金髪ロリ達観クールラノベ 第三巻

第二話

紆余曲折の末に落ち着きを取り戻した一同は、色々に香るリビングを元の通り戻して、武人の学友を迎え入れていた。ちなみに、余りにも全身が互いの体液にべとつくので、部屋の整理は西光坊に任せ、その間に武人達は順次風呂へ入り、軽く流し湯で身を繕うこととなった。これには武人の匂いを落としたくないと静奈が相当渋ったが、流石に全身を汗や精液、それに愛液に滑らせては服も着れぬだろうと、武人が無理矢理に連れ込むこととなった。風呂へは先に武人と静奈が入ったので、次いで今は花見月と夢見月が仲良く二人で入っている。

「ところで、彼女はどちら様?」

武人達が善がっていたソファーとは別の、足の短いガラス張りのソファーテーブルを挟んで、それの対面に配置された一台に腰掛ける柳沢が問うた。手にした薄い緑色の液体を湛えるグラスを涼し気に傾けている。彼女の視線は湯上りの武人と静奈が腰掛けるもう一つのソファー、その脇に直立不動で佇む西光坊へと向けられている。

「ああ、そういえば君達は初めて顔を合わせるんだったね」

武人はその姿を振り返り何気ない風に呟いた。

改めて目の当たりにしてみれば、数週間を共にして多少の慣れを感じつつもあるが、やはり、一般家屋にあって燕尾服を一つの皺無く着こなす彼女の長身は明らかに浮いていた。パリっとした糊の乗る良く手入れされたそれは、非常に値の張る一張羅に思われる。今し方の争いにより数箇所を裂いてはいるが、それはそれでまた彼女の姿を印象深いものにしていた。柳沢の疑問も最もだろう。山野は親しい人間にだけ分かる目の輝きを伴い、その姿をしげしげと見つめている。その姿は恋に焦がれる少女の風にも、武人の目には写った。

「例によって人間じゃないのよね、さっきの様子からして」

「静奈ちゃんや花見月ちゃん、それに夢見月ちゃんよりも強そう」

「まぁ……、そのとおりだよ」

「弱かったら、きっと今頃私はこうしてなかったでしょうね」

「そ、そうだろうね」

「一応は主等も武人の友人じゃ、我も謝っておく。悪かったの」

「芹沢君達とは一体どういう関係にあるの?」

「あの二人と同じ銀髪よね。あの子達と比べるともう一歩だけ白に近いようだけど。そうなると、もしかして二人の母親にあたるのかしら? それとも、歳の離れたお姉さんかしら?」

「やっぱり狐の化け物なの?」

当の本人は閉口したまま、山野と柳沢は勝手な想像を膨らませる。

多少の差異はあれど同じ人外の知識を共有する者として、二人が話を呑むのは早い。つい先程に行われた僅か数瞬の攻防を目の当たりにしてだろう。それとなく口に出された言葉の幾らかは的確に的を射ていた。どう答えようか迷いつつ頷いた武人に、静奈が隣から助け舟を出す。

「この者は我の茶飲み仲間じゃ」

そう呟いて彼女は両手に麦茶の満ちるグラスを取ると、小さくコクコクと喉を鳴らす。一連の運動で多量に汗をかいた為に喉を渇かしていたのだろう。風呂へ入った為でもあるかもしれない。つたない口元へ勢い良く流し込まれる液体は、あっと言う間にグラスから身を引いた。

「でも、そういう割には一緒にお茶飲んでないみたいだけど?」

「むしろ、メイド……というか執事?」

「ぬぅ……」

二人からの指摘を受けて、脇に立つ西光坊の顔を見上げた静奈は難しい顔になり眉を顰める。それから、己の座るすぐ横をポンポンと左の手で叩いては、彼女をそこへ座るよう促した。武人とは自らを挟んで反対の側だ。

「主もここへ座って一緒に茶を飲め」

「いえ、私は静奈様の従者ですので……」

「従者であっても、同時に茶飲み仲間でもある。いいから自分の分の茶を持って此処へ並ぶのじゃ。それを言うたら我とて武人の下僕じゃ、こうして共に座ることを改めねば成らぬ」

「僕としても、隣に立っていられると気になるんだけどさ……」

「ほら、武人もこう言っておるではないか」

「………分かりました」

「とりあえず茶の準備じゃ。面倒ならば我が持ってこようかぇ?」

「いえ、自分で持ちますので暫しお待ちください」

二人の言葉を受けて西光坊は踵を台所へと向けた。

そのピンと伸びた姿勢の良い背筋をキッチンカウンターの向こう側へ見送って、柳沢と山野は再び正面の二人へ顔を戻す。勿論、たったそれだけで彼女達の疑問が晴れることは無い。間髪を置かずして、次ぐ質問を投げかけて来た。

「彼女って、貴方の家来なのかしら?」

「言いようは幾分あるが、どれも似て非なるものじゃ」

「どういう意味?」

「様付けとか、少なくとも茶飲み仲間の言動には思えなかった」

「別にこれを主等へ知らせる道理は無いのじゃが……」

静奈は何やら片方の手を口元に当てて考え込むそぶりを見せる。

たが、それも僅かな間である。

「先程の件もある、まあ、良いか」

「いいの?」

「武人の許しが貰えるのならば我は語るが、どうするかぇ?」

「僕は静奈の好きにすればいいと思うけど」

「うぬ、ならばそうしよう」

山野と柳沢からの問い掛けに、武人の了承を経て、静奈は簡単な説明を語って聞かせた。それは彼女が西光坊という名であることから始まり、彼女の生みの親が自分であること、そんな己を慕って行方を探していた彼女に、つい先日のこと木崎湖の畔に建つ神社で出くわしたこと、等々である。ただし、先のジェームズとマシューとの件に関しては直接触れること無く、口にしたのは西光坊へ触るに限った話である。

すると、一通り彼女の説明を受けた柳沢が何気ない風に口を開いた。

「でもそれにしては、貴方は弱いのよね?」

随分と思い切った物言いに静奈は一瞬返す言葉を失う。

「ぬぅ……、我が弱くて悪かったのぉ」

返される言葉はどこか拗ねた様な口調に伴われていた。

「化け物は歳を取るほど強くなるって言ってた」

「何事にも例外はあるのじゃ、主等もいちいち細かいことを気にするな」

「まあ、別にそこまで追求する気も無いけど、少し気になったのよ」

「見た目から言うと、むしろ静奈ちゃんのが子供な感じ」

「ふん、好きなように言っておれ」

過去に武人が同様の疑問を口にしていたこともあって、この追求に関してはあまり強く出れない。返す言葉に困った静奈は、隣へ座る武人の身にギュッと両腕を絡ませると、その胸に頬を埋める。それこそ年相応の少女の如き振舞いであった。

すると彼女を擁護するように脇から西光坊の声が通る。

「静奈様は元来、私など及びも付かぬ強力な化け物です。今でこそ、こうして隠居していらっしゃいますが、再びその力を取り戻したのなら、この国の化け物が総出で挑んでも敵う事はないでしょう」

手には盆を持ち上に薄緑の液体を八分目まで注いだグラスが一つある。

それをソファーテーブルの上に置くと、静奈に小さく会釈して、その隣に浅くこじんまりと腰掛けた。尻をずらした武人と静奈によって、三人は三人掛けのソファーに綺麗に並んで山野と柳沢に応じることとなる。

「ふん、それも昔の話じゃ」

「訳あって、私自身はその頃の静奈様を直接知りません。ですが、その噂は化け物の間のみならず、人間の世にも広く知れ渡って居ると思ったのですが、私の思い違いでしたでしょうか?」

「……そうなの?」

化け物に対して並々ならぬ好奇心を持つ山野の口が自然と開かれた。

「全ては過ぎた話じゃ、今更蒸し返すこともあるまい」

「本来ならば、須らく私の力も静奈様にお返しすべきところなのですが、それも断られてしまい、こうして傍らへ控えるに至っている次第です。とはいえ、私が保持する力など静奈様の全体からすれば、猫の毛皮に集る一匹のダニ程に微々たるものなのですが」

「へぇ、静奈ってそんなに凄いの?」

「今こうして武人の傍らに座していられることが我の至高にして全てじゃ。それ以外は何も無いし、何もいらない。じゃから、武人、それはもう聞かないでくれると嬉しい。力仕事は西光坊へ任せれば良い」

「う、うん……」

何処か強い口調の静奈を前に、武人は頷く他無かった。

「まあ、他人の過去なんて無理矢理に聞くものじゃないわね」

「聞いてきたのはそっちじゃない?」

「別に私はそこまでの興味も無いわよ。寧ろ、この子が余計なことを聞いて貴方達の神経を逆撫でるんじゃないかと心配しているくらいだわ。芹沢君はどう感じているのか知らないけど」

答える柳沢は目で山野を示して言う。

「そりゃ、僕だって同じだよ」

「私は凄く聞きたい」

「だから、それは野暮というものよ、山野」

「それは、そうだけど……」

彼女にとっての化け物とは、一体どういった位置にあるものなのか。付き合いを持って数週間になるが、それでは圧倒的に期間が足りていないのか、武人には未だに答えへ続く手掛かりさえ見つけることが出来ないでいた。

ややあって、それぞれのグラスを満たしていた麦茶が底を突こうかという頃合に、首からバスタオルを下げた姉妹がリビングへ入ってきた。大人物のバスタオルを利用している為に、幼い二人の両肩から垂れた布生地は、長く彼女達の胸を超えて膝近くまで及んでいた。しっとりと水気を多分に含んだ長い銀髪が、肌に馴染んで妙に艶っぽい。何故に湯上りの女性が醸す魅力は平生から増して思えるのか。知らず口元に笑みを浮かべていた自分に気づいて、何を見惚れているのだと、武人は慌てて頭を振い煩悩を振り払う。

「良いお湯をありがとうございました」

「昼に入る風呂も気持ち良くていいなっ!」

「湯船の栓は抜いて貰えた?」

「はい、軽くですが一通り掃除をしておきました」

「い、いや、別にそこまでする必要は無かったんだけどさ」

夢見月は深々と武人に頭を下げる。水に濡れて嵩を減らし感じられる頭皮に張り付いた髪の、はっきりと目に映る形の良い旋毛が、彼の脳裏に強く映った。顔立ちが良ければ、そんな細部に至るまで良く出来たものだと感心せずには居られない。

「武人、アタシ達もそれ貰っていい?」

ソファーテーブルの上に載った空のグラスを目の当たりにして、花見月が伺いを立てるように問うた。彼女達にしても静奈と同様の理由で、多分に喉が渇いているのだろう。その辺りは人間も化け物も変わらないらしい。

「前にも言ったと思うけど、いちいち僕や父さんに聞いてくれなくていいよ。家のことは全て君達の好きにしてくれて構わないから。特にこの家では、僕よりも君達のほうがよっぽど詳しいんだし」

「分かった、ありがとう」

「ありがとうございます」

そうして二人は冷蔵庫のあるキッチンへと足を向けて行った。

姉妹の姿を薄ぼんやりと眺めつつ、柳沢が片手に持つ空になったグラスをテーブルへ置いた。一回り小さく身を溶かした氷がカランと乾いた音を立てて、耳に心地良い清涼なる響きを齎す。

「それにしても、今の二人は良いとしても、そっちの彼女から、貴方はそんなに懐かれてたかしら? 嫌われていたとは思わないけれど、もう少し淡白な友好関係だった気がするのは私の気のせい?」

「………気のせいじゃないかな」

「そうかしら?」

「たしか、前は目付け役って言ってた」

「そうね」

「でも、今のそれは目付け役というより恋人」

「…………」

山野と柳沢の前で、静奈は武人に寄り添うよう合間に隙間無く隣り合い座っている。今でこそ触れ合うのは身体の側面に過ぎないが、つい数十分前の光景を思い返せば説得力は皆無であった。

「以前の我は武人の目付け役として義人より雇われておった。その時分の報酬は毎日の食事に要求した七つの稲荷寿司じゃ。それと引き換えに我は武人の隣に立つこととなった。主等と出会ったのはその頃じゃろう」

二人の疑念に答えるつもりか、それとも自分の置かれた身を誇るべくか、静奈が武人に代わり口を開いた。それから口の渋い武人を隣に振り返り、小さく頷かれた許可を経て、彼女は続きを語る。

「じゃが、今は武人の下に自ら望んで居る」

「私はてっきり喧嘩別れしたものだとばかり思ってたわ」

「私もそう」

「………」

二人の疑問に武人は答える言葉を持たない。ただ閉口、沈黙を持ってして肯定するだけである。

彼に代わりに口を開くのは静奈だ。

「一度は裏切った我を、武人はその海洋より尚広大な御心を持ってして許してくれたのだ。そして、それに尽きず自らの命さえ賭してまで、終ぞ滅せんと至った我の生命を救ってくれたのじゃ」

語る口調は至極真面目で、普段からの武人以外を相手とした時に見られる飄々なる態度は一分たりとも伺えない。その様子が彼女達の知る静奈と大きくかけ離れていたのだろう。山野と柳沢は多少の佇まいを正して彼女に臨む。

「芹沢君……が?」

「そうじゃ」

あり得ないものを見るような目で二人の視線は武人と静奈を行ったり来たりする。

「人間というちっぽけな存在にありながら、僅かな寿命を投げ打ってまで己の信念を貫けるその存在を、我は心より敬愛したい。そして、その瞬間より我は過去に無い情動を受けて、その存在を何よりも愛しく思うようになった」

その時の情景を思い起こしたのだろう。嬉しいような、それでいて悲しいような、何れとも分からない表情をして、独白するように胸の内に溜まった思いを吐露する。それは山野と柳沢へ語って聞かせるというよりも、隣に座る武人への告白に感じられる紡ぎであった。

それを黙って耳にする彼は、口には出さないが自然と顔が熱を持つのを感じていた。幾ら本人が大仰に感じていても、傍から聞く分には単なる惚気に過ぎないのではないかと、山野と柳沢の心中を察せずには居られない。もとより自分自身も大したことをしたとは寸毫も思えないのだから、そう考えると恥ずかしくて堪らない気持ちになる。何よりも彼は己がそこまで大層な人間であるとは微塵も捉えていなかった。

「だから我は武人の僕となって、一生を過ごすことと決めた」

そして、呟いた彼女は隣に腰掛けて身を縮めている武人を向き直る。

「な、なに……?」

別段暑くも無いのに背筋に汗を一筋垂らして、彼は静奈の瞳に向き直る。

するとどうしたことか、彼女は極めて御淑やかに身を動かし席を立つと、武人の足元に両膝を付いた。硬い床板に膝の皿があたるコツンとした小さな音が響く。何事かと思いながらも、従者たる西光坊は己が足の邪魔になるかと考えて自然と席を立った。その開いた空間を利用して、静奈は下に着いた足を尻の下に折り畳み敷くと、ぴんと背筋を正し綺麗に正座を取った。

武人を含めて、一同は何事かと疑問の目で彼女を見つめている。

そのような中にあって、ソファーとソファーテーブルとの間の僅かな空間に身を置いた静奈は、小さな左右の手を床に置いた。そこまで来て武人は静奈の行わんとすることを理解できた。しかし、彼が止める間も無く、彼女は深々と頭を下げていた。柔らかな黄金色の前髪を挟んで、額の肉がフローリングに強くこすり付けられる音が聞こえた気がした。

「誠に身勝手かつ不躾な行いとは存じ上げますが、お慕い申し上げます」

そうして、それまでの口調からは一変した丁寧な言葉遣いとして誓いは語られた。

「ちょ、ちょっと静奈……」

それは山野と柳沢という、彼女にとって完全に格下と言える相手の前で、しかし、自らが主人に対し己の腹を見せる、言わば自己の尊厳の全てを打ち捨てて、仕えるべき相手に完全な服従と忠誠を示す儀式だった。

その振る舞いは、過去の彼女からは絶対に考えられない。

「こんなことしなくていいから、いいから、立ってよ静奈っ」

山野と柳沢の手前もあり、慌てた調子で武人が静奈に言う。両腕を失っている為に、その身を掴んで無理矢理に引き起こすことも叶わない。今ばかりは静奈も素直に彼の言葉に従うこと無く、それから時計の針が一周する程の間を顔を伏して後頭部を彼に向けていた。各人の足元に散らばった黄金色の長髪がガラス窓より差し込む光を反射して眩く光彩を放つ。

「…………静奈様」

その姿を一同はただ黙って見つめる他に無かった。

戸外からは遠いはずの蝉の音が妙に大きく一同の耳に届く。壁に掛けられた時計のカッチコッチという機械音が、それに混じって時の流れを否応無くゆっくりとしたものに皆に感じさせた。言い様の無い妙な緊張感が感じられた。

ややあって沈黙を破ったのはキッチンへ向かっていた姉妹である。

「たけとー、冷蔵庫にあった容器の中が空になってたから、薬缶に新しいの沸かしておいたぞー。だから、次から飲むときはそこから注いでくれ。氷を多めに入れれば普通に飲めるようになると思うから」

薄緑色の液体と多量の氷を満たしたグラスを二つ盆を持って花見月が言う。彼女の後ろには夢見月の姿もある。共にその作業へ当たっていたのだろう。ただ水を汲むには、キッチンへ消えてから多くが経っていた。

「薬缶は焜炉の上に置いてありま……」

「静奈、どうしたんだ? お腹でも痛くなったのか?」

そうして、床に土下座する静奈の姿を目の当たりにする。

「………いいや、なんでもないぞぇ」

あまり長くをそうしていても迷惑が掛かると思ったのか、静奈がゆっくりと身を起こした。額の皮膚には横に一線、床板の繋ぎ目が強く押し当てられて出来たであろう凹凸がくっきりと残っていた。

「あのさ、静奈、そういうことはしないって前に……」

「これは、謝罪ではない」

「でも……」

「大丈夫じゃ、武人の嫌がることは、もう二度としない。だが、こうして一度は確りと示しはつけておきたかったのじゃ。すまない、不器用な我の所業を今一度だけ許して貰いたい」

「……わ、分かったから、もういいよ」

「ありがとう……」

一体何が起こったのか理解出来ないでいる姉妹を前に、静奈は元あったとおり武人の隣へと腰掛けた。そんな彼女の髪が拾ってしまった床の埃を、再び隣に腰掛けた西光坊が恭しく毛繕う。その口元は何を発するでもなく結ばれていた。

「なんだかよく分からないけど、よかったのか?」

「う、うん、君達は気にしなくていいよ」

これ以上の面倒は御免だとばかりに、武人は花見月の言葉を遮るようにして言った。そんな静奈と武人のやり取りを目の当たりに閃くものがあったのだろう。次いで山野と柳沢が口を開いた。

「その腕は、そういうことなのね……」

「なんとなく納得出来た」

「だったら、もうこの話は止めてくれないかい?」

「わ、私だって、貴方の事なんか好き好んで検索しないわよ」

「………ならいいんだけど」

ぼふっと背凭れに身体を預けて武人は部屋の天井を仰いだ。

その際に、ふと視界に入った壁に掛けの鳩時計が示す時刻は、何時の間にか午後の三時を回っていた。つい先程に昼食を終えたばかりに感じていた彼だが、思いのほかに時の経つのは早いものであった。

「なんか、随分と久しぶりに外へ出た気がする」

周囲に伸びた他の県道と比較すれば交通量も多い国道147号線の幅広な歩行路をゆったりと歩みながら、武人がなんとはなしに呟いた。その視線は頭上に青々と広がる広大な空へと向けられている。昨日に続いて本日も雲一つ見当たらない快晴である。

浮かぶ太陽からは、南中高度を過ぎて尚も肌を焼くような熱線が際限無く注がれていた。スニーカーの底を通して、湯気さえ上がりそうな程に暖められたアスファルトの熱が足裏にジワリ伝わってくる。顔を正面に戻して進む先を眺めれば、ゆらゆらと遠く景色が揺らいで見えた。加えて道路脇に並んだ街路樹に集る数多な蝉の音が、ただでさえ息苦しく感じる外気を更にも増して暑苦しく伝える。正に夏も真っ盛りといった具合であった。屋外へ出て数分しか経っていないにも関わらず、額にはじんわりと汗が浮かんでいる。

「今までずっと、病院で床に伏していたからのぉ」

「高々数週間を寝て過ごしただけなのに、明らかに足の筋肉が衰えて感じるよ」

「武人様は人間ですから、健康を維持する為にも、ある程度の運動は必要だと考えます」

「やっぱり、家に篭もってばかりは居られないよね……」

「ならば今日からは夜の涼しい時間帯にでも少し散歩をするとしよう。どうかぇ? 流石にこの時間は暑い。我のような化け物は我慢すれば良いが、武人は繊細な肉体の持ち主じゃから、無闇に出歩いては体調を崩しかねん」

「たしかにそれが良いかもね。情けないけど、自分でもこのままじゃ危うい気がするよ」

「それでしたら、私もお供させて下さい」

「アタシだって一緒に行くぞっ! いいよなっ!?」

何気無い武人の呟きに、彼を中央に囲うようにして歩く静奈や西光坊、そして花見月と夢見月が愉しげに声を躍らせて言葉を続けた。彼女達の額には武人と同様に汗の雫が玉と浮かんでいる。今の言葉通り、化け物にしても暑いものは暑いらしい。

「それだったら、私も皆に混ぜて欲しい」

「だから、なんで山野はそうやって何にでも首を突っ込もうとするのよ。そもそも家が圧倒的に離れてるじゃない。わざわざ夜中に電車にのってこっちまで来るつもり? しかも散歩の為に木崎湖から街側へ」

「それは当然のこと」

「………少しは自重しなさいよ」

「なんていうか、本当に君も懲りないよね。色々と面倒な目に遭ってるのに」

「それでも芹沢君ほどじゃない」

「他人の振りして我が振り直せって言わない?」

「私にとっての貴方は反面教師じゃないもの」

「いや、そういう問題じゃないと思うんだけどね……」

街路を行くその集団には山野と柳沢の姿もある。

総勢七名から成る一団は空調の整えられた快適なマンションの一室を後として、炎天下の屋外を近所のファミリーレストランに向けて歩いていた。その間、大凡数百メートルの距離である。

きっかけは小腹が減ったなという武人の呟きであった。それが三時を多少過ぎた頃合であったことも手伝って、ならば何か甘味の類でも作ろうと花見月がキッチンへ向かった。しかし、流石に七名分に及ぶ食材は確保出来なかった。その結果として外へ食べに行くことで話が纏まった次第である。地元住民の話では、幸いにして近所にはファミリーレストランがあるのだという。

「僕はどちらでも構わないけど、君達が一緒になって苦労を掛けるのは静奈達だから、それは彼女達に聞いてよ。また何時何処で敵に襲われるとも知れない時分で、守って貰ってる身の上だからね、僕は」

「あら、敵ってどうにかしたんじゃなかったの?」

「いや、依然として健在じゃ」

「申し訳ありません。本来ならばあの時に止めを刺すべきでしたのですが、私の判断が至らないばかりに、二人共々逃げられてしまいました。次に出会った時は必ず息の根を止めることを約束致します」

「その二人って、芹沢君の家を壊した二人のこと?」

「おう、そうだ。黒い服の奴がマシューとか言って、もう一人の狼に化ける奴がジェームズとか言う名前だった。二人とも西光坊に追われて逃げてったんだけど、もしかしたら、また来るかもしれない」

「現状では、敵は確実に来るとして対策を考えたほうが良い、というのが私達の考えです。とはいえ、私や花見月では力及ばず、その殆どを静奈さんと西光坊さんに任せる形になってしまっていますが」

「ほら見なさい、貴方が居たら迷惑よ。っていうか、そもそも危険なんだから止めとくべきよ。怪我をしてからじゃ遅いのよ? こう言っても貴方は聞く耳持たないかもしれないけど」

「僕もそう思うよ」

「我も西光坊には武人を優先させるゆえ、何かあっても主等へは碌な配慮が出来んじゃろう。死にたくなければ日の落ちた時分に我等に近づくのは止めたほうが良いぞぇ。いや、明るいうちでもあまり進められんな」

「…………そう」

暫く歩くとそれらしい建物が皆の視界に入ってきた。脇には黄色い下地に社ロゴの描かれた立て看板が置かれている。それに気づいた武人があれじゃないかな、と小さく声を上げた。それに勝手知ったる土着民の山野と柳沢が頷いて応じる。ここまでの道案内は二人の指示に因った。

その外観を目に映して、花見月が、おぉ、と小さく感嘆の声を漏らした。過去に人間社会へ触れる機会の極端に少なかった彼女としては、初めての人里での外食である。目には新鮮に映るのだろう。その味を知る武人からすれば、彼女の料理の腕前を思うと申し訳なくなる目の輝きようであった。一方で、人里での外食が初めてという点では同様の夢見月だが、彼女は姉とは異なり落ち着いた様子である。定期的に人里へ出ていた身にあるので、その目的が知れている施設ということもあって、建物を目の当たりにしただけでは、特にどうという事も無いのだろう。きっと街で購入した物品を片手に山へ駆ける傍ら、その様子を望むこと度々であったに違いない。

一同はぞろぞろと正面の自動ドアを抜けて入店した。

カランカランと出入り口の中扉に設置された鈴が乾いた音を鳴らす。応じて厨房の方から店員のいらっしゃいませ、という声が返ってきた。すると、それまで店内で食事に談笑に和気藹々としていた客の多くが、一斉に敷居を跨いだばかりの武人達へ注目することとなった。

原因は誰の目にも明らかだろう。

「なんか、随分と見られてるわね」

「静奈ちゃん達、目立つから……」

その視線に居心地が悪そうな顔をして、柳沢と山野が互いにだけ聞こえるように、ヒソヒソと小さく呟く。一方で静奈を筆頭とした化け狐達は、周囲の様子などお構い無しに、エアコンの効いた室内にあって、関心した様子で辺りをキョロキョロと観察していた。そこはごく一般的な全国チェーンのファミリーレストランである。

「ねぇ、凄い可愛いくない?」「うわっ、金髪に銀髪じゃん」「あの子達って外人よね?」「なんか人形みたい……」「っていうか、何処のお嬢様だよあれ」「ねぇ、真ん中の人って腕がなくない?」「うわ、目の色もガチで赤いし……」「やっぱりあれって、執事ってやつ?」「女だし、メイドじゃない?」「小さい子達って、お人形さんみたいじゃない?」「めちゃくちゃ可愛いじゃんっ!」「うわ、すげぇー」

夕食にはまだ幾分か時間があるので、席を埋める客達の姿は四割五割と疎らだ。しかし、武人達の耳には確かなざわめきが届いていた。それも静奈達の姿格好を考えれば、ある意味当然の反応とも言える。

まず一目を引くのが彼女達の髪の色だろう。窓ガラスより差し込む陽光を強く反射して輝くのは黄金色に白銀色である。加えて静奈は和服を身に纏っており、その従者たる西光坊は厳つい燕尾服を着ている。ちなみに、彼女に関しては、どういう訳か持ち合わせていた予備の服に着替えており、先に静奈や花見月、夢見月より裂かれた服とは物が多少だけ異なる。また、一人色を異なって中央に立つは両腕を失ったシャツの袖を揺らす武人だ。そして、そんな中にありながら、至って普通の出で立ちを見せる山野と柳沢の姿は、かえって二人を囲う者達の異常性を際立たせる。傍から見れば、それがどういった趣旨の元に集まった一団なのか、頭を巡らせるだけで小一時間を過ごせてしまいそうな程に、奇異なものとして写ることだろう。

「七名様で宜しいですか?」

「はい、そうです」

「お煙草はお吸いになられますか?」

「いいえ、吸いません」

「では此方の席へどうぞ」

好奇の視線を向けてくる店員に答えながら、武人達は店舗の最奥に設置された席へと移動した。同店舗に七人掛けの席は存在しないので、横に並んだ四人掛けの席を二つ繋げて即席の八人掛けの席として取り繕う。そして、一連の作業を終えると、客を導いた店員はメニューをテーブルの上に並べ上げて、注文が決まりましたらどうぞ、と言い残し厨房へと戻っていった。

「これって何だ?」

テーブルに並べられたお品書きを眺めつつ花見月が呟く。

「ここに載せられてる絵を見て、食べたいものを注文するんだよ。そうすると、店の人が食事を持ってきてくれる仕組みになってるんだ。まあ、この写真は建前がかなり入ってるから、出てくる料理とは若干の差異があるけどね」

「へぇ……」

「今はおやつを食べに来た訳だし、見るとしたらこのページかしら」

手元の一冊を開いた柳沢が、パフェやアイスクリームの並ぶ頁を花見月の前に示した。大衆向けの店舗なので、それほど凝った商品は扱っていない。しかし、そこに並んだ販促用の視覚効果に長ける写真は、初めて現代人間社会の外食産業に接する機会を持った人外の化け物に、特に花見月と夢見月の姉妹には強く響いたようであった。

「おおっ、なんか凄いのがあるぞ」

「どれも、とても綺麗ですね」

「これとか、なんか色々と入ってて美味しそうだなっ!」

「一体何と言う果実が入っているのでしょうか……」

目をキラキラと輝かせた花見月が食い入るようにメニューを見つめる。夢見月も満更でない様子だ。山中の掘っ立て小屋で質素な生活を送っていた二人にとって、外観の豪勢な大手チェーンの甘味物は、とても素晴らしいご馳走として映ったのだろう。特にアイスクリームや生クリームの多分に乗ったパフェ等は、食事という範疇にあっても、取り分け娯楽に近い料理である。彼女達の実用本位な生活習慣からすれば、かなり遠いところにあったようだ。これまでにもカップアイス一つに幸せそうな笑みを浮かべる二人を度々目の当たりにしていた武人には、その根にあるところが理解出来た。

「こういった人間の文化は、我々のような化け物が幾ら足掻こうとも、決して生み出すことは出来んのだろうのぉ……」

「そうですね、こと文化文明に関しては、種族として一定水準の知を得ることに成功し、そして数に優れる人間に圧倒的な分があります。また、ここまで個が全体を密に形成する種族も珍しいです」

「優れた娯楽を数多生み出しておきながら、その生物として本質的な能力に劣り淘汰されざるを得ないとは、哀れな存在もあったものじゃ。いかに優れた能力を持っていようとも、それが生存に事欠いては、我等が餌というのも奴等の言葉ではないが、具合の良い家畜としか思えなくなるのも当然じゃ」

「多くは生物として、なんら必要の無い能力ですね」

「じゃが、皮肉なことに今はその能力ゆえに生き永らえておる。そうでなければ、我が身を裂いてまで畜産に励む者も居まい? この狭苦しい世の中で、畜生をここまでのさばらせておく道理は無い」

「何事も馬鹿には出来ないということでしょうか」

「そういう捕らえ方もあるかのぉ」

「ですが、良いのですか? 武人様は……」

「も、勿論、武人は特別じゃっ! 武人と比べれば我こそ畜生も同然っ!」

「いや、静奈さ、こういうところでそういう事を言うのはちょっと……」

「ぬぅ……、すまない武人」

高がメニューの一冊を前にして人外の化け物達は和気藹々と話に花を咲かせる。その突拍子も無い内容もあってか、椅子を背中合わせに並べる他の客が座る席からは、絶え間ない奇異の視線が向けられていた。本人達は微塵も気にした風が無いが、同席する人間勢としてはあまり居心地の良いものではない。いや、山野に限ってはそれも例外だろうか。

「というか、早く注文を決めない? 貴方達の惚気はもうお腹一杯だわ」

とりあえず話の流れを戻そうと、柳沢が手元のメニューに手を乗せて口を開いた。

「私はチョコブラウニーパルフェ」

「じゃあ、僕はフォンダンショコラにしようかな」

応じて、別段悩んだ風も無く山野と武人が宣言する。

「では、私は紅茶シフォンケーキというものをお願いします」

「ならば、我は宇治抹茶みるくにしようかぇ」

「私は静奈様と同じものに致します」

それに連なって他の面々もビニール加工の施された光沢紙に並ぶ文字を読み上げた。ただ、花見月だけが酷く深刻な表情で注文を決めかねては、視線を右往左往させていた。どうやら一つに希望を絞れないらしい。

「えっと、アタシは……」

他の者達が決めてしまった事で、その焦りも一層増す。

「別に、一つに絞らなくても良いよ?」

「ほ、本当かっ!?」

「いくつ頼んでも良いから、好きなのを言ってよ」

「じゃあ、これと、これと、これっ!」

苦笑しつつ助け舟を出した武人に、花見月はニパァと笑みを浮かび上がらせる。そして、嬉々として目の前に置かれた品書きに示される幾つかを指差して見せた。なるほど、この何れで悩んでいたのか、と武人は知る。

「花見月、あまり欲張るのは良くありませんよ。代金は武人さんが支払って下さるのですから、少しは遠慮というものを考えなくてはいけません。そうでなくとも普段から無理を通しているのですから」

「所詮ファミレスだし、どれも大した額じゃないから、夢見月も欲しければ他に頼むといいよ。メニューの上だと結構な量がありそうに見えるけど、実際にはこれの三割減くらいで来るから」

「で、ですが……」

「じゃあ、とりあえず店員呼ぶわよ?」

延々と続きそうな武人と夢見月の問答を予感して、柳沢がテーブルの隅に置かれていた押しボタンを押した。応じてピンポーンという軽い電子音が辺りに響く。すると、待っていましたとばかりに、注文表を片手にした女性店員がやってきた。年の頃は武人とそう大差無い風に感じられる。きっと、まだ学生のアルバイトだろう。薄く脱色された短めの髪に、はっきりとした目元の活発そうな女性だ。

それに最も通路側に座った武人が、各人の声に上がった商品名を矢継ぎ早に伝えていく。ボールペンを片手に持った店員は、チラチラと静奈達の姿を見つめつつも、それを手元の票に書き止めて行った。周囲の様子をそれとなく伺えば、依然として一同を伺うように周囲の客から止め処無い視線を雨霰と感じる。まるで檻の中のライオンだな、とは武人の感想だ。

それから一通りの注文を受け付けた店員は、一度内容を口頭で繰り返すと、名残惜しそうな足取りで厨房へと戻っていった。

「あー、お腹一杯だ」

テーブルの上に並んだ数多の空のグラスを眺めて、花見月が満足気に言った。

一度目の注文から幾らかの間を置いて、思いの他に腹の空いていたらしい各人は、それぞれ注文を繰り返した。お陰でテーブルの上には役目を終えた器が所狭しと並んでいる。幾らか残りが見えるのは、各々の前にストローを挿して置かれたドリンクバーのグラスだろうか。

店内に設置された掛け時計に目を向ければ、いつの間にか来店から既に数十分が経過していた。人間と人外では共通の話題など無いように思えるが、存外面を向き合わせてみれば他愛ない種に話の花は咲いてくれるもので、気づけば随分な時間を過ごしていた。周囲の客も多くで入れ替わり立ち代りしていた。

「ところで、これの会計って私達の分も芹沢君が払ってくれるのかしら?」

「はぁ? なんで君達の分まで僕が払わなきゃならないんだよ」

「あら、違ったの?」

「てっきり驕りだと思って、普段より沢山頼んでた」

「ちょっと待ってよ、僕はそんなの知らないからね」

「こんなに可愛い女子高生が二人も一緒に食事に来てあげているのに、貴方も随分と気の利かない男ね。レディーファーストって言うじゃない。そんなんじゃ、いつまで経っても彼女なんて出来ないわよ?」

「それだったら、僕は静奈達に一体幾ら支払わなくちゃならないんだろうね?」

「ロリコン?」

「い、いちいち五月蝿いな君も……」

山野と柳沢を相手に下らない軽口を交わしながら、武人はズゾゾゾと残りの少なくなった烏龍茶をストローですする。ふと目に入った伝票には、いつの間にか行が増えて、合計の欄には六千七百四円という表記が合った。お八つに甘味を食べるには、七名という人数を加味した上でも、多少過ぎた額だと言える。

「武人、もしかしてお金足りないのか?」

「あの、やはり、自分達の分だけでも支払います。私達も多少なら人貨の蓄えがありますので、若干の足しにはなると思います」

「いや、君達はいいんだよ、十分な額を持って来てるから問題なく足りる。それに、ここで君達に割らせたなんて父さんの耳に入ったら、それこそ後で僕がなんて言われるか分かったもんじゃないからね」

数日前に西光坊に手を借りて、入院先の現金自動預け払い機で自分名義の口座を確認したところ、一体どうやって口座番号を入手したのか、つい先日に某所より話のあった額がきっちりと振り込まれていた。それを思えば数千円の支出など有って無いようなものだ。それでいて山野と柳沢の支払いを拒むのは、単衣に武人の自尊心に因るところがあった。

「我が化かして済ますことも出来るが、どうじゃ? そうすれば金は一文と掛からぬぞぇ?」

「静奈……、それは根本的に駄目だと思うよ」

「ぬぅ、駄目なのかぇ」

「私も静奈様を尋ねる過程で幾らばかりの路銀を得ましたが、武人様にお渡しした方が良いでしょうか?」

「だから、そういうのは君達が持っていてよ。僕だってそんなの貰っても困るから」

妙に慎み深い化け狐の面々に武人は困惑を隠せず答える。山野や柳沢の様に図々しいのも困りものだが、あまりにも遠慮が過ぎるのも、根が真面目な彼には堪えるものだった。きっと、自分が寄越せと言えば、大抵のものは差し出してしまうのではないか、そんな馬鹿げた考えさえ浮かんだ。

「君達も少しは彼女達を学んだらどう?」

これ以上を考えると泥沼に至りそうだと考えて、武人は無理矢理に話を人間勢へ振る。

「人は人、化け物は化け物よ、価値観を一緒にしないで貰いたいわ」

「まあ、それはそうだけど、君達のは人間の世でも横暴だよ」

「芹沢君は静奈ちゃんみたいに尽くしてくれる娘が好み?」

「べ、別に好みとか、尽くしてくれるとか、そういう事じゃなくて……」

「口元に付いたクリームを舌で舐め取らせた時は、正直、この席を立とうと思ったわ」

「だから、あれは別に僕が強要したんじゃないんだからっ!」

「貴方が言うように、周りもそう認識してくれれば良いのだけれどね」

「ぅう……」

「あの、お二人とも、あまり武人さんを虐めるのは……」

「外じゃ武人の口を舐めちゃいけないのか?」

「武人、やはり我では武人の下に控えるには役不足かぇ?」

「い、いや、だから君達、そういう話じゃなくてだね……」

とはいえ、なんだかんだで話題は武人を虐めるところに落ち着いてしまうのが、本人としては悲しいところである。山野と柳沢に弄られる武人を目の当たりにして、オロオロとうろたえる夢見月に、素っ頓狂な言葉を構える花見月。そして、周囲の目など気にした風も無くその身にしな垂れ掛かり更にはじゃれ付く静奈と、無言で彼女の傍らに使える西光坊。その様子は家にあっても外にあっても、大差無いものだった。

それから暫くして、時計の針が幾らか身を傾けた辺りである。そろそろ席を立とうか、これからどうしようか、そういった話題が出始めた頃だった。入店してから幾度と無く耳にしていた、カランカランという店舗の出入り口の中扉に取り付けられた鈴の鳴る音が店内に広く響いた。

やって来たのは年老いて腰の曲がった背丈の小さな男性である。淡い臙脂色の着物の上に黒い羽織を着た古めかしい出で立ちをしており、年のころは八十を越えた辺りだろうか。手には曲がりきった腰を補うためか、濃い色の漆が塗られた、風刺に芭蕉が握っているが如くの年季を感じさせる藜の杖がある。短く刈りそろえられた髪は完全に色が抜けて白の一色にあり、彫りの深い目筋の整った顔付きと長い顎鬚が印象的な古老であった。ファミリーレストランという比較的若い世代の多く集う場所を考えると、皺に塗れた老人が一人で居るには違和感を感じざるを得ないだろう。

その者は入り口付近で店員と何やら二、三言葉を交わすと、案内無しに一人で店内を歩き始めた。

彼の歩みは武人達の座る席のある側へ向かっていた。彼等の周囲の席は全て客に埋まっている。その時点では、この老人はその何れかの連れだろうと、店員を筆頭として客も含め多くは考えてい。

だが、そんな翁の接近を確認した静奈達が動いた。

その挙動は目にも留まらぬものである。つい数刻前に芹沢宅へ山野と柳沢が訪れた時と同様だ。勢い良く席を立ち上がった四名から成る化け物勢は、それぞれテーブルを飛び越え、椅子を倒し、一同が座す一角に面した通路より、店舗の出入り口側から正面きって向かい来る老体の前に立ち塞がったのだった。

「ま、待っとくれ、儂は怪しいものじゃない、話し合いの余地を貰いたい」

その勢いを前にして、老人は慌てて立ち止まると両手を挙げて見せた。

「何者だ?」

静奈の低く凄みの利いた声が辺りに響いた。

その顔には、今し方まで身内との語らいに見せていた温和な笑みを、一片として見出すことが出来ない。眦はきつく釣り上がり、轟々と燃え滾る炎が如く赤い色を湛えた瞳は、一切の油断無く相手を睨み付けている。

また、それは彼女に限らず花見月や夢見月、西光坊にしても同様であった。まるで人が変わってしまった風である。厳しい面構えを隠す事無く、静奈に並び身を構えて、老人に相対している。その者は一同が腰掛けていたテーブルのすぐ近くまで迫っており、彼女達は席に座ったままの武人達を背に守る立ち位置に身を置いていた。先方との距離は、最も近く先頭に立った西光坊から二,三メートルと言ったところか。油断無く構えるその姿は、まるで親の敵でも前にしているようであった。

「まず、落ち着いて欲しい。儂はお主等に危害を加えるつもりは微塵も無い」

「あからさまに血生臭い匂いを連れて、まさか人間ではあるまい?」

化け狐達の唐突な対応に、武人や山野、柳沢は唖然として声を発する事も出来なかった。それまで隣に座り談笑に興じていた相手が、何の前触れも無く突如として立ち上がり、あろう事か宙に身を翻しては、面識の無い相手に明らかな敵意を向けているのだ。しかも、一連の流れを僅か数秒と経たない間に行ってである。

「また、私達を襲いに来たのですか?」

「なんでお前等はそんなにしつこいんだよっ!」

「しかも、貴方が纏っているのは大凡のところ人間の血でありませんね……」

静奈に連なるように花見月や夢見月、西光坊もまた口を開いて古老に疑問を返す。過去に幾度か彼女達が拳を振るう場面を目の当たりにしてきた武人には、それが一触即発のものであると容易に理解できた。僅かでも刺激を与えたのなら、この場は人外の戦場となるだろう。ともすれば考えられる被害はこの店舗に限らず広く周囲を巻き込んだものとなるだろう。

ややあって、異常に気付いた周囲からざわめきが上がり始めた。椅子を倒した際の硬い音と静奈達の口上とは、それほど混雑していない昼下がりの店内に良く響いて聞こえた。他の客達の変化を受けて、ハッと我に返った武人が慌てた様子で声を上げる。

「ちょ、ちょっと君達、いきなり飛び出したりしてどうしたんだよっ!」

静奈達が見ず知らずの人間に意味も無く危害を加えるような化け物でないことは武人も良く理解している。自然とその声には恐れからくる震えが混じっていた。彼女達がこうして身構えているという事は、それは相手がただの人間では無いという意味である。だからだろう、過去のトラウマから身は無意識に固く強張っていた。

「武人、そこから動いてはならんぞぇ」

そんな彼に対して、静奈は後ろを振り返る事無く、緊張の中にも少しだけ口調を柔らかくして答える。とは言え、そうして発せられた一言には有無を言わさぬ芯の強さが感じられた。決して油断なら無い相手ということだろう。

「ここは私が相手を致しますので、静奈様も武人様と共にお下がりください」

彼女の傍らに控えた西光坊が、その手を静奈の前にサッと横に差し出す。

「ぬぅ、確かに今の我では何の役にも立たぬかぇ……」

「武人様の隣で最後の要となる、と考えて頂ければ宜しいかと」

「そうじゃな、あい分かった」

「花見月と夢見月は、騒動がこれ以上広がらないように、周囲の人間の意識を抑えておいて下さい。それと、出来る事なら外から内を覗かれない様にして貰えると助かります。警察を呼ばれては武人様に迷惑が掛かりますから」

「分かりました」

「おうっ!」

「出来る限り速急に片を付けます」

「うむ、頼んだぞぇ」

西光坊の指示の下、化け狐達は即座に行動を起こす。

そんな彼女達の対応を受けて慌てたのは老人だった。いざ一歩を踏み出そうと足に力を篭めた西光坊を前にして、彼は大きく数メートルを後ろへ跳躍すると武人達より距離をとった。そして、それまで以上に声を大きく言葉を続ける。

「すまぬ、いきなりの事で申し訳ない。儂は決して主等に害を成そうとしてやって来た訳ではない。主等に助けを請いに来ただけじゃ。お願いじゃから拳を収めては頂けないだろうか、この通りじゃ」

そう言って杖を両手で腹の前で横に持ち、小さく頭を下げてみせる。

「せめて、儂の話を聞くだけでも、待って貰えないだろうか」

その姿は酷く誠実で、嘘を吐いている様には見えない。皺だらけの顔にギョロリと覗く鋭い眼光は他者を圧倒して止まない。しかし、それを収めた眦は下がり、口元には友好的な笑みが浮かべられていた。

「………助けを請いに来た、ですか?」

小さく呟いて、西光坊はチラリと静奈を振り返る。

彼女の主人は既に武人の下まで移動して、彼を守るよう老人に向き直っていた。

その近くには何時の間に席を移動してきたのか、山野と柳沢の姿もある。今回ばかりは山野も西光坊や静奈の勢いに当てられたのか、それとも武人の片端な身を持ってして何か思うところがあるのか、何を言うでもなく大人しくしていた。

「我等には他者を助けている余裕なぞ無い」

従者の視線に答えて、静奈が代わり言葉を返す。

その口調には依然として明らかな敵意が含まれていた。何事にも関わらないという拒絶の意思である。なにせ今の彼女達は敵から追われる身であり、本音を言うなら自分達こそ他者に助けを求めたいくらいである。

「じゃが、これは儂に限った話でもなく、後々になれば主等にも大きく関係してくる事柄じゃ。どうか話だけでも聞いては貰えんか? 特に主等の様に人間に接して生活している化け物には、大きな影響を与えることは間違いない」

しかし、それも続く彼の言葉を受けて多少の変化を見せた。

「………どういうことじゃ?」

静奈の表情が更に険しいものへと変化する。

「主等はなかなか強力な化け物なのじゃろう? ならば、実力相応に重ねてきた年月もそれなりのものに違いあるまい。ともすれば、金毛の天使、若しくはエリーゼ・マルファッティという名の化け物を知っておらんか?」

「金毛の天使に、エリーゼ・マルファッティ……ですか? いいえ、存じません」

「私も存じません」

「アタシも知らない」

尋ねられて西光坊は首を横に振る。同様に花見月と夢見月も初めて聞く名前であったようで、皆より少し離れたところから共に否定の声が返ってきた。

老人の言葉に答える一同は依然として臨戦態勢にある。とはいえ、彼とは別に自分達に対して何かしらの被害が及ぶというのであれば、相手の言葉を信じる信じないは別として、話だけでも聞いておく分に損は無い。そう判断したのだろう。彼の言葉に彼女達は素直に答えた。

「そうか、知らぬか……」

老人は多少を気落ちした様子で溜め息混じりに呟いた。

「確かに、此処数百年は全く表に出てこなかった古い世代の化け物なのじゃが、奴を知らぬとなると、お主等も割と最近になって生まれた化け物であったか。どうやら儂の当ても外れたようじゃな……」

壁にはめ込まれたガラス窓から覗く屋外の光景は強く夏を感じさせる。燦々と強烈な陽光を浴びて、そこは眩いばかりに輝く八月の街路の光景があった。時折、歩道を汗に濡れて苦い顔をした人間の通り過ぎる姿が、外と内との多分な気温差を物語ってくれる。焼けたアスファルトの上で揺らぐ空の色は、ゆらゆらと激しく波打って、それが人肌を越えて熱せられている事を示唆していた。薄いガラス窓一枚を挟んで、そこは何もかもが灼熱である。

静奈達より視線を逸らした彼は、外の光景を眺めながらフゥと小さく息をついた。

そんな彼に周囲より多少だけ遅れて声を掛けたのが静奈である。

「主よ、今なんと言った?」

それまでの敵意丸出しの表情に聊かの驚きを混ぜて、彼女は西光坊の背中越しに関心深く老人を強く見つめていた。その声質に僅かながら変化を認めて、なにやら霧のようなものを手の平から周囲に撒き散らしていた花見月と夢見月も、作業の合間に二人の遣り取りへと注目した。

「おぉ、お主は知っておるのか?」

老人の注目が再び静奈へ向く。

「実物に出会ったことは無いが、その名くらいは知っておる」

「ならば話は早い、手短に話すゆえ儂の話を聞いては貰えないか?」

「主がこれ以上を近づかぬと約束するのなら、話だけは聞いてやるぞぇ。だが、少しでおかしな素振りを見せたのなら、容赦はせぬから覚悟しておくがいい。無論、これは脅しでは無い」

「うぬ、了解じゃ」

静奈の言葉に老人は大きく頷いて応じた。

店内には花見月と夢見月が振り撒いた霧が薄靄のように立ち込めている。そんな中で武人と山野、柳沢を覗く他の人間の客達はそれぞれ例外無く気を失っていた。ある者は手に箸を持ったまま机に突っ伏し、また、ある者は床に大の字に仰向けで倒れている。とはいえ、誰も彼もは確りと呼吸をしており、ただ眠っているように見受けられた。きっと厨房でも同様の光景が見られるのだろう。店内で動いているのは武人達一行と、その前に佇む老人だけであった。

「それで、金毛の天使がどうかしたのかぇ? 我が最後に耳にした噂では、六百年程前に何某かに封ぜられて、それきり何の音沙汰も無いということであったが、何か違うところがあるかぇ?」

「それが奴は、今この時を持って日本に居を置いておる」

「ほぉ……、というと封が解かれたのかぇ」

「いつ頃に封が解かれたのか、儂も詳しくは確認しておらぬ。じゃが、それも最近の事だと考えておる。ここ数週の間に渡って、どういう訳か人間の世にちょくちょくと顔を出しているらしいのじゃ。実際にそれを儂の仲間が確認した」

「だが、それが我とどのような関係にあるというのだ? 如何に金毛の天使が強力な化け物だと言っても、別に世の人間と化け物を片っ端から消して回るような酔狂ではあるまい? 確かに凶悪であるとは聞き及んでおるがな」

「金毛の天使のみなら儂も此処まで来ることは無かった。じゃが、その周りでウロチョロしている者達が問題なのじゃ。もしかしたら、その矛先が儂やお主のような、この国に土着する化け物に向くやもしれぬ」

「どういうことじゃ?」

老人の言葉に静奈の眉がピクリと動く。

「金毛の天使は非常に強力な化け物であり、そして、非常に気まぐれな化け物じゃ。そんな彼の者に邪な考えを持った西洋の化け物が接触する恐れがある。いや、既に接触しているやもしれぬ。もしかしたら、その邪な考えを持った西洋の化け物が、奴の封を解いた可能性もある」

「話が見えて来ぬ、主の言う邪な考えとは何だぞぇ?」

「人間に寄生して甘い汁を吸っている類の化け物が在る事は知っておるか? 化け物と人間の住み分けが古くから成されていたこの国では稀有な話じゃが、海を跨いで西洋では化け物の娯楽として割と一般的な話じゃ」

「ほぉ……」

身に覚えのある話に静奈を筆頭として、その場の全員が表情を硬くする。脳裏に浮かんだのはつい数週前の出来事だろう。老人の言う甘い汁云々には何ら関係ないが、直接的には最も忌むべき敵の姿がそこに浮かび上がった。

「その者達が今まさにこの国へ侵略して来ておる。もしも、仮に金毛の天使がその片棒を担ぐような事となれば、儂やお主のような土着の化け物は総じて虐げられる羽目となるじゃろう」

「なるほど、だからそうなる前に邪な奴等を叩いてしまおうという腹かぇ。そうして、主はこうして諸国を漫遊しつつ、力のある化け物を探しては声を掛けて回っている訳じゃな?」

「うぬ、そういうことじゃ」

「なるほど、合点いった」

「しかし、主は随分と聡い化け物じゃの。説明の手間が省けて助かるわい」

幾らばかりの問答を終えて、静奈は納得した様子で頷いた。また、彼女程では無いにせよ、武人や山野、柳沢にしても老人の主張の概要は理解できた。花見月や夢見月、西光坊は関しては言うまでも無いだろう。彼の語った話の一端は、この場の誰も彼もにとって記憶に新しい事柄である。

「正直なところを言って、現状では金毛の天使を相手に出来るだけの手勢も居らん。この国の化け物が総出で掛かっても、辛うじて追い返せるかどうか。儂も奴を前にしては逃げ回って時間を稼ぐが精一杯じゃろう。それも相手が本気になっては瞬く間に終わりじゃ」

「随分と頼りないことじゃのぉ」

「それこそ過去にあった白面金毛の再来になるやもしれぬ。しかも、奴は困った事に不死者じゃ。今度は人の手を借りる事も出来ぬ故、下手をすればこの国の化け物は全滅の憂き目を見るかも知れぬ」

語る老人の口調は深刻なものであった。

「金毛の天使かぇ……」

「どうじゃ、主等もこの国を守るに手伝ってはくれんか?」

彼は懇願擦るように尋ねる。

その姿を前にして、静奈はフゥと溜息を一つつく。そして、顎に手を当てると暫し何かを考える風を見せる。そんな彼女の姿を一同は老人を筆頭として、口を閉じ黙って見つめていた。ともすれば、ややあってその小さな口が再び開かれる。

「手伝うかどうかを決める前に、一つ二つ訪ねたいことがある」

「なんじゃ?」

「主の言う邪な考えを抱く西洋の化け物の中に、妙に丁寧な口調が胸糞悪い不死者と、何をするにしても品の無い狼男の二人組みを確認した事はあるかぇ? 共にこの国では随分な背格好の持ち主じゃ」

「ふぅむ……」

「知らぬか?」

「いや、暫し待たれよ」

問われて老人は顎鬚を親指と人差し指で挟み撫でながら、視線を静奈より逸らして明後日の方向へ向ける。過去の記憶を思い起こしているのだろう。その姿を黙って見つめる静奈達はジッと続く言葉を待った。

すると、彼女達の期待に答えるように翁は口を開く。

「その妙に丁寧な口調が胸糞悪い不死者というのは、夏も真っ盛りのこの時勢にスーツを着込んで飛び間わっとる背丈の高い西洋人じゃろうか? 長い金髪を撫で付けて額を見せておったが」

「知っているかぇ?」

「それならば数週程前に相手にした覚えがある。なかなか逃げ足の速い奴であって、その時は討ち損じてしまったがのぉ。確かに、金毛の天使とは種が違うが、自分を不死者だと言っておった」

老人の言葉を受けて、姉妹を始めとして静奈と西光坊、果ては武人や山野、柳沢までが一様に顔を見合わせて頷きあう。非常に端的な説明だが、各人の内でそれぞれ導かれた意見は、互いに言葉を交わす事無く見事に合致していた。

「ならば、その頼み、場合によっては受けても良い」

「おぉ、受けてくれるか」

「しかし、その前にもう一つ確認をさせて貰う」

「儂の知っておることならば、大抵は答えさせて貰うが」

「主が西洋の化け物の使いで無いとするならば、何故に我等のことを知っていたのじゃ? 何故に我等が主の力に成り得るだけの化け物だと知っていた? これはどうにも気持ちの悪い話じゃ」

「あぁ、それはお主等が前にこの辺りの山で派手な喧嘩をしたじゃろう? それを儂の仲間が偶然に見ておったのじゃ。なんでも西洋の化け物を相手に善戦している奴が居ると言ってな。じゃから、儂はそれを頼りにこうしてやって来た」

「ふむ……、そういえばそんなこともあったのぉ」

「幾らなんでも山を火事にすれば、周囲に住まう化け物も寄って来る。その中に儂の息が掛かった者が居ったということじゃ。幸いにして今とその時と姿を変えてもおらんかったしのぉ」

「なるほど、そういうことかぇ」

全てに納得した様子で静奈は頷いた。

「だから、実際に主等の力量を判断したのは儂ではなく、その山火事を眺めていた者という事になるのぉ。なかなかに強力な化け物が居ると言う話じゃったから、こうしてやって来た訳じゃ」

「では、その野次馬はどうしたのじゃ? 一緒ではないのかぇ?」

「あぁ、その化け物は儂の仲間に違いないが、如何せん力に劣る化け物なのじゃよ。そういう訳で、この場へは儂が一人で来た。交渉に仕損じた場合を考えると、逃げるなら一人身の方が楽じゃらのぉ」

「ほぉ、そういうことかぇ。大凡は理解できた」

「それは何よりじゃ」

静奈の言葉に老人は満足気な表情を浮かべて小さく頷いた。

「伝え聞いた話だと、それは双子の妖狐ということじゃったが、主等かの?」

それまで西光坊と、その背後に身を置いた静奈に向き合っていた彼は、小さく顔を動かして姉妹に意識を向ける。彼女達は店内に霧を撒き散らし終えて、ちょうど一同の下へ帰ってきたところだった。トントトンと軽い足音を立てて宙を舞っていた二つの身体が床に付く。

「この地で双子の妖狐というのなら、私達に違いないでしょう」

「山を火事って、前の前にあいつ等と戦ったときの事だよな?」

「ええ、その時の事を指している筈です」

彼女達にしても老人の言葉には素直に答える。しかし、静奈や西光坊に同じくその表情は硬い。依然として油断なら無い顔付きで身構えている。目の前の相手が嘘八百並べて彼女達を討ち取らんとしている可能性を考慮してのことだろう。此処最近に連なった幾らかの出来事が、彼女達を本来のそれより多分に疑心暗鬼へと駆り立てていた。

その姿を尻目に静奈が武人に向き直る。

「武人、最後は主に判断を仰ぎたい。主はこの話をどう考える? 我は主の盾であって剣である。現状を維持して守りに徹するか、それとも先手を打って攻めに出るか、何れを選んだとしても我は武人にこの命尽きるまで付き従う」

そんな彼女に従者たる西光坊も乗じた。

「静奈様の主となれば私の主も同じ、私も武人様の言葉に従います」

また、それは花見月と夢見月にしても同じであった。

「私もお二人に同様です」

「アタシもっ、アタシもだっ!」

否応無く場の全員の視線が武人に集まる。

「本音を言ってしまえば、我は武人に危ない橋を渡って欲しくは無い。じゃが、前に主の語った言葉を思うならば、ここに選択肢は必要だと考える。この者が言うとおり、もしも金毛の天使が我等を襲ったのなら、現状ではまず勝ち目が無い。ともすれば、先の件と同じ憂き目を見ることになるやもしれぬ」

「…………」

「勿論、そうなっても我は武人が許してくれる限り、最後まで武人の傍らを離れないと誓う。しかし、与えられるであろう結末は今を持ってして容易に想定出来る。だから、武人にどちらかを選んで貰いたい」

静奈の言葉を受けて、視線を床に下げた武人は黙り込んでしまった。

自分の一存で静奈達を危地に晒してしまうという状況が、根の生真面目な彼には難しい選択となった。これ以上、彼女達の負担を増やしたくないというのが本音である。けれど、このままではいけないと感じているのも事実である。いつ訪れるか分からない危機に怯えながら毎日を過ごすのは精神的に大きな付加となる。しかも、その危機は自分以外の皆にも平等に降りかかる。そう考えると、それほど時間を掛けずして答えは導き出された。

「……お願いしても、いいかな?」

何かを決心した様子でポツリと呟く。

いずれは決着をつける時が訪れるだろう。ならば、それは早いに越した事は無い。時間が経てば経つにつれて被る危険は積算して増していくのだ。加えて、今ならば自分達の他に味方が得られるかもしれないという好条件が付いてくる。その味方と言うのが、今はまだ信用するに足り得るかどうか、判断の余地を挟むのは事実だ。しかし、判断に迷ったのなら後で蹴る事も可能だろう。此処で頷いておく分には問題あるまい。というのが武人の回答の理由である。

「うむ、分かった」

その言葉に静奈は大きく顎を下げて深く頷いた。

「ということは、儂の頼みは聞いて貰えるということじゃな?」

「まあ、そういうことじゃ」

答えて静奈は武人から老人に向き直る。

交渉が纏まったことを嬉しく思っているのだろう。彼は口元の皺を多少深くして、聊かの笑みを浮かべていた。両手で腹の前へ横に下げたままであった杖を片手に持ち替えて、その一端を床にトンと突く。

「ところで、主等の陣営に属すとは言っても、我等に何を望むつもりじゃ? まさか何の策も無く敵陣の只中で討って出ろとは言うまいな? 我は主人たるこの人間を危地に晒すことは許さんぞ?」

「まさか、儂もそこまで愚かではない。まずは頭数を揃えることじゃ。最悪、金毛の天使と一戦を構えることになるかも知れぬ。その為にも今の儂がこうしているように、他の仲間達も主等のような土着の化け物へ声を掛けて回っておる」

「なるほどのぉ……」

「そういう訳で、すぐに何か行動を起こすという事は無いじゃろう。主等も普段どおり生活を続けていてくれれば良いじゃろう。そして、もし目に付く所に力のある者が居ったのなら、その者にも声を掛けておいてくれ」

老人の言葉を耳にして、武人は一先ず安堵の息をついた。今し方に静奈が口にした事にしても、全く予期せずにいた訳ではない。彼にしたって静奈達を闇雲に危地へ向かわせるのは許せない。この国の化け物が置かれている状況が知れない以上、場合によっては前言を撤回する必要性も感じていた次第であった。いずれは渦中へ身を置く事になるにせよ、何事にも算段というものが必要だ。

「とりあえず、今のところは儂等も相手方に習って、群れを作るところから始める事とした。この国の化け物は海の向こう側と違って存分に個人主義が強いからのぉ。それもまた一苦労な訳じゃが」

「まぁ、それが無難なところじゃな」

「そこで、今度は儂の方から一つ尋ねさせて貰いたい」

「なんじゃ?」

「主等の名前を聞いておきたい。これでも仲間を束ねる立場に居るでな。また後で尋ねるに名前が無いと不便じゃろうて。他の者に尋ねるにしても、名前が分からぬとどうしようもない」

「ふむ、それもそうじゃのぉ」

老人の言葉に静奈は少し悩んだ素振りを見せる。だが、それも僅かな事で軽く頷いては、特に虚偽を並べるでもなく己の名を口にした。今にしても決して警戒を解いている訳ではないが、出会い頭に比べれば多少は態度も柔らかくなっていると言えた

「我は静奈と言う」

「静奈か、分かった。して、他の者達は何という?」

「アタシは花見月だ」

「私は夢見月と言います」

静奈が率先して語って見せたのを受けて、姉妹もまた己の名を口にした。明日より背を預けて戦う訳でも無く、今は信じられずとも何某かの事が起これば、何れは全て明白となるに違いない、といったところだろう。名前を伝える事には若干のリスクを伴うが、それも既に自分達の棲家と面が西洋の化け物達に割れているのでは、隠したところで然して意味も無い。それよりも相手の持ってきた話が本当であったときのメリットを考えたのなら、此処は素直に答えておくべきである。

静奈達の言葉に老人はゆっくりと落ち着いた調子で頷いて応じる。特にメモを取る様子も見られないところからして、物覚えには自信があるのだろう。年老いた外見とは裏腹に頭の切れる化け物なのかもしれない。そんな風に武人は感じていた。

「私は西光坊と申します」

最後に名乗りを上げたのは西光坊だった。警戒の色が濃いので普段からの執事然とした挨拶からは程遠いが、それでもスッと伸びだ背筋に凛とした声の通る様は、他の誰よりも場に映えて感じられた。庶民向けのファミリーレストランも燕尾服を着た彼女が立つと格式高い五つ星のレストランの如く感じられる。

ところが、一体何が起こったと言うのだろうか。どういう訳か此処へ来て相手の態度が目に見えて豹変した。彼女の名を耳にした途端に大きく目を見開いた老人は、間髪置かずにその名前を鸚鵡返しに繰り返した。

「せ、西光坊じゃとっ!?」

同時に大きく距離を取って背後に後ずさる。その様子は予期せぬところで熱いものに触れて、痛みに飛び上がる人間の脊髄反射の如くである。目にも留まらぬとは、まさにこの事だろう。

「「「っ!?」」」

そんな彼の態度を受けて、己の名を呼ばれた西光坊を筆頭とした化け狐一同も一瞬にして出会い頭の緊張を取り戻した。それまでの穏やかに落ち着きつつあった空気は何処へ行ってしまったのだろうか。互いに十数メートルの距離を置いて、今まさに争いが始まろうといったところまで場は急展開を見せた。見守る武人や山野、柳沢の身にも全身を震わせる程の強烈な緊張が走る。

誰も彼もが同様の疑問を顔に浮かべていた。

一体何が起こったのだろうかと。

西光坊という存在の何処に、それほどまで驚くべき要因があるのだろうかと。

特に此処数週間を彼女と共に円満な生活を営んできた武人や花見月、夢見月にしてみれば、その態度は皆目見当の付かないものであった。三人の中での西光坊に対する印象としては、とても礼儀正しい瀟洒な化け物、といった具合だ。確かに強力な力を持ってはいるが、それを誇示するような性格でもない。むしろ全く逆である。

そこへ、それまでと変わらぬ調子で静奈の声が辺りに響いた。

「あぁ、先程から何処かで見た顔だと思っていたが、その軟弱な屁っ放り腰には確かに覚えがある、この身に覚えがあるぞぇ。我は主と古く出会った覚えがある。それも数百年と昔のことじゃ」

皆の注目が一挙に音源へと移った。

「相変わらず逃げ足だけは達者なようで何よりじゃな。頭の巡りも腐ってはおらんが、それではいつか周りの者にも見限られてしまうぞぇ? 幾ら時が経っても、なんら変わりが無い。なんら精進しておらん」

その口調は随分と落ち着いたもので、殺気立つ周囲の空気からすれば明らかに浮いて感じられた。静奈は一同の視線を一身に浴びながら、それまでと然して変わらぬ態度で言葉を続ける。

「主は天狗の神野であったか」

それはまるで、旅路の先で旧来の知人に出くわしたが如くである。

「随分と久方ぶりであった故に、すぐには気付けなかったぞぇ」

「か、かの西光坊が主と呼ぶ存在、それが何者であるか……」

一方で老人は愕然とした表情で静奈を見つめていた。まるで地獄をそこに見つけたが如く、顔の色さえ落として、全身をカタカタと小刻みに震わせている。静奈を正面に捉えて腰を低く構えられた身体は、しかし、ゆっくりと摺り足で後退を続けていた。それまでの余裕は微塵として感じられない。虎を前に震える兎の如くである。これまでの話し合いの何もかもが一息に吹っ飛んでしまった様子だった。

「我が何者だと言うのじゃ? 我の名は静奈だと今に教えたばかりじゃろう」

「は、白面金毛九尾の狐、まさかお主までもが封より解かれておったとは……」

静奈の言葉も何ら耳に届いていないようであった。

それまで両者の間にあった距離は十数メートル、それを伸ばして老人は既に店舗の出入り口付近に設置されたカウンターの前まで身を下げていた。そのまま放っておけば、扉を開ける手間さえ惜しんで、背面に設置されたガラス張りの大窓を突き破り逃げ出しそうな勢いがある。

「別にそう恐れることはあるまい。今の我は静奈であって、お主の側についた一匹の化け物に過ぎん。それよりも早く緊張を解くがいい、これ以上に渡って我の主を怯えさせることは許さんぞぇ」

「静奈様、お知り合いですか?」

「うむ、我がこの地へ越す以前の、力を封ぜられる前の出来事じゃからのぉ。主が知らぬも無理は無いだろう。その昔、色々と世話になった天狗の化け物でのぉ、この国じゃあ随分と幅を利かせている大天狗様だぞぇ。我の記憶が正しければ、少なくとも西洋の化け物の手先ではない筈じゃ」

「なるほど、元来からこの国に住まう化け物なのですね」

「そうじゃ、その名を神野という」

西光坊からの問いに静奈は淡々と答えて見せた。相手の身元が割れたからだろうか、先程までの緊張も幾分か失われているように思える。語って聞かせる口調も普段のそれに近いものだ。とはいえ、武人をその背後に置いては、先程までと変わらず油断無い光を瞳に点らせている。大凡は相手が西洋の化け物でないと確信しての変化だろう。

「西光坊さえその存在は噂に留まっていたというに、まさか、その主たる白面金毛が出てきているとは誤算じゃ。いや、誤算どころの話ではない。西洋の輩が来る前にこの国が終わる」

「勝手なことを言うな、そもそも今の我にはそこまでの力が無い」

「嘘をつけっ! ならばどうしてお主がこの場に居る」

神野は表情も険しく静奈を睨み付ける。

そこには明らかな敵意が見て取れた。

「疑問に思うならば我を封じた大岩の欠片を幾つか確認してみるがいい。未だ健在である筈じゃ。こうして主と言葉を交わしている我には、そこまで危惧するような力は無い、それこそ人間と大差無い貧弱な化け物に過ぎん」

「…………」

「この西光坊の守りが無ければ、今こうして生きている事も叶わなかった身の上じゃ。ともすれば、主にでも容易にいびり殺されよう。そんな相手をどうして恐れられる? それとも、我の言葉が信じられんか?」

「どうせ、それもいつもの狂言じゃろう……」

「疑り深いのも相変わらずじゃのぉ」

「お主は己の所業の数々を忘れた訳ではあるまいな?」

何気無い調子で語られた話に神野は辛辣な態度で応じる。

「そう易々と信じられるものか」

「ぬぅ……、それは、まあ、そうじゃが……」

とはいえ、少なからず彼女の言葉に驚いている様子だった。彼は静奈を値踏みを擦るように、頭から爪先までを油断無い瞳で見つめていく。傍から眺めるだけで、その真偽を確かめられるものなのか。一同の注目を一身に浴びながら暫くを静奈の観察に努めた。そこには有り余る畏怖の念が、誰の目にもハッキリと感じられた。

他の客が花見月と夢見月の手により意識を刈り取られていることもあって、店内は存外静かなものだ。店の外から届く自動車の排気音の他には、壁掛けのスピーカーから流行りの邦楽が申し訳程度に響いている。誰も喋る者が居なくなると、本来の喧騒に慣れた武人や山野、柳沢からすれば、その場は今まで以上に落ち着かない異質な空気を湛えて感じられた。

「ね、ねぇ、静奈……」

沈黙に耐えかねた武人がおずおずとその背に声を掛けた。それに応じて静奈は彼に向き直る。その顔には今し方までの険しい表情は微々として見つけられない。代わりに、どこか申し訳なさそうな色が浮かんでいた。

「なんじゃ?」

「白面金毛九尾の狐ってさ、玉藻前とかのあれだよね? 静奈の事なの?」

その固有名詞は、武人も幾度か耳にした事があった。勿論、それは老人が言うような現物としてではなく、書籍の中で語られる御伽噺としてである。彼女と出会う前の彼ならば、そんな馬鹿げた質問をする事も無かっただろう。しかし、今に神野が漏らした名前は、過去に静奈自身の口からも語られていた事を彼は覚えていた。つまり、世に広く出回る九尾の狐の伝説を、現時点で武人は史実として認めていた。

すると、そこからは幾らかの静奈に対する認識が浮かびがって来る。

「うむ……、確かに過去の我はそう呼ばれておった」

武人の問いを前にして、静奈の表情に陰りが挿す。

白面金九尾の狐と言えば、天竺摩伽多国では華陽夫人となって斑足太子を惑わせ、中国では夏の妹妃、殷の妲己、周の褒似となって数多の国を滅ぼし、後には玉藻前となり鳥羽上皇の寵愛を受けて本朝を滅ぼそうとした、三国に亘り悪行の限りを尽くした大悪妖としてこの国でも特に有名な化け物である。鬼の酒呑童子、天狗の崇徳院に並び三大妖怪の一角として称される事もある。

そして、それらが全て実際の出来事であるというのなら、目の前に立つ小さな女の子は、彼が良く知る穏やかな物腰の心優しい少女ではなく、人を人とも思わない空前絶後の大悪党という事になる。それこそ理不尽という言葉が身を持って、この世に顕現したが如くの存在に違いない。

「な、なるほど、だから妙に古いことを良く知ってたりしたんだね。花見月や夢見月より博識なところもあったし、思い返してみれば、こういう化け物に関する質問とか、いつも静奈が答えてくれてたもんね」

一瞬返す言葉に迷った武人は、今更どうという事の無い話題を振って話を濁す。視線を落としてしまった静奈を前に、下らない質問をしてしまったと、数瞬前の己の呪う他に無かった。

そもそも冷静に考えてみれば、彼が書物より得た知識が全て史実に基づいているとは限らない。関連する書籍を集めてみれば、それぞれには矛盾した記述も数多く見つかるだろう。そして何よりも、実際に白面金毛九尾の狐たる静奈本人を前にして、何処の誰とも知れない人間が伝えた昔話を参考に態度を改めるなど、あまりに軽薄な事だと感じられた。

目の前の老人は妙に震えているが、別段これと言って気にするべきでない。

それが武人の出した答えだった。

出会ってから今日に至るまでの彼女を見ている限り、怯える理由など何一つとして無いのである。他人の口から悪口が囁かれたからと言って、自分の事を身を挺してまで守ってくれた存在に対して、そう簡単に振る舞いを変えられるほど、彼は軽率な人間でなかった。加えて、彼の知識にある九尾の狐伝説はあまりにも現代より遠いもので、現存する何某かへ容易に結び付けられるような代物では無かった。史実と知っても尚、それは御伽噺の域を出る事が出来なかったのである。

「まあ、だからと言って、どうということもないんだけどね。そもそも、そういう事って良く分からないし、知ったところで僕にはあまり関係のないことだから。ただ、なんとなく気になっただけだよ、うん」

そんな武人の態度に静奈は更に顔を鎮めて小さく口を開いた。

「ぬぅ……、今まで黙っていて、すまんかった」

「いや、別に気にするような事じゃないと思うけど」

「じゃが……」

何か物言いた気な彼女だが、それも最後は声にならず尻すぼみに終わってしまう。その姿は平素からの快活とした彼女からすれば随分と儚げに映り、外観から思われる歳相応の少女として感じられた。

「………お主は、本当に白面金毛なのか?」

そんな静奈の態度に疑問を持ったのだろう。老人が訝しげに眉を顰めて問うてきた。

「過去に静奈様は私の血肉を浴びて死地より蘇生なさりましたから、それこそが我が主である証拠足りえます。そうでなければ、私の血の全てを捧げたところで完全な復帰は難しかったでしょう」

武人と向き合う静奈に代わり西光坊が答える。その口調はいつもどおりの淡々としたものだ。しかし、それでも何処か自分の主人を誇るような調子が武人には感じられた。それは此処最近になって、僅かながら彼女の感情の変化を学び始めた彼の直感に因るものである。

「なるほど、流石は殺生石の欠片から生まれた化け物じゃ……」

「私をご存知ですか?」

「お主の主人とは違って、儂は風の噂に聞いた程度じゃがな」

「噂など立っていたのですか……」

「それも、こうして実際に相対してみるまで話半分じゃった」

老人は静奈と西光坊を交互に繰り返し観察する。

今し方の静奈の言葉が効いたのだろうか。先程と比較すれば彼の物腰は多少の落ち着きを取り戻して感じられる。身体の震えも収まりを見せていた。だが、依然として二人を見つめる顔付きは険しいものである。

「しかし、まさかお主が一介の人間の下に身を置くなどとは信じがたい。一体どういった気の迷いじゃ。それとも、やはり何か善からぬことを企んでおるのか? その人間は何者じゃ」

「武人は何の関係も無い。もし手を出してみろ、ただでは済まさんぞぇ?」

矢継ぎ早に質問を繰り返す神野を振り返り、途端にキッと目付きを鋭くした静奈が睨みを利かせる。また、主人の胸中を理解して、西光坊も同様に彼を威嚇するよう腰を落として構えを深くした。三人を中心として生まれた緊張は誰かが何かを口にする度に忙しなく伸縮を繰り返す。

「ま、待ってくれ、その人間には危害は加えるつもりは無い。じゃから気を抑えてくれ」

彼女達を傍から見守る武人や山野、柳沢からすれば、最も気掛かりなのは相手の強さである。過去に出会ったマシューやジェームズと同程度かそれ以下ならば、西光坊が前衛に立つ現状に危機はそれほど感じ得ない。しかし、もしも目の前の老人が彼女と拮抗する、若しくは上回る能力を持っていたとするなら、安穏と構えても居られない。老人の言葉から察するに、大凡は西光坊に分があるように感じられる。しかし、それも両者共に面識が無かった事からも絶対とは言い難い。

「色々と疑問は尽きぬが、お主の言う事は分かった。じゃが、この状況にあっては何事をするにもままならぬ。それに儂としても暫し考える時間が欲しい。この場は一度引かせて貰えぬか?」

語る神野はいつの間にか両手を上げて降参の格好を取っていた。

「まあ、今となっては先程の話も上手くは纏まるまいな」

「それでは去らせて貰うぞ、白面金毛」

そして、彼は再三に渡り己の身を動かす宣言を行った後に、来たときと同様カランカランと乾いた鈴の音を響かせて店内より出て行った。その姿は薄いガラス窓を越えて、熱気に揺らぐ室外へすぐに見えなくなってしまう。

やがて、彼の後姿が完全に消えたのを確認した後に、ようやく面々は場の緊張から開放されたのだった。人間勢はハァと大きなため息をついてテーブルに両手を投げ出し突っ伏す。構えを解いた化け物勢は、強張っていた肉体を弛緩させて、そんな三人を振り返る。

とんだ午後の甘味時であった。

標高が高いだけあって、日が暮れると気温も随分と落ち着く。

夕日を地平に見送って数時間が経てば、エアコンの設定温度を数度上げる事も出来るだろう。昼には耳が痛くなるほどに鳴り響いていた蝉の音も、気づけば何時の間にか収まっており、また陽光からの輻射熱も失われて、体感温度は大きく減少していた。密集したエアコンの排気熱や大量の自動車の排気ガス等の影響により、夜間でも気温の下がらず熱帯夜の続く都市部と比較しては多分に過ごしやすい環境だと言えた。

「夜が涼しいのだけは、田舎も良いかもしれないね」

周囲には他に背の高い建物も無く、窓ガラス越しに覗く満点の星空を眺めながら、何気無い風に武人が呟く。その腰はリビングのソファーに落ち着けられており、手前に置かれた足の短いソファーテーブルには、例によってストローの挿された氷と麦茶の満ちるグラスが一つ置かれていた。

「そうですね。私も花見月と共に色々な地を巡りましたが、此処は夏にも涼しくて良い場所だと思います」

彼の隣には夢見月がちょこんと腰掛けている。

「ただ、その代わり冬の寒さは結構なもので、慣れないうちは非常に苦労しました」

「だろうね。雪だってかなり積もるでしょ?」

「はい、越して迎えた初めての冬には、その夏に建てた小屋が屋根に積もった雪の重みで潰れてしまい、花見月と共に途方に暮れた覚えがあります。あの時は、本当に困ったものです」

「そ、それはまた悲惨な……」

「夕餉の頃だったのですが、いきなり屋根が崩れてきて生き埋めになりました。あれ以来ですね、二人して色々と勉強しまして、今ではそれなりに耐久力のある小屋を建てられるようになりました」

「………大丈夫だったの?」

「まあ、今となっては良い思い出ですね」

二人は穏やかな笑みを浮かべて談笑に興じていた。

その傍らでは賑やかにもテレビゲームに興じる花見月、山野、柳沢の姿がある。武人の部屋より引っ張り出してきた筐体をリビングのテレビに繋げて、ファミリーレストランからの帰り掛けに近所の百貨店で購入した、発売して新しいパーティーゲームに盛り上がっている次第だ。花見月は夢見月の隣に、そして山野と柳沢はその対面に置かれたソファーに並んでテレビに集中している。

時刻はつい先程に夕食を終えて既に午後八時半を回っていた。それで尚も山野と柳沢がこうして芹沢宅に居を置いている理由は、昼に出会った老人に因るところが大きかった。静奈達と共に居る姿を神野と呼ばれる化け物に見られたのが数刻前のこと。彼女達の安全を考えると、今日明日とすぐに西光坊の庇護下を別れ一人になるのは危険だと言う化け物勢の指摘より、彼女達二人は暫くを芹沢宅へ滞在する事となったのだった。これは二人を人質に取られ、自分達が身動きを取れなくなる事を危惧しての対処でもある。

その提案を受けて当初、柳沢は己の命を引き合いに出されているにも関わらず存分に反発した。しかし、一方で一週間でも二週間でも泊り込むつもり満々の山野に延々と説得されて、結局、皆の言う通り数日を芹沢宅で過ごす事となったのだった。それぞれの実家については、共通の女友達の家に泊まり込むという事で連絡を入れてある。

ついでに言うと、義人の許可はつい先程の夕食の席で武人の口より取り付けた。例によって事情に通じる家主は、聊かも渋る事無く快活として二つ返事に頷いた。そんな彼は夕食が終わると、後は若い者に任せて、などと口走りつつも自室へビールを片手に引っ込んで行った。

「そういえば、静奈は何処行ったんだろ?」

ふと、武人が呟いた。

普段ならば誰よりも早く己の隣を陣取る少女の姿が今は見えない。夕食の席は共にしていたので、それ以降に何処かへ出たのだろう。病院へ入院して以降の数週間を、寝食どころか風呂や排泄までを共にしてきた相手が不意に居なくなるというのは意外と落ち着かないものだ。気になって武人は周囲をキョロキョロと見渡す。しかし、見慣れた金髪は確認できなかった。

「静奈様でしたら自室へ向かうと仰って、つい先程に出て行かれました」

そんな彼の疑問に脇より西光坊が答える。

「部屋に?」

「はい、何でも考えたい事があるそうです」

足の短いテーブルを挟んで横に並んだ三人掛けソファーの、その合間に置かれた一人掛けのそれに、彼女はピンと背筋を伸ばして座っていた。当初は武人の脇に直立不動の姿勢を取っていたが、それに並々ならぬ圧迫感を覚えた武人が座るよう頼み込んだ事に因る。

「静奈さんが武人さんの下を離れるなんて、珍しいですね」

「私は武人様の護衛をするよう命を受けておりますので此処に残っていますが、何か御用があるようでしたら呼びに参りましょうか? それとも、もしも私で済む用事でしたらこの場で承りますが」

「いや、ただ気になっただけだから別にそこまでしなくていいよ」

「そうですか、分かりました」

口数の少ない西光坊はそれだけを言うと、再び口を閉ざしてしまう。

きちんと並べられた膝の上に両手を置いて、姿勢も正しくソファーに腰掛ける彼女の姿は、人間と化け物の他に何か異なる隔たりを感じて仕方が無い。だからだろう、そんな西光坊の様子を寂しく思って、武人は何気無く言葉を続けていた。

「あのさ、西光坊」

「なんですか?」

「静奈って、やっぱり、昔もあんな感じだったのかな?」

それは昼の出来事を受けてのことである。特別に意識した訳ではないが、共通の話題を考えたとき、自然と口から零れたのは静奈に関わる事柄だった。一緒に居た時間が長い為か、彼女とは随分と古い付き合いだと感じられる武人だが、実際には出会ってからまだ二ヶ月と経っていない。

思い返してみれば彼は彼女に関して殆ど何も知らない。勿論、静奈という人格に関してはそれなりに理解があるつもりだ。しかし、その背景に知識としてあるのは、彼女が白面金毛九尾の狐と呼ばれる化け物だという事と、西光坊の生みの親であるという事だけである。

「申し訳ありません。私が生まれたのは静奈様が封ぜられた後の事ですから、それ以前の事は知らないのです。また、私が静奈様と出会ったのは武人様と静奈様が出会われて以後の出来事ですから、私から武人様に伝えられる事は限りなく零に近いと思います」

「あぁ……、そういえば昼にもそんな事を話していたね」

「はい」

「繰り返しになっちゃって、ごめんね」

「いえ、他に私に分かる事でしたらなんなりと」

「うん、ありがとう」

話題は存外のこと早々に尽きた。

武人は他に何か無いかと思案するが、その間の沈黙が痛い。他に取れる挙動も無く、彼は上半身を屈めて顔を前に突き出し、テーブルの上に置かれた麦茶をストローで啜った。口の中に麦の香りが一杯に広がる。

ともすれば、そんな彼の仕草に慌てた様子で、隣に座る夢見月がグラスを手に持つ。そして、彼の姿勢が楽なようにと相手の口元へそれを運んだ。応じて武人の頭も高い位置へと再び戻る。

「ありがと、夢見月」

「お代わりは如何しますか?」

「今は、いいかな」

ズゾゾゾと音を立てて、その内容物を武人は一息に全て飲み干した。

彼が口を放したのを確認して、夢見月はグラスを元あったテーブルの上に戻す。

すると、彼女の隣に腰掛けてテレビ画面に向かっていた花見月が、ゲームのコントローラを片手に二人を振り返った。ゲームが一段落ついたのだろう。その視線が彼女と武人を交互に見つめる。

「なぁ、夢見月、ちょっとアタシと代わってくれないかな?」

「ええ、構いませんけど」

「それと武人、アタシと一緒にちょっと来て欲しい」

「花見月、外へ出かけるのですか?」

「ううん、家の中だ。少し話したいことがあって」

「僕は別にいいけど」

「あまり武人さんを困らせては駄目ですよ?」

「お、おう、分かってる」

夢見月にコントローラを手渡した花見月が席を立つ。それに応じて武人もまた彼女に続き腰を上げた。二人はテレビの前に伸びたゲーム機の各種ケーブルを迂回して、ソファーの裏を回りリビングを抜ける。花見月は両手が不自由な武人の脇について、彼をいつでも手助け出来るようゆっくりと歩む。すると、その姿を認めて山野と柳沢もまた二人の様子に口を開く。

「花見月ちゃん、何処行くの?」

「ちょっと武人と話したいことがあるんだ」

「話?」

「すぐに戻ってくるから、それまで夢見月がアタシの代わりだ。あと、出来れば西光坊も此処で待ってて欲しい。家からは一歩も出ないって、ちゃんと約束するから。それに少しの間だけだから」

「屋内に居るということでしたら、分かりました」

「ありがとう」

「芹沢君、ロンリーコンプレックスって略すと何だったかしら?」

「な、なんの話だよっ!」

「さぁ、なんの話かしらね」

そうして、武人と花見月は空調の聞いたリビングより廊下へと静かに出て行った。

「えっと……、これはどういうこと?」

花見月に連れられてやって来たのは風呂場だった。

武人は彼女に誘われて一緒に風呂に入ることとなった。いつの間に支度をしたのか、着替えの類は既に用意されていた。静奈や夢見月を含めず、彼女と二人きりで入浴するというのは非常に稀有なことだ。しかし、武人が疑問の声を上げた理由はそれでない。いざ服を脱がされて浴室へ入った彼の前に、遅れて脱衣室より姿を現した花見月は、どういう訳かその手に包丁を携えていたのだった。

「花見月達は……、お風呂で包丁って使うものなの?」

これも異文化コミュニケーションなのかと、武人は必死に状況理解に努める。

とは言え、過去にそういった事は無かったし、また、彼女達との話に聞いた例も無い。自然と口元には引き攣った笑みが浮かんでいた。まさか花見月が自分を刺すようなことは無いだろう、武人は強く思う。しかし、目の前に刃物があるというのはそれだけで落ち着かないものだった。薄暗い浴室の照明を受けて鈍く光る刀身の求めるところを理解できずに焦りが増す。

「なぁ、武人」

「な、何?」

それまでの陽気な調子は何処へ行ってしまったのだろうか。今し方に脱衣を手伝って貰っていた時とは一変して、彼の名を呼ぶ花見月の声には抑揚が無かった。視線は俯きがちに床のタイルを見つめている。その姿は妙に陰鬱としており彼女らしく無かった。

「アタシ、武人にお願いがあるんだ」

「僕に叶えられることだったら、言ってくれて構わないけど……」

「いいかな?」

「う、うん、どうぞ」

彼女らしからぬ神妙な態度に多少を吃りながら武人は答えた。一体どのような願いがあるのかと、妙にゆっくりとした会話の間に、彼は凄まじい勢いで思考を巡らせる。

まさか、僕に死んで欲しいとか、そんな事を頼んだりは、しないよね? 反射的に彼の脳裏に浮かんだのは、つい先日にテレビのニュースで目の当たりにした、一件の殺人事件に関する報道だった。被害者は九十代の女性で加害者は六十代の女性である。被害者と加害者は親子関係にあり、年老いた母親の介護に疲れて娘が母を包丁で刺殺したという話だった。

武人を前にして、花見月は何か躊躇っている。

いや、まさか、そんな筈がある訳ない。彼は頭を軽く振って己の邪推を否定する。彼も花見月のことは根っこから信用している。とはいえ、目の前の包丁はどうにも不吉であった。キッチンで目の当たりにする分には特に何とも思わないそれも、こうして風呂場で見ると妙に禍々しく感じるから不思議なものである。洗剤によって綺麗に洗われた大出刃に、いつの間にか武人は赤黒い液体が付着している態を幻視していた。

だが、そんな彼の狼狽は、続けられた言葉に即座のこと霧散する。

「武人に、アタシの腕を落として欲しいんだ」

「………え?」

請われて数秒は彼女が言わんとする事が理解できなかった。

すると、固まったままの武人の前で、花見月はおもむろに浴室の床へとしゃがみ込んだ。そして、尻を着き身体を仰向けに寝転がすと、己の左腕の付け根に右手に持った包丁の刃を押し当てる。白く艶やかな彼女の肌が僅か裂けて、流れ出した血液が雫となり脇を伝ってタイルに落ちた。

その赤い色を目の当たりにして、ハッと我に返った様子で武人が声を上げる。剥き出しの胸と性器を目の当たりにして、反射的に思わず顔を背けそうになる。しかし、相手の妙に落ち込んだ表情と、あまりにも突拍子の無い行為は、そういった俗物的な反応を彼に控えさせた。

「ちょ、ちょっと、いきなり何やってるんだよ君はっ!」

「武人、やっぱりアタシは無理なんだ」

「何が無理なの? 意味が分からないよっ!」

「静奈や夢見月は、今まで通り武人と居るけど、アタシは無理なんだ」

「………それって、あのときの話?」

「うん」

静々と頷いた花見月の姿に、その背後にある事柄を理解して、多少だが武人の調子は落ち着きを見せた。あのときの話というのは、彼が両腕を失う事となった数週間前の件を指しての事だろう。何故今更になって、とは武人の疑問である。

「アタシは夢見月を優先して武人を怪我をさせた。これは仕方の無いことだって皆が言ってくれた。けど、アタシはもう一度同じ事があっても、やっぱり夢見月を優先して武人に怪我をさせると思う」

「それは、夢見月と君の仲を思えば誰も非難なんてしやしないよ。っていうか、そもそも状況が状況だったし、実際に僕を刺したのは君じゃないんだから、それに君が胸を痛めるのは間違ってる」

「でも、アタシはそれじゃあ無理なんだ……」

「ど、どういうこと?」

「これじゃあ、武人に示しが付かない」

花見月は身体を横たえたまま、頭を多少だけ起こして武人を見つめていた。表情は真剣そのもので、今の話題を冗談で煙に巻く事は難しく思われた。その端々には、普段の笑顔からは想像に難しい苦悩が見え隠れしている。

「示しが付かないって、そんな古風な事を言われても……」

「武人は謝るなって言ったけど、何かしないと武人の隣に居るのが辛いんだ。だから、せめて武人に同じ事をして貰えたら、少しは気が楽になると思う。すごい我が侭だけど、この包丁の峯を踏んづけて欲しい」

「踏んづけてって、君、それは……」

「アタシは武人と違って化け物だから、腕が一本取れたくらいじゃ死んだりしないから」

「いや、そういう意味で躊躇してるんじゃないんだけど」

リビングからの喧騒も届かない浴室は静かなものだ。二人の声は反響して良く響いた。湿度の高い場所にあって、環境の変化に因るものか、それとも心理的要因に因るものか、武人は背にジリジリと大量の汗が浮かぶのを感じていた。

もしも、この光景を他の者に見られたのなら、一体どういった反応をされるだろうか。山野や柳沢に知られた日には、その瞬間から口を利く事も即座拒否されるに違いない。夢見月に知られたのなら、その後を想像することすら難しい。しかし、そういった世間体を気に掛ける余裕さえ、今の武人には無かった。考えているのは、どうしたら花見月を説得できるか、に尽きる。

「あのさ、花見月、前にも言ったと思うけど僕はそういうことをしたくないんだよ」

「それは分かってる、だから、お願いなんだ」

武人の言葉に花見月は勢いを増して言葉を続ける。

「アタシは武人と一緒に居たいけど、でも、今の気持ちを抱えたままは嫌なんだ。ご飯を食べてもあんまりおいしく思えないし、一緒に遊んでても、心の底から面白いって思えない。そんなの嫌なんだっ!」

「だから、これなの?」

「別に武人に腕を落として貰って、それで帳尻を合わせようって訳じゃない。ただ、自分でも上手く言えないんだけど、アタシも武人と同じ目を見ないといけない気がするんだ。同じ目に遭うべきなんだ」

「何故、そういうことを言うの?」

「武人のおかげで夢見月は助かったんだから、そうなるように決めたアタシが何の痛い目も見ないのはおかしいんだ。そう決めたんだから責任っていうか、なんていうか、そういうのがあると思うんだ」

「責任………」

冷静に考えれば包丁で人体を、それも腕を肩から切断出来る筈が無い。仮に肉は裂けても確実に骨で止まるだろう。体重を乗せれば圧し折る事も出来るだろうが、両手を使わずに行えるかと言えば、それは難しい。加えて、花見月は彼が味わったものの比ではない痛みに襲われる事となるだろう。

普段ならそうして淡白な推測を構わず述べてみせる武人だが、今は相手と場の雰囲気とがそれを許さなかった。黄金色の真摯な瞳を足元に見据えて、武人は花見月へ答える言葉に迷っていた。

「だから、お願いなんだ。武人、アタシの腕を落として欲しい」

「そんなの出来ないよ……」

「アタシも、武人や夢見月、静奈、皆と一緒に楽しく過ごしたいんだっ!」

「でも……」

懇願するように叫ばれて、武人は喉元まで出かかった否定に躊躇する。

これまで天真爛漫に振舞っていた花見月が、その内でここまで思いつめていたとは、彼も微塵と考えていなかったからである。そして、同時にある一つの事柄を思い起こす。それは幼い外見や拙い言動から忘れがちな事実だが、彼女の実年齢は決して武人が比肩出来るものでない、ということだ。二人の間には祖父と曾孫より遠い歳の開きがある。勿論、そこにどのような経験が含まれているのかは定かでない。しかし、彼女が主張する全てを無碍にして講釈が出来るほど、自分が大した人間ではないという事を、武人はこれまでの彼女との生活から良く理解していた

その口から語られる言葉は悲しい程に一直線だが、籠められた思いは彼の思慮を容易に越える。相手の思うところを捉えかねて、武人は暫く口を閉ざすと何やら考える素振りを見せ始めた。その姿を花見月は黙って床に寝転んだ状態から見上げている。

共に一糸纏わぬ姿ながら、そこには羞恥の欠片も見られなかった。

やがて、武人は何かを決めた様子で花見月を見つめる。

「また、君は僕に嫌な思いをしろっていうの?」

その問い掛けは挑むような口調であった。

彼女が望むものが何なのか。今し方の会話ではあやふやなところも多い。しかし、その根底にあるものが、自分が望むものと同じだと言うのなら、武人にしても助力は惜しむつもりは無かった。寧ろ、それが自分の望みにも等しいのである。だから、それまでの困惑を裏に隠して、表には強張った面を貼り付ける。何も知らぬ者が見れば武人が花見月を睨み付けている様にも見えるだろう。そうして発せられた一言は妙に低くて腹に響く音を伴った。

ともすれば、僅かな間を置かずして躊躇無く言葉は返される。

「アタシの為に、して欲しい」

微々とも瞳を動かす事無く、花見月は頭上の武人を見つめている。それでいて、今にも泣き出してしまいそうな表情が悲しかった。平素からの彼女からは余りにも遠い感情の顕現である。

「お願いだ、武人……」

その姿を目の当たりにして、武人は答える。

「………分かったよ」

果たして、返された言葉は彼の思うところにあった。

祈るような哀願を前にして、その腕を落とすなど否応なく大きな抵抗を感じる。けれど、武人は首を縦に振って頷いたのだった。人の感情など容易に量れるものではない。しかし、今だけは自分を信じれると彼は考えていた。

誰にだって自分の心の平穏は何物にも代え難い物なのだ。

過去の彼ならば、絶対に嫌だと強固に主張して浴室から逃げ出していたに違いない。けれど、この場に立つ彼にはそれが出来なかった。彼女の悩みが先の件に纏わるというのなら、なにがなんでも駆逐せんと考えるのが、今の彼を支える大きな柱である。それは所詮、浅はかな子供の粋がりだと本人も感じている。しかし、それが如何に陳腐な拘りであったとしても、脆弱な精神しか持ち得ない人間には何某かの拠り所が必要なのだった。でなければ見えない両腕が痛んでしまう。

過ぎたことを引きずっているのは、武人もまた花見月に同じであった。

「い、いいのか?」

一方で妙にあっさりと頷いた武人に、花見月が驚いた様子で目を見開く。

「自分からお願いしておいて、それはないんじゃない?」

「でも、武人はこういうの嫌いって言ってたし……」

「時と場合に、因るんじゃないかな、きっと」

「それって、どういうことだ?」

「僕の心の平穏の為だよ」

「心の平穏?」

「誰だって、自分が芯に持つものは一つくらいあると思うよ」

花見月の言葉に武人は適当に言葉を誤魔化して応じる。彼には自分の内にあるものを正しく彼女に伝えるだけの技量が無かった。だから、今は出来る限り誤解の無いように言葉少なく答えるのみである。第一、仮に全てを説明出来たとしても、それは所詮、青臭い子供の主張だと彼も理解していた。突けば崩れる矛盾だらけの脆い理論なのである。

「それよりも、君こそ本当にいいの?」

「えっと、何がだ?」

「凄く、痛いと思うよ? 加えて言うなら、僕のときはそれほど痛く無かったよ? すぐに凍らせられたせいだと思うけど、感覚が麻痺したみたいで、痛みよりショックの方が大きかったくらいだもの」

「お、おぅっ! それでもいいんだ」

武人が頷いたからだろう。花見月の表情はそれまでと比べて幾らかの明るさを取り戻していた。その姿を目の当たりにして、もしかしたら、初めから断られる事を前提で来ていたのかも知れない、と武人は感じた。

「あと、本当に、死んだりしないよね? 腕もちゃんと元に戻るんだよね?」

「その辺は心配しなくても大丈夫だ。武人に包丁で切られる分には、腕一本で死ぬことは無いし、切られた腕も暫くすればまた生えてくるから。それに、これはなんか違う気もするけど、傷口を合わせておけば取れた腕をくっ付ける事も出来る」

「は、生えてくるの?」

「多分、一週間くらい治療に専念すれば元通り生えてくると思う」

「それって……、トカゲの尻尾みたいに?」

「それの早送りを見ている感じだと思う、きっと」

「な、なんか、あまりみたい光景じゃないかも」

「変なものを見せる事になってごめんな」

「っていうか、それだったら腕を落とせって頼まれた時点で十分に変な事だよ」

「う、うん……」

答える花見月は普段と比べて覇気に劣り、幾分かしおらしく感じられた。

その姿を頭上から眺めつつ、武人は内心大きな溜息をつく。いくら花見月の為になるとは言え、これから行う事は下手をすればトラウマになり兼ねないものだと思い返す。気分は死刑執行人だった。とはいえ、頷いてしまったからにはやらない訳にも行かない。覚悟を決めなければならない。

「ねぇ、花見月」

「何だ?」

「幾ら君の細い腕でも、包丁じゃあ骨まで切ることは難しい。全部切れなくても、ある程度までいって無理だと分かったら、その時点で諦めてくれるよね? 僕にも色々と限界ってものがあるし」

「武人が、やってくれるって言うなら、分かった」

「ありがと」

よし、と覚悟を決めて武人は足を浮かせる。

花見月は己の腕の付け根に押し当てた包丁の柄をきつく握って、刃を肌の上にしっかりと固定した。峯の幅広な大出刃は、ある程度の体重を掛けても武人の足の裏が痛くならないようにという考慮の元で選ばれた。本来は三十センチを越える比較的大きな肴の頭を落としたり、それ以上の大型魚を捌くのに用いられる。刀身は二百ミリと通常の包丁よりも一回り大きく刃も厚い。

「い、行くよ?」

「おう、一気にやってくれ」

「うん」

恐る恐るといった様子で武人は包丁の峯に足を乗せた。

それほど体重を掛ける事無く、柔らかな花見月の肌に無骨な出刃は音も無く沈んだ。応じて裂かれた肉と肉と合間より勢い良く血液が飛び出してくる。服を脱ぎ払った二人の体に、ピュッ、ピュッと勢い良く飛び散った真っ赤な鮮血がぶつかる。直接肌で感じる他人の血液の生暖かさに武人は否応無く現実を意識した。その感触に意識が遠退き、クラクラとふらついて身体が倒れそうになるのを、彼は慌てて押さえ込む。刀を伝わって届けられる、縦に伸びた筋肉繊維を横に押し切る生々しい感触は、当分の間で忘れられそうに無いものだと、その感覚を彼に強く印象付けた。

「っ……」

訪れているであろう激しい痛みに花見月が顔を顰める。しかし、一言たりとも悲鳴が漏れる事はなかった。加えて、包丁の柄を握る手は依然として硬く握られ、しっかりと刃の入りを固定している。武人が足に力を加えても、刀身は肉へ垂直に立ったままだった。

そして、心配そうに自分を見下ろす武人の視線に気づいた彼女は、額に汗を滲ませながらも小さく笑ってみせる。そこには明らかな苦悶が見て取れる。けれど、それでも花見月は今までと変わらぬ調子で口を開いて応じた。

「武人、もっと、グッとやってくれ」

「わ、分かった」

その気丈な態度に背を押されて、武人は一息に体重を乗せた。

「ぅっ……」

花見月の小さな呻きと共に刃が大きく沈む。

すると、刃の先が何か固いものに当たった。

決して肉付きが悪い訳ではないが、花見月の華奢な腕は武人のそれより一回り細い。幅広な刃を三割ほど飲み込んだところで、刃先が骨に到達したようであった。感触の異なる対象を感じて、武人の踏み込みが止まる。

「武人、アタシがしっかり包丁を握ってるから、もう少し力を加えてくれれば、きっと折れると思う。この体は小さいから、骨も細いだろうし。何度か繰り返し足を踏み込んでみて欲しい」

「やっぱり……、やらなきゃ駄目なのかな?」

「やりたい」

問う武人に花見月は間髪置かず応じる。

「……分かったよ」

力強い光を湛えた黄金色の瞳に見つめられて、武人は仕方無く頷いた。

傷口から流れ出した血液がタイルの上を伝って、ゆっくりと排水溝へと流れ行く。床に限らず四方八方へ飛び散った血は、浴槽や周囲の壁、果ては天井に至るまで、周囲のあらゆるものを自らの色に染め上げていた。

絶えず流れ出る夥しい量の出欠により、包丁の入った部位は切り口を確認する事さえ叶わない。腕の付け根には太い動脈が走っている。それを破った事により漏れ出した血液は、二人の全身を豪雨に打たれたが如く、赤の一色に濡らしていた。床に横たわる花見月の肉体は、肌の色を見つけるのが難しい程に朱と染まっている。美しい銀髪も滑りに浸って、今は光沢を失っていた。また、武人にしても股から、返り血をヒタヒタと絶えず落とし続けている。全ては彼が想定していた異常に凄惨であった。

その光景を極力意識しないよう努めて、武人は再び片足に体重を掛ける。ギチリと硬い感触が刃を通して感じられた。上腕骨は人間が持つ骨の中でも比較的強度に優れる骨である。如何に子供のそれとは言え滅多な事では折れる事も無い。

「は、花見月……」

ぎりぎりと刃が骨に食い込むのを足裏に感じながら、武人が情けない声を上げる。

「一息に、乗っかってみて、くれ」

痛みに顔を顰める花見月が更に先を促す。

「……うん」

滑る足元に注意しながら、花見月の支持に従って武人は体重の幾らかを包丁に乗せた。刃は花見月の人間離れした豪腕によって固定されているので倒れる兆しは見えない。此処まで来てはもう後に引けない。ええいままよ、ぐっと刃をかみ締めて武人は大きく足を踏み込んだ。

ベキリ……。

そんな音が浴室に響いた。

それと同時に、唐突にも浴室のドアが開かれる。

「………花見月?」

曇りガラスのはめ込まれた中折れのドアがスライドして、その縁より夢見月が顔を出す。呟かれた姉の名前は、しかし、目前で繰り広げられる惨事を前にして、尻窄みに掠れ消えてしまった。限界まで大きく見開かれた瞳が、浴室で赤く染まった雅史と花見月の肉体に向けられる。戸に手を掛けて浴室を覗き込んだ姿勢のまま、中途半端にも彼女の身体は動きを停止した。ピタリと、まるで時が止まってしまったかのようだった。

「ゆ、夢見月!?」

まさか彼女が現れるとは思わず、慌てた武人は花見月の上より飛び退いた。

その刺激を受けて花見月が小さく呻き声を発する。同時に武人が口にした者の名前に反応して、痛みに細められた瞳が浴室と脱衣所を隔てるドアへと向いた。そして、視線の先に見止めた者の姿を理解して、苦悶の声に代わり小さくその名が囁かれる。

「夢見月………、今は来ちゃ、駄目だったのに」

骨を砕いた包丁は勢いを失う事無く、その後に控えていた肉をも裂いていた。幾らか勢いの弱まっていた血液の流出が、再び勢いを増して周囲に赤い飛沫を飛ばす。その一端は時機を合わせたように顔を出した夢見月の頬にも跳ねていた。驚愕に固まる頬へ赤い斑点が幾つか浮かんでいる。

腕は完全に切断された訳ではないが、既に彼女の意思で動かす事は叶わないだろう。肉の八割を分断されて、包丁の刃の柄に近い一部は下に引いたタイルまで接していた。刀身は幾重にも血に塗れて、花見月の肉体と同化してしまったかの如く見える。

「え、えっと、これは、その……」

「夢見月、これは……」

武人が言い訳をする暇も無い。花見月が事情を説明する余裕も無い。

「は、花見月に何をっ!!」

叫んで夢見月が動いた。

勢い良く開け放たれた浴室のドアが、枠に当たりバァンと大きな音を立てる。

同時に駆け出した彼女は、一瞬で武人の元へ迫っていた。大きく振り上げられた腕は彼の首を捉えている。そこに籠められた力の程は明らかでない。しかし、武人の目には自らの死を思うだけの迫力が感じられた。釣りあがった眦と大きく開かれた口は、普段の彼女の柔和な面からは想定出来ない鬼の形相として感じられた。

目の前まで迫った指先に思わず武人は目を閉じる。

「待って夢見月っ!」

あわや夢見月の指が武人の首を撃たんとしたところだった。いつの間にか立ち上がっていた花見月が、短く叫んで二人の間に割って入った。無事な一方の手で夢見月の手首を掴み、同時に自らの体を無理矢理に二人の間へ滑り込ませる。

「花見月、離して下さいっ!」

「違うんだ、これはアタシの頼んだことなんだっ!」

そして、一際に大きな声で言い放つ。

「武人が自分からこんな事をする筈が無いじゃないかっ!」

そこまで言われて、夢見月はハッとした様子で目の前の人間に視線を向ける。

武人は慣れない恐怖に身を強張らせて、身体をガタガタと震わせていた。例え何度経験したとしても、人外の化け物が見せる狂気に晒されては、数秒と正常な精神を保てた試が無い。身体は自然と強張り膝は否応無く震えてしまう。それは見知った相手に依るものであっても同様だ。瞳は硬く閉ざされており、力無く背を浴室の壁に預けている。少しでも彼女が触れれば、そのまま床にへたり込んでしまいそうな感がある。そんな武人の弱々しい姿を見て、そして、花見月より投げ掛けられた言葉を耳にして、夢見月は緊張の限界にあった筋肉をゆっくりと弛緩させた。

「これは……、どういうことなのですか?」

ゆっくりと姉に向き直る。

彼女の前に立つ少女は頭から爪先までを鮮紅色に濡らしていた。

武人によって刃の立てられた腕は、今や筋数本で繋がっているに過ぎない。花見月が身動ぎをするに応じてブラブラと揺れる様が痛々しかった。傷口からは絶え間無く血液が溢れ、止水用パッキンの壊れた蛇口が如く、山場を越えて尚もチョロチョロと出血は続いている。本当に彼女一人から流れ出たものなのかと目を疑いたくなる程に浴室は血に塗れていた。鼻に付く強烈な鉄の香りが、その味さえ無理矢理に伝えてくる。

「アタシが武人に頼んだんだ。腕を落としてくれって」

「何故そのようなことを……」

「そうして欲しかったんだ、武人に」

「い、意味が分からないです」

答える夢見月は困惑を隠しきれない。狼狽を露として、痛ましそうに姉の姿を見つめている。薄いドアを一枚挟んで現れた非日常を前に、彼女は混乱していた。山野や柳沢と共にテレビゲームに興じては、楽しげに笑みを浮かべていた姿も遠い。

「アタシも、皆と一緒に楽しく過ごしたいんだ」

「それと腕を落とすのと、どういう関係があるのですか」

「これはアタシの責任と示しなんだ」

「それは、もしかして先の件に続く話ですか?」

「うん、そうだ」

夢見月からの問いに、花見月はどれも素直に頷いて応じた。

答える口調こそ普段のそれと大差無いものの、腕の傷が疼くのだろう。表情は何処か引き攣って見える。時折、ピクピクと小さく身体を震わせるのは、血液を大量に失い体内から熱を逃してしまった事に対する生理反応か、それとも腕の痛みに因るものか。何れにせよ、これだけの出血と苦痛を伴いながら、自分の足で立っていられるのは、流石は化け物と言ったところだろうか。伊達に数百年と齢を重ねていない。とは言え、その顔色は青褪めており酷く頼りないものだ。

二人の姿を眺める武人は圧倒された様子で彼女達の語る姿を見つめていた。

「その件に関しては、もう踏ん切りはついたのだと思っていました……」

「夢見月や静奈はそうかもしれない。けど、アタシはまだだったんだ」

「ですが、武人さんは……」

「アタシも皆と一緒においしくご飯を食べたいし、楽しく遊びたい。だから、武人に無理を言って付き合って貰ったんだ。だから、武人は何にも悪くない。夢見月が怒るなら、それはアタシだ」

「…………」

頑なな姉の物言いに夢見月は閉口せざるを得ない。普段ならば我が侭を言う花見月を宥めるのは彼女の仕事である。しかし、今に限っては、あまりにも切実な姉の表情を目の当たりとして、強く言って聞かせることが出来なかった。

「私は貴方ばかりに辛い思いをさせて、自分だけ安穏と毎日を過ごしていたのですね」

「べ、別にアタシは夢見月を責めてる訳じゃないぞっ!? ただ、アタシが、自分の為にこうしたくて、だから、武人にお願いしたんだ」

話題が話題なだけに、二人の話は段々と陰鬱な空気を纏い始める。

花見月も夢見月も根が真面目なだけに、こうして考え始めると堂々巡りを繰り返すのは誰の目にも明らかだ。特にそれが互いに関わる事となれば、それは他者が手を出さねば人間の寿命で追い続ける事が出来るかどうかさえ疑問である。

「あ、あのさ……」

遠慮がちに武人が口を挟む。

応じて自然と二人の視線が彼に向いた。

その所作に多少を気後れした様子で彼は言葉を続ける。口調や態度が辿々しいのは、今し方の夢見月の勢いに当てられた怯えが残っているからだろう。問いかける物腰は低く、声は平素より細く小さい。

「ごめん、夢見月」

「……………いえ」

ギリッっと小さく歯の軋む音が聞こえた。

慌てて浴室へ降りたせいで、床の血溜り叩いた彼女の足は赤い飛沫に濡れていた。スカートやシャツにも幾らかの斑点が見て取れる。色の薄い生地はすぐにでも洗濯しなければ染みとなってしまうだろう。しかし、それを微塵も気にした風も無く、彼女は会話を続ける。

「花見月、気付かぬうちとは言え、私は貴方に色々と辛い思いをさせてしまいました。私がもっとしっかりとしていれば、先の件でも花見月が悲しむような事は起こらなかった筈です。すみません」

「別に夢見月は何もしてない、いつもどおりだ。それに過ぎた事は言っても仕方ないって武人も言ってた。だから、夢見月が気にする事はないし、アタシに謝る必要も無いんだ」

「ですが、この場の光景はそうも思えません」

夢見月は今一度、浴場の惨事を見渡して呟く。

「それに、今の言葉は花見月自身にも通じるところがある筈です」

「そ、それはそうかもしれないけど、でも……」

「だから、私には見て見ぬ振りは無理なのです」

「けど、アタシと夢見月は違うし………」

「そう言っても、私は花見月の妹で、花見月は私の姉です。確かに違うかもしれませんが、限りなく近くあって欲しいと私は願っているんです。この世で唯一の血を分けた実の家族なのですから」

二人の会話は一向に平行線を辿りそうであった。

そんな二人の会話に耐えかねた様子で再び武人が横から口を挟む。彼の目が向いている先は花見月の腕であった。傷口からはヒタヒタと絶え間なく血が落ち続けている。その痛々しい姿を、小心者の彼はこれ以上に渡って放置しておく事が出来なかった。それまで自分で刃を刺していながらも、一度手を離れてしまうと、ふっと沸いて出たように強大な恐怖が彼を掻き立てた。

「あの……、それよりも先に花見月の怪我の手当てを急いだ方がいいと思うのは、僕だけかな。自分でやっておいてこんなことを言うのも失礼かもしれないけど、ばい菌とか入ったら大変だし……」

おずおずと申し訳なさ気に進言する。

「ま、待って武人、まだ全部切れてない。あと少し残ってる」

「でも、これ以上は流石に……、それに夢見月だって見てる」

「私はこれ以上を花見月が傷つく姿を見たくはありません」

「だけど、武人はアタシと約束した! あと少しなんだから、お願いだ」

先にも垣間見た縋るような瞳が武人を捉える。そこには何が何でも己の腕を落として貰わねば困るという、彼女の信念が感じられた。今を断ってもまた後で強請られるかもしれない。そんな憶測が武人の中で飛び交う。

ならば、彼にしてもこれ以上の重荷を後に回したくはないし、花見月に痛い思いをさせるのも、今回の一度限り終わらせてあげたいと思った。肉体的にも精神的にも開放されるなら早いに越した事はないだろう。そこには夢見月の目があるが、これも花見月が望んだ事だとするなら、そして、自分にとっても望むべき事だとするなら、多少の覚悟は出来ていた。全ては謝罪ではなく救済である。力に劣る自分に出来る事があるなら、幾度と無く窮地を救ってくれた彼女に対して、今度は自分が何かしてあげたいと思う。それが今の彼の行動原理だった。

「分かったよ」

小さく頷いて応じる。

「ありがとう、武人」

「た、武人さん、これ以上は駄目ですっ!」

「夢見月、お願いだから武人の邪魔をしないで欲しい」

「ですがっ!」

必死に己を止めようとする妹に構わず、花見月は再び浴室の床に身体を横たえた。仰向けに天井を見て、付近に転がっていた包丁を再び己の腕に当てる。既に骨までを分断されているそれは僅かな肉を残すのみとなっている。痛みに顔を顰めながら、しかし、しっかりと柄を握って刃先を傷口に重ねた。

傍から見れば正気を疑いたくなる行為だった。それも全ては病的ともいえる彼女の生真面目さに因るものだろう。それこそ方向性は若干異なるが潔癖症の域である。全身を突く痛みに肉体を僅か震わせながら、花見月は頭上の武人に視線を返した。

「武人、お願い」

「う、うん……」

「待って下さい武人さん、それ以上は私も我慢できませんっ!」

叫ぶ夢見月は硬く握った拳を腿の横で小さく震わせていた。

「ごめん、夢見月。でも、これは花見月との約束だから」

そう言って武人は花見月に向き直ると、最後の一踏みを彼女に与えた。

芯を持たない肉は、それで容易に全てを分断された。カツンと出刃がタイルに当たる感触が足裏に返されて、武人は花見月の腕を完全に切り取った事を理解する。その多くを既に排出してしまっていたのだろう。応じてプシッっと吐き出された血液は、今までの出血に比べれば大人しいものだった。

花見月は一瞬だけ苦痛に顔を顰めさせる。しかし、それもすぐ笑みによって塗り替えられた。相変わらず悲鳴を上げることは無い。多少の呻きが漏れる程度だ。武人が足を包丁の峯より降ろしたのを確認して、彼女はその柄を解放する。支えを失った大出刃は脇にカランと乾いた音を立てて倒れた。

「ありがとう、武人」

「どう、いたしまして」

花見月は空いた左手でおもむろに切断された己の右腕を掴む。

「ちゃんと、取れたんだな」

「ちゃんと取れたよ」

そして、それを持ち上げると己の腹の上に置いて見せた。

切り取られた腕の傷口が傾斜を持つに応じて、内部に堪っていた血液が血管からドロリと漏れて現れる。全ては赤一色に多い尽くされて、患部をまともに確認する事も儘ならない。薄暗い浴室の照明に照らされて、鈍い照り返しを持って赤黒く染まる花見月の姿は、不謹慎ながら完成された一枚の絵画のようだと武人に感じさせた。

「花見月、私は、私はっ!」

痛々しい姉の姿を目の当たりにして夢見月が堪らず叫ぶ。

「もう我慢が、我慢が出来ません……」

「ごめん、夢見月。でも、これはアタシのケジメだから」

「花見月にとってのケジメは、私にとっての怒りなのですっ!」

握る拳をそのままに夢見月は武人に向き直る。

「私は、これを我慢することが難しいです」

その瞳は平素から彼女が彼に向けるものとは質が異なっていた。それは過去にマシューやジェームズに対して向けていたものに近いだろう。凛として冷たい空気を纏った視線が武人を射抜くように見据える。釣り上がった眦は明らかな憤怒を湛えていた。

「武人さんが悪くないのは、分かります。ですが、私は花見月を傷つける者を見過ごす事は出来ない。花見月が毎日を楽しく過ごせないというのなら、この光景を目の当たりにした私にしてもそれは同じ事です。明日から私はどうして貴方の顔を見ればいいのでしょうか?」

一歩、夢見月の歩みが武人へ向かう。

「夢見月、武人はっ!」

咄嗟に上半身を起こして花見月が叫んだ。

「ええ、理解はしています。ですが、納得が出来ないのです」

言葉を遮るようにして夢見月の足が、また一歩だけ武人へと進む。

その姿は出会って間もない頃の彼女を髣髴とさせた。やはり夢見月にとっての花見月とは触れてはいけない禁忌なのだと武人は思い知る。つい先程まで何気ない会話に興じていたのが嘘のように感じられた。違和感さえ覚える程の、あまりにも唐突な感情の変化であった。

「なんていうか、腕を落とすなんていう話が出た時点で、この流れは決まってたよね」

「……武人?」

どこか諦めた様子で武人が呟く。

「夢見月は僕をどうしたい?」

背には硬いタイルに覆われて浴室の壁がある。そこから身を離した武人は、しっかりと自分の足で身体を支えると、膝の震えを意識して落ち着かせるよう努める。そして、正面に立った夢見月を見据えて静かに尋ねた。

「私は……」

夢見月は喉元まで出掛かった言葉を飲み込む。

花見月と武人を天秤に掛けて、彼女の心情がどちらに傾くのかは誰にでも察しが着く。その上で、如何に姉の意向に添える形で自分を納得させようか、苦悩している姿なのだと彼は感じた。

そこから会話は続かず、互いに向き合ったまま二人は黙ってしまう。

ピチャリ、ピチャリと血の落ちてタイルにぶつかる音が、低い換気扇の駆動音に混じって浴室に響く。それは武人の股から、花見月の顎から、壁に取り付けられた蛇口から、他の至る所から絶え間なく垂れ続けている。その断続的かつ不規則な刻みが、時間の経過を誰にも妙に遅く感じさせた。

窓の無い浴室にあっては熱気が篭もり自然と気温が上昇する。特にこの場へ来て長い二人の表皮には、ビッシリと隙間無く汗が浮かび上がっていた。それが花見月の血液と交じり合って、身体の表面をドロドロと滑らせる。武人は汗が目に流れてヒリヒリと痛むのを我慢して、ただ只管に夢見月を見つめていた。まるでサウナにでも入っているかのようだと感じていた。それでも、彼は微動だにせず静止したままである。

自ら動くには難しい状況に立たされて、武人は口を閉ざし夢見月の言葉を待つしかなかった。相手が主張せんとすることは彼にも容易に理解できる。しかし、花見月を思うと最後の踏ん切りが付かないのだろう。幾ら待っても続く言葉は発せられそうになかった。このまま夜が明けてしまうのではないかとさえ感じられた。

そして、それから一体どれだけの時間が経過しただろうか。

向き合ったまま言葉を発する事無く視線だけを交わしている二人を前にして、緊張に耐え切れなくなった花見月が口を開いた。その表情は酷く悲しげなものである。これでまた彼女の心中にも雲がかかるのかと思うと、武人は遣る瀬無い気持ちになった。

「夢見月、お願いだから、もうこれで終わりにしたい」

語る口調は切実だった。

「…………花見月」

悲壮感を漂わせる彼女の姿を目の当たりにして夢見月もまた顔に影を落とす。口調は多少の落ち着きは取り戻していた。今し方に見せた憤怒の兆しも、無理矢理に押さえつけているのだろう、多くは形を潜めるに至っていた。しかし、依然として思考の堂々巡りは続いているのだろう。反射的に呟かれた姉の名に続く言葉は無い。

誰にとっても辛い沈黙だった。

それから永遠に感じられる数分が経過しての後である。蚊の鳴くような小さな声で夢見月がポツリと呟いた。その言葉を受けて、場は一先ずの終焉を迎える事となる。花見月の怪我を考慮しての事だろう。

「少し……、時間を下さい」

全ては先延ばしだった。

日も落ちて幾分の涼を取り戻した街路を一人行く者があった。

十数メートルの間隔を置いて並ぶ街頭の明かりに、足元より幾つか生えた影を揺らすのは、身の丈も小さな少女である。無地の淡い青色を基本にして、左の前身頃に地味な百合の刺繍を施しただけの簡素な作りの着物を纏っている。帯は柄の無い白一色だ。生地の端からスラリと伸びた白雪の如き肌色を乗せる四肢が、数も少ない光源に煌々と照らされて、薄暗い夜の闇に薄ぼんやりと浮かび上がっていた。背に垂れた長い黄金色の髪が特徴的な可愛らしい女の子である。年の頃は七か八かといった具合だ。

「………」

少女は、静奈は口を硬く結んで一人、道を歩んでいた。

時刻は午後の十時を回った頃合だ。昼には絶えなかった街路の人通りも今や減って、縁石越しに脇を走る車の数も随分と少なくなった。蝉の音も止んで辺りは妙に閑散として感じられる。お陰で草履の踵を引き摺る小さな音も良く響いて聞こえた。藺草のアスファルトに擦れる規則的な調子がズ、ズズ、と所在無気に届き来る。どこか寂し気な感のする音だった。

静奈はゆっくりと、ゆっくりと、何の目的も無しにただ歩いている。

その表情は夜の暗がりにも増して尚のこと暗い。顔は伏せ目がちに俯かれて、視線は自然と路上の切れ目を追っていた。身体は意識する事無く機械的に動いて、足を前に前にと進めさせる。意識が身体を離れて別の場所に置かれているように、その足取りは頼りない。僅か目を離した隙に、フッと闇に紛れて消え去ってしまいそうな儚さがあった。

彼女が芹沢宅を後にしたのは今から凡そ一時間前の事だ。夕食を終えて腹の調子も落ち着いた頃合に、周囲の目から逃げるようにダイニングを後にしたのである。その折に西光坊より声を掛けられたが、自室に向かうと返しておいたので背を追う者は居なかった。彼女はそのまま玄関へ向かうと、特に目的も無く夜の散歩に出た。それは先の件から数週間が過ぎて、始めて自発的に武人の元を離れた瞬間でもあった。

それも全ては己の過去を思っての事である。

「………武人」

家を出てから今まで、頑なに閉じられていた口が僅か開かれる。

零れたのは今に仕える人間の名前だ。

彼の名前を口にするだけで、彼女は胸が痛むのを感じる。それは過去に一度として身に覚えの無い感覚であった。外傷がある訳でも無いのに痛む肉体に、その所以が頭では正しく理解出来ているにも拘らず、静奈は戸惑いが隠せない。しかも、本来ならば何よりも愛おしく思える筈のその感覚が、今は途方も無く悔しかった。

過去にこれほどの後悔を、彼女は味わった例が無かった。

ここ幾百年と続いた心の平穏が乱されて、否応無くざわめき立った感情を抑えられない。外から眺める様子こそ平素より変わらない。しかし、その内では激しく煮えたぎった湯が沸々と泡を打つように、数多の情動が節操無く走っていた。それは決して自分の意思では止める事の出来ない感情の昂ぶりであった。

些細な想像にも鼓動を早くする心臓は度重なる緩急に疲弊し、吐く息は風邪でも患ったが如く熱い。徐々に回転を上げていく思考は、休む事無く仮定と否定を繰り返して、今を司る自意識を足早に駆逐していく。何もかもが悪い冗談の様に思えて、現実が希薄に感じ始める。それでいて肉体の感覚器官は冷静に己の存在を頭に訴えかける。

「まさか、このような感慨に至るとはのぉ…………」

静奈は聊か自嘲気味に呟いた。

口元には歪な笑みが浮かべている。それでいて、路上に向けられた瞳は悲しみに伏して感じられた。何を持ってしても解決出来ない過ぎた所業に、頭を悩める事すら無駄なのだと理解していた。けれど、彼女は悩まずには居られなかった。

そうして、止め処無く憂慮を煩い重ねては宛てなく足を運ぶのである。

家を出てから既に小一時間を過ぎていた。

それでも足は疲れを知らずに前へと向かう。今の静奈は、そんな己の健脚にさえ憤りを覚えずには居られなかった。自分の力を誇る事はあれど、恨めしく思うなど、古い彼女を知る他の者が聞けば、明日の震天動地を疑う事はないだろう。

「………我は何をやっているのか」

ふと、立ち止まって、頭上を見上げれば満天の星空が視界一杯に広がる。

日が落ちても天に雲が掛かることは無かった。背の高い建物が少ない地方にあっては空が良く見える。都市部と比較すれば工場や自動車の排気ガスに因る大気の汚染も少ない。空気は澄んで星の輝きも鮮やかに感じられる。明日も雨が降る兆しは見えない。大気の状態は安定しており透明度も高く、風の流れは落ち着きを持って星に瞬きを忘れさせる。そのきらめきを一つ一つ数えるように、彼女はゆっくりと顎を上げて己の思いを空に馳せた。

幾百年経とうと変化の無い星空に、静奈は一つ小さな溜息をついた。

決してそれを羨ましいとは思わないが、頭上に置いておくには聊か目障りにも感じる。憎くは無いが毎夜顔を合わせるには鬱陶しく思えた。久しく波立つ古い感情に己を戒めながら、彼女は瞳を細めて拳を緩く握る。爪の先が手の平に当たる感触は妙に遠く感じられた。自分らしくないとは理解しながらも、それを否定する事は出来なかった。

「あぁ………、まさか、このような目を見るとは思わなかった」

「それは、どのような目ですか?」

ふと、背後から声が掛けられた。

「っ!?」

誰の気配も察していなかった静奈は、その存在に酷く慌てた様子で振り返る。

すると、そこには男が一人立っていた。夜の闇に解けるように真っ黒なスーツを身に纏っている。身の丈は六尺を超えた程度だろうか。人込みに混じれば頭一つ浮く長身の持ち主である。薄暗がりにあっては確認することも難しいが、髪は薄い茶色で、肩にかかる程度の長さを整髪料によってオールバックに撫で付けている。色白い肌と堀の深い顔の造形は彼がこの国の人間でない事を示唆していた。

「お久しぶりです」

「あぁ………、久しぶりじゃな」

静奈は苦虫を噛み潰したような顔をして、彼の言葉に小さく答えた。

周囲には彼の他に人気を感じられない。縁石を挟み車道を走る車は疎らであって、日も落ちて薄暗い時間帯を思えば、人目を避けて他者を攫うには絶好の局面だと言えた。まさか、とは考えなかった訳でもない。しかし、それでも自らの感情を優先させた数刻前の自分を、彼女は呪わずに居られなかった。良くない事は続くものだと一人で内にごちる。

「いやはや、偶然とは恐ろしいものですね」

「まったくじゃな」

「こんな所で出会えるとは思いませんでした。いえ、私も微塵と期待していなかった訳では無いのですが、駄目で元々と考えていた手前、これは嬉しい偶然ですよ。件の事後処理に自ら出向いたのも無駄では無かった」

二人の間には十数メートルの距離がある。男は静奈を前にして立ち止まり、何気無い世間話を気取って語りかけてきた。その風貌は前に会った時と何ら変化無い。以前は共に居た狼男が隣に見当たらない事を警戒しつつ、静奈も同様に足と止めて、素っ気無い態度で軽口を返す。

「夜に散歩も儘ならぬとは、この国も物騒になったのぉ」

「若い女性の一人歩きが危険なのは昔からですよ」

「我を若い女と言うか? もし、そうだったら、今の我にはどれだけ嬉しい事か」

「私からすれば貴方は十分に若い」

「ふん、何も知らぬ坊主は気楽で良いのぉ」

「そうですか? これでも色々と気苦労の絶えないのですが」

静奈の突き放した物言いに、マシューは聊かと気を悪くした風も無く、薄い笑みを浮かべて応じる。その調子は前に出会った時と同様であった。両手の平を天に向け掲げて、肩を大袈裟に竦める仕草も相変わらずだ。

「しかし、その気苦労も今夜で一つ返上出来そうです」

「その様に勤勉なばかりでは気苦労が増えるのも道理じゃ。偶には仕事を忘れて羽を伸ばすのも悪くはないと思うぞぇ? ここは一つ巣に帰ってゆっくり休むが良いと思うが、どうじゃな?」

「ええ、この仕事が終わったらそれも良いでしょう」

それまでの陰鬱とした感傷も然る事ながら、自分が原因となって再び武人を危地に追い込む羽目となるのかと思うと、静奈は身を裂かれるような思いだった。このままでは以前の二の舞である。

「まったく、釣れん男じゃのぉ……」

軽い調子で答えながら静奈は周囲に意識を巡らせる。

西光坊には武人の護衛を任せてきたので、万が一にも助けは望めないだろう。仮に主人が家に居ないと知って彼女が外へ探しに出たとしても、この場で時機を合わせて遭遇する可能性は極めて低い。そして、人目が少ない事も手伝い、相手は無理矢理にでも己を捕獲しにかかるだろう。

淡々と状況を確認しつつ、静奈は背後を意識して足裏を僅か擦らせる。残された手段は自力での逃走しか無かった。だが、それも圧倒的な能力差を前にしては叶う筈も無いと容易に理解出来る。捕縛されるのは時間の問題だと思われた。

「私は主様に一筋ですから」

そんな彼女の姿をマシューは余裕の表情で眺めている。答える口調は誇らし気なものだ。彼も静奈の語りが時間稼ぎだとは理解しているのだろう。その上で相手の口車に乗っているのだと容易に伺える。若しくは、彼女の背後に西光坊の姿が無いかどうか、確認しているのかも知れない。

「その者も、主と同じで不死者かぇ?」

「ええ、そうです。尤も、私など足元にも及ばない強大な力をお持ちの方ですが」

「ならば他人に任せていないで自ら出てくれば良いものを。そうすれば、もっと楽に片も付くだろう。お前が苦労する事も無く、無駄に従者を殺す事も無い。先の件にしても、何の苦も無く終わっていた筈じゃ」

「いえいえ、この程度の雑務に主様の手を煩わせる訳にはいきません」

「なんだ、我の相手は主にとって雑務かぇ」

「いいえ、主様にとって、ということですよ。私にとっては主様から頂いた崇高な使命に他なりません。何に変えても努め通すべき仕事です。ですから、こうして寝る暇も惜しんで動き回っている訳です」

「そうかぇ、ご苦労なことじゃな」

逃げ出すチャンスは一度きりだ。最良の時機に投ずるべく、静奈はマシューと中身の無い会話を続ける。頭の多くは逃走の算段に傾けられており、返す言葉など殆ど脊髄反射の域だ。けれど、幾ら悩んだところで案は浮かんでこない。いっそのこと脇を走る車に取り付いてみようかとも考えるが、無理矢理に引き剥がされるのがオチだと即座に結論は出た。大声で叫ぼうにも人が集まってくる間に連れ去られて終わりだろう。まさに八方塞であった。

「まあ、無駄な話はこれくらいにして同行を願いましょうか」

「強引な男は嫌われるぞぇ?」

「私が好かれたいと思う女性は主様一人ですから、なんら問題ありません」

「ふん、大した惚気じゃな」

「そうかもしれませんね、同僚にも良く言われます」

「自覚があるだけ尚のこと悪いわ」

一歩、ジェームズが足を前に出す。

値の張りそうな革靴の固い底が、アスファルトに擦れて小さな音を立てる。ある程度の距離を置いていながらも、夜の物静かな田舎町にあっては、その僅かな音は静奈の耳まで良く響いた。

彼が動いたのを合図にして彼女は勢い良く回れ右をすると、それまで歩いていた進行方向へ向けて全力で駆け出す。着物に草鞋という走るには不都合極まりない出で立ちながら、その動きは人間を超越したものだ。振り返り駆け出した瞬間のそれなど、人の形をしていながら野生の動物に近い。

「逃がしませんよ」

だが、それもマシューを前にしたのなら兎と虎を比べるようなものだ。片や脆弱な草食獣に対して、それ追うのは圧倒的な腕力を持った肉食獣である。勝敗は兎が逃げ出す前より既に決していた。全てにおいて彼に圧倒的に劣る彼女では、数十メートルを稼ぐのが精々だろう。駆け出して数秒のうちに、二人の間にあった距離は見る見る詰められる事となった。それこそ、足元も頼りなく駆ける幼稚園児の後を、短距離走の選手が全力で追いかけるようなものである。

「さぁ、観念して下さい」

マシューが腕を前に伸ばす。

しかし、此処へ来て思い掛けない出来事が起こった。

「っ!?」

静奈が着る着物の掛衿を掴まんとマシューの指先が迫ったところで、彼の脇より迫った何者かが、その頬に蹴りを入れたのである。咄嗟に手の平で顔面を庇うことにより直撃は避けられたが、マシューは衝突の勢いを殺す事が出来ずに、大きく身を飛ばした。

静奈達が走る国道へ垂直に交わる形で伸びた、普通自動車が一台だけ通れる程度の脇道がある。彼を蹴り付けた何者かはそこから飛び出してきたらしい。蹴り飛ばされたマシューは縁石を越えて、更に車道も越えて反対の歩道まで身を飛ばし、ようやくその動きを止めた。西光坊によって蹴り付けられた時とは異なり、無様に軒先に突っ込む事は無く、着地は路上へ両足から行われた。

「いきなり、随分な挨拶ですね……」

だが、損傷は確実に被っている様子だ。口元に小さく流れた血をシャツの袖で拭ってマシューが呟く。膝を受けた手の甲が強く当たったのだろう。外傷はこれと言って見当たらないので、口の中を切ったに違いない。赤黒い染みが白いシャツに滲んだ。

静奈を窮地より救ったのは、昼にファミリーレストランで出会った老人であった。勿論、老人とは言っても外見が人間のそれであるに限った話で、実際には人ではなく天狗の化け物である。

彼は静奈の脇に立つと、顎鬚を人差し指と親指で弄くりながら感慨深げに呟いた。

「まさか、この儂がお主を助ける日が来るとは思わなんだ……」

「我もまさか、主に助けられる日が来るとは思わなかったぞぇ、神野よ」

それに多少だけ驚いた様子で静奈が言葉を返す。

「なんというか、あれじゃ、長生きはしてみるものじゃのぉ」

「うむ、違いない」

「力を失っているという話は、どうやら本当であったようじゃな」

「言ったであろう、嘘はついていないと」

「お主の正体を知って尚もその言葉を信じられる者など、そうは居らぬだろうよ」

「なんだ、我も随分と信用が無いようじゃな」

「当然じゃ、よもや過去の己が所業を忘れたとは言わせぬぞ?」

「ふぅむ、主も根の深い男じゃのぉ?」

「力を失いながらも、尊大な性格は相変わらずのようじゃな。その言葉を他の者が聞いたのなら、それこそ今の脆弱なお主は、有無を言わさず集られ嬲り殺されておろう。儂の温厚な性格に感謝して貰いたいものじゃ」

「なに、ただ西光坊を恐れての話じゃろう?」

並び立った静奈と神野の視線の先にはマシューの姿があった。チラリと一瞥して二人は互いの存在を確認する。そして、それぞれマシューの姿を視界に捉えたまま、それでいて淡々と言葉をやり取りする。静奈も神野の姿を目の当たりにして驚きはしたものの、それも僅かな間である。すぐに本来の調子を取り戻して軽口を叩き始めた。

「まあ良い、今はあの化け物を何とかする」

「主は話の誤魔化し方も、昔と全く変わっておらんのぉ」

「やかましい、人が助けてやるというのだから大人しく黙っておれ」

「他者の手を借りるのは癪じゃが、武人に迷惑を掛けるよりはマシじゃ、頼んだ」

「………ぬぅ、それはそれで調子が狂うかもしれぬ」

「注文の多い奴じゃな……」

「まあ、あの者が儂の敵であるには変わりない。早々に排除しよう」

「うむ」

昼過ぎにファミレスで別れて以降、神野は何処で何をしていたのだろうか。彼の出で立ちには変化が無い。淡い臙脂色の着物の上に黒い羽織を着た古めかしい出で立ちをしている。手には曲がりきった腰を補うためか、濃い色の漆が塗られた、風刺に芭蕉が握っているが如くの年季を感じさせる藜の杖がある。だが、それも今の俊敏な動きを見た限り何ら必要性を感じない。

「まさか、貴方が此処まで手を伸ばして来ているとは思いませんでした」

「儂とてお主がここまで足を運んでいるとは知らんかった」

「そちらの方に何か御用ですか?」

「まあ、用と言う用があった訳ではないのじゃが、お主に渡してしまうには色々と問題があってのぉ。この場は大人しく引いて貰いたいところなのだが、どうじゃ? また痛い目を見るのは嫌だろう?」

「私としても引けぬ理由があるのですが………」

神野の言葉を受けてマシューの笑みが鈍る。

どうやら、彼にとっての神野とは、静奈と違って一筋縄では敵わない相手らしい。若しくは、それ以外に何か苦手とする理由があるのかもしれない。此処へ来て、それまでの余裕が失われていた。彼の表情は、暗がりの中で距離を置いた静奈や神野には掴む事が叶わない。しかし、二人にしても相手の声の調子に変化を認めていた。

「儂としては、お主を討つ事に躊躇は無い。しかし、今はまだ人間の時間じゃろう。下手を打って出るのは儂にしても、そして、お主にしても色々と拙いのではないのか? それとも、そこまでして捕らえなければならぬ程に、この者には価値があるのか?」

「ええ、私達にとって価値があるのは確かです」

時折、田舎の静かな夜に排気音を撒き散らして、車が車道を通り過ぎる。その合間を縫って二人は会話をしていた。いい歳した大人が真面目な顔で車道越しに向き合う姿は、傍から見ればかなり間抜けに映るだろう。しかも彼らの振る舞いは、まるで舞台役者が如くである。

「ならば仕方あるまい……」

一歩、神野が前に足を進める。

下駄の底がアスファルトに当たって、カランと乾いた音を立てた。台から伸びた一本の歯は通常のそれと比較して若干高く感じる。高下駄と呼ばれる類のものだろう。良くもまあ下駄など履いていながら、マシューに気付かれず走り寄り、その上で蹴りを入れられたものだ。化け物の事情に疎い武人がこの場に居たのなら、そう実直に感想を漏らしているに違いない。

「こうして合間見えるからには、今度こそ逃がさんぞ。ここで金毛の天使に続いて白面金毛までがお主等の手に渡ったとあっては、もはや儂等に勝機は無いじゃろう。何が何でもこの場は引いて貰う」

挑む神野の外観は年老いた老人の風体を晒していながら、その全身からは妙な覇気が感じられた。人外の化け物は歳を経れば経た分だけ強力な力を得るという。ならば、外観から得られる情報など何の意味もなのだろう。彼の実力を知る静奈は、その隣で別段これと言って慌てる事も無く、黙って事の成り行きを見つめていた。

すると、そんな神野の言葉を受けてマシューの態度が一変した。

「白面金毛……、それはどういうことですか?」

何やら酷く驚いた様子で問い返す。ある程度の距離があるので静奈や神野にはその表情まで確認することは敵わない。しかし、声の調子からして彼が大きく狼狽している事は理解出来た。

「なんだ、まさか知らんでこの者を追っていたのか?」

「白面金毛とは、まさか、あの白面金毛九尾の狐を指しているのですか!?」

「それ以外に何があるというのじゃ」

さも当然だと言わんばかりに神野は語る。彼にしてもつい数時間前には同様の醜態を晒した訳だが、少なくとも今は、静奈の存在に冷静さを失う事無く、状況を見据える事が出来ていた。

「まさか、そんな訳が……」

「お主は自分が喧嘩を売った相手を理解しておらんかったのか?」

「いいえ、そんな筈はありません。白面金毛九尾の狐と言えばこの国に限らず、中国古代王朝殷から南天竺、日本と三国を跨ぎ悪事の限りを働いた大妖怪ではないですか。それがこのような片田舎で隠居している筈がありません」

「何故にそう言いきれる?」

「なによりの証拠は彼女の力です。私は以前から静奈さんと面識があります。その時に確認した限りでは、失礼な言い方になってしまいますが、彼女の能力は私に遥か劣ります。その様な化け物が白面金毛である筈がありません」

一際声を大きくしてマシューは主張する。

「その辺は本人曰く、今は力を封ぜられてるそうじゃ」

「封じられている?」

「儂が知っている限りでは、こやつを封じた殺生石はどれも依然として顕在じゃ。実際に自分の目で見て確認した訳ではないが、あれが解かれれば嫌でも儂の耳に入ろう。報せが無いということは、封が有効であるということじゃ」

「ならば、何故に此処の場に顕現しているというのですか!」

「それは本人に聞いとくれ、儂も知らん」

会話の流れから、自然と二人の視線は静奈へ向けられる。

まるで川に流れる稲穂の一本が、しぶとく川辺の岩肌に挟まれ流れに逆らうが如く、全く方向性の異なる執念が彼女の前に二つ並んでいた。静奈はその流れを一層のこと急にするよう口を開いた。内心では神野の迂闊な発言に舌打ちを一つである。

「我が白面金毛では、何か問題があるかぇ?」

自身を圧倒的する存在に前後を抑えられて尚、彼女の口調は平素からの淡々としたものであった。その素振りは、今まで己が主人を思い、陰鬱と道端を歩いていた姿に遥か遠く感じられる。とても彼女らしい振る舞いであった。

「何故にこうして存在しているのか、それは我にも分からん。だが、この地に落ちて数百年と経つが、我は一度として自分の存在に疑問を持った事は無い。大凡のところはコヤツ等の仕掛けが甘かったのだろう」

「それは、お主が今にこうして居るのは儂等のせいということか?」

「我を完全に封じるには力が及ばなかったのじゃろう」

「ふむ………」

静奈の言葉に神野は渋い顔を浮かべていた。

一方、静奈の独白染みた物言いを受けてだろう、車道を挟んで正面に二人を捉えるマシューは殊更に緊張を高めている。夜の闇より尚のこと暗く沈んんだ黒いスーツが、小さく震えて感じられた。

「………本当、なのですか?」

答える声にも一層の変化が見られた。今までの余裕を湛えた口調とは一変して、疑念と畏怖の交じり合った低い声色が届けられる。それは神野が静奈の名を初めて耳にした時分に返したものと同じ色をしていた。

「本当かどうかは主が勝手に判断することじゃ」

「…………」

素っ気無い調子の静奈の物言いを前にして、マシューは更に顔を青くする。

「何れにせよ、この場は引いたほうが良いと思うがのぉ?」

そんな彼女の側に付いた神野は、ある程度の余裕を持って彼に向き合っていた。大凡のところ、彼にとってのマシューとは、畏怖の対象としては聊か力不足な存在なのだろう。二人の様子を眺めて、端的に静奈はそう理解した。

「儂は退く事を進めるぞ?」

「それは、貴方の隣に立つ彼女を考えての事ですか?」

「いや、お主が再び敗退の憂き目を見たいと言うのなら話は別じゃ」

一歩、神野が前に出る。

カツンと下駄がアスファルトを打つ硬い音が響いた。それだけで、両者の間にあった空気が更なる緊迫を得る。対立する二人の合間には縁石と車道が横たわるが、人外の化け物を前にしては、それはあまりにも些細な障害であった。

「白面金毛九尾の狐、まさか、再びその姿を拝む事になるとは思いませんでした」

それでも構わず、マシューは言葉を続ける。

「ほぉ、主は我を知っておるのかぇ?」

「ええ、知っています。過去に一度だけ貴方を眺めた事がありました」

静奈に問われて、マシューは緊張した面持ちで言葉を返した。何か策を巡らせる時間でも稼いでいるのか? とは彼女の勝手な推測である。一人では満足に身動きを取る事が叶わない状況なので、静奈としては相手の話に乗る他無い。

「とは言っても、私が一方的に貴方を見つめていたに過ぎません。その時の貴方にとっては、私の存在など有象無象に紛れた塵の一つに過ぎなかったことでしょう。覚えている筈もありません」

「まあ、確かに主の面に覚えは無い。その姿を変えていなければの話じゃが」

「この姿は昔から変えていません。ですが、あの状況下では私の姿など目に留めておく事は不可能であったでしょう。貴方から見れば、それこそ米粒のように映ったに違いありませんから」

「なんじゃ、以前に出会った時とは違って随分と謙遜が過ぎるのぉ?」

「そうですか?」

「うむ、そうじゃ」

「貴方が白面金毛九尾の狐ということは、貴方の従者を名乗る彼女の存在は彼の西光坊ということになりますか?」

「そうであったら、どうだというのじゃ?」

「いえ、良くもまあ生きて逃れられたものだと」

「咄嗟に武人を撃った、お主の相棒の機転に感謝することじゃな」

「ええ、そうですね」

「じゃが、我は武人を傷つけたお主等を決して許すことは無い、覚えておけよ?」

「…………」

それまでと全く口調を変える事無く、それでいて絶対に不可避の事実を告げるように静奈は淡々と語る。自然とマシューは返す言葉を失っていた。彼女の過去を知る者からすれば、それは死の宣告にも等しいものである。今は自分が優位な立場にあるものの、今後に渡り身に受ける精神的な重圧は計り知れない。

「それで、主は我をどうするつもりじゃ?」

追い討ちをかけるように静奈は尋ねる。

「今はまだ人の時間ゆえ、あまり目立つ事はお互いに避けるべきじゃろう。だが、討たれた仲間の事もある。お主が望むならば儂は相手になろう。無論、今度は決して逃す事も無いと思うがいい」

それに神野が続く。

二人からの圧力に堪えかねたのだろう。それでマシューは根を上げた。

「分かりました、この場は一度退かせて頂きます。此方としても何の策を巡らせる事無く貴方と戦うのは不都合があります。それに、静奈さんに関しても、また一から情報を集めなければなりません」

「態のいい言い訳じゃのぉ?」

「どのように取って頂いても結構です」

静奈の挑発にかかる事も無い。

彼女としては、この場で神野がマシューを討ったのなら、それが自分にとっても武人にとっても、そして、花見月や夢見月にとっても至上の展開だと言えた。しかし、相手もその程度は理解しているだろうと考える。何よりも能力差が大きい。

案の定、手早く身の振りを纏めたマシューは容易に敗走を決めた。

「この場は一度退かせて貰います」

「釣れんのぉ……」

「此方としても苦い選択ですが、仕方ありません」

状況としては神野の一人勝ちといったところか。

「それでは、これにて失礼します」

そして、言うが早いか彼はそのまま夜の空へ遠く飛び立っていった。

神野も彼を深追いするつもりは無いらしい。徐々に小さくなっていく後姿を地上より黙って見送る。外灯の明かりも届かない中空にあっては、真っ黒なスーツの影は、すぐに闇夜に霞んで見えなくなった。

その様子を言葉無く確認して、二人は小さく一息をついた。

静奈と神野は彼の去った空を言葉無く見つめていた。

だが、暫くが経つと、やがてどちらとも無く互いに顔を合わせる事となった。まさか、このまま何事も無かったように、それじゃあ、と片手を振って分かれられるほど容易な状況でも無い。特に神野は何か言いたげな瞳を静奈に対して向けている。彼女にしてみれば、一難去ってまた一難というのが正しい認識だ。敵の敵が味方とは限らない。

「何が言いたい?」

口火を切ったのは静奈である。

マシューが去っても依然として彼女が危地にあるのは違いない。しかし、武人へ危害が及ぶ恐れを幾分か否定されて、今までの緊張も多少は和らいだのだろう。その面持ちは少なからず安堵しているように見受けられた。神野が彼にちょっかいを出して得られるものが無いとは言い切れない。しかし、それもマシューと比較すればマシだと言えた。

「色々と言いたい事はあるが、今は何よりも驚いておるわい」

「驚く? 何に驚くというのじゃ」

「敢えて一つ選ぶなら、こうしてお主と話をしていること、かのぉ」

「なんじゃそれは、主は我を口も利けぬ畜生と言うかぇ?」

「お主は過去の自分を全く理解しておらんようじゃのぅ?」

「過去だと?」

「こうして面と向かって話をする余裕など、少なくとも、あの頃のお主を相手にしては微塵も無かった。視線を合わせただけで、それこそ自分はいつに殺されるのかと、毎度のこと冷や汗を垂らしながら向き合っておったわい」

「なんじゃ、意気地の無い奴だのぉ」

「それが、今はこうして儂の意思一つで容易に縊り殺せる位置にある。これを驚きだと言わずして、何に驚けば良いだろうか。こうして実際に対面してみても、己の目を信じることが出来ぬ程じゃ」

「言ったであろう? 力は失っておると」

「あの言葉は、たしかに本当であったようじゃな」

「あそこで嘘をついたところで我には何の得も無い」

「何の意味も無く嘘をついては、面白半分に他者を欺いていたのがお主じゃろう?」

「………やかましい」

静奈は少し気分を害した様子でそっぽを向いた。

その姿を神野は興味深そうに眺める。

昼過ぎのファミリーレストランで出会った際に、彼女の古い名を耳にして垣間見せた憎悪や畏怖といった感情は、殆ど見止められなかった。今は純粋な好奇心が先行している様に感じられる。足元から爪先までを値踏みするように観察していた。

そんな彼の態度が気に障ったのだろうか。静奈は突き放すような物言いで言う。

「用が無いのなら我は帰るぞぇ? 一応、助けて貰ったことに関しては礼は言っておく。じゃが、それもこれ以上を突っかかって来るというのなら話は別じゃ。我の気が変わらぬうちに、お主も早々と失せるがいい」

「それで良いのか? ここですぐに儂の下を離れては、もしかすれば、主は再びあの者に襲われるかも知れんぞ? 存外あの不死者は抜け目のない化け物じゃからのぉ。頭も中々に切れよる」

「ぬぅ……」

だが、突き放したところで身を滅ぼすのは静奈自身である。今の彼女は非常に非力な化け物なのだ。西光坊のような強力な化け物の庇護が無ければ容易に他の化け物に殺されてしまう。仮に己の正体を周囲の化け物達に広く知られたのなら、その命は僅か一日として持たないだろうと彼女は考える。しかも、マシューや神野のように歳を経た強力な化け物ほど彼女を厭う傾向がある。どこまで西光坊に頼ることが出来るか、彼女にはあまり明るい推測が出来そうになかった。

「少し、儂の話に付き合うといい」

「この期に及んで、我に何の用があるというのじゃ」

仕方無く相手の言葉に乗って、背に返しかけた踵を元に戻す。その顔色は苦虫を噛みつぶしたが如く渋い。今は一人で居たい、そう思うからこそ芹沢宅を逃げ出すように後とした静奈である。それがマシューに襲われ、挙げ句の果てには、このような者に己を掠め取られる羽目となり、遺憾も遺憾、本末転倒も良いところだった。己の不運を呪わずには居られない。

「儂の見たところ、お主は西光坊に守られておるようじゃの。ああ、あの化け狐の姉妹もそうか? そして、そのお陰で今までを生き長らえてきた。違うかの? もっとも、あの西洋の化け物は、お主の正体を知らずに襲い来たようであったが」

「だとしたら、主はどうするというのだ」

「別に何もせん。ただ、勝手な推論を並べただけのことじゃ。儂はちとお主と話をしたいと思った。過去には遠く眺めているしかなかった大妖が目の前に居るのじゃ、これくらいの好奇心は沸くであろう?」

「我と話をして主に何の得がある」

「別に得を求めての話ではない、全ては純粋な好奇心の故じゃ」

「過ぎた好奇心は身を滅ぼすぞぇ?」

「それも、今のお主を前にしては過ぎた言葉じゃろうて」

静奈が繰り返し投げる拒絶に対して、神野は矢継ぎ早に搦め手を続けていく。

これも己に不相応な幸せを求める故が所為かと、静奈は諦めにも似た感覚を内に宿す。今は武人の事を考えるだけで精一杯だというのに、ここへ来て余分な荷が両肩にズッシリと乗せられた気分であった。それも何処まで運べばよいのか、現時点では想定することも叶わない積み荷である。

「お主は何故に人の世に紛れて生活する?」

「そんなこと、全ては我の勝手じゃ。主に知らせる謂われはない」

「では、問い方を変えよう。お主は何故に人間と共に生活している? それも、昼を共にしていた人間に随分と執着の様子だ。白面金毛が見せるにしては面妖にも程がある光景じゃった」

「神野よ、前にも言うたと思うが、あの者に手を出したらただでは済まさぬぞぇ?」

「それじゃよ、儂はお主がそこまで必死になる理由を知りたい」

凄む静奈を神野は真摯な眼差しを持って正面から受け止める。そこには本人が言うとおり興味、関心が強く見て取れた。予てより彼女という存在が持つ思考に対して、何某か思うところがあったのだろう。彼の瞳は揺れること無く、視線は一心に静奈へと向けられていた。

そんな相手の面持ちを前にして、静奈は返す言葉に躊躇する。

「白面金毛ともあろう者が、何故に一介の人間に気を掛ける?」

そこへ神野は畳み込みを掛ける様にして問いを続けた。

「お主の周りに居る者達は、お主の過去を知って尚も隣に居るのか?」

「………」

神野との問答に、静奈は段々と普段からの勢いを失っていく。

その様子は、つい先程までの一人夜道を歩いていた彼女に等しかった。マシューに襲われた事で、暫らくは形を顰めていたが、危地を過ぎれば自然と陰鬱とした思いが鎌首を擡げ始めた。夜の闇に塗れて彼女の顔色は尚のこと暗く感じる。普段の快活とした振る舞いは遠い。それまでの覇気は何時の間にか失われていた。

「お主には関係の無い話じゃ……」

「まさか、本気であの人間に好かれたいと、思っているのか?」

神野は驚いた様子を隠す事無く言葉を続ける。

静奈は彼の問いを受けて、酷く気落ちした様子で陰りを増させる。視線は俯きがちになり、語る口調は弱々しいものへと変化する。武人がその姿を目の当たりにしたのなら、一体どうしたのかと心配気に声を掛けているだろう。強がった発言の割には、軽く突けば倒れてしまいそうな脆さが感じられた。

「五月蝿い、黙れ」

答える言葉を他に持たないのか、口を突いて出たのは完全な拒絶の意思である。

その突き放した物言いには明らかに棘が感じられた。冷たい凛とした声が夜の街路に響く。これ以上を踏み込んでくるのならば、自分は争う事も厭わない。言外にそう語っているような、張り詰めた雰囲気が感じられた。

「白面金毛ともあろう者が、一介の人間に身を捧げると言うのか?」

「………黙れ」

だが、そんな彼女に対して神野は好奇心からか、己の疑問を更に続ける。

「数多の土地を荒らし、悪戯に人を喰い、同じ化け物の目から見ても、言葉に言い表す事さえ憚られる程に悪行の限りを尽してきたお主が、この期に及んで何の変哲も無い人間に惚れたと言うのか?」

「…………黙れ」

「恐怖の権化とも言われたお主に、一体何が起こった?」

「貴様は我が黙れと言うが聞こえないのか……」

応じて静奈の口調は徐々に怒気を湛え始める。

彼女が彼の問いに答えるかどうかと言えば、誰の目にも拒否されるのは明らかである。それにもかかわらず尋ねるということは、それだけ彼が静奈の言動に驚き興味を示しているからだろう。過去には足元にも及ばなかった静奈が、今は己に敵わぬと知って、神野は遠慮を忘れているのだろう。そんな容易な推測さえ間々ならぬ程に静奈は己の精神の変化に戸惑い、そして、狼狽えていた。

「お主は、本当に白面金毛か?」

「…………」

見れば彼女の拳は脇に握られ小さく震えている。

そこに籠められた感情は怒りに違わず後悔にも等しく、本人にさえ己が思うところを正しく整理出来ない複雑怪奇なものであった。それもまた武人を前にして感じたのと同様に、彼女にしてみれば過去に感じたことの無い新しい感覚だと言えた。

「お主は……」

「ええいっ、我は黙れと言ったっ! その下賎な口を閉じろっ!!」

やがて、繰り返される問い掛けを受けて、ついに塞き止められていた感情が溢れ出したのか、静奈の口調が急に激しいものへと変化を見せた。そうして吼える姿は、静奈自身も口にしてから驚きを感じた程に、今の状態に落ち着いてから久しく顕現することの無かった激しい負の感情の流動であった。牙を剥いて神野に向き合った自分を、静奈は抑える事が出来ない。今すぐにでも駆け出して、敵う敵わないを考える事無く、情動に身を任せて殴りかかりたくなる衝動に駆られた。

だが、己の力量を思い起こして、肉体は寸前のところで自制を掛ける。

「そうだ、それがお主の本来の姿じゃろう。今更になって何故に人に構う?」

「うっ、五月蝿いっ! 我は、我はっ!!」

大きく声を上げて叫ぶ静奈の姿は、まるで外観に違わず年頃の娘の癇癪を眺めているようであった。武人や花見月、夢見月がこの姿を目の当たりにしたのなら、今し方の神野と同じく彼女を疑うに違いない。彼女に化けた別の化け物に違いないだろうと。

「我は何もかもが分からんっ! 我だって今のままが良いとは思わぬ、思わぬのだっ! だけど、どうしてくれよう、この感覚は堪らん、何を持ってして沈めればいい? 主に何が分かる? 我はこのままは嫌なのじゃっ!」

それは背水まで追い詰められた末に見せる、一人内に貯めた感情の決壊だった。

彼女の振る舞いを目の当たりにして、流石の神野も続く言葉を失った。彼の知る白面金毛九尾の狐とは、今の彼女からすれば、あまりにも懸け離れた遠い存在であった。対極にあると言っても過言ではない。己の尊厳を何よりも重く見る筈の彼女が、恥も何も無く自らの前で嘆く様に、驚いているようであった。

一息に口をついて出た言葉を理解して、無様な己を知る静奈は一層のこと気を落とす。その視線はアスファルトに落とされたまま、頼りなく草鞋の鼻緒を見つめていた。瞳からは光が失って感じられる。一通りを吐き出して口はすぐにきつく閉ざされた。

そうして僅かな慨嘆の時は終わった。

同時に、喋る者が居なくなって、辺りからはそれまでの喧騒が失われる。時折、右から左から流れ行く自動車の排気音と、断続的に何処からとも無く届く螻蛄の鳴き声だけが、ジージジーと二人の耳へ厭に大きく届いていた。誰にとっても随分と居心地の悪く感じる沈黙であった。

神野は静奈を見つめたまま、何かを深く思考を巡らしている様に感じられる。

そんな彼に対して彼女は返す言葉を持たない。

誰の手にも時計は無く、正確な時間を計ることは出来ない。実際には数分に過ぎない僅かな間だろう。とはいえ、当事者には一分が一時間にも感じられる程の、酷く過ごし難い時がゆっくりと流れていた。

「しかし………」

やがて、居た堪れない空気に耐え兼ねたのか、神野がポツリと呟いた。

「あの者にお主の正体を晒してしまったのは失態であった」

嗄れた年寄りの声が寂しい夜の街路に響く。

「てっきり、奴等も全てを知った上での運びだと思ったのだが、要らぬ勘違いをしてしまったようじゃ。こればかりは儂としても困ったことになったものじゃわい。下手をすればお主の時の様な惨事が再び起こる」

「…………」

「今後、間違いなく相手側は金毛の天使に助力を願うだろう。それが叶うかどうかは定かでない。しかし、仮に協力を取り付けることが出来たのならば、あの者はまず何よりもお主やお主の従者を討ちに出るだろう」

「…………だから、どうした」

蚊の泣くような声で静奈が答える。

「今のお主では金毛の天使に立ち打つことは出来まい?」

「だからどうしたと、我は聞いているのだ」

スッと細められた瞳が神野を正面から射抜いた。外灯の弱々しい明かりを反射して、夜空の下に僅か色彩を見せる赤い色の瞳は、敵とも味方ともつかぬ相手を前にして、静かに怒りを湛えていた。

「もう一度、訪ねたい」

「この期に及んで何を訪ねる」

何かを決意した様子で、神野は静奈に向い一歩だけ前に出る。

「白面金毛よ、儂の側については貰えんか?」

「…………気でも狂ったか?」

そんな彼に向かって静奈は多少驚いた様子で言葉を返した。

話に前後の繋がりが、全くと見いだすことが出来なかった。数刻前にも尋ねられた事とはいえ、あまりにも突拍子の無い提案である。静奈にしてみれば、過去に己がしたことを思えば、神野からの提案は自分を討つ為の策略とも取れた。否、それ以外に考えられる理由は無かった。

「駄目か?」

「何故にそう言う、我には貴様が理解出来ん」

「それは、まあ、なんとなくじゃのぉ」

「………」

「やはり、嘗ての怨敵に頷くことは出来ぬか?」

「貴様のせいで我は奴らに更に狙われることとなる。金毛の天使が噂に違わぬ性格の持ち主であるのならば、間違いなく我や西光坊を狙い来るだろう。勿論、その為に西洋の化け物共と結託するかもしれぬ」

「それに関してはすまぬ、儂の落ち度じゃ」

「我を騙し討つつもりかぇ?」

「いや、勘違いしないで貰いたい。これは対等な契約じゃ。利害が一致した者同士、手を組まぬかという誘いに他ならぬ。その過程においては、儂としてもお主に対して助力は惜しまぬつもりじゃ」

「それをこの場で信じろというのかぇ? 冗談にも程がある。敵に正面から討って出て敗れるならまだしも、味方に寝首を掻かれるなぞ我は我慢がならぬ。それならば我は西光坊と共に武人を守る」

酷く憤慨した様子で、静奈は徐々に口調を荒くしていく。

誰よりも何よりも己に重きを置いた化け物が、自らを差し置いて他者を思いやるなど、彼女の過去を知る者ならば考えられないことだった。昼にも同じような意図の発言を耳にしたが、それが嘘偽りでないのだと改めて思い知ったのだろう。彼女の言葉を受けて、神野はなにやら暫し考える素振りを見せる。

絶えず冷たい視線を向けて来る静奈を前にして、人差し指と親指で顎髭を弄りまわす。彼女の肩を越えて視線は遠く暗がりの中へ馳せられていた。だが、それも大した間を置かずして終わる。その表情は何か、大きく意を決した様子であった。

やがて、彼は一言だけ短く呟く。

「お主は、殺生石を討ちたくは無いか?」

「…………貴様、正気かぇ?」

静奈の驚愕に満ちた声が辺りに響いた。

「殺生石?」

静奈の言葉を耳にして武人が鸚鵡返しに呟いた。

「うむ、殺生石じゃ」

芹沢宅には静奈に武人、西光坊、花見月、夢見月、山野、柳沢、そして、神野が揃っていた。十数畳から成るリビングは、本来ならば同家屋の住人全員が快適に過ごせるだけの余裕が確保されている。しかし、総勢八名が犇めいては随分と息苦しく感じる。床続きのダイニングからダイニングチェアをソファの脇に動員して、なんとか全員が座れるだけの場を確保していた。一同はそれぞれ思い思いの場所に座して、神妙な面持ちで向き合っている。唯一家に居てこの場に姿が無いのは家主たる義人だ。彼だけは自室で一人酒を飲んでいる。彼曰く、後は若い者に任せて年寄りは早々に退散するのだそうだ。

ちなみに片腕を失った花見月は、切断された腕を患部に合わせて、脇へ胴体と共に包帯で巻き込んで固定している。出血は既に止まっており、二人の話では早ければ明日にはくっ付くのだと言う。上からはシャツを着ているが、一方は芯無くダランと垂れている。それに対して山野と柳沢は妖狐の化かしが効いているのか疑問を持つことはない。説明に困る事態を前にして、姉妹によって行われた処置であった。西光坊と静奈に関しては、特に敵と遭遇した訳ではないと説明したところ、共にそれ以上を詮索してくることは無かった。

今の時刻は夜の一時を幾分か回ったところだ。屋外で静奈がマシューに襲われ、そして、神野に救われてから数刻が過ぎていた。本来ならばそろそろ消灯を考える時刻である。しかし、リビングに灯った明かりは当分のこと落ちそうになかった。全ては神野が齎した提案による。

「殺生石って、いわゆる九尾の狐伝説の? たしか栃木県あたりにあったよね?」

それほど馴染みが深い訳でもない。しかし、その名前を耳にしたことが無い訳でもない。武人は自分の中にある知識を掘り起こしながら問い返す。化け狐だの狼男だのと異なり、実際に人の世に認知されて存在する物ならば、彼としても多少の造詣はある。其の地が今は人にとっての観光名所となっている事は、彼のみならず山野や柳沢にしても周知の事実である。

「そうじゃ、その殺生石じゃ」

武人の言葉に静奈が満足気に頷く。

神野を連れて芹沢宅へ帰宅した静奈は、勝手にその下を離れたことに関して、武人に一頻りの謝罪を行った。それに彼が頷くと、然る後に彼女は皆をリビングへ集めるよう西光坊に命じた。そして、全員が集まった事を確認して第一声、こう尋ねたのである。「主等は殺生石を知っておるかぇ?」と。神野の予期せぬ唐突な来訪に驚く一同は、西光坊も含めて、説明を求めるよう静奈に疑問の視線を集めていた。

「それは、静奈さんを封じていたものですよね?」

花見月と隣り合ってソファーに腰掛ける夢見月が、小さく手を挙げて尋ねた。

西光坊と彼女が額に汗を流して必死に掃除をしたおかげで、花見月の血によって汚れた風呂場は、しかし、すぐに元の状態を取り戻した。それから数時間が過ぎた今は、静奈を除いて皆が入浴を終えた状態にある。最後に入浴を終えた花見月と夢見月は、話し合いが始まる直前まで浴室に居たので、現時点でも髪はシットリと湿り、肌もほんのりと蒸気していた。

「うむ、そうじゃ」

答える静奈の物言いは、平素からの淡々としたものである。

「それがどうかしたのか?」

夢見月に続いて花見月もまた疑問の声を上げた。今の語りかけと神野の存在とが、どのように関係しているのか想像がつかないのだろう。小さく首を傾げて尋ねる様は非常に分かり易い。自らも同じ理由に思考を巡らせる武人は、そのように推察した。

「静奈様、まさかその者に何か弱みを握られてしまったのですか?」

一方で、西光坊は出会い頭より厳しい視線を神野に向けている。

その剣幕を受けて向けられる側も思わず身を震わせた。力を失って脆弱な化け物となった静奈とは対照的に、西光坊は非常に強力な力を持っている。その圧倒的且つ剥き出しの敵意に当てられたのだろう。若しくは、過去の静奈を思い起こしての事かも知れない。

神野は西光坊のすぐ隣に座っている。二人は共にダイニングより持ち出した足長のダイニングチェアに腰掛けて、他の者達より多少離れた位置に座している。床伝いに繋がるリビングとダイニングの中間地点辺りだろうか。それは万が一を危惧した静奈の指示に寄るものだった。武人の座るソファー周りには、彼を守るように花見月に夢見月、そして静奈が座している。

「いや、そういう訳ではない」

「では何故にこのような場を?」

「まあ、まずは落ち着いて話を聞いてくれぬかぇ? 我は今ここで一つ武人に許しを請いたい事柄があるのじゃ。そして、それは他の者にも多少の関係がある故に、一応のこと集まって貰った。すまぬが暫し我の話に付き合って欲しい」

「僕に許しを請うって、何が?」

突然に家から出て行ったと思えば、何の脈略も無く昼に出会った天狗の化け物を連れてきた静奈に対して、武人は少なからず戸惑いを覚えていた。また以前のように、何か自分の知らないところで大きな流れが動いているのか? 疑問は自然と脳裏に生える。そこには面倒事が起こらない筈がないという確信めいたものがあった。

「ここで昼の話の続きをしたいと思う」

「それって、そこのお爺さんと手を組むとか組まないとか?」

「うむ、そうじゃ」

「別に、それだったら僕は構わないけど……」

「ありがとう、武人」

今更に断る理由もないので武人は二つ返事で頷いた。

寧ろ彼としては、つい数刻前の夢見月とのやり取りが気になって仕方無い時分である。今でこそ彼女も周囲に気を遣ってか、平然とした顔をしている。しかし、その内では複雑な感情の鬩ぎ合いに頭を悩ませていることだろう、そして、そんな妹の心情に姉もまた穏やかではあるまい、と彼は端的に理解する。

そして、そんな武人の面倒な心内を知る余地も無く、彼の許しを得て静奈は言葉を続けていく。語る姿は平素からの快活としたもので、つい数刻前の陰鬱とした様子は微塵として感じられない。その姿を神野は興味深げに眺めていた。

「我はこの者と手を組んで、殺生石を壊しに行こうと思う」

静奈は何気無い口調で宣言する。

「それは静奈様の封を解くという事ですか?」

「うむ、率直に言えばそういうことじゃ」

「ん、静奈の封印って何?」

「今の静奈様は本来の力の大半を、ほぼ全てを封ぜられた状態にあります。そして、今に名の上がった殺生石という石こそが、静奈様の力を封じ込めてある媒体なのです。ですから、それを破壊すると言うことは、静奈様の封ぜられた力を取り戻すことに等しいのです」

「へぇ……」

自分が知る知識とは僅か毛色の異なる事実に武人は関心した様子で声を漏らす。本来の伝承によれば、殺生石は白面金毛九尾の狐自身が変化したものだと伝えられている。これも時代の変遷による情報の欠如かと彼は一人納得した。史実を知って少しだけ得した気分になれるのは、元来の知識欲故だろう。

「ですが、それは難しいのではないでしょうか」

花見月と柳沢に隣り合い腰掛けた夢見月が控えめに進言する。正面には武人と静奈、それに山野が座る同型のソファーが足の短いテーブルを挟んで配置されており、静奈とは丁度正面から向き合う形となる。

そうして語る姿には、浴室で武人を前に垣間見せた感情の高ぶりは押さえられて、普段からの穏やかな表情を湛える夢見月が居た。声の調子も以前より変化は見られない。彼女の姿を眺めて武人は、花見月もそうであったけれど、化け物というのは己の感情を律する術に長けているな、と強く関心してた。普段は幼い外見に騙されがちだが、そういった達観した振る舞いを思うと、彼女達が自分より圧倒的な加齢の末に居るのだと実感出来る。

「静奈さん、殺生石の封印は今を持って尚も強力な化け物によって守られていると聞きます。それを打倒することは、武人さんを共に向かうには余りにも危険が過ぎるのではないでしょうか?」

武人、危険、その二言が口頭に上がり皆の視線が一層のこと強く静奈へ集まる。誰よりも何よりも武人を大切にするであろう彼女だからこそ、今の発言には多く疑問が含まれた。対して本人は慌てることなく粛々と言葉を続ける。

「それに関しては我も考えるべき事が多分にある。しかし、これを持って成さねば、更なる危地に武人を晒すことになると思う。だからこそ、武人にこれを認めて貰いたい。我が武人の身を案ずるは決して嘘でない、信じて貰いたい」

「それって、どういうこと?」

「我の古い名を敵に知られてしまったのじゃ」

「静奈の名前?」

「うむ。加えて敵の目前にありながら、この者が我に味方してしまったのじゃ」

そう言って静奈はチラリと神野に視線を流す。

「実際のところはどうあれ、敵は我と日本の化け物勢とが手を組んだと考えるじゃろう。ともすれば、金毛の天使が敵の口車に乗って我や西光坊に向かい来る可能性が高い。今の我や西光坊には彼の者を迎え撃つだけの力が無い故に敗退は必死じゃ」

「なぁ静奈、その金毛の天使とか言う化け物は敵の仲間なのか?」

「いや、仲間という訳ではないじゃろう。化け物としての格が違いすぎる。しかし、彼の者は非常に好戦的な性格をしていると聞く。そして、その被害にあった者の多くが彼の者の気まぐれに散ったという話じゃ」

「そりゃまた、可愛らしい名前の割に随分な暴君だね……」

語る静奈に事情を知らぬ皆が不安気な顔を向ける。反射的に突っ込みを入れていた武人の頬も、自然と歪に引きつっていた。人の世にあっては、そう言ったはぐれ者は大抵の場合で周囲より社会から追放されるものだ。しかし、個体差の大きな化け物の世では、そう簡単な話でも無いらしい。

「しかし、夢見月が言うとおり、殺生石が置かれる那須岳には嘗て静奈様を封じるに手を貸した化け物が、今も石を守り住まうと聞きます。近くには遠野の地もありますから一筋縄では行かないでしょう。武人様を守りながらでは難しく思います」

「アタシもそれって聞いたことあるぞ。アタシや夢見月じゃ絶対に太刀打ち出来ないような、凄く強い化け物が居るって。アタシ達の母さんよりもずっと長生きしてきた古い世代の化け物だって聞いた」

誰も彼もが静奈の話に否定的な言葉を続ける。

こうして皆の話を耳にしていると、一度は頷いた武人も段々と怖いものが溢れてくるのを押さえられない。静奈が信じられない訳ではないが、それはそれ、これはこれ、人間として仕方の無い反応である。

一方で、化け物の知識を前提にして交わされる会話に、山野と柳沢は口を挟むことが出来ずに黙って事の成り行きを眺めていた。山野は各々の言葉を必死に理解しようと努めている様に感じられる。その表情は真剣そのものだ。学校で授業を受けている時よりも真面目に思える。対して柳沢は完全な他人事だとばかりに、話半分にも聞き流していた。無理に理解する必要はないと考えているのだろう。ソファーテーブルの上に並べられた麦茶を手に取り、その内容物をチビチビと口にしながら無表情にも場を眺めていた。

「いや、それに関しては策がある故に多く気を払う必要は無いのじゃ」

一同を相手に答える静奈は、微塵として気圧された様子を見せない。

「どういうことですか?」

「ならば、ここからは儂が説明しよう」

芹沢宅を訪れてより黙って様子を伺っていた神野が、此処へ来て口を開いた。皆の注目が自分に向けられたことを確認して彼は説明を始める。そこには決して少なくない疑念が含まれていた。しかし、彼を連れてきた静奈の手前もあって、誰も即座に非難を口とすることは無い。

「ちなみに、お主等の言葉で言うなれば、嘗て静奈を封じるに手を貸した化け物の一人が儂じゃ。それを知った上で、これから語る話を聞いて貰いたいと思う。どうじゃろう、少しだけ耳を貸して貰えないかのぉ?」

「それは……、どういうことですか?」

神野の言葉を受けて西光坊の表情が一際険しくなる。

「どういうこともこういうことも無い。とても簡単な相談だと言っておきたい。儂はお主等と同盟を組に来たのじゃ。下手に隠し事をしてお主等に嫌われるのも困るからの、不都合な事実は今の内から口にしておくことにしたのじゃよ」

「静奈の敵なら、アタシ達にとっても敵じゃないのかっ!?」

「いいや、昼にも言ったとおり今はお主等と目的を共にする同士だと思って欲しい。お主等と同じく儂等もまた危地に立たされておる。共に手を取り合って戦おうという、そういう話をしたいのじゃよ」

自らを睨むように見つめてくる化け狐達を前に神野は落ち着いた様子で言葉を続ける。

「それに、説明すると言っても簡単な話じゃ。殺生石を守る者達は儂が説得する。じゃから、お主等は大手を振って石の元まで向かってくれれば良い。予め話を通しておけば、どれだけ強力な化け物も恐るるに足らぬじゃろう?」

「説得……、ですか?」

「信じられぬか?」

「貴方にそれだけの権力があるのですか?」

問いに答えて語ってみせる神野に夢見月が食って掛かる。知らずソファーから腰を浮き上がらせていた。五本の指は小さく折り曲げられて拳を形作っている。

過去に幾度となく花見月を危機に晒してしまった事が教訓となっているのだろう。疑心暗鬼に磨きが掛かっているのは確かだった。何よりも彼女は静奈と異なり、神野という化け物を知らない。また、西光坊のように静奈の従者という訳でもない。

「これでも日本の化け物の幾割かを束ねる立場に居る者じゃ。結束の薄い国柄であっても、多少の発言力はあろう。それに、今は事態が事態じゃ。ある程度の妥協は必要だと丹精込めて説得すれば、他の者も分かってくれよう」

「それを無条件に信じろというのですか?」

「それはまあ、今此処で証拠を見せろと言われても難しい。じゃが、どうか信じて欲しい。決して儂はお主等に害するような事は考えておらん。だからこそ、殺生石の破壊にも手を貸すのじゃ」

背筋を真っ直ぐに伸ばしてダイニングチェアに座った彼の装いは、誠実な老紳士そのものである。それがまた何か良くないものを思い起こさせるのか、夢見月は歯に衣着せぬ物言いで問いかける。

そのあまりにも辛辣な対応に、仕方無く静奈が横から助け船を出す。

「一応だが、我の知る限りこの者の物言いに嘘は無い。実際に説得が行えるかどうかは別だが、何もせずに金毛の天使を待つよりは幾分は実のある案だと思う。最悪の結末だけは回避したいのじゃ」

彼を恨むとしたら、その最たるは静奈であろう。それが自ら神野を庇ってみせるのは、一体どういった背景があるのか。ふと浮かんだ己の自惚れに、武人は頭を小さく左右に振って思考を巡らせる。

「静奈様がそう仰るのであれば、私は従います」

神野を庇うように語る主人を前にして西光坊が従じた。

「どうだろうか、昼にした話の続きじゃが、儂の案を受けては貰えないだろうか?」

今一度周囲の者を見渡して、繰り返し尋ねる神野に武人は返す言葉が無い。

化け物の常識を持たない彼には、金毛の天使という強力な化け物が自らの下へ訪れようとしている、という事実しか分からない。そこに至る過程と根拠はサッパリだった。だから判断の下しようが無い。加えて、今は花見月と夢見月との事もあって頭はパンク寸前である。仕方無く西光坊や夢見月、花見月に目を向けて意見を伺う。

「勿論、これは我の独断によるものじゃ、お主等二人に強制するつもりはない。じゃが、今回は西光坊も駆り出さねばならぬ。もしもこやつと共にある事を望むならば賛同して欲しいのじゃ」

静奈が姉妹に向き直った。

西光坊の庇護が無ければ姉妹はマシューと狼男の二人に対抗することが出来ない。それを思う静奈の気遣いだろう。普段は素っ気ない態度を取ることが多い彼女だが、なんだかんだで二人に対してはある程度だけ目を向けている様子だ。

「その、金毛の天使という化け物は、それほど強力な化け物なのですか?」

「うむ、我は実際に目の当たりとした事がないが、非常に強力な化け物であるのは違いない。元は西洋の化け物らしいが、その生まれに限らず、このような極東の島国にまで名を届かせる大妖じゃ。まあ、実際には西洋東洋に限らず彼方此方に顔を見せているらしいがのぉ」

「その点に関しては問答無用だと言って良い。儂は数度だけ相まみえた経験があるが、あれは思い出すだけでも震えが止まらん。出来ることなら二度と関わり合いに成りたくない性質の化け物じゃ」

「ここ数百年の間は、何者かによって我と同じく何処かに封ぜられていたらしいからのぉ。主等のような年の若い化け物には耳に新しい名前じゃろう。じゃが、一昔前ならば世の化け物が持つ共通の知識でもあったぞぇ」

「そうなのですか……」

己の無知に悔やむところがあってだろう。多少だけ意気を落として夢見月が答える。

花見月や夢見月にしても齢数百歳を重ねる歴とした妖狐だ。それが躊躇無く若年者扱いされるとは、化け物の世界とはどれだけ一世の長い話なのかと、武人は驚きを通り越して呆れる他に無かった。

「わかりました。もし許可を頂けるのなら、私達も共に行きたいと思います」

意を決した様子で夢見月が静奈に言う。

「でも、アタシ達が居て二人の邪魔にならないか?」

「別に問題など無かろう。それを言うのなら我こそ邪魔の極みじゃろうて」

花見月の問いに静奈は小さく笑みを浮かべて答えた。

そんな彼女の姿を前にして、姉妹は互いに顔を合わせて小さく頷き合う。どうやら結論はすぐに得られたようだった。今までの付き合いからして、二人が静奈に連なるのは武人としても想定の範囲内である。

「では、儂の提案は受け入れて貰えるということで、良いのかのぉ?」

「武人、今一度確認したいのじゃが、それで良いかぇ?」

「うん、僕は構わないよ」

話の見えてこない部分も多々あるが、己が身の振り方は理解出来た。要は静奈と西光坊の後に付いて回れば良いということだろう。何処までも普段通りだ。そこに危険が無いというのなら、一夏の旅行として割り切れば良い話だろう。

「今は上手いこと学校も夏休みだから、多少遠出したところで何の問題も無いしね。一週間や二週間くらいなら付き合えるよ。ただ、それ以上となると色々と不都合が出てきちゃうけど」

「その辺りは心配しなくても大丈夫だじゃろう。殺生石の封を解くには岩を砕くだけで良い。仕事としては一晩と掛からんのでな。観光がてらに一泊、二泊程度の小旅行だと思って貰えば良い。化け物を封じた石の所在とはいえ、所在は人里じゃ」

武人の言葉に神野が即座応じる。

「では、発つ日はどうするかぇ? 我は出るなら早い方が良と思う。あの者はすぐにでも金毛の天使と接触を図るじゃろう。こちらも出来うる限り速急に事を進めておくべきじゃ。後手に回っては一巻の終わりだぞぇ」

「ならば、明日にでも出られるよう速急に手を打つとしよう」

静奈と神野は皆を前にして手早く話を纏めていく。他の者はその様子を黙って見つめていた。昼前には一触即発まで進んだ間柄にありながら、たった数刻をおいて手を結んだ二人を前にすれば、それを眺める者には色々と疑念の尽きぬ話に違いない。しかし、誰もが静奈を信じて口を挟むことは無かった。また、静奈に付き従った西光坊の存在に因るところも大きい。彼女がいなければ誰にしても孰れは敵に討たれるのがオチだと理解していた。

「じゃあ、明日に出発する?」

何気無い口調で武人が呟く。

「武人はそれで構わぬのかぇ?」

「僕は明日も明後日も、九月までずっと休みだから構わないよ」

両腕が不自由な為に、コンピュータという趣味も失われて数週間が経過した昨今である。娯楽は静奈達との会話や映画鑑賞、あとは口頭での操作が可能なチェスや将棋等、ボードゲームが関の山である。加えて、いつ訪れるとも分からない敵の存在もあり、家を出る事さえままならない環境も手伝えば、外へ旅行に行くという選択肢は、日頃から引きこもりがちであった彼にとっても、今や非常に魅力的なものとなっていた。

「花見月と夢見月は大丈夫?」

「おう、アタシと夢見月はいつでも大丈夫だぞ。な、夢見月?」

「はい、どのように都合して頂いても結構です」

「ならば、明日に発つかぇ?」

「早い方がいいんだよね?」

「うむ、出来るだけ早い方が良かろう。ただ、武人に無理強いはしとう無い」

「だったら僕はそれで良いと思うよ。一泊二泊で済むなら支度するにも大して手間が掛かる訳でもないし、多少は遠出になるけど、電車にさえ乗っちゃえば、あとは座ってるだけで勝手に着くからね」

語る彼の脳内では、即座に明日の昼過ぎを出発とした旅行の予定が組まれ始める。本来ならば最も問題となるであろう旅費の財源だが、それも敵より律儀にも振り込まれた金を利用すれば問題は無い。それこそタクシーで現地まで移動しても良いくらいだ。

「それって、私や柳沢も行っていいの?」

そんなとき、不意に横から山野の声が届いた。

今までずっと蚊帳の外に居た人間の言葉を受けて、皆の視線が一斉に彼女の下へ集まった。総勢五名から成る化け物の群れから受ける注目は結構なプレッシャーを伴うだろう。しかし、それに屈することなく山野は言葉を続ける。

「それとも、今回も留守番?」

「山野、貴方はいい加減に懲りた方が良いわよ?」

「でも、私は一緒に行きたい。それに、今こうして芹沢君の家に泊まっているのだって、静奈ちゃん達の言葉に従ってのこと。一緒に行った方が私達にしても静奈ちゃん達にしても都合が良いはず」

「わ、私は全然都合良くないわよ。一緒にしないで欲しいわ」

熟々と語る山野に柳沢が慌てた様子で反論する。

彼女は芹沢宅へ泊まる事にも難色を示していた。これを機に自宅へ帰れるのではないかと考えたのなら、山野の主張に反対するのは当然だろう。すぐにでも荷を纏めて出て行かんとする勢いがある。

「まあ、確かにそうかもしれぬのぉ……」

「いいの?」

しかし、彼女の願いとは裏腹に静奈は首を縦に振る。

「お主が我等の下を離れて何かあれば、最終的に我等も首を絞められる事となる。ならばいっそのこと初めから手元に置いておく方が良かろう。勿論、武人が良しとすればの話じゃが」

そう言って己が主人を見つめる。

ともすれば、武人は頷く他にないだろう。こうして彼女達を自宅に迎え入れているのは、山野が語って見せた通りの理由に寄るのだから、否定など出来る筈がない。自分や静奈達の安全を思えば選択の余地は無かった。

「そうだね……、今回は静奈の言うとおりにするよ」

「ありがとう、芹沢君」

「なんていうか、これほど嬉しくない感謝の言葉は久しぶりだね」

「それって、私も一緒に行かなきゃいけないの?」

「何か他に予定があるのですか?」

「別に、予定という予定は無いけど……」

「じゃあ柳沢も一緒だな!」

「…………」

嬉しそうに笑みを浮かべる花見月を前にして、柳沢も山野に続かざるを得ない状況へと追い込まれていた。山野の存在を気掛かりに思うに加えて、花見月の純粋な好意に当てられては、全てを無碍とするのは難しい。そんな二人の遣り取りを眺める武人は、己が経験を思い起こして、人知れず柳沢に同情の念を送っていた。

「ということは、皆が賛同したと言うことで良いかぇ?」

尋ねる静奈に一同は頷いて応じる。

それぞれ思うところはあるのだろうが、目的が一致している分だけ結束は堅いだろう。話が揉めずに済んで良かったと、武人は人知れず胸を撫で下ろしては一つ小さな溜息をついた。小心者であるが故の肝の小ささは、意識してもなかなか克服出来ないものである。

「神野よ、交渉は間違いなく頼んだぞぇ?」

一先ず話が纏まったところで静奈は神野に向き直った。

「うむ、任されよ。これよりすぐに発てば、日が明ける前には那須へ着くじゃろう。話が上手く纏まったのならば、すぐに連絡を入れる。その間に、お主等は荷の支度でもしていてくれ。必ずや吉報を持って帰ろう」

「うむ、分かった」

神野の言葉に静奈が確りと頷いて応じる。

それから一頻り二人が言葉を交わして、明日以降の具体的な予定が立った。

あまりにも唐突と言えば唐突であったが、過去の出来事と比較すれば一晩の猶予が与えられただけマシだろう。言伝が夕頃に返って来ると言うのなら、旅の支度をするにも十分な時間がある。起床時間から始まって、外へ買いに出掛ける物品の項目に至るまで、武人は明日の予定を頭の中に組み立て始めていた。