金髪ロリ魔王ラノベ

第二話

 人間の感情とは、非常に面倒なものだろう。

 とある瞬間、どれだけ心が平穏であっても、些末な周囲環境の変化で、すぐに不安となってしまう。特に病気や怪我を負った者にしては顕著。大きな声で怒って見せたかと思えば、次の瞬間には泣いていることも日常の出来事。

 そして、これは山田にしても同様だった。

 見ず知らずのアニメ監督からアニメの台本を貰って以後、この一週間を彼は延々と自室に籠もり、憂鬱を抱えて過ごしていた。ベッドの上で毛布をかぶり、膝を抱いてガタガタと震えていた。

 その間、誰からも連絡は来ない。

 誰も彼を心配などしていない。彼の存在を意識していない。

 行ったのは唯一、アニメ監督から言われた台詞の練習。

 時給千五百円のバイト。

 自宅で台本を読み上げるだけの簡単なお仕事です。

 何かをしていなければ、不安で不安で押しつぶされてしまう。だから、ひたすらに物語へ没頭していた。キャラクターへ自己を投影していた。空想上の彼女と、脳内デートに勤しんでいた。

 どれだけ没頭していたかと言えば、担当キャラクターの台詞のみならず、同時に登場するヒロインに当てられた、割と大した量がある台詞。これを三日目の晩には全て覚えてしまうほどだった。

 自らの死を頭の外へ追いやる為、文字通り必死であった。

 毎晩三時間のノルマは遥かに超過していた。

「お前のことが、お前のことが、好きだっ……だから、さ、先に行けよ」

 幾度繰り返したか知れない台詞。

 それは自身を犠牲にして恋人を守ろうとする、担当キャラの最後の台詞。どれだけ口にしても、この文句だけが彼には理解できなかった。このキャラは今の口上を終えて数瞬の後、別のキャラに殺されてしまうのだ。ちなみに、その別のキャラの担当は、某天才声優中学生である。

 自らが置かれた状況を鑑みれば、どれだけの愛が胸にあったとしても、その命を投げ出してまで他者を庇うなど、絶対に有り得ないことだった。故に、台詞を口とする毎に、心の内へと鬱憤が溜まってゆく。

 自分には理解できない境地を文字に眺めて、嫉妬と怒りを募らせて行く。

「……ふざけんなよ。この話書いたヤツ、頭悪いんじゃないか?」

 そして、遂には脚本家へと愚痴をこぼし始める有様。

「……クソッ」

 他の台詞は彼なりに噛み砕くことができた。

 担当キャラクターは一重に言って不良。街のごろつきを思わせる、いわゆるチンピラ風情の男性。それがレギュラーキャラである女性との出会いにより改心してゆき、やがては、というストーリーだった。王道である。

「意味がわかんねぇよ……」

 ここ数日、最後の一文が納得できなくて、延々と引き摺っている。

 伊達に恋愛経験ゼロでない。

 そんなもの適当に流してしまえば良いではないかと、圧倒的大多数の声優は語るだろう。物語は物語、自分は自分。その間に齟齬が生まれるのは当然のこと。それを如何に上手く演じ上げるかが大切であって、自身を物語に納得させる必要などないのだ。そうそう簡単に趣味趣向を変えることなど不可能。

 けれど、彼はどうしてもそれができなくて、延々、悩んでいた。

 意地でもキャラクターと自分をシンクロさせたい馬鹿だろう。

 とは言え、今この瞬間に時間切れ。今日の午後から、問題のスタジオ収録が始まる。そろそろ出発しなければ、時間的にも間に合わない。前回は同時出演者に対して態度の悪さを指摘した彼だ。まさか遅刻など出来よう筈も無い。

「行くか……」

 短く呟いて自室を後とする。

 電車を乗り継いで、先週の同じ時間にも訪れた収録スタジオへ。

 時刻は午後三時五十分。

 予定した時刻の十分前。

 建物の玄関ホールを越えて、手狭い受付を抜けて、目的の一室へ。何気ない調子にドアノブへ手を伸ばしたところで、内側から聞こえてきたのは人の声。咄嗟、一歩を踏み出すに躊躇してしまう彼。指先はドアノブに触れる直前で止まった。

 ドア越しに聞こえてきたのは、他の声優たちとアニメ監督のやり取り。

「あの、か、監督、随分といきなりですね」

「本当にすまない。私の調整不足だ。大変に恐縮だが、今週はそのようになる」

「えっと、大丈夫なんですか?」

「ああ、絶対になんとかする」

「しかし、総集編ですか……」

「そうなると、仮に叩き台があったとしても、ほとんどアドリブですよね」

「そうなってしまう。本当にすまない」

「ま、まぁまぁ、いいじゃないですか。私、そういうのも楽しくて好きですよ」

「そうだな。なっちまったものは仕方ないよな」

 何やら不穏なやり取りであった。既に到着していたらしい監督こと髭ロン毛と、他の声優との間に交わされる言葉。少なからず問題が発生したと考えて良いだろう。声色はどれも深刻そうである。

 果たして門外漢の自分が部屋へ入ってもよいものか。

 ドアを開くに躊躇してしまう。

 すると、そんな彼の背中に声を掛ける者が一人。

「さっさと入ってくれない? 後がつかえているのだけれど」

「お、おぉうっ!?」

 先週にも口論を重ねた相手、天才声優少女だった。両手を腰に当てて、ツンと澄ました表情をしている。相変わらず他者を寄せ付けない尖った雰囲気。傍目に酷く不機嫌に映る姿だろう。

「まったく、このグズは」

 彼女は彼の脇を抜けて、部屋へ続くドアを押し開く。

 ならば室内から二人に対して一様に向けられる視線。

 誰にも先んじて声を掛けたのは監督だった。

「おぉ、二人とも一緒だったのか」

「冗談を言わないで欲しいわね。キモオタが部屋の前で盗み聞きしていただけよ」

「ちょっ……」

 容赦なく言い放つ少女に彼は大焦り。とは言え、事実なので否定することも叶わない。無駄に罪悪感を感じてしまう小心者。対して語った側は、良い気味だわ、意地の悪そうな笑みを一つ。

 ただ、髭ロン毛はこれに動じた様子も無く、平素からの調子で答える。

「ならば話は早い。聞いての通り、今回の収録は台本を変えることとなった」

「は? どうしてよ?」

「全員が揃ったようなので、もう一度、その当たりを説明しようと思う」

 二人が部屋の中へ歩み入ったことを確認して、監督は厳かに口を開いた。

 話は単純なものだった。次週放送の為の動画が出来ていないので、今日は本来の台本を止めて、別の台本で対応するとのこと。またこれに伴い、地上波での放送予定も一週を繰り上げになるとのこと。

 非常に珍しい話だった。

 門外漢の彼を除いては、誰もが驚きを隠しきれない。表面的には監督を立てる形で言葉を交わしている。けれど、想定外の出来事を受けて、皆々、互いに視線で不安を共有しているようであった。

「そういう訳で、今日はこれまでの総集編となる」

「それで大丈夫なの? あぶれた一話分はどうするのよ?」

 率先して疑問を口としたのは天才声優少女。

 こういう時は便利な存在だろう。

「厳しい状況ではあるが、なんとかする。私を信じて任せて欲しい」

「……ふぅん」

 酷く真面目な眼差しで相手を見つめる髭ロン毛。

 これを受けては、プイと、軽い調子に視線を外して語る少女。

「まあ、この作品がどうなろうと、私の知ったことじゃないけれど」

「お、おい、お前さ、ちょっと言葉が厳し過ぎるんじゃないか?」

 咄嗟、堪え性のない山田が脇から口を挟む。

「どうしてよ?」

「だって、お前はメインヒロインの一人じゃんかよっ」

「なら私やアンタが努力してなんとかなるものなのかしら?」

「いや、そうは言わないけどさ……」

 フォローに回った彼も一刀の下に切って捨てられた。

 言葉を拾うのは髭ロン毛自身だ。

「そういう訳だから、すまない、呼び出しておいて申し訳ないのだが、今日は君の出番を用意することができなかった。来週にもう一度、ここへと足を運んで貰えないか? もちろん、今日は見学していってくれて構わない」

「あ、あぁ、まあ、そういうことなら俺はいいけど……」

 すまなそうに言う監督を前として、大人しく引き下がる山田だった。

 無いものは無いのだから、吠えたところで仕方が無い。

 何より彼としては、心持ちの決まらないうちに、与えられたキャラクターへ声を当てることに抵抗があった。行幸と言えば行幸に他ならない。

「……んじゃまあ、少し見学してくわ。コイツもいるし」

「コイツって何よ?」

「お前に決まってるだろ? 馬鹿か?」

「こ、このキモオタは、本気で口が悪いわね……いい加減に殴るわよ?」

「だったらお前もキモオタ止めろよ。マジでむかつくし」

「そのぶっさいくな顔をなんとかしてから言いなさい。私は事実を指摘しただけよ」

「んなっ……」

「さてさて、それでは早速で悪いが、打ち合わせを始めさせて貰おう。一応、総集編としての形はラフに入れてある。声はタイミングを非常に緩くとってあるので、上手く繋げて今回は凌ぐ予定だ。それから……」

 そんなこんなで、彼の人生二度目の収録は延期となるのだった。

◇ ◆ ◇

 その日の収録後、山田紅蓮はスタジオ近隣の飲み屋に居た。

 名目上は新人の歓迎会。

 時刻は午後九時を多少ばかり回ったところか。始まったのが凡そ一時間前とあって、席を同じくする皆々も良い具合に酒が入っていた。

 足を運んだ先はと言えば、彼らが行き着けだという海鮮系の大衆居酒屋。テーブル席に十人ばかり並んでのことだった。他に客の姿も多い。なかなかの人気店らしい。

 ちなみに何故だか、未成年だろう少女の姿もある。流石にグラスへ注がれているのはウーロン茶であるが。

「ところで、今回はいきなりだったけど、君はどこから来たんだい?」

 席の近い男性が何気ない調子に彼へと訪ねた。爽やか系のイケメンである。

 話しかけられて即座、苦手意識と苛立ちを抱いたのはブサメンの宿命か。

「ど、どこって、どういうことですか?」

 答える彼は一応、敬語。髭ロン毛に対しては、既にタメ口を重ねてしまった手前、訂正するつもりもない。しかしながら、他の面々に対しては、その限りでもなくて、平素からの態度に受け答えをしていた。相変わらず妙な判断基準だろう。

「スクールだよ。それともオーディションから?」

「スクール? いや、俺は普通に大学生してるんだけど……」

「へぇ、大学生なのかい? それじゃあオーディションか」

「いや、別にオーディションとかも受けてないけど……」

「え? っていうと、どういう経緯で?」

「もしかして裏口?」

「裏口? なに、やっぱりそういうのってあるの?」

「本当っ!?」

 彼の言葉を受けて、周囲から好奇の視線が集まった。他の話題に盛り上がっていた者達もまた、話を止めて山田へと意識を向ける。都合、場の全員から一斉に注目される羽目となった。

 ちなみに、宴会の席に集まったのは声優が大半。他のスタッフは収録した音声の加工作業があるので、今日のところは徹夜で作業なのだという。監督もこれが終わり次第出戻りだそうだ。その出席は音響陣が是非行ってこいとの言葉の上である。

「あぁ、彼は私が勝手に誘ったんだよ」

「えぇ? 監督が?」

「本当ですか?」

「色々とあってね。まあ、良いように転んだと考えている」

 困窮する彼に髭ロン毛が救いを出す。

 この後の仕事を想定してだろう。卓上に置かれたグラスはウーロン茶。

「なるほど、そういうことなら今までの流れも納得かな」

「へぇー、監督からのスカウトなんてあるんだ」

「私も初めて聞きました。羨ましいなー」

 周囲からは感嘆の声があがった。

 他方、自らが置かれた立ち位置が普通で無いことを理解した山田は、どうにも居心地が悪そうに姿勢を正す。声優業界などまるで知識の無い一般人だ。多少は調べもしたが、本職を前にしては月とスッポンである。

「ふんっ、だったら早いとこ、そのどーしょもない声をなんとかするのね」

 周囲より遅れて、天才少女の呟きが響いた。

「う、うっせぇな。そんなこと言われなくても分かってるし」

「本当? 今日など逆にホッとしたんじゃないの? 収録が無くなって」

「ぐっ……」

 図星を突かれて返す言葉の無い彼か。

 実はまさにそのとおり。

 他方、少女が口を開いたことで、周囲の声優は言葉を控える。どうやら、こういった席へ彼女が出席するのは、非常に珍しいことのようだ。故に会話の雛形が存在しないらしく、自然と立場の弱い側が黙ることとなる。

 とは言え、そんなこと知ったこっちゃないのが山田だ。

「言っておくけど、一週間やそこら練習して上手くなれるものじゃないわ。何年も苦労を重ねて、初めて人並みに声を出すことができるようになるの。その間に喉を壊して消えていく人間も多いわ。それを理解した上で努力なさい」

「そ、そんなこと、言われなくたって理解してるわ」

「口だけは達者ね」

「それが口で商売しているヤツの言う台詞か? 大した褒め言葉だろ」

「上手いことを言ったつもり? 下らないわね」

 自分より遥か年下の相手に偉そうな口を叩かれて、カチンと来たらしい。

「っていうか、やっと喋ったかと思えば、いきなり空気壊してんじゃねーよ。もう少し周りに気遣いとかできないのかよ? そんなんじゃ声優として成功しても、全然、人生楽しくならねーぞ?」

「べ、別にいいじゃないっ。そんなの私の勝手よっ!」

「だったら周りを巻き込むなよ。俺はまだしも、他の人達が迷惑だろが」

「ぐっ……」

 相手が中学生なのを良いことに、論点を変えて叩きに向かう大学生。

 酷く大人気ない。

「なんでアンタにそんなこと言われなきゃならないのよ」

「そりゃ同じ職場で仕事してるんだから、不満だって口にして当然だろ」

「何が職場よ。下っ端のくせに。だったら先輩に酌の一つでもしたらどうなの?」

「ジュースしか飲めない奴が偉そうに言うなよっ」

「なんですってっ?」

 売り言葉に買い言葉、二人のやり取りは妙な方向へと突き進んでいった。

「上等よ。そこのヤツを注ぎなさい」

「いや、駄目だろ。中学生なんだから」

「いいから注ぎなさいっ!」

「子供がいきなり日本酒なんて飲んだら、喉とか痛めるかもしれないぞ?」

「っ……」

 至極まともな山田の物言い。

 流石の少女も返す返す言葉に躊躇する。

「大人しくジュースでも飲んでろよ」

「こ、この、少しばかり老けてるからって、上から偉そうに……」

「悔しかったら早く大人になってみせろよ」

「ふん、将来性の微塵も感じられないアンタが言うと、自虐にしか聞こえないわね」

「っ……」

 何気ない少女の言葉に、ズキン、胸を痛める山田。

 言った側にしては、とても些末な軽口だろう。けれど、受けた側にしては、今まさに直面している非常に大きな問題。思わず、ドクン、心臓が大きく高鳴るのを感じていた。一瞬、ギュッと拳を堅く握ってしまう。

 けれど、まさかそれを口に出来るはずもない。

 努めて平静を保つよう、必死に冷静を装う。

 でなければ、例え女子中学生が相手でも、その顔を殴り付けてしまいそうになる。こればかりは、どうしようもない衝動。何気ない日々の生活の端々に、意識して止まない自らの終わりだった。

 そんな山田の変化を感じ取ったか否かはしれない。

 ただ、脇より彼を掬い上げるよう、言葉が向けられる。

「なんにせよ、彼にとっては初のことだ。皆、良くしてやって欲しい」

 髭ロン毛だった。

「ま、まあ、監督の肝入りとあっちゃあ、応えない訳にはいかないよな」

「ええ、そ、そうよね。一緒に頑張りましょう?」

「これからの収録、よろしくね?」

 場を取り繕うよう、他の先輩声優たちが言葉を続けて、ひとまず、状況を収束させるのだった。新人の癖して他人に迷惑を掛けてばかりの山田である。周囲の焦り調子を目の当たりとしては、自然、彼自身も肩を狭めざるを得なかった。

「す、すんません……」

 素直に頭を下げて応じる。

「さて、それではココで一つ、私が持ちネタを披露するとしよう」

「おぉっ、監督、あれをやっちゃうんですかっ!?」

「あ、見たい見たいっ!」

 以後、取り立てて場は崩れることなく、穏やかに過ぎていった。

◇ ◆ ◇

「俺、なにやってんだろ……」

 その日、収録の見学と歓迎会を終えた山田は、一人で帰路を歩んでいた。

 時刻は深夜零時を回った頃合。

 飲み屋を後とした彼は、三度ばかり電車を乗り換えて以後、自宅へ続く道をトボトボと歩んでいた。周囲に人の姿はない。物静かな住宅街の一角。耳に響くのは、ジージジジ、どこからともなく聞こえるオケラの音くらいなもの。

「……本当、どうすんだよ、俺は」

 一人になったことで、また、むくむくと首を擡げる死への恐怖。

 急速に気が滅入っていく感覚。

 ガン患者に対する精神安定剤の投与は一般的だ。それも世に溢れる鬱病と比較して、比較にならない量が継続して与えられる。それくらい、自らの死を前としたとき、現代人の精神は脆い。

 彼の杞憂もまた当然だった。

 むしろ薬剤に頼らず、紛いなりにも日常生活を送れているだけ、タフだと言える。

「畜生っ、死にたくない、死にたくないっ……」

 歩きながら漏れる声は、既に幾度を繰り返したかしれない嘆き。

 ならば、そんな彼の背に向けて放たれたのは、先週にも耳とした響き。

「まさか再び同じ場所に出会う機会を得ようとはな」

「え?」

 振り返った先、そこには魔王ロリータが立っていた。

 しかも先週と同じ出で立ち。上下スウェットにコンビニの袋を下げて。

「げぇえっ、な、なんでお前がまたっ!」

「この出会いに感謝するとしよう。先週は随分と世話になった」

 語る魔王ロリータは元気が良かった。どうやら、彼を見つけて少なからず喜びを得ているらしい。ただし、その表情は酷く攻撃的。キラリ、長い犬歯を晒して、歪な笑みを浮かべている。今にも飛びかかってきそうだ。

「っていうか、またそんな格好かよ。どこの田舎のチンピラだよ!」

「黙れ。私がどんな格好をしていようと私の勝手だ」

「ちゃんと洗濯とかしてるのか? なんか、そのズボンの裾のところにあるシミ、前にもあった気がするぞ。全体的に色がくすんでるみたいだし、パッと見てホームレスっぽくないか?」

 ホームレスは流石に言い過ぎ。

 過去の邂逅を思い起こして、自然と言葉は辛辣なものになっていた。

 ただ、シミの指摘に関しては事実である。

「なっ……」

「近づいたら臭うんじゃね? なんか脇の下とか色変わってるし」

「う、うるさいっ! これは汗だっ!」」

「じゃあやっぱり臭いんじゃん」

「汗っかきなんだよっ! いちいち人の体質に文句を言うなっ!」

 とりあえず時間を稼ごうと考えた彼だ。適当に軽口など叩きつつ、周囲の様子を窺う。ただ、時間帯が時間帯であるからして、人通りは皆無。二人の他に通行人の姿は見当たらない。

「それに洗濯くらいしているっ! ぶち殺すぞっ!?」

「なんでそんなに焦ってんだよ? まさかマジで洗ってないのか?」

「違うっ! これは風呂に入った後、ちょっと外へ行くときに少し着るだけだから、まだあんまり着てなくて、だから、ちょっとは洗ってないんだよっ! それに、お前の顔の方がよっぽど汚いだろうがっ! この不細工がっ」

「ちょっとは洗ってないってなんだよ?」

「ちょ、ちょっとはちょっとだっ! そんなことも理解できないのか? あぁ?」

「服を洗濯しないヤツって、だいたいそういう意味不明な言い訳するよな。この糞暑い季節に一週間も洗濯してないとか、マジ汚物だろ。汚ギャルでもやらねーよ。臭うから近づくんじゃねーよ。ばっちぃな」

「なっ……」

 結果、時間稼ぎのつもりが、想定以上に話題は発展。

 瞬く間、相手を怒らせる羽目となる。

「上等だ、この人間風情がっ!」

 ドシャリ、手にしたビニール袋を地べたへ落として、怒りの表情がままに身構える魔王ロリータ。口の開いた袋からこぼれ出てきたのは、生ハム、ベビーチーズ、チョコレート、そして、ブラックニッカのボトル。酷く親父臭い。

「職を確認してからとも考えたが、面倒だ、このまま殺してやる」

「っていうか、その職ってのはなんだよ。昨日も言ってたけど」

「そんなことも知らないのか? おめでたいヤツだな」

「わ、悪かったなっ!」

「だが今更だ。知る必要など無い。お前はこの場に死ぬのだからな……」

 ボゥと音を立てて、少女の傍らに巨大な火の玉が浮かび上がる。直径一メートルほどの空飛ぶ火球だった。メラメラと激しい音を立てて燃えている。その輝きに照らされて、周囲が幾らばかりか明るくなった。

「ひっ……」

 これを目の当たりとしては、彼も続く言葉を失う。

 思わず一歩を後ずさる。

 先週にも経験した出来事ながら、決して慣れることは無かった。

「死ねっ」

 少女の腕が振るわれる。宙に浮かんだ火球が、彼を目掛けて打ち出される。前回は振り上げられた腕を目掛けていた。しかしながら、今回は胴体を目指してのこと。数瞬の後には消し炭必至。

 けれど、炎が放たれて瞬間のこと、不意に脇より救いの手が一つ。

 どこからともなく飛んできた剣が、火球をドスっと突き刺した。

 応じてズドン、轟音を立てて爆発。

 周囲一帯に爆風が吹き荒れた。まるで爆弾でも爆発したようだろう。

「うっぉおおおっ!?」

 後方へ吹き飛ばされて尻餅をつく臆病者。

 その間にどこからともなく現れて、少女と彼との間に立つ者が一人。

「ったく、やっと見つけたぜ。こんなところに居たとはな」

「貴様っ……」

 耳に覚えのある声だった。

 土煙の収まった後、山田の見つめる先に立っていたのは、彼と同年代の男性。

「三日ぶりってところか、魔王」

「しつこい男だな……」

 例の勇者を自称する青年だった。

「こんなチャンス、まさか逃して堪るかよ」

「黙れ下種が」

「歴代二位と称される魔王が、人の世に紛れてしのぎを削るほどに弱り、この手の届くところに居るんだ。お前を打倒して、俺は更なる高みを目指す。勇者の次が何なのか、お前も気にならないか? 俺は気になって気になって夜も眠れない」

「はっ、下らない。何度を返り討ちにされれば自らの無様を理解するのか」

「最悪でも引き分けと言って貰いたいんだけどな?」

「何が引き分けだ。傷つくことを恐れる、逃げてばかりの臆病者が」

「いいや、今度は絶対に勝つ。勇者の名にかけてな」

「上等だ。そのちんけな誇り、この場にへし折ってくれる」

 山田へ向けていたにも増して、激しく怒りを顕わとする魔王ロリータ。

 対して、これを受ける自称勇者な青年は涼しげな態度だ。

「口だけならなんとでも言える、さっさと決着を付けるようじゃないか」

「黙れ小僧が。殺す、絶対に殺してくれる。貴様など今の肉体でも十分だ」

「なら見せてくれよ。伝説に残る魔王の力とやらを」

 どうやら二人は、決して浅くない仲の喧嘩友達らしかった。拳を交えた回数も一度や二度では無いように思える。全ては門外漢の彼にしても、傍目に理解できるだけのやり取りである。

 そして、早々、互いに凶器を交え始める。

 火球やら剣やらが、二人の間を飛び交い始めた。

「な、なんだよ、コイツら……」

 山田はすっ飛ばされて尻餅をついた先、ゆっくりと身を起こした。

 大慌てに自らの身体を確認する。取り立てて怪我らしい怪我はしていなかった。多少ばかり目が回った限り。それも数秒の間に元の調子を取り戻す。アスファルトの上を十数メートルに渡り転がったにしては、とても希有なことであった

「っていうか、意味が分かんねぇよ……」

 言い合う二人を目の当たりとして、さぁ、どうしたものか。

 彼の主観からすれば、敵は魔王ロリータ。味方は勇者イケメン。

 前者には二度ほど痛い目に遭わされている。他方、後者には二度ほど危ういところを助けられている。幾ら彼が女に飢えているからと言っても、判断は狂わない。

 ただ、敵味方を判断したところで、彼には何も叶わない。

「……このまま、逃げるか」

 それこそ先週のように。警察でも来てくれれば、とは切なる願い。

 けれど、前回のように上手くはいかなかった。

 彼が踵を返さんとしたところで邪魔が入る。

「逃がすかっ! お前には確認したいことがあるっ!」

 いざ逃げ出さんとした彼の足下を狙い、炎の玉がすっ飛んできた。つい先週にも彼の腕を焼いた代物である。当人には焼かれたという意識は皆無。けれど、間違い無くその肘から先を一度は奪った驚異である。

 それは山田の手前数十センチの位置に着弾。ドンと小さな爆発を起こした。

「うぉええっ!?」

 堪らずその場に飛び上がる山田だった。

 他方、二人の喧嘩は軽口と共に継続中。

「おいおい、余所見してる暇があるのか?」

「力を封ぜられていようと、一介の勇者ごときに遅れなどとるものかっ!」

「なら示して貰おうかっ」

「だまれクズがっ! 貴様のような下種に構っている暇などないっ!」

 魔王ロリータと勇者イケメンの喧嘩は変わりなく続く。互いに剣やら炎やらを交え合いながらのこと。ハリウッド映画も真っ青な光景が、夜の住宅街の一角に展開されていた。凡そ現実の出来事とは思えない。

「なんだよコイツら、どんだけだよ……」

 先週にも同様の感慨を抱きながら、けれど、努めて無視していた彼である。

 しかし、こうまで立て続けに示されては、流石に無碍ともできない。

 否応無く意識は摩訶不思議な現象へと向けられた。

 明らかに人間の範疇を逸脱して思える二人の挙動である。足下へと視線をやれば、火の玉が当たった場所は、アスファルトが砕けて、数十センチばかりが掘り下げられていた。周囲より色濃く映るのは土が見えているからだろう。縁は熱に歪んで、ドロリ、解けていた。

 魔王ロリータは山田に意識を向けると、殊更に大きな声で叫ぶ。

「この近隣に職を発現したのならば、お前も一度はヤツと出会っているんじゃないのかっ!? その所在、この私の力を封じた相手、絶対に喋って貰うっ! やっと、やっとここまで苦労して辿り着いたのだからなっ!」

「い、意味が分かんねーよっ! ヤツってなんだよっ!?」

「占い師だ。まさか、知らないとは言わせないぞっ!」

「占い師?」

「そうだっ、あの忌々しい女のことだっ!」

 魔王ロリータは勇者イケメンとの喧嘩の合間、山田に向かい吠える。

「あ、あぁ……そう言えば、前に変なヤツに声かけられたような」

「やはり知っているのだなっ!? 私をそこまで案内しろっ!」

 絶えず投げつけ打ち付けられる数多の剣を交わしながらの発言である。この事実を受けて、喧嘩相手は酷く悔しそうな顔つきとなる。青年もまた彼女より放たれる火球の連打に難儀していた。

 傍目に眺める限り、共に決して手を抜いている風には思えない。

 故に恐らくは、少女が青年より幾らばかりか技量が上なのだろう。それが今に山田へ言葉を投げかけるだけの余裕に繋がって思える。

「な、なんで俺がお前なんか案内しなきゃならないんだよっ! っていうか、都内にどれだけ占い師が居ると思ってんだよっ! やっぱりお前って馬鹿だろっ!? すっげぇ馬鹿なんだろっ!?」

「ば、馬鹿だとっ!?」

「そもそも、んなこと言われて誰が案内なんてするかっ! このクソガキっ!」

 先週に山田を逃したことが、彼女の中で大きな失態となっているのだろう。今度こそは逃がさんと意気込む様子が強く窺える。

 他方、吠えられた側は何が何やら。過去の理不尽を棚に上げて、一方的に押しつけられる面倒に憤怒の声を上げる。流石の彼も黙っていることはできなかった。

「上等だ。両手両足を落としてでも案内させてやるっ!」

「誰が案内なんてするかクソガキっ! して欲しかったら土下座しろ! 土下座!」

「だれがするかっ! 力尽くで吐かせてやるっ」

 魔王ロリータの勢いは大したものだった。大きく開いた瞳に相手を睨み付けてのこと。件の占い師とは、よほどに執着している相手なのだろう。勇者イケメンとの喧嘩の最中にありながら、意識は大半を彼に向けて止まない。

 これに苛立ったのか、自らを主張するよう、大きく声を挙げる青年。

「勇者を舐めるなよっ、魔王っ!」

「ぬかせっ! 職に守られただけのガキが偉そうにっ!」

「ぐっ!?」

「このまま焼き殺してやる」

 魔王ロリータの放つ火球が勢いを増す。一秒間に数発という勢いで連射。対する勇者イケメンは、これを手にした剣でいなす。切っ先が見えないほどの勢い。前者の優勢が殊更に色濃くなる。

 更には足下を狙って立ち上がる炎の壁。

 ズドンと火薬でも爆発させたような音を立てて、燃えさかる火柱が足下から勢い良く生える。これを青年は危機一髪、咄嗟に後ろ飛びで回避。立て続けに立ち上がる火柱を必至に避け続ける。恐ろしい瞬発力だろう。常人であれば焼かれていたに違いない。

「くっ……」

「そらそらそらっ、逃げねば焼け焦げてしまうぞっ!」

「誰が魔王如きに焼かれるかっ……」

 青年の顔には苦悶。そう長く持ちそうになかった。

 けれど、ここへ来て状況は更に一転する。

 両者の争う場へ向けて、どこからともなく包丁が飛んできた。

 ドスン、妙に大きな音を立てて、それは少女の足に突き刺さる。丁度、甲を貫通して右足を地べたへ縫い付ける形か。一歩を踏みだそうとしていた彼女は、バランスを崩してよろめく羽目となる。

「なっ……」

 蒼色の瞳が自らの足下を見つめて大きく見開かれた。

「ようやく見つけたぞ吸血鬼。このような静寂のなか、力を振るうとは愚かなり。まさか、私がその後を追っていないとでも考えたか? だとすれば、なんと笑える阿呆だろうか。その肉、この私が貰い受けたっ!」

 声が発せられる下、立っていたのはエプロン姿の男性だった。

 身長二メートルを超える巨漢。更にはエプロンを腰に巻き、数十センチのコック帽を被っている。おかげで夜の闇に浮かび上がる姿は、十数メートルの距離を置いても、ハッキリと感じられるだけの威圧感を放っていた。

 服の袖から覗く色白い肌や、金色の髪、彫りの深い顔立ちから、欧米人と思われる。年の頃は二十代後半から三十代前半。野太い声が力強く響く様子は圧倒的。ダンディズム溢れるイケメンだった。

「きっ、貴様はあのときのっ……」

「股肉、胸肉、脇肉、尻肉、頬肉、心臓、肝臓、膵臓、腎臓、大腸、小腸、胃、脳味噌、骨格、全ては我が料理の為に存在すると知れ。なればこそ、その全ては我が一振りの下に皿へと並べっ!」

 結果、新キャラの登場で混乱するのが、門外漢の山田である。

 少女と青年だけでも一杯一杯。更には場違いな調理服姿の大男まで現れて、どうしたものか、疑問に声を発することさえできない。まるで状況が理解できなかった。正直、話を追うのが面倒になってきたくらいだった。

 なにより大男の一連の発言内容は、まるで状況を説明していない。

 まるで焼き鳥屋に串焼きを注文するが如く。

「誰が貴様などに食われるかっ!」

「断じて否。食うことが目的では無い。我が目的は調理を行うことだ」

「そんなこと知るかっ!」

 コックの言葉に対して、反射的に吠えて応じる魔王ロリータ。

 非常に猟奇的なやり取りだった。

 これを受けては勇者イケメンも驚愕。新たに出現したコックを前として、攻め手も止まる。魔王ロリータを攻める脇、外野から不意を喰らうのを恐れてのことだろう。距離を置くよう大きく飛び退いて、油断ならない表情に場を見据える。

 その耳は少女とコックの会話へ、一心に向けられていた。

「吸血鬼の肉、是が非でも手に入れさせて貰う」

「クソっ、調理人などと面倒なっ! 料理人ならばどうにでもなったものをっ」

「食材っ! あぁ、我が食材っ!」

 コックが地を蹴って駆ける。

 どうやらエプロン姿の大男は少女の敵であったらしい。

 一方、魔王ロリータの発言を耳として驚くのが勇者イケメン。驚愕に瞳を見開いて、彼女に対するコックへと意識を向けていた。今の今まで少女に見せていた威勢は、完全に吹き飛んで思える。

「調理人……まさか、あの調理人か?」

 表情は驚きと恐怖に固まっていた。

 調理人という単語の示すところを理解しない山田にしては、青年が何に対して驚いているのかサッパリである。けれど、その顔つきは決して嘘や演技には思えなくて、混乱を激しくする。

 勇者だの魔王だの吸血鬼だの調理人だの、妙な単語の連打に困惑だった。

 けれど、状況は彼の理解を待ってはくれない。

「くたばれっ! そして、我がまな板の上に踊れっ!」

「ちぃっ」

 コックが腕を振るう。

 応じて、包丁やらお玉やら、まな板やら、様々な調理器具がエプロンの下から飛び出した。それらは凄まじい勢いで少女の下へと飛び向かう。まるで拳銃より放たれた弾丸のよう。目に追うことすら難しい有様。

 魔王ロリータはこれを、ギリギリのところで回避。

 外れた驚異は、ガツンガツン、大きな音を立てて彼女の背後、地べたへ深々と突き刺さった。包丁や擦り棒など、先のある程度尖った長物にしては納得もゆく。けれど、お玉やら中華鍋やらの突き刺さる様子は山田も驚愕だった。

 そもそもどこに隠し持っていたのかと。

「お、おい、コイツって……」

 闇夜にきらめく数多の包丁。

 ふと山田の脳裏に蘇ったのは、数日前、歌舞伎町の路地裏に眺めた光景だ。

 コンクリートの壁に打ち付けられた少女の姿と、その肉体を串刺しにした包丁の数々。その一つ一つを汗水垂らして抜いたのは、記憶に新しい出来事であった。

 まさか、無視するには難しい関連性。

 もしかして、魔王ロリータがやられた相手は、このコックではないのかと。

 山田があれやこれやと考えを巡らしている間にも、少女と大男とは喧嘩を始める。やられてばかりではいられないと、数多の火球を飛ばす魔王ロリータ。これをコックは大柄な体格からは想像できない俊敏性を発揮して、全て華麗に避けきる。

 相手から距離を取らんと遠距離から攻める少女に対して、なんとか相手の懐へ入らんと攻めるコックの図だった。前者にしては勇者イケメンと争っていた際と比べて、随分と余裕の無い表情をして思える。

 だからだろうか、これまで少女の喧嘩相手を務めていた青年は、自身が場から流されたと理解して非難の声を上げる。

「お、おいっ! 俺を無視するなっ!」

 けれど、そこから先、一歩を踏み出すことが叶わない。どうやら、エプロン姿の大男に恐怖を感じているようだった。手にした剣を構えて、構えたまま視線の先に佇む相手を睨み付けるばかり。

 青年にしても、コックは大した驚異であるらしい。

 そんな具合だから、事情を知らない山田にしては、何が何やら。

「おいこらっ! なんだよこれっ! い、意味がわかんねーよっ!」

 声を荒げて疑問を口にするばかりだった。

 もちろん、これに応える者はいない。

 彼の眺める先、魔王ロリータとコックは喧嘩を激しくさせるばかり。

 今し方までの争いと比較して、尚のこと凄まじい一戦が始まった。

「ぬぅんっ!」

「っ!?」

 地を蹴って駆け出したコックの急接近。相手の隙を突いて間合いを詰める。

 拳が少女の頬を捉えた。

 咄嗟に首を傾げて回避する魔王ロリータ。しかし、僅か拳骨の掠った限りにあっても、その頬肉が吹き飛ぶ。真っ赤な鮮血とピンク色の肉を飛ばして、頬骨を砕くほどの一撃であった。

 夜の暗がりの下、遠巻きに眺める山田にしては、黒い飛沫を眺める限り。しかし、何が起こっているのかは、少なからず推測がいった。あまりに日常とはかけ離れた光景に、続く言葉も無い一般人だろう。

「ちぃっ……」

 けれど、そうして吹き飛ばされた頬も、次の瞬間には元通り。

 何が起こったのか、頬はおろか歯までもが砕けていた片顔。だと言うに、患部から僅かばかり煙が立ち上ったかと思いきや、数秒のうちに元あった色白で艶やかな肌を取り戻していた。

「素晴らしいっ、素晴らしいぞ吸血鬼! 是が非でも生きたまま調理したいっ!」

「誰が捌かれてやるものかっ。この下種がっ!」

 今度は少女が腕を振るう。

 けれど、それをコックは軽い身のこなしに避けてみせる。酷く何気ない調子での行い。少女の焦り混じりな様相と比較しては、圧倒的な余裕として映る。両者の間には絶対的な力量差が存在しているようであった。

 勇者イケメンを相手にしている時とは雲泥の差である。

 以後もコックが腕を振るう毎に、少女の肉体のどこかしらが吹っ飛んだ。例えば腕であったり、股であったり、頭部であったり。そして、都度に小さな身体は癒やされて、元在った形を取り戻す。

 どうやら調理器具による演出は最初だけらしい。以後は延々、自らの肉体を用いて殴りにかかる大男だった。巨大な体躯に似合わない素早さは、ちょこまかと動き回る少女を的確に叩いて行く。他方、少女の放つ拳やら火球やら火の壁やらは、多少掠ることはあっても、一度として当たらない。

 これを受けては門外漢の山田に同じく、勇者イケメンも閉口。

 黙って様子を眺める限り。

「その腕、貰った」

 コックが吠える。

「っ!?」

 グイと伸ばされた手が、少女の腕を肘の辺りで五指に掴む。

 応じてゴキン、ブチンと鈍い音が響いた。

「……ぐっ」

 関節が外れて、更には肉を繋ぐ筋までもが分断されて、肘から先が身体から引きちぎられる。裂けた皮膚の合間より勢い良く血液が噴き出す。まるで小さな噴水のよう。夜空の下に黒い影を虹と伸ばした。

「ふ、ふふふっ、手に入れた。手に入れたぞっ!」

 自らの手中に収まった少女の腕を眺めて、コックが声も大きく言い放つ。

「これがっ! これが吸血鬼の肉かっ!」

「クソっ、力さえ、力さえあれば……こんな下種に」

 目当ての肉を手にしたことで、コックが動きを止める。

「前の晩は惜しいところで逃したが、しかし、私は遂に手に入れた!」

 魔王ロリータは勢い良く背後に飛び退き、相手から距離を取った。その間にも、引きちぎられた腕は自然と治癒されて、元在った形を取り戻す。しかしながら、コックの手中に収まった腕は依然としてそのまま。

 ギンとつり上がった蒼色の目は、憎々しげに巨漢を睨み付ける。

「こんなヤツにまで依頼を出すとは、騎士団の連中も堕ちたものだな……」

 口から漏れたのは、得体の知れない愚痴だった。

「ああ、彼らには感謝だろう。素晴らしい機会をくれたものだ」

「クソっ……」

「これは新鮮なうちに味見、味見をせねばなるまいな。んむ……」

 何を考えたのか、手にした少女の腕を口に運ぶコック。未だ傷口から血液をドロドロと溢れ出すそれに、躊躇無く舌を這わせるのだった。いや、舌を這わせるに限らない。大きく開いた口に、がっつり肉を咥え引きちぎる。

 ブチブチと筋の類いを引きちぎり、一握りほどの肉塊を食い千切る。

「ひっ……な、なんだよアイツ……」

 これを目の当たりとしては、山田も閉口。無意識のうちに一歩を後ずさる。明らかに普通じゃ無い相手と認識して身を震わせるのだった。絶対に近づいてはいけないタイプの人間だと、彼にも容易に理解できた。

 数年に一度現れては、犯罪者名鑑に名前を連ねる類いの人格だろう。

「これが、調理人……」

 彼の他、勇者イケメンもまた、コックの姿に唖然としている。

 どうやら非日常の只中に立ち回る者であっても、その存在は異端であるらしい。

「これは美味。なんたる美味。同じヒトガタとは思えない美味っ!」

「クソっ、この変態が……」

 ぐっちゅぐっちゅと肉を頬張り、咀嚼しながらの感想。口周りは血液に濡れて赤色にべったり。とても嬉しそうに満面の笑みを浮かべてのことだった。相当に旨いものを食べなければ、こうまでも聞きとして語ることはないだろう。

 魔王ロリータの肉は非常に美味しいらしい。

 一頻りをモグモグとやって、口の中に溢れたものを飲み込むコック。

 真っ白なエプロンは赤の斑点だらけである。

「んぐっ……これは、是が非でも、他の部位を確認せねば」

 闇夜に爛々と輝く双眸は、少女を鋭く見つめていた。

 男が異性に欲情しての眼差しというよりは、砂漠に彷徨う最中の乾きに乾いた肉体が、向かう先にオアシスを見つけたような、酷く明後日な方向性を滲ませる欲望。

「黙れよっ、これ以上を喰われて堪るかっ!」

 少女とコックの力量差は誰の目にも明らかだった。山田の中に生まれたのは簡単な不等式。コック大なり少女大なり青年大なり自分。どうやって場から逃げ出すか、思考はその一点のみに向けられた。

 すると、そんな小心者に傍らより投げかけられる声。

「おい、ちょっと俺の話を聞けっ」

「え?」

 見れば、いつの間にやら勇者イケメンが彼の隣まで移動してきていた。

「幾らアレが魔王とは言え、今は力の大半を封印されてる。一人で調理人の相手は無理だ。隙を突いて俺とお前で一緒に討つぞっ! いいな!?」

「は? な、ななな、なんで俺がっ!? っていうか、調理人ってなんだよっ!」

「お前も職持ちだろ? 或いは、三人で掛かればなんとかなるかもしれない。相手は調理人だ。苦労するかもしれないが、ヤツを倒せば相当な経験が手に入るだろう。そうなれば、たった一戦で次の職だって夢じゃない」

「だから調理人ってっ……」

「いいから黙って聞けっ!」

 勇者イケメンの表情は酷く真剣だった。

 出会って間もない相手に共同作業を要請されて、山田としてはたじたじ。コミュ力の差が如実に表れていた。イケメンにしては日常茶飯事の出来事かもしれない。けれど、引きこもりなブサメンにしては、それだけで挙動不審の種。

「いや、お、俺なんかが混ざったところで無理だろっ!?」

「いいからやるんだよっ。じゃなきゃまとめてコックの餌食だ」

「うっ……」

「アンタ、学生だろ?」

「そ、それだったらなんだよ」

「俺は慶応の法学。そっちは?」

「……芝浦工業だけど」

「だったら俺にまかせろっ。いいなっ?」

「な、なんでだよっ!?」

「素直に逃げても殺されるのがオチだ。俺にいい案がある」

「…………」

 なんでこんなところでまで学歴で物事が決まるんだよ、とは彼の心中に呟かれた大いなる鬱憤。けれど、その大学名を耳とした瞬間、相手の言葉が正しく思えてしまうからして、反論することも叶わない。今の短いやり取りで、両者の間には確かな上下関係が生まれていた。

 まさか生きるか死ぬかの瀬戸際でまで、往来の学歴コンプレックスを刺激されるとは思わなかった低学歴である。彼にしては青春の全てを捨ててまで勉強した結果、ギリギリで入学できた今の学校だ。他方、目の前の相手は明らかにチャラい。チャラ過ぎる。

 だが、それを口に出して非難することすら、今はできない。

「……どうすりゃいいんだよ」

「俺とお前とでコックを釣る。恐らく、こっちの攻撃は相手に通らない。調理人と言えば、自身の肉体と感覚の全てを調理に特化させた、規格外な身体能力と感覚器官の持ち主で有名だ。当てることは考えず、とにかく距離を取った上で、相手の意識を魔王から逸らすことに専念しろ」

「無茶言うなよっ! さっきの見ただろ!? 掠っただけで顔が吹っ飛んだぞ!?」

「背中を見せて逃げ出したら、それこそ全身が吹っ飛ぶ。それでもいいのか?」

「よ、よくねぇけど無理だっ!」

「だったら今は根性見せろ。俺も同じだ! 頼みの綱は魔王の一撃だ」

「ぐっ……」

 慶応の二文字が効いていた。法学の二文字も効いていた。現役大学生にとって、大学の入試難易度は、そのまま本人の地位に直結する。本心から相手の言葉が正しいように思えてしまって、彼も反論を続けられなくなった。

「けど、ど、どうするん……」

「よしっ、それじゃあ行くぞっ!」

「あ、おいちょっとっ! ちゃんと説明してからっ!」

 人間、決断力はとても大切だ。

 次の瞬間には地を蹴って飛び出す勇者イケメン。

 どうやって相手の意識を引くつもりだと確認しようとしたところで、けれど、既に相手は山田の下を離れていた。素晴らしい行動力だろう。これが慶応大学の行動力だと思い知らされた芝浦工業大学だ。

 他方、山田はと言えば、どうしたら良いのだろう、どうすれば良いのだろう、戸惑うばかり。答えは誰に聞くことも叶わない。昔から決断力の無い男だった。何をするにも周りの様子を見てから。周りに意見を聞いてから。周りの決めた形に従って。

 全ては幼少よりの教育が所以。五十を超えて尚、クレジットカードを作ることすら出来ない臆病者の両親に育てられた臆病者の子だ。家の壁に穴を開けるのが怖くて、未だエアコンの導入ができない臆病者の子だ。

 臆病者の中の臆病者だ。

 真面目と臆病者は全然違う。

 そこに度胸があるか否か。決断力があるか否か。

 親から子へ。真面目という名の臆病な教育は、今まさに彼を苛む厄災。彼の実体を知らない周囲からの評価は、良く言えば真面目で物静か。けれど、当人は決して真面目などではない、ただ、世間が怖いから、真面目なふりをしているだけ。自らの親がそうであったように。

「ああもうっ!」

 ただ、それも今日この日までだ。

 のっぴきならない状況に彼は声を挙げる。

「分かったよ畜生っ! マジで畜生の畜生だ畜生!」

 別に勇者イケメンの指示通り行動する義理は無い。

 けれど、一度でも頷いてしまった手前、無碍にすることはできない阿呆。彼もまた同様に行動せざるを得ない。やけくそ気味に声を上げて、走り出す。妙なところで律儀な男だろうか。

 一方で既に行動を始めているのが行動力溢れる慶応大学生。

「いけっ!」

 声かけと共に腕を振るい、手にした剣を打ち出した。

 例の西洋剣である。

 地上一メートル程度の高さを飛んで行く。

「む?」

 切っ先はコックの背中を捉えていた。

 けれど、その先端がエプロンへ触れようとした瞬間のこと、何気ない調子に振り向いた相手は、腕を一振り。カィンと乾いた音が響く。同時に投擲された剣は打ち払われて、脇へ叩き落とされた。

 最初のいけ、という掛け声がアウトだったんじゃないかと、疑問に思わないでもない山田だろう。とは言え、相手の気を引くという点に関しては、それなりに成果を上げているので良しとした。

 剣の飛んできた側を振り返り、コックが問い掛ける。

「お前は人間か? それとも人間以外か?」

「悪いが俺は人間だ。それに男に喰われる趣味もないな」

「ならば要らぬ。人間の肉は既に極めた」

「その出所が気になるわ。割とマジで」

 一度は勇者イケメンの側へ首を振り向かせたコックである。しかし、多少ばかり言葉を口にした限り。すぐに魔王ロリータへと意識を戻してしまう。多少を突いた程度では、彼女への執着を引き離すことも難しそうだった。

「おいっ、芝浦っ! お前も手伝えっ!」

「し、芝浦って言うなっ!」

 慶応が吠える。

 けれど、芝浦には剣を投げる才能も無ければ、炎の玉を生み出す不思議な力も無い。何を持ってして相手の意識を引けば良いのか。まるで良い案など浮かばなかった。足下に転がる石ころを投げたところで、間違って少女に当たる可能性の方が遥かに高い。

 だからだろう。

「や、やーいっ! この似非コックっ!」

 彼に叶ったのは、酷く子供じみた真似だった。

「血抜きもしないで生肉を頬張って、なーにが旨いだよっ! 偉そうなこと言ってんじゃねーよっ! 人間の肉は極めた? 嘘ついてんじゃねーよっ! カッコつけてんじゃねーよっ! 気持ち悪いんだよっ!」

「なんだと?」

「豚も牛も数百年、数千年と喰われていて、それでも未だに新しい喰い方とか作られてるじゃねーかよっ! せいぜい数十年のお前の人生で極められるとか、偉そうなこと言ってんじゃねーよっ!」

 他人の揚げ足を取っての悪口。

 彼の得意技。

 酷く無様な行いだった。

 けれど、これに対してコックは今し方の投擲以上の反応を見せる。

「そんなヤツが作った料理なんて、そこいらのコンビニ弁当以下だろっ! コンビニ弁当以下っ! っていうか、冷凍食品のが絶対にマシだなっ! 最近の冷凍食品、割と旨いし、セブンのペペロンチーノとか、便利で美味くて安くて最高だろっ!」

 せめて努力の姿勢くらいは慶応に示さなければと声を張り上げる。

 するとコックは、これに見事に食い付いた。

「この私の料理が、冷凍食品以下、だと?」

「調理器具とか飛ばしてるヤツが、偉そうな口叩くんじゃねーよっ! もっと包丁とかお玉とか大切にしろよっ! 道具をちゃんと管理できないやつが、まともな料理を作れる訳がねーだろっ!」

「……貴様に料理の何が分かる?」

「少なくともお前よりは分かりまくりだ畜生っ! 自炊だってしてんだからなっ!」

「なるほど、上等だ」

 コックが踵を返す。

 少女の腕を手にしたまま、相手の身体の向かう先が変わった。瞳が見つめる先には棒立ちの山田。どうやら完全に相手を変更したらしい。コックとしてのプライドに、火がついたのだろう。

「げっ……」

 他方、想像以上の成果を上げてしまった山田はと言えば苦い顔。

「何を持ってして私を越えるというのか。示して貰おう」

「い、いや、だからっ、俺は生で肉を食べるとか良くないっていうか……」

 急にしどろもどろし始める。

 けれど、相手は待ってくれない。

 ゆっくりと彼の側へ向けて歩み始める。

 両者の側には十数メートルの距離があった。これを一歩、また一歩と詰めて行くコック。ならば、一歩、また一歩と後ろへ引いて行く自炊系大学生。

「生で肉を食す行為それ自体を批判すると言うのか? 貴様、まさか、熱加工至上主義者か? だとすれば、その主義主張を放置することなど許せん。この場に考えを改めさせてやる」

「別に、そ、そこまで言ってねぇよっ! 寿司とかも食うしっ!」

「熱加工主義者はすぐにそう言う。寿司、刺身、活け作り。そのような世間の理に流されるがまま、真を知らずして繁栄を続ける調理になど、価値はない。大切なのは何を表現するかという、絶対の命題だと知れ」

 コックの料理に対する情熱は本物だった。

 故に火がついてしまったらしい。

 ただ、何を言っているのか、山田にはまるで理解が及ばない。

 一方、そんな燃える巨漢の姿を傍らに眺めて、勇者イケメンが動いた。

「魔王っ、こっちだっ!」

「っ!?」

 彼は咄嗟に駆け出し、魔王ロリータの下まで向かった。

 そして、あろうことか、その腕を手に取り駆けだしたのである。

 コックとは反対側へ向かって。

「あ、あぁあああああああああ!」

 これを見た彼は唖然。

 二人は場から逃げ出した。

「おいこらぁあああああっ! なにやってんだよぉおおおおおっ!」

「悪いなっ、芝浦っ! 化けて出るなよっ!」

 去り際に一言を残して、勇者イケメンと魔王ロリータは去って行った。その姿は夜の闇に紛れて、早々に見えなくなる。タッタタタと地を蹴る足の音も、数秒と経たぬ間に聞こえなくなった。

 後に残されたのは怒れるコックと怯える芝浦だ。

「ちぃ、獲物を逃したか……。だが、貴様の悪言を見過ごすことはできん」

「いや、お、追えよっ! 獲物なんだろっ!?」

「黙れ。貴様を矯正するのが先だ」

「なんでだよっ!?」

 想定以上の成果を上げて、万々歳の彼だった。

 眦には涙がうっすらと浮かんでいる。

「楽に死ねるとは思うなっ」

「く、来んなっ!」

 コックが彼の下へ駆ける。

 十数メートルばかりの距離は瞬く間にゼロとなった。

「粛正だ」

 大きな拳骨が振り上げられる。向かう先は彼の顔。不細工な鼻面を目掛けて、力一杯にたたき込まれた。

 まさか喧嘩素人には避けることも叶わない。

 山田のそれと比較して二回りは大きな握り拳が、目と目の間、顔のど真ん中に向けて、ガツンと打ち付けられた。

 悲鳴すら上げる間もない出来事だった。

 彼の頭部は巨大弾頭に打ち抜かれた風、ビチャリ音を立てて炸裂した。血肉を後方へ散らして、跡形も無く砕け散った。

「なんだ、他愛ない」

 果たして調理に対する意識差のどこに肉体的強度が関係してくるのか。

 コックは酷くつまらなそうに彼の身体を眺める。

 頭部を失った肉体は、早々に膝を突いて地べたへと倒れ行く。

 ――――ように思われた。

「ぬっ!?」

 姿勢が崩れて崩れ落ちようとした彼の身体は、けれど、次の瞬間のこと、安定を取り戻す。失われた頭部が、まるで今の出来事が無かったかのよう、即座に復帰するのだった。それこそ魔王ロリータの頬が治癒されるにも増した勢いである。

「うぉおおあああああっ!?」

 ただ、本人にしては混乱。

 大きな悲鳴を上げて、後ろへ数歩を後ずさる。

「な、なんだ、なんだ今のっ……」

「なるほど、超回復能力の持ち主か。これは面白い」

「今、頭、頭がっ……」

「ならば、その肉、この私がもらい受けよう」

「ひっ!?」

 再びコックが走る。

 つい先程に少女がそうであったように、彼の腕に伸びる五本の指。避ける余裕もなく二の腕を掴まれる。指が肉へめり込んだかと思えば、ゴキン、ブチン、嫌な音を立てて、肩から先が引きちぎられる。

 僅か数秒と経たない間の出来事だった。

「うぉああおあっ!?」

 彼に与えられたのは嘗て無い痛み。

 けれど、それもほんの僅かな間の出来事だった。痛いと感じた刹那、早々に衝撃は失われて、気付けば引きちぎられた部位が復帰している不思議。

 腕の失われたという事実は間違いない。吹き出した大量の血液が周囲を真っ赤に染めている。暗がりの中にあっても容易に確認できるほど。

 だが腕は繋がったまま。

「お、おい、なんだよこれ……どうなってんだよ俺……」

「貴様、理解していないのか? それは貴様自身の力だろう?」

「力って、力ってなんだよ……」

「職持ちに与えられる力。それは千差万別、実に様々なものだ」

「だから、職って、職ってなんだよっ! 意味がわかんねぇよっ!」

「……なるほど、日が浅い訳か」

 激しく狼狽する彼を前として、コックの顔には薄い笑み。

「ふざけんなっ! 俺になにしたんだよっ!?」

「都合が良い。浚って飼い殺してやろう。肉の生る木とでも言うべきか」

「っ……」

 あまりにも物騒な発言。彼の身体がビクリ震える。

 決して冗談には聞こえない凄みが、エプロン姿の巨漢にはあった。

 だから、ここまでが限界だった。

 ジワリジワリと与えられる緊張感。プレッシャー。

 抗うことが叶わないなら、逃げることも叶わない。完全に前後を詰まれた状況。他にどうすることもできない袋小路。となれば、後に残るのは最後の悪足掻き。

「う、うぉおおおおおああああっ!」

 緊張が最高潮に達したところで、彼は恐怖から拳を振り上げる。

 もう無理だと全てを諦めて、玉砕覚悟に腕を振るうのだった。

「ぬっ!?」

 ならば、そんな破れかぶれの一撃は、両者の想定しない結果を生んだ。

「……え?」

 彼の打ち放った拳は、見事、相手の腹部を打ち抜いていた。

 二メートル近い巨漢が、けれど、地面から足を浮かせて後方へ吹き飛ぶ。まるで火薬の爆発にでも飛ばされたようだった。十数メートルの距離を移動して、大地に転がり、更に数メートルを進んでようやっと動きを止める。

「な、なんだよこれ……」

 これには殴り付けた本人も驚きだった。

 他方、殴られた側にしては、苦しそうに呻き声を上げてのこと。小刻みに身体を震わせながら、ゆっくりと身体を起こす。横たわった状態から二本の足に立ち上がるまで、凡そ数十秒といったところか。

「貴様、手に入れたのは職はなんだ?」

 コックが油断ならない表情に問い掛ける。

「だから、その職っていうのが、わ、分からねぇんだよっ! 俺はただの大学生だっ! 仕事なんてバイトくらいしかやったことねぇよっ! お前ら、揃いも揃って人のこと馬鹿にしてるのかっ!?」

「……話にならないな。だが、その力は巨大だ」

「クソっ、意味がわかんねぇよ。なんなんだよっ」

 混乱する彼だった。

 ただ、一つだけ理解したことがある。

 それは自身が、目の前の相手に対して、腕っ節で喧嘩を売れるだけの力を持っているということだった。腕を引きちぎられた際は、どうしようもなく痛かった。けれど、痛みは一瞬にして消えた。損傷も即座に元通り。むしろ千切られる前より勝手が良いくらい。

 これで平素の彼であったなら、戸惑いもしただろう。

 若しくは怯えただろうか。

 けれど、後先短い現状を鑑みれば、それも無駄な感慨。むしろ溜まり溜まった鬱憤の矛先として、目の前の大男はとても適当な対象に、彼の瞳へと映るのだった。逃げ出した勇者イケメンや魔王ロリータに対する苛立ちも含めて、その全てをぶつける相手として。

「ふざけんな。俺だってな、むかつくもんはむかつくんだからなっ! あぁっ!?」

「来い。是が非でも我が物としてくれる」

 出所不明の不思議な力を借りて、生まれて初めての喧嘩だった。

 彼は怒り任せに駆け出す。

 この訳の分からない世界を殴り付ける為に。

◇ ◆ ◇

 十数分の後、山田の足下には気を失い倒れるコックの姿があった。

 全身、血まみれの痣だらけである。うつ伏せの姿勢でピクリとも動かない。発汗も激しく、全身からは汗が滲み、肌は土埃にまみれている。立派な縦長のコック帽もどこかへ消えて、髪はボサボサのまま汗や油にべったり。

 他方、彼と言えば、服こそあちらこちら破れ汚れていても、その下には小さな擦り傷一つ見つけられない。汗こそ大差なく衣服の色を変えてはいるが、他は余裕があった。多少の運動に肩を上下させるよう。

 喧嘩自体は一方的なものでもなかった。互いが互いを殴り合う、酷く泥臭い肉弾戦であった。魔王ロリータのように炎の玉を飛ばすこともなければ、勇者イケメンのように剣を使うこともない。ひたすらの殴り合い。

 結果として、勝手に怪我の治る彼が勝利したのだった。殴られた数で言えば、圧倒的にコックが少ない。けれども、持久力のただ一点で大男は敗北。こうして彼の前に無様を晒すのだった。

「……っていうか、なんで俺がこんなに強いんだよ」

 倒れるエプロン姿を見下ろして、誰に言うでもなく呟く。

 返事は返らない。

「職ってなんだよ……」

 コックとの喧嘩を経ても、未だ晴れぬ疑問。

 ただ、山田にしても少なからず思い至る点はあった。今に感じている圧倒的な身体能力と、どれだけ激しい怪我をしようとも、次の瞬間には元通りとなる強烈な自然治癒。まさか生来のものとは思えなかった。

「……こいつ、どーすりゃいいんだよ」

 さんざんド突き回した相手を眺めて一人ごちる。

 そして、数分ばかりを考えたところで、放置することと決める。

「別に死んだって、俺のせいじゃねーし」

 正当防衛だし云々、言い訳を幾らかこぼして自らを納得させる彼だった。興奮冷めやらない為、思考もかなり乱暴になって思える。平素であれば、救急車の一台でも呼んでみせただろう。

「……帰るか」

 頭上を見上げれば、既に空も白み始めていた。

 かなり長い時間を争っていたらしい。その間、誰も人が通り掛からなかったのは、彼にとって何よりの行幸だった。警察沙汰どころの話ではないだろう。

 自宅のある方向へ向かい歩み出す。

 すると、数歩と進まぬうちに声が響いた。

「調理人を倒すとは、儂が見た未来を越える勢いじゃのぉ」

「あ、お前っ!」

 道路脇に見知った占い屋が店を出していた。

 住宅街の一角、人通りも少ない道端にあっては、酷く似合わない。

「おいっ、もしかしてあのときの占い師かっ!?」

「一週間ぶりくらいだろうかのぉ? 元気そうでなによりじゃ」

 深いフードの下に隠れて、顔を伺うことはできない。ただ、しわがれた声からは相応に歳を取って思える。少なくとも六十を越えて思えた。路上に店を出す占い師としては、かなり高齢の部類に入る。故に彼も相手に当てがついた。

「ぜんぜん元気じゃねぇよっ! 今さっきまで死にかけてたんだよっ!」

「そうか? ならば精進するが良い。お主の向かう先、道は遥か遠い」

「な、なんだよそりゃ……」

「言葉通りの意味じゃ。旅人よ」

「旅人って、そういや前も言ってたよな? なんだよそれ」

「お主の職じゃ」

「職? それって、もしかしてアイツらが言ってたやつかっ!?」

「我々が職と言えば、それは一つ。想像通りのものじゃろう」

「ちょっとおい、ちゃんと教えてくれよっ! 職ってなんだよっ!? 俺は大学生だぞっ!? Fラン一歩手前の芝浦工業だぞっ!? 仕事なんてバイトくらいしかしたことないんだぞっ!?」

「お主の言う職と、儂が語る職とは全くの別ものじゃ」

「だったら……」

「職とは自らの精神を反映するもの。その者の在り方を体現するものじゃ」

「だからさ、精神論とか語られても困るんだけどさ」

「いずれは理解する日が来るじゃろう。今はまだ足掻き続けるといい」

「お、おい、ぜんぜん答えになってねぇよっ」

「くふ、これまた面白い未来を見させて貰った」

「ちょ、お前っ、また勝手に占ったのかっ!?」

「面白いものを見せてくれた礼に、コイツをくれてやろう」

「うぉ!?」

 懐より取り出した何かを投げて寄越す占い師。

 大慌てに受け取れば、それは金属に作られたカギだった。

「……何のカギだよ?」

「儂の貞操帯のカギじゃ」

「ちょ、きたねぇっ!」

「……冗談じゃ」

「冗談でもいらねぇよっ!」

「取っておいて損はない。むしろ、お主の未来を助けることとなるじゃろう。これで向かう先、どのような変化が訪れるのか。儂はそのときを楽しみにしておる。また、変化の節目に会おう。旅人よ」

「っ!?」

 占い師の何気ない呟き。

 その言葉が耳へ入るに応じて、彼は強烈な目眩を覚えた。

 自らの足に立っていられないほどの眩み。

 咄嗟に両手を突き出して、膝から地べたへと四つん這いに倒れる。

「な、なんだよおいっ……」

 まさか自らの抱える病気が進行したのかと、心臓の鼓動を高鳴らせる。全身の血の気が引いて、頭の重くなるのを感じていた。

 けれど、それも僅かな間の出来事である。

 数分と経たぬ間に容態は回復して、元の調子を取り戻す。

「クソっ、なんだよ今のっ……」

 根性を入れて姿勢を正す。

 自らの足に立ち上がる。

 すると、彼が視線を向けた先、そこに占い師の姿は無かった。つい今し方まであった出店が、忽然と姿を消していた。まるで全てが夢や幻であったかのよう。影も形も残っていなかった。

「ど、どこいったんだよっ!?」

 何が起こったのかと激しく狼狽する。狐に化かされたよう。

 しかし、どれだけを探しても、占い師の姿は無かった。

 ただ、彼の手の内には確かに一つ、カギが握られていた。

「あぁもう、くそっ、なんなんだよおい……」

◇ ◆ ◇

 翌日、彼は久方ぶりに病院へと顔を出していた。

「……君、検査はしてみたけれど、やはり結果は変わらないよ」

「…………」

「患者の人たちも、幾人かは君みたいに、色々と考えては再検査を願うのだがね、こういうのは一週間やそこらで治るものではないんだよ。確かに記録の上では、君が言うような改善を見せた患者もいる。けれど、それは本当に奇跡のようなものさ」

「……そうですか」

 何故かと言えば、昨晩の出来事。どれだけ酷い怪我を負っても、次の瞬間には治癒されている不思議。ならば、胃の不幸もまた、同時に癒やされているのではないかと、期待を抱いての来院だった。

 医者に無理を言ってまで、検査をして貰った次第である。

 翌日から飲食を抜いてきたから、お願いします、是が非でもバリウムをと、鬼気迫る眼差しに頼み込んだ結果だった。けれど、それだけを頑張ったところで、望む結果は得られない。

「写真を見る限り、以前に検査したときと変わっていないね」

「あの、それじゃあ……」

「親御さんには相談したかね? まずはそれを急いだ方がいい」

「そう、ですか……」

 故に落胆は大きかった。

 がっくりと肩を落として、明日にでもこの世が終わってしまうような眼差しで、自らの足下を眺める。少なからず期待していた為に、今一度、改めて地獄へと落とされた気分なのだった。

「満足したかね?」

「はい……」

「それじゃあ、気持ちが安定する薬を出しておくから、ちゃんと飲むように」

「……はい」

 自分には不安を訴える自由さえ与えられないのかと、絶望に浸る山田だろう。

「それじゃあ、次の患者さんがいるから、いいね?」

「……ありがとう、ございました」

 全然ありがたくなかった。

 力無く頭を垂れて、のそりのそり、診察室を後とする。

 僅かな希望は木っ端微塵だった。

 色々と生きる望みを喪失して、病院を後とする。支払いすらも忘れて、診察室から院外へ直行だった。とんでもない不良患者である。計算受付へ渡すための伝票は、いつの間に手から落ちたのか、どこかへ消えていた。

 失意のままに街を歩む。

 病院を後として以後は、どこをどう歩いたのか、気付けば自宅のすぐ近くまでやってきていた。帰巣本能を存分に発揮してのこと。ただし、全てを徒歩に移動した為、いつのまにやら空は茜色。午後六時を廻っていた。

 最近、こんなのばかりのベソかき。

「……なんだよおい、もう、訳がわかんねぇよ……」

 かれこれ何度を零したか知れない汚水を頬に垂れさせる。

 昨晩、コックの拳により吹っ飛ばされた箇所としては、胃部もまた含まれていた。だからこそ、こうしてわざわざ無理を押してまで病院へ足を運んだ次第である。けれど、全ては無駄であったようだ。無駄に検査の苦しさを味わう羽目となった限り。

「畜生っ……」

 何度繰り返したか分からない葛藤が、胸のうちに溢れていた。

 カァカァとカラスの音を背景に、人気も少ない住宅街を歩む。

 気付けばそこは、つい昨晩のこと、巨漢のコックと喧嘩をした場所だった。何気なく見つめる先、エプロン姿は見当たらない。恐らくは意識を取り戻して、他に場所を移動したのだろう。

 残されたのは、あちこちで砕け散ったアスファルト、途中にへし折れた電信柱、砕けて崩れたブロック塀、などなど。昨晩には気に止める暇もなかった、二人の喧嘩の跡。特に電信柱に関しては、昼の間に業者が入ったのだろう。周囲に真っ赤なポールが幾つか立てられていた。折れた先や付随する電線の類いは撤去されていた。

 立ち止まり眺めるも、何が起こることもない。物静かな通り。

 色々と残念なことが重なり過ぎて、溜息すら出てこない彼だろう。

 そうした頃合のこと、不意に背後から投げかけられる声があった。

「アンタ、こんなところでなにやってるのよ?」

「……は?」

 聞き覚えのある声を耳として、音の聞こえてきた側を振り返る。

 すると、そこには見知った相手の姿があった。

「あ、お前……」

「その歳で野次馬? どうしようもない男ね。やっぱりキモオタはキモいわね」

「……なんで、会っていきなり文句言われなきゃならないんだよ」

「練習をサボって散歩? 三日後には収録というのに、随分と優雅なのね」

 天才声優少女だった。

 ショルダーバッグを肩に提げて、ワンピース姿。どうやら、お出かけの最中にあるらしい。往路であるか復路であるかは知れない。偶然に通り掛かった道に、彼の姿を見つけて声を掛けたのだろう。

「家がこのあたりなんだよ。文句言われる筋合いはねーよ」

「ふぅん? 随分と妙なところに住んでるのね」

「う、うっせぇな。安かったんだよ」

「だから顔まで安っぽくなるのよ」

「顔はもとからだっつーのっ!」

「なら救いようがないわね。整形でもしたら? 割と真面目に」

「誰がするかよ。ほっとけよ……」

 相変わらずの毒舌を発揮する少女。

 対して、彼はと言えば、幾分か以前よりの勢いを失って思える。

「っていうか、お前こそなんでこんなとこにいるんだよ」

「私はこれからスクールへ行くところ。ちょっと寄り道しただけよ」

「……スクール? 今から学校に行くのか? しかも制服じゃないし」

「この場合のスクールっていうのは、声の方よ? あまり良いスクールじゃないのだけれど、両親の面目の為に週一で通ってるの。正直、時間の無駄以外のないものでもないのだけれど」

「ふぅん?」

「……なによ?」

「別に、何も言ってねーだろ?」

「その視線がいやらしいのよ。キモオタ」

「うっせっ。俺の好みはもっと大人の女だっての」

「大人の女に相手にされるとは到底思えないのだけれど?」

「ほっとけっ……」

 どれだけ相手に軽口を叩かれても、一昨日にスタジオで言葉を交わした際と比べては、吠え返すに気迫の失われて思える山田だった。病院での診察結果が大きく響いていた。憎まれ口を叩く根性も霧散している。

 少女もこれに気付いたのだろう。傍目に調子悪く映る相手の姿を不審げに眺める。眉を顰めて、コイツは何を言っているのだと言わんばかり。彼女の中での彼がどういった存在であるか、露骨に伝わる態度だ。

「アンタ、風邪でもひいたの?」

「別にひいてねぇよ」

「じゃあどうしたの? 顔色がゾンビよ」

「ゾンビ? まあ、似たようなもんかもしれないけどさ」

「……練習が上手くいってないのかしら? やはり素人には荷が重かったようね」

「あぁ、そうだな。どうにも上手くいかねぇよ。クソ……」

 自分の人生すら上手くいかないのに、更に他者までをも演じられるものかと、やけっぱちに愚痴を返す駄目男だった。完全に腐っている。遥か年下の少女へ向ける言葉ではないだろう。

「ふぅん……」

 当然、返されたのは冷たい視線。

 少女は腕組みをして、つまらないものでも眺めるように。

「……なんだよ? 用事があるんだろ? さっさと行けよ」

「別にそれでも良いのだけれどね」

「なら行けよ」

「けれど、次の収録で共演する相手が、三日前にこの体たらくじゃあ、共演者として非常に納得がいかないわ。少なくとも、私は今のアンタが私の隣に立つことを、絶対に許さない」

「だったらなんだよ?」

「……ちょっと付いてきなさい」

「あ、おいっ……」

 少女が彼のシャツの裾を掴んだ。

 そして、何を考えたのか、そのまま引っ張り歩み始めた。

「おいっ、どこ行くんだよっ!? は、離せよっ!」

「いいから、大人しく付いてきなさいっ!」

「なんだよおいっ……」

 裾を掴んだまま、少女はグイグイと自ら先んじて歩み行く。彼は身を引いて対抗したが、みしり、服の生地が音を上げるのを耳として、仕方なしに足を従わせた。

 彼女から逃げたからと行って、他に予定もない暇人だった。

 或いは、他者から何かを与えられることに飢えていたのかもしれない。情けなくも喚きを上げつつ、その後ろに続くのだった。

 それからしばらく、二人は無言のまま道を歩んだ。

◇ ◆ ◇

「ここよ」

「おい待て、俺まで入ってきていいのかよ?」

 二人が辿り着いた先は、大きな通りに面したビルのワンフロア。都内でも有数の規模を誇る専門学校だった。駅前の一等地に建つ九階建てのビルが丸々一つ、学校としての態を取っている。

「気にしなくていいわ。私の連れと言えば問題ないもの」

「なんでだよ……」

「理事が私の両親だからよ」

「……金持ちとリア充は死ねよ。割とマジで」

「外見が醜ければ中身まで醜いわね。年下の女を相手に恥ずかしくないの?」

「外見が悪いから中身まで悪くなるんだよ。食いもんと同じだ」

「隣に立っているだけでお腹壊しそう」

「ならどっか行けよ……」

 二人が立つ前には、フロアに幾つか設けられた教室の一つ。ドア一枚を挟んだ先からは、何やら賑やかな声が聞こえてくる。それは例えば男性の勇む声であったり、女性の嘆き悲しむ声であったり。実に色々な声調に渡る。

 総じて共通しているのは、どれもこれもが雑談のそれと異なる点か。今まさに教室の中では声を扱う授業が行われているのだろう。廊下から眺める一室の規模は、彼が過去に通っていた中学校や高校と比べて大差ない程度。

「行くわよ」

「え? お、おいっ!」

 天才声優少女がドアノブに片手を掛ける。

 もう片方は彼のシャツの裾を掴んだままだ。

「おいっ……」

 ガラガラと音を立てて、横開きのドアが開かれる。

 応じて、教室内の光景が顕わとなった。

 高校や中学校のそれと比べて、広く取られた机と机の間隔。けれど、他は大差ない作りの一室だった。並ぶ卓上にはテキストと筆記用具。生徒は椅子に腰掛けて、最前の教壇に向き合う形だ。

 教師は三十代の女性。恐らくは彼女もまた声優なのだろう。

 室内には二十名程度からなる生徒の姿がある。年齢は下が十代後半から上は三十代前半まで幅広い。男女の割合は三対七といったところ。些か女性の姿が多い。それだけ需要があるということだろう。

 二人が一歩を踏み込んだところで、一斉に視線が向けられる。

 教師を含めた、教室に居する誰も彼もの目が、二人を捉えていた。

「え? 芹沢さん。そちらの方は?」

「見学よ。構わないでしょう?」

「え、ええ、それは構わないですけれど……」

 教師は少女の言葉に酷く驚いた様子を見せる。

 しかし、それ以上を深く問い掛けることはなかった。

「それじゃあ、席に着いて貰ってもいいかしら?」

「ええ」

 少女を席へと促す。

「お、おいっ、俺は……」

「うろたえないで欲しいわね。みっともない」

「だってっ……」

「いいからこっちへ来なさい。授業が止まっちゃってるじゃない」

「いや、そりゃお前が途中で乱入するからじゃ……」

「今日はアニメの収録が長引いたから、仕事の都合で授業に間に合わなかったのよ。本業をおろそかにしてスクールに通うなんて本末転倒じゃない。アンタ、頭は大丈夫? それでも大学生なの? Fランなの?」

「……そ、それなら、はじめからそう言えよ」

「ふんっ」

 少女に連れられて教室内を移動する。ついて回る視線に落ち着かない彼と、まるで気にしない彼女。どうやら、こうした出来事は日常茶飯事らしい。ただし、今日は余分なヤツが一緒に居るので、余計に注目を引いたようだ。

 二人は幾つか空いた席のうち、窓際を選んで、左右に並び腰掛ける。

 その間にも教室はざわつき始めていた。席の近いもの同士、あれやこれや、今にやってきた遅刻組を眺めて囁きあっている。ただ、多くは途中に音も失われて、当人の耳に届くこともない。

「はい、それじゃあ静かに。授業を続けますよー」

 教師の女性が声を上げるに応じて、ざわめきが静まる。

 仕方なく山田は少女の隣で授業を受けることと決めた。先程に耳とした見学という言葉、加えて、自分と同じくらいの年齢と思しき生徒の存在が、少なからず安心を与えたのだろう。疲弊した心は、状況に流されることを選んだらしい。

「それじゃあ続きです。先程のお話ですが、これはプロとしてデビューしてからも、とても大切な意味を持つことになります。台本をよく読むこと。原作のあるアニメであれば、原作を良く読むことです」

 教壇に立った女性の講義が再開される。

 廊下で耳とした発声を鑑みるに、どうやら実演を交えた座学らしい。

「先程は皆さんに台詞だけをお渡しして、その役を演じて貰いました。次は、同じ役の背景をお渡しします。その上で、もう一度、同じように演じて貰いましょう。そこから得られる違いを、しっかり掴んで貰いたいと思います。なかには今から配る背景を理解しなければ、まるで違った声に演じてしまったと感じるだろう役もあると思います」

 語りながら女性がコピー用紙を配り始める。

 前から後ろへ人手伝いに流される紙。

 自らの下に辿り着いた紙面を眺めてれば、彼の目に映ったのは人物名と、それに紐尽く人物の出自やら過去の経験やらを示す設定。まるでゲームの登場人物紹介をシートにまとめたようだろう。

「これ、小さい頃にママから、同じことをやって貰ったわ」

 隣でボソリ、天才声優少女が呟いた。

 配られたコピー用紙をチラリ一瞥してのこと。

「……ふぅん」

「最近の声優は、禄に原作も読まずに役をやるの。特に売れ始めた若い声優ほど、その傾向が強い。だからこうして、スクールへ籍を置いているうちに教育するの。原本を理解せずに声なんて当てられないもの」

「……そんなの当たり前だろ? 何言ってんだよ。役くらい理解するだろ普通」

「その当たり前ができないプロが多いってことよ。毎回出番のあるメインヒロインならまだしも、途中参加の準レギュラーの為に分厚いラノベを何冊も読むのは、特に自分の趣味じゃない原作なら、きっと苦痛以外のなにものでもないでしょうね」

「まあ、そらそうだろうけどさ、原作を読むのも仕事なんじゃねぇのか?」

「なまじ経験を重ねれば、それでも適当に演じられるようになるわ。最近だと声優もアイドル志向が強くなってきているから、それでなんとかなる。ファンも偉そうに批評する癖して禄に違いに気づきやしない。ファンとは名ばかり、ライブでサイリウムを振っていれば幸せな連中だもの」

「だから真面目に受けろって?」

「いいえ、こんな話をこの歳にまでなって真に受けている時点で終わりよ。少なくとも、アンタが今に言ったことは事実だもの。私がこれを学んだのは小学校に入る前。アンタの言葉通り、声優に限らず、何かを行おうとする者として、当然のことだわ」

「……お前、随分と偉そうだな? 子供の癖に」

「偉いのよ。しかも子供だから将来性がある。これは大きな武器ね」

「先生、泣きそうな顔してるぞ?」

「泣かされたくなければ、相応の授業をすれば良いのよ。少なくとも、彼女の毎週の出演数と、私の毎週の出演数、数でも質でも後者の方が圧倒的に多い。つまり、講師としての力量はどうあれ、声優としての力量は私の方が遥かに格上ということだもの」

「……お前って嫌な生徒だな。割とマジで」

「それくらい本気でやらなければ、声優なんてニッチな仕事、絶対に無理よ。あとアンタも、そういう批判は自分で自分の食い扶持を稼げるようになってからいいなさい? 学生の身分で偉そうに」

「ぐっ……」

 この場の誰よりも自立した少女の言葉に、教師や生徒も含めて、誰も彼も、言葉を返すことができなかった。

 以後、授業は酷く居心地の悪い雰囲気の中で続けられた。

◇ ◆ ◇

 授業が終わって休み時間のこと。

 山田は天才声優少女と共に同じフロアのロビーでソファーに休んでいた。

 ちうちうと紙パックのジュースなど啜りながらのこと。

「っていうか、なんでこんなところ連れてきたんだよ。聞いても意味ない講義なら聞かせるなよ。それとも俺まで巻き込んで無駄に時間を使わせたいのかよ?」

「そんなことして私にどんな得があるのよ?」

「いや、お前って性格悪いし」

「うるさいわねっ、わざわざそんな自爆しないわよっ!」

「じゃあなんでだよ?」

「アンタ、あの教室に何人の生徒がいたか数えてた? そして、このビルに同じ教室があとどれくらいあるか、理解している? このビルの四階と五階はまるまる声優志望コースという位置づけになっているわ」

「……一クラス二十人と少しで、教室の数は……えぇと……」

「一クラス二十五人。教室の数は声優のコースだけで十よ」

「そんなにあるのか? 凄いな」

「つまり、声優になりたいと考えて毎年百数十万を支払っている人間が、このビルだけでも数百人いるってこと。しかも、同じような専門学校は都内だけでも幾十とある。これがどういうことだか分かる?」

「そんだけ多くの人間が憧れる仕事ってことだろ? まあ、華やかだしな」

「ええ、その通りよ。けれど、アンタはまるで理解していない」

「……なんでだよ?」

「今のアンタが立っている地点までたどり着ける人間が、このビルの中に何人居ると思う? 正確には名前のある地上波アニメのキャラクターを演じることができる生徒が、毎年このビルから何人排出されていると思う?」

「そんなの分かるわけねーだろ? 俺が知るかよ」

「だから、こうして連れてきたのよ。アンタは自分の幸運をもっと正しく理解すべきだわ。でなければ、あまりにも勿体ない。それは機会に限らず。でなければ、私だってこんな七面倒なことは御免よ」

「……何が幸運だよ。本当に幸運だったら、俺だって、こんなに辛くねぇよ」

「いいえ、アンタは幸運よ。一生分の運を使い切ったと言っても良いくらいね」

「だったら、仮にそうだったら、お前は何だって言うんだよ?」

「これだけの人間が必至になって、それでも二、三人がプロになれれば御の字。一人も輩出できない年だってあるわ。そうした中で、今のアンタがどれだけ恵まれた環境にいるのか、一度、自身の置かれた状況を理解した方が良いわ」

「……理解して何になるんだよ?」

 少女の言葉に反感を抱いた彼は、しかめ面に軽口を返す。

 けれど、対する彼女は構うこと無く話を続けた。

「大勢の人間を前にして、個人が一歩を踏み出す行為は、少なくとも、大なり小なり自己顕示欲が伴っての行いでしょう。誰もが自らの生きた証を残すため、必死になって努力している」

「……は? 生きた証とか、なにカッコつけてんだよ。ダサいな」

「誰も彼もが自分を表現することに必死になって、それでも誰にも相手にされることなく、数年ばかりを夢に生きて、何もできないまま消えていく。誰に何を伝えることもできないまま、静かに生きて行く道を選ぶの」

「それがなんだよ? お前みたいな勝ち組からすれば、誰だって凡人だろうが」

「今のアンタは、そうした者たちが叶えられなかった、何よりの場を得ている。望めば大きな一歩を踏み出せる位置に居る。これまでの人生がどうであったかは知らないけれど、きっと、今まで生きてきた以上に様々な世界を見ることができる筈よ。私はそう考えているし、少なくとも自分自身がそうであったから」

「……そんなの、時間があるヤツの勝手な文句だろ? お前みたいなお子様の」

「それならアンタは、これからもずっと今に語ってみせるよう、日陰を後ろ向きに生きて行くの? アンタの私生活なんて興味ないけれど、きっと、もの凄く退屈で、誰にも相手にされなくて、とっても下らないものなのでしょうね」

「なっ……」

 途端、山田の表情は固まる。

 浮かぶ感情は驚きであり、怒りであり、焦りである。

「なんて下らない人生。それこそ死んでいるのと変わらないわね」

「ふ、ふざけんなよ。人の事情も知らないで勝手なこと言ってくれるなよなっ」

「なんで私がアンタの事情なんか考慮しなくちゃならないのよ。ただ私は素直に思ったことを口にしただけよ? それとも、図星だったかしら? もしもアンタが明日死んだら、アンタの人生はきっと、とてもとても無価値なものとして終わるわね」

「っ……」

 思わず歯を食いしばる彼だろう。

 気を抜けば、握り拳を少女の顔へ向けてしまいそう。

「アンタは何かに対して、本気の情熱を持って取り組んだことがあるのかしら?」

「こ、このっ……」

 何も返す言葉が無かった。

 全ては事実であって、今まさに自らを下らないまま終わらせようとしている。だからこそ、自身が持たない多くを持つ相手を目の前に置いて、彼は大きな苛立ちと不安を覚えていた。これから訪れるであろう人生最初で最後の経験が何よりも辛かった。

「私がここまでアンタを連れてきて言いたかったのは、ここまで」

「…………」

 握られた拳は怒りにフルフルと震えていた。

 顎が痛むほどに歯を食いしばり、けれど、手も足も出ない駄目男。

 中学生相手に何を返すこともできない。

「それじゃあ、私は帰るわ。もしも嫌なら、次の収録は来なくていいわよ」

 語るだけを語った少女は、ゆっくりとソファーより立ち上がる。

 正面に腰掛けた彼を最後にチラリと一瞥。ふわりとスカートを浮かせては踵を返す。凜とした姿勢を最後まで出崩さずに、カツカツ、優雅な歩みと共に遠ざかって行った。

 足取りと姿勢は、自信と余裕に満ちあふれて思えた。

「…………」

 後に残されたのは、焦りと不安と怒りに胸の内をゴチャゴチャとさせた男が一人。

 居ても立ってもいられない感覚に襲われる。

「……なんだよ……なんだよ、おい……」

 周囲に人の姿は無い。フロアでは既に次コマの授業が始まっていた。

 閑散としたロビーには、ソファーにうなだれる山田の姿だけがある。

「……本気で何もしたことないって、そんなの……そんなの……その通りだよ畜生っ」

 痛いところを突かれて、ぐぅの音も出ない無趣味野郎だった。

 少女の言葉はその胸の内から消えることなく、グルグル、延々と巡り始める。もの凄く退屈、誰にも相手にされない、とっても下らない、とてもとても無価値、下らない人生、今に届けられた言葉の数々は、ズシン、酷く衝撃的なものとして心に突き刺さった。

「けど、だからって駄目なんかじゃ、無駄なんかじゃっ……俺の人生はっ……」

 吠えるように呟いて、すっくとソファーから立ち上がる。

 堅く握られた指の爪が手の平に突き刺さる。指と指の合間より赤いものがポタポタと垂れ始める。タイル敷きの床に赤い斑点が生まれる。それを気にした様子も無く、彼はジッと自らの足下を見つめて言葉を続けた。

「俺は、俺の人生はっ……」

 ――――それこそ死んでいるのと変わらないわね。

 それが最後の一押し。

 彼の意気地無しな心を突き動かした。

「死んじゃいねぇっ! 俺は、俺はっ! まだ生きてるっ! 生きてるんだっ!」

 次の瞬間、彼は今に居る場所も忘れて、大きく叫びを上げていた。

「上等だっ! 俺の人生、全部っ、残り全部を賭けてやる! やってやるっ!」

 ぐぃっと頭を上げる。

 下から上へ、視界が一気に移り変わる。

 天井を見上げて吠える。

「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

 そして、ドタバタ、どこへとも駆け出す山田だった。

 酷く間抜けな光景。

 傍目、キチガイ以外の何ものでも無い。

 ただ、一人の男にとって、何より大きな決意の瞬間だった。