金髪ロリ魔王ラノベ

第一話

 平日、正午を多少ばかり過ぎた頃合い。茹だるような真夏の暑さを窓ガラス一枚先に隔てて、屋内、空調の行き届いたフロアの一角に所在する二十畳ほどの居室。都内に所在する某大学、某研究室でのこと。

「いやー、昨日は楽しかったよな」

「うん。最前列のサラリーマンとか凄かったよね。めっちゃ踊ってた」

「そうそうっ、あれはテンション上がったわなっ!」

「すっごく楽しかったっ!」

 一室に響く楽しそうな会話。

 語らい合うのは所属する学生二人。一人は男子学生。もう一人は女子学生。共に同学校へ籍を置く生徒だ。女性に関しては、今に居する研究室の生徒であり、男性は一つ上のフロアの研究室に所属する。共に学部三年生。

 語る調子から、かなり仲の良いことが窺えた。

「次は佐藤君も誘っていいかな?」

「ああ、誘おうぜ。アイツだったらベース弾けるし」

「え!? そうなの? 音楽とかやってたんだ。知らなかった」

「中学の頃からやってたって言うし、結構上手いんじゃないか?」

「……やっぱり私も楽器とか、やれた方がいいのかな?」

「いや、まなみちゃんは歌でいいだろ? めっちゃ響く良い声だし」

「そうかな?」

「そうだってっ! あんだけ盛り上がったんだから間違いないだろ」

「そ、そうかなぁ……」

「次もアニソンでやるからさっ。まなみちゃん、アニメ好きっしょ?」

「え? 本当!?」

「今日の夜、次の打ち合わせがあるからスタジオに集合な?」

「う、うん、分かった。絶対に行くっ!」

「おう」

 たった二人の会話ながら、それだけで一室は賑やかだった。両者の間に語られる昨晩の出来事は、交わされる言葉の弾んだ調子に違わず、非常に素晴らしいものであったのだろう。男子生徒も、女子生徒も、満面の笑みでお話だった。

 スタジオ、アニソン、打ち合わせ、などなど。一連の単語から察するにバンドか何かの打ち合わせだろう。声が届けば当事者で無くとも窺える。青春を謳歌する学生に相応しい、とても華やかなやり取りだった。

 ならば、そんな二人を正面に置いて、黙々とコンピュータに向かう男が一人。

 不幸なことに女子生徒が腰掛けた席の対面、机合わせの位置である。

「…………」

 距離にして一メートル半。当然のこと、全ては彼の耳へ届く。

 否応なく意識してしまう男女の話し声。

 それを努めて無視するよう、カタカタ、カタカタ、男は課題に打ち込む。机の上にはコンピュータ。コンピュータに繋がるディスプレイ。椅子に腰掛けて、一心不乱にキーボードを叩く。

 全ては自分には関係の無い世界の出来事だと、決して耳を貸すまいと、堅く心に決めてのこと。代わりに差し迫った課題の提出期限に神経をすり減らす。与えられた課題は膨大で、ちょっとやそっとじゃ終わりそうにない。

 時刻は昼の十二時を回った頃合。一室には三人の姿だけがあった。

「なんか、たのしみーっ!」

「え? そんなにアニソンしたかったの? まなみちゃんってオタクだっけ?」

「あっ、もしかしてオタクって嫌い? アニメとか……」

「いんや、ぜんぜん行けるぜ? 俺もナンピースとか見てるし」

「良かったっ! あと、私もナンピースすきー!」

「マジで? あれめっちゃカッコイイよな! 仲間とか熱いし」

「うんうんっ!」

 語らい合う男女は、まるで残る一人を意識した様子がなかった。

 自分達だけ、二人だけの空間を前提としたように振る舞う。

 少なくとも残る一人にとっては、そのように映る光景。耳喧しい話し声。

「…………」

 だからだろう、男は彼らへ決して意識を向けまいと心強く念じる。意識してしまったら負けだと、無視を自らに言い聞かせる。

 しかし、そう思えば思うほどに気を奪われてしまい、課題どころではない心持ち。努力すれば努力するほど、耳は過敏となり、二人の声を拾ってくる。

 コンピュータのディスプレイに映された情報は、幾ら睨み付けても全く頭に入ってこない。右から左へ抜けて行く。代わりに耳へ届く男女の会話が、酷く鮮烈なものとして脳裏に刻まれる。

 そんな滑稽な現場だった。

 社会の縮図。勝ち組と負け組。

 ややあって、女子生徒と話をしていた男子生徒が言う。

「ところで、そろそろメシとか行かね?」

「あ、うん。行く」

「おし、そんじゃあ車出すから、ちょっとヒラタまでパスタ食いに行こうぜ」

「ほんと? 出してくれるの?」

「おう。田中のゼミのヤツも誘うから、みんなで行こうな」

「やった。ヒラタとか久しぶりだから、凄く嬉しいかも」

「おっし、そんじゃ行くぞ。善は急げだ」

「うんっ!」

 男子生徒の言葉により席を立つ女子生徒。互いに連れ合い、嬉々として一室を後とする。とても楽しそうな笑みを浮かべての歩み。両者の距離は非常に近い。肩と肩が接するほどの間隔で、和気藹々と話をしながら。

 二人が部屋を後として以後も、しばらく、廊下の先からは交わす言葉の賑やかな気配が届けられた。時折のこと伝わる笑い声は、決して作りものでない、心底からの響きを伴ったもの。これは向かう足がエレベータに乗り、フロアを違えるまで延々と続いた。

 自由気ままな大学生活を楽しむ、若い男女の語らい合いの最たるだった。

「…………」

 ならば、部屋に残されたのは、そうした出来事とは縁遠い位置に立つ男が一人。

 カタカタ、カタカタ。

 カタカタ、カタカタ。

 自席で端末へ向き合う、同じゼミの学部四年生。

 名前を山田紅蓮と言う。

 平凡な名字に対してすこぶる浮いた名前は、世間に蔓延るキラキラネームの筆頭。

 彼は男女二人の気配が十分に遠退き、その存在が完全にフロアから去ったことを確認して、キーボードを叩く手を休める。同時、今に部屋を後とした女子生徒の席へ、ジッと視線を向けた。

 奥行き七十センチ程度の机がが向かい合わせに並べられた先である。

「…………」

 表だっては無言のまま。けれど、実に様々な感情の入り交じった眼差し。

 理由は酷く単純。

 彼は彼女が好きだった。

 同じゼミに所属する一つ年下の女子生徒。半年前に同研究室へ配属が決定して以後、ずっと気になっている相手だった。ただ、食事や遊びに誘うことはおろか、声を掛けることすら躊躇した結果、未だに同じ研究室に所属する以上の接点を持てない間柄にある。

 それでも彼女の対面の席に座ることが、彼に対して、ある種の充実感を与えてきた。

 ただ、それも日に日に衰えては、切なさだけが増して行く日々。特に今日という日に在っては、見知らぬ男子生徒と楽しそうに話をする彼女の姿を眺めて、ズキリ、ズキリ、激しく胸を痛めた次第である。

「……バンドとか、いいよな……」

 呟かれたのは、切なる想いだった。

 決して自らには届かない、素晴らしい世界の一端だった。

 ちなみに彼は楽器が弾けない。歌も上手くない。そういった芸術的なセンスとは無縁の位置に立つ人間である。趣味らしい趣味も無く、自宅で行うことはと言えば、ネットサーフィン。また、そこで手に入ったエロ画像やエロ動画を用いたオナニー。

 とてもとてもつまらない男だった。

 そして、外面もまたそうした彼の内面を現すよう、非常に残念なもの。顔の作りが悪いならば、身につけた衣服もパッとしない。世間一般にはキモオタと呼ばれる層の人間であった。否、友人関係すらも極めて乏しい男であるからして、同じ趣味に群れることのできるキモオタ以下か。

 故に異性との交際経験は無く、キスはおろか手を繋いだ経験すら無かった。

 スーパー童貞野郎である。

「……なんだよ、畜生。マジで嫌だし。チャラ男とか死ねよ……」

 おかげで心はドロリと濁り、口を開けば漏れるのは愚痴ばかり。

 胸の内に募って行くのは、悶々とした気持ち。

「っていうか、なんで車通学なんだよっ、ブルジョアが……」

 ここ最近、何ら良いことの無い彼である。道を歩けば犬の糞を踏み、飲食店に入れば注文を忘れられる。本屋で書籍を購入すればページに落書きがしてあり、期末の試験では勉強した箇所がここぞとばかりに出題されない。

 更には父親が四十を過ぎて本格的なニートとなり、いよいよ卒業すら危うい感じ。父親曰く、会社で虐められたから辞めた。上司が俺の書いた書類を修正だらけにしたんだもん。ここ十数年に渡り転職ばかり、一年勤めては一年休んでを繰り返していたが、それも限界の様子だった。ついでにお酒と家庭内暴力が大好き。

 そして、父親が父親なら、母親も母親だ。夫の言うことは盲目的に信じている。夫が白だと言えばカラスも白くなる。四十過ぎてメンヘラの老女。気色が悪いにも程度がある。昨晩には彼の下へ同メンヘラ老女から電話連絡が入り、大学を止めて就職してくれとの相談を受けていた。

 これだけの環境において、しかし、大学に進学できたのは、実家を出たいと切に願った彼の努力が所以。授業料は奨学金でまかない、生活費はバイトで工面している。卒業の暁には三百万の借金が、自動的にその両肩へ降りかかる予定である。無味閑散な人生も仕方ないと言えば仕方ない家庭環境。

 要は世の不幸を絵に描いたような男だった。

 なまじ高等教育を受けているだけ、発展途上国の浮浪児などより、主観的な辛みは大きいだろう。特に社会を知り始める二十代中頃とは、一気に視野が広がる年頃であり、人によっては思春期にも増して多感な時期。しかも今に暮らすは華の東京。彼の場合、まさにといった具合だ。

「糞っ、ちくしょうっ! ちくしょうっ!」

 自らのすぐ目の前、楽しそうにバンドを語る二人の姿は、彼にとって何よりも魅力的だった。鮮烈だった。自分には絶対に届かない、遥かな高みで楽しむ男と女。どれだけ手を伸ばしても、掠りすらしない。

 絶対の隔たり。

「俺だって、あ、遊んでやるっ、遊んでやるっ……」

 よほどに悔しかったのだろう。切なかったのだろう。寂しかったのだろう。

「もういい、今日は、もういいっ。俺だってなっ!」

 なにやら覚悟を決めたらしい。

 彼は椅子より立ち上がり、ぐっと拳を握る。

 そして、課題もほどほどに荷物を手に取ると、部屋を後とするのだった。

◇ ◆ ◇

 その日の夜、山田は六本木のクラブにいた。

 楽器が弾けずとも、歌を歌えずとも、クラブならば音楽に合わせて身体を揺らすだけで事足りる。そうした安直な発想のもと、自らに叶う何よりの楽しみを体現する為に、生まれて初めて足を運んだのだった。

 時刻は深夜一時を回った頃合。

 終電を過ぎて段々と客の入りが勢いを増し始める時間帯。

 こうだと決めれば、以後は無駄に行動力溢れる山田だった。

「すげっ……」

 一歩を踏み込んだ途端、生まれて初めて経験するクラブハウスに戦く。

 耳が痛いほどに鳴り響く重低音の聞いた音楽。真っ直ぐに歩むことも難しいほどの人口密度。目を刺すように光り輝く七色の照明。そこらかしこに上がる、男女を隔てない雄叫び、奇声、咆吼。

 そして何よりも、入り乱れた男女の語らい合い。

 そこらじゅうに行われるナンパ行為。

 男はナンパをする為に。女はナンパをされる為に。

 夜の街頭に群れる蛾のよう、わらわらと集まっている。

 これまで彼が過ごしてきた毎日を、一瞬にしてひっくり返すだけの刺激が詰まって思える空間だった。集まった客も同様、過去に交わった経験のない人種が大半。ぴしっとしたスーツに決めるイケイケリーマンだとか、茶髪を巻いて巻いて巻きまくったギャルだとか。気弱な彼にしては、声を掛けるにも躊躇するような容姿ばかりだった。

 自分が好きな相手も、こうした空間へ日常的に身を置いているのだと考えると、酷く心が痛んだ。しかもバンドでボーカルとなれば、こうした環境でも一際目を惹く位置に立つ筈だ。おかげで居ても立ってもいられない気分が、胸の中からぶわっと溢れ出す山田だった。どうしようもなく切ない気持ちになった。改めて、自身が求めるところは、遥か彼方にあるのだと再認識である。

「こ、こんなところがあったんだな……」

 呆然と立ち尽くし呟く。

 外見的な理由から、山田は明らかに周囲から浮いていた。

 自身が所有する中で、最も遊んでいるだろうと考える衣服に身を包み、慣れない整髪料と格闘しては頭髪を立たせて、万全を期して訪れた今この場所。けれど、いざ足を踏み入れれば、全ての努力は無意味であったと知る。むしろ中途半端なめかし込みは、かえって哀れを誘う結果となっていた。

「……お、俺も、俺もなんとかしないと」

 胸に抱くのは焦り。

 彼は手にしたコップを一気に煽る。

 濃いめに作って貰ったカクテルを一息に飲み干した。

 アルコールを入れて、思考を鈍らせる。羞恥心を殺す。

 そうして歩み出す。

 この場所なら、自分もまた異性に声を掛けることができるのではないか。もしかしたら、盛り上がることができるのではないか。あわよくばセックスまで持ち込めるのではないだろうか。上手くいけば恋人が作れるのではないだろうか。運が良ければセフレとか出来ちゃったりするのではないか。

 そうした淡い期待が、胸の内で段々と膨らんで行く。

 バーのカウンターに八百円を支払い、新しく酒を購入。

 そのままフロアを巡り、彼は異性の物色を始めた。自分と同じように一人で、あまり場慣れしていないような女性はいないものか。薄暗い照明の下、必至になり探して歩き回り始めた。

 できれば黒髪で、大人しい感じの子がいいな。

 自身の風貌を顧みない贅沢な欲求を掲げてのナンパ一年生だった。その手のタイプは総じて面食い率が高く、打算的な性格の持ち主が多くあって、攻略難易度が高いという事実を、まるで理解していない。むしろ落としやすいとまで考えるほど。

 とは言え、目当ての女性はなかなか見当たらない。

 周囲では初めて出会う男女が、あちらこちらで仲良さ気に語らい合い始めている。なかには堂々と胸や尻を揉み始める者もちらほら。誰も彼もは笑顔で、とても楽しそうである。今という時間を心底から漫喫して思えた。

 けれども、彼はどうしても最初の一歩が踏み出せない。

 一方で自然とお酒は進んで、三杯目、四杯目、更には五杯目とカウンターに注文を繰り返す。ナンパに来たのか、酒を飲みに来たのか、まったく分からない。カウンターの人間に顔を覚えられる始末だ。お客さん、それを注文するなら、こっちの方がお得ですよ。などなど。

 おかげで酔いが回る勢いも相応。早々に足下が不安になって行く。大音量に流れる音楽や、薄暗い室内も手伝って、その意識は彼が考える以上、アルコールに飲まれていった。入店から二時間と経たぬ間に完全な酔っ払い状態だった。

 ただ、おかげでなけなしの勇気を得る。

「お、俺だってっ……」

 小さく息巻いて、フロアの片隅に立つ女性へ突撃。

 連れの存在は窺えない。一人、グラスを片手にチビチビやりつつ、音楽に多少ばかり身体を揺らしている。まだ到着して間もないのだろう。大して酔っ払った様子もみられない。故に周囲と比較しては、相対的に大人しく映る女性だった。髪色が黒である点も彼にしては大きな要因か。

「や、やぁっ! 君、一人っ!? 可愛いねっ!」

 向かって全力投球。

 彼なりにカッコイイと考える表情を浮かべて、イケていると考える表情を浮かべて、元気一杯に語り掛ける。手にしたグラスを無駄に顔の辺りまで上げて、乾杯の仕草。お酒の力を借りること六杯目。最後の一線を越えての挑戦であった。

 おかげで吐きかける息は酷く酒臭い。

「え?」

 振り向いた女性は、鼻先に掛かった口臭に顔を顰めた。

 鼻頭にまでしわが寄る。

 あまり可愛くない。会場全体からして下の中。

 それが山田の保険。

「もっと奥へ行って一緒に踊らないっ!? こ、ここここだと全然っしょっ!?」

 語る山田の台詞は、最後の方で完全に震えていた。

 慣れない台詞に酷く緊張しているようだった。

「いや、私、別にいいですから……」

 音楽がガンガンに流れて、照明も半端な薄暗い店内。しかし、その無様は相手にも鮮明に伝わった。唇が緊張にプルプルと震える様子まで、しっかりと伝わった。何せ音楽と人に溢れた店内、自然と語らう相手との距離も近くなる。

「そんなこと言わないでっ、ほら、行こうぜっ!」

「あの、いいから……」

 何気ない調子を装い、彼は相手の肩に手を置いてみる。

 女性にしてみれば、最悪のナンパだった。

 求めていたのは彼ではなく、もっとカッコ良くて金持ちなイケメンなのだ。

 具体的に言えば、年収一千万を稼ぐデビュー二年目くらいのジャニーズ系なのだ。

「あのっ……」

「ね? いいでしょ? ね?」

 必死に笑顔を作り、なんとか相手を取り込もうと言葉を続ける。

 ゆらゆらと音楽に身体を揺らしながらの誘い。酷く気色悪い。

 対する女性は、顔を引き攣らせる。困惑を隠しきれない。

「だから、私、本当にいいですからっ」

「大丈夫だってっ、ほら、絶対に楽しいからっ!」

 今に彼の提示する何が、彼女の楽しみを保証するに十分な担保となり得るのか。

「痛っ……」

 大胆にも両手に相手の両肩を掴んでのこと。

 もしも彼がイケメンであったのなら、彼女もまた今に眺めるような態度は取らなかっただろう。早々に頷いて、二人仲良く、音楽で遊び始めたに違いない。周囲に同じくキスの一つでも交わしていただろう。股は即日で百八十度フルオープンだ。

 けれど、残念ながら彼はブサメンだった。

 そして、今回はそれが致命的であった。

「お客さん、お客さん」

「え?」

 彼の肩を何者かが叩く。

 振り返った先、そこに立っていたのは大柄な黒人男性だった。

 身長百九十程度だろうか。筋骨隆々とした体格は非常に暴力的に映る。

 店側が雇った店員兼用心棒である。

 黒人店員は彼の肩へ片手を乗せて、言葉を続ける。

「それ、良くない。お客さん、良くないよ」

「は? いやだって、向こうでも同じようなことしてたし……」

 普段ならば山田も即座に萎縮、謝罪を繰り返していただろう。

 だがしかし、今の彼は酒が入っていた。更には目の前に異性。何より周囲には彼と同じく、異性へ声を掛ける男性が山ほどいる。むしろそうでない者の方が少ないほど。故に素直に謝罪するという選択肢を選べなかった。

 彼なりのちっぽけな自尊心。

 それが何よりの過ちだった。

「駄目だよ、お客さん」

「だから、ほらっ、あっちっ! あっちだって同じようなことしてるからっ!」

「駄目だよ。無理、良くない」

「無理? べ、別に無理なんてしてないだろっ!? 普通じゃん」

 肩に置かれた手を振り払おうと、必死に身じろぎをする。異性の前で無様な姿は晒せないとばかり、かなり強引に身体を動かしてのこと。けれど、そうしたことで、ますます相手は指に力を込めて、彼の肩へ肉へ食い込ませる。

「駄目だよ。お客さん。これ以上は駄目だよ」

「だから、なんで駄目なんだよっ!? ちゃんと日本語話せよっ!」

「お客さん、仕方ないね。お客さん、ちょっとこっち来る」

「あ、おいっ、ちょ、ちょっと待ってっ!」

「待たないよ。お客さん。大人しくこっちに来る。駄目だよ。駄目」

 黒人が彼の腕を掴む。

 とても無骨で大きな手だった。掴まれた側は、まるで万力に固められたよう。恐怖を感じて振り解こうとするも、肉へ食い込むように締め付けてくる五本の指は、全く外れる気配がなかった。

「ちょっと、ねぇ、待ってっ! 待ってよっ! 待って下さいよっ!」

「待たないよ。お客さん。こっち来る。日本語、分かる?」

 そうして、彼は黒人店員に連れられて、店の裏側へと消えていった。

◇ ◆ ◇

 山田が意識を取り戻したのは、繁華街の裏路地に設けられたゴミ捨て場だった。

「……死ねよ、マジで、死ねよっ、糞っ……」

 一張羅にはあちらこちらに赤い汚れが滲む。鼻の穴は血に固まり、二つとも完全に詰まって口呼吸。咥内に鉄の味を感じて、舌ベラをモゴモゴと動かせば、前歯が三本ばかり抜けてた。目元と頬には大きな青痣。また、僅かでも身を動かそうとすれば、身体のあちらこちらに鈍痛が響いた。更には酒の影響だろう。ズキズキ頭が痛み、絶え間なく胃のむかつきと吐き気を催す。

 とても酷い状態だった。

「……なんで、なんで俺ばっかり……」

 彼の言い分は尤もだ。もしも彼が女に生まれていれば、仮に不細工であったとしても、同様に不細工な男に誘われて、男の金で飲食して、男の金でホテルに泊まり、男の身体に抱かれて、異性の性器で気持ち良くなることが、十分に叶ったろう。会場では十分に不細工であっても、相応に不細工な男から自然と声が掛かる。それは彼自身も十分に現場で確認していた。十分なのだ。女は十分なのだ。

 故に不幸の発端は既に生まれの時点で決定されていた。

 男だから。

 遥か太古より続く女尊男卑の理不尽を味わった瞬間だった。

 顔面偏差値が決定する理不尽だ。

「ぅうああぁっ、もうっ、なんで、クソ、クソクソクソクソクソクソォッ……」

 時刻は四時半を回ったところ。

 そろそろ日も開けようかという頃合。

 まさか、ずっとゴミに身体を埋めている訳にもいかない。痛む身体に鞭を打って立ち上がる。全身のあちらこちらが痛んだ。これを我慢して、ギリリ、必至の形相。不運にも生ゴミの只中へ捨てられたらしい。足先から頭髪まで体中が酷く生臭い。

「……最悪だ」

 言うまでも無い。

 加えて、彼は更なる不幸に気付く。

 ズボンのポケットに入れられた財布、普段であれば太ももに感じる膨らみ。それが忽然と消えているのだった。

「な、ないっ!? 財布がないっ!?」

 大慌てに体中を弄る。けれど、財布は見つからなかった。

 自身の横たわっていたゴミ捨て場を漁る。

 必死の形相で生ゴミの只中へ手を突っ込み漁る。

 けれど、財布は見つからない。

 その中にはナンパに成功した場合、ホテル代にと用意しておいた虎の子の一万円札が収められていた。今月の生活費の三割を削ってのこと。他にも銀行キャッシュカードや、そろそろ溜まりそうな飲食店のポイントカードなど、色々と大切なものが収まっていた。

「畜生っ……なんで、なんで俺ばっかり……」

 ポロポロ、涙が零れる。

 誰もいない繁華街の裏路地。

 夜明け間際の静かな時間。遠く原付の走る排気音が響いて聞こえる。他には特に音らしい音も無い。あと小一時間もすれば、周囲住民が活動を始めるだろう。ほんの僅かな朝と夜の間の時間。

 その只中で、彼は一人静かに泣くのだった。

 まさか自分がこんな経験をするなんて、と。

 こんなことならクラブなんて行かなければ良かった、と。

 自らの惨めを理解して、さめざめと涙を流すのだった。

「うぅ……」

 そうして、一頻りを泣いたところで、グシグシ、目元を指先に擦る。

 あまり長くこうしてもいられない。人が少ないうちに場を後としなければ、更なる無様を世間に晒す羽目となる。また、今日は平日だ。大学では一時限目から出席必至の講義が開かれる。明日に締め切りの迫った課題もある。

 悠長に過ごしている余裕はなかった。

「……なんで、糞っ、こんなのばっかりなんだよっ……俺の人生……」

 けれど、彼の不幸はまだ始まってすらいなかった。

◇ ◆ ◇

「え? ……胃がん?」

「親御さんを呼べないというから、全てを説明するけれど、君の病名はスキルス胃がんというやつになる。そのステージ四。こういうことを言うのは気が引けるが、もってあと三ヶ月といったところか」

「……さ、三ヶ月……う、うそ、嘘でしょう?」

「この影の縮みが見えるだろう? こっちが正常な胃の影で、こっちが君の胃の影だ。比べると小さく縮んでいるのだ分かるだろう? スキルス胃がんの特徴なんだよ。胃カメラじゃあ見つからないタイプで、病後も酷く悪い」

「う、嘘だ……」

「高齢者でも、三年後の生存率は事実上一割を切っているのが、現代医療の実情だよ。君のような若者にこういうことを告げるのは酷な話だが、一度、親御さんと話をするべきだと私は思う。今後の治療の方針や、入院の手続きなどもあるだろうからね」

「……ガン、お、俺がガン……そんな……」

 大学の健康診断に引っかかったのが、つい先月のことだった。自宅へ届けられた案内に従い、近所の病院へ向かったのが先週。そして本日、検査の結果を受け取りにやって来ていた。

 彼としては非常に軽い気持ちでの来院。ついでに昨晩のこと、クラブ店員の黒人に殴られた怪我の治療も受けたいな、湿布とか貰いたいな、などと考えていた矢先の出来事だった。完全に不意打ちを食らった形である。

 病名、スキルス胃がん。ステージ四。

 現代日本においては、死の宣告に等しいものだった。

 頬の痣など比べるべくもない。

 たしかにここ数日、食欲が落ちてきているなとは感じていた彼である。たまにめまいのようなものもあった。けれど、少し体調が悪いだけだろうと、何もせずに放っておいた結果が、こうして今まさに。

「健康診断ってことは、そこの大学の生徒だろう? 実家はどこだね?」

「そんな、そんな……お、俺がガンなんて、まだ二十四なのに……」

「…………」

「嘘だ、三ヶ月なんて、こ、こんなに元気なのに……」

「……言いたいことは分かるよ。君の歳で、というのは非常に希だからね」

「……なんで、なんでだよ、どうして俺ばっかり……」

「ご家族に胃がんになった方はいるかね?」

「い、いないっ! じいさんもばあさんも元気だよっ! もう八十近いのに! 他のヤツと取り違えてるとかじゃないのっ!? 俺、まだ二十四ですよっ!? それなのに胃がんとか、有り得ないんじゃっ……」

「いいや、何度も確認したよ。しかしね、残念ながら、これは君の写真なんだよ」

 照明板にはめられた胃部のレントゲンを見つめて言う医者。その顔は真剣そのもの。まさか、嘘を言っているようには思えない。先程に語られた通り、映し出された彼の胃の影は、健常者に比べて幾らばかりか縮んでいた。

「しかし、そうなると遺伝の可能性は薄そうだな……」

「だ、だったらっ!」

「他に何かしら原因があったのだろう。いずれにせよ、一度、親御さんと話をした方が良い。できるなら、ここへ連れてきて貰いたい。治療の選択肢はあまり広くはないが、それでも延命の可能性がゼロという訳ではない。もしも実家の方に知った医者が居るというのなら、そちらで治療するのも良いだろう」

「うぅ……なんで、な、なんでだよっ……ど、どうして、そんな……」

「ところで、君、その顔やら腕やらの痣はどうしたんだ? それに前歯も……」

「なんでっ……どうしてだよっ! どうして俺なんだよっ! 他にもいっぱい居るじゃんかよっ! もっと不規則な生活してるやつとか、酒ばっかり飲んでるやつとかっ、いっぱい、いっぱい居るじゃんかよっ! なのにどうして俺がっ!」

「…………」

 現実が信じられないと言わんばかり。驚愕に嘆き続ける。

 けれど、医者は患者の死を前提に語っていた。

「とりあえず、今日のところは家に帰ってゆっくりと休むといい」

「…………」

 白衣姿に促されて、その瞳の真剣さを理解して、彼は診察室を後とする。

 何もかもが失われた瞬間。

 理解すら間々ならない領域。

 そこから先の記憶はおぼろげだった。

 気付けば、いつの間にやら自宅まで帰っている山田である。診察の代金を支払った記憶すらおぼろげ。気付けば布団の中、風呂へ入ることすら忘れて、いつの間にか気を失うのであった。

◇ ◆ ◇

 翌日、彼は学校を休んで歌舞伎町に立っていた。

 時刻は午後三時を過ぎたあたり。

 胃がん宣告を受けてから、丸一日が経過していた。

「やってやる。あぁ、クソ、やってやるっ。このまま死ぬなんて絶対に嫌だっ」

 未だ顔には痣が残る。折れた歯もそのまま。全身のあちらこちらがズキズキと痛んで止まない。けれど、彼は自宅から電車を乗り継いで、ここまでやってきていた。

 その眼差しは尋常でない。血走って思える。

 本来であれば、今頃は大学で講義を受けている筈だった。けれど、既に彼の頭からは学業の一切合切が消えていた。来年の春を迎えることなく死ぬのだと宣告されて、感情は極めて刹那的になっていた。

 もう二度と桜の花を拝むことは出来ないのだと知って。

「……童貞のまま死ぬなんて、嫌だ、絶対に嫌だ……」

 眺める先には、路上に立つソープランドの看板。

 俗に言う大衆向けソープランドというやつだった。二時間を遊んで総額四万円。通帳からなけなしの貯金を下ろしての挑戦だった。まさかクラブでナンパなどと、悠長なことを言っていられない彼である。

 今を楽しむ為に必至の様子だった。

「エイズでも梅毒でも何でも来いだっ、糞がっ! 絶対に生中出ししてやるっ!」

 吐き散らすように呟いて、目的の店舗へと向かう。

 事前にインターネットを利用して調査した店だった。他と比べてハードなサービスが売りの浴場である。前々から興味はあったものの、衛生面での恐怖が勝り、足を運ぶことなく過ごしていた同店だろう。日々、広告サイトを眺めては自慰に終わっていた。

 それが本日、自らの寿命を知って枷が外れたらしい。

 目的地は雑居ビルのワンフロア。通りを歩み、人目を気にせず、彼は目的のお店へと急いだ。窮屈な階段を登り、三階。出入り口だろう扉を前にして、躊躇無くドアノブを回しては店内へ。

 一歩を踏み込んだ先は、初めて目にする風俗屋さん。

「いらっしゃいませ」

 出迎えたのは初老の男性だった。

 長袖シャツにチノパンという軽い出で立ち。ただし、口調は落ち着いたもので、彼のような若造にも丁寧語に応じてくれる。粗雑な対応が多い大衆店にしては、なかなかの接客だろうか。

「あの、ネットでキャンペーンを見て、一時間くらい前に予約したんですけど」

「お名前は?」

「山田紅蓮です」

 答えたのは本名。本来であれば偽名を使うのが一般的である。しかしながら、この状況に及んでは偽名も何もないとばかり、男らしくも本名で予約していた。しかも電話番号を付けてのフルネームである。

「山田紅蓮さんですね。既に嬢は空いてますので、こちらへどうぞ」

「は、はい……」

 淡々と受け答えをする男性従業員。

 その指示に促されて、彼は奥へ向かい歩みゆく。店内は照明が抑えられており、全体的に薄暗い。客同士が不快な思いをしないようにという配慮だろう。特にロビーなどは廊下と比べても殊更に光源が弱い。

 二人縦に並んで、無言のまま歩むことしばらく。

 従業員が一室の前に立ち止まる。

「こちらのお部屋になります。お支払いは一括して嬢に渡して下さい」

「はい……」

 そして、最低限の説明だけをして、元来た道を去って行く。

 言葉遣いや物腰は丁寧であるが、態度事態は非常に淡泊なものだった。風俗慣れした人間にとっては、非常に好ましい接客だろう。しかしながら、初めてソープランドを利用する彼としては、一抹の不安を感じて止まないところだった。

 入浴代と総額の説明も無い。

 ただ、三ヶ月後に待つ無様を思えば、それも些末な問題である。

「やってやるっ、やってやるっ……」

 小さく呟いて、個室へのドアを開く。

 ならば、その先に待っていたのは、全裸の女性。

 だけれども、彼が想像する女性像とは、程遠い外見をした相手だった。

「……え?」

 小一時間前のこと、電話で指定した相手とはウェブサイトを眺めて、選びに選び抜いた相手。齢十九才の可愛らしい女の子。黒髪のショートカット。胸がかなり大きい一方で、腰のくびれは非常に華奢。顔こそモザイクにぼけていたものの、素朴さの溢れる素人女性といった具合。彼の理想を投影したような相手であった。

 けれど、今に眺めるのはどう見ても三十後半の女性。或いは四十代。

 しかも髪の毛は茶色に染められて、背中にかかるほどの長さ。加えて、薄く開かれた口から覗くのは、タバコの脂に黄色く染まった出っ歯な前歯。更に胸は平坦であって、腰に至っては腹と区別が付かないほど肥っている。恐らく彼より重い。

 完全に別物だった。パネマジだった。

 画像の修正などという生易しいものではなかった。

 何より目に付くのはグロテスクな性器。紹介文には可愛らしいパイパンとの表記があった筈だ。しかしながら、今に眺める先、見つけられたのは中途半端に毛をそった陰部。所々に剃り残しが目立つ。パイパンというよりは陰毛ハゲ。小陰唇は見事に外側へ開いて、どす黒く色づいている。焦げて鉄板にへばりついたレバーのようだ。

 お世辞にも可愛いとは言えないアラフォー女性。

「いらっしゃーい。今日は楽しみましょうねー」

 彼女は入室した彼を確認して、その下へと歩み寄る。

 そして、想定外の出来事に固まっている身体へと腕を絡めた。

 童貞臭溢れる相手の外観を目の当たりとして、都合二時間、契約時間の方向性を決定したのだろう。優越感と余裕に溢れる笑みを浮かべて、客を迎え入れる。その姿勢は彼女が決して短くない時間を今の仕事に賭してきたことを告げていた。

「あ、あのっ、俺っ……」

 生まれて始めて目の当たりとした生の女性の裸体。

 更には有り得ない誤発注。

 色々と衝撃が立て続けに訪れて、上手く言葉を返せない彼だった。

 特に後者が大きい。

 その間にも女性は、彼の身体を自らの下へ引き寄せた。腕を背中へと回して抱きしめる。かと思えば、おもむろに顔を近づけて、唇と唇を接させる。

 色気もへったくれも無いキスだった。

 彼にとっては生まれて初めてのキスだった。

「んっ!?」

「んふふ……」

 相手は自分より遥かに年上の三十代後半から四十代前半と思しき初老女性。

 お世辞にも可愛いとは言えない相手が、薄く瞳を見開いて笑う。唇は早々に開かれて、舌が彼の咥内へと侵入した。唾液を通して、タバコ臭い相手の口臭が鼻孔一杯に広がる。鼻が曲がりそうな臭いを受けて、思わず吐き気を催す彼だろう。

 最悪のファーストキスだった。

 そして、キスが最悪ならば、以後、彼に訪れた全ては、何一つとして喜ばしいものなどなく、どれもが等しく最高に最悪ばかりであった。少なくとも、支払った金銭に見合うだけのサービスを、彼は得られなかった。

 全く望まない形で、二十四年に渡り守っていた童貞は、散っていった。

◇ ◆ ◇

「……最悪だ」

 性行為は好きな相手とでなければ意味が無い。

 そんな簡単なことを、二十四になってようやっと気付いた馬鹿だった。普通のイケメンなら、思春期前後に気付いて然るべき事柄である。普通のフツメンなら、成人前後に気付いて然るべき事柄である。けれど、彼はブサメンだった。全ては女性経験の無さが為せる技だった。顔の悪さと生まれの悪さが為せる無様だった。

 自分を好きになるような異性は未来永劫現れない。本人もこれを理解してしまった。そして、既に残すところ三ヶ月の命である。まさか、何かできることなど、ある筈もない。故に、彼は自らの望む幸せが、絶対に手に入れられないところにあるモノなのだと、強烈に、確実に、今日この瞬間、理解したのだった。

「なんだよ、俺……俺ばっかり……」

 気持ちの悪い二時間を過ごして以後、山田は歌舞伎町の街を歩いていた。

 一人でトボトボと歩いていた。

 時刻は午後六時を回った頃合。

 周囲は良く晴れた空から西日を受けて、茜色に染まり始めている。

 今この瞬間にも、同じゼミの女の子はイケメンな友達と楽しくやっているに違いない。そう考えると、胸を引き裂かれる思いだった。自身では絶対に到達できない領域で、大勢の人間にちやほやされながら、ひたすらに楽しんでいるのだろうと。

 想像はこれだけに留まらない。もしかしたら、研究室にやってきたバンド仲間と性に乱れているかもしれない。二人は付き合っているのかもしれない。清楚な顔立ちが精子にまみれて、快楽に歪む姿を想像すると、胸がズキンズキンと激しく痛んだ。

 けれど、彼には何をすることもできない。

 その情けない外観と、どうしようもない家庭環境と、無意味に過ごしてきた下らない時間とが、彼の全てを今の状況に位置づけているのだった。もしも別の家の子としてイケメンに生まれていたら、とは、今この瞬間に願ってやまない唯一の願いだった。

 俺もイケメンに生まれて、自由な家庭に育ちたかった、と。

 イケメンこそ全て。イケメンこそ幸せ。イケメンであれば、全ては叶う。

 イケメンこそ、この世の全て。

 イケメン、イケメン、イケメン、イケメン、イケメン、イケメン、イケメン、イケメン、イケメン、イケメン、イケメン、イケメン、イケメン、イケメン、イケメン、イケメン、イケメン、イケメン、イケメン、イケメン、イケメン、イケメン、イケメン、イケメン、イケメンに生まれたかった。

 ただ、何もかもは無い物ねだり。

 今に灯る命すらも。

「…………」

 好きな相手と一緒になって、セックスを楽しんで、やがては家庭を築いて、家族の為に一生懸命、自らの仕事にプライドを持って働きたい。そんな人並みな願いは、しかし、絶対に叶わない遥か高みにあったのだと、今更ながらに気付いた阿呆だった。

 仮に寿命が八十まで残されていたとしても、どうだろう、真剣に頭を悩ませてしまうほど。六十代、七十代といった高齢女性が求めるイケメンとはなんぞや、と。既にキチガイの域である。

「……死にたくない」

 だから、どうにもならない絶望だけが彼の胸中に溢れていた。

 気付けば涙が溢れ出していた。

 結婚だなんて無理は言わない、せめて、一年だけでもいいから、好きな人を作って、好きな人に惚れられて、相思相愛の恋愛を経験してみたかった。四季を二人で味わってみたかった。云々。そうした世間からすれば極々一般的な願いを胸に抱いて、けれど、さめざめと泣き出すのだった。

 通りを行く者達は、奇異の視線で彼を見つめる。

 アダルトビデオの路上営業や、ピンクチラシを配る人間ですら、声を掛けることに躊躇する有様。非常に気持ちの悪い風体を晒していた。基地外を眺めるような視線を向けて、遠巻きに煙たがっている。

 もしも彼が可愛らしい女であったらならば、間違いなく周囲から声が掛かっただろう。どうしたの? 何かあったの? もしよければ付き合うよ? 優しい言葉が右へ左へ飛び交っただろう。

 けれど、彼は男だった。不細工だった。

「…………」

 だから、孤独だった。

 一人きりだった。

 世間に無様を晒して、トボトボと歩むしかなかった。

 カァーカァーとカラスの鳴く音が遠く響く。日が落ち行くに比例して、段々と夜の活気を増してゆく歌舞伎町の街並。当てなく歩みを進めれば、やがて、路上は活動を始めたホストや飲み屋の呼び込みに溢れ始める。

 往来の姿を取り戻し行く。

 その只中で唯一、平素を違える男は、行く当てなく歩む。

 やがて、その足は雑居ビルに囲まれた、裏通りへと至る。他と比べて人気の疎らな空間だった。否、彼以外に誰の姿も無い。同界隈にあっても、滅多なことでは人の寄りつかない場所だった。

 全ては他者の気配を避けるよう歩を進めてきた結果か。

 周囲を雑居ビルの外壁に囲まれた空間。長らく開かれて思えない勝手口。回収される気配の無い粗大ゴミ。乗り捨てられて久しい壊れた自転車。砕けた足下のアスファルトと、素人修理に盛られた不揃いなコンクリート。土埃に晒されて茶色くなった、動くかどうかも怪しい型遅れのエアコンの室外機。

 世に言う裏路地を絵に描いた風だった。

「死にたくない、死にたくない、死にたくない……」

 その只中をブツブツと呟きながら、凡そ尋常でない風体に歩む。

 医者の判断から既に一日が過ぎて、残すところ二ヶ月と二十九日。

 彼に残された時間は少ない。

「死にたくない、死にたくない、死にたくない……」

 これが老後であれば、ある程度は諦めもついただろう。これが就学前であれば、未成熟な精神は死をここまで大きなものとして捉えなかっただろう。二十代中頃という、現代日本人にとって一番に充実して然るべき時期に与えられた死だからこそ、今の彼は他の誰よりも絶望しているのだった。

 失われた未来は、こんな彼であっても、非常に大きなものだった。

「死にたくない、死にたくない、死にたくない……」

 壊れたレコーダーのように、延々と同じ言葉を呟き続ける。

 まともに周囲も確認できぬままの足取り。

 ならば、彼の歩みはやがて、三方向を壁に阻まれた袋小路へと至る。

「死にたくない、死にたくない、死にたくな……」

「おい、そこの人間……」

「……っ?」

 不意に音が響いた。

「お前だよ、そこのお前……」

 ぼそりと呟かれた誰かの声。

 延々と首を下げていた彼は、予期せぬ問い掛けに顔を上げる。ただ、その反応は酷く緩慢なものだ。気怠げに、ゆっくりと、生気の感じられない態度で、声の聞こえてきた側へ視線をやる。

 ならば、そこには人が一人、建物の壁に張り付けられていた。

 薄暗い夕暮れに照らされた肉体は、コンクリートに造られた建物の壁に、数多の凶器により縫い付けられていた。凶器とは鋭利な刃物である。その姿は標本に縫い付けられた蝶のよう。けれど、標本ほど綺麗には縫い付けられていない。臓物を飛び散らかして、周囲一帯を真っ赤に染めてのこと。

「ひぃっ!?」

 眺める彼にしては、長らく頭を下げ歩いていた為、今の今まで気付かなかったらしい。数メートル先の惨事を目の当たりとして大仰に驚いて見せた。

「この程度で驚くな。五月蠅い」

「なっ、なっ……なんだよ、なんなんだよおい……」

「人間、ちょいとこれを抜け。どうにも動けないんだよ」

 しかも、その相手というのは、まだ歳幼い少女であった。

 贔屓目に見ても二桁に届かない。八歳程度だろうか。小学校中学年程度に思われる、非常に幼い体付きをしていた。しかも日本人ではない。腰下まで伸びた長い金色の髪と、雪のように白い肌、加えて、蒼い瞳を持った異邦人であった。

 そんな少女が、何故か包丁と思しき刃物に突き刺されて、コンクリートの壁に縫い付けられている。爪先が数十センチばかり、地べたより浮く位置へのこと。おかげで山田とは互いに顔が同じ高さにある。

 また、一重に包丁といっても実に様々な種類に及ぶ。出刃包丁であったり、刺身包丁であったり、三徳包丁であったり、あるいは鮪包丁であったり。まるで包丁の博覧会と言わんばかりのラインナップ。

 身につけた衣服も刃物のおかげか、あちらこちらが破けて無残な有様。肌もあちらこちらが露出している。元は黒い色のワンピースであったのだろう。けれど、今は真っ赤に染まったボロ布である。

「け、警察っ……警察を呼ばないとっ……」

 気が動転した彼は、咄嗟のことズボンのポケットから携帯端末を取り出した。

 けれど、それは次の瞬間に火を噴いて破裂する。

 耳の脇へ持って行く暇もなかった。取り出した瞬間、何か光輝くものが彼の手元へ飛んできたかと思いきや、端末が音を立てて爆ぜたのだ。それこそ内蔵するバッテリーが破裂したようであった。

「うぉあっっちぃっ!」

 咄嗟のこと手を引っ込める。

 幸いにして多少を打ち痛めた程度。火傷を負うことは無かった。

 ただ、爆発した端末は粉砕。無残にも地べたへ転がる。

「な、なんだっ!? なんだよっ!?」

「私の声が聞こえなかったか? これを抜けと言ったんだが」

「だから、きゅ、救急車をっ……」

「いいから早く抜けよ。でなければ次は頭を狙うぞ」

 短く呟いて、少女の瞳がスゥと細められる。

 縦に長く伸びた細い瞳孔が、鋭く彼を睨み付ける。

 彼は全身の筋肉が否応無く硬直するのを感じた。

 相手は子供なのに。そんな寸感が喉元まで迫り上がる。

「ぬ、抜くったって、そんなもん抜いたら血がっ……」

「いいから抜け。はやく抜け」

「…………」

 少女には有無を言わさぬ迫力があった。

 周囲に飛び散った大量の血液や肉片が原因だろう。他にも足下に打たれたアスファルトや、隣接する建物のコンクリートに作られた外壁には、真新しい焦げの跡が見て取れる。まるで火炎放射器で炙ったかのよう。尋常でない雰囲気が、その場所にはあった。

 おかげでその瞬間だけは、彼の脳裏から心配事の一切合切も吹き飛んで、驚きだけが思考を占拠する。おかげでまともに返事をすることも叶わない。あうあうと情けなく口を開いたり閉じたり。

 そんな彼の間抜けを眺めて、少女は言葉を続ける。

「いいだろう……」

 酷く落ち着いた調子での語りだった。

「これを抜いたのなら、貴様の願いをなんでも一つ叶えてやる」

「お、俺の願い……を?」

「だから、さぁ、早くこれを抜けよ。全て、一つ残らず……」

「なんでもって……」

 提案を受けて、彼の脳裏に切実なる願いが浮かんだ。

 それは決して叶うことのない、もしもの世界。

 今この場に願うとしては、酷く滑稽な想いだろうか。

 けれど、死に行く者は藁をも掴まんと、手を伸ばした。まさか叶うことはないとは理解している。けれど、そうせざるを得ないだけの絶望を心に噛み締めて、身体は自然と動いていた。突き詰めれば残すところは神頼み。

 彼は少女の下へゆっくりと歩み行く。

 ぴしゃり、ぴしゃり、足の下に血液の池を踏みながら。

「そうだ、それでいい」

「…………」

 その様子を眺めて、少女は満足げに両の瞳を細める。

 やがて貼り付けの壁へ辿り着いた彼は、その手に包丁の柄を握る。付着した血液を気にすることもなく握る。

 深々と突き刺さった刃物たちは、引き抜くには相応に苦労するだろう。もしも往来の彼であったのならば、感染症が怖いからと、即座に逃げ出していたに違いない

 ただ、今の彼はそれを気にする必要もなかった。

 躊躇無く力一杯に握りしめる。腰を入れて全力に引っ張る。

 ならば、ドシャリ、彼の身体は剣を握りしめたまま、後方へと転がった。

「っうぅぅ……」

 上手い具合に一本が抜けていた。ただ、引っ張った勢いを殺せずに、倒れる羽目となる。ゴツンと後頭部を地べたにぶつけて、声を殺し悶絶する。非常に情けない姿だろう。幸いにして、手にした包丁が自らに刺さることはなかった。

「ぅ、く、糞っ……」

「そうだ、その調子で全てを抜け」

「ほ、本当に、本当になんでも、叶えてくれるんだろうな?」

「ああ、本当だとも。だから早く抜けよ」

「……畜生っ」

 短く吠えて、次なる一本へと両手を伸ばす。

 以後、同じ作業の繰り返し。

 十数本もの突き立てられた包丁たちを、一本、また一本と抜いていった。

 一本が抜ける都度、ぐしゅ、ぐしゅ、肉の軋む音が辺りに響く。酷くグロテスクな光景がそこにはあった。傷口からは血潮が吹き出して、対する彼の身体を上から下まで、真っ赤に染めた。

 けれど、当の少女は悲鳴一つあげることなく、その様子を眺めていた。

 とても不思議な光景だった。

 やがて、数十分の後、最後の一本が引き抜かれた。抜かれた色々は彼の手を離れて、がちゃん、地面に転がり乾いた音を響かせる。決して軽くは無い響きだった。柄にはどれも銘が入っており、それなりの業物であることが窺えた。

 とは言え、それもこれで最後。

 同時に少女の肉体が大地へと落ちる。

 スタン、軽い音と共に二本の足で地に立つ。

「……あぁ、上出来だ」

「つ、疲れた……」

 両腕の筋肉にしびれを感じて、腰回りに違和感を感じて、堪らず声を上げる軟弱者。昨今、体育の授業も無くなって久しい。運動も皆無な日常に彼の身体は酷く衰えていた。病の影響で体力も落ちているのだから、多少の動作にも息切れ必至である。

「おい、約束、約束をっ……」

 ただ、それでも決して忘れない、少女との約束。

「ん?」

「だから、ほら、約束っ、しただろ?」

「あぁ……」

 彼からの問い掛けを受けて、小さく頷く少女。

「その不細工な顔をこの世から消し飛ばしてやれば良かったんだな」

「……え?」

「死ね」

 少女が片腕を自らの肩と同じ位置まで掲げる。

 五指を緩く広げて、手の平を彼の側へと向けた。

「な、なんの話だよっ!?」

「……脳天気な男だ」

 次の瞬間、彼の身体は大きく吹き飛ばされた。

「っ!?」

 ドン、低い音が響くに応じて、両足が地面から浮かび上がる。同時に後方へと、身体を立てたまま吹き飛んで行く。まるで安いワイヤーアクションでも眺めているよう。数メートルという距離を数秒と経たぬ間に移動した。

 まさか綺麗に着地することなど不可能。勢いを失った身体は無様に落ちた。尻から落ちた為、被害は最小限に済んだ。しかしながら、決して無事とも言えない。背面全体を強かに打ち付けて、悶絶。

 他方、その姿を眺める少女にしては嘆息。

「ちっ、職無しの一匹も満足に殺せないとは……」

 どうやら今の一撃は、先の発言どおり、彼を殺すべく放たれたものらしい。しかしながら、何かしら足りないものがあって、身体を吹き飛ばすに終わった様子だった。撃たれた側にしてみれば、九死に一生である。

「……まあいい。これ以上を遊んでいる余裕はない」

 踵を返す少女。

 そして、ふわり、身体を宙に浮かせた。

 糸に釣った訳では無い。

 何も無いところで、浮かび上がり、空へ向けて飛んでいった。

「……なんで、なんで俺が……約束……したのに……痛ぇ、痛ぇよぉ……」

 後に残ったのは無様な男の情けない声ばかりだった。

◇ ◆ ◇

 翌日、彼は通い慣れた研究室に居た。

 色々と悲しい出来事が連なった。けれど、自らの最後を前としても、自身では明確な目的を得られない。更に世間は酷く辛く当たってくる。結果、人肌恋しくなってやってきたのが、少なからず自らの居場所として認識するところ。研究室だった。

 病の身体が所以だろうか。精神的なものだろうか。

 帰宅から丸一日を自宅に眠り、今は午後五時を回った頃合。

 童貞喪失から既に一日半が経っている。

 しかし、やって来たは良いが、自らの机に向かうことはない。延々、部屋の隅に置かれたソファーに寝転がっていた。正面には衝立が置かれて、対面は壁。周囲から隠された、いわゆる仮眠スペースとして利用されている一角である。絶望の只中に身を置いて、けれど、ここならば何か今の自分でも得られるものがあるのではないか、一心に願いつつの不貞寝。

 もちろん横になりはしても、本当に眠ることはできない。

 眠りすぎ。

 正直、常人であれば、昨晩の不可思議な出来事に頭を悩ませただろう。不貞寝をしている場合ではない。何故に幼い子供が夜の歌舞伎町に包丁で滅多刺しとなっていたのか。しかもそのような輩を相手に、どうして自分は数メートルもの距離を吹っ飛ばされたのか。挙げ句の果てには何がどうしたら人が空を飛ぶのか。

 分からないことばかりだろう。

 けれど、その一切合切を考えるのも面倒になって、不貞寝である。

 迫る死に身を震わせながらの、不貞寝である。

 ならば、そうした最中のこと、彼の耳に届く声。

「昨日はマジでやばかったよなー。特にまなみちゃん」

「あっ、そ、それは言わないでよっ」

 響く声色には彼も聞き覚えがあった。同研究室にあって他の誰よりも意識する、一つ下の女子生徒。また、並び聞こえるのは彼女の友人で、バンド仲間だろう男子生徒。二人仲良く部屋へと入り来たようだった。

 バタン、軽いドアの鳴る音が室内に響く。

 自然と不貞寝男の意識も衝立の向こう側に向かった。

 彼が聞き耳を立てる先、二人は仲良さそうに会話を始める。

「だって、あんなに乱れるとか、想像した以上だったわー」

「ま、まったっ! 待った待ったっ! 言わないでよぉっ」

 語らい合う調子は、普段に研究室で彼と交わす、日常的な挨拶のそれとは雲泥の差。心底楽しそうであった。過去に彼も挨拶を交わす機会は幾度かあった。一言二言。その際に浮かべられた笑みは、須く苦笑、若しくは苦笑い。

 思い出しただけで胸の痛くなる不細工男だろう。

「しかも、俺だけじゃなくて、他の奴らのも銜えちゃうとかさー」

「そ、それはっ……」

 男子生徒はニヤニヤと楽しそうな笑みを浮かべて語る。

 他方、答える女子生徒は焦った調子で、彼の言葉を遮ろうとする。

 山田に届けられるのは、その声のみ。

「まなみちゃん、エロ過ぎ。またやろうよね。乱交パーティー」

「だ、だって、みんなが脱げっていうから、脱いだのに……」

「何回イッタ? っていうか、何回中出しされた?」

「……十二回」

「え? それってどっち?」

「な、中だし……」

「もしかして数えてた?」

「もっと、したかも。でも、あ、安全日だったし、気持ちよかったから……」

「じゃあ、来週もやる? 今度はバンドメンバー以外も呼ぶからさ」

「え? メンバー以外も?」

「いいだろ? な? すげぇ優しくするからさっ!」

「……う、うん」

「おぉ、マジまなみちゃん可愛いわっ! 惚れるわぁっ!」

「でも、こ、今度は安全日じゃないんだから、外だしにして欲しい……」

「ピル用意しとくから、別にいいだろ?」

「ほ、本当? 妊娠、しない?」

「ああ、本当、本当だって」

「……じゃあ、い、いいけど……」

「マジで? いやー、本当、まなみちゃんってば可愛いよなー」

「そ、そういうこと言わないでよっ! 恥ずかしいんだからっ!」

「あははは、分かってるってっ」

「もうっ……」

 ラブラブでエロエロなリア充トークだった。

 だから、聞かされる側は堪ったものでない。

「っ!」

 バンと大きく足の裏で床を叩き鳴らし、童貞男はソファーから身を起こす。彼にしては珍しい。他者を前とした怒り任せの行い。不意にもたらされた乱交情報は、彼の中にあった僅かばかりの希望をも完全に打ち砕いていた。

 昨日の今日で、彼の中にある大切なものは、何一つ残らず木っ端微塵だった。

 勝手に期待しては、勝手に幻滅するばかりの阿呆な一人芝居。

「えっ!? 誰っ!?」

「だ、誰だおいっ!」

 音の聞こえてきた側を振り返る二人。

 視線の先には衝立の反対側から飛び出してきた醜男の姿。

「せ、先輩っ!?」

「んだこらっ、居たのかよっ!?」

 二人の口から厳しい声が上がる。

 今し方までの甘ったるい語らい合いとは対照的な反応だった。男子生徒は今すぐにでも飛びかかって行きそうなほど険しい表情で。他方、女子生徒は驚愕と羞恥から顔を真っ赤に染めている。

 その全てを無視して、彼は勢い良く部屋から飛び出す。

「もう、もうこんな場所は嫌だぁああああああああっ!」

 逃げ出すのだった。

 その場所から。

 彼の中で、彼の持つ全てが、元に戻らないまで砕け散った瞬間だった。

 どうやら不細工は理解したらしい。未来永劫、永遠に訪れない他者との共感を。

 どうやら不細工は確信したらしい。絶対の孤独を。

◇ ◆ ◇

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」

 研究室を後とした彼は、大学を発して以後、必至に走った。向かうべき目的地などない。ただ、じっとしていることができなくて、がむしゃらに走った。日中を過ぎたとは言え、依然として気温の下がらない夏日、全身から汗を垂れ流してのこと。

「はぁ、はぁっ……はっ……」

 口の中に溜まる粘っこい唾を飲み込む。

 肉体は限界が近い。

 けれど、心はもっと走れと彼に訴えて止まない。

 遠くへ。ここではない何処かへ。向かへと。

「はっ……はぁっ、はっ、はぁっ……」

 クラブへ行った。風俗にも行った。通い慣れた研究室にも足を運んでみた。けれど、彼が望む幸せは、どこにも存在しなかった。むしろ悲しい出来事ばかりで、何も良いことなどなかった。

 そして、娯楽のボキャブラリに欠ける引き籠もりな彼では、これ以上、自らを満足させ得る場所が思いつかなかった。今すぐにでも体調を崩し死に行くかもしれない肉体であるからして、焦りが募るばかりの身の上。

 何か楽しいものを。死ぬ前に経験できる、一生分の楽しいものを。

 他者に誇れるだけの、最高に楽しい経験を。

 求めて無我夢中で走った。

「はぁ、はぁっ……あぁああああっ、はっ! はぁっ!」

 やがて訪れたのは繁華街。日も落ちてしばらく、飲み屋の並ぶ通りは、仕事帰りのサラリーマンやOLに埋め尽くされていた。あちらこちらより人々の喧噪が届く。店内から溢れて、道端に並べられたテーブルまで、酔っ払いに溢れていた。

 その只中を走る。

 ハァハァと息も荒く、不細工な顔を隠すこと無く、無様にも口を半開きに、汗を全身から吹き出させて。それこそ通りを行く酔っ払い達が、自ら避けて通るほどの無様を晒しながら。

「はぁ、はぁ、はぁっ……」

 距離にして十数キロ。

 運動不足極まる引きこもり野郎にしては、大したマラソンだった。

 ただ、その記録もここへ来て、折れる。

「あっ……」

 些末な段差に躓いて、身体が前へと倒れた。

 人通りも多い歩道でのこと。周囲には居酒屋の呼び込みや、外国人風俗嬢のたちんぼ、ヤクザやチンピラの客引きなど、夜の街の住民が溢れていた。自動車も人通りに圧倒されて、今や付近一帯は歩行者天国。

 道行く者たちは、情けなくも転んだ彼を眺めて、汚物を眺めるような視線を向けた。あざ笑った。悪戯に唾を吐きかける者までいた。今この瞬間、彼はまさに世界の底辺を代表し得る存在だった。

「う、うぅっ……」

 自然と眦から涙が零れる。

 嗚咽が漏れる。

 これを受けて、周囲は殊更に彼へと侮蔑を向ける。

 そうしたなか、ふと、その耳に響く声が一つ。

「ほう、旅人、か。なかなか珍しい存在だのぉ……」

 圧倒的な雑踏に飲まれて、けれど、その声は妙にハッキリと彼の耳へ届いた。

 それこそ身を伏した姿勢にあっても、意識を向けてしまうほど。

「……たび、びと?」

「そうじゃ。旅人、それがおぬしの定め」

「なん……なんだよ、それ」

「ちなみに、私は、占い師、だな」

「……そ、そんなの、はぁはぁ……見れば分かる」

 彼の見つめる先、道端に居を構えるのは、一件の占い屋さんだった。

 折りたたみ式のパイプ椅子と小さな簡易机が一つ、それだけの店構え。

 通りを行き交う人々を見つめるよう、立ち並ぶ建物と建物の合間に生まれた僅かなスペース収まっていた。

 店構えは随分と年期を感じる。それこそ幾十年とそこに佇んで居たよう。

 店主は全身をローブで覆い、頭には顔すら確認できないほど深く被ったフード。しわがれた声と、酷く小さい身の丈から、相当に年老いた老婆に思われた。

 世に数多ある路上占い屋さんだった。

「……しかし、旅人などとは、随分と久方ぶりのことだのぉ」

「だから、な、なんだよ……」

「過去、生の只中に旅人を顕現させた者は唯一。その条件の厳しさが故に、顕現以後、数時間を保った者が全て。大半は命を失う直前の数瞬、走馬燈と共に得るが限り。故になんと珍しいことか」

「……か、勝手に占うなよ、金、ねぇんだよ!」

 ハァハァと荒ぶる息を整えながら、彼は吠えて応じる。

 倒れた身体を起こす力も残っていなくて、頭と視線だけを向けてのこと。

「未来に寸毫も可能性を見いだすこと叶わず、僅かな希望すら失う。けれど、ここまではぬるい。誰にでも叶う地点。条件はそこから先が本質。凡そ常人には不可能だと言われている領域」

「お、おいっ……」

「生命を保った状態で、潤沢な精神と知性を伴い、その上で自らの居場所を、冷静に、確実に、理知的に、完全に否定出来た者だけが発現し得る。これは人として、死よりも尚遠い、完全な孤独と強靱な理性から至る、完全個の地点」

「だから、勝手に占うなっ! 金なんてソープに使っちまったんだよぉおおおっ!」

「私自身、死そのものは関係ないと考えている。そして、お前の存在は持論の根拠を示す事由の最たるじゃ。必要なのは絶対の孤独と、閉ざされた未来、これらを存分に味わえ得る豊かな感受性。そして何よりも、全て受け入れるだけの強靱で冷静な絶望」

「やめろっていってんだろっ!? おいこらっ!」

 一方的に語られて、何故か、山田は自らが熱くなるのを感じてきた。

 延々と走ってきた為、気分が高揚しているのだろう。

「だからこそ、お前は居場所を捨てて旅人となった。とは言え、これら全ては未来の出来事か。お前自身がこれを理解するには、今しばらく時間が必要とするだろう。私の占いの強度はかなりのもの。覆すことは非常な努力を必要とするじゃろうて」

「だから、やめろよっ! な、なんだよお前っ!」

 吠える彼の態度は、普通なら有り得ないほどのキチガイっぷり。

 路上の占い師の戯言など、適当に無視をして終わるべき事柄。けれど、今に語られる占い屋の声が、妙に強く胸の奥まで響いて、聞かぬ振りさえできなかった。だから、それ以上を語るのではないと、必至になって吠えるのだった。

「儂は占い師。他者の先を見つめる者じゃ」

「だ、だから、そんなのいらねぇよっ!」

「その動向、楽しみにさせて貰おうかのぉ」

「おいこらっ! ば、馬鹿にするんじゃねぇっ!」

 彼自身も、何故に自分が必死となっているのか、理由が分からなかった。けれど、それ以上を占い師の言葉へ耳を傾けてはいけないと、強く感じたのだった。

 理由は相手に聞けば、占い師自身に問い掛ければ、或いは分かるかも知れない。けれど、そんな余裕など無くて、声も大きく喚き散らすばかり。まるで酒に酔ったようだろう。酷く情けない。

 彼は吠える勢いがままに、その身体を地べたより起こすよう腕を伸ばす。

 ようやっと腹が大地から離れる。

 指先が何かを掴んだ。

 しかし、それは通りを歩み行く酔っ払いのズボンだった。

 訴えは占い師まで届かなかった様子。

 ならば足を掴まれた酔っ払いは、地べたを這いずる見ず知らずの不細工に縋られて驚愕。次の瞬間には、反射的にもう一方の足を彼の頭部へと向けていた。依然として地べたに這いずる彼を、真上から踏み潰す形だろうか。

 酔いと嫌悪感からきた反応だろう。

「な、なにすんだテメェっ!?」

 呂律も禄に回らない叫び。

 振り上げられた足が、死に損ないの頭部へ下ろされた。上から下へ、足裏とアスファルトで頭蓋骨を挟む形だ。脳天から勢い良く踏みつけられて、彼の顎はアスファルトへぶつかる。

 ガツン、鈍い音と共に頭部が路上へと打ち付けられた。

「がっ……」

 短く悲鳴を上げて、山田は意識を失うのだった。

◇ ◆ ◇

 目覚めは相変わらず最悪だった。

 数時間を気絶して過ごし、時刻は深夜一時を回った頃合。

「っつぅ……」

 いつの間にやら、繁華街の路地裏へ捨てられている彼だった。

 恐らくは彼を足蹴にした酔っ払いの仕業だろう。

 未だ治らぬ顔面の青あざに加えて、更に体中に打撲の痛みが走る。かなり手荒に扱われたのだろう。加えて、意識を失っている間にも滲み出した汗は、シャツから下着までグッショリと濡らしていた。

「……ちくしょう、ちくしょうっ……ちくしょうぉっ!」

 痛む身体に鞭を打ち起き上がる。

 べそをかきながら、ゆっくりと道を歩み始める。

 近隣の駅では終電を過ぎて、繁華街であっても、通りを行く者の姿は疎ら。彼の他は電車を逃して彷徨う酔っ払いや風俗屋の呼び込みが大半を締める。世間的にはあまり褒められた人種でない。

 けれど、そうした者たちですら、彼を目の当たりとしては露骨に顔を顰める。

 その見窄らしい格好は下手なホームレスよりも汚らしい。服には血液が飛んで、更には上から下まで土埃に汚れる。髪はぼさぼさで体中が痣だらけ。加えて、半開きの口から覗くのはのは三本ばかり欠けた前歯。

 今この瞬間、最高に底辺な男だった。

「……なんで、なんで俺ばっかり、こんな面倒事に巻き込まれるんだよっ」

 自然と彼の歩みは、他者を避けるよう移ろう。

 繁華街を抜けて住宅街へ。段々と人気も少なくなる。

 足はこれと言って目的無く進んだ。

 すると、小一時間ばかりを歩んだところで、公営の公園に辿り着つく。それなりに規模のある施設だった。坪面積数百といったところ。日中であれば、絶えず人に賑わうことだろう。

 ただし、夜の一時を回った今では、彼以外に誰の姿も見当たらない。警察の目が厳しいのか、都市部に在りながらホームレスの姿も皆無。綺麗に整備された園内は、人の気配が無ければ、非常に無機質で寂しいものだった。

「死にたくねぇ、死にたくねぇよぉ……」

 誰に言うでもなく漏らしながら、彼は園内を進む。

 耳に響くのは嗚咽と足音が限り。

 歩みは留まることなく、数分ばかりを掛けて公園の最奥まで至る。

 音の圧倒的に少ない世界が、否応無く彼の不安を駆り立てた。夜の暗がりと静けさは、自然と三ヶ月先に待つ自らの運命を想像させる。この世界から意識の失われる感覚を想像しては、ぶるぶる、唇が震え始めるほど。潔癖極まる現代教育に育った二十四才。まさか、自らの死を寛容できるほどの精神を持ち合わせている筈が無い。

「助けてくれよ。誰か、誰か、なんで、どうして、俺には誰もいないんだよっ……」

 そうした最中の出来事だ。

 不意に届けられる音があった。

 キィン、金属と金属のぶつかり合うような、甲高い響き。かなり大きな音だった。周囲が静かであることを差し引いても相応のこと。園内全体に響き渡って思える。凡そ深夜の公園に耳とするには違和感のある音だ。

「……こ、今度はなんだよっ」

 自然と彼にも緊張が走る。

 これ以上、痛い思いをするのは嫌なのだった。

 けれど、この世界は彼の想いを尽く裏切る。

「っ!?」

 意識を音の聞こえてきた側へ向けた。

 その瞬間、彼の足下目掛けて、何かが飛んできた。

 細長い棒状であって、長さは一メートルほど。ドスン、低い音を立てて、土の地べたへと突き刺さる。

 目を凝らしてみれば、それは刃物であった。

 恐らくは真剣。両刃の西洋の剣を思わせる作りをしている。しかも柄から刀身までが、真っ黒に塗りつぶされた代物だ。

「な、なんだよこれっ!」

 思わず叫びを上げる。

 応じて、余所からも反応が返った。

「何者だ?」

「……おいこら、他に誰かいるのかよ?」

 声は二つ。彼の歩む先、十数メートルの地点からだった。

 目を凝らしてみれば、暗がりの中に人影が見て取れる。

 夜の闇に滲むように広がる僅かばかりの月明かり。

 照らされて並び立つ姿は、彼と同程度の身の丈の男が一人、また、その正面数メートルの地点に、頭二つ分だけ小さな子供が一人。

 そして、後者は彼も見覚えがあった。

 衣服や顔の作りの細かいところは、暗くて判断が付かない。けれど、その特徴的な長い金髪は、彼の苦々しい記憶の一端を、容易に思い起こさせる。

「お前、あのときの人間か」

「……なんだよ、魔王の知り合いか?」

「馬鹿を言え、偶然に居合わせただけの職無しだ」

「なんだ、職無しか……驚かせやがって。仲間が増えたのかと思ったぜ」

「馬鹿を言え、貴様など一人で十分だ。この負け犬が」

「いいや、それはどうだかな?」

 両者は彼を見つめて、何やら言葉を交わし合う。

 少なくともお互いに面識のある間柄のようだ。こんな夜中の公園でなにをやっているのか。面を合わせて油断無く身構える姿からは、つい今し方まで喧嘩でもしていたように思える。

 また、それを肯定するように、二人の周囲はあちらこちらに破壊の跡があった。例えば足下に開いた大きな穴であったり。例えば砕かれた噴水であったり。例えば焼け焦げた樹木であったり。

「な、なんだよお前ら……」

 山田は見知った存在を確認して驚く。

 脳裏に蘇ったのは昨晩のこと、自身を吹き飛ばした不可思議な突風。

 今に飛んできた西洋剣も併せれば、凡そ普通でない状況だと分かる。二人が常識を逸脱した危険行為に及んでいることは門外漢にも窺えた。

「騒がれても面倒だ。今度こそ殺してくれる」

「相変わらずの魔王っぷりだな。おかげで俺は勇者せざるを得ない訳だが」

「はっ、お前のようなやる気の無い男が勇者を語るとは片腹痛いわ」

「別に俺だってなりたくてなった訳じゃねぇよ?」

「その割りには随分と真面目に仕事をしてくれているようだが?」

「まっ、この力は何かと都合がいいからな? 失う訳にはいかないわ」

 男は少女を魔王と呼び、少女は男を勇者と呼んだ。傍目には良くあるごっこ遊びの一端にも思われる。けれど、周囲の惨状を鑑みれば、ごっこ遊びの一言で片付けるには、被害の度合いが大き過ぎる。

 果たして二人の間柄はどのようなものなのか。眺める側としては、全く理解のゆかない光景である。こんな夜中に何をやっているのかと。ただ、唯一のこと、片割れの少女が自分に対して害意を持っていることだけは、彼にも確信できた。伊達に一度、殺されかけていない。

 勇者を自称する男は、ジーンズに半袖シャツという、ごく一般的な日本人然とした出で立ちをしている。一方で、魔王を名乗る少女は、シンプルな黒いワンピース姿。こちらもまた、取り立ててどうということもない姿格好。

 しかしながら、前者は両手に両刃の剣を握っており、後者は正面にバレーボール大の火球を幾つも浮かべている。凡そ普通とは思えない状況だった。

「け、警察っ、警察とか呼ぶぞおいっ!」

 まさか関わり合いになりたいとは思えなくて、彼は大仰に声を上げる。同時に踵を返して、その場より逃げ出す。足下に突き刺さった西洋剣は、命の危険を感じるに十分なものだった。

 けれど、彼の思惑はいつだって失敗してばかりだ。

「逃がすものか」

「ちっ、容赦ねぇな」

 魔王を名乗る少女が動く。ダーツでも投げるよう腕を振るった。

 その様子は酷く何気ない動作による。

 応じて、彼女の周囲に浮かぶ火球が、轟と低い音と共に打ち出される。

 勢いは相当。高速道路を走る自動車より尚のこと早い。

 これに対して、勇者を名乗る男が動く。

 彼女が打ち出した炎に向けて、同じく腕を振るった。

 手にした剣がヒュンと風切り音を響かせて投擲される。こちらは先に放たれた炎より尚のこと早い。地面と水平を保ったまま、切っ先を前に向けて、先行する炎の塊へ一直線にすっ飛んで行く。

 空中にあって、剣が火球に追いつく形でぶつかった。

 ドドンと低い音が響く。

「うぉおああああああっ!」

 二つが重なり合ったところで爆発が起こった。夜の薄暗がりに伸びた光の筋。火球と剣が重なり合うに応じて、音と共に煌めきが放たれる。直視できないほどの輝きが周囲一帯に広がった。

 悲鳴はそのすぐ近くから上がった。

 爆風に煽られて、大きく身を飛ばした山田である。

 一連の流れを目の当たりとして、勇者と呼ばれた男は顔を顰める。

「ちっ、間に合わなかったか……」

 対して、満足気に笑みを浮かべるのが魔王と呼ばれた少女。

「ざまぁない。出遅れたな、勇者」

 彼は数十メートルばかりを飛ばされて、無様にも身体を地べたに転がせる。直に爆風を受けてしまった。それこそ至近距離に手榴弾でも爆発したが如くだろう。誰が見ても無事には思えない有様。

 一昨日に受けた突風と比較しても殊更に酷い。

 しかしながら、幸いにして一命は取り留めたらしい。転がり倒れた先から、痛い痛い、悶絶する声が届けられる。かなり距離が開いたので詳細は知れない。身体を振るわせる影の揺らぎだけは確認できた。

 どうやら喋れるほどには生きているようだ。

「いや、生きてるっぽいな」

「仕留め損ねたか。毎度のこと悪運の強いやつだ……」

 悲鳴を耳として、男はホッと胸をなで下ろす。

 しかし、同時に彼は忌々し気にも吐いて捨てる。

「ったく、なんでこんなところに来やがった。いいところ邪魔しやがって」

「勇者が聞いて呆れる。そのまま堕ちてしまえば良いものを」

「冗談言うなよ。あんなどこの誰とも知れないヤツのために身を落とすなんざ御免だ。こんな下らないことで職の質を落としたりしたら笑えねぇよ」

 これに少女は、酷く下らないものを眺めるよう呟いた。

「はっ、それが勇者の発言とはお笑いだな?」

「だから言ってんだろ? 俺は別になりたくてなった訳じゃねぇ」

「まるで矛盾している。この小悪党が」

「誰だって力は欲しい、そうだろ?」

「その精神は近く職を狂わすだろうさ」

「冗談、俺は良い子ちゃんだからな。このまま勇者街道を邁進してやるわ」

 その様子を眺めて、二人は互いの立場に軽口を交わす。

「んじゃまあ、サクッと魔王退治といきますか。ここ数日の面倒も今日で終わりだ」

「上等だ。勇者退治といこうじゃないか。その頭、ぶっ潰してくれるわ」

 地べたに横たわる山田を放置して、今一度、互いに向き直る男と少女。

 これまでも行っていただろう喧嘩を再開させるつもりらしい。

 ならば、一方で無視される運びとなった彼にしては屈辱。

 訳が分からないまま相手の都合に吹っ飛ばされた。怪我を負った身体はまともに動かない。かと思いきや、次の瞬間には意識の範疇から外された。

 完全に無視である。

 しかも、全ては相手の都合。

 この場所で彼は一つの人格として、個人として、認識されていなかった。そこいらに植えられた樹木と何ら変わりない扱いだった。この場所に在ろうが無かろうが、まるで気にされない。

「なんで……なんで俺ばっかり、こんな目に……」

 いいや、これは今回に限らない話だ。

 彼はいつだってこんなだった。

 彼にはいつだって居場所が無かった。

 それが今この瞬間、猛烈な悔しさとなって、身の内に溢れ返る。他者の中に自らを置くことの出来ない悲しみに悲観する。こんなだから彼女はおろか、仲の良い友達すら禄に作れないのだと。どれだけ努力しても、幼少期より長年の教育に培われた人格は、決して覆ることはない。

 ただ、それでも彼は自分の居場所が欲しかった。他の誰よりも孤独に弱い彼だから、他の誰よりも孤独な彼だから。そして、欲望は悲しみから怒りを生み出す。どうしようもない憤りが、身体を否応無く突き動かす。

「ふ、ふざけんじゃ、ふざけんじゃねぇえっ!」

 必死の形相で、足腰へ力を込めて立ち上がる。

 全身の至る箇所から軋みが上がった。折れてしまった肋骨であったり、外れてしまった肩の関節であったり、あちらこちらに激しい痛みがあった。けれど、その全てを越える感情が肉体を突き動かす。

 怒りと悲しみから出た声は、広大な園内の端から端まで響き渡った。

「こんな場所、こっちから願い下げだっ! ふざけんなっ!」

 彼にしては珍しい乱暴な叫び。

「こんな場所、俺に相応しくないんだよっ! 俺だって、俺だってなっ! もっと凄いところへ行って、超絶可愛い女の子とキャッキャウフフしながら、バンドのボーカルでギターでライブ会場満員で、有名人とキャバクラしてハーレム乱交、生中出しセックスするんだよっ!」

 何かが吹っ切れた瞬間だった。

 脇から上がった突然の文句を受けて、向かい合う勇者と魔王も彼へ意識をやる。

「ちょっと金髪だからって偉そうにしてんじゃねぇよっ! このクソチビがっ! ふざけんなっ! そっちの男と楽しそうにくっちゃべりやがって、何が魔王だよっ! 何が勇者だよっ! ごっこ遊びとか、超絶馬鹿だろっ! バーカ! バーカ!」

 今この瞬間に限らない。

 二十余年の人生で積もり積もった鬱憤が、爆発したのだった。

 彼は一際大きい声で叫ぶ。

「俺はもう、こんな場所には居てやらねぇっ!」

 その瞬間、叫び訴える肉体から、まばゆい輝きが発せられた。

 今し方に起こった火球の爆発にも似た、目を刺すような閃光であった。

「おいこらっ、今度は何だよっ!?」

「この光、まさか職を得たのかっ!?」

 男と少女が同時に驚愕の声を上げる。

 暗かった公園が真昼のように照らし出される。まぶたを閉じても白を感じられるほどの光量だった。見つめる二人は身動きを取れないまま、輝きが収まるのを待った。

 数秒ばかりを経て、光が落ち着きを見せ始める。

 滲む視界の只中で、二人は仁王立つ人影を見た。

 ゆっくりと暗がりに飲まれてゆく白い輝きの中で、彼は宣言する。

「俺はお前らに付き合っていられるほど暇じゃねぇっ!」

 そして、脱兎の如く走り出すのだった。

◇ ◆ ◇

「ライブでギターでボーカルで乱交っ! ライブでギターでボーカルで乱交っ! ライブでギターでボーカルで乱交っ! ライブでギターでボーカルで乱交っ! ライブでギターでボーカルで乱交っ! ライブでギターでボーカルで乱交っ!」

 その日、都内を妙な叫びと共に走る男の姿があった。

 山田紅蓮である。

 港区を抜けて渋谷区から新宿区へ、目的地らしい目的地も定めず、感性が赴くままに、あっちへ行ったりこっちへ行ったり。右へ左へ蛇行しながら。繁華街もオフィス街も住宅街も関係無い。道が続く限り走り続ける。

 途中、警察官に声を掛けられても、何ら聞こえた様子を見せない。白塗りのバイクに追われても、全てを無視してひたすらに道を行く。どれだけ駆けても終わりは無くて、後を追う全てをおいてけぼり。走り続けた。

 火球の爆発により負傷していた肉体が、骨折も、打撲も、脱臼も、擦り傷さえも、いつの間にか消え失せて、身体は健常性を取り戻している。けれど、それにさえ気付かないまま、高ぶった感情に任せての疾走。身体の内に溜まった熱を発散するよう、ひたすらに足を動かし続ける。

 真夜中、延々と駆けるマラソン野郎だった。

 追っ手の全てを振り切ってのこと。彼に続く者は誰も居ない。

 はた迷惑な男だろう。

 ただ、終わりはやがてやって来る。

 無我夢中に走り回ること十数キロ。辿り着いたのは、何処とも知れない商店街。深夜とあって既にシャッターも締まり、酷く閑散とした光景の広がる一帯だった。もちろん、人気など微塵も感じられない。

 そんな通りのど真ん中を走る彼は、途中、何かに躓く。

「ってっ!?」

 勢いのままにゴロンゴロンと地べたを転がる。

 かなりの速度で走っていたらしい。身体は十数メートルばかりを延々と転がり続けた。酷く阿呆な格好だった。でんぐり返しの要領でゴロゴロと回る様子は、まるでアニメや漫画に眺めるよう。

 ようやっと止まったところで、彼は呻きと共に身体を起こす。

「痛ぇ……な、なんだよもぉ……」

 全ては自身の過失が致すところ。けれど、不幸の最中にある彼としては、今に起きた出来事も、この世界の自らに対する嫌がらせなのではないかと、勝手に考えてしまう。酷く後ろ向きな思考。

 ただ、そんな不満も早々に失われる。

 彼の見つめる先、丁度、躓いただろう地点に蹲る者の姿があった。

「げ、人かよっ」

 スーツ姿の男性が背を丸めて、アスファルトの上に小さくなっていた。どうやら、彼はその肉体に躓いて、転がる羽目となったらしい。恐らくは酔っ払いの類いだろうか。でなければ、病人か何か。

「ちょっと、おいっ! だ、大丈夫ですかっ!?」

 彼は大慌てに駆け寄った。

 自分が躓いたことが原因で、大仰な事態に発展しては堪らない。

 その下へと向かい、相手の無事を確認する為にしゃがみ込む。

「大丈夫ですかっ!? あ、あのっ!」

「う、うぅ……薬、薬を……」

「薬? 薬って言われてもっ」

「このなか、この中に、このっ……」

 相手は四十代中頃と思しき男性だった。茶色のロン毛にオシャレ髭を生やした、渋い二枚目男性である。ピシっとした格好の良いデザインスーツ姿と相まって、芸能関係者やウェブデザイナーといった職業を想像させる。

「このなかって言われてもっ……」

 男はプルプルと震える指に、自らの肩へ掛かる鞄を指し示す。

 薬という単語から、のっぴきならない状況を理解して、彼は大慌てに手を突っ込む。ジッパーの口を大きく開けて中を確認する。すると暗がりの中、薬局処方とおぼしき白い紙の袋が見つかった。

 もちろん、山田は急いでその中に収まる薬を取り出した。

 男の言う薬とは、喘息患者の為の吸引薬であった。

「お、オッサン、ほら、薬っ! これでいいんだろっ!?」」

「す、すま……ない……」

 キャップまで開けてやり、銜え先を相手の口元まで持って行く。。

 すると相手は、必至の形相に口を付ける。そして、一度、二度、器具に設けられた凸部を押した。応じて、カシュカシュ、霧状の薬剤が咥内に噴出されて、器官の下まで飛んでいく。

 恐らくは急な発作の最中にあったのだろう

 呼吸困難となり倒れていたところに、彼が躓いたようだった。

「お、おい、オッサン……」

「う、うぅ……はっ……ぅっ……」

 静かな深夜の商店街に、男の苦しそうな息づかいが延々と響いていた。

 ただ、それも吸引を終えて以後、段々と収まり行く。目元や口元はおろか、鼻頭にまでよっていたシワは、しかし、時間の経過と共に段々と緩くなってゆく。

 時間にして数分という間の出来事だった。

「はぁ……はっ……はぁ……」

「だ、大丈夫かよ……」

「あ、あぁ、助かった、本当に助かった……」

 呼吸が落ち着きを取り戻したところで、男はようやっと満足に言葉を口とする。シャツは全身から吹き出した汗にぐっしょりと濡れていた。相当に危ういところであったのだろう。繰り返される呼吸に肩は大きく上下していた。

「……ほ、本当か? 救急車を呼んだ方がいいんじゃ……」

「ああ、薬さえあれば、なんとかなる」

「ならいいけどさ……」

 それから更に数分ばかりを待って、男はようやっと立ち上がれるまでに回復した。ゆっくり膝を立てて、身体の具合を確認するよう、二本の足に身を起こす。

 その姿を確認して、彼はすぐ近くにあった自動販売機でミネラルウォーターを購入。男に手渡してやった。

「ほら、オッサン、水とか」

「お、おぉ、すまない……ありがとう」

 相手はこれを深々と頭を下げて受け取る。

 ゴキュゴキュ、大きく喉を鳴らして飲むのだった。

「はぁ……生き返った……」

「いや、俺はマジで死んじまうんじゃないかと思ったけど」

「割と冗談でなく死を覚悟していたのだが、君が気付いてくれて助かった」

「そ、そうかよ」

 ボトルにキャップをして、男が彼に向き直る。

「本当にありがとう。九死に一生を得た気分だ」

「まあ、助かって良かったじゃんか……」

「全くだ。君には幾ら感謝してもしたりないだろう」

「べ、別にそんなんどうだっていいよ」

 髭ロン毛の中年男性から向けられたのは、完全な善意。

 これに対して、他者からの好意にとことん慣れていない山田は、大仰にも焦ってしまう。声が上擦るのを隠せない。上手く言葉を作れなくて、必至に両手を顔の前で振るって応じた。

 過去、誰かの為に何かをして、まともにお返しが戻ってきた覚えの無い不幸者だ。能動的に人助けをしてみれば、相手は詐欺師やホームレスの類いで、好意で貸した金銭を持ち逃げされることも度々。報われたためしがない。

「いやいや、良くは無いだろう。何かお礼をさせてくれ」

「お礼って言われても……」

「私にできることなら、なんでも言ってくれ」

「…………」

 つい最近にも同じような提案を耳にした覚えのある彼だった。

 そのときは約束を無碍にされて、更には身体を吹っ飛ばされている。

 だからだろう。次いで彼の口から出たのは、その平凡な精神を持ってしては、非常に能動的で、行動的で、攻撃的な願いだった。色々と追い詰められているが故に、その求めるところに人格はとても素直だった。

「俺、ライブでギターでボーカルで乱交したいんですけど」

「ライブでギターでボーカルで乱交?」

「そう、ライブでギターでボーカルで乱交」

「そりゃぁまた、いきなりな願いもあったもんだ……」

「無理ッスよね? んじゃ、俺はこれで……」

 ただ、言うだけ言って恥ずかしくなる。

 早々に分かれるべく、踵を返す彼だった。

 するとどうしたことか、その腕を相手の男がガッシと握る。

「ちょっと待ちたまへ」

「え?」

「最後のやつは難しいが、他の三つは君の能力次第といったところか」

「……は?」

「申し遅れたが、私はこういう者でね」

 戸惑う彼を前として、男は胸元から紙切れを一枚取り出した。

 そして、何気ない調子に彼へと差し出す。

 名刺というやつだった。

「……アニメ……プロデューサー?」

「もし良ければ、ちょっとばかり事務所へ寄っていかないか?」

◇ ◆ ◇

 彼の連れて行かれた先は、都内某所に所在する雑居ビルの一室だった。電車が止まっていたため、タクシーを拾っての移動である。見ず知らずの相手と過ごす車内移動の時間は、彼にとって大した緊張であった。

 そして、今に居するは応接室を思わせる一室。

 六畳ばかりの空間に三人掛けのソファーが向かい会うよう設えられている。その間には足の短いガラステーブル。卓上には吸い殻の溢れる灰皿。加えて、つい最近に発売されたばかりのアニメ雑誌が無造作に置かれていた。

「声優?」

「ああ、声優さ。知っているかね?」

「そりゃまあ、人並みには……」

 開口一番、山田は髭ロン毛の言葉に首を傾げた。

「最近じゃあ下手なアイドルより儲かる仕事さ。まあ、その分だけ人気もあって、同じように下手なアイドルより就職が難しい。アイドルと違い毎月の枠が限られている上に、かなり年長まで番を張ることができる為だが」

「いや、それが俺に何の関係があるんだよ?」

「君は学生か?」

「そうだけど……」

「なら時間はあるだろう。ライブでギターでボーカルで乱交を目指すなら、なかなか悪くない取っ掛かりだとは思うのだがね。特に君はお世辞にも顔が良いとは言えない。真っ当な舞台俳優としての道は難しいだろう」

「っ……」

 出会って小一時間の相手に顔面を否定されて、少なからず傷ついた不細工野郎。とは言え、まさか言い返すことなど不可能であるからして、悔しそうに歯を食いしばるばかり。目に見えて業腹だ。

「どうだ? 少しばかりやってみないか? こっちもちょうど人を探していたんだ。もちろん、難しそうであったのなら、途中で降りて貰うことになるかもしれない。ただ、君の望む未来への可能性としては、破格の誘いだと思うが」

「……分かったよ。やってやるよ……」

「よし、それじゃあ早速だが、明日から収録に付き合って貰おうか」

「あ、明日かよっ!?」

「ああ、明日からだ。もしも人が見つからなかったら、スタジオの人間に頼んでやって貰うところだった。まあ、それくらいの役ではあるからして、そこまで気張ることもないのだがな」

「……だったら、他のやつでもいいじゃんかよ」

「もちろんそのとおり。ただ、そこは君に対する礼というやつだよ。そのような役であっても、外へオーディションとして出せば幾千という人間が応募してくる。うちのような小さな事務所が作る作品に対する募集であったとしてもな」

「なんだよそれ」

「大半の声優は名前も無いキャラクターの声でデビューする。そして、段々と役を大きくしてゆき、やがて、名前で食べていけるまで有名になるのさ。そういう意味で、明日に君が立たんとする場所は、数多の声優志望者の登竜門というやつだ」

「……ふぅん」

「スタジオの場所はここだ」

 男が懐から一枚の紙切れを取り出した。

 名刺大のサイズであって、何やら住所と連絡先が記載されている。

「ここに朝十一時までに到着していてくれ」

「十一時でいいのか? なんか微妙な時間だけど」

「朝の苦手な大御所がいるんだ。その都合で少し後ろ倒しになっている」

「……声優の世界もそういう感じなのな」

「こういったところは、どこの世界も変わらんよ」

 いつの間にか、髭ロン毛に対してタメ口になっている彼だった。

 残り僅かな命を思うと、誰かに気を遣って身を窶すなど愚の骨頂だと、今更ながらに考えを改めた次第だった。いつの時代も失うものが無い者は強い。故に態度もふてぶてしいものだ。

「あと、これが台本だ」

 けれど、これを気にした様子もなく、相手は言葉を続ける。

 髭ロン毛がソファーの脇に放られていた紙の束を差し出した。

 これを受け取った山田は、ぺらぺら、紙面を巡りながら感心した風に呟く。

「アニメの台本って、こんな風になってるのか……」

「君の役は中盤と最後の方に出てくる敵役Aだ。いわゆるやられ役だな」

「やられ役かよ」

「最初は誰しもそんなものだ」

「だからってなぁ……」

 既にある程度だけ話の進んだアニメらしかった。しかし、表紙に記載されたタイトルは、全く見たことがない。ページをめくってみても、彼には何が何だかさっぱり分からない。理解したのは自分が敵役Aであるという点のみ。

「いきなりのことで大変だろうから、台詞の前後だけ見ておいてくれればいい。場面の大凡の雰囲気さえ掴んでいてくれれば、あとはアドリブでなんとかなるだろう。ほんの一言の台詞だ。おそらく五秒とかからない」

「そんな適当でいいのかよ?」

「適当で良くはない。ただ、下手に力まれても失敗するのがオチだ。今くらいの軽さで挑んで貰えるのが、私としては一番に助かる。大抵の新人は無駄に力を入れて、妙なことになるからな」

「そういうもんか」

「そういうもんだ」

 台本には都合、一話分の内容がつらつらと並んでいた。その中で彼が担当するのだという敵役Aの台詞は、僅か数十文字に収まる。わざわざこれだけの為に遠出をするのは面倒だと思わざるを得ないほど。

 今の彼が欲しいのは、即日で得られるライブでギターでボーカルで乱交だ。

 こんな気の長い話ではなかった。

 とは言え、他にやりたいことがあるかと言えば、欲望の矛先を失った現在、能動的に行動するにしても、指針足り得るものを自らの中に見つけられそうにない。とことん駄目なクズ野郎である。

 故に仕方なく頷くこととした。

「分かった。んじゃ、十一時に行けばいいんだな?」

「ああ、そうしてくれ。頼んだ」

 そうした具合、彼の一日は過ぎていった。

◇ ◆ ◇

 翌日、大学の講義をすっぽかして向かった先はアニメの収録スタジオ。

「あっちぃ……」

 ギラギラとした陽光に当てられて、全身から汗を垂らしてのこと。彼は昨晩に指定された住所まで足を運んでいた。山手線内に所在する三階建ての建物である。どうやら丸々一棟がスタジオとして機能しているらしい。建物の出入り口付近の案内には、スタジオの名前だけがあった。

「……これって勝手に入っていいのか?」

 時刻は午前十時半を回った頃合。目的地が滅多に足を運ばない地域であった為、早めに出発したのが一時間前。おかげで想定した以上に早く到着してしまったらしい。建物の前を行き交う通行人は数多くあれども、目的の建物へ足を向ける者の姿は、一人も確認できなかった。

「……別に入ってもいいよな。呼ばれたんだし」

 五分ほど建物の前でウジウジしたところで、彼は覚悟を決めて歩み出す。

 自動ドアを越えて玄関ホールへ。

 一階フロアへ入ってすぐのところにあったのは、気休め程度の受付窓口。小さな台の上にぽつねんと電話が置かれている限り。続く廊下の先も含めて、人の気配は感じられない。これで連絡を入れろということだろう。

「番号とかしらねぇよ……」

 段々と帰りたくなってきた彼だった。

 というか、無人の受付を見て帰ろうと決めた。

 すると、彼が踵を返そうとした瞬間、受付より続く廊下の先で扉が開いた。

 顔を覗かせたのは、昨晩に出会ったばかりの壮年男性。茶髪のロン毛と顎髭が特徴的な壮年のイケメン。姿格好は昨晩と異なり、ジーンズにポロシャツという、割とカジュアルな格好をしていた。

「お、来たか。早かったな」

「早めに出て来たんだよ」

「こっちへ来るといい。今日のスタジオは一階だ」

「そういうことは昨日のうちに言っておいて欲しいんだけどさ……」

「ははは、すまないな。すっかり忘れていた」

「ははは、じゃねぇーよ」

 ぶつぶつ文句を言いながら、彼は男に言われるがまま歩みを進める。

 昨晩と変わらず、語る調子が酷く適当になっているのは、もう改めるつもりが無いからだろう。幾晩かを自らの死に悩んで、既に周囲へ気遣っている余裕など皆無の胃がん野郎だった。

 とは言え、死を目前とした自暴自棄が、この程度であるからして、彼が如何に小心者であるか分かろうというもの。幼少からの教育に育まれた臆病な性格は、死んでも治りそうにない。

「ここがスタジオだ」

「……ふぅん、ここがねぇ」

 ドアを越えた先、彼の目に入ったのは音声収録のためのスタジオだった。

 部屋の中に部屋がある。

 ドアの先にあったのは、ソファーの並ぶ先進的な病院の待合室を思わせる空間。凡そ二十畳ばかり。かなり広々としている。ここから更にドアが続き、十畳ほどの小部屋が二つ並んでいる。大部屋と小部屋二つを仕切りる壁には、ガラス窓が嵌められており、共に音楽機材の山と並ぶ様子が窺えた。

 学校施設の放送室を豪勢にした形だろうか。

 小部屋の一つは音楽機材がギッシリと並んでいる。技師が居する為の空間のようだ。もう一つの小部屋にはマイクが立ち並ぶ。恐らくはこちらで発せられた音が、マイクを通じてもう一つの側へ流れる仕組みだろう。これら二つの部屋を内包する大部屋は、その控え室といったところか。

「どうだね?」

「どうだねって言われても、学校の放送室のデラックス版っていうか……」

「なんだ、ライブだのボーカルだの言う割には興味がないのか」

「別に興味が無い訳じゃないけど、今はそれが目的じゃないし」

「ふむ。確かに、それもそうか」

「っていうか、あのさ……俺ってめちゃめちゃ見られてるんですけど……」

 彼の言葉通り、その身へは視線が数多集まっていた。

 大部屋には先客がいた。アニメプロデューサーを名乗る髭ロン毛の他、女性が六名、男性が四名。今回の収録の関係者達だろう。

 他に小部屋の中でも人の気配がある。こちらもガラス窓越しに、彼と男とのやり取りを眺めている。

 急にやってきた見知らぬ相手が、自分たちの知り合いと親しげに話し始めたので、興味を引かれたのだろう。

「君は新顔だからな。当然と言えば当然だ」

「なんか凄い居心地が悪いんだけど?」

「今日、一緒に収録を行う声優の方々だ」

 答える男は軽い調子だった。

 彼はますます家に帰りたくなった。

「は、はぁ……」

「あと一人で全員が揃う。そのときに紹介するとしよう」

 やる気の感じられない彼の態度にも、男は取り立てて何を言うことも無い。昨晩に出会ったときと変わらないままに応じて語る。

 一連のやり取りを耳とした為か、周囲から彼の出自を訪ねる声も上がらなかった。

「……オッサンさ、本当に俺なんか居てもいいのかよ?」

「呼んだのは私だ。構わないさ」

「ならいいけど……」

 短く呟いて、一人、彼は部屋の片隅へと居を移した。

 部屋にはソファーが幾つか設えられている。しかし、他の誰も彼もが腰を掛けていない為、彼もまた一人座るのは気が進まなくて立ち呆け。

 他方、監督は他に居る声優の下へと向かい、何やら言葉を交わし始める。

 そうして、十数分ばかりが経過した頃合だろうか。バタン、勢い良く大部屋のドアが開かれた。内開きのそれは室内の壁にぶつかり、耳喧しい音を立てる。

 部屋に居していた面々の意識が一様に出入り口へと向かう。

 ならば、そこに立っていたのは十代中頃を思わせる少女だった。

「まったく、なんで午前中から収録なんてやるのよ。ただでさえ学校だの塾だので眠いんだから、たまにはゆっくりと眠らせてくれたっていいじゃない。スケジュールしたヤツ、頭悪いんじゃないの?」

 その口から放たれたのは、開口一番、やる気の感じられない愚痴だった。

 への字に曲がった眉からも、彼女の機嫌の悪さが窺える。

「どうやら、これで全員揃ったようだな」

 少女の登場を確認して、髭ロン毛が呟いた。

「なによ? 私を待ってたっていう嫌み?」

「そうは言ってないさ。それよりも、今日は皆に紹介したい者がいる」

 どうやら少女が最後の役者であったらしい。

 男は彼女の登場を待って口上を始める。何気ない調子に部屋の中央に歩み向かい、そこで部屋の隅へ向けて手招きをした。招かれたのは本日初見で新人な山田。彼はこれに大人しく従い、傍らまで歩み向かう。

 周囲から集まるのは好奇の視線だ。

「今日、ガヤで入って貰う新人だ。皆、よろしく頼む」

 短く言って、髭ロン毛は山田の肩を軽く叩く。

「ど、ども。よろしくお願いします」

 応じて小さく頭を下げる駄目男。急遽のこと始められた紹介に、心臓はドクンドクン、強く脈打っていた。満足に自己紹介もできない。酷く歯切れの悪い調子で、多少ばかりを語るに終わる。

 これに対して、周囲を囲う者達は社交辞令、よろしくと朗らかに挨拶を向けた。恐らくは緊張が故の反応だと、素直に受け取ってくれたのだろう。まさしくその通りである彼としては幸運なことだった。

 ただ、唯一の例外が、最後にやってきた少女。

「は? なに? こんなショボイやつ使うの?」

 初対面の相手に酷い語り草だった。

「そうだ。何か問題があるか?」

 しかし、これに負ける髭ロン毛では無かった。平素からの調子に淡々と返す。

「ありえなくない? っていうか、今の挨拶とか社会人としてどうなの? 自分の名前すら名乗らなかったわよ? ありえないんだけれど」

「なっ……」

 思わず絶句する彼だった。

 年下の相手にここまで駄目出しされるとは想定外のこと。

「これは決定だ。悪いが今から覆すことはできない。飲んで欲しい」

「やる気が凄い勢いで萎えていくんですけど?」

「私は君に期待している。出来ればやる気を持って貰いたいところだ」

「だったら、そこのショボチンとか退けてよ。マジで不細工なんですけど」

「それは出来ない相談だ。この状況で最善を尽くして貰いたい」

「ったく、本当に最低ね」

 少女の言葉はどれも酷く適当だった。

 山田にしては目の前のやり取りに唖然。自分より二回り以上年上の相手を扱き下ろす少女が少女ならば、これに対して事務的に言葉を返すプロデューサーもまたプロデューサーである。

 そして、間髪置かずに連打された悪口は、彼に怒りを与える。

 もしも往来の山田であれば、或いは自らを沈めただろう。年下の子供が言ったことだと、場の流れに身を任せて、事無かれ主義を貫き通したに違いない。しかし、今の彼は残すところ三ヶ月の命。我慢する道理は無かった。

「おいこら。なに偉そうなこと言ってんだよ。このクソガキ。誰がしょぼちんだ」

「く、クソガキっ!?」

 これに少女は大層のこと驚いた顔をする。

「クソガキの癖に偉そうなこと言ってんじゃねぇよ。しかも、一番最後に来て何様のつもりだよ。こういうときは大人しく頭の一つでも下げるのが道理ってもんだろうが。それとなにより、俺を馬鹿にすんじゃねぇっ」

「この不細工っ、私に歯向かうつもり? 何様のつもりよ?」

「歯向かう? 何が歯向かうだよ。これは教育っていうんだよ。クソガキ」

「なっ……」

 失うものの無い者は強かった。

 周囲からは息を呑む音が響く。声にならずとも、驚愕の気配が数多届けられた。少女に逆らうという事柄が、この場に在っては大した禁忌であるように思われる雰囲気。集まった声優一同の表情には驚きだけがあった。

 けれど、場の一切合切に構わず、彼は言葉を続ける。これまでの人生、色々と我慢してきた反動だろう。相手が年下の子供ということも手伝い、非常に強気な口悪野郎だった。どっちがクソであるか分かったものでない。

 何より彼は周囲に合わせることが、とてもとても苦手で嫌いだ。

「こんな態度じゃ、どうせ碌な声優じゃないんだろ? このお子様は」

「……アンタ、それって本気で言ってるの?」

「もしも冗談に聞こえたなら、相当に耳が悪いよな。声優として致命的だろ」

「っ!?」

 何気ない調子に語られた彼の言葉に、少女の顔が真っ赤となった。

 相当の憤怒が窺える。

「アンタ、何様のつもり? この私を前に新人がどれだけの口を叩くの?」

「俺、お前のこと知らないし。どうせ俺と大差ない新人なんだろ?」

「な、なんですってっ!?」

 彼が何かを口とする都度、少女の表情は驚愕と怒りの色を濃くする。

「まあいいや、あんまり喋ってても他の人に迷惑だしな」

「こ、こ、このっ……」

 あまりの怒りに続く言葉すら浮かばないのか。少女は堅く拳を握り、腕をプルプルと震わせていた。クワと見開かれた瞳は、眦を釣り上げて彼を睨み付けている。鬼のような形相だった。自尊心の高さが窺える。

「……アンタ、この業界で生きていけると思わないことね……」

「うっせぇ。なんでガキにそんなこと言われなきゃならないんだよ」

「……上等よ。今日という日を一生後悔させてあげるわ。そう、絶対に」

「そんなもん誤差にもならねぇよ。やれるもんなら、ああ、やってみろよ」

「……上等。監督、始めるわよ」

「あ、あぁ。分かった」

 プイと彼から視線を移して、少女が髭ロン毛に言う。

 以後、彼女は一度として彼を相手を振り返ることはなかった。完全に嫌われた形だろう。大人げないにも程度があるというものだ。

「気分とか最悪だし、ちゃっちゃとやってちゃっちゃと終わらせるわよ」

「……では、早速だが収録を始めるとしようか」

 監督の声を受けて皆々が動き始める。

 場の空気は山田のせいで最悪だった。

 他に集まる声優一同は、哀れみとも憤怒ともしれない視線を彼にチラリ向けて、各々の仕事へ向かっていく。向けられた側としては、少なからず疑問。けれど、少女との口論に業腹が故か、禄に気に掛けることもなく、他者の動く様子を眺めていた。

 最後まで場に残ったのは監督と彼の二人。

 勝手の分からぬ新人に、髭ロン毛は昨晩と変わらぬ調子に語り掛ける。

「君の台詞はBパートだ。今回は珍しくAとBで綺麗に分けて撮る形になっているから、まずはここから他者の演技を見ていると良い。少なからず作品や現場の雰囲気を理解することができるだろう」

「Bパートってなんだよ?」

「コマーシャルを挟んで後半のことだ」

「あぁー、なるほど」

 集まった声優達は、早々、マイクの設置される小部屋に待機していた。

 対して彼と監督とはもう一つ、音響機材の並ぶ小部屋へ向かう。

 部屋には幾名かのスタッフが、椅子に腰掛けて機器に向かい合っていた。ミキサーやらエフェクターやら、ギッチリと並んだ機械類を眺めては、彼にしても圧巻、口を半開きに室内を眺める。

 そして、阿呆が間抜け顔を晒している間に準備は整う。

「はい、それじゃあ始めるよー」

 機器の前で椅子に腰掛ける男性、音響監督が言った。

 応じて、二つの小部屋を仕切るガラスの向こう側、声優一同が頷き応じる。

 どうやら、収録が始まるらしい。

 声優一年生の彼もまた、真面目にガラスの向こう側へ意識を向ける。値の張りそうな機材を目の当たりとして、少なからず気分を高めたのだろう。居心地の悪さに萎えていた気分を持ち直した形か。

 壁とガラス窓を挟んで隣の部屋、大型ディスプレイに映し出されるアニメ映像。

 白黒の線画から成る動画。

 ならば数分と経たぬ間に始まるのは、声優のお仕事。

 ここで彼は、自らの過ちを理解する。

 画面に映るのは同作のヒロインの一人と思しきキャラクター。その口が開かれた瞬間のこと、立ち並ぶ声優の中の一人、つい今し方に口喧嘩を繰り広げた少女が声を発した。

『皆の者っ! 控えよっ!』

 腹に響く重い声だった。凜として鋭い声だった。

 先程に耳とした罵声とはまるで別物。彼は一声を耳として、しかし、それがガラス越しに眺める相手に発せられたとは思えなかった。壁を隔ててスピーカー越しに響く音は、まるで別人のようだった。

 台詞は立て続けに発せられる。

『何を持ってこの身に抗うかっ、世の理を知れっ!』

 少女が担当しているのは、三十を越える女性キャラクターだった。もちろん、映像は完全なものではなくラフ段階。しかし、それでも声の主よりも遙かに年上と分かる。

 だと言うに、届けられる声は、そのキャラクター生来のものであるかのように、とても自然で、非常な迫力を伴った。

 これを目の当たり、耳の当たりとしては、彼も固まった。

「す、すげぇ……」

 呆け調子な山田の呟きに、隣で髭ロン毛が頷く。

「そう、凄いんだ」

 二人は少女から視線を外すことなく言葉を交わす。

「彼女は超が付く一流の声優。決して君と同じ新人ではない」

「……そうだったのかよ」

 唖然とする彼の傍らに監督が語る。

「そして、彼女の父親と母親もまた声優だ。しかも共に、業界では一、二を争う大御所だ。両親の威光と、その出自に劣らぬ実力。彼女は自他共に認める、業界のサラブレッドなのだよ」

「…………」

 監督の言葉を耳として、彼は返す言葉がなかった。

「だからこそ、あのような我が侭な娘に育ってしまったようだがな。とは言え、この業界は実力と売れ行きが全てだ。そして、彼女は若干十四才という若さで、この二つを既に手に入れている」

「……んだよ、クソッ……スゲェじゃんかよ……」

「そうだ。彼女は凄いんだ。まあ、最近は思春期が始まったのか、色々と大変そうではあるがな。特に今日は君のおかげですこぶる機嫌が悪い。流石にこれ以上を怒らせては面倒なので、あまり関わらないで欲しい」

「あ、あぁ……」

 監督の言葉も適当に、彼の視線はガラスの向こう側へ。

 少女に釘付けだった。

 台詞を口とする姿と声とは、映像として映るキャラクターへ命を与える行為のよう、彼の目に映った。今の今まで影の一片すら世に無かった存在が、この世界へ生み出されて、自らを主張し始める。モノクロの映像に色が付いて見えるほど。

 収められた声は、それだけで一つの世界を構成する要素足り得た。

 今の山田が抱える問題とは、まるで反対の事象。

「…………」

 だからだろう。

 極めて不安定な状況にある彼の心へ、全ては強く響いて聞こえた。

◇ ◆ ◇

「はい、おつかれー。ここでちょっと一休みしよう」

 何度かの取り直しも含めて、前半のアフレコは一時間半ばかり。途中に休憩を挟むらしく、音響監督の言葉に合わせて、マイクの設置された小部屋から声優たちがずらずらと大部屋に出てきた。

 合わせてもう一つの小部屋に居する髭ロン毛と山田もまた、音響監督を残して大部屋へ移動。機械室を後として早々、監督は声優たちへ言葉を掛けに向かった。まさか、新人に付きっきりという訳にはいかない。

 都合、彼は一人で部屋の片隅へ。

「お疲れさまだ。今回も素晴らしい声をありがとう」

 監督から皆々へ向けた労いの言葉。

 ならば、誰よりも先んじて反応したのは、例の少女だ。

「ふんっ、お世辞なんて要らないわよ。これくらい当然じゃない」

 依然として機嫌が悪い。酷く不服そうな調子に言葉を返す。その声色は今し方までの声調とは似ても似つかない。まるで別物だった。私用と仕事用とは完全に切り替えが為されているようだ。

「良いものを良いと言うことは当然のことだ。私は何よりもそれがやりたくて、今の仕事に就いている。こうして素晴らしい声を当ててくれる皆に対する感謝は本物だ」

「ご機嫌とりなら間に合ってるわよ。それに、どっかのキモオタにとっては、これでも新人の域を出ない声なのでしょう? だったら聞かせて貰いたいものね。プロの当てた声っていうやつを」

「そう言ってやるな。彼は声優のせの字も知らないんだ」

「だからっ、なんでそんなヤツがスタジオに居るのよっ!」

「俺の勘だ」

「アンタの勘が何の役に立つのよっ! 意味が分からないわっ!」

 少女が少女ならば、監督もまた監督でマイペースな男だった。だからこそ、今日という日に、声優のせの字も知らない彼をスタジオまで連れて来ることができたのだろう。彼女に負けず劣らず、割と大した性格の持ち主なのかも知れない。

 他方、こうした二人のやり取りを、他の声優達は遠巻きに眺める限り。

 どうやら、少女は周囲と健全な交友関係を築くには至っていないらしい。性格に難あり、社会性に難あり、深入りは厳禁と判断されているのだろう。相手に嫌われないよう、けれど深入りしないよう、最低限の付き合いを受けている様子だった。

 声も大きく言い合う二人に割って入る者は皆無である。もしも他の誰かであれば、仲の良い者が仲裁に入ったかも知れない。けれど、彼女に限っては、いつものことなのか、一人でギャアギャアと喚くばかり。

 否、今日は一人だけ居た。

「お、おいっ!」

「なによっ!? 気安く声を掛けないでくれるっ?」

 部屋の隅に立ち、二人のやり取りを眺めていた声優一年生だ。

 彼は数歩を歩んで、足早に髭ロン毛と口悪中学生の下まで歩み行く。

 そして、ギュッと拳を堅く握り、意を決した様子で言葉を続けた。

「今の声、スゲェ良かった。だ、だから、さっきの発言は取り消す」

 腰を曲げて頭を下げる。彼にしては屈辱の極み。けれど、それを為させるだけ、先程に耳とした声は、山田の心に響いたらしい。もちろんそれは、今に身を置く環境が故かも知れない。けれど、響くものは響くのだった。

「……アンタ、それって謝ってるつもり?」

「そ、そうだよっ。悪いかよ?」

 対して、応じる少女は酷く冷徹な眼差しを向ける。

「今更に謝ったところで、私はアンタのこと、絶対に許さないわよ」

 少女が監督から彼へと向き直った。つり上がった眦と強張った顔面は、未だに彼女が怒りを湛えていることを窺わせる。二、三ばかり謝罪を口とした程度では許せぬと、露骨に物語って思えた。

「そんなもんどうだっていい。ただ、それだけは言っておきたかったんだよ」

「……ふん、随分な物言いね? それでも大人? まるでガキね」

「うっせぇな、ガキはお前だろうが。ただ、俺は俺が良いと思ったものに良いって言っただけだっ。そこのオッサンと同じだっての。第一、声はスゲェ良かったけど、性格は未だに最低だって思ってるしな。お前、学校でも友達とか少ないだろ?」

「なっ……」

「そうだろ? きっと俺と同じだ」

 胸を張り言ってのけるキモオタ。

 これを受けて、少女は大いに慌てた。

「だ、誰がアンタみたいなキモオタと同じなのよっ! 違うわよっ!」

「そうか? なら猫被ってるのか。たしかに今の演技力なら、それこそ、きっと生みの親だって余裕で騙せるだろ。しかも、そんだけ可愛い形(なり)して歳も若いって、あぁ、超絶勝ち組じゃねぇか。考えたらムカついてきた。マジで死ねよ、クソっ!」

「なんで見ず知らずの相手に死ねとか言われなきゃならないのよっ! アンタこそ死になさいよっ! っていうか、褒めたり貶したり、アンタは何がしたいのよっ! 本当に謝る気があるのっ!?」

「だから、声が最高で性格は最低って言ったんだよ。馬鹿なヤツだな」

「馬鹿ってっ……あ、アンタ……」

 先刻にそうであったように、少女の身体が怒りにプルプルと震え始める。

 成り行きでこの場に立つ彼としては、残る人生三ヶ月の彼としては、声優としての成功などまるで見えていない。故に相手がどれだけ社会的な権力を伴おうと、一切の遠慮が無かった。

「だから、ほら、便所でも水でも行ってこいよ。後半もあるんだし」

「なんでアンタに私がトイレの指示をされなきゃならないのよっ!」

「いいのか? 便所」

「良くないわよっ! 行くわよっ! ええ行きますともっ! 死ねっ!」

 他方、少女にしても、ここまで馬鹿正直に喧嘩を売ってくる相手は、過去に居なかったのだろう。激昂の末に激昂して、その矛先こそ明確なれど、膨らんだ怒りは肝心なぶつけ方が分からず、トイレに逃げるのだった。

 ドスドス、足音を鳴らしながら大部屋を出て行く少女。

 その姿を見送って、他の声優陣にしては唖然。

 唯一、監督だけが困り顔で彼に言った。

「君、ロリコンじゃないだろうな?」

「ちげぇよっ! 俺はもっとムチムチでボンキュボンが好きだよっ!」

「そうか。ならいいが」

 監督の何気ない呟きが、妙に静かとなった一室に響いて聞こえた。

◇ ◆ ◇

 三十分後、後半のアフレコが始まった。

 今度は山田も、マイクの並ぶ小部屋へ収まっての録音である。マイクへ向かい台詞を連ねるベテラン声優達。その背中を目前に置いて、彼は必死の形相で台本へと目を向けていた。

 脳裏に思い浮かべるのは、自らが喋るべきキャラクターの背景。

「…………」

 台詞は文字数にして僅か二十三文字。

 ふと思い立った山田は、これに全てを賭けることとしたのだった。

 全ては少女の圧倒的な演技が所以。自分もまた彼女のように、何も無いところへ、何かを作り、与えてみたいと、切に考えているのだった。台本を手に抱く思いは、僅か数十分での心変わり。

 自身は三ヶ月もすれば死んでしまう。この世から消えてしまう。けれど、キャラクターに吹き込んだ声は、三ヶ月経っても、一年経っても、上手くいけば百年経っても消えることなく残り続ける。そして、他人の耳へと響き続ける。

 これは今の彼にとって、何よりも魅力的なことだった。

 だからこそ、嘗てない集中力を伴い、台本を睨み付けているのだった。

 彼の演じるキャラクターは、主人公の魔法により吹き飛ばされる敵役。吹き飛ばされた後は、生きているのか死んでいるのか、生死すらも定かでない。役回りはそれだけ。画面に映るのも僅か一瞬。まさか、台本には台詞以外の何ものも載っていない。

 けれど、それでは彼の想いが収まらなくて、今、必至となり、その生い立ちを心の中に妄想しているのだった。誰に何を言われた訳でもない。ただ、物語の主人公に吹き飛ばされるだけという情けないキャラクターが、どうしようもなく、現在の自分に重なって思えるのだった。

 だからこそ、丹精込めて声を入れたいと考えた次第である。

 担当キャラクターを、強いては自らの存在を、世の中に残したいと。

 どういった家庭に生まれたのだろうか。両親にはどのように育てられたのだろうか。何がきっかけで主人公に敵対する組織へ入ったのだろうか。何を求めて今の道を歩んでいるのだろうか。その日、家に帰ったら何をする予定だったのだろうか。

 それこそ人一人の一生を追うように。

 一生懸命、その存在を自らの中に形作っていた。

 おかげで、気付けば出番を逃していた。

「ちょっとっ! アンタなにやってんのよっ!」

 唐突にも、少女の罵声が飛んできた。

 少なくとも彼にはそう感じられた。

「……え?」

 顔を台本から上げれば、場の誰も彼もから視線を集めている。

「アンタっ! 自分の番も理解してないのっ!?」

「……あ……も、もしかして、過ぎてた?」

「もしかしなくても過ぎてるわよっ! この馬鹿っ! キモオタっ!」

「……わ、悪い……」

「悪いじゃないわよっ! 今の、どれだけ私が喋ってたと思ってるのよ! アンタのせいで全部が取り直しじゃないっ! ふざけんじゃないわよっ! やる気がないなら、もう要らないわっ! さっさと部屋から出て行きなさいっ!」

「あ、いや、ご、ごめん。悪かった……」

「次は無いわよ。次も失敗したら、監督がなんと言おうと絶対に追い出す。アンタの代わりなんて、幾らでもいるんだから。他の誰も無理だと言うなら、私が代わりに喋ればいいんだから」

「……分かった」

 少女の真剣な眼差しに、素直、頭を下げて頷く彼だった。

「ったく、これだから素人は……」

「…………」

 本気で嫌いなものを見つめるよう、渋い顔をして意識をマイクの側へ移す。

 流石の山田も反省だろうか。

 けれど、だからと言って緊張することは無い。

 臆病者の彼にしては、とても珍しい心持ちだった。

 何度を怒られても、彼は自分に与えられた台詞を喋るつもりだった。今日限りのチャンスならば、せめて一言だけでも、死に行く自分の声を世間に残してやるのだと、一人静かに燃えているのだった。他の誰でも無い自分自身が、台本に眺めるキャラクターを、この世界に作り出してやるのだと。

 執念の籠もった自己顕示欲だろう。

 そして、マイクに向かい喋る少女の隣、待つこと数十秒。

 訪れたのは一期一会の表現が機会。

 彼は脳内に描いたキャラクターを力一杯に喋り上げた。

「あ、足がっ! 腕がっ、ち、千切れ、痛っ、痛い、痛いぃいっ! いたいいたいいたいっ、やめ、し、死にたくないっ、死にたくないっ! こんな、死にたくないぃいっ。生きたいっ! 生きてたいぃいいっ……死にたく、ねぇぇえ……」

 同じようにちょい役を任された声優が幾名か、同じように倒れ行く大勢を演じる。彼が担当するのは、幾つも重なり合う声の僅か一つに過ぎない。数多が互いに混じり合い、ようやっと一つとして認識される演出としての声。

 喋っていた時間は、台本に規定されたとおり、僅かな時間だった。

 しかも、少しばかり台詞の内容が変わっていた。キャラクターへの感情移入が過ぎた為か、勝手に口から言葉が漏れてしまったらしい。全てを喋り終わったあと、数秒が過ぎてからしまったと思い返すほど。

 けれど、その回は何が起こることも無く、収録は続けられた。

 どうやら彼の出番は無事に終わったらしい。

 マイクの前から離れて、スタンドの前に群れる声優の最後尾へと戻る。

 そして、何故だか涙を流している自分に気付いて、大慌てに眦を人差し指で、ゴシゴシ、擦り上げるのだった。涙はどうにも止めどなくて、周囲に顔を隠すよう、必死になって目元を拭い続けた。

◇ ◆ ◇

 全ての収録が一段落したのは、それから小一時間の後だった。

 音響監督のお疲れ様という挨拶に応じて、皆々、収録の小部屋から大部屋へと移動を始める。途中、阿呆の失敗により天才声優少女が怒鳴り声を上げたものの、他では順調に進み、問題も無く本日の予定は終えられた。

「……ちょっと、アンタ」

 マイクの並ぶ小部屋から出たところで、彼は背後より声を掛けられた。

「……なんだよ?」

 振り返った先、目に入ったのは例の少女だ。

「……アンタ、なんで泣いてたのよ? キモかったんだけど」

「べ、別にいいだろっ!? っていうか、泣いてないしっ!」

 どうやら彼女は山田の無様を見ていたらしかった。収録の最中にありながら、他者へ気を回す余裕があるというのだから、大した器量と才覚だろう。ただ、彼にしてはそんな感慨を持つ暇もなく焦り調子。

「いい年の大人が泣き出すとか、気持ち悪いんだけど」

「だから泣いてねぇって言ってんだろっ!?」

「それに勝手に台詞を変えるとか、やる気あんの?」

「っ……」

 痛いところを突っ込まれて、思わず返す言葉を失う声優一年生。

「これだから素人は駄目ね。アドリブに頼っているようじゃ、まだまだよ。台本として与えられた台詞で、どこまでキャラクターの魅力を引き出すか。これが声優としての力の見せ所なのに、そんな簡単なことも分からないなんて」

「そ、そうなのかよ」

「ええ、そうよ。納得できないなら、今すぐに声優を辞めなさい。キャラクターの台詞を作るのは脚本家よ。アイドルじゃないんだから、声優がでしゃばるなんて言語道断。私は絶対に許さないわ。それが嫌なら小説家にでもなりなさい」

「……けど、お前の声は、キャラクターを作ってるみたいで……」

「それが、プロと素人の差じゃない。少しは勉強なさい。このクズ」

「ぐっ……このクソガキ……」

「今のアンタは、そのクソガキ以下だということを理解なさい」

「……クソっ、言いやがったな?」

「ええ、言うに決まってるじゃない。次にこんな無様な喋りを聞かせたら、二度とスタジオに入れないようにしてあげるから、ええ、覚悟なさい。それと、自分の番を忘れるなんて、絶対に許さないわ」

「そ、それは分かってるっ! いちいち繰り返すんじゃねぇよっ!」

「ふんっ、口だけは達者ね。最悪。このキモオタ」

「だから、偉そうに言うんじゃねぇよっ! このクソガキっ!」

「実際に偉いのだから、偉そうに言うに決まってるじゃない」

 そして、ああだこうだ、一頻り軽口を叩いたところで少女は踵を返す。

 場の誰に挨拶をすることもない。

「それじゃあ、私は帰るから」

 素っ気ない態度にドアを抜けて、スタジオを後とするのだった。

「……クソッ。あのガキ、マジでむかつくわ……」

 その背を見送る彼は、本心から憎々しげな表情を浮かべていた。年下の女の子から馬鹿にされて、割と本気で苛立っているようだった。過去の堪え性も、ここ数時間で完全に吹き飛んだ形か。

「どうだ? 少しは楽しめたか?」

 少女が去って少し、今度は監督がやってきた。

「あ、あぁ、おかげさまで、多少は……」

 他人と口喧嘩していた手前、決まりの悪い表情に応じる。

「なら良かった。こっちとしても悪くは無かったしな」

「……そうか?」

「あの子が次を保証するくらいだ。素人である点を考慮せずとも、相応といったところだろう。もし使い物にならなかったら、すぐにでも交代を打つ予定だった。というか、その可能性の方が高かった訳だが、これは私としても意外な展開だろう」

「次を保証? なんの話だよ?」

「来週に次の話の収録がある。詳細は明日に事務所で伝えよう」

「いや、ちょっと待てよ。だから何の話だよ? 俺の出番は終わっただろ?」

「いいや、終わってないが」

「なんでだよっ!?」

「別に今日だけだとは言っていないだろう? それに君の願いは、ライブでギターでボーカルで乱交だろう? ならば、まだ何も叶ってはいないではないか」

「お、おいっ! そういうことこの場で言うなよっ」

「おいおい、昨晩は人に真顔で語っておいて、それはないだろう?」

「だからって、ほ、他に人がいるじゃんかよっ!」

 特に最後のやつが恥ずかしくて堪らない助平だった。平素と比較しては多分に興奮していた昨晩。間抜けな台詞を思い出して赤面。この場には異性の姿も多くて、堪らず声を裏返らせる小心者だった。

「今日のところはこれで解散だ。我々はこれから食事に行くが、君はどうする?」

「お、俺はいい。もう帰るっ」

「そうか。ならばお疲れ様だ。明日、また事務所へ来てくれ」

「……分かったよ」

 そんなこんなで、彼の数奇な声優デビューは終えられるのだった。

◇ ◆ ◇

 翌日、彼は朝一番に指定された場所までやって来た。

 某アニメ監督の事務所である。

「おーい、オッサーン。オッサーン」

 ドンドンとドアを叩きながら呼びかける。名刺を貰っていながら、しかし、未だに相手の名前を覚えていなかった。どうせすぐに死ぬのだからと、他者に対する対応が酷く適当である。

「あー、誰だね。こんな朝早くから……」

 ガチャリ、ドアを開けてパジャマ姿の壮年親父が現れた。ご丁寧にナイトキャップまで被ってのこと。どうやら仕事場に寝泊まりしているらしい。片脇には枕を抱いての登場であった。強面系イケメンの風貌に酷く似合わぬ姿だろう。

「自分で呼んでおいてそれはないんじゃないか? もう九時だぞ?」

「昨晩は日が変わるまで飲んでいたのだ。眠いんだ」

「ならさっさと話だけ済ませてくれよ。俺だって暇じゃ無い」

「んむぅ……分かった、とりあえず入りたまへ」

「んじゃ、おじゃまします」

 ゴシゴシと目元を擦りながら歩く監督。

 その後ろに続いて、昨日にも訪れた事務所へと足を踏み入れた。

 通された先は前回と同様、向かい合わせにソファーの並ぶ応接室。部屋はエアコンがガンガンに掛けられており、非常に涼しい。また、ソファーの一つには毛布が掛けられていた。どうやら、男はここで眠っていたらしい。

 山田は相手に促されるのを待たずして、勝手に昨日と同じところへ腰掛けた。毛布が乗った側とは反対のソファーである。

「そんで、話ってなんだよ?」

「あぁ、これが次の台本だ」

 ソファーとソファーの合間に置かれた足の短いガラステーブル。その上に放られていた冊子を手に取り、監督は何気ない調子に彼へと差し出す。以前に貰ったものと同じ作りをした紙の束だ。

「……またかよ」

「そうだ。まただ」

 これを山田は受け取らずして、疑問に言葉を続ける。

「そもそも、素人とか出していいのかよ? 昨日、俺も家でちょっと調べたけど、こういう機会だって、声優志望の奴らにしてみれば、喉から手が出るほど欲しいものなんだろ? 俺、別に声優とか希望しちゃいないぞ?」

「私はこれで良いと考えている。そして、彼女もまた同様の意見だ。まさか、次の収録に君を連れて行かねば、私が怒られてしまうだろう」

「……いや、意味が分からないんだけど」

「おいおい理解すればいい。ところで、次の君の役だがな」

 彼の言葉を無視して、監督はマイペースに言葉を続ける。

「次は絵のある役をやって貰おうと思う。もちろん、レギュラーではないが、その回で焦点の当たるレギュラーの恋人という設定だ。台詞の量も昨日のそれと比較しては増えることだろう」

「オッサン正気かよ!? 俺、本当にネットで色々と調べたんだからなっ? そんな簡単に決めちゃっていいのかよ!? トレーニングとかも全然だし、声とか超絶普通だし。っていうか、恋人とかマジでねーよっ! 恋人なんて生まれてこの方、今まで一度もできた試しがねぇんだよっ!」

 最後の方など思わず、本気の叫びとなってしまった彼だろう。

「その点は問題ない。今回は一週間、みっちりとトレーニングを積んで貰う。また、声優として、自らの経験がない役回りを演じるなど日常茶飯事だ。でなければ、声優は皆人殺しで魔法使いだ」

「は? トレーニング? 俺がやるのかよ?」

「夜寝る前、三時間ほどのボイストレーニングだ」

「な、なんで俺がそんなことしなきゃならないんだよ……」

「時給千円。安いだろうか?」

「いや、オッサンがそこまでするのもどうかと思うけどさ」

 突拍子の無い提案を受けて、思わず返す言葉に勢いを失う彼だった。

「恐らくは学生だと考えているのだが、間違いないかね?」

「そ、そうだけど、なんで分かるんだよ?」

「これでもそれなりに生きている。人を見る目はあると自負しているよ」

「オッサン、意外と凄いな……」

「ならば時間はあるだろう? 少しばかり頑張ってくれたまえ。君も、彼女に負けっ放しでは悔しいだろう? 他の誰でも無い君自身が素晴らしいと評価した声だ。自らに発するところを聞いてはみたくはないかね?」

「……あの声を俺が? 冗談言うんじゃねーよ。アイツは別格だろ? 他の声優の人の声も聞いてたけど、アイツみたいなのは無かったわ。鳥肌が立つような声なんて、そうそう聞けるもんじゃねぇよ」

「やってみなければ分からないさ」

「その自信はどこからくるんだよ?」

「では、千五百円だ」

「……ま、まあ、いいけどさ。そこまで言うなら」

 銀行口座に残された額を思い出して、思わず首を縦と振る山田だった。

 クラブやらソープランドやらの件が未だに響いている。死を目前としても、日々の生活にすら不安を覚える貧乏人だろう。現に今もお金が足りずに病院へ足を運ぶことができないでいるほど。

「では、これを受け取るといい。担当キャラの名前に印を付けておいた」

「あぁ、どうも……」

 監督が差し出し続ける冊子。

 これを受け取って、彼は小さく頭を下げるのだった。

「ところで、練習ってどこですればいいんだ? ここへ来ればいいのか?」

「自宅やカラオケで構わないが?」

「い、いいのかよっ!?」

「むしろ他に何がある?」

「いや、てっきりここへ来るものだとばかり思ってたんだが」

「私もこれでなかなか忙しいからな。一人で頑張ってくれ。練習の方法はネットで調べれば幾らでも出てくるだろう。本屋で適当に書籍を漁っても良い」

「……まあ、オッサンがそれでいいって言うなら、べ、別にいいけどさ」

「それでは決定だな。次の収録は六日後の午後四時からだ。場所も変わらないから、玄関を通って部屋まで直接に入ってきてくれ。私が現場に居なくとも、特に連絡を入れる必要もない」

「分かった。けど、酷いできでも知らないからな?」

「君が君の演じるキャラを聞かせてくれれば、私はそれで良いと考えている」

「……そうかよ」

「ということで、さぁ、私は二度寝だ。悪いが今日はここまでだ。眠すぎる」

「あいよ。んじゃな」

 二人のやり取りは随分とサッパリしたものだった。お互いに言いたいことを言ったと思えば、半刻も経たぬ間に終了である。ソファーより腰を上げて、山田は躊躇なく部屋を後とした。

 これを送り出す監督にしても、小さく手を振るった限り。

 バタン、部屋のドアは閉じられて、打ち合わせは終えられた。

 事務所を後とした彼は、電車を乗り継いで帰路をしばし。

 その足で自宅近所の公園へと向かった。

 数十坪の小さな公営施設である。備えるのはベンチが二つと小さな噴水。他は樹木の類いが植えられる限りで、遊具の類いも見当たらない。とても簡素な広場である。

 本当は下宿先のアパートへ帰るつもりだった。けれど、自室に一人でいると、どうしても自らの死を考えてしまう。憂鬱になってしまう。絶望に暮れてしまう。だから、こうして他に人の行き交う場所へとやって来たのだった。

 つい数日前までならば、他人と空間を同じくして過ごすことに、多大な苦痛を感じていた彼である。日々の大半を自室に一人で過ごしていた。けれど、今はその苦痛すらもが癒やし足り得るほどに、精神を擦り減らしているのだった。

 他の何より孤独が辛いのだった。

「……んで、どんなキャラだよ。俺のやるのは」

 ベンチに腰掛けて、手にした冊子を開く。

 ペラペラペラ。数ページをめくったところで、赤丸の付けられたキャラクターの名前が目に入る。名前はジョン。どうやらこのキャラクターが、彼が声を当てるべき対象であるらしい。

「彼女持ちのリア充とか、マジで死ねよ……」

 空想の人物にすら本気の嫉妬を向けてしまう素人童貞。

 ブツブツと文句を言いながら、彼は台本の最初から物語と台詞を追う。

 台本の内容は王道の悲恋モノだった。レギュラーの一人だろうキャラクターの過去を描いた話となっており、その相方として彼の担当するキャラクターが存在する。物語としては一話完結の話であって、故に彼にもおはちが回ってきたのだろう。

 台詞の数もレギュラーと比べては圧倒的に少ない。

「マジでリア充だし。死ねよクソが……」

 数ページを眺めた限りで、虫酸が走る彼女いない歴イコール年齢野郎だった。

 ページをめくる毎に思い起こされるのは、研究室を同じくする女子生徒の姿。彼の対面の席に腰掛けた異性の姿。たまにおはようだとか、こんにちはだとか、挨拶を交わす限りの間柄の相手。

 もしも自分がイケメンだったら、あの子とも、こんな風に素敵な恋愛をできたかもしれない。彼女とラブラブなセックスができたかもしれない。フェラチオだって、イラマチオだって、パイズリだって、シックスナインだって、アナルセックスだって、生中出しだって。そう考えると、胸の内から切ないモノがキュンキュンと溢れて止まないブサメンだった。

 そして、同時に胸に抱いたのは、あまりにも現実的な悲しみ。自らに残された時間。誰にも好かれることなく、恋人の一人も作ることなく、恋愛経験皆無のまま死に行く自身の無様。せめて一度くらい、本気で人を好きになって、本気で人から好かれて、恋愛を経験したかったと、悔やんでも悔やみきれない願いが立ち上る。

「……なんだよ、ちくしょう……羨ましいじゃんかよ……」

 言葉は素直に漏れた。

 今現在の境遇が、彼の精神を酷く脆弱なものとしていた。

 だから、だろうか。

 次いで彼の脳裏に浮かんだ、本来ならば有り得ない感慨は。

「……俺だって、俺だってこんな風に……」

 今の自分には時間が無い。けれど、どうしても経験したい恋愛。そして、目の前にあるのは、自らが理想とする恋愛を描いた甘く切ない物語。このような経験ができたのならば、或いは、他はどうなっても構わないと思うだけの強迫観念。

「……こんな風に……」

 残された時間を思うと、その空想は彼にとって、なにより現実的な手段となった。

 これ以外に無いと思えるだけの、絶対的で空想的な現実。

 ――――だから。

「……俺も、俺も本気で恋愛……恋愛がしたいんだよ……」

 段々と台本を見つめる眼差しが真剣になってゆく。

 描かれた全ては、彼が、今に居る世界で、永遠に叶わない夢。

 だから、彼は求めてしまう。偶像の先に待つ虚像へ。

 その思いは、既にこの世界を捨てに掛かっていた。

◇ ◆ ◇

 気付けば日が暮れていた。

 ギラギラと刺すような日差しを送っていた太陽も、既に西の空へ沈みつつある。耳喧しい蝉の音も、いつの間にか勢いを失い、辺りに響くのは夕焼け空を背景として、カァカァ、カラスの鳴き声。

「……喉、乾いたな」

 台本から顔を上げた彼の目に映ったのは、建物の合間に沈み行くオレンジ色。

 恐ろしいまでの集中力だった。未だに場所は公園のまま変わらず。腰掛けたベンチすらそのまま。時間にして凡そ九時間。これだけの時間を、けれど、彼は台本を見つめて過ごしていた。

 昼に散歩に来た近所の老人が、夕方にも訪れては、寸毫と変わらず佇むその姿を目の当たりとして驚いたほど。飲食はおろか、便所へ立つことすら忘れて、ひたすらに物語の世界へと没頭しているのだった。

 彼の中にあるのは、台本に描かれたアニメ。物語。

 それだけだった。

 例えば、夕食を共にするシーン。傍らに相手の姿を想定して、一緒に料理を食べる姿を妄想。自らの一挙一動は愛する彼女の為に。台本に示されたヒロインを脳裏に思い描いては、その人格を些末な癖や仕草に至るまで想像する。

 一連のシミュレーションは、既に精神病患者や基地外の領域。

 なんとしてでも、恋人を、恋愛経験を、自らの内に作るべく必死だった。

 脳内彼女こそが彼の唯一、心の拠り所だった。

「……松屋でも行くか」

 ただ、流石に辛くなったのか、重い腰を上げる。長らく同じ姿勢に腰掛けていた為か、立ち上がるに際して、コキリ、小気味良い音が腰から鳴った。ここまで長時間を一つのことに集中したのは、初めての経験だった。

 それでも胸中には、疲労にも増して、物語の世界だけが広がる。

「俺はリア充。俺はリア充、俺は絶対にリア充っ……」

 脳内では超絶可愛い彼女と、ヒロインと絶賛デート中の山田だった。

 妙な表情に夕暮れな道を歩む。

 しかしながら、例えデートの相手が妄想であろうと、舞台がこの世には存在しないファンタジーの世界だろうと、彼の人生とは邪魔されるものだ。酷く真面目な顔で妄想を続けるその下へ、凜として投げかけられる声があった。

「ほぅ。こんなところで出会うとは、大した偶然だな……」

「え?」

 耳の覚えのある声。

 何気ない調子に振り返った先、そこには見知った相手が立っていた。

「マジかよ……」

 胸に抱いた妄想も即座に吹き飛んだ。

 相手は昨晩にも出会った自称魔王。

 問答無用で火の玉を投げつけてきた、炎属性のロリータだった。

「まさか目の前で職を得るとは思わなかったからな。気にはなっていた」

 その手には近所のコンビニエンスストアに利用される白いビニール袋。どうやら買い物帰りらしい。立て続けに眺めた姿が現実離れしていただけに、今に眺める姿が酷く生活染みたものに思える。

 一昨日のワンピースとは一変、上下スウェットというラフな格好だ。まるで地方都市に多く見られる、安いチンピラ風情を絵に描いたよう。ただし、中身は年頃も一桁の白人少女であるからして、可愛らしさが先んじて立つ。

「な、なんでお前がこんなところで買い物帰りなんだよっ!」

「そりゃ吸血鬼だって血液以外のモノを口にしたくもなる。当然、酒もな」

「吸血鬼? なんだよそれ……もしかして、アホか? 中二病ってやつか?」

「なんだとっ!?」

 妙なことを口走る少女を眺めて、平素のままに答えてしまう彼。

 ならば、一方的にアホ扱いされて怒るのが魔王ロリータ。

「上等だ。この場で消し炭にしてくれるわ。この人間がっ」

「ビニール袋とか下げてると、迫力も八割減だよな。生活感あり過ぎだし」

「っ……」

 少女に対して惜しみない軽口を向ける彼だった。

 ただ、心中は決して穏やかでない。過去に二度も痛い目を見ている。まさか、真正面から喧嘩をして無事に済むとは考えていなかった。如何にしたら上手く逃げられるか。それだけが脳裏を締めている。緊張感も一入だ。

 なにせ相手は突風やら炎の玉やら、摩訶不思議な現象を味方にしている。

 そして、そんな彼の心情を知ってか知らずか、少女は怒りのボルテージを上げて行く。相当に自尊心が高い様子だ。ギュッと握られた拳は、今すぐにでも彼に殴りかかってきそうだ。

 というか、殴りかかってきた。

「殺すっ」

 短く呟いて、小さな身体が弾丸のように飛び出してきた。

「っ!?」

 気付いたときには拳が目前まで迫っていた。

 まさか避けることも叶わず、彼は頬に一撃を受けた。

「ふごっ……」

 情けない悲鳴と共に吹っ飛んでいく身体。

 かなりの勢いだった。足が地べたから浮かび上がったかと思えば、身を宙に浮かせたまま十数メートルに渡り歩道を移動。アスファルトの上を転がる羽目となった。

 不幸にして周囲に人の姿は無い。

 閑散とした住宅街の一角で、彼は無様に身を横たわらせるのだった。

 それでも台本を手放さなかったのは、素人童貞の執念が所以。

「……職持ちにしては手応えが無いな」

 対して、殴った側は意表を突かれた様子で相手を見つめる。

 追撃を掛ける意思はないらしい。どうやら、今の一発は牽制や様子見の意味合いで放たれたものらしい。過去に有無を言わさず火の玉を投げつけてきた経緯を思えば、一撃必殺とは程遠い打撃だろう。相当に手加減した上での一発であると窺えた。

「ってぇ……」

 数十秒ばかりだろうか。

 彼女の視線が向かう先、ゆっくりと山田が身を起こした。頬を摩りながらのこと。どうやら無事であった様子。かなり豪快に吹っ飛んで思えるが、肉体的な損傷は窺えない。殴られた頬も何ら変化を見せない。

「いや、それなりに頑丈にはなっているのか」

 ニィと少女の口元が怪しく歪む。

「障壁の類いは感じられなかった。となると、考えられるのは身体強化か」

「こ、この野郎、マジで殴りやがった……」

「思い当たる職と言えば、戦士や大工といったあたりが無難だが、他の職の可能性も否定はできないか」

 なにやらボソボソと呟いている。

 見つめる視線は相手を品定めするよう。

 やはり、十分に手加減をした上での一撃であったらしい。

「お、おいこらっ! ふざけんなっ! ただでさえ痣だらけなのにっ!」

「どこが痣だらけだ。赤みすら帯びていないだろうが」

 互いに距離を置いていがみ合う。

「はぁ? お前こそどこに目玉つけてんだよ。この青あざが見えないのかよ」

 自らの顔を人差し指に指し示しながら叫ぶ彼。一昨日のこと、クラブで黒人店員に殴られて出来た痣を指しての話だろう。左目の全体を覆うだけの、なかなか大きな跡であった筈だ。

「見えないな。お前こそ目玉を修理に出してこい。このめくらが」

「んなっ……」

 しかし、これを少女は一刀の下に両断だった。

 彼女の言葉はどこまでも正しくて、その実、既に彼の顔面からは、青痣が失われていた。いつの間に治ったのか、当人にしては、長らく鏡を見ていない為、まるで気付いていなかった。ついでに言えば、失われた前歯三本さえ復帰している。

「せいぜい派手にのたうち回るといい」

「このっ……」

 自らの足に立ち上がった山田は、如何にして現状を逃れるべくか、必死になり考える。しかし、どれだけ考えても良い案など浮かばない。背を向けて逃げ出した時点で、次の瞬間には燃えている自らが想像できた。

 絶体絶命のピンチ。

「ふ、ふざけんなっ! このクソガキっ! 犯すぞちくしょうがっ!」

 故にキレた。考えるのも面倒になった残す寿命三ヶ月だった。

 昨今、こういった出来事ばかりが続いて、色々と一杯一杯な彼だろう。

「はっ、できるものならやってみろっ!」

「上等だ畜生っ! ぜってぇブチ犯すっ! 素人童貞なめんなっ!」

「なんだ、その歳で童貞か? ハッハハハハ! 笑わせてくれる!」

「うるせぇっ! お前で卒業してやるっ。この、クソっ、クソォっ……」

 憤りも最高潮。

 今度は彼が先んじて仕掛ける。

 もう、どうにでもなれとばかり、破れかぶれの特攻だった。

 考えるのが面倒になったのだろう。短絡的かつ刹那的な反応だった。

「うぉおおおおおおおっ!」

 十数メートルの間隔を駆け抜けて、振り上げた拳を少女の頬へ向ける。喧嘩など滅多で無い彼だ。他者に暴力を振るうなど、幼少時期のそれを除けば、生まれて初めてと言っても不都合無い。

「なかなかの勢いだが、相手が悪かったな」

 対して、これに少女は腕を掲げる。

 開かれた五本の指。手の平が向かう先は迫る相手。

 放たれたのはバレーボール大の火球だった。

「マジかよっ!?」

「その腕、吹き飛ばしてくれる」

「う、うぉおおおおおおおおおおおっ!?」

 今し方とは真逆の意味で悲鳴を上げる彼。迫る火の玉は大したものだった。轟々と音を立てて燃えさかるそれは、初見の相手にして必死の驚異。震え上がった心にズドンと恐怖を打ち込む。

 ただ、一度動き出した身体は急に止まれなかった。

 動き出した肉体は、火の玉へ向けて拳を進める。今に急制動をかけたところで間に合わない。振るわれた拳骨は、自ら火の玉を殴りつけるよう進んでいった。放たれた火球は、彼が向ける腕の軌道と見事合致していた。

 都合、腕は炎の中へ。

 やけくそ。

 咄嗟の進路変更も叶わない状況。無我夢中のまま突きだして、己の拳を炎の中へ埋める羽目となる。軌道を変える余裕も無い。自ら火球を殴りつける形だった。瞳に映るのは激しく燃え上がる炎の煌めき。

 確実に焼けた。そう思えるだけの光景。

「くそぉおあああああああああああっ!」

 ただ、それでも彼の肉体は止まらなかった。

 死ならば諸共の精神。全ては今に至る境遇が所以。

 無我夢中で繰り出された殴り込みは、火球に怯みながらも、全力、一直線に相手を目指した。色白な肌の柔らかな頬を目掛けて、せめて一撃を殴りつけんと、怒り任せに拳を突き進める。炎を殴りつける。

 結果、彼の願いは達成される。

 炎に触れて蒸発した腕。

 これは絶対。

 熱を感じる間もない、痛みを感じる間もない、ほんの僅かな出来事。

 本人すら気づけぬ間の出来事。

 けれど、次の瞬間には復帰している不思議。

 炎に燃えた肉体が、即座に元の形を取り戻して敵を捉える。

「なっ!?」

「ふざけんなぁぁぁぁぁああっ!」

 咆吼と共に、彼の拳は少女の頬を打ち抜いた。

 一度は消え失せた拳だ。炎に溶かされて、気化して、完全に消失した筈の肘から先。シャツの袖も同様。けれど、うなり声を上げた次の瞬間、姿を取り戻した五本の指は元来の在り方を取り戻す。ギュッと堅く握られて、少女の頬を穿つのだった。

「へぶっ!?」

「っしゃあああああっ!」

 一撃を与えるに同時、その小さな身体は吹っ飛んでいった。

 彼の拳骨が、彼女の左頬へ叩き込まれたのだった。

 十数メートルの距離を、宙に浮かんだまま飛んで行く魔王ロリータ。

 幾度もアスファルトにもんどりを打って、ようやっと転倒は収まりを見せた。これまでの圧倒的優位を思わせる姿勢を鑑みれば、酷く無様な光景だろう。これは打ち付けた山田にしても驚き。

 想定外の威力だった。

 それこそ罪悪感を覚えるほどである。

 ならば、次いで訪れたのは第三者からの声だ。

「な、何をやっているかぁああああああああ!」

 警察官だった。

 不運なことに、今し方の光景を巡回中の警察官が発見したらしい。

 キコキコ、自転車を漕ぎながらのこと。

 類い希なる不幸だろう。

 どこまでタイミングの悪い男だろうか。

 警察官は自転車に跨がった姿勢のまま、今まさに少女を殴りつけた彼に対して、目くじらを立てている。どうやら、状況を早合点したらしかった。加害者は彼。被害者は少女。世間を鑑みれば当然の判断か。

 児童虐待である。

「なっ!?」

 驚いたのは彼である。

 怒鳴られて身体を強張らせる。

 他方、警察官はペダルを勢い良く漕いで彼の下へとダッシュ。

「ちょ、ちょっと、俺は別にっ……」

「傷害罪だっ! 暴行罪だっ! 逮捕っ! 現行犯で逮捕するぞっ!」

 状況は決定的だった。

 拳骨に吹き飛ばされた少女と、吹き飛ばした彼。

 世の中、外見が全てだった。

「な、なんでそうなるんだよっ!」

 即座に山田は逃げ出す。

 少女の容態を気にする暇もなく、脱兎の如く場を後とするのだった。まさか、大人しく逮捕されてやる訳がない。言い訳など絶対に聞き入れられないだろう。そして、捕まれば残る三ヶ月の人生、自由すら失われる。

 それだけは絶対に避けなければならない。

「待てっ! 待ちなさいっ!」

 自転車に跨がり迫ってくる警察官。

 対して、暴漢は全力に場を後とする。

 それからしばらく、無我夢中で走り続けた彼は、早々に警察を撒いた。けれど、どれだけ走っても心は落ち着くことができなくて、延々と一帯を駆け続けた。

 無事に家まで辿り着いたのは、それから小一時間の後だった。

 自転車を振り切るまでの恐ろしい脚力は、けれど、逃げることに意識を奪われていた為か、禄に彼の意識を引かなかった。

 そして、自宅へ着いてしまえば以後、脳裏を占めるのは、一変して孤独、残された時間である。