金髪ロリ達観クールラノベ 第三巻

第四話

如何に観光地とはいえ田舎には違いない。殺生石を祭るのだという山肌へ通じる道には外灯の類も無く、その脇に立てられた神社も含めて周囲一体は非常に暗かった。それこそ、唯一の光源は月明かりのみである。それも新月が近い為か零に等しい。お陰で懐中電灯でも持たない限り満足に歩く事は叶わない。正に一寸は闇といった具合であった

だから、武人の身は静奈の腕の中にあった。

静奈と西光坊は己が身を浮かして、神社の脇に置かれた駐車場から殺生石まで伸びる道を進んでいた。これならば暗がりにあっても足元に気を取られる事は無い。そういう訳で、空を飛ぶ事が出来ない武人は彼女に抱えられての移動である。ちなみに全ては奇襲として、二人は狐火さえ出していない。

「なんか、こういうのばっかりだね、僕は」

何度経験しても慣れる事の無い感覚に身を硬くして武人が呟く。

「窮屈な思いをさせて済まないが、もう暫くだけ我慢して欲しい」

「普通はあれだよね、本来なら僕が君を抱くのが正統的というかなんというか……」

「おぉ、武人は我を抱いてくれるのかぇ?」

「そうだね、腕があったらそれもいいかもしれない」

試しに少し挑むような口調で言ってみる。ここ最近は彼女の性格の変化もあって、意識して控えていた軽口である。とはいえ、元来から武人の芯にあるところは、山野や柳沢と接しているときが最も自然だと言える。簡単に言えば多少だけ捻くれた皮肉屋なのだ。

「ぬ、ぬぅ…………、すまないことを口にしてしまった、武人、申し訳無い……」

だが、やはり彼女には対応の難しい事柄であったらしい。

「い、いや、別にちょっとした冗談だから気にしないでよ」

答える姿は非常に申し訳無さ気なものだ。武人は慌てて弁解の言葉を続ける。静奈の性格が豹変してからは、こうした自虐さえ不用意に行う事は出来ない。それは多少の時間が経過した今にしても大して変わってはいなかった。

つい数週間前までは、それに意気揚々と辛辣な言葉を返してきた筈の彼女。しかし、今のなんとしおらしい事か。悲しげに伏せられた瞳があまりにも可愛らしくて、武人は己の行為に罪悪感さえ感じていた。これはこれで対応の難しいものだと考えながら、彼は二人が向かう先に目を向ける。

日が昇っている内には、意図して向かわなかった殺生石の袂である。それは石を守る敵を刺激しない為であり、また、静奈や西光坊の姿を相手に晒さない為でもある。もしも相手が人目を気にせず襲いかかってくるような輩であった場合を考えたのなら、当然の対応だと言えるだろう。

宿を後にして暫くすると、否応無く目が闇に慣れて来た。周囲一帯は大小さまざまない岩の転がる地帯であって、そこに観光用の歩道として多少だけ高い位置に木の板を引いて道が作られている。彼女達はその上数十センチを浮いて移動していた。速度は全力疾走で進む自転車、といったところだろうか。頬に当たるのは多分に水気を伴う湿った温い風であるが、今の気温を十分に心地良く感じられる。

やがて三人の前に一つ大きな岩がお目見えした。

「そろそろ着きます」

時を合わせて、西光坊の涼しい声が隣から届く。

「っていうと、殺生石はあの一番大きい奴?」

岩肌に鎮座する中で、それらしい石といえば中央に置かれた最も大きな一つである。注連縄らしきものが取り付けられているが、それも風化して随分とぼろぼろである。紙垂も全てが根本より千切れて失われていた。所々に僅か白いものが見え隠れする程度である。

歩道の脇には何やら説明書きらしき立て札が見られる。だが、それも光源の少ない夜中にあっては、間に置かれた距離も手伝って、何が書いてあるのかさっぱりだった。観光客向けに殺生石の生い立ちでも示されているのだろうが、史実と共に在る武人にしてみれば、わざわざ光を当てて眺めるだけの価値も無い代物である。

「多少形を変えているが、あれが我を封ずる殺生石の一片じゃろう」

「一片というと、あれと同じものが他にもあるってこと?」

「うむ、大本の殺生石とは、あれよりも更に大きな岩であった。それが何者かの手に因って打ち砕かれたのが数百年前の話だという。この地にはあれ一つじゃが、他の地にも散っていったものが幾らかある筈じゃ」

「へぇ……」

それは武人の耳に及んでいた殺生石の伝承とも繋がるものであった。人間社会に浸透している御伽噺にしても、ある程度は史実を元に作られてるらしい。ともすれば、幾らかの疑問が沸いて出る。

「っていうことは、静奈が元の力を取り戻すには、散っていった全部の破片を壊して回る必要があるの? 僕が調べた限りだと、殺生石と名の付く石の存在は、関東のみならず全国的にあるようだけど」

「まあ、もと在った通りを望むのならば、そういうことになるのぉ」

武人の言葉を受けて、静奈は難しそうな表情を作り答える。

「それでは、ここで一度体制を整えましょう」

「うむ、そうじゃな」

二人は宙を舞う身体を止めて足を地に落とす。

対象から手前、数十メートルと言ったところか。

そんな時である、時を合わせた様に凛とした声が辺りへ響いた。

「来たな、外道がっ!」

音源は向かって正面に鎮座する殺生石の側から聞こえてきた

声の主は女性だろう。凛とした力強い一喝である。

静奈と西光坊は咄嗟に其方へ身構える。こうなる事はある程度だけ予想していたので、そこまで大仰に驚く事は無い。しかし、決して油断することも出来ない。武人を連れている事もあって、二人は緊張した面持ちで声の主を見つめる。

「主が神野の言葉に乗らなかったという件の守り目か」

低い抑揚の無い声で静奈が答える。

その調子は今まで武人に投げ掛けていたものとは一変して酷く冷たいものだ。明らかに殺意や害意といったものが含まれていた。隣立つ西光坊にしても、すぐにでも駆け出せるよう、静奈の言葉に耳を傾けながらも臨戦態勢を取っている。

例外があるとすれば、それは静奈の胸に抱かれた武人だろう。人外の争いに手を出せる筈も無く、また、この暗闇の中では満足に駆け回る事も出来ない。そして、両腕が無い現状にあっては、石にでも躓いて転ぼうものなら骨を折る大怪我にも繋がりかねない。というわけで、大人しく抱かれたままの状態で静観の体制を保つに徹する。

「やはり、既にあの者より話は通っていたようだな」

声の主は殺生石の裏からゆっくりと出て来た。砂利を踏みしめる音を小さく響かせて数歩を歩き姿を現す。そして、岩の脇に立ち止まると、どっしりと腕を組んで仁王立ちである。此方の狙いを理解した上での位置取りだろう。相手がどういった目的を持ってこの場に臨んでいるのか、語られるまでも無く理解できる。

「ならば争いは避けられぬかぇ」

「この期に及んで白面金毛が何を言う」

敵に感づかれてしまったとあっては明かりを灯す事に抵抗も無い。相手の詳しい風貌を確認する為に、静奈と西光坊が共に幾らかの狐火を灯した。ゆらゆらと揺れながら淡い光を放つそれは、彼女達の周囲を囲うように宙に浮いて辺りを照らし出す。

ともすれば、相手の姿は三人の下に明らかとなる。

その者は静奈と大差ない身長の持ち主であった。揚柳の細身に十二単、濃い紅の袴姿を纏った白拍子の如き格好をしている。上下で鮮やかにも紅白として分かれた衣装は非常に印象的だ。また、頭上にちょこんと乗せられたやや小柄な立烏帽子が、現物を知らぬ武人の目には、とても奇異なものとして映った。その下から流れる黒髪は、膝裏に届くほどの長さであって、僅かばかりの風に吹かれ小さく揺れている。堀の深い目鼻立ちは色白い肌を持って成され、キリリと引き締まった顔つきは、年頃の可愛らしさと言うより、その外見年齢に対して分不相応な凛々しさを感じさせた。

「な、なか随分と物騒なものを持ってるよ、あの子」

「うむ…………、我はあの刀に見覚えがあるぞぇ」

静奈にだけ聞こえるよう小さく呟いた武人の言葉通り、少女の片手には黄金に飾られた厳つい大太刀が携えられていた。その刀身は少女の身の丈を超える。もしも彼女が外見と等しく歳を重ねた人間に過ぎなかったのならば、絶対に振り回すことなど叶わないだろう。また、それとは別にもう一本、別の刀が彼女の腰には掛けられている。形状に因る分類からすれば、脇差と呼ばれる類のものだろう。

「弱ったところを自らこの場に現れるとは、今宵がお前の命日となるだろう」

挑むように言って、少女は今し方に武人の指摘した日本刀の一本を正面に構える。

狐火に照らされて刃の波紋が揺らめいて見える様は、傍から眺める分には随分と幻想的なものだ。しかし、実際に切っ先を向けられている武人からすれば、刃物など台所の包丁以外には録に目の当たりとした事がない普通の人間代表として、目の前の光景は恐怖以外の何ものでもなかった。

「我は主と争うつもりは無い、其の刃を退けて貰いたい」

それでも静奈は淡々と言葉を続ける。

「お前が私に退けと言うのか? 神野は上手いこと惑わしたようだが、私の目は誤魔化されん。ここに封じられた力を持って何を成す? 石を砕けば厄災が再び訪れよう事は容易に想像がつく」

「我はこの者を守るための力が欲しいだけじゃ、主に敵対するつもりは毛頭無い」

「そのような嘘を誰が信じるものか、人を馬鹿にするのもいい加減にしろっ! お前が人間を守る為に力を欲するなどありえない話だ。過去の己が所業を忘れたとは、まさか言わせはせんぞ?」

「…………我は、金毛の天使を討つ為に、ここへ力を取りに来た」

「仮にそうであったとしても、金毛の天使を討った後でお前は何をする? 金毛の天使に代わって我等を討つか? それとも人の世を壊して笑うか? 何れにせよ金毛の天使であろうとお前であろうと、私達の下に訪れる結末は変わらぬ。いや、それならばまだ金毛の天使のほうがマシだろう。お前は狂っているっ!」

少女は静奈の言葉など一切聞く耳持たぬといった風である。二人の間にある事情を知らぬ武人の目にも、この場での交渉は望めそうに無いと容易に理解できた。ともすれば、後に残る選択肢はたった一つしかない。

「どうしても退いては貰えぬかぇ?」

「私が此処を引く事は、お前を討ち滅ぼすまで一歩たりとも無いだろう」

「そうかぇ…………」

数度言葉を交わしただけで交渉は決裂だった。

気付けば互いの表情は一層のこと厳しいものへと変化していた。その様子に武人はこれから起こるであろう惨事を思い胃が軋むのを感じた。自分は一体どうなってしまうのか、そんな疑問が猛烈な勢いで脳裏を巡る。

「静奈様」

西光坊が少女を見据えたまま小さく主の名を呼ぶ。

「うむ、仕方が無いが、ここは主に頼むぞぇ」

「はい、承りました」

「武人は我が守るゆえ、主はあの者との戦いに専念してくれて良い」

「分かりました」

「奴が自ら出張ってきたということは、他に伏兵も居るまい」

そうして、戦いの火蓋は切って落とされた。

西光坊は殺生石へ向かって前方へ駆け出す。対して、静奈は武人を抱えたまま大きく後ろへ跳躍して敵との距離を取った。相手の目的が静奈の打倒にあるのならば、西光坊を前面に出した同布陣は唯一にして最適な対応だと言える。

「いいだろう、まずは従者から切り捨ててくれるっ!」

そんな彼女達に対して相手は正面から挑んで来た。

殺生石の傍らより数歩だけ前に出た後に、手にした刀を腰の辺りで地面と水平に構えて西光坊を迎え入れる。それがどういった類の流派に属する、何を求めての構えなのか、武道に疎い武人には皆目検討がつかない。しかし、その幼い少女の姿とは裏腹に、西光坊へ向き合う彼女の一挙一動は、妙な迫力を伴って彼の背を痺れさせた。

「静奈様の命により、貴方を排除します」

「殺生石の一片が化けた程度で私に敵うと思うなっ!」

目前まで迫った西光坊の姿を確認して、少女の足が一歩だけ前へ踏み出される。そして、鋭い風切り音を伴い横に一閃、大振りの刀が目にも留まらぬ速さで振るわれた。狐火に照らされた波紋の照り返しが、朧げな残像となってゆらゆらと闇夜に浮く。

けれど、そこに血潮が散ることは無い。

身の丈の低い少女が放つ一撃を、西光坊は地に着く程に身を屈めて回避していた。そして、相手の懐に割って入った彼女は、躊躇無く己が右の指先を胸部目掛けて突き出しす。狙いは心臓器だ。一直線に突きの動作で伸びた五指が内臓を抉り出さんと伸びる。普通の人間ならば突き指必至の自爆技だが、それも人外の化け物にしては槍にも勝る立派な凶器となるのだろう。

しかし、迫る進撃に少女はどこまでも冷静であった。咄嗟に一方の手を刀より離すと、それを腹の前で真横に振るい、衣服に触れるまで迫った西光坊の手首を弾き飛ばした。同時に左足を半歩だけ後ろへ進めて、己の身体を捻ることで絶命必死の一撃から逃れる。更に、片手に構えた太刀を前のめりに迫った西光坊の首を落とすよう力一杯振り下ろした。

遠く武人をつれて距離をとっていた静奈も、その様子を目の当たりとして緊張した様子で身を硬くする。武人に至っては、少女と出会ってより強張っていた顔が、今やすぐにでも泣き出しそうな程に悲壮感漂うものと成っていた。

けれど、少女に負けじと西光坊もまた危ういところで一太刀をやり過ごす。

少女の身体を蹴り付けて前方斜め横へと身体を飛ばし、肩の薄皮一枚で斬撃をやり過ごした。腹部を蹴り付けられた少女は猫のように空中で体勢を整えると、その背後にあった殺生石へと垂直に両足から着いて再び二本の足より地面に立つ。

それは僅か一瞬の出来事であった。

「し、静奈、大丈夫なの!? これって、結構、大変なことになってるんじゃ……」

「我が想定していたより、この者達は拮抗したところにあるようじゃな……」

答える静奈の表情は渋い。

彼女達の最大の戦力である西光坊が敗れたのなら、後には勝機など一片として残らないだろう。花見月と夢見月の存在もあるが、西光坊と対等に渡り合う少女と対するにはあまりにも力不足だと言える。まともに向き合ってしまっては、その場から逃げることさえ叶わないだろう。それこそマシューの比ではない。

「ど、どうするのっ!?」

慌てた様子で武人が問う。

「安心して欲しい武人、決して勝機が無いわけではないのじゃ」

「そうなの!?」

「奴を倒さずとも殺生石の封を破ることが出来たのなら、全ては我が思うままと成る」

「それって、静奈があの子と戦うってこと?」

「そこの殺生石にしても、実際には本来あった我の力の一欠には過ぎぬ。しかし、だとしても取り戻すことが出来たのならば、彼の者に遅れを取るとは思えぬ。だから、望むべきは殺生石の破壊じゃと言いたい」

「それって、やっぱり石を割ればいいの?」

「うむ、出来る限り大きな傷を、例えば真っ二つに割ったとしたら、大凡のところ封じられている力は石から放たれて我の元に戻ってくるじゃろう。人間の手には難しいだろうが、我や西光坊ならば朝飯前じゃ」

全ては己が主人を思ってのことだろう。落ち着いた調子で語る静奈の言葉に、武人は多少だが落ち着きを取り戻す。今の言葉を信じるのならば、勝機は決して失われていない。それこそ、前回に地元の山中で遣り合った時の方がよっぽど大変な状況にあっただろう。西光坊が少女を引きつけているうちに静奈が岩を割る。非の打ち所の無い戦法であろう。

「じゃあ、僕はここで待ってるから、静奈は石へ向かってよ」

「しかし、相手の狙いが武人にまで及んでいたとしたら、それは非常な危険を伴う。それに、万が一にも相手が西洋の化け物と同様に主を人質に取らんとも限らない。可能な限り共にあるべきじゃ」

「でも、それじゃあ随分と不便じゃないか。僕を抱えて行くつもり?」

「だが、そう言ってしまえば、我が主と共に来た理由が失われてしまう」

「そ、それはそうかもしれないけど……」

「武人には申し訳ないが、出来るならば共にあって欲しい。でなければ、我はまともな精神では居られぬ。この場には我の他に主を守る事が出来る者が居らぬのじゃ。そして、相手は一切の躊躇無く敵を殺す化け物じゃろう」

「…………」

静奈の言葉を受けて、流石の武人も言葉を失う。

「頼まれては、くれぬかぇ?」

其の上で懇願するように下から顔を覗きこまれては、武人としても首を横に振る事は叶わなかった。一蓮托生とは良く言ったものである。たったそれだけの事で覚悟を決めてしまう今の自分が武人には分からなかった。

「分かったよ」

「ありがとう、武人」

静奈の腕の中で呟いて、武人は暗闇の先にある巨大な岩を見据える。

「では、二人の隙を突いて石へ向かう。それまでは距離をとって待機じゃ」

「うん」

少女の目的は静奈の打倒にあって、また、同時に静奈が殺生石を破壊する事の阻止でもあるのだろう。西光坊と相対しながらも、決して岩から距離をとる事は無く攻防を続けている。それは武人の目から見ても明らかであった。

そして、それは彼女にとって非常に大きな枷となるであろう。しかし、其の上で西光坊の猛攻を凌いでいる辺りからして、その実力の如何が窺い知れるというものである。冷静に考えると薄ら寒いものがある。西光坊の庇護下にあっても決して油断できる状況でない事を武人は誰に言われるまでも無く理解していた。

殺生石の付近は切り開かれた山の裾野にあった。土の色も薄い砂利ばかりの地面に、ゴロゴロと無骨な岩が転がっている。岩の大きさは大小様々であって、人の手に抱えられそうな漬物石程度のものから、重機械を用いなければ動かす事の叶わない代物までピンきりだ。一端の観光地ということで、人が歩き易いように、岩と砂利の海には木製の渡り橋が伸ばされている。また、随所に字入りの札が立てられており、観光客向けの案内が示されていた。それが無ければ随分と殺風景な場所であっただろう。狐火に照らされて浮かび上がる周辺の地理情報を目の当たりとして、武人は内心、そんな感想を抱いていた。

目的とする殺生石の背後にはこれと言って何も無く、険しい岩肌に続いて小さな崖となり、樹木の茂る那須の山中へと続いている。観光客向けの渡り橋は裾野の最下にある駐車場から続いて、山肌を登るように縦に伸びる。そして、数百メートルを進んだ後に殺生石を頂点として脇にそれて下りに入る。そこから先は橋が途切れ足場は湿った土の地面へと変わり、続く先は那須温泉神社の際奥である。具体的には、九尾の狐を祭るのだと言う祭殿の脇へと出る。それから境内を山を下る方向に向かって歩けば、昼に武人達が集合の場とした鳥居にたどり着く。ちなみに、その隣に数十メートルを置いて見える駐車場が、殺生石へ続く渡り橋に接したそれであり、いわば山肌に敷設された道は観光客の為の周回経路として作られていた。

そういう訳で、昼は人に溢れる観光名所であるが、夜は地元住民が近づく理由も無く、深夜の十二時を回った頃合ともなれば人気は皆無である。明かりに関しても照明設備は全く存在しておらず、新月に近い昨今では静奈や西光坊が灯す狐火が無ければ、満足に歩く事も出来なかったであろう。人目を気にせずして争うというのであれば、これほど適した場所は無い。それこそ、夜な夜な殺生石を壊しに来たというならば、願っても無い環境だと言えた。これで敵の存在が無かったのならば、確かに平素からの観光としてこの度の旅行は終わっていただろう。

「さぁ、どうした? かの有名な白面金毛から分かれた化け物とは言え、実際には力の些細な一片を受け継いだに過ぎないようだな。この程度の相手ならば多勢で出張るまでもないっ! 親の序に塵と化してくれる!!」

「っ……」

不安定な足場を蹴って刀を両手に構えた少女が駆ける。

二人の争いの場は依然として殺生石の周囲にあった。西光坊は彼女を石から離そうと苦心している様子だが、相手も彼女の意図を理解しているために滅多な事では離れない。そしてまた、それならばいっそと石を狙って仕掛ける西光坊に対して、しかし、少女は確実にその一撃一撃を防いで見せた。

「たしかに、貴方は随分と強い化け物のようですね」

「私とて、この数百年を無駄に過ごしてきた訳ではない」

「ですが、その岩を守りながら私の相手が出来ますか?」

敢えて相手を挑発するように言葉を投げ掛ける西光坊。その額には汗がじんわりと浮かんでいた。袖が長く窮屈な作りの燕尾服は、当然のこと激しく身体を動かすのに向いていない。蒸れた肌に白いシャツがぺったりとくっ付いて、上着の合間より彼女の胸周りをくっきりと浮きぼらせていた。

「出来るか? 出来ないか? そういう問題ではないっ!」

そんな彼女に対して、少女もまた夏の熱気に汗を散らしながら対している。しかし、彼女が纏っているのは和服である。西光坊のそれと比較すれば、全体的に余裕のある作りをしており、肌と空気の接する面積が大きい分だけ涼しそうに写る。

「やるか、やらないかだっ!」

吼えた少女の刀が右斜め上より西光坊の肩口を目掛けて振り下ろされる。

もしも、その刃を向けられたのが静奈や花見月、夢見月であったのならば、瞬く間に腰まで一刀両断されていただろう。殺生石への接近を諦めた西光坊は大きく背後へ跳躍して少女との間に距離を取る。反応の遅れた髪の一房が切り払われてはらりと宙に舞っては散った。

だが、それだけだ。

「ならば、やれるだけをやって敗退に終わるが良いでしょう」

そうして、相手が己を追ってこないことを確認すると、再び間髪を置かず西光坊は少女へ向けて走り出す。自分が攻めの手を止めてしまっては、相手に己が主人の下へ向かう隙を与える事になる。そう考えての事だろう。大仰な程に静奈を敬う彼女の攻めの手には緩急が無い。常に全力だ。

「否、私に敗退の二文字は無いっ!」

そして、それは少女にしても同様である。

正面より突き出された切っ先が西光坊の左首筋を掠めた。薄皮を一枚裂かれて些少の飛沫が互いの顔を赤く染める。それを気にした風も無く、西光坊は脇に引き付けていた右腕を少女の左脇腹に向けて放つ。

命中すれば肋骨の数本は圧し折ることが出来るだろう。しかし、拳は相手の身体へ届く前に勢いを失う。自身に迫る拳に対して、少女が突き出し太刀の刃を真横に返したのだ。危ういところで相手の意図に変化に気付いた西光坊は、膝を折って大きく身体を屈めた。

その直後に首を狙って横一文字に振るわれた刀は、しかし、再び西光坊の髪を切るだけに終わった。ただし、今度はその大半をバッサリと切り落としている。腰の届くほどの銀色に輝く長髪は、今の一刀で肩口に達するかどうかまで切り払われてしまっていた。狐火の明かりを反射して、キラキラと宙に輝き舞う髪の何と美しい事か。

だが、そのような事に気を取られている余裕があるのは武人程度のものだ。

己の髪の行方など何処吹く風で、敵の挙動にのみ専念する西光坊は攻めの一手を打つ。完全に振るわれきった少女の片肘に己が左手を当てると、開いた右腕によって今一度だけ拳を少女の脇腹を目掛けて打ち出したのだった。

「くっ!」

これには少女も堪らず後ろへ飛びのいて距離を取る他に無かった。

それを千載一遇の好機と見た西光坊は、すかさず攻めの手を強める。大きく振り上げた腕を、着地後に体勢の整わぬ少女へ目掛けて振り下ろす。それは一撃必殺を思わせる体重の乗った一打であった。

だが、まるで爪で皮膚を抉るかの如く繰り出された一撃は、少女の纏う濃い紅の袴姿の一端を浅く裂くに留まった。続けざまに幾度も振るわれる一撃一撃の全てが危ういところ避けられる。

対する少女は幾度か目に振り下ろされた手の甲を踏みつけて宙に飛び上がると、西光坊の上を舞いつつ後方へと身を翻す。その先には巨大な岩の影がある。あくまでも彼女の最優先事項は白面金毛九尾の狐の殺害と、その過程にある殺生石の守護だと言いたいのだろう。対象より距離を取る事は許さないらしい。ただし、そこには西光坊に対する油断は一部として存在しない。彼女を見つめる表情は真剣そのものだ。

一方で、上空へと舞った少女に対して、反射的に頭上へ拳を突き出した西光坊だが、それは脇を掠って僅かに十二単を綻ばせるに終わった。ともすれば、背を取られる訳にはいかない。大きく前方に跳躍して、彼女は再び少女との間に距離を取る。それは敵に静奈を狙うことを許さないギリギリの間合いである。

今ある戦いは両者共に何某かの事情によって、厳しく身動きを規制された上での一戦だ。単純な一対一の決闘とは程遠い代物だと言える。だからこそ、彼女達は本来の力を自然と抑えざるを得ない状況と成っていた。

「それ程に静奈様が恐ろしいですか? 今の貴方はまるで鎖に繋がれた犬のようです」

「私が犬? 上等ではないか。狐の尻尾を噛み切るには丁度良い」

「しかし、己が首に結ばれた鎖の先が狐の岩だというのだから、笑えない話でしょう」

「それは違うな。私は自分の意思でこの場に居る。もしも鎖の先を持つ者が居るとしたのなら、それはこの国に住む力無き化け物や人間共にこそ相応しいだろう。少なくとも、お前達に私の手綱は握れぬ」

「さて、それはどうでしょうか」

「ならば、その身に確りと刻んでくれよう、私の名前をなっ!」

軽口を叩きあいながらも、二人は互いに押しては引いてを繰り返した。能力が拮抗しているのか、状況は一向に平行線のままである。素人目にも長引きそうな気配がひしひしと感じられた。

力の等しい強力な化け物同士の戦いは、多くの場合で非常に長いものと成る。それは互いの体力と蘇生能力とが抜きん出ているからである。多少の損傷を与えた程度では、すぐに治癒されてしまい、物理的及び精神的な疲労の蓄積に関しても、その許容は人間に比べるまでも無い。そして、両者の力量が釣り合っているが故に、互いに致命傷を与える事ができずに争いが長引くのである。ある程度の力を持った化け物の喧嘩になれば、三日三晩を夜通しで戦い抜くことも決して珍しい事ではない。

そして、西光坊と少女は共に並の化け物以上の力を持っていた。

「し、静奈、なんだか雲行きが怪しいんだけど……」

「うぬ……、想定していたよりも苦戦しているようじゃの」

己の腕の内で僅か震えている武人に、静奈は小さく頷いて応じた。

「これじゃ近づけないよ、どうするの?」

「今は西光坊を信じて待つほかに無いかのぉ……」

「兎にも角にも、あの大きな岩を砕けばいいんだよね?」

「うむ、だが下手な手を打っては防がれるのがオチじゃ。少なくとも遠距離から狐火を飛ばしたところで容易に弾かれてしまうじゃろう。だから、西光坊もああして彼の者の打倒を前提として挑んでおる」

「だったら、なんていうか、こう、この辺り一帯も含めてまとめて一息に吹き飛ばすっていうのは、やっぱり駄目かな? 幸いにして人は他に居ないようだし、県の重要文化財を跡形も無く、っていうのは気が引けるけど……」

「いや、そういった類の術ならば、局所的に封を張って守られてしまうじゃろう。これだけ拮抗した相手ならば間違いあるまい。そして、それだけの術を行使したのなら、相手が西光坊の隙を突いて我等を狙って来る可能性が高い」

「っていうと、今の状況が一番無難で確実ってこと?」

「うむ、そういうことじゃ。西光坊もその辺りは理解した上でのことじゃろう」

「…………大変だね、これは」

「ともすれば、酷く地味な争いじゃ」

今更になって武人は恐怖に身が震え始めるのを感じていた。

過去に幾度と無く化け物同士の争いに巻き込まれてきた彼だが、常に生命の危険と隣り合わせのそれは、やはり、何度経験したところで決して慣れることの出来るものではなかった。

そんな彼の不安を肌で感じたのだろう。彼を抱く静奈の腕にギュッと力が入る。

「安心して良い、我は絶対に主を守り通してみせる」

「う、うん。ありがとう」

幼い子供特有の暖かな体温に触れて、少しだけ武人は緊張が和らぐのを感じた。こんな小さな女の子に抱かれて安心するなんて、傍から見れば変態以外の何者でも無いよな、とは最早この状況下では冗談でも思うまい。どれだけ厚い装甲に覆われた戦車に搭乗するよりも、静奈の腕の中に納まる事は大いなる安堵に繋がった。

だがしかし、二人から数十メートルの先で吹き荒れている脅威は、その庇護を持ってしても容易に絶命出来るだけのものである。今は悠長に構えていられるが、それも何時まで続くか分かったものでない。

「僕達は、やっぱり見てるだけなの?」

「うむ、今は西光坊が彼の者を遠く殺生石より離すのを待つしかない」

「…………分かった」

二人の争いは否応無く長期戦を感じさせる。武人と静奈は、戦う西光坊と少女の姿を遠巻きに見つめながら、いつか訪れるであろう好機を待って、静かにその場に身を潜めては、その動向に注目するのだった。

「静奈達、もう殺生石って石を砕いたかなぁ?」

どこか寂しそうに花見月が呟いた。畳の部屋にうつ伏せに寝転んで、胸の下に二つ折りとした座布団を挟んでは、所在無さ気に左右の足を交互に上下させている。やはり、留守番というのは活動的な彼女の性分に合わないようであった。

「順調に行っていれば、既に砕く事が出来ているでしょう」

彼女のすぐ隣では座布団に正座する夢見月が居る。ピンと伸びた背筋が如何にも彼女らしい。手には並々と緑茶の注がれた湯呑があった。ゆらゆらと立ち上がる湯気を何気無く眺めながら、その小さな唇を縁につけてズズッと内容物を多少だけ啜る。

「一応、砕いたら携帯電話に連絡が来る事になってる」

そんな二人のやり取りに横から山野が口を挟む。

「ということは、まだ、砕いてはいないんじゃないの?」

「そういうこと」

「三人に、何も起こってないといいけどなぁ……」

「そこまで心配する事はありませんよ、花見月、安心して待ちましょう」

姉へ振り向いた夢見月が宥めるように言う。

「けど、やっぱり不安だよ」

宿に残った面々は暇を持て余しながら、何をするでもなくテーブルを囲って茶なんぞ啜っていた。特に娯楽らしい娯楽も無いので、何をするでもなくゴロゴロと転がっているしかないのだ。これならトランプの一つでも持って来るんだったわ、とはつい先程に漏らされた柳沢の言葉である。

唯一、暇を潰せる道具があるとすれば、それは備え付けの古ぼけたブラウン管テレビであろう。だが、時間が時間なので碌な番組がやっていない。山野が手にしたテレビのリモコンを弄る度に、画面に映った映像が忙しなく切り替わる。その様子を眺めながら、柳沢は卓上に並んだ饅頭の一つを手にとって口に運ぶ。同時刻の武人達が危地にあることを考えれば、非常に安穏とした空気であった。

「なぁ、大丈夫かな? 武人達」

「西光坊さんが付いているのですから、滅多な事は無いと思いますよ」

「前に会ったスーツの人も一発だった」

「ええ、あれには私も驚きました。私や花見月が尽力して当たった相手を、何の苦も無く片手間に倒してしまったのですから。西光坊さんは、私や花見月など足元にも及ばぬ強力な妖狐です」

返す夢見月の言葉は随分と落ち着いたものだ。

時刻は深夜一時を多少回った程度である。既に武人達が出かけてから数十分が経過していた。宿から殺生石までは歩いて十数分といったところだ。連絡が入るとしたらば、丁度良い頃合だと言えた。花見月は寝転がった姿勢のまま、卓上に置かれた柳沢の携帯電話をチラリチラリと見つめては、珍しく溜息なんぞ吐いていたりする。そんな彼女の様子を目の当たりとして、夢見月は少し困った顔を作り窓の外を眺めた。

外は外灯の明かりも一つとして見当たらず、真っ暗で何も見えない。時折、強く吹いた風が木々の葉を揺らす僅かな気配が、影の揺らぎとして伝わってくる程度である。観光地とはいえ田舎に違いなかった。誰かの言ったとおり海ノ口と大差無い寂れ具合である。

「それにしても、碌な番組がやってないわね」

テレビ画面をつまらなそうに眺めては柳沢が言った。

「ええ、つまらない」

「点けておいても五月蝿いだけだし、切っちゃえば?」

「うん、もう少ししたら……」

「どうせ流れてるのは下らない通販番組か、あとは安っぽいアメリカ映画でしょ?」

「でも、たまに面白いのがあったりする」

「…………そう?」

引っ切り無しに映像の変わるテレビ画面を眺めながら、まるで自宅で寛ぐが如く過ごす二人だった。彼女達にしても西光坊の力を確信しているのか、その身には緊張が微塵と感じられず、怠惰極まった態度である。交わされる言葉も普段と相違無い。暇というものは、否応無く精神を緩めては怠惰を導いてくれるものだ。

だからこそ、次の瞬間に訪れた衝撃を受けて彼女達は大いに慌てた。

きっかけは廊下へ通じる部屋の外扉が強引に押し破られた音である。

それから間髪置かずして、内扉として設けられた襖が勢い開かれた。スパンッと襖が開ききる甲高い音が大きく響く。同時に、彼女達にとっては過去に幾度と無く面識のある者が一人、その後ろにズンと立っていた。ノックも無ければ声さえ掛けられていない。突然の来襲だった。

「なっ!?」

驚いた柳沢が短い悲鳴を上げた。

それと同時に、逸早く腰を上げた花見月と夢見月が、山野と柳沢の前に立ち、突然の来訪者との間に割って入る。その間僅か数秒の事であった。目にも留まらぬ早業とはまさにこの事だろう。それまでの安穏とした空気は一瞬で霧散していた。

「また、貴方ですか……」

苦虫を潰したような表情で呟く夢見月の視線の先にはジェームズの姿がある。短く借り上げた茶色の髪の毛が特徴的な男だ。中々にハンサムな顔付きで、年の頃は二十代前半と言った所か。黒色のタンクトップに濃い青色のジーンズ、スニーカーというシンプルな出で立ちをしている。身の丈は190センチ程だろうか。その姿は以前に出会った時と同じ服装だった。ちゃんと洗濯を行い着回しているらしい。

「ああ、また俺で悪かったな」

「やはり、私達を殺しに来たのですか?」

土足のまま畳に上がるジェームズの横暴に眉を顰めつつ夢見月が尋ねる。これで幾度目の遭遇だろうか、互いにウンザリとした表情なのは間違いない。普段の温和な彼女からすれば、あまりにも唐突な豹変だと言えた。

「いや、今回はちょっと状況が変わってしまってな」

「なんだよっ! アタシ達をどうするつもりだっ!!」

「上司には、お前等の誰でもいいから、一人を生け捕りにしろと命令されていてな」

「また、そういう卑怯な手に及ぶのですね」

「ああもう、好きなように言うがいいさ、これも仕事なんでね」

何処か諦めたような口調でジェームズが言う。先の件で西光坊を前に敵前逃亡を強いられたのが、未だに堪えているのだろうか。皆の知る誰かのように、両手の平を天井に向けては、わざとらしく肩をすくめて見せる。

「前に居た上司とやらは一緒でないようですが、ついに見放されましたか?」

「うるせぇな、あいつは仕事が忙しいとか言って、今はこっちには来てねぇんだよっ!」

「となると、私と花見月を相手にしながら貴方は一人で戦う訳ですか」

「はっ、お前等の相手なんざ如き一人で十分だ」

「そう言って前回に敗退したのは誰ですか?」

「やかましい、あの時はお前らに地の利があってのことだろうが。だが、今回は違う。俺にしても対策を行ってこなかった訳では無いんだよ。何の用意も無くこの場に挑んだと思うなよ?」

吼えるジェームズは二人を前に勇んでみせる。

「地の利、ですか」

言われて夢見月の表情が僅かに歪む。

だが、それは微々たる変化であって、気づく者は本人を除いて居ない。

「ああ、前は中途半端な所で水を差されたからな、今度こそは纏めて貴様等を殺してくれる。それで前の仕事の分も合わせて、俺はガッポリと銭を得て万々歳ってところだ。来週には南国の人里でリゾート決めてやる」

「うるさいっ! アタシだって、今度は絶対に負けないからなっ!」

「ですが、仮に地の利を持っていたとしても、のこのこと一人でやってきて良かったのですか? 一度は負けた相手に再び挑むことの愚行を理解してのことですか? それで今まで、よくも生きながらえて来れましたね」

「ほぉ、お前が俺に戦のイロハを説くか? お前達は過去に俺を負かしたつもりでいるのだろうが、俺だって過去にお前達を負かしているんだよ。その辺りを冷静に捉えてみてはどうかね?」

「負け犬の遠吠えだとしても、正気の沙汰とは思えませんね」

「負けた? 違うな。全ては偶然と運の賜物だろうが」

「だとすれば、今回の戦いで偶然と必然の違いを証明してみせましょう」

「絶対に負けないんだからなっ!」

唸り声を上げるようにして姉妹はジェームズに向き直る。今すぐにでも飛び出して行きそうな雰囲気があった。彼女達にしても目の前の相手には決して少なくない恨み辛みを感じているのだ。それを憎く思うのは当然の事だろう。

「それこそ上等だ、次は二人一度に相手してやるぜぇ」

夢見月の挑発にジェームズは口元を厭らしく歪めて応じる。

「一度は請けた仕事だ、この俺が狐如きに負けるなんざありえねぇ」

もしも彼女達が再び彼と争うと言うのならば、それは三度目の事だ。互いにいい加減、相手の動きにも慣れが生じてきた事だろう。ジェームズにしても、先の戦いで夢見月に勝利した事がある程度の自信となっているようだ。また、姉妹にしても戦って勝てない相手ではないという認識が、過去二回の争いで十分に成されている。

「というか、そもそも何で此処がばれてるのよ!」

「宿帳じゃない? 彼、素直に実名を書いてたから」

「あぁ……、なるほど」

呆れた様子で柳沢が呟く。

「どこか抜けれるわね、あの秀才君は」

「前にも同じ事があった気がする」

今の山野の指摘を当の本人が聞いたのなら、きっと頭を抱えて唸り声を上げる事だろう。そして、そんな彼女の指摘に紛う事無く、ジェームズが武人達の泊まる宿へ足を運ぶに至ったのは、例によってマシューが殺生石付近に居を構えた宿へ片っ端から連絡を入れた事に因る。その件数、今回は数十件に及ぶというからご苦労な話だ。

「争うにしても、ここでは宿に被害が及びます。外へ出るべきですね。貴方としても、このような狭い空間では満足に動き回る事は難しいでしょう? それに、私達は無関係な者達に被害は出したくありません」

「ああ、いいとも。好きな死に場を選ぶといいだろう」

「それはあたし達の台詞だっ! 誰がお前なんかに負けるかっ!」

二人と一人は互いに軽口を叩きあいながら睨み合う。

「山野さんと柳沢さんはこの宿で待っていて下さい。すぐに帰ってきます。ただし、部屋番号は相手に割れていると思われますので、出来れば他に身を隠せるような場所で待機していて欲しいです」

「え、ええ、分かったわ」

「了解」

いつに無く真剣な表情の夢見月に告げられて、二人は深く首を縦に振って頷く。確かに、敵が目の前の狼男だけとは限らないのだ。田舎とは言えある程度家屋が密集している地域なので、物陰に隠れていれば見つかる可能性もある程度は軽減されるだろう。加えて彼女達が宿泊する宿はまるで迷路の如き作りをしている。余程の数の化け物が群れを成してやって来ない限り、逃げ切る事も決して不可能ではない。戦いの場へ連れて行くよりは断然に安全だと言えるだろう。また、何よりも今し方に語られたジェームズの言葉を信じるのならば、この場に姉妹の天敵たるマシューは居ないのだ。これは非常に嬉しい情報である。

「それでは参りましょう」

「ああ」

「絶対に負けないんだからなっ!」

そうして、二人と一人はピリピリとした空気を連れ立って部屋より廊下へと出て行ったのだった。後に残された山野と柳沢は互いに顔を合わせながら小さく頷く。その顔には明らかな緊張が見て取れる。前回とは異なり、今回は自分達も完全な渦中の人と成ったのだと理解した風であった。

西光坊と少女の戦いは一向に終わりの見えないものであった。

殺生石を中心として、押しては押されてを繰り返す両者の衝突は、当初に拳を交えてから既に数十分に及んでいた。しかし、共に疲弊していながらも、依然として限界は遠く果てしない。彼女達の持久力は人間の武人からすれば底無しに思えた。

「いい加減に諦めたらどうだ? 日が昇るまで続けるつもりか?」

「主人の命は絶対です。私は確実に貴方を打倒するでしょう」

「はっ! 大した忠義心だな、白面金毛の従者にはあまりにも不相応だ」

「ええ、まったくです。私のような脆弱な化け物が、静奈様に相応しい筈がありませんから」

「ほぉ? だとしたら私の立つ瀬が無いではないか。それこそ笑えんよ」

「そうですか? それは失礼しました」

時折、思い出したように軽口を挟みながら二人の争いは続いていく。近づいては数多に互いの得物を打ち合い、そして、毎度のこと最後の一歩を詰めることが出来ずに距離を取る。その繰り返しが延々と続けられていた。

一般的に考えれば、体躯が大きい分だけ西光坊に分があると思われる。しかし、少女が手にした刀の存在を考えると、その利点も幾分か失われていた。なによりも、その切れ味は恐ろしいものだ。一度振り下ろされれば、その延長上にあるものを何であっても一刀両断である。鋭利な断面を持って砕かれた岩は数知れずだ。これはもう、翌日の新聞の一面は決まったようなものだと武人は背筋を寒くする。

互いに纏った衣服はあちらこちらが綻んでいたり、切り裂かれていたりする。しかし、その下に晒された皮膚には碌に傷も見当たらない。互いに力の強い化け物なだけあって、掠り傷程度の小さな怪我では、ものの十数秒で治癒してしまうのだ。無論、それは不死者のそれと比べれば大きく劣る。瞬く間に、とは言わない。しかし、ある程度まで極まれば今在る通りである。

「いい加減に終わりとしますっ!」

一際大きく声を上げたかと思うと、西光坊が地を蹴って駆け出した。

「いいだろう、覚悟は出来たようだなっ!」

それに少女もまた刀を構えて応じる。

これで幾度となる接触であっただろうか。

頭上へ高く振り上げられた刀が西光坊の目前まで迫る。対して彼女は接触の直前で左足に力を籠めると、砂利を派手に飛ばして地を蹴り真横に飛んだ。それにより少女の斬撃は西光坊の肩を僅に裂いて胴の脇をすり抜ける。そして、鈍い音と共に切っ先で地を叩くに終わった。

辺りには肩肉を削られたことで結構な量の血が飛び散った。狐火に照らされた岩の表面には、赤黒い影の点々と落ちている様子が確認できる。切り飛ばされた薄い肉片は、同じく切り取られた衣服と共に、ベチャリと汚い音を立てて、皮肉にも脇に置かれる殺生石の上に落ちた。

その様子を目の当たりとした武人の口からは、自然と短い悲鳴が漏れていた。依然として血生臭い争いごとには慣れぬのだろう。生物の生き死にから潔癖症とも取れるほどに隔離された現代社会を生きる彼ら人間にとって、このような果し合いは全く別の世界の出来事として映るに違いない。生物としての生き様は本来こうあるべきだ、とは既に失われて久しい精神である。

そして、ここで一つ状況は進展を見せる。

上段から縦一文字に振り下ろされた一撃を避ける為に、危ういところで西光坊は真横へ飛んだ。しかし、彼女は攻撃を避けるだけに終わらなかった。その先で再び力強く足を地に沈ませたる。そして、己が挑むべき少女へ意識を向けると、今度は右足で力一杯に地を蹴りつけて、刀を振り下ろして止まった相手に向かい、再び飛び掛って行った。

「なっ!」

予期せぬ急激な機動を見せた少女の口から小さな声が漏れる。

剣を振り下ろしたばかりの不安定な体勢にあって、彼女は咄嗟に背後へ身を引いた。

先程には少女の首を目掛けて伸びた筈の西光坊の腕が、しかし、今度は脇に反れて、太刀を握る腕へと向う。彼女が己の肉を裂かせてまで狙ったのは、相手の首ではなく手にした獲物であった。

唐突に方向性を異とした相手の挙動に、僅か数瞬だけ少女の反応は遅れる。そして、その隙を突かない西光坊ではなかった。硬く握られた拳が少女の手を握る太刀の柄を力一杯に弾く。ごちんと硬い肉と肉のぶつかり合う気味の悪い音が辺りに響いた。

それと同時に、少女の手から大太刀が遠く飛ばされたのだった。

刃が硬い岩場に叩きつけられて、乾いた音が辺りに響く。距離にして数十メートルを白銀の長物は飛んでいってしまった。少女は獲物を失って咄嗟に背後へ引く。だか、それを許す西光坊ではない。距離を取らせまいと瞬く間に両者の間を零とする。

そんな極めて冷静な相手に対して、少女は落とした太刀の回収を諦めて、腰に掛けたもう一本の刀を抜いた。それは二尺程度の刃渡りを持つ比較的大きな脇差であった。ただ、物は脇差とは言え、背丈の小さな少女が持つには丁度良いようにも思われた。よって、外観から得られる迫力は今し方に弾かれた太刀に比べれば随分と劣って感じられる。しかし、それでも刃の磨がれた立派な日本刀だ。武人の目には十分な殺傷力を秘めて感じられた。何よりも、彼女と言う人外の化け物が扱うというのだからそれ相応の力を持った一品なのであろうとも想定できる。

「もう後がありませんね」

言って西光坊が攻勢に移る。

「それは以後に結果を示してから宣言して貰おう」

「上等です、主人の命により貴方を殺します」

そして、再び少女と西光坊の果し合いは続けられる事となった。

夜が明けるにはまだ遠い。時刻は午後の二時を多少回った程度である。しかし、先が見えない勝負というのは眺めていて気分の良いものではなかった。互いに身に纏う衣服は既にズタズタである。いつ如何なる原因で全裸と散ってもおかしくない程だった。

「覚悟っ!」

脇差一本で向き直る少女に西光坊は丸腰で再三に渡り駆ける。

「何度きても同じ事だっ! 我が小通連の錆としてくれるっ!」

対する少女はその場で背後に殺生石を守り不動を貫く。そして、敵の到達を待っては両手で構える脇差の切っ先を向ける。そうして、もう幾度目とも数える事すら面倒なぶつかり合いが始まった。依然として彼女達の争いに終焉は訪れそうに無かった。

「静奈、大丈夫なのかなっ!?」

いよいよを持って心配になってきたのか、武人が腕中から静奈を見上げる。

「今はあやつを信じる他に無い」

武人達は今まで小一時間に渡り二人の争う姿を眺めてきた。

互いに殺生石を巡って、その脇より離れようとしない。それを狙う武人達には付け入る隙が無かった。今に西光坊が少女の刀を弾いたことで何某かの進展が得られるかとも思えたが、繰り広げられ始めたのは、やはり、それまでと変わらぬ平行線を辿る終わりの見えない果し合いである。

武人はチラリと脇に目を向ける。

すると、そこには今し方に西光坊によって少女の手より弾き飛ばされた刀があった。その距離、大凡数メートルといた所だろうか。多少を歩けば拾う事が出来るだろう。勿論、腕の無い彼には難しい相談であって、それを行うとしたら、実際には静奈の仕事となるのだろうが。

「静奈、あれってさ……」

何気無い調子で武人が口を開く。

「やっぱり、普通の刀とは違うのかな?」

「奴は今し方に己の脇差を小通連と称しておった。ならば、あれはその兄弟刀にあたる大通連であろう。今までおぼろげに名が浮かんでおったのじゃが、今の一言で相手の正体に確信が持てた」

「もしかして、知り合い?」

そういえば、相手は一方的に静奈を嫌っていたな、と思い起こして武人は問う。

「あの者は名を鈴鹿御前という」

「鈴鹿御前?」

「そうじゃ、そして、古くは我に牙を向いた鬼の化け物じゃ」

「お、鬼なの……? あの子」

可愛らしい外見が先行しての事だろう。反射的に驚いた様子で武人は問い返していた。西光坊と戦うその姿は、彼が脳裏に描く鬼の姿とは果てしなく遠い。それこそ、妖精だの精霊だのと言われたほうがシックリ来る。彼の知る日本の妖怪で最も近いものと言えば、宛ら座敷童子と言ったところか。

「ああ見えて中々に強力な化け物じゃ。現に西光坊に迫る力を持っておる。まさか、彼の者が、この地に残り岩を守っているとは思わなんだ。我も余程に嫌われているらしいのぉ」

平素にも増して、妙に飄々と語って見せる静奈に武人は小さく呟く。

「なにかあったんの? その……、昔とかに」

同時に、静奈の小さな体が本当に些細なものだがビクリと震えた。彼女に抱かれた彼にはその挙動が直接的に伝わった。それは僅か数週間の付き合いながら、静奈の本心からの感情を幾度か垣間見た彼だからこそ気付く事の出来た些細な態度の変化であった。

「敵だったんだよね? 彼女とは」

何気無く鎌首を擡げた好奇心から、恐る恐るといった調子で武人は問うてみた。ともすれば、静奈は存外驚いた様子で再びビクリを肩を震わせる。その反応を目の当たりとして、武人は要らぬことを聞いてしまったかと、小心者の態を違わず身を硬くする。すると、静奈は暫くの沈黙を保った後に再び小さく口を開いて応じた。

「すまぬ、武人……」

それは言葉通り、酷く申し訳なさ気な口調であった。

「我は主に隠し事ばかりしている。しかし、これは、その……」

なにやら言い難そうにしている。その様子は武人にもしっかりと理解できた。だからこそ、これ以上を無理矢理に問いただす事は出来なかった。何よりも、こういった類の状況では藪を突いて蛇を出すのが常だと、聡い彼は悲しくも過去の事例より多くを学んでいた。

「いや、別にいいよ。僕だって君に隠していることは幾らでもある」

「じゃ、じゃが……」

しどろもどろしつつも、静奈は続く言葉を持ち得ない。

「それよりも、今は彼女をどうにかして、岩を砕く事を考えよう」

そんな静奈に対して、武人は何時に無く真剣な瞳で殺生石を見つめ答える。

普段より逞しく感じられる彼の心持に諭されたのか、それとも、例え彼に問い詰められたとしても語ることの出来ない事柄であったのか、静奈の言葉はそこで勢いを失った。そうして、彼女の瞳もまた殺生石へと向けられる。

「ぬぅ……、分かった」

何を持ってしても、少女を打倒しなければ二人に明日は無いのだから。

ジェームズに対する花見月と夢見月の攻勢は多少だけ有利に進んでいた。元より夢見月一人でも環境さえ整っていたのなら勝利を収める事が出来た相手である。それに花見月が加わったのならば、二人の勝利はかなり現実味を帯びて感じられた。強気な口調とは裏腹に、ジェームズは時間経過と共に勢いを失っていった。とは言え、二人を相手にそれだけを保っているのは、単衣に彼の言う地の利というものが大きく影響しているからだろう。彼にしても意地と妬みを脇に置いて、十分に己の勝算を考えての果し合いである。

依然に戦った際には姉妹の庭とも言える森に在った。しかし、今の三人が争う場所は、姉妹の泊まる宿からある程度だけ離れた山中である。殺生石が置かれた岩肌の隣に立つ神社、その裏方の山肌であった。当然、周囲に人気は無く、家屋の存在も見て取れない。周囲は姉妹が浮かべた狐火の他に光源は無く非常に薄暗い。人知れず争うには最適な場所だと言えた。

「いい加減に降参したらどうですか?」

「今日はお前の負けだっ!」

全身に多少の擦り傷を纏いながらも、勝利を確信した瞳を持って夢見月が言い放つ。そこには明らかな自信が見て取れた。それに興奮した様子で姉の花見月も言葉を続ける。二人から数メートルを離れて前には満身創痍のジェームズが居た。

「っせぇなっ! 誰がテメェ等如きにやられるかよっ!」

「この期に及んで貴方に勝機があるとでも?」

「この俺がお前等なんかに負けて堪るかっ! この世は強ぇ奴が好き放題やって、弱ぇ奴が地べたを舐めるんだっ! 俺は絶対に勝ってやるっ! お前等にも、マシューにも、そして、あの西光坊とかいう奴にもなっ!」

「貴方は、口だけは大きいですが、それは非現実的と言うものでは?」

「やかましいっ! 行くぞコラッ!」

吼えてジェームズが駆け出す。

周囲には様々な樹木が乱立しており、足元には蔓科の植物が縦横無尽に己を伸ばしては、辺りの木々を巻き込んで自然の防壁と化している。常人では満足に走る事も叶わないだろう。しかし、彼はそれら全てを引き裂かんとする勢いで二人へ駆け迫った。進行方向に立つ樹木は僅かに身を逸らして交わす。足に絡まる蔦は全てを引き裂く。まさに執念の篭もった破竹の進撃である。

「何度来ても同じ事ですっ!」

「アタシはお前を絶対に許さないからなっ!」

「上等だっ! 二人まとめて殺してやるっ!!」

己が頭部を狙って繰り出されたジェームズの拳を、夢見月は大きく腰を落として避けた。そして、その傍らより無防備となった彼の脇を花見月が狙う。地面と水平に構えられた片足が大きく弧を描いて、彼の大腿骨を砕かんと迫った。

しかし、流石の彼もそこまでは想定の範囲内であったらしい。夢見月への一撃も程々に腕を引っ込めたジェームズは、頭上へ手を伸ばしつつ地を蹴って宙を舞った。その先には大人の二の腕ほどの太さを持つ樹木の枝が伸びていた。彼はそれを掴むと、器用にぶら下がり、次いで、枝の撓る反動を利用することで、頭上より二人の背後を取らんと迫った。当然、花見月の放った蹴りは虚しく空を切るに終わる。

「狼というより、まるで猿ですねっ!」

「やかましい、お前等がそれを言えた義理かっ!」

それは数週間前の争いを思っての本心だろう。

咄嗟に振り返る姉妹に対して、彼は持ち前の射程を生かすと、大きく空中で横薙ぎに足を払う。予期せぬ一撃に身を引こうとした二人だが、不運にも夢見月の背後には樹木があった。飛び退いて難を逃れた花見月に対して、それに背をぶつけてしまった夢見月は、彼の回し蹴りを即頭部に受けてしまう。

「っ!?」

彼女の小さな身体は与えられた衝撃を殺しきれずに、大きく横へ飛来する結果となった。宙を飛んだ彼女の小さな身体は、すぐ脇に数メートルだけ離れて生えたまた別の樹木にぶつかって止まる。体躯の幹にぶつかるズンという低い音が、他に音の無い夜の山中に大きく響いた。衝撃に散った樹木の木の葉が、はらはらと舞い落ちては、その根元に横たわる彼女の上に乗っていく。

「夢見月っ!」

「へっ! 油断してるからこういうことになるんだぜ?」

「こ、このっ!」

妹が蹴りつけられた事で興奮した花見月がすぐさまジェームズへ駆けた。

そうして、すぐさま二人は最接近しての肉弾戦へと至る。

今までは遠距離及び中距離からの牽制と、その間における相方の一撃離脱を持ってした戦法に因って、姉妹はジェームズに対して断続的な損傷と疲労の蓄積を与えてきた。それが味方の被害を抑えた上で、彼という敵に対して最も効果のある戦法だと、彼女達はこれまでの数回から成る争いより学んできた。

しかし、ここへ来て姉妹が片割れを失うと戦局は一変する。戦いに慣れたジェームズを相手として、一対一の接近戦では大きく彼に分があるのは言及するまでも無い。例え、ここ数週間での経験を持ってしても両者の間には覆せない明確な差があった。

「っう!」

只管に重いジェームズの一打を腹部に受けて、堪らず花見月が呻き声を上げる。互いに繰り出される技の数々は、しかし、一方は何度放たれても空を切るに過ぎず、逆にもう一方は的確に急所を付いていった。

「花見月っ!」

慌てて身を起こした夢見月が二人の間に割って入ろうとする。

だが、それを容易に許すジェームズで無い。飛び交う狐火を避けて、花見月を盾とするように己を位置取り難を逃れる。花見月は花見月で彼からの攻めの手を往なすだけで精一杯だ。夢見月と合流するにも距離を取る事ができない。そして、ジェームズにしても己の命が掛かっているので、花見月に対する攻勢は執念を感じさせるものがあった。

「花見月から離れなさいっ!」

「じゃかしいっ、誰が離れるかっ!」

「夢見月っ! 大丈夫なのかっ!?」

「私は平気です、それよりも、今はこの者を打つことに専念ですっ!」

「お、おう」

とはいえ、復帰した夢見月を加える二人を相手としては、流石の彼もそう長くは持たなかった。夢見月にしても、今し方の蹴りによる頭部の損傷はそこまで酷いものではなかったのか、それとも姉を思うが故か、機敏性には僅かばかりの衰えを感じるものの、休息を必要とする素振りは感じられない。

「っ!?」

僅か数瞬の間に幾十もの狐火が灯される。それはジェームズの退路を断つように空間を隙間無く埋めていた。何れもが直径が数十センチ程度の大きさを持つ。ふよふよと空中を漂うそれに触れればどうなるか、その辺りは彼も前々回の争いで十分に学習済みであった。

「私は負けませんっ!」

そうして、夢見月もまた花見月に並ぶべくジェームズに向かった。

やがて、始まったのは彼を前にして姉妹二人掛かりでの押し問答である。本来ならば一人が増えたところで狭い空間にあっては互いの邪魔になるだけだろう。しかし、永きを共に過ごして来た双子という間柄に因るものか、花見月と夢見月は見事なまでに阿吽の呼吸を見せて示した。それにより徐々にジェームズを押していった。

ともすれば、激しくなった姉妹からの攻勢に彼も背後へ身を引かざるを得なくなる。そんな時、数歩だけ後ずさった彼の頭髪が、宙に浮いた狐火の一つに掠った。些細な接触だが大火力の代物だ、大きく頭髪を焦がされて、ジェームズは堪らず大きく身体を仰け反らせる。その隙を突いて、一息に間合いを詰めた夢見月の蹴りが彼の腹部に決まった。

二メートル近い巨漢が乱立する木々を圧し折って脇へと吹っ飛んで行く。

そして、僅かに視線を交わした花見月と夢見月は小さく頷きあうと、即座にその体躯を追って山を駆けた。距離にして数十メートルと言ったところだろう。敵が弱まっているうちに止めを刺してしまおうという算段だろう。

しかし、二人がその場に辿り着いた時には、既にジェームズは己の足で地に立ち、向かい来る姉妹を睨み付けていた。それなりに効果はあった様子だが、打倒には至らなかったようである。

「今のは効いたぜぇ……」

その口調はこの期に及んで余裕を含んで感じられた。

全ては彼の妙に高いプライドが故だろう。

「でしたら、次のはもっと効くでしょうっ!」

だが、決して効果が無かった訳ではない。

相手が依然として自分達に敵対する意思を持っているのだと理解するや否や、夢見月は大きく吼えて即座に駆けだした。そして、その背に続いて花見月もまた彼女を援護するように地を蹴る。

「この……、糞共がっ!」

対して、ジェームズにしても掃き捨てるように叫んで同様に彼女達へ向かう。

決着は遠く、三人の争いは泥沼であった。

姉妹が放つ狐火により周囲の木々には火が付き始めている。ただし、以前のように率先して樹木に対して火をつけている訳ではないので、現在はそれほど大きな山火事とはなっていない。今はまだ闇夜に紛れて昇る煙に気付く者は居ないだろう。しかし、それも火災領域が広がれば何れは里の人間に知れるだろう。二人としても好んで山を焼いている訳ではないが、相手が相手なので贅沢を言っている余裕が無いというのが現状だった。

そんな時である、ふと、耳に届いた異音に花見月が妹の名を叫んだのは。

「夢見月っ!」

それに答えて、並び戦う彼女も短く言葉を返した。

「ええ、どうやら近いようですね」

「こっちに居たんだなっ!」

「岩は動きませんから、私達が近づく形で移動していたようですね」

彼女達の耳に届いたのは西光坊と鈴鹿の攻防を知らせる音だった。

それは平素からの山中であれば、人間の耳にも届いただろう。特に夜中ともなれば、凡人でも耳を済ませる事無く自然と聞こえた筈だ。しかし、命懸けの激しい争いの下に身を晒していた為だろう。彼女達は自分達と武人達との戦いの場の接近に気付くのが遅れていた。実際には距離にして百数十メートルといったところだろう。人外からすれば目と鼻の先だと言えた。

「さっきから何か聞こえて来るとは思っていたが、なんだ、何か居やがるのか?」

そして、それは二人が相手取る狼男にしても同様であった。

「な、なんだっていいだろっ! お前には関係ないっ!!」

「さぁて、俺達の他にも争ってる奴等が居たとはな?」

「うるさいっ! 違うっ! き、きっと……、ただの人間だっ!!」

「花見月、それでは逆効果です……」

しかも、その口ぶりからして彼の方が彼女達より早く気付いていたのだろう。姉妹の会話より何を想像したのだろうか。見ればニヤリと口元を厭らしく歪めている。弱者を踏み躙らんとする際に彼が良く見せる表情だった。

仮に、この場に武人が居たのなら、変だな、狼は狐よりも耳が良いのか、などと下らない事を考えていただろう。一般には犬の方が猫より耳が良いと思われがちである。しかし、実際には犬より猫の方が可聴域が広い。ともすれば、狼男であるジェームズより、化け狐である姉妹の方が先に接近に気付くのが当然だと彼は考えるだろう。しかし、その辺りは単純な耳の性能差というよりは、場慣れした彼に分があっただけの話である。

「このままじゃジリ貧だ、ここは一つ藪を突いてみるかね」

舌なめずりなどして、ジェームズはわざとらしく振舞ってみせる。

「くっ、待ちなさいっ!」

「こらっ! 待てよっ!!」

ともすれば、静奈から留守を預かった二人は止めぬ訳にいくまい。

仲間がどういった局面に面しているかを理解していないのに、自分達の不注意で敵を向かわせては申し訳が立たない。その対応には、決して演技など無く、根っこからの必至さが伺えた。

「はんっ、誰が待つかっ!」

だからジェームズにしても、まさか突いた藪の先で大蛇が二匹絡まりあって喧嘩をしていようとは考えもしなかっただろう。彼女達の表情から甘い蜜を確信したであろう彼は、己が全力でもって音源へと向かったのだった。

西光坊と鈴鹿の争いは依然として膠着したままであった。

互いに殺生石、静奈という二つの要を巡って、僅かな陣を奪い合いながら牽制と衝突を繰り返している。その飛び交う態は宛ら、熾烈を極める囲碁の対局を思わせた。しかし、彼女等が一つ身を振るう度に、きらり輝いて飛び散る汗は、それが決して机上の賭け事で無いことを見る者に伝える。

「静奈、もしも、このまま夜が明けたどうなるかな?」

「むぅ……、すまない、それは事が起こってみなければ、我にも分からぬ」

「やっぱり、そうだよね……」

武人には自ら動く手立てが無い。ただでさえ人間と化け物という種族差があるに加えて、今は両腕を失って久しい。己がどれだけ無力であるかを良く理解して、彼は小さく嘆息を零した。

「じゃが、あの化け物は比較的、人間の側に居る化け物じゃ」

「人間の側っていうと?」

「過去に我へ挑み来た際にも、あやつの周りには幾らか人の姿があったと、今にも覚えておるぞぇ。鬼という種にありながら、あれだけ大らかに人と接する者はあまり居らんで、印象に深かったのじゃ」

「じゃあ、あれでも性格は温厚ってこと?」

「人間の側に立った上で平たく言葉を変えて言うならば、そういうことになる」

「へぇ、そうなんだ……」

己を抱く少女の言葉に、武人は静奈から鈴鹿に視線を映して一人ごちる。

それは、彼にしてみれば存外意外な返答であった。

幾ら過去に諍いがあったとは言え、出会い頭に日本刀を振り翳し襲い来たのだ。あの少女もまた、狼男と同様に凶暴な性格の持ち主なのだろうと考えていたのである。確かに、彼女にも己が掲げる大義名分があるのだろう。けれど、それにしたって、武人のような争いの場に居合わせただけの力無い人間からすれば、暴力の塊と言えるジェームズと鈴鹿は、内に秘めた力の大小こそ異なれど、大差無く感じざるを得なかった。唯一の差はそこに品が有るか無いか、である。

「それしたって、今の様子を見る限り話し合いは難しそうだね」

「我や西光坊は人間ではないからの…………、すまん」

「いや別に、静奈が謝る必要は無いんだけどさ」

答えて武人は幾重にも思考を巡らせる。

「けど、これは拙いよね……」

読んで字の如く、今の自分は文字通り手も足も出ないのだ。ならば、後は頭を使うしかない。そう自らを説得するように言い聞かせて、彼は尚一層のこと、目前の果し合いを真剣な表情で見つめるのだった。

とは言え、早々に解は出そうに無い。

「…………」

このまま朝を待つというのも手ではある。しかし、不確実な未来に静奈達の生死を賭す訳にはいかない。何か確実な手段を持ってして、せめて、生きてこの場を脱したいというのが彼の願いだった。

周囲には依然として不規則に西光坊と少女の衝突する音が響いている。これも夜中とは言え、何れは近隣住民が聞きつけてやって来るかもしれない。そうなった時、凝り固まった状況はどのように流れるのか。武人には全く想像がつかなかった。

そんな時である。

殺生石の脇に置かれた、切り立つ岩肌の上より何者かが飛び出してきた来たのは。

武人と静奈から見れば、争う少女と西光坊を挟んで、その傍らに鎮座する殺生石の数メートルだけ奥に当たる。そこは崖のように切り立った岩肌が露となった傾斜の上である。木々の茂る森への入り口がそこにはあった。

「げぇっ!」

其の者は飛び出してすぐに大きな声を上げた。かと思えば、背後にある己が越えたばかりの崖の外壁を蹴り付けて、横へと大きく十数メートルを飛び退いた。殺生石を巡る争いに気づいて距離を取った様子である。

「なんでテメェ等が此処にいるんだよっ!?」

そして、彼の登場より僅かな間を置いて、別に二つの影が続けざま現れた。先方が下り来た崖上より、同様に飛び出してきたのである。その二つの影は先に来た影とは異なり、飛び降りた崖下で、目の前の光景に驚き身を固める事となった。

先に来た影はジェームズであり、そして、続く二つは花見月と夢見月である。

「な、なんで鈴鹿がここに居るんだっ!?」

誰よりも早く、花見月が大仰に声を上げていた。

「貴方は、昼の……」

それに対して、鈴鹿と呼ばれた少女もまた大きく目を見開いて言葉を洩らした。

その僅かな隙を突いたのが西光坊である。

振り上げた拳を見事に少女の手元へ打ち付けた。柄を握り仕損じた鈴鹿は、手にした脇差を大きく弾き飛ばされてしまう。そして、己が過ちに気付いた彼女が咄嗟に身を下げ対応を取った時には、既に西光坊の二の手が迫っていた。

「くっ!」

大きく身を引いて、十二単の内よりなにやら小さな刃物を取り出す。

「随分と沢山の刀を持ち歩いているようですね」

淡々と呟かれる言葉とは裏腹に、彼女の攻めには容赦が無い。

「このような形(なり)でも顕明連は貴様等を滅するに十分な力を持っているっ!」

なにやら驚いた様子で声を上げている花見月と夢見月を尻目に、鈴鹿は西光坊の相手に集中せざるを得ない。脇目を向いたままで相手が出来る程に、彼女にとっての西光坊とは弱い化け物ではなかった。拳を振り上げた西光坊を前に、同様に己が肉体と僅か十数センチの小刀を構えて鈴鹿は奮起する。

弾かれた脇差は十数メートルを離れて経つジェームズの足元に刺さっていた。

「あっ! 武人っ! 静奈っ!」

一方で、花見月は鈴鹿と西光坊の奥に、数十メートルを離れて佇む二人を見つけた。

「なんで君達が此処にっ!?」

武人もまた突然の闖入者に驚いていた。

特に姉妹より先陣を切って現れた者に関しては、彼としても見過ごせないものがある。その視線は西光坊へ向ければ良いのか、姉妹に向ければ良いのか、それとも、ジェームズに向ければ良いのか、忙しなくあっちへ行ったりこっちへ行ったりを繰り返している。

「畜生、蛇が出やがったっ!」

そして、この場で最も慌てているのは彼だろう。

「なんでコイツ等が出て来るんだよ」

一発逆転を目指して駆けてきたと言うのに、目の前には己の天敵が居た。

「だが……」

視線を逸らした先には静奈と武人が居る。

そして、彼はこの場の誰よりも二人に近い位置を陣取っていた。姉妹との差は僅か十数メートルに過ぎない。しかし、彼はその十数メートルに己が全てを賭ける事としたのだった。

「糞ったれっ! こうなりゃ自棄だ!」

叫んで狼男が駆け出すっ!

彼にしてみれば、それは確かに一発逆転の大穴狙いであった。

ただし、伴うリスクは計り知れない。

「あっ! 待てよコラッ!!」

「ま、待ちなさいっ!」

その様子に気付いた姉妹もまた慌てて地を蹴る。

「静奈様っ!」

そして、それは西光坊にしても同様であった。鈴鹿への牽制を捨ててまで、無防備にも敵に背を向けて、己が主人を守らんと走り出す。静奈にはジェームズを追い返すだけの力は無いのだ。その歯牙に掛かれば一撃で絶命するだろう。

そして、そんな彼女の隙をまた、鈴鹿にしても見逃す筈は無い。突如として己へ向けられた背に呆気となったのも一瞬のこと。敵は何としても切り捨てんと、小刀を握る手も硬く追って駆け出した。これは彼女にとって静奈と西光坊を一度に滅ぼす願ってもいない好機であった。

つまり、その場の誰も彼もが武人を抱く静奈の下へと駆け寄って来たのである。

「ちょ、ちょっと何これっ、どうしろってのっ!?」

そんな一同の対応に、誰よりも慌てたのは武人である。

本来ならば此処一番の機会であっただろう。しかし、まともに思考は働かず、虚しく夜空に響く叫びは半ば涙声だった。目前まで迫った化け物勢を相手にして冷静では居られなかった。

「ぬぅっ、ちと拙いぞぇ」

静奈の顔にも緊張が走る。

これら化け物が互いにぶつかり合ったのなら、生身の人間が平気で居られる訳が無い。それこそ、大型トラック同士の交通事故にでも巻き込まれたが如く、跡形も無く拉げてしまうだろう。迫り来る敵味方の双方には、それだけの強大な運動量を持っていた。

運に任せて傍観している訳にはいかない。

「し、静奈っ!」

「武人、すまぬが派手に動くぞぇっ!」

武人の悲痛な叫びに応じて、静奈がグッと地を蹴って垂直に宙を舞う。

同時に全身を襲う浮遊感。それで彼は静奈が空へ飛んだのだと理解した。周囲の光景が勢い良く下に流れて行く。果たして彼女は何を考えて飛び上がったのか。一息に十数メートルを上昇する。

同時に二人を目指す者達の進路もまた上に向く。

「ぉおおおっ!?」

武人には最早声を上げるしか出来る事は無い。

というか、まるでジェットコースターに乗っているかのような急制動を受けて、勝手に上がってしまう。しかも、こちらは安全ベルトが無ければ、緊急停止スイッチも付いていない。加えて言うなら、走るべきレールさえ決まっていないのだ。

「すまないが、少しの間だけ我慢して欲しい武人」

「う、うんっ、わ、わわわ、かった」

返す言葉は酷く頼りない。

彼女達を目指す一群は、当初ジェームズを先頭としていた。

しかし、それも僅かな間にあり、すぐさま西光坊と、彼女を追う鈴鹿が抜きん出た。化け物としての格の違いだろう。西光坊は空を翔る片手間にジェームズを撃つべく腕を無造作に振るう。しかし、背後からの気配の接近に気付いた彼は、聡くも相手の指先が触れる寸前に脇へと反れる。結果、彼女の横薙ぎは彼の脇を掠るに終わった。そして、それ以上の追撃を行うだけの余裕が、鈴鹿を連れる西光坊には無い。ジェームズは西光坊から逃れるべく距離を取るが、僅か反れた地点にあって、彼を追撃する形で迫った花見月、夢見月に横へ並ばれ身動きが取れなくなる。そして、三人は慣性の赴くまま、武人と静奈が居る側とは多少方向を異にして前へと進む事となった。

そして、接触の時はジェームズの決断から僅か数秒で訪れた。

「静奈様っ!」

静奈の手前まで来て、西光坊は即座停止すると背後を振り返る。

「主人諸共、吹き飛ばしてくれるっ!」

ともすれば、目前には迫る鈴鹿と、その手に握られた小刀があった。

決して避けることの出来ない一撃を前に、彼女は両腕を胸の前で交差させて出来る限りの防衛に努める。少なくとも、その衝撃を背面にまで伝える事があってはならない。そう考えての策だろう。

「再びこの地で朽ちるがいいっ!」

夜空に大きく鈴鹿の咆哮が響き渡る。

その声を耳にして、静奈に抱かれたままの武人は、ハッと何かを思い出したように花見月と夢見月へ目を向けた。そして、今し方の彼女の叫びにも勝る声量を持ってして、大きく叫びを上げた。

「花見月、夢見月っ! 今の内に殺生石を砕くんだっ!!」

武人と静奈は殺生石より数十メートルだけ離れた位置に居た。そんな二人の下へやって来た鈴鹿である。ともすれば、今、件の岩の周囲には何も障害などありはしない。飛び道具を持ってしても余裕で破壊が可能だ。そして、姉妹は彼女よりも十数メートルだけ対象に近い位置に居る。

「わ、分かりましたっ!」

「おうっ!」

応じて声を返した二人は、対するジェームズへの牽制も半端に殺生石へ狐火を放った。

「っ!?」

西光坊へ浅く一撃を入れたところで鈴鹿の動きが急変する。

慌てて彼女は背後を振り返った。すると、目の前には己が守るべき大岩に迫る大きな火球が二つ並んで進んでいた。それこそ、次の瞬間には岩に当たり全てを溶かし尽くさん勢いがある。

「さ、させんっ!」

二人と静奈の関係を知らない鈴鹿は慌てて踵を返した。

「この期に及んで、封を解かれてなるものかっ!」

大地を震わせる少女の壮大な叫びが、周辺一帯に響き渡る。

一撃を入れたとは言え西光坊は依然として存命である。その場に浮き止まっていては背を討たれるが必至。彼女は殺生石へ向かい宙を飛びつつ、その片腕を大きく横薙ぎに振るった。すると、超局所的に突風が巻き起こる。それは腕が振るわれた延長線上を凄まじい勢いで突き進んだ。

そして、今まさに殺生石へ接しようとしていた二つの火球を、その脇へと弾き飛ばした。狐火は付近の岩肌に当たって周囲一帯を蒸発させる。しかし、危ういところで殺生石を砕くには至らなかった。

着弾した地点はまるで月のクレーターの如く半球状に穴が開いていた。規模は直径数メートル程度だろうか。それが二つ重なる様にして並んでいる。殺生石には掠り傷を一つ二つ与えるが関の山であった。それ以外に表立った変化は周囲に見られない。

しかし、鈴鹿にはホッと息をつく暇も無い。

二本の足で地に降り立つ。そして、彼女は背後へ迫っているであろう手負いの西光坊へ振り向きざま、おもむろに片腕を水平に構える。ともすれば、その手の平が向いた延長上には花見月と夢見月の姿があった。

「お前達には悪いが、暫く大人しくしていて貰おう」

そうして、そこから放たれたのは、またも突風であった。

ただし、今し方に狐火を飛ばしたのとは比べ物にならない。

延長上に存在する岩々を切り刻み撒き散らしながら、それは花見月と夢見月に迫った。その範疇にはジェームズの姿もある。三人が気付いたときには、見えない何かは目前まで迫っていた。

「な、何だこれっ!?」

「花見月っ!」

「ぅぉおおっ!!」

同時に姉妹とジェームズは共に後方の森林へ勢い良く飛ばされていった。各々の叫ぶ声が僅かなドップラー効果を伴い段々と遠退いていく。突然の闖入者は僅か数分と経たずに場外へ押し出される運びとなる。

だが、彼女達は戦場を大きく掻き乱していた。

「花見月っ! 夢見月っ!」

静奈の腕に抱かれて、武人は二人の名を叫ばずには居られなかった。

「そのようなことをしたところで、貴方の負けは決まっています」

鈴鹿が脇目を見ている隙に再び西光坊が攻勢に打って出る。

その左腕は肘から先が拉げてしまっていた。白いものが裂けた衣服の合間より見え隠れしている。だが、本人はそれを全く気にした風が無い。敵の後を追って地に降り立ち、少女の下へと駆ける。鈴鹿は先程に西光坊がしたのと同じく、咄嗟に両腕を交差させて繰り出された右拳を受ける。ともすれば、彼女のの小さな体躯は殺生石から数十メートルを離れて、隣接する神社の袂まで吹っ飛ぶこととなった。

だが、やはり身体が地に伏せられる事は無い。

「その怪我で何を言うっ!」

「この程度の掠り傷、怪我の範疇に入りません」

己に活を入れるよう言って西光坊は鈴鹿へ向かった。

西光坊の一撃を受けた少女には目立って外傷は見当たらない。先程の両腕に受けた一撃の影響だろうか。西光坊が満足な状況で一打を放つ事が出来なかったらしく、力半分の殴打に終わった様子だ。表見えて分かる左腕の損傷以外に、右腕もある程度の怪我を負っているのかもしれない。

そして、そんな人外の壮絶な争いを眺める武人がポツリと呟く。

「静奈、今しかないよ」

「うむっ」

二人は小さく頷きあう。

鈴鹿は西光坊と共に殺生石より離れた場所に居る。今ならば彼女の妨害を受けずに静奈の封を解くことが可能だろう。

「じゃが、武人はここで待っていてくれ」

「え? 何で!?」

「あの姉妹のような目に遭わんとも限らん」

「そ、それはそうかもしれないけど……」

「主を危地に晒す事は出来ん、我だけで行こう」

語る静奈の顔は真剣そのものだ。容易な説得では折れないだろう。そして、武人にしても、自分が共に行ったところで、文字通り彼女にとって荷物にしかならないことは理解していた。何よりも今は一刻を争う。返答に迷っている暇など無かった。

「分かった、でも、気をつけてね」

静奈は武人を降ろすべく、宙に浮いていた身体を地に向け降下させる。

「うむ、分かった」

そうして、彼を腕中より地上に開放した彼女は、小さな呟きを残すと、殺生石目指して走り出した。着物の袂を翻して駆ける静奈の後姿を、武人はただジッと眺める事しか出来ない。幾ら悔しくても、怒りに握る拳さえ今の彼には無いのだから仕方が無い。

「静奈……」

静奈と殺生石との間には数十メートルの距離がある。しかし、人外の脚力を持ってすれば僅か数秒と掛からずに零となる。その小さな後姿は、武人が瞬きを一つ二つする間に大岩の元へと辿り着いた。

だが、そう易々とは問屋も卸さない。

「させるかっ!」

遠方より鈴鹿の声が響いた。

ともすれば、次の瞬間には静奈の身体を突風が襲った。

「静奈様っ!」

己の相手も半端に主へと向けられた鈴鹿の腕を、西光坊は手刀をもってして撃ち切った。それにより、本来ならば静奈を完全に打ち砕くだけの鎌鼬は、しかし、威力を弱めて彼女の身体を姉妹やジェームズと同様に脇の茂みへ弾き飛ばすに終わった。

「静奈っ!」

堪らず武人は彼女の姿を求めて走り出す。

一方で腕を切り飛ばされた鈴鹿は、痛みに顔を顰めながらも西光坊との攻防に戻った。その闘志は依然として失われていない。呻きを僅かに洩らしただけで、残る右腕に握った小刀を構えて西光坊に挑む。

「くっ、この程度っ!」

「それ以上の狼藉は許しません」

「黙れっ!」

切り飛ばされた鈴鹿の腕は斜面を転がり茂る草木と夜の闇に紛れてしまった。だが、それに構う事無く、彼女は血潮を散らす片腕を気にした風も無く西光坊に挑む。残る右腕を振るい必至に応戦していた。その鬼気迫る形相は、人が彼女を呼ぶ肩書きに違わぬものであった。

そうして、互いに負傷している為か、此処へ来てもまた、一方が一方を圧倒することは無くなった。目に見えて左腕の肘から先を失った鈴鹿に対して、西光坊もまた、外傷こそ鈴鹿に劣るものの、確実に傷害を重ねていた。

二人の戦いは泥沼へと向かっていった。

真っ暗な森の中で、遠くぼんやりと燈った光源を頼りに武人は急いでいた。

「静奈っ!」

それが静奈の浮かべる狐火だと信じて、である。

「静奈っ! そこに居るのっ!?」

叫ぶ声は静かな夜の森に虚しく響き、僅かだけ木霊して消える。

縦横無尽に茂る植物に覆い隠されながらも、透けて届く淡い明かりは、歩みが近づくに連れて段々と輝きを増していった。途中幾度と無く転びそうになりながら、いや、実際に数度は転んで顔に泥を塗りながら、それでも武人は進んでいた。

ともすれば、やがて目前には大樹に背を任せる和服姿の少女の姿が現れた。紛う事無く静奈である。彼女はグッタリと力を失って地に腰を落としていた。今にも背を樹木より違わせて、倒れてしまいそうな雰囲気があった。

「静奈っ!」

少女は武人の声を聞くと、僅かに身を震わせた。それから暫くを置いて、地に向けられていた顔をゆっくりと起こした。サラサラと黄金色の髪が流れて、赤色の瞳が彼の姿を捉える。

「おぉ、武人……」

そうして、今まさに目が覚めた様子で声を上げたのだった。その声色は随分と嬉しそうなものだ。随分と酷い目に遭ったというのに、口元には笑みが浮かべられていた。武人が己の名を呼んで探しにやって来たのが嬉しいのだろう。

「静奈、大丈夫?」

武人は静奈の傍らまで駆け寄って片膝を突いた。

「うむ、大丈夫じゃ」

幾度目か名を呼ばれて、彼女はゆっくりと身体を起こし立ち上がった。

同時に彼女の周囲に浮かんでいた狐火が輝きを強くする。

「ちょ、ちょっと、動いて大丈夫なの? 痛くないの?」

「少々気を失っておったようじゃが、そこまで深刻ではなさそうじゃ」

「着物があちこち切れちゃってるけど……」

「奴を相手に一撃を受けて、この程度で済んだとあっては行幸じゃろう。西光坊には感謝せんとならんのぉ。あの時、奴の腕を落としてくれなければ、我は生き長らえることが出来なかったであろう」

パンパンと軽く叩いて着物に付いた木の葉や土を落とす。その生地には小さな裂け目が数多見て取れた。また、その場所を近くして、直径数センチ程度の赤い斑点が水色の生地に斑模様の如く滲んで見える。しかし、そんな猟奇的な姿とは裏腹に、静奈の顔色はそれほど悪くない。

「血が染みてるよ? 本当に大丈夫?」

「うむ、どれも浅い。すぐに塞がる筈じゃ」

「消毒とか、そういうのは……」

「この程度の怪我なんぞ、化け物の世では怪我の範疇に入らぬ」

「そ、そうなの?」

「いちいち気にしていては、それこそ身が持たんぞぇ」

「そう……、それなら、いいんだけどさ……」

「心配してくれてありがとう、武人」

「いや、別に礼なんていらないんだけどさ」

「我は武人が我の名を呼んで、駆けてやって来てくれたことが、凄く嬉しい」

普段からの快活とした静奈の姿を目の当たりとして、武人は頷かざるを得なかった。決して強がっているようには見えない。ならば、不必要に心配するのは彼女にとって面倒でしかないだろう。そう考えるに至った。

「武人、顔に泥が付いてしまっておる」

「ん?」

「折角の面構えが台無しじゃ」

そう言って静奈は武人の顔に手を伸ばす。

そして、己の着物の袖の端で彼の顔に付いた泥を拭っていった。丁度、膝を突いてしゃがみ込んだ武人の頭部を抱えるようにして、高価な調度品を磨くが如くである。それは傍目にも微笑ましく感じられる光景であった。

「ちょ、ちょっと、服が汚れちゃうよ」

「別に構わぬ。それよりも我は主が泥に汚れている方が許せぬ」

「泥の染みって落ち難いんだよ?」

「武人の顔を拭って付いた染みならば、我は喜んで袖を通そうぞ」

「い、いや、ちゃんと洗濯しようよ……」

大仰な静奈の物言いを前に、多少だけ返答に困りつつ、やはり武人は為されるがままだった。やがて、数分を置いて顔から首の辺りまでを綺麗に拭い、彼を見つめる静奈は満足した様子で小さく頷いた。

「これで良い」

「どうも、ありがとう」

「当然の事をしたまでじゃ。それこそ礼を言われる事ではない」

着物の袖は左右共に泥で見事に汚れてしまっていた。きっと、どれだけ懇切丁寧に洗っても完全に落としきる事は出来ないだろう。だが、それに反して静奈の顔に浮かぶ笑顔は素敵なものであった。

「しかし、困った事になったのぉ」

とはいえ、そんな可愛らしい表情も長くは続かない。

多少だけ眉を顰めて彼女は頭上を仰いだ。

背の高い樹木と、そこに茂る木の葉に隠されて夜空を望む事は叶わない。加えて、今夜は新月に近い。葉の隙間から漏れる明かりよりも、脇に浮いた狐火の方が明るく、頭上は漆黒の闇に包まれて感じられた。

遠くからは誰かが争う音が絶え間なく届いてくる。それは二人が居る場所から離れて、異なる方向から一つずつ響いてきた。一方が西光坊と鈴鹿の争う音だとすれば、もう一方は花見月と夢見月がジェームズと戦っている音だろう。依然として決着はついていないようであった。

「西光坊、大丈夫かな……」

「大丈夫だとは思うが、こればかりは答えるに確信が持てん」

「何とかして、殺生石を壊せばいいんだよね……」

「うむ、だが奴の守りは思っていたよりも堅い」

「なんとか隙を突ければいいんだけど、それも難しそうだね」

「うむ……」

武人としては静奈の安否を確認して一息ついたところだが、これで西光坊が殺されていたとなっては目覚めが悪い。何が何でも殺生石を打ち砕いて、静奈に力を取り戻させたいと考えていた。

「ところでさ、静奈」

「なんじゃ?」

「もしも、殺生石が砕けたなら、静奈はあの子を倒せるの?」

「うむ、それは問題無い」

尋ねられて静奈は迷い無く頷いた。

「あの殺生石に封ぜられた力がどれ程のものかは知らぬ。じゃが、あれは我を封じた岩の中でも割と大きなものじゃと言う。ならば、それを砕く事が出来たとあっては、そこいらの化け物に後れはとることは無い」

語る口調は確たるものである。そこには武人を安心させようという気概と共に、彼女の己の力に対する絶対の自信が見て取れた。ともすれば、問うた彼はそれを疑う事無く信じて頭を巡らせる。

「っていうと、岩さえ砕けばその時点でこっちの勝ちだよね?」

「奴が武人を人質に取るような真似をしていない限り、そうなるぞぇ」

「なるほど……」

静奈の言葉に相槌を打って武人は顎を引く。

もしも失われた腕があったのなら、それは顎にでも当てられていただろう。彼も彼なりに力に成りたいと考えているのだ。狐火に薄っすらと照らされた薄暗い地面を眺めては、なにやら悩む素振りを見せる。

「我の力が及ばぬばかりに、すまない、武人」

「いや、君が僕に謝ることは無いよ。そもそもの原因は別にあるんだから」

「じゃが、我が神野の言葉に乗って主を誘ったのは事実じゃ」

「それを含めての話だよ。あの爺さんだって害意を持っていた訳じゃないと思う」

「じゃが、結果はこの様じゃ」

「だからって、僕に謝られても困るよ。それよりも、今は現状の打破に努めよう。謝るのも悔しがるのも、生きてるからこその賜物だよ。西光坊だって静奈の為に一生懸命戦ってるんだしさ」

「う、うむ……。そうじゃな、すまぬ」

「でも、偉そうな事を言ったところで僕も良い案は無いんだけどね」

「こればかりは人の身に余る所業じゃ」

「だけど、人の身だからこそ、何か手伝える事があるかもしれない」

「ぬぅ…………」

遠く二つの争いを耳に感じながら、武人と静奈は言葉も無く頭を悩ませた。

既に時刻は午前一時半を回っている。夜明けまで四時間といったところか。その程度の時間ならば、あの少女と西光坊では余裕で持ち越してそうな感がある。それは人の身にある武人としても勘弁願いたい展開だろう。人外の存在を秘匿としたいのは彼としても西洋の化け物に同じである。静奈達の存在が周囲に露見するのは、彼の安穏な生活を脅かすにも繋がる。

「西洋の化け物…………」

何気無く武人が呟いた。

そんな時である、脇の茂みで木の葉の擦れ合う音が響く。

予期せぬ物音を耳として、武人と静奈は緊張した面持ちで音源へ顔を向けた。

かれこれ数時間を争って、西光坊と鈴鹿は互いに満身創痍であった。

しかし、依然として闘志が衰える事は無い。激しくぶつかり合う二人の肉体は、その都度に何処かしらを裂かれ、打たれ、削られていく。けれど、身体に数多の傷を負いながらも、戦いは延々と平行線のまま続けられていた。

「このままでは日が昇ってしまいますね」

「それまでには貴様も白面金毛も、共に討ち滅ぼしてくれるっ!」

「果たして、願い叶うと思いますか?」

「貴様等を相手にして負ける私ではないっ!」

「口では何とでも言えましょう」

「黙れ、この度の絶命を覚悟せよっ!」

そろそろ夜明けも近い。

周囲三方向を山に囲まれている為に、夜明けは他の地域より遅く感じられるだろう。しかし、確実に東の空は明るんで来ている。じきに人々も目覚め始めるだろう。ともすれば、火の点けられた山や、荒らされた文化遺産に気付くのも時間の問題である。特に、隣接する神社の宿舎とは目と鼻の先だ。目覚めた神主が警察や消防へ届け出るのは目に見えている。

岩場には観光客の為に木製の渡し橋が掛けられていたが、それも殺生石の置かれた辺りを中心として、至る所が大きく損壊している。また、周囲の岩場にしても昨日とは模様をがらりと様相を変えている。遠目にも、そこで異変が起きている事は計り知ることが出来るだろう。

「速急に決着をつけるっ!」

殺生石を中心として立ち回っていた鈴鹿が、此処へ来て西光坊に打って出る。

右手には依然として刃渡り半尺程度の小刀が握られている。互いに身体を赤く染める中にあっても、その淡い銀に点った波文は特に血塗れていた。西光坊の肉体には大小さまざまな切り傷が多く見て取れる。一方で、振るう少女の身体はそこらかしこに青痣が打たれていた。

「焦っているのでしょう?」

「ぬかせっ! それは貴様とて同じ事だろうがっ!!」

もう幾度目になるか分からない斬撃が繰り出される。心臓を狙う一突きだ。それを危ういところで脇に退き避けた西光坊は、腕を伸ばし攻めの手を加える。身長差を生かして、少女の首を掴むように迫った。彼女にしても時間が無いのは同じだった。

切り飛ばされた鈴鹿の腕はいつの間にか復活している。地に転がるそれを拾い、無理矢理に切断面へ押し付けて結合させたのだった。その光景を武人が目の当たりとしたのなら、なんて羨ましい、などと愚痴の一つでも吐いていただろう。とは言え、接合面には痛々しい痕跡が残っている。本人は平気な顔をしているが、屈伸にも激しい痛みを伴うのは違いない。

「全ては、この岩を砕けば終わることです」

「貴様には砕けぬっ! この私が守るのだからなっ!」

少女は身を屈めて西光坊の腕を避ける。

しかし、それも想定の範疇にあったのか、腰を落とした少女の顔面に西光坊の右膝が向かう。そこへ、鈴鹿は己が頭部を囮としても、手にした刃を深々と付きたてた。膝先に突き刺さった小刀の柄が、繰り出された蹴りの勢いのままに少女の眉間を割る。だが、柄を握る五指が緩む事は無い。蹴りつけられた勢いを殺す事ができずに、彼女の身体は突き立てたばかりの刀を手にして、宙を高く十数メートルを舞った。

「っ!」

自由の利かなくなった右足に構わず、低空を飛翔して西光坊は少女へ追撃を掛ける。

対する鈴鹿もまた、額を大きく窪ませながら、空中で猫のように体制を整える。そして、地上を駆ける相手に向けて空を蹴った。人の身からすれば、共に満足に動けるような姿には思えない。しかし、それでも彼女達の争いは終わらなかった。

「例えば、殺生石の封がもっと厳重であったのなら状況は異なっていたでしょう」

「まさか、このような事態に陥るとは誰が思うものか」

「所謂、平和呆けというやつですか?」

「ああ、お前の主人が朽ちて数百年は至って平穏に過ぎていったさ。それが、今更になってのこのこと顔を出して来るなどと誰が思うか。貴様等の時代は既に過ぎ去ったのだ。大人しく消え失せろっ!」

全ては彼女達の脇に鎮座する殺生石を巡っての事である。幾度と無く四肢を交差させては、二人は互いの肉体に傷を刻んでいく。しかし、語る口調は一向に衰えること無く、寧ろ更なる高潮を迎えていた。

そんな時である。

ふと彼女達の脇より姿を現す者があった。

その者は森の茂みを己が身で分けてやって来た。両腕は失われて久しく、頼る事ができるのは五体の内に残る二本の足のみだ。体中を泥に塗れさせて、彼は再びこの広場へと戻って来たのだった。

「せ、西光坊っ!」

彼は開けた場へ躍り出るなり、その場の岩に足を取られ身を転ばせた。力無く転がり岩場に肉体を打ちつけながら、彼の身体は殺生石の付近にまで転がっていった。凹凸の無い身体は良く転がった。

「武人様っ!」

その尋常でない叫びに西光坊の意識が向かう。また、鈴鹿にしても予期せぬ伏兵と見たのか、その注目を彼に向けた。すると、転がる彼の背後より飛び出す影があった。それは彼と比較して大柄な体躯の持主である。

「随分と手間をとったぜぇ……」

静奈を脇に抱えるジェームズであった。

捕らわれた彼女の首筋には彼の指先が油断無く向けられている。

「貴様は何者だっ!」

抑えるべき要の一つを闖入者に奪われて鈴鹿が吼える。釣り上がった眦の奥に控える緋色の瞳がジェームズを捉えた。ギョロリと動く眼は生来の凛々しさを過ぎて、今や歴として鬼の形相を作っている。おまけに額は陥没しており、非常に猟奇的な様を醸していた。

「何者でもいいだろ? まあ、お前等には西洋の化け物だと言えばいいのかね?」

しかし、そんな彼女を前にして怯える事無く、ジェームズは飄々として言葉を続けた。

「貴様が、我等が同胞を殺して回っているという化け物か?」

「だとしたら、どうする?」

「白面金毛共々、この場で斬り捨ててくれる」

「だが、今は状況を考えたほうが良いんじゃないか?」

そう言ってジェームズは辺りを見渡す。

闖入者の出現により西光坊と鈴鹿の争いの手は止まっていた。彼と二人とは殺生石を挟んで十数メートルの距離にある。西光坊を抑えるので精一杯の鈴鹿にとって、その距離は決して侮る事の出来るものではなかった。また、静奈を捉えられた西光坊にしては今すぐにでも飛び出して行きそうな勢いがある。

「俺がマシューの野郎に命じられたのは一つ。こいつ等の誰かを生きたまま攫って来ることだ。だが、ここまで状況が揃ったなら、そんなみみっちい命令に従っている事も無いだろう。ここで白面金毛をぶち殺すっ!」

そう呟いて、彼は倒れ伏した武人と脇に抱える静奈へ目を向ける。

「故に、先ずもって俺の目的は、こいつ等による石の破壊を防ぐ事だ」

どうやら静奈は意識を失っているらしく、ぐったりとしておりピクリとも動かない。その姿に下卑た笑みを浮かべてジェームズは言葉を続ける。全ては己が勝利を確信しての事だろう。

「どうだ? こいつを盾にすればお前の相手は身動ぎ一つ取る事は出来ないだろう。仮に敵同士だったとしても、目的は同じなんだ。ならば、今は共に共通の敵を打倒すべく手を組むべきだと思わないか?」

「それは貴様が私に組するということか?」

「悪い話じゃねぇだろ?」

答えて彼は、へっへっへ、と薄く笑ってみせる。

「石とコイツは俺が見ててやる、お前はそいつをとっとと殺しな」

「それで貴様に何の特があると?」

「コイツ等は俺にとっての敵だ。その封を解かれたとあっちゃ、こっちとしても色々と面倒があるってことだ。その辺の話は、この場でこうして争っている以上、ある程度は理解しているものだと思うが?」

「…………」

問いかけに返す言葉は、容易に浮かぶものでない。

「敵の敵は味方って言うだろ?」

ジェームズの言葉に鈴鹿は思案の表情を浮かべる。

とは言え、その表情は己が好転だと言うのに芳しくなかった。

全ては彼女の性格によるものだろう。ジェームズの俗物的な口調と、敵を人質とするという卑怯な振る舞いに抵抗を感じていることは、誰の眼にも明らかであった。いや、抵抗というよりは嫌悪といった方が良いだろう。

しかし、背に腹は代えられないのも事実である。

このままでは日が空けてしまう。それは人里に根を下ろした彼女としても非常に憂うべき事態に違いない。西光坊との争いの手も止まり、僅かに生じた余裕でもって、鈴鹿は己が取るべき選択を一考する素振りを見せる。

「貴様はそれで、満足なのか?」

「ああ、お前がこいつ等を殺してくれりゃ最高だ。少なくとも、今お前が戦っている奴さえ凌げりゃ、その後はどうとでもなるだろう。俺も楽して金を貰えて万々歳ってところさね」

「しかし、人質とはまた随分と薄汚いやり方だな?」

「四の五の言っていられる状況なのか?」

「ふん……、良く分かっているじゃないか」

「だったら悩む必要なんかねぇだろう?」

鈴鹿はつまらなそうに花を鳴らして答えた。

「ああ、まったくもって違いない」

彼女にしても、後に待つ結果だけを考慮したのなら、彼からの提案は非常に魅力的なものだろう。このまま西光坊と争っても、日が明けて自分達の争う姿が人の目に触れるのは目に見えている。それは、この場の誰もが望まぬことだ。

「で、どうだ?」

「いいだろう、その提案を受けてやる」

とは言え、返す言葉は本人が意識せずとも自然と忌々し気なものとなる。

手放しで喜べないものを感じているのは、傍から眺める武人の目にもありありと感じられた。もしも彼女が敵で無かったのなら、あるいは花見月や夢見月と同様に仲を持つことが出来たかもしれない。そんな風に考えてしまうのは彼が小心者である故だろうか。

「なら、さっさと殺しちまえ。親玉と岩は俺が見ててやる」

「分かった、そうするとしよう……」

鈴鹿が聞き届けたことを確認してジェームズは静奈を抱えたまま殺生石の元へと歩む。その途中には、倒れた武人の姿もあるが素通りだ。一瞥もくれる事無く足早に大岩へと向かった。

「静奈様……」

己が主人と手中に取られて、西光坊は動くことが出来ない。

そんな彼女を前として鈴鹿は静かに小刀を構えた。

「このような形での決着は非常に不本意だが、贅沢を言っていられないのも事実だ。悪いがお前にはここで死んで貰う。僅かでも身を動かしたのならば、大切な主の首が落ちると思え」

「残念な結果ですね」

「あぁ、私も同情してやる。今だけはな」

徐々に薄らぎ始めた明朝の空に掲げられて、短刀の波刃が僅かに淡く光を燈す。

それは次の瞬間にでも西光坊の心臓を突き破るだろう。

「西光坊っ!」

堪らず武人がその名を叫ぶ。

「何でもいいから今は逃げてっ!」

続けざまに示されたのは、彼らしからぬ厳つい声色で発せられた命令だ。

その瞬間、誰よりも早く動いたのはジェームズである。

「っ!?」

僅か送れて、鈴鹿の短刀が振るわれる。

その手は柄から離れてると、鋭く尖った切っ先は空を切って飛来した。

だが、向かう先に西光坊の姿は無い。まるで弾丸の如く打ち出された小刀は、迷い無く一直線にジェームズを目指していた。だが、既に彼は動いていた。大きく飛び上がり殺生石へと飛びつく。そして、その頂点目掛けて拳を振り下ろした。

鈴鹿によって投擲された短刀は彼の足を撃つに終わる。

時を同じくして、それまで不動を保っていた殺生石が顕著な変化を見せた。拳を打ち付けられた箇所から地面に対して垂直に、乾いた音を立てて大きな皹が縦に走る。薄暗がりにあって、尚のこと暗い影が線として皆の目に留まった。

その場の誰もが、ジェームズの奇行に注目していた。

「心得ましたっ!」

全てを理解して、西光坊は鈴鹿を前に背後へ大きく跳躍する。

「くっ、図ったなっ!?」

同様に、鈴鹿もまた忌々しげに叫んで駆け出した。その様子はこれまでに無く慌てて見える。無論、目指すは殺生石に取り付いた化け物である。最早、逃げ出した西光坊に構う事は無い。

対して、殺生石に一撃を入れた彼は、脇に抱えていた静奈を即座に他所へと放り放つ。放物線さえ描く事無く、勢い良く十数メートルを放られた彼女は、しかし、地が近づくと空中で姿勢を整えると、両足から着地した。彼女の傍らには、不慣れな身体ながら、漸く地より立ち上がった武人の姿がある。

「封が完全に解かれる前に、殺してくれるっ!」

そんな相手の対応を前に、急遽のこと進行方向を変更した鈴鹿が迫る。その視線は既に静奈以外の何者も見止めてはいない。嘗て無い速度で迫る少女を捉えて、静奈は一瞬だけ怯んだ表情を見せる。だが、それも僅かな間だ。

次の瞬間には、彼女の姿は淡い霧と共に花見月のそれへと変化した。

「なっ!?」

振り上げられた鈴鹿の拳が躊躇する。

地を駆ける足は、止まるざるを得なかった。

「我等の勝ちじゃ。のぉ? 鈴鹿御前よ」

その飄々とした声は殺生石の上より響いて届いた。

ともすれば、皆の視線を集めて大岩の上に立つのはジェームズなどという西洋の化け物ではなく、小柄な体躯を晒す和服姿の静奈であった。彼女は得意気な笑みを浮かべて、眼下に佇む鈴鹿を見下ろしていた。

「我は化け物である前に狐であってのぉ」

そして、時を同じく皹の入った殺生石の片割れがぐらりと傾いだ。

「化かし合いならば、鬼如きに引けはとらぬぞぇ?」

「こ、このっ!!」

慌てた鈴鹿は三度踵を返すと、岩上の静奈を目指す。

だが、そんな彼女の眼を大岩が発する眩い閃光が殺した。皹割れた岩はゆっくりと二つに裂けて左右に倒れゆく。その際に、皹から生まれた裂け目からは、真夏の陽光にさえ勝る程の明りが発せられていた。

「っ!?」

予期せぬ眼球への痛みに、標的を見失った鈴鹿は駆ける足を躊躇する。

彼女だけでなく、武人や花見月、西光坊にしても目を開けては居られなかった。堪らず瞳を閉じるが、それでも瞼越しに眩い明りに照り付けられているのを、その場の誰もが感じていた。一度でも瞳を露としたのなら、眼球を焼かれてしまうのではないかと危惧せざるを得ない程の光量であった。

だが、それでも鈴鹿は諦める事を知らなかった。

「私は決して貴様を許さないっ! たとえ己が信条を焼かれようともなっ!!」

一際大きな叫びが上がった。

視界が白に閉ざされた世界にあって、その声だけが誰の耳にも良く届いて響いた。

閃光が止んだとき、武人は己が肉体に生じた変化に絶望していた。

「同じ朽ちるならば、せめて貴様の策の一つでも討たねば気が済まぬ」

まず耳に届いたのは鈴鹿の凛とした呟きだった。

「人間と共に歩む道を選んだだと? 冗談も大概にしろ。この人間が貴様にとって如何様な存在かは知らぬ。だが、これで化けの皮の一枚や二枚は剥がれようというものであろう? ともすれば、神野や他の護り手達の気も変わろうというものだ」

語る口調は今し方の叫びとは打って変わって落ち着いたものだ。

「まあ、封が解かれた今となっては全てがどうでも良いことなのかも知れぬがな……」

彼女が語り終えるを待たずして、全ての感覚を掻き消す様に、彼の元へ身を裂くような痛みが訪れた。否、それは呼んで字の如く身を裂く痛みであった。衝撃を受けた胸部を中心として、指先一つ動かすことすら困難に思える程の強烈な刺激である。彼の主観を持ってしても、過去に腕を失った時とも比較にならない激痛であった。

耳に届く鈴鹿の声が遠くて、武人は自らの先が長くない事を、これまでの経験より悟るざるを得なかった。腹の内より熱く堪え難いものが上へ上へと溢れて来ていた。そして、それは本人の意思などお構いなしに食道をせり上がり咥内を満たす。

「……なんで……こういうのばっかり…………」

やがて、それは僅か言葉を漏らすに応じて、咳き込むように吐き出された。

ベチャリと音を立てて、真っ赤な液体が口より大量に地へと撒かれる。更には鼻腔内へも廻り、彼の顔は涙と鼻水と血液とでグチャグチャだった。端正な顔立ちは見る影も無く無様なものである。

「た……武人…………」

岩の上に立って、静奈は眼下の光景を呆然と見つめていた。

彼女の頭の上には黄金色に映える三角形の尖った耳が二つ並んである。そして、腰の後ろからは耳と同じ毛色を揃えて、流れるような毛並も美しく、着物の下より生地を押し上げて、九本の尻尾がしっかりと生え揃っていた。

しかし、その神々しいまでの光景も、今や二人の動向を前に霞んで見えた。

「これで満足か? 白面金毛」

そう呟いて鈴鹿は武人の胸に突き刺さった腕を引き抜く。同時に、大量の血液が彼の肉体より噴水の如く噴出し始めた。抜き取られた彼女の手には、血肉に塗れた何かが握られていた。それは少女の握り拳より二廻り程の大きさであり、所々に艶やかな桃色の肉を晒している。

「ぁ……」

武人は満足に悲鳴さえ上げることも出来ぬまま、ドサリと硬い岩場へ倒れた。仰向けに横たわる肉体の傷口からは、絶え間なく血液が流れ出す。彼の周囲はあっという間に、ちょっとした血の池となった。

そのすぐ脇に立っていた筈の花見月は、しかし、閃光の中にあって鈴鹿の接近に気づくことが出来なかった。視界が開けたとき、既に何もかも全ては終わった後であった。彼女もまた静奈と同様に、ただ呆然として倒れ武人の姿を見つめていた。

「とは言え、私はこの人間にどのような罪があったか知らぬが、な……」

横たわる武人を見下ろして、鈴鹿は淡々と語る。

「もし、何の罪も無かったというのなら、息のあるうちに謝っておこう」

そうして言葉を投げかける彼女の顔には、今までの激情から遥か遠い落ち着き払った平静があった。それこそ、なんでそんなに落ち着いて居られるのだと、先ほどまでの怒声は何処へ消えてしまったのだと、武人自らが疑問を口としたくなる程である。

「巻き込んで悪かったな」

呟くと同時に彼女は手にした臓器をグチャと握り潰した。

随分と勢い良く握り込まれた為か、指と指の合間より四散した血肉の一部が、武人の元まで飛び散っては、身体を赤く斑点状に染めた。生きたまま心臓を取り出され、あまつさえ目の前で握り潰される。それは身体を襲う痛みにもまして、彼にとって衝撃的な光景であった。

「僕の……しん…………」

だからだろう、口を突いて出た最後の言葉は妙に間の抜けたものであった。だが、それさえ最後まで語られる事は叶わない。少女に向かい伸ばしかけた腕が僅かに地より持ち上がって、しかし、すぐに力無く元の通り落ちて動かなくなる。体内から抜け出る血流は徐々に勢いを失い始めて、彼の身体は内に燈す熱を散らしていく。彼の意識はそこまでだった。ゆっくりと瞳が閉じられて、身体はピクリとも動かなくなった。

脳は人体において最も酸素を必要とする臓器である。人間が取り入れる酸素のうち二割以上は脳が消費している。そして、その供給が絶たれたとき、数秒で意識が途切れ、やがて数分の内に脳は機能回復不可能なまでに変質する。

「さぁ、あとは私を煮るなり焼くなり好きにすればいい」

倒れた武人を傍らに置いて、鈴鹿は静奈へ向き直る。

その顔には何処か、諦めにも似た嘲笑が浮かべられていた。

だが、見つめた殺生石の元に彼女は居なかった。そこには縦に真っ二つと割られた大岩が存在しているだけだ。今し方の閃光にしても嘘のように静かなものである。垣間見える断面も普通の岩石となんら変わりは無い。

「ど、何処へっ!?」

そう驚いて叫んだとき、鈴鹿の身体は脇より与えられた強大な衝撃を持ってして、大きく宙を舞っていた。それは抗うことが出来ない絶対的な一撃であった。彼女自身、何が起こったのかを理解する間も無く、意識は失われて、その身は地と平行に飛んで山中へと消えていった。彼女の肉体が樹木をへし折り森を突き進む音は、それを聞く者の耳に届かぬところまで音源が達するまで、延々と続いて辺りに響いた。

「武人っ!」

行ったのは他の誰でもない、静奈である。

いつの間に移動したのだろうか。彼女は倒れた武人の脇に両手両膝を突いて、嘆き寄り添っていた。既に鈴鹿の事など眼中に無い。ただ只管に己が主の名を叫んでは、その顔を必死の形相で見つめている。

「武人っ! しっかりするのじゃっ!!」

体中を血に塗れさせて、静奈は必死に呼びかける。しかし、武人の瞼が再び上がることは無かった。肉体は静かに淡々と血を吐き出し続けて、確実に体温を失っていく。彼女はそれを眺めるしかなかった。

「静奈様っ!」

武人の命により距離をとっていた西光坊が二人の下に舞い戻って来た。

スタッと軽い音を立てて、宙より二人の脇に降り立つ。その気配を感じ取って、静奈は武人を見つめたまま彼女に語りかけた。それは彼女が持つ幼い声帯から発せられているとは思えぬほどに、重みの感じられる低く落ち着いた口調であった。

「西光坊、我は今、どれだけの力が戻ってきたのか限度が見えん。もしも我の意識が途切れたとあったのなら、後のことは、武人のことは主に任せたぞぇ? 全てを頼まれてくれるな?」

「…………どうするおつもりですか?」

「どうにかするのだ。このようなことで武人の命を散らせる訳にはいかぬ」

そう言って静奈は立ち上がる。

西光坊は己が主の行為を止める事が出来なかった。

彼女が黙って見つめる先で、静奈は着物の帯を取り払い前身頃を肌蹴させて、自らの右腕を己が左胸に当てる。そして、鈴鹿が武人にそうしたように、勢い良く自身が内へと沈ませたのだった。行為に当たっては一切の躊躇さえ感じられなかった。まるで毎日の習慣をこなすが如く流れるような動作だ。筋肉と筋肉を割って指の突き刺さる気味の悪い音が、他に音源を失って静けさを取り戻した明朝に響く。

「し、静奈っ!」

それまで固まっていた花見月が、焦りと怯えを含んだ声を上げた。

ズンと肉を裂いた五指は、周囲を囲う肋骨を拉げさせて、肉の中を力任せに進む。夥しい量の血液が噴出するが、それに構った風は微塵も無い。しっかりと己が両足で地に立ち、静奈は自らの胸の肉を疎ましそうに裂き、千切り、目的のものを指先に触れて見つける。それはドクンドクンと規則的に脈を打って、己の活動を主人に伝えていた。

「持っていてくれ武人っ……」

二の足を踏む間も無く、彼女はそれを根元から強引に引き千切った。血管や肉の筋が千切れる水気を含んだ気味の悪い音が辺りに響く。やがて、それは静奈の手の内に治まり空の下へ露見した。ものを引き抜く際には大量の血液が噴き出して、武人を囲う血の池をより一層のこと大きなものとする。彼女を見守る西光坊や花見月、そして、傍らに横たわる武人もまた紅に濡れて、狐火からの照り返しに赤黒く光って見えた。

「静奈様、それを行うということは、仮に助かったとしても……」

「全て理解しておる。じゃが、それでも我は武人に生きていて欲しいのじゃ」

「良いのですか?」

「それは……、分からぬ。これは我の我侭なのじゃ……」

何かを言いた気な西光坊を前に、静奈は先を塞ぐよう語って行為を続ける。

白む明け方の夜空を頭上において眺める彼女のそれは、武人のものと比較して一回り小さかった。しかし、二人はそれを全く気にした様子も無い。そうすることが当然だと言わんばかりに、静奈は取り出した己の心臓を武人の胸元へと運んだ。

「武人、頼む、死なないでくれ……」

そして、ぽっかりと穴を開けた武人の胸へと押し込んだのだった。ヌチャリと音を立てて、掌より押し出されたそれは、開いた穴を塞ぐように彼の内へと入り行く。それを見守る西光坊と花見月は、静奈の行為に一切の口を挟むことが叶わなかった。

意識が戻ったとき、武人は己が肉体へ生じた変化に戸惑いを隠せなかった。

「…………っ」

一筋の光も届かない真っ暗闇な深海よりゆっくりと浮き上がるように、多少の時間をかけて自意識が覚醒していく。それに応じて、武人は自らの肉体を中枢から末端まで徐々に知覚していった。それまで閉じられていた瞼がやんわりと開かれる。

ともすれば、彼の視界には鼻先に向き合った血塗れの静奈が中央にあった。彼女の傍らに立つ西光坊と花見月が見て取れる。空は彼が意識を失った時より更に白みを増しており、夜明けの近いことが伺えた。とはいえ、耳には鳥の囀る音が届いてこないので、夜明けまでは一刻の猶予があるだろうと知る。

そして、そこで初めて、武人は自分がまだ死んでいないのだと理解した。

「あれ……僕…………」

戸惑いつつも口を開く。

咥内は噎せ返る鉄の味と匂いに満ちていた。それは紛う事無く、意識を失う前の吐血が現実の出来事であったことを伝えてくれた。ならば、自分は鈴鹿によって胸を突かれ、絶命したのでは無いかと疑問が沸いて出る。武人は口の中の不快感を勤めて顔に出さないよう静奈に目を向けた。

しかし、彼が続く言葉を口にする間も無く静奈が声を上げる。

「武人っ!」

彼女は間髪置かずに、彼の頭部を自らの腕と胸で包むように抱きしめた。

武人は己の後頭部に柔らかな感触と人肌の温かみを感じて、それが静奈の膝枕によるものだと理解した。しかし、依然として脳裏を巡る疑問は自らの生であり、こうして息を吹き返して対面した現実であった。

「あの、静奈、僕ってどうなったの?」

身体に痛みは無かった。

穴が開いてしまった筈の胸を手で触って確認してみる。すると、先ほどまでは白いものさえ見え隠れしていた穴空きの胸板が、しかし、今はどういう訳か元通り平坦な態を晒していた。触れる指先は血液に滑って胸板を流れる。途中、破れたシャツの感触を感じたが、皮膚には傷一つ見られない。

「……ぇ?」

そこで、武人は再び自らの身に起こった変化に驚く事となる。

それは失われた筈の両腕が、どういう訳なのか元あった通りに存在しているからであった。何気なく動かした肩から先が存在している。失って久しい両腕との対面は、死地から蘇った事と同様に彼の精神を強く揺さぶった。自然と顔は驚きの色に染まり、信じられないものを見たような表情を作っていた。

「武人っ、生きていてくれて良かった、武人っ、武人っ!」

だが、そんな彼を前にして静奈は、只管に彼の名を呼んで抱きついて来るだけだ。腿に乗った武人の頭部を自らの身で囲うように背を丸めては、両手でその顔へ最上の抱擁を与える。

「あ、あの……」

視界は静奈の胸で一杯だった。

触れ合う肌の感触に彼は自らの生を確実なものとして感じることが出来た。

「静奈様、武人様が困られているようですが……」

そして、静奈の暴走に助け舟を出すのはいつだって西光坊の役割である。

今回も例に漏れず、ある程度だけ主人の好きなようにさせた後には、武人を思って声を掛けた。そして、そんな彼女の平然としている姿もまた、武人に新たな疑問を生ませた。曰く、鈴鹿はどうなったのだろうか、と。

「う、うむ。すまない、武人。取り乱してしまった」

「いや、それは構わないんだけど、今ってどうなってるの?」

「武人の策が嵩じて難所は乗り越えたぞぇ」

やんわりと武人の頭部を開放して静奈は答えた。

「そっか、なんとかなったんだ……」

その一言を耳として、それまで残っていた緊張を解いた武人はホッと人心地ついた。彼の記憶に残っている最後の場面は、自らの心臓を握りつぶした鈴鹿の姿だった。今後、ジェームズと同じく彼女の姿がトラウマとならなければ良いが、とは人知れず彼が己の内に零した愚痴である。

「もう安心してもいいの?」

「うむ、無事に殺生石の封も解けた。ほれ、この通りじゃ」

武人の問いに答えて、静奈は己の尻尾を武人の前で躍らせる。

そこで、彼は初めて自らの身体を囲うように伸びた黄金色の尻尾を見た。それは西光坊のものより三本だけ多い。力強くも悠然として在る九本尻尾であった。他の化け狐のそれと比べても、一本一本が大きく太く力強いものに思える。周囲に浮かんだ狐火に照らされて、その艶やかな毛並はキラキラと淡く光を湛えていた。見上げる頭上には、尻尾と同じ色に輝く三角形に尖った耳の存在も見て取れる。

「あぁ、よかった……」

「全ては武人のおかげじゃ、流石は我の主様じゃ」

そう言って静奈は武人の頬を優しく撫でる。

語る口調はとても穏やかなものであった。その様子を前にして、武人も自然と小さな笑みを浮かべていた。その少女は自分よりもずっと小さな筈なのに、まるで母親に抱かれているような安心感があった。

「でも、僕はなんで助かったの?」

化け狐やら狼男やら、果ては鬼とまで出会う羽目となった数週間である。しかし、流石に今回の展開には、武人も疑問を口とせずには居られなかった。自らの肉体に起こった変化ならばこそ、その詳細にしても気になろうというものだ。

彼の脳裏には、以前、自らの血をもってして静奈の命を救った西光坊の姿が思い起こされた。しかし、彼女の説明によれば、それは二人が特別な間柄にあるからこそ行えた行為だという。では、自分はどうして助かったのか。

「静奈が助けてくれたの?」

「うむ……、それなんじゃが…………」

武人に見つめられて、静奈は答え難そうに言葉を濁す。

応じて、その視線は武人の目より脇に僅か逸らされた。

「静奈様、私から説明を致しましょうか?」

「いや、これは我の口から説明すべきじゃろう」

だが、それも隣から差し出された救いの手を前にして、すぐに元在った通り戻る。頼りなさ気な表情を浮かべたのも僅かな間のことだった。彼女は覚悟を決めた様子で硬い表情を作り、己の膝上に頭を置く武人へ視線を落とす。

ごくりと唾を一つ飲んで静奈は語りを続けた。

「武人、先に謝っておきたい」

「…………それは、どうして?」

「もしかしたら、我は武人にとんでもない横暴を働いたかも知れぬ」

「横暴? どういうこと?」

先の見えない話に武人は眉を顰める。

そんな彼の反応を目の当たりとして、静奈は一層のこと悲しそうな面持ちを浮かべる。続く言葉を吐き出すには、幾十秒かの葛藤があった。武人としても、朗らかな笑みから一変した静奈の様子に緊張を隠せない。それこそ大学受験の合否を前に肩を強張らせる受験生が如くだ。

だが、突き付けられた事実は、武人の想定していたものとは多少だけ色を異にしていた。

「我は武人を人でない者へと変えてしまった」

「…………え?」

漏れた声は短い疑問の音であった。

「今、武人の内で脈打つ心臓は、元は我の内にあったものじゃ」

「ちょ、ちょっとまって、それって、どういうこと? 移植っ!?」

「武人の心臓は失われた。それは如何ともし難い事実じゃ。だから、我はそれに代わる物として我の心臓を武人の内へと籠めたのじゃ。結果として命は助かった。だが、不自然に生えてしまった両腕が示すとおり、武人の人としての在り方を奪う事となってしまった」

「それって……、つまり、僕も君達の仲間入りってこと?」

「そういう事になる。我はそうなる事を知っていて、それでも武人に己が心臓を与えずには居られなかった。もしも自らの身を呪うならば、すまぬが我を呪って欲しい。武人を助けるという大義名分を振りかざしたところで、これは武人にとって、自らの力及ばぬ大きな理不尽じゃろう」

静奈は内に籠めたものを吐き出すように、一息に語って見せた。

「そ、そうなんだ…………」

唐突にも言い渡された人外宣言に武人は驚きを隠せなかった。

返す言葉も途切れ途切れに終わってしまう。

「すまぬ、武人……」

だが、彼が疑問として思っていた多くは解決された。

静奈の心臓にどれだけの治癒効果があったのか。何故に心臓を移し変えるだけで息を吹き返す事が出来たのか。化け物とは言っても、具体的にどのような存在なのか。これから自分はどうなってしまうのか。そもそも心臓移植がそんな簡単に行われていいのか。そういった細かな事象に関しては多くが理解するところに無い。しかし、自らの置かれた状況だけは確りと理解出来た。

「そっか、静奈が助けてくれたんだね……」

だから、武人は呟いて頭上の相手を正面より見据えた。

「もし、怨むなら、今この場で我を殺してくれても良い」

「い、いや、流石にそれはどうかと思うよ」

「じゃが、我は…………」

言い淀む静奈に対して、武人はどう言葉を返したものかと考える。

「ほら、あれだよ、静奈」

「……なんじゃ?」

「何事も命あっての物種って言うでしょ? 僕にとって、僕に対する正義って言うのは生きている事が大前提なんだよ。相変わらず小心者で悪いんだけど、死を前にしたなら多少の在り方なんて些細なものだと思うね」

「じゃが、もう二度と人間の身体には戻れぬのだぞぇ?」

「それでも、死ぬよりはマシでしょ?」

「武人が、武人が本心からそう言ってくれるならば、我はそれほど嬉しい事は無い」

「別に建前って訳でもないんだけどね」

畏まる静奈に対して、武人は出来る限り軽い調子で語って見せた。

「寧ろ、こうして両腕が戻ってくれてどれだけ嬉しいか。怨むなんてとんでもない。逆に感謝したいくらいだと思ってるよ。まあ、今は化け物とか人間とか、その辺りの差異に実感は無いんだけどね」

「しかし、武人は人が化け物に成るっていう事が何を意味するのか、知らぬじゃろう?」

「けど、それだって死ぬよりはマシだと思うよ? 全ては僕の勝手な想像だけど」

答えて彼が思い浮かべるのは、共に数週間を過ごした静奈達の姿である。平素からの生活を眺めた限りでは、人間の目から見ても、それほど異質なものとして写ることは無かった。当初は人外の力に驚くことも多々あっただろう。しかし、ある程度だけ慣れてしまえば、他に関しては人間と大差無く感じられた。

「駄目かな? そういう答えじゃ……」

再三に渡って繰り返される武人の言葉に静奈は迷いを見せる。しかし、それも暫く経てば徐々に気配を顰めていった。それは彼女にしてみれば何よりも喜ぶべき返答であっただろう。素直に喜べないながらも、表情には僅かに笑みが戻っていた。

「…………うむ、我もそう思いたい」

泣き笑いというのだろうか。

何処か儚げに思われる表情だった。

それが如何ともし難く可愛らしいもので、武人もまた自らの口元が緩むのを感じていた。僅か十数センチという距離に互いの鼻先を置いては、異性に対する気恥ずかしさと、そして、相手からの思い遣りとが、自然と彼の頬を高潮させていた。それだけの事で生きてて良かったと思えるのだから、彼は自らの安い精神を内心笑わざるを得ないだろう。

「あ、夢見月が帰って来たっ!」

そんな時である。ふと、脇の茂みを見つめて花見月が大きな声を上げた。

指差された方向に意識を向ければ、確かに、何やらガサガサと木の葉の擦れ合う音が耳に届く。彼女以外の三人の視線もまたそちらへと向かった。ともすれば、薄暗い木々の合間より草木を掻き分けて現れた少女の姿が視界に写る。

「此方も、片がついたのですか?」

森の中より現れた夢見月は、開けた岩場に仲間の姿を見止めて声を上げた。

「おうっ! 色々あったけど、なんとかなったんだぞっ!」

「そうですか、それは良かったです」

花見月の言葉に答えて、夢見月はホッと胸を撫で下ろす。

「此方もなんとか追い返すことが出来ま……」

だが、それも束の間である。視界に捉えた横たわる血塗れの武人と、彼を介抱する静奈の姿を目の当たりとして身を硬くする。武人にしても、身体の傷は完全に癒えているものの、全身には依然として派手に血液が付着したままだ。そして、それは静奈も似た様なものであって、五体は元より帯を締め直された着物にしても隙間無く赤に濡れていた。

「二人に何かあったのですかっ!?」

慌てた様子で夢見月が走り来る。

そんな彼女に対して、今し方に武人へ行われたのと同じ説明が繰り返される事となったのは語るまでも無い。一通りを耳として、大きく息を吐いた夢見月は、やっとのこと人心地ついた様子を見せる。

それから、一同は互いの無事を祝いつつ、日が空ける前に宿へ帰路を取るのだった。