金髪ロリ達観クールラノベ 第二巻

第四話

西日が峰に落ちてから随分と経つ。

僅かな風に揺れて山の木々が小さく互いの葉を擦らせて乾いた音を立てる。それをかき消すような勢いで、周囲からは大量の螻蛄の鳴く音が響いていた。時折混じって、なにやら名前も姿も思い当たらない他の虫の声も届いてくる。

満月から多少欠けた月を遥か頭上に置いて、鬱蒼と茂る樹木に覆われた山肌は、その合間より差し込む極僅かな光に照らされていた。人里に居ては気にするべくも無いことだが、ひとたび木の葉の膜の下へ潜ってしまうと、存外山の夜は暗いもので、身動きを取るにも十分な光量は得られない。もしも他に明かりを持っていないのなら、山に慣れた地元の樵であろうと満足に歩むことは難しいだろう。

加えて、アスファルトによる舗装の成されていない、それどころか人や動物によって踏み固められた様子さえ感じられない地面は、一歩を進む毎に踏みつけられた箇所を柔らかな抵抗と共に数センチだけ沈めさせる。秩序無く伸びた蔓植物が縦横無尽に地面を這い回る様は、まるで文明の利器に慣れ親しんだ霊長の進入を拒む山の意思であるようにも感じられた。

そんな夜の山中を武人は花見月に抱かれ移動していた。

すぐ隣には並走する夢見月の姿もある。

「この調子だと、告げられた時間通りに着きそうです」

スカートのポケットから黄金色の懐中時計を取り出した夢見月が、それにチラリと目を落として口を開いた。決して表立ち顕現させての事では無いが、その声色には戸惑いと不安、そして、圧倒的な悲しみと怒りが込められているよう聞く者の耳には感じられた。

時刻は午後の十一時五十分を多少過ぎたあたりだった。

「武人、本当に良かったのか?」

「良かったもなにも、行かなかったら行かなかったで、その時は向こうから攫いに来るに決まってるよ。だったら今行っても後で行っても結果なんて変わらないじゃないか。それだったら僕は君達と一緒に行きたい」

「………そうか」

己の腕の内に時折視線を向けながら、花見月は妹と共に山中を疾走する。

「本当、ごめん」

「僕からは何て返したらいいのか、もう分からないよ」

己の手首ほどの太さしかない花見月の二の腕が肩と膝の裏に回され、膨らみの無い胸の前で自分の身体を抱え上げている。接する肌からは彼女の暖かな体温が感じられる。日が落ちて随分経つとは言え気温湿度は依然として高く、ペタペタと互いの汗ばんだ肌の接する感触が、地を蹴る毎に上下する身体の動きと合わせて伝えられた。過去にも夢見月によって抱き運ばれた事があるが、得られる感覚は何度経験しようと落ち着かないものである。そんな風に武人は感じていた。どんな屈強な人間に抱かれるよりも遥かに擾乱に対して頑健な筈の小さな女の子による抱擁は、しかし、人間社会の常識にどっぷり浸かった彼には過ぎた代物であった。

「ごめん」

薄ピンク色の唇が可愛らしい、小さく形の良い口から同じ言葉が繰り返される

「せめて武人だけは、無事に帰すから……」

力無い花見月の返答が、如実に彼女の今の心境を表していた。

山中を疾走する姉妹の足取りは速い。周囲に幾つかの狐火を光源として連れており、また、慣れ親しんだ山ということもあって、まるで野生の獣が駈けるように、いや、それ以上の速度で茂る樹木の枝や足元に蔓延る蔦を切り飛ばしながら破竹の勢いで進む。それは仮に武人が平坦な道を全力で走ったとしても決して追いつく事は出来ないだろう。

ちなみに、そんな三人に無理矢理でも着いて行くと、つい数時間前まで進言を止めなかった山野だが、最終的に夢見月より足手纏いになるから着いて来ないでくれと正面切って懇願された末に大人しく引き下がった次第である。当初より関わるつもりのない柳沢は落胆する山野に之幸いと言葉を掛けて腕をとり共に帰路に着いた。

「そこを越えると着きます」

横から夢見月の声が届いた。

それからやや遅れて、木々の合間より飛び出した三人の前に開けた空間が現れた。

背のごく低い雑草が絨毯のように茂り、所々に樹木の切り株が散在する、ちょっとした広場のような場所である。小学校の校庭の半分から三分の一程度の面積を持ち、周囲は勿論背の高い木々によって囲まれている。山中にありながら、その場所はそれほど傾斜を感じさせない平坦な一帯であった。前に夢見月から聞いた話では、この空間は彼女の術により普通の人間や動物には感知できない様になっているらしい。狐が人を化かすのと原理的には同じなのだそうだ。宅地化の進む都会にも多少この様な場所があれば、子供達も遊ぶ場所に困らないのではないか、そんな風に思わせる自然の光景であった。

それまで木の葉に遮られていた月明かりに照らされて、暗がりに慣れた目に広場は少し明る映る。その中央には武人も見知った小さな小屋の存在が見て取れた。周りを可愛らしい花の咲く花壇に囲まれた、花見月と夢見月が暮らす山小屋である。規模としては十数畳程だろうか。無論、電気やガス、水道の類は敷かれておらず、全てが手作りの丸太で出来たログハウスだった。小奇麗に掃除されているが、建造されてからそれなりに月日が経過しているらしく、外壁には幾つもの小さな傷や蔓延る苔が見て取れた。

「………居ますね」

そして、小屋の前には武人達三人を呼び出した者の姿が確かにあった。

初めて出会った時から変わらないスーツ姿のマシュー。そして、色や柄は変化を見せるものの、基本はジーンズにタンクトップという、似たり寄ったりの出で立ちをしたジェームズである。

花見月と夢見月、それに抱かれた武人は木々の合間から出てすぐに足を止めた。

マシューとジェームズのすぐ近くには静奈の姿があった。特に縄で身を縛られたりなど、物理的に拘束されている様子は無かった。いつか義人が与えた衣服ではなく、神社で出会った時と同じく、無地の淡い青色を基本にして、左の前身頃に地味な百合の刺繍を施しただけの簡素な作りをした着物を纏っている。帯は柄の無い白一色だ。足には草鞋を履いている。

「時間通り来て頂けた様ですね」

武人達の到着を確認してマシューが満足気に口を開いた。

三人は付近に視線を巡らせる。

すると、武人や花見月、夢見月が居る位置から、丁度、マシュー達が佇む場所を基点に九十度だけ角度を持って、二等辺三角形の一点を担うように西光坊が一人立っていた。彼女もまた深い森から抜け出て、その視界にマシューやジェームズ、そして静奈の姿を捉えたところで歩みを止めた様子であった。

唯一彼女と面識の無い武人が、この場に不釣合いな燕尾服姿に眉を顰める

「知らない人が居る」

ボソリ呟くと、依然として彼を抱いたままの花見月がそれに答えた。

「アイツは静奈の家来だ」

「静奈の家来?」

顎を上げて頭上の顔を見上げる。

「静奈とは違って、すっごく強い奴なんだ」

「昨日には私と花見月共々、敵より狙われ際に助けを頂き九死に一生を得ました」

すぐ隣から夢見月の声も混じる。

静奈に家来がいたとは武人も初耳であった。

何よりも自分と静奈が始めて顔を合わせた時から分かれるに至るまでの間に、彼女の存在を感じたことは一度も無かった。話に上がることも無ければ、共に歩いている姿だって記憶の限り目の当たりにしたことも無い。

「ふぅん……」

何処かへ出掛けていたのかな。

だから、武人にはそんな安直な推測しか出来なかった。

彼女がマシューの言っていた従者だと理解して、武人はそれ以上の言及を止めた

「あと、そろそろ下ろして貰っていい?」

「おう」

「どうも、……ありがと」

ゆっくりと膝を折ってしゃがみ込んだ花見月が武人の身体を開放する。それまでぶらぶらと所在無く浮いていた足の裏が堅いものに触れて、武人は人心地付いた気がした。自重で圧迫されていた各所の血管は滞りが改善され、心持気分も軽くなる。

「さて、これで役者は揃ったようですね」

武人達と、そして静奈の従者である西光坊へ順に目を向けてマシューは口上を続けた。

「ここまでは此方の予定通りです。ご協力感謝します」

その面にはこの場の誰もが今までに相対した時と同様、薄い笑みが浮かべられてる。

「貴方はここで何をしたいのですか?」

夢見月が一同を代表するように言葉を掛ける。

西光坊からマシューまで、武人や花見月、夢見月からマシューまで、共に凡そ二十数歩程度の距離がある。人間ならば走り出してから互いに拳を交えるまで数秒と掛かる間隔である。だが、武人を除いた人外の化け物にとっては、敵対する者と言葉を交えるに最低限の距離であった。

「我々の目的はこの地に住まう強力な化け物の排除です」

「……化け物の排除? 理解できない話です」

敵と話を始めた妹の隣で、花見月は今にも飛び出して行きそうな雰囲気を醸し出しつつも、なんとか両足を抑えて口を噤んでいる。その瞳には彼女に似合わず、明らかな敵意と憎悪が見受けられた。

「別に理解して頂く必要はありません。ただ、私達の目的、いえ、実際には一過程に過ぎないのですが、その一環として貴方達姉妹とあちらにいる西光坊さんの存在は、排除の対象として認められた訳です」

そんな彼女の剣幕を前にして、けれどマシューは相手の感情など歯牙に掛けたる風も無く、まるで訪れた顧客に対して取り扱い商品を説明する大手電機量販店店員の様に、上辺だけの笑顔と共に嫌味なほど懇切丁寧な言葉を送る。

「ああ、西光坊さんに関してはつい先程に我々との取引が成立しましたので、排除ではなく協力という形で寄り添って頂く事になりました。ということで、実際の排除対象はお二人だけな訳ですが」

その視線がチラリと向けられた先には、武人達と同様に樹木の連なりを背に置いて立つ西光坊の姿があった。どうやら彼女は三人が訪れるよりも前に、ある程度の時間を持ってこの場へ訪れていたらしい。

「なんて勝手な話ですかっ!」

あまりに理不尽な敵の物言いに夢見月が吼える。

「この世の中、勝手でないものを見つける方が大変だと思いますが?」

「強者の驕りなど聞きたくありません」

「まあ、そういう訳で私と彼は貴方達を排除しなければなりません」

言ってマシューはそれとなくジェームズと隣に立つ静奈へ視線を送る。

口数の多いマシューとは異なり、隣に立つ彼は口をへの字に結んだまま、ジッと腕組をして立っているだけだ。そして、六尺を越える二人の巨漢に挟まれるようにして静奈の存在がある。彼女は何に恐れる訳でもなく、また、何に怒るわけでもなく平然とした様子でこの場に居た。そこから数歩背後には花見月と夢見月の住まう山小屋の玄関がある。

「なるほど、ここで私を試すということですか」

マシューと夢見月の会話を耳にして、それまで黙って様子を眺めていた西光坊が口を開いた。五尺半を多少越える高い背丈を持つ彼女の声色は、思いのほか低く落ち着いたものであった。身に纏う真っ黒な燕尾服からして、その様子は誰の目にも良く出来た執事の如く映る。

「ええ、理解が早くてなによりです。貴方程の化け物を何の確信も無く手元に置くのは恐怖ですからね。それ相応の示しが欲しい訳です。そういう意味で、あのお二人は丁度良い相手だと思いませんか?」

語るマシューは自分の立てた策がテンポ良く進んでいるお陰か随分と愉しそうだ。

「……そうですか」

「此方としては、何故に貴方のような強力な化け物が、言葉は悪いですが、静奈さんの様な非力な化け物に従っているのか疑問でならないところです。ですが、まあ、それは追々説明して貰うとしまして、今は貴方の働きを証明して頂こうと思います」

「それで……、本当に静奈様には危害を加えないと約束するのですね?」

「はい、間違いなく約束致します」

静奈様?

聞きなれぬ呼称を耳に武人は小さく首をかしげる。

だったら何故に様付けなのか。そんな当然の疑問は、しかし、化け物の間にあっては大した問題でないのかもしれない。思わず突っ込みを入れたくなる衝動を抑えて、武人は他の者達のやり取りに気を配る。

静奈が各人に対する人質であるのは明白であった。だが、それでは何故に自分がこの場に呼ばれたのか。彼が何よりも優先するのは自分の身の安全である。周囲には同じ人間は一人も居ない。その喧嘩に巻き込まれようものなら、他の者にとっては何でもない流れ弾にも容易に絶命しかねない。だからこそ、それ相応の理由を求めてしまうのは人間の性である。

すると、そんな彼の胸中の疑問察したかの様にマシューが言葉を続けた。

「それと、私の我侭な相棒の主張を受ける為には、姉妹のお二人に対する牽制として静奈さんだけでは心許無いので、そこの武人さんにも此方へ来て貰おうと思います。この様な形での再会となって皮肉かもしれませんが、よろしくお願いします」

マシューはジェームズより静奈が姉妹の前で武人を裏切った姿を伝え聞いている。花見月と夢見月を一度に相手にしては勝機の薄い彼を思うならば、一対一での決着を望んだ場合、それ相応の手駒が必要だと考えたのだった。

「やっぱり、そういう役割なんだよね、僕は」

「人質は多いに越したことはありませんからね」

「…………」

そして、武人にしてもマシューのその物言いは昨晩より予期していた言葉だった。

どこか諦めた様子で、しかし、ガクガクと両膝を鳴らしながら武人は震える唇で呟く。ズボンのポケットの中には自宅の物置から取ってきた刃渡り7センチ程の折り畳み式のサバイバルナイフが突っ込まれている。多少なりとも武装すべきと考えたからだ。けれど、それを振りかざす勇気も此処に至っては完全に萎えていた。人外の化け物を前にしてちっぽけなナイフ一振りで何が出来よう。

本来ならば叫び声を上げて今すぐにでも逃げ出したいと思っている。

けれど、この場を逃げても敵はきっと自分を追いかけてくるだろう。何せ半壊した自宅から外へ宿泊に出た自分と義人の行方さえ捜して、深夜を問わず電話を寄越す程だ。そう考えると、今を逃げる事さえ恐怖だった。静奈が人質に取られているから、震える足が逃走に至らない理由にそんな考えは微塵も浮かばなかった。

「さぁ、どうぞいらして下さい」

表情こそ笑顔だが、口調こそ丁寧だが、そこには有無を言わさぬ迫力がある。

「武人……」

心配そうな表情で花見月が己の名を呼んだ。

「………」

それに何と答える事も無く、武人はゆっくりと足を前に出した。

ザッザッと土や落ち葉を踏む音が広場に響く。

一歩一歩と敵へ近づく度に、武人の思考は混乱を激しくする。あまりの緊張感に身体の平衡感覚が鈍り、自分の首は正しく真っ直ぐ上に向かって据えられているのか、足先はちゃんとあるべき方向へ向かって動いているのか、そんな事さえ分からなくなる。気を抜けば何も無い所ですぐにでも転んでしまいそうだった。

テレビ等のドキュメンタリー番組において、殺人犯に人質として囚われた人間がその下より逃げ出すとき、幾度と無く膝を地に着きながら頬に涙して走る姿を目にすることがある。てっきり過剰な演出だとばかり思っていたが、なかなかどうして、それは真実であったのだと知った瞬間であった。あと少しでも負荷が掛かれば、自分もまた同じように地を這いずり回っていただろうと武人は思う。

そして、幾ばかの時間を掛けて彼はマシューとジェームズの下へ、静奈の下へ辿り着いた。

「どうも、素直に従って頂いて感謝します」

そんな彼をマシューは底知れない笑みを持って迎えた。

「ぼ、僕は、僕は無事に帰してくれるんだよねっ!?」

「ええ、私達が対象としているのは化け物に限った話なので、全てが済み次第に貴方の身柄は保証して開放致します。勿論、我々の目的が成就されることはその第一条件となる訳ですが」

「約束だよっ!? 絶対だからなっ!!」

「ええ、約束します」

今の彼には自分の狼狽する無様さえ省みる余裕は無かった。

将来へ夢や希望を胸一杯に秘めた、そして、高々十数年の齢を重ねたに過ぎないちっぽけな人間の彼は、ただ一つきりである己の命と正面から向き合うだけの達観した精神を持ち合わせていなかった。出来る事と言えば、ただガタガタと身を揺らし怯えて、他者に助けを請う事だけである。

「でも、なんで、なんで僕がこんな……」

涙が零れそうになるのを抑えるので必死だった。

ギュッと拳を握って、周囲から自分の世界を守るように地面に視線を落とす。マシューの姿が視界に入るだけで、自分の中にある大切なものが容易にも砕けてしまうような気がしたからだ。

そんなとき、ふとすぐ隣から静奈の声が届た。

「まさか、こうして再び主に会うことになろうとはな」

幼い肉体とは対照的な低い声色を耳にして、ビクリと武人の肩が大きく震える。

「ぅ………」

声を掛けられて無視する訳にもいかない、武人はゆっくりと顔を上げた。すると、そこには月夜を浴びて黄金色に輝く長い髪が、闇に浮き上がるような白い肌が入ってくる。手を伸ばせば届く位置に静奈の身体はあった。

狼狽極まる彼とは異なり、静奈のそれは芹沢宅のリビングでソファーに座りテレビを眺めていた時と然程変わらない。一体どのような経験を積んだのなら、ここまで落ち着き払って己の窮地を眺められるのか。武人には全く理解出来ない感覚だった。

「また、主に迷惑を掛けてしまった様じゃな」

「………そう、みたいだね」

こうして本人を前にすると、彼女をマシュー達に売ったのだという罪悪感が、胸中で勢い良くブワッと湧き上がった。おかげで敵に対する緊張と混乱は多少の相殺を得たものの、一方で答えるその声は、我が身が危地にある以上に力が伴わない結果となった。良くも悪くも根は善良である武人にとって、こうして彼女に対する大きな負い目があることは、非常なまでにストレスとなっていた。

「世の中と言うのもなかなか、不条理なものじゃのぉ」

誰に言うでもなく静奈が呟いた。

「…………」

二人が小さく言葉を交わしている横で、他の者達はなにやら言い合いを続けている。特に夢見月と花見月がマシューに対して食って掛かっているようだった。それまで黙っていたジェームズもまた、彼女達とマシューの間で不毛に繰り返される会話に苛立ちを覚えたのだろう、静奈と武人に背を向け輪に加わっている。

だが、その彼等彼女等が繰り広げる押し問答さえ遠く、武人はただ只管に静奈の存在に戦慄いていた。

「主を裏切った我が捕まるならまだしも、主まで一緒にこうして捕まるとはな」

静奈の何気無い一言に武人の胸はズキっと痛む。

彼女はまだ自分が彼等に捕まるに至った原因を知らない。

「僕は……」

返す言葉が見つからない。

何を言ったところで全てが嘘になってしまいそうで怖かった。そして、全てを見透かしたような静奈の眼差しが痛かった。そんな中で、それでも思い浮かぶのは自分の正当性を主張する為に幾回と繰り返された言い訳だけだ。自分はどれだけ未熟なのだと、これほど強く思ったのは彼も久しぶりだった。

「分からない」

それだけを口にして武人は黙り込んでしまった。

「まあ、今更になって我と口を利くことも無いかぇ」

顎を上げて夜空を見上げるその瞳は深く赤い色を湛えていた。

月明かりが表面で綺麗な鏡面反射を伴い、それはまるで磨かれた紅玉の様にキラキラと輝いて見える。大きくクリクリとした可愛らしい、それでいて凛々しくも感じる瞳は、端から眺める武人を無意識のうちに魅了していた。

「これも全ては、我の過去の所業に向けられた咎と言うべきか」

独白するように静奈は語る。

「まぁ、それにしては随分と陳腐な咎だがのぉ」

その姿を眺めながら武人は思った。

それは以前から感じていた事だが、本来はこの場の化け物の中で群を抜いて若い筈の静奈が、しかし、武人にはどうしても、その背に長い月日の跡を思わずにはいられなかった。その妙に古めかしい口調や低い落ち着き払った声色に因る為もあるのだろうが、それにしても、外見年齢は二桁にも及ばない幼さを残すというに、語る様子には貫禄染みたものを感じる。

それも全ては、小さな子供が事ある毎に大人を主張する如く、彼女の若さ故の演技なのだろうか。それとも、人間がそうである様に人格と年齢とは例え規模が膨れようと決して比類しないものなのだろうか。

「…………」

とはいえ、今を苦悩する彼にとっては他愛ない疑問である。

「一応、謝っておくか。すまんの武人」

彼に向き直った静奈は頭を下げる事無く口頭で粛々とそう告げた。

花見月や夢見月もそうであったが、それは彼女達が狐の化け物だからだろうか。猫のような縦長な細い真紅の瞳孔が正面から武人の瞳を捉える。その飾ることを知らない実直な眼差しは今の武人にとってどんな猛毒にも勝る辛酸足りえた。

だからだろう、これ以上を堪えることが出来ずに武人は口を開いた。

「………あのさ」

「なんじゃ」

「僕からも一つ言うことがある」

別に今更それを口にしたところで何の価値も無い。自分の立場が危うくなるだけである。しかし、それ以上に胸に秘めた重圧を開放することは、彼の精神衛生上においてとても大切なことであった。

「言うてみぃ」

先を躊躇する武人に静奈が早くしろと促す。

「……うん」

僕がこれを伝えたら、静奈はどんな反応をするだろう

そんな事を幾重にも思いながら武人は言葉を続けた。

「静奈がこうして捕まってるのは、僕が君の住処を敵に教えたからなんだ」

言葉にしてしまえば、なんのことはない、たった一文である。

それを伝えて武人はすぐに視線を地に落とした。

静奈の変化を見るのが怖かったからだ。

しかし、碌に間を置く事無く返されたのは、呆気無い程に普段どおりの彼女の言葉であった。

「まぁ、大凡はそんなことだろうと思っていた。今更になって主が気にする事も無かろう」

その口調には、ほんの僅かな変化さえ感じることが出来なかった。

「静奈は僕を怒らないの?」

予期せぬ反応に武人は、親の顔色を伺う子供のようにゆっくりと顔を上げる。身長差から来る位置関係上、武人の方が頭は上にある筈なのに、まるで下から彼女を見上げているような錯覚に陥りそうになる。

「どうせ奴等から脅されたのだろう? 話のオチは見えておる。主のような脆弱な人間がわざわざ我へ復讐する為だけに彼奴等へ声を掛けることもあるまいて。ともすれば自分か、若しくは親父辺りを捕られてのことだろう」

「それは……、そうだけど」

寸分違わずピタリと言い当ててみせる静奈に武人は驚く。

「それに我も一度は主を裏切った身じゃ。仮に憤怒から我を売ろうとは思っても、わざわざその身を削ってまで庇い立てする必要はあるまい。だからこそ、それを伝えられたところで何を思うこともない」

返答は淡々と述べられた。

「それで、静奈はいいの?」

「主はそれで悪いのか?」

「いや別に……、そういう訳じゃないけど」

「なら良かろう」

存外攻め立てられる事無く済んで、武人は内心ホッとした。依然として自分が置かれた危機的状況は一切の変化を見せていないものの、それでも大きな胸の痞えが取れた気がした。決して事実を帳消しに出来た訳では無いが、本人へ直接に許しを請うたのは大きい。柳沢あたりが隣に居たのなら、何勝手に自己満足に浸ってるのよ、などと突っ込まれたであろうことは疑うべくも無いが。

「やはり、主は肝っ玉の小さな男じゃの」

武人のそれまでの苦悩を見透かした様子で静奈が呟く。

それは静奈の気持ち云々より、まず自分の心持の変化に安堵を覚えた辺りからして手痛い指摘であった。自身もそのことを良く理解して、羞恥からか武人は顔をしかめながら申し訳なさそうに答えた。

「し、仕方ないだろ、僕は普通の人間なんだから」

「それにしたって小さく纏まり過ぎていると思うぞぇ」

「どういうことだよ」

「決して長くない人間の命じゃ、もっと自分の好き勝手して生きたらよかろう」

「…………」

静奈の言葉に武人は思わず言葉が詰まる。

それが出来たらどれだけ幸せだろうか。

己の父親を尻目に同様の念を抱いた事は数知れず。しかし、幾ら歳を経ようと念は念のまま内に留まり続けるだけである。どれだけ意識しても修正の効かない難儀な自分の性格を思い、武人は小さく溜息を吐く。

「これでも結構、好き勝手にやってるつもりなんだけど、僕としては」

「ふむ、主も面倒な性格をしておるのぉ」

まだ足の震えは納まらない。しかし、それもこうして軽口を叩くことが出来る程度には落ち着きを取り戻していた。気を紛らわせるという意味で、他者との会話は非常に良い薬となったのだった。特に静奈の何事にも物怖じしない余裕の態度は、彼女と接する者へもまた、その影響を色濃く与えた。

だが、多少を持ち直したかと思えば、それも僅か数秒の事である。

「いいから、この俺にやらせろっ!」

原因はすぐ近くから届いたジェームズの怒鳴り声である。

全身を総毛立たせる猫の様にビクリと震えて、武人は恐る恐る音源を振り返った。過去に彼の手によって殺されそこなったという経験は、今を持って尚も有効なトラウマを心の奥深くへ植え付けていた。

姉妹を正面に捉えるジェームズには、すぐにでも二人目掛けて飛び出して行きそうな勢いがあった。しかし、その視線はマシューに向けられている。どうやら、今の一声は彼に対してのものであったようだ。

「そう吼えないで下さい。ちゃんと貴方にもお鉢は回しますと、今し方にも説明したばかりではないですか」

「だったら早くしろっ!」

「事前の確認です。もしも貴方が優位に立ったとしても、先程に車内で説明したことは守ってくださいね? そうでなければ彼女を此処へ呼び出したリスクが無駄になります。加えて言えば、武人さんにご足労願った意味もありません」

「分かってる、だから早くしろっ!」

静奈と言葉を交わしていたので、耳に届いたのは彼等の会話の断片である。しかし、武人にはジェームズの主張するところが容易に想像できた。過去、夢見月と花見月に手酷い怪我を負わされ敗退を期した彼である。その意趣返しを上司であるマシューに主張しているのだろう。特に夢見月とは彼自身も納得した条件下での一騎打ちながら負けたのだと姉妹より伝え聞いている。

「まあ、いいでしょう。始めて下さい」

「ああ、すぐに終わらせてやるっ!」

満足いった様子でジェームズは大きく頷いた。

「夢見月っ」

二人のやり取りを前にして、花見月が心配そうな顔でその名を口にする。

相手が静奈と武人を人質に取り夢見月とジェームズの一騎打ちを強制するのは間違いないだろう。愛すべき妹の戦う姿を見ていることしか出来ない彼女の不安は、他者が想像するよりも遥かに大きいに違いない。

「大丈夫です。一度は勝った相手に負ける筈がありません」

「でも……」

「花見月、私を信じてください」

それは姉の言葉に応じるだけでなく、自分自身に必勝を言い聞かせる為の暗示染みた約束に聞こえた。離れて端から様子を眺めている武人にも、彼女の必死さは容易に伝わってきた。

「あのような外道の輩など、すぐに倒して見せます」

「夢見月……」

続けざまに口を開きかけた花見月の言葉を許さず、夢見月は長い銀髪を靡かせ敵に向き直った。柔らかな山の大地を踏みしめて足が一歩前へ出る。応じて、彼女の周囲に浮いた幾つかの小さな狐火がゆらゆらと付いて動き、彼女の白く艶やかな肌に淡い光の揺らぎを作った。同時にサラサラとした細い銀糸の束がキラリ煌やかな光沢を放つ。

「そうだよな、夢見月が負ける筈ないもんなっ」

自分と同じ小さな妹の背を、姉は口をキュッと閉じて頑なに見つめる。

そんな姉妹の姿を目の当たりにして、ジェームズもまた歩を数歩進めた。

共に人間など歯牙にも掛けぬ圧倒的な身体能力を持った化け物同士だ。向かい合う両者の間には依然として十数メートルの距離がある。しかし、その間隔が一体どれ程の意味を二人に与えようか。

「お前も言わせておけば随分とでかい口を叩いてくれるじゃねぇか」

「さっさと武人さん達を人質に私を脅したほうが良いのではないですか?」

「へっ、その面がいつまで持つか楽しみだ」

「其方こそ、不利になったからといって上司に泣き付かないで下さいね」

「冗談、誰が泣くか」

互いに向かい合ったままピタリと動きが止まる。

その場の全員の注目が二人の動向に向けられた。

自分が当事者となった訳ではないのに、その姿を見ているだけで武人は鳥肌が立つのを感じた。ふと気になって隣に立つ静奈へと目を向けてみる。背中を小突かれれば、右手右足を同時に出して歩き出しそうな勢いの自分とは異なり、やはり、彼女は平然と様子を眺めていた。

微かな風に樹木の葉がカサカサと小さな音を立てて鳴いている。それに混じって、周囲からは螻蛄や蛙といった雑多な虫々の音が届く。二人の足が地を離れるきっかけは、それら恒常的な環境音の合間を縫って広場を囲う木々の合間より届いた、鴉が上枝を発つ羽音だった。

「覚悟っ!」

一吼えして夢見月が駆け出した。

「目に物見せてくれるっ!」

ジェームズもまた、彼女と時機を揃えて地を蹴る。

誰が止める声を上げる間も無く、二匹の化け物の争いは始まった。

武人と静奈を人質に捕られている時点で夢見月の勝機は限りなく薄い。しかし、だからと言って、迫る脅威に成す術も無くやられる訳にはいかない。己の後ろに立つ花見月を思えば、万が一の可能性さえ信じて向かうのだった。

彼女が駆け出すと同時に、それまで拳大であった周囲の狐火が膨れ上がり、両手で一抱え程の大きな火球となった。その表面では時折噴き上がる炎が轟々と音を立てて激しく燃え盛っている。付近には木造の自宅があるので、出来ることなら使用を控えたいところであった。しかし、相手はそのような事に躊躇する筈も無く、ならば彼女も腹を括る他に無かった。

二人は互いに歩み寄ったその中点で接触した。

相手の首を掻き切らんと伸ばされたジェームズの腕が夢見月に迫る。

過去に幾度か相まみえた相手だけに、それがどの程度の威力を伴った一撃なのか多少の予測は立つ。元より接近して拳を交えるつもりの無い彼女は、ある程度を進んだ後に、地を蹴り即座に横へ大きく飛び退いた。そして、同時に身の回りに浮かばせていた狐火の数個を駈けてきた勢いに任せて敵へ放つ。

「まったくもって芸が無いなっ!」

「それは貴方も同じことでしょうっ!」

勿論、彼女とてその一撃で敵をどうにか出来るとは考えていない。案の定、ジェームズは全てを掠る事無く避け過ごした。そして、駆る勢いはそのままに彼は進行方向を夢見月に同じく取る。そして、身体の正面に自身に向けたまま地を蹴って後退する彼女を追尾する。

「逃げてばかりの臆病者がよく言うわっ!」

「その臆病者に辛酸を舐めさせられたのは何処の誰ですか?」

「いいだろう、上等だっ!」

声を荒げるジェームズの周囲に直径30センチ、長さ1メートル程度の大きなツララが十数本から群れを成して出現した。真夏の熱帯夜の外気に触れて、表面からは白い冷気が揺ら揺らと立ち上っている。偶然その周囲を飛んでいた羽虫が触れては、僅かな間も無くその身を芯まで霜に覆われて氷の欠片となった。

「飛び道具が貴様だけのものだと思うなよっ!」

「幾らでもどうぞ、全て溶かし尽くして差し上げます」

「死ね、糞がっ!」

声に合わせて氷柱が打ち出された。それは地を駈ける彼の足より尚早く、まるで火薬を爆ぜたかの如き勢いだった。その一本一本が平均的な成人男性と同程度の質量を持つであろう巨大な垂氷の群れが、大きな風切り音を伴って一同に飛翔する。

だが、夢見月はその悉くを防いだ。周囲に展開していた狐火を打ち出された氷柱の向かう延長線上に隈なく配置する。そして、怒涛の勢いで突き進む氷槍の全てを受け止めた。無骨に尖った氷柱の先端が炎に触れる。すると、周囲から与えられる熱に耐え切れず、氷は瞬く間に沸騰した。

ジェームズが作った懸氷はどれもかなりの質量を持っていたが、それを越えて、夢見月の従える火球は圧倒的な熱量を持っていた。勢い良く狐火の中へと進入した凶器の全ては、その身を球の反対側へ通過させること無く、その身をジュウッという大きな音と共に水蒸気へ昇華させた。

同時に、夢見月の作る狐火の非常なまでの高温は、それだけに飽き足らず、内部に突き入れられた水に反応して周囲を巻き込む強烈な爆発を生んだ。ドンと強く鼓膜を揺さぶる、耳が痛くなるほどの轟音を伴って空気が揺れた。

「くっ」

爆風が夢見月の長い銀髪を激しく揺さぶる。

「またかっ!」

爆発の衝撃波は大きくクレーター状に地面を抉って、土や小石を周囲へ撒き散らした。その影響は凄まじいもので、数十メートルの距離を置いた武人の下にも、依然として勢いを失わない小石や砂利の類が弾丸の様に飛んできていた。その全ては少しは離れて前に立つマシューにより防がれたものの、もし彼が居なかったのなら、きっと、彼の全身は重火器で打ち抜かれたが如く穴だらけになっていたことだろう。

勿論、爆心地点に近い夢見月とジェームズの居る位置では、常人ならばその爆発に巻き込まれて、満足に立っていられないどころか、次の瞬間には肉体を四散させて見る影も無くなっていただろう。しかし、二人には何某かの不思議な力が働いているのか、衣服に多少の綻びは見られるが、駈けるその足は依然として健在であった。

爆発に伴い大量の水蒸気が周囲に霧散する中で、夢見月は足を止める事無く、鮮明な視界を求めて場所を移動する。無論、水蒸気爆発により失われた狐火の代わりは既にその脇に浮いている。

「糞っ、待ちやがれ」

忌々しげに吼えるジェームズもまた、己の周囲に氷柱を出現させて彼女の背を追う。

根底にある絶対的な能力こそ夢見月が勝るものの、そこを経験の差で補うのがジェームズだ。勝敗に関わる要因の全てを踏まえて総合的に評価を下せば、互いの力は拮抗していると言えた。

「………開いた口が塞がらないよ、もう」

目の前で繰り広げられれる二人の鬩ぎ合いを目の当たりにして、武人は改めて人外の化け物の異常性を理解した。先程の爆発にしても、彼の認識では手榴弾が爆発したのと大差無い。そんな中で掠り傷一つ追う事無く平気な顔で佇んでいる者は人知の及ぶ所でないと強く思う。

「確かに、これだけの化け物同士の喧嘩に巻き込まれるなぞ、人間には滅多なことでは経験出来るものでなかろう。本当に主は運が良いのか悪いのか分からんのぉ」

「……悪いに決まってるだろ」

「そうかぇ?」

二人は他にすること無く、目の前で繰り広げられる戦いを見つめている。

武人は勿論のこと夢見月の勝利を望む訳だが、それも自分達が人質に取られている時点で絶望的に思えた。だからこそ、こうして必死に戦っている姉妹の片割れの報われない努力に哀れを感じていた。

自分が生きて家に帰るためには彼女は死ななければならないのだ。

「ねぇ、静奈」

何とはなしに隣に立つ知人へ声を掛ける。

「なんじゃ?」

静奈の顔がクイと武人に向いた。

「あの背の高い女の人は君の知り合いなの?」

その視線が指し示す先には、何をするでもなく黙って静奈を見つめ続ける長身の女性の姿がある。真夏の夜の山中にあって、どういう訳か燕尾服を身に纏う彼女は、スーツ姿のマシューにも増して浮いた存在であった。

「ああ、あれは我の茶飲み仲間じゃ」

「茶飲み仲間? 前にはそんな知り合いがいるなんて話にも聞かなかったけど」

「なぁに、知り合ったのもつい先日の事だからのぉ」

「僕と別れた後に?」

「そうじゃ」

「でも、それにしては君の事を様付けで呼んでるみたいだけど」

「それは我があやつの生みの親だからじゃろう」

「お、親!?」

「なんだ、我が親ではおかしいかぇ?」

「いや、おかしいというか、なんていうか、親らしさ云々は置いておいたとしても、それだと話が矛盾するじゃないか。君とあの人が出会ったのはつい先日の事なんだろ? それが何で親子の関係に至るんだよ」

「そこは所謂あれじゃ、ほら、生き別れの親子という奴だろう」

「だろうって君、それまた凄い設定だね」

一体どこまでを信じたらよいのか。相手が全うな人間で無いので、その線引きが上手くいかず武人は返す言葉に困る。何よりも二人の間にある概観の相違が彼女を親足らしめる理由の多くを彼より奪っていた。もしも逆を言われたのなら、武人もまた素直に納得していただろう。勿論、それだと様付けの理由にはならないのだが。

「主は人間じゃ、別に無理して化け物の理を知る必要もあるまい?」

「それはそうだけどさ……」

納得のいかないものを感じつつも武人は頷いた。

「ただ、僕はまだ何故に君が敵から狙われる羽目となって、その茶飲み友達である彼女がこの場に居合わせているのか、よく分からないんだ。花見月や夢見月を脅すなら君より僕を人質にした方が有効だと、相手も理解している思うんだけど」

「ああ、そういうことかぇ」

武人の言わんとすることを理解して、人差し指と親指で顎を摩りながら静奈は小さく頷いた。

「その辺を説明して貰えないかな」

「ふむ、そうじゃのぉ……」

少し離れて争い続けている夢見月とジェームズを視界の隅に置いて二人は話を続ける。時折届く樹木の拉げる音や地を裂く轟音を背景に、静奈は臆した様子も無く口を開き、武人は小さく身を震わせながら静かに耳を傾ける。

「あの者は良く出来た子でな。ああ見えて我よりも非常に強力な化け物なのじゃよ」

「静奈より?」

「それどころか、今そこで戦こうておる姉妹の片割れや犬畜生よりも、そして、我や主を見張り突っ立っておる黒い服の男よりも尚強い。それこそこの場の全員を一度に相手にしても、なんら歯牙に掛けぬほどにな」

「な、なんだよそれ」

静奈の言葉に武人の声調は自然と上がる。

「驚いたかぇ?」

「当然だろ!? っていうか、なんで静奈の子供がそんなに強いんだよ」

化け物の能力は生まれてから過ごした月日の長さに比例する。それは以前に他ならぬ彼女自身より教えられたことだ。ならば、先の静奈の言葉を仮に全て信じたとすれば、子が親より強力な化け物であるというのはおかしな話だろう。

「前に聞いたときは、化け物の能力は年功序列って言ってたじゃないか」

「その時はこうも言ったじゃろう、一概には言えないが、とな」

「それはそうだけど、でも、それでも明らかに違いすぎると思うんだけど」

武人は釈然としないものを感じて言葉を続ける。

「まぁ、確かに主の言い分も尤もかもしれんがのぉ」

すると、二人の話に興味を持ったのか、それまで相棒の様子を黙って静観していたマシューが武人達に向き直った。

「その話には私も興味があったところです。是非とも詳しくお聞かせ願えないでしょうか?」

二人と一人は互いに一歩踏み込めば触れられる位置関係にある。自分より頭一つ分だけ背丈のあるマシューに上から見つめられて、実際には静奈を見ている訳だが、武人は小さく身体を震わせた。静奈を相手にしてならば平然を装って会話も出来るが、それも脆い張りぼてに過ぎない。気付けばいつの間にやら一歩後ろへ後ずさっている自分に武人は気付いた。

「知ってどうする?」

「それは事と次第によりますが、今は何よりも彼女ほどの強力な化け物の親である貴方に対する純粋な好奇心が先立っていますね。私とてまだまだ未熟者ですが、それにしても一撃の下に気圧されるとは思いませんでした」

マシューは感慨深げに呟く。

「ただ鳶が鷹を産んだだけの話だぞぇ?」

「その鷹で狩りをしようと我々は奮闘しているのです。些細な情報でもその手がかりになるのなら知りたいと思うのは当然でしょう? 彼女は我々にとってあまりにも過ぎた得物ですからね」

「主もなかなか、物事包み隠さずに言ってくれるのぉ」

「今更隠したところで仕方ありませんから」

一見して朗らかに言葉を交わす二人を前に、しかし、武人は背筋に冷や汗が幾筋も垂れ始めるのを感じていた。ようやく落ち着きを見せ初めていた膝の震えがマシューを前にして再び激しくなっていく。それは既に精神さえ介さぬ肉体的な反射の粋だと言っても良い。彼等によって植えつけられたトラウマは随分と根が深そうだった。

「な、なんでお前等はそんな風に他の化け物を襲うんだよっ」

武人は今ある全ての勇気を振り絞って声を出す。

僅か交わされた二三のやり取りで、敵は姉妹だけに飽き足らず、静奈の言う茶飲み仲間までも攻めの対象としたのだと理解出来た。だが、依然としてその根底にあるものは不明である。花見月や夢見月と出会ってからずっと疑問に思ってきた事を、此処へ来て武人はようやく口にすることが出来た。

「何故か、と問われれば、そうですね、以前に花見月さんからも尋ねられましたが、その時と同じ回答をしたのなら、一言に戦争の為の下準備とでも言うのでしょうかね。多少の語弊があるかもしれませんが」

「せ、戦争!?」

「主等はこの国に戦を仕掛けるつもりかぇ?」

現状からは随分と飛躍した言葉を耳にして二人は反射的に問い返す。

「貴方達がイメージする戦争とは些か異なるのですが、化け物同士の陣取り合戦だと思っていただければ良いと思います。その一環として私は、彼女達のような腕の立つ現地の化け物を狩って回っているのです」

その視線が指し示す先にはジェームズと争う夢見月の姿があった。

「言うに及ばず、化け物の世は一騎当千がざらですからね。障害になりそうなものは予め取り除いておくべきでしょう? ただでさえ同じような目的を持つ別派閥もおりますから準備は万全にしておく必要があるのです」

「それって、まるで化け物が人間相手に植民地支配でも目論んでいるように聞こえるんだけど……」

恐る恐るといった口調で武人が問う。

「ええ、そう捉えて貰うのが手っ取り早い理解だと思います。この地の化け物達は人間社会に対して殆ど根を生やしていないようですからね。我々にとっては非常に条件の良い移民先ですよ。勿論、何れの地にせよ多くの人間は我々化け物が上層に巣食っていることなど知る余地もありませんがね」

「なるほど、主等は人間共に寄生して甘い汁を吸っている類の化け物かぇ」

「そんなところです」

静奈の言葉にマシューは理解が得られて嬉しいのか大きく顎を引いて頷いた。

「つい百数十年前までは木と紙で出来た家が立ち並ぶこの地でしたが、いやはや、なかなか人間の文明の進むスピードというのも舐めたものではありませんね。我々化け物からすれば驚くべき速度の変化ですよ」

「今ではこの国も世界有数の大国らしいからのぉ」

「ええ、そのようですね」

「とはいえ、こんな東方の僻地まで足を伸ばすとは苦労なことじゃ」

何が楽しいのか、話を続けるマシューは目を細くして笑みを絶やすことが無い。そんな彼の語りに素っ気無く相打ちを入れつつ、静奈はそれとなく話の先を促す。少しでも自分に足り無い情報を引き出しておこうという魂胆だろう。武人もまた彼女の行いに習い、黙って隣に佇みつつ二人の会話に耳を傾ける。

「如何せん元より居を構える場所は既に縄張りが凝り固まってしまっていまして、ひとつ身動き取るにもなかなか面倒を伴うのですよ。なまじ古参の影響力が拮抗しているのが良くないのでしょうね」

「あれだけの土地を前に贅沢な話じゃのぉ」

「人にせよ化け物にせよ、内に秘める欲とは際限の無いものです」

「まぁ、それもそうかぇ」

「今は古く小さな崩れかけの神社に住まう貴方も、今後を生き抜いて力を蓄えることが出来たのなら、次第に豪壮な邸宅を望むようになるでしょう。そして、いずれは広大な領土と強大な権力を望む様になる筈です」

「領土に権力か……」

「ええ、領土に権力です」

マシューの言葉にふと静奈が視線が振れた。

その向かう先には、依然として激しくぶつかり合う夢見月とジェームズの姿がある。

火の粉を飛ばし、冷気を放ち、幾度となく四肢を交え、そして、時折思い出したように届くそれぞれの勇み声。二人の肉体が動く毎に届けられる壮大な破壊音は、武人ならばその都度に酷く精神を揺さぶられ、それこそ身を削がれる思いすら感ずる不快なものである。しかし、静奈にしては朝に雀が鳴き、昼に蝉が鳴き、夕暮れに鴉が鳴くを聞くが如き平素より変わらぬ日常の断片を前にしているかのように感じられた。之と言って感情の感じられない淡々とした調子である。目くじらを立てるでもなく、眉を潜めるでもなく、何の情動も感じさせない顔がそこにはあった。その横顔を隣から覗き見る武人には、大きく真っ赤な瞳の見つめる先が、目前で繰り広げられる果し合いの、その更に先にある様にさえ感じられた。

「人間の文化というのはなかなか素晴らしいものですよ。彼等は我々と違って数が圧倒的に多いですからね。そして、身体の作りは劣っても頭の作りには然程の差もありません。こと文明という二文字においては我々化け物に勝機は無いでしょうね」

「塵も積もればなんとやら、というやつかぇ」

「ええ、まったくその通りだと思います」

静奈の言葉に同意してマシューは大きく頷く。

「しかし、それを横から腕にものを言わせて奪おうというのだから、主等も随分と性質が悪いのぉ?」

「加えて、相手は自分達の文化が、生活の一端が奪われてるという事にさえ気付いていないのですから、略奪する側ながら毎度のこと不憫を感じていますよ。ただでさえ放っておけば数十年年で死んでしまうか弱い生物から奪うのですから」

「ふふん、どの口が開いてそれを言う」

「仕方ないですよ、全ては我が主の命ずるがままです」

「言うに事欠いて酷い言い逃れじゃ」

「違いありませんね」

静奈の軽口にマシューはクククと小さく笑ってみせた。

ここまで来ると、既に武人には二人がどういった話をしているのか訳が分からなかった。なにやら人間が化け物から良くないように扱われているらしい事は理解できる。だが、それが具体的にどういった事なのか分からない。妙に含みのあるやり取りを前にして、背筋に走る薄ら寒いものを堪えるので彼は一杯一杯だった。

そう、考えてみればこの場に居る人間は自分ひとりなのだ。それを意識してしまうと、どうにも心細い気持ちで胸が一杯になった。

「とはいえ、ここ最近は文明の発達に応じて人間達も随分と力を付けて来ていて、なかなか苦労していますけどね。私のような不死者はまだ良いですが、なまじ肉体に依存する化け物は下手をすれば物量に負けて返り討ちに遭いかねませんから」

困ったものですよ、と両手の平を空に向けて、半分癖になってしまっているのだろう、お決まりのポーズを取ってみせる。すると、そんな彼の言葉を受けて、本当に僅かな変化ではあるが、静奈の眉がピクリと動いた。

「ほぉ、主は不死者だったのかぇ」

一度外れた視線が再び彼に移る。

「そういえば伝えておりませんでしたね」

「初耳じゃ。そんな上等な化け物がよくもまあ小間使いなぞやっておる」

「私にも色々と事情があるのですよ」

「不死者を手駒に動かすということは、主の上にはそれ相応の者が居るのだろうな」

それまでマシューに対して碌に興味を持った様子も見せなかった静奈が、ふと、目を細めて声の調子を一段階だけ低いものに変えた。その変化が何を意味するのか、聞くに徹していた武人は一人焦りを増してそれぞれの顔を交互に伺う。

「申し訳ありませんが、これ以上は秘匿義務があるので申し上げる訳にはいきません」

「そうか、残念じゃな」

静奈は然程残念そうにも見えない素振りで呟いた。

「…………」

武人は今し方に耳へ届いた聞きなれぬ言葉を頭の中で反芻する。もしも聞き間違えでなければ、マシューは自分のことを不死者だと言った。不死者? それは何処の会社が出したゲームの話だ。そもそも真顔でそんなことを語られると聞いてるこっちが恥ずかしいだろう。などと過度の緊張も手伝って思考は無駄に空回りを続ける。未だ慣れる事の出来ない人外の世界は事ある度に彼の脳裏から疑問を溢れさせた。

「っと、なにやら話が大きく横道に反れてしまいましたね」

「別に我から主に語ることは無い。これで終いじゃ」

「そうですか?」

「主の言葉を借りるなら、これは我の秘匿義務という奴だぞぇ」

「なるほど、それはまこと残念です」

マシューは大きく肩を落として心底残念そうに振舞って見せた。

そして、何か暗黙の了解でも存在していたのか、それぞれの意識はタイミングを見計らった様に互いから離れると、再び夢見月とジェームズの争いへ向けられる事となった。

正直、今のやり取りを耳にして、投げ掛けて得られた回答以上に疑問が山と沸いて出た武人である。踵を返したマシューの背を目の当たりにして、反射的に口を開こうとした。しかし、それを尋ねたところで自分に出来ることなど何も無いだろう。ならば、下手にそれを尋ねて相手の機嫌を損ねることもないし、無駄に心の平穏を乱す情報を己の内に入れてやる必要も無い。そう考え直して開きかけた口を閉じると、彼は黙って二人に習うことにした。

夢見月とジェームズの戦いは之までに無く熾烈なものとなった。

出来る限り距離を取って挑まんとする夢見月に対して、至近距離からの直接的な打撃を狙うジェームズが追随する形で戦いは展開していく。

夢見月の放つ狐火は強烈であり、敵は思うように距離を詰めることが出来ず苦労している風だ。とはいえ、彼女にしても彼に接近を許しては後が無いので、そこに余裕があるかと言えば皆無である。己の飛び道具の精度と敵の間合いの兼ね合いをギリギリ一杯のところで推し量り、今回は打倒を前提として、それこそ精神を削りながら対応していた。

争いが始まって数分と経つ間も無く、対戦の場となった広場とその周囲には早くも被害が広がりつつあった。それは特に二人が扱う飛び道具に因るところが大きい。夢見月が際限なく放つ激しく燃え盛った火球が、ジェームズが打ち出す無骨で巨大な氷柱が、遠慮なく木々を薙ぎ倒し燃やしては凍らせて、閑静な山中の景観を著しく破壊していく。

「口では偉そうなことを言っていますが、実力は碌に伴っていませんね」

十数発から成る狐火の一団を打ち出して夢見月が吼える。

「逃げてばかりの狐風情がよく言うわっ!」

「そういうことは私に一度でも触れてから言って下さい」

「上等だこの畜生が」

互いに軽口を叩き合いながら、それでいて応酬の手は一切緩む事無く繰り替えされる。

ジェームズは至近距離での直接的な打撃に長ける傍ら、間合いを置いての攻防には之と言った決定打を持たない。一方で夢見月は彼と間逆の特性を有している。お陰で互いに優位を求め合い、戦局は時間を置いても一定する事無く流動を続けていた。

只管に打ち出される狐火の合間を縫ってジェームズは掛ける。

箆棒な熱量を持つ火球は寸分を掠った程度でも、身に付けた衣服を容易に焦がす。争い始めてから数分が経過して、シャツやジーンズはあちらこちらが黒く炭化していた。それでも皮膚には火傷の一つも無いあたり、互いの能力の均衡が伺える。

「馬鹿の一つ覚えでどうにかなると思うなよっ!」

振り上げた右腕の先に、彼の背丈と同程度の数本の氷柱が出現した。

「いい加減に死ねっ!」

そして、自らを囲う全ての狐火を打ち切った夢見月の元へ、その全ては飛来させる。

「それは其方も同じことでしょう」

火球の生成が間に合わずに、叫んで彼女は己の足で弓矢の如く飛び交う懸氷を回避する。僅かでも触れれば、その冷気に固められ身体の自由を奪われかねない。相手との距離を取る意味でも後ろへ後ろへと、夢見月は大きく跳躍しつつ丁寧に氷柱を往なした。

だが、相手もまた必死である。

飛び交う氷柱に切迫する勢いで駈けるジェームズが一挙に距離を詰めてきた。幾度と無くくり返されるそのやり取りに、彼女は落ち着き払った様子で、回避の足をそのままに狐火を作り打ち出す。それはつい先程も行われた一連の流れであった。

しかし、此処へ来てジェームズの口元がニヤリと形を変える。

「掛かったなっ!」

呟かれた言葉の意味が理解できずに夢見月の顔には戸惑いが浮かぶ。

同時に、たった今回避したばかりの氷柱の一本が脇で炸裂した。まるで芯に爆薬でも仕込んであったかの様に、赤ん坊の頭を越える比較的大きな塊から小指の先にも満たない小さな欠片に至るまで、大小様々なサイズに砕けた氷の破片が、まるで重火器から撃ち出されたが如く夢見月の身体を捉える。

「なっ!?」

目の前の光景に慌てた彼女は身を守ろうと両腕で顔を覆う。手を伸ばせば触れられる位置での炸裂であったために、それが精一杯であった。間髪置く事無く氷の破片が彼女の肉体へと飛来する。先程の氷柱と狐火が触れたことによる水蒸気爆発では傷一つ付かなかった夢見月の肉体に、今度は幾つも氷片が撃ち当たり突き刺ささった。ジェームズの手による何かしらの特別な力が働いての事だろう。

「夢見月っ!」

その衝撃的な光景に外野からも声が上がる。

「これで終わりだっ」

予期せぬ攻撃に己の間合いを崩してしまった夢見月。同時に彼女は視界と意識の多くを飛散した氷の欠片に奪われていた。そして、それは数メートル手前に敵を置いた状況下では致命的な隙であった。

ジェームズ自身も彼女に切迫していた為に己の撒き散らした氷片の幾らかを被ることとなった。しかし、それも事前に予期した自らの策ならば大した脅威には成り得ない。人皮を削る弾丸を前に怯む事無く彼は相手に迫る。そして、大きく振りかぶった拳を相手の顔目掛けて力一杯に突き出した。

「くっ!」

咄嗟に夢見月は己の身体を地面に向けて仰向けに倒す。足に身体の支えを放棄させて背中からである。ただ、両手の平だけは頭部の両側から地に向けて、肉体を再び起き上がらせるのに備える。肉体には数多の氷の弾丸が突き刺さっているが、その痛みに悶えているだけの余裕さえ今の彼女にはなかった。

「ちぃっ」

反応に遅れた髪の毛の数本抜き取っただけで、ジェームズの拳は空振りに終わった。だが、彼もそれだけに終わらせるつもりは毛頭無い。地に倒れ行く夢見月の肉体へ第二撃を振り下ろさんと膝を曲げる。

そこへ、向かう拳と同程度の狐火が虚をついてポンと出現した。

場所はちょうど二人の身体の合間である。

「なっ!?」

勢いのついたジェームズの肉体は止まる事を知らず、顔面から燃え盛る火の玉へ突っ込む羽目となった。これまでの物と比較すれば大きさこそ小さいが、その表面温度は負けず劣らずかなりのもので、じゅうと肉の焼ける激しい音が距離を置いて二人を見守る周囲の者達の下まで届いた。

「んがぁああああっ!」

続いて無様な男の悲鳴が響いた。

慌てて身体を起こし、ジェームズは両手を顔にもがき苦しむ。

その僅かな間を突いて、すぐさま腕の力を利用して身体を起こした夢見月は敵から大きく飛び退いて距離を取る。夏場ということもあり身に付けているシャツは薄く、スカートも丈が短なものだ。全身に受けた氷柱の破片は衣服に阻害される事無く肉にめり込んで、皮膚との隙間から漏れる血液は彼女を真っ赤に染めていた。また、比較的大きな破片がぶつかったであろう左の太股と右の二の腕には見事な青痣が出来ていた。

「ま、まさか砕けるとは……」

ジェームズは上半身を大きく揺らし痛みに悶えている。

その姿を確認した夢見月は彼から十分な距離を置いて、自らの肉体を確認する。身に受けた氷片は十や二十ではすまない。幸い顔は庇うことは出来たが、それ以外の部位にはブツブツと大小さまざまな固形物が埋め込まれている。日の落ちた今でなければ、気の弱い武人など一目見て嘔吐していただろう。我ながら気持ちの悪い姿だと夢見月もまた少なからず感じていた。破片が突き刺さった領域は皮下組織が凍結し、痛みさえ満足に伝わってこない。

「とはいえ、今のは互いに痛み分けとなったようですね」

彼女が己の身体から顔を上げると、ちょうど同じタイミングで相手もまた夢見月へと目を向けたところであった。片手で焼け焦げた顔の半分を覆いながら、辛うじて生き残った眼球の一つでギョロリと睨みつけてくる。それまでの余裕は消えて、爪先から頭のてっぺんまでを包む憤懣は誰の目にも明らかであった。

「この野郎……」

「その姿で、まだやるつもりですか?」

「そっちだって随分な形(なり)してやがる癖に言ってくれるじゃねぇか」

「この程度で狐がくたばると思わないで下さい」

「ほぉ、上等だ」

両者共に結構な損傷を負っている筈であるが、それに堪えた様子無く互いに向かい合う。夢見月としては、これ以上に渡って争うことを望んでいない。しかし、完全に頭へ血が上ってしまったジェームズは最早何をしても納まる事は無いだろう。

「次は全身を炭にして差し上げます」

スッと地面に対して水平に上げられた夢見月の腕に合わせ、轟と腹に響く音を立てて彼女を囲うように狐火の一団が出現する。火炎を吹き上げる火球はそれまでのものと比較しても、更に激しく燃え立てているように感じられた。

「いいだろう、はらわた抉り出してやる」

ジェームズは嘲馬するよう答えて、しかし、深く座った瞳は揺ぎ無く彼女を捕らえ、彼もまた腰を低く落としてすぐにでも飛び出せるよう攻めの構えを作る。そこには焼け落ちた右方の瞳を気遣う様子さえ無い。

「次は無いと思いなさいっ!」

「死ね糞がっ!」

夜の静かな山に二人の怒声が響き渡る。

地を抉るように蹴って駆け出した両者の争いは泥沼と化す。

ある程度の力量差があれば、化け物同士の戦いは呆気無いほど簡単に雌雄を決する。しかし、互いに拮抗した力関係の上では、化け物が化け物である所以の強靭な耐久力に因して戦局は非常に長引くのが常だ。そして、力の強大な化け物同士の戦いであれば、無関係な周囲の多くを巻き込んで、三日三晩と言うに劣らず幾十日と及ぶ事さえある。それは単騎ながら、規模を考えれば戦争と称しても良い程である。人間の感覚から言う喧嘩とは程遠い果し合いだ。

虫の音の他に音の無い夜の山中に、それらを掻き消すよう響き渡るのは、耳を覆いたくなる程にけたたましい破壊音だった。

花見月は二人の様子を脇より固唾を呑んで見守っていた。

本来ならば、すぐにでも飛び出して妹に加勢したい。けれど、敵に武人を取られて始めの一歩を踏み出せずに居た。決して宥恕出来ぬ義憤にギリギリと食いしばった歯が堅い音を立てる。きつく握った小さな拳からは、知らず赤い雫がポタリポタリと垂れて、地に茂る雑草の細長い葉に赤黒い斑点を幾つも落としていた。

「夢見月……」

目の前で勇戦を続ける妹の険しい表情を目の当たりして花見月の顔には自然と影が出来る。決して夢見月の勝利を信じていない訳ではない。しかし、それでも敵が一撃を繰り出す都度、胸の鼓動が不安を抱え大きくなっていくのを感じずには居られなかった。

「がんばれっ! がんばれ夢見月っ!」

最愛の妹が戦っているなか、ただジッとしている苦痛に耐えかねた花見月は、しかし、武人と静奈が人質に捕られている手前もあり動こうにも動けず、仕方無く口を開いては大きく声を上げた。それが今の彼女に出来る全てであった。

全身に氷の破片を受けた痛々しい姿をすぐにでも抱きしめたい。そう思いながらも出来ないもどかしさは圧倒的な精神的重圧となり彼女を苛ませる。これならば自分が敵と戦い怪我を負った方がどれだけ気が楽だったろうか。目前の光景を目の当たりにしては、そう考えずに居られなかった。

もう幾度目になるか分からない夢見月の狐火が撃ち出される。

彼女がどれだけの炎を出すことが出来るのか、花見月は限界を知らない。安穏とした生活を長いこと送ってきたので、少なくともこの地に移り住んでからの二、三百年に関しては生命の危機に至るまで追い詰められた事など一度たりとも無かったのだ。だから、今の妹がどれだけの余力を残しているのか、苦やしながら姉には皆目見当がつかなかった。

迫り来る火球を避けるべく奮闘するジェームズは、左眼を失ったことで明らかに動きが鈍っていた。視覚から肉体への情報伝達と、その後の身体から脳へのフィードバックとが上手く一致していない様子だ。加えて、これぞという一撃を大きく外すようになった。今もまた避け損ねた火球に衣服と表皮を焦がされ、繰り出した一撃は相手に届かない。多くは遠近感を上手く掴めない為だろう。

一方で夢見月もまた、全身に被弾した氷片の影響を如実に受けていた。凍ついた表皮が肉体を動かす度にピシリと音を立てて皹割れ、微細な破片と化した肉片が氷の粉と共に舞う。ある程度の皮下組織までが凍りついているのだろう。関節の付近などでは激しい動きに柔軟性を伴わない表面の凍った肉が崩れ落ち、白いものが見えている箇所さえあった。身体の自由が利かないという意味ではジェームズにも増して難儀である。

そして、それぞれの負傷は奇しくも共に大した差を置かずして能力を制限したようである。力関係には然したる変化が見られない。更に激しさを増して鬩ぎ合う二人の姿を目の当たりにしていると、決着の二文字の訪れは一縷の予感も出来なかった。これほど一分一秒を長く感じたことは無いと花見月は思う。

「夢見月……」

二人の争いが始まってから、花見月は幾度を口にしたか分からない妹の名を呟いた。

胸には不安が積もるばかりである。

だが、いつまでも続くと思われた彼女の憂いは、此処へ来て更なる痛哭へと変化する次第となった。対峙してから数十分が経過した頃合だ。長丁場に入るかと思われた争いは唐突にも進展を見せた。

花見月の前方数十メートルの位置で二つの影が重なり合った。

手持ちの狐火を全て打ち出した夢見月にジェームズが挑んだのだ。迫る拳から逃れるべく彼女は大きく後ろへ跳躍する。それは幾度と無く繰り返されたやり取りである。しかし、ここで予期せぬ事態が発生した。

地を蹴った夢見月の右足の足首がポキリと折れたのだ。

非常に幼い体付きの彼女である。成人男性の手首ほどしかない足首は、先程に受けた氷片の影響で芯に近い辺りまで凍ってしまっていたようだ。そして、度重なる負荷を受けて、それがついに折れてしまったのだった。

「あっ……」

呆気に取られたように、夢見月の口がポカンと開かれる。

そして、その機会を逃すようなジェームズではなかった。

「しくったなっ」

正面より左半分が焼け焦げて薄っすらと頬骨さえ見せる頭部。その爛れた口元をニヤリと歪めて、彼はここぞとばかりに遠慮なく拳を向かわせる。矛先は地に倒れ行く相手の腹部だ。状況を理解して夢見月の表情が焦りの一食に染まる。

「くっ!」

彼女は一撃を避けるべく、全身を横に捻って軌道上から肉体を退けようと苦心する。しかし、片足の不自由に踏ん張りが利かず、満足に力を加えることの出来ない不安定な身体は思うように動かない。咄嗟に肉体を浮かせて対処しようとするも、残る片足が宙に浮いた時には既に遅い。

「死ねっ!」

骨ばった大きく厳つい敵の第三関節が目の前まで迫る。

「っ!」

夢見月は最後まで諦めず敵の空拳を睨み、己の肉体の制御に苦心する。彼女の身体は非常に幼い。肉体年齢は二桁にも及ばないだろう。ともすれば、平均的な成人男性を上回る体躯の持ち主である敵からの一撃は、たった一発でも彼女の肉体に大きく損傷を与えることは間違いない。だからこそ、確実な勝利を考えたなら、一発たりとも受ける訳にはいかなかった。

しかし、現実は厳しかった。

「どうだ、俺の勝ちだ」

前へ前へと伸ばされる腕へ、その後を迫るように顔を突き出したジェームズの口がボソリと小さく夢見月の耳元で呟いた。そこには揺ぎ無い自身の勝利に酔いしれる圧倒的な余裕が感じられた。その身に痛覚が走るより早く、夢見月は慌てた様子で己の身体を見下げる。彼女の目に映ったのは自分の脇腹へ深々と突き刺さった敵の拳だった。

「ぅっ!」

全身を震わせる大きな衝撃、そして、それより僅か遅れて訪れる激しい痛み。

くぐもった低い音を立てて肋骨が打ち砕かれる。目にも留まらぬ速さで打ち出された一撃に、突き立てられた腕の周囲の肉は無残にも抉られて、気付けばいつの間にか小さな彼女の肉体は脇を三日月形に欠かしていた。有り余る衝撃に目が見開かれたのも束の間、勢い良く溢れ出した血液が水量調節を誤った噴水のように噴出した。古くなり裂けてしまったビニールホースから水が漏れているような、生体から発せられるには大凡相応しくない音が辺りに響く。

「あっ……ぐぁっ………あああっ!」

本来ならば心臓を捉えたはずの一撃は、寸前の所で回避に奮闘した彼女の努力により小指一本程度の間隔を持って逸れていた。しかし、目前の即死こそ避けたものの、与えられた損傷は挽回を狙うにはあまりにも大きかった。

「夢見月っ!」

居ても立ってもおられず花見月は駆け出した。

「おおっと、待ってください」

しかし、そこにマシューの淡々とした制止の声が掛かる。

「それ以上動いたのなら、武人さんの命はありませんよ?」

同時に、彼は一歩離れて佇む武人へ歩を寄せると、まるで気心の知れた友人へするように、その左肩へと片手を置いた。そして、おもむろに大人が一抱え程の氷柱を宙に生み出すと、その鋭利に尖った先端を首筋へ水平に当てる。

「くっ!!」

数歩を進んだところで、花見月は咄嗟に足を止めた。

「ひ、ひぃっ!」

武人の上げる情けない悲鳴は夢見月とジェームズが立てる喧騒を失った夜の山中に存外大きく響いた。恐怖に唇が震えて満足に声すら発せられない風である。見れば立っていられるのが不思議な程に激しくガクガクと膝が揺れている。怯える彼の顔色は暗闇に隠れて近くの者にしか分からない。けれど、圧倒的な恐怖を感じていることは明らかだった。

「この……、この卑怯者ぉぉっ!」

弱者を人質に取るという敵にやり方に花見月は腸が煮えくり返る思いだった。その思いを腹に込めて、彼女はそれまでに無く大きな声を張り上げて叫んだ。それこそ血を吐く思いである。

地を揺らすほどの声量に驚いたのか、付近に立つ樹木の上枝に止まり眠っていた鴉が数羽、木の葉を揺らしバサリバサリと大きな羽音を立てて飛び立った。聞く者にとって耳が痛い程に大きな声であった。

「こうなる事くらいは予め予期できたとは思いますが、まあ、何にせよ貴方はそこで大人しく口を噤んで妹さんの戦う姿を眺めていて下さい。そうでなければ、この人間の首が飛びますよ?」

「なんで、なんでお前等はアタシ達を苛めるんだよぉっ!!」

叫ぶ花見月の眼には薄っすらと涙が浮かんでいた。

「別に苛めている訳ではないのですがね」

そんな彼女の姿にマシューはただ苦笑するだけだ。

そこには何の哀れみも無ければ悪意も無い。ただ、事務的に仕事を進めようとする淡々とした態度があった。自分や夢見月と大差なく歳を重ねた同じ化け物なのに、どうしてコイツはこんなに平然として他者を殺せるのか、花見月は疑問に思わずにいられなかった。

「は、花見月、私は大丈夫です……」

姉の絶叫を耳にした夢見月が弱々しく口を開いた。

片足と大量の血液を失って満足に立ち上がることの出来ない身体を、彼女は宙へ浮かび上がらせることで何とか普段の姿勢に保っている。しかし、それも何時まで持つだろうか。今にも地に伏してしまいそうな羸弱とした姿が発するには、あまりにも説得力に欠ける言葉だった。

「駄目だ、アタシと交代しろっ! 夢見月はもう駄目だっ!!」

もう見ていられないと花見月は言葉を続ける。

「そうだ、そういう声が聞きたかったんだよ、俺はな」

己から距離を取るべく身を引こうとした夢見月を、ジェームズは再び振り上げた拳により大きく背後へ打ち飛ばす。片足を失って俊敏性に欠ける彼女はそれを甘んじて受ける他に無かった。

大きな手に頬を打たれて夢見月の小さな身体はクルクルと回転しながら呆気無く宙を舞う。そして、数メートルだけ離れた位置へ土埃を立ててドサリと落ちた。先程とは異なり多少の手加減が加わったのだろう。頭部が吹き飛ぶことは無かった。そこからは彼が彼女を嗜虐的に痛めつけようとする思惑が容易に見て取れる。

「やめろぉっ!!」

再び花見月が吼える。

殴り飛ばされた夢見月の身体は満足に受身を取ることもかなわず、勢いのまま地面に倒れこんだ。先程のダメージが堪えるのか、すぐに起き上がる素振りも見られない。なにやら小刻みにピクピクと身体が震えているだけだ。

自然と一歩、また花見月の足が前へ出た。

「言っておきますが、人質は二人居るのですから一人が欠けても私は気にしませんよ?」

すると、すぐに届くマシューの声。

加えて今度は武人の悲鳴が後に続き飛んできた。

「い、痛っ! 痛い、痛いっ!!」

彼の首筋に添えられた氷柱の先端が表皮を小さく裂いていた。走る痛みは指先を縫い針で浅く刺した程度だろう。傷自体は然程でも無く、本来ならば断続的に声を上げて痛がる程のものでもない。しかし、無骨な氷柱の凶悪な概観と、同時に与えられる死への恐怖がそれを幾倍にも増幅させていた。

「だからって、だからって、こんなことがあるかよっ!」

怒りと悲しみに全身を震わせて、花見月は自分を抑えるのに必死だった。

「どうせお前もすぐに後を追うことになるんだ、いちいち吼えるなよ」

愉しそうに笑みを浮かべてジェームズは倒れた夢見月の元へと歩き向かう。

「やめろっ! もうやめてくれっ!!」

形振り構わず花見月は懇願するように叫んだ。

「そいつは出来ない相談だ」

「こ、この……、この程度で私は負けません……」

大半の血液が抜き出てしまったことで、思うように身体を動かすことが出来ないのだろう。倒れ伏した肉体を引きずるようにして、夢見月は首から上だけを起こすとジェームズに向ける。衰弱の一途を辿る肉体とは反して、その瞳だけは月明かりを反射して爛々と輝き、有り余る強い意思を持ってして頭上の敵を睨みつける。

「ほぉ、いい度胸だな」

「貴方のような、下劣な精神の持ち主に屈するなど、ありえません」

「ふん、口だけは達者なようだが……」

ゆっくりと歩を進めて、ジェームズは夢見月の元へ辿り着く。

「ならば、高潔を語って死ぬといい」

地に横たわる彼女の頭部に、彼はおもむろに足を乗せた。

「グシャッと潰してやる。トマトみたいにな」

頬に固い感触を感じて夢見月の身体に緊張が走る。

肉体を前提として存在する化け物の多くは、頭部や心臓といった生命維持に重要な役割を果たす器官を潰されて生きてはいられない。気が遠くなる程に齢を重ねて力を蓄えれば、それでも不死者の如く耐性を得てゆく場合もある。しかし、今の彼女では確証を持つには至らない。まして、それが自分と同程度の力を持つ化け物にやられた怪我となれば、復帰出きる可能性は果てし無く零に近いだろう。

そして、それは花見月もまた良く理解したことだった。

「や、やめっ」

今まさに最愛の妹が失われようとしているのだと。

「花見月……」

小さく、夢見月が姉の名を口にした。

薄暗い夜の山中にあっては、十数メートルを置いて顔を確認することも敵わない。また、その瞳が向けられている方向に花見月は居なかった。ただ、声だけが虫の音に混じって静かに耳へ届いた。

それが彼女の我慢の限界だった。敵への際限無い怒りと、妹の無残な姿を前にした悲しみと、その妹が今まさに失われようとしてる絶望とで、花見月の思考は混乱の一途を辿る。そこには冷静さの欠片も見当たらなかった。

彼女にとって何よりも大切なのは妹だった。

「やめろぉおおおおおおおっ!」

気付いたとき、既に足は勝手に動き出していた。

マシューが先程と同じく制止の声を掛けるが、それも花見月には届いていなかった。

驚いたジェームズが目を見開いたのも僅か、次の瞬間には花見月が打ち出した彼の身の丈の二倍程もある巨大な狐火が目前まで迫ってきていた。轟々と音を上げて吹き上がる炎が空気さえ燃やして弾丸の如く突き進む。

「くっ!」

慌てたジェームズは夢見月へとどめを刺す事を断念して大きく背後へ跳躍、寸前の所で火球を避けた。放たれた狐火は地に横たわる夢見月へ影響を与えることが無いよう、彼の上半身を狙って飛来し、上方へと反りながら軌道を取ると、広場を囲う木々の向こうへと飛び去っていった。同時に、その巨大な球の背後に付いて二人の下へ迫っていた花見月は、ジェームズが飛び退いたのと時を同じくして、夢見月の元まで駆け寄る。

「夢見月っ! 夢見月っ!」

伏した身体の隣にしゃがみ込み、その両肩に手を置いて必死の形相で妹の名を叫ぶ。

「花見月……、私は……」

血の気を失って青白い顔色をした夢見月は己を呼ぶ声を耳に首を捻り顔を向ける。その力無い様子を前にして、花見月は彼女の腹の怪我も忘れて、思い切りその身体を抱きしめていた。両手を背中に回して相手の胸に己の顔を埋める。

「こんなの駄目だ、夢見月が居なくちゃ駄目なんだっ!」

叫ぶ声には明らかな嗚咽が混じっていた。

「花見月……」

夢見月には彼女の名を呼ぶことしか出来なかった。

その原因はすぐさま形を変えて二人の下へと訪れる。それは今し方に花見月が上げた咆哮さえ霞むほどの、耳にして数瞬は人間が上げたとも思えない程に強烈な、悲鳴とも叫びともつかない音だった。

その瞬間、武人は我が身に何が起こったのかを理解出来なかった。

やれやれ、約束を破ってしまいましたね。そう呟いたマシューの腕が動いたと思えば、次の瞬間には自分の身体が地に倒れていたのだ。何故倒れたのかと言えば、立っていられない程の衝撃を身体に受けたからだ。では、何故に立っていられない程の衝撃を身体に受けたのか。幾重もの疑問を巡った武人は、解けない疑問を前にして、最終的に己の左腕に感じる違和感に辿り着いた。

そして、そこへ目を向けて我が目を疑った。

「あ、ああああああああああああっ!」

僅かな間を置いて、あんぐりと開かれた口から発せられたのは狂気の哮りだった。

左腕が消えていた。厳密には肩から先の一切合財が無くなっていた。手の平を握ろうと、肘の関節を曲げようと、幾ら意識して動かそうと努力してみても、体内で蠢く肩腱の感触は感じられるが、そこから先の感触が一切無かった。有り余る違和感を受けて彼の全身には一毫の隙間無く鳥肌が立っていた。本来腕が生えていた筈の箇所にはビッシリと氷が生えている。患部が完全に凍り付いてしまっている為か、傷口からの出血は一滴たりとも無い。それどころか、冷気に神経さえ麻痺しているのか痛みさえ殆ど感じられない。

ただ、己の腕を失った衝撃に彼は声を上げていた。

「静奈さん、邪魔をしないで頂きたい」

「足が勝手に動いただけじゃ、気にするでない」

「勝手に、ですか」

「そうじゃ、勝手に動いたのじゃ」

武人のすぐ近くではマシューと静奈が言葉を交わしている。

「まあ、私としては此方の意向が貴方の連れやあちらのお二人に伝われば良いので、武人さんの生死はそれほど重要では無いのですがね。これだけやれば一応は理解してくれたことでしょう。注目も得られましたし」

「ならば、まだ人質として利用できる分だけ我は良い働きをしたのぉ」

「そうですか?」

「そうじゃろうて」

二人は足元でのた打ち回る武人の事など然して気にした風も無く喋っている。

その横で武人は只管に嘆いていた。

「な、なんで、何で腕がっ!」

痛みがない分だけ口も回る。自然と出てきたのは当然の疑問だった。いや、なんとなくは彼も想像がついている。何故に自分に危害が加えられたのか。それは、彼が倒れる前まで目の当たりにしていた光景が原因だろう。

そう、夢見月の元へと駆け出した花見月の決断に応じて、マシューは宣言どおり武人へ向けて氷柱を撃ち出したのだ。首筋に当てられていた氷柱が発射されたのだ。本来ならば彼は頭部を肉体より分断され死んでいる筈だった。しかし、咄嗟に彼の危機を予測した静奈が、その脇を蹴り飛ばしたことにより、首へ突き刺さる筈であった氷柱は、体勢を崩して倒れ行く武人の左腕を脇下から根元より奪ったのだった。

大気さえ凍らさんとする氷柱によって、夢見月がそうであったように、傷口は外気に触れる間も無く瞬時に氷結した。お陰で武人は大量出血から守られることとなった。だが、痛みに撹乱されない分だけ、片腕を失った喪失感と絶望感とが彼の思考を激しく犯した。

「花見月さんが約束を破って手を出してしまいました。ですから、宣言どおり私は貴方を殺そうとしました。結果的には静奈さんに邪魔されて、このような中途半端な結果に終わってしまいましたが」

マシューの語り口調は素っ気無いものだ。

「そ、そんな……」

まるで死刑宣告を受けた囚人の如く武人は愕然と肩を落とす。

すると、ふと視界の隅に太い木の枝の様なものに目が言った。それは丈の短な草の上に何気無く転がっていた。恐る恐る焦点を合わせてみれば、案の定、それは撃ち飛ばされた己の左腕であった。目を逸らしたくなる現実を突きつけられて、身体は一層激しくガタガタを身体を振るわせ始める。

「僕の、僕の腕っ!」

武人は大きく眼を見開いて、飢えた獣のように駆け出した。

数メートルの距離を滑る様に走って、片腕を失った影響か途中で危うく倒れそうになりながらも、彼はその元へ辿り着き尻を突いて座り込む。そして、落ちた左腕に手を伸ばし、残る片手で強く掻き抱いた。それは就寝前に否応無く怪談を耳にして、眠れない夜に一人ベッドの上で人形を抱く小さな子供の様に、とてもちっぽけな存在だった。

肩と同様に千切れた患部は凍りに覆われている。切断より間も無いこともあって、氷結した部位から離れれば暖かな人体としての温度が感じられた。それがどうしようもなく悲しくて、彼は溢れ出る涙を止めることが出来な無かった。

「腕、腕だよ、これ。僕の腕だよ」

つい数分前までは一ミリの重ささえ感じさせない自分の身体の一部であったのに、手にしたそれは、この様な状況でさえ戸惑いを感じさせる程の重量を伝えた。ズッシリとした感触が、現実から逃げ出そうと勝手な妄想を始める彼の思考に制止をかける。脈打つことのなくなった血管が時間経過と共に浮き上がり、赤黒い筋を色強く強調する。

本来ならばグロテスクな筈のそれは、しかし、今の武人には限りなく愛おしく、そして悲しかった。頬に擦れる肌から脳へ伝わる刺激は皆無。ただ、柔らかな弾力を伴う人皮の汗ばんだ感触だけがあった。

「こんな、こんなことって無いよ………」

掠れるような涙声が漏れる。

争いの音を失った広場に武人の嗚咽だけが粛々と響いていた。

何故に自分がこんな目に遭わなければならないのか。この様な仕打ちを受けなければならない程に不道徳な行いした覚えは無い。なのにどうして、こんな理不尽な目に遭う。将来に待つ圧倒的な絶望を思って、口からは止め処無く悲嘆の言葉が漏れていた。

千切れた腕の断面は無残に破壊されて、おもむろに元あった場所へ押し付けてみるも、圧倒的に長さが足りなかった。これでは現代医療の最先端を持ってしても繋げる事は不可能だろう。混乱の渦中にありながら、それだけはすぐに理解出来た。周囲の高湿度な大気を巻き込んで凍る肩と繋がった腕は、しかし、手を離せば支えを失い、すぐに自重に耐え切れなくなりドサリと音を立てて地に落ちた。

「…………」

空虚な瞳が見つめる先には、もう戻らない一本の腕があった。

「た、武人さん……」

そんな彼の憐れに耐え切れ無くなったのだろう。

数十メートルの距離を置いて佇む夢見月の口から小さく声が漏れた。

「あ……、ああ……………」

その傍らにあって、花見月は愕然と眼を見開いて身体を小さく震わせていた。

「我々からすれば何のことは無い負傷かもしれませんが、人間には酷な仕打ちですね」

己の所業ながら、それさえ何処吹く風でマシューが言う。

地に落ちた己の腕を見つめる武人の姿は、その場の全員の注目を集めていた。

幾ら出血が無いとは言え、このまま長く放っておけば凍った部位の壊死が進み、生命の危機に瀕することは誰の目にも明らかである。しかし、そんな事さえ気付けずに、彼は過去に経験したことの無い強大な喪失感を受けて思考を混乱させていた。際限無く湧き上がる将来像が否定されて、この先を思い絶望する空虚な感慨だけが、精神のみに限らず肉体までも支配していた。

「はんっ、腕一本飛んだくらいでいちいち泣いてんじゃねぇよっ!」

そんな彼に無遠慮に突きつけられるジェームズの一言。

「弱い奴は遅かれ早かれ死ぬんだ、大人しくくたばりゃ良かったんだよ」

夢見月への一撃を花見月に阻止されて気分を害した様子だった。しかし、そのようなこと武人の知ったことではない。誰も彼もの声は彼の意識へ届く事無く右から左へと流れるだけである。

暫くして地に座り込んだ彼の身体はピクリとも動かなくなった。まるで肩だけでなく全身が凍ってしまったかの様にである。

有無を言わせぬ圧倒的な理不尽を前にしたとき、多くの場合、虚ろな消沈から次いで訪れるのは激しい怒りである。誰も彼もを消し去らんとする狂おしい程の憤怒である。それは決して決して収めることの出来ない感情だ。例えそれが己の身を滅ぼそうとも、平静を失った全ての者は拳を古い目の前の自身の仇敵へ向かうだろう。一時の執念は重ねた年月さえ容易に駆逐する。

「こんな理不尽、こんな理不尽ないよ……」

武人は思う。

何故に自分がこのような理不尽な目に遭わなければならないのか。

何故に自分だけがこの様な仕打ちを受けなければならないのか。

何故に此処に居るのが山野でなく自分なのか。

何故に此処に居るのが柳沢でなく自分なのか。

何故に此処に居るのが他の誰でもなく自分なのか。

残った右手でギュッと土を掴む。爪と肉の間に小石が入り痛んだが、それさえ今は他人事の様に感じられた。どういう訳か口の中が酷く乾いて、我が侭な身体は水を欲する。それまで血の気さえ引いて冷たかった身体が、次第に熱を持っていくのを感じていた。吐く息が熱い。どっと全身の汗腺から滲み出る大量の汗は、まるでサウナにでも入っているかのようにシャツの色を顕著に変えていく。額に浮かび上がった汗の粒が頬を伝わって、ポタリと顎から手の甲に垂れる。

「こんな理不尽……」

耳には誰かが己を見て言葉を交わす音が伝えられる。自分はこんなにも悲しいのに、他の誰かはそれを理解する事無く平然と構えている。誰一人としてこの消失感を共有できる者は居ないのだという絶望が肉体の痛みを越えて精神に抗い難い刺激を与えた。

世界は死にたくなるほど平等に出来ていない。

世界は死にたくなるほど欺瞞に溢れている。

世界は死にたくなるほど冷たく僕を拒絶する。

でも、死にたくない。

絶対に死にたくない。

死んだら全てが終わってしまう。

だから、そんなだから……。

「…………」

ひとつ、武人は思う。

何よりも強力な力が全てをねじ伏せたとき、そこに立つのは誰であっても関係無い。必要なのは全てが平らに撫でられた世界。何もかもが己を貶すというのなら己を守り、何もかもが誰かを貶すというのなら誰かを守り、そして、全てを地平線の彼方まで限りなくなだらかにに変える。それが願いうる全ての希望。

「こんな理不尽………してやる」

蚊の鳴く様な声でボソリと呟かれた武人の言葉は、誰の耳にも届くことは無かった。

悲しみに打ち震える武人の背を、静奈は何を言うでもなく黙って眺めていた。

化け物からすれば人間の命は非常に短い。そして、呆気ないほど簡単に死んでしまう。それは人が肩に止まった羽虫を手で払えば、意図しようが意図しまいが容易にその羽をもぐ事が出来るように、人間もまた化け物に触れられれば簡単に絶命する。

なんて脆いのだろう。

そんな率直な感想が漠然と彼女の脳裏に思い浮かんだ。

「しかし、こうなってしまうとあの二人に対して武人さんを使うことはもう出来ませんね。やはり姉妹愛の前には第三者の入る隙は無さそうです。まあ、西光坊さんへは良い抑制になったかもしれませんが」

既に武人は価値を失ったのだとばかりに、マシューは視線をジェームズに移す。そこには二人より多少の距離を取って、その様子を遠巻きに眺める彼の相棒の姿があった。現状では自身の足で揺ぎ無く立っている。しかし、顔に受けた火傷は結構なもので、素人目にも彼の負傷は明らかだった。続けて姉と戦うことは不可能に思われる。

「主よ、こうなることを見越して武人を呼んだな?」

静奈の指摘にマシューはおどけた調子で静奈を振り返る。

「まさか、私もそこまで嗜虐的な化け物ではありませんよ」

「ふん、その面を下げて良く言うわい」

人当たりの良さ気な笑みを浮かべるマシューに静奈は素っ気無い口調で言い放つ。当事者である姉妹や武人はどうだか分からないだろうが、端から他人事として眺める彼女にしてみれば、マシューの思惑は手に取るように理解出来た。この者は初めから西光坊の前で武人を殺す気で居たのだろう、と。

「おい、俺はどうすりゃいいんだよ」

脇から投げ掛けられた声にマシューは視線を戻す。

「流石に今の貴方では彼女の姉を相手にするだけの余裕も無いでしょう?」

「だからどうするんだって聞いてるんだよ」

認めたくない事実にジェームズが声を荒げる。

「勿論、これで貴方の余興は終わりです。此処から先は私の敷いたレールに従って貰います。いいですね? ここまで好きにさせたのですから、幾ら温厚な私でもこれ以上の我侭は許しません」

「ああ、分かったよ」

とはいえ、トドメこそ刺し損ねたが、夢見月の打倒を果たして満足がいったのだろう。それ以上を姉妹に固執する様子は感じられなかった。単純な男じゃのぅ、と静奈は心の内で呟く。

「さて、ここで西光坊さんの出番ですよ」

ふと踵を返したマシューの瞳が、これまで一歩たりとも動く事無く広場の端に佇んでいた西光坊へと向けられる。視線の先では、身に纏う一張羅の膝裏まで伸びた長い燕尾が時折吹く風にゆるゆると揺れていた。

「………二人を殺せばいいのですね」

「ええ、出来れば貴方の力を存分に見せて頂きたいと思っております」

西光坊の一答にニッコリと、マシューは人当たりの良さ気な笑みを浮かべる。

「静奈さんを無事に解放して欲しいと願うならば、是非ともご協力を」

「貴方は、随分と素敵な性格をしていますね」

「はい、よく言われます」

そこには有無を言わさぬ眼光があった。

「とはいえ、実際に解放するのは当分先の事になるでしょうけれど」

能力こそ劣れどマシューは自身の圧倒的優位を確信していた。

「…………」

そんな彼の言葉に応じて、彼女は静奈へチラリと視線を向ける。

自分の従者を自称する彼女に見つめられて、静奈は何を答えるでもなく無言で視線を返した。この場へやって来た時点で指示を出すまでも無いだろう。そう考えていた。自分の子とは言え、愚直なまでの忠誠心だと呆れずにはいられない。寧ろ自分の子だからこそ、もっと黒く染まるべきだと感じる。

「………分かりました」

しかし、親の思いとは裏腹に西光坊は小さく頷いた。

花見月が武人の存在さえ忘れて夢見月を庇ったように、彼女もまた静奈を優先した。それまで地に根が生えたかのように動くことの無かった彼女の足が、一歩前へ踏み出される。砂利を踏みしめる音が妙に大きく周囲へ響いた。

彼女の様子にマシューは満足気な笑みを浮かべる。

「っ……」

その足音を耳にして夢見月を抱く花見月の身体がビクリと震えた。

西光坊の強大な力は姉妹も一端を目の当たりにしている。マシューやジェームズなら未だしも、彼女を相手にしては数秒と持たずして朽ちるのが、その力を知る者ならば容易に推測出来た。

けれど、静奈は彼女を止める事はしない。一度は助けた姉妹であるが、己の身を案じたのなら他に選択肢は無かった。静奈は誰よりも自分を愛おしく思っている。我が身を生かす為には他者を犠牲にすることも全く厭わなかった。誰かの為に自己を犠牲にするなど、過去に一度たりとも抱いたことのない感慨だ。決して理解できることの無い感覚である。このまま事が進めばいずれは西光坊も危ういだろう。しかし、それを理解して尚も彼女は何をするでもなく、ただ黙ってマシューの傍らに立っている。

人の世も化け物の世も、幾ら時が流れたところで変わらぬものじゃのぉ。そんな何気無い呟きが、他の誰の耳に届くでも無く小さな口から溜息と共に吐き出された。存命を切望する生者の戯言にしては破格の愚痴である。

「お二人には申し訳ありませんが、静奈様の為です、ご容赦下さい」

西光坊がマシューから姉妹へと向き直る。

紡がれた声の調子は抑揚が無く、まるで機械が発しているように感情が感じられない。続くは淡々と仕事を熟すべく振るわれる彼女の四肢が唸る音か、それとも、身を打たれ絶命する姉妹の悲鳴か。

長くしなやかな脚が軽く地を蹴って走り出す。

―――――――――かと思われた。

「あははははははははははははっ!」

それは突如として届いた乾いた笑い声によって押し留められた。

圧倒的な声量によって伝わる音は、何事かと周囲の意識を音源へ無理矢理にも注目させる。西光坊の足は筋肉の緊張をそのままに駆け出す寸前で止まっていた。首から上だけが声の聞こえてきた方向へ向けられている。他の者も同様だ。その中で、割かし音源の近くにいた静奈の反応は誰よりも一番早かった。

「………気でも狂うたかぇ?」

目を向けた先には武人の姿があった。

それまで地に座り込んでいた彼は皆が気付かぬ間に立ち上がり、ゆっくりと彼女とマシューの元へ歩んでいる最中であった。サクサクと地面に落ちて水気を失った枯葉を踏む音が小さく辺りに響く。元より数メートルの距離であった為に、歩調は非常にゆっくりとしたものながら、他の者が黙って様子を眺めていると、彼はすぐに二人の元へとたどり着いた。残る右手は何も持っていない。見れば刎ね飛ばされた腕は、それまで座り込んでいた辺りに放置されていた。

「何か用ですか? 武人さん」

今更に君が出てくる必要は無いのだと言わんばかりにマシューが語りかける。

「……………」

それに答える事無く歩を進めた武人は、マシューから数歩だけ離れて立つ静奈の横に己の身を置いた。その場の誰もが、胸中に浮かぶ言葉や心持こそ違えど、人間風情が何のつもりだという思いを持って彼の動向を眺めていた。静奈は彼に隣に並ばれても、身体の正面を向ける事無く首だけを其方へと捻り様子を眺めている。彼女達からすれば、武人の存在など有っても無くても大差無いものだった。

化け物を相手に人間が出来ることなど高が知れている。しかも、今この場に集っているのは化け物の中でもそれ相応の力を持つ者ばかりである。たとえ人類が扱いうる近代武装の粋を集めても敵うことは無いだろう。それが一介の人間、それも子供にどうにか出来る筈は無かった。

「君達は……」

ボソリと声が漏れる。

「君達は何を思って毎日を生きているんだよ」

君達という語が具体的に何処までを指すのか、その場の誰もが理解できなかった。

「それは、何の話ですか?」

呆れた様子でマシューが言葉を返す。

「何を思って生きているかって聞いているんだよっ! 僕はっ!」

すると、武人は急に声を荒げて叫ぶ様に言った。

先程までの虚ろな眼差しとは打って変わって、何かに狂ったような大きく見開かれた瞳が答えるマシューを捉えた。随分な口調とは裏腹に両足はガクガクと小刻みに震えている。しかし、そこには紛い無い芯のある意思が感じられた。

「腕を飛ばされて怒っているのですか?」

けれど、それもマシューからすれば滑稽な道化以外の何物でもない。

「僕だって、お前等と同じ様に生きてるんだからなっ!」

「ええ、そうですね。ですが、それがどうかしたのですか?」

「怒っているか? 怒っているに決まってるだろっ!!」

堪えきれない感情の渦巻きに武人は身を震わせる。

残る右腕が動いて、その指先がズボンのポケットへと突っ込まれた。

何事かと事の成り行きを眺める一同の前で、デニム生地の合間から取り出されたのは一振りのナイフだった。二つに折り畳まれたそれを、彼は器用に片手で伸ばして刃を出す。刃渡りは7センチ程で刃幅は三センチあるかどうか、といった小振りな一刀である。人を殺すには十分な凶器だが化け物を前にしてはペーパーナイフ程の価値も無い。

「武人さん、それで一体何をするつもりですか? まさか私に向けますか?」

マシューは笑いが堪えきれない様子で言葉を続けた。

「大人しくしていたほうが身の為ですよ? 次は腕一本で済まないでしょうから」

「五月蝿いっ! 僕だって、僕だってお前達と同じように感情とか、精神とか、自我とか色々あるんだよっ! それがお前達の勝手にされて良い筈がある訳無いじゃないかっ! 殺してやる、全部殺してやるっ!」

狂ったように吼えて、その腕が不意に隣立つ静奈へ伸ばされた。

その手には月明かりに照らされてキラリ光るナイフが握られている。

武人はそれを静奈の首筋に突きつけた。己の腕を背面から彼女の首へ巻きつけるようにして、手に持つ刃の切っ先を喉笛に向けて固定する。金属製の柄を握る手はガクガクと激しく震えて、すぐにでも誤ってその喉を掻っ切りそうな危うさがある。その姿は軽い気持ちで窃盗に入った末、警察を呼ばれて人質を片手に立てこもる羽目となった強盗犯の如きであった。

「貴方は何をするつもりですか? 静奈さんを殺すのですか? それこそ意味が分かりませんよ。幾ら静奈さんが若い化け物とはいえ、貴方がナイフ一本でどうにか出来るような相手では無いことくらい理解できませんか?」

やれやれだとばかりにマシューは軽く溜息なんぞ吐いてみせる。

「気でも狂ったんじゃねぇのか?」

「それでは助かるものも助かりませんよ? そのままジッと大人しくしていれば、いずれは人里へ帰ることも出来るでしょうに、今更になって何を狂っているんですか。貴方の役目は終わったのですよ」

敵は武人の愚行を冷ややかな眼差しを持って見つめていた。姉妹は訳が分からないといった様子で我が目を疑っていた。静奈は武人のなんら意味を持たない行為に疑問を持ちながらも、小心者の彼が自分に刃を立てられる筈が無いと高を括っていた。

確かに心臓や首へ突き立てられれば、尻尾一本の化け狐である静奈は致命的な損傷を負うことになる。しかし、その心持は平静としたもので、どちらが人質に捕られているのか分からない程である。

だが、彼女の思惑とは異なり武人の腕は何の躊躇も無く容易に動いた。

「お前等に好き勝手されるようだったら、それしか無いんだったらっ!」

感極まった様子で武人は叫ぶ。

首周りを覆うように当てていた腕を下へずらして、彼は静奈を腹から抱えるように抱き上げる。そして、その順手持ったナイフの切っ先を彼女の腿の付け根へと突き立てたのだった。

着物の生地を抜けて、ズブリと冷たいものが肉体へ押し入ってくる感触に静奈の目が見開かれる。

それは痛みからではなく驚愕に因るものだ。本当に我へ刃を向けおった、そんな愚直な感想が漫然と思い浮かんだ。かと思えば同時に身体に加速を感じた。彼女は予期せぬ彼の振る舞いに腕を振り払うことさえ忘れていた。そして、気付けば己を抱きしめる武人は有らぬ方向へ向かって走り出していたのだった。

「静奈が死ねば、全員、そこの奴に殺されて終わりなんだっ!」

「まさか自爆するつもりですかっ!?」

どういう訳か大人しく身を刺された主人に危機を感じて、急遽、西光坊は姉妹から武人へと矛先を変えて飛び出した。その姿を横目に確認して、マシューもまた慌てた様子で地を蹴る。武人の突拍子も無い行為は凝り固まった両者の関係を崩す切欠となった。それを眺める者の間にも否応無く緊張が走る。

そんな中で、自分を巡る悶着を前に静奈はふと一つの疑問を得た。何故に武人は己の首や胸でなく足を刺したのか。今の主張を真っ向から受け止めたのなら、彼の挙動は酷く矛盾していると感じられた。単純に混乱してまともな思考が出来ないだけかもしれない。しかし、彼女は自分を抱える武人に然したる抵抗も無く、なすがままに受身であることを選んだ。

「待ちなさいっ!」

元より二人の間には大した距離があった訳でもない。非力な武人は静奈を抱えながらでは満足に走ることも難しく、俊敏性で圧倒的に勝るマシューはすぐに彼を捉えた。横に一薙ぎ振るわれた腕合わせて、音も無く虚空へ出現したのは数本の氷柱である。その照準が武人の足に向けられる。逃げる彼は静奈を引き摺るようにして抱き抱えている。両者は非常に密着しており、マシューが呼び出した氷の矢もまた、それに合わせて全長三十センチ程度の小振りなものであった。

後ろを振り返りつつ駈けていた武人は己に向けられた一撃に気付いた。そして、今まさに矢が射られようとした時である。彼は静奈を抱え走りつつも、強引に腿から引き抜いたナイフの刃を再び彼女の首筋へと押し当てた。そして、彼女の大動脈より噴出した夥しい量の血液に我が身が赤く染められるのを構うことなく、この数週間で敵より散々と浴びせられた謳い文句を口にする。

「撃ったら殺すっ!」

足が動くのに合わせ激しく上下する刃が触れて、首筋に薄っすらと赤い筋が浮かび上がる。微かな刺激と肌に刃物を当てられる不快感から静奈の眉が歪む。この者は何をしたいのだろう。彼女には武人の意図するところが皆目検討もつかなかった。

「くっ」

躊躇したマシューにより、撃ち出された氷柱の一団は、僅か逸れて脇の地面に突き刺さった。氷柱は被弾地点を中心にして、その周りに生える雑草を巻き込みパキパキと音を立てて一帯を氷結させる。

どういう訳か抵抗らしい抵抗を見せない静奈に疑問を感じながらも、彼は引き続き武人を追う。幾ら静奈が弱い化け物であるとはいえ、武人と喧嘩をして負ける筈が無いのは周知の事実である。

人間と化け物では有り余る身体能力の差が合間に横たわる。飛び道具による牽制こそ失敗したが、マシューはすぐに二人の後方へ付いた。その脚力は人間を遥かに凌駕する。武人が駆け出してからまだ十メートルと進んでいない。静奈は非常に小柄で体重も驚くほど軽い。具体的にはスーパーの一角に詰まれた米袋を二、三抱える程度の負担だ。しかし、毎日を家に引き篭もってコンピュータと共に過ごす武人には聊か荷が重かった様だ。

「これで終わりです」

そして、振り返ったその目前にまで迫るマシューの姿に狼狽して、武人は足元に出来た土の窪みに躓きバランスを崩した。緊張に強張った身体は、右腕が失われていることも手伝って、一度崩れた体勢を復帰させることも適わない。

「ぁっ!」

驚いて声を上げた時には既に遅い、身体が前方に倒れ始める。

その腕に抱えられた静奈もまた同様だ。

一体この者は何がしたかったのか。これでは只の無駄死にではないか。やはり、敵の言ったとおり腕を失って錯乱していただけなのか。そんな感想を若干の失望と共に胸に抱きながら静奈は武人の振る舞いを愚行だと決定付けた。

土に塗れるのが嫌で、仕方無く彼女は腕を前に突き出して着地に備える。すると、僅かな思考から間髪置く事無く、そんな彼女の脇腹に横から何かが強くぶつかった。他者に殴られたかのような衝撃を受けて何事かと思い、倒れ行く我が身を制しつつも、静奈はそちらへと顔を向ける。すると、そこには自身に向かい突き出された武人の手の平があった。気付けば何時の間にか彼女を抱く腕は開放されていた。

「………笑って、いるのかぇ?」

静奈は何気無く呟く。

彼女の目に映った倒れ行く武人は、同じく傾きを激しくする彼女を正面から視界に捉え、口元を僅か笑みに歪めていた。それは先程にマシューへ見せた狼狽と憤怒の入り混じる表情とは似ても似つかないものだった。

なんのつもりじゃ? そう続ける間も無く小さく軽い彼女の身体は容易に本来の軌道を逸れた。そして、繋がりを失った武人と行き先を分かれる。彼女を力一杯に押し出した彼の身体は、その反作用を受けて逆の方向へと向かう。やがてその顔は明後日な方向を向いてしまった。静奈は彼の姿に疑問を感じながらも、己の倒れ行く方向へ顔を向けて体勢を整えようとする。

すると、目を向けた先には手を伸ばせば届く至近まで迫る人影があった。

「ぬぅ……、これが狙いかぇ」

疑問は間髪置かずに氷解した。

片手で地を叩いて、その反動により地面に程近い低い位置で前方宙返りである。その元にはマシューからの牽制を失い距離を縮めた従者の姿があった。彼女は両足から着地した静奈へと間髪置かずに腕を伸ばす。

一方で支えを失った武人の身体は、彼女達から多少離れた辺りに頭から地面に突っ込んで激しく転げた。汗ばんだ肌を土に汚し、半端に開かれた口からはくぐもった悲鳴が漏れるが、それを気にするものは周囲に誰一人としていない。

「やられましたっ」

慌てたのはマシューである。

武人が突き飛ばした静奈の向かう先に西光坊の姿を見止めて、慌てて走る足を止める。伸ばした腕は静奈の腕を既に掴んでいた。しかし、彼女を挟んで従者もまた主人を捕捉していた。己は高々数メートル、対して相手は数十メートルを対象より離れていた。しかし、彼女の健脚を持ってすれば、交渉には決して十分足りえ無かったのだと知る。彼女の方が僅少の差で先に動き出したとはいえ、想定の斜め上を行く結果だった。マシューが想定していたより西光坊の能力は遥か高みにあったのだった。

決断も早く、彼は即座に地を蹴り身を浮かし宙へ飛び上がった。

「ジェームズ、逃げますよっ!」

そこには明らかな焦燥が見て取れた。

相棒の姿を確認する余裕も無く、ただ自らが生き残ることだけを優先してマシューは身を翻す。最後に彼の視界の隅に映った西光坊は、武人に突き飛ばされた静奈を手中に確保したところだった。

「西光坊」

静奈は逃げ行く敵の姿を頭上に捉えて従者の名を呼んだ。

「はい」

答えて西光坊は逃げ行くマシューの後姿を捉える

「ここでやられるわけには、いかないのですよ」

本人はそう言うが、これまで無理強いを考えれば、彼がすんなり逃げ果せられるとは誰も思うまい。そして、その通り静奈も彼を逃すつもりは毛頭無かった。寧ろ今後また襲われる可能性を危惧したのなら、ここで倒しておくのが妥当である。

「私にはまだ、やるべき仕事が山とあるのです」

誰に言うでも無く呟いたマシューは幾十本もの大量の氷柱を己の周囲に出現させる。そして、地に足を着いたばかりの静奈へ向けて、その全てを打ち出した。碌に距離を置かず、また避ける隙間無く高密度に発射された氷柱を前にして、静奈には成す術が無い。

しかし、彼女の背後に立つ西光坊は腕を横に一閃させるだけで、その全てを微細な空中に浮いてキラキラと光る氷片にまで粉砕させた。その頴脱した能力に戦慄を覚えながら、彼は全力で空を駈ける。

「これはどう転んでも勝てませんね」

珍しくその顔には芯からの焦りが浮かんでいた。

「逃がしません」

全ての氷柱が砕けたのを確認して、西光坊もまた足を地から浮かし飛び立す。

先に地を発ったマシューと彼女との間には数十メートルの間隔があった。先を進む彼は既にこの辺り一帯で一番背の高い樹木の先程の高さにいる。けれど、それも僅か数秒の間を持たす事無く即時に零と消えた。背後から迫る身の毛も弥立つ気配を感じて、マシューは再び大人の身の丈程の大きさを持つ氷柱を一本だけ生み出す。

「私はまだ死ぬ訳にはいかないのですっ!」

それを迫る西光坊の鼻面目掛けて至近距離から打ち出した。誰もが予期したとおり、彼女は何の苦も無く避ける。すると、そんな追跡者の反応に彼は全力で飛行を続けながらも背後を振り返って軽口を返した。

「おや、避けてしまって良いのですか?」

「っ!?」

相手の余裕ある言葉に西光坊は慌てた様子で背後を振り返る。

すると、無骨に尖るその先端が向かう先には地上に佇む主人の姿があった。

「静奈様っ!」

従者に名を呼ばれて、静奈は自らに迫る凶器に気付いた。

「ぬぅっ! またかぇ」

慌てて場所を移す。武人に刺された足が痛んだが、それも歩けない程ではなかった。武人のような普通の人間ならば既に意識を失う程の出血量だが、静奈にしては重傷には違いない負傷だがすぐさま生死に関わるようなものでもない。暫くを走って射程から外れただろうと静奈は頭上を仰ぐ。だが、マシューが放った氷柱はそんな彼女の後を追って、気付けば軌道を変えていた。

「っ!?」

それは彼女の胸を目掛けて確実に迫っていた。

まさか追尾してくるとは想定外である。中空で踵を返した西光坊が急降下を始めるも、僅かに間に合わず氷柱は静奈の肉体を捉えていた。今からでは間に合わない。足の刺し傷が原因となり咄嗟に反応することが出来ず、彼女は照準から逃れることが出来なかった。

避けようが無いまでに接近を許して、まるでコマ送りで進む映像を眺めているように、静奈は己の胸に氷柱の先端が吸い込まれていくのを感じていた。それは確実に心臓を目掛けて飛来する。彼女はその僅かな間の中で己の死を理解した。まさかこの様な最後になろうとは。そんな感想が漠然と思い浮かぶ。

しかし、上に着た着物の生地が破れ、いざ肌に刺さろうかという直前で、又も彼女の身にはドスンという大きな衝撃が走った。脇に何かがあたったようである。それは彼女の肉体を矢面から横へと弾き飛ばした。

お陰で胸を突かれることは無く、彼女は肩に浅い擦り傷一つで地に倒れることとなった。

何事かと驚いて静奈は顔を上げる。

西光坊が何かしたのだろうか。脳裏に浮かんだのは月並な推測だ。しかし、そう考えて目を向けた先にあったものは違った。彼女は視界に飛び込んできた者の姿を目の当たりにして更に驚くこととなった。深く紅い色の瞳が瞬時に限界まで見開かれる。

「な、何故にお主が……」

そこには武人がいた。

有ろう事か、迫る氷柱に身を貫かれようとしていた彼女を庇い、変わりにその腕を氷柱に射抜かれて地に貼り付けられていた。貼り付けられていると言っても、柔らかな人体は堅い氷柱を前に完全に押し潰され分断されている。その上で氷の鏃に触れる前腕が地面共々氷付けになり固定されていた。

「ぼ、僕だって、お前達に影響を与えられるんだ」

鬱蒼と茂る雑草によって横半分を隠された顔には、喜びと悲しみの相容れる不思議な笑みが浮かべられていた。夜露に湿った身の細い草の葉から水気が伝わり、彼のシャツの色をジワリジワリと変えていく。

「僕だって、僕だって………」

今すぐにでも泣き出してしまいそうな雰囲気があるのに、どうしてか嬉しそうにも感じられる。泣き笑いとでも言うのだろうか。だとすれば、本人の感情は一体どの位置に置かれているのか。静奈には武人がそのような表情を浮かべる意味が全く分からなかった。

「武人……」

そして、それは静奈にとって完全な不意打ちであった。

両腕を失い無様にも芋虫の如く地に這い蹲る彼の姿を目の当たりにして、しかし、彼女は頭の天辺から爪先までを雷に打ち抜かれたような衝撃を覚えていた。己の胸の奥深くから勢い良くに何か熱いものが込み上げて来るのを感じた。それは遥か昔に熱を失い冷え固まった、彼女自身も存在を忘れていた胸中の岩漿が、けれど、何の前触れも無く猛りを取り戻して正常な感情さえ飲み込まんとうねるが如くである。

「こんな理不尽、絶対に認めたくない……」

武人は光を失った瞳で静奈の顔を見つめ、独白するように小さく呟く。

「武人よ……、何故に、何故に我を庇ったのじゃ……」

静奈は武人の行為が理解できずに声を上げた。

自分と同じく他の何よりも我が身を大切にする彼が、自らの身を危険に晒してまで自分を庇ったなどとは信じられなかった。尻尾を巻いて逃げるなら未だしも、自身が即死の憂き目に晒されることを承知で構わず駆けつけたなど夢のよう。それも自分は一度この者を本人の目の前で裏切っている。にも拘らずである。静奈は止め処無く湧き上がる疑問に困惑を極めた。

思い返してみれば、あの臆病者の武人が刃物一本でマシューに向き合い、あまつさえ自分を刺しての大活劇である。静奈には彼の挙動が理解が出来なかった。そして、震える足に鞭を打ってまでの行いに、最後は命綱とも言える己を西光坊へ託し笑みを浮かべていた。静奈にしてみれば奇行以外の何物でもない。

「腹が立ったんだよ、僕は」

「武人よ、主にはそんな度胸があったのかぇ? 我には……、主の行いが分からん」

「うるさい、僕だって、僕だってやるときは………、やるんだから」

静奈の呟きに武人は拗ねたような口調で返す。

そこには己の身を嘆く先程までの狼狽さえ感じられない。

一体、この者の変化はなんなのだ。

彼の独白に耳を貸しながら、静奈は何かとても熱いものが身体を駆け巡るのを感じていた。それは目の前の相手の姿を目の当たりにしていると、凄まじい勢いで強くなっていく。まるで熱病にでもやられたかの如く、心臓の鼓動が否応無く高められて、顔は真夏の太陽の直射日光を浴びているかの様に火照るのを感じた。

「武人、武人よ……」

おずおずと無意識の内に呟いて片手を武人の頬に当てる。

「お前達化け物は、これ以上僕を馬鹿にするなよ、許さないからな」

そんな彼女の行為にビクリと身体を震わせながらも、武人は言葉を続けた。

左腕を失ったときと同じく、貫かれた右前腕から出血は無い。また、同様に痛覚も満足に感じられないのか痛みに顔を顰めることも無く武人は言葉を返した。しかし、腕を失ったショックに因るものか覇気が感じられない。すぐ近くにはマシューの放った氷柱がズンと突き刺さっている。その冷気に晒されて彼の頬はヒンヤリと冷たかった。

「どうして主は我を庇ったのじゃ……」

突如として胸の内に灯った灯火はどうしようもなく暖かい。

その扱いに困って静奈は同じ言葉を繰り返した。

「僕は、理不尽なことが嫌いなんだよ」

「だからと言ってこれはどういうことだ、我には主が分からん」

過去に経験したことの無い急な感情の変化に、静奈は自分の事ながら驚きを隠しきれなかった。矢継ぎ早に繰り返される疑問の言葉は、それに戸惑う己を何とか取り繕うとする過去の記憶から来る抗いである。しかし、それも新たな感情の波を前にしては容易に淘汰された。

「我を助けるのが理不尽にどう関係してるのじゃ?」

「静奈は、あのままで良かったの?」

「良い訳はなかろう。しかし、手の打ち様が無かったのは事実じゃ」

「僕は嫌だった。苛められるなんて、もう沢山だ」

言ってほんの僅かだけ眉が顰められる。

「だからといって、何故に我をも巻き込む」

「それは、なんとなくだけど、静奈が僕と同じな気がしたから……」

「我が主と同じ?」

それは全く予期せぬ回答だった。

つい数刻前ならば鼻で笑って済ませたであろう武人の物言いに、しかし、静奈は神妙な面持ちで続けられる言葉を待った。こうして彼の言葉を耳にしていると、それだけで肉体が熱を持つのを感じる。鼓動が早まっていくのを感じる。静奈は嘗て感じたことの無い自身の内面的な変化に戸惑っていた。

おかしなことに、自分と目の前の人間が同じだと言われて、決して悪い気がしなかったのだ。本来ならば馬鹿げていると笑い飛ばすべき言葉が、どうしてか心地良い。その顔を見ているだけで胸がキリキリと痛むのに、それが決して嫌でない。彼女は自身の身体が高揚するのを止める事が出来なかった。

「君は、どこか僕より達観しているけど、でも同じ境遇にあったから、多分、仲間意識が生まれたんじゃないかな。こんな状況だもの、冷静に考えることなんて出来やしない。直情的なものだよ」

語る武人は妙に冷静に自分を捉えているように感じられた。

「主は……、我と同じ、か」

まさかそんな筈は無い。

それは自分を一番良く知る彼女自身が太鼓判を持って宣言出来る。寧ろ、己の存在はそれこそ武人とは対極に位置する筈だと。にも拘らず、今だけはその言葉に飲まれておくのも悪くないと感じてしまった。

「武人と同じ……」

呟いて静奈は自分の身が震えるのを感じる。

「……静奈?」

何を思うよりも強く、何を考えるよりも早く、彼女の脳裏には明確な一つの答えが浮き上がった。それは抗いたい魅力を伴い、五感さえ狂わせるかの如く思考を掻き乱した。感情の変化である。

古くよりは遊び道具に過ぎなかった人間なのに、つい数日前までは道端に転がる石ころと大差無く考えていた人間なのに、今は何故だろうか、どうしようもなく目の前の存在が大切なものに思えてしまったのだった。

こんな急激な変化があるだろうか。

了見を得ない武人の行為さえ霞んで見える程に、目まぐるしいまでの感情の変化を受けて静奈の思考は破裂寸前であった。滝より落ちて轟々と流れ出る濁流の様な内面の変化は、際限なく胸の内の熱を滾らせる。

「我は、我はどうしたのだろう……」

触れた頬から伝わる冷たい感触が無性に悲しくて、本人も気付かないうちに眦は涙を湛えていた。これが他者を愛しいと思う心だというのなら、今の自分はこの人間を心底愛しく思っているのだろう。静奈は自らの感情に混乱しながらも、そんな一縷の回答を胸中に導いた。

これほど大きく心を揺さぶられたのは、彼女もこの世に生まれ出てより始めての出来事だった。元より他者へ本心から気を掛けた事など一遍も無い彼女にとって、ふと沸いて出た胸の内の暖かな気持ちの認識は、他に類を見ない衝撃的な出会いだった。

そして、それは一度でも理解してしまうと、それこそ本人の意思に関係なく、気が触れてしまいそうな程に膨れ上がった。溢れ出す感情の荒波は留まる事を知らず、ただ愛おしいという感情だけが果て無く身と心を震わせた。

病的とも言える、発作染みた心情の変化であった。

「武人、武人や……」

もう一方の手も伸ばして、静奈は両手で彼の頬を挟むように撫でる。

「し、静奈……?」

武人は困惑の声を上げた。

そんなときである、二人の下へ耳障りな怒声が届いた。

「ああったくっ! また出戻りかよっ!」

それはマシューを追って空へ駈ける西光坊に圧巻されて、何処へ逃げるべくか迷い、地より発つを遅れたジェームズであった。彼は静奈が武人により助けられた姿を目の当たりにして苛立たしげに吼える。

「テメェ等は何度俺の邪魔をしたら気がすむんだよっ!」

静奈の無事を確認して再びマシューを追いに向かった西光坊。その姿を視界に納めて、ジェームズはそれと反対の方向に飛び立った。彼も西光坊の能力は良く理解している。相棒を助けに向かうという選択肢は微塵も浮かばなかった。そして、その過程で彼は後ろを振り返ると、今回も終えることが出来なかった仕事への鬱憤を晴らすように氷柱を打ち出したのだった。

「死ねっ!」

発射された幾本もの鏃は二人を目掛けて一直線に突き進む。

西光坊の存在を意識してだろうか、打ち出された垂氷は之まで夢見月へ向けていたものと比較すれば小さい。多少のバラつきがあるものの、大凡は育ちの良い大根程度だろう。しかし、地に縫われて動けない武人には避ける術が無かった。彼は腕を地面から引き剥がそうと躍起になるが、思いのほか彼を戒める氷は強固である。直撃を受けた前腕から二の腕の中頃までが完全に凍り付いていた。

「っ!」

叫び声を耳にして顔を向けた二人の前には、目前にまで迫った凶器があった。

轟と音を立てて飛来する懸氷は地面に横たわる武人と、その傍らに蹲る静奈の下へ正確に突き進む。身動きの取れない武人の救出は既に絶望的だった。今から氷を溶かしている余裕は無い。だが、化け物である己の瞬発力ならば、今すぐに身を退ければ助かるかもしれない。迫り来る氷柱を前に静奈は漠然とそんなことを考えた。発射に気付いてから着弾までの間には身を振るう僅かな間があった。

だから、気付いたとき、既に彼女の身体は動いていた。

勢い良く立ち上がった静奈は地を蹴り、そして、武人と氷柱との間に四肢を大きく開いて立ち塞がった。

「し、静奈っ!?」

武人が素っ頓狂な声を上げた。

静奈は硬く歯を食いしばり全身に力を込める。決してその身体が倒れぬよう、しっかりと両足で地を踏みしめる。出来る限りを防げるよう、胸を張って細い腕を一杯まで広げる。その瞳が見つめる先には、既に避ける事が出来ない所まで迫った数本の氷柱があった。けれど、そこに戸惑いの色は一切感じられなかった。

静奈は願う、どうか我の身体で止まってくれ、と。

「し、静奈っ!」

武人の叫びから間髪置く事無く、ズン、ズズンという連続した低い音が辺りに響いた。

飛び迫った無数の氷柱は静奈の小さな身体を貫いて、しかし、彼女の後ろに横たわる武人まで至る事は無く、その身体を深く串刺して勢いを失った。傷口は即座に凍りつき血液が噴出ることはなかった。そして、一度に多くを受けた為か、パキパキと音を立てて肉体を侵食するが如く、小さな彼女の体躯を包むよう氷化が始まった。主として損傷の激しい腹部は表面のほぼ全てが氷結していた。

そんな自分の置かれた状況を理解しているのか、放たれた氷柱の全てを己が受け止める事が出来た事を理解して、静奈は満足気な笑みを浮かべていた。そこには一抹の迷いや後悔も無く、寧ろ、嘗て無い程に晴れ晴れとしたものであった。

「た、たけと……」

何かを喋ろうと口を開いて、静奈は喉を逆行した血液をゴフッと吐き出した。

彼女はよろよろと力無く身体を振らせて後ろを振り返る。目にも留まらぬ速さで突っ込んできた氷柱を身に受けて尚、倒れる事無く踏ん張った両の足は、しかし、全身から急速に力が失われるに従い、強張らせた筋肉を弛緩させていた。その足元はふるふると力無く震えている。

「静奈……、なんで君が……」

武人には目の前の光景が理解できなかった。

過去には自分を捨てて保身に走った彼女が、何故に今になって自分を助けるのか。

胴体を幾本もの氷柱に突かれ、身に纏う淡い水色の着物を真っ赤に染めながら、なのにどういう訳か、その顔には嬉しそうな笑みが浮かべられていた。それは武人の記憶にある彼女のどんな笑顔よりも、ずっとずっと可愛らしい笑顔だった。

「たけと……、我も、とうとう気が狂ったようじゃ……」

腕に受けた氷柱の重みに耐えかねて、筋一本で繋がりプラプラと揺れていた右腕が、ブチンと鈍い音を立てて千切れた。凍った腕と氷柱は共にドサリと地に落ちる。それを露程も気にした風無く、静奈はただ真っ直ぐに武人だけを見つめていた。真っ赤な瞳が正面から武人の顔を見つめていた。

「なんだよ……、なんだよそれ……」

つい先刻の静奈がそうであった様に、武人は激しく困惑していた。

「これほどまでに人間を愛おしく思ったことなど……我は生まれて初めてじゃ………」

「そんなの、訳が分からないよっ! ど、どういうことだよっ!!」

静奈の語り口調は妙に穏やかだった。

「愛おしいのぉ……、こんなにも愛おしい……」

立っているが精々の身は、誰の目にも死に行く者のそれとして映るというのに、何故そんな声色で語りかけて来るのか。武人には彼女の心情が全く理解できなかった。痛々しい少女の姿が、決起したばかりである彼の精神を強く揺さぶる。

「のぉ、たけと……」

「な、なんだよ……」

自重を支えきれなくなった静奈の足が崩れて、ドサリと膝が地に着く。最早自力で身体を支えることは出来そうになかった。。ゆっくりと前方へ倒れ行く彼女は、その身体が地に伏せる前に、最後の力を振り絞るよう喉を動かし言葉を紡ぐ。

「もしも……また……機会があったのなら…………」

傾きを急にする体躯には、それに抗う力も残っていない。

武人はコマ送りのフィルムを眺めるように、その姿を呆然と見つめていた。

「……もういちど……我を主の下へ置いては……」

それは過去に類無く多くを願った彼女の、あまりにもちっぽけな最後の願いだった。

「……くれぬかぇ?」

蚊の鳴くような小さい声で呟かれた最後の一節。

そう最後までを口にして、彼女は満ち足りた様子でニィと口元を嬉しそうに歪めた。

「し、静奈っ!?」

ズザっと音を立てて肉体に刺さった氷柱の一端が地に刺さる。

全身に受けた氷柱がつっかえて、力を失い倒れた肉体は地に着くことなく、その寸前の中途半端な位置で止まった。喉を溢れさせた血液が、小さく開いたままの口元から唇を伝い、ポタリポタリと音を立てて地に紅い池を作り始める。

小さな体はそれでピクリとも動かなくなった。

「静奈っ!? ね、ねぇっ、どうしたんだよっ!!」

焦った武人は声を荒げてその名を呼ぶ。

腕が地面に縫い付けられている為に、その下へと寄ることは適わない。

「ねぇっ! 静奈ってばっ!!」

幾ら呼んでも静奈は何の反応も返さなかった。繰り返し発っせられる声は山彦となって、虚しくも同じ音が遠くから運ばれてくるだけだ。月明かりの他に光源の無い深夜の闇深い山中には、武人の情けない声だけが虚しく響いていた。

「静奈っ!」

ピチャリ、ピチャリと血液の垂れる音が妙に耳に強く響く。

それは誰が望んだ理不尽であったのか。

答えを知っている者は何処を探しても見つかりそうになかった。

「静奈様っ!」

その名を叫んで西光坊が空より舞い降りた。

逃げるマシューを追っていた彼女だが、地上での静奈の危機を知って、トドメを刺す事を諦め慌てて戻ってきたのだった。

しかし、彼女が辿り着いたとき、既に主人は胸の鼓動を止めていた。いや、そもそも鼓動すべき臓器が体内に形を成しているかどうかさえ怪しい。無数の氷柱に全身を突かれ、身体の殆どは氷に覆われて寒々と冷気を放っていた。

すると、彼女は一体何を思ったのだろうか。垂氷に支えられ地より浮いてうつ伏せに横たわる静奈の背上に己の腕を突き伸ばした。そして、有ろう事かもう一方の手を振るうと、その手首を勢い良く掻っ切ったのだ。

「っ!?」

西光坊を前にして口を開こうとした武人は、その様子に言葉を詰まらせる。

真っ赤な液体がブシッという音と共に勢い良く噴出した。

手首の切り口は下に向けられ、飛び出した血液は静奈の全身を隙間無く紅色に染める。まるでシャワーでも浴びせているように、胴体は元より両手両足から顔、髪に至るまで全てが血に塗れていく。

「ちょ、ちょっと何やってるんだよっ!」

猟奇的とも言える異常な光景を前にして、武人は思わず叫びを上げた。

だが、西光坊は彼の問いに答える事無く、左手首に続いて右手首の血管をも切り裂いた。同様に噴出した血液が幾重にも静奈の身体を赤く濡らす。両手首からの大量出血にも動じる事無く、自分の足で立って主人の様子を見守っていた。身に纏う値の張りそうな燕尾服が血に染まるのを気にした風も無い。

「く、狂ってる、狂ってるよ君はっ!」

身動きが取れない武人は、ただ非難の言葉を口にすることしか出来ない。

そして、両手首から噴き出る血液の勢いが弱まってくると、次に彼女は腰を折って自らの首を静奈の背に重ねるように突き出した。一体彼女が何をしようとしているのか、それは今し方の躊躇無いリストカットを目の当たりにした武人にとって、容易に想像がいくことであった。

「そ、それは違うと思うよっ! ちょっと君ぃぃっ!!」

その後に待つであろう凄惨な局面が勝手に脳裏へ思い描かれ、武人は堪らず悲鳴染みた声を上げていた。最後の方は喉に力が入りすぎたのか、声が裏返って自分のものとは思えない程の高い音調となっていた。

目の前でB級スプラッタが繰り広げられようとしている。

武人は思わず目を背ける。

そのとき、時を同じくして耳になにやらくぐもった呻きが届いた。

「んぬぅ……」

西光坊の声色にしては違和感がある。

目を背けて暫く経っても、今か今かと備えた血液の散る音は届かなかった。

どうなったのかと疑問に思い、武人は恐る恐る顔を戻す。

「…………どうしたんだよ」

向けた視線の先では、傾げたままの西光坊の首に変わりはなかった。

代わりに、その下に横たわる静奈の肉体に変化が見られた。

それまでグッタリと力を失い垂れ下がっていた四肢に、僅かだが筋肉の緊張が見られたのだ。もう二度と動くことは無いと思われたそれが、ピクリ、ピクリと痙攣を繰り返す様に武人は眼を見開いた。

「えっ!?」

同時に肉体を貫いていた氷柱の並びがパキパキと音を立てて崩れ始める。

西光坊は静奈の身体が地に落ちないよう、その背に両腕を回して優しく抱きとめた。その姿は主人と従者というよりは、我が子を慈しむ母と子の様だと武人は思った。ただし、両者共に頭から足先まで血塗れなので違和感は拭えない。

「ちょ、ちょっと……、これってどういうこと!?」

死んだと思われた静奈が生き返った、武人にはそう感じられた。

程無くして氷柱は全て砕け散り細かな氷片となってパラパラと地に落ちた。西光坊に抱き上げられて、静奈の顔が武人の目にも映る。本来なら白い筈の肌は一毫の隙間も無く赤黒い液体に染められていた。その様子に思わず視線を逸らしそうになる。月明かりに照らされて捉えた口元の微かな震えに、武人は静奈の生を知った。

「静奈、生きてるの?」

誰に言うでも無く呟きが漏れる。

すると、初めて彼の問いに答えて西光坊が口を開いた。

「……非常に危ういところでした」

西光坊は武人の問いに答えながら、静奈を抱えたまま器用に上着を脱ぎ、それを地面に広げて敷いた。そして、その上に抱いた小さな体躯を優しく横たえる。その様子は妙に手馴れていて、まるで赤子をあやし寝かす母親の様であった。

「死んだんじゃなかったの?」

「きっと、芯の部分で死にきれていなかったのだと思います」

そう言って彼女はズボンのポケットから取り出したハンカチで静奈の顔を拭き始める。ズボンの生地越しに血が沁みていたのか、既に赤い色が付いていたが、それでも泥を塗ったように滑る頬を考えれば断然マシだろう。西光坊は主人の顔に付着した血液を丁寧に拭っていく。

「でも……、だったら何で血なんてかけたり、するんだよ。訳が分からない」

武人は気が狂ったとした思えない西光坊の振る舞いに自然と言葉を続けていた。

「それは私の血が元は静奈様のものだからです」

「静奈の、血?」

「私は静奈様より生み出された化け物です。今でこそ力の逆転現象が起きていますが、この身もこの力も全ては静奈様より頂いたものです。ですので、その一部を返還することで生命の糧としました」

「へ、へぇ……」

血液が薬になるとは化け物の世は分からないものだと、武人は引き攣った笑みを浮かべて頷いた。今まさに死んでしまったと思われた者を生き返らせたのだ。本人は死を否定したが、武人にはそうは思えなかった。これには昨今の面倒毎に御伽噺の実現へ慣れつつあった彼も驚かざるを得なかった。

とはいえ、これ以上は突っ込んで聞いても原理原則を理解するには至らないだろう。そう考えて追求を止める。何はともあれ静奈が助かったのだから良しとした。現実を有りの侭に受け入れるのは大切だ。

「ん、ぅう……」

武人と西光坊の話し声が届いたのか、横たわる静奈の瞼がピクピクと動いた。そして、二人が暫くを口を噤んで見つめていると、それはゆっくりと眠りから覚めるかの如く開かれていった。

「気が付きましたね」

ホッと一息ついた様子で西光坊が声を掛けた。

「んぬぅ……主は西光坊か?」

「はい、西光坊です」

暗がりで相手の顔が良く見えないのか、それとも目に血が入って霞むのか、目元を人差し指で擦りながら静奈はそんな事を問うた。そして、それだけを尋ねて口は閉ざされ、何やら考え込むように瞳は再び瞼の下に隠されてしまった。記憶が朦朧としているのかもしれない、頼りない顔つきの彼女の姿に武人はそんな推測をした。

「静奈様?」

不安に思った西光坊が尋ねる。

「我は死んでいなかったのかぇ?」

案の定、自分の置かれた状況を理解していないのか静奈は問い返してきた。

「静奈様は死んでおりません」

「となると、主が死に損ないの我に力を分け与えた訳か」

「はい」

たったそれだけのやり取りで状況を理解できたのか、再び開かれた静奈の眼は、今度はしっかりと据わっていた。その様子を目の当たりにして、武人は先程の西光坊の言葉が正しかったのだと知る。

「では、武人は、武人は居るのかぇ?」

焦る気持ちを抑える様に静奈は身体を起こし周囲へ視線を巡らせた。

途中、痛みに因るものか眉間に皺を作ったが、それも堪えていそいそと身体を捻り四方を確認する。ともすれば、夜の暗がりにあっても大して距離の無い位置に佇む彼は、マシューが打ち出した氷柱の存在も手伝って、すぐに彼女の目に止まった。

「おぉ、武人っ! 武人っ!!」

彼を目の当たりにして、彼女は早速と立ち上がろうととする。しかし、死を免れたとは言え健常には程遠い肉体である。その身を案じた慌てて西光坊が止めに入った。帯も緩み乱れた着物の合間からは、穴の空いた腹部が覗く。千切れてしまった腕だってそのままだ。

「待ってください静奈様。彼の元には私が運ばせて頂きますので、まだ起き上がらないで下さい。完全に癒えきった訳ではないのですから」

「ぬ、ぬぅ、分かった」

両肩を抑えられて、仕方なく静奈は大人しくなった。

再び主を抱き上げた従者は、今度は武人の元へ向かって静奈を運ぶ。

白いシャツの腕に揺られる静奈の姿を見上げて、武人はようやく人心地を得た気がした。

ああ、良かった。

そんな他人への思いやりを心の底から感じられるのは、果たして何年ぶりの事だろうか。

それまでの興奮が嘘のように熱を失って、口元には自然と笑みが浮かんでいた。それが油断となったのだろうか。静奈、そう彼女の名を口にしようとしたところで、彼の肉体は糸を切られた操り人形の様に力無く地面に突っ伏したのだった。