金髪ロリ達観クールラノベ 第二巻

第二話

武人が目覚めたのは午前十時を少し回った頃だった。

翌日より始まる長期休暇に浮かれて、昨晩は普段より遅くまで夜更かしした為に起床時間が遅れたのだ。とはいえ、夏休みが始まってしまえば、この程度の起床の遅れは彼に取って普通のことである。去年や一昨年も、長期休暇中の起床時間は午前十時から正午零時の間を行ったり来たりだった。遅いときには午後の三時を過ぎてから起きることも度々だ。

「んぅ……、誰の声だよ……」

人差し指の腹で眦に付いた目脂を擦り取る。

彼が目覚めた理由、それは階下より聞こえてくる賑やかな声だった。その全ては女性のもので、なにやら楽しそうに談笑している様子が伺える。時折上がる笑い声は、薄い部屋の壁や扉を越えて、武人の部屋まで良く響いた。

「……花見月か?」

一昨日の夕食での会話を思い出して呟く。しかし、耳に届く声には花見月と夢見月の二人以外にも他に音源が有るように感じられた。義人は既に仕事へ出ている時間帯である。他に人が来るとすれば、武人が思いつくのはクラスメイトの山野と柳沢だけだ。

「いや、まさかね」

小さく頭を振って嫌な予感を打ち消すと、彼はベッドから降りた。

ペタペタとフローリングの上を歩いてクローゼットへ向かう。扉の奥には背の低いプラスチック製の衣装棚が収められている。そこから適当に私服を取り出した。上は胸部にワンポイント柄の入った黒いTシャツ、下は濃い青色のジーンズである。木綿のパジャマから着替え終えた武人は、自分の眠りを妨げた声の正体を確かめるべく自室を後にした。

トントントンと小気味良く階段を下りて、リビングへ通じるドアを開ける。すると、部屋全体に充満する甘い香りが全身に纏わりついてきた。敷居を跨いで、声が聞こえて来る方へ目を向ける。すると、そこには武人の予感に違わず花見月と夢見月の他に山野と柳沢の姿があった。

「………なんで君等が居るの?」

少なくとも、今日こうして家で会う約束をした覚えは無い。

「おはよう」

「お邪魔してるわよ」

二人はダイニングからキッチンカウンターを挟んで、流しの前に立っていた。共に包丁やボウル、泡だて器などの調理器具を手にしており、ご丁寧な事に自前であろうエプロンまで身に着けていた。二人の近くには花見月と夢見月の姿もある。こちらは一昨日の夕餉の席で話したとおり、今までは夕方より訪れていたのを、今日からは午前よりの来訪と時間を移したようだった。

「君等、人の家で何やってるの?」

武人はジト目で山野と柳沢を眺めながら、呆れた風に呟く。

「何って、貴方の目は節穴? 見たまんまじゃない」

「料理」

「いや、そういう訳じゃなくてさ……」

寝起きから厄介な相手に遭遇したなと、武人は力なく肩を落とした。彼女達がこうして家に上がっているということは、きっと、自分が寝ているうちに来訪した二人を義人が対応したのだろう。二人は武人の友人として、義人とは既に面識があるのだ。なんて余計な事をしてくれたのだと、武人はこの場に居ない家主へ一念の恨みを送る。

「すみません、私達が騒いでいたせいで武人さんを起こしてしまいました」

ふてぶてしくもキッチンを占拠する学友二人とは一変して、夢見月がとても申し訳なさそうな表情で頭を下げた。勿論、先程の非難の眼差しは花見月や夢見月に対して向けたものでは無い。

「いや、まあ、……別にいいよ。もう十時過ぎてるし」

彼女に謝られては武人も大人しくなるしかなかった。

「武人も一緒に作ろう、こいつ等と一緒にホットケーキっていうの作ってるんだ」

「ホットケーキ?」

「甘くて柔らかいお菓子なんだ、知ってるか?」

「僕に限らず、普通の人間なら大抵の奴は知ってると思うけど……」

芹沢宅のキッチンは、同程度の規模の他の住宅と比較して大きめに作られている。花見月と夢見月が小柄である事も手伝って、山野、柳沢と言う闖入者を含めても、それなりに動き回れるだけの余裕があった。武人はリビングのドア付近から重い足取りで進み、ダイニングテーブルに片手を突いて、そんな四人の姿をキッチンカウンター越しに眺める。

「この甘い匂いの正体はホットケーキか」

部屋に入った瞬間から鼻腔を擽って止まない独自的な強い甘い香りの正体は想像通りであった。

「貴方も食べたいなら手伝いなさい。皿くらい並べられるでしょう?」

カシャカシャとボウルに入った生地を泡だて器で混ぜる柳沢が言う。コンロに掛けられたフライパンの上には、既に表面を硬くし始めた最初の一枚が乗っている。表面にはプツプツと小さな気泡による穴が開いていた。

「この匂いを嗅いじゃうと否応無く食欲が沸いて来るから困るね」

昨晩の夕食を後に十数時間に渡って何も口にしていない武人の腹は、その芳しい匂いを前に人知れず小さく音をたてる。

「君の言葉に素直に従うのは癪だけど、朝食も食べて無いし昼食までは時間があるし、不本意だけど手伝ってあげるよ」

「でしたら、私も武人さんを手伝います」

呟いて足を動かし始めた武人の後を夢見月が追う。どうやら彼女は自分が足手纏いにしかならないと理解して、大人しく調理の様子を眺めていただけであった様だ。

キッチンカウンターを迂回して厨房に入り、棚から白い小皿を幾枚か取り出す。フライパンの上にあるホットケーキはかなり大きい。ピザのようにテーブルの上へ置いて、各人で取り分けて食べるつもりだろう。そう勘繰って人数分の皿をダイニングテーブルの上へ運んでいく。

「ところで、なんで君等が僕の家に居るの?」

夢見月と共にダイニングとキッチンを幾回か往復して、必要な食器具の類を揃えた武人が柳沢に尋ねた。尋ねられた彼女は、ボウルに入れた小麦粉を卵や牛乳と共に泡だて器で混ぜながら答える。

「それは山野に聞いてくれない? 私も何故に自分が、夏休みの初日から朝っぱらから貴方の家でホットケーキを作っているのか、正直、疑問でならないの」

柳沢が顎で指し示す先には、すぐ隣でフライパンの上に置かれた大きな生地とフライ返し一本で格闘する山野の姿がある。柳沢の愚痴にも似た言葉を受けて、武人は大体の事の流れを理解した。

「理由?」

コンロを前にする山野が隣に立つ武人へ目を向ける。

「いや、いいよ。大凡は理解出来たから」

「そう?」

「なんか、貴方の朝食を作る手伝いをしていると思うと癪ね」

「そりゃ悪いかったね」

「まったくよ」

軽口に皮肉を返して、武人は小さく溜息をついた。

「なぁ柳沢、この焼けたやつはどうするんだ?」

「それはもうテーブルに持って行っちゃっていいわよ。ああ、運ぶ前にバターを乗っけてね。熱いうちに乗っけないと溶けないから」

「分かったっ!」

柳沢の指示に従って、大皿に乗ったホットケーキを花見月が運んでいく。

出会った当初こそ、姉妹と山野及び柳沢の確執を憂い狼狽していた武人ではあるが、こうして日付を一日跨いだ今にあって、何事も無く共に調理に従事している姿を見ると、それも杞憂であったと感じられた。

自分の役目を終えて、ダイニングの椅子に腰掛ける武人は、そんな彼女達の姿をカウンター越しに眺めていた。キッチンとダイニングを行き来する花見月は収支笑顔が絶えず、とても楽しげだ。彼女の後を追う夢見月もまた、満更でない様子である。姉が喜ぶ姿を喜んでいるのだろう。山野に関しては言うまでも無い。柳沢に関しては、ただ山野に付いて来た、といった所だろうが、しかし、山野との共同作業を楽しんでいる様に見えない訳でもない。

三口あるコンロをフル活用して、生地はあれよあれよという間に焼かれていった。直径三十センチ程度の大きなホットケーキが、段を成して皿々の上に積まれていく。溶けたバターの匂いが甘いバニラの香りと交わり空腹をより一層誘う。誰もが自然と咥内に唾が溢れるのを感じていた。

そして、最後の一枚が焼きあがった頃であった。芹沢邸への来客を知らせて玄関のチャイムが鳴いたのは。ピンポーンという電子音が談笑の輪を抜けて、和気藹々と調理を従事する各人の耳まで届いた。

「武人、今のって何の音だ?」

常識に疎い花見月がキッチンカウンター越しにダイニングの武人を振り返る。椅子に座って最後の一枚が運ばれてくるのを待っていた彼は、今か今かと完成を待ちわびたホットケーキの山を前にして、重い腰を起こし立ち上がった。

「玄関の呼び鈴が鳴った音だよ。誰か客でも来たみたいだ」

一同の視線は自然と玄関があるであろう方向へ向かう。武人はダイニングから、リビングと兼用のドアを抜けて廊下へ出た。エアコンの効果範囲から脱して、高温多湿の空気がネットリと身体に纏わりついてくる。敷居を跨いで角を一つ曲がれば、玄関はすぐ目の前である。はめ込みの曇りガラスに透けて、人が一人立っているであろうシルエットが、背景から黒い色で浮かんでいた。

「どちら様ですか?」

ドアロックを外して横開きのドアをスライドさせる。

すると、そこに立っていたのはスーツ姿の男性であった。年の程は二十台中盤から後半、まだ三十には達していない様に感じられる。色白い肌と堀の深い顔の造形から察するに日本人では無いだろう。髪は薄い茶色で、肩にかかる程度の長さを整髪料によってオールバックに撫で付けている。この真夏にありながら真っ黒なスーツを全く着崩すこと無く身に纏い、ネクタイまでキッチリと締めていた。何よりも特徴的なのは、群を抜いて美麗だと思える中性的な顔立ちだろうか。

「始めまして、私こういうものです」

ニコニコと人当たりの良さそうな笑みを浮べて、男は胸ポケットより一枚の紙切れを取り出した。白地の上質紙に黒いインクで字を落としただけの簡素な作りの名刺である。そこには彼が所属するであろう企業の名が印字されていた。

「朝日新聞?」

「ええ、どうですか? 今なら洗剤とお米権をお付けしますよ?」

その身形に不釣合いな名刺を貰って、武人は困惑の表情を浮べる。相手は見るからに外国人。しかも、プロのモデル顔負けの抜群な容姿をしている。それが、こんな日本の片田舎で新聞の勧誘業務に従事しているとは、違和感を持たないほうが異常だ。

「最近はインターネットの普及で、うちの経営も大変なんですよ。ひとつ人助けのつもりで、半年だけでも如何ですか? お米権の変わりにビール券なんてのもあります。お酒、嫌いですか?」

線のように細められた瞳が、にこやかに武人を見つめていた。

「いえ、うちは新聞は取らない主義なんで……」

「半年で難しいようでしたら、三ヶ月間だけでも良いのでお願いできませんか?」

「そちらの仰るとおり、インターネットがあるので新聞は読まないんですよ」

「いえいえ、インターネットはインターネットで良いですが、でも、紙も良いものですよ? パソコンのディスプレイを眺めるのと、実際に紙を手に持って印字された文字を読むのとでは違うでしょう?」

「まあ、それはそうですけど……」

「朝食の席で香るインクの香り、日本の古き良き伝統ですよね」

「確かに、そういう時代もありましたね」

「それに、新聞は読み終えた後も色々と利用用途があるんですよ。何も残らない電子媒体とは違うんですよ。割れ物の保存に緩衝材として利用するもよし、水に濡らして窓ガラスや玄関の掃除に利用するもよし、日々の生活を便利にする貴重な存在なんですよ」

「………それも否定はしませんけど」

「日本の生活を支える縁の下の力持ち、それが新聞なんですよ」

男の語りは、その外見と相反して妙に日本人臭かった。

「ということで、ものの試しに一ヶ月間だけでも良いので取っていただけませんか?」

東京に住んでいた頃より感じていたが、新聞勧誘のしつこさは何処の地にあっても全国共通らしい。いつの間にか玄関のタイルまで踏み入れられていた男の足に気づいて、武人は小さく溜息をついた。

「幾ら仰られても新聞を取る気は毛頭ありませんので、お引取り下さい」

「一ヶ月でも駄目ですか?」

「ええ、駄目です」

こういう相手は自分から強く出ないと何時までも居座る。それを理解して、武人は普段より声色を低くして断固拒否した。相手の容姿を目の当たりにして、珍しいもの見たさで言葉を交わしてしまった。本来ならば名刺を受け取った時点で玄関の戸を閉めるべきであったのだ。でなければ、10分でも20分でも延々と口上を続けるのが新聞勧誘というものだ。

だが、幸いな事に今回の相手は、武人に購読の意志が全く無いと悟ると、それで素直に諦めてくれた。こういう職業についている人間には常識が欠如していること度々である。そんな中で彼は、社会人として最低限の頭を持っている様だった。

「そうですか、では仕方がありません。今日のところはこれで失礼します」

「ええ、そうして下さい」

心底残念そうに両手の平を空に上げて肩を竦めて見せる姿は、なかなか様になってた。

「ですが、もしかしたら気が変わる事もあるでしょう。また、日を置いて伺わせて頂きます。その時は、どうぞ朝日新聞をよろしくお願いします」

「いえ、気が変わることは絶対に無いので結構です」

「それでは、失礼しました」

男は武人に一礼して玄関を後にする。

そんな彼の背が見えなくなるのを確認して、武人は玄関の扉を閉めた。ダイニングを後にして数分と経っていないにも拘らず、夏の外気に晒された額にはいつの間にか汗が浮かんでいた。

「まったく、これだから新聞勧誘は嫌なんだよ」

小さく呟いて武人は踵を返した。

玄関から戻ってきた彼に、まず声をかけて来たのは花見月だ。

「また友達が来たのか?」

「いや、新聞勧誘だったよ」

「新聞勧誘?」

「家を回って新聞を売りつけて来る人のことだよ」

「へぇー、新聞ってそういう風に買うのか」

「僕の家は読む人が居ないから買わなかったけどね」

好奇心旺盛な彼女は、武人の説明に感心したように頷く。

四人掛けのダイニングセットに加えて、足りない一人分を自室から持ってきたデスクチェアで埋めた食卓に、武人も他の四人に習って腰を落ち着けた。テーブルには数枚の大皿に分けて盛られた十数枚ものホットケーキがある。誰がどれだけ食べるのかは不確かだが、作り過ぎであることは誰の目にも明らかであった。

「ところで、この家ってメイプルシロップは置いてないの?」

「ああ、そういえば引っ越してから一度も見て無いな」

席には花見月と夢見月、山野と柳沢が互いに隣り合うよう座っている。武人は彼女達が座る位置へ垂直に交わる一辺へ椅子を着けていた。卓上には各々の前に取り分け用の小皿とフォーク、ナイフが綺麗に揃え並べられている。しかし、そこには柳沢の指摘どおりメイプルシロップが無かった。

「このまま食べてもあんまり美味しく無いわよ?」

「ホットケーキの材料と一緒に買ってきてくれなかったの?」

「ごめん、忘れてた」

武人の指摘に山野が声小さく頭を下げる。

「男所帯じゃあメイプルシロップなんてファンシーなものを望むべくが誤りなのかもしれないけど、でも、生クリームや蜂蜜も無いし、このままだとホットケーキのホットケーキたる所以が味わえないわよ」

「うちにパティシエは居ないからね」

「何か材料が足りないのですか?」

焼きたてのホットケーキを前にして難しい顔をしている三人の様子を受けて、夢見月が尋ねる。彼女や花見月はホットケーキという料理を今日始めて目の当たりにしたので、それが何であるのかを理解出来ない。

「本来はこの上にメイプルシロップっていう樹木から取れる甘い蜜をかけるんだよ。だけど、それが無いみたいなんだ」

「メイプルシロップ……、ですか。初めて名前を聞く食品です」

「アタシも知らない」

溶けたバターの良い香りが皆の鼻をくすぐる。朝食を食べていない武人としては生殺しも良い所であった。もしも他に誰も居なかったのなら構う事無く食べ初めていただろう。しかし、姉妹にとっては始めての料理ということで、彼女達を思うならばちゃんと完成した状態まで持って行ってから箸を取るべきだろう。そんなのどうでもいいから食べようよ、とは喉元まで出掛かったところで飲み込んだ。

「山野の家で売ってる?」

「補充した覚えが無いから、きっと扱って無いと思う」

「ゆーぷるの近くにローソンがあったよね?」

「山野の家が扱って無いなら、そこも大差ないんじゃないかしら」

「でも、蜂蜜くらいなら売ってるんじゃない?」

「そこに無いと、あとは北大町の方まで行かなきゃならない」

電子レンジに入れること無く、温かいうちに美味しく頂きたいという希望は、しかし、コンビニまで足を伸ばさねばならない時点で破れた。とはいえ、食べ始めるのは早ければ早いだけ嬉しい。

「まあ、仕方ないわね。それで妥協しましょう」

渋々といった様子で柳沢が頷いた。

「そのメイプルシロップとか言うのを買いに行くのか?」

「他に手は無いからね」

まさか寄寓にもサトウカエデが庭に生えていたりする筈も無い。手作りするには過ぎた代物だ。蜂蜜や生クリームにしてもそうだが、商店へ足を伸ばす他に無い。

「でしたら、私が行きましょう」

三人の意見が纏まった所で夢見月が口を開いた。

「君、人間が嫌いじゃなかったっけ?」

「別に買い物をするくらいなら問題ありません。蜂蜜を、若しくは販売していたのなら、そのメイプルシロップという蜜を購入すれば良いのですよね?」

「ええ、でも何故に貴方が?」

「武人さんや貴方達が行くよりも、私が走ったほうが速いでしょう。ですから、ここは私に任せて下さい。他に手伝えることも無かったのですから、これくらいは任せて欲しいです」

「そういえば、君達は自動車も真っ青な健脚持ちだったね」

可愛らしい見た目に騙されて忘れかけていた姉妹の人外設定を思い起こして、武人が納得した様子で頷いた。彼女達がその気になれば、武人や山野、柳沢のような普通の人間など、文字通り瞬く間にくびり殺されてしまうだろう。絶対に害意を向けられることが無いと、そう前提があるからこそ、こうして臆病な武人も対等に会話を行なえるのだ。

「それだったらアタシも行くぞ」

「いいえ、これは私の仕事ですから花見月は家で待っていてください。それに、多くを購入するわけではありませんから一人でも問題ありません。貴方は自分の仕事を終えたのですから、ここでゆっくりと休んでいてください」

「でも、アタシも買い物に行ってみたい」

「今回は急ぎの用ですから、もし行くのならば、ちゃんと時間を取って後日にしましょう。慌しく店を見て回っても面白く無いでしょう?」

「それって今度、夢見月が買い物に連れてってくれるってことか?」

「そうです」

ごねる花見月を諭すように夢見月は語る。今度、という言葉を受けて花見月は嬉しそうに笑みを浮べた。そして、妹の言い分に素直に従って頷いた。

今まで強制的とも言える程に人間と花見月が交わりを持つことを嫌っていた夢見月である。しかし、こうして武人や山野、柳沢と交流を持つようになったことで、そんな姉の欲求を押さえ込むことが難しいと悟ったのだろう。時期尚早な感はあるが、これも運命だと受け入れる事にしたのだった。

「わかった、我慢する。けど、約束だからな」

「ええ、約束です」

素直な姉の笑顔に夢見月も自然と微笑を浮べていた。

「ところで、場所は分かるの?」

「ゆーぷるという施設の場所は知っています。その付近にある商店ということなら、大よそ目星はついているつもりです」

ゆーぷる木崎湖からローソンまでは遮蔽物も無く、互いにその存在を視認できる位置関係にある。夢見月がコンビニエンスストアを商店だと認識出来たのなら、迷う事はありえないだろう。

「ならお願いしようかな」

一頻り考えた後に、武人はズボンのポケットから財布を取り出した。二つ折りのそれを開いて、内より千円札を一枚つまみ出して夢見月へ手渡す。

「これで足りると思う」

「分かりました。それではすぐに買って来ます」

そして、言うが早いか席を立った夢見月は廊下へと消えていった。パタンと軽い音を立てて、リビングから廊下へ通じるドアが閉まる。タンタンタンという軽快な足音が玄関に向けて、徐々に遠ざかっていった。

「あの子で大丈夫なの?」

「定期的に人里へ降りていたらしいから、心配する必要も無いんじゃないかな」

「当然だ、夢見月はアタシとは違って凄い物知りなんだぞ」

「私も一緒に行きたかったな」

特に不手際も無く、そして運良くメイプルシロップを購入した夢見月は、ローソン大町木崎湖店から芹沢宅へ向かって走っていた。人間社会に無知な花見月とは異なり、ある程度は人の世を理解している彼女である。コンビニエンスストアでの買い物も至って普通に済ませた。

しかし、問題はその帰り道で発生した。

「貴方は……、死んでいなかったのですね」

コンビニエンスストアのビニール袋を片手に提げた夢見月は、目の前の相手を前に油断なら無い様子で、小さく呻くように口を開いた。彼女の視線の先には、己の行く手を塞ぐように立つ狼男の姿があった。それは記憶にも新しい、つい2週間ほど前に相対した敵である。

「おかげさまで、完治には一週間以上かかったがね」

相手は人目を憚る事無く、全身毛むくじゃらの獣として姿を顕にしていた。頭から爪先まで全身が茶褐色の毛で覆われている。頭部は狼の頭そのもので、半開きの口からは鋭い犬歯が覗いていた。身の丈は190センチ程度だろうか。夢見月と同じく二本の足で確りと立っている。人間を超越した筋骨隆々の厳つい体格と相まって、対峙したものに問答無用で圧迫感を感じさせるだけの迫力があった。

「特に火傷は痛かった、あの後の数日間は満足に眠る事も出来なかった」

語る口調からは明らかな敵意が感じられた。場所は木崎湖の畔に架けられた木製の桟橋の前である。幸いな事に周囲に人の目は無い。とはいえ、日中の往来にあっては、いつ誰に見られるか分からない。

「また同じ目に遭いたいのですか?」

挑むような眼差しを向けて、敵に譲る事無く夢見月が言葉を返す。

「俺も色々と学んださ。今回は前のようには行かないと思うがね」

尖がった口元に覗く鋭い犬歯が真夏の陽光を反射してキラリと光った。

どうやら、前回と同じく彼は一人で彼女へ挑みに来たようだった。他に助っ人が居ないことを確認して、夢見月は己の身の振り方に一考する。ここは逃げるべきか、それとも戦うべきなのか。

「さぁ、随分と長引いてしまったが、ここで仕事を終えさせて貰うとしよう」

ゆっくりと狼男の身体が動いた。くしゃっと足元の雑草を踏み潰して、薄汚れた鋭い爪の生える足を一歩前に出す。その真っ赤な色をした瞳は、正面から夢見月を強く捉えて離さない。

「また仕事ですか。貴方もなかなか勤勉な方ですね」

「ああ、俺はとても真面目な化け物だからな」

足の爪よりも更に長く鋭い、大振りのナイフの様な厳つい両手の爪が、脇の辺りまで上げられる。屈強な体躯は前屈姿勢で固定されてピタリと止まったまま、静かに動き出す瞬間を推し計っていた。

「だから、貴様も今日で終わりだ」

グッと足の筋肉に力が込められる。

「それは、どうでしょうね」

夢見月は考える。前回は様々な要因が己に味方して勝利する事が出来た。しかし、今はどうだろうか。身体能力には大差ないと自分でも感じる。だが、場慣れしていない己と敵とでは、実践における駆け引きの上で致命的な差があるように思えた。油断も誘えない現状では下手に打って出るのは危険である。

挑発に乗ることの無い夢見月を前に、狼男が宣言する。

「貴様が来ないというなら、俺から行くとしよう」

アスファルトで舗装されていない地面の上を、狼男の足が小さく動いて砂利の擦れる音が耳へ届く。深い毛皮で全身を覆われながら、真夏の直射日光を気にした様子も無く、狼男は大きく叫び声を上げ迫った。

「死ねっ!」

押し縮められたバネが跳ねる様に、敵は夢見月へ正面から向かってきた。

「くっ……」

顔面に迫った己の頭部に匹敵する敵の拳を、夢見月は背後へ大きく跳躍して交わす。

同時に自身の周囲へ大量の狐火を一瞬にして灯した。全ては直径50センチ程の火球である。それらは轟々と炎を迸らせながら、夢見月を守るように宙を漂い始める。各々の狐火は、それ一撃で大型トラックを瞬時に溶解させるだけの強烈な破壊力を秘めている。それが十数程度から成る群れを成していた。

「また火遊びか、貴様も好きだな」

嘗て己を焼き殺さんとした火球を前に、狼男は忌々しげに呟いた。

「私も貴方の焦げる臭い匂いを嗅ぐのは勘弁ですが、背に腹は代えられませんので」

二人は十数メートルを置いて対峙している。

夏休み期間中ながら、木崎湖キャンプ場の桟橋付近に人の姿は見られない。桟橋から若干の開けた空間を置いて、湖の周囲には雑木林が広がっている。その先にはキャンプ場の設営施設があるので、もしも人目に触れる場合があるとすれば、そこの利用客や管理人だろうか。何れにせよ狼男が本性を現している時点で、長居すべきではない。

「言っておくが、二度とあのような醜態は見せない。こっちも後が無いんでね」

「つれないですね」

「お喋りしている時間も勿体無いんだよ」

夢見月の挑発に乗る事無く、再び狼男が駆け出した。

迫る敵に彼女は出し惜しみする事無く、生み出した狐火の全てを纏めて放つ。そして、すぐさま新しい狐火を生み出しつつ後方へ飛び退く。その戦法は以前に彼女が彼を打倒したときと同様のものであった。

狼男は進路を数多の火球に塞がれて、迂回を余儀なくされる。大きく横に飛び退いて迫る火球をやり過ごした。彼を狙って打ち出された火球はその背後にあった湖面に着弾すると、巨大な水蒸気爆発を起こして大きな水飛沫を立てた。周囲に激しく飛び散った水滴が二人の身体を濡らす。

だが、それを気にした風も無く狼男は夢見月へと迫る。

応じる夢見月は牽制の為に狐火を打ち出しつつ、先程まで走って来た道を戻るよう後退を始めた。身体は正面に敵を捉えたままである。背面を逐次振り返りながら、乱雑に茂る樹木を避けて、湖の畔を後ろ向きに全力疾走だった。

「また逃げるのかっ!」

目の前を飛び交う火球にイラついた狼男が叫ぶ。

「当然です。そもそも其方の都合で攻めてきておいて、その物言いは無いでしょう。自分勝手にも程があります」

駆ける二人の間には一定の距離が保たれている。

夢見月の放つ狐火は強力だ。下手に触れればどうなるか、それを身を持って理解している狼男はおいそれと近づく事ができないでいた。過去の経験がちょっとしたトラウマと成っている様であった。

とはいえ、追わなければ逃げられてしまう。

腕を振り上げ迫る狼男と、火球を放ちながら後退する夢見月。二人の争いの場は、地元民が十七桟橋と呼称する二つ並んだ桟橋の袂から、湖畔に沿って徐々に南下して行った。そのまま進むと、直に夢見月がつい先程メイプルシロップを購入したローソンへと行き当たるだろう。それを過ぎれば五百メートルと進まない内にJR信濃木崎駅だ。

「くっ……」

敵の顔に焦りの色が浮かんだ。

その些細な変化を敏感に感じ取った夢見月は、相手の意向を即座に推し量る。そして、己が足の向かう先を決定した。多勢に無勢とは過去の夢見月もまた、痛いほどの代償を払って学んだ事実だ。

「糞が、待ちやがれっ!」

叫ぶ相手が一際大きく跳躍して迫った。それに数多の狐火を放つことで、夢見月は危うい所で肌を掠めた鋭い爪をやり過ごす。同じ事の繰り返しに、敵は徐々に焦りと苛立ちを溜めて来ていた。

「どうやら、人間に見つかると不味い様ですね」

駆ける夢見月が、何気ない様子で敵に呟いた。

「だったら、どうするというのだ」

「そんなこと、言わずもがなでしょう」

「……この畜生が」

「夷を以って夷を制すとは良く言った言葉です」

前回は相手の油断を誘って、そして、今回は敵の焦りを理解して、夢見月は己の有利を確信した。しかし、前とは異なり今回は逃げる為だけの有利である。決して、戦って容易に打倒出来ると確信した訳ではない。

「今は貴方の相手をしているだけの暇も無いのです」

彼女の右手には白いビニール袋が握られている。その中には買ったばかりのメイプルシロップが入っている。つり銭とレシートはスカートのポケットの中だ。まさか、芹沢宅へ帰って暢気に食事を摂れるとは考えて居ない。しかし、帰るのが遅れて武人達に迷惑をかける訳にもいかなかった。なによりも、狼男が未だ存命であったことを一刻も早く知らせなければならない。

「クソッたれ、待ちやがれっ!」

「待てと言われて待つのは馬鹿のやることでしょう」

一層の健脚を持って花見月は地を駆ける。それを追う狼男は必死だった。

真夏の太陽が二人を焦がすように頭上より照り付けている。正午前という時間帯もあって、夢見月のシャツは汗にぐっしょりと濡れていた。薄い綿生地のシャツは下着をつけない彼女の身体にピッタリとくっ付いて肌の色と形を顕著に浮かび上がらせる。額にはびっしりと雫が浮いていた。深い体毛に覆われた狼男に関しては表立って変化も見られない。しかし、表皮に近い辺りでは、逃れられない熱気に激しく蒸れていることは間違い無いだろう。

やがて、二人の歩みは砂利道からアスファルトに舗装された道路へ上がった。すぐ近くには車もそれなりに走る国道148号線が通っている。顔を上げればローソンの立て看板が目に入った。これ以上の南下は人目につく可能性が非常に高い。いや、寧ろここまで誰の目にも見止められずに来れたのは奇跡だと言っても過言では無かった。

「糞っ!」

狼男が穿き捨てる様に呟いた。

同時に、それまで忙しなく動いていた足がピタリと止まる。それに合わせて、夢見月もまた後退を止めた。二人は十数メートルの距離を置いて制止した状態で向き合う。互いに油断無い様子で相手の動きを監視している。

「ここで終わりですか?」

「へっ、よく言ってくれるぜ」

忌々しそうに夢見月を睨みつける。

「とはいえ、これがお前に取っても最後の可能性だったんだがな」

「………どういうことですか?」

「それを自らの手で捨てたのだと、後でゆっくりと後悔するがいい」

そう短く呟いて、狼男は夢見月に向き合ったままゆっくりと足を後ろに動かし始めた。

「待ちなさい、それはどういうことですか!?」

「それは見てのお楽しみって奴だ、すぐに分かるだろうよ」

狼男は徐々に距離を稼ぎ、やがて十分な間隔を得た後に背を向けて駆け出した。それまで二人が通ってきた道を逆走する形だ。

「ま、待ちなさいっ!」

意味深な言葉に戸惑いながら、しかし、敵を深追いする事も出来ずに、夢見月の言葉は虚しく響くに終わった。突き出した腕の向かう先は無く、相手の姿は雑木林の影に隠れてすぐに見えなくなってしまった。

津波のように押し寄せる盛大な蝉の鳴き声の中にぽつねんと立ち、夢見月は敵の捨て台詞に頭を悩ませる事となった。

「ただいま帰りました」

リビングの扉を開いて、コンビニエンスストアの白いビニール袋を片手に携えた夢見月が顔を出した。室外とは十度以上ある気温差を感じて、未だに慣れないエアコンの効能に小さく身震いをする。長く艶やかな銀色のツインテールの穂先がゆらり揺れた。

「意外とかかったみたいだね。もしかして道に迷った? っていうか、凄い汗だけど」

空腹に腹の虫を鳴かせながら彼女の帰りを待っていた武人が尋ねる。

「それなのですが、ひとつ重要な話が有ります」

ダイニングテーブルの上にメイプルシロップを置いて、スカートのポケットから取り出したレシートとお釣りを武人に返す。その顔は家を出る前の朗らかな笑みとは一変して、緊張感に溢れていた。

「コンビニで何かあったの?」

「いえ、そうではありません」

そんな彼女の様子に疑問を持った一同は、続く言葉を待つように注目する。

「それ以上に忌々しき問題です」

その眼差しは真剣そのものだった。

「何かあったのか?」

久しく見ない姉の切羽詰った様子に花見月もまた、席から身を乗り出して口を開く。

「なんだか良く分からないけど、詳しく教えて貰える?」

「はい」

二人の言葉に頷いて、夢見月はつい先程の出来事を語り始めた。

すなわち、過去に倒したと考えていた狼男が依然として存命であること、そして今も尚、自分と花見月の命を狙っているということ、加えて、なにやら善からぬ計らいを持って行動しているという事をである。

淡々と事実を語る夢見月に、武人はつい数週間前の出来事を思い起こして小さく息を呑んだ。生きるか死ぬかの瀬戸際まで追い詰められた彼としては、狼男の存在は禁忌にも近いものがあった。

勿論、驚いたのは武人だけでない。直接的に危機へ晒されるであろう花見月は当然のこと、本人とは大した面識がある訳でも無いが、姉妹の友人として山野や柳沢もまた、夢見月の語った事の次第を理解して固唾を飲んだ。

「ですから、私と花見月はすぐにでもこの場を離れようと思います」

その視線が名残惜しそうにダイニングの上へ向けられているのは、誰の目にも明らかであった。しかし、武人には彼女を引き止めるだけの勇気が無かった。まさか自宅を戦場にする訳には行かない。

「てっきり倒したものだとばかり思ってたよ」

自然と洩れた呟きは意味の無い感想だった。

「私もそう考えていました」

頷く姿は酷く深刻に感じられた。

「じゃあ、これも食べないで帰るのか?」

花見月が残念そうに夢見月を見つめる。

「ええ、それだけの余裕も惜しいです。同じ過ちを二度と繰り返す訳には行きません」

「そっか……」

「もしよかったら、食べる頃には冷めちゃうかもしれないけど持って帰る? ラップか何かに包んで用意するよ。買ってきて貰ったシロップも持っていってくれて構わないからさ」

肩を落として落胆する花見月の姿を目の当たりにして、武人が言葉を続けた。

「いいのか?」

「別にホットケーキくらい何時だって作れるからね」

そう言って武人は山野や柳沢に視線を向ける。

「まあ、別にそこまで飢えてる訳じゃないしね」

「どうぞ、持っていって」

彼の提案に二人も頷いた。

「どうも、すみません」

「これくらい気にしなくていいよ」

「というか、主立って作ったのはこの二人に山野、それと私なんだから、遅れて起きて来た貴方が偉そうに言う事じゃないでしょう。自分達で作ったんだから、持って帰るのだって正当な権利よ」

「ああ、それもそうだったね」

「ありがとうございます」

柳沢と武人のやり取りに、夢見月が小さく頭を下げてお辞儀した。

「じゃあ仕度する」

武人や柳沢の言葉に押されるように山野が席を立った。

「あ、アタシも手伝うっ!」

「私も手伝います」

それに続いて姉妹もキッチンへと向かった。

一週間と数日程度の通い期間を過ぎて、終始料理に従事していた花見月にとっては、既に勝手知ったる他人の家の台所である。手早くラップを取り出して作業に移った。隣には山野と夢見月が並ぶ。そんな三人の姿を眺めて、武人もまた自室から持ってきたデスクチェアより腰を上げる。

「貴方も手伝うの?」

「持って帰るにしても、何か袋を用意しないとならないだろ?」

「確かに、それもそうね」

向かう先は二階の物置部屋だ。そこには引越し前より義人が街へ買い物へ出る度にせこせこと溜め込んでいた紙袋の類が纏めて置いてある。ホットケーキはかなりの枚数があるので、持ち帰るにも相応の大きさの袋が必要だろう。

「となると、私だけ手伝わないで座ってる訳にもいかないわね」

「君らしくない発言だね」

「失礼ね、私だって人並みにものを感じて生きているのよ」

廊下へ抜けるドアノブを握って振り返った武人に、席から立ち上がった柳沢が答えた。

「貴方もさっさと探してきなさい」

「分かってるよ」

バタンと閉じられた扉を確認して、彼女もまたキッチンへと向かった。

廊下へ出た武人は二階へ向かう。物置部屋は階段を上り終えてから、廊下を歩き一番奥ばった場所にある。ちなみに、その隣の部屋は今でこそ空室だが、つい数週間前までは静奈が寝泊りしていた部屋である。

花見月と夢見月に出会った義人は、当初こそ静奈へそうしたのと同様に、彼女達へ武人の目付け役を願おうとした。しかし、己の親の性格を良く理解して、彼に対して事前に釘を指していた息子の働きにより、それは実行されなかった。姉妹は武人に大きな恩と負い目を感じている。もしも、その親である義人に願われては、生真面目な二人のことだ、嫌でも断ることはしないだろう。そう武人が説明すると、義人も大人しく件を諦めてくれたのだ。

「………」

チラリと隣の空室のドアに視線を向ける。過ぎた事は気にしない主義だが、それも全ては思考の上での話である。気になるものは気になるし、忘れようと思っても忘れられない事は多い。人間とは面倒な生き物だった。しかし、それ以上何をするでもなく、武人は物置部屋へと入っていった。

そして、第一声で小さく呻き声を生じさせる。

「うっ……」

そこは物置と言うだけあって埃っぽい。埃にアレルギーのある武人には長居出来ない空間だ。

「まったく、物置だからって整理くらいしておいて欲しいね」

目に付くのは引越した当初から変わらず、高く詰まれた引越し業者の印が印字されたダンボールの山である。また、それら合間には季節的に用いられないコタツやファンヒーターといった大型の暖房器具の類も見られる。

武人はつい先日にも似たような用途の為に漁った紙袋の束を探してダンボールの山へ向かう。義人によって動かされていない限り、場所に関しては目星がついていた。なので、目当てのダンボール箱はすぐに見つかった。

「これくらいでいいかな……」

折りたたまれた紙袋の幾つかを取り出しては、底の広さを確認する。

如何せん作ったホットケーキは幅広だ。それなりの底面が必要だろう。ラップ掛けには時間もかかるだろうと考えて、武人は数多ある中から良さ気な袋を幾つか見繕った。

そして、それらを持って部屋を後にしようとした時である。

窓ガラスが割れる喧しい音が耳に飛び込んできたのは。

「っ!?」

滅多に聞くことの無い異音にビクリと身体を震わせる。

音は自宅の階下から聞こえてきた。周囲には民家も少ない。これだけハッキリと耳に届いたのだから間違いないだろう。続いて、間髪置かずに悲鳴や怒声の類が幾重にも重なって届けられた。

「ま、まさかもう来たのっ!?」

思わず手にした紙袋のうち一つを取り落としていた。

慌てて階段付近まで移動して階下を覗き見る。しかし、そこからでは段差を降りて突き当たりにある廊下の壁が見えるだけで、詳細を確認するには至らない。そうこうしている内に、騒音には破壊音が混じり始めた。

「ちょっと、なんで僕の家で始まるんだよっ!?」

慌てた武人は反射的に階段の段差を降りて一歩足を進めた。

だが、そこで二の足を踏む。

自分が出て行って何が出来るのだろうか、と。

「…………」

過去に二度の被誘拐実績がある彼だ。敵の目的に変わりが無ければ、前回と同様、拉致被害に遭う可能性が非常に高い。そして、彼自身はただの人間であり、特別な能力を持っている訳でもない。つまり、自分が出向いた所で姉妹の足手まといになりこそすれど、手助けにはならないということだった。

階段の壁に片手を付いたまま、視線を落として口をギュッと閉じる。

薄い壁を幾枚か挟んで、下からは打撃音や破壊音を伴う喧しい騒音が届いてくる。そこでは一体どのような事態が繰り広げられているのか。頭を巡らせるべくも無く全ては容易に想像出来た。

彼が選ぶことの出来る選択肢は二つあった。一つはこのまま見てみぬ振りをして騒動が治まるのを大人しく待つこと、もう一つは無謀にも渦中へ飛び込んでいくことだ。

前者に関しては、敵の目的が前回と同じく変化無ければ、仮に敵が勝ったとしても、武人に被害が及ぶ可能性は低いだろう。相手は姉妹の死亡を確認して帰っていくだけのことだ。また、姉妹が勝利したのならば、それはそれで何の問題も無く大円満である。

一方で後者に関しては言うまでも無い。何の力も持たない武人が突っ込んでいった所で、人間を超越した者達の戦いに一太刀入れられるとは思えない。そして、運が悪ければ争いに巻き込まれて死んでしまうかもしれないし、そうでなくとも、再び拉致被害に遭うかもしれない。何がどう転んでも自分に取って良い方向に傾くとは微塵も思えなかった。

どちらを選ぶべきかは明らかである。

「…………」

階段を一歩だけ下りたところで、武人は踵を返した。断続的に聞こえてくる罵倒や叫びを背に受けながら、最寄の自室ではなく、廊下を進んで最奥にある埃っぽい物置部屋へと戻る。

「なんで、僕ばっかりこんな目に遭うんだよ」

自然と口を付いて出た愚痴は、更に彼を鬱へと誘った。

距離を置いても、依然として争いの気配は感じられる。それは家全体を震わせる程に大きなものだ。時折響く誰のものとも知れない悲鳴が、武人の精神を酷く刺激した。過去に花見月と夢見月は、二人で力を合わせて狼男を追い返したと語っていた。ならば、今回も同様に上手く追い返せるだろう。そう考える事だけが、武人にとって唯一の、そして自分勝手な救いと成り得た。

「…………」

手にした紙袋を手近にあったダンボールの山の上に置く。

山野と柳沢はどうなっただろうか。二人は武人と同様に普通の人間だ。姉妹と敵との争いに巻き込まれたのなら、無事では済まないだろう。出会って一ヶ月と経たない仲だが、心配でないと言えば嘘になる。だが何にも増して、自分の家で死人が出るのだけは、社会的にも精神的にも御免だった。

「あぁ……、本当にどうするんだよ……もう………」

武人の頭はパンク寸前だった。

エアコンの効いていない物置部屋は、全ての窓が締め切られていることもあって、室温も他と比較してかなり高い。ジワリジワリと額に浮かんだ汗が、頬を伝って顎からポタリと落ちる。

それから数分間を、武人は物置部屋に座り込んで、膝を抱えたまま過ごした。何もせずにジッと、耳から入ってくる物音にビクリビクリと身体を震わせながら、今すぐにでも家から飛び出したい衝動を抑えて過ごした。

すると暫くして、鳴り止まない階下の気配を掻き消す様に、聞き覚えのある大きな音が響いてきた。パトカーの鳴らすサイレンである。津波のように押し寄せる膨大な蝉の音さえ押し切って、周囲一体に騒然と鳴り響いている。

「警察?」

音に反応して立ち上がった武人は部屋の窓ガラスから外を眺める。すると、家屋が隣接する路上をパトカーが三台ほど走っていた。車上に取り付けられた赤いランプが忙しなく点灯、回転している。

そして、それらは芹沢宅の前に止まった。

停車したパトカーはサイレンを鳴らしたまま、ドアを勢い良く開けて中より警察官を吐き出した。わらわらと降車した彼等は、駆け足で隣接道路から芹沢宅へ続く小さな坂道を下る。そして、家の周囲を取り囲むように散っていった。

「誰が警察なんて呼んだんだよ……」

階下で繰り広げられているのは人知の及ばぬエキセントリックな喧嘩だ。そこへ警察官なんぞが介入すればどうなるか、結果は誰の目にも容易に理解できよう。これ以上の面倒事に巻き込まれるのは勘弁してくれと、武人は小さく舌打ちをした。

「ああもう、なんでこんなことになるかなぁっ!」

頭を掻き毟るようにして、窓ガラスから頭を引っ込めた武人は地団駄を踏んだ。

窓ガラスの割れる耳を突くような音を耳にして、ホットケーキをラップで包む作業に従事していた夢見月は、驚いた様子で手元から顔を上げた。それが人間の日常生活にとっても異常な音であることは彼女も理解している。

すると、目前には今にも己の額を突かんと迫る狼男の鋭い爪があった。

「なっ!?」

咄嗟に膝を曲げてしゃがみ込む。

空中を滑空してきた相手は、カウンターキッチンと彼女の頭上を越えて、その向かいにあった食器棚へ激しくぶつかった。まるで大振りのナイフの様な爪が、深々と幾重にも陶器の容器を貫いて、木製の棚に突き刺さっていた。

「夢見月っ! 大丈夫かっ!?」

夢見月のすぐ隣で作業をしていた花見月が、しゃがみ込んだ妹を庇うように、敵と彼女の間に割って入る。幸いな事に、山野と柳沢は少し離れてダイニングテーブルの上で作業をしていたので、狼男の襲撃に際して怪我を負うことは無かった。

「言っただろ? 後で後悔するってな」

つい十数分前に出会った時のまま、獣の姿を晒す敵の口元がニヤリと厭らしく歪んだ。狼男は食器棚より突き刺した爪を引き抜くと、ゆっくり姉妹に向き直る。支えを失った食器具の数々が音を立てて床に落ち砕けた。

「他人の家に上がるときは玄関からって、両親に習いませんでしたか?」

鋭い視線で敵を睨みつける夢見月が、しゃがみ込んだ状態からゆっくりと立ち上がる。そして、一歩前にある花見月の隣に並んだ。そこには狼男に対する明らかな敵意が感じられる。

「さぁ、どうだろう?」

敵は余裕の笑みを浮べると、両手の平を上に向けて肩を竦めてみせる。

「泥棒に入るときは窓から入れと習ったのは覚えているがね」

「随分と荒んだ家庭に生まれたのですね」

「お陰で今日日の俺はこの有様よ、少しは哀れんでくれないかね?」

「全ては貴方の行い次第です」

それなりに広い芹沢宅のキッチンだが、所詮は一般家屋のキッチンだ。キッチンカウンターの前に立つ姉妹と、食器棚の前に立つ狼男との間には大よそ2メートル弱の間隔しかない。そして、それは人外の化け物である両者にとって、手を伸ばせばすぐにでも届いてしまう様な、有って無いにも等しい距離だった。

「お前、よくも武人の家を壊したなっ!」

大きく割られたリビングの窓ガラスと、修復不可能な程に粉砕された食器棚の姿を確認して、怒りに燃える花見月が叫んだ。静かに憤怒する夢見月とは異なり、彼女は今にも飛び出していきそうな程に怒気を顕としていた。

そんな彼女に背後より声が掛かる。

「家屋の損傷につきましては、我々が後ほど家主からの賠償に応じるつもりですので、貴方達が気になさる必要は無いですよ。なんなら此方が全額負担して家ごと建て替えてしまっても構いません」

「っ!?」

慌てた二人が背後を振り返る。

そこに立っていたのはスーツ姿の男性であった。年の程は二十台中盤から後半、まだ三十には達していない様に感じられる。色白い肌と堀の深い顔の造形から察するに日本人では無いだろう。髪は薄い茶色で、肩にかかる程度の長さを整髪料によってオールバックに撫で付けている。この真夏にありながら真っ黒なスーツを全く着崩すこと無く身に纏い、ネクタイまでキッチリと締めていた。何よりも特徴的なのは、群を抜いて美麗だと思える中性的な顔立ちだろうか。

割れたガラス窓の鍵を外から手を伸ばし入れ開錠し、丁寧にカラカラと横にスライドさせて開ける。そして、彼は土足のまま室内へ入って来た。

「だ、誰だっ!」

始めて見る顔を前にして花見月が吼える。

「二人には初めてお目にかかりますね。私、名前はギヨーム・ド・マシューと申します。とても短い縁となりましょうが、以後お見知りおきを」

男は片腕を腹の前へ持ってくると、まるで良く出来た執事の様に腰をキッチリと曲げて頭を垂れる。身に纏う衣服といい、その妙に優雅な立ち振る舞いといい、彼の存在は場違いにも程があった。

「アタシはお前なんて知らないぞっ! こいつの仲間かっ!?」

得体の知れない相手に花見月は自然と身を硬くする。

「ええ、今はそう考えていただいて差し支えないと思います」

流暢な日本語で静かに答えるマシューは、フローリングに散った細かなガラス片をジャリジャリと踏み鳴らしてリビングの中央まで移動する。

「じゃあ、お前もアタシ達を殺しに来たんだなっ!」

「端的に答えれば、そういうことになりますね」

凶暴な狼男の面構えとは一変して、マシューの顔には朗らかな笑みが浮かんでいる。しかし、線のように細められた眦の奥に潜む瞳は、表立って威嚇してくる狼男のそれと比較して、静かな分だけ恐ろしいものだと相対する二人には感じられた。

前後を狼男とマシューに挟まれる形となって、二人を一層の焦りが襲う。

狼男に関しては実際に拳を交えた経験から、大凡の能力は判断がつく。だが、新たに現れた敵は全てが謎だ。そして、夢見月は即座に推測した。仮に狼男が助っ人を頼んだと言うのならば、それが本人よりも弱い可能性は低いだろう。つまり、スーツの男は姉妹に取って狼男に勝る脅威だという事だった。

自然と、その表情には苦いものが混じる。

「前には正々堂々と勝負しよう、などと言っておりませんでしたか?」

「ああ、俺も本当は正面からお前と戦って仕事を終えるつもりだったんだがな」

「それでしたら、何故に助けを呼んだのですか?」

「別に俺が呼んだ訳じゃない、そいつが勝手に付いて来たんだ」

狼男は尖がった口元で、姉妹を挟んで正面に立つスーツの男を示してみせる。敵に挟まれた姉妹は互いに向き合いながら、二人からの視線に対して身体の正面を垂直方向に向けていた。そして、右へ左へ注目を行ったり来たりさせながら、忙しなく相手の挙動を警戒している。

「何を言った所で全ては貴方の不甲斐なさが問題なのです。こうして身内の失態の尻拭いに回る私を、貴方は感謝こそすれど、厄介者扱いするのは筋違いだと思いませんか?」

「うるせぇよ」

淡々と言葉を返すマショーに、狼男は苦虫を噛み潰したような表情で吐き捨てた。

過程はどうあれ、過去に敗れたという汚名を弁解する為にも、狼男は夢見月を相手に一人で勝つ必要があった。それは何よりも自分自身の力を信仰する己のプライドと心の平穏の為である。だが、それは既に叶わぬ願いとなっていた。

「それに貴方にはチャンスをあげた筈です。相手が逃げ出したというのは理由になりません。機会を不意にしてしまったのは全てが貴方の力不足から来るものなのですから。ですから、これ以上の失態を許さない為にも私が助力します」

「なるほど、先程のあれはそういう意味だったのですね」

つい先程、近所のコンビニエンスストアへメイプルシロップを買いに行った帰り道。突如として襲いかかって来た狼男が最後に発した意味深な台詞の意図を汲んで、夢見月は小さく頷いた。

「ふん……」

有態な正論を前にして、狼男は拗ねたようにそっぽを向いた。

能力で勝つことが出来なければ、口先でも勝つことが出来ない。もしも相手がマシューでなければ、彼は我儘を通す為に、味方であろうと躊躇無く牙を剥いていただろう。悲しいのは相手の言うとおり、己の力不足だ。

一方で、姉妹や敵とは少しはなれて、山野と柳沢はホットケーキをラップに包む作業に従事していた姿勢のまま、ダイニングセットの椅子に座っていた。幾ら他所と比べて広い作りをしているとはいえ、流石に一般家屋のキッチンで4人が同時に作業をするのは息苦しい。ということで、作ったホットケーキを半分ずつに分けて、キッチンとダイニングで平行して事に当たっていたのだ。

二人は目の前で交わされる会話に入ることが出来ず、また下手に動く事も出来ずに事の成り行きを眺めていた。咄嗟の事で反応に遅れ、椅子より立ち上がる機会を失い、そのままの状態にあったのだ。

「な、なによいきなり……」

「分からない、でも、あっちの方は前にも見た気がする」

「ええ、たしか前に山の中で見たわね」

二人は共に目を白黒させて、突如現れた敵の姿に困惑するばかりだ。

「けど、あっちのスーツは知らないわよ」

「狼男の仲間って言ってた」

「見た目は普通の人間にしか見えないんだけど、あれも化け物なのかしら」

「分からない」

命を狙われている本人達でさえ身に覚えの無いことなのだ。彼女達に事が把握出来るはずも無い。ただ、唯一二人に理解できる事があるとすれば、それは、化け狐の姉妹が命の危機に晒されている、ということだけだった。

「この場合、私達ってどうするればいいの? 助けに入るのがいいのかしら……」

「多分、何も出来ない」

つい数週間前、狼男に拿捕された経験から相手の圧倒的な身体能力を理解して、山野は残念そうに呟いた。何よりも、先日の夢見月の言葉に従うなら、彼女達姉妹は山野や柳沢の様な普通の人間を何の苦も無く、それこそ自分達が羽虫を手で握りつぶすが如く、容易に縊り殺すだけの力を秘めているのだ。そんな二人が眉を顰める相手だ。自分達にどうにか出来る筈は無いとすぐに理解した。

「貴方達はそこで大人しくしていて下されば結構です」

そんな二人の会話を耳に止めたのか、マシューが彼女達に顔を向けて口を開いた。

「これでも人間とは末永く仲良くやっていきたいと思っています。ですので、大人しくしていてくれたのなら貴方達に危害を加える事はありません。我々の目的は彼女達なのですから」

そういって視線が指し示した先には花見月と夢見月の姿があった。

「化け物の言葉を信じろって言うの?」

「そうして頂ければ、此方としても幸いです」

「貴方もそこの犬面と同じで化け物なんでしょ? 信じられないわ」

「確かに私もまた、貴方達人間とは異なる存在です。ですが、人間がそうであるように化け物もまた個体により十人十色でして、色々と居るのです。これでも、私は己の言葉には責任を持つほうだと自認しているのですが」

「口調が丁寧だと逆に怪しいわ」

「すみません、これは育ち由来の癖でして、そう簡単には直せないもので」

気の強い柳沢は、見るからに気が短そうな強面の狼男に抗議出来ない分まで、外面の柔らかいマシューに食って掛かる。しかし、そんな彼女の言葉も次に発せられた彼の言葉を受けて、あっという間に勢いを失った。

「ですが、大人しくしていて頂けないというのでしたら、先立って貴方達を処分する必要が出てきます。それを承知して頂けるのでしたら、どうぞ、お好きなように行動して下さい」

「な、何よ、脅してるつもり?」

「いいえ、別にそのつもりはありません。ただ、純粋にこれからの予定を口にしたまでです。選択権は貴方達にあるのですから、どうぞ、お好きな方を選んでください」

過去に狼男が山野に対して行なったように、暴力によって威圧された訳ではない。牙や爪を向けられた訳ではない。しかし、彼の言葉にはそれ以上に恐ろしいものが感じられた。マシューの能面の様な形式ばった笑顔には、一切の感情が感じられなかった。

「柳沢……」

隣に座る山野が友人の服をちょいちょいと引っ張る。

「今は大人しくしてた方がいい」

応じて振り向いた柳沢に彼女は首を小さく横に振って見せた。

「それを貴方に言われるとは思わなかったわ」

元より彼女も、化け物を相手に立ち回りする気は毛頭無い。友人に窘められて反論すること無く大人しくなった。このままでは姉妹が危機に晒されるだろうが、だからと言って、自分の命を差し出すのは幾らなんでも惜しい。

そして、そんな彼女達の言動を先程の問答への肯定と受け取ったのか、マシューは満足した様子で小さく頷いた。

「それでは、貴方達はそこで大人しくしていてください。勿論、途中で手を出して来ましたら、此方としても躊躇しませんので悪しからず」

「……………」

二人は彼の言葉に、ただ黙って顔を俯かせた

リビングに設置された大型の窓ガラスが割られたことで、室内の気温は瞬く間に上昇していた。それまでの快適な空調環境は失われ、外気との接点から徐々に熱が伝わり始めている。また、庭木に止まった蝉の鳴き声が、妨げを失ったことで音量を増して耳に届く。幸い隣接する家屋は無いので、破壊音を耳にした隣人が駆けつけてくることは無い。狼男などと言う馬鹿げた存在が世間に露見することも無いだろう。

「其方の狼とは違って、貴方は随分と紳士的なのですね」

皮肉のつもりだろうか、夢見月が呟く。

「そうですか?」

「その約束が最後まで守られることを祈っておきます」

「期待して頂いて結構ですよ」

相手の言葉に頷いたところで、マシューは周囲を見渡し言葉を続けた。

「ところで、この家の方々は不在ですか?」

それは武人と義人を指しての事だろう。

しかし、何故に彼は化け狐である姉妹は未だしも、歴とした人間である山野や柳沢がこの家の住人で無いことを知っているのか。相手の言葉に、同様の疑問を持った花見月と夢見月の視線が合う。考えてみれば、自分達の様な化け狐と共に居たにも関わらず、一目見ただけで山野と柳沢が人間であると確信したマシューの判断にも疑問が残った。

「それを聞いてどうするつもりですか?」

腑に落ちない相手の言動を受けて夢見月は疑問を口にする

「別にどうもしませんよ。ですが、我々の確認した情報に因れば、この邸宅には世帯主である父と、高校生である息子が二人で住まっているという話でした」

初めてこの家を訪れるであろう彼の口から語られた情報は事実と相違無かった。

「見たところ此処には居ない様ですが、トイレですかね? 今日は平日ですし、父親は仕事に出かけているでしょうが、この辺一帯の高校は既に夏休みです。息子の方は自宅に居ると思ったのですが」

「私が貴方達に素直に教えるとでも考えているのですか?」

「まあ、然して重要な事でもありませんから、教えて頂けずとも困りはしません。ただ、純粋な興味という奴でしょうか。其方の手勢に人間が一、二人増えた所で、大した障害にはなりませんからね」

「お前等、また卑怯な手を使うつもりかよっ!」

狼男と武人を唯一繋ぐ関係を思い出した花見月が、一段と声を荒げてマシューに叫んだ。敵が彼を求めるとすれば、利用用途はそれ以外に考えられない。本人は強いて探すつもりも無いようだが、それも素直に信じるのは危険だった。

幸いにして武人は二階の物置部屋へホットケーキを入れる為の袋を取りに行っている。そんな彼に対して姉妹が出来るのは、異常な物音の正体に気づいた武人が、一階へ降りてくる事なく、二階で大人しくしていてくれることを祈るのみだった。

「卑怯な手とは何ですか?」

「惚けるなっ、また武人を人質にするつもりなんだろっ!」

「人質ですか?」

「そうだっ!」

興奮した様子の花見月に、一方でマシューは至って冷静なまま首を傾げてみせる。

「何故に我々が人間を人質にとる必要があるのですか?」

「貴方は随分と腕に自信があるのですね。其方の彼とは豪い違いです」

夢見月の視線がマシューとは対面に立つ狼男をチラリとなぞる。

「立場上、私は彼の直接の上司に当たるものでして、それ相応の能力は持っているつもりです」

マシューの強気な発言を受けて、狼男の眉間には自然と皺が寄る。過去に武人を人質に捕り、それでいて敗北を帰した彼にとっては立つ瀬無い一言だった。

「おい、何でもいいから早く仕事を終わらせるぞっ」

「そうですね、他所の御宅に長居をするのは良くありません」

「そんな事を言うなら靴くらい脱げよっ!」

「それはフロアのフローリングの全面張替えに応じるということで、ひとつ宜しくお願いします」

花見月の文句へ答えると同時に、マシューが床を蹴って走り出した。彼が出たのを確認して狼男もまた走り出す。マシューが向かうは花見月であり、狼男は夢見月へと狙いを定めていた。これは狼男の夢見月に対する意趣返しを考慮してのことだろう。

「っ!」

狼男は真正面から硬く握った拳を花見月の顔に目掛けて勢い良く振るう。

マシューは花見月とキッチンカウンターを挟んで目前まで僅か一歩の跳躍で接近する。そしてカウンター上に手を着いて下半身を腰の高さまで持ち上げ、台の上に乗り上げるようにして、夢見月の顔目掛けて両足を揃えた蹴りを放つ。それはまるで跳び箱を横飛びに飛び越えるかの様な奇抜な動きだった。

狭いキッチンにありながら、姉妹は咄嗟に後ろへ身を引いて共に敵からの一撃を避けた。会話の最中から常に備えていたので、初手は無事に遣り過ごすことが出来たようだ。しかし、攻撃を後ろへ避けたことで、場は姉妹の間に敵が立つ形となってしまった。蹴りの勢いに乗ってキッチンカウンターを乗り越えたマシューと元よりキッチンの側に居た狼男は、互いに背を合わす様にして姉妹と向き合う。

「流石に、家の中では火の玉も出せないか」

今までならば、すぐにでも夢見月の周囲に出現した筈の狐火が見当たらない事を確認して、狼男は口元を小さく歪めた。それはマシューと対する花見月にしても同様である。狐火を放てば、まず間違いなく家に火がつく。幾ら渦中にあるとは言え、姉妹は芹沢宅を焼いてしまうに抵抗があった。

「家の中で暴れてはいけないと、貴方は親に習わなかったのですか?」

「俺が小さかった頃は、寧ろ親が率先して壁やら床やら壊していたんだがな」

「………そうですか」

そして、狐火を出せないという制限は二人にとって大きな痛手となった。

「聞いたところ、貴方達は尻尾六本の化け狐だということで、我々としても相手をするにはギリギリの所なのですが、実力の程は如何でしょうか。今後の参考にさせて頂きたいと思います」

「五月蝿いっ! なんでアタシ達が追われなきゃならないんだよっ!!」

「そうですね、端的に表現するなら植民地支配の為の武力行使、その為の第一歩とでも言いましょうか」

「しょ、植民地支配って何だよっ!」

「もっと簡単な言い方をするなら戦争ですよ」

「戦争!?」

「東西に分かれた化け物同士の戦争だと思って頂ければ良いでしょう。貴方達は不運にもそれに巻き込まれたんです。まあ、巻き込んだ張本人は私だったりする訳ですが」

「アタシは戦争なんて知らないぞっ!」

「それは当然です。表立って宣戦布告もしておりませんからね。化け物の間には人間のような固有の土地に確執する国家の概念も無いので、そういう意味では戦争と称してしまうと語弊が生じるかもしれません」

「だったら何で戦争なんだよっ!」

「だから言ったでしょう、端的に表現するなら、とね」

含みの多いマシューの物言いに花見月は苛立たしげな表情を浮べる。

過去の経験から、狼男一人を二人で相手をする分には、そこまで苦労せず追い返すことが出来る事を彼女達は理解している。そして、狼男と一対一で争った場合、能力的には同等でありながら、経験の差から自分達に些かの不利があることも認めている。もしも新たに現れた敵、マシューが狼男と同程度であったのならば、まだ希望は見出せたかも知れない。しかし、彼の先程の説明を信じるならば、姉妹の勝利は非常に希薄なものとして感じられた。

「花見月っ!」

夢見月が敵の身体越しに姉を見つめて名前を呼ぶ。

彼女が言わんとすることを即座に理解して、花見月はキッチンからリビングへと向かい床を蹴った。その姿を確認するまでもなく、夢見月もまた家の柱を盾にキッチンカウンターを迂回してリビングへと走る。

「逃がしませんよ」

「しゃらくせぇっ!」

今し方攻撃を仕掛けたのと同様に、花見月を追うはマシューであり、夢見月を追うは狼男だ。狭い室内にあって、足を大きく動かし距離を稼ぐ姉妹に、敵は背後より攻撃を仕掛ける。

己の肩越しに敵の接近を感知して、花見月は膝を曲げ姿勢を低くする。その頭上をマシューの腕が風切り音を響かせて過ぎた。巻き上げられた幾本かの銀髪が抜けてパラパラと宙を舞う。

そして、彼の拳は振るわれた勢いを殺しきれず部屋の壁にぶつかった。ズドンという低く大きな音が部屋全体を揺らす様に響く。芹沢宅は木造物件である。その衝撃に耐え切れず壁には大きな穴が開いた。マシューの腕はグラスウールと石膏ボードを打ち抜いて反対側の廊下にまで突き出ていた。勿論、それで攻撃が止む筈も無い。腕を壁から引き抜いた彼はすぐに追撃を放った。

一方で夢見月を追いかける狼男も積極的な攻勢に打って出る。素早く唱えた呪文を発動させて、長さ1メートル、半径50センチ程の大きな氷柱を出現させると打ち出した。外気との気温差に白い煙をゆらゆらと立ち昇らせながら、圧倒的な初速を得て凶器が迫る。

しかし、高々二,三メートルの距離にありながら、花見月は間一髪の所で身体を捻ると、紙一重でそれを避けた。しかし、氷柱と十分に距離を取れなかったことから、衣服とその下にある薄皮一枚が凍り付いてしまった。

「っ!」

花見月が避けた氷柱は移動ベクトルの延長上にあった観葉植物を貫き、瞬く間に凍らせて、次の瞬間には微細な氷片へと散らした。また、それだけで勢いが止まる事もなく、その背後にあった壁に深々と突き刺さった。氷柱はビキビキと音を立てて触れる周囲の壁を凍らせる。先端から半分までは大して厚くない外壁を越えて屋外に突き出していた。

そして、姉妹が敵からの攻撃を避けるに際して生んでしまった隙を突いて、マシューと狼男は二人の進行方向を妨げるように、リビングに設置されたガラス戸の前に立ちふさがる。それはつい先程に狼男が割ったガラス戸である。

「逃げようったって、そうはいかないぜ」

「貴方は酷いことをしますね。他人の痛みを理解出来ないのですか?」

外壁に突き刺さった氷柱を確認して、夢見月が非難の眼差しを向ける。そこには自分のせいで家屋に被害を出してしまった申し訳なさと、それを実際に行なった敵への憤怒が見て取れる。

「分かるからこそやるんじゃないか、何を言ってるいるんだお前は」

「……根っからの外道ですね」

「でなけりゃ、こんなことやってないさ」

交わす言葉も僅か、狼男は夢見月に向かって床を蹴る。隣に立つマシューもまた同様に花見月を目掛けて拳を振るう。姉妹は屋外を目指してそんな二人と正面から対する。兎にも角にも、これ以上の被害を芹沢邸に与える訳にはいかなかった。

しかし、二人の苦戦は誰の目にも明らかであった。

そんな中、山野と柳沢は額に汗を浮べつつ密かに行動を開始していた。

「ちゃんと繋がってるわよね?」

「多分、大丈夫だと思う」

山野はポケットに入った携帯電話を握り、隣に座る相棒の言葉に頷く。

「どれくらい掛かるかしらね」

「もう2,3分経つけど、もう少しかかると思う」

「今日ほど田舎を呪った事は無いわ」

「パトカーが近くを巡察してることを祈る」

「そうね」

二人はコンビニエンスストアから帰ってきた夢見月が語った話の内容から一つの結論を導いた。それは敵が人間の目を気にしているということだった。何故に敵が人目を気にしているのか、詳しい理由は分からない。しかし、彼女は確かに説明していた。自分が人通りの多い道に近づくと敵は追跡を止めたと。それが事実だとすれば、彼女達は現状を打開する方法もあると考えた。それが110番通報という、今の世にあってはあまりにも当たり前な回答であった。

スカートのポケットに入っていた携帯電話を外へ出すこと無く操作した山野は、電話回線を緊急通報として交換機へ繋げる。つい数年前より施行された法令により、携帯電話からの110番は、端末に内蔵されたGPSにより、その位置情報が警察へ送られる事となっている。つまり、後は回線を繋げたまま放っておけば、それを事件事故だと考えた警察側がやって来る筈だった。

「ちょ、ちょっと、凄いピンチよ、あの二人」

「分かってる」

「というか、これは場所を移動した方が良いわ。このままじゃ巻き込まれる」

彼女達から数メートルの距離で、花見月と夢見月はマシューと狼男を相手に苦戦を余儀なくされている。時折飛んでくる粉砕された家屋の破片から身を守る為、椅子から立ち上がった山野と柳沢は、カウンターを迂回してキッチンへと距離を取る。自分達が出張って行っても何の戦力にもならないことは、刻一刻とその身を削らしていく芹沢宅の姿を目の当たりにしていれた十分理解できた。

「ねぇ、このままじゃやられちゃうわよ」

「きっと、負けるのは時間の問題だと思う」

「これって何とかならないの?」

「何とかしたいけど、私達には手が出せない」

「でもあの二人、本当に殺されちゃうわよ」

彼女達の目から見ても姉妹が不利にあることは理解できた。繰り出される敵からの攻撃を二人は毎度毎度ギリギリの所で避けている。時には一撃を身に受けて負傷する事もある。特にマシューを相手にする花見月の苦戦は顕著だった。それが気になって、夢見月も狼男を相手に上手く立ち回れないでいる。陥落するのは時間の問題であった。

「私も電話するわ」

「分かった」

山野に続いて柳沢もまた、スカートのポケットに突っ込んであった携帯電話から110番へ電話をかける。勿論、受話器を耳に当てることは叶わない。後は薄い夏服の生地越しに場の喧騒でも届いてくれたのなら、下手に口頭で説明するよりも、きっと回線の向こう側では良い具合に急いでくれるだろうと前向きに考えておく。

「けど、芹沢君は上手いこと上に行ったわね」

「運が良かった」

「来ても役に立つとは思えないけど、紛いなりにも男なんだから、助けの一つでも寄越したらどうかと思わない?」

「でも、彼が来ても何の意味も無いと思う」

「そりゃそうだけど、自分達だけが渦中に晒されてると思うと、なんだか腹が立つわ」

「そう?」

「相手が彼だから、かしらね」

手近にあった鍋やフライパンを頭に被り、二人はキッチンカウンターを盾にしゃがみ込む。時折飛んでくる大小さまざまな家財、住宅の破片が、対面にある食器棚のガラスに当たっては、そこに並べられた陶磁器を喧しい音と共に床へ落としていく。そのうち幾つかはカンカンと乾いた音を立てて彼女達の被る調理器具を叩いた。その衝撃に身体を小さく震わせながら、二人は恐る恐る争いの場へと目を向ける。

「早く来てくれないと本当に負けちゃうわよ」

「今は待つしかない」

壁や家具を粉砕しながら、徐々にフロアの間取りを変えていく姉妹と敵の戦いを二人は祈るような眼差しで見つめた。リビングの面積が周囲の廊下を巻き込んで徐々に拡大していく様子は、まるで住宅の解体工事でも行なっているかの如くだ。山野と柳沢の思惑など露知らず、争いは徐々に激化の一途を辿っていった。

狼男は己の有利を確信しながらも、夢見月に決定打を与える事が出来ないでいた。ダイニングとリビングは合わせて15畳程度の広さを持つ。加えてキッチンが5畳あるので、普通に生活する分には十分な広さだろう。しかし、大人二人の子供二人が飛んだり跳ねたりしながら喧嘩をするには狭い。背の高い彼は長い手足を窮屈そうに振るいながら、回避運動を続ける相手に迫る。対する夢見月は、もちろん善戦している訳ではないが、過去の二度の経験により、徐々に自分が戦い慣れし始めていることを感じていた。花見月という気懸かりは有るものの、狭い空間と小さな体躯が都合良く働き、狐火を使わずとも逃げを選んでいる分には、まだ持ちそうであった。

一方で花見月はマシューを前にかなり苦戦していた。既に身体には大きいものから小さいものまで多くの打ち傷や切り傷を負っており、肩を大きく上下させて息をしている。満身創痍を絵に描いた様な姿だった。対するマシューが無傷で平然としていることを考慮すれば、その能力差はかなりのものである。

とはいえ、狼男よりも強力な化け物であると豪語していた割には、花見月が存外一人で渡り合えている事を夢見月や花見月自身も意外に感じていた。当初は初手、次手さえ危ういと考えていた程である。

「えらそうなこと言ってた割には大したこと無いなっ!」

それでも勝機は薄いが、己を奮い立たせる為なのか、それとも妹に心配を掛けない為なのか、花見月は迫る敵の蹴りを飛んで交わしつつ声も大きく叫んでみせる。マシューの履く良く磨かれた革靴の踵が彼女の膝を薄き裂き、噴出した多少の鮮血がピシャリと床を赤く染めた。

「まあ、そう言わないで下さい。一応、これでも不死者なんですから」

「ふ、不死者だとっ!?」

「ええ、そういえば言っておりませんでしたね」

マシューの言葉を受けて、花見月は反射的に驚きの声を上げていた。また、彼女だけでなく、その隣で狼男と向き合う夢見月までもが目を見開き、肩をビクリと震わせた。狼男は元より理解していたので、何の反応も返す事無く、攻めの手を緩める事も無い。

「私は所謂リッチという奴ですよ。元は自由意志さえなく、術者に操られるに過ぎないゾンビでした。それを今の主様が拾って下さり、ここまで身体を蘇生させ、自我を得るに至ったのです」

不死者とは読んで字の如く不老不死である化け物の総称だ。世に数多存在する化け物を分類する為の言葉でもある。

不死者と呼ばれる化け物は一般的に首を切り落とされても、心臓を潰されても、全身を灰にされても死ぬ事は無い。個体差はあるものの、基本的に条件が整ったのなら、あとは時間さえ掛ければ元あった通りに自然と肉体は治癒される。また、多細胞生物に見られる寿命といった概念も存在しない。つまり、それは物理的な干渉に対して一切の影響を受けないということである。

「とはいえ、こうして完全な肉体を得るに至ったのも、つい最近になってからのことですがね。それまでは不完全な腐敗した肉体を引きずりながら、服もまともに着れない有様でしたよ」

不死者を打倒するには、地域によって呼称は様々だが、魔力や神通力、妖力と呼ばれる類の力が必要だ。世にある生き物は多かれ少なかれ、そういった力を持っている。しかし、不死者は非不死者と比較して特に強い力を持っている場合が多い。秘めたる力が勝っているならば、非不死者が不死者を殴りつけて殺す事も可能である。しかし、そうでないのならば不死者に物理的な損傷は意味が無いので、幾ら攻めた所で永遠に打倒する事は叶わない。

「なんで、そんな化け物が私を狙うんだよっ!」

「全ては我が主様が望んだからです」

不死者として最も有名で最も高位な化け物は吸血鬼である。リッチはそれに次いで位の高い化け物だろう。彼等は非常に強力な化け物である。絶対数が少ないので滅多な事では遭遇しない。もし出会ったとしても、それ相応の準備や覚悟が無い限り、喧嘩を売るのは避けるべきだ、というのが化け物の世界での常識である。ゾンビやグール、スケルトンといった化け物もまた不死者ではある。けれど、不死者としての位は非常に低く、化け物全体からしても能力は然して高くない。そして、自由意志を持たず、他者に操られている場合が殆どである。加えて、大抵は肉体の蘇生に強力な規制があり、一人では満足に復帰させることも不可能である。よって、そういった位の低い不死者は、通常は不死者として扱われることも無い。不死者という呼び名は、一般的に自意識のある高位の不死者に対して用いられる。

花見月や夢見月がそうである化け狐、二人を襲った狼男は共に非不死者である。狼男がマシューに劣る理由の一つには、重ねてきた時間の他に、彼が不死者であるという大きな要因があった。

人間は化け物と比較して極めて小さな力しか持つことが出来ない。非不死者や低位の不死者を相手にするならば、重火器等の武装により対処する事も可能である。大型の火器を用いれば強力な非不死者である化け物を数で圧倒することも出来る。しかし、高位の不死者が相手では、仮に一対千の抗争であっても勝機は無い。出来て足止めが関の山だろう。

「お二人の歳を知りたいのですが、如何ほどになりますか?」

「そんなことを聞いてどうるすんだよっ!?」

「いえ、別に変なことは考えていませんよ。今後の参考にさせて頂こうかと」

「何の参考にするつもりだよっ!」

「尻尾六本の方を相手にするのは今回が始めての事ですから、勉強しておこうかと思いましてね。ちなみに私は生まれて六百と数十年程度でしょうか。不死者としてはまだまだ駆け出しです」

わざわざ相手に有益な情報を与えてやる事も無い。ご丁寧にも自らの歳を口にしたマシューに花見月は頑として口を閉ざす。花見月と夢見月は同じ年に生まれ、そろそろ七百近い。だが、流石に相手が不死者であると、数十年程度の差では優位を保てなかった。夢見月と組んで二対一ならば、何とかならないことも無いだろう。しかし、今は狼男が居るのでそれも叶わない。

「……駄目ですか」

「当然だっ!!」

残念そうに眉を傾げて見せるマシューに花見月は吼えて答える。

「まあ、尻尾が六本ということで、大よそは六百から八百程度だとは見積もれます。今回はそれで良しとしましょう」

激しく動き回った事で乱れてしまったシャツとネクタイを正して、マシューは正面に花見月を捉える。そこから数メートルと離れていない辺りでは、忙しなく衝突を繰り返す夢見月と狼男が居た。マシューは姉妹の片割れを相手に奮闘する相棒をチラリと一瞥して言葉を続ける。

「さて、では勉強もそろそろ切り上げて、仕事を終わらせるとしましょう」

身を硬くした花見月に敵が駆け迫る。

「っ!?」

繰り出された拳は先程までとは比較にならない程の速さを持っていた。

「な、なんだよお前……」

紙一重で交わすことが出来たのは偶然に因る所が大きい。頬を掠った一撃は彼女の皮膚に一筋の切り傷をつけていた。避けた皮膚の間から溢れ出した血液が垂れて首筋を伝い、白地のTシャツの襟首を赤く汚した。

「避けましたか。今ので終わらせるつもりだったんですがね」

「ちくしょうっ!」

今まで自分が試されていた事を知って、そして、この敵には絶対に叶わないのだと理解して、花見月は唇を強く噛んだ。ジワリジワリと口の中に広がる鉄の味が、とても憎たらしく思えた。

そんな時だ、屋外より響くサイレンが徐々に近づいてきたのは。

当初は自分達に何の関係も無い音だと、山野と柳沢を除く四人は考えていた。それを気にした風も無く、これまでと同様に物騒な喧嘩を続けていた。しかし、耳に届く音が段々と大きくなっていくにつれて、彼等彼女等もまた、その目的地が何処にあるかを理解した。狼男とマシューは勿論のこと、花見月と夢見月も己の耳に届く甲高い音には聞き覚えがあった。

「警察……、ですか?」

狼男からの一撃を往なしながら夢見月が小さく呟く。

音量はある一定の大きさまで上がると、そこで固定された。割れた窓ガラスからは車の排気音が聞こえてくる。どうやら隣接する車道にパトカーが横付けされた様であった。サイレンの音は駆けつけた車両が複数台あることを示唆している。

そして、止められた車の中からは、間髪置かずに武装した制服姿の警察官が降りて来た。リビングの窓は車道とは反対側にあるので、皆がその姿を確認することは叶わない。しかし、結構な人数が地を蹴る足音が聞こえてきた。

「おい、どうするんだよっ!」

動きを止めた狼男がマシューに視線を向ける。

「田舎だと侮って昼から騒ぎすぎましたね」

狼男からの指摘に注意が逸れたことで間一髪、僅かに生じた隙を突いて事無きを得た花見月は、大きく後ろへ跳躍してマシューから距離を取る。

「結構な数が来てるぞ」

自慢の耳を活用して家の周囲の様子を探った狼男が手短に報告した。

「後々の交渉を考えると、ここで人間側に借りを作るのは面倒ですね」

「だったら初めから全部を奪っちまえばいいだろうが」

「それをしたら意味が無いのですよ。生かさず殺さず、そして知らさずに搾取しているからこそ、こうして我々は甘い蜜を吸う事が出来るのです。それに、我々が下手に手を出せば、それだけで文化が止まってしまいかねない」

「ったく、面倒なことだな」

「そういった例は過去に何度もありましたからね。人間社会の衰退は、我が主の望むところではありません」

「何か喋れば、二言目には主様、主様、あぁ主様」

「私の全ては主様の為にあるのですから当然です。ですが、この件に関しては、私の主様以外の多くの領主達も同意見です。なので下手に手を打てば、そちら側からも大なり小なり苦情が来るでしょう」

攻めの手を止めた二人に姉妹は訝しげな表情を浮べる。

「ということで、これ以上の事務処理は面倒ですから、ここは一度引くとしましょう」

「ああ、分かったよ」

上司の指示に従い、夢見月に背を向けた狼男は既に窓枠さえ残していない完全に粉砕されたリビングのガラス戸より屋外へ出た。芹沢宅のリビングは木崎湖に面している。彼は庭を抜けて沿岸を小走りに駆け去って行った。

その後を追うマシューが敷居を跨ぐ前に一度だけ背後を振り返る。

「ということで、また後ほど参りますので宜しくお願いします」

後に残ったのは、見事なまでに蹂躙された芹沢家の無残な姿だった。

「で、こうなったと」

武人は目の前に広がる光景に大きな溜息をついた。

花見月と夢見月が敵と争った結果、戦場となった芹沢宅のリビング及びダイニングは壊滅的な被害を被る事となった。原型を留める家具は一つも無く、床は至る所に穴が開き、壁は尽く崩されて隣接する廊下と空間を同じくしていた。舞い上がった砂埃や、飛び散った小さな家屋の破片が随所に積もり、下履きを履かずに立ち入ることへ抵抗さえ感じる程である。

「申し訳ありません」

「ごめん、武人」

二階から降りてきた武人を含めて、一同は荒れ果てた空間を顔を向き合わせていた。110番通報を受けて駆け付けて来た警察官は、夢見月の幻惑により強制的に追い返した。緊急回線を利用した事で、警察側に通報の記録が残ってしまうことは武人に取って大きな心残りであった。だが、それも自分の携帯電話からの通報ではないので良しとした。警察官を相手に事情を説明するよりは、その方が断然に面倒が無いと判断したのだ。そして、今はこうして被害状況の確認と、今後の予定に頭を悩めている次第である。

「別に君達が悪い訳じゃないから、それで責めることはしないけど……」

今日からどうやって生活しよう、父親に何と言って説明しよう、というのが今ある大きな問題であった。特に前者は精神的にも金銭的にも非常に切実な問題である。リフォームするにしても、かなりの時間と費用が掛かることだろう。修繕の規模によっては家屋全体が使えなくなる場合も考えられる。

「しかし、私達に原因があったのは確かです」

「だからって、それを言い出したらきりが無いだろ? 前にも言ったと思うけどさ」

「………ですが」

「何はともあれ、君達が無事で良かったよ」

まさか、この期に及んで家を弁償しろだの、元通り直せだのと喚く訳にはいかない。全てを諦めた武人は、一切合財の追求を止めた。これは数週間前に経験した出来事から来る対応でもあった。犬に噛まれたと思って、若しくは震災にでも遭遇したと思って諦めるしかないのだ。世の中とは理不尽なものである。

「そうよ、何事も命あっての物種なんだし、それに比べれば家の一軒や二軒なんて大したものじゃないわ」

そんな彼の心労を気にした風も無く、所詮は他人事だと割り切った柳沢が姉妹を前に満足気に頷いた。物損より人命を優先するのは当然である。言っている事も正しい。だが、少しは慰めてくれても良いじゃないか、というのが第三者に対する武人の心境だった。

はぁ、と誰にも知られない様に小さく溜息をついて彼は言葉を続ける。

「今はそれよりもこの後をどうするかを考えるべきじゃない? あまり時間を置くと、また、さっきみたいに敵が襲ってくるかもしれないじゃないか。そうしたら被害は更に増す訳でさ」

「出来るだけ早く逃げたほうがいい」

武人の言葉に山野も頷く。

「それはそうですが……」

「問題は、逃げるにしても何処へ逃げるかだね」

しゅんと肩を落として所在無さ気にしている姉妹を引っ張って、武人は無理矢理にでも会話を進める。警察を追い払ってしまったのだから、今すぐにでも敵が攻めて来る可能性だって有り得るのだ。ゆっくりしている暇は無かった。

「君達としては不本意だろうけど、ここは繁華街へ向かったほうが良さそうだね」

「敵は騒ぎが大きくなる事を恐れてる」

「やはり人里ですか……」

武人達の言葉を受けて、夢見月の顔には影が落ちた。こんな状況でも人間社会に紛れる事へ抵抗を持つあたり、彼女の人間嫌いは相当なものだと考えられる。とはいえ他に手は無いのだから仕方が無い。

「でも、繁華街へ逃げるのはいいけど、それにしたって限度があるんじゃない? まさか何週間も街中をふらついてる訳にもいかないでしょ? それで敵が諦める保障だって無いんだし」

「それに、この辺りだと繁華街とは言っても時間に因っては凄い閑散としてる」

「となると、やっぱり都市部へ出るしか無いか」

「長期的に考えるならそうなるわね」

「そのまま人混みに紛れて逃げることも出来るし、それが一番無難だと思う」

当事者である姉妹を置いて、人間三人の話し合いは駆け足で進んでいく。先程の光景を目の当たりにして、自分達もまた大なり小なり危機感を持っている様子だった。特に武人は、これ以上自宅が被害を被るのだけは阻止したいという強い思いがある。

「まあ何にせよ、今は次の来襲に備えて場所を移すべきだね」

「そういうことね」

「電車で松本辺りまで出るのが良いと思う」

そういう訳で結論は早々に得られた。

ただ一つ問題があるとすれば、今後の自分達の身の振り方だ。

勿論、武人は双子に付き合って街へ出る気は無かった。次に敵に襲われたとき、また運良く騒動から逃れられるとは限らない。これ以上、危険な目に合うのは御免だった。それに、下手に行動を共にしては逆に彼女達の足を引っ張りかねない。

しかし、そんな彼の思いなど知った風も無く山野は姉妹に言葉を続けた。

「善は急げと言うし、すぐにでも出たほうがいい」

リビングから踵を返し、崩れた壁の残骸を跨いで玄関へ向かおうとする。

「ちょ、ちょっと君っ! 君も一緒に行くつもり!?」

「駄目なの?」

声の主へ振り返った山野は、一体何を言っているの? とでも言いたげな瞳で見つめ返してくる。

「いや、別に……、それは僕が決めることじゃないけどさ……」

「いいえ、駄目に決まってるじゃないっ!」

彼女の言葉に反発したのは柳沢だ。

「貴方が付いて行って何の役に立つのよ? ただ危険な目に遭うだけに決まってるわ」

声を大きくして否定するのは友人を思っての事だろう。武人に対するものとは異なる非常に真剣な表情だった。二人の付き合いは高校入学以来、今現在で一年と数ヶ月程度であると聞き及んでいた。これは決して長いとは言えない期間である。何か二人の間には代え難い絆でもあるのだろうか。口に出せない疑問に武人は頭を傾げる。

「もしかしたら何か役に立てるかもしれない」

「また襲われるかもしれないのよ? 前にも怖い目に遭ってるのに、なんで分からないの?」

「それ以上に興味があるから」

「幾ら興味があったって、死んじゃったらそれまでじゃない」

「けど、この機会だって今後一生来ないかもしれない」

当の本人達を無視して、話は横道へ逸れながら勝手に進んでいく。

その軌道に待ったをかけるべく武人が口を開こうとした。彼としては何よりも早く一同を自宅から追い出したいという気持ちで一杯だった。しかし、それよりも早く制止の声を入れたのが花見月だった。

「あ、あのさ……」

言い合うように向き合った山野と柳沢、それに武人へ向けて言葉を続ける。

「お前等が一緒に来いくって言ってくれるのは嬉しいけど、でも、これ以上迷惑は掛けられない。だから、これからはアタシ達だけでいいよ。色々と面倒みてくれて、ありがとうな」

「短い間でしたが、本当にありがとう御座いました」

隣に立つ夢見月も静々と頭を下げる。

「これからの事は夢見月と二人で考える。だから、お前等とはこれでお別れだ」

「勝手にやって来て、迷惑ばかりかけて本当に申し訳ありませんでした」

二人も山野の野次馬根性には一目置いているのだろう。有無を言わせぬ口調で謝罪と感謝の言葉を述べて玄関へ向かおうとする。勿論それは相手の身を案じての事だ。これ以上係わり合いを持てば、間違いなく三人には不幸が訪れると姉妹は理解している。

「あ、私も……」

その後を追おうとする山野の肩を柳沢が強引に掴んだ。

「正直な話、山野が行っても二人にしてみれば迷惑なだけだと思うわ」

「………」

二人は友人という間柄にあるが、傍でその様子を眺める武人には一触即発な雰囲気が感じられた。まさか喧嘩を始めるとは思わない。しかし、二人の関係を知らない者にとっては居心地の悪い空気である。

「別に僕は君が行こうか行くまいが知ったことじゃないけど、柳沢さんの行ってる事は正しいと思うよ。君が行った所で何かが変わる訳も無いし、逆に足を引っ張るのがオチだと思うね」

だから、適当な所で武人も口を挟んでおく。

こうまで言われれば山野としても大人しく黙るしかなかった。ギュッと拳を握りながらも返す言葉は無い。沈黙を肯定と受け取ったのだろう。それで柳沢も肩を握る手の力を緩めた。

「それでは、今までどうも有り難う御座いました」

「三人とも、またな」

そんな二人のやり取りを目の当たりにして、姉妹もまた、これ以上自分達が長居するのは良くないと判断したのだろう。名残惜しくも短く別れの言葉を口にすると、三人に背を向けて駆け足で玄関へと消えて行った。

後に残ったのは、妙に風通しの良くなったリビングへ届く、喧しい程の蝉の鳴き声だけである。エアコンの効能は遥か昔に薄れ消えて、そこに立つ各人の額には粒と浮かんだ汗が見て取れた。時刻的にも今が一番暑い頃合だろう。

「それで、僕はこれからどうすればいいのかな?」

二人を見送った武人は再び荒廃したリビングへと目を向ける。

「掃除でもすれば?」

「………………」

冷たい柳沢の言葉は武人の心を深く抉った。

「なぁ、夢見月……」

花見月と夢見月は木崎湖の沿岸に沿って敷設された、車一台通るのが精々の細い県道を歩いていた。その道中にあって、花見月は隣を行く夢見月におずおずと語りかける。二人は向かう先を決めぬまま、何一つ当ても無く道を進んでいた。芹沢宅を後にしてから、それほど距離は歩いていない。

「なんですか?」

「これから、どうするんだ?」

問うてくる花見月の表情は憂鬱の陰りが見て取れた。双子の夢見月には、その心境が良く理解できる。自分達が原因で武人に大きな面倒を掛けてしまった事を申し訳なく思っているのだろう。同時に、生まれて初めて出来た人間の友人との別れを惜しんでいるに違いない。

「花見月はどうしたいですか?」

姉からの問いに、夢見月は具体的な返答を用意出来なかった。

「アタシは逃げるしか無いと思う。新しくやって来た奴は本当に強かった。多分、夢見月と二人で挑んでも勝てるかどうか怪しい。さっきみたいに狼男と一緒に襲われたら、次は無いと思うから」

「私もそれに同意です」

「けど、何処まで逃げればいいのか分からない」

「やはり武人さん達が仰っていたように都市部の人混みへ紛れるべきでしょうか」

この選択には自分のみならず姉の命も掛かっている。そう考えると夢見月も背に腹は代えられなかった。前回、狼男に狙われていた時には、まだ二人で向かえば対処できるという余裕があった。しかし、今は幾ら前向きに考えた所で全滅の憂き目しか思い浮かばない。穏やかな生活を望み、化け物として他者と争う事を嫌った自分達が、それ故に危機へと陥っている。その理不尽な運命に嘆きたくなる思いを、姉妹は互いを前にして喉元まで出掛かった所で我慢する。

「じゃあ、もうあの家からも出なくちゃならないのか」

「そういうことになりますね」

照り付ける真夏の太陽の下、二人は田舎道をトボトボと進む。

北アルプスの麓に居を構えて早数十年が経っただろうか。まだ今ほど人間の手が及ばぬ頃より住んでいた二人としては、そこに積もった思い出でも一塩である。住み慣れた住居ほど心の落ち着くところは無い。それが愛すべき者と過ごした空間なら尚更だ。出来る事なら避けて通りたい選択であった。しかし、何事も命あっての物種である。

「次は何処へ行く?」

「逃げるならば出来る限り人が多い場所が良いでしょう」

答える夢見月は花見月の視線を受けながら一頻り思考を巡らせる。

「そうですね、ここはひとつ多少の遠出をして、東京へ向かってみるのも良いかも知れません。木を隠すなら森へ隠せとは良く言った言葉ですし、ならば森の樹木は多い方が良いでしょうから」

「東京って、武人が前に住んでたって言ってた所だよな?」

「ええ、たしかそう仰っていましたね」

「そうか、それなら楽しみだな」

「花見月の知見を広めるにしても良い機会だと思います」

「昨日の約束、ちゃんと覚えていてくれたんだな」

「花見月との約束なのですから当然です」

後ろ向きにばかり考えていては気分まで滅入ってしまう。何事も出来る限り前向きに、二人は会話にも意識して明るい声を出してみせる。例え今はそれが虚勢であったとしても、自然とそれが普通になれば、その頃には嫌な思い出も笑い飛ばせる程度には忘れているだろう。

「私も東京程の都市部へ出るのは初めですから、一緒に人間社会を見て回りましょう」

「おうっ!」

夢見月の提案に花見月は大きく笑顔で頷いて見せた。

仰ぐ天上には雲ひとつ無く群青が延々と広がっている。

雲が空に占める割合が1割未満である場合、その天候を快晴と言う。今日も昨晩に続き、誰が見ても文句の無い快晴であった。気温も摂氏三十度を越えて、日の下に立っているだけで、Tシャツの襟にはじんわりと汗が滲み込んでくる。良く晴れた日本晴れであった。こうして天気が良いのが、陰鬱な門出に対するせめてもの救いだろうか。二人は旅立ちの荷物を纏めるべく山中にある住処へと足を進める。

しかし、その決意も僅か間を置く事無く崩れる事となる。

県道を進み左手に古ぼけた神社の鳥居が見え始めた頃だろうか。緩い曲がり道を過ぎた彼女達の前に、立ちはだかる二つの人影があった。その姿は見間違う筈も無い。つい先程別れたばかりの相手である。

「おやおや、このような所で出会うとは奇遇ですね」

猫の様に細められた男の瞳が姉妹を捉える。

「なっ!?」

「お、お前達っ!!」

予期せぬ出来事に夢見月と花見月の歩みがピタリと止まる。

姉妹の行く手を阻んで立つ二人、うち一人はマシューである。その姿はつい十数分前に出会った時から全く変化していない。夏の日差しの下にありながら、僅かな乱れなく着こなされたスーツ姿は見ている方が暑くなりそうだ。一方で、彼の隣には見たことの無い人間の姿をした誰かが立っていた。日本にありながら黄色人種にはありえない白い肌と、短く借り上げた茶色の髪の毛が特徴的な男性だ。中々にハンサムな男で、年の頃は二十代前半と言った所か。黒色のタンクトップに濃い青色のジーンズ、スニーカーというシンプルな出で立ちをしている。身の丈は190センチ程だろうか。

その者は外見こそ大きく変化しているが、全身より滲み出る雰囲気は間違いない。今までは全身を深い灰色の毛に覆われていた狼男が人間に化けた姿だろう。花見月と夢見月は即座にそう理解した。

「しかし、こうも予想通りに動いてくれると仕事が楽で助かるね」

狼狽する姉妹をフッっと鼻で笑って、茶髪の男、ジェームズ・ハンセンは口元を小さく歪めた。語る声色は獣の姿をしていたときから若干の変化を伴っていた。しかし、口調は紛う事無く狼男のそれである。

「お前等、帰ったんじゃなかったのかよっ!」

「なんで何の成果も上げないまま帰らにゃならないんだ? 折角、こんな人気も少ない田舎に居るんだから、お前等が二人になるのを待っていたに決まってるだろうが」

「あの後、警察に囲われたまま逃げ出されたのなら厄介でした。ですが、ジェームズの勘は見事に的中したようですね。貴方達は人間に頼るのを避けて、こうして二人だけで行動している」

「……まんまと謀られました」

敵の言葉を耳にして、夢見月は悔しそうに歯を噛み締める。

「一度身を退いたのだって窮屈な屋内からこうして外へ場所を移す為に決まってるだろ? 勿論、コイツが言ったとおり人間が大勢でやって来たって言うのも理由の一つではあるがな」

ぞんざいな態度で言い放ち、ジェームズは顎で隣に立つ相棒を示してみせる。

「何はともあれ、想定どおり事が運んでくれて幸いでした」

そんな彼の言葉をマシューは朗らかに肯定して頷いた。

炉端に茂る樹木に集った蝉達の大合唱が聞こえてくる。本来ならば鼓膜を痛いほど振るわせるその音が、しかし、今は遥か遠く聴こえる程に花見月と夢見月は緊張していた。絶対に敵わない相手を前にして、背筋には冷汗さえ伝う。

「さて、それではさっさと仕事を終えるとしましょう」

「覚悟しろよな?」

容赦ない宣告に姉妹の身体は自然と硬くなる。しかし、幾ら敵わないと分かっていても素直に殺される訳にはいかない。いつ迫ってくるとも知れぬ敵を前に、花見月と夢見月は油断無く小さな体を身構える。

ふっと吹いた風に木の葉が一枚、対立する両者の間で宙を待った。それは生暖かい南風を受けてひらりひらりと無秩序に軌道を描く。そして、アスファルトに舗装された道の真ん中に音も無くフワリと落ちた。

先程の小競り合いから僅か、続く合戦の火蓋が切って落とされた。

「いい加減にくたばれやっ!」

誰よりも早く駆け出したジェームズが狙うのは、やはり夢見月だった。

「くっ……」

ただ背の低い夢見月の肩の高さまで己の姿勢を落として駆け寄ってくる。

獣の姿をしていないのは人目につくのを恐れてのことだろう。とはいえ、駆け出すと同時に両手首より先の部位は、全身に毛皮を纏っていた時と同様の状態に変化していた。大振りのナイフの様な鋭い爪が、相手の首を掻き切らんと音を立てて迫る。

「誰が大人しく死に絶えましょうかっ!」

屋外へ出たことで狐火が使えるようになった。対する夢見月は遠慮無く、己を囲うように大量の狐火を灯らせる。轟々と音を立てて直径五十センチ程度の火球が十数個だけ虚空に出現した。それらは現れてすぐに、迫るジェームズへ向けて放たれる。

一方でジェームズに遅れること数瞬の後に、マシューもまた花見月に向けて駆け出した。此方は彼よりも一段と迫る速度が速い。相手の足が動き出したのに合わせて、他に何をするでもなく反射的に背後へ飛び退いた花見月は、いつの間にか接近していた拳を間一髪の所で避けることが出来た。その急な挙動に付いて来れなかった長い銀髪の小さな一房が、音も無く分断され宙をサラサラと舞う。

「ちくしょうっ!」

その一手を前にして、彼女は自分が攻めに転じられるだけの余裕を持てないのだと理解する。逃げることへ全身全霊を傾けて今の程度だ。これから数限りなく向けられるであろう拳、その全てを避ける為の体力と精神力を想像して、彼女は脳裏に薄ら寒いものを感じざるを得なかった。

「絶対に、絶対に負けないからなっ!」

呟いて花見月もまた己の周りに狐火を灯す。

「まあ、せいぜい足掻いてください」

そんな彼女にマシューは涼しげに答えて走る。

「争いに快楽を見出す彼とは違いますが、度重なる事務処理の鬱憤を晴らすには、こうして体を動かすのが一番良いでしょうからね」

彼の顔には朗らかな笑みが浮べられていた。

「ストレスはまめに発散させることが大切なのです」

「うるさいっ!」

今は妹が狼男を打倒することを信じて、それまでの時間を稼ぐことに全力を尽くすのみである。一対一では危ういが一対二ならば戦況は分からない。決意に金色の瞳を力強く光らせる花見月は、攻めの手を休める事無く迫るマシューに向けて、出現させた狐火の全てを一斉に打ち出した。

人知を超えた化け物のぶつかり合いは非常に激しいものとなる。人間同士の喧嘩などこれと比較すれば霞んで見えるだろう。互いに拳を振い合うだけではない。姉妹の打ち出す狐火を筆頭とした妖術が、ジェームズやマシューが放つ様々な魔法が、激しい物音を立てて周囲の環境を著しく破壊しては戦況に熱を注いだ。継ぎ接ぎだらけの彼方此方から雑草を茂らせるアスファルトは、至る所が砕けてその下にあった地肌を顕としている。街路樹と称するにはおこがましい乱雑に生える炉端の樹木群は、飛来する術の巻き添えを喰らって燃え上がり凍りつき原型を失いつつある。

それでも人が集まる事無く過ぎているのは、周囲に数えるほどしか民家が存在せず、また、今が平日の昼間という時間帯だからだろう。時間が経てばその限りではないが、少なくとも今はまだ誰かが駆けつけて来る様子も感じられない。

本来ならば人間の目に触れることは避けるべき姉妹だが、今に限っては人目が少ないことが大きくマイナスに働いた。お陰で敵は遠慮なく二人を攻め立ててくる。人が来たら目を付けられる前に逃げればいい、そう考えているのだろう。夢見月だけならばジェームズを連れながら人里まで場所を移すことも可能だ。しかし、マシューと対する花見月を考えると、それは選択肢から外れた。姉にはそれだけの余裕も無かった。

ただ、夢見月や花見月もここ数週間の経験から、多少なりとも戦いに慣れを感じ初めていた。当然それは同様の場数を重ねた相手にも言えることだ。しかし、同じ慣れでも長きに渡って他者と争う事のなかった夢見月と、日頃から鉄火場に慣れ親しんだ敵とでは一度に得られる変化の度合いが異なっていた。

結果として、出会って当初から苦戦続きの姉妹だが、こと狼男を相手にしてならば、それ相応に対処が出来るまで成長していた。勿論、容易に妥当することは難しい。それどころか僅かでも隙を見せれば瞬く間に殺されてしまうだろう。だが、花見月がそうであるように多少の希望を持つことは出来た。

「ったく、手を焼かせるんじゃねぇよっ!」

止め処無く狐火を放ち続ける夢見月に苛立ちを込めてジェームズが吼える。

「望むならば以前のように、手だけに限らず全身を焼いてあげます」

全ての火球を打ち尽くした夢見月は、間髪置かず即座に次の一団を生み出す。放たれた狐火を避けきったジェームズは間合いを詰めるべく足を動かす。

「ふん、望む所だくそったれっ!」

それは争いが始まってから幾度と無く繰り返されたやり取りだった。

互いに体力や精神力は消耗しても、未だに互いの肉体へ損傷を与えるには至っていない。実戦経験から来る差は大きいが、夢見月が守りに入る分には、二人の攻守は均衡していると言えた。彼女の守りはジェームズが想像していたより思いのほか固かった。

一方で花見月は多大なる苦労を強いられていた。

マシューは芹沢宅での様に手を抜く事をしなかった。初っ端から、獅子は兎を狩るのにも全力を尽くす、という諺を体言して花見月へと襲い掛かった。それを無傷で往なせる筈も無い。彼女の全身には大小無数の擦り傷や切り傷が刻まれていた。身に着けたTシャツや半ズボンは至る所が裂かれ、雪のように白く滑らかな肌には朱色の線が幾重にも走っている。

しかし、それでも彼女は諦めていなかった。

「こ、これくらいじゃ、アタシは倒せないぞっ!」

十字に重ねた両腕で拳を受けた花見月は、衝撃に耐え切れずに肉体を大きく後退させる。しかし、それでいて尚も彼女は気丈にも強がりを見せる。すぐ近くで妹が戦っていることを考えると、自分が先に折れる訳にはいかなかった。己が負ければ夢見月は狼男とマシューの二人を同時に相手にすることになる。それだけは絶対に駄目だ、というのが彼女の想いだった。

「先程までは他所の家ということで、多少の遠慮があった様ですね」

「お前等みたいに人の物を平気で壊せる奴等が、アタシは大嫌いだ」

「そうですか、嫌いですか」

「あたりまえだっ!」

眉を釣り上げて花見月は叫ぶ。

「貴方は生きて来た年月に比較して、随分と感情の起伏に富んだ性格をしていますね」

「悪いかよっ!」

「いいえ、滅相も無い。私としては羨ましい限りですよ。歳を経た化け物というのは往々にして感情が欠如しがちですからね。私もご他聞に洩れず、年々変化していく自分の内面に戸惑うことがあります」

「それはお前が他人に酷い事ばかりしてるからだろっ! 自業自得だっ!!」

「ああ、確かに。それは有り得るかもしれませんね」

「だったら止めろよっ!」

「いえ、全ては我が主様の命ですから、私の一存で止める訳にはいかないのですよ」

右手の平を胸の高さにまで上げて、マシューは何やらブツブツと呟き始める。それが魔法を行使する為の呪文だと理解して、花見月は慌てて後方へ飛び退き距離を取る。同時に彼女もまた敵からの一撃に対抗すべく術を練り始める。

詠唱を終えたマシューの右手の平の上には煌々と蒼く輝く光の玉が浮かび上がった。大きさはバレーボール程度だろうか。強烈な冷気を放つそれは、高温多湿の外気と反応して周囲に大量の霧を発生させている。彼はそれを何気ない動作で花見月に目掛け投げつけた。ふんわりと宙を移る光球は、手を離れてから間もなく空中で移動を止めると、その表面より無数の蔓の様なものを生えさせた。一本の太さは成人男性の親指程度である。色は球体と同じく透明がかった蒼色だ。そして、それらは凄まじい勢いで己を伸ばし、花見月へと襲い掛かった。

「っ!?」

幾十本にも及ぶ狐火を討ちつくして無防備になった花見月へ氷の触手が迫る。しかし、彼女はその奇抜な一手を前にしても物怖じしなかった。敵が攻めに入ったのと同時に用意した対抗策を発現させる。

「それくらいでっ、アタシが倒せると思うなよっ!」

目前まで差し迫った触手を前に、夢見月は大きく片腕を振う。すると、彼女の立つ位置から一歩前に出た辺りより、轟々と音を立てて激しい火柱が数本立ち上がった。縦横1メートル、高さ3メートルの大きさを持つ、火柱と言うよりは火壁と称すべき巨大な炎の盾である。

マシューが放った氷の蔦は花見月が作り出した火壁に捕らわれ、対象まで後一歩というところで全てが蒸発した。その際に発生した大量の水蒸気が急激な温度変化を受けて爆発を起こす。耳が痛くなるほどの発破音が鼓膜を強く揺さぶった。強烈な爆風に煽られて、周囲に生える樹木の葉がカサカサと音を立てて宙を舞う。

「ほぉ、これはなかなか……」

花見月の耳に、背後からマシューの声が届いた。

「なっ!?」

慌てて振り返ると、そこには大きく拳を振り上げて迫る敵の姿があった。

腹部を狙う一撃を前に、横へ飛び退いて回避しようと試みる。しかし、そんな彼女の足を、火壁を迂回して対象まで辿り着いた氷の蔦の一本が絡め取った。予期せぬ力の反発を受けて、バランスを崩した花見月は満足に受身も取れないまま身体を地に倒してゆく。そこへ敵の拳が見事なまでに打ち付けられた。

「っ!?」

大きく開いた口から胃液が飛び散った。

彼女の背後で音を立てて燃えていた火柱群が、まるで自転車のタイヤへ針を突き立てたかの如く急激に萎んでいく。地に背をつけて花見月の身体はピクリピクリと痙攣を繰り返す。今の一撃はかなり深いところまで達して、内臓器に大きな損傷を与えたようであった。

「これで終わりですかね」

仰向けに倒れ伏した花見月を上から見下ろして、マシューは淡々と呟く。

衝撃からやや遅れて、花見月の口からはごふっと赤いものが溢れ出した。

「くっ……、ぅう………」

敵の言葉に危機を感じて、呻く花見月は痛む身体に鞭打つと、敵から距離を取るべく何とか上半身だけでも起こす。しかし、腹部に受けた被害は甚大で、痛みを堪えながらでは思うように肉体も動かなかった。そして何よりも、彼女の右足には氷の蔦が巻き付いたままである。気づけば足首はその周囲を完全に氷で覆われていた。これでは満足に身動き取る事さえ出来ない。

「は、花見月っ!?」

姉の危機を理解して夢見月が悲鳴に近い叫び声を上げる。

「おおっと、よそ見している余裕があるのか?

狐火を避けつつ接近するジェームズが嬉しそうにニィと口元を歪めた。相手の注意が自分から逸れた隙を突いて、一息にその懐まで滑り込む。接近を許した夢見月の表情が驚愕に染まった。慌てて狐火を呼び出そうにも、手を伸ばせば触れる位置まで近寄られては意味の無いことだ。この距離では着弾すれば敵諸共自分まで黒焦げになってしまう。

「これじゃどっちが先にくたばるか分からんねぇ」

「ぐっ!?」

敵の鋭い爪が夢見月の腹部を横に大きく薙いだ。

咄嗟に背後へ倒れて事無きを得るが、掠った爪先は手製のTシャツと薄皮一枚を切り裂いた。そして、ここで手を緩める敵ではない。これを好機と見た敵は続けざまに腕を振い続ける。

「ほらほらほらほらっ! ちゃんと避けないと串刺しだぁっ!!」

最初の一撃を避ける為に地面へ手を着いてしまった夢見月は、膝を曲げたまま中腰の体勢で回避運動を続ける。強烈な陽光に照り付けられて、触れれば火傷してしまいそうな程の熱を持ったアスファルトに手を焼かれながら、人知を超えた曲芸の如きパワームーブを披露する。世のブレイクダンサーが目を丸くして驚きそうな華麗な身のこなしで肉体を操り、繰り出される敵からの連打の尽くを避ける。しかし、その表情には明らかな焦りが見て取れた。

「は、花見月っ!」

その名を呼ばれた少女は、今まさにマシューの手により亡き者とされようとしていた。

「霊狐と成る事無く、大人しく成仏してくださいね」

「くそぉぉぉぉっ!」

眦には悔し涙さえ浮べて、振り下ろされるマシューの拳へ、花見月もまた尻を床に落としたまま己の拳を向かわせた。向ける腕には炎の蛇を纏い、標的を灰と化さんべく激しく燃え上がっている。しかし、それも今の敵を相手には風前の灯にも満たない。圧倒的な力の宿るマシューの一撃を前に、花見月の小さな身体は無残にも押しつぶされる他無かった。

そう、そこで第三者の介入が無かったのなら。

「っ!?」

僅か数センチ先まで迫った敵の拳が一瞬の間に掻き消えた。目を見開いて驚く花見月の前には人の足があった。それは誰に気づかれることも無く、いつの間にかマシューの頬へ膝を打ち込んでいた。

予期せぬ一撃を受けて、彼は無様な悲鳴と共に身体を飛ばした。

花見月が幾ら攻めても余裕の表情を崩さなかった彼の顔は、しかし、ここへ来て驚愕と苦痛に塗れていた。かなり強烈な力を加えられたのだろう。肉体は頭から道端に生える樹木の中へ、バキバキと枝を折りながら音を立てて突っ込んでいった。

「こ、こんどは何だよ……」

驚きも束の間に、花見月は自分を助けたであろう足の持ち主へ視線を向ける。

その者はスタッという軽い音と共に、敵を蹴り付けるに当たって浮いた身体を両足から綺麗に着地させた。そして、自分が助けたであろう花見月へ正面から向き直り、互いに視線を合わせる。

花見月と同じく腰下まで伸びた、限りなく白に近い銀髪が、弱々しく吹いた風を受けて背中で小さく揺れていた。身の丈は凡そ五尺半程度だろうか。背の高い女性だった。色白で凛々しい顔の作りをした美女である。

どういう訳か場違いにも燕尾服を身に纏い、その様相は良く出来た執事の如くだ。ズボン、背広共に夜の闇よりも尚暗い漆黒である。対して真っ白なシャツと、その襟首にちょんと乗った白タイは、太陽も高い真昼間にありながら、周囲より己を浮き上がらせて自己主張していた。高温多湿に誰もが悩む夏の日本にあっては、気が狂っているとしか思えない正装である。

「………もしかして、アタシを助けてくれたのか?」

痛む身体に鞭を撃って花見月は立ち上がる。背丈の小さな彼女が立ち並ぶと、その頭は相手の腹部辺りにくる。必然的に見上げ見下げての位置関係となった。下からその者の顔を覗き込むようにして、おずおずと花見月は語りかける。

「主様の命により参上致しました」

「主様?」

「はい」

要領を得ない回答に首を傾げる花見月。

一方で仲間がやられた事を知ったジェームズは、夢見月を攻める手を止めて、その様子を呆気に取られたように見つめていた。気づかぬ間に現れた男装の美女がマシューを一撃の下に打ち倒した。その事実は彼の心を大きく揺さぶっていた。

「花見月っ!」

相手が動きを止めたことを理解して、夢見月は即座に姉の下へ走った。

彼女は満身創痍の花見月を庇うように二人の間へ割って入る。マシューを蹴り飛ばしたということは、敵の仲間ということは無さそうだ。しかし、敵の敵が味方とも限らない。夢見月は油断ない表情で相手を見つめる。

「貴方は誰ですか?」

黄金色の瞳が鋭く細められる。

だが、そんな彼女への返答は正面に立つ者とは全く別の所から返された。

「先の面倒事は未だに続いておったのかぇ」

「っ!?」

その声には姉妹も聞き覚えがあった。

男装の美女が立つ側とは反対側、二人が振り返った先に和服姿の少女は立っていた。

身に纏う着物は、無地の淡い青色を基本にして、左の前身頃に地味な百合の刺繍を施しただけの簡素な作りをしている。帯は柄の無い白一色だ。着物生地の端からスラリと伸びた白雪の如き肌色をした四肢は麗しく、白魚の様な指先まで黒子一つ染み一つ無い。腰下まで伸びた長い金髪がフワリと宙を舞ってキラキラと陽光を反射する様子は、見る者の目を奪って放す事を知らない。

「………静奈さん」

「静奈っ!?」

姉妹は至極驚いた様子で和服の少女、静奈を見つめていた。

「まさか、再び主等と顔を向き合わせるとは思わなんだ」

小さく呟いた静奈はゆっくりと歩いて三人の下まで向かう。

草履が地面と擦れる音が妙に大きく皆の耳に届いた。

「静奈さん、これはどういうことですか?」

相手が手の届く位置まで来た所で、暗に目の前の美女を示して夢見月が問うた。

「コイツはお前の仲間なのか?」

「仲間か……、まあ、そんなことろかのぉ」

二人の言葉を受けて男装の美女を見上げた静奈は、右手の人差し指と親指で顎を擦りながら静かに口を開いた。その様子はまるで、直立不動で静奈に向き合う彼女を品定めするかの様であった。

「強いて言えば話し相手か、茶飲み仲間といったところじゃ」

「茶飲み仲間……、ですか」

安穏とした彼女の語り草に夢見月は若干の緊張を解く。色々とあって武人とは決別したものの、彼女は己の命を助けてくれた恩人に違いない。それ相応の信用と対すべき礼儀はあった。そして、そんな静奈の仲間とあれば、無闇に自分達へ害するとも思えなかったからである。

夢見月と花見月が己を見つめて頷いた所で美女が口を開く。

「私は静奈様の従者を勤めさせて頂いております化け狐、名を西光坊と申します」

抑揚の無い淡々とした語り口調の簡単な自己紹介だった。一息に言い終えた西光坊は小さく腰を折って二人にお辞儀をする。腰を折り曲げる際に手はスラックスの縫い目に添えたまま、指先はしっかりと伸ばされている。その姿は良く訓練された軍兵や執事を思わせる鋭さがあった。

「私はこの付近の山に住む、同じく狐の夢見月といいます」

「アタシは花見月だ」

そんな彼女の対応を前に姉妹もまた、自らを名乗り深々と頭を下げる。

「妹を助けて頂きありがとう御座います」

「ありがとう、さっきのは本当にもう駄目だと思った」

「いえ、私は静奈様の命に従っただけです。お礼は静奈様にお願いします」

一歩後ろに退いて語る西光坊に促されて、姉妹は静奈に向き直る。

「一度ならず二度までも助けて頂き、本当にありがとうございます」

「静奈、ありがとう」

素直な花見月と夢見月は静奈へも同様に頭を下げた。

自分達よりも能力的に劣る彼女が、幾ら不意打ちとは言え、何故にマシューを一撃で圧倒出来る様な従者を連れているのか。新たな舞台役者への疑問は尽きないが、今はそれ以上に自分達を危機より救ってくれた事へ姉妹は感謝したかった。

「こうして主等が襲われるのも、こやつが現れてからで良かったな。我一人では手も足も出なかっただろう。そういう意味ではとても運が良かったと思うぞぇ」

静奈は腕を組んで感慨深そうな笑みを浮べた。その視線の先には西光坊が居る。見つめられて彼女は、感情を感じさせない能面の様な表情のまま、けれど、本人が語ったとおり従者の如く、主人である静奈へ恭しく頭を下げて応じた。

「そうでなければ、我も主等を助けようとは思わなかっただろう」

「でも、今は実際に助けてくれたんだからアタシは嬉しいぞ」

「そうかぇ、なら良かったのぉ」

飄々と語ってみせる静奈に、花見月はそれまでの鬼気迫る表情は微塵の跡も無く笑顔を向ける。先のマシューの拳は、己の命を絶つに十分な一撃であったことを彼女は理解していた。だからこそ、助かった喜びも一入だった。

「まさか、他に仲間が居るとは考えもしませんでしたよ」

二人の会話を遮って、道端に茂る樹木の影から、西光坊によって蹴り飛ばされたマシューが草木を押し退けて現れた。フラフラと足元が覚束無いのは頭部を強打されたからだろう。端整な顔立ちも虚しく、頬は膝を打ち付けられた衝撃で頬骨の辺りが大きく内側に凹んでしまっていた。その側の眼球は外へ飛び出して頬の辺りでぶら下がっている。かなりグロテスクな姿であった。

肉体的な損傷とは対照的に語る口調は平然としたものだ。しかし、堪える事も出来ず小刻みに震える肉体は、先の一撃が彼の身体に大きな影響を与えたことを示唆していた。脳にもダメージがあるのだろう。

「まだやるつもりかぇ?」

マシューの痛々しい姿を目の当たりにして、静奈は自分と相手との能力差に気後れする事無く、堂々とした様子で尋ねる。そんな彼女のすぐ後ろには、彼の復帰を確認して、何時でも駆け出せるよう控えた西光坊が立つ。

「本来ならば、これで仕事を終える筈だったんですがね」

「残念じゃったな」

「ええ、まさか助っ人が居るとは思いもしませんでした」

痛む身体に鞭を打ってまで、マシューは両手の平を肩の高さまで上げると首を小さくかしげてみせる。しかし、平時なら様になるその演技も、飛び出した眼球と大きく陥没した頬が目に付いて、今となっては笑えない不気味なピエロの様である。

「別に助っ人として呼ばれた訳ではないんじゃがな」

「こちらの二人と面識があるようですが?」

「つい1、2週間前に顔を合わせる機会があっただけの話じゃ。我がこやつ等を助けたのは偶然に過ぎん。若しくは気まぐれとでも言うのかの。何れにせよ狙ってやったことではない」

「というと、今回は我々に運が無かったという事ですか」

「まあ、そういうことじゃな」

腕を組んで立つ静奈と、その右斜め後ろに西光坊。花見月と夢見月はその更に→斜め後方へ並んで控えている。そして、姉妹から十数メートルの距離を置いて、マシューと彼女達を挟む形でジェームズが立つ。

彼等彼女等の周囲は争いの影響で酷い有様だ。道路に面する樹木群は、ある一帯は枝に火を灯し、また、ある一帯は幹を根から凍りつかせている。アスファルトの舗装は至る所が剥げて地肌を晒し、場所によっては手抜き工事によるものか、それとも予期せぬ重圧を受けての事か、地盤へ大きく陥没してしまっている。唯一の救いは惨状に民家が面していなかったことだろうか。被害は公共設備に関してのみである。とはいえ、この有様ではいつ野次馬がやって来てもおかしくない。

「お、おいっ! どうするんだよっ!」

動くに動けない状況に苛立ってジェームズが吼えた。

「そうですね……」

小さく呟いて、マシューは人差し指と親指で顎を挟み撫でる。

だが、それも僅かな間だった。

「まあ、考えるまでもないでしょう」

チラリと西光坊を見て答える。

「退くのか?」

「そういうことです」

そして、言うが早いかマシューは静奈達より身を翻した。

かと思いきや有無を言わせぬ間に地を蹴ると宙へ飛び上がる。本来ならばある程度上昇した所で落ち行く身体は、しかし、勢いを失う事無く上昇を続ける。相棒の背中を確認して、ジェームズもまた彼に続き飛び上がった。二人は鳥の様に翼を羽ばたかせる事無く、悠々と空を飛んでいた。

「………やはり、逃げますか」

渋い顔で夢見月が呟く。

マシューとジェームズはあっと言う間に高度を上げて、大きく広がる青空の中に姿を小さくさせる。人目を避けての事か、二人は木崎湖より北にあるアルプスへ向かって飛び去って行った。

「ふん、最近の若い奴は根性が無いのぉ」

そんな彼等の姿を地上から眺めて、静奈が詰まらなそうに呟く。

「まあいい、用も済んだこだし我も住処に帰るかぇ」

そして、もと来た道を戻るようにトコトコと歩き出した。

「後を追わなくて宜しいのですか?」

主人の背中を西光坊は落ち着いた様子で追う。

「我は彼奴等や主の移動に追いつけんのだ」

「なるほど」

過去に花見月や夢見月に語ったとおり、静奈は能力的に大きく周囲の者達より劣る。宙を飛ぶことは出来ても、幾ら負傷しているとは言え、全力で逃げるだろうマシューやジェームズの後を西光坊と共に追うことは出来ない。彼女に抱きかかえて貰えば不可能ではないだろうが、そこまでして追うのも馬鹿らしいので止めたのだ。

「それに何よりも今は暑くて堪らん。この炎天下を飛び回る気にはならんぞぇ」

「命じてくだされば私だけでも止めを刺しに向かいますが」

「じゃが、そうこう言っている内にもう奴等の姿は見えんくなってしまった。今から追って探すのも面倒だろう。それよりも何処かで何か冷たいものを買ってきてくれ。汗を掻いたせいで喉が渇いた」

着物の衿を指で摘まみ、ハタハタと風を送りながら命じる。

「分かりました」

主人の言葉に頷いて、歩みを揃えた西光坊が隣に並ぶ。

「ちょ、ちょっと待ってください」

そんな二人に姉妹は声を掛ける。

「なあ、もう帰っちゃうのか?」

特にこれと言って語りたい事があった訳ではない。しかし、言葉を二三交わしただけの、あまりにも短い再開に、反射的に声を上げていたのだ。花見月に関しては、実際に夢見月が武人と決別した状況に立ち会っていないので、友人としての感覚も強い。

「まだ何か用かぇ?」

足を止めた静奈と西光坊が二人を振り返る。

「いえ、別に、そういう訳ではないのですが……」

何の為に自分が相手を呼び止めたのか、その理由の根底にあるものを有体に口から吐くことへ抵抗を感じて、言葉を選ぶに夢見月は口篭る。本人がどう考えているのかは分からないが、彼女にしてみれば触れにくい話題だった。

一方で姉は己の思った事を素直に口にした。

「静奈は武人に会いに行かないのか?」

「何故じゃ?」

「だって、二人は友達なんだろ?」

武人と静奈が別れてから、まだ十日が経過したかどうかといったところだ。武人がそうである様に、彼女にしても記憶に新しいことは間違いない。しかし、そんな花見月の問いに静奈は惚けた口調のまま、そっけない態度で答えた。

「あの者との関係は、我の一時の気の迷いのようなものじゃ」

「気の迷い、ですか?」

「若しくは、浅ましくも稲荷寿司を前に釣られたかのぉ」

別段悪びれた風も無く、ただ、過去に起こった事を淡々と口にする。

「まあ、何れにせよこれ以上語ることは無い。早々に去らせて貰うぞぇ」

「あ……」

姉妹が声を掛けたのも束の間、静奈は再び彼女達に背を向けて歩き出した。戸惑う花見月に見つめられて、しかし、再び声を掛けることも出来ずに夢見月は彼女を見送るほか無かった。二人を無言で見つめていた西光坊もまた、臀部に垂れた燕尾を小さく翻すと、踵を返し静奈の後を追った。

ゆっくりと背を小さくしていく二人を姉妹は口を噤んで見送った。