金髪ロリ達観クールラノベ 第二巻

第一話

「おーい、飯が出来たぞー」

階下から自分を呼ぶ声が聞こえてきた。

コンピュータのディスプレイに映し出されたオペレーティングシステムのタスクバー、その右下に配置された時計に目を向ける。すると、時刻は既に夜の八時を回っていた。机に向かったのが学校から帰って来て午後六時を過ぎた頃だ。かれこれ二時間程度をコンピュータに向き合っていたことになる。

「もうご飯か……」

武人はキーボードとマウスから手を放して背もたれに寄りかかる。中学へ入学したときに購入して以来、長年使ってきたネットチェアがキィと音を立てて鳴いた。そろそろ寿命も近そうだ。

「まったく、時間が経つのは早いもんだね」

足に付けられたキャスターを動かして椅子を机から下げる。そして、大きく四肢を投げ出し座ったまま伸びをした。顔が上を向いて、自然と視界には部屋の天上が入って来る。この家に越してから今日で十日程だろうか。やっと、その姿にも見慣れてきた照明器具が、淡々と室内を照らしていた。

「おーい、飯だぞー!」

「そんなに大きな声を出さなくても聞こえてるよっ」

繰り返される催促の声に、階段を越えて階下まで届くよう大きめの返事を返す。普段ならばコンピュータに感けて降りてこない自分を待つことなく食事は始められる。しかし、此処最近は、こうして彼が食卓の席へ着くのを待って食事を取る事が毎日の日課と成っていた。

「早く来ないと武人の分もアタシが食っちまうぞー」

「分かってるよ、すぐに行くからちょっと待っててよ」

耳に届く声は聞きなれた義人のもので無い。

口調こそ似ているが、その声色は女性のものだ。

コンピュータやディスプレイの電源をそのままに、潔く席を立った武人は部屋を後にする。タンタンタンと軽い音を立てながら階段を下りる。すると、続く一階の廊下には彼を迎える様に一人の少女が立っていた。

紅いリボンでツーサイドアップに纏められた、お尻まで届く長い銀髪が特徴的な少女である。年の頃は八か九と言ったところか。英字が印刷された薄手のTシャツと、下にはデニム生地で出来た丈の短いズボンを穿いている。スラリと伸びた手足の肌は雪のように白く、触れたのならサラサラと、さぞ心地良い事だろう。

「今回もなかなかの力作だ、早く食べよう」

「今日も花見月が作ったの?」

「おう、義人と一緒に作った」

「それは楽しみだね」

二人は連れ立ってリビングダイニングへ入っていく。すると、そこには既に席について彼を待つ義人と夢見月の姿があった。

「ほら、さっさと席に着け」

もう待ちきれんと言わんばかりに義人が促す。

「どんだけ飢えてるんだよ」

「飲まず食わずで荒野を一週間彷徨ったライオンの如く飢えてる」

武人は椅子を引いて義人の前に腰掛ける。その隣には花見月が座った。ダイニングに置かれたテーブルは四人掛けである。花見月の前、義人の隣には夢見月が座っていた。席順は特に誰が決めたわけでもなく、元より武人と義人が座らぬ空いていた位置に姉妹が座ることで決定した。

「だったら、そんなライオンの為に、目の前には美味しそうな狐が居るけど?」

武人の言葉を受けて自然と花見月の視線が義人へ向かう。

「義人はアタシを食べるのか?」

その純真無垢な瞳を目の当たりにして、そして、彼女の小さな身体に秘められた凶悪なまでの身体能力を理解して、義人の背にはTシャツの下で人知れず冷汗が一筋垂れる。父の焦りを感じて、自然と息子の顔には笑みが浮かんでいた。

「………いや、ライオンは今日から草食動物になりました」

「勝手に変えるなよ」

昨今のライオンに威厳は皆無だった。

「武人さん、私達のせいで武人さんの時間を勝手に都合させてしまって申し訳ありません。宜しければ、次からは武人さんの分だけ部屋に運びます。勿論、私も共に上で食べますので……」

芹沢家の過去の食卓事情を聞いていた夢見月が申し訳なさそうな顔をする。そんな夢見月を前にすると、武人も強くは出れなくなってしまうから、見事に義人の策に嵌ったものだと思わざるを得ない。

「いや、まあ、別にそこまでしてくれなくてもいいよ。これからは食事くらい降りてくるから。大した苦労でも無いし、そんな大層なことやってる訳でもないから」

「そうそう、コイツの場合は強く言って聞かせないと、微温湯に浸かって段々と駄目になってくから、これくらいが丁度いいんだよ。花見月さんと夢見月さんが来てくれて、本当に助かってるよ」

「………ありがとうございます。そう言って頂けると嬉しいです」

全員が席に着いたことを確認して、義人が声を大きく手を合わせる。

「まっ、これで揃ったし、料理が冷めないうちに食べようか」

「おうっ!」

義人の言葉に花見月が元気良く応じた。

「それでは今日も頂きます」

「「「頂きます」」」

彼に連なり他の三人も手を合わせてお決まりの口上を述べる。

これが、つい一週間ほど前から続いている、芹沢家の新しい夕食の風景だった。

花見月と夢見月の姉妹は先の件で、何の係わり合いも無い武人を巻き込み、あまつさえ生命の危機に晒してしまったことを激しく悔いていた。許して貰おうとは思わないが、頭を下げずには居られない。愚直なまでに誠実な性格の持ち主であった。

二人は武人に謝罪の言葉を述べるべく、騒動の収まった次の日には芹沢宅を訪れていた。そのとき、武人への謝罪を終えた二人は、偶然にも仕事から帰ってきた義人と出会う事となった。

義人を武人の父親だと理解した姉妹は、彼にもまた、件の概要を包み隠さず述べて謝罪をした。余計な面倒は御免なので、武人としては黙っていて欲しかった。だが、それは二人に取って耐え難い苦痛だったようで、行為は止める間も無かった。

床へ額を擦り付けて土下座を続ける二人を目の当たりにして、流石の義人も慌てた。元より化け狐に関する知識は持ち合わせていたので、その事で混乱することは無かった。しかし、自分が知らぬ間に想定外の大冒険を経験してきた息子を前に、そして、幾らその原因を作ったからと言って、初対面の相手に行き成り土下座を決めて見せる姉妹を前に、彼は圧倒されていた。息子としても父親が心底から驚いている姿は滅多に見れないものなので、なかなかに新鮮なものであった。

とはいえ、それも時間を計れば僅かな間だった。持ち前の大雑把かつ奇異な性格を発揮すると、一折の説明と謝罪を受けて事情を理解した義人は二つ返事で姉妹を許した。それどころか、息子に良い経験をさせてくれてありがとう、と感謝の意を示して見せた。勿論、それは冗談や皮肉などではない真っ向からの言葉だ。

これには花見月と夢見月も驚きのあまり閉口せざるを得なかった。怒鳴られ殴られる事は想定しても、感謝されるなどとは思いもしなかったのだ。そのときの二人は、鳩が豆鉄砲を喰らった様に、目を丸くして義人を見つめていた。彼曰く、獅子は子を谷底に蹴落すのが趣味なのだそうだ。

そして、義人は自分の足元へ平伏した姉妹へ向けて続けざまにこう言った。

「ところで、夕飯はもう食べたのか?」と。

そこから先は、息子が姉妹と己の父親が鉢合わせた瞬間に危惧した通りとなった。全ては彼のペースで話が進み、いつの間にか二人はその晩の食卓の席へと並ぶことになっていた。それが発端となって、以後、二人は夕食を芹沢宅で食べるのが毎日の日課と成っていた。

勿論、武人にしても、花見月と夢見月にしても、共に席を並べて夕食を取る事に嫌気や抵抗は無い。元より武人は己を助けてくれた夢見月に好意を抱いていたし、姉妹にしてもそれは同じだ。特に花見月は武人が気に入ったのか、食後は部屋にまで押しかけて来て、共にテレビゲーム等に興じて夜遅くまで遊んでいること度々である。

「これ、美味しいね」

魚のすり身で作られた揚げはんぺんを箸で掴む武人が呟いた。それは勿論、冷凍食品の類ではなく、材料の鰯を摩り下ろす作業から始まって油で揚げ終わるまで全てを、この家のキッチンで調理したものだ。

「あ、それは花見月が作ったものです」

すると、それに誰よりも早く夢見月が答えた。

ダイニングテーブルの上には、他にイカと若布の酢の物や揚げ餃子、春巻、鰈の煮付け、ポテトサラダ、玉蜀黍湯といった料理が所狭しと並んでいる。それらは義人と花見月によって作れたものだ。

「へぇ、流石だね。昨日のポトフや一昨日のシューマイも美味しかったけど、この揚げはんぺんにしても負けず劣らず美味しいよ。君は和洋折衷なんでも作れるんだね」

「料理するのは好きだからな」

花見月はゴクンと口の中の物を飲み込んで応じる。

「こうして食べた奴が美味いって言ってくれると、なんだか凄く嬉しいんだ。夢見月もアタシが作る料理をいつも美味しいって言ってくれるから、だから、ご飯を作るのはアタシの仕事なんだ」

「なるほど、好きなものこそ上手くなれって奴だね」

語る花見月はとても楽しそうな笑顔を浮べていた。

「明日はもっと美味いやつ作ってやるから、楽しみにしてろよな」

「そうだね、これなら夕食を食べに降りてくるのも億劫じゃない」

「それは暗に俺の作る飯にケチを付けてるってことか?」

「いや、別にそういう訳じゃないよ。ただ、舌に慣れた父さんの料理とはまた違った感じが、新鮮でいいなって思っただけさ。それと、父さんが作る料理は味が濃いからね。比較的薄味な花見月の作る料理の方がボクにはあってるのかもしれない」

「普段は何も言わずに淡々と食ってる癖して、なかなか手厳しいこと言ってくれるじゃないか」

息子の批評を受けて、父親は演技めいた渋い顔を作ってみせる。

「っていうか、そんなに俺の料理って味が濃かったか? 今まで長いこと作ってたけど、そんな風に思われてたとは知らなかったぞ」

「前にも言わなかったっけ?」

「いんや、多分始めて聞いた。自分じゃこれでも薄味を心掛けてるんだけどな」

「私は義人さんの作る料理も美味しいと思います。この魚の煮付けとか、とても味が良く滲みていて美味しいです。それに、こっちの酢の物なんか、凄く丁寧に包丁が入れられていますし」

「おぉ、やはり夢見月さんは優しいなぁ」

「まあ、好みの問題だろうね」

「それと引き換えこの息子と来たら、毎日飯を作ってやっている恩も知らずにいけしゃあしゃあとでかい口を利いてくれて、憎たらしいったらありゃしない」

「だって、本当のことなんだから仕方が無いじゃないか」

「それだったら、明日からはお前が晩飯を作るか?」

「前にそれで、一晩にして自信喪失しそうになったのは誰?」

「くっ……」

武人の素っ気無い呟きに、義人は途端に言葉を失った。

実は、彼の料理に関する技能は父や母と比較して遥かに高いのだ。勿論、義人の料理の腕前もかなりのものだ。しかし、それを越えて、武人の作る料理は自他共に認めるだけのものだった。それを思い返して、義人は過去の苦渋を再び舌に落とし、苦虫を噛み潰したような顔になる。

「もしかして、武人さんも料理を?」

「たまにだけど」

「本当か!?」

武人が調理場に立つ姿を想像出来なかったのだろう。花見月と夢見月が驚いたように声を上げる。

「父さんと母さんが共働きだから、仕事で二人の帰りが遅い時とか、他に作る人が居ない場合は作ったりするよ。まあ、それも面倒で大抵はコンビニの弁当で済ませちゃうんだけど」

何気なく答えて、武人は茶碗に盛られた白米の上に乗せてあった揚げはんぺんの残りを口へ放り込む。

引っ越す前までの芹沢家では、炊事洗濯といった家事全般を両親がそれぞれ半分づつ負担していた。そして、此方に引っ越してからは、風呂掃除とトイレ掃除を除いて、他の全てを義人が一人で引き受けている。なので、武人が食事を作る機会は今にも昔にも余り無かった。だが、どういう訳か天性の才能を発揮した彼は、数少ない実践を糧に両親が知る間もなく静かに腕を上げていたのだ。

「武人、アタシは武人の料理が食べてみたい、駄目か?」

「僕の?」

「そういうことでしたら、私も興味があります」

「でも、きっと花見月ほど美味しくは作れないよ?」

「二人とも、コイツは自分が面倒だと思うことから謙遜して逃げる節があるから、頼むんだったら強引に言った方がいいぞ。それに明日は俺も仕事で遅くなりそうだから、武人が作るっていうなら丁度いい」

「ちょ、ちょっと、何を勝手なこと言ってんだよ」

「俺もたまには息子の手料理が食いたいしな」

「だったら明日は一緒に作ろう、それなら良いだろ?」

隣に座る花見月はキラキラと目を輝かせて武人を見つめていた。彼女は料理を自分の仕事だと説明した。だが、その姿を眺めるに、仕事と言うよりは寧ろ趣味としての色が強いのだろう。有り余る好奇心がひしひしと感じられた。

「分かったよ、手伝うよ」

無垢な期待の視線に耐え切れず、武人は渋々と頷いた。

「出来るなら私も手伝いたいのですが……」

そんな二人のやり取りを前にして、夢見月が申し訳なさそうに俯く。

「ま、まあ、才能は人を選ぶみたいだから、別に無理する必要も無いよ」

「申し訳ありません」

花見月と夢見月は芹沢家の夕餉に招待された初日、それならば是非とも手伝わせてくれとキッチンに現れた。そして、一頻りの押し問答の末に、姉妹は義人に並んでキッチンへ立つ事となった。そこで明らかになった事実が、花見月はとても料理が上手で、夢見月は恐ろしく料理が下手だということだった。

二人の性格を鑑みるに、どちらかと言えば夢見月こそ料理上手だと考えるのが普通だ。しかし、なかなかどうして、彼女の料理技能は絶望的だった。それを義人が理解したのは、花見月が控えめに夢見月をリビングへ下げるよう進言してから遅く、鍋をひとつ洗浄不可能な程度まで焦がしてからの事だった。

一方で姉は優れたセンスを持ち、勝手を知らぬ他所の台所にありながら、義人を圧倒する手捌きで調理を進めていたりするから、世の中、色々と分からないものである。

「誰にだって得手不得手あるものさ。偶々ここに居る三人に料理が共通していただけの話で、夢見月さんには夢見月さんの得意なものがあるだろうし、別に気にする必要なんて全然無いと思うね、俺は」

夢見月の周囲に陰鬱な空気を感じて、慌てた義人が場を取り繕う。

「そうだよ。夢見月は料理が下手だけど、でも、その代わり洋服を作るのが得意なんだ。アタシ達が着てる服だって、全部夢見月が作ったんだぞ。このシャツもズボンも、下に穿いてるパンツも全部だ。凄いだろ」

「へぇ、それは凄いね」

素直に感心した様子で武人が夢見月に注目した。

個人の人格に興味を持つことは稀な彼だが、その者が持つ技能や技術に関しては別だ。評価出来るものは素直に評価するし、それが素晴らしいと感じたのなら尊敬だってする。

「ですが、服くらい針と生地があれば誰でも縫えますし、それに、これでも私だって化け物である前に女です。料理の一つや二つ出来ないと悔しいです。叶うなら花見月と一緒に台所に立ってみたいです」

どうやら、彼女は自分の料理下手に結構な劣等感を感じている様だった。

「花見月には幾度も習いましたけど、その度に調理器具や具材が死ぬのです」

はぁ、と溜息をついてガックリと肩を落とした。

「だったら、今日からは夕食を作りがてら武人にも手伝わせて三人で一緒に練習すればいい。場所は此処を使って貰って構わないし、鍋だって買えば幾らでもある。ここは田舎だから食材だって安いだろうし、少しくらい失敗したって問題ないだろう」

「で、ですが、流石にそれは……」

義人の提案に夢見月はしどろもどろ答える。

彼女の感覚としては、ただでさえ夕食をご馳走になっているのに、それに加えて自分の個人的な研摩の為に調理場を借りるなどとは、幾ら夕食を作るという大義名分があるとは言え、ふてぶてしいにも程がある、といった具合だ。

「こっちとしては花見月さんにも毎日夕食を作る手伝いをして貰ってるし、それ位の恩返しはしたいと思うんだけどな。どうだい?」

「僕としても夢見月が手伝ってくれれば、それだけ仕事が減って楽なんだけどね」

珍しく武人もまた義人に同調して言葉を続けた。先の件もあってか、彼にしては珍しく、花見月と夢見月の二人には能力から人格に至るまで、その全てが興味の対象と成りえたのだった。共に居る時間を持つのは吝かでない。

「……ありがとうございます」

二人の心遣いに夢見月は深く頭を下げた。

「よーし、それじゃあ、明日は皆でご飯を作るんだな」

「そういうことだね」

「絶対に美味しいもの作ろうな、夢見月っ!」

「ええ、頑張ります」

身を乗り出して嬉しそうに語りかけてくる姉を前に、妹は小さく笑みを浮べて頷いた。

辺りには他に住居も少ない木崎湖の畔に立つ一軒家。静かな田舎の一角にポツリと明かりを灯した部屋から届く穏やかな喧騒が、窓ガラスを通して湖面に小さく響く。テレビを付けること無くとも、ここ最近の芹沢家の夕食はとても賑やかだった。

「花見月、そろそろ帰りましょう」

日が暮れてから数刻、夜の十一時を回って尚も姉妹は武人の部屋に居た。姉は夕食を終えてから今に至るまで、ずっと武人とチェスの対戦に興じいた。その隣で二人の様子を眺めながら、妹は本棚の書籍を手に取っては興味深そうに読んでいた。夕食を終えてから、かれこれ三時間は経っただろうか。

「もう帰るのか? アタシはまだ遊んでいたい」

「ですが、もう夜も更けてきました。あまり長居するのは良くないです」

「けど、まだ一度も武人に勝ってないんだ、せめて一回くらい勝ちたい」

パソコンデスクの前に椅子を二つ並べて、武人と花見月はディスプレイに向き合っていた。そこに映し出されているのは、鮮やかな白と黒のモノクロームが特徴的な、3Dで表示されたチェス盤である。各人の手にはコンピュータに繋がれたゲームコントローラが握られていた。

「花見月は武人さんの迷惑も考えるべきです。また明日も来るのですから、その時に続きをすれば良いでしょう?」

二人のすぐ近くで、床に敷かれたカーペットの上にちょこんと腰を下ろした夢見月が、花見月を見上げながら些か強い口調で諭すように言う。両手に持っているのは「数学3C」と書かれた、武人が引っ越し前の学校で利用していた教科書である。何が面白いのかかれこれ数十分に渡ってぺらぺらとページを捲っていた。

「でも……」

花見月は眉をハの曲げて渋い顔を作る。彼女はその実直な性格から容易に推測出来るとおり、非常に負けず嫌いな性格をしていた。妹の言い分は尤もながら、かれこれ十数回に渡る対戦の全てに負けてきた花見月としては、どうにも譲れない一歩であった。

「武人さんは明日も学校があるのですから、あまり夜更かしも出来ないでしょう。これ以上駄々を捏ねるのは良くありませんよ。ただでさえ毎晩の夕食をご馳走になっているのですし、少しは慎みを持たなければいけません」

「もう少しだけ、もう少しだけいいだろ?」

「いいえ、駄目です」

「ちょっとだけでいいから、せめて一回くらい武人に勝ちたいんだ」

「さっきから負け続きの花見月が、今日中に武人さんに勝てる訳も無いでしょう? それこそ日が明けてしまいます」

「そ、そんなのやってみないと分からないだろ!?」

まるで姉と妹の立場が逆転したかの様に、懇願する姉を妹が説得する。その様子が可笑しかったのだろう。二人のやり取りに小さく笑みを浮べた武人が横から口を挟んだ。

「君達が居たいって言うなら、別に僕は構わないよ」

「で、ですが武人さん……」

予期せぬ姉への助力に夢見月が視線を移す。

「まだ大して眠くも無いし、夜更かしは普段から習慣になってるからね。ゆっくりしていきたいなら少しくらい遅くなっても大丈夫だと思う」

手にしたゲームコントローラの十字キーをグリグリと弄りながら呟く。

「本当か!?」

途端に花見月の顔が明るくなった。

「花見月は回を重ねる度に、目に見えて着実に強くなってきてるからね。こっちとしても遊んでいて楽しいんだ」

そう言ってコンピュータのディスプレイを指差した。

目前の大型のワイド液晶には黒が優先の布陣がある。当初こそはものの数分と掛からず勝敗を決していたが、今はそこそこ粘れるだけの白軍が展開されていた。初めてルールを覚えたのがつい数時間前のことだと考えると、花見月の進歩は劇的とも言えた。

「アタシは強くなってるのか?」

「うん、強くなってるよ」

今はまだ並以下ではある。しかし、数を重ねれば最終的には自分と良い勝負が出来るのでは無いか。チェスに関しては、それなりに強者であると自負する武人である。手が届く範囲での思考ルーチンは一通り倒していた。それ故に花見月の才覚と、その育成には密かな楽しみを覚え始めていた。だからこその助け舟である。そうでなければ他人を夜遅くまで自室において置く事など決してしない。

「ほら、武人もこう言ってるんだし、いいだろ?」

小さな子供が親に玩具を強請る様に花見月は尋ねる。

「まあ、武人さんがそう言うのであれば問題はありませんが……」

武人と言う人間はこういう場面で嘘を吐くような人間ではない。そう夢見月は理解していた。だから、彼が自分から良いというからには本心より良いと考えているのだろう。言葉を悪く言えば、他者に対してあまり気を使う事の無い性質である。

「ですが、本当によろしいのですか?」

「夢見月が早く帰りたいというなら僕も花見月を引きとめはしないけど、そうでないなら一向に構わないよ。何れにせよ寝るのは日を跨いでからになるだろうしね」

平日の平均睡眠時間は五時間程の武人である。翌日の午前七時に起床したとしても、床に就くのは深夜二時で事足りる。ともすれば、夜の十一時とは彼が最も活動的になる時間帯であった。まだ布団に潜るには早い。

「なぁ、いいだろ?」

嬉々として己に問いかけてくる姉の姿に、夢見月は小さく溜息をつくと、渋々といった様子で首を縦に振った。

「あと少しだけですよ?」

「ありがとう、夢見月」

妹の承諾を得て花見月は破顔一笑する。

夢見月としても別段、芹沢宅で過ごす時間を嫌っている訳ではない。寧ろ久しく無かった人間との触れ合いに、良い意味で新鮮さを感じていた。しかし、律儀で慎み深い彼女の性格からすると、居心地が良ければ良い程に相手への遠慮が先立ってしまうのだった。

「それじゃあ武人、勝負の続きだっ!」

「うん」

意気揚々とディスプレイに向き直った妹の横顔に夢見月は小さく笑みを零した。当初こそ、例え武人が相手でも長く人間社会と係わり合いを持つ事に否定的であった彼女だ。しかし、今はこうして良かったとも感じていた。妹の笑顔を眺めることこそが、彼女の何よりの娯楽だと言えた。

「おーい、武人」

二人がコンピュータのチェスゲームに、夢見月が手中の書籍に戻った所で室外より扉を挟んで義人の声が届いた。

「ちょっとドアを開けてくれないか?」

「父さん?」

同じ屋根の下にありながら方や賑やかに談笑する一室を傍らに置いて、一人で過ごす事に寂しさを覚えたのだろうか。そんなことを何気なく推し量りつつ武人は立ち上がる。すると、それよりも早く動いた夢見月が彼に代わって部屋のドアを開けた。

「おお、夢見月さん。ありがとう」

廊下から顔を出した義人は右手に薄緑色の液体が満ちるグラスの並んだ盆を、左手に煎餅の入った漆器を持ち立っていた。どうやら夜食を持ってきてくれたようだ。

「夕食から結構経っただろ? 小腹が空いてるんじゃないかと思ってな」

そう言って両手に持った物を小さく掲げてみせる。

「随分と気が利くね」

「勿論、お前の為に持ってきた訳じゃないけどな」

息子の突っ慳貪な物言いに、父親はニィと意地の悪い笑みを浮べる。

「どうもありがとうございます」

塞がった両手を空けるべく夢見月が両手でグラスの乗る盆を受け取った。

「おぉ、煎餅だっ! ありがとう、義人」

彼女に習って席を立った花見月が、もう一方の手に持たれていた漆器を受け取る。中には海苔に粗目、醤油に霰と多種多様な煎餅が雑多に突っ込まれていた。幼い子供の容姿に違わず菓子の好きな花見月はその光景に目を輝かせる。

「ところで、そろそろ風呂が沸くんだがどうする?」

「父さんが先に入れば? 僕はもう少し二人と遊んでるから」

「いや、もし二人が泊まっていくようなら、先に入って貰おうかと思って言いに来たんだけどな。今日はいつもより遅くまで居るみたいだし、だったら泊まっていけばいいんじゃないかと」

「まあ、時間も時間だしね……」

言いながら親子は部屋の壁に掛けられた掛け時計に目を向ける。

「泊まっていってもいいのか?」

義人の提案にキョトンとして花見月が呟く。

「花見月さんや夢見月さんがいいなら、こっちとしては歓迎だぞ。二人分なら部屋も空いてるから、寝る場所にも困らないと思う。シーツとか枕とか、寝具の類も幾らか余ってるしな」

「い、いえ、流石にそこまでして頂く訳にはいきません」

そんな姉の反応とは背反して、夢見月が慌てた様子で遠慮の声を上げる。

「なぁ、夢見月……」

「駄目ですよ、花見月。これ以上お二人に迷惑をかけては」

物欲しそうな眼差しを向ける姉に先制して釘を指す。

しかし、今し方に武人より受けた助力もあって、今日の花見月は押しが強かった。夢見月を説得して駄目だと理解するや否や、すぐに対象を武人へと切り替えた。長く人間社会より離れた山中にて生活していた花見月としては、これほど魅力的な娯楽は無いのだ。

「駄目か? 武人」

「いや、別に僕はどっちでも構わないけど」

「迷惑じゃないか?」

「そもそも、二人が迷惑ならこんな時間まで置いておかないよ」

淡々とした、それでいて友好的な物言いの武人に夢見月は暫し思考を巡らせる。

「あの、本当に良いのですか?」

「君達の好きなようにしたらいいと思うよ」

ここ数日間は毎日のように顔を合わせていたのだ。それが一晩を泊まる泊まらないの違いなど、迎え入れる側としては大した差でもない。椅子に座りつつ、片手の平を天上に向け小さく上げて何でもない様に答えた。

「アタシは武人の家に泊まりたい」

切望する瞳が正面から夢見月を見つめる。

「夢見月は武人の家に泊まるのは嫌か?」

何よりも姉を大切に思う彼女に対して、これ以上の攻め手は無いだろう。

「………分かりました」

本当に自分は花見月に甘いな、などと考えながら夢見月は頷いた。

「それでは申し訳ありませんが、今晩はお言葉に甘えさせて頂きます」

手に盆を持ったまま、彼女は改めて義人と武人にお辞儀をする。

「やったっ!」

声を上げる花見月は身を喜びに小さく震わせる。その反動から手に持った漆器より煎餅が一枚零れ落ちた。危ういところで床に砕け損ねたそれを、彼女は持ち前の人間離れした反射神経で掴み取る。そして、嬉しそうに二人へ礼を返した。

「よし、それじゃあ俺はちょっと部屋を使えるようにしてくるか」

「それでしたら私も手伝います」

「いや、二人は先に風呂に入っちゃってくれ。部屋を使えるようにするって言っても、多少の換気とベッドにシーツを張るだけだから、そんな人手はいらないんだ。だから、風呂の順番待ちを考えるとその方が助かる」

「あ、はい。分かりました」

「タオルとかパジャマとか、その辺は武人に頼んでくれればいいから」

そう言って義人は踵を返すと部屋から出て行った。

パタンと部屋の戸が音を立てて閉じられる。義人を廊下に見送って、武人もまた椅子から立ち上がると、コンピュータの電源はそのままに動き出した。向かう先は自室のクローゼット、その中に収められたプラスチック製の衣装箪笥である

「タオルはいいとしてパジャマはどうしよう……」

男二人暮らしの芹沢宅にあって、女物の、それも小さな子供のパジャマは一着たりとも存在しない。寝具の類はバッチリだ、などとのたまっていた義人のいい加減な発言に頭を捻りながら、武人は代わりになりそうな衣類を思い浮かべる。

「あの、もし面倒なようでしたら私達は床で寝ます。ですから、服も今身に着けているものを入浴後もそのまま着ますので、わざわざ武人さんの手を煩わせることも無いのですが……」

「それは流石に僕の精神衛生上良くないから、何か代わりになるものを貸すよ。下着は無理かもしれないけど、シャツやズボンなら大きさが合わなくても寝てる分には問題ないだろうし」

「すみません、色々とありがとうございます」

「ありがとうな、武人っ!」

殊更に身を縮ませる夢見月とは対照的に、花見月は満面の笑みを浮べて、衣装箪笥を前にしゃがみ込んだ武人の傍に寄る。これまで夢見月の意向で人間との接触を極力持たないよう過ごしてきた彼女に取って、こうして山の自宅から離れて一晩を過ごす事は非常に大きな意味があった。

「ああ、そういえば武人」

今し方に閉じたばかりの部屋の戸がカチャリと再び開かれた。隙間から顔を出したのは肩にシーツや枕を抱えた義人である。部屋に入る事無く顔だけを覗かせて、クローゼットに頭を突っ込んだ息子の尻へ声を掛ける。

「今度は何?」

応じて武人は折り曲げた腰をそのままに後ろを振り返った。

「いや、二人の下着なんだが客間の箪笥に未使用のものが幾つかあるから、それを渡してあげてくれって、さっき言い忘れてたのを思い出した。多分、サイズ的にも丁度いいと思う」

「な、なんでそんなものが家にあるんだよ」

「前に静奈さんが来たときに買っておいたんだよ。殆ど使うことなく終わったけど、一応捨てずに取っておいたんだ。というか、今の今まで買ったことを忘れてた」

「ああ……、なるほどね」

危うい所で父親を誤解しかけて、武人は小さく頷いた。思い返してみれば、静奈が家にやって来た翌日のことだ。まるで自分に娘が出来たかの如く、意気揚々と町へ出かけて行った義人の姿は彼としても記憶に新しい。その数時間後には両手に一杯の手提げ袋を抱えて満足気な表情を浮かべ帰ってきたのだ。

それじゃあ頼んだぞ、と呟いて義人は同じ階にある客間へ向かい踵を返す。

そんなとき、武人の隣に立つ花見月がふと口を開いた。

「なぁ、義人」

自分の名前を呼ばれて、義人は動かしかけた足を止める。そして、閉じかけたドアの隙間から室内を振り返った。

「なんだ?」

「武人と一緒にお風呂入ってもいいか?」

それは突拍子も無い提案だった。

「ん、別に構わないぞ」

義人は何でもない事の様に二つ返事で応じる。

「ちょ、ちょっと待ってよ、何だよそれっ!」

一方で、声を荒げて慌てたのは武人だ。反論に際して反射的に頭が上がり、クローゼットの中に設置された衣装棚の、引き出されたままになっていた最上段の引き出しへ頭をゴツンとぶつけた。うぅ……、とくぐもった呻きが小さく洩れる。

「何だよって言われてもなぁ、っていうか、なんでお前が慌てるんだよ?」

「だって当然だろっ!?」

打ち付けた後頭部を擦りながら涙目で父親を睨む。

すると、そんな彼の反応が意外だったのだろう。酷く悲しそうな顔をした花見月が武人の顔を下から覗き込むように見上げてきた。どうやら彼女は断られるとは思っていなかった様子だ。

「武人は、アタシと一緒だと嫌か?」

パッチリと開かれた、大きく深い蒼色をした花見月の瞳に至近距離から見つめられると、それはまるで自分の心の奥深くまでを容易に見通してしまうのではないかと、要らぬ錯覚を受けそうになる。一際色の濃い猫科を思わせる垂直に切れた瞳孔に覗かれて、思考を鷲掴みにされている様な気分だった。えも言われぬ雰囲気に飲まれそうになって、危うい所でハッと我を取り戻した武人は慌てて弁解を口にする。

「いや、嫌とか嫌じゃないとか、そういう話じゃなくてだね……」

「花見月、あまり武人さんに迷惑をかけては駄目ですよ」

「でも、お風呂は大勢で一緒に入ったほうが楽しいぞ」

「それだったら夢見月と一緒に入ればいいじゃないか」

「勿論、夢見月とは一緒に入るけど、でも武人とも一緒に入りたいんだ」

「だから何で僕なんだよ」

「武人は話をしてて楽しいからな、一緒にお風呂に入ればきっともっと楽しい」

「そ、それはまた酷く安直な理屈だね」

なかなか押しの強い花見月を前にして、武人は言葉に窮する。花見月に見つめられると、どうも強く出れない。しかし、だからと言って承諾する事も出来ずに、何と言って断れば良いのか思考は空回りするばかりだ。勿論、自分が一瞬でも思い描いたような妄想を相手が想定しているかと言えば、それは無いだろうとすぐに否定出来る。ただ、長く続いた苛められっ子生活のお陰で、そういった免疫が付いていなかったのだ。

「なぁ武人、ちょっと聞きたい事があるんだが……」

すると、そんな彼に義人が横から声を掛けた。

「なに?」

息子が花見月から己に向き直ったところで彼は言葉に続ける。

「前から思ってたんだけど、お前ってロリコンなのか?」

「なっ!?」

何気ない義人の問い掛けに武人の思考は凍った。

「ななな、なんでそうなるんだよっ!」

「だったらお前、何でこんな事でいちいちむきになってるんだよ」

「だ、だって、そりゃ……、別にむきになんかなって無いよ」

「だったら風呂くらい一緒に入ってあげればいいじゃないか。幸いにしてうちの風呂は大きめに作られてるからな。この二人とだったらそれほど窮屈でもないだろう。湯船にだって頑張れば入れる筈だ」

「義人、ロリコンって何だ?」

聞きなれぬ単語を耳にした花見月が純真無垢な瞳を向けて尋ねる。

「ああ、ロリコンって言うのは……」

「ま、待ったッ! 待った待った待ったっ!! そこから先を父さんは言わなくていい。ロリコンっていうのはロンリーコンプレックスの略で、他人となかなか馴染めない僕みたいな性格の奴の事を言うんだよっ!」

彼女の疑問に答えようとした義人の声を遮って武人が吼える。普段の様子からは窺い知る事のできない怒涛の勢いで、彼は父親に代わり、二人に対して一方的に矢継ぎ早な説明を行なった。勿論、全ては保身の為の出任せである。

「なら何の問題も無いだろ? 可愛らしいオキツネ様のお願いなんだ。風呂くらい一緒に入って来い。それに、その方が俺も早く風呂に入れるから嬉しい。学生のお前と違って俺は明日も仕事だからな」

「ぅう……」

敢えて武人の説明に突っ込みを入れる事無く、義人はニヤリと口元を厭らしく歪める。そこには何かを確信した笑みがあった。そんな父親の様子を目の当たりにして、息子が取りうる選択肢は果たして幾つあるのか。

「そういえば、前に静奈さんと一緒に温泉へいった事があったよな……」

「分かったっ! 分かったからもう黙ってよっ!!」

やはり、一つだけだった。

「ちゃんと二人と一緒に入るよ」

全てを諦めた様子で、武人は小さく溜息混じりに呟いた。

始めから大きく構えていればこのような無様を晒す事は無かっただろう。しかし、それは出来なかった。花見月と一緒にお風呂、それだけの一文で彼の脳内にはある出来事が反射的に思い起こされていた。つい十日ほど前に義人と静奈の三人で公営温泉ゆーぷる木崎湖へ入浴に行った時のことだ。武人としては思い返すだけで顔が赤くなる思いである。

そこでの出来事は武人にとって、生まれてから今日に至るまでで最も衝撃的な事件であった。過去にはトイレで大便を足している時に頭上から水が降ってきた事もあったし、歩道から無理やり押し出されて車に轢かれた事もあった。しかし、それらと比較しても先の件は尚勝って彼の心を強く揺さぶった。そして、その影響が今でも強く頭に残って離れないのだ。お陰で先程も無駄に大きく反応してしまった。彼女の様な小さな女の子を前にすると、どうしても件が思い返されてしまうのである。自分でも顔が熱を持っているのを感じていた。

「武人、一緒に入ってくれるのか?」

そんな淫らな妄想を彼女たち姉妹に向ける訳にはいかない。いや、想起することさえ間違いなのだ。自分は何を考えていたのだと、自らを律するように小さく頭を振って武人は花見月に向き直った。

「そ、そりゃまあ、お風呂くらい一緒に入ったところで、別段何がある訳でも無いんだからね。僕も君達と共に楽しく入ろうじゃないか。お風呂は大勢で入ったほうが愉しいからね」

その様子はまるで、夕食の席で卓上に並ぶ人参やピーマンを前に、しかし、デザートの御預けを喰らって涙を浮かべながらも渋々と口へ運ぶ幼子の様であった。

「あの、嫌なようなら無理に入るべきではないと思います。花見月には私が言い聞かせます。ロリコンならお風呂は一人で入った方が気も楽に違いありませんし、お風呂に入って気疲れしては本末転倒でしょう」

「何を言ってるんだい、別にお風呂くらいどうってことないさ」

真顔でロリコンをロンリーコンプレックスとして使い誤る夢見月に、しかし、それを指摘する事の出来ない武人は首を横に振った。此処で退いては後で義人に何と言われるか分かったものでない。退くに退けない状況で、武人はただ花見月に賛同することしか出来な無かった。

「やっぱり武人はいい奴だなっ!」

何も知らない花見月の嬉しそうな声が夜の芹沢宅に響いた。

湯気に曇る浴室内で動く影は三つある。

身長170センチと少しの武人に対して、夢見月と花見月は共に頭頂部が彼の臍より少し高い位置に来る。だとすれば大よそ身の丈は110センチ程だろうか。実年齢はギネスブックも真っ青な二人だが、体躯はかなり小柄な部類に入る。小学生の低学年程度だろう。

陶磁で出来たタイルの上に敷かれたマットに座り込み、共に一糸纏わぬ姿で全身に白い泡を纏いながらタオルで互いの体を洗っていた。その様子は仲の良い姉妹そのもので、一方がもう一方に背を向けて手の届かない部位を洗い合う、という微笑ましい光景がそこにはあった。そんな彼女達の姿を武人は湯船に浸かりながらボンヤリと眺めていた。

「なぁ、武人もそろそろ出てきて一緒に身体を洗おう」

「背中をお流しします」

楽しげに微笑みあいながら垢を流していた二人が暫くして湯船に顔を向ける。

幼い肉体は二次性徴の欠片も見受けられない。胸は僅かな膨らみも無く平坦であり、性器は縦に一筋の線が確認できるだけだ。陰毛など生えてくる気配すら感じられない。脇や腕、脛といった部位においても、そこには産毛も碌に見られず、鼻頭が接するほどに近づいて漸く毛穴を確認できる程度だ。それも非常に控えめで小さい。子供特有の木目細かな肌は、押せば張りのある弾力を指先に返してくれることだろう。そんな中で湯に濡れた体は、他と比較して薄暗い浴室の照明を反射してテカテカと光沢を帯び、彼女達の存在を妙に艶やかに演出していた。

「ほらほら、早く出て来いよ」

武人の腕を取って花見月が急かす。

「わ、分かったから、自分で出るから待ってよ」

此処まで来ては抗う事もできない。それに長湯が苦手な武人としては、これ以上を湯船に浸かって逃げるのも限界だった。手元にあったタオルで下を隠すと、覚悟を決めて湯面より身を上げる。

「ここに座ってくれ」

ぽんぽんとマットの自分が座ったすぐ隣を軽く叩いて指し示す。

「別に体くらい自分で洗えるんだけど」

「遠慮するなって、アタシ達が隅々まで綺麗に洗ってやるよ」

「いや、別に遠慮してる訳じゃないんだけどさ……」

渋々腰を下ろす武人に、言うが早いか花見月は手にしたタオルでその背を洗い始めた。隣に座っていた夢見月もまた、彼女に習って目の前の背に手を伸ばす。そんな二人の好意を前にして、仕方なく武人は流れに身を任せて大人しくなった。

「力加減は大丈夫ですか?」

あわ立つタオルを控えめに擦り付けながら問うてくる。

「うん、気持ちいいよ」

他人に背を流してもらうなど何年ぶりだろうか。

こうしてみると感慨深い気分になったりもする。義務教育の始まりから続いた虐められっ子生活が祟って女性に不慣れな武人である。静奈との記憶も手伝って、裸の異性と場を共有しているという緊張感は大きい。しかし、こうやって誰かに背を流して貰うのもなかなか悪くないものだと思えた。

「やっぱり夢見月と違って武人の背中は大きいな。洗い甲斐があるぞ」

「二人はいつも一緒にお風呂に入ってるの?」

「おう、いつも一緒だ」

「おかげで毎日が長風呂になってしまいます」

「本当に君達は仲がいいんだね」

「アタシ達は姉妹だからなっ!」

「それに私たちが住んでいる山小屋だと、こうした便利な水道設備もありません」

「ああ、なるほど」

「ですから、一度に入ってしまわないと二度に渡って湯を沸かさなければならず、とても面倒なのです。勿論、そうでなくとも一緒に入るというのには変わりないと思いますが」

答える二人はとても満足気だった。背を向けているので表情を窺う事は出来ないが、きっとそこには可愛らしい笑みが浮かべられている事だろう。非常に仲の良い姉妹だった。そんな彼女達の時間に自分が入ってきてしまっていいのか。二人のやり取りを耳にしていると、そんな疑問さえ浮かんだ。

「よし、次は前だっ!」

ふと手を止めた花見月が、くるりと横を回って武人の正面に現れた。

「い、いや、ちょっと待って、前は自分で洗うから」

「そんな遠慮するなよ。毎日一緒に遊んでくれるお礼だ、今日はアタシが全部綺麗にしてやる」

「ちょ、ちょっとっ!」

目の前に花見月の裸体が飛び込んできた。慌てて立ち上がろうとしたが、それもかなわず数瞬早く伸びた小さな手が武人の肩を押さえ込む。かなり本気で逃れようと試みたが、相手は狐の化け物だ。可愛らしい見た目に反して凶悪なまでの身体能力を持っている。そして、性質の悪いことに彼女は武人のその反応さえ遊びの一環だと信じて疑わない。

「さぁ、洗うぞっ!」

自分から逃れようとする相手の反応が面白いのか、一層の勢いを持って武人の薄い胸板にタオルが押し付けられる。彼女の感覚としては、きっと鬼ごっこでも楽しんでいるが如くだろう。お風呂を楽しむと言った先の言葉に嘘偽りは無かった様だ。

「逃げようとしたって、そうは行かないからな! ゲームじゃ負けてばっかりだったけど、こっちじゃアタシのが強いんだ。頭から爪先までピカピカにしてやるから覚悟しろよっ!」

胡坐をかいて座る武人の股へ両足を開いて座り込み、その身体へ絡みつく様にして一挙一動を拘束してくる。背中へ回された両足は、立ち上がろうとした際にタイルへ付いた両手を肘の上から巻き込んでがっちりと腰を固定しており、満足に身動きをとることさえ出来ない。タオルを持つのと反対の腕は彼の肩をギュッと握っていた。

「は、花見月、ちょっとこれは身体を洗うのとは違うと思うんだけど……」

「こうしないと武人は湯船に逃げちゃうだろ? 自分ばっかり勝ち逃げするのは許さないからな」

「っていうか、別に入浴に勝ったも負けたも無いだろ!?」

「ちゃんと勝ち負けがあるんだよっ!」

「いや、意味が分からないんだけど」

花見月は強引に武人の身体を洗い始める。そんな姉を止めようと夢見月も声を掛けるが、勢い付いた彼女は止まる事を知らない。もがく武人を逃さぬよう、グイグイと強引に両足で腰を自らへ引き付けるよう拿捕しつつ、手にしたタオルを動かす。

「ま、ちょ、っと、まってよ……」

「こらっ、動いちゃ駄目だろ」

「そ、そんなこと言ったってっ!」

そして、両足で腰を捕らえるということは、同時に自分の股を相手の下腹部へ押し付ける事に他ならない。花見月の小さく可愛らしいお尻の割れ目や、その前にある縦スジが、丁度、武人の性器を挟み込むように上に乗っかっていた。周囲の肌とは異なる柔らかな弾力を感じて、武人の背筋には緊張が走る。

勿論、それでも普通の人間なら、花見月のような幼い外見の子供を相手に何をされたところで、別段、困るようなことは無いだろう。しかし、まこと残念ながら彼は普通でなかった。

「離れて、お願いだから離れてよ花見月っ!」

「ううん、まだちゃんと全部洗えてないから駄目だ」

「身体は幾ら洗ってもいいから、だから、今はお願いだから離れてよっ」

その姿を眺めているだけなら、まだ大丈夫だった。頭の中で、意識するな、意識するな、と何重にも戒めを与えて耐えていた。けれど、物理的に刺激を受けてしまってはどうにもならない。しかもそれが性器と性器の接触によるものであれば、そこから得られる感触は精神的な影響もあって如何ともし難いものとなる。

己を包むように背面へ回された両足の内股からは、子供特有の暖かな体温が伝わってくる。肩をつかむ小さな指の一本一本は、まるで己の肌に吸い付いて来るようにさえ感じられた。胸を撫で回すタオルからは断続的かつ不規則的な刺激が加えられる。そして目前には悪戯っぽくも満面の笑みを浮かべる愛らしい顔があった。

本人の理性とは裏腹に、抗うことのできない本能は僅かな間を置くこと無く、その鎌首を擡げ始めたのだった。そして、それは幾ら沈めようと努力しても、一度始まってしまえば流れを変える事など到底不可能な変化である。ムクムクと体積を膨張させ始めた武人の性器が、その上からぎゅうぎゅうと押し付けてくる花見月の性器を、逆に下から圧迫し始めた。

「ん?」

彼の肉棒は彼女の幼い肉壁の縦スジと平行な状態にあって、その身を谷間へ少しずつめり込ませていく。己の身体に触れる異物に気づいた彼女は小さく疑問符を浮かべると、それまで肩を握っていた手を自分の股の間に突っ込んだ。

「なんか、お股に当たってる……」

慌てたのは武人だ。

「ま、待って、違うんだよそれはっ!」

相手に自分の変化を悟られてしまったことを理解して反射的に声を上げる。同時に、伸びてきた花見月の指に触れられて、端から見ている側が驚いてしまう程にビクリと大きく背を振るわせた。しかし、その指は軽く触れただけでなく、次いで、何気ない動作で触れたるものを根元からギュッと握ってきた。

「っ!?」

それほど握力を込めた訳では無かった。しかし、男としての急所を遠慮なく、そして躊躇無く握られたことで、武人の口からは声にならない悲鳴が漏れた。同時に、それまで五分勃ちであったそれは、強烈な刺激を受けて一息に八分勃ちまでの成長を遂げる。

「あ、武人、ちんちん大きくしてるのか!?」

若干腰を浮かせて、自分の性器に触れていたもの目の当たりにした花見月が、一際大きな声を上げた。上からの圧迫を失って反り返った武人の性器は、彼女の手の中で意気揚々と天を見上げていた。

「ち、違うっ!!」

「だって、アタシのお股に当たってたぞ」

そう言いながら、再び武人の上に擡げた腰を下ろした彼女は、己の腿の合間から顔を覗かせたそれを両手で握りフニフニと揉み上げる。何時の間にか皮を脱いだ性器はピンク色の頭を露に、白く小さな指に弄られて更に身を硬くし始める。

「違う、違うんだよ、これはっ」

武人は慌てて立ち上がろうとした。

「武人のちんちんって結構大きいんだな」

しかし、背に回された足の拘束は堅く、また両腕もそれによって脇へ押さえ付けられているので上手く立ち上がることが出来ずにもがいて終わる。まるで強固な縄で縛られているようだった。

「っていうか、弄らないでよっ!!」

幾ら密接しているとは言え、花見月を相手に勃ててしまった武人は、恥ずかしいのやら情けないのやら、その顔を真っ赤にして吼えた。脳裏に思い返されるのはつい先ほど耳にした義人の言葉だ。ロリコン、ロリコン、ロリコン。

「あの、武人さん……」

恐る恐るといった様子で夢見月が口を開いた。

「な、なに?」

「私や花見月の容姿は、その、なんと言えばいいのか……、人間から見ればかなり幼く映るものだと思うのですが……」

「………」

肩越しに振り返った武人を、互いの座高差から夢見月は上目遣いで覗き込むように見つめてくる。彼女が言わんとすることは武人にも容易に理解できた。何を確認しているのかは尋ね返すまでもない。

「別にっ、別にそういう訳じゃないんだっ! ただ、その、花見月のが僕のに当たってたから、だから、精神的にというよりは生理的に、生物学的に反応しちゃっただけなんだよっ!!」

「生物学的、ですか」

しかし、見事におっ勃てたナニを弄くり回されながらでは説得力も激減だ。

「武人のちんちんは可愛いな」

後ろに意識を向けていた彼の隙を突いて、花見月が遠慮無しに亀頭を指で摘んだ。不意を突かれた武人は迫った刺激に備えることも出来ずに、ヒャっと声を漏らして背を弓形に大きく反らせる。

「な、何をするんだよっ!」

「気持ち良くなかったか? ここを弄ると男は気持ち良くなるって、前に夢見月が言ってたんだけど……、もう少し先っちょの方だったか?」

「ぉっ!?」

花見月は亀頭とその周辺を親指と人差し指で挟んで、遠慮なくクニクニと規則的に圧迫してくる。時折指先が強く擦れることで起こる強烈な刺激に、武人は腹筋がビクンビクンと脈打つのを止められない。堪らずバランスを崩し、両手が使えないので咄嗟の支えも無く、その背を後ろに座る夢見月へ預けてしまう。

「は、花見月、そういうのはお風呂でやることでありませんっ!」

そんな彼を両手で抱き抱える様に支えつつ、妹は慌てた様子で姉に言葉を向ける。

「そうなのか?」

「そうなんですっ!」

「でも、夢見月とは毎日お風呂で舐め合ってるじゃないか。夢見月とはいいけど、武人とは駄目なのか? アタシは武人とも一緒に気持ち良くなりたい。夢見月は武人が一緒だと嫌なのか?」

「そ、それを今言うのはもっと駄目ですっ!!」

無邪気な花見月の突拍子も無い発言を受けて、夢見月の顔は途端に朱色へと染まった。ある程度は人間社会の常識を己の常識とする夢見月と比較して、花見月は生後重ねた歳月こそ膨大であるものの、そういった方面に関しては、それこそ見た目相応の知識量しか持たぬ子供の様であった。実際にどの程度を理解しているのかは窺い知れないが、多くは知識云々ではなく、彼女の人間社会に対する経験の無さに由来するものだろう。

「あの……、二人って姉妹なんだよね?」

「………はい」

自分達の秘め事を暴露されて、夢見月は恥ずかしげに頷いた。

また、お風呂で舐め合っている、その一言は武人の精神にも大きな影響を与えた。頭では必死に抑えようと念じてはいるが、本人の意思に反して彼の性器は更なる膨張を続ける。加えて、その竿は周りを花見月の柔らかで滑々とした両腿、それにプックリとしたピンク色の縦スジ一本から成る性器に挟まれている。否応にも意識させられる異性の肌の温度に、浴室内の高温多湿も手伝ってそれは痛いほどに成長してしまった。

「あ、また大きくなってきた」

「ぅぅ……」

最早返す言葉も無い。

僕はロリコンだったのか? ペドフィリアだったのか? 仮定と否定の連続が思考をグルグルと目まぐるしい勢いで駆け巡る。そんな武人の姿を楽しそうに眺めて、花見月は更なる言葉を続けた。

「よし、アタシが武人のちんちんを気持ち良くしてやる」

「ぇ!?」

いったい何を……、と言いかけて、彼の股下に嘗て無い衝撃が走った。

「んむっ」

若干座る尻の位置を後ろにずらした花見月が、間髪置かずに腰を大きく曲げて、己の両腿の合間より生えたる武人の性器を口に含んだのだった。それも喉奥を使って根元までズッポリと、勢い良く全てを咥内へ収めたのである。陰毛が目に入りそうな中で、それでも笑みを浮かべて上目遣いに武人を見つめてくる。その姿は彼女の外見的な幼さも手伝って、非常に背徳的なものとして感じられた。

「ちょ、ちょっと何してるんだよっ!?」

どう反応して良いか分からずに、武人は混乱気味に叫んだ。

性器を口に含まれた経験など過去に無い。暖かで柔らかな咥内の感触に腰が溶けそうにな錯覚を覚える。それは手淫とは比較にならないほど気持ちが良いものだった。敏感な部分に粘膜が纏わりついてくる感覚は過去にある唯一の性交経験と同様だが、此方はそれにあった強烈な締め付けとは異なり、やんわりと全てを包み込んでくれる優しさのようなものが感じられた。

「はぁおばぁ?」

ネットリとした口の中で、膨張の一途を辿る性器はザラザラとした舌に四方八方から嘗め回される。まるで凍えるような吹雪の元、芯まで冷えた身体に頭から熱いお湯を被った様な感覚であった。喉の肉で亀頭を刺激され、お尻の穴から脳天へ一直線に抜けるような快感が全身の筋肉を強張らせる。

「ぉうはぁ? ぃほひひぃはぁ?」

「ま、まって、駄目だってっ!」

「はぁほぼぅばぁぇえ?」

「何言ってるか分からないよっ!!」

「はぉおはぶぅはひひぃほぁ?」

口の端から溢れ出る涎を垂らしつつ、モゴモゴと何事かを訪ねて来る。花見月が何かを喋ろうとすると、それに応じて喉が動いて接する亀頭を不規則に刺激した。口の中は風呂で湯に浸かっているより尚暖かく感じられる。それに密閉感が加わって、武人はすぐにも射精してしまいそうな感覚に襲われた。

「やめて、やめてよっ! で、出ちゃうからっ!!」

「ぃひぃほぉ、あはぁひほはははべぇばひぃへぇ」

薄暗い浴室の照明に照らされてキラリ光る涎が、口端から顎を伝い糸を引いて武人の腿にポタリ伝い落ちる。異性の唾液が身体に触れた。今行われていることに比較すれば他愛のないことだが、それがまた妙に武人の興奮を誘う。

「あの、花見月……」

武人を背後から抱きとめる夢見月がおずおずと口を開いた。

「花見月がやるというなら、私もやります」

「ぇっ!?」

腹部へ回されていた夢見月の腕が武人の両方の脇の下を後ろから掴む。

「何っ!? 君もやるって、な、何をやるんだよっ!?」

「ナニをやります。身体を動かすので少し大人しくしていて下さい」

そして、すっくとその場で立ち上がった。

自然と武人の尻は風呂場に敷かれたマットから離れて宙に浮く。夢見月はそのまま彼の身体を抱え込むように前倒しにして、両足を後ろへ伸ばさせると、性器を咥える花見月の上に覆いかぶさるよう倒しこんだ。自然と武人の腰に回されていた足は解かれて、マット上に横たわる花見月の上へ武人が圧し掛かる格好となった。性器を咥えたままの花見月の頭が武人の下腹部の下敷きになる。自重に従って彼女の喉のより深い位置まで性器が押し込まれる。

「ちょ、ちょっと、夢見月まで何するんだよっ!」

己の腹の下からくぐもった呻きが聞こえてきた。それを耳にして武人は慌てて起き上がろう膝をマットに立てる。しかし、彼の気遣いは呻きを漏らした等の本人によって阻止された。ぐわっと伸ばされた両腕が彼を逃すまいと背に回される。そして、浮き上がった身体は再びギュッと花見月によって抱き止められてしまった。

「私は花見月と違って満足に料理を作ることも出来ません。幸い武人さんは私達のような者にも興奮して下さるので、せめて此方では喜んで頂けるよう頑張ります」

「が、頑張らなくていいよっ!」

「それでは失礼します」

武人の股下に頭を置いて仰向けに横たわった花見月。その上半身を膝を突いて跨ぎ、夢見月は姉の状態を確認する。そして、問題が無いことを理解すると、おもむろに彼女は両手を床に突いて、武人の尻の辺りへ頭を下げた。その様子は武人からは視認することが出来ない。背に回された花見月の腕力は相変わらずで身体を起こす事が不可能だ。恐怖にも似た戸惑いに自然と口からは疑問の声が漏れる。

「いったい何を……」

する気だよ、と続けようとして、またも彼の台詞は肉体に走る未知の感覚に遮られた。

「んっ」

お尻の穴を舐められたのだ。

「ちょっ! ちょっとぉおおっ!」

これには武人も心臓が口から飛び出る程に驚いた。

「まって、それはおかしいっ! 絶対におかしいっ!」

しかし、反論は認められない。ぐっと突き出された夢見月の舌が容赦なく彼の菊門へと突き刺さった。細く長い真っ赤な舌が、数センチに渡って武人の直腸内に埋没する。その体積や断面積は普段の排泄と比較すれば大したものではない。だが、通常ならば一時的な拡張に過ぎない肛門の開口が、今は断続的に行われている。加えて、自分の意図せぬ動きで腸壁を擦る異物は、ある種自身の内臓物とも言える糞とは異なり、明確な意図をもって高ぶる彼の神経を刺激した。

「っ!?」

花見月にせよ夢見月にせよ、武人が性器を勃起させている事実から、嫌よ嫌よも好きのうち、ということで現状を理解していた。ならば出来る限り楽しませてやろう、というのが彼女達の考えだ。

「こ、腰が……」

花見月は咥内に含んだ性器を舌で激しく嘗め回す。雁首をペロペロと連続して舐めてみたり、尿道を舌先で刺激してみたり、竿全体を頬と舌で挟み扱いてみたり、果ては、喉の肉で先端を絞ってみたりと、一体何処でそのような知識を得たのか疑問に思えるほどの技術であった。

一方で夢見月は突き入れた舌を上下左右に動かし、直腸内を無慈悲にも蹂躙していく。両手は尻の肉を両側に押し開くように当てられ、ピンと突き出された舌が可能な限り奥深くまで埋没している。端から見る彼女の姿は、まるで肛門に噛り付いているかの様であった。

「んっ、ふはぁぼぉ…」

「は、花見月は喋らないでっ!」

「ほぉうはぁひぅ?」

前からも後ろからも敏感な場所へ舌を伸ばされて、武人は今にも腰が抜けてしまいそうな気分だった。申し訳ないと思いながらも、背筋を走る強烈な刺激に足腰は立たず、肉体は自重に従って抗力無く花見月の顔へ圧し掛かってしまった。だが、それさえ気にした風も無く性器には更なる刺激が途切れることなく与え続けられた。

二人が少し辛そうに鼻で呼吸する音がハァハァと、必死に舌を動かす音がクチュクチュと、他に音の無い浴室に響く。武人は二人に語りかける言葉も無く、与えられる快感に身を委ねるべきか、それとも耐えるべきか、本能と理性の鬩ぎ合いを胸中にジッと身体を堅くしていた。

だが、それも長くは持たなかった。

彼の反応が思いのほか鈍いことに対抗心を燃やした花見月が、唐突にも喉を窄めて勢い良く性器を吸い込んだのだ。俗に言うバキュームフェラという奴で、咥内から空気を追い出すことで激しい締め付けを実現する技術だ。

「っ!?」

それまでの全てを包み込むような優しい快感とは一変して、突如として与えられた鋭く強烈な刺激に自然と口からは声が漏れる。花見月の唇と武人の竿の間から漏れた空気が立てる厭らしい音が更なる興奮を誘った。

そして、姉の行為に触発された夢見月もまた、負けじとアプローチを変えて武人の肛門を攻め始める。チュポンと音を立てて抜いた舌の代わりに、己の人差し指を第二間接まで一息にズブリと突き入れたのだ。小さな彼女の指でも、それまで刺さっていた舌に比べれば明らかに長い。

「ひぃぃぃぃっ!」

既に唾液でベトベトに濡れていた武人の肛門は、虚を突かれたこともあり、大した抵抗も無くそれを受け入れた。だが、ごく一部の肉体的な準備は整っていたとしても、精神および神経系の準備は全くである。車に正面から衝突された様な、全身を突き動かされる程の衝撃が全身を駆け巡った。浴室の小さなガラス窓を超えて、家屋が面する道路へ響くほどの悲鳴が上がる。

「あ……、だ、大丈夫ですか?」

これには夢見月も驚いたらしい。指を肛門に突っ込んだままの状態で、おずおずと言葉を返す。首を捻って後ろを振り替えった武人と、尻の穴から顔を上げた夢見月との視線が互いに交差する。

「う……、うぅ……」

気づけば知らぬ間に武人の眦には涙が浮かんでいた。

「そ、その………、なんというか、申し訳ありません」

武人の反応は夢見月としても完全な予想外であったらしい。呆然とした様子で今にも泣き出しそうな武人の顔を眺めていたが、しばらくして我に返ると謝罪の言葉共に大きく頭を下げた。

「いいから、謝るのはいいから、とにかくそれ抜いて……」

「は、はい」

チュポンと小さな音を立てて夢見月の人差し指が肛門から勢い良く引き抜かれる。

「ひぃっ!?」

それがまた武人の前立腺を酷く刺激して、無様にも悲鳴が漏れる。

「あぁ、すみませんっ」

「うぅ………」

「あの、男性の方はお尻の穴を弄られると、普通は気持ち良くなれると理解していたのですが、気持ち良くなかったでしょうか? それとも、私が誤って理解していたのでしょうか?」

「その、それはなんていうか……、人によりけりだと思うよ」

生物学的には前立腺を刺激すると男性は快感を得る事が出来る。しかし、それにもある程度の慣れが必要だという。中にはいきなり指を突っ込まれて快感を得られる人間も居るだろう。だが、多くは快感よりも圧倒的な異物感に驚きを感じるのが当然だろう。また、そういった嗜好の持ち主の多くは、寧ろ女性に肛門を弄られているという精神的な面から来る快楽が大きいのだと言う。

「武人さんは気持ち良くなかったですか?」

「っていうか、ぅ! そ、それ以前の問題っ」

そして、それは多分に漏れず武人も同様であった。まだまだ開発の余地が残る菊門は快感よりも先に異物感を訴えた。叫ぶ声は花見月より性器へ断続的に与えられる刺激に震えていた。

「そうですか、では先程までのとおり舌で奉仕させて頂きます」

「ちょっと待ってよ、それより、そもそもお尻って間違ってないっ!?」

「それでは失礼しますね」

「だから待っ!」

止める間も無く、夢見月は再び花見月の上へ互いの腹を合わせて身体を重ねる。そして、武人の尻へ顔を密着させると、肛門を軽く一舐めした後に先程と同様、ヌポヌポと舌の出し入れを始めた。

「ぅぁぁっ!!」

息をつく間も僅か、再び刺激を受けて全身の筋肉が緊張を取り戻す。

花見月と夢見月から与えられる不揃いな刺激は、彼の肉体に休む暇を与えず断続的に快感を与え続けた。始まってから十数分もすれば、絶え間無い運動を受け続けて徐々に疲弊し始めた筋肉が熱を帯び始める。特に腹筋や大殿筋、腸腰筋といった筋肉は、慣れない刺激への反射に明らかな疲労を感じ始めていた。

だが、二人の執拗なまでの攻めは止まらない。

「ちょ、ちょっとっ! もう駄目だよっ! もうっ!!」

同時に、湧き上がる射精感を堪えるのもここまでが限界であった。

「ふぇぶほぉはぁ?」

武人の言葉に応じて花見月が何やら呟いた。

応じて蠢いた咥肉が敏感になった雁首を強く擦る。

「あっ!」

その刺激は彼にとってトドメの一撃となった。熱いものが勢い良く尿道をせり上がって来るのを感じた。それから間髪置かず、精液は花見月の咥内へと注ぎ込まれた。武人の性器は彼女の喉の奥深くまで押し込まれている。先端から飛び出した白い粘液質の液体は、直接に食道へビュクビュクと叩き付けられる。

「んぅっ!?」

予期せぬ異物感に花見月の目が大きく開かれた。

だが、武人が達したのだと即座に理解した彼女は、注ぎ込まれる精液を勢いに任せて飲み込んでいく。喉の動きに阻害されて食道へ入り損ねた精子が肉の壁にぶつかり咥内に溢れる。飲み込み切れなかった一部が合間から湧き上がり、唇と竿の隙間より音を立てて飛び出した。

「だ、大丈夫っ!?」

逆に慌てたのは武人だ。射精も半端に、慌てて床に膝を立て身体を上げようとする。しかし、依然として背には腕がギュッとキツク回されておりそれも適わない。それから溜まった全ての精液を放出し終えるまで、花見月は彼から腕を放さなかった。ビュクビュクと波打って放たれる精子は花見月の喉を白く汚して、ゆっくりと肉壁を伝い奥へ奥へと落ちてゆく。

静奈との一件を過ぎてからの武人は、性的欲求と彼女との行為が強く印象付けられてしまい、以来自分で処理することも躊躇われる毎日を送っていた。そして、それは仲違いになってからも続いていた。だから、今の彼の体内に溜まったそれは結構な量があった。粘り気の強く些か黄みがかった精液に四苦八苦しながら、花見月は放たれた精を必死に飲み込み続けた。最後はチューチューと音を立てて、尿道に残ったものに至るまで搾り出すように喉を窄めて丹念にしゃぶる。

「あの、花見月……」

射精後の敏感になった性器に与えられる刺激に耐えかね、武人はビクンビクンと小さく肉体を震わせる。己の背に腕を回し身を強張らせたままの彼女を心配に思った彼は、再三に渡り声を掛けた。

「その……、大丈夫?」

時計の秒針が一周する程の時間を掛けて、花見月はゆっくりと精液を飲み干した。

「ぷはぁぁぁぁっ!」

そして、彼の性器より口を離すと共に大きく息を吐いた。同時に背中に回されていた腕が解かれ、身体の自由が開放される。武人が射精したのだと理解した夢見月も、花見月が口を離したのと同時に肛門より舌を抜いた。

「も、もしかして、飲んじゃったの?」

慌てた様子で花見月の上から退いた武人は、その隣に正座で座り込むと、仰向けに横たわったままの彼女へ目を向ける。

「おうっ!」

楽しそうに笑みを浮かべる花見月の口周りには、ゼリー状の精液が白く固まりになって付着していた。異物感に気づいてそれを指先で拭う。そして、さも当然だとばかりに元気良く頷いた。

「いや、その……、おうって言われても……」

武人としては困惑する他に無い。

「武人のおちんちんは元気だなっ! すっごい沢山精子が出てきて、アタシも溺れるかと思ったぞっ! それに滅茶苦茶濃くて粘っこかった。ほら、こんなに糸を引いてるぞ」

「や、やめてよ」

指先についた精子を人差し指と親指の間で捏ね繰り回し、そして、ゆっくりと引き離すことで、その間で白い橋を作ってみせた。裸の幼い少女に目前でそのような痴態を示されては、武人としても目のやり場に困る。

「これ、味もすごく濃かったぞ」

「そんなこと言わなくていいよっ!」

「ふふ、なんか武人って可愛いな」

そんな彼の姿が面白いのか、花見月は満足げな笑みを浮かべる。そして、何の躊躇いも無く精液の付着した二本の指を口に咥えて、まるで飴玉でも舐めるようにチュパチュパとしゃぶった。タイルの上に敷かれたマットに横たわる花見月の裸体は、行為を終えた後だからだろうか、妙に艶かしく厭らしいものに感じられた。

「気持ち良くいけましたか?」

花見月の上から身体を起こした夢見月が武人の隣に座り尋ねた。

「そ、そりゃ……、こうして出ちゃったんだから聞くまでも無いでしょ」

「でしたら良かったです」

散々弄られたお陰で、既に何も触れていない筈の尻の穴なのに、そこには依然として違和感がある。むず痒いものを感じながら、武人は精一杯の虚勢を張って彼女に言葉を返した。正直なところ自慰の比ではない快感が尾を引いて、今も身体が宙に浮いたような感覚が残っている。

「武人のおちんちん、おいしかったぞっ!」

「お、おおお、おいしいとか、そんなことある筈ないだろっ!」

それは本心からの言葉なのか、それとも武人をからかってのことなのか、底の見えない花見月の発言に武人は顔を真っ赤に染めながら叫ぶのだった。

次の日、武人が目を覚ましたのは、枕元に置かれた目覚まし時計の聞き慣れたアラーム音ではなく、腹部に感じる妙な圧迫感に因ってであった。

「ん………」

目脂でくっつく眦を人差し指で擦る。すると、開けた視界の先で待っていたのは、銀色の長髪が麗しい、Tシャツとデニム生地の短パンという出で立ちの花見月であった。ちなみに狐の耳と尻尾は隠れている。

「おーい、武人、もう朝だぞ」

仰向けに横たわる武人の身体を跨いで、その上にちょこんと座っている。

「義人にお前を起こしてくれって頼まれたんだ。学校に行くんだろ?」

「………」

彼女の姿を確認してからの数秒は、自分の置かれた状況を理解できなかった。だが、幸いな事に、すぐに昨晩の出来事を思い出すことが出来た。おかげで、ベッドの上で慌てふためくには至らずに済んだ。

「ああ……、花見月か」

「おう、花見月だ。おはよう」

普段ならば、意識が戻ってからも布団の中で数分間は惰眠を貪るのが慣習となっていた。しかし、今日という日は、想定外の目覚めを受けて、脳味噌は二度寝を要求することも無くすぐに覚醒した。

「うん、おはよう」

前にも似たようなことがあったな、と既視感を感じながら朝の挨拶を返す。

「朝ご飯は出来てるんだ、早く食べよう」

腹の上から声が掛かる。

「分かった。着替えて行くから、花見月は先に行っててくれよ」

「おう」

武人の言葉に応じて、彼の腹部から降りた花見月はとてとてと部屋から出て行った。枕元の目覚まし時計に目を向ければ、時刻はアラームをセットした午前7時を前にして、午前6時半である。

「まだ、7時にもなってないじゃん」

とはいえ、父親に起こされたならまだしも、花見月に起こされたとあっては、妙な遠慮が働いて、再び布団に戻ることも出来ない。また親父にしてやられたと、武人は素直に学生服へ着替え始めた。

その間に思い出されたのは昨晩の出来事である。

「…………」

またしてもやってしまった、と後悔の念に駆られながらも、しかし、今回は自分も精一杯の抵抗したんだ、と言い訳を唱える。脳裏に浮かぶのは花見月と夢見月の幼い肉体であり、可愛らしい笑顔である。膨らみの無い胸は、しかし、艶やかで滑らかな絹の如き肌触り。子供独自の肌の張りは指で触れれば吸い付いてくるような錯覚を覚える。加えて、無毛の恥丘はプックリと膨らみ薄いピンクに色付いて……。

「ああ、もうっ!!」

ぶんぶんと頭を振って良くない妄想を頭から追い出す。

僕はロリコンなんかじゃないっ!

まるで暗示を掛けるように、胸中にて何度も何度も自分に言い聞かせた。

「今日で学校も終わりなんだっ! とっとと頑張るぞっ!!」

学生服へ着替え終えた武人は、鞄に必要なものが全て入っていることを確認して部屋を出る。行きがけには洗面所で顔を洗い、それから階下のダイニングへと向かった。歯磨きは朝食の後で良いだろう。

部屋に入ると、そこには出来立ての朝食を前にして武人を待つ花見月と夢見月、それに義人の姿があった。ダイニングテーブルの上に並んでいるのは、もやもやと湯気を上げる炊き立ての白米に目玉焼き、それと焼いたベーコンである。オーソドックスな朝の献立だった。

「やっぱり、俺が起こすよりも効果あるみたいだな」

自分の席へ向かい行く武人の姿を眺めて義人がほくそ笑む。

「………そりゃね」

「武人さん、おはようおはようございます」

「おはよう、夢見月」

軽く朝の挨拶をして武人は自分の席に着いた。

その姿を確認して、両手を胸の前で合わせた花見月が朝食の音頭を取った。

「それじゃあ御飯だな、頂きますっ!」

「「「頂きます」」」

昨晩の夕餉に続き、朝食もまた声を揃えて食事は始まるのだった。

三人は武人が目覚めるよりも早くから活動していた為か、それなりに腹が減っていた様子だ。特に花見月は箸を手に取ると、勢い良く白米をかっ込み始めた。朝から元気一杯な彼女の姿を目の当たりにして、自然と寝起きの武人も食欲が湧いて来るのを感じた。

二人は昨晩の出来事を特に気にした素振りも無い。そんな彼女達に合わせて、武人も何事も無かったの如く普通に振る舞い会話を続ける。静奈といい、この姉妹といい、化け物達にとっての性的な交わりとは、人間ほど大した意味を持たないのでは無いか、というのが今の武人が導き出した人外に対する見解である。なので、彼もまたその仮定に則って振舞うことにしたのだ。

「そういや、今日で学校も終わりだったんだよな?」

醤油のかかった目玉焼きを箸で切り分けながら義人が尋ねた。

「そうだね。今日で終業式、明日からは夏休みだってさ」

「夏休みって何だ?」

小さな口一杯に含んだご飯をゴクンと音を立てて飲み込んだ花見月が、両手に茶碗と箸を手にしたまま隣に座る武人の横顔を見て問う。

「読んで字の如く夏の休みだよ」

口元に運びかけたベーコンを掴む箸を手にした茶碗の上に戻して武人は説明を続ける。

「僕みたいな人間の学生は、夏や冬に学校側から長期の休みが貰えるんだ。休みの趣旨は場合によりけりだけど、夏は暑いから冷暖房設備の整わない高校では勉強にならないっていう理由を良く聞くね」

「へぇ……」

「まあ、君達みたいな自由人……、自由狐には縁の無い話だから気にする事は無いと思うけど」

「学校って、人間の子供が色々と勉強するところだよな?」

「一概には言えないけど、大概そうだね」

「どれくらいの期間が休みになるんですか?」

「一般的には8月の末日までだから、一ヶ月半くらいかな。国や地域によって異なるけど、日本は大体そんな感じだよ。北国はもっと短くて、代わりに冬の休みが他の地域と比較して長いらしいけど」

武人の説明に姉妹は関心した様子で深く頷いてみせる。元来から人間を嫌いだと豪語するだけあって、人の世の常識には疎いようだ。生活をする上での利便性を求めて、主に食料や布生地等の生活必需品を買い込む為に、定期的に人里へ降りているらしい。しかし、それも全ては夢見月が引き受け、そして、頻度も年に数回程度なのだそうだ。なので、夢見月にしても最低限の知識しかないし、花見月に至ってはまともに買い物さえ出来ないらしい。その話をつい先日耳にして、武人は大町のスーパーで起こった窃盗騒動の根底にあるものを理解した。

「じゃあ、明日からは武人は一日ずっと家に居るのか?」

「そういうことになるね」

答える武人は転校から間もないこともあり、部活動には所属しておらず、また、バイトの類もやっていない。加えて気軽に遊びに出掛けられる親しい友人も皆無とあらば、夏休みが始まったのなら日がな一日をエアコンの利いた室内に篭って、コンピュータに入り浸ることとなるだろう。他に趣味と呼べるものも無いので、まず間違いない。

「だったら、明日からはもっと早く来てもいいか?」

「花見月、武人さんや義人さんに迷惑をかけては駄目です」

「いや、俺や武人は構わないぞ。なぁ?」

「まあ、他にやる事も無いからいいけど」

義人に視線で問われて、武人は目玉焼きの隣に添えられたレタスをモシャモシャと食みながら答える。薄く塩が振られているらしく、特にドレッシングなどを利用せずとも普通にいけた。

「じゃあ、明日はいつもよりも早く行くっ!」

二人の言葉を受けて、花見月はとても嬉しそうだ。

「よし、なら明日からは昼食の材料を三人前用意しておくとするか」

「え? それって誰が作るの? 父さん仕事じゃん」

「いや、作るのは俺じゃなくてお前と花見月さん、それに夢見月さんだよ。昨晩に料理の練習をするって言ったろ? どうせやるなら、機会も多い方が良いじゃないか。だったら、昼にもやればいい」

「あの、流石にそこまでご迷惑をお掛けするわけには……」

「武人も休み中は自分で昼飯を作らなきゃならないし、材料なら一人分も三人分も大して変わらないさ。だったら練習の機会にした方が効率的だし、コイツだって飯を作るにやる気も出るだろ」

「だからって、何で僕まで昼を自分で作らなきゃならないんだよ」

「此処は東京みたいに外食産業が発達してないんだ。これから一ヵ月半を満足出来る食生活と共に過ごしたいなら、自分で作るしかないぞ? それとも、お前は毎日昼飯をこの二人に作って貰うのか?」

「ぅぐ……」

「去年までは楽を出来たけど、今年からはそうも行かないぞ」

武人の悔しそうな顔を目の当たりにして、義人は意地の悪い笑みを浮べる。

彼の両親は平日、学校がある日は弁当を作ってくれる。しかし、夏休みや春休みといった長期の休み中は作ってくれない。よって、去年までの武人は、長期休暇中は多くをコンビニエンスストアの弁当や、ファミリーレストラン、牛丼チェーン等で済ませていた。それがこの長野の片田舎では通用しない。

「どうせなら三人で作った方が手間も無くていいと思うけどな、俺は」

だったら学校へ行くときと同じように、父さんが僕の分の弁当を作っていけばいいじゃないか、とは流石に言えない。この期に及んで己に悪影響を及ぼす田舎の過疎具合が武人には非常に憎々しく映った。唯一歩いて行ける駅前のコンビニエンスストアが諸事情あって利用不可能な点も痛い。

「別にアタシが武人の昼ご飯を作ってもいいぞ?」

「それでしたら、私も足手まといにならない程度に手伝います」

そして、後光が輝く程に眩しすぎる二人の言葉を受けて、武人は渋々ながら頷かざるを得なかった。これで二人の容姿が厳つい男だったり、老年の女性だったりしたのなら、頭を下げて頼むのも良かったかもしれない。しかし、姉妹の外見は明らかに自分より年下なのだ。そんな彼女達に己の食事の面倒を見て貰うのは、流石の武人にも気が引けた。実年齢は遥かに上の姉妹だが、外見は七、八歳の童女である。

「分かったよ、僕も一緒に作るよ」

「よし、じゃあ決定だな」

姉妹の存在が良い方向に働いて、義人は満足気に頷いた。

「まったく、これだから田舎は嫌いなんだよ」

はぁ、と肩が自然に下がるのを感じた。

「お二人は此処へ越す前はどちらに住んでいたんですか?」

「東京だよ、いや、君等には江戸って言ったほうが通じるのかな。それとも、もっと他の呼び方があったりするのかもしれないけど」

「あ、アタシ東京って知ってるぞ! すっごい沢山の人間が居て、山みたいに高い建物が沢山建ってるんだろ? それで、そこらじゅうが四角くなってて、太陽の光でキラキラ光ってるんだ」

「まあ……、強ち間違ってないね」

「私達も知名の呼称程度は人間の道理に従って理解しています」

「そうなの?」

「改めて自分達で文化を起こすのも面倒ですから。それに、私や花見月の様な妖狐も含めて、化け物の絶対数は人間と比較して圧倒的に少ないですから、自発的な発芽も起こりえないのです」

「なるほど」

「他にも京都とか、北海道とか、鹿児島とか、色々知ってるんだぞ。前に新聞とかいう紙に書いてあったのを見たんだ。今の人間はこの国のそこらじゅうに凄い大きな町を作ってるんだよな」

花見月は得意気な表情で津々浦々の都道府県名を挙げてみせる。

「東京とかが無かった頃は、夢見月と一緒に彼方此方を旅してたから、前と全然違ってて驚いた。人間っていうのは凄いよな。たった数十年で町の形を全く別物に変えちゃうんだから」

「ああ、確かにそうだね。此処数十年に見られる人間社会の変化は、人類史上を振り返っても類を見ない程に大きなものだと思うよ」

伊達に自分より長く生きて無いなと感心した様子で武人は相槌を打つ。

そんな時だ、彼等彼女等の会話を遮るように玄関のチャイムが鳴いた。ピンポーンという音に反応して、口にご飯を目一杯詰め込んだ義人が顔を上げた。リビングから廊下へ通じるドアへ目を向けて口を開く。

「ふぁんだぁ?」

「口に物を入れたまま喋らないでよ、見っとも無い」

仕方なく席を立った武人が義人に代わり玄関へ向かった。リビングから廊下へ抜けて、そこから角を一つ曲がれば玄関はすぐに目に入る。サンダルに片足を下ろして玄関扉の鍵をカチャリと開けた。

「どちら様ですか?」

ガラガラと横開きの戸を開けて外を伺う。すると、久嗣の下に立っていたのはピシっとした値の張りそうな黒いスーツに身を包む壮年の男性達であった。

「此方は芹沢さんの御宅であってますかね?」

三人居る男等のうち中央に立つ人物が口を開いた。

「え、ええ……、そうですけど、どちら様ですか?」

三人は共に武人よりも頭半分ほど高く、随分と上等な身なりをしていた。良く磨かれた革靴はくすみ一つ無く、シャツの袖口から覗く厳つい金属製の腕時計が朝日を反射してキラリと光る。ネクタイにせよジャケットにせよ一目見て良い生地を使っていると、その手の知識には疎い武人にも理解できた。

「というと、君が芹沢武人君だね?」

「…………そうですけど」

名前を尋ねられて武人は途端に渋い顔となる。

「私達はこういう者だが、少し君と話をしたいんだ」

そう言って男が懐から取り出したのは警察手帳だった。

手にしたそれを武人の前に掲げてみせる。

「やっぱり、警察の方ですか」

どういう訳か最近はご無沙汰だったであったが、先の件に関してはまだ決着がついた訳ではない。武人もいずれは来るだろうと考えていた。それが、夏休みを前にして漸くやって来たということだ。

しかし、前に来た二人組みの警察官とは異なり、今彼の前に居る者達には妙な威圧感があった。日本人にしては彫りの深い目元や、口元に刻まれた皺が年配者としての貫禄を感じさせる。純粋に身長差から来るものもある。ただ、それを別として、彼等からは他者を圧倒する、人の上に立つ者が自然と醸す圧迫感にも似た緊張を感じた。

「用件を理解してくれているなら話は早い。少し付き合ってもらえないかね?」

「僕はこれから学校ですが?」

「なに、時間はとらせない。それに話は外で待たせてある車の中でするつもりだ。だから話が終わったなら、ついでに君が通う学校まで送って行ってもいい。勿論、一時間目に間に合うよう送り届けるつもりだ。どうだい?」

「…………」

武人には相手の意向が全く読めなかった。自分を迎えに来たというなら、それは逮捕に必要な書類が集まったということだ。ならば、向かう先は警察署だろう。それがどうして学校へ送る約束をするというのだ。

「そう疑わないで欲しい。別に先の件で君を逮捕しに来たわけじゃない、ただ、我々は君と話し合いをしに来ただけだ。此方の調査によれば、君はなかなか賢い学生だと聞いている。ならばこそ、我々の持ってきた話は君にとっても決して悪い話ではないと思うのだが、どうかね、共に来てはくれんかね」

「此処では言えないことなんですか?」

「申し訳ないが、他の者に聞かれると不味いのだよ」

「学校まで送っていただけるという言葉を、僕は本当に信じても宜しいのですか?」

「ああ、約束は絶対に守るさ」

胡散臭そうに己を見つめる武人に男は小さく頷く。彼の両側に立つ男達は、二人のやり取りを微動だにせず見つめている。何か健全で無い背後関係があるのは、素人の目にも明らかだった。これを断ったらどうなるだろうか。武人の脳裏を駆け巡るのは良くない杞憂ばかりである。

「分かりました、話を聞かせてください」

とは言え、相手の意図を推論するにしても現状では情報が不足し過ぎている。それを埋める為にも、今は素直に相手の口車に乗ることとした。最悪、花見月や夢見月に頼ることになるかも知れない。そう気を引き締めて、武人は小さく頷いて見せた。

「そうか、ならば今すぐにでも一緒に来て貰いたいのだが」

「分かりました。鞄をとってくるので少し待ってて貰えませんか?」

「ああ、分かった。外で待っているよ」

武人の言葉に頷いて、男達は玄関前から路上に停めた車へと戻っていった。

彼等の後姿を見送って玄関扉を開け放ったまま、武人はリビングへ向かうことなく自室へ足を向けた。そこで朝食前に予め準備しておいた鞄を手にする。そして、その後で階下へ降りてリビングへ戻った。武人を迎えた三人は口々に疑問を投げかけて来た。特に花見月と夢見月は妖狐の持つ能力に因るものなのか、先程の会話を薄いドア越しに聞いていたらしい。彼はそんな姉妹の問いへ簡単に言葉を返すと、すぐにでも学校へ行く旨を伝えて家を後にした。

「それは……、僕を脅しているんですか?」

県道を走る黒塗りの高級外車の後部座席に乗せられて、武人がポツリと呟いた。その膝は僅かだが小刻みに震えている。幸いな事に、硬く手提げを握られた鞄が上に乗っているので、他者からは意識して目を向けられない限り勘付かれることは無いだろう。

「別にそういう訳じゃない。ただ、黙っていて欲しいとお願いしているのだよ」

「もしも僕が黙っていなかったのならどうするんです?」

「君はなかなか賢い学生だと担当者からは聞いているのだがね?」

武人の隣、運転席の後ろには先ほど玄関で主立って会話を進めた男が座っている。どうやら、三人の中で最も権力を持つのがこの者らしい。他の二人は、一人がハンドルを握り、もう一人は助手席で静かに聞き耳を立てている。共に会話へ全く介入してこない点からして、この二人は自分を威圧する為に彼が連れてきた部下なのだと武人は理解した。

「もしも私の言葉が君のプライドを傷つけたというのなら謝ろう。此方としても、この件は断じて公にする訳には行かないんだよ。他への根回しは既に済んでいる。後は君が頷けば、全ては解決するんだよ」

「警察って、そういう事ばかり用意周到で抜かり無いですね」

「それはテレビの受け売りかい?」

「いいえ、事実に基づいた客観的な意見です」

「そうかい。まあ、誰だって自分の身内には甘いものさ」

「多くの上に立つ者の言葉とは思えません」

「上に立つからこそ、こういう言葉も吐けなければならないのだよ」

男からの用件は武人の予想通り、先の件に関することだった。

つい二週間ほど前の出来事だ。武人は正体不明の狼男と、それに追われる花見月と夢見月の抗争に巻き込まれた。そして、その過程で北アルプスの麓にて人間の警察官隊から腕に銃弾を受けることとなった。男の望みは、そうして負った負傷の原因を世間に公表することなく黙っていて欲しい、ということだった。

発端は夢見月によって起こされた山火事が鎮火された後、山中で大量の警察官の死体が発見された事に由る。これが原因となり、山では警察による大規模な捜査が行なわれた。その過程で見つかったのが武人の血液が付着した銃弾だった。ここで、武人の治療を担当した医者が弾痕を負った患者の存在を警察に報告していた事により、銃弾を受けた主が特定された。銃弾に付着した血液と、患者から検査と称して採取した血液はDNA鑑定の結果、同一人物のものとして合致したのだ。

事件後より、武人は自分の下に一度として警察官がやって来なかったことを多少なりとも疑問に感じていた。しかし、それがこういう形でやって来るとは思ってもみなかった。男の話を纏めるに、どうやら警察は今回の件を全て自分達の都合の良い様に丸めてしまうつもりらしい。

警察組織は狼男の存在も、花見月や夢見月のような化け狐の存在も知らない。一連の事件は、特に警察官達の惨殺体は、人間の手には有り余る不可解なものであった。また、警察官による民間人への発砲も手伝って、表立っての発表では事件調査は継続中となっているが、実際は捜査開始より一週間を過ぎた辺りで打ち切られている。現在は急遽でっち上げた仮の事件の証拠作りと根回しに翻弄している最中だった。

ちなみに、世間で報道されているニュースでは、凶悪な誘拐犯が地元の高校生を人質に山岳部に立て篭って山に火をつけた。その捜索に当たっていた警察官達の幾人かが火にまかれて死亡した。犯人も同様に焼死した。被害にあった高校生の身元は分かっておらず、現在は行方不明である。という事になっている。

「先ほど提示した金額に不満があるのなら、もう一本加えてもいい」

男がスッと人差し指を立てる。

「学生の身分には有り余る額だとは思うがね」

男が口止め料として示した額は四千万だ。それにもう一本加えるというのだから、首を一つ縦に振るだけで武人は五千万もの大金を得ることとなる。その代償は腕に受けた怪我だが、担当医の話を聞く限り、あと一ヶ月も経てば痛みも無くなるとの話だ。今は多少の違和感が残るものの、表立った傷口は既に瘡蓋となって塞がっているので生活に支障は無い。勿論、後遺症の類も皆無だ。慰謝料としては破格である。

「…………」

それでも武人が素直に頷かない理由は二つある。

一つは、幾ら警察の不祥事をもみ消す為とは言え、支払額が大きすぎるということ。もう一つは、そもそも何故に事件自体をもみ消す必要があるのか、ということだった。こうして多額の支出や手間を被るより、武人を事件の容疑者としてでっち上げてしまった方が、事後処理は遥かに容易な筈である。それを行なわないという事は、既に自分を犯人として扱うには不可能な程度まで情報が行き渡ってしまっているか、若しくは、そうなると困る何者かが存在するか、といった所だろうか。勝手な推測達が武人の頭を目まぐるしい速度で駆け巡る。

「そういえば、少し調べさせて貰ったが君の母親は弁護士をしているそうだね」

暫くの間を置いて男が口を開いた。

「それがどうかしたんですか?」

相手の言わんとすることを理解して、冷房の良く効いた車内にありながら、武人は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。

「君の決断次第では、お母さんの仕事に少々不都合が出るかも知れない」

「それって、随分な言い草ですよね」

「私も上から言われて君との交渉に来ているに過ぎない、もしも目的が達成出来なければ責任を取らされる羽目になるのだから強気に出ざるを得ないのだよ」

「それが警察のやる仕事ですか?」

「君には中間管理職の苦労が分からないかね?」

「僕はまだ学生ですから」

武人の母は東京にかなりの規模で事務所を構えている。抱える弁護士の数もそれなりだし、商いの相手もそれ相応である。下手な相手では挑んだ所で返り討ちになるのが関の山だろう。しかし、相手が公的機関となるとどこまでが張ったりでどこまでが真実なのか、彼には見抜けるだけの眼力が無かった。

「仕方ない、ならばもう一本付けよう。それで納得してくれるか?」

武人の憮然とした物言いに折れた相手が、渋い顔で人差し指に加えて中指を立てる。

額面は更に一千万が乗せられて六千万まで上がった。

一見して冷静に対応しているように見える武人だが、内心は心臓が破裂しそうなほど緊張していた。相手の一挙一動に応じて胸の鼓動が増していくのを感じる。サスペンスドラマなどでは頻出のシーンだが、まさか、その舞台に自分が立つ事になろうとは夢にも思わなかったのだ。

「これを受け取って、僕が不利になるようなことは無いんでしょうね?」

「ああ、当然だとも。君に渡すのは真っ当な金だ」

武人に了承の兆しが見えたのか、男は大きく頷いて答えた。

「それに、君はこれとは別件で我々から容疑をかけられているだろう? ここで頷いてくれたのなら、それらも全て不問としよう。勿論、関係者も全て黙らせるから、これ以上君に手間を取らせる事も無い」

「随分と気前が良いんですね」

「こっちも色々とあるのだよ」

座る足を組み替えて、さぁどうする? と男が武人に挑むように向き合う。

幾つかの疑問さえ気にしなければ、男が持ってきた話は武人に取って最高の取引であった。特に前件での容疑を不問とされるのは大きい。まさか、警察署での事情聴取で狼男だの化け狐だのと説明をする訳にも行かない。かといって、それが出来なければ武人の容疑は否認が難しい。それを一石二鳥に解決して、加えて多額の慰謝料まで貰えるというのだから常人ならば頷かない筈が無い。

暫く頭を悩ませる振りをして、武人は首を縦に振った。

「分かりました、先の件に関しては一切を口外しません」

「そうか、約束してくれるか」

武人の言葉に男は満足気に頷いた。

「君が物分りの良い学生で助かったよ」

そして、小さく笑みを浮べて右手を差し出してきた。

男の背後には得体の知れないものを感じる。しかし、元より武人には自由になる選択肢など無かった。拭い切れぬ不安を感じながらも、武人は黙って男の手を取ると静かに握手を交わした。

「それでは、次世代の日本を担う学徒の一員として、良く学業に励んでくれたまえ」

「………どうも」

後部座席から小さく顔を覗かせた男の声を受けて、武人は路上を走り去る黒塗りの高級外車を見送った。彼は約束どおり彼を学校の校門まで送り届けてくれた。時刻は丁度良い頃合だ。周囲には他に大勢の学生達が見て取れた。彼等彼女等は厳つい車に送られてやって来た武人に奇異の視線を向けつつ校門を抜けていく。

「まったく……」

他人の視線に慣れていない武人としては堪ったものでなかった。

自分を送った車が遠く見えなくなったのを確認して、彼もまた周囲の生徒達に混じり校舎へ向かおうとする。すると、校門を一歩越えた辺りで、そんな彼に声をかける者が後方よ足早に歩み寄ってきた。

「おはよう、芹沢君」

それはクラスメイトの山野だった。

肩口より上で切りそろえられた艶のある黒髪が印象的な少女である。身の丈は武人よりも頭一つ分だけ小さい。レトロなデザインのセーラー服と御河童の組み合わせは、昭和の香を感じさせる古風な出で立ちであった。普段から変化を見せぬ捉え所の無い涼しげな表情は、本人こそ自覚は無いものの多くの男子生徒達から高い人気を誇る。

「ああ、おはよう山野さん」

声をかけられた武人は立ち止まって背後を振り返る。

ふと、視線を相手の手元に向けると、つい数日前までは人差し指を倍近い太さに巻いていた包帯も取れて、今は薄い絆創膏の様な物を一枚張ってあるのが確認できた。順調に回復してきているらしい。

「まったく、朝から車で送迎とは随分と優雅なものね」

「別に、僕が頼んだ訳じゃない」

そして、山野の隣には同じくクラスメイトの柳沢が居た。

腰下まで伸びた黒い長髪がサラサラと風に揺れる様も麗しい、少女と言うよりは女と称すべき体躯を持った女子生徒だ。山野よりも頭一つ分だけ高い身の丈は、武人とそう変わりない。彼のクラスでは最も背の高い女子生徒だ。その凛とした顔立ちは異性同性を違わず多くの支持を集めている。姉御肌な性格で、面倒見が良いと下級生からは定評がある。

ただし、初対面で互いに背反していた為か、武人に対する態度だけは妙に刺々しい。元より何事もハッキリと口にする物怖じしない性格も手伝って、彼女との会話はまるで口喧嘩でもしている様になってしまうのが常である。

「また何かあったの?」

「面倒事の後始末だよ」

「後始末というと、この前の?」

「そうだよ」

山野に問われて、いい加減勘弁して欲しいよね、と武人は肩の高さまで上げた両手の平を空に向けてみせる。演技がかった素振りだが、顔立ちの良い武人が行なう分には、嫌味にならない程度で様になっていた。

三人は足並みを揃えて昇降口へと向かう。

山野を真ん中に挟んで左に武人が、右に柳沢という立ち位置だ。山野と柳沢は普段から二人で共に居ることが多い。だからこそ、その輪に異性を迎える事は稀である。珍しい光景を目の当たりにして、同じ登校時刻に居合わせた彼女等を知る者達からは、奇異の視線が静かに武人へと向けられていた。

「じゃあ、今の人達は誰?」

「警察だってさ」

「まさか、芹沢君が逮捕されるの?」

「いや、寧ろ逆だよ。今後は君の親御さんに訴えられて刑務所へ送られる恐れも、賠償金を請求される可能性も無くなったね。僕の偽者が関係した事件は全部無かった事になるんだとさ」

「警察と何かあったの?」

「詳しい事情は知らない。ただ、相手がそう話を持ちかけてきたから、僕はそれに頷いただけだよ。詳細を聞けるような雰囲気でも無かったし、尋ねても答えてくれそうに無かった」

「それって本当に警察?」

「警察手帳は見せてもらったけどね」

先ほど武人を乗せて来た高級外車の所在に興味を持ったらしい。山野は持ち前の好奇心を隠すことなく根掘り葉掘り尋ねてくる。余り口外すべき事項では無いので、武人は適当な所で相槌を打って応じる。

「それって……、所謂、大人の事情?」

「そうなんじゃない? まったく、可笑しな話もあったものさ」

おまけに口止め料として六千万もの大金まで貰ってね、とは喉元に出掛かった辺りで止めておく。一介の学生が扱うには過ぎた金額だ。下手に他人に知られるのは良くないだろう。本人でさえ実感が持てないでいるのだ。

「貴方のせいで山野も酷い目に合ったのに、何のお咎めも無いなんて酷い話だわ」

そんな二人のやり取りを横目に眺めて、柳沢が何気ない風に呟いた。

「そうは言うけど、結局のところ全ては君達の自業自得、不運の成した所業だろ?」

「貴方が転校してこなければ、少なからず平和は維持されたわ」

「き、君も常識人の振りをして結構なことを言ってくれるね」

「私は貴方が嫌いだもの」

「だったら一緒に歩いてないで先に行けばいいじゃん」

「私は山野と歩いているの、貴方と歩いている訳じゃないわ」

山野の隣を進む柳沢は涼しげな表情で言ってのける。とはいえ、そこに明確な敵意や害意は感じられない。彼女が普段から武人に向けている、特に意味の無い軽口の一つだろう。二人にしてみれば、一種のコミュニケーションとも取れる。

「まぁ、なんでもいいけどね」

とはいえ、争いの元は何処にでも転がっているものだ。面倒は御免だとばかりに武人は大人しく口を閉ざした。わざわざ相手をしてまで、自ら泥沼に足を突っ込むこともないだろう。特に場所が場所だ、適当にあしらっておくが吉である。

すると、そんな彼の態度をどう思ったのか、山野が後を続けた。

「柳沢は芹沢君にどう接したら良いのか分からないのよ」

「ちょ、ちょっと、なによそれっ!」

唐突な発言に柳沢が勢い良く山野へ振り向いた。

「………どういうこと?」

予期せぬ発言に武人もまた山野へ問い返す。

「どういうことって、そのままの意味だけど」

「いや、それが分からないんだけど」

校門から下駄箱まで辿り着いた三人は、そこで各々、下履きから上履きに履き替えながら会話を続ける。淡々と語る山野に対して、一足早く履物を取り替えた柳沢は、下履きを靴箱へと入れようとしている山野の後ろから食って掛かる。珍しく焦った様子で、友人の言葉を必死になって否定していた。

「なに勝手なこと言ってるのよっ!」

「そう?」

「そうに決まってるじゃないっ!」

「私はてっきり、柳沢が芹沢君に負い目があって、それが原因で正面から話しかけられないでいるのかと思ってたんだけど、………違った?」

「ち、違うわよ……」

友人の鋭い指摘に柳沢は持ち前の勢いを衰えさせる。

いつの間にか出来上がってしまった互いの関係は、それを崩すに否応無く彼女のプライドを刺激する。山野の指摘は限りなく正しいが、柳沢には事実を肯定するだけの余裕が無かった。

「まあ、僕は君にどう思われていても構わないけどね」

上履きへ履き替えて、武人は山野と柳沢を置いて先に歩き出す。

彼がこの学校に対して求めるものは、虐めの無い円満かつ平穏な学生生活だ。だからこそ、こうして彼に突っかかってくる相手とは距離を取る必要があった。どんな些細な出来事であろうと、大衆の方向性は当事者の意向など無視して変化していくものだ。そして、その変化をコントロールすることは容易でない。過去の経験からそれを良く理解している武人は、余計な揉め事は極力避けるべきと考えていた。

「あ、待って」

自分に背を向けて歩き出した武人の後を山野が小走りに追う。

「っていうか、山野もなんでそんな奴を追うのよっ!」

朝の昇降口に柳沢の不満が小さく響いた。

その日は午前授業だった。

一学期最後の登校日ということで、数学や英語といった通常の授業は一つも無い。その代わり体育館で長々と終業式が行なわれた。また、その後には平日の朝晩に行なわれるものと比較して長時間に渡るホームルームの時間が設けられた。そこでは成績表の配布や、各種連絡事項の記載されたプリントの配布等が行なわれた。

クラスメイト達は明日から始まる夏休みを前にして、担任の話も何処吹く風といった様子だった。そんな彼等彼女等に親切心を働かせた教師が、他のクラスよりも多少早めに授業を切り上げたのが午前11時20分。起立、礼の挨拶と共に生徒達は我先にと教室を後にしていった。

それから十数分後の11時半を少し過ぎた頃、人気の無くなった教室には武人と山野、柳沢の姿だけがあった。何故に三人が残っているのかと言えば、武人は山野に呼び止められて、柳沢は山野が武人を呼び止めた理由が気になって、それぞれ放課後の教室に残っていた。

「それで、何か用でも?」

自分達の他に誰も居なくなったのを確認して武人が口を開いた。山野と柳沢は同じクラスメイトからの誘いを断ってまで、こうして残っているのだ。それ相応の何かがあるのは間違いない。

「昨日、学校の帰りに花見月ちゃんと夢見月ちゃんを見たの」

そして、山野が武人に用があるとすれば、それは自ずと図られる。

「それがどうしたの?」

やっぱりか、と内心毒づきながら武人は素っ気無い態度で答える。

「二人とも芹沢君の家がある方向に歩いて行ったから、もしかしたらって思って」

「彼女達が僕の家に来ていると?」

「違うの?」

椅子に座った相手へ詰め寄るように、その前に置かれた机上に両手を置いて、山野は武人を見つめていた。その表情は授業中でも見られない真剣なものだ。一方の柳沢は隣の席の椅子に腰掛けて大胆に足を組み、二人の様子を渋い顔で見つめている。彼女としては山野が武人と親密に会話をしているのが気に入らないらしい。

「まあ、来ていると言えば来てるんだけど……」

妙に鋭い山野の癇を前に武人は返す言葉に窮する。出会って一ヶ月と経たない間柄ながら、そう答えてしまえば彼女が次に何を望むのかは容易に推測が立つ。そして、仮に今この場で嘘をついたとしても、武人と分かれた彼女がどういった行動に出るのかも理解出来た。

「やっぱり、貴方の家に来てるのね」

「そのとき彼女達には話しかけなかったの?」

「ええ、柳沢に強引に止められて機会を逃したの」

すぐ隣に座る友人に恨めしそうな視線を向ける。

「だって、当然でしょ? あれだけ痛い目に遭っておきながら、まだ懲りてないなんて正気の沙汰とは思えないわよ。この間は湿布一枚で済んだけど、今度は何をされるか分からないわ」

「うん、僕も同感だね」

武人は先の件で、山火事の最中に現場にて山野と柳沢が狼男と出くわしたことを本人達の口から聞き及んでいる。そのとき山野は狼男に蹴られて全治一週間の軽症、同じく柳沢もその場に居合わせた夢見月に殴られて全治一週間の軽症、手も足も出ない見事なまでのやられっぷりだったそうだ。

「今日、芹沢君の家に遊びに行ってもいい?」

「君、僕や柳沢さんの話を聞いてない?」

「私は貴方と一緒に遊びたいだけ。折角の夏休みなんだし、一緒にテレビゲームでもやりましょう。私、先週に発売したばかりの新作を買ったの。とてもエキセントリックで楽しいのよ?」

「嘘もここまでくると、逆に清々しいから不思議だね」

「テレビゲームは嫌い? それだったらレトロなボードゲームが良いかしら」

「別に嫌いじゃないけどさぁ……」

半分諦め調子で武人は呟いた。

「貴方、ゲームなんて趣味あったの?」

「ええ、今日から始めたわ」

しれっと言ってのける山野に、柳沢は思わず額に手を当てる。元より頑固な性格をしているとは彼女も理解していたが、今日の山野は更に増して強情だった。友人の言葉であろうとも聞く耳持つ風も無い。

「今日から、ね」

「ええ、今日から」

力強く頷いた山野に、武人もまた大きく溜息をついた。

机の上に両肘をつき組んだ手の上に顎を乗せて、ジト目で目の前の相手を見つめる。

高校に入学してから今に至るまでの一年と数ヶ月の間に、幾度と無く体育館の裏や放課後の教室に呼び出されては男子生徒から告白と受けた経験を持つ可憐な少女の涼しげな顔が、鼻先から1メートルと離れていない位置にある。加えて、彼女は腰を前に曲げて両手を机にペッタリとついている。ふと視線を僅か下に動かせば、大きく開いた夏服の襟口から、あまり膨らみの感じられない胸の先端の突起が見えた。

人と接する事に慣れていない武人は反射的に猛烈な焦りを感じる。しかし、すぐ近くには柳沢が居るので下手に反応して気取られる訳にはいかない。彼女に知られたのなら何と言われるか分かったものでない。容易に想像される罵詈雑言を思えば自然と気が滅入るのを感じる。

「どうせ断っても来るんでしょ?」

よって、武人は何にも気付いていない素振りを演じつつ、それまで以上に呆れた表情を作り己の動揺を誤魔化して言葉を返した。勿論、その視線は出来る限り自然に胸から顔へと運ぶ。

「貴方と家が近くて良かったと思ってる」

「…………」

それまでの喧騒は何処へ行ってしまったのか。ホームルームを終えて下校時間を過ぎた校舎には人の気配が殆ど感じられない。多くの生徒は日頃の鬱憤を晴らすように友達と連れ立って街へ繰り出した。そうでない生徒にしても、与えられた休暇を満喫すべく足早に自宅へ向かったことだろう。そして教師達もまた子供のお守りから解放されて、同僚と職員室での談話を楽しんでいる頃合だ。

生徒達の話し声に変わって聞こえるのは、開け放たれたガラス窓から入って来る喧しい程の蝉の鳴き声である。他に音の無い放課後の教室に大小交じり合った様々な蝉の音が延々と流れていた。

「言っておくけど、彼女達と会って君がどうなろうとも僕は知らないよ?」

「ええ、理解してる」

「誰かさんみたいに殴られるかもしれないよ?」

「勿論、それは覚悟の上よ」

答える山野の言葉に揺らぎは無い。

「というか、それは私への嫌味?」

一方で武人の言葉にカチンと来たのか、柳沢が横から口を挟む。

「ただ事実を述べただけだろ?」

「それはどうでしょう、性根の腐った貴方のことだから真意の程は疑わしいわね」

「だったら君が山野さんを止めてよ、友達なんだろ?」

「何度止めたって無駄なのよ。だったら一度痛い目を見るしかないじゃない。貴方の家に来ているくらいだから、問答無用で殺されるような事は無いと思ってる。程々に諦められる程度で拒絶されればいいのよ」

「まあ、それはそうかもしれないけど、でも、そんな下らない覚悟はするべきじゃないと思うよ、僕は」

「私だって同感よ、けど本人が諦めないんだから仕方が無いじゃない。まさか四六時中監視してる訳にも行かないでしょ?」

「そりゃそうだけどさぁ……」

「だったら、目の届く範囲で最後まで見届けたいじゃない」

柳沢にしても、何だかんだで山野のことを大切に思っているのだ。それは二人と出会って間もない武人にも良く理解できた。女同士の友情というと、どうしてもキナ臭いものを思い浮かべてしまう武人だが、花見月と夢見月の姉妹といい、この二人といい、例外は往々にしてあるものだった。

「班超曰く、虎穴に入らずんば虎子を得ず」

「山野さん、相手は生粋の狐だよ」

「なら虎を狩るより簡単ね」

「だったらどれだけ良いだろうかね……」

花見月は未だしも夢見月の人間嫌いは病的とも感じられる。面識こそ有れど無条件で好意的に迎えられることは無いだろう。武人や義人との交流で多少の免疫はついただろうが、何時ぞやに全裸で公道を歩く花見月を山中へ追い込んだ時の事を思うと不安は大きい。特に柳沢に関しては先方から殴らた経験を持つ程だ。それがどのような影響を与えるか、こればかりは武人にも想像がつかなかった。

「まあ、なんにせよ山野が行くなら私も行くわ」

「ご勝手にどうぞ」

どうせ来るなと言っても付いて来るんだろう? とは彼女の面目を保つ為にも喉下で止めておく。柳沢にしても、山野に負けず劣らず頑固な性格をしている。そういう意味では二人とも似たもの同士だった。

仕方ないな、と武人は椅子から立ち上がり机の横に引っ掛けてあった鞄を手に取る。既に教科書やプリントの類は全て詰め込んであるのだ。山野はそんな彼の隣に並んで、見る人が見なければ分からない些細な変化だが、満足気な表情を浮べた。

「けど、うちに来るなら一つだけ条件をつける」

「なに?」

とはいえ、幾ら諦めに達したとはいえ、彼としては無条件に面倒事を持ち込まれるのは当事者として面白くない。そこで、ふと隣に立つ彼女に向き直った彼はスッと人差し指を立てて口を開いた。

「僕は君が買った新作のゲームに興味があるんだ」

「………テレビゲーム、やりたいの?」

「ついでに言うと、花見月もゲームの類が好きだったりする」

毎晩夕食を作り食べに芹沢邸へ遊びに来る花見月と夢見月は、夕食の後に武人の部屋で遊ぶのが日課となっていた。機会を設けた当初こそは談笑に耽っていた三人だったが、それも長くを過ごすには限度というものがある。そんなとき、人間の生活様式に慣れない姉妹の目に入ったのが、コンピュータやテレビといった家電製品であった。

「分かったわ、帰りにおもちゃ屋へ寄りましょう」

返事は即座に返された。

「貴方、やっぱり買ってなかったのね」

「家に取りに帰るのが面倒なだけよ?」

「良く言うよ」

二人に希望があるとすれば、それは花見月の存在だ。上手いこと彼女を丸め込む事が出来たのならば、山野にも姉妹と会話の場を持つ機会が与えられるかもしれない。そう考えた武人なりの善行だった。まあ、彼としては何よりも自宅の平穏が保たれる事を祈っての提案だった訳だが。

「さぁ、それなら早く行きましょう」

「まったく、調子の良い娘ね」

「付き合わされる身としては堪ったもんじゃないよ」

各々鞄を手にした三人は、他のクラスメイト達に遅れること数十分、放課後の教室を後にした。

廊下を歩く武人は、ガラス窓より差し込む日差しを浴びて汗ばむ肌に、上に着たワイシャツの胸倉を指で摘まんでハタハタと前後に動かし風を送る。季節は夏真っ盛りである。見れば二人も同じように額に汗して歩いていた。耳に届く蝉達の鳴き声が、夏の暑さを本来の気温以上に盛り立てていた。

昇降口を後にした三人は、上履きを下履きに履き替えて校門を抜ける。武人は校内から敷地を抜けたところで、微塵の思い入れも無い学び舎を振り返った。次にここへ来るのは一ヶ月と半月後である。

「どうしたの?」

「ちょっと、早く行くわよ」

足を止めた武人の背に、先を進む山野と柳沢から声が掛かる。

「分かってるよ」

武人は校舎から踵を返すと二人の後を追った。

「ただいまー」

玄関の鍵を開けて、横開きのドアをスライドさせる。

すると、武人の声を聞きつけた花見月が勢い良く、玄関から続く廊下の角より現れた。この時間帯から居るという事は、どうやら、義人が仕事に出掛けた後も山に帰ることなく、家で彼の帰りを待っていたのだろう。

「おぉー、おかえりっ!」

元気良く満面の笑みを浮べて駆けて来た。彼女に続いて妹の夢見月もまた、武人を迎えるべく廊下の曲がり角から姿を現す。その顔には姉と同じく穏やかな笑みを湛えている。しかし、それから数歩進んで、姉妹は彼の後ろに佇む山野と柳沢の存在に気づいた。歩む足は自然と玄関のホールより数メートル手前で止まった。

「武人さん、その方々は?」

対応に困って足を止めた花見月と、山野と柳沢を連れた武人との間に、夢見月は最愛の姉を守るよう己の身を割り入れる。予期せぬ相手を目の当たりにして、それまでの笑顔がいつの間にか消えていた。代わりに浮かび上がったのは明らかな警戒の色がである。花見月も些か緊張した様子で二人を見つめている。

「同じ学校に通ってる友達、かな」

果たして武人と山野や柳沢は友人と言える関係にあるのか。断言する事が出来なくて、語尾はろうそくの火が消えるよう尻窄まりになっていた。そんな彼の態度に疑問を持ったのだろう。夢見月が遠慮なく突っ込んでくる。

「本当ですか?」

「なんていうか、引っ越して一ヶ月も経ってないから断言は出来ないんだよね。二人が僕のことをどう思ってるかも分からないし」

嘘をつくことも出来なくて武人は素直に吐露した。

「失礼な言い回しになってしまいますが、それでは、何故に彼女達を此処へ?」

「家で遊びたいって言うものだから連れてきたんだよ」

「そう? 私は芹沢君のこと友達だと思ってるけど?」

芹沢宅に着いて間髪置かずに姉妹との対面を果たした山野は、これ以上無い位にご満悦だった。困った様子で頬を掻く武人の片腕を両手で取り堂々と言ってみせる。それに驚いた武人がビクリと大きく肩を震わせた。

「………まあ、友達の友達が友達なら、私とも友達なんでしょうけど」

そんな友人の姿に、まさか自分だけ否定する事も出来ずに、柳沢も渋々と頷いた。人知れず眉間がピクピクと震えているのは、山野と武人が触れ合う様を見ての嫉妬心から来るものだろう。

「夢見月、アタシはコイツ等のこと知ってるぞ」

「ええ、私も幾度か面識はあります」

「アタシが夢見月を探してたときに、山で道を教えてくれた二人だよな? それに、その前にも武人と一緒に居て、アタシのことを追い掛け回したよな? そのときには夢見月も一緒だった筈だ」

妹の肩越しに顔を覗かせた花見月が、山野と柳沢を眺めて言葉を続ける。花見月と二人は過去に二度の面識がある。一度は下半身を丸出しにして路上を歩いていた花見月を、武人を加えて三人で追いかけた末の何処とも知らぬ林の中で、もう一度は姉妹の住まいが有る山岳部にてである。

特に後者に関しては、花見月と山野、それに柳沢以外は他に知る者の居ない機会であった。それは武人が狼男に拉致された翌日の出来事だ。攫われていた武人を無事に自宅の山小屋から助け出した花見月は、静奈、武人と別れた後を、火の放たれた山中で夢見月を捜し求め彷徨っていた。その途中で出くわしたのが、狼男と夢見月のダブルパンチに倒れた山野と柳沢だった。彼女達は武人や姉妹を追い山に入ってから、付近より煙が立ち上がっている事を確認して、その下へ向かっている最中だった。満身創痍の二人から夢見月の行方、彼女が駆けて行った方向を聞き出すことで、花見月は無事に現場まで辿り着いたのだ。

「ええ、そういえばそんなこともあったわね」

先の件から二週間近い間隔を置いて、既に忘れかかっていた記憶を呼び戻した柳沢が小さく頷いく。同時に脇腹へ受けた夢見月からの一撃を思い出したのか、無意識のうちにあばら骨をセーラー服の上から擦っていた。

「道を教えてくれたとは、どういうことですか?」

自分の知らない姉と人間の関係に夢見月が眉を顰める。そんな妹の不安を敏感に感じ取って、花見月は事の次第を包み隠さず語り始めた。全ては夢見月も始めて耳にすることである。

「前に武人が敵に攫われた時のことなんだ。山の中で夢見月が見つからなくて困ってたところを、偶然コイツ等に会って、それで道を教えて貰ったんだ」

「彼女達が私の居場所を知っていたのですか?」

「おう」

「というと、それはきっと崖から落ちた敵がそこ彼女を人質に取り、そして、蹴り飛ばして逃げたすぐ後のことですね。それでしたら時系列的にも納得が行きますし、花見月が現れたタイミングも理解出来ます」

自分の記憶を整理するように、夢見月はその時の状況を口に出して並べる。彼女は狼男の手中に落ちた山野と、友人を助けるべく狼男と自分の間に立ちはだかった柳沢を無視して足を進めたのである。自然と視線は二人へ向かった。

「おかげでアタシは二人のところまで行けたんだ」

「たしかに、あの時は敵を追って火の元より離れていましたから探すのは苦労だったでしょう。ですが、まさかこの者達の手助けを受けていたとは思いませんでした」

「そっちの小さいほうの人間が、夢見月が居る方向を教えてくれたんだ。おかげで武人を助ける事が出来た」

花見月の人差し指が山野を指し示した。

「………そうだったのですか」

「会ったときは、なんか随分と苦しそうにしてたけどな」

小さく呟いて、花見月はそのときの情景を脳裏に思い浮かべる。

花見月が二人を見つけたとき、二人は互いに身体を寄り添うようにして地に立っていた。思いのほか強い衝撃を背に受けて足元をふら付かせる山野に、脇の痛みを押し殺した柳沢が肩を貸していたのだ。そして、二人は夢見月が言い残したとおり、迫る火の手より逃れようと、いざ下山に向けて足を一歩を踏み出したところだった。

突然にも藪の中から現れた花見月に二人は驚いた。特に花見月と夢見月は姿が似ている。性格や口調は異なるが、出会い頭に即座で判断するのは難しい。幾度か言葉を交わすまで二人には夢見月の再来だと思われた。

それから、慌てた様子の花見月に夢見月の所在を尋ねられた山野は、柳沢の制止も聞かずに、素直に彼女が向かった先を指で指し示してみせた。山野にしてみれば興味の対象への好意は無条件である。しかし、当の本人に殴られた柳沢としては、何故に敵へ塩を送ったりするのか、疑問でならなかった。

「多分、その原因の一端は私です」

「夢見月が?」

姉が驚いた様子で妹を見つめる。

「ええ、私に負けて逃げ出した狼男が、偶然居合わせた彼女を人質に取ったのです」

視線で山野を指し示して夢見月は言葉を続ける。

「ですが、私は構うことなく足を進めました。その過程で、友人を助けて欲しいと懇願する、そちらの背の高い方が前に立ちはだかりましたので、止む終えず私は彼女を殴りました。きっと、その時に怪我を負ったのでしょう」

「おかげで、あの日は夜中まで脇が痛んで、翌日の期末試験は散々だったわよ」

淡々と説明口調で述べる夢見月に柳沢が軽口を返す。

「それは申し訳ありません。ですが、私は姉の為ならば鬼に成るも厭いません。あの時は此方も一杯一杯でしたので、他に手段を選んでいる余裕もありませんでした」

答えながら夢見月は考える。

例えば、仮に二人が山に入っていなかったのならば、崖から落ちた狼男に逃げ出す隙を与える事も無く、自分は確実にトドメを刺せていただろう。つまり、彼女達は間接的に武人と静奈が決別する原因を作ったと言える。しかし、山野と柳沢の御蔭で武人が、強いては自分達姉妹が助かったというのも、また揺ぎ無い事実である。二人が花見月へ助言しなければ、今もまだ延々と続く騒動に巻き込まれていたかもしれない。

脳裏に浮かんだのは、そんな二つの推論だった。

それらは互いに背反する。何れか一方を取れば、もう一方は捨てざるを得ない。

「…………」

現在から過去を見たとき、結果ばかりに目が向いてしまうのは当然だ。けれど、何事も全ては成る様にしか成らない。そして、成るべくして成ったと思えば、一方通行な時の流れの中にあって、唯一評価できるのは個人の意志に他ならない。彼女はそう信じていた。

ならば、評価するべきはタイミング悪く現場に居合わせてしまった不運では無く、自らの意思を持って自分達へ助力してくれた二人の意志だろう。伊達に数百年と生きていない彼女は、自分の中に確たる物差しを持っていた。

僅かな思考の間を置いて、彼女が選んだのは後者だった。

「っていうか、ここは暑いからとりあえず中に入らない?」

幾ら屋根の下に居るとは言え、外気は30度を越えている。玄関ホールに立つ三人は勿論、廊下から武人達に向き合う姉妹の額にも、いつの間にか汗が浮かんでいた。時刻は午後1時を少し回った所だ。時間的にも今が一番暑い。

「はい、分かりました。リビングに戻りましょう」

そう呟いて夢見月は武人の言葉に従い大人しく踵を返す。

玄関先で門前払いを喰らう事も無く、また、相手に逃げられることも無く、山野は姉妹との会話の場を得ることが出来た。武人としては共に半々程度で考えていたので、これは想定外の行幸だと言えた。

先行する夢見月と花見月に続き、武人に山野、柳沢も靴を脱いで廊下を進む。玄関から角を一つ曲がれば、そこはすぐにリビングだ。開かれた扉の中からは涼しげな冷気が流れてきた。エアコンが良く効いている。義人が出かける前にスイッチを付けていったのだろう。姉妹は操作方法をまだ知らない。

客人にソファーを勧めた武人は、例によってキッチンへ向かう。棚からグラスを人数分だけ取り出し、それぞれに氷と冷蔵庫で良く冷えた麦茶を注いで盆に乗せた。冷凍庫には義人が買い込んだアイスが幾つか入っていた。しかし、数が足りなかったので諦めてリビングへと戻った。

「どうぞ」

数あるグラスを盆上から各人の下へ移すのが面倒だったので、武人はソファーテーブルの上に盆を置くと、そこからグラスを一つ手に取って口を付けた。他の者達も彼に習って手を伸ばす。特に山野と柳沢は炎天下を歩いて汗を多く掻いていた為か、注がれた麦茶をゴクゴクと喉を鳴らして一息に飲み干した。

「私は貴方達に礼を述べるべきですね」

二人がグラスを空にしたのを見計らって、ポツリと夢見月が呟いた。

「礼?」

氷だけが残るグラスを武人へ突きつけて麦茶の御代わりを要求しつつ、山野が夢見月に聞き返す。それを受け取った武人は、ならば母艦より持って来ようと、受け取ったグラスをテーブルの上に置いてキッチンへ立つ。

「間接的にとは言え、貴方達のお陰で私や武人さんは助けられました。これは礼を述べておくべきでしょう。ありがとうございます」

そう言ってソファーに腰掛けたまま、二人に小さく頭を下げてみせる。

「私としては感謝されるよりも謝って欲しいんだけど」

「いえ、あの時点での私の判断は、今この時を持っても変わりません。口先だけで貴方達へ謝罪することは出来ても、それが自分を根底より悔い改めるには繋がりません。ですから、ここでは自粛させて頂きます」

「貴方もなかなか頑固な性格をしてるわね」

「……そうですか?」

己をジト目で見つめてくる柳沢に夢見月は困ったような表情を浮べてみせる。そんな妹の姿を目の当たりにして、花見月もまた、そのままの態勢で小さく頭を下げた。

「あの時はありがとうな。お礼を言うのが遅くなって悪かった」

「私は謝罪よりもお礼のが嬉しい。どういたしまして」

柳沢とは対照的に、目当ての者達とコミュニケーションを取れた喜びからか、山野は笑みを浮べて頷いた。感情の起伏に乏しい彼女としては、破顔一笑していると称しても良い喜び様であった。

「そういえば、お前は前に会ったときもアタシに優しくしてくれたよな。きっと、武人と同じでいい人間なんだな。そんな感じがする」

「いい人間?」

「彼女達は人間全体に対して良くない感情を持っているみたいでさ、だから、その例外ということで、いい人間って意味だと思うよ。具体的には自分達に危害を加えないで親切にしてくれる人達を指すみたいだけど」

キッチンより麦茶の満ちる容器を持って帰ってきた武人が、それとなく山野の疑問に答える。

「そうなんだ。なんだか嬉しい」

「まあ、好かれて悪い気はしないよね」

リビングへ戻った彼は、ソファーに腰掛ける前に、テーブルの上で空となった各々のグラスへ麦茶を注いでいく。余程に喉が乾いていたのだろう。注がれて間もないグラスを手に取った山野と柳沢は、直にそれを飲み干してしまった。そんな二人の姿を目の当たりにして、後は自分で注いでくれと、武人は容器をテーブルの上に置く。

「ところで、あのとき貴方達は何故に山に居たのですか?」

夢見月と狼男が争った山中は、比較的人里に近いとはいえ、普段は人も滅多に立ち入らない場所だ。何の装備も無しに学生服で歩き回る女子学生の存在は、長年をそこで過ごしてきた彼女の目に非常に奇異なものとして写った。

「あぁ……それは……」

答え難い質問を受けて、柳沢が横目に友人を見つめる。

こうして修業の後にわざわざ芹沢宅までやって来た目的を考慮すれば、それを素直に口にしてしまうのは憚られる。しかし、山野は嘘偽りを吐くことなく、姉妹を前にしても実直に内心を吐露した。

「それは化け狐という存在に興味があったから」

「………私達への興味、ですか?」

どの様にでも受け取れる意味深な回答に夢見月が眉を顰める。

「貴方達の存在がどういったものなのか、それを知りたかったから。だから、芹沢君が山に居ると聞いて、それなら貴方達化け狐も一緒に居るんじゃないかと思って、それで山に入ったの」

「興味と言うのはどういう意味ですか?」

「私は珍しいものが好きなの」

「純粋な好奇心ということですか?」

「多分、そんな感じだと思う」

「そんなにアタシ達って珍しいのか?」

「ええ、とても珍しいと思う。初めて出会ってから、今日まで毎日を貴方達のことばかり考えていたわ。化け狐なんて、御伽噺の中にしか居ないものだとばかり思っていたんだから」

「……………」

夢見月は相手の意向を図りかねていた。

「それと柳沢は……、えっと、こっちの大きい方は、私に付き合ってきてくれただけ。だから、別に目的とかそういうのは無いと思う。勿論、私も柳沢も貴方達に危害を加えるつもりは毛頭無い」

視線で隣に座る柳沢を指し示して、山野は正面に座る姉妹に説明を続けた。そんな彼女に油断無い表情で夢見月は向き合う。こうして会話の場を持つことは許したものの、未だ信用するには至っていない様子だった。

「貴方は、花見月に一度襲われていますね?」

「ええ」

「その怨恨に駆られて動いていた訳では無いのですか?」

夢見月の言い分は尤もだった。常人ならば普通はそのように疑うものだ。けれど、山野は些か常人から垣根を越えた性格と信条の持ち主だった。夢見月の突っ込みにも間髪置かずに、言い澱むことなく言葉を返す。

「もし犯人がただの人間だったなら、私も痛い思いをしたのだから、少なからず根に持っていたと思う。けど、貴方達のような化け狐が犯人なら、それはそれで面白い気がする。だからあまり気にしない」

「面白い? 何故に面白いのですか?」

「犬に噛まれたようなものかしら。そして、私は犬が大好きだったということ」

「本当ですか?」

「信じては貰えない?」

二人は互いにジッと視線を交わしたまま、それで黙ってしまった。

屋外を歩いていた際には耳が痛いほどに響いてきた蝉の音も、窓ガラスを挟んでは遠く聞こえる。周囲には他に民家も少なく、唯一面した道路の交通量は限りなく零に近い。良く晴れた午後の昼下がり、芹沢宅のリビングにはとても穏やかな時間が流れていた。柱に掛けられた鳩時計がカチコチと静かに鳴いている。

そんな中で夢見月と山野が作り出す何とも言えない重苦しい雰囲気に、他の者達は口を閉ざして事の成り行きを見守るように注目していた。それから暫く、時計の秒針が一周する程度の時間を二人は黙ったままでいた。

然る後に口を開いたのは夢見月である。

「それでは……、こうして武人さんの家に来たのも私達に会う為だったのですか?」

「包み隠さず言えばそのとおり」

夢見月の問いに山野は即答する。

「やはり、そうでしたか」

己を隠すことの無い山野の堂々たる態度に、夢見月は小さく溜息をついた。こうして言葉を交わして彼女が理解したこと、それは夢見月という人格が、山野や柳沢の二人に肯定的だという事実だった。

狼男に襲われた花見月が、無様にも下半身を晒して震えていたとき、山野は己の服を彼女に与えた。山野が狼男の手中に捕らわれたとき、柳沢は身を挺して夢見月に挑んだ。そして、割り切りの良い性格の持ち主である二人は、何を尋ねても言い澱むこと無く直に言葉を返した。

「大体のところは理解しました」

そう呟いて夢見月は手に持ったグラスに口をつける。

コクコクと可愛らしい音を立てて小さな喉が鳴る。底に数センチ残っていた薄い緑色の液体を飲み干した。次に言葉を返すまでの間を計るように、ゆっくりとした動作で、コトリとグラスをソファーテーブルの上に置く。そんな彼女の一挙一動にその場の皆が注目していた。

「ですが、私には貴方達が望むものが分かりません」

紅い瞳が山野と柳沢を交互に見つめる。

「私は貴方達姉妹と友達になりたい」

「友達……、ですか?」

山野はソファーに腰掛けたまま、グッと身を乗り出して語りかける。夢見月は虚を突かれた様子で目を白黒させた。そんな妹とは対照的に、横に座る花見月は山野の言葉を受けて、嬉しそうに笑みを浮べた。

「友達かっ!? それだったらアタシは賛成だぞっ!」

腰を浮かして相手の顔を除きこむように見つめる。武人と同様に、山野に対しても花見月は好意を抱いている様であった。もとより閉鎖的な空間での生活を長く経験してきた為か、彼女は外部を恐れると同時に、ある種の憧れを持っている節があった。

「ちょ、ちょっと待ってください花見月。私にはこの者の考えが理解できません」

「でも、別に友達になるくらいいいんじゃないか? 武人の友達でもあるんだし」

「それはそうですが、なんというか、その………」

煮え切らないのは山野の胸の内を図りかねてのことだろう。花見月のように相手の言葉を素直に信じることが出来たのなら話は早い。しかし、人間に対して圧倒的な不信感を持つ夢見月には難しい注文だった。

「貴方達は私達を恐れないのですか?」

「どうして?」

「私や花見月は人間とは異なります。見た目はこんなですが、貴方達など赤子の手をひねる様に、それこそ瞬く間に殺す事が出来るだけの力を持っているのです」

「それは理解してる」

「ならばこそ、何故にそのようなことを言うのです」

「相手のことを知るには、まずは友達からって言わない? それとも自己紹介を済ませてからの方が良かった?」

「全ては時と場合によりけりです」

夢見月が右手を胸の高さまで上げる。すると、その上に数センチの隙間を置いて火球が出現した。直径十数センチ程度の小さな狐火である。それは手の平の上に静止して、静かに音も無く浮いている。

「指先が僅かでも触れたのならば、その身体は一瞬にして消し炭となるでしょう」

「ゆ、夢見月っ!?」

妹の暴挙に慌てた花見月が声を荒げた。

「貴方にこれを掴む勇気がありますか?」

姉の様子に構う事無く、夢見月は挑むような表情で山野を見つめる。

だが、彼女の脅しは火に油を注ぐ結果となった。躊躇無く頷いた山野はソファーから腰を上げる。そして、何食わぬ表情で夢見月の手の平に乗る火球へ手を伸ばした。指先が揺らぐ炎の一端に迫る。

こればかりは夢見月の早計であった。

「っ!?」

慌てて狐火の乗った手を山野から遠ざける。

「な、何をするのですかっ!」

「何って、貴方の言ったとおり触ろうとしただけだけど」

「触れたら死ぬのですよっ!?」

「そうなの?」

「先程そう言ったでは無いですかっ!」

夢見月の言葉を理解していなかったのか、それとも、相手が火球を下げると確信していたのか。何れにせよ全ては先行する好奇心の成せる技だろう。物怖じの感じられない山野を前にして、逆に夢見月が慌てる羽目となった。

過去に姉妹を駆逐せんと追い回してきた人間は多々居た。しかし、彼等彼女等は多くの場合で群れていた。相手の本性を知ってなお、単身ここまで乗り込んできた人間は姉妹にとって彼女達が初めてだった。

「わ、分かりました、友達でも何でも良いです。受けましょう」

「本当?」

「ええ、二言はありません」

山野の執念に負けた夢見月が力なく頷いた。

「ありがとう、夢見月ちゃん」

「ゆ、夢見月ちゃんっ!?」

「友達だから、と思ったけど駄目かな?」

「………もう好きにして下さって結構です」

フッと手の平に乗った狐火を消して、もう降参だとばかりに夢見月は溜息をつく。勝敗は山野による押し切りだった。土俵間際まで押し出されて、夢見月は首をガクリと落としては顎を下げた。

「そうか、それじゃあ今日からアタシ達とお前達は友達だなっ!」

そんな妹の姿を横目に確認して、花見月は満面の笑みを浮べた。

ソファーテーブルの上に放置されていたグラスの中で、溶けた氷がカランと音を立てて動いた。室内にはエアコンの送風が行き渡り、気温は快適なまでに調整されている。いつの間にか汗にぬれた衣服も水気を失い乾いていた。

「ということで、これで話は一段落したと考えていいのかな?」

それまで口を出す事無く、黙って事の成り行きを眺めていた武人が言った。

「芹沢君、どうもありがとう」

当初の目標を達した山野が、嘗て無いほど嬉しそうな表情を露にして頭を下げる。

「別に、礼なんて要らないよ」

夢見月の手前、こうして感謝されると複雑な気分だった。

「貴方のような可笑しな人間は初めてです」

呆れた様子で夢見月が呟いた。

「そう?」

「そうですっ!」

彼女の意見には武人や柳沢も同感であった。

過去に柳沢が語ったとおり、武人もまた出会った当初こそキャラ作りか何かかと考えていた。なんて痛々しい娘なのだろう、と。しかし、ここ数週間でのやり取りで理解するに至った。どうやら、彼女のそれは真性らしい。

「ところで、今日は静奈って子は居ないの? 前に貴方と一緒に居た金髪の女の子」

友人の交渉が一段落して、頃合を見計らった柳沢がそれまで疑問に思っていたことを尋ねて来た。これまでの経験上、静奈は武人と共に居るのが普通だったと彼女は記憶していた。だが、今は姿が見えない。

「あ、ああ………、それはちょっとあってさ」

柳沢の指摘を受けて、武人の肩がビクリと震えた。それは彼にしても、そして花見月や夢見月にしても答え辛い質問だった。思わず口篭ってしまった姉妹の視線は自然と武人に向かう。二人からの注目に気づいて、仕方なく武人は先の件の顛末を山野と柳沢に語ることとした。事後から今日に至るまで、学校では幾度と無く面を合わせていた武人と二人だが、その辺の話は説明するのも面倒だったので、黙っていたのだ。

山野と柳沢が崖の下で花見月と出会っていた頃、若しくはその数分だけ前のこと。夢見月と武人は狼男と対峙していた。そこで、窮地に陥った静奈が武人を見捨てて保身に走ったこと。その後、山野の案内を受けた花見月の助けにより狼男を打倒したこと。それ以来、静奈とは一切面識を持っていないこと。

一通りを語り終えた武人に、聞き耳を立てていた二人は返す言葉も無く黙ってしまう。

「まあ、静奈には静奈の事情があるんだし、当然のことだけどね」

空へ向けた手の平を肩の高さまで上げて肩をすくめる。そこには多少の自嘲も見て取れた。なんだかんだで、ショックも大きかった武人である。頭では理解しているが、心はそう簡単にはいかないものだ。

ちなみに、警察官隊との二度に渡る遭遇や、その過程で腕に銃撃を受けたことは黙っておいた。これらは話の本筋に関係無いことも然ることながら、今朝、多額の慰謝料と共に口止めを受けたからに他ならない。学校では腕の怪我についてグルグル巻きの包帯の上から打撲だと説明しておいたので問題も無い。

「そうだったの……」

まるで自分の事の様に、山野が残念そうな表情を浮べた。

「とはいえ彼女とは三日三晩の仲だし、それほどの事でも無いさ」

自分に言い聞かせるよう武人は強がって見せる。もしも自分が同じ立場に立ったのならば、どういった決断を下すのか。それを考えると、静奈の取った行動は至って常識的なものだと感じられた。人一倍弱虫な武人だからこそ、彼女を責める事は出来なかった。

「ねぇ、それってもしかして私達のせいだったりするの?」

「過ぎたことを言っても仕方ないだろ?」

「今の話を聞く限り、私や山野が居なければ万事解決していたように思えるんだけど」

「そりゃまあ、原因の一端が無いと言えば嘘になるね」

妙に鋭い柳沢の指摘に感心した様子で、武人は手にしたグラスを口元に運んぶ。そして、その内容物を一息に飲み干した。ついでに氷を一つ口に含むと、ガリガリと噛み砕いて飲み込む。氷点下の温度が喉を冷たく刺激した。

「けど、だからって居なかったことには出来ないんだよ。それに、あの時の静奈の判断を鑑みるに、それこそ、君らが居ようが居なかろうが、早かれ遅かれそうなっていたんじゃないかな」

静奈は言った、我はまだ死にとうない、と。何事にも達観している様な素振りを見せる彼女だが、その実は酷く俗物的な所がある。そういう意味で、武人としては別れた後こそ彼女に親近感を感じていた。

「随分と諦めが良いのね?」

「振られた男がいつまでも腐ってるのはかっこ悪いだろ?」

「あら、なかなか言うじゃない」

武人としては、これ以上話を続けるつもりもなかった。他に何を語ったところで、既に自分の中で答えは出てしまっているのだ。そんな彼の意向を察したのだろう。柳沢も数回言葉を交わした程度で言葉を区切った。

「まあ、私も謝るつもりなんて全然無いんだけどね」

「それこそ、まったくもって上等だね」

横柄とも思える程にサッパリとした態度を取る柳沢を前に、武人は好意さえ感じて口元に不敵な笑みを浮べた。あまり馬の合う相手ではないが、彼女の滑稽洒脱な性格は決して嫌いで無い。

「ところでお前等って、もう昼ご飯を食べたのか?」

「いや、まだだけど、それがどうかしたの?」

ふとリビングの柱に掛けられた鳩時計に目を向ける。時刻は既に1時半を回っていた。今日は朝食も半端に家を出たので、武人としてもかなりの空腹を感じていた。

「だったら一緒にご飯を食べよう。武人達が帰って来る少し前に義人が家に来て、今日の昼ご飯の材料を置いていってくれたんだ」

「父さんが?」

「おうっ!」

大きく頷いて花見月はキッチンを指差してみせる。

「魚とか野菜とか、沢山あるぞ」

「父さんも変なところでマメな性格だよな」

普段は大雑把な性格をしているくせに、ここぞという際の根回しに優れているのが、息子の武人としては憎たらしかった。所謂、出来る男を絵に描いた様な性格をしている。箱入り娘の才女だと聞かされていた己の母を射止めたのも、運や偶然では無かったのだと、息子は一人静かに納得した。

「っていうか、君達も僕が帰ってくるのを待っていてくれたの?」

「ご飯は大勢で食べた方が楽しいだろ?」

「量的には武人さんの友人方を考慮しても申し分ないと思います」

「私達も同席していいの?」

「まあ、いいんじゃない? 分量があるなら」

驚いた様子の山野に武人が素っ気無く答える。

「もう大体の仕度は出来てるから、あとは火を通せば直にでも食べ始められるぞ。一応義人の分も見越して作っておいたから、それを回せば二人の分もあると思う」

「父さんは仕事だし、この時間だったらもう帰ってくることは無いと思うよ」

花見月の言葉に武人が補足を入れる。

「ご一緒しますか?」

夢見月に尋ねられて、山野は一切の迷い無く即答した。

「ええ、是非とも」

「よし、それじゃあアタシは準備してくるっ!」

大勢で食卓を囲むのが嬉しいのだろう。言うが早いか花見月がキッチンへ駆け足で向かった。麦茶を取りにキッチンに行った武人がコンロの上で見つけた蓋付きの鍋は、彼女が作った昼食であった様だ。

そして、まさか彼女一人に任す訳にも行かない。その後を武人と夢見月が追った。

「僕も手伝うよ」

「私も手伝います」

そんな二人の姿を目の当たりにして、山野と柳沢もまた席を立つ。

「だったら私も手伝う」

「左に同じ」

山野としては姉妹と共通の時間は長ければ長いほうが良い。同じ空間で共同作業に興じられるというのなら、それほど嬉しいことは無いだろう。また、一方で柳沢が席を立った理由は、勿論、山野が手伝うと声を上げた点も大きいが、同時に、武人や花見月、夢見月に全てを任せるというのが、施しを受けているようで気に入らなかったからでもある。

少し遅めの芹沢家の昼食は、それはそれは賑やかなものとなった。

「それにしても、なんでお前まで一緒に来るんだよ」

自動車のハンドルを握る男が、フロントガラス越しに正面を眺めたまま、助手席に腰掛けた男へ憎々しげに語りかけた。二人が乗るドイツ製の高級セダンは、中央自動車道の追い越し車線を時速100キロにて順当に走行中である。

「貴方一人ではまた失敗するかもしれないでしょう?」

「うるせぇな、今度は上手くやるよ」

「それもどうだか、怪しいものです」

「油断さえしなけりゃ勝ってたんだよ」

夜明けの中央道は車の流れも少なく、前後には他に車の影も見えない。苛立たしげに呟いた男はアクセルを踏み込んで速度計の針を120キロまで振れさせる。時刻は明朝4時を少し過ぎた辺りだ。二人を乗せた車は東京方面から愛知方面へ向かって走っていた。

「そもそも、力量で劣る相手に負けるというのが問題です」

「地の利が相手にあったんだよ」

「私から依頼を受けた時の威勢は何処へ行ってしまったんでしょうね」

「っ………」

ハンドルを握る彼は、日本にありながら黄色人種にはありえない白い肌と、短く借り上げた茶色の髪の毛が特徴的な男性だ。中々にハンサムな顔立ちで、年の頃は二十代前半と言った所か。黒色のタンクトップにジーンズというシンプルな出で立ちをしている。身の丈は190センチ程度だろう。

「や……、やかましいっ!」

眉間をピクピクと小さく痙攣させながら、唾を飛ばして叫ぶ。

「まあまあ、そう拗ねないで下さい」

「誰が拗ねているものかっ!!」

「そうですか?」

一方で助手席に座る彼は、年の程は二十台中盤から後半、まだ三十には達していない様に感じられる。色白い肌と堀の深い顔の造形から察するに、運転席に座る男と同様、日本人では無いだろう。髪は薄い茶色で、肩にかかる程度の長さを整髪料によってオールバックに撫で付けている。この真夏にありながら真っ黒なスーツを全く着崩すこと無く身に纏い、ネクタイまでキッチリと締めていた。運転手が男前と称されるなら、彼は美麗だと言える中性的な顔立ちをしていた。

「次には必ず仕留めてみせる。だからマシュー、お前は手を出すんじゃないぞ」

「それは貴方次第ですね、ジェームズ」

「これは俺の意趣返しなんだよ」

「私には関係の無いことです、全ては我が主の為ですから」

言葉の端々に感情の起伏が感じられるジェームズとは異なり、マシューは淡々とした口調で相手の言葉を軽く往なす様に相槌を打つ。二人の性格は互いに正反対の方向性を持つ背中合わせの関係にあった。

「ったく、お前はいつだって二言目には主様、ああ主様、そんなに主様が大切かよ?」

「ええ、私にとってはとても大切な方です」

嫌味っぽいジェームズの物言いに、しかし、マシューは気にした風も無く、深く大きく頷いて応じてみせる。そこには言葉の先に待つ者の存在を誇らしげに思う気持ちが感じられた。彼が首を小さく動かすに応じて、後ろへ撫で付けていた髪のうち、僅か数本纏まって額に垂れたものが、目元でユラリと揺れる。

「前から感じてたんだが、お前も真性のロリコンだな」

「私が主をどう思っていようと、貴方には関係の無いことです」

「あんなチンチクリンの何処が良いんだ? 胸は平坦だし、あの様子じゃきっと下の毛だって生えて無いだろ? そりゃ、見た目くらい幾らでも変えようはあるだろうが、元がアレだと思うと俺は全く勃たないね」

己の鬱憤を晴らすように、大仰な身振り手振りで語ってみせる。

「褒められる所があるとすれば、そりゃ穴の締り具合だけだろうな」

脳裏に浮かんだ者の姿に、口元には自然と卑しい笑みが浮かんでいた。

「ジェームズ、私を悪く言う分には一向に構いませんが、我が主を侮辱する事は誰であろうと許しませんよ?」

そんな彼の態度が癇に障ったのだろう。上っ面には薄い笑みを浮べながら、それでいて、鋭く細められた冷やかな瞳を持ってマシューはジェームズを捉える。そこには僅かな感情の一片も伺えない。ガラス球の様な眼球が瞼の間から僅か覗いて、月明かりを反射するとキラリ光った。

「………な、なんだよ」

「主への侮辱は許しません、良いですね?」

外見こそ人間そのものであるが、二人とも普通の人間とは違う。ジェームズは生まれながらの狼男であり、マシューは長い年月を経て死体より蘇った不死者だ。そして、マシューはジェームズと比較して一回り優れた能力を持つ。

「ったく、分かりましたよ。もう言わねぇよ」

それ以上の無駄口は危険だと悟って、運転席の彼は大人しく口を閉ざした。

夜明け前の空は、雲ひとつ無く晴れているものの陽光はまだ遠く暗い。車のヘッドライドが照らし出す白線に沿って、ジェームズはハンドルを小刻みに動かして車体を進めていく。彼等が向かう先は、日本本州で第3位の面積を持つ都道府県である長野県は大町市である。

「計画に支障を来たす可能性は事前に全てを排除すべきです。その為の私であり、そして貴方なのです。ですから、以後は油断無く確実に案件を処理するよう心掛けて下さい。これは最優先事項です」

「そんなこと言われなくたって分かってるさ」

「今度こそ、その言葉を信用して良いですか?」

「まともに遣り合えば、この俺が狐如きに負ける筈がない」

「だといいんですがね」

朝霧を切って走る車には二人の他に搭乗者は居ない。淡々と言葉を交わす二人を乗せて自動車は進む。彼等が向かう先には、つい先日にジェームズが敗北を期した、花見月と夢見月が居る。

「所詮狐とは言っても、然れど狐です。世の中には我々には手に負えない強力な化け狐も居るのですから、努々油断はしないことです。例え狼であろうとも、狐に狩られない保証は何処にも無いのです」

「なんだ、お前らしくも無く妙に敵を推すじゃないか」

「やれやれ、九尾を目の当たりにしたことが無い者は気楽で良いですね」

「あんなの尾びれ背びれの勝手な噂話だろ?」

「少なくとも、私はもう二度と目の当たりにしたくありません」

「……見たことがあるのか?」

自動車の進行方向からマシューへ視線を向けたジェームズが問う。

過去に九尾の狐と称された化け狐が世に出回ったとされる話は幾つかある。それは例えば、人間の間でも御伽噺として通り良く耳にするように、紀元前より中国古代王朝殷から南天竺、日本と三国を跨ぎ悪事の限りを働いた大妖怪としてである。そして、話の方向性は多少変われど、それと同様の話は妖怪達の間でもある種の語り草として囁かれていた。

しかし、その全ては白面金毛九尾の狐という、ただ一匹の狐の所業について語ったものだった。後にも先にも他に九尾を持った化け狐が現れた話は無い。よって、実物を知らない歳の若い化け物は、それを伝説の類や勝手な誇張の様に扱う節があった。

「まあ、何れにせよ貴方がそう考えているのなら、私は否定しませんよ」

「なんだよそりゃ……」

マシューの意味深な物言いに、彼より生まれが百数十年ほど遅いジェームズは、経験の差から来る劣等感を感じて口を窄めた。稀に例外も存在するが、化け物の能力は往々にして過ごして来た時間に比例する。生まれが古ければ古いだけ、その化け物は強力な化け物だということだ。

「とはいえ、あの者が今の世に存在するとは思いませんがね。もしそうだとしたら、我々の手に負える相手ではありません。計画そのものを考え直す必要があるでしょう。それこそ、我が主の力を持ってしても、果たして太刀打ちできるかどうか」

己に向き合う事無く、フロントガラスを越えて遠い目をするマシューの姿に、ジェームズは小さく舌打ちした。誰よりも強くありたいと願う彼にとって、身近にあるマシューの存在は目の上のタンコブの様に感じられる。そして、そんな彼が己の敬愛する主を引き合いに出してまで恐れる存在とは一体どれ程か。

「ところで、繰り返し言っておくが、あっちに着いてもお前は絶対に手を出すんじゃねぇぞ?」

「随分と拘りますね。余程酷い目に遭わされたのですか?」

「うるせぇ、あいつ等は俺の獲物なんだよ」

問い返すマシューに対して、ジェームズは憎々しげに呟いた。アバラを幾本も砕かれ、その上で全身を炎に焼かれた痛みは、忘れようと思っても忘れられる筈が無い。そして何よりも、自分が格下だと考えていた相手からの無様な敗北は、過去に類を見ない強烈な屈辱を伴った。

「絶対に殺してやる」

そのまま握り潰してしまうのではないか、という程の握力でハンドルを握り締める。応じて、革張りの内側からはギチギチと危うい音が聞こえてきた。狼男の握力の前には人間に合わせて作られた工業製品は玩具の様なものだ。

「そのやる気はとても結構なことです。ですが、自動車は壊さないで下さいね。それと、私もこれ以上の根回しは面倒なので、次で間違いなく終えてください。貴方の失敗の埋め合わせにかかる費用も馬鹿にはならないのですから」

「ああ、分かっている。次で必ず決着をつけてやる」

フロントガラスの先を睨みつけるように見つめてジェームズは応じる。

「個体能力は低くても、今の人間は強力な武装と数を持っていますからね。余計な揉め事を避ける意味でも、我々の存在が露見する訳にはいかないのです。ですから、我々の行いは常に秘密裏でなければならないのです」

「それも理解している」

腹の内へ沸き滾る怒りを溜める相棒を前に、マシューはやれやれだとばかりに小さく溜息をつく。慢性的な人員不足により、目の前の男を利用せざるを得ない自分達の置かれた状況に、彼は人知れず静かに嘆いていた。