金髪ロリ達観クールラノベ 第一巻

第三話

武人と静奈、それに山野と柳沢は義人が運転する車に乗って再び芹沢家の玄関の敷居を跨ぐ事となった。午後4時前という中途半端な時間帯も手伝って、他に行き場を無くしての帰還である。

幸いなことに義人は静奈の存在を理解していたので、林の中で起こった事の顛末、それに付随する山野の家や大町のスーパーでの件は車上で簡単に済ませてある。語り始めこそ驚かれたものの、別段抵抗も無く彼は息子達の話に頷いた。

「はい、麦茶」

そう言って武人は、冷蔵庫から取り出したばかりの麦茶を注いだグラスを、盆からソファーテーブルへと並べていく。絞れば水滴を落せるほどのシャツも車内のエアコンに当たって大分乾いていた。

「ありがとう」

「どうも」

山野と柳沢はそれに小さく答えて、外気に晒された事で瞬く間に表面へ隙間無く水滴を付けたグラスに指先を濡らす。静奈はと言えば、武人が冷蔵庫を開けた時点で我慢できずにその場でグラスに麦茶を注いで貰い、我先にと口をつけていた。今は彼の隣で立ったまま、二人と同様にゴクゴクと喉を鳴らして二杯目を飲んでいる。

ちなみに義人は、息子の交友の妨げにはなるまいと、家に着くなり冷蔵庫から缶ビールを一本取り出すと、何も言わずに二階にある自室へ去って行った。

「それにしても、今日は驚いてばかりだわ」

手にしたグラスを空にして、柳沢がしみじみと呟く。

「まったくだよ」

「でも、やっと事の次第が見えてきたわ。納得できたと言うにはあまりにも素っ頓狂で馬鹿馬鹿しい話だけど、実際にこの目で見ちゃったんだから、否定するわけにはいかないものね」

「その通りだね。まあ、過程はどうあれ、僕は偽者がいなくなって一安心さ」

転校早々から面倒事を抱え込む羽目になったけど、それからも漸く解放されたよ、と武人は誰に言うでもなく一人ごちて、手近なソファーの一端に腰を下ろす。隣には静奈が座った。

「そんなに嫌だった?」

そんな彼等の様子を目の当たりにして、何故そう言える分からない、といった様子で山野は小さく声を漏らした。空のグラスをソファーテーブルに置いて、己の向かいに座った武人に向き直る。感情の窺い知れない平素な顔を微動だにすることなく、大きな漆黒の瞳がその先を無言で問いかけてきた。武人はまるで、物知らぬ獣と言葉無く顔を突き合わせている気分になる。

「君は自分と瓜二つの他人が下半身を露出させて往来を闊歩していたらどう思う?」

「もし私が芹沢君と同じ立場に立ったのなら、きっと好ましく感じると思う」

「………本当?」

「ええ」

半分冗談のつもりで言った皮肉を肯定されて、武人は続ける言葉に詰まる。てっきり相手も洒落を交えてのことだと勘繰っていたので驚いたのだ。

「君って露出狂?」

「別に、そういう趣味は無い」

返される淡々とした物言いに返答の幅は見る見る狭まっていく。仕方ない、といった様子で助けの手を差し伸べる柳沢が居なかったのなら、会話はそこで詰まってしまっていただろう。

「この子って少し変わってるのよ。私も付き合い始めの頃は、冗談かキャラ作りなんだと思ってたんだけど、それが何週経っても何ヶ月経ってもボロを出さないの。おかげで当初はからかい半分の付き合いだったのに、今じゃ普通に友達してるわよ」

「天然ってやつ?」

「寧ろ真性の馬鹿ね」

「酷い言い様ね」

「その通りなんだから良いじゃない」

両手の平を肩の高さで天上に向けて、まったく困った子よね、などと呆れてみせる。

「ところで静奈」

対面の山野から隣に腰掛けた静奈へ振り向いて武人は口を開く。

「なんじゃ?」

グラスに口を付け前に傾げていた顔を上げる。

「あの二人って、君と同じ狐の化け物なんだよね?」

「それがどうかしたかぇ?」

「いや、尻尾が六本あるっていうのは尻尾が一本の君と比較して、どの程度の力量差が出てくるのか疑問に思ったんだけど。尻尾二本が熊を相手にするのと大差ないって前に言ってたけど、この場合は何に相当するの?」

山野の様な危うい好奇心は無いにせよ、理解出来ない現象を前にしたとしても、既に知らぬと言い切るには難しい距離まで接してしまった新たな隣人達に、少しでも情報を仕入れておきたいと思うのは妥当な欲求であろう。

「尻尾六本と一本となるとのぉ……」

問われて静奈は顎に手をあて思考を巡らせる。

だが、これと言って良い喩えは出てこなかったらしい。

「一概に何だと決め付けるのは難しいぞぇ」

「二本から六本まで飛躍されると、僕には全く想像がつかないんだけどさ」

「ふぅむ」

武人の問いに山野や柳沢もまた彼女の話に興味を持った様だった。無言のまま目を向けている。三人から注目されて困ったように静奈はポリポリと頬を掻く、そして、そうじゃのうぅ、と皺に塗れた老婆が孫に昔話を始めるようにして言葉を続けた。

「この際だから我の事も含めて主等に簡単な説教でもしてやろう」

ゴホン、とそれらしく咳払いがリビングに響く。

「狐の化け物というのは、尻尾の数に応じて力に差が現れる。これはつい数刻前にも話しただろう?」

静奈の言葉に応じて三人が小さく頷く。

「とはいえ、実際の所は尻尾の数に力の強さが比例するのではなく、力の強さに尻尾の数が比例するのじゃ。化け狐の尻尾は、その者が力を蓄えるごとに裂けて、徐々に数を増やしていく。そして、一概には言えぬが、力の強さというのは、その者が生きてきた時間に強く比例するのじゃ」

その辺は小さい頃に絵本や小説で見聞きした御伽噺の一説より、語られるまでも無く武人達にも容易に想像が出来た。

「例えば、主等も九尾の狐という言葉くらいは聞いた事があるだろう?」

「妲己とか玉藻前の?」

「うむ」

問われて武人が反射的に思い浮かんだのは、白面金毛九尾の狐として日本に広く知られる妖怪の名だった。天竺摩伽多国では華陽夫人となって斑足太子を惑わせ、中国では夏の妹妃、殷の妲己、周の褒似となって国を滅ぼした後、玉藻前となって鳥羽上皇の寵愛を受け、本朝を滅ぼそうとした。三国に亘り悪行の限りを尽くした悪妖として、日本では割かしポピュラーな妖怪であり、小説やゲーム、漫画等各種メディアに頻出している。

とはいえ、それも三人にとっては御伽噺の中の出来事であることが前提での知識である。まさか史実であろうとは夢にも思わない。しかし、目の前に静奈という存在が現れてしまった今、全てを頭ごなしに否定する事は出来なかった。

「最も強力な狐の化け物は、この九尾の狐という奴じゃ。無論、主の言うた妲己や玉藻前と称される狐も九尾の狐の内の一つじゃ。そして、伝えに在る通り世にある化け物の中でもとりわけ強力な存在じゃ」

「つまり、尻尾の上限は9本ってこと?」

「まあ、そういうことじゃ」

自分の中にある知識と静奈が語る事実とを照らし合わせながら、武人は会話に合いの手を入れる。

「それゆえに、尻尾が1本から9本まで順に裂けていくとは言え、その間に均等な力量差の勘定がある訳でも無い。そうなれば狐の化け物は尻尾1本でも豪く強力な化け物に成ってしまうからな」

ああ、尻尾の数と力の大きさは、例えば指数関数的な関係にあるのだな、と現代人らしく納得して武人は静奈の言わんとすることを理解する。しかし、そうなると明確な係数が得られない限り先刻に出会った姉妹の評価などサッパリだ。

「じゃあ、あの子達の力も分からない?」

「秤を持ってきて正確な力関係を図る事は出来ぬが、我の経験から端的に評して、主等を脅すことなら出来るぞぇ?」

「例えば?」

所詮は過ぎたことだと高を括って聞き返す武人に、静奈は意地の悪い笑みを浮かべて言葉を続ける。

「我は主等がこうして生きていることが不思議でならん」

「それって前も言ってたよね?」

「言っておくが、冗談では無いぞぇ?」

ニタリと口元を歪める静奈を前にして武人は黙る。

「そこの娘は甚く執着しているようじゃが、我は主が奴等に関わる事を許さぬぞ? でなければ目付け役として主の面倒を見ることが出来ぬ。あの者達は、我の手の届くところに無いのじゃ」

そう言って飲み干した麦茶のグラスをコトリとソファーテーブルの上に置いた。武人を良からぬ道へ誘うなという戒めだろう。静奈の真っ赤な瞳で見つめられて、無意識の内に山野は丸まった背筋を伸ばす。

「尻尾が6本を越えた狐は、並みの化け物では手の出せる相手ではない。そこに至るまでに必要な時間がどの程度か、主等には想像がつくかぇ?」

誰に言うでもなく尋ねた静奈に、柳沢がそれとなく数字を挙げる。

「100年くらい?」

「その程度で尻尾が6本に裂けたのなら、今頃この国は狐の国と成っていよう」

「じゃあ、実際にはどのくらいなの?」

好奇心に負けて山野が答えを促す。

「個体差は有ろうが、おおよそ600から700年といったところかのぉ」

「そんなにっ!?」

何気ない事のように説明する静奈に柳沢が素っ頓狂な声を上げた。

「それって本当なの? さっき見た子達は、というか花見月って呼ばれてた子は、どう見てもただの子供だったじゃない。あんなのが600年も生きてきた年配者だなんて想像も出来ないわ」

「それならまだ静奈の方が年寄り臭いね」

「その辺はあの者達にも事情があるのだろう。ただ、今言った数字に嘘偽りは無いぞぇ。そして、それだけの時間を必要とする尻尾6本じゃ。そこに至るまでに多くの同胞が朽ちていくのも然り、群を抜いて優れた化け物ということじゃ」

静奈はまるで自分の事のようにしみじみと語る。

「じゃあ、静奈は一体何歳なの?」

「ぬぅ……」

武人の素朴な疑問に静奈は喉を鳴らす。

「あまり詳しくは覚えておらんが100程度だったと記憶しておる」

「い、意外とお婆ちゃんだったんだね」

「そうじゃ、我はお婆ちゃんなのじゃ。年寄りは大切に扱えよぅ?」

小学校の低学年程度に見られる幼い外見から、年下の友達の様な感覚で接していたのだが、こうして実年齢を耳にしてしまうと、それまでのやり取りがまるで嘘の様に思えてくる。冗談を言っているようにしか聞こえなかった。

「とはいえ、それを理由に畏まらんでも良いがのぉ。100やそこらの年齢差など化け物の間では大したものでない。主等の尺度で言えば季節が1,2度回った程度の違いだぞぇ。中には数千年と生き続けている輩もいるくらいじゃからな」

「化け物ってとても長生きなのね」

何かに憧れる様な表情で山野は静奈を見つめていた。

「化け物の寿命は総じて長い。人間とは比べるのが間違いというものじゃ。主等も夜中に灯篭の周りを飛び回る羽虫と己を比べる事は無いだろう? それと同じ事だぞぇ」

「化け物ってそういうものなのかい?」

「そういうものなのじゃ」

どうだ、凄いだろう。といった様子で静奈は得意げに胸を張って見せる。山野は素直に感心した様子で頷いて見せた。武人と柳沢はといえば、スケールの大きさに閉口せざるを得ない。

「そういう訳で、主に対しては明確な答えをくれてやる事は出来ん。ただ、ものを考えるにちょっとした指標ならば教えてやれる」

なんだよ、と問い返す武人に静奈は人差し指を立てて講釈を続ける。

「例えば、九尾の狐と称される最上位の化け狐に至っては、現存するかどうかも怪しい。それに一つ劣る八尾の狐でさえ、片手で数えられる程度が関の山、といったところだろう」

まるで御伽噺の舞台裏を覗く様な気分で三人は静奈の説明に耳を傾ける。

「八尾から更に一つ劣る七尾に関しても同様に数匹程度、そして、問題の六尾に関しては多く見積もって十数匹といったところか。これは我が実際に調べた訳ではないが、大よそこの程度だろうという指標として、昔から化け狐達の間で囁かれている噂じゃ」

「十数匹……か」

化け狐の総数がどの程度かは知らないが、それにしても生物の固体数としてはべらぼうに少ないことは明らかだ。今風の言い方をするならば、絶滅危惧種とでも称せば良いだろうか。

「まあ、化け狐が己等の寿命を知るための指標といったところか。主等人間ならば、この国に居る狐の数を把握する事も、そこから一匹の狐が尻尾六本になるまでの確率も、やろうと思えば求める事が出来るのではないかぇ?」

そう言われて、つい先ほど別れたばかりの二人の姿が武人達の脳裏にフッと浮かんだ。

「あいつ等って結構なエリートだったんだ」

「そういう訳じゃな」

武人らしい物の喩えに静奈は頷いて答えた。

「ところで、それだったら静奈はどれくらい強いの? 尻尾二本が熊って言うなら、一本だったら狼とか虎とか、そんな感じ?」

「一概に尻尾一本とは言っても、それが化け狐に成り立ての尻尾一本ならば、人として見た目相応の、人間と同程度の身体能力しかもっておらん。だが、歳を重ねれば例え尻尾一本でも主等の様な何も知らぬ人間には十分な脅威になりうるぞぇ。そういう意味では狼や虎というのは強ち間違いでは無いかもしれん」

「それで?」

「我に関して言うならば、生まれて100年が経ったこの頃じゃ。あと十数年も経てば尻尾も二つに裂けるだろう。その気になれば片手で主の首を握りつぶす程度は出来ると思うぞぇ。なんなら試してみるかぇ?」

ニヤリと厭らしい笑みを浮かべて静奈の手が武人の首に伸びる。

「い、いや、遠慮しておくよ」

可愛らしい見た目に反して思いのほか凶悪な発言だった。武人は反射的にソファーに座ったままの状態で横にズレて静奈から距離を取る。まさか本当にそんな事をするとは思わないが、想像していたよりも静奈はずっと強力だった。

「つい先日、主の親父が我に稲荷寿司をぶつけただろう?」

「うん」

「あの時は本気で殺してやろうかと思ったぞぇ」

「そ、そうだったの……」

「うむ」

妖しく紅い瞳を光らせる静奈に、武人は他に答える術も無くただ頷いた。彼自身も何やら危うい雰囲気を感じてはいたが、自業自得とは言え己の父親の命の危機であったとは思いもしなかった。

「まあ、そういう訳じゃから主も気をつけることじゃ」

肩の高さまで上げられていた腕を下ろして、後ろに倒れこむようにボフっと背をソファーに預ける。武人は試しに自分の首を片手で握ってみたが、まさか、それを握りつぶす事が出来るとは思えなかった。どれだけ筋肉が発達していれば可能な芸当か。

「山野、これでもまだあの子達に興味があるって言える?」

静奈の話を黙って聞いていた柳沢が隣に座る山野に向き直る。

だが、そんな彼女の期待とは裏腹に、山野の返事は先ほどと変わることは無かった。

「ええ」

「………そう」

これ以上の説得を諦めて、柳沢は小さく肩を落として溜息をついた。

「ところで武人、我は喉が渇いた。おかわりじゃ」

ソファーテーブルの上に置いてあった空のグラスを手にとって武人に突きつけてくる。既に2杯を飲み干して、なお飲みたいとは余程に喉が渇いていたのだろう。同じく声を上げた山野、柳沢両名及び己のグラスも合わせて盆に載せ席を立つ。

しかし、キッチンカウンターを迂回して冷蔵庫の扉を開けたところで、家に玄関チャイムの音が鳴り響いた。ピンポーンと軽い電子音が皆の耳に響く。

「んもぉ、誰だよ」

仕方なく開けたばかりの冷蔵庫の扉を閉めて、武人はキッチンを後にする。

廊下へと消え行く後ろ姿を眺めて柳沢がぼんやりと呟いた。

「郵便でも着たんじゃないの?」

「かもね」

パタンとキッチンから廊下へ通じるドアが音を立ててしまった。

「せめて注いでから行けば良いものを」

我慢していられない、といった様子でソファーから飛び降りた静奈がトコトコとキッチンへ向かう。その手伝いをしようと山野が後に続いた。二人はまるで仲の良い親子のように、一方がグラスを持ちもう一方が容器を傾け、共同作業でグラスに麦茶を注いでいく。薄緑色の液体が勢い良く静奈の手にするグラスを満たしていく。大麦の良い香が二人の鼻腔を優しく刺激した。

そして、武人が盆に載せた4つのグラス全てが麦茶に満たされた。静奈が我先にとグラスの一つを手に取る。そんなときだった。扉を一枚挟んだ廊下側から何やら大きな叫び声が聞こえてきたのは。

「だから違うって言ってるでしょうっ!」

三人の耳に届いたのは武人の声だった。

「ん?」

もしも頭の上に三角形の耳があったのなら、それをピクリと動かしていた事だろう。静奈が声の聞こえてきた方向に顔を向ける。山野と柳沢も同様だ。

「平穏じゃない声ね」

「うむ」

キッチンカウンター越しに山野が柳沢を見た。

「どうする?」

「どうするって言われても困るわよ」

それが何であれ、他人の家庭事情に頭を突っ込む気は二人とも毛頭無い。廊下から響いてくる武人の声には我関せず、山野は盆をリビングまで運んで、ソファーテーブルの上に並々と麦茶の注がれたグラス並べる。

だが、次に聞こえてきた叫びを耳にして、二人の静観する姿勢は破られた。

「任意同行なんでしょうっ!? そんなの横暴ですよっ!!」

壁を挟んで、二人にも武人の会話の相手が理解できたのだ。

「ねぇ山野」

柳沢が山野を見る。

「アンタは行った方がいいんじゃない?」

「ええ、そうみたいね」

柳沢に言われるまでも無く足を動かしていた山野はリビングから廊下へと出る。それほど大きな家でもない芹沢宅にあっては、角を一つ曲がるだけで廊下の様子は目前に現れた。そこには予想したとおり紺色の制服を身に着けた二人組みの警察官の姿がある。

「おや」

山野の出現に警察官二人の意識が武人から外れた。

「………どうも」

武人の隣まで歩いて山野は小さくお辞儀をした。

この二人の警察官には山野も面識があったのだ。彼女の両親が経営するJR海ノ口駅前のコンビニエンスストア。そこに花見月が強盗に入った事件で、捜査にやって来たのがこの二人の警察官であったのだ。

「これはどういう風の吹き回しなのかね」

「君達、学校はもう終わったのか?」

警察官は今朝にも芹沢宅を訪れた、20代中頃を思わせる若者と、既に顔に幾重にも皺の入った初老の二人組みであった。どうやら今回の事件に関してはこの二人が主立って調査に当たっているらしい。

「諸事情ありまして、今日は早退しました」

淡々と言い訳を述べる山野に、二人は訝しげな表情を浮かべた。午後の4時過ぎとはいえ、小学生や大学生ならまだしも、高校生が家に居るには些か早い時間帯だ。武人は既に私服だが山野は制服を着ている。そして、何よりも二人にとっては武人と山野が一緒に居るということが非常に問題であった。

「何故君が此処に?」

年配の警察官が山野に尋ねた。

「芹沢君はクラスメイトです」

答える姿は警察官を相手に物怖じすることなく堂々としたものだった。

あまりにも当然の如く答えるので、逆に問うた二人のほうが顔を見合わせて困ったような表情を浮かべた。そこにある疑問は武人にも手に取るように理解できる。

「言葉が悪くてすまないが、その……、君は彼が怖くないのかね?」

その疑問は事情を知らぬ彼にとって当然であった。

「いえ、別に怖くはありません」

「コイツは君に暴行を加えた強盗犯なんだぞ?」

年配に続いて、歳の若い警察官が強い問いただすような口調で言ってくる。穏やかな口調の上司と比較して、彼は武人が間違いなく犯人で在ると、強く決めてつけている節が感じられる。

「だから、それは違うって言ってるじゃないですかっ!」

コイツ呼ばわりされて頭にきたらしい。武人が三度吼えた。

そんなクラスメイトを宥めるように山野が口を開く。

「芹沢君は犯人ではありません。それに関しては前にも現場検証で伝えたとおり、彼の右手を見ていただければ分かると思いますが」

強盗犯は右手の甲に怪我をしている。それは武人にとって唯一の生命線であり、また、同時に彼の容疑を完全に否定するだけの十分な物証だった。

「それが、今回は前回とはまた別件で来たんだよ」

年配の警察官が若年の警察官を抑えるように言葉を続けた。

「だから、そっちも犯人は同じだって今説明したでしょう」

「確かに君の言い分が正しい場合も考えられる。しかし、あくまでも君の身の上は容疑者の延長にあるのだよ。そんな者の言い分を我々が素直に聞くと思うかね? 調査は常に公平でなければならないのだよ」

至極真っ当な理由を並び立てられて、反論の余地はあっと言う間に無くなる。

「此方としても今回の件には頭を悩ませているのだよ。協力してもらえないかね?」

「絶対に嫌です」

とはいえ、ここで素直に頷こうものなら後でどんな目に合うか分からない。

「別件というのは?」

警官の話には山野も心当たりがあった。

「ああ、そういえば君も写っていたね」

若い警官が手にした手提げ鞄からファイルを取り出した。そして、その中から幾枚かの写真を探し出すと、その内の一枚を手に取り山野の前に提示した。

「これは大町のスーパーですね」

ハガキサイズの光沢紙に写されていたのは、つい数時間前の山野の姿であった。スーパーのお菓子を扱う一角に居る。直ぐ隣には武人や柳沢、静奈も一緒に写っている。この時の自分が何をしていたか、記憶は鮮明に思い出せた。

こうして写真を通して客観的に見ると、一同は酷く怪しく感じられた。その時は自然体で後をつけている筈であったのだが、傍から見ればまるで舞台に立つ役者の様にあからさまに目立っていた。

「これは君で間違いないね?」

「はい、私です」

どうやら店内の天上に設置された監視カメラによって撮影された画像のようだ。被写体は上空より斜めに撮影されていた。全体的に薄暗く、あまり解像度が高くない為に所々ぼやけているが、本人を確認するには十分な特徴が得られている。

「じゃあ、こっちの写真も分かるだろ?」

警官が別の写真を提示する。

そこには武人の偽者、静奈と同じ狐の化け物である花見月の姿が映っていた。手には煎餅の詰まったビニール袋が握られている。見る角度は違えど、その姿には間違いなく見覚えがあった。

「分かります」

二つの写真には右下の隅に小さく撮影時刻が印字されている。時刻は秒単位で示されており、それぞれの写真が全くの同時刻に撮影された事を示していた。

「まったく、どうなっているのかね」

年配の警察官は髭の無い顎を親指と人差し指で撫でながら首を傾げてみせる。

その姿を目の当たりにして山野は武人に顔を向けた。まさかこの二人に真相を話した訳ではあるまい。彼女が自分に視線を向けてきた意味を理解して、武人は二人の警察官にそれと悟られないよう小さく首を横に振った。

「分かりません。私達も理解できずに追っていました」

「そうだろう。インパクトはあるが、この写真だけじゃ何も分からないんだよ。そして、我々も君達と同じ様に、今は何も理解できずに事件を追っているんだよ」

「はい」

分かるだろう? そう言って年配の警察官は言葉を続ける。

「だから、一緒に署まで来て貰いたいんだよ」

なるほど、だから任意同行なのだった。此処へ来て山野にも先程上がった武人の叫びの意味が理解できた。この写真は武人に対する容疑の切欠でありながら、アリバイでもある。ちゃんとした説明が成されない限り逮捕状は出し得ないだろう。

「なんで嫌なの?」

「当たり前だろっ、任意同行なんてされたら殆ど逮捕されたも同じじゃないか」

逆に尋ねてくる山野に武人は多少の興奮を伴って答える。

「それに、仮に今の言葉が本当だったとしても、この暑い中わざわざ足を運ぶなんて面倒くさい。誰が警察署なんて行くもんか。事情徴収がしたいんだったらここでやればいいじゃないか。幸いな事に必要な人間は全員そろっているんだから」

「そうなのかい?」

武人の言葉に多少驚いた様子で年配の警察官が聞き返す。

「ええ、確かに先程の4人は全員居ます」

武人に代わり小さく頷いた山野は家の奥へ目を向ける。その先にはリビングに通じるドアがあり、きっとそこでは柳沢が静奈と共に聞き耳を立てていることだろう。そして、狐の耳を持つ静奈ならばきっと今までのやり取りも聞き及んでいる筈だ、などと彼女は勝手に考えていたりする。まあ、それはそれで事実であったりする訳だが。

「柳沢、ちょっときて。それに静奈ちゃんも」

山野に呼ばれて柳沢と静奈が廊下の角から顔を見せた。呼ばれてすぐに出てこれた様子からして、きっと、リビングに居ながらすぐに出て行けるよう、耳を済ませ待機していたのだろう。

「彼女もクラスメイトなのかい?」

柳沢を指しての話だろう。

山野が小さく頷いた。

「それでは、この小さな女の子は?」

「彼女はこの家にホームステイに来ている祖父の友人の孫ですよ」

「なるほど、ホームステイね……」

すかさず手帳を取り出した警察官は武人の説明した事を書きつける。あと数年も勤めれば定年だろうと思われる皺だらけの手や顔と同様に、ボールペンを走らせる手帳もまた随分と年季の入った一品であった。上司の姿を真似て、隣に立つ若い同僚もまた己の手帳に同様の内容を書きとめる。

「きっと知っているとは思うけど、一応説明しておこう」

コホンと小さく席をして年配の警察官は話を続ける。

「今日の午前11時30分頃に大町のスーパーで窃盗事件が起きた。犯人は中肉中背の男性で、先のコンビニエンスストアに入った強盗と同一犯であると見られる青年だ。被害は同店舗で販売されていた惣菜が数点。犯人は両手に商品を持って逃走、現在は此方で行方を追っている」

「そんなこと今更言われなくたって分かってるよ」

「そう言わずに、とりあえず聞いてくれないかね。こういうのも決まりなんだ」

「ふん……」

犯人扱いされたことが余程不服なのだろう。普段の武人と比較して妙に引っ掛かる物言いであった。武人の抗議を軽く往なして、初老の彼は警察手帳に再び視線を落すと説明を続ける。

「犯行後、同店舗にて回収したビデオテープには犯行に及ぶ犯人の姿が映ってた。また、これと同時に犯人の後を付ける不審な者達の存在を確認。現在、警察はその関連性を調べるために身元の特定を急いでいる次第だ」

「良かったですね、早々に特定できて」

「ああ、全くだ」

武人の皮肉に動じることなく彼は満足気に頷いた。

「君達は犯行時に走って逃げる犯人を追っていた。その後のことは店外のビデオにも途中までしか写っていなかったのだが、最終的にどうなったんだい?」

「私達からの通報が無かったんだから、そんなこと聞くまでも無いじゃない。逃げられたのよ」

「犯人はどちらへ逃げていった?」

「あいにく路上に出たところで追跡を諦めたからサッパリわからないわ」

そうよね、と山野に同意を求める柳沢。彼女もまた警察にはあまり良い印象を持っていないのだろう。その対応は武人と同様に、友人に話しかける態度と比較しても尚ぞんざいなものであった。

「その後、君達はどうした?」

「しばらく悩んでから芹沢君の家へ行きました」

柳沢の不機嫌を悟ったのだろう。

警察官は視線を山野に向けて尋問を続ける。

「それは何故?」

それにしても、相手は事細かな所まで聞いてくる。これだから警察は嫌いなんだ。と喉元まで出かかった愚痴を武人は寸前の所で飲み込む

「学校から無断で抜け出してきたので、素直に戻るよりもそのまま帰ってしまった方が、後々の言い訳もし易いと考えたからです」

そして、尋ねる警察も警察なら、答える山野も山野だ。何故にそこまで馬鹿丁寧に答えるのか。彼女の発言に武人と柳沢は頭の痛くなる思いだった。とはいえ、上手い言い訳も浮かばない二人は黙って見守るしかない。

「監視カメラの映像を確認した限りだと、彼女は……、ええと……」

「柳沢です」

自分を見つめて言い澱む警察官に柳沢が自らの名を名乗る。

「柳沢さんは君達に先じて犯人を追っていたようだが、君は彼女からの連絡でスーパーまで来たのかい? それとも、学校をサボっている所を偶然に居合わせたのかい?」

「彼女に連絡を受けて向かいました」

「じゃあ、彼は?」

警察官は目で武人を示す。

「柳沢が追いかけていた窃盗犯がクラスメイトで無いことを証明する為に、彼女からのメールを受けて私が校内で誘いました。ちょうど授業の合間の休み時間だったので、そのまま学校を後にしました」

「それでは、写真に共に写っていたそちらのお嬢ちゃんは?」

「僕が家に忘れた弁当を届けにきてくれたんだ。行きは上手く来れた様だったけど、一人で家まで帰らせるのも心配だったら一緒に行くことにしたんだ」

「ふむ……」

警察官は武人達が喋ったことを素早く手帳に書き込んでいく。勿論、そこにはなんら矛盾など無い。全てが実際に起こった真実である。隣に立つ若いもう一人の警察官は、上司がメモを取る速度について行くので必死なのだろう。蒸し暑い夏の気温に耐えて額に汗の雫を浮かべながら、視線を手帳から離すことなく必死な形相で手を動かしていた。

「そういえば、スーパーの店内に設置されたビデオカメラを確認したところ、特に君は犯人が店舗へ入る前からずっと後をつけていた様だけど、それは何故だい? まさか犯人に面識が?」

警察官が再び柳沢の方を見て尋ねる。

「登校中にふと見かけたクラスメイトが、どういう訳か私服で通学路から外れて行くので気になって後をつけていたんです。この子の家の事件もありますし、何かまた良くないことでもする気なのではないかと考えていました。結果として全くの別人だったようですけど」

「なるほど」

既に事の真相を知ってしまっている武人達にとって、この尋問は面倒事以外の何物でもない。エアコンの効いた室内とは違い、廊下は高温多湿で非常に居心地が悪い。やっと引いた汗が再びジワリジワリとシャツを濡らしていく。

「初めに犯人を見つけたのは何処かな?」

「信濃大町の駅前だったわ」

「駅には通学の為に?」

「そうよ。毎日利用しているわ」

少し想像すれば分かりそうなことでも警察官は事細かく尋ねてきた。それに武人達は淡々と回答しながら、いつになれば終わるのかと足を棒にして待っていた。

それから、幾十回かのやり取りを後にして、ようやく警察官は手にした手帳をパタンと閉じた。手にしていたボールペン共々手帳を胸のポケットに仕舞う。

「とりあえず、今日の所はここまでで結構です」

これで漸く解放されるのか。何がここまでで結構ですだよ、豪そうに言いやがって。そんな罵言を心の中で叫びつつ、武人は大きく溜息をついた。時間にしてかれこれ30分近く立ち話をしていたことになる。

だが、話はそれで終わらなかった。

「ですが、やはり君には一度署まで来て貰いたい。ここへは持って来れなかったテープの確認など、色々として頂きたいこともあるし、現場検分も行なわなければならないのだから」

「まだ言いますか?」

心底ウンザリした素振りで、言葉を重ねる年配の警察官へ視線を向ける。その様子に気分を悪くしたのだろう。若年の警察官が相手を脅すような声色を露にして、武人に強い口調で問うてきた。

「どうしても嫌だと言うのなら、それは公務執行妨害ということになるぞ?」

明らかな脅しだった。

「な、なんでそうなるんですかっ!」

これには武人も声を荒げて吼えた。

「さっきから佐藤さんが甘い顔をしているからって、調子に乗って付け上がりやがって、いい加減にしないと俺達も怒るぞ? 警察の俺等が来いって言ってるんだから黙って付いて来いよ」

年配の警察官は佐藤という名前らしい。

「どうして任意同行を断ったからって公務の妨害になるんだよっ!」

「それだけで捜査の邪魔になってるっていうのが分からないのか?」

「そんなの横暴だろっ!」

確実な無実が保障されているだけに、反発は大きい。

「たしかに酷いわね」

「ええ」

武人の主張に柳沢と山野も頷く。上司であろう年配の警察官は、そんな彼の暴言を前にして黙ったまま二人のやり取りを眺めている。

「ほら、何でもいいから大人しく車に乗れ」

痺れを切らした若年の警察官が武人に手を伸ばす。

そんなときだ、これまで一言も言葉を発することなく事の成り行きを見守っていた静奈がゆっくりと口を開いた。

「主よ」

子供らしからぬ古めかしい物言いに驚いて、腕の動きを止めた警察官が静奈へ目を向ける。同様に玄関に集まった一同の注目が静奈に対して向けられた。二人の警察官は驚きを持って、武人や山野、柳沢は疑問を持って。

「我は武人の目付け役じゃ」

まず第一声、そんな台詞をのたもうた。

「な、なんの話だ?」

流石に子供を相手にすると、若手の警察官も口調が柔らかくなる。金色の長髪に雪の様な白い肌を持つ静奈のことだ。彼も日本語を勘違いした外国人の子供の戯言だろうと瞬時に結論を導く。

しかし、それは間違いである。

「主が冤罪でこの者を連れ去ろうと言うのなら、我も黙ってはおらんぞぇ?」

「あのね、今は大切な仕事をしているんだから、子供は黙っていてくれないかい?」

そして、間違いは容易に彼女の癇に触れたのだった。

「ほぉ……、その青臭い面を下げて我を子供だと言うか」

その一言で、静奈を除く三人の間に緊張が走る。彼女の身体能力に関してはつい先程に講義を受けたばかりである。例え相手が大人二人であろうとも、喧嘩を売るに抵抗は無いだろう。

しかし、今この場で警察官を相手に揉め事を起こせば、それこそ本当に公務執行妨害で現行犯逮捕されてしまう。任意同行に当たり掴まれた腕を振りほどいただけでも法は適用されるのだ。拳を向けようものならば、例えそれが当たらずとも検挙されるだろう。そして、多分に戸籍を持たないであろう静奈が公的機関の世話になりすれば、それこそ武人達全員を巻き込んでの一大事である。下手をすれば化け狐という存在が白日の下になりかねない。また、行為者が子供ならば、それは静奈一人の問題ではなく、武人にも監督不届行で何かしらの因縁が付けられるに決まっている。

「お、おい静奈」

今にも手を上げそうな彼女に慌てた武人が制止の声をかける。

「流石に手を上げるのは不味いんだよ」

「そうなのかぇ?」

一同を振り返る静奈に山野と柳沢も無言でコクコクと頷く。

「ならば、手を出さなければ良いのだろう?」

「ちょ、ちょっと、一体何するつもりだよ」

勝手に話を進める武人達に二人の警察官は訝しげな視線を向ける。そんな彼等に面と向かって静奈は一歩前に出た。武人と山野の間から顔を出して、紅い瞳で前に並んだ二人の目を見つめる。

「主等よ、我は主等を望んではおらぬ。早々に巣へ帰るがいい」

そして、短くそう告げた

今更そんなことを言ったところでどうなる。反射的に武人は突っ込みを入れようと口を開いた。だが、どうしてだろうか。予期した二人からの白けた反応は、短い頷きに取って代わったのである。

「はい……」

「分かりました……」

抑揚の無い、死人が声を発したのならばこのような感じになるのではないだろうか、といった具合の返答だった。

開いた口が塞がらないまま、武人は彼等の様子を眺める。

「さぁ、出て行け」

そして、静奈に促されて、二人はタイミングを揃えた様に回れ右をすると武人達に背を向けて、玄関から外へと大人しく出て行ってしまった。一同はポカンと口を開けたまま、開かれたままの玄関扉から、ゆっくりと歩み去って行く二人の背を眺めていた。

そして、二人の姿は自宅の壁に隠れて直ぐに見えなくなった。

「ど、どうなってるの?」

まず疑問を口にしたのは柳沢だった。

他の二人も答えが知りたくてジッと静奈を見つめている。

「なぁに、大したことはしておらんぞぇ」

ピョンと玄関の下に飛び降りた静奈は、夏の熱気を運び込む玄関扉をバタンと閉める。ちゃんと扉が閉じたのを確認すると、再び元居たフローリングに上がり、目を白黒させている武人達に向き直った。

「これが所謂、狐に化かされた、というやつじゃ」

そして、楽しそうに得意気な笑みを浮かべて見せた。

「主等も聞いたことくらいはあるだろう?」

「う、うん……」

狐に化かされる。そんな内容の昔話を彼等も小さい頃からごまんと耳にしている。しかし、当然ながら実際に目の当たりにしたのは今回が始めてのことだ。うろたえるのも仕方が無い。

「静奈ちゃんって凄い……」

山野が強く関心したようしみじみと呟いた。

「そう、我は凄いのだぞぇ」

それが嬉しかったのか、静奈は口元を緩ませる。

「なにはともあれ助かったよ。あのままだったら僕は間違いなく無理やり連れて行かれてたからね。酷い公務もあったもんだよ、まったく」

驚きも落ち着いて、武人がホッと安堵の溜息をついた。

「ありがとう、静奈」

「なぁに、礼には及ばぬぞぇ。我は主の目付け役じゃからのぉ」

静奈と出会っていて心底良かったと感じた武人だった。そう考えると、自暴自棄になって賽銭箱へ放り投げた千円札は、想像以上の幸を彼に運んでくれたことになる。あの時の自分を胸中で強く褒め称えた。

「私も静奈ちゃんに目付け役をやって欲しい……」

山野が物欲しそうにボソリと呟く。

「悪いが我は武人の目付け役じゃ、他を当たるが良い」

「……そうね」

静奈に断られて、軽いショックを供に山野は遠い目をする。

そんな友人の姿に不吉なものを感じた柳沢が問うた。

「ねぇ山野、貴方またとんでもないこと考えてない?」

「いいえ、考えて無いわよ?」

「…………」

一体彼女が何を考えていたのか、彼女にはそれが手に取るように理解できた。とはいえ、今此処で問いただすこともあるまい。肌に張り付くセーラー服の感触に不快を感じて、柳沢は一同に言った。

「まあ、面倒な話も終わったことだしリビングに戻らない? ここは暑くて敵わないわよ。また汗をかいちゃった」

「そうじゃな」

やれやれ、といった様子で一同は元居たリビングへと踵を返した。

静奈が警察官を追い払った後、一同がリビングに戻ると、時刻は既に午後5時を回っていた。そろそろ家に帰っても良い頃合だろう、ということで山野と柳沢は義人が借りてきたレンタカーに送られて自宅へ帰って行った。

そして、二人を送った義人が芹沢邸に帰ってきたのが午後5時30分。それから、武人、静奈、義人の三人は再び車に乗って出かけることとなった。向かう先は自宅から程近い木崎湖の畔に立つ温泉施設「ゆーぷる木崎湖」である。なんでもレンタカーを借りた先で、つい先日に引っ越してきたばかりだと説明したところ、だったら一度は行ってみるといい、と店員に勧められたらしい。温泉は別段好きでも嫌いでもない武人であったが、その話を耳にした静奈が目の色を変えて行きたがったので、予定は早々に決定した。

「ここがそうらしい」

車のサイドブレーキを引いてエンジンを切った義人がフロントガラス越しに、一部二階建ての、駐車場に向かって横に長い建物を指差して言う。彼の話では温泉とプール、それにスポーツジムが一緒になったスパ&リラクゼーション施設なのだという。

「田舎の施設にしては、それなりに確りしてるじゃないか」

「地元民の利用も多くて、それなりに栄えてるんだそうだ」

「ふぅん」

「さぁ、何でも良いから早う行こうぞぇ」

早速と車から飛び出した静奈が、正面玄関へ向かって歩いていく。その後を追うように二人も続いた。

玄関に入ると右手側にはお土産の類を扱う売店があり、その直ぐ横にはレストランがあった。温泉場への入り口はそれから一段奥ばった場所に、土足厳禁として絨毯敷きで、従業員の待つフロントやマッサージ器、自動販売機等と共に見える。そちら側へは、玄関に入って左手側にある下駄箱へ外履を預けて、そこから左右に伸びる廊下を右に折れて向かうのが正しいルートの様だ。

「ついでだし、後で夕飯も食べていくか」

「そうだね」

案内に従い靴を下駄箱に預けてフロントへ向かう。

大人二枚、子供一枚のチケット、それに人数分の手拭とバスタオルを購入して「男」と印字された暖簾を潜る。すると、直ぐにむわっとした湿度が三人の身体に纏わり付いてきた。同時に気温も著しく上昇する。

短い通路を抜けると、鍵の付いた木製の棚が壁に沿ってずらりと並ぶ脱衣所だ。棚と反対側には洗面台が幾つか並んでいる。部屋の角隅には古ぼったいデザインの剃刀を売る自動販売機なんぞ設置されていた。

「っていうか、人、居ないけど?」

「本当だな」

武人の言葉通り、そこには彼等以外に人の姿は見当たらない。町の温泉場ならば、午後の6時前という時間帯であっても、それなりに人の入りがあって良さそうなものである。だが、ガラス戸を挟んだ浴室にも人の気配は感じられない。どうやら客は武人達だけの様だった。

とはいえ、混んでいるよりは空いている方が良いに決まっている。それに対して文句など出て来る筈も無い。やったな、貸切じゃないか。そうだね、など二三言葉を交わして手近な棚に手荷物を放り込み、シャツやズボンを脱ぎ始めた。

「ほら、早うせんかっ」

そんな二人に先走り一足先に服を脱ぎ終えた静奈が、白い手拭を手に、もう待ちきれない、といった様子で急かして来る。勝手に入りに行けば良いだろうに、意外と律儀な一面を持っているではないか。

「っていうか、なんで静奈がこっちに居るんだよっ!?」

そして、そんな彼女の存在に今更ながら気づいた武人が声を荒げて叫んだ。

「なんだ? 我が此処に居ては悪いのかぇ?」

「あぁ……、そういえば静奈ちゃんは女の子だったな」

親子二人揃って、しまった……、といった表情になり静奈を見つめる。

「主等は何を言っておる。我は昔からずっと女だぞぇ?」

どうやら状況を理解できていないらしい。胸や性器を隠すことなく堂々と言い張る姿は幼い子供そのものである。胸は全くと言って良いほど膨らんでいないし、陰毛が生えてくる兆しも微塵と感じられない。これで実年齢は武人はおろか義人さえも大きく超える100歳だというから詐欺にも等しい。

「だからこそ君は女湯へ行かなきゃ駄目だろ? なんで付いて来ちゃったんだよ」

始めて見る親族以外の女性の裸体に目を奪われながら、武人はそれでもなんとか平然を装って言葉を返す。小さな女の子の裸体に興奮する趣味は無いが、見慣れないそれは好奇心を甚く刺激したのだ。

「女湯じゃと? なんだ、まさかこの湯は男と女で別れて入るのかぇ?」

というのも、彼が知る誰よりも静奈の裸体は綺麗だった。勿論、彼の知る裸体とは多くが本屋に置かれたグラビア誌や電車の釣り看板、父親から見せられたAVビデオ等によって供給されたものだが、そんなプロのモデルでさえ遥か霞んで見える程に静奈は綺麗だった。幼いながらにスラッと伸びた四肢、黒子や染みの一つさえ見当たらない肌理の細かな真っ白い肌、腰下まで伸びたサラサラの金髪、そして類稀なる造形を誇る顔、何処を見ても美を否定する要素は微塵と感じられなかった。

「まさかじゃなくて、それが常識だろっ!?」

突拍子も無いことを言い出す静奈に、武人は慌てた様子で突っ込みを入れる。

「そうなのかぇ?」

くいっと顔を上げて、武人よりも20センチほど、静奈からすれば1メートル近い身長差を持つ義人の顔を見上げ伺いを立てる。

「残念ながら、今の世はそうなっちゃってるんだよな、これが」

「なるほど、そうだったのかぇ……」

「そもそも、君は何でそんなことも知らないの?」

「いや、我が知る温泉は男と女が別れて入る慣習は無かったぞぇ。この数十年で人の世も色々と面倒に成ってきているのぉ……。まさか風呂にまで面倒な規則を持ち込むとは思いもしなかったぞぇ」

「というと、もしかして昔の温泉は全部が混浴だったの?」

「うむ、それが普通じゃ」

武人の疑問を受けて、さも当然だと言わんばかりに頷く。それが一体どれだけ昔の話なのかは知らないが、衝撃的な事実であった。彼にしても、学校では昭和、大正、明治とそれなりに自国の近代史は勉強してきた。しかし、その界隈では耳にした試しが無い。

静奈は己を100歳程度だと言っていた。しかし、今日の昼にも、学校のことを寺子屋などと呼称していた事といい、そして、この公共の入浴施設に対する知見といい、実際はもっと歳を取っているのではないか。そんな気がしてならなかった。

「なぁ武人、静奈さん一人で女湯っていうのも可愛そうな気がしないか?」

一人、勝手な推論を進めていると、直ぐ隣に立つ義人から声がかかった。

「いや、そういう問題じゃないでしょ?」

「我は主等と一緒に入りたいぞぇ?」

トランクスを一枚残して静奈に向き合う武人は判断に困る。

「静奈さんだったら背も小さいし、一緒に男湯に入ってたって別に問題無いだろ? 外見も外人の女の子だし、何も知らない小さな子を異国の公共の場で一人にする訳には行かない、ってことで建前は上等さ」

「まあ、別に問題がある訳じゃあ無いけどさ……」

「ならいいだろ?」

女性経験の無い武人にとっては、幾ら外見が小さな子供とはいえ、異性と一緒に風呂に入るというのは非常に恥ずかしい事だった。

ただ、義人と静奈はそんなことなど微塵も気にした風も無い。言葉を濁す武人を尻目に服を脱ぎ終えると、彼を置いてさっさと浴室へ向かおうとする。二人の後姿を目の当たりにして諦めはついた。

「ちょ、ちょっと待ってよ」

慌てて残り一枚を脱ぎさると、手拭で腰周りを確り隠して急ぎ足で後を追った。

ガラガラと横開きのガラス戸を越えて石床の浴室へ入る。白い湯気の立つ室内は気温も脱衣室と比べて一層高く、早速と汗腺から汗が滲み出てきた。浴室には十数台のシャワーと、そこそこの広さを持つ湯船がひとつあった。あとは出入り口付近にサウナ室へ通じる檜で出来た木製の扉が確認できる。

「おぉ、露天風呂じゃ」

屋外に面する全面張りのガラス戸の向こう側に風呂を見つけた静奈が、かけ湯も半端に早速そちらへ向かい走っていく。本当に100歳なのかと疑いたくなる程に子供染みた反応だった。そして、あろうことか義人もまた、やっぱり風呂は露天風呂だよな、などと呟きつつ駆け足で後に続く。

「まったく、いい歳して何やってんだよ……」

またひとつ、息子の中にある己の威厳が一つ下がった事を、義人は知らない。

かけ湯を桶に数杯被った後に、二人に遅れて敷居を跨いで外にでると、肌を夏の風が心地よく包んだ。つい先日から7月に入り、日中には気温も30度を越えようかという時季にありながら、それでも蒸気に満ちた浴室から外へ出ると涼しく感じる。

パシャパシャと湯を切って、一足先に身を沈めている静奈と義人の下まで移動する。

「のぉ武人、気持ちが良いぞぇ」

極楽、極楽、と頭に手拭を乗っけて満足気な笑みを浮かべている。湯面には彼女の長い金色の髪が水に浮いて広がり、陽光を反射してキラキラと輝いている。まるで黄金色の湯に使っているような錯覚を覚えた。

「露天風呂なんて何ヶ月ぶりだろうな」

「まあ、たまにはいいかもね」

股間を隠していたタオルを湯船の脇に置いて、お湯に身体をゆっくりと沈める。お湯は常時41度に設定された自宅と比較して些か熱い。ジワリジワリと身体の端々から芯に熱を伝えてくる。あまり長く入っていられそうになかった。

「ところで、先日から何か色々と騒がしかったようだけど、どうなったんだ? 今日のあれで終わったと考えていいのか?」

武人が湯船に浸かったのを確認して、ふと思い出したように義人が尋ねてきた。

今日のあれ、とは林の中での出来事を指してのことだろう。

「大体のところはね」

つい先程、自宅までやって来た二人組みの警察官の姿が反射的に思い浮かび、武人は苦虫を噛み潰したような表情になる。しかし、少なくとも今回の件に関しては、自分の理解が一通り及んでいることを確認して、彼は小さく頷いた。

「そうか、なら良かった」

「それもこれも静奈のおかげかな。今日は静奈が居てくれて助かったよ」

「なんだ、何かあったのか?」

耳を傾げてくる義人に武人は先日に訪れた警察官が今日も来ていたことを告げた。そして、その二人に危うく連れ去られそうになったところを、静奈の操る、まるで魔法の如き不可思議な力に救われた事を説明する。なんでも、義人は階下で武人が警察官と押し問答を繰り広げている間、自室で昼寝をしていたらしい。騒ぎには全く気づいていなかったのだそうだ。

「流石は静奈さんだ。どうやら俺の見立ては間違っていなかったようだな」

一折の説明を受けて義人は満足気な笑みを浮かべた。

「うむ。我を目付け役にしたのは良き判断だったぞぇ」

自分を褒める義人の態度に、静奈も満更では無い様子だ。

「これは後で、それ相応のお礼をしないとならないな」

「そうだぞぇ。また美味い稲荷をたらふく食わせて欲しいぞぇ」

「おう、まかせとけ」

この二人、出会いこそ危うかったが、実は中々に気の合う同士らしい。

「あとは警察を何とか出来れば全ては丸く収まるんだけどね。ただ、犯人が犯人だから事を公にする事も出来ないのが難点で、望むべくは済し崩し的に事件を有耶無耶に出来ればいいんだけど」

「安心するが良いぞ。奴等がなんど来ようとも、我がまた追い払ってやろう」

水面から腕を上げてグッと拳を作ってみせる静奈の可愛らしい様子に、武人もまた自然と笑みを浮かべていた。

「ありがとう。頼りにしてるよ」

短く礼を言って武人は湯船から腰を上げる。

「なんじゃ、もう上がるのかぇ?」

「流石にこの時季だと長湯は出来ないよ」

そう言って手拭を手に屋内へ引き返す。湯船に沈んでから2,3分しか経っていないのだが、熱いお湯が苦手な彼にとってはこれが限界だった。

「アイツは熱い風呂が苦手だからな」

そんな息子の後姿を眺めて義人はぼんやりと呟く。

「我は風呂は熱い方が好きだぞぇ?」

「ああ、俺もそうだな」

二人仲良く話を続ける静奈と義人の声を後ろに、武人はつい数分前に跨いだばかりの敷居を再び越えて、湯気の篭る屋内へと戻った。

お湯に浸かっていた時間は短いが、もとより身体は温まっていたので長い入浴は必要ない。手早く風呂から上がり、冷房の効いたロビーでゆっくりと寛ぐべく、武人は備え付けのシャンプーで頭を洗い始める。わしゃわしゃと髪の毛を巻き込んで大きく膨らんだ泡をシャワーで勢い良く流す。次いで手にした手拭にボディーソープを垂らしこむと、身体を洗い始める。

そして、両手両足、首に脇の下と一通り洗い終えて、全身に付いた泡を流し始めた頃だ。彼の下にホクホクと全身から湯気を上げる静奈がやってきた。

「もう身体を洗い終わったのかぇ?」

「うん、もう直ぐにね」

正面を向いたまま頷く。

すると、彼の隣の席に腰を落ち着けた静奈がおずおずと尋ねてきた。

「ならば、我の背を流してはくれんかのぉ?」

喉も渇いていたので出来れば直ぐにでも上がりたい所だったが、静奈に頼まれては断るわけにはいかない。それに、背を流すだけなら大した時間がかかる訳でも無いので、二つ返事で快く応じる。

「別にいいよ。泡を落しちゃうからちょっと待ってて」

手早く自らの身体を洗い終える。

その横で静奈もまた武人同様に、手や足といった箇所を自分で洗い始めていた。

キュっと蛇口を閉めて隣を向くと、それに気づいた静奈が手にした泡塗れの手拭を差し出してきた。

「頼むぞぇ」

静奈は身体を正面から横に向けて背を見せる。自分の手拭を太股の付け根にかけて下腹部を隠した武人は、長い金髪を相手の肩にかけて身体の前面に垂らすと、手渡された手拭を目の前の小さな背中に当てた。白い肌は粗雑な作りの手拭で洗うのが躊躇われるほどに艶やかで、彼はまるで高価な陶磁の焼き物を磨くように、丁寧に各部へと手を伸ばした。

「静奈って、身長どのくらいなんだ?」

あまりに小さな背中を前にして、そんな疑問が自然と口をついて出た。

「ぬぅ……、測ったことが無いから分からん」

「僕のお腹くらいまでしかないよね」

「うむ」

語りかけられた静奈が己の背中越しに後ろを振り向く。

「主の親父は結構高いようじゃな」

「あれで190センチあるらしいよ?」

「センチ?」

「ああ、今の世で物の長さを図る指標だよ」

聞きなれぬ言葉に首をかしげた静奈に、武人は簡単な説明を加える。

「一尺が、大よそ30センチくらい」

「なるほど」

半年ほど前に歴史の教科書から学んだ知識だ。

「じゃが、その割に主は背が低いのぉ?」

「これでも170はあるんだから、この国じゃあ普通だよ」

前の学校でも背の順に並べば列の真ん中からやや前寄りの位置であった。

「本当にあの者の息子かぇ?」

「しょうがないだろ? 言い訳をしておくとさ、父さんは背が高いけど、その代わり母さんはかなり低い部類に入るんだ。だから、足し合わせて平均を取れば、丁度良く今の僕の身長くらいになるんじゃないかと思うんだよ」

「ほぅ、主には母親がいたのかぇ」

「そりゃ、僕だって人の子だからいるに決まってるじゃないか」

静奈の身体はか細く、強く押せば倒れてしまいそうな不安が感じられる。手拭を持たぬ空いた一方の手で肩を押さえて、手の届きにくい背面側の腰周りや脇の下なども確りと洗ってやる。

「家には主等の二人以外に人の姿も見当たらぬで、我はてっきり今は亡きかと思うていたぞぇ。もしや、主の父親に愛想をつかして家から出て行ってしまったのかぇ?」

「別にそういうのじゃないよ。ただ、仕事の都合で別居してるだけさ。ここへ越してくる前は東京でちゃんと家族三人で暮らしてたよ」

「そうだったのかぇ」

「母さんは弁護士をしてるから、事務所のある東京から離れる訳にはいかないんだよ」

「そして、主は同胞に虐められてこの田舎町まで越して来たと?」

それは昨日、食事の席で義人に語って聞かされた話だ。

「し、失敬だなっ。引越しの理由はそれだけじゃないんだぞ!? 一応、親父の仕事の都合でもあるんだから勝手な事は言わないで欲しいね。別に僕は東京に母さんと残っても良かったんだ」

「だったら何故にこっちへ来たのじゃ?」

「そりゃ、父さんに無理やり連れてこられたからに決まってるじゃないか」

引越し前日の出来事を思い出して武人はウンザリしたような表情を作る。

「学校から帰ったら自室の家具がゴッソリと消えてたんだよ。慌てて聞きにいってみれば、お前は明日から別の学校に通うことになってるからよろしくって言われてさぁ……。それで、荷物は何処にやったのかって聞けば、もう引越し業者い渡しちゃったとか言い出す始末で」

武人にとっては腹立たしい以外の何物でもない処遇であったが、これも彼の両親としては息子を思っての決心であった。荷物を引越し当日に先立って預けたのも、彼が駄々をこねるのを見越しての処置だった。本人に悟られずに転校の手続きを取る事が出来たのは母親の手腕によるものだ。

「ふぅむ、聞けば聞くほど筋金入りのヘタレ具合じゃのぉ」

「な、何でだよっ!」

「主も男ならば、親にそこまでされる前に自分でなんとかしたらどうじゃ?」

「そっ、それは……、そうかもしれないけどさ……」

でも、別に僕は虐められてなんかいなかったんだから、とプライドの高い虐められっ子が虐めを指摘されて口にするお約束の台詞を、段々と声を小さくしながら呟く。そこには説得力など皆無だった。

「これは我も仕事のし甲斐がありそうだのぉ?」

「なんだよ、君まで僕を馬鹿にするのか?」

「別に馬鹿になどしてはおらぬ。もしそう思うのなら、それは主が自分に自信の無い証拠じゃ」

「ぅ……」

正論に正論を続ける静奈に、武人は徐々に返す言葉を失っていく。

「それにさっきから何じゃ、風呂に入っているというのにわざわざ前を隠しおって」

そう言って左腕を伸ばした静奈が武人に向き直り、彼の下腹部を覆う手拭を剥ぎ取った。

「ちょ、ちょっとっ!?」

予期せぬ挙動に慌てた武人は両の腿をきっちりと閉じて、静奈を洗うに利用していた手拭で己のモノを隠す。

「主も女々しい奴じゃのぉ……」

「当然の反応だよっ!」

顔を紅くして武人が叫ぶ。

「主よ、さっきの話の続きをしてやろう」

「さっきの話ってなんだよ」

「我の知る昔の温泉の話じゃ」

「昔の温泉? それが僕に何の関係があるんだよ」

武人から奪い取った手拭を玩びながら静奈は話を続ける。

「昔は温泉といえば、それの半分は男と女の営みの場であったのだぞぇ?」

「は?」

静奈の言葉に答えを見出せない武人が、返答に困って上ずった声を上げた。

「主等が我に説明したような、男と女に分かれて風呂に入る習慣が無かった頃の話じゃ。男と女が裸で向き合っていれば、そういったことも起こって当然だろう? 自宅に風呂を持つ家が少なかったこともあって、浴場では老若男女問わずに交わる姿がそこらかしこで見られたぞぇ」

「もしそれが本当だったとしても、だからって、何で僕の手拭を取るんだよ」

「手当たり次第に声をかけて犯し倒せとは言わぬが、せめて、その布キレを取って堂々と振舞えんかぇ? そんな様子では折角の温泉も満足に楽しめぬじゃろうて。それとも主のモノは隠さなければならない程に貧相なのかぇ?」

「なっ……」

ただ股間を隠しているだけで酷い言われようだった。

「主もその歳で、まさか女経験が無い訳では無かろう?」

そして極めつけの一発はこれだ。

「な、無かったら悪いのかよ!?」

実年齢はどうあれ、静奈の姿は小学生低学年程度の小さな女の子だ。そんな外見の相手に己の性器の大きさや女性経験の有無を指摘されては、まさか童貞である武人が冷静でなどいられる筈が無い。

「あゃ、もしや図星かぇ?」

「……………」

武人は返す言葉も無く羞恥心に震えている。

「主は顔立ちも悪くないのに、おかしな話じゃのぉ……」

静奈は素面で、武人に女性経験が無いことを驚いている様であった。それがまた、武人の自尊心を酷く傷つける。別に高校二年で女性経験が無いのは、今の世ではおかしなことでも何でもない。二人の間にあるのはおおよそ100年という大きなジェネレーションギャップだった。

「ふむ」

己を睨むように見つめてくる武人に、静奈がふと思い立ったように手を打った。

「ならば主よ、我がこの場で主を男にしてやろう。男ならば女を抱く術は生涯の技じゃ。外へ出しても恥ずかしくないよう確りと鍛えてやる。これも主の目付け役として、必要な仕事の一環じゃ」

そして、そんな傍迷惑かつ破天荒な発言と共に立ち上がると、背後に座る武人に正面から向き直り、本人が呆気に取られている隙をついて、閉じられた両の太股の上へ両足を開いて座り込んだ。

「ちょ、ちょっとちょっとっ!!」

慌てたのは武人だ。周囲に他の客が居ないとは言え、まさか、そのような行為に至る訳にはいかない。だが、静奈は両腕を武人の背に回してガッチリと身体密着させてくる。

「こんなところでいきなり何するんだよっ!」

対して、武人は慌てて押し戻そうと相手の両肩に手を当てる。しかし、どういう訳か彼を抱く静奈の腕力は物凄いもので、幾ら腕に力を加えようとも、その小さな身体は一寸たりとも動く事はなかった。

「ぬぅ……、やはりこの身体では勃たぬかぇ?」

だが、どうあっても否定的な態度を取る武人に、静奈は己の身体に目を向けて、些か気落ちした声で尋ねてきた。

「それとも、我はそれほどまでに主の好みとはかけ離れておるのかぇ?」

にこやかだった顔に若干の陰りが見える。外見年齢が幼い事と、元より表情の変化が良く分かるはっきりとした顔立ちをしているので、僅かでも感情の変化が見られれば、例えそれが他愛ないものであれ、相対する者に取っては酷く深刻に感じられてしまう。

「べ、別にそういう訳じゃないけど……」

そして、こうなると強く言えないのが武人だった。どう答えて良いか迷いながらも、それとなく否定する。すると、それだけで静奈はもとの笑顔を取り戻した。表情の変化が激しい少女である。きっと、半分は演技なのだろうが。

「ならば良かろう?」

ニパっと眩しい笑みを浮かべて問うてくる姿は、まるで玩具屋の店頭で玩具を強請る子供の様で、性交を求める女の姿とはかけ離れて感じられた。しかし、彼の下腹部にはやんわりと押し付けられた幼い性器の感触が確かにある。

意識してしまうと身体の変化はあっという間だった。

「なんじゃ、なかなか立派なものをもっているではないか」

自分のお尻の下で急に体積を増やし鎌首を擡げたモノに反応して静奈が声を上げる。

「ち、違うよ。それは静奈が身体を押し付けてくるからっ!」

「それの何処が違うっていうのじゃ。男として正常な反応じゃろう?」

静奈のお尻の割れ目に、持ち上がった武人の竿が挟まれる。

「とはいえ、我の姿では勃つ者も自然と限られてくるのじゃが、思いのほか主は我と相性の良い趣味をしているのぉ。こういう幼い身体が好みじゃったのかぇ」

己の平坦な胸を見下ろして静奈が呟く。

「だから違うって言ってるだろっ!」

「別に隠さんでもいい」

お尻の下に手を伸ばした静奈が、ギュっと無造作に武人の性器を握った。

「っ!?」

逃げる事も叶わずに武人はされるがままだった。

他者からの刺激に慣れない性器は、瞬く間に硬く限界まで反り上がる。そんな彼の反応に静奈は満足した様子で口元を厭らしく歪める。そして、鼻と鼻が接する距離まで顔を近づけて舌なめずりをしてみせた。

「我も久しぶりの交わりじゃ。お互いに楽しもうぞぇ」

「お、親父とか、他の客とか来たらどうするんだよっ!!」

ボディーソープの滑りに任せて、静奈は己の性器へ武人のいきり立ったモノを導く。性交経験の無い武人にも、己の性器の先端が相手の割れ目に触れるのが感触で分かった。静奈は武人の言い分など右から左へと聞き流すだけだ。

「入れるぞぇ?」

そして、一度身体を浮かした静奈が、次の瞬間、勢い良く腰を落とした。

武人の性器に未だ嘗て経験したことの無い痛みと快感が走る。

「うわっ!?」

驚いたことに、静奈はその幼い身体にありながら、同年代の男性と比較しても大きく映る武人の性器を、あろう事か一息に己の中へと全て飲み込んでしまったのだ。とはいえ、やはり身体相応に中はきつく、静奈の性器は彼のモノを千切り奪わんとする勢いで締め付けてくる。

「あ、ああ……、本当に、本当に入っちゃった…………」

現実が信じられない、といった様子で呆然と呟く。

「ぅう…、なかなか良いぞぇ」

白いボディーソープの泡に混じり、二人の結合部分から紅い雫が線となって垂れてきた。静奈に経験が有ろうが無かろうが、これだけ無理な入れ方をすれば血だって出てこようというものだ。それに驚いた武人が慌てた様子で声を上げた。

「静奈っ! 血、血が出てるよっ!?」

「主のモノが、お、思いのほか大きかった様じゃ……」

見れば静奈のお腹は武人の性器が入ったことで、その形の通りプックリと膨れていた。手で撫でたのならば、肉と臓器を通して彼の竿にも指の感触が得られることだろう。性交経験の無い武人にとって、これは緊急事態以外のなにものでもなかった。

「これって大丈夫なのっ!? 痛くないのっ!?」

思考は混乱の一途を辿るばかりだ。

「多少は痛むが、慣れればそれも気持ちが良いぞぇ」

「ほ、本当?」

「ここで嘘などついてどうする」

腰は動かさずに、二人は性器を繋ぎ合わせたまま向かい合って座っている。幼い外見通り、子供の静奈は体温も武人と比較して高い。接する肌から自然と熱が伝わってくる。また、粘膜で接する内側は、外皮にも増して暖かな体温を彼の性器に伝える。

「主は気持ちよくないかぇ?」

「そ、そりゃ……まあ………」

狭くキツイ静奈の膣は、まるでそこだけが別の生き物のように蠢き、包む彼の性器へ断続的な刺激を与えてくる。これが気持ちよくない筈が無い。彼も男なので自分の手には過去に幾度となく世話になっていたが、それとは比較にならない快感と、得も言われぬ充実感があった。

「どうじゃ?」

「…………気持ちいい」

二人はお互いに鼻の頭が接してしまいそうな至近距離で顔を向き合わせている。慣れない状況に思考さえまともに働かなくなり、武人は他に上手い言葉も見つからずに、素直に自分が感じるがままの感想を吐露してしまう。

「主よ、これが男女の交わりというものだぞぇ」

そんな武人の反応に、普段からの静奈とはまた違う妖艶な笑みを浮かべる。そして、徐に彼女は相手の首を抱き寄せると、その唇を己の唇で塞ぎこんだ。

「っ!?」

「んふふふふ」

口をふさがれた状態で慌てふためく武人。そんな彼の姿を面白がるように、静奈は接する咥内へと無理やり自分の舌を差し入れた。話には聞いたことがあっても、まさか自分が、それもこんな幼い子供を相手にすることになろうとは微塵も思っていなかった様だ。舌を入れられた瞬間、驚きのあまり武人の身体はビクンと跳ねていた。

「っんんんんっ!!!」

唇を割って入ってきた静奈の舌は、武人の咥内をあちらこちらに移動して、そこらかしこを舐め回す。舌を舐められ、歯茎を舐められ、さらには口移しで唾を流し込まれ、極めつけは、唇で挟み取られた舌を相手の咥内で音を立てて吸われた。

客が彼等と他に義人しか居ないので、浴場は静かなものである。おかげで二人の舌が絡み合う音は、お互いの耳に妙に響いて鮮明に聞こえた。咥内で泡立った唾液が口の端から垂れる。それに構うことなく、静奈は執拗に武人を攻め立てた。

激しいキスに興奮して武人の性器は更に膨張を続ける。それに応じて静奈が切なそうに声を漏らして身を捩る。腰を動かさずとも自然と擦り合う互いの生殖器は、まるでキスが快感を運んでくるような錯覚さえ与えた。

そして、武人の精神は容易に限界まで達する。

「ぷはぁ……」

じっくりと時間をかけて武人の咥内を蹂躙し尽くした静奈が口を離す。

「い、いきなり何をするんだよっ!」

そう強く反論するだけが、もはや彼に残された対応だった。

「主は接吻が嫌いだったかぇ?」

口元に垂れた唾液を拭おうともせずに静奈は尋ねてくる。

「別に……、そんなの知らないよ」

「まさか、接吻もこれが始めてなどとは言わぬよのぉ?」

「っ!?」

又しても図星であった。

「…………こっちも初めてだったのかぇ」

「ほ、放っておいてくれよっ!」

もし、あと数分も続けられていたのなら気をやられていたかも知れない。そう感じてしまうほどに静奈からのキスは魅力的だった。

しかし、まさかそれを素直に口にする訳には行かない。幾ら実年齢が己の親を超えていようが、外見は小学生なのだ。そんな相手に心までも陥落させられたとあっては、プライドの高い武人は、立ち直る事の出来ない大きな傷心を受けることだろう。他者からすれば、既にいきり勃った肉棒を突きたてておいて、今更に何を言うかとも思うだろうが、彼にとしてはそこが最後の防衛線であった。

「では、我は主の初めてを両方とも奪ってやった訳じゃのぉ」

「…………」

主導権の有無どころか、どちらが男でどちらが女なのか、それさえも危うい発言だ。

「さぁ、動くぞぇ」

そして、自ら宣言をして静奈は腰を使い始める。

「ぅあ……っ!」

淫らな音を立てて小さな腰が上下左右に動き始めた。

その挙動は見ているだけで自然と股間を硬くしてしまう程に魅惑的で興奮を誘った。結合部が動くたびに、ボディーソープの泡と膣壁とが分泌する膣分泌液がクチュクチュといやらしい音をたてる。

「ほら、主も腰を動かすのじゃ」

静奈の身体が動く度に、膣内壁と強く擦り合う性器から強烈な快感が走る。気づけば武人自身も彼女を抱きしめるように、両腕を相手の背中へ回していた。傍から見ればお互いに求め合う男女宛らである。

そして、そんな己の醜態に気づいて、武人はハッとしたように我に返る。

「だ、だから待ってよ、こんな所でするなんておかしいじゃないかっ!」

慌てて両手を離した。

「なぁに些細な事じゃ、気にするでない」

「人が来たらどうするんだよっ!?」

「その時はまた我が騙してやれば問題なかろう?」

「ぅ……」

静奈との性交は非常に気持ち良いもので、その言葉に武人の精神は強く揺さぶられた。

なんのリスクも無く行為を続けられる。流石は三大欲求に数えられるだけあって、容易な自意識では性欲を押さえる事は出来ない。なかなかどうして魅力的な提案を受けて、彼の本能は理性などお構いなく更に膨張した。

「ぅあっ! ぬ、主よ、また大きくなったぞぇ」

そんな彼の反応が嬉しかったのだろう。下腹部に力を入れて、一層の膣圧で静奈は武人の性器を締め付けてくる。加えて、静奈自身も興奮してきたのだろう。腰の上下運動が一段と激しくなる。

浴場には二人の交わる規則的な音が大きく響いていた。二人の目の届く範囲に姿を確認することは出来ないが、きっと、義人も自分の息子が何をやっているのか、ちゃんと理解している筈だ。それでいて口を出さない辺りか、彼の彼らしいところである。

そして、間もなく武人の理性は本能に駆逐された。

静奈との性交は彼にとってあまりにも魅力的過ぎたのだ。

「っ、ぅう………、悔しいけど気持ちいい………」

「ああ、我も気持ち良いぞぇ」

自然と、再び静奈の背に腕を回そうとする自分に、武人は抗う事が出来なかった。それまで否定していた分だけ、強く彼女の身体を抱きしめた。相手が自分に堕ちたことを確認して静奈が嬉しそうに笑みを浮かべる。

「そうじゃ、それでいい」

「静奈……」

静奈に促されて武人自身もまた腰を使い始める。相手と動きを合わせて、膣の奥を己の先端で強く激しく突いた。小さな静奈の膣では、武人の性器を全て飲み込むことは不可能である。必然的にペニスは子宮の内部まで達していた。それは通常、女性にとってかなりの苦痛を伴う行為の筈である。しかし、静奈はそれに快感を得ている様子で、嬉しそうに大きく腰を上下させていた。

「あっ! んぅ……」

「し、静奈っ」

「もっと、もっと強くじゃ」

浴室内は気温湿度共に高く、折角、今し方に身体を洗い終えようかとしていたのに、激しく身体を動かす二人は、又しても全身汗まみれだった。ボディーソープの泡とお互いの体液とで身体を滑り擦り合わせながら、共に快感を求めて激しく身体を打ち付け合う。

「ぅ、あぁっ」

「ふふ……、は、初めてにしては、主も中々に筋が良いぞぇ」

ペニスは静奈の上下運動に合わせて、カリ首の辺りまで膣から抜き出され、また根元まで飲み込まれてを繰り返す。それに際して、亀頭が子宮口に引っ掛かかることで、お互いに全身を震わせるような快感を生んだ。

それから、程無くして二人は絶頂を迎えることとなる。

「あ、で、出るよ静奈っ!」

限界を感じた武人は、思考の片隅に辛うじて残っていた理性に促され、慌てて性器を引き抜こうとする。しかし、それを静奈は逃すまいと両手両足を絡めてきた。彼の身体を抱きしめる力は凄まじい。まるで万力に固定されてしまったかの様に、押しても引いてもビクともしない。

「えっ!? ちょ、ちょっとっ!!!」

「こ、ここで抜くなど、そ、んぁあ無粋な真似は許さぬぞぇ」

「だ、駄目だよっ! もう出るっ! 出ちゃうよっ!!」

出ちゃう出ちゃうと叫びながらも武人は腰の運動を止めない。それだけ静奈との性交は気持ちの良いものであった。

「出せっ、全て我の膣に出すのじゃっ!!」

一際大きく、ズンと子宮の奥にペニスの先端がぶつかる。武人の中で未だ嘗て無い大きな快感の波が押し寄せた。ここ最近は自分で慰める事もしていなかった。おかげで射精された精子は大量であった。実際に目に見えなくても出した本人には理解できる。ドクドクと脈打って白い液体が直接子宮内部に流し込まれた。その達成感と満足感は自慰の比ではない。反射的に静奈の小さな身体を思いきり抱きしめる。

「そ、そうじゃ。たっぷりと出すのじゃっ! 我も、我もぉっ!」

すると、同時に静奈もまた絶頂に達したらしい。ビクンビクンと大きく身体を痙攣させて、銜え込んだ射精途中の性器を膣壁で痛いほどに強く締め付けてきた。

「静奈っ!」

反射的に武人は静奈の名を叫んでいた。

「あっ! ああっ! あっ! あっ!!」

訪れる快感に声を上げて、静奈はビクビクと身体を激しく痙攣せる。結合部からは彼女の噴いた潮がプシッ、プシッ、と音を立てて飛び出してきた。初めて見る女性のオーガズムを、武人は呆気に取られたように眺めていた。

射精が終わったペニスから、尿道に残る精子までも貪欲に奪うが如く、絶頂に達したばかりの静奈の膣は蠢く。一足先に仕事終えて敏感になっていた彼の性器は、その動きの全てに過敏に反応した。射精に至るそれと異なる、終わりの見えない反射的かつ強制的な快感に、腹部の筋肉をピクピクと痙攣させながら必死になって耐えた。

腰の動きを止めて暫く、静奈と武人はお互いに強く抱き合っていた。

徐々に静奈の反応が落ち着いてきたのを確認して、おずおずと武人が口を開く。

「………静奈? 大丈夫?」

鮮烈なオーガズムの光景を目の当たりにして、武人は恐る恐るといった様子で声をかけた。一方の静奈は絶頂の余韻に浸りながら、武人の胸に身体を預けて幸せそうな笑みを作り、ハァハァと息を荒くしていた。

「な、なかなか良かったぞぇ」

はふぅ、と一際大きく息をついて答える。

「それなら……、良かったけど」

武人は他にどう答えて良いものか分からず適当に頷いた。

そして同時に、やってしまった、という後悔の念がどっと押し寄せてきた。これで外見が武人と同程度ならば、まあ、若さゆえの過ちとして自分を納得させることも出来ただろう。しかし、己の腕の中にいる少女はどう見ても年齢が一桁だ。

「僕は……、ロリコンなのか………」

最終的には自ら求めてしまったのだ。言い訳など出来よう筈も無い。

しかし、そんな彼の苦悩など何処吹く風で、静奈は嬉々とし語りかけてくる。

「これで主も、晴れて一人前の男に成った訳じゃ」

「別に……、子供のままでも良かったよ」

「何故にそう浮かない顔をする?」

「だって、君みたいな小さな子を相手にしてしまったなんて……」

立派な犯罪者じゃないか、と大きく溜息をつく。

「ふむ、では次にやるときは主好みの女子に化けてやろうかぇ?」

「つ、次なんて別に欲しくないよっ!」

拗ねた態度をとる武人を前に、静奈は楽しそうに笑った。

ゆーぷる木崎湖で夕食を終えて家に帰ると、時刻は既に午後の7時を回っていた。

自宅に着いて早々、武人は部屋に引き篭もり趣味のコンピュータを起動する。何か作業をしていないと、否応無く静奈との性交を思い出してしまうからだ。最中の快楽は極上であったが、その後に待っていた自責の念もまた、自慰の比ではなかった。

ちなみに、当の本人は階下で義人と共にテレビを見ている。

「はぁ……」

溜息をついて、タスクバー上に表示された IDE へのショートカットをマウスでクリックした。僅かに間を置いて現れたウィンドウには、数ヶ月前から作成し始めたプロジェクトの管理画面が表示される。

「まあ過ぎたことは仕方が無い………、忘れよう」

何よりも、相手の静奈自身が微塵も気にかけていないのだ。それなのに自分だけが悩んでいるのは、傍から見ても馬鹿げているに違いない。そう己に言い聞かせて心の平穏を取り戻す。

「よしっ!」

パンと両の頬を軽く叩いてディスプレイに向き合った。

気分を入れ替えて趣味に走る。

引越しやら転校やらで色々と慌しかった為に、こうしてコンピュータへ面と向かうのも随分と久しぶりに感じられた。手元を見ることなくキーボードを爽快に叩いて希望する画面を呼び出す。最前面に表示されたテキストエディタの一面に、細切れにされた英単語や記号の類がビッシリと羅列されたファイルが出力された。そして、それとは別に開いたドロー形エディタに描画されている、四角や矢印によって構成された図とを交互に眺めながら、カタカタとキーボードを叩いていく。

学校では日常的に陰湿な虐めを受けていた事もあって、昔から、こうして自宅でコンピュータに向かっている時間だけが、武人によって唯一心の休まる一時であった。頭には外界からの音を遮断する為に、数月分の小遣いを貯めて購入した一台数万の高価なヘッドフォンを装着済みだ。

ふんふんふーん、などと鼻歌を歌いながら颯爽とキーボードを叩く。そして、コンピュータを起動してから30分も経てば、静奈との行為もいつの間にか頭の隅へと追いやられていた。

だが、彼の憩いの時間は開始から一時間と経たずして終わることとなる。

事の始まりは階下より聞こえてきた玄関チャイムの鳴り響く音だった。密閉型のヘッドフォンを通しても聞こえてくるこの家の玄関チャイムは妙に音量が大きい。また警察でも来たのか? と眉間には自然と皺が出来る。ただ、警官にしてはおかしなことに、チャイムは義人が玄関の鍵を開けに行くまでの間で幾度と無く連打された。

それでも我関せずに作業を続けていると、階下からはチャイム同様、遮音性能の高いヘッドフォンを貫いて義人の叫び声が聞こえてきた。高価なノイズキャンセラまで付いているというのに、どれだけデカイ声なのか。間違いなく自分の名を呼んでいる。

「ったく、今度は何だよ」

ヘッドフォンを外して、苛立ちを露に席を立つ。

タンタンと不機嫌な様を見せ付けるように音を立てて階段を下りていく。そして、階段を下りた先で廊下の角を一つ曲がり、玄関ホールへ目を向けた。するとどうだろう。彼の視界に飛び込んできたのはハァハァを息を切らせて苦しそうな表情を浮かべる花見月だったのだ。

「な、なんで君がうちに来るんだよっ!?」

思わず一歩後ろに後ずさる。

武人の姿を認めた花見月は叫ぶ様に言う。

「た、助けてくれっ! 夢見月が、夢見月が死んじゃうっ!!」

懇願の意味はさっぱり分からなかった。そもそも、どうして彼女が武人の家の場所を知っているのか。腰下まで伸びた長い銀髪を揺らして、必死の形相で彼を見つめている。両手は胸の前で強く握られていた。

「なぁ武人、お前、今度は何をしたんだ?」

対応に困った義人もまた、花見月と同様に彼を見る。

「何をしたって言われても、何がなんだか僕にだって分からないよ」

とりあえず、今の花見月の叫びで彼女が自分に対して害意を持っていないことは確認できた。武人は、一度は止まってしまった足を動かして玄関ホールまで移動する。その間も花見月は落ち着きなく、助けてくれ、助けてくれ、と連呼していた。

「君、少し落ち着いてよ。君達姉妹に何が起こったのか教えてもらわなきゃ僕には何も出来ないんだから」

興奮冷めやらぬ花見月を落ち着かせようと、まるで馬や犬にそうするように、両手の平を向けて宥める。だが、余程急いでいるのだろう。幾ら声をかけようとも相手は落ち着きを見せるどころか、余計に焦り始める。

「夢見月がっ、夢見月が怪我をして大変なんだっ!」

仕方なく武人はそのまま話を続けることとした。

「怪我? まさか車にでも轢かれたの?」

「違う、敵にやられたんだっ!」

「敵? なんだよそれ」

了見を得ない回答に首を傾げる。二人の様子を黙って眺める義人もまた同様だ。そして、騒ぎを聞きつけたのだろう。リビングからひょっこりと顔をだした静奈が、花見月の顔を確認して武人の下までやって来た。

「あ、お前はコイツと一緒にいた狐っ!」

静奈の姿を目の当たりにして花見月が一際大きな声を上げる。

「何か面倒事でも起きたのかぇ?」

多少警戒した様子で、静奈は花見月に向かう。

「夢見月が大怪我をして大変なんだ、助けてくれっ!」

「なにやら退っ引きならぬ様子だのぉ」

「同じ狐だろっ!? お願いだ、助けてくれよっ!!」

良く見れば手や足には幾つも青痣や擦り傷、切り傷が確認できた。中には皮膚を抉るようにして出来た酷い怪我も多々見受けられる。英字のプリントされた白地のTシャツにはべったりと血液のようなものが付着しているし、デニム生地の短パンは酷く土埃に汚れている。敵にやられたのだという説明からして、どこかでも喧嘩でもしてきたのだろうか。

「ふむ……」

顎に手を当てて静奈は何やら悩む素振りを見せる。

「この通りだっ!」

彼女の対応をどのように解釈したのだろうか。花見月は形振り構わず玄関の下で土下座を始めてしまった。これに驚いたのは武人である。

「ちょ、ちょっと待ってよ。いきなり頭を下げられても困るよっ!」

また義人に要らぬ誤解をされたに違いない。

「その様子を見る限り、余程の急ぎなのだろう?」

「そ、そうなんだっ! 早くしないと夢見月が死んじゃうっ!!」

眦に涙を浮かべて必死に訴える姿は、その幼い外見と相まって、酷くはかないものに感じられた。ここまで壮大に困っている相手を前にすれば、武人にしたって手を差し伸べてやりたくもなる。

「ねぇ静奈、君なら何とか出来るかい?」

「むぅ……」

武人に問われて静奈は遠い目をする。

「怪我といえば、我が昔に海の向こうで死に掛けたとき、そこで出会った不死者から妙に良く効く塗り薬を貰ったのだが、あれはまだ残っていたかのぉ……。あればそれなりに役立つとは思うが」

「薬があるのかっ!?」

地獄に仏を見つけたように花見月の目が輝く。

「探してみないと分からんが、まだ少し残っていたような気がするぞぇ」

「だったら頼むよっ! その薬を分けてくれっ!!」

死んじゃう、と叫んだのは喩えでも何でもなく、文字通りの大事なのだろう。玄関のタイルに額を擦り付けて花見月は懇願する。しかし、そんな彼女から武人に向き直った静奈は渋い顔をして言葉を続けた。

「じゃが主よ、我はこの者を救うにあまり賛同したくはないぞぇ?」

「なんでだよ」

「これは我の手に余る事じゃ、主の面倒を最後まで見切れるかどうか分からん」

「で、でも、だったらこの子を見捨てるの?」

「主はそこまでしてこの者を助けたいのかぇ? 大した面識もないこやつを」

「それは……、そうだけどさ……」

確かに、言われてみれば自分の事ながら、こうして自ら面倒事に足を突っ込もうとしている己の選択に疑問を覚える。らしくない判断だと思った。でも、ここまで強烈に困っている相手を無碍に放り出すのは酷く後ろ髪を引かれる。特に、花見月が幼い子供の姿をしているのは大きな要因だった。

「…………」

そう、少しだけ手を貸すなら、静奈の言う薬を渡しに行くくらいならば良いのではないか。危険を感じたのなら、近くまで送るだけ送って帰ってくれば良いのだ。武人はそう結論付けた。

「薬を上げるくらいならいいんじゃないかな?」

駄目かな? と願うように静奈の目を見つめる。

ジッと顔を向き合わせた二人に、花見月は祈るような視線を向ける。静奈は暫く黙ったまま武人と目を合わせていたが、ややあって渋い表情を浮かべながらも武人の主張に折れて見せた。

「ふむ……、分かった。主が言うなら探してみようかぇ」

「あ、ありがとうっ!」

花見月の感謝の言葉が、夜の芹沢邸に大きく響いた。

まるで己の命が係っているかの如く、目を輝かせて静奈と武人を見つめていた。夢見月という者が彼女の妹であることは昼に林で聞いていた。余程、大切な存在なのだろう。眦には悲しみと喜びに涙が溢れていた。

「そういうことなんだけど、父さん、車を出してくれない?」

善は急げだとばかりに、武人が父親へ向き直る。

しかし、己を頼ってくれた息子に義人はすまなそうな表情で答えた。

「それが、悪いんだけど車はガス欠なんだ」

「な、何でだよっ!?」

「多少なら残ってるとは思うけど、あと数キロ走れるかどうかも怪しいと思うぞ?」

最後に見た車の走行メーターを思い出して、そういや今日だけで200キロ近く走ったんだよな、とトンでもない事をのたまってくれる。朝に武人を送り出してから昼過ぎに帰ってくるまでの4時間足らずだ。一体何処を走ったらそこまで距離を稼げるのか。

「実は借りたときに向こうの手違いで満タンになってなくて、加えて今日は色々と走ったから、もう殆ど残ってないんだ。明日にでもお前のバイクを借りて、近くのスタンドまでポリ缶持って走ろうと思ってたんだけど」

「ったく、必要なときに役に立たない車だよ」

「そんなこと言ったって、今までの運転は全部必要な運転だったんだぞ?」

「だったらちゃんと給油しておいてよ」

「忘れてたんだからしょうがないだろ」

まったく使えないなぁとぼやいて武人は花見月に尋ねる。

「君の家……、っていうか、妹さんの居る場所まではどの程度あるの?」

「どの程度って言われても、アタシは人間の使う物差しなんて分からないし……」

「下手に車で行って途中でガス欠、なんて場合が一番面倒だと思うぞ? こっちは東京と違って田舎だから、この時間まで営業してるスタンドも少ないだろうし、電車の類もありゃしない」

「それもこれも父さんがガスを入れておかなかったのが原因じゃないか」

「だから、悪かったって言ってるだろ?」

「っていうか、その様子だと温泉に言ったときのもギリギリだったってこと?」

「あそこは流石に近いから大丈夫だと思ったんだよ。最悪レッカーも呼べるし」

「本当に無計画な人だね」

「悪かったな」

移動手段を巡って言い合いを始めた親子に静奈が横から声をかける。

「主等よ、コヤツは尻尾を六本持つ歴とした狐の化け物じゃ。尻尾一本の我にはちと厳しいが、コヤツならば別に人間の手なんぞ借りずとも、走れば疾風の如く、そこいらの車程度は容易に追い抜く筈じゃが?」

「そ、そうなの?」

静奈の説明を受けて武人と義人が驚いた表情で花見月を見つめる。

しかし、そんな同胞の確認に彼女は小さく首を横に振った。

「その……、出来れば車って言う機械で送って欲しい。アタシも此処まで飛ぶので一杯一杯で、その、ごめん、そんなに早く走れないんだ。此処へ来るのにも時間がかかっちゃって、だから早く行かないと夢見月が……」

「だ、駄目じゃないか」

「ぬぅ……、見た目以上に疲弊しておるのか」

「暫くすれば回復するとは思うけど、それだと夢見月が死んじゃう……」

「それでは意味が無いのぉ……」

義人と武人に並んで静奈もまた困った表情になる。

「となると、あれで行くしかないか……」

出来れば自動二輪に跨ることは遠慮したかった武人だが、花見月の様子を見る限り、今は贅沢を言っている余裕もなさそうだ。背に腹は変えられない。まさかここまで話を進めておいて、バイク運転したくないからやっぱり止める、ではあんまりだろう。

「父さんはこの子を乗せてあげて。僕は静奈を乗せるから」

そう言って早速、鍵とヘルメットを取りに二階の自室へと駆け戻ろうとする。

しかし、それに対しても義人は待ったをかけた。

「それが、俺のバイクは今家にないんだ」

「えぇっ!? なんでだよっ!!!」

これには武人も声を荒げて問い返した。

「いや、レンタカーを借りるのに乗って行ったから、そっちに置いてあるんだ。まさか、こんなことになるとは思ってもいなかったから、車を返したついでに乗って帰るつもりだったんだよなぁ」

「本気で使えない人だね……」

「わ、悪いな」

あははは、とぎこちない笑みを浮かべる。

「でもまあ、この子達なら身体も小さいし、俺のと違ってお前のには大きなタンデムシートもついてるから、頑張れば何とかなるんじゃないか?」

「本気?」

「一応、本気だぞ」

確かに静奈と花見月なら、頑張れば何とかなりそうだ。タンデムシートには背の高いシーシーバーも装着されている。武人が前に詰めれば乗れないことも無いだろう。花見月が自分の足でここまでやって来れたことから、目的地までの距離は高が知れている。

「でも、こんなことならサイドカーでも付けて置けばよかったな」

「まったくだよっ!」

他に良い案も浮かばず、短く言い捨てて武人は自室へ小走りで向かった。

その間に義人は静奈と花見月の二人を連れ立って外へ出る。そして、軒下に止められた武人のバイク、そこにかけられていたビニールシートを取り外した。車体に取り付けられているタンデムシートは、武人に彼女が出来たときに二人で気持ちよく乗れるように、という義人の親心のもと、比較的大き目で確りとした作りのものが取り付けられている。ギュウギュウに詰めれば、小柄な花見月と静奈ならば乗って乗れないこともなさそうだ。

「君達の分のヘルメットは無いけど、この際我慢してよね」

後からメットをかぶり鍵を片手にやって来た武人が、手早くハンドルロックを解除してエンジンに火を入れた。マフラーから響くドコドコという低い排気音が、静かな夜の木崎湖の湖畔に響き始める。そして、エンジンを温めている時間さえ惜しみ、無理やりアクセルを回してアイドリングを上げると、直ぐに車体を移動させて発進できる状態までもっていった。

「では、頼むぞぇ」

「頼む、急いでくれっ!」

「分かってるよ、それじゃあ動くからね」

そして、後ろに二人が乗ったことを確認すると、ギアをローに入れてクラッチを繋いだ。走り出したバイクの後ろから義人が声をかける。

「気をつけて行けよー」

それに小さく左手を上げて応じる。

自宅の庭から路上に出ると、武人は一息にアクセルを回した。

芹沢邸の庭からバイクが一台遠ざかって行く。

「あれ、さっきのってもしかして容疑者じゃないですかね?」

「……かもしれんな」

それを路上に停車した車の中から見つめる者達がいた。

つい先刻にも武人を訪ねてやってきた二人組みの警察官である。彼らは容疑者兼重要参考人である芹沢武人を同行させること無く、静奈の幻惑によって無理やりに署へ帰らさせられたのだ。そして、そこまでたどり着いて初めて我に返ったのである。だが、何故に自分達が成果を上げずにおずおずと帰ってきてしまったのか。それを理解できずに、自らの行為に答えを見つけるべく、また、今度こそ武人に同行を求めるべく、ここ芹沢邸へ舞い戻ってきた次第である。ちなみに完全に時間外の個人的な捜査なので、車はパトカーではなく自家用車である。

「追いますか?」

運転席に座る若い警察官が年配の警察官に尋ねた。

「ああ、もしかしたら何か出てくるかもしれんな」

「ええ」

「それに、後ろに乗っていた金髪の女の子は確か、ホームステイに来ている祖父の友人の孫だと説明された子だが、明らかにノーヘル。しかも、誰だか知らないが、それにもう一人加えてバイクに三人乗りときたもんだ。連れて行くにしても良い大義名分が手に入ったじゃないか」

「そうですね」

これ幸いだと笑みを浮かべて、二人は武人の運転するバイクの追跡を開始した。

「薬を探すゆえ、そこの神社に寄ってくれ」

「わかった」

自宅を発した武人達はそこから1キロと進む前に、静奈の制止に従ってバイクを止めた。場所は武人が始めて静奈と出会った神社の前である。どうやら、武人と出会う前の彼女は此処を住処としていた様だ。電気や水道が通っているかも怪しい襤褸の社殿で、どうやって生活しているのか、疑問は尽きないが今は悠長に尋ねている余裕も無い。

「ちょっとここで待っておれ、薬を取ってくる」

そう言ってタンデムシートから飛び降りた静奈は、鳥居を潜った先にある階段を1段飛ばしで駆け上がっていく。そんな彼女の後姿を、武人と花見月はシートに跨ったまま見送った。

「それにしても、君の言う敵っていうのは一体何なんだい?」

静奈の話では、この少女とその妹は尻尾を六本も持つ非常に強力な狐の化け物なのだという。それが二人も居ながら、片や死に掛けて、片や満足に走ることも出来ないほど疲弊している。ともすれば、彼女の言う敵とは余程の相手に違いない。

「敵は狼だ」

武人の問いに、少女は短く憎々しげな表情で答えた。

「狼? それって犬の親戚の?」

「そうだ、その狼だ」

いきなり狼といわれても、武人の脳裏に浮かぶのは日本狼や蝦夷狼といった四本足の哺乳類である。それが何故に熊をも越えるであろう彼女達を瀕死の重症へ陥れたのか。想像に苦しむ所である。

しかし、それも続けられた彼女の言葉に理解を得る。

「始めはただの人間かと思ったのに、いきなり毛むくじゃらに変身しやがって、アタシ達に殴りかかってきたんだ。夢見月はアタシを庇ってやられちゃって、アタシだけが逃だせて、夢見月は……、夢見月は……」

肩越しに花見月が肩を落として俯く姿が確認できた。

「いわゆる狼男ってやつか」

「そう、それだっ!」

それなら武人も納得だった。狼男といえば化け狐と並んでポピュラーな妖怪である。その存在は日本だけに留まらず、ウェアウルフやライカンスロープ、ルー・ガルー等、世界各国で名を変えて確認することが出来る。とはいえ、それらは全て御伽噺話の上であり、実際に実害を訴える者に出会ったのは、当然ながら武人としても始めてのことだった。

「アイツは昨日も、それに今日の昼にもアタシ達を狙ってきたんだ」

「その狼男と君達って知り合いか何かい?」

「違うっ、あんな奴なんて知らないっ!」

「だったら、なんで行き成り狙われたりしたの?」

「分からない。けど、なんかアタシ達を殺すのが仕事だって言ってた」

「ぶ、物騒な話だね」

「昨日は二人一緒に居たから追い返せたけど、今日の昼にアタシが一人で居るところを狙われて、それで怪我をしちゃったから、さっきも夢見月を助ける事が出来なかったんだ。夢見月は私を逃がすためにアイツに殴られて……」

「大怪我をしちゃったのかい」

「うん。今もきっと林の中でアイツから逃げ回ってる筈だ。こんな事になるんだったら夢見月の言ったとおり家で大人しくしてれば良かったんだ。そうすれば一人で襲われて怪我することも無かったのにっ」

「今も逃げ回ってるって……。君、だとしたら急がないと不味いじゃないか」

「そうだよっ、だから急いで欲しいんだっ!」

前に座る武人の両肩を花見月が握ってくる。そこに込められた痛いほどの握力から、彼女の感じている焦燥が良く理解できた。血を分けた妹が今まさに死に絶えようとしている、そんな機会、滅多に出会うものでない。

「だったらもっと早く言ってよっ!」

「だから急いでくれって言ったじゃないかっ!」

「う、うん、けど、だからってそこまで切羽詰ってるとは思わなかったから」

「お願いだよ、夢見月を助けてくれ……」

決して大きいといえない武人の背に額を押し付けて、花見月は嗚咽を漏らすように、弱々しく繰り返し呟いた。そんな彼女の態度は、武人の凝り固まった価値観を多少なりとも揺るがした。

「分かった、僕に出来る範囲でなら手を貸すよ」

普段ならば極力面倒事を嫌う、典型的な事無かれ主義の武人である。自ら厄介ごとに足を突っ込むなどありえない。しかし、彼女のギリギリな感情に触れて、少なからず感化された様だった。

「……ありがとう」

小さく返された言葉に、武人は妙に強く響く責任感を感じた。

それから少しの間を置いて、花見月は言葉を続ける。

「それと、昼には酷い態度をとって悪かった。ごめんなさい」

耳に届いたのは、これまでのツンケンした物言いとは対照的に、思いのほか素直な謝罪の言葉であった。初印象から、世間を知らない我侭な子供の様に捉えていたが、根はしっかりとした良い子なのだと、武人は考えを改めた。

「それは君が今後、僕の姿に化けないって約束してくれるなら別にいいよ」

「約束する、ちゃんと約束するっ! けど、それだけでお前はアタシを許してくれるのか? アタシに迷惑してたんじゃなかったのか?」

「まあ、それも過ぎたことだしね」

当初は慰謝料を請求したい程に憤りを感じていた彼であった。だが、妹の危機に必死な彼女の姿を眺めていて、そんな気も次第に失せたのだった。花見月は感慨無量といった様子で、肩越しにその目を見つめる。

「本当に、ありがとう……」

過去の己を恥じるように、花見月は俯いて再び謝罪を述べた。

それからしばらくして、タンタンタンと軽い音を立てて静奈が神社の階段を駆け下りてきた。手には何やら白い色をした背の短い円柱形の容器を持っている。それが例の薬とやらだろう。ちゃんと見つかって良かった、と二人して胸をなでおろす。

「あったぞぇ、これじゃこれじゃ」

そういって手の平サイズの陶器の器を花見月に手渡した。白磁の容器は無地で、唯一、側面にだけ Marie Laurencin という英字列が焼き込まれていた。人の名前だろうか。静奈はこの薬を誰かに貰ったと言っていた。だとしたら、これは薬を作った者の名前だろうか。

「本当なら主にそれを塗って、その足で向かえば良いのだろうが、如何せん残りが少ない。主の妹の怪我の具合にもよるだろうが、今ここで主に使ってしまうのは得策で無いと思うぞぇ」

「その為の僕だろ? いいから早く乗ってよ」

「うむ」

武人に促されて静奈は再びタンデムシートに納まる。

「静奈、乗った?」

「乗ったぞぇ、何時でも動かすが良い」

背後から返された声を確認して武人は再びバイクを走らせた。

花見月の必死な説明を受けた後では、自然とアクセルを開く右手にも力が入る。外灯も少ない木崎湖の畔に敷かれた田舎道を、気づけば彼は時速80キロを越えて疾走していた。免許を取ってから片手で数える程しかハンドルを握っていないのに、無理やりな速度超過に加えて三人乗りという、危険極まりない走行であった。だが、思いのほか武人の自動二輪の操作に関するスペックは高かった様だ。事故を起こす無く狭い道も巧みにコースを取っていく。夜の暗い道も、逆に対向車が少ないことが救いだった。

そして、神社を出発してから僅か数百メートルを走ると、道は国道148号線に合流するT字路に至る。そこを左に折れてから1キロ程度を進むと、前方に脇道が見えてきた。花見月の指示に従い左折で進入する。やがて2,3キロを進むと県道325号線に合流した。武人は後ろに座ったナビゲータが指差すとおり、合流地点を右に折れる。すると、目指す先は本格的に山岳部へと入っていった。県道とはいえ途中からは標識の類も姿を減らし始め、やがてアスファルトの舗装も無くなった。

そこから先は、既に道路と呼ぶ事もおこがましい、ハイキングコースにも満たないの代物が続いていた。本当にこんな所を進むのかと武人は一瞬躊躇する。だが、これはこれでバイクを捨てる良い口実が出来るのではないかと考えを改め、ガタガタと砂利道に揺れる車体を押さえつけながら、暗い山道、獣道へとハンドルを切っていった。

家を出た後で、車がガス欠ならばタクシーを呼べば良かったじゃないか、とも武人は考えた。しかし、これはバイクで来て正解だった。県道325号を後にして数分後、彼が走っている道は、とてもじゃないが車が走行できるような幅で無かった。

走行速度を徐行に近いほど落として走ってはいたが、道が狭まるに従って腕や足に木々の枝が当たり始める。矢面に立つ武人はTシャツ一枚の軽武装だ。堪ったものでない。周囲には2,3メートル間隔で雑多に樹木が生えている。下手をしたらハンドルを引っ掛けて横転しかねない。それまで走っていた道は、いつの間にか周囲の風景と同化し消えていた。文字通り山の中、である。

「ねぇ、後どれくらい?」

流石に限界を感じて案内役に問う。

「まだ、もう少し先なんだ」

「此処から先は歩いて行った方が早くないかぇ?」

「僕もそう思う」

静奈の提案に頷いて、武人はサイドスタンドを立ててエンジンを切る。後ろの二人も、タンデムシートから枯葉に覆われた柔らかな地面に飛び降りた。一度でもこの場を離れたのなら、二度と戻って来れない気もする。だが、それこそ武人の望むところである。義人には悪いが彼はバイクが嫌いだった。

「しかし、夜だけあって暗いのぉ」

「こんな事なら懐中電灯でも持ってくれば良かったなぁ」

自動二輪のヘッドライトが灯す明かりが無くなると、途端に周囲は真っ暗になってしまう。足元には木の根や草の蔦が至る所に蔓延っており、これでは下手に歩くことも出来ない。月明かりも背の高い広葉樹に隠れてしまい、根元までは僅かしか届かないのだ。

「どれ、灯りでも出すかぇ」

すると、そんな現状を笑って静奈が何気ないことのように呟いた。応じて彼女の周りにフワフワと浮かぶ、志向性の無い淡い光を放つ光源が幾つか現れる。これに驚いたのは武人だ。

「えっ!? ええっ!?」

素っ頓狂な声を上げて反射的に静奈から距離を取る。

「これが主等の言う狐火という奴じゃ」

御伽噺には良く聞くが、何の宣言も無く出されれば吃驚するのも仕方が無い。

「な、なるほど……」

現れた狐火の幾つかは静奈の下を離れて武人の周囲にも纏わり着いてきた。それ等に不安そうな眼差しを向けて武人が問う。

「これって、服を燃やしたりしないよね?」

炎の周りはほんのりと暖かい。

「勿論、触れれば火傷するぞぇ。じゃが、我が様子を見ているのだから、主が自ら触ろうとしない限り大丈夫じゃ」

「そ、そう……。ならいいけど」

静奈に習い、花見月もまた己の周囲に狐火を幾つか灯した。どうやら化け狐にとっては至って一般的な能力らしい。一つ一つは自転車のライト程度の明るさだが、それも数が集まれば、歩くには支障の無い程度に、周りの様子を確認出来るだけの光量となった。

「先へ進むぞ」

「うん」

そして、一同は花見月を先頭にして夜の山道を歩き始める。

「足元に気をつけろよ」

「うん」

「主こそ転んで薬を落す出ないぞ?」

「そ、そんなこと言われなくても分かってるっ!」

周囲には人家の類も存在しない。森には雑多な虫の鳴き声が延々と響いていた。それに三人が地を踏みしめる規則正しい音が加わる。時折、獣の咆哮の様なものが耳に届くと、驚いた武人がビクリと体を震わせた。

「ところで、さっき君は、妹さんは君を庇って敵から逃げ回ってるって言っていたけど、それなのにお互いの居場所が分かるものなのかい?」

武人はバイクを運転しているときから持っていた疑問を口にした。特に戸惑うことなく、自信を持って自分達を誘導する花見月の様子にそれまで黙っていた。しかし、やはり気になったのだ。

「それは大丈夫だ、こういうときに落ち合う場所はちゃんと決めてある」

「なるほど」

「だから、早く行かないと夢見月が一人で寂しい思いをしちゃうんだ」

それじゃあ、もしも君の妹さんが相手に捕まってしまったのなら、幾ら待っても君達は出会うことが出来ないんじゃないの? つい反射的に突っ込みを入れようとした所で、慌てて武人は口を噤んだ。そんなことは花見月だって十分に理解していることだろう。その上で、最後の望みをかけて足を動かしているのだから。

武人が黙った事で会話はそれっきりになってしまう。

元より面識も数える程しかないので、共通の話題も思い浮かばない。また、状況が状況なので安易な雑談は行なえる筈も無く、結果的に黙って歩く他に選択肢は失われた。静奈に関しては元より会話をするつもりがないのか、それとも相手に興味がないのか、黙って武人の後を歩いている。

ふと武人は足元に落としていた視線を上げた。自然と視界には花見月の小さな背中が入ってくる。言葉を交わさずとも、花見月の小さな背中からは激しい焦燥感がありありと感じられた。

そして、黙々と歩き続けて十数分が経った頃である。

先頭を進む花見月が急に声を上げて走り出した。

「見つけた、ここだっ!」

向かう先には一部分に暗く影を落とした巨大な岩肌の一角が見えた。どうやら洞窟があるらしい。周囲には縦横無尽に植物の茎が蔓延り、花見月に示唆されなければ見落としていただろう。

走り出した彼女の後を追って、武人と静奈もまた足を早くする。

「夢見月っ! 帰ってきたよっ!!」

行く手を遮る蔦をブチブチと引き千切りながら、目的の場所まで花見月は一直線に進む。

洞窟はそれほど規模の大きなものでは無かった。最奥まで十数メートル程度だろうか。その突き当たりに夢見月の姿はあった。静奈と花見月の狐火が、洞窟の壁に背を預けて座る夢見月を照らし上げる。

その姿を目の当たりにして、武人がヒィッと短く悲鳴を上げた。

同時に妹の名を呼ぶ花見月の悲痛な叫びが洞窟内に強く反響する。

「ゆ、夢見月っ!?」

どうやら彼女が思っていたよりも夢見月は深く傷ついていたらしい。ぐったりと力無く座る夢見月は、腹部を横に大きく右脇から左脇まで、一薙ぎに深く切り裂かれていた。裂傷の合間からはグロテスクな内臓器が顔をだしている。また、それ以外にも全身の至る所に長さ数センチ、深さ数ミリ程度の小さな切り傷が見受けられる。上に着る花見月とお揃いのTシャツは、既に下地の色が分からない程に紅黒く染まっていた。下に穿くデニム生地の丈の短いスカートも同様だ。それでも生きているのは、彼女が人外の化け物であるからだろう。

「は……、はなみ……づき?」

とはいえ、声色は今にも朽ちてしまいそうな程に弱々しい。

「薬を持ってきたよっ! これで助かるよっ!!」

花見月は大急ぎで夢見月の隣に駆け寄りしゃがみ込む。そして、静奈から渡された陶磁に容器を開けて、中に入っている薄緑色の軟膏を夢見月に見せた。クリームは容器の底に僅かに残るだけで、大半は使用された後であった。それを目の当たりにした花見月が背後に立つ静奈を振り返る。

相手の言わんとすることを理解して、静奈は彼女に先じて口を開く。

「大丈夫じゃ、それだけ残っていれば主等程度の化け物ならば全快するじゃろ」

「本当だろうなっ!?」

「今更嘘をついてどうする」

「わかった、塗ってみる」

「別に傷口に直接塗る必要はないからな? 傷口に近い皮膚へ塗りつけてやるといい」

「………」

他に頼るものも無く、花見月は人差し指へ容器に残った軟膏を全て取ると、静奈が説明した通り、腹部にある一際大きな裂傷に程近い臍の下辺りに塗りつけた。夢見月の白い肌に緑色の軟膏で短い線が描かれる。

「ぅっ!?」

僅かに触れられただけでも傷口が傷むのだろう。自然と眉間に皺がよる。化け物達の文化を知らない武人としては、そのような塗り薬をひと塗りした程度で何が改善されるのかと不安で仕方が無かった。

だが、彼の心配を他所に薬の効果は目に見えて顕著に現れた。

「あっ!」

まずその変化に気が付いたのは直ぐ近くで怪我の様子を見守っていた花見月だ。

横に大きく切り裂かれた患部の、左右にある始点と終点から中央に向かい、傷口が徐々にくっ付き始めていた。それに応じて、裂傷によって下にベロンと垂れていた肉が、徐々に元あった位置へと戻っていく。

「夢見月の怪我が治ってく……」

「おぉ……すごい」

薬の効能は、二人から数歩離れた位置で様子を伺う武人と静奈の目にも確認できた。

それはまるで、怪我が自然治癒される工程を早送りで見ている気分だった。たった一掬いの塗り薬がここまで劇的な効果を上げるとは、人間の常識ではまずもって信じられない。そして、開いた口が塞がらないのは武人だけでなく、花見月や夢見月も同様であったらしい。

「すごい、すごいぞっ!」

感極まった様子で、花見月は夢見月の身体を眺めて歓喜の声を上げる。夢見月にしても、己の身体に起こった変化が信じられない様子で、呆然と傷口が塞がっていく様子を眺めていた。裂傷が塞がって、痛みもまた弱まってきたのだろう。所見の苦しそうだった表情に若干の余裕が見られ始める。

「どうじゃ、言ったじゃろう?」

そんな三人の反応に満足して静奈は小さく笑みを浮かべた。

「すごいよ静奈、こんな薬があったなんてっ!」

まるで自分の事のように喜ぶ武人。

「うむ、これには我も危うい所を助けられたものじゃ」

夢見月の怪我は薬を塗ってから数分と経たないうちに完全に治癒された。後に残ったのは傷口から噴出して身体を汚す血液や臓器の組織片と、それに付着した土埃の類だけである。

「怪我が治っていく……」

つい先程まで傷口があった箇所を、夢見月は恐る恐る擦ってみる。

「主は武人を訪ねて正解じゃったのぉ」

妹の怪我が完治したのを見届けて、花見月がその身体に勢い良く抱きついた。口からは良かった、良かった、と安堵を伝える言葉が繰り返し呟かれる。己に抱きつく姉の頭を撫でながら、夢見月は自分の身体に起こった不思議が理解できずに困ったような表情を浮かべていた。

それからしばらくの間を、姉妹はお互いの体を抱き合って過ごした。そして、相手の体温を思う存分味わった頃だ。花見月がハッと思い出したように立ち上がり武人と静奈を振り返った。

「ありがとうっ! 二人とも本当にありがとうっ!!」

大きく頭を垂れて、激しく感動した様子で感謝の言葉を述べる。妹が助かったことが余程嬉しいのだろう。深く下げた頭を上げる際には、眦に湛えた涙が頬を伝って顎からポタリと落ちるのが見えた。夢見月の血液が付着して身体中が真っ赤になっていたが、それを気にした風も無い。

「花見月……、これは一体どういうことですか?」

そんな姉の後姿を見つめる夢見月は、一人だけ状況を理解出来ていない様子だった。何故に自分の怪我が治ったのか、何故に昼に見た人間と狐がこの場に居るのか、そして何故に己の姉が彼らに礼を述べているのか。

「夢見月、夢見月の怪我はこの狐がくれた薬で治ったんだっ!」

「この狐とは失敬じゃのぉ。我には静奈という名前があるぞぇ?」

「そう、この静奈がくれた薬で治ったんだっ!」

「……薬?」

「そうだよ、塗り薬だ。妙に良く効くって言ってたけど、本当に凄い効いて驚いたぞっ! こんなに凄い塗り薬は初めてだっ!」

武人の家を尋ねてきた時の悲壮感が嘘のように、まるで小さな子供の如くはしゃぎながら、花見月は事の顛末を断片的に説明する。それを慣れた様子で夢見月は整理しながら、己の身に起きた不思議を理解した。

「昼にあった貴方は、静奈という名なのですね」

「そうじゃ。我は静奈じゃ」

なるほど、と頷くと夢見月は自分の足でゆっくりと立ち上がる。

その姿を花見月は心配そうに見守るが、特に怪我を引きずっている様子は見られない。本人も逆に完治してしまったことに戸惑い、己の肉体を見下ろした。身体に付着した血液がポタポタと地面に滴り落ちる様は見ていて痛々しい。だが、既に傷口は完全に塞がっている。痛みも皆無であった。両手両足を動かして身体の調子を確認するが、特にこれと言って不具合も見つからない。

「本当に治ってしまったのですね……」

「うむ。それは妙に良く効く薬じゃからのぉ」

両腕を組んで、静奈はうんうんと頷く。

「つい今し方は、もう駄目だと諦めていました」

「あの様子では、そうじゃろうな」

静奈の言葉を耳にして、先ほど目の当たりにしたばかりの夢見月のグロテスクな姿を思い出した武人が小さく身震いをする。インターネットを利用する過程で、凄惨な光景を写した写真を目にする機会も度々あった。彼としてはそれなりに耐性を持っているつもりであった。だが、本物は圧倒的だった。

「治って良かったのぉ」

「はい、こうして再び元の身体に戻れて非常に嬉しいです」

一歩前に出て花見月の隣に並び、夢見月もまた大きく頭を下げて静奈に礼をした。

「ありがとうございます。貴方には幾ら感謝しても足りない程の恩を受けました」

「いや、礼を言うならばこの者に言うが良い。我はこの者の願いを叶えただけじゃ」

静奈が隣に立つ武人を指差して言う。

「そうなのですか?」

夢見月の凛とした蒼い瞳が武人を見つめる。

「………」

花見月と同じ顔の作りをしている筈なのに、身に纏う雰囲気の違いだろうか。目を合わせただけで、武人は自分が何か悪い事をした訳でもないのに身が縮こまってしまう。それは昼に人間が嫌いだと豪語していた彼女の姿を思い出しての事でもあるが、何よりも、彼にとっての彼女とは、熊にも勝る化け物なのである。

「私は、人間が大嫌いです」

「そ、そうですか」

唐突にも面と向かって再び、しかも堂々と宣言された。武人は緊張に声が裏返りそうになるのを必死で押さえて相槌を打つ。自然と逃げ腰になっている自分を律するだけのプライドも、彼女を前にすると砕けて消えた。

「私達の母親は人間の手によって殺されたのです」

「お、おい夢見月っ!」

妹の態度に慌てた花見月が声を上げる。対する武人は何と答えて良いのか、返す言葉も思い浮かばずに夢見月が話を続けるのを待った。もしもいきなり襲い掛かってきたらどうしよう、そんな事ばかりが頭を過ぎる。

「このとおり花見月が人間の世の知識を持たないのも、私がそうさせたからです」

「あ、あの、気に障ったようだったら僕は大人しく帰るんで……」

居た堪れなくなって、武人はおずおずと進言する。もしも彼女が同じ人間だったのなら、折角助けてやったのにその態度は何だ、と文句の一つでも言ってやるところだ。しかし、今は相手が相手だ。彼にそれだけの勇気は無かった。

けれど、そんな武人の女々しい発言を遮って夢見月の言葉は続けられた。

「ですが、貴方は例外なのかもしれません」

「え?」

ふと、彼女の顔の筋肉が緩んだのを感じた。

「この度は危うい所を助けて頂いて、本当にありがとうございました」

そして、武人の瞳を真っ直ぐに見つめる夢見月は、静奈にそうしたように、深々と頭を下げると礼を述べた。所々を血液や土埃で固めながら、それでも艶やかさを失わない銀色の長髪がフワリと宙を舞う。

「先刻の我々の憮然とした対応を目の当たりにされながら、こうしてわざわざ足を運んで下さるとは、まさに感謝の極みです。何度礼を述べても足りないほどです。本当にありがとうございます」

まさかそのように返してくるとは露とも思わず、武人はポカンとした顔になる。

「え……、あ……それはどうも……」

「それと、先刻の無礼は謝らせて頂きます。申し訳ありませんでした」

「い、いや、別に気にしなくてもいいよ。それに、実際に薬を持ってたのは静奈だから、僕はそこまで感謝される事もして無いし……」

他人から感謝される事に慣れていない武人は、頭を下げる夢見月の姿を前にして、慌てた様子で両手を振ると己の功績を否定した。しかし、そんな彼の謙遜を花見月が横から言い消した。

「それは違う。お前があの変な機械を運転してくれなきゃ、もしかしたら間に合わなかったかもしれないだろ? アタシは人間ってもっと怖いものだと思ってた。けど、お前は全然いい奴じゃないか。だから、本当にありがとう」

夢見月と共に花見月が再び頭を下げる。

「まあ、何にせよ助かって良かったのぉ」

まるで舞台の円満を確認した水戸黄門の如き台詞を口にして、静奈が静かに笑みを浮かべた。出向かうには否定的な態度の彼女であったが、なかなか満更でもなさそうだ。また、普段は他人に対して滅多な事では関心を持たない武人も、今はこうして夢見月を救えた事でちょっとした充実感を得ていた。人助けも偶には悪くないものだな、と柄にも無く考えていたりする。

それから、二人が頭を上げたところで、ふと思い出したように武人が花見月に尋ねた。

「ところで、なんで君は僕の家を知ってたの?」

それは彼女が彼の家を訪ねてきた時からずっと疑問に思っていたことだ。

「ん? アタシがお前の家を知ってた理由か?」

「玄関に君が居たときは本当に驚いたよ」

あの時の驚きは、彼にとってここ数年でも指折りの出来事だ。

「あ……、うん、いきなりでごめん」

「いや、別に攻めてる訳じゃないけどね」

武人の素直な感想を受けて、花見月は申し訳なさそうに謝る。それを慌てて否定する彼の言葉に続けて、彼女はおずおずと事の次第を口にした。

「初めてお前と会ったときに、風に飛ばされた紙を取ったことがあっただろ?」

「うん」

一昨日の夕方、JR海ノ口駅前での出来事だ。

「その時に見た地図を思い出したんだ」

「あの地図を?」

「そこに描いてあったのがお前の家だっていう確信はなかったけど、でも、他に頼れる奴も居なかったから、だから、もしかしたらって思って行ってみたんだ。場所は一応覚えてたし」

「な、なるほど……」

良くあれだけの短時間で地図の内容を記憶出来たものだと、武人は関心したように頷いた。時間にして数秒、一瞥する間しか無かった筈である。この少女、性格は幼く感じられるが、頭の出来はサヴァン症候群患者張りに優れているのかもしれない。もしくは、化け物という存在は得てして人間からすれば天才に見えるのか。今の話を聞いて、武人は彼女という人格に興味を持った。

「君って凄く頭がいいんだね」

「………そうか?」

武人の言っている意味が分からない、といった風に花見月は首を傾げる。

「さぁ、主よ。やることをやったのだから我等はとっとと帰るぞぇ」

そんな二人の会話を遮るように、隣に立つ静奈が踵を返して言った。

「下手に長居をして、こやつ等の言う敵とやらに見つかっては堪らんからのぉ」

「そ、そういえばそうだったね」

思い起こせば、二人は予想していたよりも遠くまで来てしまっていた。帰るならば早い方が良いだろう。再びバイクがある場所へ戻るにせよ、タクシーを呼んで帰るにせよ、何れの場合でも行きで歩いたのと同等かそれ以上の時間がかかるのは明らかだ。

「でも、二人は大丈夫なの?」

とはいえ、依然として脅威は残っているのだろう。再び襲われる可能性があるのに、既に静奈の薬は品切れだ。そんな状況下で二人を残して家に帰ることに、武人は若干の後ろ髪を引かれる思いがあった。

「気にするな、アタシ達も直ぐに場所を移すから」

「今日中に山を幾つか越えるつもりです。それに、私もやられてばかりではありません。少なからず相手にも手傷を負わせてありますので、脇を逃げる分にはきっと何とかなる筈です」

二人は朗らかな笑顔を浮かべて答えた。

「そう、ならいいけどね」

「帰り道を送ってやりたいのは山々なんだけど、アタシ達と一緒に居ると敵に見つかった時にやっかいだから無理なんだ。ごめん」

「ご迷惑をお掛けしてばかりですみません。このお礼はいつか必ず返させて頂きます」

済まなそうな顔をする姉妹に武人は小さく手を上げて応じる。

「別に気にしなくていいよ。それじゃあ、君達も元気でね」

そして、一足先に歩み始めた静奈の後を追った。

段々と遠ざかっていく武人と静奈の後姿を、花見月と夢見月は洞窟の際奥から見送る。静奈が灯した狐火の灯りが、段々と二人の視界で小さくなっていった。やがて緩いカーブを描く洞窟の岩壁に遮られて、その姿は見えなくなる。

此処まで事は恐ろしいほどに順調に進んでいた。武人も気分良く人助けをして、今日は心地よい睡眠が得られそうだと今後を楽観的に考えていた。しかし、彼らを取り巻く環境はそう簡単に気を許す時間を与えてはくれなかった。

それは静奈と武人が洞窟を出て直ぐのことである。

「ぬっ!?」

静奈がすぐ隣を歩く武人の腕を力いっぱい引っ張った。

「なっ!?」

肩の骨が外れそうな程の力で引かれて、静奈との大きな身長差から、武人は自然と地面に膝を強く打ちつけることとなった。応じて口からは痛みを訴える大きな悲鳴が吐き出された。

「痛ぁあああああっ!」

虫歯の治療で歯科医院へ行って、真顔で全身麻酔を要求する程に、武人は痛覚に敏感である。痛みに我慢を知らない彼の悲鳴は、夜の山中に大きく響き渡った。それに驚いた鳥達が数羽、ばさばさと翼を羽ばたかせて宙へ飛び立つ。

「なっ、何するんだよっ!」

何故に腕を引っ張ったのか、痛む膝を擦りながら静奈に抗議の声を上げる。しかし、相手は自分を見てはいなかった。擦り剥いてしまった膝小僧を手で押さえながら、一体何が起こったんだよ、と彼もまた彼女が見つめる方へ目を向ける。

すると、敵は居た。

「ええっ!?」

「主よ……、なんとも困った事になったぞぇ」

それまで武人が立っていた場所には敵の巨大な爪が突き刺さっていた。

「ちぃ……、仕損じたか」

全身が毛むくじゃらの、文字通り狼の頭を持った、二本の足で地に立つ人間を模した姿の化け物。所謂、狼男という奴であった。

「勘のいい奴だな」

蒼色の瞳がギロリと、武人と静奈を見下ろす。

頭から爪先まで全身が茶褐色の毛で覆われている。頭部は狼の頭そのもので、半開きの口からは鋭い犬歯が覗いていた。身の丈は義人と同程度だろうか。170センチの武人からすれば頭一つ分だけ大きい。しかし、人間を超越した筋骨隆々の厳つい体格と相まって、同程度の身長を持つ己の父親とは比較にならない程の圧迫感を感じる。

「ど、どうしたのですかっ!?」

「何が起きたんだっ!?」

武人の悲鳴を聞きつけて、洞窟の中から花見月と夢見月が走ってやってきた。

二人は狼男と相対する静奈、武人の姿を目の当たりにして愕然とする。

「折角追い詰めたっていうのに、余計な事をしてくれたもんだなぁ」

地面に刺さった爪を抜いた狼男は、全快した夢見月を眺めて憎々しげに言う。

「俺は見ていたぜぇ。なにやら変な薬を塗りつけたからだろう? とんでもない薬もあったもんだな? おかげで俺は仕事をやり直しときたもんだ。こんなことなら、暢気に眺めてないで素直に襲い掛かっていりゃ良かったぜ」

警戒して様子を見ていたのが仇になったな、と狼男は小さく付け加える。

「ぬぅ……、既に後をつけられておったか」

「俺の耳と鼻を舐めるんじゃねぇぞ。これだけ血の匂いを撒き散らしていれば嫌だって鼻につくんだよ」

そう言って狼男は濡れた鼻先をピクピクと動かしてみせる。

「まあ、お前がこいつ等を連れてやって来た時に居合わせたのは偶然だったがな。おかげで絶好の機会を失った。もう少し早く見つけてりゃ良かったんだがな……」

「外から聞き耳を立てて居たのかぇ? 厭らしい奴じゃのぉ」

「そうだ、俺はとびっきり厭らしい奴だぜ?」

ザッと地を踏んで、狼男が静奈と武人に向かい一歩足を進めた。

「お、お止めなさい! 貴方の標的は私達でしょうっ!? 何故にその者達を狙うのですかっ!」

「そうだぞっ!」

標的を二人に定めた敵に姉妹が吼える。

「なぁに、仕事とは関係ない。ただの憂さ晴らしってやつだよ」

狼男は前に一歩踏み込むだけで、容易に腕が届く所に静奈と武人を捉えた。対して花見月と夢見月の立ち位置は、そんな三人から十メートル近く離れていた。どちらが先に対象へ手をつけることが出来るか、答えは明白である。

「主は何故にこやつ等姉妹を狙うのかぇ?」

渋い表情を浮かべながらも、それまでと変わらぬ口調で静奈が狼男に語りかける。

「何故かって? そりゃ仕事に決まってるだろ? 別に俺だって好き好んで、こんな極東の島国の片田舎まで足を運んだりしないさ」

「誰か、こやつ等の存在に迷惑している者が居るのかぇ?」

「ま、そういうこったな」

狼男を前にして、武人は言葉を発する事もできず、今にも失禁してしまいそうな程の恐怖に打ち震えていた。膝が見っとも無くガクガクと震えている。こんなことなら静奈の言うとおり家で大人しくしていれば良かったと、早くも後悔の念に苛まれ始めていた。脳裏に浮かぶのは、先ほど目の当たりにしたばかりの、死に掛けた夢見月の凄惨な姿だ。

「なぁ、夢見月……」

狼男を視界に捉えたまま、花見月が妹の名を呼ぶ。

「ええ、分かっています」

自分を助けてくれた者達が、今度は逆に命の危機に晒されている。しかも己等が原因に寄ってである。義理と人情と是とする姉妹は決して二人を見捨てることなく、油断無い眼差しで狼男の一挙一動に神経を集中させていた。

「敵は右足に負傷を負っています。狼男の再生能力を持ったとしても、未だ完全に癒えていることは無いでしょう。私達に勝機があるとすればその一点です」

夜の暗がりの下では、患部が深い体毛に覆われている為に負傷を視認する事は叶わない。しかし、昼に至近距離で眺めたのなら、狼男の右足の太股、その外側には骨に皹が入ったことで浮かび上がった大きな腫れが確認出来ることだろう。

「花見月は怪我をしているでしょう? ここは私が出ますので補佐をお願いします」

「おう、任せろっ!」

そんな二人の会話を耳にして、狼男は耳まで裂けた大きな口で、ニヤリと笑みらしきものを作ってみせる。

「たしかに、怪我をした俺と全快のお前とでは些か不利だな」

「それが理解できるのでしたら大人しく去りなさい」

狐火に淡く照らされた深い蒼色の瞳が、狼男を鋭く睨みつける。

「そうは言われても、こっちも後に仕事がつっかえてるんだ。ここで時間を無駄にするわけにはいかないんだよ」

「ですが、ここで朽ちれば仕事も何もありませんよ」

「おぉ、怖いねぇ……」

おどけた調子の狼男に夢見月の蟀谷がピクピクと引き攣る。

「しかし、一体どんな薬を塗ったらあの怪我が治るんだ? 普通じゃ無いだろ」

「それを私達が貴方に教えるとでも?」

花見月は静奈から貰った塗り薬の容器を後ろ手に隠してぎゅっと握る。

「ま、それもそうだな」

彼自身も彼女等の口から詳細が聞けるとは思っていなかった様だ。ただ純粋に疑問を口にしただけで追求を諦める。しかし、彼の言う仕事に関しては、一切譲歩するつもりは無いらしい。

「案外、さっきのは避けてくれて助かったかもしれないな」

また一歩二人に近づいた狼男の鋭い爪の生えた手が武人に伸びる。手の平は人間のものと比較して二周り以上の大きさがある。加えて指先から伸びた爪は、それぞれ長さが5センチ程度あり、まるで小さなナイフが並んでいる様だった。

「い、痛っ!」

急に動き出した狼男に、武人は呆気に取られたまま、満足に逃げる事も叶わず捕まってしまった。二の腕を鷲掴みにされて自然と悲鳴が上がる。狼男自身はそれほど強く掴んだつもりも無い。しかし、脆弱な彼の身体は容易に根を上げた。それだけ両者の間にある身体能力の差は圧倒的であった。丸太の様な腕に引かれて、武人の身体は狼男の元まであっさりと引き寄せられる。

「そこの相棒は狐火なんぞ灯しているが、少なくともコイツは人間だろう?」

「ま、待ちなさいっ!」

武人の悲痛な叫びを耳にして、夢見月の足が自然と前に出た。

しかし、それをすんなりと許す狼男ではなかった。

「おおっと、それ以上近づくんじゃねぇぞ」

異様に発達した爪の先端が武人の喉下に突きつけられる

「ひっ!?」

情け無い悲鳴が上がった。

「それ以上近づきやがったら、こいつの首が落ちるぜ?」

「こ、この……、卑怯な」

武人を人質に取り憮然とした態度の狼男に、夢見月は忌々しそうに顔を歪める。鋭利に尖った爪の先が武人の首の薄皮一枚を破った。紅い雫がつぅっと首筋を伝い、Tシャツの襟を小さく染めた。

「その者を離しなさいっ!」

「誰が放すかよ。これを放したが最後、俺はお前に殺されちまう」

手中に収めた人間が実際に人質として機能することを確認して、狼男は満足気な笑みを浮べる。あまりの恐怖に武人はカタカタと震える事しか出来ない。眦には薄っすらと涙が浮かんでいた。

「そいつは関係ないだろっ!? 手を放せよっ!」

「いんや、関係大有りだ。コイツが来なけりゃ、今頃、俺はお前等を殺して、清々と仕事を終えてたんだからな。折角、久しぶりに一杯やろうと思った所だってのに、とんだ邪魔者が入ったもんだ」

「だからと言って人質に取るなどと……、卑怯な真似は止めなさい」

「卑怯だろうとなんだろうと、俺は仕事さえ終わればいいんだよ」

「正々堂々と勝負しろッ! この犬野郎っ!」

「ふん、狐風情が俺を犬呼ばわりとは笑わせてくれる」

狼男は二人の言葉など聞く耳を持たぬ。何があってもこの場で武人を返すという選択肢は無いらしい。花見月のあからさまな挑発も軽く受け流した。そして、何気なく花見月と夢見月から静奈に視線を移して、ふと呟く。

「それにしても、化け狐に人間とはまた、珍しい組み合わせもあったもんだな」

「し、静奈っ!」

精一杯の勇気を振り絞って、武人が助けを求め叫んだ

だが、静奈はピクリとも動かない。

「その者をどうするつもりじゃ?」

あくまで冷静に、狼男へ問う。

「別に今すぐにどうにかするつもりは無いさ」

敵は長い刃物の様な人差し指の爪を、ヒタヒタと武人の頬に当てる。彼の顔に浮かぶ余裕の笑みは、それが狼のものでありながら、向き合う一同の目にも容易に理解できた。冷たい爪の感触を受けて、武人の口からは自然と情け無い悲鳴が漏れる。

「何するつもりだよっ!!」

「だから今は何もしないと言っただろう? いちいち吼えるなよ」

「では、後でどうするつもりですか?」

今にも飛び出していきそうな花見月を片手で制して、夢見月が一歩前に出る。

「なぁに、お前等が俺の言う事を素直に聞くならどうもしないさ。外から話を聞いていた感じ、コイツはお前の命の恩人らしいかなら。まさか、我が身可愛さに見捨てたりはしないよな?」

「っく……」

夢見月が憎々しげな表情を浮かべる。

「……何が望みですか」

「そんなこと言われるまでも無いだろ?」

「この場で死ねと?」

「まさか、流石に俺もそこまでの無理は言わないさ。知ってるか? 自分より強い敵を追い詰めるときは、必ず一つだけ抜け道を用意しておいてやるんだよ。そうじゃないと現実を見失って我を失った相手が何をしてくるか分からないからな」

「だったらどうしろと言うのです」

「簡単な話だ。コイツを返して欲しかったら、そこのお前」

狼男が花見月を顎で指す。

「な、なんだよっ!!」

「俺はお前等の住処で待っている。だから明日の昼過ぎにお前一人で来い」

「ア、アタシ一人でだとっ!?」

「その頃には俺の脚の怪我も治っているだろう。お前達を一度に相手にすると、読んで字の如く骨が折れるからな。一人ずつ順番に殺してやるよ。正々堂々と一対一で勝負しようじゃないか」

「ひ、卑怯な……」

「まあ、別に来たく無いなら来ないでもいいけどな。その代わりこの人間は死んで、話は振り出しに戻るだけだ。そして、仮にお前達がこの人間と住処を捨てて逃げ出したとしても、何れは見つけ出して始末してやる」

その後ろには、仕事だからな、と短く付け加えられた。

狼男と姉妹のやり取りを、武人は惨めにもガクガクと身体を震わせながら見つめていた。彼の言う「死んで」という語句が強く響いたのだろう。言葉を発しようにも、震える舌先では上手く喋る事ができない。口を開けばカチカチと歯を打ち鳴らすばかりである。ただ、その瞳だけが静かに周囲の者達へ助けを求めていた。

「主への仕事の依頼主は誰じゃ?」

「それを俺が素直に答えると思うか?」

「場合によりけりじゃ」

狼男の手かかれば、武人にしても静奈にしても、大した抵抗も出来ないまま瞬く間に散るだろう。しかし、それを理解してなお、静奈は気丈な振る舞いをそのままに挑む。身体能力こそ低いが、武人とは違い肝の据わった性格をしていた。

「なら今回は諦めな」

「ぬぅ………」

とはいえ、打開策を得ることは叶わない。

策は尽きたと静奈の肩も小さく落ちる。

「それと先に言っておくが、もし約束を破って二人揃って来たりしても、この人間は殺すからな。山の中で幾らでも隠れる所はあるだろうが、狼の耳と鼻を舐めるなよ?」

花見月と夢見月も武人を人質に取られては手も足も出ない。悔しそうな表情を浮かべるも、今は素直に従う他無かった。そんな彼女等の様子に満足したのか狼男は楽しそうに口元を歪める。そして腕を掴み拿捕していた武人を脇に抱えると、踵を返すことなくゆっくりと後ずさるように三人から距離を取り始める。

「っ!」

反射的に追いかけようとした花見月を夢見月が肩に手を置いて制した。

「相手を刺激すると危険です」

「でも……」

「それじゃあ、明日の昼にお前等の住処だ。遅れるなよ」

そして、十分な距離が取れたことを確認して狼男は三人に背を向けると、武人を抱えたまま勢い良く走り出した。その後姿を静奈、花見月、夢見月の三人は、黙って見送るしかなかった。

「さ、佐藤さん……、これってどういうことなんでしょう」

「いや、私にもさっぱり分からんよ」

武人のバイクを追って山道を歩いていた二人の警察官で出くわしたのは、狼男によって連れ去られた武人が捕まる、花見月と夢見月の住処だった。途中で車を乗り捨てて山道を歩くこと数十分、そろそろ諦めて帰ろうかというところで、山中で妙に開けた場所を見つけたのだ。そして、一体何があるのかと気になり足を運んだところ、そこに立つ小さな掘っ立て小屋と、内に灯った小さな明かりを見つけた次第である。

こんな山奥に家があるのかと不思議に思い、二人は窓ガラスから中を覗いてみた。すると、そこには荒縄グルグル巻きにされた武人の姿があった。両腕の上から幾重にも巻かれたロープは、一端が小屋の中央に立つ柱に繋がれている。そんな彼の姿を目の当たりにして二人の警察官はお互いに顔を見合わせていたのだった。

「何で彼が捕まってるのですかね?」

「そうだな……」

若年の警察官に問われて、佐藤と呼ばれた年配の警察官は顎に手をあて考える素振りを見せる。とはいえ、彼は狼男や化け狐の存在を知らない。脳裏に思い浮かぶ推測はどれも人間の常識に沿ったものであった。

「これまでの事件が組織犯で、その仲間割れってところか」

「やっぱりそうですかね」

「あとは、ただ単純に別の事件に巻き込まれただけか……」

二人はガラス越しに室内の様子を伺う。武人の他に室内には人の姿も見られない。どうやら彼を縛り付けた者は現在この小屋から出払っているようだった。

「中に入ってみますか?」

「ああ」

十数平米程度の小さな小屋だ。形は大凡正方形の平屋建てである。外見は小奇麗に掃除されており、小屋の周囲には小さな花壇があった。彼等はそれを遠慮なく踏みつけながら壁に沿って移動する。すると直ぐに玄関らしき扉が見つかった。扉は平均的な身長の成人男性である二人にとって、多少窮屈に思える大きさをしていた。

「それじゃ、開けますよ?」

若手の警察官が率先してドアノブに手を伸ばす。

しかし、彼の問いに対して返事は頭上からやって来た。

「駄目に決まってるだろ?」

「っ!?」

ぎょっとした二人の顔が上を向く。

小屋の玄関には庇など付いていない。声の主は屋根の上に立って二人を見下ろしていた。黄色人種にはありえない白い肌と、短く借り上げた茶色の髪の毛が彼等の目に強く止まった。中々にハンサムな男性で、年の頃は20代前半と言った所か。黒色のタンクトップにジーンズというシンプルな出で立ちをしている。

「お、お前はこんな所で何をしているんだっ!」

反射的にドアから離れた二人のうち、若年の警察官が声を大きくして叫ぶ。

「何してる? それはこっちの台詞さ。人の家に勝手に入るなよな」

「ここはお前の家なのか?」

「そうだと言ったらどうする?」

「中に居る人間に用がある。私達は警察だ、このドアを開けなさい」

若い警察官がズボンのポケットから取り出した警察手帳を突き出した。

しかし、男はまるで怯んだ様子も無く、それどころか笑みを浮かべおどけて見せた。

「それがどうした? そんな紙の束で何ができる?」

「な、なんだとっ!?」

警察官であることにある種の優越感を持っている若年の警察官は、それで一息に頭に血が上ってしまう。そんな同僚を宥めるようにして老年の警察官が一歩前に出た。同様にズボンのポケットから手帳を取り出し見せて口を開く。

「この小屋の中の様子は外から確認させて貰った。君がこの家の主だというのなら、状況にも寄るが略取・誘拐罪で現行犯逮捕することになる。大人しく我々の指示に従いなさい。そうでなければ此方もそれ相応の対応を取らざるを得ない」

犯罪者を前にして落ち着いた口調で状況を説明する姿は、彼がそれ相応の経験を積んだ警察官である事を示していた。しかし、今回ばかりは相手が悪かった。相手が人外の化け物とあっては、幾ら人の法を振りかざした所で何の意味も無い。

「上からはあんまり派手にやるなって言われてるからな。お前等みたいな役人の類は相手にしたくないんだよ。大人しく帰るって言うなら生かしてやってもいいが……、なぁ、どうするよ?」

そう言って男が屋根の上から飛び降り地に立った。

「貴様、誘拐犯のくせに何様のつもりだっ!」

自分が見下されたと思ったのだろう。

同僚の制止を振り切って若年の警察官が足を動かした。

「大原君っ!」

制止の声も虚しく、大原と呼ばれた彼は男に殴りかかる。

「このっ!」

硬く握られた拳が男の顔目掛けて迫った。だが、今まさに殴られようとしている側は、焦る素振りも見せずに安穏と一撃を迎える。ただ、何気ない動作で相手の拳の延長上に自分の手の平を置くだけだ。

「人の話はちゃんと聞けって親に習わなかったのか?」

ペチっと情け無い音を立てて二つがぶつかる。男は己の手中に収まった拳を、それより一回り大きな手で上から握り締める。その握力は凄まじく、拳を打ちつけた警察官の眉間には自然と皺が寄った。

「な、なんだとっ!?」

「居るんだよな、お前みたいな弱いくせに口ばかり達者な奴が」

「この野郎ぉっ!」

拳を掴まれた腕に力を込めるが、ギリギリと徐々に圧力を加えてくる男の大きな手からは逃れられそうに無かった。それがまた、彼にとっては堪らなく憎たらしく、屈辱的だった。

「これで殴ったつもりか? 子供の喧嘩のがまだマシなんじゃないか?」

「っ!?」

そして、たった数回のやり取りで彼は容易にキレてしまった。

掴まれた一方の手はそのままに、躍起になって、もう一方の腕を振り上げる。狙う先は同様に顔である。彼は日本人男性として平均的な身長を持っているが、男はそれよりも頭一つ分だけ高い。それなのに無理をしてまで顔を殴ろうとするのは、相手を憎く思う気持ちゆえだろう。

「身の程知らずは嫌いだねぇ」

「死ね、犯罪者がっ!」

彼の全力を込めた二撃目は、残念ながら今度は何に触れることも無く終わった。

何気ない動作で上げられた男の足が彼の脇腹を横から蹴りつけたのだ。警察官として体格に恵まれなかった彼は、その一撃に耐え切れず地へ倒れると、顔から地面に突っ伏した。顔面を強く打ち付けたことで口からは自然と悲鳴が漏れる。

「い、痛いっ! 痛いぃっ!!」

とはいえ、それほど酷い怪我を負った訳でも無い。顔に幾つか掠り傷と、鼻の骨が多少曲がった程度である。しかし、彼にはかなり堪えたらしく、両手で顔面を押さえて痛い痛いと叫びながら地面の上を転げ回っていた。

「言っておくが、先に手を出してきたのはそっちだからな?」

「君は自分がしたことを理解しているのか?」

「当然」

余裕の笑みを浮かべる男に、老年の警察官は判断を決めかねていた。同僚を蹴りつけた足の動きは見事なもので、そろそろ引退も近い彼には男を止めるだけの力も無かったのだ。加えて、彼は私服なので警棒や手錠の類も持ち合わせていない。幸い携帯電話はポケットの中に財布と共に入っているが、今から応援を呼んだところで間に合う筈も無い。

「それで、アンタはどうする? 町に戻って仲間でも呼んで来るのか?」

「…………」

それ以外に彼の取れる選択肢は無いだろう。とは言え、それは結局のところ彼を逃すことに同義だ。残念ながら幾ら考えを巡らせても良い答えは出てこなかった。幾ら肩書きが警察官であるとは言え、群れていなければただの人間に過ぎない。

「けど、今は人を呼ばれると困るんだよなぁ……………」

そう呟いて、男は足元でのた打ち回る警察官の後頭部を足の裏で押さえつけた。

「んぐっ!?」

応じて大地と熱いキスを交わすこととなった若年の警察官がくぐもった悲鳴を上げる。

「もし、このことを誰にも言わないと約束するなら、お前は助けてやるよ」

「んぅぅうううっ! んんぅううううっ!」

苦しそうな声が男の足元から上がる。

「でも、誰かに口外したらこうだ」

警察官の頭の上に乗せられていた足に力が込められる。

そして、次の瞬間、一体何をするつもりだろうと身構えていた老年の警察官の目に、とんでもない光景が飛び込んできた。グシャっと気味の悪い音を立てて、足の下にあった若年の警察官の頭が踏み潰されたのだ。

「っ!?」

男の足の裏は頭蓋骨を突き破り地面に達する。頭部を完全に破壊されていた。勢い良く飛び出した血液や脳内組織が、少し離れた位置に立つ警察官の足元までベチャリと飛んでくる。

「ぅぉおああっ!?」

鼓膜が痛くなる程の大きな声で叫ばれた老年の警察官の低い悲鳴が、夜の山に遥か遠方まで響いた。慌てて後ろへ飛び退こうとした彼は、その勢いにバランスを崩して地面に尻餅をついてしまう。

「この男は捜査中に山で逸れた事にでもしておけ。でなければ次はお前の番だ」

クックックッと楽しそうに笑う男を前にして、地に手を着いた彼はカクカクと首を縦に振ることしか出来なかった。どうやら腰が抜けてしまったらしい。それまでの警察官としての威厳は何処へ消えてしまったのか。彼にしても、40年近い警察官としての生活の中で、生命の危機さえ覚える危ない橋を渡ることは幾度かあった。しかし、そんな彼の経験など足元にも及ばない圧倒的な恐怖がそこにはあった。彼の前に現れたのは純粋な死への恐怖である。

「ならばさっさと去れ。俺の気が変わらぬうちにな」

冷たく告げられて、彼は満足に立ち上がることも出来ずに、口元に垂れた鼻水を拭くことさえ忘れて、惨めにも腰を引きずりながら、身を引きずって木々の茂る森の中へと消えていった。

その後姿を確認して男は吐き捨てるように呟く。

「ったく、面倒事ばかり転がり込んできやがる」

警察官の血液やら何やらで汚れてしまった己の足を不満そうな目で見つめる。その苛立ちを晴らすかのように、既に事切れてピクリとも動かない足元の亡骸を、彼は力いっぱい木々茂る森の中へと蹴り飛ばした。

それから数秒後、遥か遠くからドサリと遺体の落ちる小さな音が聞こえてきた。