金髪ロリ達観クールラノベ 第一巻

第二話

転校二日目は遅刻することなく無事に学校へ着いた。

予鈴を5分程前にして、教室の後ろに設置されたドアをガラガラと開ける。既に過半数以上の生徒が揃う教室内からは、武人の姿を見止めた幾人かの生徒が朝の挨拶をしてくれた。転校初日では上々の好印象を与えただけあって、彼を見るクラスメイトの顔はにこやかだ。それに「おはよう」と言葉を返して自分の席に向かう。

この調子なら、今度こそは虐めに会うことも無いだろう。武人はそう祈るように願う。

肩にかけた鞄を机の上に置くと、前の席に座っていた山野が後ろを振り返った。

「おはよう」

「あ、うん、おはよう」

自分を警察に通報した相手とは言え、朝の挨拶くらいは普通に返しても良いだろう。そう刹那的に結論を出した武人は、他のクラスメイトへしたのと同様に挨拶をする。ちなみに、彼女の隣の席に人の姿は無い。柳沢はまだ登校していないらしい。

「今朝、警察が行かなかった?」

山野が淡々とした態度で尋ねてきた。

その声色は同じ年頃の女子生徒と比較しても低く、非常に特徴的である。

「来たよ」

尋ねられた内容は、武人が彼女に対して一番聞きたかったことだ。

「おかげで朝食も満足に食べられなかった」

これくらいの愚痴は漏らして当然だろう。

「ごめん。朝食の席で貴方の事を家族にポロっとこぼしてしまったの」

「それで警察に?」

「母親がすぐに110番したわ」

「なるほど、どおりで朝っぱらから早々に来た訳だよ」

日本の警察もこういうところだけは本当に良く出来ている。

武人は思わず関心した。

「てっきり今日は午後からの通学になると思ってた」

「それも危ういところだったよ。っていうか、昨日、放課後の教室で言ってた事は嘘だったの? 警官は任意同行を仄めかす様な事さえ言ってたよ? 僕の無罪は明らかだって、昨日のうちに十分な説明をしたじゃん」

「それは家族にも話したわ。でも、監視カメラに写った犯人と貴方がソックリなのは事実なの。あと、私が直接被害を受けた事で家族も過敏になってるんだと思う。特に母は貴方が同じクラスだと説明したら、学校に行くのも止めろって言うのよ」

「……酷いな」

返された言葉に武人はげんなりとした様子で短く呟いた。

「多分、こういうのは貴方の言う本当の犯人を捕まえなきゃ終わらないと思う」

「それは僕も同感だけどさ」

流石にそれは警察の仕事だろう。何のスキルも持たない一般人の武人が、一人でどうこう出来る様な話ではない。

「実際のところ、君はどう思ってるの?」

被害者が味方になってくれるならば、それほど心強いことは無い。しかし、こうして話してみても武人には彼女の真意が理解できなかった。ただ淡々と事実を口にしているだけで、自分の意思らしきものを話された記憶が無かったのだ。

「それを聞いてどうするの?」

「いや、別にどうもしないけど、強いて言うなら僕の心の平穏の為だよ」

その落ち着き払った淡白な話し方の為なのか、それとも他者と比較して低い声色の為なのか、同い年の人間と比較して、山野という少女は非常に大人びて感じられた。他のクラスメイト達とは異なる、何か神秘的なものさえ感じられる雰囲気があった。

「随分と素直なのね」

「悪い?」

「いいえ、別に」

それが武人にはとても新鮮だった。

今までに出会ったことの無いタイプの人間だと強く感じた。

「今のところ貴方が犯人だとは思ってない」

「だったら電話も止めてくれれば良かったのに」

「これでも一応は止めたのよ?」

「一応じゃなくて、ちゃんと止めて欲しかったよ」

ガッカリと肩を落としてみせる武人に、山野は表情を変えることなく静々と答えた。初見では口数の少ない気弱な女の子だとばかり思っていた彼女であるが、実はそうでもないらしい。むしろ話していると芯の太さを感じずにはいられない。

「けれど、それも今のところの話だから、これからどうなるかは分からないわ」

「まだ決定してないの?」

「先のことなんて本人にも分からないものよ」

傍から見れば二人の様子は奇異に写った。武人は昨日に転校してきたばかりである。親しげに話をする山野は、そんな彼とどのような接点を持っているのか。そして、二人はどのような間柄にあるのか。昨日までの勢いならば、すぐにでも武人の机を囲っていたであろうクラスメイト達は、しかし、妙に込み入った会話をしている山野の存在に押されて、声をかける機会を逃し、遠巻きに二人の姿を眺めるに終わった。

そして、朝の短い時刻は瞬く間に過ぎ去り、二人の会話には横槍が入ることも無く、担任の教師の登場と共に朝のHRが始まった。特筆すべきは、山野の横に座るはずの柳沢が、時間になっても教室にやってこなかった点であろう。

事件は2時間目の授業が終わった後のある15分間の休み時間に起きた。

幾人かのクラスメイトから誘いを受けて、校舎の作りや教師の評判に関して説明を受けながら、学校案内をして貰っていた際の出来事である。廊下の一角に女子生徒数人からなる人だかりを見つけたのだ。彼女達は何やら甲高い声をキャーキャーと上げて、盛んに「可愛い」だの「綺麗」だのと連呼している。

別にそれ自体は共学の高校にあって珍しい事で無い。共に歩いているクラスメイト達も、さして気にした風も無くその横を通り過ぎようとする。武人も特に興味を感じることなくそれに連なった。

しかし、そんな人だかりの中から唐突にも彼を呼ぶ声が発せられたのだ。

「そこに見えるは武人かぇ?」

自分の名を呼ぶ声を背後に聞いて振り返る。

今の特徴的な口調は間違いない。

「………なんで静奈が学校に居るんだよ」

周囲を女子生徒に囲まれながら、その身体の合間から顔を覗かせているのは、見紛うことも無く静奈であった。腰下まで届く長い黄金色の髪は、周囲の黒髪の生徒達の中で一際目を引く。サラサラと流れるそれが余程珍しいのだろう。女子生徒達の大半は彼女の髪の一端に触れ、撫でていた。

「主の親父より弁当を預かってきたぞぇ」

「弁当?」

「今朝は慌てて家を出て行ったじゃろう? 台所に忘れたままになっていたぞぇ」

「ああ、そういえば確かに……」

身に着けているのは、朝に見たときと同じくTシャツとデニムの短パンである。初見の着物よりはマシだが、おかげで周囲の制服集団から激しく浮いてしまっている。加えて彼女の身長は、170cmある武人の胸にも届かないのだから、これでは目に付かない訳が無い。

二人が会話を始めた事を切欠として、それまで静奈に向けられていた女子生徒達の注目が一斉に武人へ移った。また、彼に学校の案内をしていたクラスメイト達も足を止めて二人のやり取りに注目していた。

「でも、だからって静奈が来なくてもいいのに。学食や購買だってあるんだから」

「主は我が来ると迷惑なのかぇ?」

女子生徒達の間から抜け出した静奈が武人の前までトテトテとやって来る。

そして、彼の顔を下から覗き込むようにして見つめてきた。

「い、いや、別に迷惑とは思わないけど……」

ふっくらとした雪のように白い頬っぺたが、無垢な光を湛える大きな真紅の瞳が、桜の花びらを思わせる淡い桃色の唇が、武人の意識を否応無く明後日な方向へ引っ張って行ってしまう。

「ならば問題はあるまい?」

その表情があまりにも可愛らしくて、武人は強く言えなくなってしまうのだった。

「我は主の親父より主の目付け役を言い付かっておるからのぉ。これくらいの仕事はせねばなるまい? これも美味い稲荷寿司を食うには必要な事じゃ」

「そういえばそうだったな」

仕方なく頷いて、静奈が差し出してきた弁当箱の入った布袋を受け取る。目付け役というよりは小間使いのような気がしないでもない武人だが、敢えて突っ込んで相手の機嫌を損ねることも無いだろう。黙っておいた。

「確かに渡したぞぇ」

「ああ、確かに受け取ったよ」

布袋から伝わる重みを確認して小さく頷く。

「ところで、我が知らぬ間に寺子屋も随分と姿を変えたようじゃな」

静奈が周囲をキョロキョロと伺ってみせる。寺子屋などと古めかしい言葉が出てくる辺りからして、彼女の中に在る教育機関へのイメージは、武人には想像もつかないほどに現代のそれとは異なったものなのだろう。

「君も随分と古い言葉を使うね」

そういえば静奈には実年齢を聞いていなかったな、などと武人は思い至る。

「我は主等人間などとは比較にならぬ時間をこの身に重ねてきておるのじゃ。ここ数十年での人間達の生活様式の遷移など、瞬きする間に過ぎ去ってしまうような些細なものだぞぇ」

とはいえ、今この場で尋ねる事は叶わないので家に帰ったら聞いてみることとする。

「今は寺子屋じゃなくて学校って言うんだよ。そのなかでも、ここは高等学校って呼ばれている区分の学校だね。略して高校。下には小学校、中学校というのがあって、上には大学っていうのがある」

「ほぉ、ここは高等なのかぇ。主は凄いのぉ」

「とは言っても、高等学校への進学率も9割を越える時勢だから、高等という表現自体は形式的なものなんだよ。どれだけ馬鹿でも入れるだけの枠はあるんだ。だからあんまり凄くは無いんだよ」

「ぬぅ……、人の世はいつだって複雑じゃな」

「かもしれないね」

眉を傾げて首を捻ってみせる静奈に武人は苦笑する。

そんな彼に背後からそれまで共に廊下を歩いていたクラスメイトの一人が話しかけてきた。背丈は武人と同じくらい、若干ふくよかな体格をしている男子生徒だ。名前はたしか増谷といったか。

「その子って武人君の知り合い?」

流石に「武人君の妹?」とは聞かれなかった。もしもそれが罷り通れば言い訳をするにも話は早いのだが、如何せん髪と肌の色が違いすぎる。血縁関係が無いことは外見から明らかだった。

「あー、先週から母親と一緒にホームステイに来ている女の子なんだ」

ということで、適当なところで話を誤魔化しておく。あまり意識せずに喋ってしまっていたのだが、幸いにして寺子屋云々に関しては相手も突っ込んできていない。きっと、子供の妄言、若しくは外国人の日本語の間違いとして周囲も処理してくれたのだろう。

「へぇ、こんな田舎にわざわざ来るなんて珍しいね」

武人の言葉に反応して、周囲の生徒達の間にざわめきが広がる。

「祖父の友人のお孫さんなんだ。その関係でうちの親父がホームステイ先を買って出たんだよ」

そう言って武人は静奈に小さく耳打ちする。

「そういうことでお願い」

「我はホームステイというのが何ぞ知らんが、主の家に客として来ているということで良いのかぇ?」

「うん」

身元不明で戸籍さえ存在しないであろう彼女だが、今の状況ではそんなことはどうでも良かった。ただ、静奈が狐の化け物であるということを隠し通すことが出来たのならば、それだけで十分である。

武人の説明に増谷はなるほどと頷く。

「ところで主よ」

「なに?」

「我は主の目付け役として、主が勉学に励む学び舎を見てみたいぞぇ?」

武人へ弁当を渡すという役目を終えて自由になった静奈が、早速と面倒なことを思いついてくれたようだ。

「学び舎を見るって、教室へ連れてけってこと?」

「そうじゃ、教室じゃ」

「いや、教室を見たいっていう願いは最もだけど、この中は関係者以外立ち入り禁止なんだよ。だから静奈は大人しく家に帰ってくれないかい? お弁当を届けてくれて、すぐに追い返す形になっちゃって申し訳ないんだけど」

「なんだ、駄目なのかぇ?」

武人の言葉を受けて静奈はしょんぼりと肩を落とす。

その姿は、自分の行為が周囲にどの様な影響を与えるかを良く理解してわざとやっているのではないかと勘繰ってしまう程に可愛らしかった。おかげで武人の説得に対して、それまで静奈を囲っていた女子生徒達からは非難の声が上がる。

「それぐらいいいじゃん」 「ちょっとだけなら構わないんじゃない?」

「折角ホームステイに来てるんだし、日本の学校を見て貰らおうよ」

「これだって勉強になるよね?」 「休み時間なら大丈夫だって」

いずれも当事者の立場を無視した適当な意見ばかりだ。背後を振り返ってみれば、静奈の意見を肯定する輪の中には、彼のクラスメイト達までもが混じっていた。

そして、生徒達の援護を受けた静奈が再び尋ねてくる。

「駄目なのかぇ?」

眦には僅かながら涙さえ浮かんでいた。

その様子を目の当たりにして武人はやっと気がついた。先ほど彼が感じたとおり、この少女は周囲の状況を全てを理解した上で、こうして可愛い少女を演じているのだと。狐とは狡賢い動物だ。それは妖狐である静奈とて例外ではなかったらしい。むしろ人の姿をしている分だけ性質が悪い。

「き、君ぃ……」

「我は見たいぞぇ?」

とはいえ、それが分かったところで勢いのついた場は止まらない。

周囲からの強力な賛同により武人は渋々と頷く他に無かった。

「…………分かったよ」

はぁ、と小さくため息をつく。ここで我を通したのならば、きっと周囲の武人への評価はガクッと大きく下がっただろう。今後の円満な学生生活の為にも、多少のリスクは我慢するしかない。

「少しだけだからね?」

「うむ、主に感謝じゃ」

すると、今にも泣き出しそうであった表情から一変して、静奈は満面の笑みを浮かべてみせた。その表情がまた非常に可愛らしいから手に負えない。なんてずるいのだろう。そう思わずにはいられなかった。

「じゃあ、休み時間も残り僅かだし行こうよ」

そう言って、武人の直ぐ後ろにいた増谷が率先して歩き出す。それに自然とクラスメイト達も連なった。また、どういう訳か静奈を囲っていた女子生徒達までもが付いて来る。少なくとも彼女達の中には一人として武人と同じクラスの者は居ない。そんな彼等彼女等に囲まれて、二人もまた教室に向かい歩き出したのだった。

静奈と出会った廊下の一角から教室までは大した距離も無い。数分とかかることなく武人の机が置かれた教室、2年B組に辿り着いた。ちなみに、次の授業が始まるまであと2,3分しか残ってない。もとより見るものなど何も無い教室だが、これでは本当に一目見て終わりだろう。

教室の後ろに設置されたドアの敷居を跨いで教室に入る。途端に、静奈の姿を見止めた生徒達から視線の一斉放火を受けた。その居心地の悪さは梅雨の時期の湿った体育倉庫にも勝るほどだ。

「誰だあの子?」 「金髪じゃん」

「すっごい可愛くない?」 「外人じゃん」

「誰かの知り合い?」 「芹沢君の知り合い!?」

教室内に居た生徒達からは予想通りの反応が返ってきた。

幾人かの生徒はわざわざ席を立ってドアの周囲へ集まり始めてさえいる。そんなクラスメイト達に憂鬱な気分を感じて、手短に説明を済ませるべく静奈に向き直った武人は早速と口を開いた。

「ここが僕が勉強してるきょうし…」

しかし、彼の台詞は句読点を前にして別の声に遮られた。

「芹沢君、ちょっと来て」

声の主は山野であった。教室の自分の席で携帯電話を弄くっていた山野は、武人の姿を見止めると急に席を立ち、彼の下まで急ぎ足でやって来た。そして、有無を言わさぬ迫力を伴い、彼の制服の袖口を掴んで歩き出したのである。

「えっ? ちょ、ちょっと!?」

訳も分からず山野に引きずられるようにして、もと来た廊下を先程とは逆に進む。

「主よ、どこへ行くのだ?」

そんな武人を追って静奈もまた着いて行く。

この展開には武人本人も唖然であった。

教室にはあっけに取られた生徒達の沈黙だけが残されることとなった。

武人と静奈、それに山野は校舎の屋上に居た。

時刻は既に3時間目の始業を過ぎている。頭上には雲ひとつ無い真夏の空が広がり、爛々と輝く太陽からは皮膚が焦げる程の熱が伝わってくる。人の背丈の2倍ほどの高さがある給水塔の周囲に出来た僅かな日陰に身を寄せて、三人は顔を向き合わせていた。

「ね、ねぇ……。一体なんなの?」

理由も説明されずに屋上まで連れてこられた武人は激しくうろたえていた。もしかしたら、山野が心変わりして自分を犯人だと決め付けたのかもしれない。そして、復讐するために屋上まで連れ出したのかもしれない。もしかしたら、ここから突き落とされてしまうのかもしれない。そんな推測が脳内を瞬時に駆け巡っていた。しかし、次いで彼女の口から伝えられた言葉はそんな安易な武人の妄想とは180度異なった内容であった。

「貴方の偽者が現れた」

「は?」

意味が分からなかった。

間抜けな顔で問い返すと、山野は一方の手に握っていた携帯電話のディスプレイを目の前に差し出してきた。一体何の話だと、訝しげな表情を露にそれを覗き込む。すると、そこに写っていたのは武人本人を写した写真であった。携帯電話のカメラで撮影したのだろう。画質はそれほど良くない。しかし、その姿は間違うことなく武人であった。背景は何処とも知れぬ街中である。

「なんで君が僕の写真を持ってるの?」

当然の疑問を口にする。

「これ、ついさっき柳沢から送られてきたの」

「え?」

ついさっき、とは何時頃の話なのか。

写真に写った武人は服装からして私服である。しかも、彼の知る限り学校には写真に写った風景を見つけることは出来ない。背後にはスーツ姿のサラリーマンらしき男性の姿もちらほら見える。

「だって、僕はずっと学校に居たよ?」

一緒に授業を受けていた山野ならば分かるだろう。

「だから偽者なの」

「……偽者?」

良く目を凝らして携帯電話のディスプレイを覗き込む。しかし、誰がどう見てもそれは武人自身である。しかも、身に着けている衣服は彼が実際に持っているものと同一のものだ。これの何処が他人であるのか。

「偽者にしたってそっくり過ぎるよ。合成写真とか、そういう類のものじゃないの?」

この街へ引っ越してから今に至るまでの間で、彼が写真に写った服を着ていたのは引越し当日だけであったことを踏まえると、その可能性も限りなく低い。けれど、他に考えられる場合は無かった。

「貴方を陥れる為だけに柳沢がそこまでするとは考えられない。それにパソコンの類は苦手だったはず」

「じゃあどうなってるんだよ」

「分からない」

武人と同様に山野も判断に困っている様子だった。

額から滲み出てくる汗が顎を伝わってコンクリートに小さな染みを作る。

「柳沢には貴方が学校にいることを説明したわ」

「そしたらなんて?」

「今の貴方と同じような反応が返ってきた」

そりゃ当然だろう。

「主よ、それは携帯電話じゃな?」

それまで山野と武人のやり取りを黙って眺めていた静奈が口を挟んできた。携帯電話に興味を示したようだ。足りない身長を補うように背伸びをして、山野が掲げるそれを覗き込もうとしている。

「その子は?」

「あ、ああ。うちでホームステイしてる女の子だよ。わざわざ学校まで僕が忘れた弁当を届けに来てくれたんだ」

山野と静奈の視線が交差する。

「我は静奈じゃ」

そう言って静奈は笑みを浮かべて見せた。

「私は山野杏」

そんな静奈に山野は調子を崩すことなく淡々と名乗る。演技がかった年寄り臭い口調には目を瞑ってくれたようだ。日本文化を勘違いした外人、という認識が最もなところだろう。

「それは携帯電話というものだろう? 我も知っているぞぇ。遠く離れた人間と話が出来るのだろう? 他にも最近は写真を撮ったり、手紙のやり取りまで出来るという話じゃろう?」

人差し指をピンと立ててそれらしい説明をしてみせる。

「見える?」

相手の背丈に合わせて腕を下げた山野が、膝を折って携帯電話のディスプレイを静奈の目前まで持っていく。

「ほぉ、確かに瓜二つじゃのぉ」

映し出された武人の姿を眺めて静奈が呟いた。

「っていうか、柳沢さんは今何やってるの?」

「さっき来たメールだと、この人を追ってるみたい」

「追ってるの!?」

普通そこまでするか? その一言を飲み込んで、続けられた山野の言葉に耳を傾ける。

「柳沢はこの写真に写った人が君本人だと思い込んでいるみたい。平日に街中を私服で歩いている君に不信感を持って後を付けてたらしい。まさかとは思うけど双子の片割れとか、そういう話は無いわよね?」

「僕は一人っ子だよ」

もとよりその可能性があれば自ら言及している。

山野と武人にはこの謎を解くことが出来そうになかった。お互いに僅かな可能性を口にしては、それを否定する事の繰り返しである。如何せん姿が似すぎているのだ。直ぐには結論も出そうになかった。

そんなときである、静奈がポロッと言葉を零したのは。

「主よ、我が思うにコヤツは我と同じ化け物の類ではないかぇ?」

それまでに無い可能性の浮上に二人の視線が静奈に向けられる。

「化け物?」

「お、おい、静奈っ」

山野はきょとんとした表情で、武人は若干の焦りを浮かべた表情で静奈に向かう。山野を前にして「化け物」などという単語が発せられた事で、彼としては事の是非よりも、静奈の正体が第三者にばれる事への危惧が優先された。

「化け物ってなに?」

そして、武人の不審な反応に明らかな怪しさを感じたのだろう。普通なら子供の戯言として無視されてしまうであろう静奈の発言に、山野が興味を持った様子で尋ねてきた。

「え……ああ、なんていうか……」

自分でさえ扱いが分からないというのに、それを他人に説明して良いものか。

「何か隠していることがあるの?」

「いや、別にこの件とは関係ないことだから気にする必要は無いんだけど」

「今の静奈ちゃんの話だと関係ありそうじゃない?」

「うっ……」

その通りだった。

「出来るなら教えて欲しい」

山野はジッと武人を見つめてくる。彼女としては、化け物という単語そのものよりも、その背後にある、武人が自分に隠しているであろう事柄に興味があったのだった。

静奈の保護欲を誘う可愛らしい視線とは異なり、山野のそれは表層に一切感情を感じさせない、非常に無機質なものであった。まるで能面を相手に睨めっこをしているような気分である。そして、それはそれで自白を促すには効果があった。

言葉無く視線だけを向けられて1分が経過した。

それが武人の限界だった。

「わかったよ、言えばいいんだろ……」

渋々と呟く。

「ありがとう」

当初は気の弱い物静かな女子生徒だと思っていた山野であるが、実際には随分と芯の太い性格であったようだ。断ろうと思えば断れたであろう場面であった。にも拘らず折れてしまった武人は、逆に押されれば直ぐに折れてしまう貧弱な精神の持ち主である。こういったところが小中高と虐められ続けてきた原因の一端を握っていた。

「主よ、先ほどの約束はいいのかぇ?」

「うん、山野だけは例外ということで」

「そうかぇ」

律儀に聞き返してくる静奈に小さく頷いて応じる。

「たぶん説明しても、そう簡単には信じて貰えないと思うんだけど……」

こうして自分の口から説明するには多少の抵抗がある。サンタクロースの存在を必死になって主張していた小さな頃の自分を、成年してから思い出して恥ずかしくなるような、そんなむず痒さがあった。

「静奈って人間じゃなくて狐の化け物なんだよ」

「………狐の化け物?」

武人の説明を受けて、山野の表情は訝しげなものに変化する。きっと口で何度言っても無駄だろう。そう考えた武人は周囲の様子を伺う。そして、そこに自分達以外に人の姿が見当たらない事を確認して静奈に向き直った。

「ねぇ、ちょっと尻尾と耳を出して貰ってもいい?」

百聞は一見に如かずである。

「ここでかぇ?」

「うん」

「まあ、主の頼みならば考えぬでも無いが、コヤツが我の存在を人間共に晒すことが無いと言い切れるかぇ? 我はコヤツが我の存在を人間共に晒すのならば、即座にでもその身を八つ裂きにしてくれようぞ?」

「あ、ああ、それは……、どうだろう」

武人と義人に尻尾と耳を見られたときもそうであったが、静奈は人間達に自分の存在が露見する事を恐れている節がある。もしかしたら、過去に人間との間で何かあったのかもしれない。今のご時勢ならば人手に捕まったが最後、狐の化け物などと言う規格外な存在は一生を檻の中で過ごす事となるだろう。

「だそうだけど、どうかな?」

流石に本人の承諾なくして頷けない武人は山野に目を向ける。

「大丈夫、これでも口は堅い方だから」

二人のやり取りに流されるままに頷く。

しかし、武人の言葉を信じきれていないのだろう。その顔には困ったような表情が浮かべられてた。

「そうか、ならば良いだろう」

「ありがとう」

「では出すぞぇ、確かと見とれよ」

応じて静奈の身体が小さく揺れた。

かと思いきや、次の瞬間には何の予備動作も無く、黄金色の毛並みも美しい小さな三角形の耳が、同じく黄金色の髪の合間からちょこんと生えていた。小さな耳はそれが紛い物で無いことを主張するようにピクピクと動いている。

「このズボンとか言う穿き物のせいで尻尾は出せん。無理やり出すと生地が破けてしまうぞぇ」

そう言って自分のお尻を撫でてみせる。

「うん、耳だけでも十分だよ。ありがとう」

突如として生えた静奈の耳を目の当たりにして、山野は声を出す余裕も無く驚愕に目を見開いていた。これ以上は特に説明する必要も無いだろう。効果は抜群だ。そんな彼女の様子に、武人は昨晩の自分を重ねて見ていた。やはり、誰だって驚くのだ。

「ほ……、本当に狐なの?」

「我は本当に狐の化け物だぞぇ」

エヘンと平坦な胸を張る。

「あの……、それ触ってもいい?」

「触るぐらいなら構わん」

ゆっくりと伸ばされた手が三角形の先端に触れる。指先にはフサフサとした毛の心地よい感触が伝わってきた。そこには自身の指先よりも暖かな熱が感じられた。耳が作り物などで無く、血液が通った正真正銘の本物である証拠だった。

「暖かい……、それにピクピクしてる」

「主の指が冷たいのじゃろ」

「毛もサラサラ」

「我の毛並みは良いじゃろう? 自慢の毛じゃ」

「なんか色々と凄い……」

「凄いじゃろう?」

それからしばらくの間、山野は物珍しげな表情で狐の耳に触れていた。けれど、下から自分の顔を除きこんでいる静奈の視線に気づいて慌てて手を離した。

「本当に狐なんだ……」

そして、感心したように呟いた。

「ちゃんと信じて貰えたみたいだね」

「始めは、貴方の気が狂ったかと思ったけど……、これを見ちゃったんじゃ信じない訳にはいかないと思う。今も色々と考えてるけど、否定する材料が見当たらない。狐の化け物なんて、本当に居たのね」

山野は手に残る毛の感触を眺めながら答える。

「御伽噺だけの話だと思ってた」

「僕もつい先日まではそうだったよ」

「昔は今よりもっと人里に近い場所に化け物達も住んでいて、交流だってあったのだぞぇ? 人間が力を持ち始めたことと、集落を徐々に集約させていったことで、自然と境が大きくなっていったのじゃ」

「じゃあ、静奈以外にも化け物の類って居るの?」

「当然じゃ」

武人の問いに静奈は大きく頷いてみせる。

「じゃが、今の世ではこうして人里に居て、そういった物の怪の類に出会うことは稀であろうな。我とて人と接する機会を持ったのは何十年ぶりか、それさえ思えだせぬほど昔の事だぞぇ?」

「……やっぱり化け物って長生きなんだ」

その点は御伽噺として伝わる伝承そのままだった。

「我から言わせれば主等が短命すぎるのじゃ」

人生80年と言われる人の命を短いと呼ぶこの少女は一体何歳なのか。喉元まで出かかった疑問を武人は寸前の所で飲み込んだ。それを聞いてしまうと、何か自分の中にある大切な観念が音を立てて砕けてしまいそうな気がしたのだ。

「けど、君の話だと化け物は今じゃ人前に現れなくなったんだろ? それが何で僕の姿をして街中をうろつているんだい? 写真を見る限り、場所は思いっきり街中だと思うんだけど」

「それは知らん。我とて可能性の話をしただけだぞぇ。実際にものを見てみるまで、それが確実に化け物なのだという保障はできん」

「でも、他に思い当たる可能性はないわ」

「それはそうだけど……」

二人して頭を抱えて悩み始める。これが現代人の彼らにとって馴染みのある可能性であったのならば、すぐにでも何かしらの考察は浮かんできただろう。しかし、化け物などという反則的な存在が関与しているとなると、その敷居は高かった。

そして、たどり着いた結論は悩んでいても仕方が無い、ということであった。

「確かめに行く?」

「やっぱりそれしかないよね」

山野の呟きに武人は渋々と頷く。

既に3時間目の授業を放棄してしまった身だ。他にやることは無いのだし、この後を学外で過ごすことへの抵抗は小さい。それに今の時間に授業をやっているのは、つい数十分前にクラスメイトから聞いた説明によれば、陰険なことで有名な物理の教師らしい。下手に遅刻して教室へ向かうくらいならば、体調を崩した等の嘘をついて休んでしまった方が良いだろう。下手に顔を覚えられても面倒である。

「じゃあ、行くならさっさと行こうか」

「静奈ちゃんも一緒に?」

「主等ではモノの区別も掴んじゃろう?」

「とりあえず、山野さんは柳沢さんが何処に居るのか聞いてくれない?」

「わかった、メールを送ってみる」

目的が出来てしまえばそこから先は早いものだ。夏の日照りも眩い灼熱の屋上を後にして、二人は静奈を連れて校内へ戻った。既に授業が始まっているので校舎の中はは静かなものだ。廊下には人の姿も見当たらない。

「あ、静奈は耳を仕舞ってくれない?」

「うむ」

「他の人には見せられないのね」

「騒ぎになったら困るだろ?」

「耳を考慮しなくても十分に騒ぎになってると思うけど?」

「それとは別次元だよ」

静奈を連れていることもある。学校を出るまでは、人目に触れる訳にはいかない。特に教師に見つかったら問題だ。校内の地理に疎い武人は山野の先導のもと廊下を小走りに急いだ。

柳沢から返って来たメールを頼りにして、学校を後にした二人は信濃大町の市街地まで移動した。彼女の話では、武人の偽者は現在ジャスコ新大町店の店内に居るとのことだ。数分置きに伝えられる情報を追って店内に入店した三人は、同店舗の食品売り場を目指して駆け足で向かった。柳沢はそこに居るらしい。

しばらく歩くと、生鮮食品売り場の一角に柳沢の姿を発見した。

「あ、居た」

山野がボソリと呟く。

そこには何気ない顔で買い物籠を手に提げる柳沢の姿があった。

「学生服で平日のこの時間帯にスーパーだと、幾ら籠を持ったところで違和感あるね」

「本人は周囲に溶け込んでるつもりなのよ」

「ここは人が沢山居るのぉ」

柳沢が居るということは、直ぐ近くに武人の偽者も居るのだろう。少しはなれたところから彼女の周囲の様子を伺う。すると、5メートルと離れていない場所にその者は確認できた。

「うわ……」

第一発見者である武人は、その姿を目の当たりにして小さく声を上げた。

「気持ちが悪いくらいにソックリね」

「瓜二つじゃのぅ」

遅れて気づいた静奈と山野が率直に感想を述べる。

そこに居たのは、まさに武人本人であると言っても過言ではない容姿を持つ者であった。これならば柳沢が間違えるのも頷ける。そして、写真で確認したとおり、身に着けている衣服はつい先日に武人が着ていたものと、全く同一のものであった。その時点で既に、他人の空似などという簡単な話でないことは確かだった。

「僕って近いうちに死んだりしないよね?」

「あれがドッペルゲンガーだったらそうなるわね」

自分そっくりの存在というのは見ていて気持ちの良いもので無い。武人は身を小さく振るわせた。静奈という規格外な存在を目の当たりにした後である。今ならばどんな妄言も現実となってしまいそうな感があった。

「ドッペルゲンガーとはなんぞぇ?」

「西洋の化け物だよ」

「特定の人間にそっくりな姿をした化け物で、自分の姿をしたドッペルゲンガーを見た者は近いうちに命を落とすって言う伝説があるの。それがドッペルゲンガーの仕業によるのか、それとも偶発的なものなのかは分からないけど」

「ほぉ……」

山野の説明を受けて、武人の偽者を見る静奈の目が細められる。

「だとすれば、あれはドッペルゲンガーなどという化け物では無いぞぇ」

「じゃあ何なんだい?」

「あれは我と同じ類の化け物じゃ。微かにそれっぽい匂いがするぞぇ」

自身満々で断言した静奈に二人が注目する。

武人達が居る場所から武人の偽者が居る場所までは、直線距離で10メートル程度の間隔がある。時刻が昼前ということもあり、周囲には買い物客の姿も多い。また、場所が生鮮食品の売り場である事から、辺りには雑多に様々な野菜や果物の匂いが漂っている。そんな中で相手の体臭だけを頼りに本性を見抜くとは、武人と山野も驚きであった。

「君と同じって言う事は、あれも狐の化け物なの?」

「十中八九そうじゃな」

「匂いなんてするものなの?」

「我が狐ゆえ、もしくは同属だからこそじゃろう。そもそも、匂いといっても嗅覚のみならず、周囲にある雰囲気と言うかなんというか、まあ、長年の経験による勘とでも考えれば良い」

三人の視線を受けながら、当の本人は全く気づいた様子も見せずに店内の商品を物珍しげに物色している。外見は人間そのもので、違和感などまるで無い。静奈にそう言われなければ絶対に気づかなかっただろう。その挙動は田舎から都会に出てきたばかりの御上りさんのような印象を受けるが、それも人間として範囲内だ。

「とりあえず柳沢の所まで行きましょう」

「だね」

野菜が並べられた一角に居る武人の偽者を迂回して、その直ぐ隣に接する果実が並べられたエリアに立つ柳沢の元へ三人は移動する。普通に喋って声が届く辺りまで近づくと、柳沢は友人の姿に気づき、そして、その隣に立つ武人の姿を見て大きく目を見開いた。

「え………」

有りえないものを見た、そんな顔だった。

「これで信じて貰えた?」

武人としては自分の汚名を晴らす又とない機会である。

「貴方……、どうして」

「メールでも説明した通りよ」

戸惑いを隠せない柳沢に対して、武人に代わり山野が答える。

「だって、じゃあ私が追ってたアレは誰なのよ……」

「それに関しては後で説明するわ。それよりも、今はあの芹沢君を真似た何者かを捕らえることが先」

「って、捕まえるの!?」

山野の突拍子も無い提案に武人が驚きの声を上げた。

「ここで逃げられたら次はいつ会えるか分からないでしょう?」

「それはそうかもしれないけど……」

相手は人間では無く化け物だ。そこに恐れが生まれるのは当然だろう。御伽噺の上では人間を殺す描写だって度々出てくる。同じ人間相手でも喧嘩をするのは怖いのに、そんな奇怪な輩を相手にするなど、武人には無理な相談であった。

「良く分からないけど、強盗犯はあっちなのね?」

友人からの提案を受けて、門外漢の柳沢は強引に話をまとめようとする。

「少なくとも、手の甲には怪我をしてる」

山野が指差した先には、白い包帯が巻きつけられた右手があった。それは昨日耳にした強盗犯に関する山野の証言と一致する。

「だったら問題ないわ、捕まえましょう」

なんて血気盛んな女達だろう。田舎の女というのは皆こうなのだろうか。などと勘繰らずにはいられない武人だった。触らぬ神に祟りなしという、典型的な事なかれ主義が蔓延する都市部の人間である彼にとって、彼女達の行動力は弊害にも近かった。

「主等よ、それはちと危ういぞぇ?」

だが、そんな二人にそれまで黙っていた静奈が口を開いた。

柳沢に関しては、武人の存在があまりに衝撃的過ぎて、静奈にまで意識が回っていなかったのだろう。ここへきて初めて、この子は誰なの? などと聞いてきた。金髪赤眼の外人が知人の直ぐ隣にいて、それで思考から外れていたというのだから、彼女がどれだけ武人の存在に驚愕していたのかが良く分かる。

「この子は芹沢君の知り合い?」

「あー、まあ……、そんなところだよ」

今この場で詳しい説明をすると余計な混乱を招くのは間違いないので、適当にはぐらかしておく。最終的には柳沢にも静奈の正体を説明する必要が出てくるかもしれないが、今はそのときでない。

「ところで、何故に彼は危ないの?」

静奈の指摘に山野が真剣な表情で向き直る。

「少なくともここまで完全に人間に化けておるのだ、それなりに歳を重ねた狐であるのは間違いなかろう。ともすれば、主等の様なただの人間が相手をするには荷の重い話であると我は思うぞぇ」

静奈の指摘は武人の背筋を冷たくさせた。

「ほ、ほら、やっぱり無理だよ。止めておこうよ」

肝の小さい彼は、その話を聞いただけで逃げ出したい気持ちで一杯になる。

「まあ、それでも行くと言うのであれば我は止めぬがな。じゃが、うちの武人を巻き込まんでくれよ? 我はこやつの親父よりこやつの目付け役を言い付かっておるゆえ、見過ごす事は出来ぬ」

静奈は偽武人に対してそれほど興味も無いらしい。

一食7個、毎日21個の稲荷寿司を確保するべく、武人の腕を両手で抱きとめた。

「ちょ、ちょっと待ってよ。狐って何の話? 化けるってどういうこと?」

前知識を持たない柳沢が一人で喚いている。そんな彼女を友人であるらしい山野はまるっきり無視して、なんとか相手を捕まえるべく静奈との会話を続ける。自分がそうであったように、生半可な口頭では説明が不可能だと理解しているのだろう。

「何か手立ては無いの?」

「主が見た目どおりの人間ならば、何をした所で高が知れている。あとは相手の力量次第じゃろう」

「話し合いとかは?」

「こうして完全な人型を取れているのじゃから、人語を操る分には問題なかろう。やって出来ぬことは無いと思うぞぇ」

「意思疎通は可能なのね」

「ただ、我のように人に接する事へ抵抗が少ない狐もおれば、そうでない狐も居るからのぉ。まあ、こうして人の町に下りて来ている様子からして、多少ならば可能性はあると思うがな」

「やるなら一人でやってよ? 僕は手伝わないからね?」

「だから、その狐っていうのは何の話なのよ山野っ!」

武人と柳沢からの意見など何処吹く風で、山野は顎に手をあて一人悩み始めた。変わった性格をしているとは思っていたが、これは中々に筋金入りだった。既に二人の存在など蚊帳の外へ追いやってしまった様だ。

「こうして見る限り、人里にあまり慣れておらぬ様じゃ。あって尻尾二本といったところかのぅ」

静奈の視線の先には、ビニール袋で梱包されたブロッコリーを手にとっては、四方八方から物珍しげに眺めて難しそうな顔をしている偽武人の姿がある。その様子は小学校入学前の幼児の様なあどけなさを残していた。姿を奪われた武人としては他人事の筈なのに恥ずかしくて堪らない光景である。良く言えば商品の品定めをしているようにも見えるが、下手をすれば頭のネジが外れてしまった人である。

「尻尾二本って何?」

聞きなれない単語を受けて山野が聞き返した。。

「主等には縁の無い話だろうが、化け狐というのは歳を重ねるごとに力を増してゆくのじゃ。そして、その力に応じて尻尾の数が増えるのじゃ。尻尾二本は尻尾一本より強く、尻尾三本は尻尾二本よりも強い、といった具合にのぅ」

「分かりやすい指標ね」

「うぬ、だから我等の間では尻尾が多い相手には喧嘩を売らぬが普通だぞぇ。主等の様な何の力も持たないただの人間が相手に出来るのはせいぜい尻尾一本じゃろう。それ以上は素手で熊に喧嘩を売るようなものじゃ」

「そして、あの芹沢君の偽者は尻尾が二本あるかもしれないのね?」

「まぁ、可能性の話だがのぉ」

しばらくブロッコリーを手にとって眺めていた偽武人は、それを棚に戻すとひとつ隣にある棚へ移った。そこにはかいわれ大根やパプリカ、スプラウトといった食材が並んでいる。そこで再び商品を手に取った彼は、ブロッコリーにしたように包装された野菜へまじまじと目を向ける。

「ところで、静奈ちゃんは尻尾何本なの?」

ふと何を考えたのか、山野がそんなことを聞いた。

「我かぇ? 我の尻尾は一本しか無いぞぇ」

それは武人もつい先日に目撃したばかりだ。

「じゃあ、静奈ちゃんでもあの偽者を捕まえるのは無理なのね」

「やってみなければ分からぬが、我が主にそこまでしてやる義理はないぞぇ」

「そうね……。そうなると、やっぱり話しかけてみるしかない」

意を決した様子で山野が小さく頷いた。

その姿に危ういものを感じた武人が、慌てて止めにかかる。

「ちょ、ちょっと待ってよ。止めた方がいいよ。もしも怪我とかしたら大変だろ? 静奈の言ったことを聞いてなかったの? 二本は熊なんだよ? 熊。話しかけるなんてナンセンスだよっ」

「でも話は通じるそうよ?」

「だけど……」

「さっきは、やるなら一人でやってよ? なんて言ってなかった?」

押しの強い山野の物言いに武人は返す言葉がなくなってしまう。

「でも、危ないんだよ?」

こういうときは男が率先して突っ込んで行き、それを女が止める。というのが定石だと感じていただけに、武人自身も自分の女々しさに何か悲しいものがあった。しかし、極度の心配性である武人は彼女を止めざるを得ない。

周囲を行きかう買い物客達が、静奈に目を惹かれて武人達一団を眺めてくる。そんな中で行くの行かないを言い合いながら二人は静かに揉めていた。そんなとき、山野と武人の注意がそれている間に偽者が移動を始めた。

相手の動きにいち早く気づいた柳沢が声を上げる。

「ちょっと、なんでもいいけど私達も移動するわよ」

山野の腕を引っ張って柳沢が歩き出す。それに武人と静奈も続いた。

余程スーパーが珍しいのだろう。偽者は自分の背丈を越える陳列棚に目を奪われながら、あちらこちらへと店内をさまよう。途中で商品を手にとっては、それまでしていたように時間をかけて眺める。時折流れる館内放送にびくりと身体を震わせる。鮮魚売り場で尾頭付きの魚を前にして涎を垂らす。見ていて妙にハラハラしてしまう挙動だった。全く同一の外見を持つ武人としては、これ以上無い仕打ちである。

「僕、もうこの店に来れないよ」

そんな愚痴を小さく呟きながら、先導する柳沢と山野に続く。

「運が無かったと思って諦めることね」

「そうじゃな」

「そんなぁ……」

周囲から返される冷たい言葉にガクッと頭を垂れた。

「あ、また止まったわよ」

先頭を歩いていた柳沢の足が止まる。

偽者が立ち止まったのはお惣菜を扱う一角であった。隣接する調理場で作られて大皿に盛られた揚げ物や串物の他に、プラスチックの容器に詰められた弁当、寿司等が並べられた台を前にして、それら品々に見惚れるように視線を落としている。昼時という事も有り、周囲には主婦だけでなく昼食を調達しに来たであろうサラリーマンやOLの姿も多い。

そんな彼の素行を追う三人は、お惣菜の並ぶ台の横に続けて設置された乳製品やパウチされた加工食品を扱う冷蔵棚の前に立つ。そして、品物を選ぶ素振りをしながら相手の様子を伺うこととした。

「それで、山野はどうするの?」

直ぐ隣に立つ友人に柳沢が問いかける。

「私は交渉してみるつもり」

「僕は反対だね」

「貴方には聞いてないわよ」

「………」

偽者を見つめる山野の意思は固そうであった。

何が彼女をそこまで動かすのか、武人には理解できなかった。強盗に入られて、縄で縛られたのが余程に屈辱であったのだろうか。剥がれてしまった爪の痛みが忘れられないのだろうか。それとも、純粋な好奇心に寄るものなのだろうか。理由は幾つも浮かぶが、何れにしてもリターンに対してリスクが大きすぎる。

「止めた方がいいと思うけどなぁ……」

「別に主が心配することもあるまい? 全てはこの娘の話だ」

「そりゃそうだけど、一応はクラスメイトなんだしさぁ」

柳沢に睨まれ、静奈に諭されて武人は渋々と身を引く。

柳沢に関しては、現状を半分も理解していないことは明らかである。しかし、とりあえず自分には何が何だか分からないながらも、友人のやりたいようにさせてやろう、という意思が強く感じられた。そこには詮索の言葉も無い。なかなか、仲の良い二人である。

「じゃあ、ちょっと行ってくる」

そういって山野が動いた。

固唾を呑んでその姿を見つめる武人と柳沢。

しかし、彼女が武人の偽者に話しかけることは残念ながら叶わなかった。

何故ならば、山野が第一歩を踏み出して次の瞬間、偽武人は手元にあった惣菜のパックを幾つか手に掴み、そして、あろう事が全力で走り出したのである。向かう先はレジとは若干方向を別にして、食費売り場から店舗出口へ通じる大きめの通りである。

あまりに突拍子も無い行動に、周囲の買い物客たちの視線は走り去っていく偽武人に釘付けであった。一体彼は何の為に走り出したのか。その意味をいち早く理解したのは山野であった。

「追うわ」

そう言ってすぐさま駆け出す。

「ちょ、ちょっと君ぃっ!」

まさか、このような目立つ方法で白昼堂々と盗みを働く輩は居ないだろう。静奈から偽者の正体を聞いていなかったのなら、彼らも周囲の買い物客と同様に、あっけに取られてその様子を眺めるに終わっていただろう。

走り出した偽者を追って、山野に続き三人も駆け出した。

しかし、相手の足は恐ろしく早かった。

先陣を切って走り出した山野は小柄な体格の割に健脚であったが、それにも増して偽者の足は速かった。本物の武人が、小学校の頃から運動会の徒競争では最下位しか取った事が無かったのに比べて、偽者はまるで陸上選手のような見事な走りっぷりであった。化け物の称号は伊達でない。

一足先に偽者は自動ドアを抜けて店外へ踊り出る。山野を先頭に柳沢、武人、静奈と続く。一同は彼を追って店舗の出入り口を目指し走った。一体何事かと周囲からは多数の視線が注がれる。そんな扱いにも形振り構わず、追いかけっこは店外へと続いた。

自動ドアを抜けると外には駐車場が広がっている。昼前ということもあって駐車量は多い。綺麗に並んだ車の合間を抜けて偽武人は走る。人通りの多かった店内から外へ出たことで、その足は更に動きを早くした。

そして、彼を追う三人にとってはここまでが限界であった。先頭を走る山野が駐車場への出入り口まで走ったところで、最後尾を走る武人、静奈との間には2,30メートルほどの距離が開いていた。そして、山野と偽者との間にはそれ以上の間隔があった。この先、幾ら走ろうと追いつけないことは明らかである。

「駄目みたいね」

そう小さく呟いて、店舗前を通る車道に出たところで山野が立ち止まる。

僅かな間を置いて追いついた柳沢が悔しそうな表情を露に頷く。

「一体何者なのよ、アイツは」

二人は息を荒くして肩を上下させていた。

「それは………」

何と答えて良いか分からず山野は言葉に詰まる。

そうこうしている内に武人と静奈が二人に追いついた。静奈は武人に合わせて走ってきたのだろう。特に息も上がっておらずケロリとした表情で余裕のある素振りを見せている。対して武人は息も絶え絶えの様子で、今にもその場にへたり込んでしまいそうな程に疲弊していた。苦しそうに胸を押さえつつ、二人の元へフラフラと歩み寄る。

「ちょ、ちょっと待ってよ、二人とも早いよ……」

既に自分の偽者に対する執着は消えて、全ては山野と柳沢に着いて行くことだけが、彼の目標と成り果てていた。

「男の癖に軟弱ね」

武人と柳沢の身長は大差ない。なので、腰を曲げてゼーゼーと荒ぶった息を整えている武人の頭は柳沢の目下に位置する。苦行の面を浮かべる相手に柳沢は侮蔑の眼差しを向けて、淡々と言葉を投げかけた。

「まったくじゃ」

そんな彼女の意見に静奈もまた同調する。

「しょうがないだろ。誰だって苦手なものはあるんだよっ」

眉間に皺を作りながら、必死に息を整えつつ二人に向き直る。

「主の親父が我に目付け役を頼む理由の一端が分かった気がするぞぇ」

「う、うるさいよ」

勉強に関しては自他共に認める実力を持つ武人ではあるが、運動に関してはからきし駄目であった。それは生まれつき心臓に病を抱える武人が、小学校入学時に幼いながら自分で出した結論の成れ果てであった。

「けど、本当にアレは何だったの?」

今度は武人もその範疇に入れて、再び柳沢が問うてきた。

適切な回答を述べる事が出来ずに、山野と武人の目が自然と合う。それを目の当たりにして柳沢の眉がピクリと揺れた。それまで友人だと認識していた山野が、転校してきて三日と経っていない武人と共に、自分の知らない何かしらの秘密を共有していることに憤りを覚えたのだろう。

「私だけ仲間外れなの?」

ずいと一歩、山野に歩み寄る。

「別にそういう訳じゃない」

二人には頭一つ分の身長差がある。その形相と相まって、事情を知らない人間が見たのならば、まるで柳沢が山野を恐喝しているようにも見えるだろう。

「じゃあどういうことなのよ」

「ちょっと、この場じゃ説明できないの」

「だったら説明できる場所で説明して欲しいわ」

柳沢の主張に山野は困ったような表情を浮かべて静奈に視線を向ける。

「我のことかぇ?」

「駄目?」

「主がした約束をこの者も承知するのならば、我は構わんぞぇ」

問われた静奈は特に悩む素振りも見せずに素っ気無く了承してみせる。

「この女の子の何が関係してるの? サッパリ分からないわ」

「ちゃんと説明する。だから場所を変えましょう」

多少興奮した様子の柳沢に、言い聞かせるように語り掛ける。

それで、ひとまず柳沢は大人しくなった。

「っていうか、犯人は僕にソックリなんだよ? 下手をしたらまた僕が疑われて警察に連れて行かれるかもしれないじゃないか。場所を移すなら早く移そうよ。店の人が追ってきたら大変じゃないか」

「主は意外と肝っ玉が小さいのぉ」

「よ、用心深いって言ってよっ!」

何にせよ厄災続きの武人であった。

大町のジャスコを後にした4人はその後、移動先に関して紆余曲折した末に武人の家にたどり着いた。

静奈を除いて3人は学生服を着ていたので、下手に街中を闊歩していては警察の世話になりかねない。また、静奈の尻尾や耳を人目に晒すことも出来ない。ということで、近所の喫茶店やファミリーレストラン、カラオケボックスの類は選択肢から外れた。加えて、山野や柳沢の自宅は常に家族の誰かしらが居り、学校をサボった事がバレると厄介なことになるのだと言う。特に山野の家に関しては強盗犯に瓜二つである武人の存在は禁忌とも言えた。そういう訳で、消去法の末の結果だった。

幸いにして武人の家には彼の他に父親である義人しか住んでいない。そして、昼のこの時間ならば、まず家に居る事は無いだろう。加えて、過去の経験からすれば、義人は息子が学校をサボって帰ってきたところを捕まえて、そのままツーリングへ向かおうとする程の破天荒な性格の持ち主だ。過去に虐められてばかりであった息子が、クラスメイトの女の子を二人も家に連れ帰ってきたとなれば、歓迎こそすれど叱り付ける様なことはまずしないだろう。

「それにしても、まさか貴方の家が木崎湖の畔にあるとは思わなかったわよ」

「私達の家と近いわね」

武人の住まう新居は木崎湖の北側に、畔に沿って敷設された県道沿いにある。中古物件なので新築では無いが、それなりに小奇麗な一軒屋である。それを正面から眺めて、玄関前に立つ二人は感慨深そうに呟いた。

「山野さんの家は知ってるけど、柳沢さんの家もこの辺なの?」

「1キロくらいかしら、ここから」

「私と柳沢は家が近くて、幼い頃から遊び友達だったの」

「へぇ……」

ポケットから取り出した鍵を玄関のドアノブに突き刺してカチャリと回す。

「まあ、とりあえず中に入ってよ」

玄関ドアをスライドさせて山野、柳沢、それに静奈の三人を室内へ促す。義人は留守なので通す場所はリビングで良いだろう。そう考えた武人は静奈に案内を任せ、自分は学生服を着替えに一度自室へ戻った。それから私服になって下へ降りてくると、3人はソファーに座り武人の戻りを待っていた。

三人の額に浮かぶ汗を目の当たりにして、ダイニングテーブルの上に置かれていたエアコンのリモコンを操作する。その足でキッチンへと向かい、冷蔵庫から冷えた麦茶をグラスに注いだ。それを盆に載せてリビングへ戻る。

「どうぞ」

ソファーテーブルの上に並々と注がれたグラス並べる。炎天下を走り回ったこともあって皆も喉が渇いていたのだろう。それを手にした一同は一息に薄緑色の液体を飲み干した。ガラスで出来たグラスの中で、形を殆ど崩すことなく残った氷がカランと乾いた音を立てる。

「それで、わざわざ芹沢君の家までやって来て、私に何を説明してくれるの?」

トンと小さく音を立てて空になったグラスをソファーテーブルの上に置いた柳沢が、山野と武人に鋭い視線を向ける。あまり多くに静奈を知られることは避けたい武人であったが、柳沢に関してはそれも難しいだろう。出会って3日と経っていないが、彼女の気の強さは武人にも良く理解出来た。

「説明をする前に一つ聞きたいんだけどいい?」

「何よ?」

「これから見ること聞くことは他の誰にも言わないで欲しいんだ」

「何故?」

「それが約束できないなら、説明は出来ないよ」

急に真剣な表情となった武人の様子に柳沢が山野を伺う。

「私は彼の条件を飲んだの」

だから知っている、といった具合に小さく頷いてみせる。

我はコヤツが我の存在を人間共に晒すのならば、即座にでもその身を八つ裂いてくれようぞ? つい数時間前に静奈はそう言っていた。実際に山野が約束を破ったのならば、自分の目付け役は本当に行動に移すのだろうか。武人には静奈が山野を襲う光景が全く想像できなかった。しかし、見た目は小さいながらも時折見せる妙な迫力は、そんな疑問を口にするだけの意思を彼から奪っていた。

「分かったわよ。誰にも言わない」

武人の言い分に素直に頷くのが悔しいのか、それとも、親しい友人が自分の知らない人間といつの間にか秘密を共有していた事に嫉妬したのか。柳沢は渋々といった様子で頷いた。

「じゃあ、お願いしてもいいかい?」

「お願いされたぞぇ」

武人に促されて、ソファーに座っていた静奈がゆっくりと立ち上がる。

「そこな娘よ、よく見ておれ」

そして、学校の屋上でそうしたように静奈の身体が小さく震えたかと思うと、頭に三角形の耳がピョコリと出現した。例によってズボンを穿いているので尻尾を出す事は叶わないが、耳だけでも十分であろう。

「…………」

柳沢は静奈の頭をポカンと口を開けて、呆けたように見つめていた。

それは山野の時と全く同じ反応である。

「まあ……、そういう訳で、静奈は人間じゃなく狐の化け物なんだ」

他に説明できる言葉も無く、武人は率直に事実だけを伝えた。

「み、耳が……」

「どうじゃ? 我の耳は」

腰下まで伸びた黄金色の長髪を手でかき上げて、それらしくポーズなど決めてみせる静奈。突如として出現した、髪と同じ色の短い毛に覆われた三角形の狐耳は、柳沢の小さな呟きや武人の言葉に反応して、ピクリ、ピクリと動いている。

「アクセサリーの類じゃ……、無いわよね?」

「失敬な。我の耳は本物だぞぇ」

「でも、狐の化け物なんて、そんな……」

「まあ、信じる信じないは主の勝手じゃがのぉ」

「…………」

頭に生えた両の耳を弄りながら静奈は何でもない事の様に呟く。

「とはいえ、先に言った通り主が我を他の者に知らしめることは許さん。もし、この約束を破った暁には、その命無いものと思えよ?」

ギロリと紅い大きな瞳が柳沢を射抜いた。

それは一昨日の晩に、義人が彼女に稲荷寿司を投げつけたときの様子を髣髴とさせる。

「わ、分かったわよ……」

身に纏う雰囲気が急変した静奈の、得も言われぬ迫力に驚いたのだろう。柳沢は彼女の言葉を受けて殆ど反射的に頷いていた。そして、柳沢の反応を良しとしたのだろう。それで静奈の態度は元の捉え所の無い、のほほんとした老齢の如きそれに変わる。同時に頭に出現した耳も引っ込んで元に戻った。

「ここまでは理解して貰えた?」

武人が柳沢に駄目押しする。

「貴方達が狐だ化け物だと騒いでいたのはこれだったのね」

「そして、柳沢が学校を休んでまで追いかけていたのも、この静奈ちゃんと同じ狐の化け物なのだそうよ」

「あの偽者もそうなの?」

「狐に化かされるとは良く言うけど、まさか本当になるとは思っても見なかったわ」

まったく困ったものね、と少し疲れた様子で山野はため息をついた。

「つまり、山野の家を襲ったのもあの偽者の方だってこと?」

「どうやらそうみたい」

「うちの武人にもそれだけの度胸があれば良いのだがのぉ」

「そんな度胸いらないよっ!」

せめて犯人が人間だったのなら、証拠を挙げて無罪を出来ただろう。だが、相手が狐の化け物とあってはそれも叶わない。そんな馬鹿げたことを主張したのなら、逆に怪しまれて牢屋に放り込まれるのがオチだ。

「けど、そうなると八方塞じゃない」

「そうなるわね」

「っていうか、そもそも何故に僕等が偽者を捕まえる必要があるの? そういうことは警察に任せておけばいいじゃないか。見た感じだと繰り返し盗みを働きそうだし、放っておけば勝手に捕まるんじゃないの?」

武人が山野に疑問の眼差しを向ける。

「それじゃ駄目なの?」

彼女は事件の被害者なのだし、自分の手で犯人を捕まえたいという気持ちは理解できる。けれど、それにしたって自分が怪我をするかもしれないリスクを負ってまですべきことなのか。

「そうね……」

武人に問われて山野はなにやら考える素振りを見せる。

「別に自分の手で捕まえて報復したいという訳ではないと思う」

「じゃあ何なの?」

「たぶん、好奇心だと思う」

「好奇心?」

予想と異なる返答に思わず繰り返す。

「私は芹沢君ほど物分りの良い性格はしていないみたい。危ないと言われれば言われるほどに近づいてみたくなるものってあるでしょう? 犯人がただの人だったら、きっと貴方の言うとおりにしていたと思う。けど、静奈ちゃんを見た後だと、それもなかなか我慢できない」

それは武人にも少なからず経験のある感覚だった。

誰も彼も幼い頃にはそんな危うい好奇心を持っているものだ。

「主は長生き出来そうにないのぉ」

「かもしれないわね」

その淡々とした物言いとは対照的な意見であった。

「そう言うことなら私も止めさせてもらうわ。山野が犯人を憎んでのことなら私も協力するわよ。けど、そうでないなら無闇やたらに首を突っ込むのは良く無いわ。怪我でもしたら大変じゃない」

「柳沢は興味無い?」

「興味はあっても、自ら面倒事には関わりたくないわ。それにスーパーでは熊とか何とか物騒な事を言っていたじゃない。一昨日だって満足に抵抗も出来ないで酷い目に合ったのよ? それでどうして相手を捕まえられるのよ」

柳沢の意見は最もだった。

「僕も柳沢さんに賛成だよ」

「そもそも、主は奴を捕らえてどうするつもりじゃ?」

三人は各人の疑問を順次山野に投げかけていく。

「別に捕まえるつもりは微塵も無いわ。ただ、接点を持ちたいだけ」

「持ってどうするの?」

「そこから先はあまり考えて無いわ」

「随分と楽観的じゃな」

怖いもの知らずというか、なんというか、武人の中にある山野という少女のイメージが段々と変化していく。彼が当初抱いた、図書館の良く似合う物静かな少女、という評価は今や微塵も連想出来なくなっていた。

「主の目的が何れにせよ、成せるだけの力量が無いのじゃ。武人やそこな娘の言うとおり諦めるが無難じゃと思うがのぉ」

「そのようね」

そう言って山野はソファーテーブルの上に置かれたグラスを手に取ると、その中で早くも形を崩し始めた氷の溶け水をゴクリと飲み干す。

「芹沢君、お茶の御代わり貰ってもいい?」

「あ、うん。ちょっと待ってて。容器ごと持ってくるから」

コップを突き出した山野に言葉を返し、武人は席を立ってキッチンへ向かう。ダイニングに接するカウンターを迂回して、その反対側にある冷蔵庫から麦茶の入ったプラスチック製の容器を取り出す。幸いな事に内容量は全体の7割ほど残っていた。

それを手にリビングへ戻り、空になった各人のグラスへ薄緑色の液体を注いだ。

「ところで、これからどうするの? 学校に戻る?」

三人とも鞄は学校に置いたままだ。このまま家に帰ってしまっては明日の登校に支障をきたすだろう。それに時刻はまだ1時を少し回ったところである。これから学校へ向かったとしても5限以降は問題なく受ける事が可能だ。

「昼食を食べてから向かう、ってところかしら?」

「そうね」

「あ、そういえば静奈に届けてもらったお弁当って、僕はどうしたっけ?」

「主は教室とやらにあった机の上に置いていたぞぇ?」

「あぁ……、勿体無いことをした」

「学食の営業時間には間に合わないだろうし、何処か外に食べに行きましょう」

「私は久しぶりにマクドナルドがいい」

「我は冷蔵庫の中に稲荷寿司があるのじゃっ!」

食の話となると口数も自然と増える。

時間が時間なだけに皆も腹が空いていたのだろう。

そんなときだ、何の前振りも無くリビングのドアが開けられた。

「ん?」

顔を覗かせたのは義人である。

「父さん?」

反射的に武人が呟いた。

「おお、武人っ!」

義人はリビングに見慣れぬ女の子の姿を見つけて驚いたように息子の名前を呼んだ。

「一体どうしたんだっ!? お前が平日に学校をサボるなんて。その上更にクラスメイトを家に連れ込むなんて。まさか、まさかこんな日がやって来るとは、お父さんは驚きを隠しきれないぞっ!!」

義人を武人の父親だと認識して、ソファーに座っていた山野と柳沢が立ち上がる。

「お邪魔しています。芹沢君と同じクラスの山野と言います」

「始めまして、同じクラスの柳沢です」

そして、礼儀正しくお辞儀をしてみせた。

「おっと、これはご丁寧にどうも。私は武人の父の義人です」

その様子に義人もまた佇まいを正して会釈を返す。

「今日は仕事じゃなかったの?」

「ああ、それが先方の都合で予定が先送りになった。だから今日は半ドンだ」

「ふぅん」

義人は武人が学校をサボった事を咎める素振りを微塵も見せない。これは武人の真面目な性格から来る信頼も然ることながら、義人自身の性格にも強く起因する。良く言えば大らかな、悪く言えば大雑把な性格の持ち主だった。

「ところで、もう昼飯は食ったか?」

「いや、まだだよ」

肩に下げた黒色の直方体状の鞄をダイニングテーブルに置いて、義人は武人達に向き直る。

「だったら外へ美味い物でも食べに行かないか? そこのお二人も一緒にさ」

親指で背後にあるリビングのドアを指差してニカっと笑ってみせた。

「我は留守番かぇ?」

「もちろん静奈さんも一緒だ」

これから昼食を食べに行こうとしていた一同としては、タイミングの良い話である。

「今月は色々と美味しい仕事が入ってきてて、財布も普段の三倍増しで暖かいんだよ。だから、ここはひとつ寿司でもパーッと食べに行きたい気分だったりするんだよな。もちろん、支払いは全部俺が持つから」

「ほぉ、寿司とな?」

「静奈さん、寿司は好きか?」

「うむ、稲荷寿司も寿司の仲間だしな」

義人の言葉に静奈は笑みを浮かべて頷いた。

しかし、山野と柳沢の二人にとっては、喜びよりも前に申し訳なさが先立ってしまう提案だった。出会って間もない友人の親に昼食を奢ってもらうというのは居心地の悪いものである。それが高額なものであれば尚更だ。そして、その辺りは二人とも常識人に違わず、次いで出た言葉は遠慮だった。

「あの、流石にご馳走になるのは申し訳ないので……」

おずおずと柳沢が言葉を返す。

だが、そんな弱々しい彼女の言い分が義人に通ることは無かった。

「まあ、そのへんは犬にでも噛まれたと思って一緒に食べに行かないかい? もし本当に嫌ならしょうがないけど、食事は大勢でした方が楽しいと思うんだよな。どうだろう、寿司が嫌いなら別のものでも構わないんだけど」

「……ですが」

「ほら、それに食卓に若い女の子が入ると料理の味も変わるって言うし」

「ちょっと、いきなり何を言ってるんだよっ!」

「主よ、我は若い女の子では無いのかぇ?」

武人と静奈に軽く睨まれながら義人はワハハハと軽く笑ってみせる。

「山野、どうする?」

押しの強い義人に柳沢は困った顔を浮かべて直ぐ隣に立つ友人に視線を向ける。

「そうね……」

問われて山野は暫し悩む素振りを見せる。

そんな彼女の沈黙を他の者は黙って眺める。武人としては一風変わった己の父親をクラスメイトの目に晒すことは避けたいところである。身内の恥は自分の恥であろう。しかし、ここで自分が義人の案を否定することは、同時に彼女等に対して良くない印象を与えてしまう可能性も有り難しい。仕方なく閉口して相手の意向に乗ることとした。

「では、申し訳ありませんが、ご一緒させて頂いても宜しいでしょうか?」

そして、残念ながら山野は義人の提案を受けて首を立てに振ったのだった。

それに対して柳沢は特に反論することもない。

山野と柳沢とでは、柳沢の方が何かと率先して引っ張って行きそうなイメージがある。しかし、こういった場面では山野を頼るのが彼女なのだろうか。そのやり取りが武人にとっては意外であった。

「おお、ありがとう」

承諾を得て義人は満面の笑みを浮かべる。

「けど、行くにしても移動はどうするんだよ。車はまだ東京だったんじゃないの?」

「その辺は大丈夫だ。今日の仕事に必要になると思って、午前中のうちに近場でレンタカーを借りておいたんだよ。ちゃんとセダンだから5人とも乗れるぞ」

「そう、ならいいけどさ」

彼の最後の反抗も虚しく終わる。

「行くのならば、はよう行こうぞぇ。我は腹ペコじゃ」

「おう、そうだな」

静奈に促されて、義人は帰宅後に一度も腰を下ろすことなく廊下へと踵を返す。

その後を嬉しそうに笑みを浮かべてトコトコと静奈が続く。

「ごめんね。うちの父親ってちょっと変わっててさ……」

他にかける言葉も無く脱力気味に呟いた。

「そう? いいお父さんじゃない」

「本当にそう思う?」

「ええ、とても羨ましいわ」

対外的に、この場で非難の言葉なんぞ返って来る筈も無い。だが、そう返された山野の感想には、実の息子として思わず愚痴を吐き出したくなる衝動を沸々と感じた。喉元まで出かかったそれを堪えるのは一苦労である。

「まあ、色々と巻き込んで申し訳ないけど、……行こうか」

既に廊下を過ぎた義人と静奈を追って、武人達もまた外へ向かった。

食事は芹沢家から自動車で片道30分程度のところにある個人経営の寿司屋となった。

武人としては、義人がどのような奇行に走るかも分からずに、随分と居心地の悪い食事となった。海栗や鮑、鮪だの、とにかく高いネタばかりを注文したのは、彼なりのささやかな腹癒せである。幸いだったのは、山野と柳沢が義人とのやり取りに気分を害した風もなく食事を楽しんでくれた点だろうか。

そして、その帰り道である。

あと数キロで自宅まで辿り着こうかといったところで、車のガラス窓越しに外の景色を眺めていた武人の目に良く見慣れた存在が写った。

「あっ!」

反射的に小さく声を上げる。

「ん? どうした?」

助手席に座っていた武人にハンドルを握る義人がチラリと視線を向ける。

「ちょ、ちょっと止まって」

「止まるってお前、何があるんだよ」

武人の突然の変化を受けて、彼と同じ側の後部座席に座っていた山野が車外へと注意を向ける。車の前方には誰も居ない。次いで後方を振り返る。すると、そこには一人、歩道を歩く男の後姿が合った。

「何かあったのかぇ?」

山野と柳沢に挟まれて後部座席の中央に座る静奈が、運転席と助手席の間から身を乗り出し問うてきた。

「昼の奴だ!」

武人の目に映ったのは彼自身を寸分違わずに化けた狐の化け物であった。

道は人通りも少ない閑散とした県道であり、道の片側は山の一端に面している。前後には他に走る車も無く、義人のレンタカーは時速60kmを越えて走行中であった。おかげで人影はあっという間に小さくなってしまう。武人の他に偽者の姿を見た者は、遠目にそれが人であること以外の何も確認することが出来なかった。

「何でもいいから止まってよっ!」

妙に焦った様子を見せる武人は、大きく声を荒げて義人へ車を止めるよう指示を出す。

「わ、わかったからあんまり怒鳴るなよ」

珍しく強気な息子の態度を受けて、義人は車を車道の脇に寄せてハザードランプを点等させる。それを確認する間もなく助手席を降りた武人は、それまで車が走って来た道を逆に駆け出した。

「本当に昼の偽者がいたの?」

運転席の後ろに座る柳沢には人の姿さえ視認出来なかった。訝しげな表情を浮かべる彼女に、山野はドアを開きながら短く言葉を返す。

「居たみたい」

「まったく、仕方ない奴じゃのぉ」

武人に続いて山野、静奈、それに柳沢もまた車を降りて駆け出した。

「お、おーい、何がどうしたんだよー。お父さんはどうしたらいいんだー?」

義人の呼びかけに答える者は居なかった。

それにしても、狐の偽者とコンタクトを取る事に否定的であった武人が、何故に自ら率先して走り出したのか。解けない疑問を抱えながら山野は武人を追う。そして、もとより歴然たる肉体の性能差を持つ一人と三人は直ぐに同列に並んだ。

「随分と慌ててるのね」

「し、しかたないだろっ」

涼しい顔で直ぐ横を走る山野に武人は必死の形相で答える。

「アイツ、下半身丸出しで歩いてたんだ」

「え?」

「あんな姿で歩かれたら、僕はこの町で生きていけないじゃないかっ!」

ポカンと口を開ける山野に武人は大きな声で叫ぶ。

「主よ、あの者に会って如何するつもりじゃ?」

山野とは武人を挟んで反対側を併走する柳沢と静奈。

「なんでもいいから、とりあえず服を着せる」

「後ろから芹沢君のお父さんが追いかけて来てるわよ。このままだと貴方のお父さんに偽者の事がバレるけどいいの?」

車道側を走っていた柳沢が後ろを振り返りながら尋ねてくる。

「父さんだったら静奈の事も知ってるし、大概の事には驚かないよ」

典型的な事なかれ主義の現代人である武人にとって、身内に偽者の存在を知られることよりも、自身の世間体の方が遥かに重要であった。何より彼の思考の大部分は、ここへ至るまでを相手はどの様に経てきたのか、誰かに見られたりしたのではないか、写真でも取られてやいやしないだろうか、そういった心配で一杯一杯だった。

「うわっ、本当に裸じゃない……」

緩いカーブを曲がったところで四人の視界に偽者の姿が映った。

上にはTシャツを着ているが、下は何も穿いていない。股の間に下げた性器をブランブランと揺らしながら歩いている。数時間前まではちゃんとしていたのに、一体何処で脱いできたのだろうか。

「芹沢君、目がいいのね」

げんなりした表情を浮かべる柳沢とは対照的に山野は淡々とした反応を返した。

それと同時に、車道を走る車の窓から顔を覗かせた義人が声をかけてきた。他に通りを走る車もいないので、速度を落として走る4人と併走している。

「おいおい、いきなりどうしたんだよ。理由くらい説明してくれたっていいだろ?」

「だったら前を見てよ。そうすれば理解できるからっ!」

息子の言い分どおりフロントガラス越しに4人の向かう先へ目を向ける。そこで義人は己の目を疑う事となった。自分の息子を見間違える親はそう居ない。彼も例外に無く、対象を視界に納めて素っ頓狂な声を上げていた。しかし、今の武人には事前知識の無い義人の相手をしているだけの余裕が無かった。運転席からガードレール越しに投げかけられる数々の疑問を無視して、とにかく前だけを見て走った。

「ふと疑問に思ったのじゃが、奴と主は股間のモノも同じサイズなのかぇ?」

「う、うるさいよっ!」

相手との距離が次第に近づいてくる。

100メートルが50メートルに、そして25メートルに。

そこまで来ると相手も武人達の存在に気づいたのだろう。必死の形相で自らを目指し迫ってくる相手が、己と瓜二つの顔作りをしている事で、全ては理解できたようだ。次の瞬間には驚愕の表情を浮かべて踵を返し、脱兎の如く逃げ出した。

「ま、待てっ!」

それまでの偽者に対する恐れは何処へ言ってしまったのか。羞恥心で箍の外れた武人は形振り構わず足を動かす。

「先に行くわ」

しかし、それでも運動音痴はどうにもならない。

脚力に劣る彼は徐々に後ろへ下がっていく。

「ちょ、ちょっとっ!」

「貴方はもう少し身体を鍛えた方がいいと思うわよ?」

つい先日、放課後の教室でかいた赤っ恥の仕返しだろうか。

柳沢は小さく皮肉の残して走り去る。

「糞っ」

それでも足を止めることは出来ずに、彼なりに頑張って二人の後を追う。

そんな中、武人はあることに気づいた。どういう訳か、つい先刻は4人の中で最も健脚であろう山野を容易に振り切った偽者の足が、今はそれほど発揮されていないのである。道は特に障害物も無いコンクリートで舗装された歩道でありながら、先頭を走る偽者とそれを追う山野との間は一定の間隔が保たれている。

「もしかして、怪我でもしてるのか?」

「かもしれんぞぇ」

武人に付き添って隣を走る静奈が小さく相槌を打つ。

そんなときである。

突如として偽者が車道へ飛び出した。

「なっ!?」

偽者より後方を走っていた義人は慌ててブレーキを踏み込む。

幸いな事に車は碌にスピードも出していなかったので、数メートルの距離を置いて止まった。その前を偽者は横切って走り去る。向かう先は今まで走っていた歩道とは反対側の歩道、その炉端から続く林であった。林は遠く山に続いている。勿論車が通れるような道は無く、雑多に茂る木々を前にしては、人の足でさえ満足に走ることが出来るかどうか怪しい。

「山野っ!」

今後を問うように柳沢が大きな声を上げた。

「追えるとこまで追う」

山野はそれに短く答えて、偽者がそうしたように車道を越えると、義人の車の前を横切り林の中へ躊躇無く入って行く。柳沢もそれに続いた。武人としては判断に悩むところだった。相手がこのまま山から出てこないのなら深追いする必要は無い。しかし、その保障が無い以上、山野では無いが即急に交渉の場を設ける必要があった。

「お、おいっ、武人っ!」

「ちょっと行って来る。もし何かあったら携帯で連絡いれるからっ!」

「いや、だからってお前……」

何やら喚いている義人の制止を横目に、武人は先行する山野や柳沢を追って林の中へ入っていった。

「主はそこで我等の帰りを待っているが良い。武人には我が付いておるのだから心配は無用じゃ」

ただ一人状況を理解できずに焦心する義人に軽く言葉を投げかけて、静奈もまた木々の合間に消えていった。

4人が消えた林の奥から、いつの間にか車のドアロックへ伸びていた己の手に視線を移して、義人は暫しの自問自答を繰り返す。静奈とは出会って二日の仲である。共に居たクラスメイトも大差ない。息子のことが心配ならば直ぐにでも後を追うべきだろう。

しかし、義人は小さくため息を付いて、ドアから手を離し両腕をハンドルに乗せる。

「まあ、アイツにしたって、いつまでも子供じゃないんだよな……」

サイドブレーキを引いてギアをローに入れる。

「それにしても、なんだか知らんが楽しそうで羨ましいなぁ」

どんなときも童心を忘れない男。

それが義人だった。

進む者の行く手を阻むように樹木が多い茂る林は、お世辞にも歩き易いとは言えなかった。縦横無尽に張り出した木の根に幾度となく足を取られそうになりながら、武人は必死に走った。悪路の為に先を進む山野と柳沢の勢いも落ちている。おかげで運動音痴の彼でもその背を追うことが出来た。

「まったく、なんで、僕が……」

ゼイゼイと激しく息をしながら地面を蹴る。

「随分と辛そうに見えるぞぇ?」

「実際問題辛いんだよっ!」

一方でその直ぐ後ろを走る静奈は至って涼しい顔だ。息の乱れも見られない。それが余計に武人の神経を逆撫でた。己の脆弱さをこれほど憎らしく思ったのは、彼としても久方ぶりである。

「奴に服を着せるのは良いが、その着せる服はどこにあるのじゃ?」

「そんなの、追いついてから考えるっ!」

今の武人には相手に追いつくという目標だけで精一杯だった。車を降りてから数百メートルを全力疾走なのだ。ペース配分を無視した突然の運動に、心臓は鼓動音も激しく普段の二倍近い間隔で収縮運動を繰り返している。加えて夏のこの季節である。額からは滝の様な汗が流れ出て、シャツの襟をグショグショに濡らしていた。誰の目にも長くないのは明らかである。

「………大丈夫かぇ?」

「こ、これくらい大丈夫に決まってるさ」

静奈としては全く大丈夫に見えなかった。

「ぬぅ……」

先を行く山野と柳沢とは4,50メートルの差がある。視界に移る背は小さく、その先を走っているであろう彼の偽者の姿は視認出来ない。それに彼らが走っているのは獣道以下の道無き悪路である。同じ距離を走るにしても舗装された歩道とは比較にならない体力が必要となるだろう。その差は武人の運動能力を考えると絶望的だった。

しかし、ここへきて先行する二人が突然止まった。

一体どうしたというのか。

淡い希望を見出し残る体力の限りを振り絞って、山野と柳沢の元まで武人は向かった。

するとどうだろう。追いついた武人の目に映ったのは、地面に座り込んで身を震わせる小さな女の子と、その女の子を目にして驚きの表情を浮かべる山野と柳沢の姿だった。そこには武人の偽者の姿が見えない。そして、どういう訳か地面に座り込んだ女の子は下半身を露出させているではないか。

「ちょ、ちょっと……、どうなったのっ!?」

息も絶え絶えに二人の隣まで足を動かす。

傍から見れば山野と柳沢が小さな女の子を虐めている様にも見えた。

「そ、それが、貴方の偽者がいきなりこの女の子に変わったのよ」

「木の根に足を取られて転んだと思ったら、次の瞬間にはこの姿だった」

少女に目を向けたまま二人は呆然と答える。

「ほぉ、やっと化けの皮が剥がれたようじゃな」

いち早く状況を理解した静奈が三人を越えてずいと一歩前に出る。

「っ!?」

それに驚いた少女がびくりと身体を震わせた。

相手が化け物となれば実年齢は一概に推測出来ない。しかし、外見は静奈と同じくらいの歳に見える。小学校の低学年といったところか。雪のように白い肌と紅いリボンでツーサイドアップに纏めた銀色の長髪が非常に特徴的である。その丈は静奈と同様に腰まで届くほど長い。そして、頭には三角形の耳がちょこんと乗っていた。覆う毛の色は髪と同じ銀色だ。

また、山野と柳沢の言葉を信じるならば、武人の姿に化けていた時と同様に、上半身には英字のプリントされたTシャツを着ているが、下は下着すら穿いていない。M字開脚の要領で開かれた太股の間からは、恥毛も全く生えぬ幼い性器が顔を覗かせている。

「ね、ねぇ、静奈……」

膝に手を当て身を屈めながら、ゼーハーゼーハーと息も激しく尋ねる。

少女の姿を目の当たりにして、武人の顔が自然と引きつっていた。その原因はお尻から生えた大きな尻尾にあった。静奈の予想では1本又は2本だと聞かされていたそれは、なんと6本も生えていたのだ。

尻尾と耳は共に髪の毛と同じ銀色の毛に覆われており、毛並みも美しくフワフワとしていて、枕にしたのなら快眠は間違いないだろう。だが、そんな尻尾も今の武人には畏怖の対象でしかなかった。

「うろたえるでない。どうも様子がおかしいぞぇ」

「けど……」

「いいからしゃんとするのじゃ」

耳打ちするような小さな叱咤を受けて、武人は素直に口を塞ぐ。隣を見れば山野と柳沢も武人と同じような顔をして少女を見つめていた。静奈は武人より前に出て、銀髪の少女と静かに向き合っている。

「うぅっ!」

地面に腰を落とし身を震わせている女の子は、それでも気丈に相手を睨み返す。静奈の言葉が正しいのならば、相手は自分達になんら怯える必要など無い筈である。そもそも、武人達の姿を目にして逃げ出したのだって変な話だろう。答えの出ない問題に武人は頭を悩ます。

そんなときである。

地面に腰を落とした少女の姿が武人の脳裏にふと像を結ばせたのは。

「あ、君って……」

それまで忘れていたが、彼はこの女の子に面識があったのだ。

「君って一昨日、僕が風に飛ばしちゃった地図をキャッチしてくれた子じゃない?」

それはこの町に越してきて一番初めの出来事である。相手に尻尾が6本ある事に怯えながらも、一度は会話を交わしたことのある相手、それも初印象は不幸から救ってくれた存在として、彼の中では好意的に捉えられていた。おかげで、言葉は反射的に出ていた。

「ほら、JRの駅舎の前で会ったじゃないか」

そこに僅かな希望を見出し、相手が自分にとって脅威で無いことを確認するように強く尋ねる。荒ぶる息を整えながら、気づけば足は自然と前に出て、静奈の隣に並んでいた。

「主よ、あまり近づかぬ方が良いぞぇ」

相手の正体を知って厳しい顔つきになった静奈の注意が飛ぶ。

「お、お前等もアタシ達を虐めるのかっ!?」

武人が近づいたのに応じて、地面にへたり込んだままの少女は背後に後ずさり叫んだ。

それはつい先日に出会ったときの無邪気で元気な様子とはかけ離れた悲痛な叫びであった。武人が初めて彼女に出会った日から今日に至るまでの間の二日間で何があったのか。そして、どういった理由で武人に化けていたのか。分からない事は山積みだった。

「虐めるって、なんで僕が君を虐めるんだい? それは君が僕の姿を真似ていたから、だから僕が君に怒っていると考えているからかい?」

小心者の武人は、銀髪の少女を前にして足がガクガクと震えそうになるのを必死に押さえつけながら言葉を続ける。後々の世間体と、今ここにある危機を天秤にかけて、ちょうど釣り合っている様な状態だった。

「…………」

「そういう意味だったら、僕だって少なからず憤りは感じているよ。けど、手を上げて虐めたりはしないよ。君こそなんで僕が君を虐めると思うんだい? 誰か、他に君を虐める人がいるのかい?」

緊張するとかえって多弁になる者がいるが、武人はその典型である。

「だったら何で追って来るんだよっ!」

「そりゃ、自分と瓜二つの風貌をした奴が下半身丸出しで表を出回っていれば、誰だって追っかけるんじゃないかい?」

どうにも要領を得ないが、急いて事を仕損じるのは避けたい。まずは外堀を埋めるように、武人は慎重に言葉を選びながら少女に語りかける。唯一、相手と面識を持っているであろう彼に任せて、山野、柳沢は黙って様子を伺う。静奈も武人が相手と面識を持っていたことに多少驚いた様子で、二人の姿をジッと監視している。

「うぅ……」

武人を睨む様に見つめる少女の口から、小さく獣染みた唸り声が漏れた。

「君、名前は何ていうんだい?」

もう二度と僕の姿で外をうろつかないで欲しい。望むべくはそれだけなのだが、現状では単刀直入に頼み込んでも素直に受諾される事は無いだろう。適当なところで話題を繋ぐべく、まずは自己紹介から始めることにした。

「僕の名前は芹沢武人って言うんだ。君は?」

4対1という数の差に因るものだろうか。少女は武人達を前にしてかなり怯えているように見える。気丈な態度とは裏腹に、か細い四肢は小さく震えてさえいた。尻尾2本が熊だと言うのだから、6本を持つ彼女と人間なんぞ蟻と象ほどの差があろう。武人だけでなく、二人のやり取りを眺める他の者も少女の振る舞いに明確な答えを出せずにいた。

「名前なんて聞いてどうするんだよ」

「別にどうもしないよ。ただの自己紹介さ」

「なんでアタシがお前に名前を教えなきゃならないんだ」

「名前を教えるのは嫌なの?」

「…………嫌だ」

武人は自分が敵意を向けられる理由が分からずに、困惑するばかりだった。前に出会った時の様子を鑑みるに、背後に何かしら理由があるのは確かだろう。しかし、少女の頑なな様子を見る限り、それを引き出すのは至難の技に思えた。

「じゃ、じゃあ、何で僕の格好を真似したの? それだけでも教えてくれない?」

もしも相手に逃げられてしまったらどうしよう。もしも相手が逆上して襲い掛かってきたらどうしよう。そんな二つの恐れの板ばさみに四苦八苦しながら、なんとか問題解決の糸口を探べく話を続ける。

「………」

一体、何を考えているのだろうか。少女はうんともすんとも言わずに、武人の目を睨むように見つめていた。そこで彼は地面に座り込んだ少女に合わせるよう膝立ちになり、互いに視線の高さを合わせて顔を向き合わせた。二人の間には3メートル程度の間隔がある。しかし、それが相手にとってどれだけ意味のあるものなのか。全力疾走による鼓動の高鳴りとは別の理由で、武人の心臓は再び伸縮運動を大きくさせる。

「それも駄目かい?」

その振る舞いは、母親が今にも泣き出しそうな我が子をあやす如きである。体勢をそのままに、二人はしばらく視線を合わせたまま黙りこくっていた。武人としては1分が1時間にも思えるような長い時間であった。

やがて、焦りに駆り立てられ武人が再び言葉を投げかける。

「やっぱり、嫌?」

すると、その間の沈黙に何か得るものがあったのだろうか。

僅かだが少女が己を明らかとした。

「別に……、お前の格好をしたのは偶然だよ」

それは独りごちる様な小さな声だった。

「偶然?」

「人里に下りようとしたとき、夢見月に適当な人間の姿に化けていけって言われてたから。それで、ちょうどお前の姿を思い出したから。ただそれだけだよ。他に理由なんて無いし、別に誰に化けたって良かったんだよ」

少女は不貞腐れ吐き捨てるように言葉を続ける。

「お前達人間に化ければ、私達が何をしても疑われる事は無いって……」

何をしても疑われる事が無い。これは今日の昼に発生したスーパーマーケットでの窃盗事件を、若しくは一昨日に山野の両親が経営するコンビニエンスストアで発生した強盗事件を指しているのだろう。

「それもこれも人間が全部悪いんだ。お前達が勝手に山を壊してくから、アタシ達の食べるものがなくなってく。アタシ達がお前達の家のものを盗むのだって、お前達が山を荒らすからなんだっ!」

少女は徐々に口調を強くしながら言葉を続ける。

「山を壊すって、森林伐採とか、そういうこと?」

「そうだよっ! お前等人間が勝手に山に入ってきて、木を切ったり川を埋めたり、変な建物を建てたりするから、だから、アタシ達の食べるものが無くなるんだ。魚も、木の実も、それに他の動物もだ」

親の敵を見るような眼差しで、少女は武人を見つめていた。

彼としては、まさか、このような場所で人外を相手に環境問題を論されるとは思ってもいなかった。少女の言葉を纏めるならば、武人の姿で強盗や、窃盗に至ったのは、彼女の暮らしが人間の行なう山林開拓によって奪われたから、ということになる。

「だから、アタシだってお前等から食べ物を奪ってやる」

そして、己の存在を世に秘匿とする為に、彼女は武人という人間社会にとって既知な存在に化けて、その罪を被せようとしたのだという。腹を空かせた熊や猪ならば、何の策無しに民家を襲い猟銃で撃たれる。それが所代わって高い知能を持ったならば、こういった面倒事になるということだった。

「いや、まあ……。君の言いたい事は大体分かったけど」

「だったら人間は山から出て行けっ! でないとアタシはまた人を襲うぞっ!!」

「…………」

ガルルと犬歯をむき出しで吼えられた。こうなってしまうと後が無い。少女に向かう他の者達も皆口を閉ざしたまま、上手い言葉が思い浮かばずに少女を見つめていた。

彼女の主張は、一個人に過ぎない武人にとっては、両手でも扱いきれない規模の大きな話だ。突っ込んだ議論を重ねても破局は目に見えている。そういう訳で、彼は少女の主張に一切関知することなく、とりあえず本来の目的を叶える第一歩として話題を変える為に、彼女が口にした聞きなれない単語を反芻した。

「そ、それは分かったけど、……ところで、夢見月っていうのは人の名前?」

それは武人の聞き間違え出なければ旧暦で3月を指す言葉だった。

「……ゆ、夢見月はアタシの妹だ」

会話に身内の名前を出してしまった事に気づいて、少女は小さく顔を顰めて視線を逸らした。随分な警戒のされようである。彼女との会話は、まるで、人に慣れない野良猫に触れようと必死になっている様な、そんな感覚があった。

「じゃあ、別に化けるのは僕じゃなくても良かったんだね」

相手が一瞬でもたじろいだおかげで話題はすんなりと移行した。これ幸いと武人は話を続ける。普段は他人に対して押しの弱い武人だが、己の利権がかかったとなれば、出るときは出る性格をしている。

「ああ、そうだよ」

これ以上会話を重ねるのは良くないと悟ったのか、少女はぶっきら棒に言い放つ。

「だったら、僕から一つだけお願いしてもいい?」

「なんだよ」

一方的に話を続けようとする武人に少女は渋い顔で答える。

「出来ればもう二度と僕の姿には化けないで貰いたいんだよ」

「なんでだよ」

「君には分からないかもしれないけど、君に僕の姿で出歩かれると色々と迷惑なんだ」

山野の家に強盗に入ってみたり、スーパーで大胆不敵に万引きをしてみせたり、更には下半身を丸出しで白昼堂々と表を歩いてみたりと、この少女に一般常識類が欠如していることは明らかである。そんな相手に自分の言い分がすんなり伝わるのかどうか。その得体の知れない身体能力と相まって、摂氏30度を越える夏場の山中にありながら、冷汗なんぞをかきつつ武人の交渉は山場を迎えた。

「だから、お願いだよ」

そう言って、両手を合わせて頭を下げる。

強い者にはひたすら低く出る。

それが彼の信仰する処世術だった。

「だったら、そこにいる女なら化けてもいいか?」

すると、銀髪の少女は武人の後ろに立つ柳沢を指差して事も無げに呟いた。

「うん。それだったら全然構わないよ」

即答だった。

「ちょ、ちょっとっ!?」

代わりに指名された柳沢としては堪ったものでない。反射的に大きな声を上げて叫んでいた。それに驚いた少女がビクリと身体を震わせる。鼓膜にビリビリと響く甲高い声が木々の合間に反射しながら遠のいていった。

「なんで私が貴方の代わりにならなきゃならないのよっ!」

「だって、じゃないと僕に化けられちゃうじゃないか」

酷く自己中心的な意見だった。

「だからって私に化けることないじゃない」

「けど、彼女が化けたいっていうんだから仕方が無いじゃないか」

「ど、どういう考え方よっ!?」

「だったら、君には他に何か案があるの?」

「そんなの私が知るわけ無いじゃないっ!」

相手が得体の知れない、しかも尻尾を6本も持つ化け狐であることも手伝って、二人は共に必死だった。互いにそれほど友好的な関係で無かった事も手伝って、言い合いは次第に熱を増してゆく。

そんなとき、ふと二人の前を横切って少女に近づく者がいた。

山野である。

「とりあえず、これで下を隠した方がいい」

「っ!?」

身に着けていたセーラー服の上を脱ぎ、スカートにTシャツ姿となった山野は、少女の隣にしゃがみ込み、それまで自分が着ていた制服の上を少女の下腹部に被せる。それまで露となっていた太股の付け根周辺が白い布生地で遮られた。

「汗で濡れちゃってて気持ち悪いかもしれない。ごめんね」

「ぁ………」

突然の行為にビクリと身体を震わせた少女であったが、山野に害意が無いことに気づいたのだろうか。どう反応して良いのか分からずに、ひざ掛けの要領で置かれた制服と山野の顔との間で幾度も視線を行き来させる。

「そういうところは他の人に見せちゃ駄目って、お母さんに習わなかった?」

普段からの彼女と変わりなく、山野は淡々とした物言いで語りかける。

「え、あ……、お、お母さんは……」

それまでの敵意と警戒は何処へ行ってしまったのか、少女は鳩が豆鉄砲を食らった様な表情を浮かべて山野を見つめていた。彼女達二人のやり取りを目の当たりにして、自然と武人と柳沢の口論も落ち着きを見せる。

この件では武人にも増して被害の大きな山野が、しかし、その犯人を前にしてこれだけ落ち着いて、剰え友好的に接しようとしているのだ。そう考えると二人は己のさもしい感情に居心地が悪くなる。

「そ、そういえばお前って、一昨日アタシが襲った店の……」

山野の正体に気づいた少女がハッとした様子で元の警戒心を取り戻す。この少女とはつい数時間前にも大町のスーパーで顔を合わせていた筈だが、それに関しては相手も盗みに必死であった為だろう。記憶には残っていないらしい。

「ええ、そうよ。覚えていてくれたのね」

少女の問いに山野は取り立てて感情を見せる事もなく平然と応じる。

「ア、アタシに仕返しにきたのか!?」

一方の少女は、ズザッっと尻を土の上で滑らせて僅かに後ろへ後退する。

「私も彼と同じで、別に貴方に危害を加えようとは思っていない」

「だったら、お前は何でアタシを追ってきたんだよっ!」

「そうね………」

問われて山野は悩むように首を傾げる。

そして、しばらく考えた後で突拍子も無いことを言ってのけた。

「貴方とお友達になる為、かしら」

「え?」

山野の回答には少女だけでなく、その場に居合わせた全員が驚いた。

「ちょ、ちょっとちょっとちょっとっ!」

「山野、本気で言ってるの!?」

放っておけないのは武人と柳沢の二人である。

狐の化け物に興味があるとは言っていたが、まさかそう出るとは二人も予想だにしていなかったらしい。それは相手も同様であり、少女も山野を見上げたまま呆気に取られた表情を浮かべていた。

「駄目?」

小さく首を傾げて問う。

「な、なんで友達なんだよっ!?」

ハッと我に戻った少女は、大きな混乱を伴いうろたえていた。得たいの知れない相手を前にして対処に困っている様子がありありと感じられる。非難の声を上げようと武人や柳沢が口を開く前に、山野は続けて少女に語りかける。

「友達じゃなかったら、他に何かあるかしら」

「っていうか、お前はどうしてアタシに怒らないんだよっ!」

「どうして? どうしてだろ……」

山野は顎に手をやり悩むような素振りを見せる。

少女の言い分は最もだった。武人にしても柳沢にしても、山野が目指すところが全く理解できない。右手の指先には、白い包帯が依然として巻かれている。痛みだって残っていることだろう。

「そうね、貴方に興味があるからかしら」

「アタシに興味?」

「そう、それじゃ駄目?」

「………」

どう答えを返したら良いのか分からない、そんな顔だった。

照り返しの強いアスファルトの道路とは変わり、林の中は頭上に茂る木々の葉と湿った地面が気温の上昇を防いでいる。しかし、それにしても真夏の、それも太陽が南中高度を迎えようという時刻とあっては、誰も彼もの額から汗が雫となり垂れていた。

山野と少女は他に言葉も無く向き合ったままである。

「のぅ、主はこの辺りに住んでいるのかぇ?」

交わす言葉の無くなった二人の隣から、それまで黙っていた静奈が声をかけてきた。

意識外の相手から言葉を投げかけられて少女の肩が小さく震えた。

「な、なんでそんなことを聞くんだよっ」

山野への返答を遠まわしに出来た事への安堵と、新たな不安要素の登場に、少女の顔が再び元の強張ったものへと変化した。今まで少女に向いていた皆の視線が、今度は静奈に向かう。

「その尻尾と耳からして、主は狐だろう?」

「だったら何だよ!」

小さな音を立てて落ち葉を踏み、一歩前に出た静奈の身体が小さく震えた。かと思うと、頭の上に出現したのは黄金色の毛に覆われた、少女にあるものと同じ三角形の尖がった耳である。

「我は主と同じ狐じゃ」

ピクピクと上下左右に小さく動いているそれは紛れも無い本物の獣耳である。

「あ………」

「名は静奈という」

紅い色のクリクリとした大きな瞳が少女を見つめる。

相手が同じ狐の化け物だと知って驚いたのだろう。意表を突かれた少女は小さく口を開けてポカンと静奈を眺めていた。だが、それも僅かな間の出来事である。驚いてしまった己を恥じる様に小さな口をキュッと閉めて、挑むような視線を静奈に向けてくる。

「き、狐の癖して人間に媚なんか売ってるのかよっ!」

そこには相手を見下げる侮蔑の眼差しが混じっていた。

「まあ、主からしたら我がそう見えるのは仕方の無いことかぇ」

「お前等、一体何なんだよっ!」

三者三様の振る舞いを見せる武人達を相手にして、いい加減に痺れを切らしてきた様だった。だが、武人自身も少女を前にして山野や静奈、それに柳沢が何をしたいのか分からないのだ。その問いに明確な答えが返される事は誰からも無かった。

そんな時である、5人が居る場所とは少し離れた所で木の葉が揺れる音がしたのは。

「っ!?」

いち早く反応したのは少女と静奈だった。

頭部に生えた三角形の耳をピクリと動かして、タイミングを合わせるように音源を振り返る。それは互いに向き合う一人と四人から、横に数メートル離れた位置である。雑多に伸びる広葉樹の影から、群生する丈の長いシダ植物を踏みしめて人が一人現れた。

「夢見月っ!」

地に腰をつけた少女が、大きな声でその名を呼ぶ。

それは武人の姿を真似ていた少女と瓜二つの姿をした女の子であった。整った可愛らしい顔作り、雪のように白い肌、黒いリボンでツーサイドアップに纏めた銀色の長髪、何を取っても相違点は見つけられない。唯一の違いは、上にTシャツしか来ていない一方に対して、同じTシャツに加えて此方は下に淡い色のデニム生地で作られた竹の短いスカートを穿いていることだろうか。同じ格好をして並び立たれたのならば、どちらがどちらであるか判断するのは困難を極めるだろう。二人はそれほどソックリな容姿をしていた。頭に獣耳は見られないものの、今し方の呼称からして、彼女が先ほど少女が洩らしていた妹である事は、武人達にも容易に理解できた。

「花見月っ!?」

新たに現れた少女が慌てた様子で地に座る少女の下へ駆け寄ってくる。

どうやら武人に化けていた少女は花見月という名前らしい。これも夢見月と同様に旧暦で3月を示す語句である。その命名と互いに瓜二つの容姿からして、武人の脳裏には二人が双子なのではないかという推論が自然と浮かぶ。

「その姿はどうしたのっ!?」

夢見月と呼ばれた少女は、飛ぶように花見月の元まで駆け寄った。そして、己の姉とその付近に群がる武人達に対して順に視線を向ける。そこには明らかな敵意があった。

「花見月に何をしたのですか?」

怒りに細められた蒼い色の瞳が武人達に向けられる。

「べ、別に何もして無いよ」

慌てたのは武人だった。しゃがみ込んでいた体勢から慌てて立ち上がり、寄り添う姉妹から距離を取る。対して山野は、少女の近くにしゃがみ込んだ体勢のまま花見月の姿を見上げていた。

「この者の言うたことは本当だぞぇ」

武人と姉妹の間に入るように、数歩だけ歩みを見せた静奈が、落ち着いた抑揚の無い声で語りかける。二人が姉妹だと仮定したのならば、新たに姿を現した少女もまた、尻尾を6本持つ狐の化け物である可能性が高い。静奈の顔にも真剣な表情が見て取れた。

「だとしたら、誰が花見月を?」

姉を庇うように、その身体を両腕で抱く夢見月の手が、ふと臀部にかけられたセーラー服越しに相手の太股に触れた。すると、それに反応して急に顔を顰めた花見月がビクンと身体を震わせた。

「痛っ!」

小さな悲鳴が口から漏れる。

「まさか、怪我をしているのですかっ!?」

途端に夢見月は狼狽した様子を見せ始めた。

「べ、別に大したこと無いよ」

妹に心配されて、花見月は照れた様にそっぽを向いてぶっきら棒に呟く。

「ちゃんと見せて下さいっ!」

慌てた夢見月は患部を遮る白い布生地を除けると、先ほど自分が触れてしまったであろう部位に眼を向ける。そこは太股の付け根の側面だった。どうやら外部から強い圧力を加えられたのだろう。元は白絹の如く肌理の細かい美しい肌が、成人男性の手の平程度の範囲に亘り無残にも赤く腫れてしまっていた。

「これはどうしたの?」

わなわなと小さく身を震わせて夢見月が花見月に尋ねる。

「この者達にやられたのですか?」

早合点した夢見月が殺意に満ちた瞳で武人達を睨みつける。ざりっ、っと地面の土を指先で穿り返し、そこに含まれる小さな石の粒さえ砕かんとする勢いで握り締めた。そして、しゃがみ込んだ体勢から膝を上げてゆっくりと立ち上がる。

「ちょ、ちょっと待ってよ夢見月っ!」

そんな夢見月の鬼の様な形相を前にして、武人が今まさに腰を抜かしそうになった瞬間、すぐ隣から花見月の制止の声が届いた。おかげで彼の脆いプライドは危ういところで面目を保つ。

「コイツ等は何もやって無いんだ」

「だったら誰が花見月に怪我を負わせたのです?」

「これは、その……」

妹の夢見月に強く問われて花見月は言いよどむ。だが、真剣な表情で自分をジッと見つめてくる相手に誤魔化しは効かないと理解したのだろう。しばらく悩んだ末にポツリと短く言葉を返した。

「昨日、私達を襲ってきた奴……」

すると、それを受けて夢見月の目は再び驚愕に見開かれる。

「そ、それは本当なのですか!?」

「アタシは夢見月に嘘なんてつかない」

「まさか、あの者がまだこの辺りをうろついていたなんて……」

花見月の告白に夢見月は視線を地に落として項垂れる。

「だから、こいつ等は別に何も関係無いんだ」

「ええ、分かりました」

花見月の言葉に答えて、夢見月は手の中に握っていた土をパラパラと地に落す。

「けど、そこの一人は私達と同じ狐でしょう? 何故に狐が人間と共に、そして花見月と共にこの林に居るのですか?」

要らぬ疑いは晴れたものの、依然として夢見月が武人達に向ける視線は厳しいものであった。その様子はあまりにも堂々としており、尻餅をついたままの体勢の花見月と比較すれば、むしろ彼女の方が姉らしく感じられる。

「我はこの者の目付け役を言い付かっておる狐じゃ」

問われた静奈は、手で武人を指し示して口を開いた。

「目付け役?」

「そうだぞぇ」

目付け役、という言葉に反応して夢見月の口元に嗜虐的な笑みが浮かぶ。

「人間風情に子飼いにされた狐が、私の姉に何の用です?」

「主の姉が我の目付ける者の姿を真似て外へ出歩いていたゆえに、それを改めて貰えんかと交渉していた次第じゃ。他意は無いぞぇ。どうだろう、妹の主からも姉に考えるよう言って貰えんか?」

相手の明らかな挑発に乗ることも無く、静奈は元の平然とした口調のまま語りかける。

「そういうことでしたら、別に頼まれるべくもありません。今は人間の里へ出歩いているだけの余裕もありませんし、そうなれば近く人の姿を真似ることも無いでしょう」

「ならば助かるぞぇ」

「理解したのならば早くこの場から失せなさい。私は人間が大嫌いなのです」

少女の態度は尊大で、武人はいつ静奈が相手に喰らいつくかと冷汗ものだった。しかし、冷静さを欠くことの無い彼女はそれっきり黙り、幸いな事に皮肉の一つも口にする事はなかった。

「それと、そこの人の娘」

花見月の腿の上に置かれたセーラー服の上を拾った夢見月が、それを手首の動作だけで山野へ向けて放り投げた。本来ならばすぐにでも失速して地に落ちる筈が、服はまるで風に乗ったかのようにフワリフワリと空を巡り、彼女の手元までやって来る。

「私は人間が大嫌いですが、それでも義を欠く事はしません。不本意ながら礼だけは言っておきます。ありがとうございます」

「………」

相手からの予期せぬ反応に、山野は黙ったまま相手の顔を見つめている。

「夢見月?」

花見月に穏やかな笑みで答えた夢見月は、怪我をした姉の足と背に手を回し腕に抱く。

そして、妹の背中越しに武人達見つめる花見月とは対照的に、一切の意識を背後に向けること無く、地に落ちた枯れ葉を踏みしめながら、林の木々の合間にゆっくりと歩み去っていった。

武人達はそんな二人を前に、一言の言葉を発する事も無く、ただ黙って去り行く姿を眺めていた。四方八方から聞こえてくる蝉の喧しい鳴き声が、夏の猛暑を忘れさせるほどに強く、雑木林に響いていた。

やがて背の高い植物に遮られて姉妹の姿は掠れゆく。

その後ろ姿が親指の先ほど小ささとなり、樹木に隠れ完全に見えなくなったのを確認して、武人は大きな溜息をついた。

「あぁー……、怖かった」

それまでの緊張が抜けて両肩がガックリと下がる。

「ねぇ静奈、僕はあの子に尻尾が6本あるだなんて聞いてなかったよ」

「あれは我も想定外じゃ」

やれやれ、といった様子で首を小さく左右に振ってみせる。

「っていうか、山野、アンタは一体何を考えてるの?」

「何って?」

「そんなの決まってるじゃない。この子の話を聞いてなかったの? あの狐には尻尾が6本もあったのよ? 友達になりたいって、そんな突拍子も無い話が何故に出てくるのか、前からおかしな子だとは思ってたけど、まさかこれほどとは思わなかったわよ」

「そんなにおかしなこと?」

「間違いなくおかしなことよっ!」

「山野さんはあの子が怖くなかったの?」

「芹沢君は怖かった?」

「当然だよ」

二人は山野に、コイツは何を聞いてくるのだ、とやや呆れながら答える。

周囲からの反発を受けて山野は困ったような顔になった。

「これも君の言う好奇心ってやつなの?」

「うん、多分そう」

夢見月に投げて渡されたセーラー服に視線を落しながら小さく呟く。そこには少女との出会いに失敗した、残念そうな表情が見て取れた。そんな親友の横顔を目の当たりにして、柳沢は肩に乗った長髪をウザったそうに掻き揚げて口を開く。

「まあ、何にせよ問題は解決したんだし、これで全ては良しじゃない。謝罪は得なかったけど、これ以上無駄に首を突っ込んでも、またこの間みたいに痛い目を見るに決まってるわ」

「その通りだよ」

負けん気の強い柳沢にしても、この件はここが妥協点であるらしい。

有無を言わさぬ二人の眼差しに山野は渋々と頷いて、手にしたセーラー服の袖に手を通す。衣類に染みて冷えた汗がひんやりと肌を濡らす感触は、決して心地の良いものではない。それを我慢して前面に付いたファスナーを上げた。

「主よ、人間が嫌いだと豪語する尻尾6本を二人前にしながら、それでいて五体満足どころか無傷で家に帰れるのじゃ。それだけで幸せだと思うが良いぞぇ?」

そして、二人の言い分に静奈の助言が加われば、そこに反論の余地は皆無である。

「分かった」

再び頷いたその顎から汗がポタリと地面に落ちる。

武人はズボンのポケットから携帯電話を取り出して、サブディスプレイに目を向けた。既に時刻は午後の3時を回っていた。昼食を取り終えて飲食店を後にしたのが午後の2時頃であったことを考えると、それから1時間近い時間を屋外で立って過ごした事になる。

「とりあえず、家に帰らない?」

大量に汗をかいたことで、皆も喉がカラカラだった。

「うむ、そうじゃな」

武人の提案に異議を唱える者は居ない。

一同は元来た道を探しつつ、義人の待つ車を目指して林の中を黙々と進むのだった。