金髪ロリ達観クールラノベ 第一巻

第四話

狼男に武人を連れ去られてから暫し、静奈、花見月、夢見月の三人は交わす言葉無くその場で押し黙っていた。特に花見月と夢見月が強い自責の念を感じていることは、二人の隣に立つ静奈にもありありと感じられた。

場所は傷付いた夢見月が狼男から身を隠すのに利用した洞窟、その入り口から動いていない。ただ、ジッと立ち尽くして、時間だけがゆっくりと流れていた。しかし、そうしていても何も始まらないのは各人共に良く理解している。澱んだ空気の流れを変えるべく、花見月が大きな声で叫んだ。

「アタシは行くぞっ! 夢見月の命の恩人なんだから助けに行くのが当然だっ!」

腰下まで届く長い銀髪を揺らして、遥か遠く狼男が去っていった森の闇を睨みつける。

そんな姉の言葉を受けて、妹の夢見月が口を開いた。

「でも、花見月は怪我をしてるのです。その身体で再び敵と相まみえて勝機があるのですか? 自ら殺されに行くようなものです。私は貴方の妹として、それを黙って見過ごすことは出来ません」

「まさか、夢見月はアイツを見捨てるつもりなのかっ!?」

「いいえ、そんなつもりは毛頭ありません。でも、夢見月が行くのは反対です。ですから、彼を助けに行くのは私の役目です。恩を受けたという意味では、私の方が遥かに大きな恩を受けたのですから」

「けど、あの野郎はアタシに一人で来いって言ったじゃないかっ! それなのに夢見月が行ったりしたら、アイツが殺されちゃうかもしれないだろっ!? アタシだったらまだ全然平気なんだっ!!!」

花見月は健気にも両手両足を激しく動かして己の健常をアピールする。だが、傍から見ていても、そこには明らかなぎこちなさが感じられた。

数刻前にも語られたとおり、昼前のスーパーで武人達と追いかけっこをした後、家に帰る道中で偶然にも狼男と鉢合わせてしまった彼女は、敵と一人で戦い、足に怪我を負ってしまったのだ。

そんな彼女に対して、いち早く夢見月の言わんとすることを理解した静奈が誰に言うでもなく呟いた。

「例えば、我は主等が同じ格好をして互いに並び立たったとしても、どちらがどちらなのか判別することは出来ぬ。それは例え相手が狼男であったとしても、同じ事が言えるのかぇ?」

静奈の問いに深く頷いた夢見月が一歩前に出る。

「私と花見月は生まれてから今日に至るまで、ずっと一緒に暮らしてきました。私は花見月の全てを知っています。それが、高が数度顔を合わせただけの犬如きに破られるような脆い絆であるとは思いません」

自身に満ち満ちた瞳を向けて語る夢見月を前に、静奈は花見月へ向き直った。

「そういうことじゃ。主は満足に走ることも叶わない程に疲弊しているのだろう? 今はこの妹に任せて身体を休めることだ。これだけ豪語して見せたのだから主も信じてやれ。きっと上手くやってくれることじゃろう」

「で、でも……」

それでも不安げな瞳で問いかけてくる花見月を安心させるよう、夢見月は姉の顔を胸に抱きしめた。こうしていると、どちらが姉でどちらが妹なのか分からなくなってくる。

「私は誰よりも花見月を知っています。ですから、絶対に彼を助け出します」

優しく耳元で囁く。

「夢見月………」

そんな姉妹を傍から見つめて、静奈が少し寂しそうに言葉を漏らす。

「我にもっと力があれば良いのじゃが、それも今となっては叶わぬ夢か……」

尻尾一本の彼女にとっては、せいぜい小さな狐火を灯り代わりに出したり、人間を騙したりする程度が関の山だ。身体能力にしても、一般人には勝るが花見月や夢見月と比較したら格段に劣る。狼男の相手など到底出来る筈も無い。

すると、彼女の呟きをどのように受け止めたのか。抱擁を解いた二人が慌てた様子で口を開いた。

「私達のせいで、彼をとんでもない危機にさらすことになってしまって、これは何度謝ったところで許されるものではありません。ですが、必ずや助け出して見せます。どうか今は時間を下さい」

「静奈、………ごめん」

二人がは並んで深く頭を下げる。

「まあ……、過ぎてしまったものは仕方無いぞぇ。我も武人にはこうなることを事前に忠告していたゆえ、言ってしまえば自業自得な面もある。ただ、問題があるとすれば、このことを奴の親父になんと伝えるべきか」

彼のことだ、息子が他所で一泊しようが二泊しようが大して動じる事はあるまい。しかし、これは一泊二泊どころの話ではない。正直に全てを話すべきか、それとも適当にはぐらかしてしまうべきか。悩む静奈に夢見月が言った。

「全ては私に原因があります。もしも彼の家まで戻るというのなら、共に連れて行ってください。説明は私がします」

「あ、アタシだってちゃんと謝るっ!!」

自分の胸に手を当てて是が非でも、といった口調で語る夢見月。妹に遅れることなく声を大にして言い張る花見月。そんな二人を前にした静奈は早々に考えを纏た。

「いや、わざわざ面倒をかけて心労を増やすこともあるまい。主等が助けるというのだ、助かってから事後報告をすれば良いだけの話じゃ」

これから挑もうとする敵に対して、夢見月はつい先ほど負けている。そんな彼女が時間を置いたからといって、今度は勝利することが出来るのか。大きな疑問を抱えたまま、静奈は今後の身の振り方に一考するのだった。

それから、他に行く当ての無い三人は一晩を洞窟の中で過ごした。

その夜、警察官である佐藤正志は悩んでいた。

山中で遭遇した誘拐事件と、犯人による同僚の殺害。

不可解な事件を前にして頭を悩ますことは、警察官として日常茶飯事だ。しかし、今の彼の悩みは、過去に経験したそれらとは一線を駕していた。すなわち、今後の己の身の振り方である。

「…………」

既に子供達も独り立ちし、現在は一戸建ての住居に妻と二人で暮らしている。その妻も深夜三時を過ぎた今となっては既に床へ就き、隣で静かに寝息を立てていた。彼はその隣でパジャマに身を包み、布団の上に横になったまま、どうしようもなく冴えてしまった思考に頭を悩ませているのだ。

犯人は人間の頭蓋骨を足踏み一つでへし折った。

佐藤は己の頭をふって良くない恐怖を振り払う。つい数時間前に見たばかりの光景は、今も鮮明に脳裏にこびり付いている。骨の合間から飛び出した眼球が彼の元へ飛んでくる。忘れる事の叶わぬ記憶は十中八九、今夜の夢に出てくるだろう。その恐怖に急かされて、彼は山から家までを逃げ帰ったのだ。

だが、家に帰って妻の作った夕食を食べて、風呂に入って、今日はもう寝ようと布団に横になる、これら一連の流れの中で、幻想にも近い悪夢の様な先の出来事は、しかし、順を追って整理していくうちに、現実的に彼の中で処理され始めたのだ。山中での起こった出来事のあらましを頭の中で反芻しているうちに、自然とそれは、彼にとって事件としての色を強めていった。

足元を血に濡らした犯人の薄ら笑い。

フラッシュバックする映像はどれも恐ろしい。とはいえ犯罪というのは得てしてそういうものである。記憶を整理するうちに、彼は自然と己にそう言い聞かせるようになっていた。それは高校を卒業してから今に至るまでの四十年近い年月を共に過ごしてきた、警察官としての己の正義感によるものである。

つい先刻は犯人を前にして腰さえ抜かしてしまった。あともう少し脅されていたのならば、きっと無様にも失禁していただろう。だが、喉元過ぎれば熱さを忘れる、とは良く言った言葉で、帰宅後に時間を置いてみれば、そこに残ったのは同僚を置き去りにして逃げ帰ってきた己への自責の念である。このまま犯人を放っておけば、更なる被害が出るかもしれない。そう考えると、彼としては居ても立ってもいられない感覚に襲われた。そう、自分が恐怖に慄いたせいで、他の誰かが命を落すかもしれないのだ。

脳内組織を撒き散らして紅く染まった、ピクリとも動かない身体。

警察官として、損傷の激しい遺体を目の当たりにする経験は多々あった。電車に引かれて原型も分からぬ肉塊と成り果てたサラリーマン、屋上からの飛び降り自殺で全身がひしゃげた女子高生、不良に体中を滅多打ちにされたホームレス、数えれば結構な数に上るだろう。

それら凄惨な過去の情景を思い出すと、今回の出来事も、まだ太刀打ちできる気がしてきたのだ。もしも、彼と彼の同僚が相対した男が本来の姿を露としていたのなら、彼もこうは思うまい。しかし、運悪くも目の当たりにした相手は自分と同じ人間で、彼にとっては世に居る誘拐犯罪の犯人の一人に過ぎなかった。

時間が経つにつれて恐怖は徐々に遠のき、そして、次いで鎌首を擡げたのは己の社会的な役割と責任への念である。同僚を殺されながら、こうして一人安穏と布団に横になっている。それが、警察官としての彼の中で大きな汽笛を鳴らしていた。

なによりも、彼がこうしている間にも、犯人が隠れ蓑とする山小屋の中では、誘拐の被害にあった者が縄に巻かれて助けを待っているのだ。その精神的かつ肉体的な苦痛は、警察官としての教育を長年にわたって受けてきた彼にとって、決して無視できないものであった。被害者は別の事件で容疑をかけられている。けれど、だからと言って法の裁きも無しに人権を無視されるような事があってはならない。

情けなくも犯人に背を向けて逃げ帰る自分。

その夜は彼にとって非常に長いものに感じられた。掛け時計の発するカチコチという音が嫌に耳につく。それをBGMとして、彼は犯人の姿に感じる恐怖を少しずつ拭い、そして、己のなすべきことを幾度と無く自身に語りかけた。静かな夜の寝室で、布団に横たわる彼は、それから睡魔に襲われ意識がなくなるまでの間で、少しずつ自分の取るべき結論を導いていった。

翌日は一学期の期末試験があった。

しかし、どういう訳か教室に転校生の姿が見え無かった。初日の今日は英語と数学、それに物理という三科目の予定であったが、転校生の芹沢武人はその全てに顔を出すことなく終わった。そして、学校は午前授業により午前11時半を少し過ぎたあたりで下校時間となる。風邪でも引いたのかと心配した担任が自宅へ連絡を入れたが、受話器は誰にも取られること無く、留守番電話の録音テープが繰り返し流されるだけだった。

そういう訳で、比較的家の近い山野と柳沢に白羽の矢があたった。

「ったく、どういう神経をしてるのかしら」

「病気で寝てるのかもしれない」

「それだって、電話くらい取れるでしょう?」

「分からない」

二人は担任から言伝を預かり、一路武人の自宅を目指していた。

「まったく、明日も試験はあるっていうのに」

「そうね」

学校から歩いて信濃大町まで向かい、そこから大糸線を利用してJR海ノ口駅へとたどり着く。すると、下らない愚痴を駄弁りながら駅舎から出てきた二人の目の前に、幾台ものパトカーが止まっていた。付近の道路を巡回中のパトカーなら間々見る。しかし、こうして十台近いパトカーが並ぶ様子は、このような片田舎には珍しい光景だった。

「何か事件かしら?」

「かなりの数ね」

パトカーは路上に散在して停車し、その周囲を慌しく警察官達が動き回っている。何か大きな事件でも発生したのだろうか。二人はふと立ち止まり、その様子を遠巻きに眺めていた。すると、そんな二人の姿を目に留めた警察官の一人が彼女達の元へと向かってくるのが見えた。

「あれ? あの警察官って前に芹沢君の家に来てた人じゃ……」

「そうみたい」

お互いに視線が合うと、相手が軽く手を上げてみせた。

「こんにちは、私のことはまだ覚えているかな?」

二人の下までやって来た警察官が声をかけてくる。

それに山野と柳沢は小さく会釈を返した。

「先の件で、自宅と芹沢君の家とで二度ほどお会いました」

答えたのは山野である。

「覚えていてくれて幸いだ」

彼女達の下へやって来たのは、若い警察官と共に芹沢宅を訪れ、彼や山野、柳沢へ事情聴取を行なった老年の警察官であった。山野に関して言えば、彼女の両親が経営するコンビニエンスストアへの強盗事件を担当していた警察官でもある。確か、名前は佐藤と言ったか。顔には深い皺が幾つも刻まれており、頭には白髪が目立つ。きっと引退も近いことだろう。

「何か事件でもあったんですか?」

早速、柳沢が尋ねにかかる。

すると、彼は渋い顔をして逆に質問を返してきた。

「少し尋ねさせて欲しいんだが、君達は昨日あれから、芹沢武人君と最後に別れたのは何時くらいだったか覚えているかい?」

そんな相手の態度にムッとしながらも、周囲の警察官達の只ならぬ雰囲気に押されて、柳沢は素直に答えた。

「多分、夕方の5時くらいだったと思います。それがどうかしたんですか?」

二人は義人に車で送って貰いそれぞれ帰路に着いた。向かう順序としては先に柳沢の家、それから山野の家と進んだので、本当に最後まで彼等とかかわりを持っていたのは山野である。しかし、武人と、という条件ならお互いに芹沢宅を出た時点で別れている。

「その後、彼が何処かへ出かけるような予定は聞いていたかい?」

「いえ、別に」

「そうか……」

君等も知らんのか、と残念そうに呟く佐藤。そんな彼に柳沢が再び尋ねた。

「もしかして、芹沢君に何かあったのですか? 私達、これから彼の家にクラス担任からの伝言を伝えに行くんですけど」

「それだったら、行っても意味は無いかもしれん」

「どういうことです?」

訝しげに眉を顰めた柳沢に佐藤は口調も重く事情を伝えた。

「昨晩、私は芹沢武人君の誘拐を確認した」

「え?」

「誘拐……?」

彼の言葉に二人の目が驚き見開かれる。

「詳しくは調査中なので言えないが、そこの山中で誘拐犯に捕まり、荒縄で縛られた彼の姿を見つけたのだよ」

そういって指差された先にあるのは、二人の背後、木崎湖を越えて大きく聳える飛騨山脈の一端だ。飛騨山脈は幾つもの山々が重なり合って出来る日本有数の山脈であり、通称北アルプスとして有名だ。1998年冬期オリンピック長野大会にて利用された白馬村もこの山脈の付近にある。

「確認したって、どういうことですか?」

妙な言い回しの説明に柳沢が疑問を続ける。

「ああ、それは今日の新聞の夕刊にでも載ると思うが……」

佐藤は多少の抵抗を感じながらも話を続けた。

「犯人は非常に凶悪で、私と共に現場に居合わせた巡査が、犯人の手にかかり殉職したのだよ。君達には申し訳ないが、私も彼を助ける事が出来ずに、こうして仲間を呼びに帰るのが精々だった」

昨日の出来事を思い出して佐藤は小さく身を震わせる。実のところ、こうして捜査を行なう事さえ恐ろしい。脳裏にはあっけなく潰された同僚の頭部が容易に思い浮かぶ。しかし、犯人を前にしては抜けた腰も、自宅へ帰り風呂へ入って一晩が経つと、多少は元の張りを取り戻した。そして、かれこれ数十年と向き合ってきた己の職への誠実さが、今の彼を突き動かしているのだった。

「それじゃあ、今も彼はあの山のどこかに捕まっているということですか?」

信じられない、といった様子で柳沢が呟いた。

「ああ、そういうことになる」

小さく顔を俯かせて、佐藤は申し訳なさ気に言葉を返した。

「………柳沢」

すると、そんな彼の姿を前にして山野が何か思い立ったらしい。隣に立つ友人の名を小さく呼んだ。芹沢武人が誘拐された、と耳にした際の変化も今は身を沈め、普段どおりの落ち着いた表情をしている。恐ろしいまでのポーカーフェイスだった。

自分の名を呼ぶ友人に一体どのような閃きが訪れたのか。付き合い始めて一年と数ヶ月になる相手の言わんとすることを即座に理解したのだろう。逆に柳沢が、まさか、といった風に驚いた表情を浮かべる。

とはいえ、それも警察官の手前だ。下手な挙動は見せることも出来ない。貴方、まさか……、と喉元まででかかった言葉を無理やり押さえつけて、彼女は小さく警察官に頭を下げた。

「それじゃあ、私達が彼の家に行っても捜査の邪魔になるだけだと思うので、今日のところは帰ります」

「ああ、そうするといい。もしかしたら、犯人が山を降りてきているかもしれない。人気の多い道を選んで十分注意して帰るんだよ?」

「はい」

素直に従って再び小さく会釈を返すと、二人は駅舎を南に見送って国道148号を北へ歩き始めた。

それから暫し、背後にパトカーの軍団を見送って歩く。余程調査に忙しいのだろう。彼女達を見送った警察官は、自宅とは反対方向に進む山野に声をかけることは無かった。そして、互いに十分な距離が取れたことを確認して柳沢が口を開いた。

「山野、まさかとは思うけど、また変なことを考えているんじゃないでしょうね? 言っておくけど貴方の家は反対側よ? こっちには私の家しか無いわ」

確信を持った瞳で問いかけてくる友人に、山野はそ知らぬ素振りで惚けてみせる。

「なんのこと?」

「そこまで私に言わせる気?」

若干の苛立ちを露に柳沢が語りかける。そんな彼女に山野は多少申し訳なさそうに、そして、既に決めてしまいましたよ、と頑なな表情で答える。とはいえ、見た目感情の起伏が分かりにくい山野なので、その変化は微々たるものであるが。

「興味があるの」

何が、とは言うまでも無い。

「だからって、首を突っ込んで良いものと悪いものがあるでしょう!? 誘拐犯よ? 殉職よ? 加えて、得体の知れない狐の化け物よ? 自ら首を突っ込むなんて正気の沙汰じゃなわ」

「別に、柳沢が一緒に来なくても一人で行く」

「死んでも知らないわよ?」

「その時は大人しく諦める」

「…………」

大人しそうな容姿とは裏腹に頑固な性格の友人を前にして、柳沢は頭の痛くなる思いだった。何故にそこまで狐の化け物に拘るのか。幾ら珍しい生き物の存在に感動したからとは言え、命の危険まで冒して追うというのは馬鹿げている。

「その様子だと、ここで幾ら留めても行くんでしょうね」

「うん」

きっと、自ら喜んでライオンの口に頭を差し入れるような動物馬鹿は、こういった精神によって作られるのだろう。そんな諦めにも似た感想が柳沢の口から溜息と共に吐き出された。彼女を止めるには、それこそ自宅に押し入って事件が解決するまでの間を、縄で簀巻きにして柱にでも結び付けておくでもしなければ不可能だ。そして、それこそ柳沢には無理な注文である。

「本当に、死んでも知らないわよ?」

「葬式には来てくれる?」

ニコっと小さく笑みを浮かべた山野が、不敵な表情で言う。

「あ、貴方が言うと、冗談も冗談に聞こえないわよ」

柳沢はこれ以上は何を言っても無駄だと悟った。

時刻は午後の12時を少し回った所だ。もしも山へ登るというならば、出来るだけ太陽が高いうちが良い。日が落ちたら、それこそ誘拐犯に捕まる前に山で遭難して一巻の終わりと相成りかねない。譲る様子を見せない友人の姿に、柳沢もまた腹をくくった。

「分かったわよ、行きましょう」

「柳沢?」

「貴方だけを残して家に帰ったら、それこそ夜もおちおち眠ってられないわ」

そんな友人の言葉に山野は小さく言葉を返した。

「……ありがとう」

「べ、別にありがとうなんて言われる筋合いなんてないんだからねっ!」

流石に歩いていくには遠い道のりを、途中で呼びつけたタクシーに乗って二人は進んだ。

「そろそろ時間ですね」

一晩を過ごした洞窟の中で夢見月が立ち上がった。

手には古びた金時計が握られている。開かれた金属板の下から顔を出した、カチコチと動く長針は真っ直ぐ上に伸び、時刻がそろそろ正午0時を回ろうとしていることを指し示している。

「夢見月……」

不安そうな顔で花見月が夢見月を見つめる。

「大丈夫です。必ず勝って花見月の下へ帰ってきます」

グッと拳を握り妹は姉の前で強がって見せる。

しかし、そんな彼女の姿を前にして花見月は、昨晩は上手いこと説得されたものの、日が昇り時間が近づくに連れて、段々と不安になっていく己を感じていた。一度は負けた敵に再び挑もうとしているのだ。それが一体どういった結果を生むのか、目的自体は彼女自身も望む事ながら、送る側の心境としては気が気でなかった。

「ぜ、絶対だぞ?」

「ええ、絶対です」

まるで今生の誓いのように見つめ合う二人。

そんな彼女達から少し離れて立った静奈が口を開く。

「もし戦いが始まったのならば、可能な限り敵と武人を遠ざけてくれ。上手いこと引き離す事が出来たのなら、主の姉や我もまた、何かしらの手段を持って主を互助できるかもしれぬぞぇ」

「ですが、それでは敵との約束を違うことになります」

「この際じゃ、そんな約束はいちいち守っていられぬだろう?」

「けど、約束を破ったらアイツが殺されちゃうかも知れないだろ?」

静奈の提案に二人が困ったような視線を向ける。

「幾ら敵とて、主の相手をしながら我等に連れ去られようとする武人を取り返すことは出来ぬじゃろう? もし奴から武人を引き離す事が出来たのなら、山に火でも放って狼煙を上げれば良い。我はそれを見て動こうぞぇ」

今回の目的は敵を打倒することではない。武人を救出する事である。そして、静奈は夢見月がすんなりと敵を打開して武人を奪取できるとは考えていなかった。相手だって勝機があるからこそ、こうして機会を設けたのだ。ならば、自分や怪我をした花見月がどれだけの助力となるかは分からないが、目指す所は総力戦である。

「武人を助け出すことが出来たのなら、主も妹の手助けが出来る。どうじゃ?」

静奈が花見月に向き直って言う。

そんな彼女の提案に花見月は二つ返事で頷いて応じた。

「うん、アタシだって本当は一緒に行きたいんだ」

「それに、仮に敵を倒せなくとも武人が助けられたのならば、逃げる事への躊躇は在るまい? 我は武人を確保したら同様に狼煙を炊こう。それが確認できたのなら主は主の思うようにどうとでもすれば良い」

「たしかに……、そうですね」

武人の安全を一番に考えたのなら、それが最も良い作戦だった。

「そもそも、敵の目的は主等を殺すことなのだろう? ならば武人の存在など奴にしてみれば出しに過ぎん。我等に取られたからと言って、わざわざ主の相手を放棄してまで取り戻しに来るとは思えん。奴が欲しかったのは主にやられた怪我を治すだけの時間じゃ」

焦点を武人の救出後に当てたのならば、早い話が、昨日の状況そのままに舞い戻るということだ。花見月と夢見月の姉妹は敵の狼男に相対し、武人と静奈は状況に応じて二人を助けに向かうなり、家に帰るなりすれば良い。まあ、静奈の予想からすれば、これだけ恐ろしい目に遭遇した武人が再び姉妹を救おうなどとは言い出す筈も無い。選ばれるのは間違いなく後者だろう。そこから先は分からないが、これならば姉妹としても満足の行く責務を果たした事になる。

夢見月が花見月を何よりも大切だと思うように、静奈としても、己の命と平穏は何よりも優先されるべきものだった。その為には助力も惜しまない。彼女としては、義人が作る稲荷寿司を食べながらの怠惰な生活は中々に魅力的なものだった。

「分かりました、静奈さんの提案に従います」

「うむ、助かるぞぇ」

幸いにして今日は快晴だ。狼煙も遠く届き見失う事は無いだろう。空を仰いで木々に茂る葉の隙間から空の様子を伺う静奈は満足気に頷いた。後は、問題があるとすれば夢見月がどれだけ敵を武人から遠ざける事ができるか、である。

「幾度もご迷惑をかけて申し訳ありませんが、狼煙の方、よろしくお願いします」

「了解じゃ、しかと頼まれたぞぇ」

夢見月の言葉に静奈が深く頷く。

それから、敵の姿を欺くが為に姉妹はお互いの服を交換した。髪留めのリボンから靴に至るまで全てをである。万が一もあってはならないので、下着も交換しよう、と提案する花見月に顔を紅くした夢見月が慌てたのは見ものだった。

「まさか、化けることなくここまで姿を似せる事が出来るとはのぉ」

着付けの終わった二人を前にして、感心した様子で静奈が呟く。

「私は花見月の全てを知っています。絶対に敵に怪しまれることはありません」

「ア、アタシだって、夢見月の全部を知ってるんだからなっ!」

おそらくこの二人以上に姿の似た双子は他に居まい。

「ええ、そうね」

花見月に向き直った夢見月は真っ直ぐな目で最愛の姉を見つめる。

「花見月」

「夢見月っ!」

静奈の目を気にすることなく、二人はその場でお互いを強く抱きしめ合った。これが今生の別れではないと強く信じているが、二人ともお互いの体温を感じずにはいられなかった。そして、花見月との長い抱擁を終えた夢見月は、決意を新たに一度も後ろを振り向くことなく、森の中へと勢い良く駆け出していった。その足は速く、数秒と待つ間もなく姿は木々の合間に隠れて見えなくなってしまう。

「夢見月……」

遠く離れてなお彼女の去って行った方向を見つめる花見月に静奈が声をかける。

「さぁ、我等も移動するぞぇ」

「移動? どこへ行くんだ?」

一体何をするつもりだ? とキョトンとした表情で花見月が静奈を見つめる。

「主の姉が上げた狼煙を確認しやすい場所へ移動するんじゃ。主等の家の周辺でそれなりに見晴らしの良い場所は無いかぇ? 勿論、敵に気づかれない程度に距離を取った場所でだぞぇ?」

「ああ、そういうことか。それだったらとっておきの場所がある」

「うむ、案内は任せた」

花見月を先頭にして、二人もまた森の中へと歩いていった。

静奈と花見月から別れて数分ほど走ったところで、夢見月は目的の場所に辿り着いた。

山中の深い森にありながら、木々を切って作為的に切り開かれた場所である。5,60坪程の面積を持つ空き地の中央には、こじんまりとした小屋が建っている。手作りの感が随所に見られる丸太作りで、十数平米程度の規模を持つ平屋の一階建てだった。彼女達姉妹に合わせて作られた為か、一般家屋と比較すると微妙に天上が低い作りとなっていた。170センチの武人でも容易に天上へ手が届く程度だ。

小屋の周辺にはちょっとした畑が耕されており、夏に相応しくトマトやトウモロコシといった野菜が実っている。水道設備は無いが近くには川が流れており、山には猪や狸といった動物の類も多く生息している。勿論、電気や電話線の類は無いが、最低限の生活するに必要なものは一通り揃っていた。

ここが夢見月と花見月が暮らす家である。

それまでは人間や他の化け物、それに熊のような大型の獣が侵入してくるのを防ぐ為に、夢見月の手によってまやかしが施されていた。だが、それもつい先日に、彼女達の下へ訪れた敵の手により壊されてしまった。その為だろうか、小屋の周囲に作られた花壇には何物かによって無残にも踏み潰された花の姿があった。

「約束どおり来たぞっ!」

夢見月は住み慣れた小さな山小屋の前に立つ獣人を憎々しげに睨み付ける。その口調は、これまでの夢見月のものでは無い。彼女の知る花見月のそれだ。恐ろしい事に声色に至るまでソックリだった。

「ほぉ、約束を守ったか」

木々の合間を抜けて姿を見せた彼女を目の当たりにして、狼男が感慨深げに呟いた。

「このまま、見捨てて逃げ出すんじゃないかとも考えたのだがな?」

「アイツは妹の命の恩人なんだっ! お前を倒して絶対に助けてやるっ!!」

狼男は小屋の入り口に立って夢見月を迎える。近くに武人の姿は見当たらない。きっと、小屋の中に閉じ込められているのだろう。敵を前に十数メートルの距離を置いて、夢見月は進む足を止めた。

「あの人間は無事なんだろうなっ!?」

「ああ、今のところはな。その小屋の中で大人しくしてるさ」

狼男は視線を夢見月に向けたまま、親指で背後の小屋を指し示す。

「アタシが来たんだ、約束どおり解放しろっ!」

脳裏に静奈との打ち合わせを思い浮かべながら、夢見月もまた精一杯の交渉を迫る。しかし、敵はそう易々と彼女の意向に沿いはしなかった。口元をニタリと歪めて、相手を嘲笑するかのように応じる。

「それはお前が俺に勝ってから、自分の手で行なえばいいだろう?」

「な、なんだとっ!? それじゃあ約束が違うじゃないかっ!」

「というとなんだ、お前は俺に殺されに来た訳か?」

的を射た返答に夢見月の顔が苦虫を噛み潰したかの様に変化する。

「っく……」

やはり、静奈の提案した方法に頼る他無さそうだ。

「まあ、俺としては怪我を癒すだけの時間が確保出来た時点で、あの人間の使い道なんぞ失われたようなものだ。昨日は苛立ち任せに、怪我の完治したお前の妹の前に飛び出して危うい目を見たが、それも過ぎた話だな」

狼男が語りながらゆっくりと夢見月に近づいて行く。

「さぁ、手際よく仕事を片付けるとするかね」

「糞っ!」

狼男の声色に変化を覚えて、夢見月は即座に踵を返すと、森の中へと取って返した。静奈からの提案も去ることながら、夢見月にも多少の打倒案はあった。進行方向は等高線を垂直に切って山岳部の合間に点在する人間の集落だ。

「馬鹿め、誰が逃がすかっ!」

そんな彼女の後を狼男が追う。

夢見月は、出来る限り敵を武人の下から引き離せるよう足を進める。幸いにして敵は彼女が夢見月であることに気づいていない。この調子なら十分な距離が稼げそうであった。

「ちぃ、待ちやがれこの畜生がっ!」

思いのほか逃げ足の速い夢見月に小さく舌打ちしつつも、上手いこと騙された狼男は後を追って走る。化け狐にせよ尻尾が六本もあればそれなりに自然治癒は働く。しかし、狼男のそれと比較すれば、劣ることは否めない。互いの力量差を鑑みて、多少の負傷を負った花見月の相手ならば容易だろうと踏んだ彼であったが、馴染まない山中での追いかけっこは敵に若干の分があることを悟った。これは夢見月にとって好ましい勘違いである。

「この野郎っ!」

昨日は負傷した花見月を庇った為に男の一撃を受けてしまった夢見月である。しかし、今日は静奈が持ってきた薬のおかげで体調は万全だ。地の利を活かせば、こうして追いかけっこをしている分には対等を保っていられる。この山は彼女にとって庭の様なものだ。

だが、しばらくして状況が一転する。

「喰らいやがれっ!」

狼男が大きな声を上げて吼えた。

ひんやりとした何かが迫ってくる気配を背後に感じて、夢見月は大きく地を蹴って飛んだ。すると、宙に浮いた彼女の足の下をギリギリの所で、巨大な直径1メートル、半径50センチ程の氷柱が、後方より進行方向へ向けて飛び去っていった。使い古したスニーカーの足裏が凍って皮膚に張り付く。

「なっ、なんだとっ!?」

「糞、次は外さないからな」

重力に従い地に足を着いて再び走り出した夢見月は、己の肩越しに後を振り返る。見れば何やら狼男は尖った口先を僅かに動かし、ブツブツと念仏の様なものを唱えていた。目標を見失った氷柱は二人が進む遥か遠方で木の幹に当たり、対象を根から枝の先端、葉の全てに至るまで完全に凍結させていた。

「西洋のマヤカシかっ!」

己の頭まで持ち上げられた狼男の手の平の上には、ゆらゆらと冷気を漂わせる氷柱があった。出現当初こそビー玉サイズであったそれは、しかし、狼男の呟きに応じて徐々にその大きさを増していく。そして、最終的に先ほど夢見月を襲ったものと同程度の規模まで膨らんだ。

「魔法って言うんだぜ? お前等の言う所の妖術とか神通力ってやつだ」

「くっ!!」

大きく腕を振って投げつけられた氷柱を、夢見月は間一髪の所で、またも地を蹴り飛び上がることで避ける。そして、そのまま目前に迫った木々の枝に捕まると、逆上がりの要領で半回転して、猿のように木々を渡り巡り始めた。

「ちっ、これだから田舎育ちはムカつくんだよ」

そんな彼女を腹立たしげに睨みながら、狼男は上空を進む相手を追って地上を駆ける。

三次元的な動きを取る夢見月を相手にして、己の氷柱では仕留める事が出来ないと判断したのだろう。追撃はそれ以降、暫く止むこととなった。

山中にあって好機を知った夢見月は狼男を翻弄しつつ着実に山を下っていく。もとよりそれほど標高の高い場所に居を構えていた訳でもなので、人里へは彼女等の足ならば、直ぐにとは言わないが、それほど時間を掛けずして辿り着けることだろう。

だが、敵と追いかけっこを始めて幾らか経過した頃だ。調子良く木々の合間を縫って進む夢見月の進行に、成果の上がらない狼男が一石を投じた。それは、夢見月が次なる枝を求めて宙に身を投げだ瞬間だ。

狼男が放った拳大の氷柱が、夢見月が次に掴まるべく狙いを定めた枝を凍らせたのだ。

「なっ!!」

それを握ってしまった夢見月は、手の皮が凍った枝に張り付いてしまう。そして、凍りついた枝は続けざまに放たれた二発目の氷柱により、その根元から完全に粉砕された。体重の拠り所を失った夢見月の身体がバランスを崩して綺麗な放物線を描き落下する。

「くぅっ……」

危うく頭から草木茂る大地に突っ込みそうになった所を、猫のように空中で身体を捻らせて両足から着地する。

しかし、それと同時に迫る敵の姿が背後にあった。

「死ねっ!」

「だ、誰がっ!!」

目前まで迫った己の頭部程もある拳を、夢見月は地面に着地した勢いで前方に自ら倒れこみやり過ごした。小さな身体は幾回かの前転を繰り返し狼男から距離を取る。そして、両腕をバネの様に利用して大きく身体を跳ね起こす。ザッと枯れ草を踏みしめて降り立った彼女の前には、苛立ちに顔を歪める狼男の姿があった。

「いい加減、追いかけっこはお終いだ」

走るのを止めて二人は対峙する。

残念ながら目的とする場所までは進む事が出来なかった。しかし、静奈との約束を果たすには十分な距離を夢見月は走っていた。おおよそ2,3キロは走っただろうか。これだけ離れれば問題あるまい。

「後悔しろ、この苛立ちを全てぶつけてやる」

「ふん、このアタシが犬っころ如きにやられるはず無いだろ」

「今まで全力で逃げていた奴が強がりを言ってくれる」

「今日は絶対に負けないっ!」

夢見月の周囲に、轟と音を立てて幾つもの狐火が同時に灯った。

「いいだろう、覚悟しろ」

それは夜の洞窟で暗がりを照らす為に静奈や花見月が作った狐火とは一線を駕す。激しく音を立てて燃え盛る狐火は、直径が50センチ程の大きさを持つ火球だった。時折噴出す炎が周囲の木々や地面に積もった枯れ葉に燃え移り、早速と火の手を上げ始める。

周囲に火の玉を連れたまま夢見月が駆け出した。

「喰らえっ!!」

狼男とは一定の距離を保ったまま、円状にその周囲を走りつつ、浮かび上がらせた狐火を次々と打ち出していく。僅かな時間差を置いて、それぞれの火球はかなりの速度を伴い狼男へ向かった。

先の戦闘で、夢見月は自分が殴りあいの喧嘩に慣れて居ないことを理解した。それまで人知れぬ山の中で、花見月と共に安穏と暮らしてきたのだ。こういった血生臭いやり取りは彼女としても久しく、中々に勝手の分からぬことであった。

「ちぃ、面倒なことを」

対して、敵はそういった方面に随分と手練ている様子だ。特に、格闘技の類でも修練しているのか、飛び交う数多の狐火を一つとして身に当てることなく避けてみせる軽快な身のこなしは、夢見月に今後の苦労を予感させた。また、彼女と比較して倍近い身長差は、その射程域を考えると非常に厄介だ。その為、夢見月は自然と敵とは距離を置いて挑む形となる。下手に接近して、先日の憂き目を再現するのは避けるべきだった。

「とはいえ、妹がいれば話は違ったかもしれないが、お前一人では高が知れているわっ!」

少女が意図する所を理解したのだろう。

そうはさせるまいと、狼男が迫り来る狐火を避けながら駆け足で近づいてきた。

「っ!?」

夢見月は慌てて敵と距離を取る。

近接して応じるにしても、彼女にはまだやるべきことがあった。周囲の樹木へ火を放ち、静奈と花見月への合図にしなければならないのだ。だから、今は狐火を避けられても構わなない。

「まだまだっ!」

小さく吼えて再び己の周囲に狐火を灯した。

「何度やっても同じことだっ!」

距離を取っては狐火を放つ夢見月。

それを回避しては徐々に間合いを詰める狼男。

両者の身体能力はかなり均衡したものであった。しかし、経験の有無が圧倒的な差となって夢見月を後ろへ、後ろへと後退させていった。これに万全の状態の花見月が加わったのならば、先日にもあったように、狼男も敗退せざるを得ないだろう。けれど、この場には姉妹の片割れしか居ない。それは彼の有能な鼻が確りと知らせてくれた。

「ちぃ、逃げるな畜生がっ!」

「畜生なのはお前も同じだろうがっ!」

外観を評価するならば、狼男の方がより家畜に近い。

「いい加減に諦めて、とっとと国へ帰れっ!」

「昨日も言ったと思うが、これも仕事なんでね」

「そんなのアタシが知るかっ!」

そうして暫くの間は、攻めては押して、攻められては引いて、互いに同じ行動の繰り返しをしていた。時折、接近を許して振るわれた拳も、夢見月は狐火を一挙に集中して嗾けることで何とか防いだ。本来ならば狼男に分が在る喧嘩も、樹木が茂り身動きの取り難い山中という環境もあって、背丈の小さな夢見月が己の利を最大限にまで活かすことで、拮抗した状況に作り上げていた。

そんなか、ややあって、ふと狼男の脳裏に一つの疑問が生じた。本当に、この娘は彼の指定した姉妹の姉なのだろうか、と。山中を駆る軽快な動きといい、こうして彼に迫られまいと華麗に立ち振る舞う動作といい、足に怪我を負っているとは思えなかった。齢を重ねた化け狐ならば、それなりの治癒能力は備わっているだろう。しかし、まさかそれを己と同様に一晩で完治させるとは考えられない。

「おい、一つ尋ねよう」

狼男の動きが止まった。

「別に今更だ、お前が何と答えようとやることは変わらん。だが、確認しておきたい」

「………なんだよ」

何やら意味深な台詞と共に相手が足を止めた事で、夢見月もまた狐火の動きを止めた。十数メートルの距離を置いて二人は向かい合う。この期に及んで尋ねたい事と言えば、夢見月には、次に狼男が問うてくることが容易に推測出来た。

「お前は本当に妹か?」

花見月の真似には夢見月も自信があった。しかし、その足に受けた怪我までを再現する余裕が、目の前の敵を相手にして彼女には無かった。そして、相手は言った、何と答えようとやることは変わらん、と。

ともすれば、もう彼女も姉の真似をする必要は無かった。。

「そうでなかったのなら、どうするんですか?」

夢見月はアッサリと仮面を捨てて見せた。

「俺の鼻も随分と落ちたもんだな。忌々しいことだ」

ガラリと口調の変わった相手を前にして、短く吐き捨てるように狼男は一人ごちた。

「私と花見月は双子です。癖、仕草、趣味、性格、私は花見月の全てを知っています。ただ数度の面識がある程度の貴方に、私と彼女の絆を見破られるなどとは思いもしませんでした。何故に気づいたのですか?」

「お前はこれだけ軽快に動き回っておいて、自分は怪我人だとほざくのか?」

「そういうことでしたら納得です」

狼男の言葉は彼女としても想定の範囲内であった。

「まさか、魔法を使われることも無く、ただ服を取り替えただけの相手に騙されるとは思っても見なかったさ。ああ、これは一本取られたよ。似てるとは思ってたが、あんた中々の役者だな」

大きな手の平で己の額を押さえて、狼男は楽しそうに笑って見せた。

「もし機会があったなら、俺はアンタが演じる舞台を見てみたかったよ」

二人を周り囲む樹木は、夢見月の放った大量の狐火によって徐々に火の勢いを強めていた。パチパチと音を立てて燃え上がる木々や、地面に蔓延る蔓植物。そこから発せられる熱気は、ただでさえ熱い夏の日照りに増して、二人の額に大量の汗を浮かべさせた。

その様子を視界の隅に収めて、夢見月は人知れず小さく良しと頷く。

「それで、貴方はどうするのですか?」

「言っただろ? やることは変わらないって」

言うに合わせて、深い茶褐色の毛に覆われた狼男の足に、グッと力が込められる。その挙動を素早く察した夢見月は、咄嗟に呼び出した狐火を一挙に相手へ向けて放った。直径が50センチを越える数十の火球が、狼男を目掛けて一同に突き進む。

「演技はいいが、こっちは全く芸がないなっ!」

そんな火球を、狼男は周囲の樹木を足蹴に右へ左へ飛び上がる事で三次元的に動き回り難なく往なす。そして、全ての火球を失った夢見月の下へ、細い幹を蹴りつけて上空より勢い良く迫った。

「っ!」

慌てた夢見月は狐火を灯すことさえ忘れて、慌てて後ろへ飛びずさる。

「ちぃ、惜しかったな」

狼男の五本の指に生えた長い爪の先端は、夢見月の腕の薄皮を一枚割いていた。雪の様に白い彼女の肌には、肘から手首にかけて20センチ程度の線状に、薄っすらと血が滲み出していた。

「まあいい、時間はたっぷりとあるんだからな」

己の獲物を前にして、狼男は楽しそうに舌なめずりをしてみせる。

「いつまでも狐が狼に狩られてばかりだとは、思わないほうが良いですよ」

そんな彼の醜悪な態度を前にして、夢見月も自然と強がりを口にする。

「そういうことは俺の首を取ってから言うんだなっ!」

「上等ですっ!」

枯れ草の積もる地をけって狼男が駆ける。それを迎える様に、夢見月もまた大量の狐火を出現させる。徐々に勢いを増して燃え始めた山中にあって、両者は互いに譲らず、その肌をゆっくりと焦がしていく。幹の根元を焼かれた樹木がミシミシと音を立てて倒れ始める。そんな過酷な環境下で、二人の勝負は更に続けられる事となった。

「あっ! 煙が出たっ!!」

遠く揺らめく灰色の煙を視認して花見月が大きな声を上げた。

「うむ、その様じゃな」

夢見月が上げた狼煙は、人間が利用する、特定の場所から線状に一本だけ立ち上がる様な代物ではなかった。煙はモクモクとある一帯から範囲的に発生していた。起こした過程を考慮したなら、それこそ山火事そのものである。とはいえ、彼女が敵と戦闘中であることを考慮すれば、それも仕方の無いことだろう。山の自然にしても、命あっての物種である。

「どうやら、主の妹も上手い事やった様じゃのぉ」

「当然だ。夢見月があんな狼なんかに負けるわけが無いだろ?」

「今は主のその言葉を信じるとしよう。さぁ、我等も出るぞぇ」

「おうっ!」

静奈と花見月が居る場所は、眼下に花見月と夢見月が住まう住居を望むことが出来る小さな丘の上だった。目的の場所までは、直線距離にして2,3キロ程度だろうか。雑多に樹木が茂った見通しの悪い山中を進むとなると、結構な距離だと言える。

「よし、それじゃあ急ぐぞっ!」

何を考えたのだろう。花見月は声に出して大きく意気込みを入れると、唐突にも隣に立つ静奈を抱きかかえた。背中と膝の裏に腕を回して、所謂、お姫様抱っこという奴だ。予期せぬ扱いに驚いた静奈が言葉を返す。

「な、何をするっ!?」

「足も大分治ってきたから、多分、アタシがお前を抱えて走った方が早く着く」

「なるほど、ならば頼むぞぇ」

「任せろっ!」

静奈の言葉に答えて、花見月は地を蹴って勢い良く駆け出した。

流石、この山を縄張りとしているだけあって、進む足には微塵の迷いも無い。地面に蔓延る蔦植物に足を取られる事も無く、また、数メートル間隔で生えた木々の障害をものともせずに、静奈を抱いて花見月は走った。

ふと、鼻の頭に垂れた水滴を受けて、花見月に抱かれる静奈は顔を上に向けた。走る彼女はただ一心に前だけを見て、足を動かしている。7月に入り気温も鰻登りで上昇している昨今、ビッシリと額に浮かんだ汗が頬を伝い顎から垂れたのだろう。その表情は真剣そのものだ。幾ら信じているとは言え、やはり、妹の夢見月が心配なのだろう。そんな彼女の表情を目の当たりにして、ふと静奈はふと小さく呟く。

「主等姉妹は本当に仲が良いのぉ……」

それは何気ない感慨だった。

「ん? なんか言ったか!?」

「いや、別に何でもないぞぇ」

足が地に着いて離れてを繰り返すに合わせて、規則的に上下に揺れる己の身体に目を向けながら、静奈は一人考える。稲荷寿司という餌が目下にあったとはいえ、何故に自分は人間の目付け役なんぞを引き受けたのだろうと。

走ることに集中している花見月から、語りかけられる言葉は無い。そんな相手を察して、静奈もまた口を塞ぎ、己の思考に意識を巡らせた。二人の耳には、スニーカーが枯葉を踏みしめる乾いた音だけが規則的に届いていた。

そして、道など無い山深き森の中を走ること数分の後、二人は目的の場所へ到着した。

「見えたっ!」

花見月が声を上げる。二人の視線の先には、樹木の合間から見える、意図的に木々を切り倒して作られた広場があった。その中央には、丸太で作られた小さな小屋の存在も確認できる。静奈はそこが花見月と夢見月が住まう家なのだと理解した。

「主よ、念のため一度ここで止まろうぞ」

「分かった」

広場への突入を前にして、指示に従った花見月は足を止めて、両手に抱えた静奈を地に下ろす。二人は広場に隣接する木々の陰から、小屋とその周辺の様子を探った。だが、見て取れる範囲には人の姿も獣の姿も確認できない。もし、狼男がこの付近に居たのなら、本人の言葉を鵜呑みにしたとすれば、既に存在を悟られている可能性が高い。それを考慮すると、夢見月は確りと敵を引き付けてくれている様であった。

「大丈夫そうじゃな」

「そうだな、誰も居ないみたいだ」

場の安全を確認して、静奈と花見月は木陰から小走りで小屋まで向かった。

二人が広場へ躍り出ても、特に変化は見られない。小屋の入り口まで駆け寄った花見月は、躊躇無くドアを引いて室内へと入っていく。静奈もまた彼女の後に続いて、薄っすらと樹木の香が漂う小屋の中へ敷居を跨いだ。

「し、静奈っ!! それに夢見月っ!!!」

小屋の中で待っていたのは荒縄で身体をグルグル巻きにされた武人だった。

静奈と花見月の姿を目の当たりにして、彼は叫ぶ様に二人の名を呼んだ。眦にはこんもりと涙が浮かんでいる。余程怖い目に合ったのだろう。小屋には武人の他に誰も居ない。狼男は単独で姉妹の下へやって来ていたようだった。ちなみに、彼が花見月を夢見月と呼称したのは、彼女が身に着けている衣装がそれまでの短パンではなく、妹の着ていたミニスカートであった事に因る。

「大丈夫かっ!? 助けに来たぞっ!」

大慌てで武人の下へ駆け寄った花見月が、両腕の上から彼の胴体を束縛する荒縄を紐解いていく。武人を拘束する縄の一端は小屋の柱に結び付けられていた。まるで子飼いにされた犬の如きだ。

「え、あ……、もしかして花見月?」

相手の口調から自分の認識が違っていた事を理解して、武人が呆けたように呟く。

「そうだ、アタシは花見月だ」

「やはり、主も間違えたかぇ? 双子というのは大したものじゃのぉ」

「いや、だって、見た目どころか声までそっくりだし……」

花見月は硬く結ばれた結び目を何とか緩めると、幾重にも巻かれた縄をシュルシュルと解いていく。胴体をグルグルと巻いている縄が、一周、また一週と退いて行く毎に、徐々に彼の身体を圧迫する力が弱まっていく。

「た、助かったぁ……」

縄目を肌に食い込ませる様に、きつく締め付けてくる束縛から解放されるて、武人は安堵から大きな溜息を吐いた。半袖を着ていた為に、両腕には痛々しくも縄目模様がついていた。部位によっては皮膚が擦れて薄っすらと血が滲んでしまっている箇所もある。

「大丈夫かぇ?」

力なく床に座り込んでいる武人の前に、静奈と花見月がしゃがみ込み、その顔を覗き込んで来る。

「もう、本当に駄目なのかもしれないって思ってた………」

「もしや、殺された後かもしれんとも考えていたが、無事で良かったぞぇ」

「え、縁起でもないこと言わないでよっ!」

クックックと楽しそうに笑う静奈に、武人は冗談じゃないと口を尖らせる。そんな些細な軽口にも、武人は今にも泣き出してしまいそうだった。それだけ精神的に疲弊しているということである。

「でも、これで助かったよ、二人ともありがとう」

頬に涙を伝わせながら武人は呟いた。

「お前には妹を助けて貰ったんだ、これくらい当然だ」

「主に死なれては、我も主の親父が作る稲荷寿司を食いっぱぐれてしまうからのぉ」

静奈と花見月はやんわり笑みを浮かべ、事も無げに言って見せた。

「ああ、本当にありがとう」

こうして彼女達が訪れる前は、それこそ死んだ魚の様な目をして、ガラス窓の外に写る森の一端を眺めていた武人である。縄に巻かれていた最中は、幾度と無く、山野の両親が経営するコンビニエンスストアに、花見月が強盗として入った事件を思い出した。今こうしている己と、ほぼ同様の被害にあったであろう山野に対して、そりゃ災難だったねぇ、と軽がるしく言葉一つで済ませてしまうのが過去の自分だ。そんな思いやりの無い自分は必ずや改めるから、だから、お願いだから、ここから助け出してくれ。そう何度となく、彼は姿も知らぬ神に祈っていた。まさに、宗教の偉大さを感じずには居られない一晩であった。

「ん? なんだこれ……」

ふと、武人の座る床に何やら染みの様なものが出来ていることに花見月が気づいた。

「どうした?」

花見月の言葉を受けて、静奈もまた床へと視線を落す。

すると、途端に武人が大きな声を上げて、己の尻でそれを隠し始めた。

「べ、別になんでも無いよっ! 気にしなくてもいいんだ」

ぐしぐしと涙を拭きながら、床に座ったまま尻の位置をずらしている。同時に己のシャツの裾を掴むと、それを引っ張って下腹部を庇うように隠す。そこに見られたく無いものが在ることは、誰の目にも明らかだった。

「なんか、狼男の奴がコップをひっくり返しやがってさ、それでなんか、そう、床が濡れちゃったんだよ。人様の家だって言うのにとんでもない奴だよな、は、ははは……」

急変した彼の態度に静奈の紅い色の目がスッと細まる。

「まさか主よ……」

「ち、違うっ! 断じて君が思っているようなことなんて無いっ!」

武人の直ぐ隣にしゃがみ込んでいた静奈は、無言で彼のシャツに手を伸ばす。

「ちょ、ちょっと何するつもりだよっ!」

慌てて身を引こうとするが、思いのほか素早い動きで彼の腕を掴んだ静奈は、強引にそれを捲り上げた。すると、その下からは一部だけ色の変わったジーパンのデニム生地が顔をだした。一部というのは主に社会の窓の周辺である。

「なるほど、恐怖のあまり失禁かぇ」

「ちっ、違うっ! この縄のせいでトイレに行けなかったんだよっ!」

顔を真っ赤に染めた武人が大慌てで弁解を並べる。

「あの狼男が出て行ってから我慢してたんだよっ! ずっと我慢してたんだよっ!! でも駄目だったんだよっ!!! そう、君達がもっと早く来てくれてたらこんな事にはならなかったのに………」

まるで年の小さな女の子の様に、大よそ羞恥心から来るものだろう、またも武人の眦には、溢れんばかりの涙が浮かび始めていた。お互いの姿からすれば、まるっきり立場が逆転している様に感じられる。

「そして、漏らしたのじゃな」

「し、仕方が無いだろっ!?」

「人様の家だって言うのにとんでもない奴だよな、とは正にお主のことじゃのぉ」

「だから、仕方なかったのだよっ!!」

恨めしそうに睨みつけてくる武人を、静奈は笑い顔で眺めていた。

「そうか、漏らしちゃったのか……」

そんな武人に花見月までもが追い討ちをかける。

「そ……、それ以上言わないでよっ」

泣きっ面に蜂だった。

「けどまあ、柱に繋がれてたんだから仕方ないよな。お前はまだアタシ達と違って子供なんだし、お漏らしすることだってあるさ。アタシだって、昔は良くお漏らしをして母さんに起こられてたし」

本人は武人を気遣ってのつもりだろう。だが、彼としては負い傷にザクザクと抜き身の刀が刺さるような思いだった。武人はこれでも高校二年の17歳だ。確かに静奈や花見月と比較すれば圧倒的に幼いだろう。しかし、幾らなんでもお漏らしは無い。

「分かった、分かったから、もうそれ以上は言わないで……」

花見月は静奈と違って言葉に悪意が無いから性質が悪い。武人はそう呟いて諦めるしかなかった。そして、これ以上この話題を続ける事は避けようと、話題を変えるべく他者の追随を許さず口を開く。

「っていうか、そんなことよりも狼男はどうなったの? 少し前に外で誰かと話をしてたみたいだけど、もし近くに居ないなら、無駄に話なんかしてないで、早くここから逃げようよっ」

「ああ、それなんじゃが……」

あからさまな話題の転換に、しかし、これ以上武人をからかって遊んでいる時間も無いと判断した静奈が乗ってきた。三人がこうしている間にも、夢見月は一人で狼男と対峙しているのだ。

「それだったら、今頃は夢見月が頑張ってる筈だ」

了見を得ない武人は首を傾げて聞き返す。

「夢見月って、たしか君の妹さんだったよね?」

昨日の、敵からの要求と辻褄が合っていなかったからだ。

「そうだ、アタシの妹だ」

花見月は呼ばれた妹の名前を誇るように、凹凸の無い平坦な胸を張って答える。

「この小屋から敵を遠ざける為に、囮の役を買って出たのじゃ」

「囮?」

「アタシと夢見月は見た目がソックリだから、怪我をしたアタシの変わりに夢見月が狼男を倒しに行ったんだ」

「そして、その隙を突いて、我とこの者は主を助けに来た訳じゃ」

「なるほど、それで君の服が妹さんの服に変わってたんだね」

「おう、そういうことだ」

武人の問いに花見月は大きく頷く。

武人は自分を囲む事情を理解した。

「そっか、夢見月が来てくれたんだ……」

怪我を負った花見月が、命の危険を冒してまで自分の為に来てくれるのかどうか、昨晩の武人は、狼男と一つ屋根の下にあって、最後までそれを否定していた。他人の為に命をかけるだなんて非現実的だと、そう悲観的に考えていた。自分だったら間違いなく行かないし、そう信じられるだけの友人知人も周りには居なかった。

それが、実際の役は夢見月に代わったとはいえ、自分の為にやって来てくれた者が存在したという事実は、誰にも救いの手を差し伸べられる事も無く、虐められ続けて学童時代を過ごした彼にとって、嘗て無い感動であった。感無量の様子で、武人はこの場に居ない夢見月に感謝の思いを馳せる。

「本当はアタシが行った方が良かったんだけど、でも、アタシが行くって言ったら、怪我をしてるから駄目だって止められちゃって、それで、夢見月が行く事になったんだ。だから、アタシは早く夢見月を助けに行かないとならないんだ」

「まあ、そういう訳じゃ」

「……う、うん」

思わず言葉に詰まった武人は、ただ頷いて二人に応じる。

「これ以上引き止める訳にも行かぬだろう。此処まで来ればコヤツの世話は我だけでも見れる。主は早く姉の下へ向かうといい。狼煙を上げる役は我がこなそう。この小屋から適当に離れた辺りで炊いておく」

「うん、分かったっ!」

静奈に言われて、花見月はすぐさま小屋の出入り口へ踵を返す。

余程、妹の事が心配なのだろう。

「あ……、き、君っ! 本当にありがとうっ! 妹さんにも、ありがとうってっ!」

「おう、伝えとく、それじゃまたなっ!」

そして、花見月は元気に小屋を飛び出して行った。

雑多に茂る大小さまざまな木々の葉に、昼でも薄暗い森の中へと、小さな彼女の後姿は消えてゆく。それを遠目に確認して、スッと立ち上がった静奈が、床に座ったままの武人に向き直る。

「さぁ、我等も早々に逃げるぞぇ」

「う、うん」

促されて武人も立ち上がった。

足元には木製の床を色黒く湿らすお漏らしの跡がある。それも既に隠すだけ無駄だと諦めた。夏の気温も手伝って、徐々に乾き始めた下着がペタリと肌に張り付く感触に武人は顔を顰める。

「まさか、この期に及んであの姉妹を助けに行くなどとは言わぬだろうな?」

そんな彼の様子をどの様に勘違いしたのか、静奈が尋ねてきた。

「……そんなこと言わないよ」

多少なりとも後ろ髪を引かれる思いはある。しかし、自分が行っても何の役にも立たない事は良く理解している。そして、何よりも、昨晩から今朝に至るまで受け続けた精神的な重圧と死に至る恐怖を、再び前にするだけの度胸が彼には無かった。

「ならば良い、面倒事に巻き込まれぬ内に帰るぞぇ」

「うん……、そうだね」

他人の家を尿で汚したまま出て行くのは申し訳ないが、近くには雑巾の類も見当たらないので仕方が無い。先行する静奈に続いて、武人は花見月と夢見月の姉妹が暮らす小さな山小屋を後にした。

パチパチと音を立てて、小さな火の粉が至る所で弾けている。幹を焦がした大木が自重を支えきれなくなり、地響きを伴って大地を振るわせる。樹木が焼ける事で発生した大量の煙は、その場に立っているだけで息苦しさを感じずにはいられない。あたりを見渡せば、何処もかしこも火の手が上がり、まさに山火事そのものだった。立ち上がる炎によって熱せられた空気が肺に入ってくると、まるで身体が内から焼かれているかの様な刺激を受ける。額に浮き上がる汗も僅か数秒で蒸発してしまう。そんな火災域を徐々に広げながら、夢見月と狼男は争いを続けていた。

「段々と動きが鈍くなってきている様だが、そろそろお終いか?」

狼男がニヤリと口元を歪めて厭らしい笑みを浮かべる。

「冗談じゃありません。誰がこのようなところで……」

一定の距離を保って狐火を放つ夢見月と、それを避けつつ前へ前へと間合いを詰める狼男。二人はかれこれ数十分に渡り、このやり取りを繰り返していた。夢見月が争いごとに慣れていないこともあってか、持久力に関しては狼男に分があった。多少の疲弊は感じているようだが、表情には余裕がある。対して、夢見月は息こそ上がってはいないが、辛そうな顔をしている。

「お前を殺した後にはお前の姉が待っているんだ、早く終わらせたいんだがな?」

「そういうことは事を成してから言いなさい。花見月には指一本触れさせません」

「いいや、それも時間の問題だろう」

「私はそれほど柔ではありませんっ!」

夢見月は狐火を断続的に放ちながら、狼男はそれを避けながら、互いを罵り合う。

「こういうことには、あまり慣れていないようだが?」

「言われずとも、すぐに慣れて見せます」

「それだけの余裕があればいいんだがな」

「それはそれは、この暑さで目がやられましたか?」

「ふん、冗談っ!」

飛び交う火球はどれも非常に大きな熱量を持っている。直撃しなくとも、付近を通っただけで狼男の体毛は嫌な臭いを発してチリチリと焦げていく。命中したのなら、それこそ瞬く間に対象を消し炭としてくれるだろう。そして、それだけの威力を持ったものを、相対して当初より、幾百、幾千と数え切れないほどに連打してきた夢見月は、己でも驚く程に体力を消耗していた。加えて敵の言葉通り、慣れない喧嘩は想像以上に集中力を使う。彼女は肉体的にも精神的にも佳境を極めていた。

「その調子で、一体何時まで持つのかね?」

どうやらこれが敵の狙いであったようだ。夢見月を疲弊させて、体力を奪った上で一息にトドメを刺そうという魂胆らしい。勿論、狼男にしても、今に至るまで無傷で夢見月が放つ狐火を避け通して来た訳ではない。全身に生えた深い茶色の体毛は至る所が焦げ付いているし、右腕には体毛を越えて皮下組織を抉る深い火傷も負っていた。

それでなお、余裕の笑みを浮べていられるという事は、彼が相手の状態を良く理解し、その上で自分の勝利が揺るぎ無いと考えているからに他ならない。慣れない山中で、素早い獲物を捕まえようと、下手に動いて相手に翻弄されるより、こうしてジッと耐えて勝機を待つ。彼の選んだ戦法は間違っていなかった。

「貴方が倒れるまで続くに決まっているでしょうっ!」

だが、夢見月とて勝機を見失っている訳ではない。愛しき姉に敵の牙が向くことなぞ考えられる筈も無く、ともすれば、否応無しに力が沸いてくる。大きく叫んだ夢見月は一際大きな狐火を正面に出現させた。

「消し炭にして差し上げますっ!」

直径一メートルはあろうかという、彼女を丸ごと飲み込んでしまえそうな巨大な火球だった。あまりに大きな体積の為、狼男から見れば、それを呼び出した本人さえ後ろに隠れてしまっていた。そして、呼び出された火球は、その大きさ見合わぬ速度で敵に突っ込んで行く。

「ちぃっ!」

小さく舌打ちをして、狼男は真横に飛び避ける。

その瞬間を狙い、狐火の後ろに隠れて共に狼男へと近づいていた夢見月が目前に飛び出した。

「な、なんだとっ!?」

「覚悟っ!」

まさか、相手から接近戦を持ち込んでくるとは思いもしなかったのだろう。虚を突かれた狼男は、既に回避運動は間に合わぬと悟り、咄嗟に両手を盾にして身を固める。そこへ腕に渦巻く炎を纏わせた夢見月が特攻した。大きく振り上げられた拳が狼男の腹部を目掛けて勢い良く振るわれる。

静奈から見て二倍近い背丈を誇る狼男では、幾ら腕を前に掲げた所で、腰下から迫る一撃を防ぐ事は出来なかった。思わぬ所で身長差が不利に働いた。彼は肘の下から迫った夢見月の小さな拳を、正面から腹部に受け止めることとなった。

「ぐぉぅっ!!!」

せめてもの抵抗に腹筋へは力を込めたものの、互いに圧倒的な腕力を持った者同士の争いだ。それは屁の足しにもならない。口から胃液を吐き散らしながら、狼男の巨躯は後方へ勢い良く吹っ飛んでいく。

「人を馬鹿にばかりしているから、こういう目を見るのです」

灰色の巨躯は十数メートルの距離を一度も地に着くことなく飛来し、やがて太い木の幹に叩きつけられて止まった。その衝撃により、耳まで裂けた大きな口からは赤い色の液体がビシャリと飛び出す。

「ぅ……ぐぅ……」

背中を強く打ったことで上手く呼吸が出来ないのか、苦しそうな呻きが漏れる。

「こ、この野郎……」

それまでの余裕が消えた、怒りに満ちた赤い瞳が夢見月を捉える。

「ここまであからさまな策にかかるとは、存外、貴方も愚直な方ですね」

「俺が……、本当に貴様のような狐如きに……、負けると思っているのか?」

「現に、こうして私の前で地に膝を着いているのは誰ですか?」

油断大敵とは良く言った言葉である。狼男は悔しげに歯をかみ締めた。腹部に受けた怪我はかなりのものである。肋骨が幾本か折れてしまっていた。加えて、内蔵にもかなりのダメージを受けたようだ。激しい吐き気が彼を苛む。両膝を地に着いて背を木の幹に預け、憎々しげに夢見月を睨みつけていた。

まさか、敵が拳を向けてくる筈が無い。そんな勝手な推測が勝負を分けたのだった。

「…………糞が」

これ以上戦うのは難しいだろう。狼男はすぐに結論を出した。相手もそれなりに疲弊しているようだが、腹部に受けた負傷は激しく、それを差し引いたとしても、彼の勝機を完全に断っていた。

「やはり、お前が妹だと気づいた時点で、すぐにでも踵を返すべきだったな」

「今更、何を言った所で結果は変わりません」

「俺としたことが、とんでもないドジを踏んだもんだぜ……」

呼吸が落ち着いてきたのだろう。それまで背を預けていた木の幹に手を着いて、重い腰を上げる。身体を動かすと怪我が痛むのか、眉間に深く皺が出来た。殴られた腹部に加えて、樹木にぶつけた背中もまた痛むようだ。

「まだやりますか?」

「…………」

最後の確認だとばかりに夢見月が厳つい顔つきで敵を睨む。

「今日ばかりは分が悪いようだな、だが、お前は俺を逃がすのか?」

「それは………どうでしょうね……」

問われて夢見月は頭を悩ませる。

放っておけばこの者は何度でも自分達の下へ現れるだろう。ここで逃がすのは非常に危険だった。争いごとを嫌う彼女としては、種別が異なるとは言え、自分と同等の知能を持った化け物を手にかけるのは本意で無い。しかし、今を躊躇えば次は己か、もしかしたら、最愛の姉がその毒牙にかかるやもしれない。

「やはり、見逃すべきではありませんね」

「………だろうな」

狼男が苦虫を噛み潰したような表情になる。

「やっぱり、逃がしちゃくれないか」

「当然でしょう?」

打って変わって逃げる手立てを探す羽目と成った狼男は、少しでも負傷から立ち直る時間を稼ぐべく軽口を叩く。走って逃げるにしても、怪我を庇いながらでは満足に走れるかどうか。それに、山中にあっては仮に怪我を負っていなかったとしても、夢見月に分がある。周囲一帯を生活の場とする彼女にとって、言ってみれば、この山は自宅から続く庭の様なものであった。

「貴方にはここで死んで貰います」

二人の間には十数メートルの距離がある。夢見月は毅然とした態度で、その間をゆっくりと歩き詰めていく。狼男は背にある幹を避けて、彼女を視界に納めたままゆっくりと後退していく。

「ったく、今日は厄日だぜ……」

ジリジリと後退する狼男の背に爆ぜた火の粉が飛んだ。チクリと針に刺された様な刺激を受けて背後を振り返る。すると、そこは一面火の海であった。足の踏み場も無く炎が立ち昇り、頭上からは火のついた木の葉や枝が落ちてくる。

とはいえ、夢見月と狼男は共に人外の化け物である。人間ならば致命的な大火傷を負うであろう火事場も、難なく動き回ることが出来る。夢見月が放つ狐火に比べれば、それによって起こされた山火事の炎は、二人にとってマッチの灯火程度の認識でしかない。

「そろそろ終わりにしましょう」

グッと夢見月が身体に力を込める。

「畜生がっ!」

相手の気配の変化を敏感に感じ取り、狼男は短く叫ぶと炎の中へ駆け出た。

「逃がしませんっ!」

勿論、夢見月はその後を追う。

激しく燃える炎を踏みつけて、二人は疾走する。それまでの余裕を持った振る舞いから一変して、狼男は形振り構わず必死の形相で地を蹴った。身体が激しく痛んだが、生きるか死ぬかの瀬戸際では患部を庇う余裕さえ無かった。だが、幾ら彼が頑張った所で、互いに十数メートルの程度の間隔を挟んでは、怪我をした彼が数歩と進まぬうちに夢見月が背後に迫る。

「苦しまぬよう、一息に葬って上げます」

少女は勝利を確信して堂々と宣言する。敵の真後ろに付いて歩調を合わせつつ、螺旋状に渦巻く炎を纏わせた右手を地面と水平に水平に構える。周囲の炎とは質の異なる、夢見月の幻想が強く込められた蛇炎は、その身を小さくうねらせて己が出番を待つ。

「私達姉妹に手を出したこと、地獄で懺悔なさいっ!」

最後の言葉と共に夢見月が手刀を振るった。

しかし、そこで予期せぬ出来事が起こった。

「うぉぉおおおおおおっ!!!!」

狼男の悲鳴は彼女の一撃が打ち込まれる前に上がった。立ち込める大量の煙と、そこらじゅうから立ち昇る炎とで視界が悪かったのが原因である。狼男は己が進む先が崖になっていることに気づかず、何の躊躇も無く一歩を踏み出し、そして、真っ逆さまに落下していった。

ブォンと低い音を立てて夢見月の一撃は空振りに終わる。

「仕損じましたか………。まったく、悪運の強い狼ですね」

崖の縁で立ち止まった彼女は敵の落ちていった先へ目を向ける。崖は十数メートル程度の高さがあるだろうか。崖下は樹木の葉に覆われており、そこに狼男の姿を視認することは叶わない。この程度の段差では、幾ら手負いの敵だとしても、致命傷に至ることは無いだろう。そう素早く判断を下した夢見月は、自らも狼男を追って縁から飛び降りた。

木の枝に肌を引っ掛けながら落下、そして自重を感じさせない軽やかな着地。崖の下は未だ火の手が及んでおらず、火の熱に慣れた身体は若干の涼しさを感じた。だが、そんな些細な清涼感も、目の前に飛び込んできた光景を目の当たりにして、瞬く間に霧散する。

「あ、貴方達はっ!」

つい反射的に声を上げてしまってから、夢見月は失敗したと慌てて口を塞ぐ。

「ほぉ……、面識があるのか」

彼女の前には狼男の他に、どういう訳か山野と柳沢が居た。

「ちょ、ちょっと……。これって一体何なのよ」

明らかに怯えた様子で柳沢が小さく呟く。

「今落ちてきた子は昼に会ったけど、こっちの毛むくじゃらは知らない」

「化け狐の次は狼男ですって? そ、そろそろ私は現実が信じられなくなりそうよ」

山野と柳沢の二人は、突如として頭上から降って沸いた二人へ交互に視線を向けて、それぞれ勝手な感想を口にする。武人の誘拐の裏に人外の存在を予感して山に入った彼女達は、しかし、一目見て異様な狼男の概観に圧倒されていた。

「貴方達、その者から離れなさいっ!」

慌てた様子で夢見月が足を浮かせる。

だが、遅かった。

「おおっと、溺れる者は藁をも掴む………ってな」

高々数歩の差で狼男より二人から離れていた夢見月は、彼が彼女達を拿捕するを許す。敵は二人のうち手近な山野の腕を取ると、その豪腕で無理やり己の下へ引き寄せた。そして、昨晩は武人にした様に、鋭く尖った頑強な爪先を喉元へ突きつける。

「えっ!? ええっ!?」

友人が捕らわれたことに、訳が分からない、といった様子で柳沢は目を白黒させる。一方で捕らわれた山野は、驚きを露に無言で狼男を見つめていた。

「その人間をどうするつもりですか?」

「なんつーか、最近の俺って卑怯者だねぇ?」

「そう思うのであれば、今すぐに解放しなさいっ!」

夢見月は悔しそうに顔を歪める。もしも、囲われたのが全く知らない人間だったのなら、一切遠慮は無かっただろう。しかし、たった一度だけの面識ながら、自分の姉に優しくしてくれた存在、というのは思いのほか彼女の中で抵抗を生んだ。

「その様子だと、それなりに使えそうだな」

夢見月の反応を見て狼男が嬉しそうに笑みを作った。

「ちょ、ちょっとっ! 山野をどうするつもりよっ!!」

多少混乱した様子で柳沢が狼男に叫ぶ。

「それはアイツの出方次第さ」

そんな彼女に狼男は夢見月を視線で指し示して応じる。

「流石の俺もこれだけの怪我を治すにゃ、そうだな、丸一晩……、いや、余裕を持って二晩は考えた方がいいか。中途半端な状態で挑んで同じ目を見るのは御免だからな。ここは慎重に行かせて貰うぜ?」

「また、同じ事を繰り返すつもりですか?」

「前にも言ったと思うが、俺はこれが仕事だからな」

彼の言う仕事とは、そこまで大切なものなのか。理解出来ない、といった様子で夢見月は憎々しげに眉に皺を寄せる。

「それに、次は絶対に負けないさ。始めから全力で潰させて貰う」

普段は人気など皆無のこの山で、何故に彼女達の様な歳の若い人間が活動しているのか。夢見月は己の運の悪さを呪わずにはいられなかった。これで登山リュックでも背負っていたのなら話は別だが、見みれば二人は学校の制服姿である。ますますもって意図が知れない。

「貴方は、私がその者の為に躊躇するとでも思っているのですか?」

だが、不幸を嘆いてばかりではいられない。

彼の言うとおり今回は上手いこと敵を陥れることが出来た。しかし、それが次も成功するとは限らない。寧ろ、相手の油断を誘えない分だけ夢見月が不利になるのは間違いない。だからこそ、敵は此処で仕留める必要がある。

「ひとつ言っておきますが、私は人間が大嫌いです」

そう決心する何よりの材料、彼女はこれ以上、花見月が傷付く姿を見たくなかった。

「それは初耳だな」

せめてもの抵抗、時間稼ぎに過ぎないだろうと、狼男は相手の口上に乗ることなく軽口を返す。けれど、夢見月は躊躇わなかった。スッと表情を落として足を前に出す。一歩、二歩と進んだ所で、狼男がうろたえ始めた。

「ま、待てっ! いいのか!? 本当に殺すぞっ!?」

山野に向けた爪先を動かす。プツッと皮膚に穴が開くと、少量の血液が雫となって首筋を流れた。紅い粒は肌を伝い、セーラー服の襟まで辿り着くと、その生地に触れて己を繊維の奥深くへ溶け込ませる。

「どうぞ、ご自由に」

夢見月には戸惑いを感じさせない凛とした雰囲気があった。

「ま、待ってよっ!!」

そんな彼女に柳沢が食って掛かる。

対立する二人の間に割って入ると、両手を広げて夢見月の歩みを止めた。

「邪魔をしないで下さい」

「するに決まってるじゃないっ! 山野が、山野がっ!!」

化け物に対する知識は一通り静奈から学んである。おかげで彼女は、山野に爪を向ける狼男、それに挑まんと進む夢見月、そして、両者の抗争から導かれるであろう結末、全てを現実として理解できた。

「運が無かったと思いなさい」

「そ、そんなの酷いでしょっ!?」

己の為に夢見月を説得しようと必死な友人の姿を、山野は狼男の腕に抱かれながら黙って見つめていた。彼女も山へ入るに際して、こうなる事を予想しなかった訳ではない。しかし、そうそう危うい目を見ることは無いだろうと高を括っていたのも事実だ。彼女の慣れ親しんだ常識は、この山の中では一切通用しなかった。

「貴方がこうして友人を大切に思うように、私にも大切に思う存在があるのです」

スッと瞳を細めた夢見月が柳沢を見つめる。

「でも、少しくらい譲歩してくれたっていいじゃない」

「ですが、ここで貴方が大切に思う者を助けたのなら、代わりに私が大切に思う者が生命の危機に晒されるのです。私はその者を深く愛しています。その者の為ならば、命を失っても良いと思っています」

ひとつ深呼吸を置いて、畳み掛けるように夢見月は続けた。

「それでも貴方は、私に貴方の友を救えと言いますか?」

「…………」

柳沢に返す言葉は無かった。

「そういうことですから、そこを退いてください」

自分を見上げてくる小さな女の子の視線に負けて、柳沢は口を噤んだまま顔を伏せた。

「もしも退かないというのならば、こちらもそれ相応の手段を講じます」

スッと夢見月の腕が上げられる。

女性としては165センチと比較的身長の高い柳沢。彼女を前にすると、夢見月は圧倒的に小さい。擡げられた腕は、指先がセーラー服の胸のリボン程度の高さにしかならない。けれど、身体能力の差は圧倒的であった。

「退かないのですね?」

「っ!?」

背後に山野を置いて、柳沢は動くに動けないまま少女の平手打ちを脇に受けた。

満足に悲鳴を上げる事も儘なら無い。夢見月としてはそれほど強く打ち付けた訳ではなかったが、それでも、華奢な人間の身体は容易に地へ倒れ伏した。ドサリと音を立てて、枯れ草の絨毯へ横たわる。

「柳沢っ」

狼男の腕に抱かれる山野が友人の名を呼ぶ。

「私は人間が嫌いです」

「…………」

「ですが、貴方のように他人の為に身体を張ることが出来る者は嫌いではないです。ですので一つ教えてあげましょう。直にここも火に巻かれます。死にたくなければ早々に下山なさい」

倒れ伏した柳沢を見下して、夢見月は淡々と言い放った。

彼等彼女等が居る場所からも、山火事による火や煙は感じ取れる。位置の関係上、火の手が進む速度は遅いが、このペースで延焼すれば、いずれはここも危ういだろう。そして、火事がどの程度の規模で発生しているのかわからない以上、下手に残るのは危険だった。もしも周囲を囲まれてしまったのなら、下手をすれば焼死する可能性もある。

「山野……」

痛む脇を擦りながら、ゆっくりと顔を上げる。

そんな柳沢を既に夢見月は見ていない。狼男を前にして、ゆっくりと足を動かし近づいていく。小さな足が地を踏む規則的な音が敵の焦りを煽る。山野を抱えたまま、彼女が近づくに応じて狼男も一歩、また一歩と後退して行く。

「既に貴方の行き着く先は決まっているのです」

夢見月としても、犠牲を出さずに済むのなら、それに越した事は無いと考えている。こうして時間をかけて臨むのは、敵に山野の利用を諦めさせる為でもある。焦りに駆られた敵が、彼女を捨てて逃げ出すことを期待していた。

「………糞」

ギリリと音を立てて、狼男は無意識のうちに歯軋りをした。自然と身体にも力が入る。

「痛っ!?」

敵の腕に抱かれた山野が小さく悲鳴を上げた。狼男の強靭な肉体に圧迫されて、柳沢よりも頭一つ分だけ小さな彼女の身体は、彼の硬く強張った筋肉によって、骨をゴリゴリと擦る様にきつく締め付けられていた。

そんな彼女を前にしても、夢見月の歩みは変化を見せない。

「畜生っ!」

狼男は大きな叫び声を上げて、人質の背中を夢見月に向けて蹴りつけた。ドスンという低い音と共に、山野の足が地面から離れる。そして、間髪置かずに夢見月の小さな身体へとぶつかった。夢見月は避ける事を躊躇って、それを抱きとめる。敵は山野を蹴ると同時に踵を返すと、二人に背を向けて駆け出した。

「ま、待ちなさいっ!」

背面へ振り返りざまに蹴りつけられたので、それほど強力な一撃では無かった筈だ。しかし、脆弱な人間にとって人外の蹴りは強烈だった。山野は大きく目を見開いてヒクヒクと全身を震わせている。

「動けるのなら、この者を連れて山を下を降りなさい」

夢見月は両腕に抱えた山野を地面に横たえる。そして、柳沢に目を向けることなく厳しい口調で言い放つと、既に距離を稼ぎつつある狼男の後を追った。その後姿は圧倒的な速度で、二人より遠ざかっていく。

「や、山野っ! 山野っ!!」

後には柳沢の嘆きだけが響く。

そんな彼女の嘆きを背後に聞きながら、狼男は脱兎の如く逃げ出した。

己が蹴りつけた人間を夢見月は避けずに抱きとめた。これによって出来た僅かな猶予を持って、彼は距離を稼ぐ。内臓を負傷したのだろう。内側から痛む腹部を手で押さえながらである。

「クソッたれ、この俺がこんな辺鄙な片田舎で死んで堪るかっ!」

背後には多少の距離を置いて迫る相手の気配がある。もって、あと数十秒と言ったところか。とはいえ、視界も悪い山中にあっては、上手く身を隠すことが出来たのなら、逃れることも不可能ではない。僅かな可能性を信じて、彼は全身に走る激痛に耐えて駆けた。

すると、鬼ごっこを続ける二人の進行方向に、ふと何かが動く気配があった。

人類を超越する高感度な聴力を持つ狼男には、その気配が何か、話言葉を発している事が理解できた。近づくに連れて声は徐々に鮮明になっていく。そして、ふと彼はそれが比較的最近になって耳にしたものであることに気づいた。

「ほぉ……」

口元には自然と笑みが浮ぶ。

彼の感じた気配とは、花見月と夢見月の家を後にして、自宅を目指し山を下る武人と静奈であった。狼男は一路向かう先を変更して、動く気配へ向かい足を進めた。すると、暫くして背の高い樹木の合間から、木漏れ日を受けてキラキラと光る静奈の金髪が見えてきた。二人と狼男との間には数十メートルの距離がある。

「は、はははは。俺の悪運もまだまだ捨てたもんじゃねぇな」

狼男は小さく歓喜の声を上げる。

後方には徐々に距離を詰めてくる夢見月がいる。しかし、彼が二人の下へ辿り着くには十分な間隔があった。

「どうせ、また卑怯者呼ばわりされるんだろうがな」

くっくっくと厭らしい笑みを浮べる。

「まったくもって上等だ」

狼が狙う次の獲物は決まった。

夢見月と花見月の家を後にしてから数分が経った頃だろうか。他愛ない会話を交わしながら歩く静奈と武人は、背後から自分達に向かい迫る足音に気づいた。湿った地面の上に敷き詰められた枯葉を、規則的に踏みしめるザクザクという音だ。始めに気づいたのは静奈である。

「主よ、何か近づいてくるぞぇ」

歩みをそのままに武人へ告げる。

「何って何だよ?」

「それは分からぬが、多分、後ろからじゃ」

こんな山の中に自分達以外に誰がいるというのだ。夢見月が起こした、狼煙と称するには度の過ぎた山火事を思い起こし、火に追われた鹿や猪といった野生の動物でも現れたのかと、二人は自分達が歩いてきた道を振り返る。

すると、そんな彼等の視界に飛び込んできたのは、二足歩行で駆ける狼の姿だった。

驚いた武人が悲鳴に近い声を上げる。

「ちょ、ちょっと何でアイツがここに居るんだよっ!!」

二人とも、間違いなく自分達を目指しているであろう敵の姿を確認して、慌てて前方に向き直り走り出した。勿論、仰っけからの全力疾走である。

「夢見月と戦ってるんじゃなかったのっ!?」

一昼夜を縄に巻かれて過ごした武人は、満足に睡眠も取れず、極度の緊張も相まって、疲労困憊を極まっていた。汗にぬれたシャツや汗が身体に張り付き、皮脂で固まった髪がペチペチと額を叩く感は不快な事この上ない。その上でのマラソンだ、自然と愚痴も口から漏れる。

「ぬぅ……、考えられる可能性としては、あの者が負けた、ということか」

「そんなぁっ」

青白く色を変えた顔が絶望に染まる。

二人と狼男との間には50メートル程の距離がある。彼らが確認した相手の姿は樹木に隠れて指先ほどの大きさしかなかった。だが、それも互いの身体能力の差を考えれば些細なものである。負傷しているとは言え、狼男の脚力は武人や静奈のそれと比べてなお優れていた。

「これは……、逃げ切れんかもしれぬ」

徐々に近づいてくる足音に静奈が小さく呟く。

「ま、また捕まるのっ!?」

「主よ、もっと早く走れんのかぇ?」

「無理だよ、これ以上なんて、今だって全力だし、後どれだけ持つか……」

二人の位置からは、狼男の後を更に数十メートル遅れて追う夢見月の姿が見えない。既に後が無いと考えて、武人と静奈は焦りを加速させる。しかし、幾ら焦った所で足が動く早さは変わらない。30メートル、20メートル、そして10メートルと徐々に距離を詰める狼男を武人が振り返った。

「ちか、近いよっ!」

武人の叫びが山に木霊する。

彼の隣を併走しながら、静奈は考えていた。ここで武人を見捨てて先に逃げるのも一つの案なのだと。彼を置いて逃げれば、敵は彼を捕まえ、自分は追われることも無くなる。尻尾が一本しか無いとは言え、100メートル走で19.5秒を叩き出す武人に比べれば、彼女は断然に早く走ることが出来る。幾ら目付け役をしているとはいえ、自分の身を危険に晒してまで仕事を遂行する程の義理を、静奈は武人や義人には感じていなかった。

「し、静奈、何とかならないのっ!?」

走り出してから1分と経っていないにも拘らず、武人は既に息が上がっていた。

「我の力では、敵を相手にするのは無理じゃ」

そんな彼の姿に見切りをつけた静奈が判断を下す。

「主よ、悪いが我は……」

だが、それは決断するに些か遅かった。

武人に別れの言葉をかけようと口を開いた静奈の背中に強烈な衝撃が走った。小さな身体が、走っている速度にも増して、勢い良く前方に吹っ飛んでいく。彼女の背中には膝を突き出し飛び蹴りを加える狼男の巨躯が乗っていた。

二人は武人の横を通り過ぎ、前方に聳える巨木に当たって止まった。

「ぁっ!?」

悲鳴にもならない呻きが武人の耳に届く。

硬い木の幹と狼男の膝とに挟まれて、前後から圧迫された静奈の身体がミシリと音を立てて軋んだ。普通に生活している分には滅多に聴くことの無い、妙に強く耳に残る音だった。人体から発したとしては、これほど恐ろしいものもないだろう。恐怖に震えた武人の足が自然とその場で止まる。

「さぁて、これでまた立場は逆転、ってな」

狼男が勝ち取った獲物の首を掴んで身体を持ち上げる。二人にはかなりの身長差があるので、彼が肩の高さまで腕を上げると、それで静奈の足は地面から離れてしまう。背中に受けた膝蹴りが余程強力であったのだろう。彼女は全身をピクピクと痙攣させて、抵抗らしい抵抗も見せずに、口を大きく開けて焦点の合わない目を空に向けている。

「静奈っ!」

生々しい生物としての反応を晒す静奈の姿は、武人にとって酷く衝撃的だった。

そして、静奈への一撃から遅れること数秒の後、その後を追っていた夢見月が三人の下へ辿り着いた。彼女は己の恩人が晒す居た堪れない姿を目の当たりにして、怒りに満ちた叫び声を上げる。

「あ、貴方は何度同じ事を繰り返せば気が済むんですかっ!!」

静奈を捕らえた狼男と武人との間には数メートルほどの間隔がある。夢見月は武人の下へ駆け寄るり、彼に怪我が無いことを確認する。そして、両者の間に割って入ると、すぐに敵へ向き直った。

「仕事が成功するまで、何度だって繰り返すさ」

「自分が不利になると弱い者を人質にとる。そこまでして仕事をしたいですか?」

ギリっと歯を食いしばって、握った拳を震わせている。

「俺って真面目なんだよねぇ……」

「だっ、黙りなさいっ!!!」

ビリビリと空気を振るわせるほどの声量で叫ぶ夢見月に、驚いた武人の肩がビクリと震えた。幾ら自分に敵意が向けられていなくとも、自分を容易に殺せるだけの力を持つ彼女の怒りは、小心者の彼にとって畏怖の対象だった。

「それだけ癇癪を起こすってことは、まだ俺にも機会がありそうだな」

「また逃げるのですかっ!?」

「話が早くて助かるね」

全く悪びれた風も無く狼男は言ってのける。

狼男は夢見月の火球を受けた事で身体の至る所に火傷を負っている。そして、夢見月は燃える木々の合間を駆けたことにより、皮膚に直接の火傷は無いものの、衣類の彼方此方が焦げ付いていた。そんな二人の凄惨な姿を目の当たりにして、臆病者の武人は割って口を開く事も出来ずに、呆然とやり取りを眺めるしかなかった。

「さっきも言ったと思うが、怪我を治すに丸二晩ほど待って貰おう」

狼男が右手に掴んだ静奈の首に力を加える。

「ぅぎっ!?」

痛みの為か、呼吸困難の為か、それまでブランと垂れていた静奈の四肢がジタバタと揺れ始める。徐々に光を取り戻し始めた瞳が、断続的に与えられる苦悶に細められていた。狼男に握られた付近の血管が、強い力で圧迫されて表皮に影を作る。

「ま、待ちなさいっ! 分かりました、分かりましたから彼女を下ろしなさいっ!」

「本当か?」

「本当ですっ! 彼女は私と違ってまだ尻尾が一本しか無いのです。容易な怪我が命取りであることを理解しなさい!」

静奈が尻尾一本の化け狐であることは、昨晩、共に洞窟で夜を明かした際に聞いていたのだ。

「それに、今此処で貴方が彼女を殺してしまったのなら、私は貴方を殺す事に何の躊躇も無いのですよっ」

夢見月は眉間に深い皺を寄せて敵を睨みつける。そんな彼女を前に狼男は おお怖い、と大げさに肩を竦めて見せた。そして、両足が地面に付く高さまで、静奈の身体をゆっくりと下ろした。

応じて、それまで激しく振るわれていた静奈の両手両足が大人しくなる。しかし、依然として全身には酷い痛みがある様だ。首に両手を添えて背を丸めると、苦しそうにゼイゼイと息をしている。苦しみに耐えかねて、地面に腰を下ろすべく自然と膝は曲がる。だが、そんな彼女の望みを妨げるよう、首から放された右腕が今度は、彼女の腰下まで伸びる金髪の根元を鷲掴みにした。

「っぅ!?」

無理やり頭皮を引っ張られて顔がカクンと上を向く。

「………貴方ほど性根の腐った者は初めてです」

誰の目にも可愛そうに映る静奈の姿に、夢見月は今にも飛び出していきそうだった。

「何とでも言えばいい。腐ってても使い道があるものは沢山あるんだよ」

「ですが、腐って使えなくなるものは、それよりも更に沢山あります。貴方には良心というものが無いのですか? 自分の行いがどれだけ酷いものか、それが理解出来ないのですか?」

「やかましい、お前の勝手な妄想を俺に押し付けるな」

「何が妄想ですかっ!」

「だったら理想か幻想、何にせよ独りよがりの慢心だ」

「貴方という人は、それで自分だけが罷り通れば良いと言うのですかっ!?」」

硬く握られた夢見月の拳から一滴の血液がポタリと垂れる。

「良心なんて曖昧なものを信仰できるほど俺は強く出来ちゃいないんだよ」

「それこそ強者の驕り以外の何物でもありませんっ!」

二人の会話は決して交わる事の無い平行線だった。

「静奈……」

夢見月の身体越しに見える静奈の姿は弱々しく、武人の目にはそれが全くの別人として写った。出会ってから三日と経っていないが、両手で身体を抱いて背を丸めたその様子は、普段からの達観した振る舞いとは遥かかけ離れたものである。

「まぁ、お前と俺が分かり合える日なんて何年経とうが来ないだろうよ」

元より夢見月に向き合う姿勢など無いのだと、フッと小さく笑ってみせる。

「話をするだけ時間の無駄だ。だから伝える事だけ伝えて、俺は御暇させて貰うとするぜ」

「くっ……、この卑怯者が………」

静奈を人質に取られてしまっては、夢見月は手も足も出ない。

「例によって、お前達姉妹の山小屋で二日後の昼に待ってるぜ?」

静奈は彼女にとって命の恩人である。武人に対してそうであったように、その命を無視する事は出来なかった。少しでも助けられる可能性があるのなら、我慢するしかない。細められた瞳は憎しみの炎に彩られて紅く燃え上がっていた。

「………好きにしなさい」

狼男の言葉に、夢見月は黙って頷くことしか出来なかった。

本来ならば、静奈の身柄の有無に関わらず、彼の提案は決して許されるようなもので無いのだ。彼女と彼女の姉が暮らす山小屋は、二人の思い出が詰まった尊い場所だ。そこへ彼の様な、良識の無いならず者が土足で立ち入る。夢見月としては腸の煮えくり返る思いだった。

だが、事態は狼男が望むようにすんなりとは運ばなかった。均衡した場を破るように、彼等彼女等から十数メートル離れた藪の中から、事情を知らぬ第三者が現れたのである。生きるか死ぬかの瀬戸際にあって、夢見月との会話に集中していたことで、これには狼男も気づいていなかった様子だ。

「なんだお前達はっ!?」

「お、狼男かっ!?」

それは紺色の制服を着込んだ警察官であった。それも一人や二人ではなく、十人近いグループである。そのうち幾人かは腰に大型の無線、それにGPS端末を下げてる。どうやら、組織的に山の中を捜索している様だった。

群れを成した人間の姿を見止めて、夢見月、狼男共に視線が互いから離れる。

警察官達は、ギロリ、と擬音が聞こえてきそうな狼男の険しい目つきに睨まれた。

「ひ、ひぃっ、化け物!?」

グループの先頭に立って歩いてきた警察官の一人が、狼男の姿を目の当たりにして、反射的に腰に下げた拳銃を両手に構えた。カチャリと音を立てて、震える人差し指が引き金に当たる。

「お、おい何やってんだっ!」

他の者は慌ててそれを押しとめようとした。

しかし、時既に遅く恐怖に駆り立てられた彼の人差し指は、銃のトリガーを引いてしまっていた。ハンマーが落ちて雷管を叩き、パァンと乾いた音を立てて銃弾が飛び出す。鉛玉が勢い良く発射された。

「ぐぅっ!?」

警察官は装填されていた弾丸の全てを矢継ぎ早に打ち出した。そして、そのうちの1発が偶然にも狼男の脛に銃弾は命中した。予期せぬ出来事に咄嗟の対応が遅れたのだ。

分厚い筋肉に阻まれて弾丸は貫通することなく体内に残る。その直ぐ隣に静奈が居た事を考えると、彼女に当たらなかったのは運が良かった。深い毛に覆われた弾痕から、プシッと血液が噴出する。

「あの野朗、あれだけ脅したにも関わらず言いつけを破りやがったか」

狼男は自分が昨晩に逃した男の姿を思い出して悪態をつく。

だが、藪から現れた警察官達の中には彼の知る男の顔は無かった。鉛玉を体内に残してジクジクと痛む足へと視線を落す。傷口は大したこと無い。だが、高が人間如きに身体を傷つけられたという事実が彼のプライドを甚く刺激した。

誰に話しかける訳でもなく、狼男は小さく念仏の様なものを唱え始めた。そして、その数秒後のこと、キッと警察官達を睨みつけると、その場から足を動かすことなく、腕を大きく横に振るった。

「死ねっ!」

何も無い空間へ腕を振るって、この化け物は一体何のつもりなのか。理解出来ない相手の反応に、警察官達は疑問符を浮べる。しかし、その答えは間髪置かずに、言葉としてではなく、彼等の身へ直に刻まれることとなった。振るわれた腕にあわせて、狼男を源とした強烈な突風が巻き起こる。かと思えば、次の瞬間には、その水平延長上に存在した警察官達の身体が、鋭利な刃物を引かれたかの様に切り刻まれていた。

「っ!?」

武人と夢見月の瞳が驚愕に見開かれる。

ある者は首を飛ばされ、またある者は上半身と下半身を分断され、彼等の周囲一帯には大量の血飛沫が舞った。近くに生えていた木々もまた、人間と同様に幹を切断されて、互いに枝や葉を擦らせながら倒れ行く。武人や夢見月の耳には、警察官が上げる耳を突くような叫び声と、大地を震わせる樹木の倒壊音が否応無しに飛び込んできた。鼓膜が限界を超えて震える痛みに、思わず耳を両手で覆いたくなる程の喧しさだった。

「クソッたれが」

まるで痰をはき捨てる様に、狼男は呟いた。

一箇所に固まっていた事が災いした。藪から現れた警察官達は誰一人の例外なく、彼の放った衝撃波により身を切り裂かれていた。しかも、刻まれた場所は誰もが人体の中枢に近い首や胴といった箇所だ。助かる見込みは微塵も感じられなかった。特に、腰や胸、腹といった箇所で肉体を切断された者達の呻きは酷い。寧ろ首を落とされて一息に死ねたほうが幸せに思える程に、ショック死する事も出来なかった彼等は、全身を駆け巡る激痛に苦しみ、のた打ち回っていた。

「うっ、ぉっえ゛ぇ……」

その凄惨な光景に、温室育ちの武人は耐えられなかった。昨晩から何も食事を摂っていなかったことで既に空となっていた胃から胃液を逆流させた。自ら人間を嫌いだと豪語する夢見月もまた、哀れな人間達の姿を目の当たりにして眉に皺を寄せる。

「この雑魚共が……、面倒なものを打ち込んでくれやがって。これを取り出すのがどれだけ痛いか、お前等は理解出来ないのか? 大した能力も無いくせに武器だけは大層なものを振り回しやがって」

彼の言葉を理解出来るだけの余裕がある者は、警察官達の中に誰一人として居ない。あたり一帯を真っ赤に染めて、その一角だけが、まるで地獄に堕ちたかのような凄絶たる態を露としていた。

「……………」

その様子を、夢見月は特に何を口にするでもなく、ただ黙って見つめていた。

「どうした? 今更驚いた訳でも無いだろ?」

口元を嗜虐的に歪めて、狼男が夢見月に向き直る。

足に銃弾を喰らってなお、彼には二本の足で立って動き回るだけの余裕があった。全ては強靭な筋肉によって作られる狼男としての肉体に因る。野生の熊や大型の猪が、猟銃を身に受けながらも、牙を剥いて人間へ襲い掛かってくるのと同様である。

「別に、人間が何人死のうと私には関係ありません」

警察官達の登場を挟んで、若干の落ち着きを取り戻した夢見月が素っ気無い態度で答える。

「そうかい、なら良かった」

狼男は心にも無いことをいけしゃあしゃあと言ってのける。

ゲホゲホと咳き込みながら、咥内を刺激する酸っぱいものを吐き切った武人が、眦に涙を耐える眼を正面へ向けた。銃弾を受けた狼男の足からは血液が流れ地面を僅かに赤黒く染めている。あまりの現実感の無さに、それは彼にとって、遠い世界の出来事のように感じられた。

「こいつらも山の肥やし位にはなるだろうさ」

憂さ晴らしのつもりだろう。徐々に呻き声を弱らせていく警察官達へ、狼男はもう一度、先ほどの同様の衝撃波らしきものを放つ。僅かに生き残っていた数名も、それで完全に事切れた。

「そして、逃げるのですね」

「当然だろ?」

狼男が放った突風を受けて浮かび上がった肉片が、少し離れた場所にビチビチと水っぽい音を立てて落ちる。それだけで、静奈の名を呼ぼうと開きかかった武人の口は閉ざされてしまった。

「お前等姉妹も、これくらい簡単に死んでくれれば話は早いんだけどな」

「私や花見月を人間などと一緒にしないで下さい」

「ふん、分かってるさ。もしそうなら、そもそも仕事なんて回ってこないしな」

「どういうことです?」

「別に、言葉通りの意味だ」

夢見月と狼男、互いの視線が静かに交わりあう。

「それより、約束を忘れるなよな?」

「………分かっています」

怒りに肩を振るわせる夢見月は、それでも、小さく頷いて敵の要求に応じた。

その姿に満足気な笑みを浮べて、狼男は彼女を正面に置いたまま、ゆっくりと後退して行く。勿論、片手には静奈の髪が確りと握られている。彼女は敵に引かれるがまま、抗う事も出来ずに足取りも危うく引き摺られていく。

徐々に離れ行く狼男と静奈の姿を前にして、反射的に武人の足が一歩前へと出た。身体は夢見月の隣りに並ぶ。静奈は顔を地に伏せており、長い金髪に隠れて表情を確認することは出来ない。だが、つい先刻まで同様の境遇にあった武人としては、その心境が多少なりとも理解できた。

「し、静奈っ!」

しかし、圧倒的な恐怖を前に、たった一歩進んだだけで足は動かなくなってしまった。横を見れば、そこには無残な肉塊と果てた警察官達の躯が並んでいる。この状況を前に、彼には狼男へ拳を向けるだけの勇気が無かった。今の精一杯は、こうして彼女の名前を叫ぶことである。

足取りもたどたどしく、まるで縄につながれた犬のように、静奈は狼男に従い武人と夢見月から離れていった。

だが、十数メートルを進んだあたりで、そんな彼女の身体に変化が起こる。

いや、正確には彼女の身体の周囲にである。

静奈が小さく身を震わせた。かと思いきや、その頭上に、ちょうど狼男の顔に接する位置で子供の拳大の狐火が現れたのだ。

「ぬぉおおっ!?」

驚いたのは狼男だ。夢見月の動向に集中していた彼にとって、ただの人質に過ぎぬ静奈からの反撃は完全に予想外の出来事だった。それまで彼女が武人というただの人間と共に居たことから、また、尻尾一本の化け狐だと夢見月から聞かされていたことから、その存在を完全に蚊帳の外へと追いやってしまっていたのだ。

両目を焼かれる痛みに、敵は反射的に両手を顔へ向ける。

「くあぁっ! め、目がっ!!」

出現した狐火は、昨晩に夢見月を探す道中の灯りとして出現させたものより一回り小さかった。そして、数も一つきりである。それだけ静奈の負傷は深いものであった。とはいえ、自分を見ていない相手を撹乱するには十分な威力を発揮した。

その隙を突いて、狼男の拿捕から逃れた静奈が駆け出した。勿論、向かう先は夢見月と武人の元である。痛む身体に鞭打ちながらの全力疾走だった。

しかし、相手もそう簡単には逃走を許さない。彼女は彼にとっての命綱である。ここで夢見月の手に渡れば彼に明日は無い。極限状態での損得勘定を的確に済ませた狼男は、耐え難い痛みに身を悶えさせながら、聴力のみを頼りに静奈を追った。

「ぬぉおぉおおおおおおおおおおおおっ!」

そして、彼の聴力は偉大だった。完全に視力が失われた中にあって、的確に彼女へと迫った。銃弾を足に食わせながらも、己の命が掛かっているとあってか、並みの人間以上に素早い。対して、内臓に大きなダメージを受けていた静奈は上手く走ることが出来ない。二人の距離は瞬く間にゼロとなった。

「させませんっ!」

そこへ、静奈の反撃に勝機を見出した夢見月が地を蹴って飛び出した。

元より互いにそれほど離れていた訳でもなく、夢見月と静奈、それに狼男はある一点に置いて接する事となった。長い爪が並ぶ狼男の手が、静奈にあと数センチまで伸びる。夢見月の拳が狼男の顔へ向かう。

決着は予想外のアクシデントに見舞われた。

「っぅ!?」

足に受けた銃弾が神経を擦る痛みに、狼男が突如としてバランスを崩したのだ。転びそうになるのを、慌ててもう一方の足を前に出して踏ん張る事で防ぐ。それは目前まで迫った夢見月の拳に対する、最高の回避運動となった。

「なっ!?」

目が見えない敵を相手に拳を避けられたことで、夢見月の顔が驚愕に染まる。

「くっ!」

その様子は静奈の目にも届いた。

勢いのついた夢見月の身体は狼男より後方へ流れて行く。それに対して、転倒を回避した敵は足を止めることなく、逃げる静奈へと手を伸ばす。そして、二人が向かう先には武人の姿があった。

頼みの綱が切れた今、静奈にはもう後が無かった。

「えっ!? ええぇっ!?」

逆転のチャンスから己の危機へと、瞬く間に変化した周囲の状況に混乱して、武人はその場から逃げ出すことさえ忘れて一人うろたえていた。右を見ても左を見ても、彼を守ってくれる存在は居ない。

地面に足をめり込ませて急激に方向を転換した夢見月が狼男を振り返る。だが、時既に遅く、狼男の腕は静奈を捕らえようとしていた。大降りのナイフにも勝る鋭い爪がずらりと並んだ狼男の手が、長く後方へ靡く静奈の髪を掴まんと握られる。

静奈は最後の決断を下した。

「すまんのぉ、武人」

「え?」

武人の目前まで迫った静奈が、その耳元で小さく囁いた。

彼には彼女が何故に自分に対して謝るのか、意味が分からなかった。

「主の親父との約束もこれまでじゃ」

静奈が両手で武人の二の腕を掴んだ。かと思いきや、駆ける己と立ち位置を換える様にして、後方から迫る狼男に向けて投げつけたのだ。足が地から浮くほど大きく横に振るわれて、遠心力に任せるがままに勢いのついた武人の身体は、静奈を中心として弧を描き後方へ向かっていく。

「ええぇっ!?」

そして、そこには狼男が間近まで迫っていた。

「ぐぉっ!?」

「っ!!」

目の見えない狼男と、足が地面に着いていない武人。両者にはお互いを避けるだけの余裕も無い。狼男の脇腹へ武人が頭から突っ込む形で、間髪置かずして二人は盛大にぶつかる羽目となった。

予期せぬ衝撃を受けて、既に静奈の髪に触れるまで近づいていた狼男の手は、しかし、僅かに遅く空気を握るに終わった。同時に、己の身体に与えられた衝撃で身体は再びバランスを崩す。そして、今度は立ち直る事も出来ずにそのまま地面へ倒れ伏した。

武人は狼男の転倒に巻き込まれる形で、その下敷きとなる。

「な、何が起こりやがったっ!?」

混乱した狼男の指先が己の下に横たわる存在へ触れる。

「ぅう……」

返って来たのは、男のものであろう呻きだ。

狼男はすぐさま自分が置かれた状況を理解した。彼の高感度な耳には、静奈の武人に呟いた最後の言葉まで、しっかりと届いていたのだ。それを聞いた瞬間こそ疑問を持ったが、この結果を考慮すれば、今なら容易に理解できた。

「は、はははははは」

そして、理解した次の瞬間には大きく声を上げて笑っていた。

静奈が武人を見捨てて保身に走ったのである。

「そうか、なるほど……、なるほどなぁっ!」

すぐ近くに夢見月の気配を感じて、咄嗟に身体を起こした狼男は、その場に膝立ちとなり、己が股の下に跨ぐ者へと爪を突きつけた。彼の眼球は完全に焼けてしまっており、爪先が当たっている部位が何処なのか、本人には全く分からない。しかし、その先に感じる僅かな皮膚の反発が、彼に生き残る可能性を信じさせた。

「な、何故……」

夢見月は狼男の追跡から逃れた静奈を見つめて愕然と呟いた。

「何故? 何故と問うかぇ?」

そんな彼女に静奈はなんでもないことの様に言ってのけた。

「我はまだ死にとうない」

それは至極普通で単純明快な理由だった。

「ですが、そんな……彼を身代わりにするなどと……」

「我と武人は出会って三日の、一食7個、毎日21個の稲荷寿司で結ばれた仲じゃ。それ以上でもそれ以下でもない。主が我と武人にどのような間柄を思ったのかは知らぬが、我には命を張るだけの義理も無いのじゃ」

全身を苛む苦痛に背を丸めて、それでも自分の足で地に立つ静奈は、武人を新たな人質として拿捕する狼男から数メートルの距離を取る。夢見月の問いに答える口調は、時間を置いた事で呼吸器系が大分持ち直してきたのか、割と確りしていた。

「だからと言って、幾らなんでも酷いのではないでしょうかっ!?」

静奈の行いが信じられない、といった様子で夢見月は嘆くように問う。

「我は主が考えているほど良い狐ではないのじゃ」

そんな彼女達のやり取りを狼男は黙って聞いていた。この期に及んで仲間割れとは、彼にとっては望むべく展開だった。一方、その下にうつ伏せたまま身動きの取れない武人は、声を上げる事も出来ずに小さく身体を震わせていた。それはあまりにも多くの屈辱に晒されて、いつの間にか忘れていた、懐かしくも悲しい原初の感覚であった。倒れた身体の向きの関係上、静奈の姿を伺うことは出来ない。ただ、その声だけがハッキリと彼の耳へ届いていた。

「久しく他者と係わり合いを持ったなかったことで、己さえも忘れていたようじゃ。主等が称すれば、浅ましく、無慈悲で、酷薄な、悪しき存在としての最たる化け物、それが我という存在だぞぇ」

「…………」

何の負い目も無く、確然として語る静奈に夢見月は返す言葉も無かった。

「とはいえ、この身では出来る事もこの程度が関の山じゃがな」

そう言って、夢見月や狼男、武人から踵を返す。

「ど、何処へ行くのですっ!」

反射的に一歩足を前に進めた夢見月が、強い口調で問う。

「さぁ、何処へ行こうかのぉ……」

静奈は争いの場から離れるよう、ゆっくりと歩き始めた。

「待って下さいっ!」

「それは叶わぬ」

夢見月は武人を残して静奈を追うことが出来ない。狼男もまた、この期に及んで彼女を追ったところで利点は無い。静奈は誰に邪魔されることもなく、樹木の茂る山中の森へと徐々に姿を小さくしていった。

やがて、遠目にも目立つ黄金色の長髪も木々の陰に隠れて見えなくなる。

「……………」

後に残ったのは居心地の悪い沈黙だった。

静奈に見捨てられた。

その事実は酷く武人を凹ませた。

夢見月にとって、静奈の取った行動は驚き以外の何物でもなかった。彼女にとっての静奈とは、己の命の恩人である。それが、共に居た相棒を捨てて逃げ出したとあっては、どのように対応すれば良いのか、戸惑うのも当然だろう。

そして、そんな途惑いと静寂を打ち破るのは、諸悪の根源たる狼男だ。

「なかなか面白いことになったじゃないか」

クックックと、焼け爛れた顔面を引きつらせて、それでも楽しそうに笑みを浮べている。眼球の大半が蒸発してしまったらしく、目元は窪んでいる。深い茶色の体毛も、ちりじりに焼け落ちてしまっていた。

「貴方は、これが面白いと言いますか?」

「ああ、酷く面白いと思うがね」

相手の声だけを頼りに、狼男は夢見月へ向き直る。

地面に膝立ちで、肩幅に開かれた股下には、地に顔を向けてうつ伏せ横たわる武人の姿がある。その項には、ナイフ如き鋭く尖った狼男の爪が向けられていた。もしも、僅かでも首を上げようものなら、無骨な獣の凶器を前に、柔な人間の皮膚など容易に裂けてしまうだろう。

「…………」

自分の置かれた状況を理解して、武人は全てがどうでも良くなるような、そんな虚脱感に襲われていた。何を言うでもなく半開きのままの口から、咥内に砂利が入ってくる。それを吐き出すだけの気力も失せていた。折角逃げ出せたかと思いきや、再び籠の鳥へ元通り。しかも、その原因が静奈の、彼にとっては裏切りとも呼べる保身行為に起因すると来たものだ。

確かに、静奈が夢見月に語ったのは至極当然のことだ。それは武人にも理解できる。僅か数日馴れ合いを共にしただけの相手に、自分の命を張るような馬鹿はそうそう居ない。それこそ、夢見月や花見月の様に自分の命の恩人だとか、大切な人の命の恩人だとか、明確な理由が必要だろう。

しかし、頭では理解していても、こうして実際に面と向かって見捨てられてみると、貧弱な精神の持ち主である武人には酷く堪えた。過去にも経験が無かった訳ではない。寧ろ他人と比べて多い方だ。だが、幾ら数を重ねようとも、決して慣れることの出来ない感覚だった。

「その者を放しなさいと言っても、貴方は聞く耳を持たないのでしょうね」

「当然だ、俺だってまだ死にたくは無い」

「ですが、その目でまだ粘るつもりですか?」

狼男の目は完全に機能を失っている。

「そうだな……、さっきの約束だが、期日をもう一晩だけ延ばして貰うとしよう」

当然、まともに戦う事など出来ない。この場から逃げ出すだけでも、かなりの労力を消費することだろう。約束の場所へ向かうにしても、視力が多少なりとも戻らねば、動き出す事は出来ない。

「ただの狐だと思って油断してこの様だ。お前にやられた怪我もそうだが、今日は色々とミスが多くて困る。獅子は兎を狩るのにも全力を尽くすとは良く言うが、なかなかどうして、耳の痛い話だ」

「その間、彼を貴方が生かしておく保障は?」

地べたに力無く横たわる武人に目を向ける。

「俺の実績を疑うのか?」

「彼は人間です。貴方や私のような化け物ならいざ知らず、この山の中で、飲まず食わずで何日も過ごせる筈がありません。ただでさえ、一晩を過ごして疲弊しているのですから、それ相応の対応が必要です」

「まったく、人間とは不便な生き物だな」

「何もかもを自分の物差しで計ろうとするから、そう考えるに至るのです」

「まあ、その辺は上手くやるから大丈夫だと言っておこう」

「いいえ、今の貴方の姿を鑑みるに、その言葉は信じられません」

全身に酷い火傷を負った今では、まともに人間に化ける事も叶わないだろう。ともすれば、どうやって食料や水を調達するのか。怪我が癒えるにどれ程の時間を要するかは夢見月にも分からない。しかし、武人がまる一晩何も口にしていない事を考えると、直ぐにでも解決すべき懸念だった。

「じゃあどうする? 俺を殺してコイツを殺すか?」

「…………」

とはいえ、武人は彼にとって唯一の命綱だ。素直に受け渡してくれる筈が無い。お互いに譲れぬ一線を踏み越えてしまい、主張はデッドロック状態にあった。間に数メートルの距離を置いて二人は油断無く対峙する。

狼男は全神経を耳に集中して相手の動きを伺う。顔を焼かれた為に、目に加えて自慢の鼻も、まともに機能していなかった。彼にとっては耳から入ってくる情報だけが、今後を生き残る頼りだった。

一方の夢見月も、どうしたものかと二の足を踏んで出るに出られないまま、身体だけは臨戦態勢として備え敵の出方を伺う。音を立てずに敵へ近づく術が有れば良いが、仮に狐火を飛ばしたとしても、高感度な相手の聴力は、脅威の接近に気づく可能性が非常に高い。武人の命がかかっている以上、安易な行為には出られなかった。自分の死を悟ったならば、性格のひん曲がった敵のことだ、躊躇無く武人を殺すだろう。

しかし、その緊張も長くは続かなかった。

得てして場の均衡は外部から崩されるものである。つい先ほど狼男によって殺害された警察官の一人が放った銃弾。その発砲音を耳にした別部隊が、全力で彼等の元へと迫っていたのだ。

そして、静奈が三人の下を去ってから数分の後、GPS端末の反応を頼りに山中を押し進む警察官の一団が、木々の合間より姿を現した。狼男を基点として、静奈とは大よそ90度の角度を持った位置からである。ちょうど先ほどの一団とは狼男を挟んで反対側だ。背の低い樹木の葉を押しのけて現れた紺色の制服達と狼男との間には十数メートル程度の間隔がある。

「また人間どもか……」

ご自慢の耳のおかげで、確認を視覚に頼る夢見月よりも早く、狼男は彼等の存在に気づいていたらしい。憎々しげに呟く声色には、若干の焦りが含まれていた。対して夢見月は、この展開が己にとって吉と出るか凶と出るか、黙ってことの成り行きを見守る。

「やはり、昨日の段階で殺しておくべきだったな」

昨晩から失態続きの自分に、狼男は小さく悪態をついた。他愛ない判断の全てが、自分にとって悪いように働いているように感じられたのだ。

向かう先に狼男の姿を確認して、警察官達の足が自然と止まる。そして、先程と同様に、先頭を歩いていた者の一人が驚愕に目を見開いて叫んだ。

「な、なんだコイツはっ!」

事情を知らぬ者としては、当然の反応だった。

「きぐるみ……、じゃないよな」

「お、狼男っ!?」

「おい、足元を見ろっ! 人が倒れてるぞ居るぞ」

「それに子供もっ!!」

ざわめきは瞬く間に一団全体へ広がった。各人の反応は、迎える側の想定どおりである。そして、彼等は見つけてしまった。視界の隅に、植物が放つ色彩にしては妙に鮮やかな赤色に染まった一帯があることに。倒れた樹木の下敷きとなり、もはや動く事も叶わぬ同僚達の凄惨たる亡骸を。

「お……、おい……あれ……」

その事実にいち早く気づいたのは、三人に対して最も近い位置に居た警察官である。小刻みに震える指先で、狼男の背後に無造作に転がったものを指し示す。仲間へ問いかける声は知らず恐怖に裏返っていた。

「……え?」

「な、なんだ……、なんだよあれ」

彼等が恐怖に飲まれるまで、さして時間は掛からなかった。人間の亡骸としては、あまりに衝撃的なその成れの果てだ。遺体を目の当たりにして、怖気づいた一人が腰のホルダーから銃を抜き取った。

「ちぃっ、またかっ!」

カチャリとトリガーに指がかけられた音を察して、狼男が夢見月から警察官へ向き直る。すると、それを自身への危機として受け取ったのか、他の警察官達もまた、次々にホルダーから銃を抜き取り構え始めた。狼男はすぐさま、先程と同様に衝撃波を起こすべく、念仏の様なものを唱え始める。

しかし、狼男が腕を振るうより早く、警察官達の銃口が火を噴いた。

「っ!?」

パァン、パァン、パァンと連続した発砲音が山に木霊する。

彼等と狼男との間には十数メートルの距離がある。恐怖に震える彼等の銃弾は、殆どが対象を捉えることなく背後へ通り過ぎていった。とはいえ、一丁につき5発、それが十数人から成る一団によって放たれたのだ。下手な鉄砲は、数を撃てば幾らかは当たった。

「ぐっ!」

狼男は肩と腹にそれぞれ一発づつ被弾した。また、そのすぐ下に横たわっていた武人の二の腕にも一発、流れ弾が当たった。警察官達の登場に際しても伏せられたままであった武人の顔が、過去に感じたことの無い強烈な痛みにビクンと震えた。喉からは反射的に悲鳴が上がる。幸いにして項に宛がわれた爪は多少の距離を持ち遠ざかっていたので、刺さる事は無かった。しかし、そんな幸いを幸いだと感じられるだけの余裕が、武人には無かった。

「ああああああっ!!」

被弾した腕を抱え込んで身体を丸める。

「く、クソッたれ共がっ!」

ここで人質を失う訳には行かない。雨あられと銃弾が降り注ぐ中、狼男は一足遅れて完成した魔法を腕に乗せると、警察官達目掛けて大きく振り払った。周囲の景色を歪ませて、目にも留まらぬ速度で進む衝撃波は、振るわれた腕の水平延長上に存在する全てを切り裂く。

応じて返って来たのは先程と同様、鼓膜が痛くなる程の悲鳴だった。

肉も骨も全てを切断されて、その場に立っていられる者は一人も居なかった。同時に、幹を切られた樹木が彼等の上に覆いかぶさるように倒れてくる。鮮血に塗れ絶叫と共に、警察官達は先に朽ちた同僚を駆け足で追いかける羽目となった。生きたまま肉体を切断される痛みとショックに、誰も彼もが喉を震わせ獣の様な咆哮を上げる。

分断された身体からは、まるで噴水のように血液が噴出していた。噎せ返る様な血液の臭いが当たりに漂う。己の血肉で顔を真っ赤に染めて、誰もが自我を失い、力尽きるまでもがき苦しむ他に無かった。

そして、そんな地獄絵図を前に、時を合わせて俄然と狼男へ差し迫る者の姿があった。

「武人を返せぇええええええええええええええっ!」

花見月である。

「なっ!?」

警察官達への対応に追われて、周囲への気配りが疎かになっていた。加えて、拳銃の発砲音は非常にけたたましく、他にある音の存在を完全に隠してしまっていた。それにより、狼男は背後から迫る彼女の存在に全く気づくことが出来なかった。

「なんだとっ!?」

人質の名を叫ぶ声を耳にして振り向いたのなら、時既に遅し。

硬く握られた小さな拳が顔面を捉えていた。

「っぉぐ!?」

振り返り様に頬へ強烈な一撃を加えられて、元より負傷を重ねていた狼男は、警察官達の血肉によって作られた血溜りに抗い無く吹っ飛んで行く。途中で数回地面と接しては身体を弾ませ、最後は頭部を大地に擦り付けるようにして止まった。

完全な不意打ちであった為に、一切の回避運動や受身は取る事が出来なかった。頬の骨は粉砕して、首の骨にも皹が入っていた。拳を打ち付けられた頬の肉は抉れている。肩と腹に受けた銃弾とは比較にならない痛みがあった。

「花見月っ!」

愛しい姉の姿を認めて夢見月が声を上げた。

「遅くなったっ! ごめんっ!!」

そんな妹に彼女は勢い良く頭を下げて謝る。

そして、互いの存在を確認した二人は、腕に受けた銃弾の痛みに堪えかね、蹲り悶える武人の元へ駆け寄った。弾丸は彼の軟い二の腕の筋組織を貫通して、その下の地面にめり込んでいた。

「大丈夫かっ!?」

しゃがみ込んだ花見月が武人の身体を抱き寄せる。

「て、鉄砲で、鉄砲で撃たれたんだっ」

もう一方の手の平で押さえられた下からは、少し濁った赤い色の血液が弾痕より流れ出していた。生まれてから今日に至るまで、経験した事の無い多量の出血を前に、武人は我を忘れる勢いだった。

「とにかく止血です、腕を貸してくださいっ!」

幸いにして上腕動脈は破れていなかった。よって、即座に命の危機に晒されるようなことは無い。しかし、鼻血や、浅くナイフで指を切った程度の出血しか目の当たりにしたことが無い武人にとって、被弾による出血は平常心を奪うに十分な量があった。

夢見月は着ているシャツを脱ぐと、手早く生地を細く帯状に切り裂いた。そして、それを包帯代わりにして、武人の腕の付け根にきつく縛り付ける。彼女は上にシャツを一枚しか着ていなかったので、それを脱ぐと裸になってしまう。

「夢見月、後ろっ!」

花見月が妹の背後から迫る氷の氷柱に気づいた。

長さ2メートル、直径50センチ程度の、巨大な円錐状の氷柱だった。勿論、放ったのは狼男である。彼は花見月に殴り飛ばされた衝撃から立ち上がる間もなく、身体を地面に横たえたまま、腕だけを動かしてそれを撃ち出したのだ。

「くっ、まだ粘りますかっ!!」

姉の指摘に夢見月は後ろを振り返る。氷柱は目の前まで迫っていた。だが、夢見月は至って冷静に、氷柱と己との間に直径1メートル超の巨大な狐火を生み出す。外気を凍らせながら迫る氷の槍は、しかし、彼女を守るようにして出現した炎の盾に突っ込み、その身を激しく蒸発させながら消えていく。

「貴方だけは、絶対に許しません」

そして、氷柱を瞬く間に蒸発させた火球は、間髪置かず狼男に向けて打ち出された。

「なっ!?」

轟々と炎を迸らせて、燃え盛る巨大な狐火が周囲の樹木を焼き払いながら狼男へ迫る。彼は咄嗟に立ち上がり逃げ出そうとするも、腰を上げたところで、燃え盛る火の玉は目と鼻の先まで到達していた。傷付いた肉体では対応しきれない飛来速度だ。

「ぐぉおおおおおおおおおおっ!」

結果、正面から全身で火の玉を受け止めることとなった。

火球の質量に押されて、狼男の身体は後方へ飛ばされていく。

全身を激しく燃え上がらせながら、先程に己が殺した警察官達と同様、けたたましい咆哮を上げて、彼は彼女達より遠ざかっていった。やがて、ある程度進んだ辺りで、ドボンと言う音と共にその姿は掻き消えた。幸か不幸か、付近を流れる川に落ちたのだった。

「夢見月」

妹の背を見つめながら、花見月が心配そうに名を呼ぶ。

「流石に、今の直撃を受けて生きている事は無いでしょう……」

「もう、平気なのか?」

「とりあえず一段落ついたと考えていいです」

狼男が消えた先を見つめていた夢見月が、ふうと一息吐いて、花見月と武人の側へ振り返る。般若の如き憤怒は消えて、そこには平素な表情を浮べる夢見月が居た。彼女は自分を見上げてくる二人の視線に気づいて、場を和ませるように小さく優しげな笑みを浮べて見せる。

「よかった……」

花見月は酷く久しぶりに妹の笑顔を見たような気がした。

「それよりも、早く彼を連れて人里へ降りましょう」

「お、おうっ!」

夢見月の言葉に答えて、武人を抱きかかえていた花見月がすっくと立ち上がる。

「急ぎますよっ」

「わかった」

夏の北アルプスの麓を二つの小さな影が巡る。

彼女達は互いに言葉を交わすことも忘れて、ただひたすらに人里を目指して足を動かした。幸いにして、火の手は彼女達の進行方向には存在せず、また、途中で他の人間に出会うことも無かった。