金髪ロリ達観クールラノベ 第二巻

第三話

「おい、これからどうするんだよ」

苛立たしげな男の声が路上に止められた高級車の内で響いた。周囲には僅かにコンクリートの色が見える田舎の一角、通る車も少ない片道一車線の県道の脇にエンジンを掛けたまま車は止められている。

「それを今考えているところです」

「お前は俺の上司で、それ相応の能力を持ち合わせてるんじゃなかったのか?」

「私としても先の出来事は想定外です」

車の運転席に座った男が、助手席に座る男へ声を荒げて問いかける。座席を限界まで後ろへスライドさせ、両足をダッシュボードの上に乗せている。そこには焦りと不安、そして有り余る憤怒が見受けられた。

「さっきまでの自信は何処へ行っちまったんだよ」

一方で助手席に座る男は、組んだ足の爪先をジッと見つめている。隣から向けられる声に適当に返事を返しつつ、何やら考え事をしている様だった。その表情は真剣そのものである。

「おい、あの無様は何のつもりだ?」

そんな彼の態度が気に食わなくて、男の声は段々と大きくなっていく。

「まさか本気でやられたとぬかすのか!?」

花見月と夢見月を襲撃した二人は、しかし、途中で横槍を入れてきた静奈と、その傍らに付き添う従者らしき女性に破れ敗退を帰した。その後、なんとか逃げ帰ってきたものの、圧倒的な能力差を前に八方塞に陥っていた。仕方なく、こうして今一度今後の予定を模索しているのである。

「正直、私の手に負える相手では無いでしょう」

重々しくマシューが呟いた。

「お前、それは本気で言ってるのか?」

言葉を重ね尋ねてくるジェームズにマシューは深く頷いた。

直接拳を交えていないジェームズとしては、たった一度蹴られただけで何を臆病風に吹かれているのだ、と文句のひとつも言いたいところだった。しかし、彼もマシューの能力は良く理解している。その本人が駄目だと言ったのだから、それはきっと自分が確認するまでも無く完全に駄目なのだろう。幾ら不意を突かれたとはいえ、彼がなすすべも無く無様に蹴り飛ばされるような姿を見たのはジェームズとしても初めてである。

「糞、なんだよそりゃっ」

先ほどの光景を目の当たりにして薄々感じていたこと。自分より強い存在より、さらに強い存在が現れた。それは他の誰よりも自分の力を信仰する彼にとって、酷く苛立たしい事実だった。

「我が主様には及ばないでしょうが、それでも、私と貴方で対処するには相当荷が重い相手だと考えます」

「だったらどうするんだよ?」

「しかし、今後の計画を考えたのならば、あの者は貴方に依頼した双子の姉妹よりも早急に処理すべき対象です。あれだけの力を備えた化け物が東側に属しているとなれば、計画の大きな支障となるでしょう」

「それを誰がやるんだ?」

「今手元にある駒は私と貴方だけです」

「お前、俺を舐めてるのか?」

「だから私もこうして悩んでいるのでしょう」

「ったく、こういうことはもっと確り調べて置けよな」

「確かに……、これは私の落ち度ですね」

珍しく深刻な表情を見せるマシューの姿にジェームズもまた自然と気が滅入るのを感じていた。個体差の小さな人間と異なり、化け物の間の力関係というのは非常に幅が大きい。たとえ一体の化け物でも、それが強力な個体であるならば、単騎で数千、数万という化け物を相手に圧倒することが出来る。逆に言えば、塵は幾ら積もったところで塵に過ぎない。仮に山と聳えた所で、風がひと吹きすれば呆気なく霧散してしまう。ゆえに彼の言う落ち度は、余程のことが無い限り覆し得ないものだった。

敵はマシューを容易に圧倒して見せた。これでも彼は彼やジェームズが所属する組織においてはある程度の実力者である。それが、幾ら不意を突かれたとはいえ一撃で下されたのだ。ともすれば、敵の能力は二人から見れば非常に高い位置にあると言える。この味方も少ない敵地において、そのような強力な化け物を相手にするだけの準備を、二人には整える術が無かった。

「言っておくけど、策も無く突っ込むっていうなら俺は降りるからな。貰った報酬に割が合わない」

「分かっています。私だって好き好んで自爆したりはしません」

「ならどうするんだよ?」

彼等の乗る大型の高級外車は、エンジンルームからの駆動音さえ完全に遮断して、静かな空調の動作音だけを二人の耳に届ける。もどかしい沈黙を前に、ジェームズはマシューを睨む様に見つめていた。

「前に貴方から受けた報告に関して、一つ確認しておきたいことがあります」

「なんだよ」

「私を蹴り飛ばした化け物の、その隣に居た小柄なブロンドの髪を持った、標的には静奈と呼ばれていた者についてです。あの者に関して私は、聞き間違えでなければ、以前に貴方から幾つか情報を得ています」

「ああ……、あいつか」

「貴方は以前の報告に際して、彼女の名前を私に漏らしていました。その時、貴方は静奈と呼称される化け物を、姉妹と比較するまでも無く、なんら障害にならない雑魚だと仰っていましたね?」

「そうだな、確かにそう説明した」

碌に妖術の類も使えない静奈の姿を思い返してジェームズは頷く。

「では、何故に私を蹴った化け物はその者に付き従っていたのでしょうか?」

「そんこと俺が知るかよ」

燕尾服を着た長身の女性が小柄な静奈に傅く姿は二人にとっても印象的だった。化け物の世の中にあっては、その多くが見てくれを何某かの手段により変化させることが出来る時点で、外見的な特徴など大した意味も無い。しかし、そうであったとしても、容姿端麗な彼女達による主従の絵は、まるで良くできた執事と良家の令嬢の如く、彼等の脳裏に鮮明なまま残っていた。

「一つ言うなら、重要なのはその理由ではありません」

「何が言いたいんだ?」

なんとなくマシューが言わんとすることを理解して、しかし、彼のらしくない提案にジェームズは問い返す。

「彼女達との約束は違えることになりますが、今は手段を選んでいる余裕もありません。これも仕方の無いことでしょう。何事も背に腹は代えられませんから」

「結局そうなるのかよ」

「貴方が私に何か言える立場にあるのですか?」

「うっせぇっ」

他に良い案も浮かばず、元より否定する理由も無い。

小さく口を尖らせながらも、ジェームズはマシューの言葉に頷いた。

「これが我々に残された唯一の手段でしょう」

「もしも相手が思うように動かなかったらどうするんだ?」

散々同様の手段を講じてきたジェームズだからこそ、それが背水の陣であることは良く理解できる。しかも今回相手にしようとしているのは、自分達が逆立ちしても敵う事が無いだろう強力な化け物だ。失敗は即座に自分達の消滅へと繋がるだろう。

「その時のことはその時になってから考えましょう」

「そこまでしてお前は主様に気に入られたいのか?」

「主様は私の全てです。主様の為ならばこの程度の困難など物の数に入りません」

「本当、一緒に居るのが嫌になるくらい変態だな」

「別に貴方になんと言われ様が、私の主様に対する忠誠は揺るぎません」

「性欲の間違いじゃないのか?」

「そのような概念は既に超越しました」

「随分と崇高なこったな」

「この血肉の一滴に至るまで、全てを主様に捧げ、そして喰らわれる事こそが私の願い。ならばこそ、こうして働く身に力が入るのも当然のことでしょう。全てを終えて居城に帰ったとき、そこで頂ける労いの言葉を思えばやる気も自然と沸くものです」

今は遠く海を挟んで会えぬ主人を思い、マシューは気色悪くも己の胸を抱いて語る。端整な顔立ちの彼ならば、見るものが見ればその振る舞いも良く出来た舞台の一端として映るだろう。しかし、それなりに付き合いのあるジェームズからすれば、哀れさえ誘う末期の小児性愛者にしか見えなかった。

「ったく、それに巻き込まれる側の身にもなってみろよな」

「それに関しては約束の額の二倍を用意しますので、どうかよろしくお願いします」

不満を漏らす己に対して、マシューはすかさず人差し指と中指を立てて見せる。

「………言っておくが、やばくなったら俺は逃げるからな?」

「まあ、その辺は此方にも非があるので良しとします」

ジェームズは渋々といった様子で頷いた。勿論、全てが金の為だけではない。マシューさえ圧倒した敵の存在に少なからず好奇心を抱いていたことも大きな要因だ。それは己の命の危険さえ顧みずに挑まんとする、彼らしい性格の一端でもあった。

「俺もとんだ貧乏くじを引いたもんだな」

誰に言うでもなく呟いたジェームズの言葉に、マシューが小さく苦笑を浮かべた。

「なぁ、最近の強盗は随分と爽快に盗みを働くんだな」

「別に何も盗まれちゃいないんだけどね」

「そうなのか?」

「僕が直接見たわけじゃないけど、聞いた話によればそうらしいよ」

「なんだよそれ」

仕事を終えて意気揚々と帰宅した義人の目に飛び込んできたのは、無残にも崩壊した自宅の姿だった。息子に並んでリビングを前に棒立ちである。流石の彼も目前の光景を目の当たりにして驚きを隠せないでいた。

姉妹とジェームズ、マシューの争いによって齎された破壊は、まるで遠慮無しにアクセルを踏み込んだ大型ダンプが突っ込んで来たかの様な酷いものだった。木造物件であったことも災いして、壁は至る所に大小多くの穴が開き、内部構造を露に抉れ、場所によっては根元から完全に崩れ倒れているものもあった。既にリビングと隣接する廊下との境界は有って無いようなものだ。室内に置かれていた家具の類は、原型を留めているものを探すほうが難しい。というか無い。割れた窓ガラスの破片と、崩れた外壁内壁の破材が足の踏み場も無く散らかり、土足でなければ足を踏み入れることも適わない。部屋の中央付近に大きく開いた床板の穴を上から覗けば、そこには湿った日陰の地面を確認することが出来た。その被害は素人の目にも、ちょっとやそっとの修繕では復旧不可能であること明らかであった。

既に日の暮れた屋外から、人が容易に出入り出来るほどに大きく崩された外壁の穴を越えて、半屋外となったリビングへと月夜がやんわりと差し込んでくる。既に時刻は午後8時を回っていた。無駄に風通しの良くなった室内に、生暖かい微風と共に虫の音が乗ってやって来る。天井に設置された照明は、壁に設置されたスイッチを入り切りしても反応しない。壁内の配電がやられてしまったのだろう。そこは廊下から届く明かりの残光と、屋外より差し込まれる月明かりとが照らす薄暗い空間だった。無理矢理にでも褒めようとしたのなら、幻想的な空間、などと称すことが出来るかもしれない。

「一体何があったんだ?」

まさか、義人もこれが本当に強盗による被害だとは考えていない。

「前にも話したと思うけど、あの二人絡みの諍いの続きだと思う」

「花見月さんと夢見月さんか」

「うん」

今の芹沢宅には武人と義人の他に人の姿は無い。

マシューとジェームズの来襲から既に数時間が経過して、その間に山野と柳沢は自宅へと帰っていった。後に残された武人は他に出来ることもなく、自室でコンピュータを弄りながら父親の帰りを待っていたのである。

「となると、これも身から出た錆ってことになるのか……」

花見月と夢見月の正体と、それまでに彼女達を巡り起こった騒動の顛末を武人より聞き及んでいた義人は、その短い説明だけで事の大凡を理解した。ならばこその自宅崩壊だと、被害状況についても納得する。

「まあ、父さんの自業自得なのは明らかだろうね」

「お前だって嫌な顔してなかったじゃないか」

「でも、初めに誘ったのはそっちでしょ?」

「それはそうだかもしれないが、だからって少しくらい慰めの言葉を掛けても撥は当たらないと思うぞ? まだ引越してから一ヶ月と経っていないって言うのに、早速引越しの準備だよ、こりゃ」

「これに懲りたら不用意に他人を夕食へ誘わないことだね」

自身も被害者である筈の武人だが、ここぞとばかりに義人を攻め立てる。

これで少しでも父親の性格が大人しくなってくれれば良いと考えたのだろう。しかし、そんな彼の言葉を華麗に受け流した義人は、逆に武人の弱みを的確に、そして強烈に突いて来た。

「なんだよ、昨日は風呂場で二人と楽しんでたくせに」

「なっ! なんでそれを知ってるんだよっ!!」

「あんだけデカイ声で呻かれたら誰だって気づくに決まってるだろ?」

「っ!」

武人の頬が一瞬にして朱に染まった。

「けど、何をしたらあんな大きな声で喘げるんだ?」

「別に何もしてないっ! 何もしてないんだからなっ!!」

脳裏にはどうしようもなく恥ずかしい記憶が蘇る。

「きっと外の通りまで筒抜けだったんじゃないか?」

「う、うるさいっ! うるさいうるさいうるさいっ!」

「それも、あの二人が喘ぐならまだしも、何故にお前が喘がされてるのか……」

「っ!」

まさか、花見月と夢見月に身体の自由を奪われ、無理矢理に性器と肛門を舐められていました。などとは口が裂けても言えない。興奮と羞恥に塗れて、武人はまるで小さな子供のように喚き散らした。意識してしまうと、すぐにでも昨晩に与えられた感覚が肉体に戻って来そうで怖かった。

「その様子だと随分と面白いことになっていた様だな」

クックックと義人は意地の悪そうな笑みを浮かべる。

「も、もう、いい加減黙ってよっ!」

「だって、なぁ?」

「なんだよっ!!」

キッと眦を吊り上げて息子は親父を威嚇する。

「はいはい、分かりましたよ」

今にも噛み付かんと吼える武人に、仕方なく義人も両手を挙げて話題を変えることにした。

息子の特殊な性癖が気にならない訳ではないが、こいつも男だ、人に言えないことの一つや二つくらいあっても当然だろう、と一人心中で結論を出したのだ。一般の人親と称される集合において、義人は取り分け多くに寛容な精神の持ち主であった。

「しかし……、これはどうしたもんかな」

仕切り直しのように呟いて、それまで息子に向けていた視線を再びリビングの惨状へと移す。

手の打ちようが無い現状に、武人は現場を被害を受けたそのときのまま放置していた。下手に近づく事もままならない、家屋全体が倒壊する危険性さえ孕む状況に、義人もまた答えを出しかねる。慢性的な喘息持ちの武人としては、壁内の石膏ボードや床下の断熱材が砕けたことによって生じた粉塵が山と積もるこの場に長居するのは絶対に避けたいところだった。

「どうしたもこうしたも、とりあえずは今晩の晩御飯をどうするかだよ」

「まさか、ここで作って食う訳にもいかないだろうな」

「なら、外へ食べに行くんだよね?」

「それしかないだろ、常識的に考えて」

あまりに圧倒的な被害を目の当たりにして、親子の内に渦舞たる感情は憤怒よりも呆気が先行していた。人間、どうしようもない絶望を前にすると諦めの境地に至るというが、その良い例だろうか。武人は山野や柳沢より、敵がこの被害の補償を受け持つと語っていた事を聞かされてはいるが、まさか、他者の命を狙うような輩の言う事を真っ向から信じる気にはならなかった。

その被害総額を概算するだけで頭が痛くなりそうだった。

「とりあえず、ここはこのままにして飯に行くか」

「そうだね」

業者を呼ぶにしても時間が時間である。トイレの配水管が詰まった、ボイラーが壊れて湯が出なくなった、そういった問題とは次元が違うのだ。電話一本で片がつくような話ではない。

惨事から目を逸らして二人は踵を返す。すると、丁度時を合わせた様に玄関の呼び鈴が鳴り響いた。最近は毎日耳にしているピンポーンという甲高い電子音が届く。

「誰か来たのか?」

「呼び鈴が鳴ったんだから、そうに決まってるだろ?」

「警察か?」

「警察は花見月と夢見月が一度追い返してくれたんだけど、また来たのかな……」

義人の呟きを耳に武人の表情は途端渋いものへと変化する。

「まあ、無視する訳にもいかないだろ」

「うん」

仕方なく二人は玄関へ向かう。

ギシギシと足を下ろすたびに軋むフローリングを抜けて、僅かばかり廊下を進む。そこから角を一つ曲がれば玄関はすぐ目の前だ。曇りガラスに透けて、玄関扉の前には人が二人佇んでいるのが確認できた。軒下に設置された屋外照明に照らされて浮かび上がった体躯は義人と同等程度の身の丈を影に落としている。

「どちらさまですか?」

片足をサンダルに落とし、カチャリと鍵を開けた武人がガラガラと音を立てて扉を横にスライドさせる。すると、そこに立っていたのは彼にも見覚えのある人物であった。

一人は今日の昼に新聞の勧誘へ来たスーツ姿の外人である。例によって真っ黒なスーツを全く着崩すこと無く身に纏い、ネクタイまでキッチリと締めていた。そして、もう一人は何があっても忘れることはあるまい。つい十日ほど前に彼を山中へと誘拐した狼男、その彼が人間へと化けたときの姿だった。日本にありながら黄色人種にはありえない白い肌と、短く借り上げた茶色の髪の毛が特徴的な男性だ。身の丈はマシューと同じく190センチ程度だろうか。その攻撃的な鋭い瞳は幾度と無く夢に出て来たほど、武人の意識の根底に深く刻まれていた。

「なっ! なんでお前がっ!!」

新聞勧誘の男が花見月と夢見月を襲った場面を武人は見ていない。しかし、狼男の存在だけでも武人が慌てるには十分であった。ジェームズの姿を視認して、武人は反射的に大きく背後へ跳び退こうとした。

だが、相手はそれを許さなかった。

「おっと、すみませんが逃げないで頂きたい」

位置的にジェームズより前に立つマシューが、武人の腕をグッと掴んだ。

「は、放せっ!」

武人の顔からサァッと血の気が引く。

息子の突然の豹変に驚いて、同時に、マシューの強引な態度に疑問を覚えた義人が、裸足のまま玄関へと降りて二人の間へ割って入った。片腕で武人を庇いながら、依然として腕を放そうとしないマシューへ向かい合う。

「うちの愚息が何か?」

その顔には若干の緊張があった。

「夜分遅く申し訳ありません。お宅の武人さんに少々尋ねたいことがありまして、こうして伺わせて頂きました」

マシューは義人と視線を合わせると、そう淡々と述べてみせた。

「その割には随分な対応だと思いますが?」

義人はこの二人と面識が無い。

だとしても、息子の狼狽の具合からして、相手が見掛けどおりの優男だとは考えられなかった。花見月と夢見月、それに静奈という例外を目の当たりにしてきた彼の中には、数多の非現実的な推測が飛び交っていた。

「我々としても穏便に済ませたいと考えておりますので、何卒ご協力をお願いします」

「貴方達と私の息子にどのような関係が?」

「特に関係という程のものは無いのですが、一つどうしても尋ねたいことがありまして」

丁寧な口調とは裏腹にマシューは有無を言わせない押しの強い態度で義人に挑む。

「僕にはお前達に教えられることなんて何も無いぞっ!」

足を恐怖にガクガクと揺らしながら、それでも勇気を振り絞って武人が吼える。己の腕を掴む手は恐ろしい程の握力で握られており、振り解こうにも万力に挟まれているかの如く頑強に固定されていた。上下左右に揺さぶってはみるが何の抵抗にもならない。

武人とマシューはこれが始めての顔合わせである。もしも彼一人がやって来たのなら、出会い頭にここまで怯える事は無かっただろう。しかし、その後ろに控えるジェームズが武人にとっては鬼門だった。お陰で隣り立つマシューにおいても、自分を陥れた敵の同類なのだと、脳は反射的に恐れ認識していた。

「率直に尋ねます。我々に静奈さんの居場所を教えて頂けないでしょうか?」

「静奈の、居場所? ……そんな事を聞いてどうするんだよ」

予期せぬ名前を出されて武人は一瞬言葉に詰まった。

「少々訳がありまして、彼女に面会を持ちたいと考えております」

語るのはマシューだけで、ジェームズは彼の後ろに付き従うよう立ち、黙ってやり取りを見つめている。

花見月と夢見月は芹沢宅へ攻め入ってきた者達について、事後に二階から降りてきた武人へ概要を説明していた。一方はピシっとしたスーツ姿の有能なサラリーマンを装う優男、もう一方は以前にも現れた自分達を狙う狼男。それは今彼の目の前にいる二人と見事に合致していた。

「っていうか、お前達だろ? 花見月と夢見月を襲って家を壊したのは」

「はい、その件に関しては非常に申し訳なく思います」

試しに問うてみた武人に、しかし、マシューは尋ねた側が拍子抜けするほど呆気なく応じて見せた。

「其方に関しては後ほど我々の手で補償を受け持ちたいと考えております。勿論、望むようであれば家屋全体の建て直しにも応じます。その間の仮住まいの用意もさせて頂きます。面倒な事務処理は一括して受け持つつもりです」

「……………」

「ですから、何卒今は我々に協力願えませんでしょうか?」

妙に紳士的な態度が逆に嘘臭く感じてしまうのは、武人もまた庶民だからだろう。相手の意向を図りかねて答えに窮する。

そんな息子と招かれざる客との間に身を割り込ませた義人は、ジェームズと同様に黙って二人のやり取りへ耳を傾けていた。

「静奈の居場所を知ってどうするつもりだよ」

「彼女が持つ従者の方とお話がしたいと思いまして」

「従者?」

「ええ、とてもお強い方ですね」

静奈に従者などいただろうか? 過去を思い返す武人だが、該当するような存在はおろか、それらしい呟きさえ耳にしていないことを確認するに終わる。

とはいえ、たった二、三日の短い付き合いだったので、自分が彼女の全てを知っている筈も無いとすぐに追求を止めた。それよりも今は他に考えるべきことが山とあるのだ。

「どうでしょう、教えていただけませんか?」

武人の腕を掴んだまま、ニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべて見せる。

「僕が教えたら、お前達はどうするんだ?」

「知りたいですか?」

武人はマシューと過去に面識を持たない。しかし、その後ろに控えたジェームズの存在を思うと、彼等が一体どういった意図で静奈との接触を狙っているのか、脳裏に思い浮かぶのは不穏な推測ばかりであった。

「………」

出来るなら知人を売るような真似はしたくなかった。

「お願いします。どうか教えて下さい」

「嫌って言ったらどうするの?」

「此方も諸事情あって退っ引きならない状況にあります。そして、ここで貴方の協力が得られるかどうかが勝算を分けると言っても良いでしょう。是が非でも聞き出したいと考えています」

「是が非でも、か」

「ええ、今は善悪を語っている余裕は無いのです」

握られた腕に僅かながら力が込められたのを武人は感じた。

「………」

返す言葉が思い浮かばず、武人はジッとマシューを見つめる。上に着たシャツの下では、人知れず冷や汗が垂れていた。

昼に襲われたときは、山野と柳沢が警察へ連絡を入れたところ二人は大人しく退散したという。ならば、今回も警察へ連絡を入れたのなら帰ってくれるだろうか。しかし、今は追い返したとしても、再びやって来られては何の意味も無い。では根本的にどうすればよいのか。武人の頭の中を巡るのは決定打に欠ける案ばかりだった。

そして、二人は暫く無言のまま向き合っていた。

開けっ放しの玄関扉から、敷居を越えて玄関ホールの照明を目指し羽虫がわんさか屋内へ入ってくる。それを気にする余裕さえなく、武人は現状を打開すべくひたすらに思考を続けた。

だが、彼が打開案を打ち出す間も無く状況は悪化した。

「ったくよぉっ! ちんたらやってんじゃねぇよっ!」

気の短いジェームズが、うんともすんとも言わない武人の態度にキレたのだ。

前に立つマシューを押しのけるようにして、武人へと腕を伸ばす。

「ひっ!」

武人は短く声を上げると、掴まれた腕を限界まで伸ばして距離をとる。それと同時に、武人とマシューの間に身を置いていた義人が、ジェームズの進行を防ぐべく一歩前に出た。二人の胸板がドンと軽くぶつかり合う。ジェームズの手は武人のシャツの襟を掴み損ねたところで義人に肩に当たり脇へ反れた。

「なんだよ、俺の邪魔をするのか?」

ニタリと厭らしい笑みを浮かべたジェームズが義人を見つめる。

武人を除いて義人、ジェームズ、マシューは大凡190センチ程で似たり寄ったりの背丈をしている。互いの鼻先が接するほどの距離で二人の視線が交差する。その様子は端から眺めている武人のほうが不安になるほど緊張を誘った。

「息子に手を出さないで貰いたい」

口をへの字に曲げて義人は頑なに応じる。

「人間風情が俺に楯突くとは、なかなか笑わせてくれるじゃねぇか」

街頭で肩がぶつかった相手に因縁をつけるチンピラの如く、ジェームズは義人に食って掛かる。両者の間にある覆すことの出来ない大きな力量差を知る武人としては、気が気でない状況である。勿論、義人にしても相手がただの人間でない事は察しが付いている。しかし、実際に人外の暴力を目の当たりにしたことは無い。それが良くない方向に働かないことを武人は身を震わせながらその大きな背に隠れて願う。

「その手を放して貰いたい」

「だったらさっさと女の居場所を言え。でなけりゃ殺すぞ?」

「人にものを尋ねるなら最低限の礼儀というものがあるだろう」

「ほぉ、いい度胸だな」

「息子の胸倉を見ず知らずの暴漢に掴まれ損ねて、心穏やかな親は居ないと思うがね」

まるで安いサスペンス映画に出てきそうな会話だな、などと想起しながら、武人は頭の中で義人と静奈を天秤に掛ける。

かたや目の前に立つ大きな背中の持ち主は、自分を十数年に渡り養ってくれた生みの親。対してもう一方の皿に乗るは、僅か数日間だけ生活を共にしたに過ぎない人外の化け物。どちらか一方を選べと言われたのなら悩む間もない。秤は躊躇無く前者へ傾いて動きを止めた。

「わ、分かった。分かったからここで争うのは止めてよっ」

相棒の暴挙を止めることなく静観するマシューの態度からして、最終的には力ずくでも聞き出すつもりで居たのだろう。ならば粘るだけ時間の無駄だと理解して、武人は直ぐに折れた。

「教えていただけますか?」

「断ったって無理矢理にでも聞くんでしょ? いいよ、教えてあげるよ。教えるしかないじゃないか」

不貞腐れた様に呟く武人の言葉にマシューは満足気に頷いた。

「それは助かります」

「でも、その代わり僕達に危害は加えない事を約束して。じゃなきゃ絶対に教えない」

「いいでしょう。今後とも貴方達に危害を加えないと約束します」

観念した武人の返答を受けて、マシューはそれまで掴んでいた彼の腕を開放した。

「武人、いいのか?」

己の背に隠れる息子を振り返った親父が申し訳なさ気に訪ねて来る。

「他に選択肢があるの?」

「…………」

自分より詳しく敵を知る武人の言葉に義人も黙るしかなかった。

武人だって敵に静奈を売るような真似はしたくない。しかし、そうしなければ自分達が彼等の歯牙に晒されるのだ。最近はこんな二択ばかりだな、などと諦めにもにた溜息を心中で小さくつく。

「それで、静奈さんはどちらに?」

「ここから歩いてすぐの所に神社があるんだけど、多分そこに居ると思う。僕が彼女に出会ったのはその境内だったから」

「なるほど、あの神社ですか。灯台下暗しとはまさにこの事ですね」

「でも、本人からそこに住んでるって直接聞いたわけじゃないから、間違ってても恨まないでよね? それ以上は僕も知らないんだ。後は自分達で調べるなり何するなり、なんとかしてよ」

「いえ、その情報だけでも大きな進展ですよ」

お目当ての情報を聞き出したマシューは、それまで浮かべていた笑顔をより一層に深いものする。同時に、万力で固定されたように硬く掴まれていた肩が開放される。まるで良く教育された執事の様に、彼は片手を腹部の前へ地面に対して水平に置き腰をカクリと深く曲げた。

「ご協力感謝します」

「無理矢理に喋らせておいて良く言うよ」

マシューの問いに答えた後、間髪置かずに想起したのは静奈との別れである。あの時、驚きさえ遅れて届くほどに唐突、彼女によって身体を投げ飛ばされた感覚は未だに鮮明だ。その時のことを思い出すと、少しは己を苛む罪悪感から逃れられた気がした。

「他に彼女について知っていることがあれば教えていただきたいのですか、何かありますか? 特に彼女に従う従者の方に関して伺いたいのですが」

「これ以上は何も無いよ。それに僕は静奈の従者なんて知らない」

「………そうですか、残念ですね」

「それより、僕はちゃんと喋ったんだから早く帰ってよ」

腰を曲げたまま顔だけを上げて問うてくるマシューに、武人は嫌悪を露に渋い顔で答えた。

「そうですね、わかりました。今回はこれで失礼させて頂きます」

当初の目標を達して満足したのだろう。武人とは対照的に笑顔を浮かべるマシューは居住まいを正す。そして、今度は浅く腰を折って小さなお辞儀をした。同時に狭い玄関ホールで肩を並べ立つ相棒へ声を掛ける。

「ジェームズ、行きますよ」

「ったく、面倒取らせやがって」

「まあ、そう言わないで下さい」

義人と鼻を突き合わせ向き合っていたジェームズは素直に踵を返した。

先じて玄関を出るジェームズに続き、マシューもまた武人達に背を向ける。

そんな二人の姿を武人は憎々し気に見つめて送り出した。

日照時間の長い夏場にありながら、既に日も沈んで一時間と少しを経過した薄暗いJR信濃大町駅。一日平均乗車人員は1200人強と、それほど利用人口の多い駅ではない。しかし、駅の敷地面積が小さいことと、時間帯が帰宅のそれと重なった為か、辺りは勤めを終えて自宅へ帰ろうとする人々で多少の賑わいを見せていた。

そこに周囲のスーツ姿からは些か浮いて、私服姿の山野と柳沢は居た。

山野はダメージ加工の成されたデニム生地のミニスカートに、襟ぐりが広く肌蹴た赤い綿製のタンクトップを着ている。腰には大きな金属製のバックルが目立つ掠れた白色の着色が成されたベルトを巻いている。同世代の女性と比較して小柄な山野がこのような格好をすると、少し背伸びをしてみた小中学生、といった印象がする。

対して隣立つ柳沢は、黒をベースに所々白い花柄の刺繍が施された薄手のワンピースを身に着けている。腹部で結ばれた腰を一周回る幅の小さなリボンが印象的だ。袖は付いておらず腕を上げれば脇が見える。スカートの丈は長く脛の半分を覆う程度だ。綿とは違う艶やかで光沢のある生地が暗がりに僅か指す夜光を淡く反射して、その輪郭を緩やかに浮き出させていた。山野とは一転して良家のお嬢様の如き姿である。

共に似合っていない訳ではないが、きっと両者の衣服は互いに交換してこそ世論的な合致を得られるだろう。ミスマッチな二人組みに、周囲を行きかう人々はチラリチラリ視線を送りながら、その脇を足早に通り過ぎていく。

そんな大衆の視線を知って知らずか、改札を抜けて駅舎の屋根から夜空の元へ一歩踏み出した柳沢が溜息混じりに口を開いた。そこには若干の疲弊と、明らかな諦めの色が感じられた。

「どうせ会えやしないわよ」

そう呟いて、行き交う人間達を遠目に眺める。

「でも、可能性はゼロじゃない」

「限りなくゼロに近いと思うけどね」

街灯の灯る駅前はそれなりに明るく、月明かりに頼ることなく周囲を行く者達の姿を確認することが出来る。加えて彼女達が探す者はこの国にあって非常に特徴的な容姿の持ち主だ。もしも視界に入ってきたのなら、まず見逃すことは無いだろう。

「近場でそれなりに人が居る場所といったら、この辺が無難だと思う」

「そもそも近場に限った話じゃないでしょ? 今の時刻だとこの辺りは人気も減るし、どうせ出て行くなら松本の方まで行っちゃってるんじゃないかしら。あの子達って凄く足が速いんでしょ? 電車とか使わなくてもあっと言う間よ、きっと」

「でも、夢見月ちゃんの方は人間に抵抗があるみたいだし、今日くらいはこの辺で練習してるかもしれない」

「練習って何よ?」

「人間社会へ出る練習」

「……………」

タクシーの停留所を前にして、駅舎を背後に立つ二人は横に並んだまま夜の町並みを眺める。駅前とは言え地域的に見れば辺鄙な片田舎に違いないこの地だ。彼女達が自宅より通学に際して利用するJR海ノ口駅と比較すれば多少の規模はあるものの、都市部から越してきた武人に評させれば、なんだこの小さな駅は、と一笑に伏せられる程度でしかない。

しかし、それ以上に過疎の進む木崎湖周辺と比較すれば、ここも十分に人間の溢れる人里だと言えた。

だからこそ、山野はまずここに目をつけた。

あまり数の多くない街灯に照らされて、夜の駅前通りは見るものに物悲しい寂れを感じさせた。周囲はコンクリートの色が目立ち、木崎湖に近い彼女達の自宅付近では嫌と言うほど耳に届く螻蛄の鳴き声も、ここでは靴が地を叩く音と時折届く車の排気音に取って代わっていた。

「それで、何か当てでもあるの?」

「いいえ、特に無い」

「まさか、何の手掛かりも無く闇雲に歩き回るつもり?」

「駄目?」

「駄目も何も、そんなの時間の無駄にしかならないわよ」

「私、これでも運は良い方なの」

「化け狐に強盗へ入られた家の娘が良くそんな大口を叩けるわね」

「それも幸運の内だから問題無いわ」

「……ああ、そうですか」

相変わらずの友人に柳沢はガクリと頭を落として呆れ調子に呟いた。まあ、何れにせよここまで来てしまったのだ。それに山野と二人で夜の散歩と洒落込むのだと思えば、彼女としても別段この状況に悪い気はしなかった。学生の身分ならばこそ、こういった贅沢な時間の使い方もありだと考えたのだ。

「じゃあ、とりあえずその辺を歩いてみましょうか」

「ええ」

生粋の地元民ということで、勝手知ったる駅前通りを二人は徒然なるままに歩み始めた。

「ところで、何故にこの時間になってからなの?」

「本当は直ぐにでも探したかったけど、親に店の手伝いを言いつけられたの」

「あぁ、そういうこと」

少し早めの夕食を済ませて、自宅の縁側で夕涼みなどしていた柳沢の元へ山野から電話があったのは、つい一時間ほど前の出来事である。用件は単刀直入に、行方を晦ませた双子を探すのを手伝って欲しいということだった。二人が乱闘騒ぎの後に芹沢宅を出たのは午後の三時を多少回った程度である。なので彼女達は日が暮れる前に一度分かれ、再びこうして集まった次第だ。

柳沢としては、出来ることなら山野が化け狐の姉妹と出会うのを阻止したいと思っていた。しかし、己の友人が話して聞かせて説得できるような相手でないことは彼女も十分理解していた。そして、だからと言って拉致監禁する訳にもいかない。結果として、ならば自分も、と渋々召還に応じたのだった。

「同じ自営業でも、柳沢の家は良いわね」

「確かにうちは自宅で商売している訳じゃないから、そういうことは無いわね」

「羨ましい限り」

「まあ、これも親孝行だと思って我慢することね」

顎を上げて夜空を臨みながら、柳沢は何気ない風に言葉を続ける。

「今はいいけど、大学へ進学したら親元で過ごす時間も減るんだし、今のうちに出来る限りのことをやっておいた方が良いわよ? きっと、あと数年もすれば全ては良い思い出になってるわ」

「それ、貴方が言うと説得力ある」

「そう?」

「多分」

語りながら歩む二人は、駅舎の周囲を人の多い場所を探しながら移動を続けた。この時間帯ならば、最も人間が密集しているのは駅前に違いない。あとは少し離れて大型のスーパーの周辺だろうか。田舎の町ということもあって、都市部と比較しては随分と治安も良い。二人は慣れた様子で、それこそ柳沢が思い描いた夜の散歩を楽しみながら捜索を続けた。

それから、どれほどの時間が経過しただろう。二人は探し人が駅の周りには既に居ないと結論を出し、そこから若干の距離を置いて建つショッピングセンターの付近までやって来た。

同店舗はこの田舎にあって、時代の波に乗った24時間営業の大型スーパーである。同店舗を持つ企業グループの創業者が唱えた「狸や狐の出る場所に出店せよ」という言葉も、今の二人にしてみれば気の聞いた冗談に思えた。実際に一昼夜営業しているのは一階にある食料品を扱うフロアのみだが、それでも夜の九時を回ってなお客足は多く、幅広な駐車場には車もそれなりに止まっていた。大きな建造物に煌々と明かりが燈っていれば、それだけで人の足は其方へ向いたくなる。二人もまた例に漏れず姉妹が此方へ進路を取ったと推測した次第だった。

そして、店内及びその周辺を散策すること暫し。そろそろ足が疲れてきた柳沢が、近くのコンビニエンスストアでの休憩を提案しようとした頃である。薄暗い歩道を歩く二人の視界に、この国にあっては見慣れぬ容姿の後姿が映った。

交通量の多い大通りから垂直に一本奥ばった路地へ伸びる、軽トラが一台ギリギリで走行できる程度の幅を持つ細い小道。そこに立つ街灯の薄暗い照明に照らされて、なにやら人が三人向かい合うようにして立っていた。うち二人は身の丈が残りの一人と比較して半分ほどしかない。共に腰下まで伸びた長い銀髪が特徴的である年半端な少女であった。彼女達と向き合っている残りの一人というのは、スーツ姿の何処にでもいそうな男性である。

通りの片側は背の高い建造物の壁が延々と延びており、もう一方は木製の柵が同じく他の路と交差するまで続いていた。周囲に人気は感じられず、意識していなければ容易に見落としてしまえる路地である。意識的に人を探していたからこそ見つけられたのだ。

「あ……いた」

まず気づいたのは柳沢である。

この国に限ったことでなく、銀髪は世界中を探しても希少な髪色だ。二人は此方に背を向けているので顔を確認することは出来ないが、ここでそれを見つけたのなら、十中八九それは彼女達の探し人である。

「あれ、そうじゃない?」

友人が指差した先に目を向けて、山野は抑揚の無い声色を僅かに変えると応じた。

「流石に目立つ」

「あの容姿なら当然よ」

一方で彼女達と向き合い話をしているらしい男性には見覚えが無い。身の丈は柳沢より少し高い程度だろうか。中肉中背の日本の成人男性として平均的な体躯の持ち主である。長くも無く短くも無く、耳や目に掛からない程度に垂らした無難な髪型と、縁の太い黒色の眼鏡をしている。良くも悪くもあまり人の目に留まらないであろう顔形の、二十台後半程度を思わせる男性だった。

「っていうか、あの二人に私達や芹沢君以外に人間の知り合いなんていたの?」

「どうだろ、分からない」

「何か話をしてるみたいだけど、どうする?」

「……少し様子を見る」

大通りと比較して街灯の数も少なく薄暗い路地へ続くT字路の端に立って、二人は電柱の影に隠れながら聞き耳を立てる。夜であることも幸いして、また、ある程度距離があることも手伝って、相手は自分達が監視されていることに気づいている感は無かった。

「何を喋ってる?」

「ちょっと聞き取り難いわね」

「もう少し近づく」

「そうね、少し前に出ましょう」

全容の掴めないやり取りに、もどかし気な表情を作る山野に応じて柳沢が頷く。今の時間帯だと通りを行き交う車や人も格段に減り、昼とは異なって周囲から届く喧騒も少ない。しかし、それでも接した大通りから届く車の排気音や人の足音は零でない。距離がかなり離れていることもあって、彼女達の耳へ届く三人の会話は所々が周囲からの雑音により欠けて届いた。

「でも、男の方はともかくとして、あの二人は普通の人間とは違うんだし、あまり距離は縮められないわよ。なんか、少年漫画の格闘家みたいに私達の気配を察知してきそうな気がするわ」

「ええ、分かってる」

神妙な顔で小さく頷きあって、二人はある程度距離を置いて立つ前方の電柱の影へ身を進める。それでも、依然として三人とは二十メートル以上の距離があるが、これ以上近づくと機敏な姉妹に悟られてしまう恐れがあると進言する柳沢の指摘に従って歩みは止まった。

花見月と夢見月は男性との会話に集中している為か、または、周囲から届く喧騒にかき消されてか、それとも、気づいてはいるがまるっきり無視を決め込んでいるのか、二人の接近に気づいた様子を見せなかった。

山野と柳沢は息を殺して物陰より三人のやり取りを伺った。

「いえ、ですがこのような夜分によそ様のお宅へ上がり込むのは気が引けるので……」

夢見月が男を見上げて申し訳無さそうに口を開く。

「大丈夫だよ。僕は一人暮らしだし、幾ら遅くたって迷惑をかけるような相手も居ないさ」

「でも、私達のような見ず知らずの者を、というのは……」

「君達のような小さな子が路頭に迷っているのは見過ごせないんだ。寧ろ、ここで分かれちゃった方が俺としては心穏やかじゃ無いよ。ここは田舎だけど、変な奴は何処にでも居るものだからね」

「ですが……」

遠慮を重ねる夢見月に、何やら男は熱心に誘いかけている様であった。その表情は妙に嬉々としており、顔には満面の笑みが浮かべられている。大仰な身振り手振りを交えて、彼の口からは矢継ぎ早に言葉が出て来た。

「それにほら、逆に君達が居てくれた方が独り身の俺としても話し相手が出来て嬉しいと言うか、寧ろ助かる面もある訳でさ」

「アタシ達が居ても迷惑じゃないのか?」

大きな瞳を街灯からの光に蒼く煌かせて、花見月は男の顔を下から覗き込むように見つめる。色白で掘り深く目筋の整った可愛らしい顔に見つめられて、男は言葉により一層の力を込めて応じる。

「勿論だよ。逆に歓迎したいくらいだ」

それは二つ返事で花見月の問いを是とした。

「君達、夕食は食べた? もしまだなら俺がご馳走するよ。こう見えて一人暮らしが長いから料理も上手いんだ。食べたいものがあったら言ってくれれれば、好きなものを何でも作ってあげるよ」

「本当かっ!?」

「本当だとも」

男の言葉に花見月が黄金色の瞳を輝かせる。

「花見月、少しは遠慮というものを考えるべきですよ」

「でも、アタシ達まだ晩御飯を食べてないし……、おなか減った」

「それはそうですが、見ず知らずの人に夕食をご馳走になるのは問題です」

「いや、そんなこと無いって。どちらにせよ自分の分は作らなきゃならないんだから、それが多少増えたところで問題なんて何も無いさ。寧ろ普段は一人で食べてるから、君達と一緒に食卓を囲えるというのは俺としても嬉しいね」

花見月という助力を得て、男は必死に夢見月の説得を試みる。

どうやら、男は姉妹を自分の家に招待したいようであった。

一体どういった話の繋がりでそこに至ったのかは、今しがた出くわしたばかりの人間には判断がつかない。しかし、暗がりでの三人のやり取りは、姉妹と男性が知り合いではないという確証を得られるだけの情報を含んでいた。

「ねぇ、山野、これってさぁ……」

まるで汚物でも見るような目つきになった柳沢が、男に視線を向けたまま小声で隣に立つ友人へ声を掛ける。

「お持ち帰りコース?」

「普通だったらこういう時って、兎にも角にも交番へ連れて行くものじゃないの?」

「きっと普通じゃないのよ、あの人は」

「確かに、変な奴は何処にでも居る、っていうのは正解ね」

「説得力があって何より」

幼い子供と夜の薄暗い路地で向き合い、あまつさえ熱心にも自宅に誘っている成人男性とは、果たして、今日の社会教育を受けたものならば思い浮かべることは一つしかない。山野と柳沢もまた例外に漏れることなく同様の結論に至った。

「どうするの?」

「勿論、二人を助ける」

「別にあの二人なら、あんなひょろい男にどうこうされる事も無いと思うけど?」

「けど、なんか癪に障る」

「貴方がそういうこと言うのって珍しいわね」

「……そう?」

「多分ね」

ジッと目の前の光景を見つめる山野の横顔に、柳沢はハァと小さく溜息を吐く。

「まぁ、やるならさっさと終わらせましょう」

「ええ」

見た感じ相手は全うな会社員だと思われる。まさか、獲物を横取りされたからと言って、いきなり襲い掛かってくる事も無いだろう。そう踏んで二人は電信柱の影から身を乗り出した。

「ちょっと、そこのおじさん?」

先に口を開いたのは柳沢だった。

ゆっくりと歩みを進めながら、視線の先に立つ男性に向かい何気ない風に声を掛ける。勿論、その隣には山野が並んでいる。

予期せぬ所から声を掛けられて、男の肩が大仰なほどにビクリと震えるのが見て取れた。

「な、なんだっ!?」

自分の行いが社会通念上どの様に認知されているのかを良く理解してのことだろう。それまでの姉妹へ語りかけていた優しい声色から一変して上擦った声が返された。

「あっ、山野と柳沢っ!」

「な、何故に貴方達がここに居るのですか!?」

柳沢の声を耳にして背後を振り返った花見月と夢見月が、大きく眼を開き驚いた様子で二人を見つめる。それに対して山野と柳沢は彼女達にチラリと目配せだけをして歩みを続ける。そして、強引にも姉妹と男の間に割って入った。

「な、なんだい君達はっ!」

焦ったのはそれまで姉妹との会話を楽しんでいた男性である。炯々とした瞳で己を見つめる柳沢の快活たる態度に小さく数歩背後へたじろいだ。それは湿度気温共に日々上昇の一途を辿る熱帯夜に因るものなのか、彼の額には一筋の汗雫が垂れている。

「迷子になったこの二人を探してたの。何か文句でもある?」

目上の男性に対して敬語を使うことなく、まるで挑むように言い放つ。

「……迷子だって?」

すると、何やら男は語尾を上げて柳沢の言葉を繰り返す。

「ちょっと待ちたまえ。この子達は別に迷子になったとは言っていなかったけれど、それは本当なのか?」

自分を見下したような相手の物言いにカチンときたのだろう。年下の、しかも女から言われたとあって、僅か一言ながら彼の中には素直に身を引けない理由が芽生えていた。加えて、目の前に立つ姉妹の容姿はそれを考えずとも今一度粘るだけの価値があると考えていた。

「二人から何を聞いたのかは知らないけど、顔見知りの私達が来たんだから、もう貴方は必要ないわ。大人しく家に帰りなさい。でなければ肉体的にも社会的にも痛い目をみるわよ?」

「なっ、なんだと?」

明らかな敵意と侮蔑を見せる柳沢の言葉に、男もまた感情を波立たせ始める。

「いきなり現れて、何を失礼なことを言うんだ君はっ!」

「あら、自分が何をしていたのか理解していない訳でもないでしょう?」

「か、勝手なことを言うなっ! お、俺はただ、こんな夜遅くに小さな女の子が出歩いていたから、何か変だと思って声を掛けただけなんだっ! それをどう解釈したらそうなるんだっ!!」

「多分、他の誰が見ても私と同じ結論に行き着くと思うけど?」

「っ!!」

これで相手が強面の男だったりしたのなら、彼も素直に諦めただろう。というか一声掛けられた時点で逃げ出していた。しかし、まだ十代だと思われる少女が相手では、例え相手が二人居たとしても、プライドが邪魔をして引くに引けなかった。加えて、ここで素直に身を引いてしまったのなら、彼女の言い分を認める事にもなる。

「この人に何か変なことされてない?」

一方、男に挑む柳沢の隣で、路上にしゃがみ込んだ山野は姉妹に向き直っていた。

「変なことって何だ?」

人間社会に疎いだけあって、彼女の言わんとすることを理解できずに花見月は首をかしげる。夢見月もまた、突然現れてそれまで自分達に優しく接してくれていた人間に対して失礼な態度を取る柳沢に疑問を覚えていた。

「何故に彼女は彼に食って掛かっているのです? 彼は私達に親切にしてくれた人間です。それを碌に話も聞かず頭ごなしに攻め立てるのは、決して認められるものではないでしょう?」

人間嫌いの夢見月がそう言うのだから、表面的にとはいえ男の態度はそれ相応であったに違いない。

「二人は人間について詳しくないから知らないと思うけど、この人の目的は貴方達の身体だと思う。それを知ってた?」

それを山野はやんわりと諭すように語り掛ける。

「ん? アタシ達の身体?」

「………それはどういうことです?」

「こ、こらっ! 何を失礼なことを言っているんだっ!!」

山野の言葉に狼狽した男が声を荒げて吼えた。

「夜遅くに小さな女の子が出歩いていて、それを変だと思ったのなら普通は交番へ届け出るものでしょう? それが何で自宅へ連れて行くのよ。貴方はこの子達を自分の家に連れ込んで何をするつもりだったの?」

「なっ!!」

柳沢の指摘に男の表情が驚きへと変化する。

「それをしなかったというのだから、最早言い逃れは出来ないんじゃない? まさか、この年になって、その程度の考えも思い浮かびませんでした、なんて言わないわよね?」

「べ、別にわざわざ警察の世話になることもないだろうがっ! それに、俺は二人から迷子だなんて聞いてなかったんだっ!!」

「迷子じゃなくて、どうしてこんな小さい子供が夜更けに街を保護者も連れずに歩いているのよ? 直接説明されなくても事情なんて容易に推測できるじゃない」

「他に理由があると思ったんだよっ!」

「あら、それは何?」

「最近は多いだろうが、家族と喧嘩して家出とか、家庭の事情で家に居られなくなったとか、そういうのが」

「だからって自宅に匿っていいと思ってるの? それこそ警察の仕事じゃない」

「っ……」

ここまで言われてしまっては返す言葉も無い。男は羞恥と憤怒に顔を赤くして目の前の相手を睨みつける。脇で堅く握られた拳が、今にも動き出しそうにプルプルと震える震えている。

一方で勢いを得た柳沢はまるで相手を追い詰めることを楽しむように言葉を続ける。

「あら、もう言い訳は出てこないの?」

「この、クソガキが……」

そして、山野の柳沢が現れた時点ですぐに逃げ出さなかっただけあって、男にもある程度の執着すべきプライドがあった。今回はそれが良くない方向へと働いた。陰湿な光を灯す瞳が柳沢を睨みつける。

「社会不適合者にクソガキ呼ばわりされるなんて心外だわ」

「大人を舐めるなっ!」

「っ!?」

我慢の限界に達した男が大きく腕を振り上げた。

元より並び立って話をしていた姉妹と男の間に割り込んだだけあって、二人の間に大した間隔は無い。肩を越えて上げられた拳はすぐにでも柳沢の顔目掛けて振り下ろされた。その基節骨が頬骨を捉えるには数度瞬く程の間しか無かっただろう。

しかし、柳沢へ向かう一撃は急遽出現した障害物によって軌道を阻まれた。

「なっ!?」

パンッという乾いた音が皆の耳に届く。

振り上げられた男の拳は柳沢の顔面僅か数センチ手前にあって、しかし、夢見月が差し出した小さな掌に収まっていた。彼女の腕は男からの一撃を受けても全く動じることなくピクリとも動かない。足は宙に浮いて地より数十センチだけ離れている。柔らかな手の肉の感触とは対照的に、男はまるで分厚い鉄板でも殴ったかのような感覚に囚われていた。

「お前、もしかして悪い奴だったのか?」

夢見月が男の拳を受けたのと時を同じくして、同様に相手との距離をいつの間にか詰めていた花見月の腕が、驚愕の表情を浮かべる男の首へと伸びた。両者の間には圧倒的な身長差がある。それを補うように、彼女の両足は地面より離れて体躯は宙に浮き上がり、凶悪な握力を持って男を爪先立ちにさせる。

「ぅぐっ!」

喉を締め付けられた男は苦しそうに顔を歪める。手が小さいこともあって、花見月の指は気道を押し潰す様に男の首へめり込んでいた。自分より遥かに小さな、そして幼い少女に腕一本で身体を持ち上げられているという事実は男性にとって驚き以外の何物でもなかった。加えて、その肉体は何故か宙へ浮いているというのだ。徐々に進行する酸欠と相まって彼の思考は混乱の一途を辿る。

余りある苦痛に両手両足はジタバタと激しく動き回るが、まともに頭も働いていない状況では碌な抵抗にならない。時折花見月の身体へ当たっても、人外の耐久力を誇る彼女には些細な影響さえ与えることが出来なかった。

「アタシ達に優しくしてくれたのは嘘だったのか?」

鋭く細められた黄金色の瞳が男を見つめる。

だが、首を絞められて男性は満足に言葉を返すことが出来ない。それどころか、呼吸困難から徐々に身体は力を失い始めていた。状況としては縄で首を吊っているのと大差ない。この状態があと少し続けば、その命も失われるだろう。

「なんで柳沢を殴るんだ?」

血液の循環が滞ることで徐々に赤く変化していく男の顔色に危惧を覚えた柳沢が、慌てて花見月を止めた。

「ちょ、ちょっとまって花見月、そのままだと死んじゃうわよっ!」

「そうなのか?」

己の肩越しに振り返った花見月はキョトンとした表情を浮かべる。

「とりあえず下ろして、危ないから」

そんな彼女に山野もまた言葉を続けた。

「おう、分かった」

二人に言われて花見月は素直に腕を下ろす。

前後左右に忙しなく振り回されていた両足が、つま先にアスファルトの堅さを感じて大人しくなる。首を圧迫していた手が離れると、男は崩れ落ちる様に地面に両膝と両手を付いてゲホゲホと激しく咳き込み始めた。握られていた部位には赤く五本の指の跡がついている。それは手が離れて尚、暫く残りそうな程にくっきりと周囲より浮き上がって感じられた。

「げほっ、げほっ!」

男は時折ビチャリと胃液を吐き出しながら、肩を上下させて大きく息をしている。眦には涙さえ浮かんでいた。拘束から開放されたことで赤みがかった顔色は徐々に元の色を取り戻していく。しかし、酸欠は思っていたより酷く、すぐに立ち上がることは出来そうになかった。

そんな彼の様子を、宙に浮かせていた足を元あった通り地面に下ろして、花見月と夢見月はジッと見つめていた。その表情には多くの疑問と多少の憤りが感じられた。何に慷慨すべきか悩んでいる様にも感じられる。

「これは、私達がこの者に騙されそうになっていた、ということでしょうか?」

自分達の置かれていた状況を理解して、柳沢と山野に向き直った夢見月は、それを確認するように口を開く。

「騙されたところで、こんな奴に貴方達がどうこうされるとは思えないけどね」

「でも、二人は人間のことをあまり知らないから、そこに付け込まれたりするかもしれない。勝手な言葉で言い包められて、知らないうちに変なことをされてたりとか」

地面に崩れ苦しむ男を傍らに彼女達は話を続ける。

「………そうだったのですね」

山野と柳沢の言葉を受けて、夢見月は落胆したように肩を落とした。

そこにはただ単純に他人に騙されそうになった、という結果から得られるであろう以上の沈鬱や虚無感がありありと感じられた。幾らか思う所のあった二人は、そんな彼女の姿を目の当たりにして思わず続く言葉を失ってしまう。

「なぁ、なんでコイツは柳沢を殴ろうとしたんだ?」

すると、その間を取り繕うかの様に、山野達へ向き直った花見月が、一体何がなんだか分からない、といった風に尋ねてきた。一本だけ立てた親指ですぐ隣にへたり込んだ男を指し示している。

「それは私がこの男にとって不利なことを口走ったからだと思うけど?」

「不利なことって何だ?」

「世の中には色々な性癖の持ち主が居るってこと」

「そして、コイツの場合はあまり大っぴらに嘯けない趣味を持っていたってことね」

「それって、私達の身体と関係があるのか?」

つい先程に柳沢が口にした言葉を思い出しながら花見月は疑問を続ける。

「簡単に言えばロリコンだったってことよ」

「日本語では小児性愛とも言う」

「あ、ロリコンってアタシ知ってるぞっ!」

いつぞや説明を受けたばかりの単語を耳にして、花見月が声も大きく応じた。

「ロリコンっていうのはロンリーコンプレックスの略で、他人となかなか馴染めない性格の奴の事を言うんだよなっ!」

覚えたばかりの言葉を嬉々として使おうとする子供の如く、ニパァと笑みを浮かべて脳裏に浮かんだ薀蓄を垂れる。しかし、それは山野と柳沢が予期した内容とは大きくかけ離れたものであった。

「え? なにそれ」

一瞬耳を疑った柳沢が眉を歪めて問い返す。

「ち、違うのかっ!?」

慌てたのは花見月だ。

「ロリコンっていうのはロリータコンプレックスの略で、花見月ちゃんや夢見月ちゃんみたいな小さな女の子に対して性的な興奮を得る性癖の持ち主を指す言葉。勿論、その持ち主っていうのは、そこの彼みたいなある程度の年齢を重ねた男性を指す」

徐々に呼吸を整え始めた男性を指し示して山野が淡々とした説明を加える。

「で、でもっ! 武人はそういう風にアタシに教えてくれたぞっ!」

「何よそれ、なんでそんな嘘ついたのかしら」

「二人が間違ってるんじゃないのか!?」

「いいえ、これは日本人なら誰に聞いても同じ答えが返ってくる筈よ?」

「ロンリーコンプレックスなんて始めて聞いた。確かに語呂は合ってるけど」

訳が分からない、といった様子で二人は答える。

「だけど、武人はそういう風に教えてくれたのに……」

彼女達の反応を目の当たりにして、妹に続き姉までもが顔に影を落として勢いを失う。それまでの笑顔は瞬く間に消えて、視線は頼りない街灯の微光に照らされる薄暗い足元へと向けられる。

嘘をついた本人はとしては他愛ない感覚であったのだろう。しかし、純粋無垢な精神の持ち主である花見月は、そんな些細なことにも大きく裏切られた気分であった。彼女がそれだけ強く武人を信用していたという事実の裏返しである。講釈を垂れた二人にしても、ふっと沸いて出た花見月の隠しきれない戸惑いを肌で感じて、続けるべき言葉に迷い口の動きを止める。

「あ……、理解できました」

そんな時、それまで三人の会話を脇で黙って聞いていた夢見月が、何かを理解した様子で小さく声を上げた。その表情には自らの発見に対する驚きから来る動揺が感じられた。小さく見開かれた蒼い瞳が街灯の明かりを反射してキラリ光る。

「夢見月?」

妹の呟きに花見月が顔を上げる。

一同の注目が夢見月へと向かった。

「何が理解できたんだ?」

「その、なんというか……、あの時、何故に武人さんが焦っていたのかということです。まあ、それは結局として彼が花見月と私に嘘を付いた理由に繋がるのですが……」

姉に問われて、妹は困ったような表情を浮かべつつ、おずおずと言葉を続ける。

「あの時っていつだ?」

「花見月が武人さんと一緒にお風呂へ入りたいとせがんだ時のことです」

「お風呂? それがどうかしたのか?」

つい先日の出来事ながら、今を持って懐かしいとさえ感じられる不思議を胸に抱きつつ、彼女は夢見月へ説明の続きを促す。たしかに、あのときの武人は妙に焦っている様に花見月自身も感じていた。

しかし、それがどうして今頃になって理解できたと言うのか。

「今、お二人はロリコン、ロリータコンプレックスが人の世ではあまり公言出来ないような特殊な性癖であると仰いましたね?」

「え、ええ……、普通はそうだけど」

「花見月と私は武人さんからロリコンという言葉の意味を教えて頂きました」

「そうだ、アタシは確かに武人から教えて貰ったんだっ!」

「ですから、もしもその嘘に何かしらの意味があったとするなら、それは、その……」

そこまでを口にして、なにやら夢見月は先を言い難そうに言葉を濁す。片手で口元を押さえて、その視線は定まることなく宙に浮いたままあっちへ行ったりこっちへ行ったり浮ついている。

そして、それだけを言われれば誰の目にも彼女の言わんとすることは明らかであった。まず気づいたのは花見月、そして、それに若干遅れて山野と柳沢もまた、あっ、と短い声を上げる。

「武人はロリコンだったのかっ!」

「は、花見月っ!」

呆気からんと言ってのける姉に妹が慌てた様子で声を掛ける。

「だから、アタシや夢見月に触られておちんちんを大きくしたんだなっ」

「………」

遠慮無く元気一杯に開かれてしまった彼女の口に、武人の自尊心を思いながらも、夢見月は溜息混じりに己の顔を手で覆うことしか出来なかった。その一言はどのような言い訳を並び立てても撤回、否定出来そうになかった。

「じゃあ、アタシ達に嘘をついたのもロリコンがバレるのが恥ずかしかったからかっ!」

「………私の推測ではそうなります」

最早顔を合わせることは無いであろう武人に心の中で平謝りを続けながら、夢見月は小さく頷いた。

彼女も今にして思えば悪いことをしたと思わざるを得ない。花見月と夢見月はあのとき、それほど考えることなく軽い気持ちで武人の相手をしていた。性器を勃てているのだから、ならば気持ち良くしてあげるのは親切だろうと。しかし、一方で彼は必死に自分の欲望に抗っていたのだ。本人は物理的な接触から勃起してしまったと弁明していたが、やはり全ては精神的なものだと仮定するのが妥当だろう。そう考えると、夢見月の中での武人の株は更に上昇することとなった。なんて紳士的な精神の持ち主だろう、と。

「芹沢君……、ロリコンだったんだ」

「やっぱり、彼は最低ね」

一方、同じ学び舎で席を並べるクラスメイト達の市場においては、彼の株価は暴落の一途を辿っていた。僅か数度の言葉のやり取りで、元からそれほど高くない彼の株は本日のストップ安を向かえて、あっと言う間に屑株と成り果てていた。新たな事実の公表を受けて柳沢はあからさまに眉を顰めている。

「あの陰険な性格は何かあると思ってたけど、よりによってロリコンとはね」

「何歳ぐらいまでいけるんだろう……」

「二人の容姿からして、小学校低学年でも平気で手を出しそうね」

「7,8才くらい?」

「正直、一体どういう頭の構造をしてたらそう思えるのか理解できないわ」

山野と柳沢の二人は頭に思い浮かんだ言葉を躊躇うことなく次々と吐き出す。特に柳沢は過去に武人に対して負い目があったこともあり、それを否定するだけの材料を見つけたことで、嬉々として罵詈雑言を並び立てた。

「けど、それだったらもっと沢山、おちんちん舐めてあげれば良かったなっ!」

そして、ここへ来て更にとんでもない爆弾が投げられた。疑問が解けて嬉しいのか、満面の笑みを取り戻した花見月が快活として言葉を続けたのだ。その内容は天下の往来で口にするには些か憚られるものだった。

「な、なによそれっ!」

応じて、今度は柳沢と山野が驚く番であった。

「おちんちん……、舐めたの?」

大きく目を見開いた山野が恐る恐る尋ね返す。

「一緒にお風呂に入って身体を洗いっこしてたら、急に武人がおちんちんを大きくし始めたから舐めてやったんだ。アタシが前からおちんちんを舐めて、夢見月が後ろからお尻の穴を……」

「そ、それ以上は口にしないで下さいっ!」

被害が己にまで及ぼうとして、慌てた夢見月が止めに入る。

横から抱きつかれる様にして、花見月は口元を手で強引に押さえられる。続きはモガモガと歪んで全うな言葉にならなかった。しかし、それまでの語りで十分すぎるほどの情報が山野達には与えられてしまっていた。

応じて二人の姉妹を見る目が変化を見せる。

というのも、山野と柳沢の二人は高校二年にあって未だに男性経験が無かったからだ。自分達よりも幼い肉体を持つ花見月と夢見月が、既にそういった行為に対して経験を持っているということは、ある種の衝撃を伴った。それはある特定の領域において自分が格下だと考えていた相手が、実は想像していたよりも遥かに高みに座っていた事を不意に知らされたような、そんな驚きと敗北感である。つまりは羨望だ。

「そういうことは人様の前で口にしては駄目なのですっ!」

「ほぅはほぉはぁ?」

「そうなんですっ!」

叫ぶ夢見月の頬はほんのり朱に染まっていた。

一方の花見月は、そんな妹の態度が理解できていない様子だ。

「分かりましたか!? もうこれ以上喋っては駄目ですよっ!」

「ほぉぅ、わはぁっはぁ」

コクコクと頷く花見月に、やれやれだとばかりに夢見月は手を離す。

「もしかして、無理矢理芹沢君に迫られた?」

他人の色恋沙汰、肉体関係、そういったものに好奇心を発揮するのは山野も一端の女であることの証明か、それとも一方が化け物であるが故の興味か。早速とその口が二人に向けて開かれた。

「武人さんの尊厳を守るために言っておきますが、事を始めたのは花見月と私です。ですから、彼には別に何もやましい事はありません。ただ、その、不運にも私達の身体と武人さんの趣味とが一致してしまったというだけで」

「なんていうか……、化け物っていうのはそんなに開放的なものなの?」

普段からの威風堂々とした勢いを失い、おずおずと柳沢が尋ねる。

「勿論、私達だって誰でも相手にするという訳ではありません。ですが、花見月は武人さんのことを随分と慕っているようですし、私も吝かではありませんでしたから、その、至ってしまったと言うか」

「アタシは武人や夢見月以外の奴とはしたくないぞ」

「それは、芹沢君のことが好きということ?」

「人間達のそれが特別な感情を必要とすることは理解しています。そして、私達のような化け物にしても多くは同様です。ですが、幾分か長く生きていると貞操観念も曖昧になる傾向があるのです」

「伊達に数百年と生きてないのね」

「無論、私も武人さんの事は好ましく思います。ただ、それが必ずしも貴方達が想定しているものと一致するとは限らないと言うことです。そして、行為に対する意味も若干の隔たりを持つかもしれません」

「でも、アタシは武人のこと好きだぞ?」

「その花見月が言う好きという意味と、彼女達が考える好きという意味がこの場合は少し違うということです。根底にあるものは同じでしょうが、そこに向けるものの質が違うと言うか、この場合は人間社会の上に成り立っている別の概念が絡んでくるのです」

「同じ好きなのに違うのか?」

「大凡は同じですが、些細なところで異なっていると思います」

「へぇ、人間とは違うのか……」

妹の言わんとすることを理解しているのか、神妙な顔つきで花見月は頷いた。

「これって異文化コミュニケーション?」

「そこまで大層なものではなく、要はどの程度を好ましく思っているかを計る指標が、貴方達と私達とでは少しだけ違っているということでしょうか。いえ、どちらかといえば、計られた値とそれに付随するものとの対応が異なっているのですね」

「なるほど……」

夢見月の説明に山野と柳沢の二人は小さく相槌を打つ。

「それにその、今回は口でしただけですし……」

自ら掘った墓穴に顔を赤らめながら弁明を付け加える。

「全ては私と花見月が望んだことですから、武人さんを悪く言うのは私としても止めて頂きたいです」

貞操観念が曖昧になっていると主張する割には、性に対して開けっ広げな花見月とは対照的に、夢見月の態度からは人間と同様の恥じらいが感じられた。これも人間社会に対する関わりの頻度から来る差だろうか。

「要するに色々と達観しちゃってるのね」

ある程度の納得を得た様子で柳沢も頷いた。

「人間は加齢と共に生理機能が衰えます。ですが、化け物は幾ら年を重ねても基本的にそういった肉体の衰退は起こりません。その辺の違いから来ているのでしょう。特に私たちの場合は外見の変化もありませんから」

「私達からすると、本当に羨ましい事よね」

「ええ、プニプニの肌とか艶々の髪とか素敵」

「ですから、今回のことにしても武人さんの趣味は何れにせよ、私達の実年齢を考慮したのなら、それは正常なことだと思うですが……」

せめて武人に対する二人の侮蔑を取り除こうと夢見月は言葉を続ける。

「でも、やっぱり人間は外見がすべてなのよ」

「二人とも小さな女の子だし」

「あの、これでも私達は貴方達の祖父祖母より幾倍も年寄りなのですけれど……」

「きっと、彼ははそんなこと意識してなかったと思うわ」

「ただのロリコン」

「………」

「なるほど、武人は小さい女の子が好きなのかぁ……」

元より彼女達の武人に対する態度は素っ気無いものであったが、これで彼に対する風当たりが更に強くなることは誰の目にも明白であった。もしも本人がこの場に居たのなら、今が夏休み期間中で良かったと誰にでもなく呟いていたことだろう。遠くクシャミの聞こえて来そうなやり取りである。

「あぁ……、花見月に釣られて余計なことを喋ってしまいました」

一頻りを語って、自己嫌悪に陥ったかのように夢見月は頭を抱える。

そこには二人に自分達の秘め事を知られたという事実よりも、武人の世間体を悪くしてしまったと言う後悔の念が大きく働いていた。誰に言うでもなくボソボソと呟いて、すみません、すみません、と謝罪の言葉が繰り返される。

「ところで、この人はどうする?」

話題が一区切りしたところで、それまで蔑ろにされていた男を視線で指し示した山野が皆に尋ねた。

周囲の注目が自分に移ったことを理解して、男はヒィと小さく声を上げた。

「な、なんだよっ! 俺をどうする気だよっ!!」

どうやら花見月に痛めつけられたことで、今までの威勢は吹き飛んでしまったようだ。地面に腰をつけたまま、尻を地面に擦りつつ無様にも後退する。その顔には明らかな怯えが見て取れた。

暫く時間を置いたことで、首に受けたダメージからは復帰しているようである。依然として首の皮膚には赤く指で締め付けられた跡が残っているものの、特に支障なく言葉を口にしている。

「別にどうするもこうするも、ねぇ」

腕組みをした柳沢が他の三人を見渡して何か同意を求める様に呟く。

「人間の世では人が一人死んだだけでも大きな事件として扱われるのですよね?」

「明日の朝刊に載ると思う」

「でしたら、特に害がある訳でもありませんし、放って置けば良いかと思いますが」

「夢見月がそう言うならアタシもそれでいいぞ」

既に興味も無くなったとばかりに姉妹は言い放つ。

周囲から汚い物でも見るような視線を向けられて、男は居ても立っても居られない気分になる。特に自分好みの幼い少女から侮蔑の意を向けられるのは、これ以上無い屈辱と悲しみがあった。

「く、糞ッ!」

これ以上をこの場に居た堪れなくなり男は立ち上がる。

既に相手の力量を判断している姉妹は、それに動じることなくつまらなそうにその姿を眺めている。出会って当初こそ、なんて親切な人間だろうと小さな感動の一つや二つを胸に秘めたものの、それも今や跡形も残らず霧散していた。中途半端に期待しただけ反動も大きかった。

「お前等、いいか、覚えてろよっ!」

よろよろと立ち上がった男は、近くに転がっていたスーツケースを慌てた様子で拾うと、短い捨て台詞を残して薄暗い路地を走り去っていった。

「警察に通報されなかっただけでもありがたく思って欲しいわね」

街灯の少ない薄暗い細道に、ダークグレーのスーツはすぐに溶けて見えなくなる。遠くカツカツと革靴がアスファルトを叩く音だけが、男が徐々に遠ざかっていく様子を彼女達に伝えた。そして、男が曲がり角を一つ曲がればその気配も完全に途絶えて消えた。路地裏には四人の小さな息遣いだけが残る。

そして、この時を待っていましたとばかりに山野が口を開いた。

「ところで、私から二人に提案があるの」

正面から姉妹に向き直って言う。

薄暗い路地にあって妙に輝いて見えるその瞳に、隣に立つ柳沢は一抹の不安を覚えた。

時刻は午後10時を少し回った頃合。

「おーい、武人、鍵だ」

安いビジネスホテルのフロントに立つ義人は、チェックインに伴う一通りの手続きを済ませて後ろを振り返る。そして、手にしたそれを何気無い動作で無造作に投げつけた。部屋番号が刻まれたプラスチック製のキーホルダーと、それに繋がれた一本の鍵が放物線を描き数メートル離れて設置されたソファーに座る武人の手元にカチャリと音を立てて落ちる。

「もしかしてシングル?」

投げ渡された物と同様の物を、父親もまた手にしていることに気いて疑問の声を上げた。

「ああ、なんでもそれしか空いてないそうだ」

「ふぅん、これまた不経済なことだね」

「予約を入れてなかったんだから仕方ないさ。入れただけマシだと思っとけ」

「そうだね」

呟いて傍らに置いたリュックを手に立ち上がる。

何故に夜分遅くこのような場所に足を運んだのかと言えば、自宅をこれでもかという程に破壊されて、二人は一晩の外泊を余儀なくされたのだった。彼等の寝室は二階にあり、そこまで直接の被害は及んでいないので、ある程度の妥協を伴えば一夜を過ごすことも出来た。しかし、リビング付近にあって二階を支える太い柱の数本が圧し折られていた事を危惧した義人がそれを却下した。万が一にも倒壊に巻き込まれては堪らないだろう。また、電気系統の分断から下手に生活の場としては、漏電から火事の危険性を孕むという指摘もある。

ということで、各フロアのブレーカーを落とし、水道を水道管の根元から止め、大きく損壊したリビングにブルーシートを被せた後に、二人は必要最低限の着替えと財布や通帳といった金品等を手に家を出たのだった。

「502号室か」

手渡された鍵に付けられたキーホルダーに掘り込まれた部屋番号を読み上げる。

「俺は隣の501号室だ」

「ところで、今日はいいけど明日はどうするの?」

フロントから多少離れて一階ロビーに設置されたエレベータは、丁度良く籠が降りて来ており、上向きの矢印を模るボタンを押すと扉はすぐに開いた。二人は言葉を交わしながらそれに乗り込む。

「この調子だと暫くは外泊続きだろうな」

「ここって一泊幾ら?」

「大人一人でシングルなら8500円、ダブルなら6500円だそうだ」

「それって財布は大丈夫なの?」

「まあ、そう何週間と続かなければ何とかなるけど、あまり無駄遣いは出来ないな」

「どこかに部屋を借りる?」

「今後を考えると、それが無難だろうなぁ……」

薄暗い照明に照らされて、コーヒーでも零したのだろうか、足元の淡い茶色の安っぽい絨毯に黒く拳大の染みが浮かび上がっている。それを意味も無く踏みつけながら、ゆっくりと動くエレベータの動作に小さく身体を揺らして、義人は今後の身の振り方に一考する。物件の賃貸に加えて住居の修繕にかかわる手続き、それに伴い遅れるであろう仕事の日取りの決め直し、やらなければならないことは山積みだった。

「まぁ、今日はもうこれ以上考えるのを止めよう。色々とあって頭がパンクしそうだ」

「………そうだね」

武人が小さく頷くのと同時に、チンと軽い音を立ててエレベータが止まった。室内に設置された電光板には籠が目的のフロアに到達したことを示す表示がなされている。ゆっくりと開くドアから出て、二人は大して広くないフロアで若い部屋番号を追いながら自室を探した。ダブルの部屋が満室となる程に利用者が多いのかと思えば、その間を他の客とすれ違う事無く二人は目的の二部屋を見つけた。

「それじゃあ、俺はもう寝るわ」

「うん、おやすみ」

「また明日な」

なんだかんだで疲労が溜まっていたのだろう。義人はそう言って交わす言葉も少なく早々に割り当てられた部屋へと消えていった。何の娯楽設備も無い簡素なビジネスホテルにあっては一人で出歩いていても仕方が無い。武人もそれに習い義人が消えたのと隣の扉に手を掛けた。

入ってすぐ廊下に設置された照明のスイッチを上げる。

パチンという音と共に薄暗い白熱電球による間接照明が一挙に灯る。月は一道の幽光を射て、惘々としたる彼の顔を照せり、とまではいかないが、自室の蛍光灯になれた武人としては、本を読むに多少の不便を感じる程度の微光である。

部屋は二,三歩で端から端まで到達できる極短い廊下と、それに面して入り口の付近に薄い扉を一枚挟んで設置されたユニットバス、空間を同じくするトイレ、そして最奥に人が一人寝泊りする為だけの小さな居室空間があった。所謂、1Kと呼ばれる間取りからキッチンを取り払った作りである。部屋は大凡六畳程の広さを持つが、ベッドに机、組になった椅子、コイン式のテレビ、そして小型の冷蔵庫が設置されているので、その坪面積の割に妙な息苦しさを感じる。出入り口から見て正面の一番奥ばった場所に設置された窓には自分で退けるのが嫌になる程に暗い色のカーテンが全面に掛けられており、良く言えば部屋の利用者の気分を落ち着かせ、悪く言えば陰鬱にさせる。

「はあ……」

そして、武人に関して言えばそれは後者であった。

一通り室内の設備を確認した後に、手にした荷物を床にドスンと落とすと、大きな溜息をついてベッドの上に身を放り投げる。碌に凹まない堅く使い古されたスプリングがギシッと金属の擦れる音と共に、支えを失った身体を受け止めた。

薄ぼんやりと天井の隅の暗がりを見つめながら深呼吸を一つ。

「随分な夏休みもあったもんだね」

衣服の詰まった背負い鞄を身に付けて歩いたお陰で、仰向けに横たわると足の裏がジンジンと熱を持って疼いた。それがなかなか心地良い。とはいえ、義人はそうでもなかったようだが、武人は特にこれと言って疲労が溜まっている訳では無い。今日は一日中を家の中で過ごしたし、普段から就寝時刻は夜の一時を過ぎてからなので、まだ十一時にも至らない夜更け前では眠気も訪れないのだった。それでもこうして横になったのは、他にやることが無いからである。

ここには慣れ親しんだコンピュータも無ければ、手に取ることの出来る書籍も見つけられない。備え付けの机の引き出しにはどういう訳か聖書なんぞ入っていたが、完全な無神論者である武人にとっては無用の長物だ。それでも最近は色々あって、神様だってもしかしたら居るかもしれない、などと考えることがあるが、ただ、それはまだ現物を見ていないので保留事項だった。

机のすぐ隣には薄型ディスプレイ全盛のこの時代にあって、本当に映るのかどうか怪しい年代物のブラウン管のテレビが設置されている。その筐体には一時間五百円と割高な額面が打ち付けられていた。電源ボタンを幾ら弄っても、コインを入れないことにはうんともすんとも言わなかった。まさか財布を出すことも無い。こんなことなら文庫本の一冊でもリュックに放り込んでおけば良かったと武人は軽く後悔した。

「なんだって、こうも面倒な事ばかり起こるんだよ」

誰に言うでもなく溜息混じりに呟く。

己の置かれた非日常的な立場のお陰で思考は中途半端に活性化していた。

とはいえ、口を開けば出てくるのは愚痴ばかりである。元より独り言と愚痴の多い自分ではあるが、この時この場所でならば、誰がその吐露に文句を言えるだろうか。そんな事を一人胸中に思いながら静かに目を瞑った。

そして、肉体が暇になると同時に遊休を持て余す思考は良くない空回りを始める。

それは武人の良くない癖だ。

思い浮かんだのはつい先刻、自宅で狼男とその仲間が自宅へやって来たことである。

「…………」

いきなり腕を掴まれて、更に胸倉を掴まれそうになって、脅された。

その時の情景を思い返して彼が考えることと言えば一つ、静奈の居場所を教えてしまった事に対する数々の言い訳である。生まれながらの小心者である彼だ。例え都合二日間生活を共にしただけの相手であろうと、それを我が身可愛さに売ったのだという事実は心に蟠りを生み、大変大きな精神的重圧と成り得た。

伊達に小中高を虐められっ子として過ごしていない。その精神的な脆弱性は成人を三年後に控えても生来より依然として改善されてはいなかった。それは本人も確かに理解して劣等感として感じている。だが、肉体的な不出来ならまだしも、精神的な欠陥は己の意思ではどうにも改善出来るものではなかった。繊細な、と言えば聞こえは良いが、弱虫と言われれば泣く他に無い。

静奈だって僕を捨てたじゃないか。

それだけが、武人が唯一自分を納得させられそうな言い訳だった。

けれど、それを持ってしても悩むのが彼の彼たる所以である。特に今回はその身を売った相手が悪かった。伴う損失が多少の金銭のやり取りや時間の浪費程度で済む所業ならまだ良い。だが、現実は虚しく最悪を仮定せずとも容易に生命を刈り取らんとする裏切りだった。特に彼は静奈の隣に西光坊という強力な従者が居ることを知らない。狼男に狙われたのなら、それは静奈にとって確実な死であると考えていた。

だからこそ、喉元過ぎても熱は依然として胃を焼き腸を焼き彼を苛んでいる。いや、まだ咥内に留まっているのかもしれない。もしも自分の行いの為に顔を知った相手が命を落としたのなら、と考えると堪らない気分だった。

勿論、頭では他人の命なんて自分のそれとは比較にならない程に陳腐だと結論を出している。仮に、今すぐ自らを差し出せば代わりに彼女を助けよう、と提案されたとしても、彼は即座全力で断るつもりでいる。自分から助ける気も毛頭無い。過去に静奈が己の捨てた事も、武人はそれが一番自然で妥当な選択であったと考えていた。今でもその考えは変わらない。

しかし、頭では理解していても心は常に罪悪感を意識し続けるのだった。

加えて、精神的に脆弱な彼にとって、そのしこりは無視するに大き過ぎて、己の精神に対し良くない雑音を思考のループに正帰還させる。それはまるで音響回路において音が回るが如くである。

「運が悪いにも程があるよ……、だから引越しなんて嫌だったんだ」

今頃、彼女は何をしているだろうか。

そう考えると居ても立ってもいられない気分になった。けれど、そういう気分になるだけで自ら動くことは無い。ただ、時間が過ぎてこの嫌な感覚を流してくれることを信じ待つのみである。

それから暫くの間を、武人は終わりの見えない自問自答を続けた。

僕は悪くない。別に負い目を感じる必要なんて無い。誰だって自分の命が一番大切なんだ。あの時は父さんの身も危うかったんだ。静奈も僕より自分を優先したんだ。これが自分の中で最も論理的にリスクを考えた結果なんだ。

幾ら否定しても浮き上がってくる不安と後悔の念を、何度も何度も押し退けては意識の届かないところへ追いやろうと努力した。そんなこと気にするな、別に他人がどうなったっていいだろうが、そう自分に言い聞かせた。

だが、幾ら考えても結局は何も変わらなかった。

「ああもうっ!」

次第に苛立ちの混じり始めた自分を感じて、武人は勢い良く身体を起こした。

内に溜まった熱にジッとしていられなくなったのである。

「……喉が乾いたじゃないかっ」

腰をシーツから上げて苛立たし気に立ち上がった。

ジーパンのポケットを上から触って財布が入っていることを確認する。フロアのエレベータ付近にジュースの自動販売機が設置されているのは、この部屋へ向かう際に確認済みである。多少割高ではあったが、今更建物の外へ出て歩くのは抵抗があったので、数十円は妥協することにした。

「何か飲み物でも買いに行こうか」

デスクの上に放られていた鍵を手に部屋を出る。

ガチャリと音を立てて扉の錠を閉めた。

義人と二人で歩いていた時はそれほど意識することもなかったが、ビジネスホテルということもあって一歩出た廊下は室内と同様にとても静かだった。周囲に人の気配は感じられない。一枚ドアを挟んだ居室内には誰かしらが居るのだろうが、比較的堅強な作りの建造物なのか、音が漏れて聞こえることも無かった。

「まるで悪い夢でも見ているみたいだよ」

ブツブツと止め処無く愚痴を零しながら、エレベータ付近に配置された自動販売機の並ぶ一角へ足を向ける。一フロアに十数室の居室を構える同ホテルの規模はそれほど大きなものでない。

堅い毛並みの絨毯が敷かれた、薄暗い照明に照らされる廊下をてくてく歩く。成人男性が余裕を持って互い違える程度の幅を持つ廊下、その角を数回曲がると、すぐに目的の場所へ辿り着いた。

エレベータの設置された隣の四畳半程だろうか、それほど広くない開けた空間に数台のジュースやアルコール類を販売する自動販売機が横並びに設置されている。商品のサンプルを飾るショーケース内に配置された蛍光灯の明かりが、その一角だけを中途半端に照らし出している。背の低い照明の存在は薄暗い空間の天上隅に明瞭な闇を作り、それだけで何か不気味に感じられた。

「コーラ、コーラだよね、こういうときは」

チャリンチャリンと財布から取り出した硬貨を投入していく。幸いにして目当ての清涼飲料水は売り切れている事も無く、ボタンを押せばガタコンと筐体を小さく揺さぶり商品は落とされた。

ひんやりとした感触が手の平に心地よい。大気に触れてすぐに雫を纏い始めた缶を片手に武人は元来た道を戻ろうと踵を返す。すると、そこでふと目に止まるものがあった。それは周囲を自動販売機に囲まれて、空間の隅にポツリと置かれた機械だった。

「なんだこれ……」

見慣れないものを疑問に思い近づく。

答えは機械の正面に描かれた一枚の絵を目の当たりにした時点で即座に理解できた。その機械というのは新幹線の内部に設置されている記念テレフォンカードの販売機と同じような形をしていた。鉄製の筐体には正面に広告のイラストを納めるガラスケースが配置され、隣には紙幣を入れる口と、なにやら同じ金属のレバーが一つ付いている。

そして、その広告のイラストというのは、あれであった。

『淫乱素人女子高生の野外露出紀行 ~東京下町編~』

『巨乳ナース集団強制陵辱』

『お兄ちゃんと一緒☆あったかミルクちょうだいっ!』

等々……。

所謂、衛星放送の成人向けチャンネルを利用する為のプリペイドカードを販売する自動販売機であった。広告として張られている番組案内は既に印刷も色褪せており、かなり古いものであることが伺える。

「なんだ、アダルトビデオのチケットか……」

これが一昔前の健全な男子であったならば、夜な夜な大人の目を盗んで必死に機械へ紙幣を押し込み、そして、ドキドキと胸を高鳴らせながら得られたカードをテレビへと突っ込んだことだろう。その日の夜は寝るのも忘れて、文字通りビデオ鑑賞に精を出すに違いない。

だが、今はコンピュータネットワーク全盛の時代である。その恩恵に授かって、彼もまた写真の上に限った話なら裸の女性の姿だって見慣れたものだった。アダルト画像など自分が避けようとも相手から寄って来る程である。だから、目の前の機械は特にこれと言って騒ぎ立てするような物ではなかった。広告として貼り付けられた写真も、上半身裸の女性達が僅かな布着れを身に纏い煽情的なポーズを取って購買者へ妖艶な視線を向けている、他所で幾らでも見つけることの出来る有り触れたカットだった。

「…………」

同じ画像がコンピュータのディスプレイに表示されても、多くは何の反応もしないだろう。視線を向けることさえなく、視界の隅でスクロールされいつの間にか画面外へ消えている、その程度だ。

しかし、何故だろう、今も昔も一つだけ変わらないことがある。

こういう場所で出会ったアダルトチャンネルの広告というのは酷く男性の股間を刺激する。

加えて、今は手元に何も暇つぶしの道具が無い。部屋へ帰っても何もやることが無いのだ。そんな環境が機械への武人の興味を大いに誘った。思い返してみれば、知識としてはその存在を知っていたが、実際に利用した経験は無い。

「暇なんだよな……」

同時に思い返されるのは、過去に経験した静奈や姉妹との秘め事である。

「……………」

柔らかな幼い肉体に触れて感じる肌の温かみが、毛の生える気配さえ見られない薄紅色の恥丘の感触が、微塵も膨らみを感じられない、中央に桃色の乳首だけが確認できる薄い胸が、薄っすらとアバラの浮いた華奢な脇が、触れれば容易に折れてしまいそうな程細い、しかし、それでいて妖艶なまでに色っぽく影を落とした四肢が、尋常でない勢いで脳裏を足早に駆け巡る。

「僕はロリコンなんかじゃ……、ないんだからな」

誰に言うでもなく小さく呟く。

「そう、ロリコンじゃないんだ」

だから、巨乳物のアダルトビデオを見てもちゃんと興奮するんだ。

そんな言い訳染みた弁明は、僅かな間を置く事無くふっと沸いて出た。

その手がポケットに収まったばかりの財布へ伸びるには、然して時間も掛からなかった。

「今宵も蒸し暑いのぉ……」

不謹慎にも拝殿に設置された賽銭箱の上に腰掛け、爪先が宙に浮いた裸足をやる気無さ気に揺らしながら、静奈は着物の襟元を指で摘んではたはたとはためかせる。もう一方の手には何処から持ってきたのか、団扇が一本握られていた。その小さな手首が返される度に長く繊細な黄金色の長髪が風に乗って揺れる。

日が落ちても去らぬ熱に困った様子で、緩く眉を顰めていた。

「今は夏も真っ只中ですからね」

応じる西光坊は静奈の隣に立ち、同様に手にした団扇で主の顔へ微風を送っている。その表情は至って涼しげだが、額には薄っすらと浮かぶ汗の雫が見て取れた。身に付けた白いシャツの襟は些か湿って色を変えていた。

「だからと言っても、この暑さは無かろう? いかに化け物と言えど、内に溜まる鬱憤でどうにかなってしまいそうじゃ。特にここ最近の夏は妙に暑くて敵わぬ。これでは寝るにも寝れんだろう」

「なんでも人の所業で、この世は年を追う毎に暑くなってきているそうです」

「それもまた、迷惑な話もあったものじゃ」

場所は芹沢宅から程近い、木崎湖の畔にポツンと建てられた神社の境内。日も暮れて随分と立つ頃合に、二人は何をするでもなく意味の無い言葉を交わしながらそこに居た。例によってここ数日の間で静奈が身に付けた癖に因るものである。

それは西光坊という話し相手を得て尚も治ることは無く、そうする事が半分習慣と化していた。また、特に今日に関して言えば、気温湿度共に高く布団の上に横たわる気にはなれなかったのだ。一度は横たえた身体も汗に湿った布団の上では睡魔より不快感が先に立った。それゆえ普段よりも遅い時間帯まで、こうして二人は駄弁っている。

ちなみに見た目はおんぼろな神社であるが、内に限りそれは誤りである。外から覗く分には彼女の幻術により外観相応のつくりを垣間見ることが出来る。しかし、力ある者が見ればそこには寂れた作りの小奇麗な六畳程の和室が存在するのだ。

「これは一度、増えすぎた人間を間引くべきかのぉ」

蝉の音に代わり神社の境内にはジー、ジジーと螻蛄の鳴く音が断続的に響いている。周囲には家屋も少なく、また、唯一面した道路の交通量は、夜のこの時間帯になると零にも等しい。虫の鳴き声以外に音を感じさせない空間は、そこに立つ者の心を癒すかのように、ただ、ゆっくりと流れる時間だけを感じさせた。

しかし、妙に高い気温湿度も手伝って、快適に、とは言えなかった。

「静奈様が望むのであれば、明日にでもこの辺りに住まう者達を一掃しますが」

何気無い静奈の呟きに、西光坊は至極真面目な表情で答える。

「…………冗談じゃ、本気にするな」

洒落の通じない瀟洒な従者に呆れた様子で突っ込みを入れる。

「そうでしたか」

「それよりも今は今宵の熱をどうにかする方法を考えるべきじゃろう」

「はい」

文明の利器に疎い彼女達にすれば関係の無い話かもしれないが、気象庁の報告では付近一帯の気温は夜の十時を回った現在でも依然として三十度近いという。これでも全国的に見れば標高の高い地域にあるので他所と比べれば大分マシな方だと言うのだから、どれだけ今宵の熱帯夜が凄まじいものであるか分かるというものだ。

無論、満足に管理されているかどうかも怪しい社には電気などというハイカラなものは通っていない。唯一の清涼具は手にした団扇のみであった。それにしても竹製の柄に和紙を張った古めかしい作りの品で、所々に開いた穴がその効率を下げていた。

「汗ばかり出てくれて、いい加減に喉が渇いてきたな」

「何か買って来ましょうか?」

静奈の何気無い呟きに、しかし、間髪置く事無く西光坊は応じる。

「ならば一つ頼もうか」

「何か御希望はありますか?」

「そうじゃのぉ……」

ふむ、と腕を組んで考え始める。

これが一昔前ならば、喉が渇いても口に入れるものなど水か茶か酒くらいしか選択肢が無かったのに、人間共はこれだけの短い期間でよくもまあこれだけの嗜好品を生み出したものだと、最近になって人間社会へ触れることの多くなった静奈は妙に懐かしい気持ちになる。

「ほら、あれじゃ、なんといったか、あの赤黒い液体が飲みたいぞぇ」

ふと過去に武人から貰い飲んだ炭酸飲料水を思い出した。

「血ですか?」

「そんなものを今飲んだら喉元に引っ掛かって仕方が無い。我が欲しいのは人間共が好んで飲むと言う、なにやらパチパチと口の中で弾ける毒の如き飲み物じゃ。たしか人を叱りつけるような名であった気がするが……」

「それと言うのは、若しやコーラですか?」

「おお、それじゃそれじゃ。あやつもそのように呼んでいた気がする」

初めて口にした時こそ、咥内で弾けた予期せぬ刺激に毒でも喰らわされたかと驚いたが、慣れてみればなかなか癖になる飲み物だと静奈は感じていた。彼女はそれほど人間の社会を毛嫌いする事も無く、それが良い物であれば率先して手を伸ばす節がある。

「分かりました、それでしたら近場で購入出来ますので、すぐに戻れると思います」

「悪いのぉ」

「いいえ、これも私の務めです」

「我ばかり一人で飲んでいても詰まらぬから、主も己の分を買うて来るがいい」

「はい」

静奈の言葉に小さく頷いて、周囲より多少位置を高く設置された拝殿から下りに十数段から成る石畳の階段を一息に飛び降りる。そして、西光坊は足を宙から僅か浮かして音も無く鳥居へ向かい飛び去っていった。月明かりのみを光源とする闇夜にあっては、彼女の真っ黒な燕尾服の背は、すぐに闇へ溶けて見えなくなった。

「ふむ、なんともせっかちな奴じゃ」

その後ろ姿を眺めながら、彼女は一人蒸す夜に団扇で小さな風を作る。

それからどれ程の時間が経っただろうか。

あまり長くは経っていないだろう。

語るものの居なくなった境内で静かに従者の帰りを待っていると、脇の茂みからなにやら人が地を踏みしめる音が聞こえてきた。サクサクと枯葉を踏みしめながら賽銭箱の上に座ったままの静奈の元へ近づいてくる。

「なんじゃ、そんなところから帰って来おって……」

肩越しに音の聞こえてくる方向へ振り向く。

だが、そこに見つけたのは彼女が待つ従者では無かった。

「夜分遅くに失礼します」

西光坊より更に身の丈の大きな男が二人、薄暗い茂みを背後に立っていた。

共に人間の姿を取るマシューとジェームズである。マシューは昼に出会った時と同様に上下とも真っ黒なスーツを身に纏い革靴を履いていた。ジェームズも昼夜を通して同じジーンズを穿き、ただ、上だけは西光坊との小競り合いの後で着替えたのか、色の違う真っ赤な袖の無い薄手のシャツに腕を通していた。

「……昼の意趣返しかぇ?」

ぬかったと焦る内心を隠して、静奈は平静を装い言葉を返す。

「いえ、そういう訳ではありませんよ」

二人はゆっくりと歩を進め、静奈まで手を伸ばせばすぐに届く位置までやって来た。

そんな彼等に静奈は動じる事無く賽銭箱の上に座ったまま顎を上げて視線を返す。

「では何故か?」

「私達に同行願いたく参上いたしました」

「我のような何処にでも居る月並の化け狐に何の価値がある?」

「それは私の口から言うまでもないでしょう? こうして私達が貴方の一人を狙ってきたことを考えれば容易に推測の出来ることです」

「やはり西光坊が目当てかぇ」

「彼女とは一体どういったご関係で?」

「なぁに、ただの茶飲み仲間じゃ。ついでに言うと今日はコーラ飲み仲間じゃ」

「それにしては随分と歳に離れを感じますが」

「同じ皿の茶請けを摘むに歳は関係あるまい?」

こんなことなら自分も一緒に行けば良かったと思ったが、後悔先に立たずとは良く言ったことで、今は目の前の相手をどうするか考えるべく静奈は思考を巡らせる。とはいえ、能力差は絶望的なまでに大きい。相手をするどころか満足に逃げることすら敵わないことは容易に理解出来た。

「まあ、その辺りも後で追々語っていただくとしましょう」

「我をどうするつもりじゃ?」

「貴方には彼女を釣る餌になって頂きます。差し詰め、海老で鯛を釣るといったところでしょうか」

「それにしては、掛ける餌の割りに随分と仕掛けが貧弱に思えるがのぉ。他の魚と比べても鯛の食いつきは特に激しいぞぇ? 餌だけ持っていかれるのがオチじゃ」

「その辺は竿の性能と、それを振るう腕で補わせて頂きます」

「ふふん、地球を釣って糸を切るが目に見えておる。坊主で帰るがオチじゃろうて」

「確かに、彼女と比べれば私はまだまだ坊主と呼ばれても仕方の無い若造でしょう」

「ならば出直して参れ」

「ですが、坊主にも坊主なりの事情があるのですよ」

二人の視線が音も無く静かに交わりあう。

碌に風の吹いてこない今夜、僅かに言葉を交わしただけでも熱を持った身体が汗を出す。頬をつたり伝った汗の一滴が顎から離れて檜で出来た古い賽銭箱の上枠に落ちると、繊維にジワリ染み込み小さな影を作った。

耳に届く虫の音を、今の彼女は少し遠く感じていた。

「さて、それではご足労願います。抵抗しても無駄だと言うことは良く理解して頂けていると思いますので、此方としては素直に応じて頂けることを信じておりますが」

「ふん、我も落ちたものじゃ……」

静奈の小さな呟きが境内に虚しく響いた。

「あっ!」

一つ声が上がった。

それは物静かなフロアに良く響いた。

エレベータを降りて、フロントから指示された自室へ向かおうと、毛並みもへたれたカーペットの敷かれる廊下を歩いていたのは山野、柳沢、それに花見月と夢見月だった。場所は寂れた安っぽいビジネスホテルの五階、その一角である。声を上げたのは先頭を切って一同より数メートル先を歩く花見月だった。

満面の笑みを浮かべて大きく手足を動かしながら闊歩していた彼女の瞳は、まるで墓場に幽霊でも見つけたが如く大きく見開かれ、歩みはピタリと止まっていた。その視線は廊下から若干逸れて脇に出現した四畳半ほどの空間、そこに佇む一人の青年へと向けられていた。

「武人っ!」

もう一度、先程より更に大きな声があがる。

その言葉に反応して、その場にいた全ての人間が顕然な反応を返した。

「えっ!?」

己の名を呼ばれて、青年はビクリと妙に大きく身体を震わせ顔を振り向かせる。

一方で彼女の後方を歩いていた他の三人は、歩く足を速めると、花見月が見つめる先へ目を向けた。ともすれば、そこには発せられたとおりの名を持つ者の姿が確認出来た。芹沢武人その人である。

「な、なんで君達がこんなところに居るんだよ……」

彼はなにやら、新幹線の内部に設置されている記念テレフォンカードの販売機と同じような形をしている機械の前で中腰になり、その口から吐き出されたカードを今まさに手に取ろうとしているところだった。

だが、それも束の間である。知人が目の前に居ると知って、武人は慌てて体勢を整えると、機械を己の背に隠すように直立不動となる。その手にはつい今し方に購入したばかりの缶ジュースが握られていた。

「そっちこそ、なんでこんな所に居るのよ」

思いがけぬ出会いに破顔一笑する花見月とは対照的に、柳沢は肥溜めに落ちた汚物でも見るかのような侮蔑の眼差しを向けて口を開く。

「自宅が壊れちゃったんだから外に泊まる他無いだろ。それくらい察してよ」

そんな彼女の態度を気をした風も無く、武人は突っ慳貪に言葉を返す。

「けど、まさかこうして顔を合わせる事になるとは思わなかった」

流石の山野もこれは予期していなかったらしく、小さく開いた口元に片手の甲を当てて驚いている様子だ。もう一方の手にはなにやらコンビニエンスストアの大きめなビニール袋を提げている。きっと夜食の類でも入っているのだろう。

「っていうか、君達こそなんで一緒に居るんだよ」

一度は四散したというに、僅か数刻だけを置いて再び集結とは如何なものか。特に姉妹とはこれ今生の別れになるであろうと思ってただけに、拍子抜けした間が拭えない。

「アタシと夢見月はこいつ等と一緒にお泊りだ、武人も外でお泊りか?」

「まあ、それはそうなんだけど……」

「街で人間に騙されそうになっていた私達を二人は助けてくれたのです」

「助けてくれた?」

「はい、私や花見月の身体を目当てに言い寄ってきた悪漢から救って頂きました」

「そ、それはまた……、災難だったね」

日本にあって腰下まで達する銀髪とは非常に人目を引くものだ、それが変質者の類を招き寄せたのだろう。圧倒的な身体能力を持つ彼女達が人間如きに後れを取るという状況は思い浮かばない。しかし、夢見月が嘘をつくとも思えないので、それはきっと真実なのだろうと武人は納得しておく。

そして、彼女の口から吐かれた言葉に、咄嗟ながら背後へ隠してしまった機械を思い思考は加速する。

よりによってこのタイミングで出会うとは運が無い。券売機のカード射出口には既に吐き出されたプリペイドカードが刺さっている。不覚にも驚きに流されて回収するのを忘れていたのだった。せめて購入の事実を隠せたのなら、そう思うと彼は何処までも惨めな自分が嫌になった。

「それから、人間が沢山泊まってる宿だったら敵もアタシ達を襲い難いだろうって山野が言うから、夢見月と一緒にここまで来たんだ。なんだか、すっごい大きな建物だよな。武人の家より全然高いぞ」

「なるほど、そういう理由かい」

なんだかんだ言いながら最終的に首を突っ込んでいる山野に、武人は多少呆れた様子で眼差しを送る。何がどうして我が身を危険に晒してまで二人に関わろうとするのか。武人には全く理解出来ないことだ。

「本来ならば、これ以上をお世話になる訳にはいかないと考えておりましたが……、その、私が優柔不断な為にこうしてご迷惑をかける運びとなってしまいました。武人さんも同じ宿ということで、申し訳ありません」

しゅんとした様子で夢見月は語る。

「まぁ、なんとなく何があったかは想像は出来るよ」

きっと、花見月を味方につけた山野が、夢見月を強引を説き伏せたのだろうと、その光景は容易に脳裏へ浮かんだ。なんだかんだで夢見月は花見月に甘い。それはある種の弱点とも呼べる程だ。

「まあいいわ、別にこんな変態に構っている暇は無いし、さっさと部屋へ行きましょう」

手にした鍵をカチャリと鳴らして柳沢が言う。

昼に顔を合わせていた時と比較しても妙につんけんとした彼女の態度に武人は多少の疑問を持つ。その口調はかなり厳しいものだ。しかし、己の背に隠したものを考えると、その一言は大きな救いとなって安堵を誘った。何はともあれ、さっさと何処へでも行ってしまえ、というのが今ある一番の思いである。

しかし、そうは問屋が卸さなかった。

「ところで、芹沢君はここで何をしてたの?」

山野の淡々とした問いが武人の胸にグサリと突き刺さった。

「何か後ろの機械に向き合ってたみたいだけど……」

「べ、別に何もしてないよ。ただジュースを買いに来ただけなんだからっ」

片手に持ったアルミ缶を掲げてみせる。

「そこの脇から見えてるのがそう? ジュースの販売機にしては随分と背が低いけど」

山野の指摘にあるとおり、アダルトチャンネルのプリペイドカードを販売する券売機は、武人の胸程の高さしか無い。これをジュースの販売機と言うには無理があろう。横幅は彼が前に立つと、少しはみ出て正面より見える程度である。

「いや、これはジュースの販売機じゃなくて、ジュースはそっちで買ったんだけど」

指差した先には普通の自動販売機がある。

「じゃあそれは?」

「……………」

普段の山野らしからぬ執拗な質問攻めだった。

どうやら自分が背後の券売機に向き合っていたことは彼女達に見られていたようだ。

何か上手い誤魔化しは無いかと武人は瞬時に思考を巡らせる。

機械がこの場に固定されている以上、これが今後彼女達の目に触れないようにすることは不可能だ。今を上手いこと遣り過ごしたとしても、何れは己の与り知らぬ所で確認されてしまえば意味が無い。まさか寝ずの番で延々と見張っている訳にもいかないだろう。

そう考えた武人は自分に対して最も被害が少なくなるであろう案を模索する。

何よりも問題なのはカードの射出口に刺さったままのプリペイドカードである。これを目の当たりにされては全てが終わりである。しかし、逆に言えば、カードさえ回収してしまえば、なんとなく眺めていただけだ、と適当な理由により誤魔化す事が可能かもしれない。自分だって男なのだし、相手だってもう高校生なのだから、そういう方面への理解もあるだろう。

「どうしたの?」

黙ってしまった武人に、小さく首をかしげて山野が一歩前へ。

「い、いや、別になんでもないよ」

やることが決まったのなら、後は行動あるのみだ。

それとなく、武人は空いた片手を後ろに回して背後に設置された機械に触れる。金属の筐体の冷たい感触が指先にひんやりと響く。幸いにして対象との距離は零だ、女性陣の視界の外でカードを抜き取ることは不可能でない。

「それって、何の機械?」

明らかにおかしな武人の言動に疑問を持った山野が近づいてきた。

「なんていうか、ほら、その……」

焦る武人の指先が鉄製の筐体を必死に撫で回す。

「何か隠してるの?」

「別にそういう訳じゃないんだけど、でも、ほら、ね」

すると、指先に走る尖った線状の感触があった。急いで指で挟み引っ張ると、それは音を立てる事無く射出口よりスルリと抜けて手の中に納まった。券売機は千円のみ投入可能な、お釣りの出ない仕様なので、他に証拠が残ることは無い。

よしっ!

心の中で武人は小さくガッツポーズをした。

同時に彼の肩に手を置いた山野が、脇から券売機を覗き込んで来る。

「あ……」

その目に入ったのは、例のガラスケースへ張られたアダルトチャンネルの広告である。

「アダルトビデオだ……」

空き手に握るカードを見られる訳にはいかないので、武人はすぐに山野へ向き直るよう身体を動かし、周囲から自分の身体を盾としカードの存在を隠す。その過程において、ズボンのポケットへ手を突っ込むことにより危険物は完全に環境から遮断され、作戦は完遂された。自然と肩に乗せられた手も落ちて万々歳である。

「ほら、話には聞いていたけど、実際に見るのは初めてだったから気になったんだよ」

手痛い尻尾切りではあったが、最大のリスクは回避された。

それとなく自然な言葉で話題を切り返すことも忘れない。

「やっぱり、芹沢君は助平なんだ……」

同世代の女子と比較しても低い声色をしている山野の一言が、ポケットの中でプリペイドカードを握る武人の胸にズンと響いた。

「ま、まあ、僕だって男なんだし、眺める程度は仕方ないだろ。珍しいものだし」

ははは、と乾いた笑いを浮かべつつ、エアコンの効いたフロア内に居ながら背筋に嫌な汗を一筋垂らす。やっぱり、と言われた辺りに疑問を持ったが、下手に突いて藪から蛇が出て来ては堪らない。適当に口上を合わせておく。

「アダルトビデオって何だ?」

持ち前の好奇心を発揮した花見月がここぞとばかりに近寄ってくる。その後ろには夢見月が続いた。柳沢だけが、武人に近寄ることが嫌なのか、それとも、部屋へ早く行こうと言った手前、ノコノコと追従する自分が許せないのか、その場に留まり苛立たしげな目つきで一同を見つめている。

「アダルトビデオとは……、その、なんというか、男性の性欲を満たす為の道具です」

タタタタと駆け寄った花見月が券売機の正面に陣取る。それを後ろから眺める夢見月が困ったような表情で答えた。目に入れても痛くない程に愛している姉だ、変な知識を与えることへ抵抗があるのだろう。

「へぇ、そうなのか」

一方で説明をして貰った花見月は関心した様子で筐体へ目を向けている。

「その紙に書かれているような映像がテレビに映るのです。ビデオとはテレビに映像を映す機械の総称で、アダルトという言葉は性欲処理の為にあることを示す形容です。この機械がそれらとどの様に関係しているのかは私も分かりませんが、大凡はここで何某かを購入すれば、その映像が見られるのでしょう」

「あ、テレビっていうのはアタシも知ってるぞっ! 武人の家にあったからな」

「ええ、そうですね」

「この機械は特別なテレビを見るのに必要な引換券を買う機械なの」

夢見月の説明に山野が横から補足を入れる。

「この細長いところにお札を入れると、こっちの口からカードが出てくる。それをこれから向かう部屋に設置されたテレビに差し込むと、えろいビデオが見れるっていう仕組みになってる」

「おぉ、山野は物知りだなっ!」

「ただ、私も実際に使った経験は無いんだけど」

「武人も使ったこと無いのか?」

「う、うん、無いよ」

まさか、これから使う予定です、などとは口が裂けても言えない。

ズボンのポケットの中でギュッと握ったカードが汗腺より溢れ出た汗にじんわりと湿って感じた。一方で反対側の手に掴む缶ジュースが徐々に人肌から熱を吸い、纏う水滴の量を増やしながら温度を上げていく。

「それじゃあ、僕はこれで用事も済ませたし部屋に帰るから」

墓穴を掘らないうちにさっさと帰るべく、券売機に向かう三人へ背を向ける。

しかし、そうは問屋が又しても卸さなかった。

「ねぇ、ポケットの中に隠してるのは何?」

一体いつになったら小売業者はその商品を棚へ並べることが出来るのか。

和気藹々と談笑を続ける四人から多少離れた所より、冷ややかな声色で発せられた疑問の言葉。その意味を理解して武人の額にぶわっと汗が浮かんだ。同時に歩き出したばかりの身体はピタリと止まり、端から見てもおかしな程に肩がぐいと上がる。

「な、なんのこと?」

「さっき何かズボンのポケットに何か隠したわよね?」

柳沢はその場から一歩も動く事無く、格下の相手を嘲笑うが如く面に厭らしい笑みを浮かべ言葉を続けた。そこには己の発言に対して確信めいた何かが感じられる。眉は大きく身を反らせて、もとより釣り上がり気味であった眦が更に天へ向かい仰いでいるようである。口元も同じく両端が釣り上がり薄く開かれていた。

「山野達は分からなかったかもしれないけど、少し離れて見てれば明らかよ?」

「っ……」

これは弁明の余地など無い。

そう武人は直感的に理解した。

相手はマルサの女もかくやと押しの強い柳沢に加え、これまた人の粗を狙い打つのが妙に上手い山野である。嘘を上塗ったところでオチは見えていた。そして、以前にも二人を相手に似たような経験をしていた武人である。結論を出すのは早かった。

だから、次の瞬間には既に新たな行動へと移っていた。

「くぅっ!」

カードから手を離して拳をポケットから引き抜く。

同時に、大きく足を踏み出すと脱兎の如く駆け出した。

「あ……」

その隣を抜けると同時に、柳沢の間の抜けた声が彼の耳へ届いた。

そんな彼の姿を目の当たりにして、武人が地を蹴ってから数瞬の遅れの後に山野が反射的に口を開く。

「花見月ちゃん、芹沢君を取り押さえて」

「ん? 武人を捕まえるのか?」

「そう、急いで」

「なんか良く分からないけど、わかった」

花見月が指示に従って足の裏を浮かせたとき、武人は既に角を一つ曲がり一同の前より姿を消していた。ともすれば、もし相手が常人であったのなら、武人にもまだ希望はあっただろう。フロアも小さく廊下は大した間隔無く折り曲がり一巡している。上へ下へ階を移せば撒くことも出来た筈だ。

しかし、今回ばかりは鬼ごっこをするにも相手が悪かった。

「追いかけっこなら負けないぞっ!」

背後より圧倒的な速度で嬉々として迫る影が一つ。

「ひぃっ!」

必死の形相で自室へ走った彼は、しかし、己の部屋の扉ノブへ手を伸ばしかけた所で、花見月に後ろから抱きつかれ御縄となった。ドンと背中に受けた衝撃に、情けなくも漏れた悲鳴が廊下へ小さく響く。

「山野ぉ、捕まえたぞっ!」

色白く華奢な両腕が脇から伸びてきて臍下で交差する。背中に感じる幼い子供独自の暖かな体温が、自分がどういう状況にあるのかを嫌と言うほど教えてくれた。

「ま、まってよ花見月っ! 手を離してよっ!」

勿論、足掻いてはみるが花見月の拘束は強力で一歩たりとも身体を前へ進むことは敵わない。地に打ち付けられた杭へその身を縛りつけられたが如くである。腹に回された腕を剥がそうと試みるも、強力な接着剤で貼り付けられたようにビクともしない。

「武人は何でアタシ達から逃げたんだ?」

肩越しに背後を振り向いた武人と、その背を見上げるように顎を擡げた花見月の視線が交差する。彼女の視線からは、今まさに言葉にした通りの純粋な疑問だけが見て取れた。猫の様な縦に長い瞳孔が、ジッと彼の心の内まで覗かんと迫る。

「それは、その、なんていうか……」

深い蒼色の瞳に魅入られて、普段なら躊躇無い嘘方便が出るのに今は思わず舌が滞る。

そして、その些細な遅れが彼の明暗を分けた。

花見月に続き武人を追って、廊下の角より死角から幾つかの足音が聞こえてきた。自動販売機の置かれた一角と彼の部屋とはそれほど離れていた訳でもない。彼女達はすぐに二人の下へとやって来た。

「花見月ちゃん、ありがとう」

先頭を駆けてきた山野が二人に歩み寄る。

隣には並んで夢見月だ。

「一体、何故に武人さんを捕まえるというのです」

そこには有り余る疑問が見て取れた。

「芹沢君が私達に隠してるものを見せて欲しい」

「……何のことだよ」

単刀直入な物言いの山野に武人の顔が渋くなる。

「柳沢の言ってたこと、気になったの」

そして、あろうことか山野は武人の元へ歩み寄ると、そのズボンのポケットへ躊躇無く己の手を差し入れた。まさか異性に対してそのような振る舞いを見せるとは夢にも思わず、武人は反応が遅れた。

「なっ なにをっ!?」

遠慮なく挿し入れられた手は強引に中を弄り、目的のものをすぐに見つけた。その過程で薄い布生地を挟んみ彼女の指が腿に触れ、武人は予期せぬ刺激にビクリと身体を震わせる。山野の体温は彼のそれと比較して随分と冷たかった。あまりに突拍子の無い彼女の行動に平静を失い、武人は抵抗することさえ忘れていた。

「あった……」

自分の手中に納まった一枚のカードを前に、山野は感心した様子で武人を見つめる。

「やっぱり、こういうの大好きなんだね」

そこにはサービスの名称や、提供元の企業名、シリアルナンバー、商品が十八歳未満利用不可能である説明と共に、全裸の美女の影がシルエットとして描かれていた。シンプルなデザインのプリペイドカードである。

それを本人の目の前でチラつかせて山野は愉しそうに薄い笑みを浮かべた。

「ぅっ………」

ここまでされては、最早言い逃れなど出来る筈も無い。

「芹沢君って何歳?」

「じゅ、十七だよ……」

「これ、いいの?」

「っ…………」

それは淡々とした質疑にも関わらず、相手を嬲る様な意図が見え隠れして感じられた。

この町へ引っ越して以来、忘れて久しい感覚に全身を強く打たれて武人は顔を真っ赤にする。目元には悔し涙を薄っすらと浮かばせ始めていた。しかも、ここまで直接的に何かをされたのは中学校を卒業して以来である。反射的に蘇る暗鬱な記憶は彼の脆い精神を強烈に刺激する。そして、常日頃より頻繁に利用されていた特定の代謝経路が、精神的な負荷を起点として即座に肉体的な変化を顕現させる。

「ぅう……」

なんで自分ばっかりこんな目に遭うのか、あまりの理不尽さを前にして、武人は全身が小刻みに震えるのを感じていた。こころなしか体温の上昇も感じる。口から吐き出される息は熱を持っているようだった。

「あ……、芹沢君、もしかして泣いて……」

「な、泣いてなんかないっ!」

要らぬ突込みを受けて、武人は慌ててグシグシと目元に溜まった水滴を拳で拭う。

端的に評せば晒し者以外の何ものでもなかった。

少なくとも武人はそう感じていた。

やっと開放されたと思ったそれは幻だったのだと、武人は雷に打たれたかのような衝撃を伴って理解した。いつだって理不尽な行為は他愛合い他人の思いつきから始まる。そして、必ず最後には自分を痛いほどに傷つけるのだと、彼は静かに人知れず胸中で嘆く。

「あの、これは幾らなんでも酷いと思うのですが……」

そんな彼の様子を気の毒に思った夢見月がおずおすと進言する。

「花見月、もう武人さんを離してあげるべきです」

「う、うん……、分かった」

花見月は妹の言葉に素直に従って腕の拘束を開放した。

自由に身動きが取れるようになって、武人は己を見つめる一同へ向き直る。

「笑いたかったら笑えよ、なんでもいいよ、もう」

その口調はまるで拗ねた子供の様であった。

音を立てて崩れた彼の尊厳は既に修復不可能なまでに至っていた。

同年代の人間より大きな自尊心を持つ武人である。それは幼少より育まれ、今に至るまで経験した様々な出来事を経ても、それと競うように衰える事無く高みを目指し、また、自他共に認めるだけの確たる技量が、彼の中でその存在を揺ぎ無く強固なものとしていた。そんな代物が自業を発端とし決壊したというのだから、伴われる衝撃は計り知れない。過去に幾度となく味わった苦汁が舌の上で懐かしく踊る。

しかし、いよいよを持って場の空気が居た堪れないものに変化するかと思いきや、カードを手にした山野が徐に口を開いた。胸の高さまで擡げられたそれが、もう一方の手の指でちょんと指し示される。そして、普段からの淡々とした感情の感じられない声色が武人の耳まで届いた。

「ねぇ、どうせならこれ、一緒に見ましょうよ」

それは友人を昼食に誘うような気軽さであった。

「な、ななななんでそうなるんだよっ!」

一方で、慌てたのは武人と柳沢だ。

「そうよ、なんでこんな変態と一緒にそんなものを見なきゃならないのよっ!」

堰を切った勢いで反論が並んだ。

「いきなり何をとち狂ってるんだよっ!」

武人はそれまでの陰鬱とした気分さえ忘れて思い切り突っ込みを入れていた。

「何故って、花見月ちゃんが興味ありそうだったから」

ついと視線を移せば、そこにはきょとんとした表情で彼女を見つめる当人がいた。

「いいのか?」

「それは芹沢君次第だけど」

自分を見上げてくる少女に山野は武人を視線で指す。

前々から感じてはいたが、やはりこの娘は何を考えているのかサッパリだ、そんな思いが武人の胸の内に強く浮き上がった。また、彼女は武人が過去にその目に収めた異性の中でもかなり可愛らしい部類に入る。だから同時に、自分はそんな彼女から見て、異性として意識する必要さえない存在なのだと理解して、少し悲しい気持ちにもなる。

「だからって、一緒に見る必要はないだろっ」

「でも、これは芹沢君のカード」

「み、見たいなら勝手に持ってけばいいじゃないかっ!!」

多少惜しい気がしないでもないが、僅かに残るプライドを前にしては、千円など安いものだった。それが自分を貶めた憎きクラスメイトの為に使われると思うと悔しい気持ちで一杯だが、花見月の好奇心を満たす為だというのなら諦めも付く。

「だけど、これって一枚千円もする。しかも使い切り」

肩の高さまで持ち上げられたカードが鼻先三十センチまで突きつけられる。

「人をここまでコケにしておいて、千円なんてどれだけの価値があるんだ」

「そう? 私はとても大きいと思うけど」

事も無げに言葉を続ける山野は、今はバイトもしてないし。と小さく付け加える。だったらこんなホテルまでわざわざ足を運ぶんじゃないよ、自宅が近くにあろうだろうに、とは武人の心の叫びである。

「アタシ、見るなら武人と一緒がいいっ!」

そして、ここへ来てまた花見月の良くない無邪気さが発揮される。

「一緒がいいって、君はそれがどういうものか理解してるの?」

「性欲処理って、前にアタシが武人にしたようなことだよな?」

「ちょ、ちょっと待ってよっ!! なんで今ここでそういうこと言うのっ!?」

「は、花見月っ……」

立て続けに露呈する秘密に彼の思考は混乱の一途を辿る。

「前にしたとか、そんな、そんな、僕は何もしてないじゃないかっ!」

「おう、実際にしたのはアタシと夢見月だな。武人は何もしてない」

「そそそ、そういうことじゃなくて、僕は君達とはそんな変な行為は別にっ……」

上擦った声色で必死に己の過去を取り繕う。

まだ、アダルトチャンネルのプリペイドカードの購入がばれた程度ならば良い。しかし、花見月や夢見月と実際に行為に至ったという事実は、山野達に知られれば人格さえ疑われかねない非常に由々しき事態だった。この場に限り、二人の実年齢が自分達の祖父祖母さえ優に越えるという事実は周知である。だが、外見はまだ年齢が二桁にも届かない幼い子供のそれだ。欲情するには性癖が特殊すぎる。それは武人も良く理解していた。

だが、現実とはかくも無常である。

「あ、そのことは私達も知ってるから大丈夫」

「………え?」

声の主を振り返った武人の目が点になる。

「ついさっき、二人から聞いたの、色々と」

焦る武人を尻目に、何でもない事の様に山野が呟いた。

「このロリコン、貴方と同じ空気を吸ってると思うと反吐がでるわよ」

続けられた柳沢の遠慮無い罵倒が、武人の胸の奥深くへ突き刺さる。

「な……、な……、なんでそんな………」

泣き面を蜂に刺されたかと思えば間髪を容れず弱ったところを祟られた。状況を打開しようにも藁打ちゃ手を打ち痛い思いを繰り返す。踏んだり蹴ったり拘束されたり観衆の下に晒されたり、目も当てられない事の運びだった。

「すみません、武人さんの心情を露知らず全て口にしてしまいました」

申し訳なさそうに、夢見月が謝罪の言葉と共に勢い良く頭を下げる。

彼の行いが倫理的に如何なものかは分からないが、彼女達の実年齢を考えたとき、この国の現行法に基づけば、その行為自体は特にこれと言って問題がある訳でもない。それがここまで徹底的に叩かれている現状は、ある程度ならば非難して然るべきだろう。しかし、彼女達からの、特に柳沢からの言葉を正面から受け入れてしまっているのは、無駄に荘厳な己の自尊心故であった。

彼の中の倫理観において、ロリコンとは悪であり、非難されるべき対象であり、社会不適合者の称号であり、そして、ロンリーコンプレックスに勝る羞恥なのである。静奈との一件を発端とする本能と理性の鬩ぎ合いは、本能が優勢のまま、しかし、依然として決着がついていなかったのだ。

「そういう訳だから、一緒に見ましょう」

そう言って、山野は武人の背後にそれとなく回り込む。そして、ジーパンの後ろポケットに刺さっていた彼の部屋の鍵、それに付けられていたキーホルダーを指で摘みをスッと音も無く抜き取った。

「えぇっ!?」

なにがそういう訳なのか、武人には訳が分からなかった。

小さな14型モノラルテレビに、20代前半と思しき日本人女性の裸体が大きく映し出されている。肩に付く程度の長さの茶髪と、日本人としては平均より二周り以上大きな乳房が、体が上下するに応じて規則的に揺れている。身の丈は柳沢と同程度だろうか、その手の業界では非常に有名なAV女優であった。

彼女は床に寝そべった男の上に両股を大きく開いて座り、天に向かいそそり立った男性器を愛液に濡れた下の口で根元までガッポリとくわえ込んでいた。また、同時に両手にも他の男性の竿を握り、更には大きく開けた口で別の性器を喉元まで頬張っている。

相手をしている男性は全てが彼女より頭一つから二つ分だけ大きな、ガッシリとした体躯の黒人である。そんな彼等の相手をする為に、その女性はくぐもった嬌声を上げながら、必死に全身を上下左右に激しく振るっていた。

「………なんか、凄い」

薄暗いホテルの一室で、一同は椅子代わりにベッドへ一列に並んで腰掛け、向かって正面、ベッドを基準とすればその側面に置かれたテレビをジッと眺めていた。ただ一人、柳沢だけが部屋に備え付けられたデスクの椅子へ腰を下ろし、皆より多少離れた場所でつまらなそうな顔を画面から逸らしていた。

「なんで君達と一緒に見てるんだよ、僕は……」

否応無く勃起してしまった股間のモノを腹に押し付け、縦に伸びる膨らみをシャツの裾で必死に隠しながら、武人は情けない声を上げる。テレビにカードを通してからまだ三十分と経っていないにも関わらず、彼の生殖器は下着の中で痛いほど堅く反り返っていた。

テレビから向かってシングルベッドの縁に、ヘッドボードの側から山野、武人、花見月、夢見月の順に、足の裏を床に下ろし腰掛けている。手元のには山野が近所のコンビニで買い込んで来たのだというスナック菓子が、封を切って間隔を置き幾つかシーツの上に並べられていた。

室内にはテレビの質の悪いスピーカーから発せられる歌詞の無い背景音楽と出演者の喘ぐ声が淡々と流れている。それに時折、誰かが呟く声が混じる程度で、場は所狭しと人が五人も詰め込んでいるに関わらず静けさを感じさせた。

「芹沢君って、こういうの趣味じゃないんじゃないの?」

妙にそわそわと落ち着きの無い武人の、その両手が隠そうとしているものを理解して、隣にチラリ視線を送る山野が遠慮無く尋ねた。その表情には先程に柳沢が浮かべた侮蔑や嘲笑の色は無く、ただ単純な疑問が見て取れた。一同から離れて座る友人とは対照的に、彼女自身は武人が小児性愛嗜好者であるということにそれ程の抵抗は無いように感じられる。

「な、何を勝手に勘違いしてるんだよ、僕は至ってノーマルなんだからなっ」

慌てて弁解するのは武人だ。

元はと言えば、自分の性癖を確認するつもりでもあった今回の購入である。

「でも二人としたんでしょ?」

「それは……、その、別に僕がしたという訳じゃなくて、二人の方から……」

「ですから山野さん、それ以上武人さんを苛めるのは止めるべきだと思うのですが」

「……別に苛めてる訳じゃないんだけど」

本来ならばズボンを下ろして、トランクスも脱いで、気持ち良く息子を扱いていた筈なのに、何が悲しくてクラスメイトや化け狐と一緒にアダルトビデオを見ているのか。しかも季節が夏ということもあって、両側に座る二人は共に露出も大きい。

山野は太股の八割が露出するかなり際どいミニスカートに、これまた並んで座ると上から胸がチラリ見えてしまいそうな襟首の広いシャツを着ている。しかも、それは本人の胸が薄い為なのか、どうにも下に下着を付けている様子が見受けられない。化粧の感じられない淡々とした能面のような表情や日本人形の様にぱっつりと切り揃えられたおかっぱの黒髪と、世間的には全く対照的だと思われるその姿格好は、見る者の目に風変わりな新鮮さを与えた。

また、彼女とは反対の側に座る花見月にしても、健康的な足がすらりと、山野のミニスカートに負けず劣らず短く切り揃えられた短パンから伸びている。元は活動し易さを考慮して夢見月が設計したのだろう。だが、今は妙にそれが色っぽく感じられて、武人は必死にで頭を振り煩悩を追い払う。彼女もまた山野と同様に上に下着は付けていない。国産には有り得ない黒子や染みの一つも見つからない真っ白な肌が、テレビの明かりを受けて薄ぼんやりと武人の目に浮かんで映っていた。膝の上で行儀良く握られた両の拳が、妙に愛らしく感じられる。そして、彼女の隣には同じような格好で短パンを同様の丈のミニスカートに替えただけの夢見月が座っている。

「…………」

それはもう、酷い生殺しである。

危ういところで目を背けると、そこでは唯一足回りの露出に劣る黒いワンピース姿の柳沢があった。丈の長いスカートは椅子に座る彼女の足首までを確り覆っている。ただし、袖の無い上は脇周りが露出してそれがまた両隣の二人程では無いにせよ目を誘う。

正直なところ、ビデオを満足に眺めているだけの余裕は当初より無い。彼の竿がはち切れんばかりに天上へ向かっている理由の多くは、この異常な環境に置かれた事に対しての反応であった。

隣から誰かの呟きが耳に届く度に、ビクリと身体が反応してしまう。

すぐにでもトイレに駆け込んで溜まり溜まったものを吐き出してしまいたい気分だった。

「あ、やっぱり武人のここ膨らんでる」

スッと隣から小さな手が伸びてきた。

それは彼の両手の隙間を縫って社会の窓の上から膨れ上がった一物をそっと撫でる。

「ちょちょちょちょっと待ってよっ!!」

突然の刺激に対して、叫びに近い大きな声を上げて武人は立ち上がる。大股で一歩の距離を置き、隣に座った花見月へ向き直った。両手はもっこりと山を成すズボンの一部を隠すべく、シャツの裾を握りその正面に並ぶ。それはそれは無様な姿であった。

「花見月、そういうことは人前で行っては駄目だと言ったでしょう」

夢見月が困った顔をして姉に語りかける。

「でも、武人なんだか辛そうな顔してるぞ」

「べ、別に辛くなんてないんだからっ、だから、放っておいてよ、もう」

悶々と溜まり溜まった熱い欲望は何を弾みに出てしまうか分からない。これ以上の刺激を受けることはこの場で許されるべくなかった。

「その、武人さん、私達の事だったらお構いなくどうぞ為さって下さい」

「構うに決まってるだろっ!」

「でも、これってその為の道具なんじゃないのか? さっき山野に教えて貰ったけど、人間の男はこれを見て、おちんちんを大きくして、それを弄って気持ち良くなるんだよな?」

「君達は僕にこの場で自慰して見せろというのかいっ!?」

「武人がしたいんだったら、一人じゃなくてもアタシが相手をしてやるぞ」

純粋な好意しか伺えない花見月の笑みは、何よりも強く股間へ響いた。

「だ、だからどうしてそうなるんだよ、君は」

両者の間に横たわる文化的な意識差はなかなか埋められそうになかった。

「なんでそんなに我慢するんだ?」

「なんでって、そんなの恥ずかしいからに決まってるだろ」

「っていうことは、やっぱり武人もしたいんだな」

「ぅっ……」

幼いのは外見に限った話で、花見月や夢見月は武人など歯牙に掛けるまでもない齢を重ねた稀代の化け狐だ。特に花見月に関しては言動さえ幼い子供のようだが、その頭の回転は紛う事無く年齢に比例したものである。

要らぬ墓穴を掘って武人の顔色が一層悪くなる。同時に、理性とは反して勝手にその身を期待に強張らせる性器が下着に擦れて、追い討ちを掛けるが如く、抗いがたい雁首への刺激を全身へと巡らせた。

「あはは、アタシが沢山気持ち良くしてやる」

花見月の腰がフッとシーツから浮く。

「ま、待ってっ……」

慌てて後ろへ身を引こうとしたが、それは狭いシングルルームにあって難しい。勢い良く後ずさる背は背後にあったテレビにゴツっとぶつかり止まった。しかも当たったのは接触面積の少ない角部である。背骨の脇の柔らかい部位をしこたま打ち付けて、武人は内臓に響く鈍い痛みに思わず悶絶する。

「ぐぅ……うぅ……」

何もせず堪えるには苦しいか、武人は小さく足踏みを繰り返しながら、ぶつけた箇所を必死に手の平で擦る。その後ろで彼より衝撃を受けたテレビは、一瞬だけ映像を乱したが幸いテレビ台から落ちることも無く、多少揺れた程度で元ある通り映像を写し続けている。歴史を感じさせる古い筐体は基盤や電子銃を囲うフレームも厚く、武人は己の肉体をもって、その頑健性を確かめる羽目となった。

「………大丈夫か?」

そんな苦悶に歪む彼の顔を下から覗き込むように花見月が尋ねる。

「い、痛い、とても痛い……」

眉間には深く幾重にも皺が寄っていた。目元には薄っすらと水滴が溜まっている様にも見える。痛みに弱いと自ら豪語するだけあって、その様子は悲壮感すら感じさせるだけのものであった。

「その、なんていうか、ごめんなさい」

流石に悪いと思ったのか、花見月もしゅんと頭を下げる。

「芹沢君、今のは情けない」

「だったら、君は僕にどうしろというんだよっ!?」

グッと顔を上げた武人が山野を睨むように見つめて口を開く。

「とりあえずズボン脱いだら?」

「だ、誰が脱ぐもんかっ!」

「それとも脱がして欲しい?」

「余計なお世話だよっ!」

「でも、さっきまで私や花見月ちゃんの足とかチラチラ見てなかった?」

「っ!」

まさか、そこまで意識される程に自分は視線を向けていたのか。山野の言葉に武人は愕然となる。同時に、己の友人にまで被害が及んでいたのだと知って、それまで黙っていた柳沢が横から口を挟んで来た。

「こ、この変態っ! 山野にまで手を出したら、ただじゃおかないわよっ!」

その形相は般若の如く、腰を椅子から浮かして、今にも飛び掛って来そうであった。

「変なこと言わないでよ、僕は手なんて出さないぞっ!」

「いいえ、前科持ちの言うことなんて信じられないわっ!」

「失敬な、誰が前科持ちだよっ!」

「この世の中、過程はどうあれ結果が全てなのよっ!」

姉妹から聞いた話が余程、彼女の中に有る倫理観へ触れたのだろう。全くといって良いほど歯に衣を着せない辛辣な言葉が合戦に降る弓矢の如く幾重に放たれる。彼女にとって一番の友人である山野にまで話が移ろうとしているという点も、その憤怒のひとつ大きな原因を担っているのだろう。

しかし、武人も言われてばかりでは納まらない。

「何だよ偉そうに、君だって勝手に人のこと疑って自爆するような困ったちゃんじゃないか。それだったらこっちだって遠慮はしないからね。いつか事が落ち着いたら名誉毀損で訴えてやる。幸いにして僕の母さんは東京で弁護士をやってるからね」

「な、なんですってっ!?」

「警察に面倒を掛けられたのも全部は君のせいなんだから当然でしょ?」

自分でも子供っぽいことを口にしているとは理解している。しかし、ここまで侮辱されては武人としても一矢報いねば収まりがつかないのであった。

「まったく、君も自分の事を棚に上げておいてよく言うよね」

「あれは仕方ないじゃない。まさか化け狐とか狼男とか、そんなものがこの世に居るなんて思いもしなかったんだから。あれは勘定に入らない例外だわ。誰だって間違えるに決まってるもの」

「だったら僕のも全ては例外じゃないかっ」

「っ………」

足元を掬われて、柳沢は思わず続く言葉を失う。

けれど、だからと言ってそう易々と引き下がる事も無い。

「そ、それだったら、私に限っては貴方のやったことを例外だと認めてあげる。けど、それが他の人間に対して有効だと思う? この世の全てが貴方の例外を間違いなく認めるとでも思っているの?」

「ど、どういうことだよ……」

「貴方がこの二人にしたこと、夏休みの間にクラス中に連絡しておいてあげましょうか?」

「なっ……」

いったん火の点いてしまった二人の言い争いは、勢い良く燃え上がり始める。

「なんでそうなるんだよっ!」

「貴方が変なことを言い始めるから、私だってそれ相応の対処をしないとならないのよ」

「だからって、そんなの横暴じゃないかっ!」

「そっちよりは全然まともだわ」

「どこがだよっ!」

二人の言い争いは放っておけば一晩中続きそうな気配であった。

だが、そんな鬩ぎ合いに予期せぬところから横槍が入る。

それは柳沢が座る椅子と組になる机の、その上に置かれた電話機の受信音であった。トゥルルルという電子音が口上を遮って室内に響く。それまで交差していた二人の視線は互いから外れて音源へ向けられた。

「五月蝿くしていたから、隣がフロントに苦情を言ったのかも」

それとなく案件を予測した山野がボソっと呟いた。

「まったく……」

だとしたら堪ったものでない。

如実に溜まっていく鬱憤を思いながら武人は受話器を手に取る。

それに応じて、結構な声量で嬌声を発し続けるテレビのボリュームダイヤルを山野が零にまで絞った。

武人は数歩だけ足を動かした後に、背中に受けた痛みのお陰で何時の間にか息子の盛りが治まっていた事にふと気づく。依然としてアダルトチャンネルは再生され続けているので、またふとした弾みに勃ってしまうかもしれない。しかし、何はともあれ良かったと武人は胸を撫で下ろした。背中は痛いし、柳沢は腹立たしくて、色々と良くない気もするが、最悪の事態は免れたようであった。

「はい、もしもし」

受話器を耳に当ててお約束の文句を口にする。

回線の繋がった先は当然フロントである。相手は随分と落ち着いて聞こえる低く渋い声色の男性であった。その声はつい一時間前にも耳にした覚えがある。彼は夜分遅くに申し訳ないと謝罪を一言添えて、続く用件を淡々と述べた。

それというのは幸いなことに山野の予想とは異なっていた。何でも外からホテルの番号へ武人宛に電話が入ったそうで、現在は保留にしてあるそれの取次ぎをどうするか、という確認であった。一通りの説明を受けて武人はそっと胸を撫で下ろした。

しかし、彼がこのホテルへやって来たのはつい先刻である。なのに相手はどうして自分がここに居ると知っているのか。加えて、義人では無く武人の名を出してきたという点もおかしい。彼は他の誰にもここの番号を送った記憶は無かった。

「とりあえず、取次ぎをおねがいします」そう伝えて、武人は回線が外線へ繋がるのを待った。外線と内戦の切り替えはフロントに設置された交換機のボタン一つで済む。手に持つ受話器は一度ブツリと音を立てて切れると、すぐに外へ向けて繋がった。

「もしもし」

もしかしたら警察からの連絡かもしれない。先日にはお偉いさん自ら自宅までやって来たし、その事後報告だろうか。だとしたら山野達が居る前で厄介だな。そんな一巡を駆け足で想起しつつ口を開く。しかし、回線の繋がった先に待っていたのは、警察など比較にならない程に対処に困る相手であった。

「もしもし、芹沢武人さんですね?」

丁寧な物言いの、耳に良く通るハスキーな男性の声であった。

「えぇ、そうですけど、そちらはどちら様ですか?」

一声を聞いただけでは相手が誰なのか全然分からなかった。

けれど、それも次の瞬間に相手が名乗り出て全てを理解することとなった。

「これは失礼、私はつい先刻に武人さんのお宅を訪問させていただいた者です」

先刻に訪問した? 僅か武人の思考はから回りする。

「そういえば此方が一方的に知っているだけで、私は名乗っていませんでしたね。狼男の連れだと言えば理解してもらえるでしょうか? 名前はマシューと申します。以後お見知りおきを願います」

応答のあった数瞬の後、続けられた言葉の持ち主を理解して、その様子を眺めていた外野でさえ一体何があったのかと訝しげに思う程に、武人はビクリと全身を大きく震わせた。同時に全身がかぁっと熱を持ち始める。

「なっ………」

あまりにも唐突な不意打ちに、返す言葉さえ思い浮かばず言い淀んでしまう。

「なんで、なんで電話なんて……」

思考はそれに備える間も無く混乱へと向かった。

思い返してみれば8kHzの標本化周波数で変換されているとは言え、多少の雑音が混じり届く声色には聞き覚えがあった。その妙に丁寧な口調といい、自然と受話器越しに真っ黒なスーツを着る彼の姿が幻視された。

「実は此処へ来てお願い事が出来てしまいまして、夜分遅くに申し訳ないとは思いますが、こうして連絡をいれさせて頂きました。少々お時間を頂けないでしょうか?」

「どうして僕が居るホテルの番号が分かったんだよっ!」

「ああ、それに関しては結構いい加減な理由ですよ。自宅が使い物にならなくなったということで、ならば外に泊まるしかないでしょうから、付近の宿泊施設へ当てずっぽうに電話を繰り返していたのです。ここで三件目ですかね」

「っ……」

随分と手馴れた様子で語ってみせるマシューに武人は薄ら寒いものを感じた。

「武人、どうしたんだ?」

怒声を上げて何かに怯える彼の姿を心配した花見月が顔を近づけてきた。

すると、その声が受話器越しに届いたのだろう。回線の向こう側から反応が返ってきた。

「おや、もしや近くに花見月さんが居りますか?」

僅か十数回言葉を交わしただけの相手だと言うのに、随分と良い耳をしている。

その声には明らかな確信が感じられた。

「居たらなんだってんだよっ!」

半分切れ気味に武人は怒鳴る。

それは柳沢を相手にしていたときとは違う、芯に恐怖を伴った虚勢の一吼えであった。

「でしたら隣には夢見月さんもいらっしゃることでしょう。其方の電話機にはハンドフリー機能が付いていますか? もし付いている様でしたら切り替えをお願いします。その方が説明の手間が省けますから」

「………」

本当ならすぐにでも切ってしまいたい所だが、幾ら切っても相手は繰り返し通話を要求してくるだろう。そして、それさえ拒否していれば、最終的には本人がこの場に乗り込んでくること間違いない。

仕方なく武人は言われたとおり通話をハンドフリーへと切り替えて受話器を置いた。

「私の運もなかなか捨てたものではありませんね。本当は武人さんにお願いしてお二人を呼び出そうかと思っていた所ですが、こうして居合わせているというのは実に都合が良い。手間が大きく省けました」

「どういうことだよ」

花見月と夢見月、それに山野と柳沢は電話機の外部スピーカーから届く声を耳にして、それまで武人が話をしていた相手を理解した。

「あ……、この声って……」

山野が驚いた様子で呟く。

「おや? 他に誰かいらっしゃるのですか?」

「僕の友達だよ、いいから話を続けてよ」

これ以上無駄に此方の情報を相手に伝えるべきではない。そう考えて武人は、山野に続き何か言いたそうに口を開かんとした柳沢を片手で制して、マシューに話を続けさせる。その姿を目の当たりにして、花見月と夢見月もまた開きかけた口を閉ざした。

「まあ、いいでしょう」

ゴホンと小さく咳払いが届く。

「実は武人さんのご協力の介あって、先程無事に静奈さんを確保することが出来ました」

「っ!?」

空調の整った快適な室内にあって、武人は全身からブワッと汗が滲み出るのを感じた。

彼が恐れていた事態は既に起きていた。

そして、その事実を花見月や夢見月、山野、柳沢の前で公にされたという事もまた、彼の脆弱な精神を強く揺さぶった。後に待つ非難の言葉を思うと、身が引き裂かれる思いであった。これならば、まだ彼女達の前に性器を曝け出し自慰をしていた方がマシだと思える程である。

「ちょ、ちょっと、どういうことよっ!」

予期したとおり、次の瞬間には柳沢が声を上げていた。

「柳沢、少し黙ってて」

しかし、それも真剣な顔つきの山野によってすぐに制される。

「で、でも……」

花見月と夢見月はチラリと武人を見ただけで、すぐに電話機へと視線を戻した。

「そしてですね、彼女の協力を仰いで我々は再戦に挑もうと思います」

「…………」

武人はただ黙ってマシューの言葉が続けられるのを待つしかなかった。

「武人さんには何の事だか分からないでしょうが、多分、そこの二人には良く理解して頂けると思います」

「お前、静奈に何をするつもりだっ!」

ギュッと堅く拳を作る花見月が、小さな牙を露に腹の底から怒りを見せる。

それまでの可愛らしい笑顔は見る影も無く、ギンと釣り上がった眦は静かに電話機に繋がる回線の先に待つ敵を睨みつけていた。そして、それはいつの間にか彼女の隣に立ち並んでいた夢見月も同様であった。

「貴方は私との約束を違えるつもりですか?」

辛辣な声調で語りかける。

「それに関しては申し訳なく思います。ですが、此方としても少々事情が変わって来てしまいました故、寛容な心で許して頂けたらと考えております」

「なんて卑怯な……」

とはいえ、此方から何を言ったところで、既に敵は静奈を手中に収めているのだと言うのだから仕方が無い。やり場の無い怒りを前にして、夢見月の眉間には幾重にも皺が寄っていた。可愛い顔が台無しである。

「そういう訳で、今一度私達と合間見えて頂きたいと思っています」

テレビのボリュームが絞られたことで、エアコンや冷蔵庫から発せられる僅かな駆動音が一同の耳へ大きく聞こえるようになる。部屋は随分と静かに感じられた。そこに淡々としたマシューからの語り掛けが、スピーカー越しに流れてくる。

「ああ、それと武人さんに関してもこれは同様です。部下と話し合ったところ、やはり、貴方にもまだ十分な価値があるという結論に至りました、再三に渡り呼び止めてしまい申し訳ありませんが、どうかご協力お願いします。」

「なっ!? なんで僕までっ!!」

「こちらも形振り構っていられる状況では無いのです、ご承知ください」

「そんな、そんな話があってたまるかっ!」

それは武人にとって死の宣告にも等しい要求だった。

「また武人を人質に取るつもりかっ!」

敵の横暴を見かねた花見月が吼える。

「全ては場合によりけりですが、多くは貴方達と静奈さんの従者さんの振る舞い次第でしょう。その辺りを理解して行動して貰えると此方としても非常に助かります」

「この卑怯者っ!」

「どのように称して頂いても結構です」

唸り吼える花見月には、今にも受話器へ飛び掛らんとする勢いがあった。

「……それで、私と花見月は何処へ向かえば良いのですか?」

怒気を存分に孕む声色で夢見月が尋ねる。

対応には冷静さを感じるが、内に秘める熱は花見月と同等かそれ以上であろう。もしも目前に敵の姿があったのなら、彼女は花見月にも増して形振り構うことなく、即座に手を出していたかもしれない。そんな気迫が感じられた。

「出来るだけ人目につかない場所で、更に互いに既知であるという狭い条件ですから、ここはお二人の自宅付近でお願いしたいと思います。あそこは地元の人間も滅多に足を踏み入れないそうですからね」

「またですか……」

ギリッと夢見月の歯の鳴る音が小さく部屋に響いた。

「時刻は、そうですね、やはり人目を避けると言うことで夜中にしましょう。具体的には明日の午前零時……、ではあと一時間しかありませんので、明後日の午前零時を目処に集まって頂きたいと思います。此方も同時刻に所定の場所へ向かいますので」

「静奈は無事なんだろうなっ!」

「ええ、その辺は信用して頂いて構いません」

「つい先刻に交わしたばかりの約束を平気で破る者の言葉が信じられると思いますか?」

「まあ、それもそうですね。ですが、此方からはそう説明する他にありませんから」

「貴方達には呆れて言葉もありません」

「それでは、此方からの連絡は以上です。よろしくお願いしますね」

そして、マシューからの電話は一方的にブツリと切られた。

後に残ったのは誰にも居心地の悪い沈黙である。

電話機の外部スピーカーからは、回線の切断を告げる電子音がツーツーツーと断続的に流れている。それは誰に止められることも無く延々と流れ、場にある沈黙を更に雰囲気の悪いものへと変えていた。

「武人さん」

夢見月の声を受けて周囲を見渡すと、皆の視線が自分に向いていることに武人は気づいた。

特に山野と柳沢は彼が語るのを待っているように感じられる。電話の相手がマシューと分かった時点から、それまでベッドの縁に座っていた一同は、しかし、いつの間にか腰を浮かして、電話機の置かれたデスクと、そのすぐ隣に立つ武人を囲っていた。

「僕だって、ギリギリまで抵抗したんだから……」

周囲からの圧迫を受けて自然と漏れたのは、そんなちっぽけな言い訳だった。

「だからって、我が身可愛さにあの子を売ったの?」

無意識から来る武人への反発だろう、自然と柳沢の口からは非難の言葉が零れていた。

それは確かに、世にある多くの歴史や創作において、圧倒的な支持を持つ意見だ。しかし、その全ては決して戻れない過去や有り得ない幻想にあるからこそ主張できる代物なのだ。個人が限りなく全体に近い、ヘーゲル曰く第三段階の自由意識を持つ歴史の最終段階、現代においては何の意味も成さない戯言だった。

「仕方ないじゃないかっ! 君は自分の命と、それに父親の命を、たった二日間食卓を共にしただけの相手に捧げることが出来るのっ!? しかも、それをしても相手が必ず助かるとも分からないのに!」

反射的に思い返された自宅での出来事は、その断片が脳裏に浮かぶだけで彼の感情を屈辱と怒りに染めた。その為か、自分でも驚く程に激しく、そして敏感に武人は彼女の言葉に反応していた。

「君はそれでも彼女を選べって言うのっ!?」

「そ、それは……、分からないけど……」

父親の命、その一言が柳沢から続く言葉を奪っていた。

想定した以上に大きな武人の豹変に驚き、いつの間にか気づけば足は後ろへ一歩下がっていた。

「それに静奈だって、僕より自分を優先したんだ。だったら、僕だって彼女より自分を優先したっていいじゃないか。僕だって好きで教えた訳じゃないし、出来る事なら言いたくなかったさっ!」

それは今まで幾度と無く自分に言い聞かせたことである。

彼の瞳は柳沢を睨むように見つめていた。

「僕は花見月や夢見月みたいに強くないんだ……、仕方ないじゃないかっ」

もとより感情の起伏の激しい武人ではあるが、今は自宅を後にしてよりずっと蓄積を続けていた膿が溢れ出し、柳沢の言葉をきっかけとして、抑えたくても抑えられない奔流となって流れ出していた。

「実際に武人さんと彼等との間で何があったのかは分かりません。ですが、今も今後も武人さんを責めるのは違うと思います。寧ろ攻められるべくは私や花見月の存在なのですから」

そんな彼を庇うように、そして自らの罪を深謝するように夢見月が口を開いた。

「武人さんはただ巻き込まれただけの被害者です」

先程までの鬼のような形相とは一変して、彼女は今にも泣きそうな表情を浮かべていた。

「武人、ごめん」

そんな二人の様子に花見月もまた弱々しく言葉を漏らした。

語ることの出来る言葉は少なく、ホテルの一室には誰もが居た堪れなく思う陰気がどんよりと籠っていた。そして、新たな厄災の出現に武人は力無く肩を落とす。過ぎたことを悔やんでも仕方ないとは言うが、悔やまずには居られない状況だった。

我が身を呪う他に無い。

理不尽だった。