金髪ロリ達観クールラノベ 第三巻

第三話

武人達が目的地に辿り着いたのは日没から数刻が経過して、そろそろ日付も変わろうかという頃合いであった。神野から電話連絡を受けて信濃大町を発った後に、四回の乗り換えを含む、総計七時間に及ぶ長旅である。これで新幹線を可能な限り利用しての移動だというのだから、国内旅行とは言え大したものだろう。

大町から那須塩原へ向かう直線上での距離は、同じく大町から東京へ向かうそれと大差ない。しかし、移動には二倍近い時間を必要とする。全ては偏に交通の便の差から来るものだった。山岳部を突っ切って数時間を高速に走る事が出来る西光坊を筆頭とした化け物勢にとっては、電車を利用した移動はかえってもどかしく感じられたかもしれない。

幸いであったのは移動に利用した各車両において、指定席を除いても常に人数分の席を確保出来た事だろうか。これが数日遅れて盆に重なっていたのなら、と思うと武人を筆頭とする人間勢は背筋の寒くなる思いだった。日本の特定時期における電車の乗車率は人を殺せる勢いがある。

外見に稀なる一団は、道中においては相変わらず多く好奇の視線に晒された。しかし、それも乗り換えを一度挟んだ頃には随分と慣れたものだった。体力に勝る化け物勢は外からの意識など微塵と気にした風も無く、華やかな人の世に目を向けては疲れ知らずに終始を観光気分に浸っていた。特に花見月に関しては、山暮らしも長く見る物全てが新鮮に映ったのだろう。ひっきりなしに武人や山野、柳沢を質問攻めとした。その様子は年頃の少女が如くあり、至って普通な旅行の態を醸していた。

そして、今、歩みを止めた皆の前に一軒のこぢんまりとした宿がある。

「やっと、着いたよ……」

武人はやっとの事で辿り着いた目的地を前に大きな溜息をついた。

窓ガラスから漏れる淡い明かりの奥に待つ安息を思えば、自然と弱音も出ようというものだ。それほど規模の大きな旅館ではない。部屋数も事前に確認した限りでは二十かそこらであるという。外観も過去に宿泊した有名温泉街のそれと比較すれば明らかに劣って感じられる。しかし、今の彼にしてみれば砂漠に見つけたオアシスの如く思えた。

「けど、こんな時間でも入れてくれるのかしら?」

肩に小さめの旅行鞄を提げた柳沢が不安そうに言う。

「確かに、難しいかもしれない」

同じく肩に、けれど妙に大きな旅行鞄を提げた山野が同意する。

時刻はあと数分で午前零時を回ろうとしている。都内のホテルならばまだしも、田舎の観光旅館に求めるには、些か難しいチェックインの時間帯である。下手をすれば迎え入れに必要な従業員が既に寝入ってしまっているかもしれない。電話で予約した際には午後の十時を到着時刻としていた。しかし、実際に着てみれば、それから二時間を越える随分な遅刻だった。

「え? なんで?」

「何故って……、こんな夜遅くに大人数でやって来た客を迎える側の気にもなってみなさいよ。ここは二十四時間営業のコンビニエンスストアじゃないのよ? 旅館の従業員だって夜は眠るんだから」

「あ……」

思いがけぬ突っ込みを受けて、武人は返す言葉を失う。

「これだから都会育ちは困るわね」

「で、でも、ここで放り出されたら僕達には行き場がないよ……」

眠りを知らぬ都市の営みに慣れた彼には完全に想定外の話であった。

「だったら、それくらい事前に調べておきなさいよ」

はぁ、と大きな溜息と共に言う。

「ぅ………」

極めて正しい柳沢の言葉に武人は喉元まで出掛かった反論を飲み込んだ。

周囲にはバスを降りた瞬間から、絶え間なく濃い硫黄の香りが漂っている。もし都市部にあったのなら、何処からかガスが漏れているのか、それとも下水管の蓋が開いているのかと疑いたくなるだろう。しかし、この温泉旅館が一角を勤める温泉街道と呼称される同地区においては、これが四季を選ばずして常であった。当初は鼻を覆って顔を顰めた一同も、その源を理解して今は多少だけ慣れた風に振舞っている。

「まぁ、なんにせよ敷居を跨いでみてはどうかぇ?」

「そ、そうだね」

静奈に言われて武人が歩き出す。

その背に続いて皆もまた旅館の玄関へと向かった。

静奈と共に彼がインターネットを利用して事前に予約したのは、この地区でも老舗の一軒である。貧乏な学生旅行と言うことで、同温泉街道の中でも最も安価な素泊まりのみを扱う、それでいて長い歴史のある宿であった。地元でも隠れた名宿と歌われ、那須温泉が鹿の湯を源泉とする掛け流しに入ることが出来る同宿は、古めしい木造作り外観こそ今にも潰れそうな雰囲気を醸している。しかし、土日には全ての部屋が予約に埋まると言う、その手の人間の間では有名な温泉旅館であった。

「すみませーん」

ガラガラと音を立ててガラス張りの引き戸を横に開けると、三畳程から成る全面が木張りの玄関ホールが一同を出迎えた。入ってすぐ左側には同じく木で出来た古めかしい作りの下駄箱がある。そこには幾らかの靴が既に仕舞われていた。

「今日、明日と予約していた芹沢と申しますがー」

突き当りには小さな明かりの点る同じく木製のカウンターが確認出来る。

しかし、そこに従業員の姿は見当たらなかった。

玄関から眺めた限りでは、その半分が壁に隠れてしまっている。けれど、見える限りのみならず視野外にも人の居る気配は感じられない。玄関が開いているにも関わらず人が居ないことに武人は疑問を感じた。

「すみませーん」

もう一度だけ声を上げる。

柳沢の言葉ではないが、ここで放り出されてしまうと武人達は今晩を路頭に迷うこととなる。夏も真っ只中にあるので、野宿も行おうと思えば出来ないことは無いだろう。しかし、野生に片足を突っ込んだ化け物勢に対して、文明の利器に慣れ親しんだ人間勢には難しい話だ。

「やはり、既に眠ってしまっているのでしょうか?」

夢見月が難しそうな顔で疑問を口にする。

「じゃあ、今日は野宿か?」

「いや、流石にそれは困るよ」

花見月の何気無い呟きを武人は全力で否定する。

折角の温泉旅館を目の前にして、汗だくのまま土埃に塗れて寝ろとは拷問にも等しい。加えて、長時間の移動に伴い精神的にも肉体的にも限界であった。目の前まで迫った白いシーツの遠退く足音は用意に武人の心を挫いた。

「すみませぇーーーん」

願うように一際大きく声を上げる。

「嫌な客ね……」

「し、仕方ないだろっ!?」

すると、彼の願いが叶ったのだろう。カウンターの窓口部分に設置された薄いガラス窓が開いて奥から従業員が顔を出した。ガッシリとした体躯を持った、四十過ぎ程度だと思われる男性である。

「はーい……、どちらさんで?」

その顔は酷く眠そうだ。

「夜分遅くにすみません、今日と明日で予約を入れていた芹沢と申しますが……」

「あぁ、貴方が芹沢さんですか……」

「遅れてしまい申し訳ありません」

両腕の無い武人の外観に幾らか驚いた様子を示すが、それも決して口に出すことは無い。多少の不機嫌を驚愕で殺して、彼はカウンターを迂回すると手前の廊下を玄関ホールに向かいやって来た。

「電話も通じないし、てっきりキャンセルかと思いましたよ」

そう言って従業員は今一度を武人達に目を向ける。

すると、今度は彼の周囲を囲った異国情緒溢れる外観の女性達に目を奪われたようであった。誰の目にも愛らしく写る幼い外観の静奈に花見月、夢見月、出るところは出て締まるところは締り、女としての魅力に溢れた西光坊、そして、彼女達と並べば数歩劣る感は否めないものの、それでも可愛いと称して差し支えない程度の容姿を持つ現役女子高生の山野に柳沢、まさに完璧な布陣であった。

「えぇと……、ご予約は七名様、二部屋のご用意でよろしかったですかね?」

門限を大幅に破った横暴な客を前にしても関わらず、従業員の顔には自然と笑みが浮かんでいた。カウンター越しに見えた眠そうな顔もしゃんとして、確りと覚醒して感じられる。武人は自分を除く女性陣の存在に、一人心の中で感謝した。

「はい、それであってます」

「こちらのご利用は初めてですか?」

「はい、初めてです」

「では宿を案内するので着いて来て下さい」

ちらりちらりと静奈達に視線を向けながら、主に西光坊を見つめているように思えるが、従業員は宿内の廊下を巡りつつ簡単な施設の説明を始めた。ゆっくりと歩き出した彼の後に、武人達は荷物を手にしたまま、ぞろぞろと続いた。時間的な問題か、それとも単純に客が少ないのか、宿には彼等の他に殆ど人の気配が感じられなかった。

従業員の説明によれば同宿の規律は随分と甘いものだ。

玄関は二十四時間ずっと開放しており、出入りは自由に行って構わない。宿の温泉は二つあって、共に掛け流しになっており、玄関と同様で二十四時間いつでも入浴することが出来る。事前に電話で説明されていた通りバスタオルは貸し出されないが、それ以外のものは一通り部屋に置いてあるので好きに使ってよい。それでも足りなくなったのならフロントで別途料金を支払い購入できる。布団は部屋の襖に入っているので、眠くなったら必要なだけ自分達で引いて欲しい。インターネットは電波が飛んでいるので勝手に繋いでくれ。等々である。

「それでは、何かありましたらフロントまでどうぞ」

そして、最後にそう短く言い残しすと、従業員はフロントへと戻っていった。

パタンと部屋の出入り口に設置された内扉である襖が閉められる。

部屋の扉は二重になっており、内側に鍵の無い襖が置かれ、その外に鍵のある扉が取り付けられている。鍵は室内側に取り付けられたドアノブの中心にある凸状の金具を押して、そのまま扉を閉じるという、今は珍しい古風な仕様だ。渡された鍵は外から開ける時のみ利用するのだと言う。中扉と外扉の間には半畳程の板間による空間があり、そこでスリッパを脱いで畳みに上がる、といった風だ。

「はぁー……」

従業員の足音が遠く消えたことを確認して武人は大きく溜息をついた。

目前の畳を目の当たりとして、どっと疲れが沸いて出たのだろう。熱を持った足の悲鳴に負けて、へなへなとその場に座り込んだ。一方で静奈と西光坊は、すぐさま通された部屋の間取りを確認し始める。

「なかなか、趣のある宿じゃのぉ」

「確かに、随分と歴史を感じる建物ですね」

「これくらい古めかしい方がかえって落ち着けるというものじゃ」

「はい、そうですね」

部屋割りは武人、静奈、西光坊で一室、花見月、夢見月、山野、柳沢でもう一室、といった具合である。それぞれ宿の一階に隣り合う部屋を都合して貰った。花見月達も時を同じく、隣の部屋で間取りに各々感想を漏らしていることだろう。

ちなみに一階とは言っても、宿自体が表街道より高い場所に立っているので、窓から眺める景色は都合、それを上から眺める形となる。温泉街道は山岳部にあり、建物は多くが急な斜面に建造されているのだ。今は夜なので生憎と外の様子は真っ暗で何も見えないが、昼になれば色々と目を楽しませてくれるかもしれない。

三人が通された部屋の間取りは一室辺り八畳及び六畳の和室、それに一、二畳程度の縁側がある。六畳の和室は女性が化粧や着替えに利用する為の部屋だろう。多少小さな畳の数えで六畳間あり、実質的には四畳半程度の小狭い空間に、化粧台だけがポツンと置いてある。その程良い広さは、極短い期間を親しい仲間内で過ごすには丁度良い空間だと言えた。これで素泊まりが入湯税を含めて一人五千円掛掛からないというのだから、なかなかにお値打ちな宿である。なりふりを構わない貧乏学生の旅行には最適であろう。

「こちらは着替え部屋でしょうか?」

「うむ、化粧台があるのぉ」

一面だけをガラス窓、後の三面を壁に囲まれた四畳半の小部屋は、夜ということもあって薄暗く嫌に圧迫感を感じる。化粧台の鏡に映った己の背後に、幽霊の一匹や二匹でも沸いて出そうな雰囲気があった。

「まあ、何はともあれ風呂に入るかぇ? 折角の温泉宿じゃ」

「そうだね」

「それでは支度を致しましょう」

西光坊が肩に下げていた荷物を八畳間の脇に下ろして、その内をごそごそと漁り始める。大人が一抱え程度の大きなボストンバックには、三人分の荷物の全てが纏めて入っているのだ。

すると、そんな彼女達の元へドタドタと廊下側より賑やかな足音が近づいてきた。

まさか従業員ではあるまい。容易に想像のつく足音の主を感じて三人が部屋の入り口に顔を向ける。すると、時機を見計らったが如くして花見月が襖から顔を出した。その手には風呂桶に入った入浴具とバスタオルが抱かれている。彼女の後ろには夢見月、山野、柳沢の姿もあった。どうやら一足先に入浴の支度を済ませて来たらしい。

「武人っ! お風呂行こう!」

既に我慢も利かぬといった様子で興奮気味に吼える。

出発前に聞いた話では、つい昨日に負傷した腕も、丸一日を過ごして既に日常生活に耐えうる程度までは治癒が進んでいるのだと言う。何も知らぬ武人からすれば、人外の自然治癒能力には目を見張るものがあった。

「ああ、そうだね。宿はボロいですが温泉は自慢ですよ、なんて従業員が自ら言うくらいだし、寝る前に入っておこうか。汗も沢山かいたから、布団に入るにしても身体を流さないと気持ち悪いし」

今し方に従業員が語った言葉を思い起こして、武人は重い腰を上げた。ジンジンと熱を持って痛む足の裏に鞭を打って歩き出す。そこまで温泉好きという訳でもないが、疲弊した今ならば、さぞ気持ち良く浸かることが出来るだろうと、ほのかな期待があるのも事実であった。

「準備が出来ました」

「それでは行くかぇ?」

「うん」

静奈の言葉に頷いて一同は部屋を後とした。

武人達が泊まるは桂の間、その隣の竹の間が花見月達の部屋だ。ここで桂の間は角部屋に当たり、部屋にはより多く明かりを取るべく、他の部屋より増して窓が付けられている。そういった細かなところを気にする武人としては、少しだけ得をした気分になれた。

カチャンと錠の閉まった音を確認して、一同は連れ立ち歩き出す。

比較的小柄な小柄な静奈が一歩を進めるに際しても、廊下はギシギシと音を立てる。この建物がどれだけ古いものか分かろうというものだ。宿は床から柱、鍼に至るまで全てが完全な木造である。その木材と木材が接する箇所を不規則に軋ませながら、武人達はゾロゾロと先を進んだ。

浴場は此方の廊下を真っ直ぐに進み続く長い階段を降りて下さい。降りる途中に一つと、最後まで降りた階段の根本に一つ、合計二つのお湯があります。とは先程の従業員が行った説明である。実際に浴室までを案内された訳ではないので、武人達はとりあえず指示されたとおりフロントを横切って、教えられた方向へ廊下を真っ直ぐに進んだ。

すると、現れたのは家屋と同じく全てが木製の、酷く急な作りをした階段だった。数十段から成る段差を下に置いて、天井には裸の蛍光灯が一本吊されているだけである。その薄暗い照明と、人が一人通るだけで精一杯の狭い路幅もあって、妙にオドロオドロした雰囲気が感じられた。まるで坑道を探検しているような気分になる。

此処まで来て武人は一つ気づいた。従業員は取り立てて説明しなかったが、どうやら宿は旧館と本館があり、両者を通路で繋いでいるらしい。主立った客室が本館にあり、目当ての浴室は旧館にあるのだろう。そして、その両者を繋ぐ渡り廊下というのが、今まさに自分達が降る階段に相当するに違いない。そう確信を持って、彼は脳内で宿の間取りを推測し始めた。

ちなみに、一言で階段とは言っても、それは複数から構成されており、階段と階段の合間には、地面をコンクリートで固めて上に簀の子を敷いただけの廊下らしき部分も存在する。どうやら傾斜の急な山肌へ、無理矢理屋に屋根を被せて道を通したようだった。

その階段、渡り廊下というのが随分と良い具合に雰囲気を出していたので、ならば最奥まで、と一同は階段を降りきった先にある風呂へ向かうこととした。一般的な家屋とは懸け離れた構造を持つ同温泉旅館を前にして、武人や山野、柳沢の口からは、絶えず無理矢理な館の構造に、肯定とも否定とも取れない感想が漏れていた。柳沢曰く、「ウィンチェスターハウスってこんな感じなのかしら」である。

そうして、武人達の前に漸く目的とする浴場が顔を見せた。

浴室や付近の廊下は照明が完全に落とされており、事前に風呂があると説明されていなければ発見出来ずに前を通り過ぎていただろう。辛うじて暖簾が掛かっていたお陰で見つけることが出来たとも言える。

山野がそれらしいスイッチを幾つか上げると、応じて浴場と脱衣所に明かりが灯った。

「おぉ、ここかっ!」

花見月が控えめに声を上げる。

周囲が真っ暗と言うことで、他の旅行客を思い自重しているのだろう。

「そのようですね」

おもむろに手を伸ばした花見月によって、曇りガラスの填め込まれた戸が、ガラガラと横にスライドして開けられる。ともすれば、その先には脱衣所があった。暖簾を挟んで廊下に面する脱衣所は、畳を横に二枚並べた程度の奥に短く横に長い、とても狭苦しい空間だった。両脇に設置された小さな棚には、数個だけプラスチックの籠が乗せられている。それに脱いだ衣服を納めろということだろう。普通の旅館ならば序でに体重計やら扇風機やらが置いてあるのが常だ。しかし、他には何も見あたらない。

そして、続くもう一枚のガラス戸を明けると、そこに浴室があった。

「随分と小さいお風呂ね……」

戸に手を掛けた花見月の身体越しに浴室を眺めて、柳沢は酷く気落ちした声を周囲に響かせた。こころなしか、それまでの意気揚々とした風体から肩を落としているようにも感じられる。

「しかも、すごくボロボロ」

それに山野も続く。

「…………物凄い当たりを引いた気分だよ」

自然と漏れた感想は、武人もまた同様であった。

と言うのも、全ては一同の前に姿を現した浴場が原因だ。人間勢は目の前の光景を目の当たりとして、明らかに落胆していた。いや、落胆を通り越して驚いていた。ポカンと口を開いては、その場で足を止めて、浴場を前に呆然と立ち尽くしていた。柳沢など危うく手にした湯具の一つを落とし損ねていた。

照明が切られていた事実からも明らかな通り、浴場に客の姿は見あたらない。時間が時間なだけあって、明日に備えて既に寝静まってしまっているのだろう。だから、武人もまた彼女達と共に、男湯とも女湯とも分からない一方の浴場を一緒に廊下より眺めていた。そして、それが出来る程にこの宿の浴場と脱衣所は規模が小さく簡素なものだった。廊下の端から浴場の浴槽まで高々3,4メートルしかない。自宅の風呂場を多少広くした程度の規模だった。

まず皆の目に入ったのは、一辺が二メートルばかりの檜で出来た正方形の浴槽である。大人が二人入れば窮屈に感じる程度だろう。それが二つ横に並んで、白濁した湯を縁に一杯まで満たしていた。従業員の言葉通り、湯は掛け流しであって、二つの桶の合間に設置された栓からは、絶え間なく湯船に流れていた。

これは、まだ、良いかもしれない。

しかし、他が圧倒的にダメだった。

脇には数個ばかり桶が並んでいるが、目に付く備品と言えばそれだけだ。シャンプーや石鹸といった入浴用品の備え付けも見あたらない。また、シャワーの類も一切無い。浴槽と風呂桶の他には、脇へ申し訳程度に水道の蛇口が一つ設けられている程度だ。しかし、それも温泉の効能によるものか、それとも時間の経過と共に浮いた錆によるものか、火事に焼けたかの如く元の銀の色は失われて真っ黒に黒ずんでいた。客が利用する為というよりは、浴場の掃除用といった風体である。そもそも浴場に蛇口が一つしか無いところからして、湯が出てくるかどうかも怪しい。

また、設備が寂れているのなら、浴場の造りそのものも寂れていた。壁は不揃いの石を積んで作られた基礎の上に木材を立てた、非常に古めかしい作りをしている。そこにはあろう事か繁々と苔さえ自生していた。目の細かな床のタイルは至る所が禿げており、下のコンクリートを無様にも晒している。それがまた貧相な感を強く漂わせていた。重ねてきた歴史は相当なものだろう。

その様子は、一人、もう一つ掛かった暖簾の元へ向かおうとしていた武人が、視界の隅に入ってきた光景を目として、思わず足を止めては見入ってしまった程である。前に立つ女性陣の背中越しに垣間見た浴場は、この中で誰よりも文明に慣れる彼にとって、絶望的とも言えた。

まさに、そこは完全に風呂だけを楽しむ為の空間であった。

「随分な穴場を探してきたわね、芹沢君も……」

「いや、まあ、まさかこれほどとは思わなかったよ……」

戸を開けて解き放たれた濃厚な硫黄の香りが、一層のこと強く鼻を突く。

「一体、何故にどうしてこの宿に決めたのよ」

「ネット上では評判良かったんだよ? マニアに人気の宿、とか言われてて」

「いくらなんでも、あまりにもマニア向け過ぎるわよ」

「芹沢君って、お風呂マニア?」

「ち、違うよっ!」

山野の言葉に慌てた様子で武人は首を振る。

まるで江戸時代にでもタイムスリップしたかの如き出会いを前に、現代社会の浴場に慣れ親しんだ者達は足を怯ませていた。シャワーが無くとも、せめて温水の出る蛇口を数人分だけ用意して欲しかった、とは三人が共通して思い浮かべた事柄である。

しかし、そんな人間勢を脇に置いて、一方の静奈を筆頭とした化け物勢は甚く感動した様子で風呂を見つめていた。武人ならば思わず目元に皺を作りたくなるような硫黄の香りも、微塵として嫌がる風がない。いや、寧ろ喜々として深く呼吸しているようにさえ感じられた。

「武人、これは良い湯じゃのぉ」

とても嬉しそうに静奈が言う。

「そ、そう?」

「あたし、こんな濃い匂いの温泉に来たのは初めてだっ!」

「ええ、とても風情がありますね」

「静奈様、これは僥倖でしたね」

「うむ、我を封じた地にこれだけの湯が沸いているとは思わなんだ」

頻りに関心した様子で言葉を交わす態は、武人達からすれば異様とも言えた。年寄りは総じて温泉好きだと言うが、彼女達にしても、それはまた真なのだろうか。外観が下手に幼いだけあって、傍から見ていると違和感を感じざるを得ない。

「そんなに良いの?」

「人間の作る温泉というのは、大抵の場合で源泉から引いてきた湯に湯水を加えるじゃろう? 例えば、木崎湖の畔にあったゆーぷるとか言う公衆浴場も、温泉という割には普通の湯に近かった」

「まあ、普通はそうだね。源泉の湯量なんて限られてるし」

「我からすれば、あれは本当の温泉ではない。出涸らしの茶葉で煎れた白湯の如き茶を飲んでも満足など出来ぬ。対してこれは随分と湯が濃い。きっと、殆ど手を加えていないのじゃろう」

「街全体に硫黄の匂いが漂っている辺りからして、随分と強力な源泉があるのでしょう」

「うむ、そうじゃろうな」

嬉しそうに湯船を見つめる狐達の姿を前にして、武人は一人静かに納得する。そういうものなのか、と。山野の言葉ではないが、どうやら温泉マニアはとても身近に居たらしい。そして、そんな彼女達が喜んでくれるのなら、まあ、自分の選択も間違っては居なかったのだろう、とも思えた。

「武人っ! 早く入ろうっ!」

そういって花見月が早速と己が服に手を掛け始める。

「いや、ちょっとまってよ花見月、いきなり脱ぎ始めないで」

武人は慌てて声を荒げる。勿論、それは寂れた浴場に対して文句があるからではない。この場で唯一の男である彼は、彼女達と共に入浴する事が出来ないからだ。幸か不幸か宿の浴場は二つとも男女別である。

「僕は君達とは一緒に入れないから……」

そして、ここまで来てある重大な事実に思い至る。

両腕が無い自分はどうやって風呂に入るのか、という至極現実的な問題である。毎日の入浴は自宅であって、静奈と共に済ませてきた。それが当たり前なものとして扱っていた為に、此処へ至るまで気付けなかったのだった。

「そういえば、前にもそんなことを言っておったのぉ」

「こういう場所では、男と女は一緒に入っちゃいけないんだよ」

「じゃが、我は義人に聞いたぞぇ? 色々と」

「…………何を?」

「我のような小さな子供の形をしていれば、男湯へも入ることが出来るのじゃろう?」

「ま、まあ、そういう場合もあるけど……」

「ならば、我は武人と共に男湯へ入る。武人の身体を洗うのは我の役目じゃ。それに今は他に客も居らぬようだし、特に周りへ気を配る必要もあるまい? 他の者達は規則通り女湯へ入れば良い」

静奈の提案は武人にとって決して否定出来るものではなかった。他者の手伝いが無ければ生活も儘ならぬ肉体である。本来ならば彼が頭を下げて頼むべき事柄であった。恥ずかしがっている場合でもない。

「じゃあ……、その、お願いするよ、静奈」

「うむ、任された」

「だったらアタシも一緒にいくぞっ!」

それに間髪置かず花見月も続く。

浴場を望む位置から脱衣所を越えて廊下に立つ武人の元まで小走りに駆け寄った。

「いいよなっ!?」

キラキラと目を輝かせ問いかけてくる花見月に、武人は首を横には振れなかった。午後の零時を過ぎた頃合いだ。風呂場へ向かう間にも人とすれ違う事はなく、部屋の明かりも全てが消えていた。他に客が来ることも無かろう、そう判断して彼は小さく頷いた。何よりも、日頃から面倒を見て貰っているという恩義を思えば決して否定することは出来なかった。

「うん」

「では、私は山野さん達と女湯に入りますので、ここで二つに分かれるとしましょう。浴室の大きさからも、それが丁度良いかと思います。あまり大人数で固まっていては、一度に全員が浸かれませんから」

こじんまりとした浴槽を眺めて夢見月が言う。

「そうだね、分かった」

「そういうことでしたら、ここでお二人の着替えをお渡しさせて下さい」

「うむ、貰っておこう」

静奈が西光坊から両手一杯にバスタオルやら着替えやらを受け取る。

「そうだ、花見月ちゃん、これを貸してあげる」

そんな彼女の隣で花見月の前に山野が立つ。言葉と共に差し出された手には風呂桶があった。その中にはシャンプーやリンス、ボディーソープといった湯具の類が納められていた。所謂、世間で言う入浴セット言う奴だろう。

「それって、山野のやつじゃないのか?」

「ここってシャンプーとか無いみたいでしょ? 芹沢君達は何も持ってきてないみたいだから、これを使うといいよ。私や夢見月ちゃん、西光坊さんは柳沢のを借りるから、花見月ちゃん達は私のを使って」

「いいのか?」

「うん、いいの」

「おぉ、ありがとうっ、山野っ!」

山野や柳沢も、武人の不自由を思えば、ここで不用意に野次を飛ばすことはしなかった。それから二、三の言葉を交わした後に、一同はそれぞれ男湯と女湯に分かれて、暖簾の先へと向かっていった。

「花見月と一緒に居なくて、良かったのですか?」

湯船に浸かる西光坊が、同じく隣に浸かる夢見月へと尋ねた。

湯源を挟んで二つ並んだ浴槽の一方に彼女達が浸かり、もう一方に山野と柳沢が浸かっている。それぞれの湯船には温度の異なるお湯が満たされており、西光坊と夢見月が身を沈めた湯船の方が、山野と柳沢の入る湯船と比較して数度だけ高い。単衣に源泉掛け流し故の仕様だろう。

「ええ、まあ、姉妹とは言え四六時中を一緒に居る訳にはいきませんから……」

「私が見た限りでは四六時中を共に過ごしていた気もしますが」

「…………そうですか?」

他の者は尻を底に下ろしているが、夢見月は幾分か足りない背丈を、正座することで補い湯船に浸かっている。その顔は、向かって正面の脱衣所と浴室を隔てるガラス窓に向けられていた。結いを解かれた髪の上には、折り畳まれた手拭いがチョコンと乗っている。

「まあ、それほど付き合いが長い訳ではないので、私の勘違いかもしれません」

ちゃぷんと小さな水音を立てて、西光坊が湯気と汗に濡れた顔を手で拭う。他に客が居らず、シャワーの水音も響かない小さな浴室は、そんな小さな音さえ妙に大きく辺りに響いて聞こえた。

開かれた窓からは既に虫も寝静まっているのか、時折、風が樹木の枝を揺らして葉を擦らせる音が印象強く届けられる。風呂場から視認することは叶わないが、昼間には絶え間なく自動車の行き来する建物から程近い街道も、今は車どころか人が通る気配さえ感じられない。何か聞こえてくる音があるとすれば、それは自分達の話し声か、薄い壁を二枚挟んで隣建つ浴場で、同じく湯に浸かっているであろう武人達の気配だ。

「それにしても、海ノ口とどっこいどっこいで静かなところね」

誰に言うでもなく、何とは無しに柳沢が呟いた。

「雰囲気は悪くないと思う」

「そうですね、武人様は良い宿を取って下さいました」

「施設的には残念だけど、お湯が大したものだってことは認めるわ」

「物事の本質を求めたのなら、総じて見て呉れや体裁は劣って感じられるものです」

勝手な感想を口々に漏らしながらも、各人の顔には幸せそうな笑みが浮かべられていた。色々と文句の付け所はあるが、こうして湯船に浸かっている限りでは、得られる幸福感が勝るらしい。慣れぬうちは頻繁に顔を顰めていた硫黄の香りも、湯船に浸かって気にならなくなったのか、山野や柳沢にしても随分と寛いだ様子だ。他に客が居ないので浴場は彼女達の貸し切り状態であった。

施設を除いて唯一の難点と言えば、時折、隣の浴場から届く武人の嬌声だろうか。浴室は窓から手を伸ばせば互いの壁に触れあうことが出来る程に接している。開け放たれた窓からは断続的かつ不規則に、彼の情けない声が小さく響いては届いていた。妙に声色の高いそれは、事情を知らぬ者が聞けば、女の声とも間違えられるかもしれない。

「あとで、きつく言っておくべきかしら?」

「合意の上だからいいんじゃない?」

「そういう問題じゃあないわよ、ここは公共の浴場なんだから……」

大凡のところ、武人が静奈と花見月から攻められているのだろうとは、その場の誰にも容易に想像がついた。そして、二人を攻めることが出来ない柳沢の怒りの矛先は、自然と武人に向いていた。見れば額には小さく青筋が浮き上がり小さくひくついている。

「第一、なんで二人じゃなくて彼が喘ぐのよ……」

「なんていうか、芹沢君ってマゾっぽいから」

無責任にも、禄に考えを巡らせることなく山野が答えた。

あからさまな嫌悪感を示す柳沢とは異なり、彼女は自分の置かれた状況を少なからず楽しんでいる節があった。その一言も半分は冗談交じりでの発言に違いない。瞳はうっすらと細まり笑っていた。

「マゾとは何ですか?」

聞き慣れない単語を耳にして西光坊が疑問を返す。

「女の子に虐められて性的に興奮する性癖の持ち主を形容する言葉で、マゾヒスト若しくはマゾヒズムの略語。好きな女の子に殴られたり、蹴られたり、無理矢理に足を舐めさせられたりして喜ぶ人達の事を指すの」

「つまり、武人様は静奈様や花見月に虐められると嬉しいのですか?」

「嫌なら初めから逃げてる筈だし、嫌よ嫌よも好きのうちって言うから」

「いよいよを持って彼が変態という証よね。あんな小さな子達を相手にして、その……、い、いい、いかがわしい事をするなんて、前の学校で道徳を学んでこなかったのかしら? 正気を疑いたくなるわ」

「なるほど、そうだったのですか……」

山野と柳沢の言葉を受けて、深く感心した様子で西光坊が頷く。

「あの……、別に二人は武人さんを虐めてはいないと思うのですが……」

そんな彼女達に対して、せめてもの擁護を向ける夢見月だが、残念ながら彼女の言葉が三人に届くことは無かった。ボソリと呟かれた彼女の語りは、窓の外からやって来た一際大きな武人の、悲鳴とも喘ぎ声ともつかない絶叫に掻き消されたのである。

女湯に浸かる者達には知る由もないが、それは彼の尻の穴に花見月と静奈が、互いの人差し指を第二関節まで押し込んだ結果だった。二人から同時に直腸をまさぐられて、前立腺を指先により突かれたのである。そこに走った痛みと快楽は如何ほどのものであったのだろうか。

「一体、何をやっているのよ……」

「なんか楽しそう、私も行く」

「だ、駄目に決まってるじゃないっ!」

何気なく立ち上がろうとした山野の肩を、柳沢が必死の形相で取り押さえる。

「何故?」

「それを私に聞くのっ!?」

これだけ女性が多いと、武人という男が一人居たところで然して気にもならないらしい。山野らしいと言えば山野らしい反応だろう。人外との異文化コミュニケーションに類い希なる執着を感じる。白濁の湯から顔を出した控えめな友人の胸を鼻先において、多少だけ顔を赤くしながら、柳沢は山野を無理矢理に湯船へと沈めさせた。

「お二人の年齢では、男湯へ入るのは駄目なのですか?」

「そんなの当然よ。異性の浴場へ入っていいのは、就学前の小さな子供か、最高でも貴方の姉が限界ギリギリってところよ。それ以上の場合は店側が嫌がって入らせないし、仮に入れたとしても他のお客に迷惑よ」

「なるほど、そうなのですか」

柳沢の説明を受けて夢見月が関心した様子で頷く。

「私の知る温泉とは、一般に男女の仲を取り持つ場としての意味も併せ持った空間でした。人の世も僅かな間に随分と風変わりしたものですね。その時代の人間が今の世を見て嘆く様が脳裏に浮かびます」

語る西光坊の言葉には妙な重みがある。

これを武人が聞いたのなら、そういえば静奈も同じような事を言っていたなぁ、などと零しただろう。外見年齢こそ数年程度の差異に収まる四名であるが、実年齢を考慮すれば、その間に横たわる世代差は一言に片付けられるものでなかった。山野と柳沢にしてみれば、夢見月や西光坊との会話は歴史の教科書を相手にしているようなものだ。生き字引にも程がある。

それから四人は特に何を意図するでもなく、取り留めのない会話に花を咲かせては湯を楽しんだ。夢見月はまだしも、出会って間も無い西光坊との付き合いは、山野や柳沢からすれば抵抗を感じざるを得ないだろう。しかし、伊達に裸の付き合いを現在進行形で進めていない。当初はぎこちなく感じられたやり取りも、身体が温まり頭から湯気が上がる頃になれば、大分マシになっていた。

「ところで、これからの予定はどうなってるのかしら」

頭上に乗せていた手拭を手に取り弄りながら、何気無い口調で柳沢が呟く。ここへ来るまでの間で、目的は耳にしていたものの、具体的な予定は全く聞いていなかったからだ。全ては静奈と神野、それに武人が勝手に進めている。

「これからというと、静奈様の封印を解くということに関してですか?」

「ええ、まさか今日これから行く訳じゃないのよね?」

高校では弓道部に所属する彼女は、それなりに体力にも自信がある。しかし、数時間に及ぶ電車の旅を終えた後では難儀な相談というものだ。加えて、今は肩までどっぷりと温泉に浸かっている次第である。再び外へ出て土を踏む根性が残っていないのは、その疲れ切った口調からも明らかだった。

「今晩は移動の疲れもありますから、明日に決行というのが無難ではないでしょうか。静奈様もそう仰っていたと記憶しております」

「じゃあ、明日の昼?」

「いえ、なんでも昼のこの辺りは多く観光客に溢れるそうで、目立った行動は慎んだ方が良いとのことです。仮に人を化かすとしたのなら地区を丸ごと、最低でも数百人規模となりますから、その影響を完全に殺すことは難しいです」

「それはまた、大変な話ね……」

「なので、その手間を考えると夜が好ましいそうです」

「まあ、確かに観光名所の中核を壊そうって言うんだから、大っぴらには出来ない話よね。今にして思うと私も罪悪感が沸いてきたんだけど、別に、私や山野は壊すことには手を貸さなくてもいいのよね? この歳で警察の厄介に成りたくはないんだけど」

「その辺りの作業は全て私が行いますので安心して下さい」

「私と柳沢は留守番?」

「お二人の扱いに関しては、その時の状況に因りけりなので、決行を待ってから考えるそうです。明日の昼過ぎには神野が此方で我々と合流するそうなので、その時に決めれば良いでしょう」

「わかったわ」

「ですから明日は、いえ、もう日が変わってしまったので今日ですが、日が落ちるまでの間は普通に観光地巡りとして良いのではないかと思います。折角の旅行ですから、楽しんで下さい」

「そう、ありがとね」

「いいえ、全ては静奈様の命ですので」

小さく顎を引いてみせる西光坊に、山野と柳沢もまた自然と頭を下げていた。

やがて、一同が湯船に浸かり暫くが経った頃合いである。

そろそろ湯から上がろうと、柳沢が茹だった身体を湯船から身体を上げた。僅かに粘質を帯びた白濁のお湯がサラサラと肌を伝って湯船に落ちる。それを隣に眺めて、山野もまた身体を洗おうかと檜の浴槽より腰を上げた。

柳沢が浴場の脇に積まれた桶の一つを手に取る。

それは黄色い色をしたプラスチック製の品で、桶底にはケロリンとの某製造販売する頭痛薬の名が刻まれていた。他に累々と積まれた桶もまた同様である。同じく湯を出た山野もまた山の一つを手にしていた。

「柳沢、背中を流してあげる」

「そう? ありがと」

湯船の他に利用可能な湯源が存在しないので、二人は二つ並んだ湯船のうち、今まで自分たちが使っていた側の脇に座り込み、それぞれ桶に湯船から湯を汲んでは周囲に湯具を広げ始めた。女ということもあって、入浴に利用する道具もまた多彩だ。シャンプーにリンス、ボディーソープに洗顔剤と、現代の女子高生が入浴を行う上で必要な物が一通り揃っている。それを床に並べて、彼女達は宿が用意した手拭いを手に腰を石床へ落ち着ける。

そして、その背後では、やはり断続的に武人の喘ぎ声が流れていたりする。

「それにしても、これ、なんとかならないかしら?」

「芹沢君の声?」

「そうよ。なんでこんな変な声を出すのよ。っていうか、ここはお風呂よ?」

「まあ、両者合意の上だしいいんじゃない?」

「私の精神が汚染されるわ、この喘ぎ声はっ!」

あぁん、あん、あん、ひぃぁぁああっ! と武人の声はまるで女性のように艶っぽい。根が真面目な柳沢にしてみれば、それは決して許すことの出来ない不道徳として映るのだろう。彼に対する日頃からの辛辣な対応を思えば、耳を犯されているように感じているのかもしれない。

「どうしようもない変態だわっ!」

そう怒鳴るように呟いて、桶に汲んだ湯を頭からザパァと被る。

「だったら止めに行って来ればいい、私も一緒に行くから」

「あっ、貴方が行ってどうするのよっ!」

「なんで?」

「なんでもなにも、そんなの当然でしょうっ!」

柳沢は甚く憤慨した様子で、自分がそうしたように、隣に座った山野に対して、桶に汲んだお湯を遠慮無く頭上より掛け流してやる。浴室に入ってすぐに確認したところ、唯一備え付けられている蛇口に関しても、出てくるのは真水であった。だから、身体を洗う全ての動作は桶の湯を用いて行わなければならないのだ。

「柳沢さんはああいったことは嫌いなんですか?」

何気無い調子で夢見月が尋ねる。

「べ、別に、嫌いって言う訳じゃないけど、時と場合というものがあるでしょう?」

「やはり、この時代は浴場で事に至るのは、不謹慎なのでしょうか?」

「まあ、普通はそう思われるわよ。特に、こいう公共の場ではね」

「なるほど…………」

柳沢の説教に夢見月は聊か気落ちした様子で頷いて見せた。何やら思うところがあるのだろうか。

この場の誰も彼もが、人間と化け物の間にある生活習慣に対する大きな差異を感じているように思われた。なにせ、静奈や西光坊に言わせれば古く浴場は男女の盛りの場であったと言う。人間の常識なんぞ脆いもので、百年と立たぬうちに容易と変わってくれるのだった。

あ、ああっ! もう駄目っ! もう駄目だよっ!

早くも何処か遠くへ達してしまいそうな武人の喘ぎが、女湯に一際大きく響き渡る。そこにはなにやら、お尻がお尻がっ! とか、前立腺がぁっ! とか叫ぶ声も混じっている。花見月と静奈に二人掛かりで攻められているのだろう。

「もしかして、柳沢さんは欲求不満なのですか?」

「ど、どういう意味よっ!?」

「いえ、先程から随分と敏感に隣の様子を気にかけているようなので」

「そういえば、確かに」

「違う、違うわよっ! っていうか、普通気になるでしょっ!?」

夢見月からの指摘に柳沢は慌てて両手を振って否定の言葉を並べる。顔は長く湯に当たっていた為か、それとも別に理由があるのか、ほんのりと朱に色付いていた。そんな彼女に対して、隣に座り込んで手拭にボディーソープを擦り付けていた山野が、何気に危うい発言をしてみせる。

「だったら柳沢、私が相手してあげようか?」

「…………え?」

それはあまりにも唐突な物言いだった。

途端に何を考えたのか、誰の目にも明らかな程に柳沢の顔が凍りつく。

「芹沢君に負けないくらい喘がせてあげる」

「え、えっ……、ええっ!?」

その様子は平素からの高姿勢な彼女にしてみれば、驚くほどに腰の低くしおらしいものだと言えた。目をパチクリさせながら、自分を見つめる山野の顔を凝視しては、返す言葉も無く口をパクパクとさせている。

彼女の脳裏では、今、一体どのような想像が巡っているのだろうか。

まるで生まれて初めて恋に落ちた少女が、好きになった男性を見つめるが如く熱い視線を向けて、すぐ目の前に座る山野を凝視している。その姿は普段の彼女を知る者からすれば気持ち悪い意外の何者でも無い。

「…………言っておくけど、冗談よ?」

だが、それも僅かな間である。

次いで紡がれた山野の言葉に柳沢はハッとして冷静を取り戻した。

「じょ、冗談!?」

「それとも、本当に私とそういうことをしたかったの?」

何処か勝ち誇った笑みを浮かべた山野が柳沢に言う。

「そ、そんなこと考えてる筈無いじゃないっ! 何をいってるのよ、女同士でなんて、そんな、そんな変態染みたことしていい筈が無いわ。それこそ、隣で喘いでる彼と同じ道を行く事になるじゃない」

まるで言い訳を並べるが如く言葉を連ねさせる。

「そうよっ、山野が唐突に変な事を言い出すから、驚いただけよ」

それは自分自身に言い聞かせてるようでもあった。すぐ隣には裸の山野が居る。ここ一年半の付き合いがある二人だが、こうして裸の付き合いをするのは初めての事だと、柳沢は今頃になって気付いたのだった。

「女同士では、やはり駄目なのですか?」

ふと、湯船に浸かる夢見月が尋ねる。

「当然でしょ? 同性愛よ? 法律で禁止してる国があるほどなんだから!」

「そうですか……、やはり、人の世では認められていない嗜好なんですね」

山野と柳沢は、花見月と夢見月が毎晩に渡り自宅の風呂場において、めくるめく官能の世界に浸っている事を微塵として知らない。答える夢見月の言葉は何処か寂しそうなものだった。昨今より馴染み始めた人間社会での生活で、彼女の価値観にも聊かの変化が見え始めたのだろうか。

「人間にしても化け物にしても、その精神とは難儀なものですね」

そんな彼女達に何を言うでもなく西光坊が一人呟く。そこには外観から来るものだろうか。妙な貫禄が伴って感じられた。ずり落ちそうになった手拭を光沢も鮮やかな銀髪の上に乗せ直す。ふぅと小さく息を吐いて顎が水面に触れるまでゆっくりと湯船に沈んだ。

そして、そうこうしている間にも隣からは武人の喘ぎ声が断続的に響く。

あぁっ! き、気持ちいい、駄目っ! もう我慢できないよぉっ!

湯船に浸かりながら事の次第を耳に見守る西光坊は、人の少ない時間帯での来訪となって良かったですね、と姿の見えぬ静奈に内心言葉を送るのだった。その後、武人の悶えは小一時間に渡って田舎の一角に響き続けたという。

那須岳の中腹にあり、観光客の為に設けられた遊歩道からも外れて、周囲を背の高い樹木に囲まれた山中の一角に、少し開けた場所がある。其処には既に使われなくなって久しい山小屋が立っていた。元は山へ出た樵が一泊二泊と身を休ませるのに使っていた小屋であろう。しかし、数十年の時を経て利用者を失ったそれは、最早朽ちて倒壊寸前の態を晒してた。塗装の禿げた薄い壁板は、雨に晒され腐敗して格好の虫巣となっている。隣接する斜面から転がり落ちてきたであろう岩を受けて、屋根には大きな穴が開いていた。手入れも久しく放置された室内は苔と黴と埃に塗れて、既に人が生活する空間とは程遠い。廃墟と化していた

だが、そんな小屋の内より何やら話し声が聞こえてくる。

それは既に日が落ちて日付も変わった深夜のことであった。耳を覆いたくなる程の蝉の音も止んで久しい。夕暮れ時より活動を始めた螻蛄の類も早々に寝静まった。今や僅かな風が樹木の枝を揺らす音だけが響いている。寥々とした静寂が辺り一帯の森を覆うように支配していた。

しかし、そんな中に今し方より大きく響いて止まぬ声がある。

「本当に彼の者を召還するつもりかっ!?」

「既に連絡は入れた、あとは本人がやって来て封を解くのみじゃ」

「貴様っ! 私は昨晩にも待てと言った筈だ。何故に合意を得ず早計に走る!?」

「如何せん時間に余裕がないものでのぉ……」

「昨晩に聞かされたお主の言葉が本当だというのなら、俺は吝かでない」

「しかし、それが守られなければ、この地を再び地獄と化すでしょう」

「お前達は何故にそう悠長に構えていられるっ!?」

女の者だと思われる比較的高い声が一つに、年老いた翁の声が一つ、そして、中年男性を思わせる野太い声が一つ、まだ年若い青年の声が一つ、その数から察するに集まったのは四名から成る者達だ。翁の落ち着いた語りに、女が酷く憤慨した様子で反発している。その様子を傍目に眺めつつ、残る二人の男性は淡々と己の意見を口としていた。

そこで語る翁というのは他でもない、神野である。

今日の夕暮れ時に武人達へ電話連絡を入れた後に、再び彼はこうして現地の化け物と顔を向き合わせていた。この場に居合わせた神野を除く三名の化け物は、それぞれこの地に根を下ろし殺生石を守る役目を負った歴戦の強者である。白面金毛九尾の狐を巡る戦いが終焉を迎えてより、今に至るまでの数百年という時間を延々と過ごしてきたのである。

「お主の言うとおり、事態は非常に慌ただしい展開を見せておるのじゃ。だからこそ決断は素早く行わねばならぬ。それ故に儂の早計だと思って貰いたい。そうでなければ、儂等にしても苦しい戦いを強いられるであろう」

「だがっ! だからといって白面金毛を用いるなどとは正気の沙汰と思えんっ!」

「しかし、他に金毛の天使に抗する手があるかぇ?」

「昨晩も言いましたが、私は神野の案も悪くないと思います」

「俺も同意だ。奴らは共に凶悪な化け物であるが故に、非常に好戦的な性格をしていると聞く。上手いこと互いをぶつけることが出来たのなら、我々は漁夫の利を得ることが出来るだろう。場合によっては、封じるに止まっていた彼の者を滅することも出来るやもしれぬ」

「白面金毛は賢い、そのような我等の考えなど等に及んでいる筈だっ!」

「だが、昨晩も話したと思うが、その上で相手も乗ってきた話じゃ」

「私達では金毛の天使に太刀打ちする事は叶わいません。本心から望む訳ではないが、苦肉の策としては上々だと言えましょう? 勿論、その真偽に不安が残らぬ訳ではないが、今は他に選択肢がないですよ」

「あの白面金毛が人間の側に付いたなどとは、眉唾にも程がある。しかし、神野がそう納得したというのなら、それもありだと思う。仮に今の我々が金毛の天使に挑んだところで結果は見えている。俺は無駄死には御免だ」

「だが、それでは我々の過去の努力はどうなるっ!?」

その者達は互いに顔を向き合わせて口論をしていた。

彼等の集まる山小屋の周囲は鬱蒼と茂る樹木に囲まれて、そこに立つ小屋の他に人工の建造物は何一つ見あたらない。四人の内の誰かが宙に浮かべた鬼火を僅かな明かりとして、彼等は顔を向き合わせていた。他に明かりのない山中にあっては、その一点だけが淡い灯火を闇に煌々と浮かべていた。

既に虫さえ寝静まり静寂に包まれた静寂なる山中では、隙間だらけの小屋から漏れる彼等の声だけが遠く響いている。彼等の他に周囲には何者の姿も無い。この話し合いの為だけに、化け物達は意図して此処へ集まったようであった。そうまでして語らなければならないのは、今まさに此の地に着いたであろう一匹の大妖を巡る対応である。

「そうは言っても、西光坊の存在が確認された今となっては、放っておいても彼の者達は失われた力を求めて此の地を目指すだろう? ならば、こうして友好的な関係を結べるだけの状況を持ってして迎えるべきではないか? 少なくとも俺はそう考える」

「ただでさえ西洋の化け物による被害が拡大している、私もそれが無難だと思います」

「それも相手の策に決まっているっ! 懐に入られたが最後、内から腸を抉られるのは目に見えている。過去に奴が行ってきた所行を思えば、信じられる言葉など一片として見つけることは叶わないっ!」

「だが、それでは金毛の天使はどうするのだ?」

「白面金毛を討って、然る後に必要となれば金毛の天使をも討つっ!」

女の語る口調はとても力強いものだった。

「そもそも、白面金毛の言葉を信じろ、などというのが無理な相談だっ!」

「そうか……、まあ、過去の奴の所行を思えばお主の言葉も致し方ない」

「そうであろう? ならば今こそ奴を叩くときだ」

「それでは、奴では無く儂を信じて貰えないか? 彼の者の言葉が信じられないというのなら、儂の言葉を信じて貰いたい。これでも、全く考え無しにこの話題を持ってきた訳ではないのじゃよ」

「お前を信じろ、だと?」

真摯な瞳を向けて神野が女を見つめる。

小屋に集まったうち、翁と女を除く二人は彼の案に肯定的だ。そこには確かに、多大なる妥協が含まれている。しかし、正面切って否定する気は無いらしい。幾ら屈強の戦士とはいえ前門の狼、後門の虎ともすれば、自然と取り得る選択肢は限られた。

それでも反発を抑えきれない女の強烈な意志は、彼女こそが先の大戦で先陣を取り白面金毛と戦った化け物であり、また、前線に身を躍らせて戦った化け物の内で、僅か八名という生き残りの一人であるからでもある。

人間社会さえ巻き込み、幾百幾千という化け物が束となって挑んだ白面金毛九尾の狐との戦いは決して色褪せない。彼の大妖怪を前に、その現実を知る者に尻込みするなというのは無理な話であった。例えそれが数百年を経た今とあっても、彼女の脳裏には強烈な過去の幻影が残っていることだろう。

「何故に、お前を信じろと?」

「あれは白面金毛であって、白面金毛とは異なる存在じゃ」

「そんないい加減な話を信じろと?」

「直接会って、互いに手の届く距離で話をして、そう感じたのじゃよ」

「弱体化しているからこその嘘でないと、何故に言い切れるっ!?」

「そう言われてしまうと、儂としても返す言葉は無い」

「だろうっ!? ならば西洋の化け物を討つ前に先じて白面金毛を打つべきだっ!」

己の興奮を隠すことなく女は主張する。其処には白面金毛に対する有り余る憎しみが感じられた。眉間に刻まれた皺の数にも増して、彼女の口を突いて出るのは相手に対する恨み辛みである。

「そうは言っても、幾ら弱っているとはいえ、彼女の傍らには西光坊が居る。その能力の如何に関しては推し量る術も無いが、噂通り殺生石の欠片より生まれた化け物だとすれば、容易に打倒できるとは思えぬ。少なくとも俺は、何の調べも無しに相手にしたいとは思わない」

「私も同意です」

中年男性の姿格好をした化け物が、腕組みをして難しそうな顔を作り言う。それに年若い青年も頷いて同意した。個体差の非常に大きな化け物の世にあっては、下手をすれば一方的な虐殺に終わる可能性さえある。過去に白面金毛の戦う姿を目の当たりとした二人にとっては、彼女の提案は素直に頷けるものでなかった。

「過去の恐怖がお前達の足を震わせるかっ!?」

「まあ、それも仕方無いことじゃろう……」

興奮を隠すことない女の叱咤に対して、他の三名が返す言葉は落ち着いたものだ。

小屋の中には幾らか家具の類も散在しているが、どれも放置されて長いらしく利用には耐えられそうにない。足の腐った椅子やら、平行を失った机やらを脇へ除けて、三人は小屋の中央で輪を作るようにして言葉を交わしていた。

その中で一際大きく鼓舞しては語るのが、紅一点といて女の姿を取る化け物である。

「そもそも、これだけの大事を我々だけの一存で決められるものなのかっ!?」

「だからといって日本中を巡るだけの時間も無いじゃろう? それに今となっては多くの化け物が行方知らずじゃ。動ける者だけで動いて状況を打開する他にないだろう。ただでさえこの国の化け物は結束の意志が低いからのぉ」

「だがっ!」

「それに、力ある化け物の多くは白面金毛との争いによって失われた。それから高々数百年しか経っておらぬ。再びあの大戦を再現するには手が圧倒的に足らんのじゃよ。それを考慮して欲しい」

「神野よ、今一度だけ確認するが、西洋の化け物共が金毛の天使と手を組まんと動いている事は間違いないのだな? その前提があるからして俺もお前に賛同している。それが覆されたというのなら状況は変わってくる」

「それは間違いない、儂が奴らの前で白面金毛の側についてしまったからの」

「それは昨日にも言っていたあれか?」

「そうじゃ。まさか、この儂が彼の者を助ける羽目になるとは思いもしなかった。今にしてみれば見捨てておけば良かったとも思える。しかし、その時の自分が、彼の者を頼ってみたく思ったのも事実じゃ」

「相手は此方が白面金毛を味方に付けたと思っているのですね」

「幾ら儂等が口で否定しようとも、相手はそれを信じることはないじゃろう。この先はどうなるか知らぬが、事実、今のところは味方として動いてくれている。これ以上の証拠は無かろう」

「ともすれば、金毛の天使を出張らせようとするのも道理ですね。余程の化け物でなければ白面金毛の相手など勤まるはずもない。それこそ、海向こうから奴等の親玉を引っ張ってきても怪しいところですよ」

「だからこそ、急ぐ必要があるのじゃ。無論、金毛の天使が西洋の者達に手を貸すかどうか、その点に関しては完全な儂の推測じゃ。もしも話に乗ることがなければ、白面金毛の封を解いて得られるのは厄災のみじゃろう」

「しかし、仮に金毛の天使が我々へ矛先を向けたとしたら、どうなるでしょうか」

「今回の件は互いにリスクの均衡した二者択一なのじゃよ、最善の策は無い」

「白面金毛を殺して、金毛の天使が我等に牙を剥かずに居てくれれば言うことはない。しかし、そう事が上手く運ぶとは思えない。何処に綻びが生じるかは分からぬが、この狭い島国にこれだけの化け物が揃って事が起きぬ訳がない」

「特に金毛の天使は非常に気紛れな化け物じゃからのぉ……」

「そして、非常に好戦的な化け物ですよ」

「確かに、金毛の天使行った暴挙の数々は、俺が知るだけでも白面金毛に並ぶものがある」

「だからと言って、奴の封を解くなど赦される筈がない。彼の者を討たんとして散っていった数多の者達を、お前達は何だと考えているのだ。あの惨事が再び起こるかもしれぬのだぞっ!? 私は決して認めぬっ!!」

「しかし、場合によってはそれを越える惨事さえ起こるかもしれぬぞ?」

化け物達の話し合いは一向に平行線であった。

主として殺生石の封を解くべきだと主張する神野に女が挑む形で話は堂々巡りを繰り返している。他の二人はある程度を神野に沿っているが、本来望むべきは女の側にある訳で、複雑な表情を浮かべること多々である。

それから、随分な時間を彼等は話し合った。

時計の無い山小屋にあってはどれだけを過ごしたのか正確なところは分からない。しかし、東の空が明るみ始める頃になれば、自分達がどれだけの間を語っていたのか、大凡のところを理解したのだろう。それでいて結論の得られそうにない議論の場を前として、ついに女が我慢ならぬと挑むように言い放った。

「ならばお前達はお前達が望むようにやるがいいっ! 私は私が望むように動くっ!!」

そして、神野達が声を掛ける間もなく山小屋より飛び出していった。

「うぅむ……、身内の団結さえ間々ならぬとは困ったもんじゃのぉ」

顎髭を人差し指と親指で挟み弄りながら、神野は心底困った様子で呟いた。

一夜明けた翌日も、空は雲一つ見あたらない快晴であった。

山の天気は変わりやすいというので、標高千メートルを超える山岳地帯にあっては、それがいつまで続くかは分からない。しかし、少なくとも朝の目覚めを気持ち良く迎えるには十分な天候であった。既に空高く上がった太陽が窓から覗く態を、多少の微睡みを残して布団の中から眺めるのは、中々に心地良いものだ。

「武人、起きたかぇ?」

すぐ傍らに正座していた静奈が武人の顔を覗き込み尋ねた。

「うん、おはよう……」

完全に覚醒しきっていない脳の回転をゆっくりと上げつつ、やんわりと朝の挨拶を交わす。見れば静奈の隣には同じく正座して座る西光坊の姿もあった。二人の布団は既に押し入れに仕舞われている。彼の目覚めを待っていた様であった。静奈は平素からの着物を纏い、西光坊も例によって燕尾服を身につけている。既に身支度は完璧といった様子だ。

「今、何時?」

「そろそろ、十時半を過ぎる頃かのぉ」

「そりゃまた、随分と寝坊しちゃったみたいだね」

「昨日は沢山歩いて疲れたのだろう、仕方の無いことじゃろうて」

「でも、そろそろ起きないとね。この後の予定もあるだろうし」

答えて武人はゆっくりと身体を起こす。

その一挙一動に合わせて、彼の身を支えるよう静奈は武人の背に手を回した。彼女の甲斐甲斐しくも献身的な振る舞いは、例え旅先の宿にあっても自宅と同様に変わることはなかった。

「山野や花見月達はどうしてる?」

「あの者達は数刻前に外へ出て行ったぞぇ」

「っていうと、観光?」

「この付近には鹿の湯という全国的に見て有名な温泉が沸いているそうです。なので、そちらへ足を運ぶと言っておりました」

「鹿の湯?」

「はい、鹿の湯です。昔、傷を負った鹿がこの湯で傷を癒したところから「鹿の湯」という名がついたそうです。この宿の主人に聞いた話では、その湯というのは昨晩に入ったこの宿の湯の源泉にあたるらしいので、此方で湯に入るのと大差は無いと思いますが」

「へぇ……、同じお湯が引いてあったんだ」

「まあ、湯の場など気分に任せる処が大きいからのぉ、それもありじゃろう。姉妹を誘って早々に出て行きおった。この宿からそう離れておらぬが故、別に良いだろうと考え行かせてしまったが、良かったかぇ?」

「折角の旅行だし、色々と見ておくのが良いんじゃない? 流石に僕の朝寝坊に彼女達を付き合わせる訳には行かないよ。それに花見月と夢美月が一緒なら余程の事が無い限り大丈夫だよね?」

「あの者達にしても尻尾六本の化け狐じゃ、並みの化け物には負けぬじゃろう」

「距離的には大して離れている訳でもないので、目の届く範囲での自由は与えても問題無いと考えました。直線距離にして数百メートルですから、私が急ぎ足に向かえば数秒で辿り着けます」

「そう、なら安心だよ」

ゆっくりと膝を曲げて足の裏をシーツに押し付る。未だに慣れない身体に翻弄されながらも、武人はその場に立ち上がった。寝起きである事も手伝って、低血圧であるが故か、多少のふら付きを覚えた。しかし、それも十数秒を堪えればすぐに収まる。

「ところで、今日の予定ってどうなってるんだっけ?」

「一応、神野と会う事になっておる」

「殺生石を壊すのは夜だったよね?」

「うむ、人間の観光地という事もあって、昼のこの辺りは随分と人気が多いらしい。表立って動く事は叶わぬそうじゃ。とは言え、日が暮れたのなら店屋の戸も早々と閉まる田舎町らしいでのぉ」

「あぁ、考えてみれば僕達が行おうとしているのは立派な犯罪なんだよね……」

此処へ来て今更ながらに思い立った事実に、武人は自然と気が滅入るのを感じた。もしも警察にばれてしまったのなら、酌量の余地無く逮捕されて当然だろう。しかも、これから壊そうとしている殺生石なる自然石は県指定文化財である。器物破損に加えて文化財保護法違反ともなれば、与えられる判決はどの程度になるのか。それが今後を生きる為であるとは言え、小心者の彼は身を怯ませずに居られなかった。この歳で前科が付くのだけは遠慮したい、というのが本音だ。

そんな彼の内心を察して、語り掛ける静奈と西光坊の声色は優しい。

「その辺りは武人が気にする事はないぞぇ。全ては我の仕事じゃ」

「武人様は私が確かにお守り致します。ご安心下さい」

「本当、色々と、ありがとね」

腕を失って以来、彼女達の世話になりっぱなしでいる彼は恐縮して答えた。

「いいや、全ては我の所以である。武人が気にする必要は無いのだから、謝る必要だってないのじゃ。もしも出歩くのが面倒ならば、この宿で姉妹共と話し込んでいれば良いだけのことじゃ」

「それに普通の人間が相手ならば、私達には幾らでもやりようがありますから」

「うん、ありがとう」

布団の上から武人が身を退けたのを確認して、隣に座っていた静奈がふと立ち上がる。そして、小さな身体ながら、大人用の大きな布団を器用に三つ折にすると、襖の上段へと仕舞い込んだ。その間に、部屋の隅へ退けられていたテーブルを西光坊が元あった位置へと戻す。二人の間柄は出会って数週間のものだと説明されたが、武人には随分と長く連れ立った主従関係を思わせた。

目覚めて見渡した部屋は小奇麗なものだ。昨晩まで着ていた服や、湯具の類は既に旅行鞄へと収められている。武人の今日の分の着替えを除いて、あとは畳敷きの部屋の隅に肩掛けのボストンバックがちょこんと置いてあるだけで、他は初めて部屋に足を踏み入れたときと大差無い。多くは西光坊の手によるものだろう。見た目に違わず几帳面な性格をしているな、とは武人の純粋な感想だ。

「さて、これからどうするかぇ?」

パタンと襖を閉めて静奈が武人に尋ねた。

すると、それと時を同じくして部屋の戸を叩く者があった。

静奈の問いに答えようと口を開きかけた武人の意識も、自然と廊下へ通じる襖へ向く。山野達が帰ってきたのだろうか。そう感じて迎えの声を返そうとしたところ、相手側より先じて声が掛かってきた。

「おはようございます。フロントの者ですが、お客様に御用だという方がいらっしゃっています。お名前を神野さんと言うそうですが、如何に致しますか? 玄関の方で待って頂いています。お部屋へお通ししますか?」

姿は見えずに鍵の閉まった扉の向こう側から聞き覚えのある声だけが届いてきた。

「これはまた、我等の動向を推し量ったように都合の良いことじゃな」

「如何しますか?」

「何を話すにしても畳の上で落ち着いて語るが良いじゃろう?」

「確かにそうですね」

静奈の言葉に答えて、西光坊は扉越しの従業員へ神野を部屋へ通すように伝える。用件を受け取った彼は、足早に廊下を軋ませながら玄関へと戻っていった。ともすれば、数分と間を置く事無く、今度は複数の足音が響いて部屋へと近づいてきた。木材のキィキィと鳴く音が徐々に大きくなって、桂の間の前で止まった。

「今、鍵を開けます」

宿の各部屋の扉は内側に設置された襖と、廊下側に設置された木製の扉の二重ドアとなっている。二つの扉の間には半畳程度の木板による空間が玄関の如く存在していた。すぐさま動いた西光坊が、室内に面する内の襖を開けて、続けざまに外扉の錠をカチャリと落とす。

すると昨晩にも見た男性従業員に連れられて、廊下には神野の姿があった。

「長旅、ご苦労じゃったのぅ」

皺くちゃの顔に朗らかな笑みを浮かべて第一声、神野は何気ない風に呟いた。

「お陰さまで、昨晩は良い湯に浸かる事ができました」

答えて西光坊は彼を室内へと招き入れる。

客人を無事に目的の部屋まで送り届けた従業員は、それでは、と小さく会釈をして元居たであろうフロントへと去っていった。その姿を尻目に、二人は静奈と武人の待つ室内へと足を運ぶ。

「それで、決行は昨晩に話したとおり今夜で良いのかぇ?」

武人の隣に座った静奈が一切の挨拶を置く事無く単刀直入に尋ねる。

「うむ、予定に変更は無い」

「ならば良い、腑抜けの主にしては上等じゃ」

答える彼女は卓上で武人の湯のみに茶を入れ始める。急須と茶葉は脇に置かれた櫃に収められていた。必要な湯は、その隣に並んだ電気ポットに入って、早朝に西光坊が炊事場より汲んできたものが沸いていた。

西光坊に促されて室内へと足を運んだ神野は部屋の入り口に立ったまま彼女と会話を続ける。その隣には依然として彼の存在を警戒しての事だろう、西光坊が付いていた。神野にしても己の扱いを理解して、それ以上を二人に近づく事は無い。

「だが、話はそれだけかぇ? それにしては顔色が優れぬように思えるが?」

「ぬぅ、やはり分かるものなのか……」

「我への恐れがそうさせるのじゃろう、して、何が起こった?」

湯のみに茶を八分目まで注いで静奈は急須を卓上に置く。

ゆっくりと神野に向き直った彼女の視線が、対する者の眼を強烈に捕らえた。鋭く細められた瞳が、まるで的を目指して射られた矢のように彼を貫く。その眼力に驚いた様子で、神野は小さく身体を震わせた。応じて肉体は半歩だけ足を後へ下げる。実際には静奈を遥かに越えた力を持つ化け物の神野である。しかし、彼女の言葉通り、過去への執着が理性にも増して働き、本能が自然と身体を動かしたのだろう。

「すまぬ、此処へ来て一つ問題が発生してもうた」

「なんじゃ、言うてみよ」

茶を注いだ湯のみを隣に座る主人の前に静々と運んで、静奈が問う。

その様子を武人は黙って見ている他に無かった。

人外の世の出来事は一介の人間の手に負えるものではない。それを過去に触れた幾らかの経験より彼は良く理解していた。十数人から成る火器で武装した警察隊が、たった一匹の化け物を前にして、成す術も無く殺される光景を見た。それを成した化け物が、まるで赤子の手を捻る様に呆気無く別の化け物に打倒される光景を見た。そして、それを成した化け物には己が主人だと仕える化け物が居り、その化け物が今まさに自らへと茶を入れては差し出している。

目前に広がった果てが見えない世界は、彼にとって恐怖以外の何物でもなかった。

「幾人か、儂の提案に離反した者が居る」

「なんじゃ、昨日とは言っていたことが違うのではないかぇ?」

厳しい口調の静奈を前に自然と神野の頭が下がった。

「すまぬ、幾度か説得を試みたのじゃが、最後は逃げられてしもうた」

そうして答える様子は本心から謝っているように感じられる。

「とはいえ、この短時間で全てを抑えきるのは難しいかもしれんがな」

「過去の大戦では身を切って先陣を駆けた者であるが故に、お主の凶悪な性質を未だ強く残しているのじゃろう。合意を得るどころか、最後まで満足に此方の話を聞かせることさえ出来なんだ」

「では、逆を言えば他の者には了解を得ることが出来たのじゃな?」

「それは間違いない。大多数の同意は得られた。しかし、そうだとは言っても、他の者共とて傍観を決め込んでいるに過ぎない。お主の封を解くに協力することは無く、儂の意見に反対する者を止めるよう働くことも無いじゃろう。多くは今もお主を怨敵と見る者ばかりじゃ」

「まあ、それは当然であろうな」

「お主と金毛の天使の共倒れを願っておる者が全てだと言っても良い」

淡々と不吉な事を語り始めた神野に武人は不安を募らせずには居られなかった。座布団の上でジッと正座をしたまま、背筋に嫌な汗が垂れるのを感じていた。昨晩に彼は己が不利さえ全てを語ると言っていたが、語られたら語られたで困ったものである。

「主はどうするつもりじゃ?」

挑むような口調で静奈が神野に問うた。

「儂はこれから別用で他所へ向かわねばならぬ」

「なんじゃ、自ら提言しておきながら面倒事は御免かぇ?」

「金毛の天使の動向を探りに行く、こればかりはすまぬと感じている」

「まあ良かろう、そこまで抑えられたのなら上出来じゃ。元より多少の抵抗は考えておった。寝首を掻かれる様な真似をされなかったのだから、今はまだ許容の範囲にあるとも言える」

「そう言って貰えると助かる」

「此方には西光坊が居る故、一日や二日ならば武人の安全は守る事が出来る」

そう言って静奈は隣に座る彼に語り掛ける。

神野に対するそれとは打って変わって、口調は至って穏やかなものだ。彼の内にある不安を想定しての事だろう。話しかけられた彼としては、赤子をあやす母親のような雰囲気を伴って感じられた。

「面倒に巻き込んでしまって、すまぬ」

「ありがと、頼りにしてるよ」

情けないかな、武人が返せるのはその程度の言葉だ。

「ところで、お主と共に居た姉妹の狐はどうしたのじゃ?」

「あぁ、あの者達ならば連れの人間と共に外へ湯浴みに出ておる。お前の言う事を聞かない者の存在を考えれば、ここは一先ず呼び戻したほうが良いかの? あれはあれで中々に面倒見の良い化け物ではあるが、如何せん最近の化け物じゃ」

「彼の者達が、お主以外の見知らぬ化け物を、それも人間を連れた化け物を公共の面前で無闇矢鱈に襲うとは思わんが……、まあ、気になるのであれば呼び戻しておくが良いじゃろう」

「うむ、では後ほどに合流するとしよう」

「それでは申し訳無いが、儂はこれで失礼させて貰う」

そうして一頻りを語ると、神野はそそくさと逃げるように部屋を出て行った。パタンと外扉が閉ざされた後に、ギシギシと廊下を鳴らして音は足早に遠ざかって行った。その気配を確認して、西光坊は静奈の隣に膝を突く。武人とは彼女を挟んで反対側にあり、顔と顔が接する程に非常に近い位置であった。

「如何致しますか?」

「ぬぅ……、ちと話がある、後で顔を貸すが良い」

「分かりました」

そうして語る静奈の横顔が妙に深刻に思えて、武人は一人首を傾げた。

「それにしても、いいお湯ですね」

「あぁ、凄く気持ちがいいな」

小さな子供が二人、並んで風呂桶に浸かっていた。

その桶を囲って、周りには彼女達を眺める女性達の姿がある。年の頃は多くが40を越えたあたりだろうか。中には十代と思われる客も居るが、全体からすれば少数に留まる。大半は肌の張りも失せて、皺の数が目に付く者達だ。そして、そんな彼女達の誰も彼もは、感心した様子で湯に浸かる二人の姿を眺めていた。

小さな子供というのは花見月と夢見月である。彼女達が好奇の視線に晒されているのは、持ち前の煌びやかな銀髪や白い肌、卓越した造詣を誇る顔形に因るものばかりではない。彼女達が浸かる風呂桶の脇に立てられた湯の温度を示す看板より来ている。そこに並ぶ文字列は四十八度とあった。

周囲を囲う女性達の中には山野と柳沢の姿もある。

二人とも全身から湯気を上げて、多少のぼせた風体を晒している。その背を浴場の壁に預けては、脱力した様子で花見月と夢見月の姿を眺めていた。視線に籠められた思いは有り余る感嘆である。

「貴方達、凄いわね」

少しだけ疲れた様子で柳沢が二人に言った。

「何が凄いんだ?」

それに気づいた様子も無く花見月が呆気カランと尋ね返す。

「こんな熱いお湯に、よくもまあ長い間を浸かっていられるわね、ってことよ」

「私は無理、手を入れただけで限界」

「熱いっていうより、これは痛いっていうレベルよね」

「そうか?」

「確かに、人間の方には幾らか堪える温度かもしれませんね……」

「私達からすれば熱湯よ?」

「頑張ればカップ麺が作れる」

彼女達がやって来た鹿の湯という温泉は、湯の温度別に合計六つの湯船から成る温泉である。一つの湯船は檜で作られた二メートル四方の小さなもので、それが二列に規則正しく並んでいる。それぞれの湯船の脇には湯の温度を示すたて看板があり、浴場を奥へ進むにつれて示された数値は上がっていく。浴場内ではシャンプーやボディーソープの類の利用が禁止されており、純粋に温泉だけを楽しむ為の施設となっていた。

そんな中で、姉妹は最も湯温の高い湯船に浸かっていた。

通いなれた人間でも躊躇するというその湯船に、かれこれ数分は入っているだろうか。平素から人が入っている時間より、空である時間の方が長いという極みの湯であるにも関わらずである。身体の調子を悪くするのではないかと、周囲の幾人から注意をされても、別に平気だと断っては延々とである。それが注目の大きな原因であった。

周りからは頻りに感嘆の声が上がっていた。

「こんなに長いこと入っていられるのは鈴鹿ちゃんくらいだと思っていたけど、居るところには居るものねえ。もしかして、若いこの子の方が熱いお湯には強いのかしら?」

「そうねぇ、私は年寄りこそ熱いお湯だと思ってばかりいたわよ」

「若いうちからこのお湯に浸かっていれば、歳を取ってからも肌の張りが良さそうねぇ」

「私はここ数年を毎週入りに来ているけど、それだけで体の調子が整った気分よ?」

「そうよねぇ、やっぱり若いうちからの手入れが大切だわねぇ」

「わしも腰痛が最近良くなって気がするわぃ」

高温の湯船を囲んで常連らしき客達が頻りに言葉を交わしている。彼女達からすれば、この浴場はある種の集いの場となっているのだろう。語る姿には慣れや馴染みといったものが感じられた。ある種の井戸端会議である。酷く浮いた外見を持つ花見月や夢見月を前にしても、持ち前の図太い神経を持ってして、大きな声を上げては、忙しなく口を動かしていた。

「あら、噂をすればなんとやら、鈴鹿ちゃんが来たわよ」

「あら本当……」

ややあって、何やら周囲が浴場の出入り口を注目し始めた。

落ち着きの無く忙しない浴場の空気に、幾らか気分を害し始めていた山野と柳沢もまた、彼女達が見つめる先に目を向ける。すると、そこには花見月や夢見月と同程度か、多少だけ小さな身の丈の少女が風呂桶を抱えて歩いていた。

彼女は湯場の出入り口付近で数度掛け湯を行ってから、再び歩みを進める。その足取りは姉妹の浸かる、最奥にある最も熱い湯船を目指していた。つい今し方に聞いた鈴鹿ちゃんというのが彼女を指しての話だろう。二人はそう理解した。確かに幼い子供である。パッと見て小学校低学年程度だろうか。

やがて、湯船の前に辿り着いた彼女は小さく頭を下げた。

「どうも、こんにちは」

その声は良く通る凛としたものであった。

「こんにちは、今日も来たのねぇ」「本当に鈴鹿ちゃんはお風呂が好きねぇ」 「聞いてよ鈴鹿ちゃん、今日は鈴鹿ちゃんの他にも同じくらいの子が居るのよ?」 「鈴鹿ちゃんと同じで、随分長いこと浸かってるの」「鈴鹿ちゃんも凄いわよねぇ?」 「どっちも凄いわよぉ」 「おばさん、ビックリだわよぉ」

答えて湯船を囲った客の口から散々に声が上がった。

そんな喧しい女性客達を隣に置いて、山野と柳沢は鈴鹿と呼ばれる少女に注目していた。

腰下まで伸びた艶やかな長髪が特徴的な少女である。胸元まで届く前髪を根元より分けて、額を大きく顕としていた。肌の色は花見月や静奈と同様に際立って白い。黒子や染みの一つとして見受けられないそれは、同じ女性からすれば羨ましくなる程だろう。深い赤い色をした大きな瞳がくりくりと動いては、彼女達二人や湯船に浸かる花見月、夢見月を見つめる。彼女の顔の作りは、年甲斐の可愛らしさの中にも、一つ芯の通った強い意思の感じられる、凛として何処か浮世離れした不思議な雰囲気を感じさせるものであった。

「お前達は……」

湯船の脇に立って鈴鹿が小さく口を開く。

「…………狐だな?」

その瞬間、彼女達を囲う辺り一帯の空気が震えた。

今まで五月蝿いほどに思えた喧騒が、彼女の問いに合わせてピタリと止まる。

まるで時間を止めてしまったかのようであった。

周囲を見渡せば、花見月と夢見月を除く客の全ては呆けた様に、視線は焦点を失って虚ろな瞳を明後日な方向へ向けていた。辛うじて肉体を律する程度の力は残されているのか、だからと言って倒れ伏すことは無い。しかし、誰も彼もが明らかに精気を抜かれた躯の如く感じられた。

「……貴方も私達を狙う西洋の化け物ですか?」

湯船の中で立ち上がり、ゆっくりと腰を落とすように構えて夢見月が問う。

「西洋の化け物? 何を勝手な、生まれこそ遠いが今は歴としてこの国の化け物だ」

「じゃあ、お前はこの辺の化け物か?」

夢見月の隣に立って花見月が問う。

「ああ、そうだ」

「私達に何か言いたいことがあるのですか?」

「お前達、この辺りでは見ない顔だ。名前をなんと言う?」

「人に名前を尋ねるのならば、先に自ら名乗るのが礼儀ではありませんか?」

「ふむ、それもそうか……」

最大限の警戒を払って姉妹は少女に対する。

背後には他の客と同じく瞳を虚ろとする山野と柳沢の姿がある。大凡のところ、彼女の術中に掛かってるのだろう。意識を飛ばしているだけで、他に実害があるようには思えない。しかし、仮にそうであったとしても油断は出来なかった。

「私は名を鈴鹿という」

返された名は、今し方に周囲の客が口々に発していたものと相違無い。

「ア、アタシは花見月だっ!」

「私は夢見月です」

思いのほか用意に名を明かした少女を前に、仕方無く二人もまた自ら名乗りを上げた。

彼女達が居る浴場は三百平米程度の長方形の空間である。その中に居る人間の意識を僅か一瞬で刈り取ったというのだから、それ相応の力は持っているのだろう。姉妹は油断ならぬ形相で少女に挑んでいた。

「花見月に夢見月というと、その容姿と名からして、お前達は双子の姉妹か?」

「だとしたら、なんだというのです?」

「ふむ、そうか、双子の姉妹狐なのか……」

夢見月の返答に少女はなにやら考え込む素振りを見せる。

二人はその様子を黙って見つめる他になかった。現状では何ら危害を加えられた訳でも無いので、自分達から手を出すのも憚られる。また、下手に動いて相手を刺激するのも問題だ。近隣には多く人間が居る。彼女達が争えば無事には済まないだろう。場合によっては家屋ごと吹き飛ぶかもしれない。面識の無い他の客はともかく、山野や柳沢を傷つけるのは二人にしても望むべくでない。

「何か、私達に用なのですか?」

居心地の悪い緊張に堪らず夢見月が口を開く。

「喧嘩するつもりかっ!?」

二人は正面に相手を捕らえたまま、時折、背後の山野と柳沢の安否を確認しつつ、彼女との遣り取りを進める。相手の力具合が分からないという事が、彼女達にとっては非常なる重圧となっていた。自然と顔付きも時間経過と共に厳しいものへと変化する。

「用という用は無いのだが、まあ、そうだな……」

すると、どうだろう。

鈴鹿と名乗る少女は、湯船に立つ花見月と夢見月を交互に眺めては、何を思ったのか一人小さく頷いた。そして、それまでの強張った表情を穏やかなものへと収めて、肉体を弛緩させる。それは花見月と夢見月の内にある緊張からすれば、随分と呆気無い反応だった。

「すまない、此方の勘違いだ。申し訳ないことをした」

そして、短く謝罪の言葉を述べると共に小さく頭を下げるのだった。

「…………勘違いって何だ?」

花見月が了見を得ない様子で尋ね返す。

「いや、気にしないでくれ。色々とあって気が立っていたんだ」

答える鈴鹿は、今し方とは打って変わって、随分と軽快な物腰で振舞ってみせる。それは自らに敵意が無い事を示そうとする、彼女なりの気遣いなのだろう。とは言え、二人としては特にこの地へやって来た理由を考えると、下手に知らぬ化け物に隣を許すのは、己が力を思えば心許無い。

「そうですか……」

彼女の言葉に納得して良いものか、悩むように夢見月が答える。

「私もここへ湯に入りに来た同じ化け物だ、仲良くやろう」

そんな彼女に鈴鹿は凛とした表情にあって、柔らかな笑みを浮かべ見せた。

笑顔は人の世界に限らず、化け物の世にあっても友好の意を示す意思表示である。第一印象こそ最悪であった。しかし、こうまで言われては、元来の温厚な性格も手伝って、二人としても頑なに拒絶するのは難しい。相手が自分達を落としいれようと画策しているのなら油断は出来ない。けれど、出会い頭に見ず知らずの相手を陥れるというのも可笑しな話だろう。

そのように結論付けて花見月と夢見月は互いに頷きあった。

「此方へは良く来るのですか?」

「あぁ、近くに住んでいるので多分に利用させて貰っている」

「へぇ……、そうなのか」

他に入浴者の居ない湯船の中で脇に寄って、二人は彼女を招き入れる。彼女達の意向を理解してか、小さく頭を下げて礼と謝罪を兼ねた鈴鹿は、それまで手にしていた湯具の一式が収まる桶を床に置いて、湯船の空いた場所に足を下ろす。そして、その身を肩口まで一息に白濁へと沈めた。

同時に、先程に同じく彼女を中心として周囲一体の空気が震える。

それを合図として、浴場はそれまでのざわめきを取り戻した。鈴鹿が周囲へ施していた術を解いたのだろう。一切合財の音が失われていた静かな空間が、再び人の話し言葉の飛び交う雑多な場へと一瞬にして変化していた。

己の変化に戸惑う個々は居ない。まるで全てが無かったかのように、客達は呆ける前までの会話を連続して続けていた。それは、昨日に神野と始めて出会ったファミリーレストランで、姉妹が周囲の客達へ施したものと類似した術である。化け物が人を化かす機会は多く、誰しもは規模は異なれど、こういった術を何某かの方法により得ている。

何時の間にか湯船に浸かっている鈴鹿を目の当たりとして、周囲の女性客達はしきりに彼女に語りかけ始める。この湯場での彼女の人気は相当なものらしい。やはり、温泉に通うには幼すぎる外見年齢が人目を引くのだろう。彼女は周囲の者達の相手をしながらも、しかし、自身としては姉妹に興味があるのか、慣れた様子で適当にそれをあしらいつつ、彼女達との会話を進めた。

「昔は源泉より湧き出した湯が岩肌へ溜まったものに浸かっていたのだが、今は人間が湯船に壁を設けて屋根を被せて、随分と都合の良いようにしてくれている。湯治をするにしても便利になったものだ」

姉妹が語るに迷っていると、それを見越しての気遣いだろう。何気無い調子で鈴鹿が言った。彼女の語る姿は湯場の近所に住む温泉好きの親父、といった風体である。左右に伸ばした両腕を湯船の縁に大きく回して、随分と小慣れた調子であった。若いと言うにも若すぎる外観からは、否応無く滲み出る違和感を禁じえない。

「それにしても、この地は随分と良いお湯が出るのですね」

「お湯が濃いよなっ! 臭いも凄いし」

「そうだろう。私もこの地に留まって長いが、これが唯一にして最高の娯楽だ。ここの湯に慣れてしまっては、もう他の湯へは滅多な事では浸かれまい。お陰で毎日浸かりに来ている始末だ」

「近くにこれだけ素敵な温泉があったのなら、それも仕方の無い事でしょう」

「まあ、お陰で町中が硫黄臭くて敵わんという者も多いがな」

相手に害意は無いと、そう結論を出すに至ったのだろう。

それまでの緊張を解いて、姉妹もまた鈴鹿の話に言葉を返し始める。人里で他の化け物と顔を合わせる事は、そう多いことではない。しかし、滅多に無いと言える程に少ない機会でもない。その頻度を例えるならば、一般的には、都市部の学校を同じくする学生の二人が、放課後に校区の何処かで擦れ違う程度のものだ。また、地域によっては、これよりも更に高頻度であることもある。

「ねぇ、その子が鈴鹿ちゃん?」

ふと、姉妹の背後から山野の声が掛かった。

「ええ、そのようです」

彼女くらいの年齢ならば、周囲に保護者の姿がありそうなものだが、それらしい者は見受けられない。しかも、浸かっているお湯は、自分達でも入るには入れない熱湯である。その挙動より、人間らしからぬとは考えつつも、最後の部分で確信出来ない、といったところだろうか。問う山野の言葉の端々にはそういった疑念が見て取れた。

「連れか?」

とは言え、それも多少だけ言葉を交わせば確信として見えてくるものがある。

「おう、アタシ達の友達だっ!」

「どうも、始めまして。私は山野、こっちは柳沢」

相手の外観に戸惑う事無く、平素からの淡々とした態度を崩す事無く挨拶をしてみせる山野。その人差し指が指し示す先には友人の顔がある。紹介されてしまっては仕方無い。柳沢もまた小さく会釈してみせた。

「始めまして」

「二人とも、一緒にこの町へ来たんだ」

それに花見月は得意げな表情を持ってして言葉を続ける。

「そうか、お前達は人間と共に来たのか」

「ふぅん、その言い方からすると、貴方もやっぱり普通じゃないのね?」

「貴方も花見月ちゃん達と同じ?」

彼女の子供らしからぬ言動を受けて、二人は共通の知人である誰かさんの姿を重ねたのだろう。次いで口をついて出たのは、そんな確認の言葉であった。前例が目の前に二人も居るだけあって、幾ら姿が幼くとも騙されることは無い。

「ほぉ、我々に理解のある人間か、なかなか面白い」

すると、鈴鹿は酷く関心した様子で二人と二匹を交互に眺め始めた。

古くは人と化け物が共存する地域も多々見受けられた。しかし、それも人口の増加と人間社会の発展に従って、その数を徐々に減らしていった。だから、こうして人間と対等な関係を持ち、自らを知らしめた上で生活を共にする友好的な化け物というのは、現代において中々に稀有な存在である。今の世では多くの場で住み分けが済んでしまっており、交流が無いのが常なのだった。

「さっき、急に体に力が入らなくなったけど、それも貴方のせいかしら?」

「自らの変化を自覚していたのか?」

「最後には意識が朦朧となって、元に戻ったかと思ったら貴方は湯船に居るじゃない?」

「強いお酒を一気に煽った感じ。お風呂だから、初めは湯当たりかとも思った」

周囲の客達は全く意識している様子は無い。それまでと変わらず湯治を楽しんでいる。しかし、二人だけは鈴鹿の行使した何某かの術に気付いていたらしい。そして、そんな二人を鈴鹿は好奇の眼で見て答えた。

「今時の若い人間にしては、珍しく自意識の強い者だな」

「お二人は幾らかを私達と共にあったので、多少の耐性がついているのでしょう。若しくは、それが既知の現象であるが故に、自らの身体に起こった変化について冷静に考えられるのではないかと」

「なるほど、そういうことか」

一つ納得して、鈴鹿は湯船の縁に置かれた手拭を取ると、顔を軽く拭った。

「貴方は二人と同じ狐? それとも別の化け物?」

公衆の面前にありながら、山野は躊躇無く尋ねた。

あれだけ周囲の注目を浴びていた鈴鹿だが、しかし、今は誰も話し掛けて来ない。周りを囲むお喋りな女性達も、仲間内だけで話に花を咲かせており、彼女達に絡んでくることは無い。大凡のところ、彼女の術は依然としてある程度だけ有効なのだろう。他の人間が自分達の存在を気に掛けないよう暗示しているに違いない。

だから、山野の突拍子も無い言葉に突っ込みを入れる者も周囲には居なかった。

「私は狐ではない、鬼だ」

「鬼?」

「そう、鬼だ」

問われて鈴鹿は躊躇無く己を示した。

「けど、角は生えてないわね」

「お前達の連れの狐も、今は耳や尻尾を生やしてはいないだろう? この様な場所で曝け出す訳にはいくまい。昔ならばいざ知らず、今の世にあっては我々の存在など在って無い様なものだ」

「昔は隠してなかったの?」

「仮に、酒に酔った勢いで晒したとしても、その場限りの話であった。それで周囲から恐れられたとしても、それこそ土地を離れれば事は済んだ。なればこそ、気を使う事も今ほどではなく、人目に触れる機会も多々あった」

「たしかに、花見月や夢見月も滅多に耳や尻尾を出さないわね」

「数えるくらいしか見たことが無い、残念」

「ここは人の里ですからね。私達もそれ相応に気を使っているつもりです。人目に触れて騒ぎになれば、皆さんの迷惑になってしまいますから。それに、幾ら化け物が強力だとは言え、人間も群れれば脅威です」

「ああ、違いない」

夢見月の言葉に鈴鹿が深く頷いて応じる。

「それにしても、化け物っていうのは誰も彼も、綺麗でいいわよね。肌とかプニプニのスベスベだし、花見月や夢見月もそうだけど、貴方もまた、私と同じ黒髪だとは思えない程に艶やかじゃない?」

「ん、そうか?」

「たしかに、とても綺麗で可愛い」

柳沢の何気無い呟きに山野もコクコクと頷く。

「あまり気にした事は無かったが、人の目から見ればそう映るものか」

「何か特別な手入れとか、秘術みたいなものがあるのかしら?」

「それはまあ、我々は人間とは違うからな。肉体的な老いを考えての事なら何を言っても意味の無い話だぞ? その上で語るなれば、特にこれと言って特別な手入れをしている事は無い。普通に湯で洗う程度だ」

「っていうと、やっぱりこの子達と同じなのね」

「柳沢はプニプニでスベスベになりたいのか?」

「そりゃまあ……、女なら誰だって外見には気を使うものよ?」

「確かに化け物の中にも、そういった類の感性に敏感な者は居りますね」

「だが、人間のそれと比較しては小さな派閥に過ぎない。何故ならば、私達にとっては力が全てだ。見てくれに感けている余裕があるのならば、それを他へ回すべきだと考えるのが普通だろう。でなければ今後を生き残れない」

「たしかに、そういった風習は今も昔も強いですね」

「後は、こうして人の姿を取っている以上、人間との付き合いを円滑に行う為にも、ある程度は相手に好かれるような姿格好になっておく必要がある、と言ったところだろう。他にも理由はあるかもしれぬがな」

「ふぅん、そっちも色々と考えているのねぇ」

「まあ、私はこれが地の姿なのだがな」

「っていうと、やっぱり羨ましい」

二人の言葉に山野と柳沢は納得した様子で頷いてみせる。

これまで口にする事は無かったが、静奈を筆頭とした化け物勢との係わり合いの中で、長らく疑問に思っていたのだろう。味方の化け狐達は元より、敵であるマシューやジェームズにしても、非常に整った顔立ちをしていたのは記憶に新しい。悲しいのは返って来た理由の全てが、己の手の届かない処にあったことだろうか。

一方で、更なる疑問を持った山野が言葉を続ける。

「それじゃあ、花見月ちゃんと夢見月ちゃんは元の姿ってあるの?」

「私達ですか?」

予期せぬ問いに夢見月が多少驚いた様子で彼女を振り返る。

「やっぱり動物の狐の姿?」

山野は興味津々と言った様子で夢見月を見つめていた。

ただ、その表情は新しい玩具を前に気を引かれる子供と言うよりは、参考書籍を片手に難解な方程式に挑む学生といった様子である。二人に向き直った彼女の面構えは、どこか、妙に真面目な気風が感じられた。

その傍らで、流石の柳沢も関心があるのか、二人のやり取りに注目する。

「山野は、アタシ達のことを知りたいか?」

「ええ、とても気になるから、知りたい」

「花見月、良いのですか?」

逆に問い返した姉に妹が声を掛ける。

ある程度は込み入った話に違いないので、問う側も問われる側も恐る恐るといった感があるのは仕方の無い事だろう。彼女達と出会ってから数週間が過ぎているとは言え、両者には人間と化け物と言う大きな溝がある。

「別にアタシは構わないぞ、教えたって何か減るわけでもないし」

「まあ、それもそうですね」

「夢見月が駄目って言うなら言わないけど」

「私は、別に構わないと思います」

けれど、山野の問うた内容は彼女達にとっては、そこまで大した事柄ではなかった様子だ。二つ三つ言葉を交わして、姉妹は容易に結論を出す。そして、頭の上にちょこんと乗った手拭を小さく揺らして相手に向き合うと、二人は何気無い口調で答えを返した。

「私達は人間と化け狐の混血なんです」

「混血?」

「父さんが狐で、母さんが人間なんだ」

「いわゆる、あいの子というものですね」

「なるほど……」

納得した様子で山野は頷いた。

「そして、どうやら人間の因子の方が狐の因子に勝ったらしく、私と花見月は母の腹より生まれたときから、この姿をしていたそうです。これに関しては出世時の記憶が無いので確証はないのですが、親から直接に聞いたので間違いないでしょう」

「父さんは、母さんにそっくりだって、よくアタシ達のことを褒めてくれた」

「そういう訳で、動物として狐の姿を取る事も出来ますが、元の姿は如何様だと問われれば、此方が本来の姿ということになります。そして、私としてもこの姿をしているときが一番楽です」

「二人とも、半分は人間の血が混じってたんだ……」

呟く山野は、なにやら強く心を打たれた様子である。

「本来の化け狐は、動物としての狐が元来の姿だそうです。しかし、私達に関しては例外ということになるのでしょうか。突き詰めて言うならば、化け狐という範疇からも聊か外れるのかもしれません」

「同じ狐の奴からは、半妖とか言われたこともあったな、たしか」

なにやら過去を思い返して花見月が呟く。彼女にしては珍しく遠い目をしていたりするのが、その場の誰の目にも奇異に映った。だが、それに答える夢見月の言葉は存外明るいものであったりする。

「まあ、今となってはそれほど拘るような話でもないのですが」

「アタシはアタシだし、夢見月は夢見月だもんなっ!」

にこやかに笑う花見月に、自然と夢見月も笑顔で応じた。

もしかしたら、出自の関係を巡って過去に何かあったのかもしれない。その場の誰もが、そんな風に思うようなやり取りだった。だが、これ以上を割って入るのは良くないだろう。山野にしても、流石にその辺りの線引きは弁えているらしい。普段のように強く出る事は無く、小さく頷いて言葉を返した。

「そうだったんだ、二人とも、教えてくれてどうもありがとう」

「いいえ、別に大したことではありませんから」

「気にしなくていいぞ」

静々と頭を下げてみせる彼女に二人は手を振って答える。その様子が可笑しかったのだろうか。彼女達の会話に耳を傾けていた鈴鹿が口元に小さく笑みを浮かべながら何気無い口調で呟いた。

「お前達は人間と化け物の癖に随分と仲が良いのだな」

それに逸早く反応した花見月が無い胸を大きく張って頷く。

「おう、アタシ達は友達だからな」

そんな具合で、のらりくらりと語らいながら、彼女達はご当地自慢の温泉を心ゆくまでゆっくりと楽しんだのだった。気付けばいつのまにか時計の針が一周していたというのだから驚きだろう。

「今、どちらに居ますか?」

武人の携帯電話を片手に西光坊が受話器の向こうへ問う。

電話の相手は柳沢である。彼女は神野を見送ってすぐに、山野と柳沢の電話に連絡を入れた。しかし、二人からは共に全く反応が無かった。大凡のところで風呂にでも入っているのだろうと推測した武人達は、それから暫くを他にやる事も無く、宿の部屋に設置された古臭いブラウン管テレビでローカル番組を眺めては、グダグダと無駄に時間を過ごしていた。観光地にやって来た人間の取る行動としては、非常に贅沢なものだろう。

それから暫くの後、今し方に行った数度目の呼びかけに応じて、漸く彼女達と電話が繋がった次第である。ちなみに、西光坊が端末を手に取っているのは、武人に腕の自由が無いからだ。彼女には携帯電話の他にも、財布のような使用頻度の高い貴重品を預かって貰っている。これは静奈の外見があれなので、些細な社会活動に当たっても、彼女の方が不都合無く進むだろうという武人の意見に因る。

「では、そのようにお願いします」

数分の会話を経て通話は終わる。

手馴れた様子でボタンを押して回線を切断した彼女は、それを二つに折りたたんでズボンのポケットに仕舞い込んだ。そして、脇から彼女を見つめている武人と静奈に、正座を崩す事無く向き直る。

「先程の話し合いにあった手筈通り、神社前で落ち合うことになりました」

「うむ、それでは参るかぇ」

「そうだね」

宿は二日間押さえてあるので荷物を持つ必要は無い。貴重品等の必要最低限な荷物を各々纏って部屋を出る。途中、廊下の軋む音を耳にしてか、フロントから顔を覗かせた顔見知りの男性従業員に軽く会釈して、三人は襤褸の宿を後とした。

待ち合わせ場所として指定した那須温泉神社は、創立が第三十四代舒明天皇の御代として六三〇年。矢傷の白鹿を追って山中に迷い込んだ狩野三郎行広という男が、神の御教により温泉を発見し神社を創建したのが起源とされる。以後、同神社は温泉の神を祀り崇敬の誠を尽くす場と成り、狩野三郎行広は後年那須温泉開発の祖として語られ、見立神社祭神として祀られている、らしい。

それにしては境内の建造物が何れも妙に新しかったり、灯篭や石柱を初めとして、至る所に出資者たる氏子の名前が隙間無く彫られている辺り、伝わる伝承とは懸け離れて現代的な趣を感じる社である。地元住民も町興しに必至なのだろう。

暫くして目的の鳥居前に着くと、そこには既に四人の姿があった。

「少し、待たせたかな?」

「此方の方が圧倒的に近い場所に居りましたから、その辺は仕方ありません」

「これから、ご飯に行くんだよなっ!?」

「主等も湯に浸かって良い具合に腹が減ったであろう?」

「ええ、丁度良いタイミング」

「行くのなら店が混み始める前にさっさと行きましょう」

「おうっ!」

余程腹が減っているのだろう。一同は顔を合わせてすぐに歩き始める。

花見月と並び柳沢が率先して先頭を歩いている辺りに、武人としては多少の笑いを堪えつつの移動だった。なんだかんだで分かりやすい性格をしているのが彼女だと再認識した次第である。勿論、それを口にしたのなら口論は避けられないであろうから、決して口に出す事無く黙っておく。

そんな一同の姿を、周囲の観光客は遠巻きに見つめていた。

やはり、静奈達の存在は何処まで行っても多く人目を引いた。時折、親に連れられた小さな子供が自分達を指差して何やら叫ぶのを聞く。歳を取ったご老体の面々もまた、関心したように彼女達の姿に見入っていた。それこそ老若男女の注目を浴びている。

だが、そんな周囲からの意識など何処吹く風で化け物達は道を行く。温泉街は神社を最上に置いて徐々に下り坂となっている。いわゆる那須の温泉街道と呼ばれる通りだ。それをゆっくりと下りつつ、道の両脇に並んだ店屋に目を移ろわせて行く。それらは土産屋であったり、宿屋であったり、飲食店であったりする。

「何処に致しますか?」

「我は何処でも良いが、武人はどうじゃ?」

「僕は、そうだねぇ……」

尋ねられて武人は、ゆっくりと歩きつつ幾らかの店舗を見比べる。

聊か寂れてはいても、一応は観光地なだけあって、軒を連ねる店舗の多くは門を開いて客を待ち構えている。あちらこちらに看板やら暖簾やらが目に付いた。店の構えは古臭いものが多いが、広告だけは妙に力が入って煌びやかなものだ。それがまた古い温泉街としての情緒を感じさせる。

その幾つかを眺めつつ、柳沢が何気無い風に呟いた。

「前から疑問だったのだけれど、こういう場所って何故に蕎麦屋が多いのかしら?」

それは最もな疑問だと武人も内心で同意する。

「やっぱり、温泉街だから?」

「山野、それ全然答えになってないわよ?」

「こういう所で食べる蕎麦って、大抵の場合で不味いんだよなぁ」

ぼそりと武人が呟く。

「アタシは別に何でもいいぞ?」

「私も何でも構いませんが、如何しますか?」

あれやこれやと言葉を交わしているうちに、一同の脇に一軒の食堂が現れた。それは今まさに昼時だという時刻にあって、窓ガラスから覗く店内には客を一人も見つけられない寂れた店舗であった。閑古鳥が全力で鳴いている。

「じゃあ、ここでどう?」

明らかに外れな雰囲気の漂う店を指差して武人が言う。

「……ここ?」

柳沢があからさまに顔を顰める。

「こういう明らかに駄目っぽい店がいいんだよ、寂れた温泉旅行では」

「なによ、その捻くれた思考」

「芹沢君の趣味っていまいち分からない」

「こういう不味そうな店で思っていたより美味しいものが出てきたら、少しだけ幸せな気分にならない? それに、こういう辺境ながら一定の観光客が望める地域だと、味で勝負するような店舗なんて滅多にないよ。見た感じ同業の店舗もそこまで多くないし、黙ってたってお客さんは入ってくるんだから」

「前から感じてはいたけれど、貴方って凄くネガティブよね」

「べ、別にいいだろ、そんなの個人の趣味なんだから」

とはいえ、彼を除く誰もが何処でも良いと言っているので、他に具体的な案も無い。

「それでは、ここにするかぇ?」

「まあ、別に何処でもいいけどね、私は……」

静奈の言葉を否定する者は居ない。武人の案ということで、無意識に否定的な気分となっているであろう柳沢も、小さく呟いて抗議を終える。そんなこんなでガラス戸を開けた面々は、ぞろぞろと店内へ入っていった。

店内には外から見たとおり客が一人も居らず、唯一目に付いた店主であろう従業員は、客席の一つに腰掛けて、店内に設置されたテレビを見ていた。だが、武人達の来店を知ると、やや面食らった様子ながら「いらっしゃい」と笑みを浮かべて席を立ち近づいてきた。

店内には机と椅子が並ぶ区画と、畳の敷かれた区画があった。武人の存在もあって、皆は迷う事無く座敷を選んだ。店主の手によって、三つ並んだ四人掛けのテーブルの内、二つが移動されて繋ぎ合わされる。そうして無理矢理に八人掛けの席となった。

一同は適度に注文を済ませる。

それから、店主が調理の為に厨房に引っ込んだことを確認して、誰よりも早く静奈が皆に向けて口を開いた。それは神野より伝え聞いた話に因る。一応、花見月や夢見月の耳にも入れておいたほうが良いと考えたのだろう。

「ひとつ、主等に報せておかねばならんことがある」

そう言って切り出した彼女の下に皆の注目が向いた。

「何かあったのか?」

「うむ、我等の置かれた状況が聊か面倒な事になったので伝えておきたい」

「どういうことですか?」

大凡のところで察しが付いているのだろう。途端に真剣な表情となった夢見月が正面に座る静奈へ問い返す。自然と彼女の隣に腰掛けた花見月もまた、口を閉ざして真面目な顔となる。

「殺生石の封を守る化け物勢だが、その一部が神野の交渉に応じなかったらしいのじゃ」

「…………やはり、そう上手くはいかなかったですか」

「大半を押さえ込んだとは言っていたが、それでも十分に考慮すべき事態じゃろう」

「そいつ等は、アタシ達の敵になるのか?」

「うむ、そうなる。しかし、此処で退いても何れは金毛の天使がやって来てジリ貧じゃろう。だから、我は西光坊を先頭に立てて力押しで行こうと思う。先程に宿で武人と共に話し合った結果じゃ」

そう言って彼女は右に並ぶ武人と西光坊の二人を除いた四名を一巡して見つめる。

「そこで主等の意見を聞きたい」

「乗るか、降りるか、ですか?」

「そうじゃ。これは我と武人、それに西光坊の問題じゃ。仮に金毛の天使が西洋の化け物の側に付いたとしても、主等四人を直接的に狙う事は無いじゃろう。ともすれば、そこまでの危険を冒してまで我等に付き合う道理はあるまい?」

「…………」

「但し、場合によっては我等を誘き出す餌に使われるかも知れぬ。先の件で我等を襲った化け物の片割れの所在もはっきりせん。下手に動いて掴まる可能性を考えれば、秤はどちらに傾くか分からんのじゃ」

静奈の言葉を受けて姉妹は押し黙る。

「それって、別に一緒に居たければ一緒に居てもいいってこと?」

そんな中で脇より山野が声をあげた。

「我や西光坊は武人を何よりも優先する。その上で共に在りたいと言うのであれば、我としては主等が餌として捕らわれる可能性を否定出来る分だけありがたい。何事も手元にあるほうが管理は楽じゃろう」

「つまり、どちらを選んでも一定の危険は逃れられないということですね」

「ここまで連れ出しておいて悪いが、そういうことじゃ」

そこまで呟いたところで、店の奥から盆の上に人数分のグラスとおしぼりを乗せた店主が現れた。八人分ということで、盆の上は隙間無く一杯一杯であり、進む姿は少々危うい感がある。

「そういう訳で、主等には夜が訪れるまでに決めて貰いたい」

「……わかりました」

やがて、テーブルの上に各々の手でグラスとおしぼりが行き渡ったのを眺めつつ、そう締め括る様に静奈が呟いた。それに花見月と夢見月は神妙な表情で静かに頷いて応じる。

一方で山野は既に何もかもを決めてしまった様子だった。そんな友人を隣に置いて、柳沢は何処か疲れた表情を見せていた。彼女としても判断に困るところであろう。しかし、山野の身の振りが決まった時点で彼女の選択肢は択一となった。

店主は出すものを出すと「注文が決まりましたら呼んで下さい」と言って、再び厨房へと戻っていった。一応、客の手前でテレビを眺める事は控えるようだ。店には他に客の姿も無い。ただ淡々と付けっぱなしのテレビの音が流れていた。

「じゃ、じゃあ、とりあえず話はここまでにして注文を決めようか」

昨晩より何も食べていないだけあって腹が空いたのだろう。武人が仕切りなおすように声も大きく提案する。メニューは壁にいくつか掛けられた紙に示されている。ラーメン、蕎麦、うどん、丼モノ、なんでもござれだ。所謂、大衆食堂というやつだろう。

「おうっ! アタシもお腹ペコペコだ!」

「そうですね、一先ず昼食と致しましょう」

「うむ」

一同は頷いて思い思いに品名を口とし始めた。

日が暮れて数刻が経過した。

昨晩より泊している宿の一室には武人、静奈、西光坊、花見月、夢見月、山野、柳沢の七名が集まっている。テレビのスピーカーから流れる音を背景に、一同はテーブルを囲んで温泉饅頭を摘みつつ、暢気に茶なんぞ啜っていた。

しかし、そんな和やかな時間も静奈の次の一言で終わりを告げる。

「そろそろかのぉ?」

時刻は夜の十二時を指していた。

「行きますか?」

「うむ、頃合じゃろう」

西光坊に問われて、彼女はゆっくりと立ち上がる。

「私達はどうすれば良いですか?」

そんな静奈に夢見月が尋ねた。

神野の話からすれば、作戦には妨害が入る可能性が非常に高い。もしも相手が強力な化け物だというのなら、下手に付いて行っては西光坊の足手まといとなることが目に見えている。そう考えての疑問だろう。

「ふぅむ、そうじゃな……」

静奈が西光坊と共に行くであろうことは、宣言されるまでも無く、他の誰もが理解していた。けれど、他の面々に関しては一考の余地がある。下手にぞろぞろと大人数で行くのも問題だろう。

「私達はこの場で待機していた方が、お二人には迷惑が無いように思えますが」

「しかし、それでは主等が我と共に在ると言ってくれた意味が聊か失われるようにも思える。西光坊の負担を考えれば、敵の具体的な勢力が知れない故に、というのも正論には違いない。しかし、場合によっては主等も戦力と成り得るじゃろう」

「戦力、ですか……」

静奈の言葉を受けて、夢見月が尻窄みに小さく呟く。

「けど、流石に私達はここで待機よね?」

そんな彼女を尻目に、山野を横目で見つめる柳沢が問うた。二人には姉妹のような特別な力は無い。共に行っても足を引っ張るばかりだろう。何よりも、柳沢としては山野をこれ以上、人外の世界へ近づけさせたくないという思惑がある。

「確かに、二人は飛ぶことも叶いませんからね、此処で待機すべきでしょう」

「やっぱり、駄目なの?」

「当然でしょう? 今度こそ死ぬわよ、本当」

物言いた気な山野を柳沢が無理矢理に押さえ込む。今回ばかりは彼女の我が侭を通す事は出来ない。下手をすれば、それは武人や静奈といった共に向かう者の命にまで関わるのだと彼女は理解していた。

「…………残念」

「また、いつか機会を待って下さい」

そんな彼女を諭すように、やんわりと西光坊が語りかける。

「ともすれば、やはり花見月と夢見月が共に居ってやるのが、この者達にとっても我等にとっても最も無難な選択じゃろう。敵の勢力が詳しく分からない状況では、開けた場所へ集うのは上手くない」

「では、私と花見月はここで二人と共に待機ということで良いですか?」

「うむ、それで行くとしよう」

淡々と身の振りを決めて、彼女達は出陣の支度を進める。そんな中で、一人浮いてしまった武人が所在無さ気におずおずと声を上げた。それは今まで全く自分に触れる会話が無かったからだ。

「ところで、僕はどうしたらいいの?」

静奈の顔を覗き伺うように問う。

つい数週間前には人外に囲まれながらも大立ち回りして見せた彼である。しかし、それもある種の一時的な感情の起伏に因るものであって、究極的には状況に流されたに過ぎない。火事場の馬鹿力とでも言うのだろうか。再び平穏に身を置いて過ごした時間は、それほど長いとは言えない。けれど、それでも再び恐れを手に入れるには十分な間隔であった。加えて、その際に身へ受けた損失は今尚も彼の悩みの種となっている。

「武人には、我と共に来て欲しい」

「でも、僕には何も出来る事なんて無いよ?」

それこそ、部活動で陸上部に所属する山野の方が肉体的にも精神的にも頑健性に富むだろう。弓道部に所属する柳沢の方が技能に優れるだろう。加えて、前者は何事にも動じない、とまでは行かないが、よっぽどな事が起こらない限り狼狽する事の無い強健な精神の持ち主でもある。そんな風に彼は自然と考えていた。幼少の頃よりの良くない癖である。

だが、静奈は決して退かなかった。

「これは我の利己心じゃ」

「利己心?」

「我は常に主の隣に居たい、だから、一緒にあって欲しいのじゃ。目の届かない所に在って、その身に何かあったらと思うと、我は居ても立っても居られなくなる。だから、お願いじゃから一緒に来て欲しい」

それまでとは口調を一変させて、彼女は懇願するように言う。

「武人様の事は私が命に代えましても守りますので」

自らの主人を思ってのことだろう。それに西光坊も続いた。

武人は己の無力を良く理解している。しかし、着いて行かないと静奈の調子が狂ってしまうというのだから、それは別の観点から捉えれば、随分な遠回りだが、役に立つという事と同義かもしれない。その様に珍しくも前向きに思考を巡らせた武人は、暫し悩む素振りを見せたが最終的には首を縦に振って答えた。

「わかった、一緒に行くよ」

「ありがとう、武人。至上の感謝じゃ……」

静奈は彼の身体に両腕を回して軽く抱きついた。

それは短い抱擁である。

「それでは、行きますか?」

「うむ」

西光坊に促されて静奈が武人から離れる。

「留守は任されました。気をつけて行ってきて下さい」

「殺生石の場所は先に説明した通りじゃ。主等ならば走れば数分と掛からず辿り着く事が出来るじゃろう。何か問題が生じたのならば、すぐに連絡をとるよう頼んだぞ。場合に因っては日と策を改める事も考慮しておる」

「はい、了解です」

「武人様の携帯電話は私が預かっております、電話での連絡は此方へお願いします」

「おうっ! こっちの事はアタシ達に任せとけよなっ!」

花見月の元気な声が壁の薄い宿に大きく響いて聞こえた。

結局、昼での談義を受けて尚、静奈達と共に在る事を望んだ姉妹と山野、柳沢は、この宿で三人の帰りを待ち、大人しく待機することとなった。西光坊から離れるという意味では、昼の時点で分かれていたとしても大差無いように思われるかもしれない。しかし、直線距離で数百メートルというのは、化け物にしては存外近いもので、静奈達からすれば大きな安心感に至る。

「それでは、行って参ります」

「じゃあ、また後で」

「留守を頼んだぞぇ」

そんなこんなで、三人は殺生石を目指して部屋を後としたのだった。花見月と夢見月、山野、柳沢の四人は、それを畳の上からテーブルを囲んだまま見送る。これが、夜の十二時を過ぎて始まる、長い一夜の幕開けであった。