは………そうかもしれないけど………」

柳沢は依然として納得のいかない様子だ。しかし、そんなの武人が知ったことではない。推理の外れた探偵ほど惨めなものは無いだろう。勢いを失った柳沢の姿を心の中で静かに嘲笑っておく。

「そういうことで、僕は帰るからね」

そして、強く出ることの出来ない相手に対して一方的に言い放つと、武人は放課後の教室を後にした。

慣れない道に戸惑いながら、武人が木崎湖の畔にある自宅へ着いたのは、木崎高校を後にしてから1時間後の事であった。道に慣れれば30分程度で行き来が可能な距離である。しかし、引越して間も無い彼には道を覚える必要があった。

「ただいま」

玄関の扉を開ける。

すると、Tシャツにジーンズという私服姿の上からエプロンを身に着けた義人が、リビングからタイミング良く姿を現した。どうやら、夕食の準備をしていたらしい。東京でも芹沢家は夫婦交代で食事の支度をしていたので、見慣れた姿だ。

「おお、帰ってきたか。ちょうどいい」

ニコッと笑顔を作り、腕を上げて見せる。

陽気な父親であった。

「何か用?」

そして、そんな義人の様子が腹立たしくて、武人は不機嫌そうに自分の父親を睨み付けた。元はといえば、全ての原因はこの男にあるのだと、それまでやり場の無かった怒りの矛先は、自然とそちらに向かっていた。

「それがなぁ、ちょっと夕飯の材料が足りないんだよ。駅前のコンビニまで行って買ってきてくれないか?」

「はぁ?」

義人の頼みは泣きっ面に蜂であった。これから自室に篭もり、趣味のコンピュータを心ゆくまで弄り倒そうと考えていた矢先である。しかも、駅前のコンビニとは武人が容疑をかけられている強盗事件の現場だ。

「なんで僕が行かなきゃならないんだよっ」

柳沢を相手にしていたことで蓄積した不満もあり、武人は自然と、普段以上に声を荒げて反論していた。だが、彼が挑む相手として義人は想像以上に強かった。

「だったらお前は、今日の夕食無しだな」

「な、なんだよそれっ!」

そう言われてしまえば、武人には返す言葉も無い。

「それが嫌だったら買って来い。俺はちょっと手が離せないんだよ」

「………………」

この義人という男は、見た目はいい加減に見えるが、自分が口にした事柄に関して、その全てを必ず実行してみせるだけの律儀な性格をしている。もしもこの頼みを断ったのならば、今晩の夕食は本当に一人前しか作られずに終わるだろう。

「卑怯だぞ」

「卑怯も何もないだろ。ほら、金やるから行って来いって」

エプロンのポケットから千円紙幣を一枚取り出して武人に手渡す。

武人は渋々といった様子で受け取った

「足りないのは酢だけだ。頼んだぞ」

「分かったよ……」

カラカラと笑いながらリビングへ戻っていく父親の姿を恨めしそうに見つめる。武人は家の床を一歩として踏むことなく、再び外へ出る事となった。気がつけば又しても、深く大きなため息が口から自然と漏れていた。

義人に頼まれた買い物は、JR海の口駅前のコンビニエンスストアではなく、そこから更に遠出をして、また別のコンビニエンスストアで済ませることとなった。無論、足は今朝の登校にも利用した自動二輪である。

学校であれだけしつこく話をされた後で事件現場に向かう勇気は無かった。高校へ登校する際には、眉を顰めて嫌がっていた自動二輪を再び跨いだことからも、その加減が分かろうというものである。

そして、その帰り道のことだ。

「ん?」

車道には他に車の姿も無く、交通標識に示された制限速度から更に10キロ程の速度を落としてゆったり走っていた。すると、昨晩に訪れた神社の階段の中腹辺りで、見知った顔を発見したのだ。

ブレーキを掛けて車体を車道の隅へ寄せて止める。

「静奈か?」

その印象的な黄金色の腰下にまで伸びる長髪は、日の暮れた晩にあっても、月明かりを反射して煌びやかに輝いて見えた。身に纏っている衣服は昨晩と変化無い。無地の淡い青色を基本にして、その上に地味な百合の刺繍を施しただけの簡素な作りの着物である。

「おぉ、主は昨晩に出会った、我に千円をくれた男じゃな」

武人に声をかけられて、それまで階段を上っていたであろう少女が背後を振り向いた。

「思い起こせば名前を聞いてなかったぞぇ」

「ああ、そういえばそうだったね」

エンジンを切り、スタンドを立ててバイクから降りる。脱いだ半ヘルの顎紐をハンドルに掛けた。そして、道を挟んで反対側に建つ神社の鳥居を潜る。鳥居の先に続く石で出来た階段を数段上れば、すぐに少女の下にたどり着いた。静奈は昨晩と同様に裸足だった。

「僕の名前は武人っていうんだ。武士の「武」に、「人」って書いて武人」

「ほぉ、それはなかなか良き名じゃの」

貧弱な身体つきの彼からすれば、名前負け以外の何者でもないコンプレックスの原因である。だが、自分の名前を褒められて悪い気はしない。自然と顔は笑みを浮かべていた。放課後の教室で柳沢に因縁をつけられた事も、こうして少女と話をしていれば自然と忘れられる。そんな気がした。

「名前だけじゃなくて、この身体も名前に相応しいだけのものになってくれれば良かったんだけどね。運動が苦手で、いまじゃこの通りの虚弱体質さ」

自らの胸を親指で指し示して見せる。

すると、静奈は彼の顔を覗き込むようにして、上目遣いで言葉を続けた。

「そうかぇ? 主は十分に健康そうに見えるぞぇ?」

大きな紅に燃える瞳が武人の瞳の奥を、思考の全てを読み取ってしまうのではないかと勘繰りたくなる程に深く見つめてくる。そんな少女の可愛らしい仕草に武人は思わずドキッと心臓を高鳴らせてしまった。だが、相手の年齢を想像して、危ういところで良くない妄想を否定する。

「い、いや、実はそうでもないんだよ。表面上は健康かもしれないけど、中身に色々と問題があるんだ。まあ、そうはいっても、そっから先は面倒な話になるからこれ以上は避けておくけどね」

小学生だと思われる子供を相手にして女を意識してしまった。そんな不名誉な事実を晒すわけに行かない。心中を悟られまいと両手を振り、内心非常に焦りながら、彼はその場を取り繕った。

「そうか、ならば悪い事を聞いてしまったな。許してくれ」

「別にいいよ、そんなに改まらなくても」

謝罪の言葉を述べる少女の仕草は妙に大人びて感じられた。それは同年代の子供達から感じるものとは違った、老年の賢者が持つ一種異様な雰囲気を纏っているかの様であった。まるで武人のほうが年下であるような錯覚さえ覚える。

「ところで、今日も主は我と遊んでくれるかぇ?」

武人がこの場へやって来たことに期待したのだろう。静奈がそう口を開いた。だが、彼はしがない使い走りの身分である。今日はそれだけの時間も無い。

「いや、今日は夕食の材料を持ってるから、すぐに家に帰らなきゃならないんだ」

武人が答えると、少女は彼が想像していた通り、とても残念そうな表情を作り、その場で顔を伏せてしまった。

「そうか、それでは仕方がないのぉ」

「悪いね」

下手に物品の提出が遅れれば、夕食が危ういのだ。期待に満ちた眼差しを前にして断るのは、正直、気の引ける行為である。だが仕方が無い。そして、とても申し訳なさそうな様子を見せるの武人の姿を目の当たりにして、静奈自身もまた、それ以上残念がるのは悪いと感じたのだろう。すぐに話題を変えてくれた。

「ところで、主は今晩の夕食に何を食べるのじゃ?」

「え、僕の家の夕飯?」

自然と武人の意識は、車道の脇に止めた自動二輪のサイドバックに詰められた、白いコンビニエンスストアのビニール袋に行く。それは3件ものコンビニエンスストアを梯子してようやく手に入れたものである。この辺りは夜の7時を過ぎて営業しているような店舗も少なく、思いのほか長い距離を走る事となったのだ。引っ越したばかりで地理に疎いという点も大きい。

「今日の夕飯は稲荷寿司だよ」

彼の父から酢を買って来いと言われたら、他に想像できる料理は無かった。

すると、彼の言葉を聴いた途端に静奈の目の色が変わった。

「なんと、稲荷寿司となっ!?」

それまでの物静かな出で立ちから一変して、その大きくてくりくりとした可愛らしい紅の瞳をクワッと見開く。身を乗り出すようにして鸚鵡返しに聞いてきた。武人は、彼女の突然の変わりように多少の驚きを感じながら、首を縦に振って応じた。

「う、うん。それが親父の好物でさ、月に数回の割合で僕の家の食卓には稲荷寿司が並ぶんだよ。他の種類のお寿司は無くて、ただ、稲荷寿司だけ並ぶんだよ。まったく、おかしな話だよ」

無理やり付き合わされる身としては、正直、堪ったものではない。けれど、そんな彼の心情などいざ知らず、静奈は目を輝かせて、武人に羨望の眼差しを向けていた。

「そ、それは、なんと羨ましいことか」

「君も稲荷寿司が好きなの?」

少女の明らかな変化に確信を持って聞いてみる。

返ってきたのは力強い肯定の頷きであった。

「うむ、とても好きじゃ」

静奈は満面の笑みを浮かべて頷いた。

その様子からして、稲荷寿司が相当な好物なのであろうことは容易に想像された。

「君もその歳で稲荷寿司が好きなんて珍しいね」

これくらいの年齢の子供が好む食品といえば、カレーやハンバーグ、それにケーキやプリンといった洋食、洋菓子だろう。例外も多々あるだろうが、それでも、稲荷寿司が大好物だと宣言する子供は珍しい。

容姿や言動が相当に浮世絵離れしている静奈であるが、それは嗜好に関しても例外では無いようだ。もし、その小さなお尻に尻尾の一本でも生えていたのなら、きっと勢い良く左右にパタパタと振られる様子が見られたであろう。そんな想像を自然としてしまう程に、静奈は稲荷寿司という単語に良く反応していた。

「我には、あの甘い油揚げと酢の効いた白米の組み合わせが溜まらんぞぇ。人間が作ったものとしては至高の一品じゃ。今にも涎が溢れてきそうじゃ」

「そ、そう?」

「そうなのじゃ。揚げに甘い味を付けるとは、人間の独創力もなかなか素晴らしいものがあると思うぞぇ。酢飯を抱き合わせる案も悪くない。酢の醸し出す酸味が溜まらんのよのぉ」

両手で稲荷寿司を模してみせる。

「あと、揚げが白米の外を囲っておるから、歯を立てた瞬間に、そこに滲みていた甘い汁が滲み出て来るであろう? それがまた溜まらんぞぇ」

どれだけ稲荷寿司が好きなのだろうか。静奈はウットリとした表情を作り、遠い目をしながら自身の持つ稲荷寿司への意見を語ってみせる。きっと、放っておけば幾らでも喋り続けるだろう。そんな様子がヒシヒシと感じられた。

そして、そのあまりの反応の良さに、会話の相手をしていた武人も思わず、

「だったら君、僕の家に夕食を食べに来る?」

などと、目の前の少女を自宅での夕食に誘っていたのだった。

それを受けた静奈は、先程にも増して驚いた様子を見せる。

期待に満ち溢れた瞳を月明かりに爛々と輝かせながら、それでいて、おずおずと隠し切れぬ喜びを身に纏いつつ、武人の提案を遠慮がちに聞き返してきた。

「ほ、本当に良いのかぇ?」

「うん、別に人数が一人増えたところで、親父は毎度大量の稲荷寿司を作るから、お腹一杯食べられると思うよ。いつも、夕食が稲荷寿司だった日の翌日は、その朝食まで稲荷寿司を食べさせられていたくらいだし」

「それは素晴らしいことじゃ。我は毎日三食が稲荷寿司でも一向に構わぬぞぇ」

武人がそう尋ねた理由の一つには、少女の出で立ちから来るものもあった。

このような日も落ちて幾分か経った時刻にありながら、薄暗い神社で一人、しかも裸足で佇んでいるのだ。家庭に何か事情でもあるのではないだろうか。そんな勘繰りをしてしまったのだ。これは都会に生きてきた現代人の感覚として、ごく普通のものだと言える。いや、現代の日本では全国共通の認識だろう。ここで彼女を夕食に誘った事により、後々何かしらの面倒事に巻き込まれる可能性は否定できない。けれど、自らの好物を話題にして、ここまで無邪気にはしゃいでみせる少女の姿を目の当たりにしてしまっては、誘いの言葉の一つや二つ、自然と口をついて出てしまうのも仕方の無いことだろう。幸いにして彼の父親は、こういった息子の行動に広く寛容な心を持っている。殊更、それが同じ嗜好を持った同士だとすれば、喜んで食卓への同席を認めてくれるだろう。

「じゃあ、一緒に僕の家に行こう」

「ああ、ありがとう。我はとても楽しみじゃ」

嬉しそうに心弾む返事を返す少女を伴って石畳の階段を下る。道端には止めたばかりの自動二輪がある。降りて間もないのでエンジンはまだ暖かい。

神社と自宅は歩いても十分に行き来できる距離関係にある。けれど、200Kgを越える二輪の車体を押して歩くとなると話は別だ。

「じゃあ、これ被ってね」

そう言って、自らの半ヘルを静奈に手渡してシートに跨った。ヘルメットは一つしかないが、この様な田舎ならば、警察の巡回に出くわす事も早々あるまい。そう考えてハンドルを握る。

「我もこれに乗るのかぇ?」

「そうだよ。僕の後ろに乗って」

そう答えながらサイドスタンドを倒し、キーを回してエンジンをかける。神社のすぐ隣には民家がある。無駄に音量の大きな排気音は、乗っている本人だって耳障りだ。出来る限りアクセルを絞り、音を抑えてクラッチを繋げた。

「おお、動いたぞぇ」

「動くよ。落ちないようにちゃんと僕に掴まっててよ?」

武人は自分の身体に少女の腕が回されていることを確認して、徐々に速度を上げる。

二人を乗せた自動二輪は、夜の木崎湖の畔をゆっくりと走り出した。

武人の予想通り、義人は二つ返事で静奈を芹沢家の食卓に受け入れた。

静奈は稲荷寿司を食べられるのが余程嬉しいのか、キッチンからダイニングへ箸や皿を運んだり、テーブルの上に食器を並べたりと、食卓の準備にも率先して参加していた。背丈の小さな子供が背伸びをしながら懸命に家事の手伝いをしている姿は、なんとも微笑ましい光景であった。

そして全ての仕度が終わった今、食卓の席に着いた彼女の前には、義人によって作られた数十にも及ぶ稲荷寿司の大群があった。ダイニングテーブルの上に置かれた幾つもの皿には稲荷寿司が所狭しと並べられている。

「おぉ……、素晴らしい光景じゃ」

静奈は紅色の大きな瞳を輝かせて、食卓に歓喜の眼差しを送っている。

「よし、じゃあ食べるか。まだ冷蔵庫の中にも沢山入ってるから、静奈ちゃんも遠慮しないで、好きなだけ食べいいぞ」

「ほ、本当かっ!? 我は好きなだけ食べていいのかぇ!?」

静奈は驚いて卓上に身を乗り出す。見開かれたその瞳から想像するに、義人の言葉は少女にとって想定外であったらしい。

「構わないとも。幾らでも食べるといい」

義人が頷くと、静奈は見開かれていた瞳を一変して細め、とても嬉しそうに破顔一笑した。

「それはありがたい。主に感謝じゃ」

「なに、感謝なら息子にしてやってくれ。お前さんを誘ってきたのはコイツだからな」

義人に言われて、静奈は自らの隣に座った武人に向き直り、再び礼を口にした。

「そうじゃったな。主にも感謝じゃ」

満面の笑みを浮かべて静奈はペコリとその小さな頭を下げる。

「べ、別に礼なんていいよ。それよりも早く食べようよ」

他人から感謝される事に慣れていない武人には、少女の真っ直ぐな好意に、どういたしまして、と返すだけの余裕が無かった。愛らしい笑顔を前にして照れてしまったのだ。それを隠そうとして、手元にあった箸を掴み稲荷寿司に伸ばす。

「そうじゃな」

静奈もそれに習い、手近な皿に乗ったひとつに箸を向ける。

卓上には義人が作った稲荷寿司のほかに、武人が別途コンビニエンスストアで購入してきた惣菜が幾つか並んでいた。流石に稲荷寿司だけでは栄養が偏るだろう、という大義名分の下で、彼なりの父に対する些細な抵抗である。

始めの一口を食べて、静奈は瞳を輝かせてその味に感動していた。それに気を良くした義人が彼女の皿にガンガン稲荷寿司を取り分ける。そんな二人のやり取りを呆れ半分に眺めながら、武人は慣れ親しんだ父の料理を淡々と口へ運んだ。二人が口に稲荷寿司を頬張る姿を確認して、義人もまた自らの食事を始める。

だが、そんな穏やかな食卓にあるとき異変が起きた。

まず初めに気がついたのは武人である。

1つ目の稲荷寿司を食べ終え、視線を手元の皿から隣に座る静奈へ移した際の出来事である。そこに見慣れないものを見つけたのだ。それは静奈の背と、その後ろにある椅子の背もたれの間からはみ出していた。

「し、尻尾ぉっ!?」

彼の上げた素っ頓狂な声が指し示すとおり、そこにあったのは黄金色の毛がフサフサと茂る動物の尻尾であった。枕にすればその夜は安眠が確約されること間違いないであろう、とても気持ちの良さそうな概観をしている。太さは大体、成人男性の太股より少し太い程度だろうか。形は狐のそれに良く似ていた。

「尻尾がどうした?」

武人の声に反応した義人が、皿から顔を上げて正面を見た。すると、彼もまた目の前に座っている者の姿を目の当たりにして、武人と同様の反応を示した。

「み、耳ぃっ!?」

そう、尻尾ばかりでなく、静奈の頭には尻尾と同じ色の毛に覆われた、可愛らしい耳が生えていた。形は三角形で先が少し尖がっている。室内照明に照らされて黄金色に輝くそれは、尻尾と同様に、やはり狐のものであるように感じられる。

「ん、なんじゃ?」

二人の声に反応して、静奈の意識が皿の上の稲荷寿司から周囲へ移る。

「どうかしたのかぇ?」

自身を見つめたまま固まってしまっている武人と義人を前にして首を傾げてみせる。

その問いに答えたのは武人だった。

「な、なぁ………、なんか、尻尾とか付いてないか?」

静奈の背中と椅子の背もたれとの間に現れたものを人差し指で指し示しながら、おずおずと指摘する。そこには間違いなく尻尾がある。時折、小さく上下左右に揺れている様子からして、そこにあるものが紛い物である可能性は低い。

「ぬっ……」

武人の指が指し示す先へ視線を向けた静奈は、自らの体の変化を知って、些か驚いた表情を作った。

「うぬぅ、これは抜かった。あまりにも稲荷寿司が美味いせいで、尻尾を隠すに気が抜けてしまったようじゃ」

箸を持つ右手はそのままに、空いた左手でお尻の辺りから生え出たフサフサの尻尾を掴んだ静奈はバツの悪そうな表情を作る。そして、二人の顔と机の上に並んだ稲荷寿司の軍勢を見比べる。

「その尻尾って、作り物? いや、作り物じゃないよね?」

予期せぬ展開に身体を強張らせた武人が、おずおずとした口調で問う。それまで何も無かった所に突如として現れたのだ。幾らなんでも、着いた席のすぐ隣で獣耳や尻尾を身体へ取り付けていたりしたのなら、その挙動の一端に気づく筈だ。にもかかわらず、この少女は彼が稲荷寿司を一つ食べる間に、そのような素振りを一切表に出すことなく化けて見せたのである。

「そうじゃな………。この尻尾は紛う事無く我の尻尾じゃ」

静奈の手から離れて、長い黄金色の毛に覆われた尻尾がパタリと小さく振るわれる。その動きはどう考えても、人の手による機械的な実装では実現できそうにない、滑らかかつ自然なものであった。

「それに、この耳も我の耳じゃ」

静奈の声に応じて尻尾から耳へ二人の意識が移る。角の丸まった三角形の耳がピクピクと動いた。本来の人の耳は依然として顔の側面に付いているが、それに加えて新たに現れた耳もまた、同様に機能しているらしい。

「……………」

自らの持っていた常識を覆された武人は軽い混乱状態にあった。確かに、少しは変わった子だとは感じていた。けれど、幾らなんでも尻尾と耳が付いているとは誰が想像出来ようか。

「むぅ……、主等を騙していた事は侘びようぞ」

言葉を失う武人を前にして、静奈は少し気を落とした様子で謝罪の言葉を口にした。

「いや、別に……騙された気はしないから謝られても困るんだけど……」

武人にしても、生まれてから今日に至るまで、それなりの人生経験を積んで来たつもりである。不良にいじめられて好きな子の前で裸にされた事もあったし、車に引かれたこともある。病に倒れ病院へ入院したことだってあるし、海外へ出たこともある。けれど、今、目の前にある光景から来る衝撃の大きさは、それらの非ではない。

「我は狐の化け物じゃ。今はこうして人の形を取っておるが、それも気を抜けば耳や尻尾が顔を出してしまう。しかし、よもやこれほどの稲荷寿司を前にバレてしまうとは、運が無いのぉ」

そう語って、箸を机の上に置いた静奈は席を立つ。

「悔やまれるが、主等に人を呼ばれては敵わぬ、我はこれで去るとしようかぇ」

その顔には、少し残念そうな笑みが浮かんでいた。

「え、ちょ、去るって何処へっ!?」

語る静奈の周囲に淡い霧が掛かり始めた。初めは視界が薄く霞む程度であった。しかし、霧は段々と濃度を上げてゆき、すぐに視界は白で埋め尽くされた。その靄の向こう側には確かに人の気配が感じられるが、静奈の姿は見えない。

「人と話をするのは随分と久しい事であったが、我はなかなか楽しめたぞぇ。それに稲荷寿司も美味かった。主等に感謝じゃ」

かなりの勢いを持って充満し始めた霧は、既に一寸先も把握できない程に濃くリビングを覆っていた。前に伸ばした自らの手を視認する事も適わない。だが、それだけの濃霧の中に居て何故か湿度を感じないのは、それが実際には霧でなく、それ以外の不思議な何か、であるからだろう。

「ではな」

唐突な別れの言葉が霧の向こう側から耳に響く。

武人と少女の付き合いは、昨日と今日で2回顔を合わせた程度の仲でしかない。時間にしてしまえば数時間足らずである。二人の間には大した思い入れがあるわけでもない。友達とも言えないような間柄だ。ただ、何故か武人には、その静奈の言葉が酷く寂しく感じられた。

「し、静奈っ!?」

他に返す言葉も思い浮かばずに、武人は声を出して少女の名前を呼んでいた。

そのときである。

何かが武人の鼻先を掠めたのだ。

「あひゃぇうっ!?」

そして、それと同時に白い靄の中から随分と可愛らしい悲鳴が聞こえてきた。声の主は静奈に違いあるまい。ただ、武人には悲鳴の理由が分からなかった。

状況が飲み込めないまま暫くそのままで待っていた。すると、リビングに充満していた白い霧が霧散し始め、徐々に視界が開けてきた。目を凝らすと、薄まった霧の向こうには金色の長い髪が見て取れた。どうやら静奈は、まだこの場に居るらしい。

「静奈?」

段々と晴れてくる霧の中で、その場に立つ静奈は、何故か自分の足元に落ちている稲荷寿司を見つめてから、義人に口を尖らせて抗議の声を上げた。

「主よ、食べ物は大切にしろと母親に教えられなかったのかぇ?」

鋭く細められた赤い瞳が義人を見つめている。その表情は明らかに彼女が怒っていることを示唆していた。しかし、そんな彼女を前にして、義人は特に悪びれた風も無く、軽く言葉を返す。

「ああ、ごめんな。他に投げるものが無かったんだ。箸とか皿は硬いから当たったら痛いだろうし、コップの水は冷たいだろ。稲荷寿司は柔らかくて安全だ」

どうやら、先程、霧の中で武人の鼻先を掠めたのは卓上に並んだ稲荷寿司の一つであったようだ。揚げの中に詰まった酢飯を撒き散らして、ひとつだけ寂しく床に落ちている。しかし、義人はどうして稲荷寿司を投げたのか。武人には自らの父親の行動が全く理解できなかった。

「我に稲荷寿司を投げつけるとは、主も中々肝っ玉の太い男よのぉ?」

それまで帰る気満々であった静奈が、ずいと一歩、義人の座るダイニングテーブルに近づく。その姿は小学校低学年程度の小柄な身体つきの少女であるにもかかわらず、妙な迫力が感じられた。

「何馬鹿な事やってんだよクソ親父っ! 人様に稲荷寿司投げつけるなんて、どういう神経してんだよっ! 罰が当たるぞっ!?」

だが、続けざまに何かを口にしようとして、更に歩を進めた静奈ではあったが、横から割り込んできた自らの父親を叱る武人の言葉に、一度は開きかけた口を閉じて、意識をそちらに向けた。

「いや、別に悪気があった訳じゃないんだぞ? ただ、俺はその子ともう少し話がしたいと思ってだな……」

「だからって稲荷寿司投げるなよっ!」

「悪かったって」

「悪いと思うなら初めからやるなっ!」

怒鳴る武人に小さく頭を下げる義人。まるで父と子の立場が入れ替わってしまったかの様な錯覚を覚えるやり取りだった。そして、非難の声を上げながらも、「まったく、勿体無いことしやがって」などと愚痴を吐きつつ、武人は自発的にキッチンへ雑巾を取りに席を立つ。

一度は閉じられた静奈の口が再び義人に向けて開かれた。

「では主よ、我に稲荷寿司を投げつけてまで話したかったものとはなんぞぇ?」

相手を品定めするような眼差しで、静奈は義人を眺めている。

「いや、なんていうか……」

返す言葉に迷う義人は、首を傾げてリビングの天上へ視線を向けた。なにやら真面目な表情になり、小さく唸り声を上げて悩む素振りを見せる。そして、暫くの後に何かを決心した様子で、静奈へ向き直り相手の目をジッと見つめた。

義人は言った。

「君、今日からうちのペットになってくれないか?」

それは突拍子も無い発言であった。

稲荷寿司を投げつけただけでは飽き足らず、その上更に、客としてやって来た者を呼びつけて、ペットにならないか? ときたものだ。一体どれだけ馬鹿なのかこの男は。武人は頭が痛くなるのを感じた。気づけばキッチンからリビングへ雑巾片手に戻ってくる過程で、手にしたボロ雑巾を父親の顔目掛けて投げつけていた。

だが、それを顔面で受け取りながらも、義人は至って真面目そうな顔で続ける。

「駄目か?」

駄目に決まっているだろう。

「主は人の身でありながら、我を家畜に望むかぇ?」

静奈の赤く大きな瞳が大きく見開かれたかと思うと、それまで以上に鋭く細められた。相手の姿を矢で射止めるかの様に見つめている。だが、義人もそれに負けじと、真正面から彼女に向き合い、相手の瞳を強く見つめ返して話を進める。武人としても、今日ほど自分の父親の思考回路を強く疑った事は無い。

「君は自分を狐の化け物だという。それなら、頭もかなり切れるんだろ?」

顔にへばり付いたボロ雑巾を除けて机の上に置きながら問う。

「そうじゃな、少なくとも主に劣るとは思えんぞぇ」

言葉を返す静奈は、明らかに義人を見下した態度を取る。稲荷寿司を投げつけられたのが原因か。それともペットになって欲しいと言われたのが原因か。又は、その両方であるのか。いずれにせよ、今までの無邪気だった彼女と比較するに、義人の馬鹿げた対応に立腹しているのは明らかだった。

「だから、君に一つ頼みがあるんだ」

「この期に及んで頼みごとかぇ?」

黄金色の毛に覆われた静奈の尻尾がパシンと宙で力強く波を打つ。だが、それさえ気にした風も無く義人は言葉を続ける。

「君には、是非とも俺の息子の教育係になってやって欲しいんだ。言葉を変えれば、いわゆる『お目付け役』ってやつだな。今風に言うと、家庭教師っていうのもありかもしれない」

そして、続けざまに語られたそれは、武人としては静奈をペット呼ばわりする事と同等に衝撃的な提案であった。

「ペットっていうのは……、まあ、君の気を引こうとしてのこじ付けだと思って欲しいな。都会のマンション暮らしでペットを飼えなかったから、ペットが欲しいっていう願いは嘘じゃないんだけど、それはまた別の話で」

すでに部屋に充満していた白い霧は完全に霧散している。リビングは元あった状態に戻っていた。家具やテレビには露がついた形跡も無い。やはり、先程の霧は普通の霧ではなかったらしい。頭に生えた耳や、お尻に生えた尻尾といい、静奈は普通の人間とは大きく異なる存在の様だ。

「………」

語る義人に静奈は無言のまま耳を傾けている。

「息子は、学校の勉強は出来るけど、そのおかげで妙に頭でっかちな性格をしているんだ。だから友達も少ないし、同級生には虐められるし、かなり駄目な奴なんだよ。俺の血を継いでるから顔はそれなりに見れたものなのに、どうしてかね」

「ちょ、ちょっと待ってよっ!」

とんでもない暴言を耳にして吼える息子。だが、それに構わず父親は話を続ける。

「だから、そこんところを博識な狐様に何とかして貰えないかな、とか思ったんだけれど、やっぱり駄目ですかね? 今回の引越しも、原因の一端はコイツの不甲斐なさから来てるんだ」

「………………」

切望の眼差しを向けてくる者に、静奈は無言を突き通して、視線だけをジッと向けていた。そこに込められた圧力は、耳と尻尾を見なければただの子供にしか見えないのに、武人には非常に恐ろしいものだと感じられた。

無論、その間は頼み込む側である義人も、相手の眼を見つめたまま、身体を微動だにせずに向かい合う。まるで二人は視線だけで静かに喧嘩をしている様にも思えた。

それから、そんな時間が一体どれほど続いただろうか。10分以上に渡っていたような気もするし、実は1分も経っていなかったようにも感じられる。長かったのか、短かったのか、武人に至っては、緊張のあまりに正確な時間を体感できないでいた。

音の無いリビングに、無言の重圧に押し伸ばされて彎曲した歪で不安定な時間が刻々と流れる。武人の額に浮かんだ冷や汗が、頬を伝ってフローリングの床にポタリと音を立てて落ちた。それが切欠となったのだろうか。

「まったく、主も随分と図太い神経の持ち主じゃのぉ」

先に折れたのは静奈であった。

「我を捕まえて飼狐になれなどと物申した奴は初めてじゃ」

やれやれ、といった様子で、それまでの人を刺すような鋭い視線を元の涼しげなそれに戻した静奈は、半分諦めた様な口調で呟いた。その調子はつい数分前に食卓へ着いた時の彼女となんら変わり無い。

「主よ、我を雇うというならば、それ相応の報酬が必要だぞぇ?」

「それだったら良い案がある」

静奈の反応に、義人はよし来たと言わんばかりに口を開いた。

「もしも君が息子のお目付け役になってくれたのなら、もちろん衣食住は保障するし、それに加えて毎日の食事に稲荷寿司を5つ付ける。それでどうだ?」

五本の指を広げて、手のひらを前に突き出してみせる。

「ほぉ……」

「君は稲荷寿司が凄く好きなんだろう?」

その条件は静奈にとって、どれほど魅力的だったのだろうか。小さな口から感嘆の息が漏れた。だが、古くからの伝承によれば狐とは欲深い生き物である。静奈にしても、それは例外でなかった。彼女はあくまで表情を崩すこと無く、淡々とした様子で報酬に対する異議を申し立てた。

「7つだな。それ以上は負けられん」

それは、なんとも可愛らしい取引だった。

「わかった。毎日7つの稲荷寿司を約束しよう」

初めから作ると決めているならば、1つや2つの差異など、作る側にしてみれば大した問題ではない。義人は快く頷いて答えた。それに、稲荷寿司は調理人自身も大の好物である。例え毎日作るにしても、決して苦ではないだろう。

「うむ、ならば、我は今日から主の息子の目付け役となろうぞぇ」

快く首を縦に振った義人の反応に、静奈も嬉しそうな笑みを浮かべて応じた。

一時はどうなるかと肝を冷やした武人であったが、なんとか、元の鞘に納まってくれたことに、ホッと無出を撫で下ろした。本人の確認も無く、勝手に「お目付け役」を決められている辺りに疑問を覚えない訳ではない。だが、目の前で家族や知人が言い争っている姿に極度のストレスを感じる小心者の彼としては、この期に及んで話を蒸し返す訳にもいかない。仕方の無い妥協点であった。

「よし、そうと決まれば善は急げだ。今から静奈さんの部屋を用意して来るぞ」

「う、うん……」

すぐさま席を立った義人は、色々と整理のつかない息子の胸中をそのままに、颯爽とリビングを飛び出していった。バタンと大きな音を立てて部屋のドアが閉まる。いつの間にか義人の中では静奈ちゃんが、静奈さんに変わっていた。もしかしたら、先ほどの睨みあいは思いのほか彼にダメージを与えていたのかもしれない。

「と、とりあえず、席に着いたら?」

後に残された妙な雰囲気に緊張して、上ずった声を上げる武人。

「ああ、そうじゃな。稲荷寿司もまだ二つしか食べておらんかったしな」

促されて静奈はもと座っていた席に再び腰をかける。

武人は床に落ちた稲荷寿司を拾い上げ、フローリングに付いた汚れを雑巾でふき取る。

「それにしても、主の親父は随分と可笑しな性格をしておるのぉ?」

床にしゃがみ込んだ武人を見つめて、静奈が苦笑交じりに呟いた。

「それは僕も同感だよ。あんなのが自分の父親だと考えると、眩暈がするね」

そして、手にした雑巾を父親の椅子の上に置いて、武人もまた自分の席に座った。

「まさか我も、人間の目付け役を頼まれるとは思っても見なかったぞぇ」

「ああ、うん……。ごめん。変な事に巻き込んじゃってさ。もし、君が嫌だっていうなら、別に辞めてくれてもいいよ? 親父が勝手に言い出した事だし、君も迷惑だろう?」

他にやる事も無く、目の前の皿に乗っていた稲荷寿司を摘まんで口に運ぶ。

すぐ隣では尻尾と耳を生やしたままの静奈が、武人と同様に稲荷寿司をパクついている。黄金色の尾は椅子の背もたれと背中に挟まれながら、それでもなお、嬉しそうに左右にゆっくりと振られている。稲荷寿司が美味しいらしい。

「いや、我は既に主の親父と契約を結んだのじゃ。それを今更覆す気は毛頭無いぞぇ。なにより、この美味い稲荷寿司を毎日食べられるのは我にも魅力的な条件じゃ」

「………そう、ならいいけど」

「まあ、よろしく頼むぞぇ?」

稲荷寿司7つで釣れた化け物を横目に眺めながら、既に味もまともに分からなくなった口の中のそれを飲み込む。

「………うん」

事実は小説より奇なり、とはよく言う常套句である。だが、幾らなんでもこれはやりすぎだろう。そう突っ込まずにはいられない武人であった。

次の日、武人が目を覚ましたのは、枕元に置かれた目覚まし時計の聞き慣れたアラーム音ではなく、腹部に感じる妙な圧迫感によってであった。

「ん………」

目脂でくっつく眦を人差し指で擦る。すると、開けた視界の先で待っていたのは、黄金色の長髪が麗しい、Tシャツとデニム生地の短パンという出で立ちをした静奈であった。ちなみに狐の耳と尻尾は隠れている。というか、この衣服はいつの間に用意したのだろうか。謎である。

「朝じゃ、起きろ」

仰向けに横たわる武人の身体を跨いで、その上にちょこんと座っている。

「主の親父に主を起こせと頼まれたのじゃ。はよう起きるがよいぞぇ」

「………」

彼女の姿を確認してからの数秒は、自分の置かれた状況を理解できなかった。だが、幸いな事に、すぐに昨晩の出来事を思い出すことが出来た。おかげで、ベッドの上で慌てふためくには至らずに済んだ。

「ああ……、静奈か」

「そうじゃ、静奈じゃ」

普段ならば、意識が戻ってからも布団の中で数分間は惰眠を貪るのが慣習となっていた。しかし、今日という日は、想定外の目覚めを受けて、脳みそは二度寝を要求することも無くすぐに覚醒した。

「目が覚めたのならば居間に行くぞぇ」

腹の上から声が掛かる。

「分かった。着替えてから行くから、静奈は先に行っててくれよ」

「うむ」

武人の言葉に応じて、彼の腹部から降りた静奈はとてとてと部屋から出て行った。枕元の目覚まし時計に目を向ければ、時刻はアラームをセットした午前7時を前にして、午前6時半である。彼のここ数年での目覚めにおける最高記録を樹立していた。

「まだ、7時にもなってないじゃん」

とはいえ、父親に起こされたならまだしも、静奈に起こされたとあっては、妙な遠慮が働いて、再び布団に戻ることも出来ない。なるほど、親父も上手いこと考えたものだ、などと武人は脳内で一人愚痴をこぼして、素直に学生服へ着替え始めた。

それから、顔を洗って階下のリビングへ向かった。そこでは既に朝食を取っている義人と静奈の姿があった。ちなみに、義人はトーストに目玉焼きという至って普通の朝食を食べているが、その向かいに座る静奈は昨晩に続けて、早速、稲荷寿司を皿の上に乗せていた。

「あのさぁ、朝食から稲荷寿司はどうかと思うんだけど……」

稲荷寿司の材料自体は油揚げに白米という、日本の朝食へごく一般的に並ぶものだ。しかしながら、その濃い味付けと鼻腔に強く残る独自的な酢の匂いは、朝起きて食べるには多少の重荷を感じざるを得ない。

「我は稲荷寿司が好きなのじゃ。一日三食を稲荷寿司でもかまわんぞぇ」

「そういうもの?」

「そういうものなのじゃ」

しかし、当の本人はとても嬉しそうな笑顔を浮かべて、箸を進めている。それ以上物申す気にもなれず、武人は小さく頷いて静奈の隣にある自らの席に腰を落ち着けた。血圧の低い彼としては、朝食などむしろ食べなくても良いくらいだと考えている。鼻に届く酢飯の香りは暴力的にさえ感じられた。

「いただきます」

自分の為に用意されたトーストに手を伸ばす。

「今日は珍しく早く起きてきたな。やっぱり、静奈さんに起こしてもらったのが良かったか?」

義人がニヤニヤとした笑みを浮かべて武人に問う。

「………どうだかね」

「どうやら、俺の案は正解だったようだな」

「うるさいよっ」

手にしたトーストへバターを薄く塗って口へ運ぶ。

「おかげで今日は電車に間に合いそうだな」

「昨日は電車に乗り遅れて酷い目にあったからね。バイクなんて二度と御免だ」

「バイクっていうのは日頃から乗ってないと動かなくなっちまうんだぞ?」

「それを狙って乗らないんだよ」

「酷いやつだな」

つれない息子に義人は小さくため息を吐いた。

昨日とは違い今日は家を出るまで30分近い余裕がある。おかげでこうして朝食をゆっくりと食べる事も出来る。武人は薄切りのトーストを胃の中へ送り込み、次いで目玉焼きへ手を伸ばす。

そんなとき、玄関のチャイムが音を立てた。

「ん?」

「客かぇ?」

「そうみたいだな」

口元のパン屑を手で払い、義人が席を立つ。

「こんな朝っぱらから一体誰だろうな」

「っていうか、この辺に知り合いなんているの?」

「もしかしたら、昨日した引越しの挨拶のお礼を持ってきてくれたのかもしれないな」

玄関へ向かう義人の背を武人と静奈は黙って見送る。

数えるほどしか家屋が無いから、それだけ人と人の結びつきも強いのだろう。田舎はいちいち面倒だな、などと感想を小さく呟いて、武人は意識を卓上の目玉焼きへ戻した。しかし、それから大した時間を置かずして、彼は自らを呼ぶ父親の声に再び顔を上げることとなった。

「おーい、武人ー。ちょっと来い」

「僕?」

武人には自分が呼ばれた理由が分からなかった。

だが、呼ばれて行かない訳にはいかない。箸を置いて渋々と席を立つ。

「どうしたのじゃ?」

歩き出した後ろから静奈が尋ねてきた。

「さぁ、さっぱりだよ」

それに振り返って答え、武人はリビングを出ると玄関へ向かった。

短い廊下を曲がって玄関ホールを前にする。

すると、そこには何故か二人の警察官の姿があった。

「え?」

反射的に声を上げていた。同時に脳裏によみがえったのは昨日の高校での出来事である。同じクラスの女子生徒に言われも無い濡れ衣を着せられて、コッテリと説教されたのは記憶に新しい。

「なるほど、確かにソックリですね」

武人の顔を目の当たりにして警官の一人が呟いた。

「そうだな」

もう一人が頷く。

そんな彼等のやり取りを目の当たりにして、武人はこの二人の警官がやって来た理由を即座に理解した。彼の推測は不幸にも的中していたのだった。きっと、山野と呼ばれた少女が警察へ連絡を入れたのだろう。自宅の住所は事情を伝えて学校に聞けば知ることが出来る。

「…………」

武人は口を硬く噤み、出来る限り表情を表に出す事が無い様に意識して、玄関ホールに立つ義人の横に並んだ。

「君が芹沢武人君だね?」

二人居る警官のうち、50歳を越えた辺りの風貌をした、割と歳を取った年配の者が声をかけてきた。もう一方の20代前半と思しき者は黙ってその様子を眺めている。きっと上司と部下の関係でもあるのだろう。

「そうですけど、それが何か?」

相手からの問いかけに武人は毅然とした態度で言葉を返す。もしも、昨日の時点で柳沢に問い詰められなかったのならば、小心者の彼は慌てふためいていたかもしれない。そう考えると、彼女の横暴にも多少は目を瞑れるような気がした。

「ちょっと、右手の甲を見せてもらってもいいかい?」

「はい」

頼まれて腕を水平よりやや下方へ向けて伸ばした。

勿論、そこには彼等の望むべくものなどありやしない。

「確かに、話に聞いたとおり綺麗なものだね」

「山野さんから連絡が言ったのですか?」

昨日の接触は取り立てて隠すような事でもない。件の情報を引き出すべく、武人は自ら積極的に警察官の一人、歳を取った老年の警官に話しかけた。事件の概要は柳沢から聞いていたが、実際に捜査がどの程度進展しているのかは確認できなかったからだ。もし、武人が容疑者として疑われていると言うのならば、それは全力で否定せねばならない。足がガクガクと震えだしそうになるのを堪えて、毅然とした態度で尋ねる。

「ん? 君は事件について何か知っているのかね?」

すると、差し出された手の甲から視線を上げた警官が、ぬっと武人の顔を覗き込んできた。その表情には険しいものなど皆無でありながら、身に纏う警察官の制服の賜物なのか、えも言われぬ迫力を伴って感じられた。

「え、ええ。昨日に学校で山野さんから聞きました」

正確には友人である柳沢からであるが。

「そうか、なら話は早い」

老年の警察官は一人小さく頷いて義人に向き直る。

「もしかしたら新聞等でご存知かもしれませんが、昨日の晩に海ノ口駅前のコンビニエンスストアで強盗事件が起きました」

「それと息子にどのような関係があるんですか?」

普段とは異なり丁寧語で喋る義人が、些か緊張した様子で警察官に尋ねる。

「被害者の目撃情報と防犯カメラに写った映像を確認したところ、その犯人は貴方の息子さん、芹沢武人君と瓜二つの容貌をしていることが分かったのですよ」

「息子とですか?」

「はい」

短く答えた老年の警官は、すぐ横に立つ部下へ視線で合図を送る。

それに答えて若い警官が詳しい状況説明を始めた。

「昨晩の午後6時53分にJR海ノ口駅付近のコンビニエンスストア、ヤマザキショップ海ノ口店にて強盗事件が発生しました。犯人は十代の若者と思しき、黒と白の柄物のTシャツと青いジーパンを着た男性です」

胸ポケットから取り出した手帳を拙さの見え隠れする口調で読み上げていく。

「犯人は店内へ入った後に、そのとき店番をしていた店舗オーナーの娘である山野杏さんを手持ちの縄で拘束、店の裏側へ放置しました。それから店内の商品を持ち込んだ市販のゴミ袋へ詰め込み、同日の午後7時24分に現場を後にしました」

武人と義人は警官の説明を黙って聞く。

「盗まれた商品の被害総額は17955円です。また、盗まれたのは店内の商品のみであり、レジの中の現金は無事でした」

若手の警官が説明する内容はどれも前日に柳沢から聞かされたものと相違無い。

「まあ、そういう訳で伺わせて頂いた訳です」

「まさかうちの武人が強盗を行なったと?」

「勿論、事件に関しては現在調査中ですので、息子さんの犯行が確定した訳ではありません。ですが、調査の上にその名前があがったのは事実だと受け止めていただければ、と思います」

「………そうですか」

「失礼ですが、昨日の午後6時53分から7時24分までの間の武人君の行動を証言する事は可能でしょうか? 若しくは証言できる方をご存知でしょうか?」

昨日の午後6時53分から7時24分と言えば、武人は重い荷物を抱えて一人で夜の田舎道を歩いていた頃だ。周囲には外灯の灯りも少なく、人通りも全くと言って良いほど無かった。そんな状況で彼の行動を証言してくれる者など存在する筈が無い。

「いません」

自分の事は自分が一番良く理解できる。義人が何か言うまえに武人は短くそう答えた。手の甲に傷跡が見つけられない時点でアリバイは十分だと考えたのだ。ここで下手に嘘をついたり、無理やりな返答をしてかえって怪しまれるのは避けるべきだろう。

「では、その時間帯に貴方は何をしていましたか?」

義人から武人に向き直った警察官が質問を続ける。

「駅から自宅までを一人で歩いていました」

「その間に人と出合ったりはしませんでしたか?」

「出会っていません」

「それでは、他に何か自分のアリバイを証明できるようなものはありませんか?」

「いいえ、特にありません」

淡々と質問を投げかけてくる警察官に、武人もまた機械的に言葉を返す。二人の隣では若手警官が手にした警察手帳にボールペンを走らせている。それから老年の警察官は、当日の武人の行動に関して一通りの事情聴取を行なった。相手からの質問は結構な量があった。例えば、海ノ口駅に着くまでに利用した交通機関や、その所要時間までもが調査の対象となっていたのだ。一体それの何処が調査に繋がるのだと疑問に思えるような情報である。だが、聞かれて特に困る事でも無いので素直に答えておいた。

そして、そんな光景を目の当たりにして彼の父親である義人は多少の驚きを感じていた。普段ならば自分に何の非が無くとも、警官に話しかけられただけで挙動不審になってしまう息子が、淡々と質疑応答を繰り返しているのだ。それは父親として妙に嬉しいことであった。とはいえ、当の本人は足が震えだすのを押さえるのに必死である。心臓はバクバクと大きく脈打っていた。

「そうですね、とりあえずこの程度で良いでしょう」

質問を終えて老年の警官が言った。

「やっと終わりですか?」

「ええ、時間をおかけして申し訳ありません」

隣に立つ若手の持つ警察手帳がパタンと閉じられる。

「本来ならば任意同行を願いたいところですが、現状ではそれも難しいですから、今日の所はこれで失礼させて頂くとします。また近いうちに伺う事があると思いますので、そのときはよろしくお願いします」

任意同行という言葉に武人の眉がピクリと動く。それに気づいたのか、気づいていないのか、二人の警官は小さく頭を下げて玄関からへ出て行った。

バタンと音を立てて閉じられた扉の前で、義人は武人に向き直る。

「あの警察官、無駄足もいいところだな」

そして、カラカラと軽い笑い声を上げて見せた。

「まったくだよ」

取り立てて事情の説明を求めようとしない父親に、武人も素っ気無く答えるみせる。

「それよりもお前、時間は平気なのか?」

「あ……」

ポケットから取り出した携帯電話の表示に目を落とす。時刻は既に7時30分を回っているではないか。折角の早起きも今し方の事情聴取により、既に意味の無いものとなっていた。食卓に残してきた朝食を食べている時間さえ危うい。

「ったく、これだから警察は嫌いなんだよ」

「まあそう言うな、あいつ等だってあれが仕事なんだから」

げんなりした様子で自室へ荷物を取りに階段を上っていく息子の後姿を、義人は笑いながら見送った。