金髪ロリ魔王ラノベ

第三話

 その日、郊外のアパートに響く声があった。

「お前のことが、お前のことが、好きだっ……だから、さ、先に行けよぉっ!」

 時刻は午後十一時を回った頃合。そろそろ日も変わろうかという時間帯にありながら、けれど、声も大きく演技の練習をしている男が一人。

 専門学校から帰宅して以後、彼は延々と台詞の練習をしていた。題材はもちろん、三日後に予定される収録の一遍だ。演じるキャラクターは前回と異なり名前付き。

 もちろん、何度を繰り返しても、しっくりとこない。

 けれども、決して諦めてやるもんかと、ひたすらにキャラクターを演じていた。

 その様子は鬼気迫るものがある。

 幾十、幾百と同じ台詞を繰り返していた。

「お前のことが、お前のことが、好きだっ……だから、さ、先に行けよぉっ!」

 近所迷惑この上ない阿呆だった。

 先週以上に熱を入れての練習である。

 だからだろう。そんな彼の熱意が通じたのか、ピンポンピンポン、玄関の呼び出しベルが鳴らされる。更には、ドンドンドンドン、酷く荒い調子でドアが叩かれた。近隣住民の我慢が限界に達したのだろう。

「……なんだよ、邪魔すんなよなっ」

 呟かれたのは自己中心的な文句。

 完全に周りが見えていない山田だった。

 仕方なく練習を中断して玄関へと向かう。

「はいはい、開けますよ……」

 ガチャリ、カギを開いて外開きのドアを押し出す。

 これを受けて、呼び鈴を鳴らしていた相手は、即座に声を上げた。

「おいこらっ! いったい今が何時だと思っていっ……」

「あ……」

 玄関先に立っていたのは、彼も目に覚えのある相手だった。

「き、貴様はっ!」

「お、お前はっ!」

 山田の目前には魔王ロリータが立っていた。

 しかも、つい昨晩にも見たスウェット姿である。

「ななな、なんでお前がここに居るんだよっ!?」

「貴様こそ何故にここにいるんだっ! どうしてだよっ!?」

「んなもんっ、ここが俺の家だからに決まってるだろっ!?」

「なんだとっ!?」

「そういうお前こそ、なんで俺の家を知ってんだよっ! まさかストーカーかっ!? 妙なヤツだとは思ってたけど、そこまでなのかよっ!? これ以上するなら警察に通報するぞっ!」

「ば、馬鹿言うなっ! この右隣が私の家だっ!」

 ちなみに彼の部屋は角部屋であるからして、左隣に住居者は居ない。

「はっ? なんでだよっ!?」

「そんなこと知るかっ! 貴様こそなんでだっ!」

「んなもん知るかよっ!」

 互いに目を見開いての驚愕だった。少女にしては当初の目的も途端に忘れて思える。彼にしても、サンダルに片足をつっかけて、右手にドアノブを外へ押し出すという、非常に不安定な姿勢。どちらともなく、完全に不意を突かれた形だった。

「っていうか、お前っ、またその服かよっ! めっちゃ見覚えあるぞっ!?」

「っ……こ、これはっ!」

 以前と変わらない少女のスウェット姿。

 これを目の当たりとして彼が吠えた。

「昨日も同じの着てただろっ!? あんだけ暴れて洗わないとかマジ汚物だろっ!」

「これは違うっ! 同じのっ、そう、お、同じのを幾つか持ってるんだよっ!」

「嘘つけっ! そのズボンの裾のシミとか、あと、あのコックに殴られて血が付いたところとか昨日も見たぞっ! 昨日もっ! っていうか、血が付いて洗わないって、どんだけだよっ!?」

「ぐっ……」

「そう考えたら、あー、なんか臭ってくるわっ! くせぇっ! マジくせぇっ! 絶対に汗とか染みついて嫌な臭いするわ。きっと部屋の中も、同じような臭いが充満してるんじゃないのかっ!?」

「ふ、ふざけるなっ! 臭くないっ! 臭くなんてないぞっ! 綺麗だ!」

「臭せぇよっ! 汚ねぇよっ!」

「臭くないっ! 汚くないっ!」

 どうしようもなく低レベルなやり取りだった。

 おかげで殊更に賑やかになった玄関先。

「おいこらっ! 今何時だと思ってんだっ! もちっと静かにしろっ!」

 二つ隣の玄関ドアが開いて、その先から四十代を思わせる男性が首を覗かせた。パジャマ姿から察するに、これから眠ろうという案配に思われる。布団の中まで容赦なく響ける問答に、声も大きく吠えたのだった。

 男性は一吠えすると、バタン、勢い良くドアを閉じて引っ込む。

「…………」

「…………」

 おかげで少しばかり冷静さを取り戻した二人だろうか。

 互いに口を収めて見つめ合う形だ。

「と、とりあえず入れよ。ここで話してるとまた怒鳴られるし」

「……ちっ、不本意だが仕方あるまい」

 すごすご、場所を山田の部屋に移す二人だった。

◇ ◆ ◇

「おい、ここで暴れたら、きっと隣にあるお前の部屋も吹っ飛ぶぞ」

「黙れっ。そんなこと言われるまでもない」

「……んで、なんだよ。なんでお前なんだよ」

「それはこっちの台詞だっ」

 場所を移して以後、彼と少女とは六畳一間に向き合っていた。

 座布団の上、ちゃぶ台を挟んで向かい合う形だ。。

「っていうか、昨日はよくも逃げやがったな? こっちはお前の為に頑張ってやったって言うのに、あのイケメン野郎と仲良くどっか行きやがって、やっぱりイケメンなのかよ? イケメンだったら誰でもいいのかよっ!? 股開くのかよっ!?」

「あ、あれはっ、ヤツが勝手に動いただけのことっ」

「何が勝手だよ。めっちゃ普通に二人一緒だったじゃんかよっ」

「いやまて、それよりも貴様だっ、何故に生きているっ!?」

「生きてて悪いかよっ!? 最近、どいつもこいつも俺のこと殺したがるよなぁっ!」

「調理人はどうしたんだっ!? まさか半端な人間に勝る相手ではあるまいっ!」

 バンとちゃぶ台を両手に叩いて問い掛ける少女。

 その眼差しは酷く真剣なものだった。

 だからだろうか。彼も真面目に答えて応じる。

「俺がぶっとばした」

「なんだとっ!?」

「俺が勝っちゃ悪いかよ? すっげぇ頑張ったんだからな? 生まれて初めてだったよ、あんなにたくさん殴って、殴られて。めっちゃくちゃ痛かったし、何が何だか分からなかったし、まあ、勝ったからいいけど」

「…………」

 語る彼の言葉を耳として、少女が咄嗟に身構える。

 トン、軽い音と共に座布団の上へ立ち上がり、腰を低くしてのこと。

「な、なんだよいきなりっ! 暴れるのかっ!? ここで暴れるのかっ!?」

「調理人を倒しただと? 職を得て昨日の今日である人間がっ!? ありえんっ!」

「なら信じなくてもいいよっ、俺だってお前に信じられたところで嬉しくねぇし」

「ぐっ……」

 至って素面に語る彼。

 その様子を目の当たりとして、少女の表情が苦々しいものに変わる。相手が嘘を言っているように思えなくて、与えられた事実に困惑しているらしい。

 身構えた姿勢をそのままに問い掛ける。

「ならば、ヤツはどこへ行った? 殺したのか?」

「こ、殺す分けないだろっ!? 気絶してたけど、今日見たら居なくなってた」

「……逃げたのか」

「そうなんじゃないのか? 見たわけじゃないから、俺は知らないけど」

「…………」

 素っ気なく呟く彼の言葉を受けて、魔王ロリータは身構えた姿勢もそのままに、深く考え込むのだった。表情は今し方にも増して真剣なもの。

 癖なのか、顎に片手を当てて、俯きがちに首を傾げる。

 さらり、長い金髪が流れては、半袖の先に露出する腕の上を流れた。色白な肌と金色の髪とは、彼女がこの国の人間でない何よりの証。

「っていうか、おい、俺は忙しいんだから、要が済んだならさっさと出てけよ」

「なんだと?」

「だから、俺は忙しいんだよ。なんか変なオッサンがうっさいし、けど、練習もしなきゃならないから、これからカラオケとか行くんだよ。あそこだったら大声を出しても怒られないだろうし」

「練習? これから戦い方を学ぼうというのか?」

「戦い方? お前なに言ってんだ? 馬鹿か?」

「ば、馬鹿だとっ!?」

「台詞の練習に決まってるじゃんかよ。っていうか、戦い方って何の話だよ?」

「……台詞? 貴様、その顔で役者か何かか?」

「役者じゃねーよっ! 声優だよっ! 声だけだよっ!」

「声優? アニメのあれか? 声だけ立てているという」

「そうだよ。アニメのあれだよ。声だけだよ」

「ふぅん……」

「な、なんだよ?」

「その顔で愛を叫ぶなど、どれだけ滑稽な喜劇があったものだろうな」

「うっせっ! んなこと言われるまでもねぇよっ!」

 どうやら彼の一人芝居は、全て隣の部屋に筒抜けであったらしい。この調子では二つ隣に居する先程のオヤジにも聞こえていることだろう。

 壁の薄い安アパートが所以の音通りが良さだ。

「でも、そ、それでもやるんだよっ! だから邪魔するんじゃねぇよっ!」

「はっ、私を馬鹿にするな。貴様に構っている暇などない」

「だったらさっさと出てけよ。邪魔なんだよっ! マジで微妙に臭いんだよ!」

「く、臭くないっ! 言われずとも出て行くわっ!」

 そして、何がしたかったのだろうか、多少ばかりを語ったところで視線を外す二人。少女は早々に踵を返すと玄関を目指し歩み行く。その姿を尻目に彼はカラオケへ向かう支度を始める。

 バタン、玄関のドアが閉じられて、部屋は静けさを取り戻すのだった。

◇ ◆ ◇

 魔王ロリータと分かれて以後、彼は宣言通りカラオケ屋へ向かった。

 そこで身体が眠気を覚えるまで、都合、四時間に渡り延々と台詞の練習をするのだった。台本を最初から最後まで、通して数十回と繰り返し読み上げ続けてのこと。料金もフリータイムとあって、残り時間に気を遣う必要が無い。飲み物はひたすらに無料の水をオーダーし続けた。

 なんて嫌な客も居たものだろう。

 店を出る頃には、うっすらと東の空が明るんでいた。

 チュンチュン、耳に響くのは雀の鳴き声。

 彼にしては酷く気怠い朝だった。

「クソっ、やっぱり駄目だ。なんだよ、お前のことが好きだとか、言って何になるんだよっ! 俺には誰もいねぇんだよっ! そんなもんどうやったら理解できるんだよっ! 誰も俺のことなんて好きになっちゃくれないんだよっ!」

 ああでもない、こうでもない、愚痴を零しながら帰路につく。

 既に本日の講義は完全に捨てた形だった。

 現在の彼にとって、学業は何の意味も為していなかった。

「クソ、あと二日しか無いってのに……」

 うんうんと唸りながら道を歩んで行く。

 大きな通りから数本ばかりを入って、普通乗用車がギリギリすれ違うことのできる程度の路地。多少を歩めば民家の建ち並ぶ住宅街へと至る。

 更に少しばかりを進むと、一昨日、食人コックと出会った場所に出た。自宅アパートの所在の都合上、帰路に際しては必ず通過しなければならない地点だった。アパートが袋小路の先にあるのだ。

 おかげで魔王ロリータとも二度に渡り遭遇したのだろう。それ以前に一度として顔を合わせた経験がない点からすれば、かなり最近になって越してきたのかもしれない。同じアパート、それも隣の部屋に異国人が住んでいれば、半月と掛からずに分かる筈だ。

「まさか、また居たりしないよな。あのコック……」

 何気なく眺める先、折れた電信柱は僅か二日で新品に取り替えられていた。ただ、穴の空いたアスファルトに関しては、最終的な工事の目処が立っていないのか、未だに砂を穴に埋めた限り。歩むには不都合無いが、些か不格好だ。

「……いないな」

 周囲を確認してホッと一息だろう。

 彼の他に人の姿は見つけられない。

 一度勝った相手とは言え、好んで喧嘩をしたいとは思えない山田だった。

 そして、頭部が吹っ飛んだ。

「ターゲットの頭部破壊を確認」

 どこからともなく響く人の声。

 応じて、わらわらと集まってくる何者か。ある者は電信柱の影から、ある者はブロック塀を越えて、またある者は通りの先、今に彼が歩み曲がった角の先から。都合、五名から成る一団だった。

「報告には随分な記述が並んでいたが、ぞんがい呆気ないものだな」

「そうだな。この調子では調理人という職も高がしれるな」

「ええ、数字ランクが五人も出張る必要はなかったわね」

 男性三名、女性二名からなるグループだ。人種も年齢も異なる一団である。アジア人もいれば欧米人も居る。若者がいれば老人もいる。

 面々は首から先、頭部を失いうつ伏せに横たわる彼を眺めながら、好き勝手に言葉を交わし合っていた。ただ、そうした軽い調子の語らいは、見つめる先、首から先を失った山田の肉体が、ピクリ、反応した為に中断。

「いやまてっ、動いているぞっ!」

 早々に身構える羽目となる。

 まるでビデオを逆方向に早送りで再生したようだった。失われた頭部が、瞬く間に元在った形を取り戻して行く。骨が伸びて脳髄から先、脳内組織を形作り、その上に頭蓋骨が被さり、更には皮膚が伸びて、体毛までもが生えて行く。

 酷くグロテスクな治癒の過程。

「嘘っ!? これでも再生するっていうのっ!?」

「この男っ、僕の一撃を受けて尚も蘇生するというのかっ!?」

「ちっ、距離を取るぞっ!」

「言われるまでも無い。相手は接近戦で調理人を倒したんだったなっ!」

 数秒と経たずに復帰した彼の頭部。

 応じて、その意識もまた元在ったとおり。

「ってぇ……、なんだよ。なんで俺、倒れてるんだよ……」

 まさか自分が頭部を失ったとは思わない彼だ。地べたに倒れ伏した自らを疑問に感じつつ立ち上がる。その足取りはしっかりしたものだった。特に運動機能へ支障をきたした様子も見られない。

 その間、山田を囲った面々は、再び彼の視界の外へと距離を取っていた。一切合切を理解しない本人が混乱している間に、姿を隠したらしい。まさか、他者の気配など探ることのできない凡人にしては、今に起こった意識の喪失の原因を探ることも不可能。

 それこそ風呂場に立ちくらみを覚えたようなもの。

「徹夜したせいか? それとも病気のせいか……」

 ブツブツと呟きながら再び歩み出す。

 向かう先は自宅。

 そして、バタン、歩みも早く自室へと収まるのだった。

 その姿がアパートの一室に収まってしばらく。

 一連の流れを確認した五人は、再び通りに姿を現して面を合わせる。表情には一様に驚きが浮かんでいた。今し方の出来事が、まるで信じられないといった表情をしている。互いに向かい合い、自らの目の当たりとした不思議を語らい合う。

「ランク六、狩人のパワーショットを数秒で完全治癒、ね」

「なぁ、魔王捜しよりこっちのが大変なんじゃねぇか?」

「それにしては随分と愚鈍なようだけれどね」

「調理人の話じゃあ、魔王の味方らしいけどな。時間稼ぎをしたらしい」

「マジか……」

「いずれにせよ、我々の世界の秩序を考えれば放ってはおけないな。この事実を知れば、我らが王もお嘆きになるだろう。それだけはなんとしても阻止せねばならない」

「んじゃあ、一度、報告に戻るか?」

「そうしよう。恐らく上も我々と同様、相手に対する認識を改めるだろう」

「あれ? でも王はまだ本国じゃなかったっけ?」

「ああ、恐らくはサイさんが応じることとなるだろう」

「あの人もここ数年、魔王に対する熱意は凄いよな。何が何でも捕まえてやるって気迫を感じるぜ。まあ、おかげで俺らもやる気が漲るってもんだけどよ」

「そうよね。以前はそれほどでもなかったようだけれど」

「んじゃまあ、戻るか? 我らが王様の歓迎パーティーの準備もしたいし」

「ああ、そうしよう。しかし、その前に一人、誰が残るかを決めようじゃないか」

「監視ならば私に任せるといい。適任だろう?」

「いいのか? お前は王との面会を楽しみにしていただろうに……」

「構わない。こういう面倒な仕事は年寄りの役割だ」

「カリス……」

「分かった。アンタがそう言ってくれると助かる。任せた」

「うむ。では行ってくるが良い」

「貴方の行いは、ちゃんと我らが王に伝えるわ。もしかしたら、奴から魔王の情報が出てくるかもしれないしね! そうなったら大手柄じゃない」

「そうなることを期待しているさ」

「では撤収だっ! 栄えある王の騎士団よ!」

 多少ばかり会話を交わしたところで、五人のうち四人が歩み去って行く。通りの先、角を曲がったところには、外交ナンバーの付けられた高級外車が二台、列を為し止まっていた。各々それに乗り込み、ブロロロロ、走り去って行く。

 他方、残る一人は建物の影に隠れて、彼の部屋を監視できる場所へと身を移す。七十過ぎを思わせる老齢の長身。真夏だというにロングコートをまとった、金髪長髪の白人男性だった。

「さて、状況はどのように動くか。楽しみではあるな」

 東の空には爛々と輝く夏の太陽が顔を覗かせていた。

◇ ◆ ◇

 翌日の暮れ、彼は一人で都内の街を歩いていた。

 何故かと言えば、一重に台本のキャラクターを理解する為だ。昼過ぎに起床して以後、カラオケに五時間を過ごし、それでも自らの台詞に、キャラクターに対する感情に、満足することができず、悩み抜いた末の所以の放浪である。

 一人で自室に籠もっていては死の恐怖に心が死んでしまう。

 だから、こうして外へ出ては、何か自らの悩みを解決するものがないか、探し歩いているのだった。浮浪者よろしく、あっちへふらふら、こっちへふらふら。

 とは言え、早々、捜しものは見つからない。

「ちくしょうっ、あと二日しか無いのに、どうするんだよ、おいっ……」

 焦りばかりが増して行く。

 けれど、彼は決して諦めることなく、自らの求めるところを必至に探っていた。全ては自分の為。最高の自分をこの世に残して逝く為。過去に一度として得ることの無かった満足を、胸一杯に蓄えて、最後の絶望に耐える為。指先すら動かない、瞼すら上がらない、無限の苦しみの先に幸せを得る為。

 ならば、そんな必死の彼が歩む先、見知った顔があった。

「あ……」

 大学の研究室にて、山田の前の席に所在する女性だった。

 目下、彼が憧れて止まない相手でもある。

 それが他に大勢の者達と共に、向かう先より歩み来たのだった。

 咄嗟に隠れようとする小心者。けれど、気付くのが遅れた為、今から身を隠すことも叶わない。周囲には他に通行人の姿も多い。下手に行動しては奇異に映ること必至。どうしようと焦るも、早々に両者の距離は早々に近づいて、数メートルにまで至る。

 しかし、相手は山田に気付かなかった。

 なにやら楽しそうに傍らの男性と話をしている。

 その相手もまた、彼は目に覚えがあった。

 研究室で彼女と楽しそうにバンドの話をしていた男である。

「んじゃ、次はコトノハのオープニングとかやる?」

「え? いいのっ!?」

「いいよ。だって好きでしょ? 俺らも最近はアニメとか見てるし」

「本当!? まなみ、それって凄く嬉しいかもっ!」

「んじゃ決定?」

「いいねいいね、やろうぜ」

「あ、俺もやるね!」

 彼女の周囲にはバンドのメンバーだろう男たちの姿があった。近所のスタジオで練習でもしていたのだろう。男性数名は背中にギターの収まる特徴的な鞄を提げていた。皆々、例外無く笑顔である。楽しそうである。

「しっかしさー、まなみちゃんの前の席のヤツって、マジでキモイよなー」

「え? 何の話?」

「いやほら、前に言ったろ? 研究室でまなみちゃんの前の席に座ってるやつ」

「あー、あの話か。乱交ばれしたとかいう」

「ちょ、ちょっとっ! こんなところで言わないでよぉっ!」

「あ、ごめんごめん」

「あのときのはマジでなかったわー。いきなり奇声上げて走り出したんだから」

「そうなの? まなみちゃん」

「う、うん。マジでキモかった。夏とか臭いから、早く席替えして欲しいって、教授には言ってるんだけど、今はまだ席を決めたばかりだから待てって言われて、本当、マジでどうにかして欲しい」

「うっはー、それしんどー!」

「だよなー。俺だったらブチ切れしてぶん殴ってるわー!」

「今度、俺らでかちこんでやるか? 自発的に席替えるように。っていうか、そのまま学校やめてくれるようにさ? メンツ集めて脅してやれば、あの様子じゃあ簡単にブルっちまうんじゃね?」

「あ、それいいかもっ! あのっ、お願いしてもいい?」

「おうっ! まかせとけよっ! 大切な我らがボーカルの為だからな」

「そうだなっ!」

「ああっ! 任せろよ!」

「うん! ありがとうっ!」

「けど、その代わり、今晩もまた頼むよ? まなみちゃん?」

「わ、分かってるよぉ。みんな本当にエッチなんだから。……まなみ、頑張るね」

「おおぉ、マジまなみちゃん可愛いしっ!」

「流石だよなっ!」

「まなみちゃんラブリー!」

「よっしゃ、んじゃあ俺ら、さっそく一肌脱いじゃおうかなっ!」

「ばーかっ、お前が脱ぐのは下着だろ?」

「はっ! 中高と鍛えた空手の腕前、見せてやんよ」

「おっ、マジかっ! 頑張れよっ!」

「かっこいー。私、期待してるね!」

「ちょっとー! まなみばっかりずるいー! 私もまぜてよー」

「おうっ! マキちゃんも一緒に遊ぼうなっ!」

「そうそうっ! 俺、マキちゃんのこと愛してるしっ!」

「本当!?」

「ほんとほんとっ!」

 グループはとても楽しそうだった。

 ゆったりとした調子に歩んでいた為、進行方向から先、彼の隣を過ぎて、更に後方へ流れて行く合間に、耳には多くの会話が届けられた。全ては聞く側にして最悪。胸の内に抱く幻想の全てを粉砕するだけの威力があった。

 例えどれだけ彼女が性に貪欲であっても。それは個人の趣味趣向。彼は全てを受け入れて、ひたすらに求め続けるだけの想いがあった。たまに向けらえる声が、表情が、堪らなく胸の鼓動を高くする。

 けれど、名指しにキモいと称されては、流石の不細工も心が砕けた。

「…………」

 しかも、数メートルの距離をすれ違って尚、相手は彼に気付かなかった。

 真横を素通り。自らの背の先に過ぎて行く。

 周りを囲う男性達ならともかく、毎日、顔を合わせていた相手である。

 それくらい自分は彼女にとって意味の無い、価値の無い相手なのだと、理解した瞬間だった。ずっしりと重い気持ちが胸の中に荒れた。自らの求める相手は、絶対に手の届かない世界にいるのだと、如実に感じ取った瞬間だった。

「なんだよ……くそ……分かってたけど、分かってたけど……」

 彼女は周囲を囲う男達に夢中だった。。誰も彼もイケメン。ジャニーズ系であったり、ワイルド系であったり、お兄系であったり、なんだかよく分からない系であったり、とにかくカッコイイ。男の目から見てもカッコ良い。イケメンがずらり並んでいた。

 また、意中の相手の他、更に可愛い女の子を幾人も連れ歩いている有様。

 いわゆるリア充グループ。

「ちく、しょうっ……」

 外見が違うだけで、こんなに扱いが違うなんて。

 彼は叫び走り出したい気持ちを抑えて、呻く。

 意中の相手は、少し化粧が派手になっていた。香水の匂いが強くなっていた。衣服の趣味が大人になっていた。細かな変化に胸を痛めつつ、けれど、振り返ることもできない。彼は大人しく、自らの足が向かう側へ歩んで行く。先へ、先へ、進んで行く。

 全ては過ぎたことだと自らに言い聞かせて。

 だから、山田は一度として、背後を振り返ることは無かった。

 やがて、数分ばかりを歩いたところ。

 ぶわっと、我慢に我慢を重ねた涙を零すのだった。

 周囲に歩む者達にしては、あれやれこれや、多少をざわめいたところで、気色悪さから距離を取って行く。けれど、それに構わず、彼は泣きながら道を歩むのだった。周囲を気にしている余裕は失われていた。

 ブサメンに生まれたからには、避けようのない悲恋だった。失恋だった。

 どれだけ大層な形で説明しても、その顔では仕方ない、の一言で終わる。

 顔なんて関係無い、などとは、いつの世も勝者の驕り。

 イケメンには絶対に理解されない、ブサメン特有の理不尽だった。

◇ ◆ ◇

 結局のところ、彼は街に求めるところを得ることができなかった。

 無駄にダメージを受けた限りだった。

 延々と数時間をふらついて、けれど、何も成果を手にすること無く、有耶無耶のまま帰路に着く羽目となる。賑やかな繁華街を過ぎて、電車に数駅を過ぎて、辿り着くのは閑静な住宅街の一角。

「もう家だし……」

 あと何回、この道を歩むことが出来るだろうか。

 そう考えると、居ても立っても居られない気持ちになるブサメン。

 けれど、どれだけ強く願っても、決して寿命は延びない。

「しかも、夜中とかねーよ……」

 ポケットから取り出した携帯端末。

 時刻を確認すれば、既に午後十一時を回っていた。

 一日という時間をとても早く感じている彼だろう。

 ちなみに今、彼が手にしている端末は購入間もない新品。これまで所有していたものは、数日前、魔王ロリータにより破壊されてしまった。それを本日、街の店頭で新規に手続きしてきた次第である。価格はキャリア乗り換えの旧機種でゼロ円だ。

「お前のことが好きだとか、誰にどんな顔して言えばいいんだよっ」

 時間だけを確認して、端末をズボンのポケットへとしまう。

 その口から漏れるのは絶え間ない愚痴だろうか。

「好きって単語が悪いのか? でも、台詞を変えるのはクソガキが駄目とか言ってるし、っていうか、俺にどうしろって言うんだよ。なんで俺が彼女持ちの役なんてやらなきゃならないんだよっ」

 失恋の影響もあって昨日までにも増して憤慨は激しいものに。

 自らが演じるべきキャラクターを内に得ようと、必死になるが所以だった。

 悩みながら歩む。歩む。あれこれ考えながら歩む、歩む。

 すると、彼は向かう先に見知った相手を見つける。

「また貴様か……」

「またお前か……」

 魔王ロリータだった。

 しかも、昨日と変わらないスウェット姿である。ズボンの裾に付いたシミや、袖に幾点か付着する血液の飛沫まで変わらず。何度も目の当たりとしている為、夜の暗がりに眺めても分かるほどに覚えてしまっている山田だった。

「お前ん家って洗濯機ないのか?」

「な、なんだとっ!?」

「なんか不憫になってきたし、俺ん家のやつ貸してやってもいいけど……」

「ば、馬鹿にするなよっ!? 洗濯機くらいあるわっ! 洗濯機くらい!」

「じゃあなんで、毎度毎度、同じ服着てるんだよ……」

「っ……」

「まあ、別にお前がどんだけ汚くなろうと、俺には関係ないけどさ」

「だから汚くないって言ってるだろっ! 私をなんだと思っているっ!?」

「んなもん知るかよ」

「こ、このっ、少しくらい興味を持てよ!」

「じゃあ言ってやるよ。前も思ったけど、こんな夜中に出掛けて平気なのか? 親だって黙ってないだろ? 最近じゃあ、こうして話とかしてるだけでもヤバイとか言うし、あんまり関わってくれるなよな」

「っ……」

「まだ小学生くらいだろ?」

「貴様っ……、私だって、封印さえ、この封印さえ解ければ……」

 山田が何気ない調子に語ると、少女は酷く悔しそうな表情で言葉を漏らす。それは過去にも勇者イケメンが語っていた色々。けれど、あまり記憶力のよろしくない彼は完全に忘れており何が何やら。

「はぁ? 封印? なんだよそれ」

「な、なんでもないっ! 黙れ下種がっ!」

「だからほら、親はどうしたんだよ? その年で一人暮らしか?」

「舐めるなよ小僧? 少なくとも貴様の数十倍は生きているわ」

「あぁ、出てっちゃったのか。たしかに、お前ってば火の玉とか出すし、千切れた頭とか生えてくるし、親もそんな子供を育てるの嫌だよな。なんかもう突っ込むのが面倒になるくらい色々とぶっとんでるし……」

 やがては完全に残念な子を見る目で少女を眺め始める山田だった。

 何よりも大切なのは二日後に控えた収録。他の一切合切は彼の興味に対象足り得なかった。どれだけ摩訶不思議な出来事が目の前に起きようと、今はそれよりも、まだ見ぬアニメのキャラクターへ、愛の言葉を囁くことが優先された。どこの誰とも知れない異国の子供を相手にしている余裕などなかった。

 ならばこれは逆に、彼女としては極めて業腹の対応。

「なんでそうなるっ!」

「別になんでもいいじゃん。俺はお前に構ってる余裕なんてないし。んじゃな」

「おいこらっ! 私を馬鹿にしてるのかっ!? 待てよっ!」

「待たねーよ」

 そそくさと歩み出した彼。

 対する魔王ロリータは納得がいかないとばかり、声も大きく食って掛かる。一歩を踏み出した相手のシャツをむんずと掴む。ぐいと安い綿生地が伸びて、身体の前面を覆うよう圧迫感が与えられる。シャツの生地が乳首に擦れてちょっと感じてしまった山田だ。

「ならば一つだけ、確認させろっ!」

「はぁ? なにがだよ? っていうか、いきなり掴むなよっ」

「お前の職はなんだ? あの馬鹿げた再生力や、幾ら弱っているとは言え、人外を圧倒する身体能力は破格だ。職を得て数日に調理人を打倒するなど、凡そ碌な職ではあるまい。まさか英字ランクとは言わせないぞ」

「……またその職ってやつかよ? そんなの知らねぇよ」

「貴様は自身が得た職さえ理解しないのか!?」

「っていうか、どうやって確認するんだよ? 何か証明書でも貰えるのか?」

「職に証明の過程などない。ある特定の領域に置いて、対象の精神が限界まで極まった際、有無を言わさず勝手に発現するものだ。故に明らか常人を逸脱した時点で、自らの目指すところを鑑みれば、自ずと推測も可能となる」

「いや、意味が分からないから」

 魔王ロリータの説明は山田にとって難解だった。

「一昨日の調理人であれば、料理を極めんとする強烈な精神が、その職を与えた。別段、他の誰が認定する訳でもない。ある日突然、自らの望む先を顕現するよう、職というものは与えられるんだよ。まあ、ヤツの場合は世間からすれば些か歪んでいたがな。おかげで料理人でなく、調理人などという職を得たのだろうが」

「んなこと言われても、俺、何かに一生懸命になったことなんてねぇよ」

「そして、職は対象の精神構造の変換、そいつ自身の目的や生き様の変化により、姿を変えて行く。主義主張の変化により職を失う者もあれば、更に強烈な力を伴う職、一般には上位職と呼ばれるものを得る者もいる」

「なんかゲームみたいだな?」

「決して否定はしない。ただ、ゲームとは違い職を管理する存在などはない」

「ふぅん……」

「他に、私のような人外に関しては、特定の職が当てられている場合が多い。例えば職の名前として魔や妖といった表現が入る。魔王という職にしても、元はただの魔物から始まった一連の流れの過程に過ぎない」

「で、それがなんだよ? 俺にどう関係してるんだよ?」

 人外という単語はスルーして続きを促す。

 真面目に聞くだけ馬鹿を見るだろうと、決めつけての会話だった。

「貴様の発現は三日前、近所の公園で私と遭遇した際のことだろう? ならば、その瞬間に何か、心の底より強く目指した姿がある筈だ。それが今のお前の職の根底を為す何よりの精神だ。少なくとも、同じ職を保持している限りな」

「三日前の公園ったって……」

 魔王ロリータの説明を受けて、自らの行いを思い起こす。

 もしも昨晩の出来事で計ることが可能ならば、或いは声優という職業を思い浮かべたかも知れない。けれど、三日前となると、その時の彼は何一つとして信じるところなど持っていなかった。

 それこそ嘗て無いほどに空っぽであった瞬間が、今に指摘された時分だろう。

 何か特定の仕事に就きたいとは、これっぽっちも考えた覚えなどない山田だった。

「やっぱねーよ。ぶっちゃけ、あんとき最悪だったし。今も最悪だけど」

「隠しているのか? 職など隠したところで、すぐ他者にばれるぞ。職の中には相手の職を知る力を得た者もいる。いざ力を発揮する現場を見られれば、次の瞬間には特定されるだろう」

「そんな簡単に特定できるなら、こっちこそ教えて貰いたいくらいだし」

「……本当に理解していないのか?」

「悪いかよ? 別に職なんてあっても無くてもどっちでもいいわ」

「あれだけの恩恵を受けていてもか?」

「今更ちょっと喧嘩が強くなったところで何の意味もねぇよ。っていうか、こっちはそれどころじゃねぇんだよ。勇者だろうが魔王だろうが、やりたいヤツがやりたいようにやってればいいじゃんか。俺はこんなところで下らないごっこ遊びに構ってる暇なんて、一秒もねぇんだよ」

「ごっこ遊びだと?」

「そうじゃんか。何が魔王だよ? 真顔で言ってて恥ずかしくねぇの?」

 一歩を踏み出すに多大なる労量を必要とした分、一度歩み出てしまえば、そこから先は周囲に何を言われようと留まることを知らない山田だった。既に自らの求めるところを得るに必至である。周囲がまるで見えていない。

 今はただひたすらに、台本へ意識を向けて止まない声優一年生。

「んじゃ、俺はもう行くぞ」

「あ、おいこらっ!」

 そうして彼は語るだけを語り、再び歩み出す。。

 今度は少女も腕を伸ばさずに終わった。

◇ ◆ ◇

 翌日、それは日の出と共に訪れた。

 ズドン、大気を振るわせる巨大な爆発音が響く。応じて、建物の一端が崩壊。ガラガラと音を立てて、コンクリートと軽鉄骨に作られる外壁が砕け落ちた。ベランダの面する側の壁に大穴が空いていた。

 他のどこでもない、山田の自宅である。

「な、なんだぁああっ!?」

 耳喧しい轟音にベッドから飛び起きる。その目に映ったのは、見事に穴の開いた部屋の壁。ベランダへ通じるガラス窓は完全に砕け散っていた。窓をはめ込む外壁や、隣の部屋とを仕切る薄い内壁も半分ほどが同様に。

 全てがたった一度の爆発音で瓦解していた。

 おかげで布団の上からでも、隣接する魔王ロリータ部屋が窺える。

「な、なんだっ!? 何が起こったっ!?」

 相手もまた、布団から上半身を起こした状態で目をぱちくりしていた。いつものスウェットを脱いで、完全な下着姿である。しかも上はブラジャーを付けていないので、実質、パンツ一丁といった具合。

 隣の部屋に魔王ロリータの姿を見つけて、彼は咄嗟に声を上げる。

「お前っ! またなにかやったのかっ!?」

「貴様こそ何をしたっ! まさか、この身を狙ってのことかっ!?」

「誰が狙うかクソガキっ!」

 互いに大慌てで立ち上がり、寝ぼけ眼に睨み合う。

 ならば、声は外から放たれた。

「オウル班は魔王へ向えっ! セデス班は俺と共に不明職へアタックっ!」

 砕かれた壁の先、そこには大勢の何者かが立ち並んでいた。

 数にして十数人。

 それが今に上げられた声に応じて、一斉に二人の下へ駆け出してきたのである。それこそ戦国映画に眺める足軽の突撃を思わせる勢いがあった。なかには日本刀を手にしている者、重火器を手にしている者までいる。

「だ、誰だよお前らっ!?」

「まさか、騎士団の連中かっ!?」

 まるで状況を把握しない彼に対して、魔王ロリータは今の状況に少なからず理解がある様子だった。驚愕に声を漏らしながらも、苦々し気に顔を顰めている。どうやら彼女と関係のある者達らしい。

「まさかここがばれていたとはっ……」

「お、おいっ、コイツらなんだよぉっ! もぉおおっ!」

 山田にしては文句を言う暇もなかった。

「撃てぇええっ!」

 大仰な号令と共に一斉の攻撃。

「ちっ……」

「うぉおおおおあああああっ!?」

 火の玉やら、氷柱やら、雷の煌めきやら、ビームのような光線やら、更には銃弾や剣の投擲が雨あられ。魔王ロリータと山田の下へ降り注ぐ。個人を粉砕して尚、建物を倒壊させるだけの威力を秘めて思える驚異だった。

 魔王ロリータは何やら、両手を前に突きだして対抗。応じて、迫る一切合切が彼女の正面にはじける。その身を貫かんと迫った全ては、手の平から数センチ手前で完全に消失していた。

 他方、彼は迫る全てを身に受けた。悲鳴を上げたのも僅かな間のこと。次の瞬間には肉体を細切れにして、人としての原型を留めないまでになっていた。肉も筋も骨も内臓も、一切合切をミンチとしていた。

 隣の部屋を眺めて驚愕の魔王ロリータ。

 両手を正面に突きだした姿勢のままびっくり。

 今に眺める彼の無様が、信じられないと言わんばかり。

 けれど、その驚愕は次いで更なる衝撃に塗りつぶされる。

「な、なんだとっ……」

 目前に映し出されたのは奇怪な光景。肉片に分解された彼の肉体が、けれど、ピクピクとそれぞれ蠢いては集まり行く。そして、元在った姿を取り戻さんと、クレイアニメのよう形を整えてゆくのだった。

 これを目の当たりとしては、攻撃を放った側にしても動揺が走る。

「どういうことだっ!? この状況で再生しようというのかっ!?」「ありえないっ! 対象は人間じゃなかったのかっ!?」「しかも再生スピードが尋常じゃなく速いぞっ!」「おいおい、マジかよっ……」「まさか上位の人外かっ!?」「数字ランクの一斉攻撃が直撃したんだぞっ!? どうなってんだよっ!」

 口々に驚きが発せられた。

 ややあって、十数秒の間に彼の肉体は元在った形を取り戻す。

 意識を取り戻す。

「ぉおおおおおっ……っ……ぉ、お? おぉ? ひ、火の玉とかどこいったんだよ」

 流石の本人も状況が理解できないらしい。

 また、肉体こそ復帰したものの、衣服までは戻らない。崩壊した自室に立ちすくむ姿は素っ裸だった。小さめの性器は仮性包茎。身体が動くに応じて、ぶらぶらと揺れては所在なさ気に殊更縮こまる。

「おいぃいいいっ! ちょっと、なんで裸なんだよっ!」

 自らの正面には大勢の他人。その中には女性の姿も決して少なくない。老若男女の混成による一団が故、見た目の麗しい年頃の相手もちらほら。それが皆々、一様に彼の姿を凝視しては驚いていた。

「み、見るなっ! 見てんじゃねぇっ! なんでだよっ!」

 大慌てに両手で股間を隠す無様だった。

 何か着られるものは無いかと部屋の中を見渡す。けれど、今し方の一斉掃射により、彼の部屋は完全に崩壊していた。全ては焼け焦げていたり、凍り付いていたり、穴だらけになっていたり。まともに着られる衣服は一つとして見つけられなかった。

「ああぁああああっ! 服、服が無いっ! しかも台本もねぇっ!」

 家財の一切合切を失った衝撃から、大きく咆吼を上げる山田。

「ふ、ふざけんなっ……ふざけんなよなっ……なにやってくれちゃってんだよっ……」

 ギリリ、歯を食いしばり、怒りに握り拳を振るわせる。

 状況こそ知れぬども、今に眺める惨事が目前に並ぶ者達により為されたことだけは、阿呆な彼にも理解できた。ふつふつと沸き上がる思いは、連日のように訪れる理不尽により、平素と比べて尚のこと増幅されては、身体的衝動へと繋がる。

「上等じゃねぇか、クソっ、クソっ、ぶっ飛ばすっ、絶対にぶっ飛ばす!」

 キッと不細工な顔を更に不細工なものに歪めて、闖入者達を睨み付けるのだった。

「くっ、こうなったら一斉にかかるぞっ! 封鎖も限度がある、一気に叩き込むんだっ! 仮に数字ランク上位であったとしても、こちらはそれを十分に打倒できるだけの戦力を集めている。絶対のこの機会を逃すなっ! 魔王は捕獲、男は殺せっ!」

 リーダーだろう男が吠える。

 応じて、他の面々にしても、声も大きく頷いては攻勢に身構える。

「いきなり人の家を吹っ飛ばしておいて、なにが殺すだこの野郎っ! イケメンだからって、なにしてもいいなんて、俺は絶対にゆるさねぇっ! ぶっ殺すっ! ちくしょうっ、台本も燃えちまったぁっ!」

 怒りに突き動かされて、山田が駆けた。

 向かった先は最も近くに立っていた相手。名も知らぬ男。

「く、来るなっ!」

「うぉおおおおおおっ!」

 胸に滾る情動に任せて、精一杯に腕を振り上げる。

 そして、振り下ろす。

 堅く握った拳を、相手の顔面に目掛けて打ち込んだ。

 応じて、ドンっ、低い音と共に対象の首から上が吹き飛ぶ。破かれた大血管から大量の出血が、まるで噴水のように吹き出す。殴られた側にしては、禄に悲鳴を上げる暇も無い一瞬の出来事だった。

 拳を振り切ってしばし、山田は自らの所行を前に、乾いた笑いを口とする。

「へ、へへへっ、これで俺も今日から人殺しかよ、ちくしょうっ……」

 どんな言い訳を並べたところで、もう戻れない。色々とやっちまった後だ。

「くそったれが、こうなったらどうにでもなれよっ! こんな世界なんて知ったことかよっ! ちくしょうっ、ちくしょうっ、俺がやることなんて、もう、一つしかないんだからなぁっ!」

 自らの拳にへばりついた人皮を眺めて、耳喧しくも吠える。

 その顔は、もの凄く気持ちの悪い顔をしていた。

「くっ! ヤツは一時防戦だっ! 魔王の捕獲を優先しろっ!」

「誰が誰を捕まえるだって?」

 集団の中央に立ち、命令を下していたイケメン。その傍らにいつの間にか魔王ロリータの姿があった。未だパンツ一丁のまま。けれど、自らの裸体を恥じた素振りなど寸毫として見せず、余裕綽々と立っていた。

「なっ……いつの間にっ」

「死ねよ。雑魚が」

 その腕が大きく振るわれる。

 応じて、男の頭部が彼女の足下へと転がり落ちた。

 今し方に彼が見せた光景に同じく、こちらでもまた大量の出血。少女の真っ白な肉体を、赤い液体がべっとりと染めていく。あちらがただ気持ち悪いだけの光景であったのに対して、こちらは神秘的なものが混じって思える光景だった。

 魔王ロリータの美しい外見が所以。

 この世は見た目が全て。

「あ、アレンが一撃っ!?」「おいおいっ、彼はランク五じゃなかったかっ!?」「今の移動、この俺にも見えなかったっ!」「ちょ、ちょっとぉっ! どうなってるのよっ!? 弱ってる魔王を捕まえるだけの簡単な仕事じゃなかったのっ!?」「おいこらっ! こんな話、俺は聞いてねぇぞっ!」

 容易に仲間の殺される光景を目の当たりとして、動揺は瞬く間に広まった。

 上がる悲鳴は日本語に限らない。実に様々な言語であって、ああだこうだ、誰一人の例外と無く慌てふためいている。総じて共通しているのは、事前に伝えられた情報と今に眺める光景との相違。

「冗談じゃねぇっ! こんなところで死ねるかよっ!」「魔王を捕まえて次の職へ進むつもりだったのにっ、逆に狩られるなんて、は、話にならねぇわっ!」「魔王は本当に封印されれるのかっ!?」「こんなの聞いてねぇっ!」「お、おいっ! 逃げるなよっ! なんとかなるかもしれないだろっ!?」「なるわけねぇだろっ!」「どうして魔王が二人も居るんだよっ!」「お、俺は降りるっ! 降りるぞっ!」

 そして、数秒と待たずして、皆々、逃げ出すのだった。

 恐怖の伝搬は早かった。

 十数名と群れを為しては、勇み向かい来た者達が、しかし、蜘蛛の子を散らすように駆けだして行く。完全に戦意を喪失して思える光景だった。各々、二人に背を向けて、全力で地を蹴ってのこと。

 登場がいきなりであったのならば、逃げ足もまた大したものだろう。ものの数秒で一人残らず撤退。建物の影に隠れて姿は見えなくなってしまった。十数秒の後にはキキッーと勢い良く走り出す車の発進音が聞こえてきた。

 これを二人は黙って眺める。

 山田としては、もう二、三発を追加で、ぶん殴りたいという思いが強い。しかしながら、素っ裸である為、下手に出歩くことも叶わず断念である。

 これはパンツ一丁の少女にしても同様か。それとも他に何か理由があるのか。苦虫を噛み潰したような表情で、逃げ出した者達を見つめる限りだった。

 一連の出来事は時間にして数分。

 二人の部屋を中心とした一帯は、まるで嵐が通過していったように荒れ果てていた。

◇ ◆ ◇

「んで、さっきのはなんなんだよ? なんか知ってるんだろ?」

「奴らは騎士団の連中だ」

 一悶着の後、彼と魔王ロリータとは別所に言葉を交わしていた。

 場所はアパートの近所に所在する公園。

 そこに設えられた三人掛けのベンチである。

 魔王ロリータはいつものスウェット姿だ。無事だった服がそれしかなかったらしい。悪運の強いスウェットだろう。相変わらずズボンの裾には、見覚えのあるシミが窺える。

 他方、彼はと言えば、コンビニで購入したワイシャツにトランクス。そして、かろうじて燃え残った魔王ロリータ宅のカーテンを腰に巻き付けた姿格好。警察に目撃されたならば、即座に職質されること請け合いの出で立ちだった。

 ワイシャツとトランクスを購入する際など、カーテンを身体に巻き付けただけであった為、レジカウンター越しの状況説明には困窮した次第である。もしも客の多い時間帯であったら、色々と危なかった。

「騎士団? なんだよその安いアイドルグループみたいなのは」

「西欧近隣で一、二を争う巨大な職組織だ。聞いたことないのか?」

「ねーよ。っていうか、職組織ってなんだよ?」

「そんなことも知らないのか? 阿呆だな」

「うっせっ、こちとらお前らの常識に足を突っ込んで何日目だよ?」

「まあいい、説明してやろう」

「無駄に偉そうだな……」

「こちらの常識では大先輩だ、偉いのは当然だろう?」

「ふんっ……」

 どこかで聞いたような台詞だった。

 見た目、小学生中学年な少女に偉ぶられて、気分の良くない山田である。数週前までの彼であれば、子供を相手にここまで気分を害することもなかっただろう。けれど、今は状況が極まっており、自らの感情に対して、とても素直になっているのだった。伊達に余命三ヶ月を切っていない。

「職組織とは文字通り、お前や私のような職持ちが集まった組織だ。下は英字ランクから、上は上位数字ランクまでが集う。そして、その構成員数は約千人。この世界においても有数の規模だ」

「不思議ちゃんの集まったヤクザ組織みたいなもんか」

「まあ、お前の認識からすれば、その通りだろうな」

「くっだらねぇな。マジで死ねよ。リア充が」

「弱い者ほど群れたがるものだ。そうでなければ生きていけないからな」

 彼の言葉に小さく頷いて、何気ない調子に語る魔王ロリータ。

「とは言え、今の私にとっては、決して油断できない驚異だ」

「……そんなにヤバイのかよ? なんか簡単に逃げてったじゃんか」

「恐らく、奴らは適当に餌を与えられてやってきた先兵だ。恐らくは大半が英字ランクだろう。或いは騎士団の下位組織の人間かもしれない。まさか、本家の上位数字ランクの連中が群れてきたのなら、あそこまで簡単に追い払うことは、現在の私では不可能だ。こちらが弱っているからと、油断したのだろうな」

「よく分からないけど、舐めてかかってきたってことか」

「そういうことだ」

 未だに全容のハッキリとしない背景。大凡のところで、目の前の少女が件(くだん)の騎士団とやらに狙われていることだけは、なんとか理解した彼だった。ヤクザ集団に目を付けられたダサい女という認識で決定だった。

「なんだよ、俺はお前の面倒に巻き込まれたのかよ……」

「ふんっ、勝手に私の部屋の隣に住んでいたのが悪いだろうが。そもそも、あの場所が知れたのも、お前の存在が理由ではないのか? 相手の口ぶりからして、お前の存在を見越した上で、今回も兵を寄越していただろうが」

「はぁ? んなこと知らねぇよっ。あと言っとくけど、あのアパートには間違いなく俺のが先に住み始めてたからな? 学部三年の頃から住んでるんだから、もう四年目だし、お前のことなんて、ここ最近になって初めて見たんだから」

「そんなこと知るかっ」

「こ、このっ……」

 しれっと言ってのける魔王ロリータ。

 思わず額に青筋を浮かべる山田だろうか。

「しかし、何故に居場所がバレたのか。やはり、あの調理人か……」

「はっ、ざまぁねぇな。そのまま殺されちまえよ」

「誰が騎士団如きに殺されてやるものか。すぐに元の力を取り戻して、組織全てを八つ裂きにしてくれる。あぁ、あと、その暁にはお前も同様にいびり殺してやるわ。二度と生意気な口を叩けないようにしてやる」

「誰が殺されてやるかよ。まあ、いずれにせよお前の願いは一生叶わないだろうな」

「随分な自信だな?」

「いいや確信だな。そんなに俺が憎いなら、ふんっ、せいぜい急げよ。クソガキが」

「上等だ。首を洗って待っていろ」

「まあ、待てるもんなら待っててやりたいくらいだわなっ」

「……なんだと?」

 多少ばかりを語ったところで、山田はベンチから腰を上げる。

「あ、おいっ」

 これ以上をコイツと話をしている時間は無いと言わんばかり。酷く無礼な態度だった。僅かとして取り繕った様子も見つけられないぞんざいな振る舞い。

「どこへ行くつもりだ?」

「今晩の寝床を探すんだよ。服は全滅だったけど、財布が無事でマジ助かったわ」

 数日前、貯金の全てを下ろしていた彼だ。残り僅かな人生だからこそ、希望など欠片も見つけられない孤独な人生だからこそ、何を残して逝くこともない。使えるものは全て使い切ってしまおうという算段であった。

「んじゃな。もう二度と会いたくねーよ。クソガキ」

「上等だ、いつかぶち殺す」

「勝手に言ってろっ」

 幾度か軽口を交わしたところで歩み行く。

 彼としてはできる限り早く、ズボンを調達する必要があった。現在、午前六時。今ならばまだ人通りは少ない。だからこそ早急に衣料店へ赴き、ワイシャツにカーテンの腰巻きという格好を脱する必要があった。

 これで通りに人気が増えれば、いよいよ、警察の世話になりかねない。

 何より大きいのは人を一人殺したという負い目だ。警察機関に世話となることは、どうにも気が引ける。残り二ヶ月と二週間。これ以上の面倒事は絶対に御免だという意思の表れだろう。

 歩み早に山田は公園を立ち去る。

 その姿は通りの先へ消えて、すぐに見えなくなった。

「……ちっ、なんだと言うのだ。あの化け物は……」

 後に残されたのは、少女のつぶさな独りごちだった。

◇ ◆ ◇

 ところ変わって、こちらは騎士団の拠点である某国大使館。その一室にて、同組織の上から二番目の地位にあるサイ・フリンの下へ、彼の下に付く幹部の一人が報告を行っていた。互いに表情はとても厳しいものだ。

「まさか、アレンがやられるとは思いませんでした」

「アレンは魔王、ユーゴは不明職に一撃だったとの報告ッス」

「どうやら認識を改める必要がありそうですね」

「そうみたいッスね」

 今に二人が向き合うのはサイの執務室だ。西洋屋敷然とした間取りの絨毯敷き。広さは十畳ほど。簡素な机に椅子、本棚や鉢植えの観葉植物など、多少ばかりの調度品が並ぶ部屋である。

 デスクに向かい書類を捌く彼は普段と変わらずスーツ。他方、報告に挙がった幹部はと言えば、十代中頃を思わせる若いアジア人の青年。顔はフツメン。肌は色黒。東南地方出身と思われる。姿格好もTシャツにジーンズというラフな出で立ち。

「分かりました。そうなると次は十分に考えないといけませんね」

「あの、自分らなら、いつでも行けるッスよ?」

「良いのですか?」

「サイさんの為なら、そしてなにより、我らが王の為なら、自分らは相手が魔王だろうが嫁だろうが、喜んで突っ込むつもりッスよっ! だから、遠慮無く使ってやって欲しいッス」

「では、申し訳ありませんが、次は皆さんにお願いできませんでしょうか?」

「了解ッス! そう言ってくれると思ってましたッスっ!」

「ありがとうございます。いつもお願いばかりですみません」

「何言ってるんッスか。こうしてサイさんが指示を出してくれるからこそ、俺らは頑張ることが出来るんッスよっ! もっともっとこき使ってやってくれて、ぜんぜん構わないんッスからねっ!」

「そう言って頂けると、とても助かります」

「それじゃあ、自分は皆に伝えてくるッス」

「後で私の方からも、皆さんの下に向かわせて貰いますね」

「あ、了解ッス! それじゃあ、自分は失礼するッスっ!」

 大きく頭を下げて執務室を出て行く青年。早々に踵を返しては、歩み早に廊下へと向かい行く。やがて、バタン、ドアが閉められると、部屋は元の落ち着きを取り戻した。ドアを一枚挟んで廊下の先、タッタッタ、駆ける音はすぐに遠退いて聞こえなくなった。

 時刻は午後一時を多少ばかりまわった頃合。

 麗らかな午後の時間、空調の行き届いた快適な一室は穏やか。ガラス窓からレースのカーテン越しに差し込む夏日は、ミーンミンミン、蝉の音と共に。時折、庭先の木の葉が風に揺らされては、室内にその影が揺れて、陰る陽光もまた、キラキラと瞬いて揺蕩う。

「……早く、早く魔王を捕獲しなくては……」

 再び一人きりとなって、ぽつり、愚痴を零すサイだった。

◇ ◆ ◇

 無事にズボンを手に入れた山田が向かった先は、自宅近所のネットカフェだった。

 財布の中には残すところ数万ばかりの金銭。これが全財産。二ヶ月弱を過ごすには、割と心許ない金額であった。少なくとも毎日をホテルに住んでいては圧倒的に足りない。故に決定された今晩の宿である。

 昨今では貧困ビジネスも極まり、低所得者に溢れる同所か。

 ただ、彼にとっては良い面もある。同店舗にはカラオケボックスが店内に併設されており、所定の料金を支払うことで利用可能だった。故に寝床から発声練習の場までを、数分とかからず移動可能となる。

「っていうか、台本……」

 ということで、早速、カラオケ部屋を借りた山田である。

 しかし、そこで彼は致命的な過ちに気付く。

 台本が無いのだ。

「また貰いに行かなきゃならないのか……」

 今し方に入店したばかりのところ、思わず頭を抱えたくなる山田だった。

 五、六人が収まる一室に一人ぽつねんと佇む姿は無様。

 時刻は午前八時を過ぎたあたり。今から出掛けて監督の事務所まで向かい、台本を受け取って返ってくると、戻る頃には午前十時を過ぎているだろう。しかも移動が出勤時間帯に重なる為、非常な混雑が想定される。更には監督が事務所に所在するとも限らない。

「面倒だな……」

 呟いて、彼は思い起こす。

 ここ数日で幾十、幾百とめくったページを。

 すると、本人も驚いたことに、自然と脳裏に浮かび上がる台詞たち。

「……もしかして、俺、覚えてるんじゃね?」

 一字一句違わず、自らが口にすべき言葉が思い起こされるのだった。

 また、前後にあった関係するキャラクターの台詞も同様。途端、彼の脳内に展開されるのは、まだ見ぬキャラクターたちの問答である。幾度となく想い描いては、こんなの違うと否定したやり取りの連なり。

 未だ答えを得ない終わりへ向けての流れ。

「これなら……」

 想定外の出来事に驚きながらも、おずおず、発声練習を始めるのだった。

 一人きりのカラオケ部屋に響く男の声。

 監視カメラ越しに眺める店員一同にしては、なにこいつマジきめぇ、の寸感。

 それから数時間に渡り、練習は続けられた。

 翌日には収録が迫っているというに、喉が枯れるまでを延々と稽古である。阿呆としか言いようのない男だった。最後の方は意識しなくても台詞が口から出てくるほど。これを喋ったら、次は何を喋る。考えるまでも無く、つらつらと言葉が続いた。

 ただ、どれだけを繰り返しても、最後の台詞だけが、山田は満足できなかった。誰かを好きになったことはあっても、それ以上の関係へと進んだ試しが無いが所以の戸惑いと疑念だった。

 そして、一向に晴れない不満を残したまま、午前の練習を終えることとなる。

 一度も使わなかったマイクをフロントに返却する。利用料を支払う。

 山田がその足で向かった先はドリンクコーナー。

 長らく喉を使っていたので、何か甘くてトロトロとしたものは無いかと、ドリンクサーバーの並ぶ場所へ足を向けた。できれば牛乳系の甘いやつが飲みたいなぁ、などと贅沢な思いを抱いてのこと。

 ならば、そこに見つけた自らの天敵。

「げっ、お前っ……」

「なっ、貴様っ……」

 魔王ロリータだった。

 つい数時間前、もう二度と会うものかと分かれた相手だった。

 今生の別れにしては早すぎる再会。

 驚いたのは相手にしても同様であったらしい。

 今まさに盛り終えたのだろう。手にした山盛りのアイスクリームを、しかし、ぽとりとコーンから床へ落としてしまう。それはまさに彼が求める、何か甘くてトロトロとしたものだった。

 ぴしゃり、冷たいバニラアイスがサンダルに露出した足先に被さり、うぉあ、と情けない声が上がる。妙に男っぽい悲鳴の出元は、しかし、魔王ロリータだったりする。

「なんで、なんでお前がここに居るんだよっ! やっぱりストーキングかっ!?」

「ばっ、誰が貴様なんぞの後を付けるかっ! このキモイ物体がっ!」

「ぶ、物体って、お前っ、それは酷いだろっ!? ふざけんなよっ!」

 早々のこと険悪な雰囲気となる二人である。

「ここは漫画が沢山あって、ジュースとかアイスも食べ放題だし、寝転ぶ場所もあるから居心地がいいんだよっ! 貴様こそなんでここにいるっ!? そっちこそ私の後をつけてきたんじゃないか!?」

「冗談言ってんじゃねーよっ! どっかの誰かのせいで部屋がぶっ壊れたから、仕方なくこんなところでその日暮らしだよ畜生がっ! ホテルに泊まる金がねぇんだよっ! 貧乏舐めんじゃねぇぞっ!」

「はっ、惨めな男だっ! 宿に泊まる金も無いのか」

「うっせっ! それにここはカラオケの部屋があるから丁度良いんだよ。練習したいときに練習できるし、漫画はあるし、アニメもあるし、インターネットだって使い放題だし、それにアイスもあるみたいだし」

「演技? あぁ、以前に言っていたアニメの声優というやつか」

「そうだよ。悪いかよ?」

「その顔で演技だなんだと言われても、どうせ三文芝居なのだろう? 無価値だ。カラオケの部屋など借りるだけ金の無駄だ。大人しくその金で私に食事でも奢った方が、まだ価値があるだろうに」

「なんで俺がお前にメシを奢らなきゃならねぇんだよっ!」

「毎日毎晩、耳障りな愛の言葉を薄壁越しに連ねられたんだ。当然の贖罪だろう? 仮に奴らがやってこなくとも、今晩にも続けられていたのならば、きっと私が部屋の壁をぶち抜いていただろうさ」

「んじゃなんだ? お前はそんなに演技が上手いのかよ? 人にああだこうだ言えるくらい、素晴らしい演技ができちゃうのかよ? キーキーと吠えるしか能のない壁ドン女の癖にっ」

「ふんっ、何が演技だ。貴様の三文芝居なぞ演技の内にはいるか」

「ほぉぉおおっ。んだったらやってみせろよ? お手本が見てみたいわ」

「いいだろう。私とて伊達に長らく生きてはいないわ。コメディ・フランセーズで魅せたこの声、聞かせてやろうじゃないか。演技とは何か、知らしめてやろうじゃないか」

「上等だ。待ってろよ? すぐに部屋借りてきてやる!」

 売り言葉に買い言葉、早々にして二人の午後の予定が決定された。

 彼にしては今し方に返却したばかりである部屋のカギを再び取りに走る。当然、店員は変な顔をして見せる。ただ、幸いにして予約の類いは入っておらず、部屋はすんなりと押さえることができた。

 部屋を取った山田は、次いで台本の打ち出しを行った。記憶を頼りに自らが演ずるべきキャラクターと、そのキャラクターと対になるヒロインの台詞をパソコンに打ち込む。これをコピーして準備は万端。前者は当然自身が、そして、後者を魔王ロリータに演じさせるべく考えてのことだ。

 舞台をカラオケルームへと移して、二人の争いは始まった。

◇ ◆ ◇

 数十分の後のこと。

 結論から言うと、魔王ロリータを前として、山田は手も足も出なかった。

「な、なんでそんな声が出るんだよ……」

「これくらい当然だろう? 練習と言うからには、まあ、この程度はなぁ?」

「ぐっ……」

 魔王ロリータに与えられた役柄は、清楚にして穏やか、健気にして儚い、彼女が日々見せる横暴な性格とは対局に位置するものだった。

 まさか演じられる訳が無い、山田にしては高をくくっての挑戦だった。

 しかし、ひとたび役を初めて以後は、一言の毎に脱帽させられた次第である。

 まるで人が変わったように声を当ててくる魔王ロリータを前として、彼は満足に自らの役を演じることすらできなかった。かろうじて声を出すことが叶った程度。その声も本来のものと比較しては、数段と劣り、傍目には棒読みが如く映る有様。

 彼女が声を発する度に与えられる、新しい音色とキャラクターの広がり。過去の練習において、彼なりに想像してきたヒロインのキャラクター像は、けれど、それ以上の表現が今まさに与えられたのだった。

「しっかし、実に酷い声だったな。それで本当に声優が勤まるのか?」

「ちがう、い、今のはっ……」

「今のは、なんだ? 言い訳か? この後に及んで無様だな?」

「っ……」

 自らの優位を確信して、したり顔で問い掛けてくる魔王ロリータ。

 対して山田はと言えば、ギリギリ、歯を食いしばり非常に悔しそうである。

「顔が悪い奴はなにをやっても駄目なんだよ。諦めろ」

「う、うっせっ、顔は関係ないだろっ!?」

「顔が悪ければ、他も段々と歪んでいくものだ。人生、諦めが肝心だろうに」

「この、も、もう一回っ! もう一回だっ! 今度は違うっ!」

「はっ、何度をやっても同じことだと思うがな」

「いいから、おらっ! もう一回、もう一回行くぞっ、最初からだっ!」

 圧倒的弱者を遥か上から見下すように、厭らしい笑みに眺めてくる魔王ロリータ。その態度がどうにも気に入らない山田だった。仮に敗北必至であっても、全力を出せなかったことが悔しくて再戦を挑む。

 対する彼女は自らの優位を確信してだろう、悠々と応じてみせる。

「無様だなぁ? まあいいさ、何度でも圧倒してやろう。この私がな」

「上等だっ!」

 そして、再び台本を最初から演じ始める二人だった。

 調理人の一件を経たことで、魔王ロリータは今の自分が彼に喧嘩で劣ることを、劣らずとも勝利に多大なる苦戦を要することを、正確に理解していた。だから、現状、唯一相手をぎゃふんと言わすことのできる領域を発見して、少なからず興が乗って思えた。

 過去、他の何より誇るべくあった暴力を否定されて、その矛先が一挙に向いたが所以の対応である。でなければ、こうして素人のへたくそな演技練習に付き合うこともなかっただろう。

 他方、彼にしては興味の向かう先、その全てが翌日の収録だ。相手が誰であろうと、何であろうと、使えるものは使うのスタンスである。体の良い練習相手を見つけて、意識は増々のこと演じるべき役に向かう。

 そうした両者の妙な背景も手伝い、練習は長らくに渡り及んだ。

「お前のことが、お前のことが、好きだっ……だから、さ、先に行けよぉっ!」

「待ってっ! 貴方はっ、貴方はどうなるのっ!? このまま、このまま……あぁ、おい、なんだ。やっぱり何度聞いても本気で気持ち悪いな? 割と良く書けた台本ではあるが、正直、ここでお前が出てくるとそれも萎える」

「お、おいっ! 途中で止めるなよっ! 恥ずかしいだろっ!?」

「だって、声だけでも十分に気持ち悪い。目の前で囁かれては、言われずとも全力で逃げ出すレベルだろ。見ろ、ここんところを、あんまりに気持ち悪いから、鳥肌が立ってしまったではないか」

「う、うっせぇっ! 俺だってキモイのくらい理解してるわ! こんな、こんな役とか、どうすりゃいいのか分からねぇよっ! 好きな人なんて、そんなもん持ってるのは幸せな勝ち組野郎だけじゃんかよっ! 底辺にどうしろってんだよっ!」

「なら諦めろ。不細工は何をやっても無様を晒すだけだ」

「ぐっ……」

「それよりもお前は自らが得た職を極めるべきだ。どのような過程があったのかは知らないが、単独で調理人を打倒したというならば、それは世間的に十分な価値があるものだと私は判断する」

「はぁ? このご時世に喧嘩が強くてどうなるんだよ? そんなもんは高卒中卒土方野郎に任せておけばいいんだよ。それで足りないなら、東大でも防衛大でも入って、顎で警察や自衛隊を使えるくらい、うんと偉くなればいいじゃんか」

「その程度の認識か? ならばお前は職に対する考えを改めた方が良いな」

「うっせっ! お前のうんちくや説教はもう十分だよ。第一、俺にはもう、これしかないんだよ。だから、これを一生懸命になるんだよ。本気でっ!」

「まあ、お前の人生だ、私は止めないがな」

「言われるまでもねぇよ。だから、もう一回っ、もう一回だっ! 他の部分は、特に中盤までは分かって来たような気がするんだ。だから、ほら、なんならマイク使ってもいいからっ!」

 今まで一度として使われなかったマイク。

 集音部分に被せられたビニールを剥がして、彼はそれを少女に差し出す。

 彼女はこれを無視して言葉を続けた。

「先程から気になっていたのだが、お前はキャラの全てに自身を当てるつもりか? まるで自らを投影したように喋ってくれる。それは今の時分、声を作る仕事として、正しい姿勢なのか?」

「あぁ? なんでだよ?」

「声だけを当てるならまだしも、お前の今の必死な姿は、それこそ声を当てるべき役の、一から十までを自らに肯定させるだけの、その過程に思える。自身の全てを他者へ投影するなど、どれだけ馬鹿なんだ? 役は役、自分は自分だろうが」

「い、いいじゃんかよっ! 感情が入ってた方が上手くいくかも知れないだろ!?」

「まるで子供だな。物語の世界に入り浸り、登場人物になりきるか? 声の善し悪しと、本人の感情とは別物だ。極めたところで何の意味も無い。女を知らないと嘆くならば、金を払ってそこいらで一発やって来れば良いだろうが」

「うっ……そ、それはっ」

 嫌な経験を掘り出されて、思わず返す言葉に躊躇する彼だ。

 脳裏に思い描かれたのは自分より十以上年上の風俗女性の裸体。黒ずみ膨れあがった乳首や爛れた性器、我慢ならない口臭が、今更ながらに吐き気を誘う。完全な黒歴史と化した二時間総額四万円。

「お前はお前が理解し得る人生を設定された役しか演じられない、極めて用途の狭い欠陥役者を目指すつもりか? 役者の役者足る所以は、どれだけ多岐に渡る役を高度な地点で演じられるかにあるだろうが」

「お、お前はそう習ったのかよ?」

「別に習ってなどいない。ただ、そう理解しているだけだよ」

「……そうかよ」

「職の有無が主義主張の成否に繋がるとは考えない。だが、少なくとも私が役者としての職を併せ持つこと踏まえれば、お前のスタンスはこの世界における役者として、成功が難しいのではないかと思う」

「役者って、おい、んなもんまであるのか? その職っていうのは」

「私が知っている限りという条件の上で、現在、明らかになっている職の数は五百六十九。そのうち、持ち主が現存するものが四百七十三。そして、推定される職持ちの数は凡そ数十万人に一人。この数を多いと捉えるか少ないと捉えるかは人によって変わるがな」

「いや、明らかに多いだろ? ゲームの比じゃないし」

「職を集めでもするつもりだったのか? 何でも集めたがるのは日本人の悪い癖だ」

「そんなこと考えちゃいないけど、でも、だって五百超えとか多くないか? しかも数十万人に一人とか、日本に千人も居ないじゃんかよ。そんな数の少ないの、誰がいつ数えたんだよっ」

「詳しくは私も知らん。ただ、内半数の職は実際に相手をしたことがある。私やお前のように身体能力に優れた職もあれば、肉体的には凡人と変わらず、ただ、非凡な突出した能力を得る職もある。実に様々だ」

「相手って、それ、まさか喧嘩かよ?」

「他に何がある? まあ、夜の相手もそれなりの数にはなるがなぁ?」

「っ……」

 余裕綽々とした表情に自らの情事を語り見せる魔王ロリータ。

 異性に免疫のない初心な彼は、思わず赤面。まさか、今目の前に眺めるような童女が、非処女であるとは考えもしなかったらしい。ギャップから上手い反論も見つけられず、どもってしまう。

「なんだ、気色悪いヤツだな……」

「う、うっせっ! 死ねよこのビッチがっ!」

「ははっ、不細工の僻みは無様だなぁっ!」

「このっ、クソっ、こ、このぉ……」

 どれだけ考えても、良い反論は浮かんでこなかった。

 それこそビッチビッチと罵倒を繰り返すくらいしかできない素人童貞。

 だから、これ以上の口論は無駄だと早々に対抗を諦める。

「んだらっ、い、いいから、ほらっ! もう一回だ!」

「何度やっても変わらないだろうがな。まあ、幾らでも吠え散らかすがいいさ」

「じょ、上等だこのロリビッチっ!」

 延々とカラオケ部屋に繰り返される台詞。

 監視カメラ越しに眺める店員にしては、なにこの外人の子ちょーかわいい。

 それからしばらくのこと。

 再び二人が部屋から出てきたのは、凡そ三時間後のことだった。時刻は既に午後六時を回ろうかという頃合。午前中から籠もりっぱなしであった彼にしては、都合、八時間近い時間を台詞に振り回されていたこととなる。

 少女は一頻り彼を馬鹿にした後、喉を癒やすべくフリードリンクのコーナーへ。

 一方、彼はカラオケルームの利用権をフロントへ返却。ついでに退出処理を済ませて、その足で店舗出口へと歩みを向けた。

 フロントの設けられた場所とドリンクサーバーとは近しい位置関係にある。その姿はグラスを片手に喉を鳴らす魔王ロリータの目にも映った。

 彼の向かう先には階下へ降りる為のエレベータだ。

「おい、どこへ行くんだ?」

「あぁ? メシに決まってるだろ? もう六時過ぎるし」

 彼女が問い掛けると、彼は振り返り野暮ったそうに答えた。

 一連の練習を経て、完全に負け越した相手に対するが所以の悪態。

「食事か……」

「……なんだよ?」

「ならば私も行く。奢れ」

「は? なんでだよっ!?」

「お前の練習に付き合ってやった報酬だ。それくらい出せよ甲斐性無しが」

「ぐっ……」

 何気ない魔王ロリータの物言い。

 しかし、山田はこれに抗うだけの材料を持っていなかった。

「ま、松屋だぞ? 言っておくけど」

「貧乏人だな」

「言っただろっ!? 金がないんだってっ!」

「となるとダブル、か」

「おいこらっ、ふざけんなっ! っていうか、お前だって同じアパートに住んでたくらいだし、貧乏なんじゃないのかっ!? いっつも同じスウェット着てるし、なんか良く見りゃあちこちほつれてるしっ!」

「だ、黙れっ! だからこれは汚れてないから洗濯してないんだよっ!」

「いや別に今は洗濯の話なんてしてないだろ? っていうか、やっぱり洗濯してないんじゃないかよっ!」

「っ……」

 賑やかな二人だった。

 しかも店舗のフロントを間に置いてのやりとり。

 カウンター越し、まさか見て見ぬ振りをできる店員ではない。

「あの、他のお客様のご迷惑になりますので、声を控えて下さい」

「あ、すみません……」

「悪いのはコイツだ。私は関係無い」

「んだとっ!? お前も頭下げろよっ!」

「嫌だな」

「こ、このクソビッチ……」

「ですから、お客さん」

「っ……」

「おい童貞、エレベーターが来たぞ。乗るんだろ?」

 いつのまにやら内容物を飲み干した空のグラス。彼女はそれを何気ない調子にフロントカウンターへ置いて、エレベーターの下へと歩み行く。店員は目の前へ置かれた空のグラスに、けれど、あまりに自然な態度であったのでポカン。

 そのまま二人を階下に見送るのだった。

◇ ◆ ◇

「くっそ、本当にダブル定食とか食いやがった。俺もまだ食ったこと無いのに……」

「たまには量を食わないとな」

「うっせっ。デブれよクソビッチ」

 夕食後、夜の街を歩みながら言葉を交わす二人。

 山田からの憎まれ口をさらり避けて、魔王ロリータは自らの腹を片手に摩りながら、ゲップと小気味良い音を口から漏らす。片手には爪楊枝を摘み、シーハーシーハー。その表情は満更でもなさそうだ。腹が膨れて機嫌が改善されたのだろう。

「この肉体は吸血鬼のそれだ。まさか太る訳があるまい?」

「な、なんだよそれ……」

「人間で言えば、胃下垂と同じようなものだ」

「いや、意味が分からないから」

 二人が歩むのは人通りの多い繁華街の大通りから一本ばかり外れて、一方通行の標識が立てられた、道幅三メートルばかりの細道。向かう先はつい小一時間前に後とした漫画喫茶である。無論、宿を失った両名にしては一晩を過ごす為だ。

「そも、合わせて大盛りを喰らっていた自分の心配をしたらどうだ? 不細工の上にデブとなれば、とりつく島も無いだろう。しかもその頭はどうだ。遠くない将来、めりめりと禿げそうな髪をしているじゃないか。デブでハゲで不細工の三重苦だなっ!」

「ハゲねぇよ! 少なくともお前にハゲたところなんて見せねぇよ!」

 ハゲより厄介な内臓疾患を抱える彼としては、ハゲた程度でそれが治るなら、幾らでもハゲ散らかしてやると言わんばかりの態度だった。既に肉体的な一切合切を諦めきった不細工野郎である。

「まったく、いつの世も無様なヤツは居るものだな……」

「うっせっ! 無様なヤツがいるから、勝ち組が居られるんだよ。感謝しやがれ」

「どれだけ手厚く感謝されたところで、美味いメシを食うことも、良い女を抱くことも、今のお前には一生叶わない夢なのだろうがな。何を手に入れることも出来ないまま、底辺であがいて死んで行くがいいさ」

「っ……な、なんで決めつけるんだよっ!」

 テクテクと夜道を歩みながらの言い合いだった。

 大通りこそ人も多くあれど、夜の八時を回った昨今、一本でも通りを入ると人気は皆無。酷く閑散としたものだ。ひっきりなしに行き交う自動車の排気音や、他者の歩む気配こそ伝わって来れど、視界にその姿は窺えない。

「違うのか? そんな気配がする」

「気配ってなんだよっ! むちゃくちゃ言うなよ!」

「自分でも理解してるのだろう?」

「うっ……」

 言われるまでもなく、三ヶ月と経たぬ後に約束された未来。

「ほらみろ、図星じゃないか」

「そ、それを言うなら、お前だってネカフェ難民だろうがっ」

「私はいいんだよ。どうせ一時の宿だ。すぐに元来の力を取り戻してみせる」

「はっ、偉そうに」

 常に上から目線な魔王ロリータだ。今し方に彼女の食費を持った手前、山田としては腹立たしいことこの上なかった。ただ、どうにも口達者な相手であるからして、上手く言い負かすこともできない。

「偉そうなんじゃない。偉いんだよ」

「どこがだよ。人にメシたかっといて。俺が負け組ならお前は大負け組だろ」

「あれは正当な報酬だ。乞食をした覚えは無い」

「無駄に口達者なガキだな……」

「年の割に頭の弱い男だな?」

「こ、このっ……」

 語れば語るだけストレスを溜めていく駄目男。

 言葉のキャッチボールは一方的なものだった。

 ただ、そうしたやり取りも数百メートル限り。飲食店の店内でエアコンの冷気に冷めた肌が、ジワリジワリと夏の熱気に汗を吹き出し始めた頃合のこと。そろそろ目的地に到着せんとしたところで、中断の羽目となる。

 先んじて動いたのは魔王ロリータだった。

「っ!? 避けろっ!」

「え?」

 不意に声色を険しくして叫びを上げる。

 一方で彼はと言えば、豹変した彼女に驚きの声を上げただけ。

 次の瞬間、二人の下へ頭上から巨大な火球が落ちてきた。

「っ!?」

「ちっ……」

 地を蹴ってその場より大きく飛び退く魔王ロリータ。

 対して、状況を理解する間もなく炎に押しつぶされる山田。

 直径三メートルを超える火球は、人一人を容赦なく焼き尽くした。更にはボボンと低い音を立てて爆発。アスファルトは蒸発。その下の大地までをも溶かして、周囲一帯を大きく陥没させる。焼かれる側にしては痛みを感じる暇もなかったろう。一瞬のこと、閃光が放たれては辺りが真っ白となる。

 輝きが収まったところ、周囲を確認すれば、まるで隕石でも落ちてきたよう。着弾点はクレーターとなっていた。丁度、道路の端から端までが球面上に凹んでいた。恐らくは計算した上でのこと。隣接する建物の外壁は多少ばかり溶けているものの、崩れるまでには至っていない。対して、地べたは一メートル近く抉れていた。

「ちっ、後を付けていたか……」

 魔王ロリータが忌々し気に頭上を見上げる。

 すると、彼女の視線の先、ビルの屋上に並び立つ人影が幾つか。

「一人やった。魔王が残ったぞ」

「一気に畳み掛けるわよ。作戦は事前に打ち合わせした通り」

「了解した」

「っしゃ、久しぶりの仕事だ。腕がなるぜっ!」

「先の件もあるし、安全第一で行こう」

「魔王を相手に安全もなにも無いと思うのだがね」

 夜の暗がりの中、更には遥か頭上の建物が屋上とあって、正確な人数を把握することは難しい。十数名といったところか。

 月を背後に置いて、建物の外壁にスラリ伸びた影は、背の高いのから低いのまで。男も女も、年寄りも若者も、雑多に寄り集まっての混在。また、妙に崩れた台詞のイントネーションから外国人の存在も複数窺えた。

 早朝の集団に同じく、老若男女を問わない集まりである。

「ちっ、このような場所でまで襲ってくれるかっ」

 地上に佇む彼女は、遥か高みに一団を捉えて渋い表情。

 一方、クレーターの中央では、何やら得体の知れない、塵とも埃とも判断の付かない色々が集まり始める。今朝に同じく、まるでクレイアニメのよう。互いにくっつき合い、凄まじい勢いで形を大きくしていく。

 やがてそれは、人の形を取り始める。夜道の暗がりにあっては、不出来な泥人形でも眺めるようだろうか。けれど、目を凝らしてみれば、骨があり、内蔵があり、筋があり、肉があり。細かな人体の構造が窺える。

 そして、数分と経たぬ間に完全な人間の姿となるのだった。

 お世辞にもカッコ良いとは言えない外見は、まさしく今に炎で焼かれた駄目男のものである。どうやら、消し飛んだ肉体を復活させたらしい。

「っぉおおおあっ!? な、なんだっ!? どうしたっ!?」

 ただ、本人は自らの身に起こったことを半分も理解していない。

 あまりにも急な出来事であって、肉体の消失に気付いていない様子だった。

 しかしながら、身体こそ元通りなれども、やはり衣類に関しては対象外であるらしい。例によって素っ裸である。意識が戻って次の瞬間、自らの無様を理解。大慌てに両手で股間を隠す。

「お、おいちょっとっ!? なんでまた裸なんだよっ!? どうなってんだよ!」

「お前という奴は、なんというか、毎度のこと見苦しいな……」

「お前かっ!? お前がやったのかっ!? この変態女が!」

「違うわっ! そこの奴らだっ! 誰が貴様なんぞ脱がすか!」

 吠える魔王ロリータ。

 その視線が追う先は建物の屋上、ずらり並んだ一団である。

 彼女に促されて、彼もまた頭上に意識を向けた。

 視線が向かった先、一団は驚いた様子で山田の姿を見つめている。背の高いビルの屋上とあって、相手の表情は全く見えてこない。ただ、多少ばかり届けられる声と、少なからず動じ動いた身体から、驚愕が本物であることだけは理解できた。

「おい、今のを見たか?」

「ああ、報告にあった超回復能力だな」

「人外か?」

「戸籍の上では人間となっていたわよ」

「どんな職を得れば、あの木っ端微塵の状態から復活できるのか」

「生け捕りにしたいところだな」

「可能ならば、な」

「うだうだ言っていても始まらないわ。行くわよ」

「もう一発、撃っちゃったしね」

「そうだな。幾ら根回しがあるとは言え、あまり長くこうしている訳にもいくまい」

「それじゃあ作戦開始と……」

 多少ばかり軽口を叩いたところで、おもむろに屋上より飛び立つ一団。一歩先は地上まで何も無い。向かう先には路上に立ち頭上を見上げる魔王ロリータと素っ裸の駄目男。また、二人の傍らに生まれた巨大なクレーター。

 人影が次々と落ちてくる。大地へ向かい一直線。

 足場にしていたのは十数階建てのビルだ。しかも、落ち行く先は堅いアスファルトの上。本来であれば、落下して無事には済まない。まず間違いなく命を落とすだろう。

 けれど、彼ら彼女らにしては例外、ふわり、途中に勢いを殺したかと思えば、両足から綺麗に着地。スタンと非常に軽い音を響かせて地上に降り立つのだった。まるで空でも飛んだよう。

 一団は魔王ロリータと彼を各々別に囲うよう位置を取る。

「お、おいっ、なんだよこいつらっ!」

「騎士団の連中だろう」

「っていうと、朝方に襲ってきた連中の仲間かよっ!?」

 周りを囲われて殊更に慌て始めるフルチン野郎。最後の入浴から二十数時間を経て、身体は発汗と乾燥を幾度繰り返しただろう。チンコに当てられた両手は、早々に蒸れた股間の香りを濃厚に付着させて思える。

「しかも、幾人かは見た顔だな。どうやら、本腰を入れてきたようだ」

「はぁ? 知り合いなのかっ!? だったらお前が何とかしろよ!」

「悪いが友好的な関係を結んでいる相手ではない」

「つっかえねぇ、お前ってばマジで使えねぇっ!」

「黙れっ! それよりも来るぞっ!」

「うぉっ!?」

 禄に軽口を叩く暇もない。一団は二人目掛けて挑み来た。

 数名が剣やら斧やらを手に駆け寄ってくる。また、残る数名が背後で何やら、杖やら棒やらを掲げては念仏のようなものを唱えはじめる。

 前者にしては数秒と掛からずして、凶器を二人へ打ち下ろした。

「うぉおおお!?」

「ちっ」

 魔王ロリータに挑みかかったのは、二十代後半を思わせる西欧人男性。二メートル近い大きな両手持ちの剣を、容赦なく肩口へ振り下ろす。ブォンと大きな風切り音を響かせてのこと。

 これに対して、彼女は片手を刃に向けて突き出す。

 キィンと乾いた音が響いて、手の平から数センチのところに剣は止まった。目に見えない何かが、彼女の肌へ触れる直前に驚異を受け止めていた。まるでサイエンスフィクションに眺めるバリアのよう。

「ちぃっ、俺の一撃を止めやがった」

「レオン、引いてっ! こっちから一発入れるわっ!」

「ああ、当初の想定通り俺は壁に回る。攻めは頼んだっ!」

「ええ、分かってるわ」

「ったく、ムカツク職だぜっ」

 大剣の彼より背後、幾人か仲間が構えた杖の先より雷撃が走った。恐らく後衛を任されている一団だろう。各人の正面には、何やら幾重にも魔方陣が浮かび上がっている。全ては法線を相手の側へ向けて、キラキラと宙に浮かび輝いている。

「みんな、今よっ!」

「おうっ!」

「っしゃいけっ!」

「一撃で仕留めるっ!」

 パシン、パシンパシンと乾いた音と共が重なり響く。本来は空に上から下へ落ちる雷が、けれど、今この瞬間は横に流れた。声を挙げた各々の正面に浮かぶ魔方陣、その中央から放たれて魔王ロリータの下まで。

 互いの位置取りの都合から、四方八方より彼女を中心として集まるように。

「くっ……」

 これに身を撃たれたのが魔王ロリータ。

 ビクン、身体を痙攣させる。

 輝きが宙に描かれたのは一瞬のこと。闇夜がまばゆく照らされたかと思えば、次の瞬間には全てが過ぎていた。まさか避けることの叶う速度ではなかった。拳銃に放たれた弾丸を避けるにも増して難しく思われる。

 ただ、彼女はそれでも倒れることはなかった。

 自らの足に立ったまま、今に雷を放った者達を忌々しげに睨み付ける。

「上等だ。皆殺しにしてくれる」

 完全にキレて思えた。

 スウェットはあちらこちらが焦げ付いていた。

「くっ、守りだっ! 障壁を重ねろっ! デカイのが来るぞっ!」

「既にやっているっ!」

 騎士団各人の周囲に、半透明の淡い水色をした、膜状の何かが浮かび上がる。今に語られた障壁だろう。身体全体を覆い包むよう、縦に長い球状をしている。凡そ万人がバリアと聞いて想像するようなものだ。

「貴様らの薄っぺらい障壁など無意味だ。死ねよ、ガキ共がっ!」

 魔王ロリータが右腕を振りかざす。

 頭上へ向けて掲げられた腕の先、轟々と音を立てて燃える炎の槍が数多現れた。長さ二メートルほどの巨大な燃える槍だ。これが彼女の腕を振り下ろすに応じて、四方八方、その周囲に立つ者達へ向けて、ヒュンヒュンと飛んで行く。

「ぐうぅっ……な、なかなか」

「耐えれるわ、これならまだっ」

 ドン、ドドン、低い音を立てて、槍は各人の障壁にぶつかった。

 その内側からは苦悶の声が響く。

 けれど、誰もは決して勝機を諦めていない。

「ちぃっ、ならば俺がでるっ!」

「頼んだレオンっ!」

「今、すぐに補助を掛けるわっ!」

 飛び交う言葉たちは、随分と熟れて思えるやり取りだった。

 そして、騎士団の面々と魔王ロリータとは、以後、攻めては攻められて、攻守入り乱れつつも、こうしたやり取りを繰り返すこととなる。周囲一帯には絶え間なく、炎やら雷やら、得たいの知れない不思議が飛び交っていた。

 両者の争いは、まるでロールプレイングゲームのボス戦を彷彿とさせるもの。前衛と後衛に別れて、見事な連携を見せる闖入者一同。後衛が攻め手を準備する間、前衛がしのぎを削り、その消耗を他に控えた後衛が癒やす。やがて、支度の調った後衛が強烈な一撃を打ち付ける。一連の流れの綺麗な繰り返し。

 これを相手にして、魔王ロリータは焦り調子。額には汗がびっしりと浮かんで、だいぶ辛そうだった。熱帯夜に魘された限りではないだろう。思うように動けずいた。口調こそ尊大であっても、明らかに押されていた。

 まるで良く出来たファンタジー映画でも眺めているようだった。

 他方、そうした典型的ゲーム的ボス戦を傍らに置いて、迷走しているのが山田だ。

 どうやら相手は元より二チームに分かれて、彼と彼女に挑むつもりであったらしい。彼女に対する一団とは別に、フルチン野郎の下にも数名からなる勢力が挑み来ていた。ただ、こちらは隣ほどボス戦をしていない。

「うぉおおああああああああっ!」

 悲鳴と共に山田の肉体が炎に焼かれて蒸発する。

 しかしながら、

「……ぁぁぁぁああ、あ、あぁ? あ、お、おう、おうおう……」

 次の瞬間には元通りの不思議。どこからともなく元は彼だっただろうモノが集まっては、人の形を取り戻すのだった。それこそ本人にしても不思議でならない現象。損傷が激しい為か、治癒が急激である為か、痛みを覚えることもなかった。

「ちっ、どうなってやがるっ! この変態野郎ぜんぜん死にやしねぇっ!」

「もしかしたら回数に限界があるかもしれないし、このまま続けるわよっ!」

「だからっておい、もう十回は殺してるぞっ!」

「やっぱり人外なんじゃないか? それにしても妙だけどさ」

 彼を囲う者達にしても、これを眺めては困惑。

「お、おいこらっ! ふざけんじゃねぇっ! 人のことなんだと思ってんだっ! こっちだってビビってるんだからなっ! 同じことなんども繰り返してんじゃねぇよっ!」

 一方、有無を言わさず殺され続ける側にしては憤慨。

 彼ら曰く、十回を殺されたあたりで、恐怖に怒りが勝ったらしい。

 声も大きく抗議を上げる。

「ちぃ、もう一回だっ!」

「おうよっ!」

「ええ、分かったわ」

「なにがもう一回だよっ! ふざけんなっ! なんで俺がやられなきゃならないんだよっ! やるならあっちのロリだけやっとけよっ! 巻き込んでんじゃねぇよっ! それならこっちだって正当防衛だっ! 正当防衛すんぞクソっ! 俺は忙しいんだよっ!」

 完全な怒り任せ、傍らに突っ立っていた道路標識に八つ当たり。

 蹴りを入れる。

 すると、ベキン、良い音を立てて根元から折れた車両進入禁止。

「あ……」

 想定外の出来事に驚く彼。まさか折れるとは思わなかったらしい。

 その間にも肉体は再び蒸発。

 そして、全ては数分と経たずに元在ったとおり復帰。

 暗転から視界が戻り、見つめる先には折れたままの交通標識。

 戸惑うばかりだった彼も、流石に我慢の限界となる。

「ちぃ、もう一回だっ!」

「ちぃ、じゃねぇっ! 俺のことなんだと思ってんだよっ! バーベキューの炭かなんかと勘違いしてんじゃねぇのかっ!? なんど焼けば気が済むんだよっ!」

 怒りがまま、地べたに転がる標識を右手に引っ掴む。本来であれば、片手に振り回せる重量ではない。両手を用いても持ち上げるに困難。けれど、どういう訳か今の彼には妙に軽く感じられて、都合の良い武器となった。

 長さ三メートルばかりの長物だ。

「死ねよっ! お前らマジで死ねよっ! 殺される側の身にもなってみろよっ!」

 やけくそ気味に交通標識を振り回しながら、一団に挑み行くフルチン野郎だった。自身が素っ裸であることも忘れて、全裸に駆け出す。既に局部を隠すことすら、意識の外へと飛んでいた。

 ぶらんぶらんとチンコが揺れる。

「く、来るぞっ!」

「備えろっ!」

「分かってるわっ!」

 あまりにも無様な姿を前として、対する面々は色々な意味で戦慄。

 各々、自らの獲物を構えて身構える。

「明日は収録なんだよぉおおおおおおっ!」

 これに対して、山田は棒状のそれをがむしゃらに振り回す。

 狙いは適当。

 一番近くにいた双剣を構える黒人男性へ。

 その顔面を目掛けて右から左、凄まじい勢いで車両進入禁止が迫る。

「くっ!」

「邪魔すんじゃねぇええええええっ!」

 ブォオンと凄まじい音を立てて迫る交通標識。

 避ける余裕の無かった相手は、咄嗟に両手の剣で受け止めんと対する。顔の前に双剣を構えてのこと。

 しかし、黒人男性のもくろみは想像以上の速度で迫る一撃を前に破れる。

 バチンと水風船が潰れるような音が響く。同時に男の首から先は、見事にはじけ飛んでいた。構えた剣を顔面にめり込ませて、それでも勢いは衰えず、頭部を完全に潰していた。潰れたトマトも真っ青の、完全な挽肉状となり、足下へ肉片を飛ばしていた。

「ふ、ふふふ、マジ、俺もうダメだわ。なんだよこの人殺しとか」

 他方、人生二度目の人殺しで、彼は良い具合に興奮。

 気色の悪い笑みを浮かべながら、ひしゃげてしまった車両進入禁止を眺める。円盤状の先端部分は当然、更には白い支柱部分にしても、見事にくの字に曲がってしまっていた。相当な不可がかかったのだろう。

 元より赤かった掲示部分は、殊更に色を濃くして、ぴちゃり、ぴちゃり、先端から血液を垂らしていた。表面には顔面の皮膚が張り付いて、中央に引かれた白い横線も全容を窺えない。

「ジェームズがやられたっ! リョウがシフトしろっ! 俺も出るっ!」

「お、おうっ!」

 仲間がやられたことで、一団の間に緊張が走る。

 今まで以上に極まった表情で彼を睨み付ける。

「俺は知らないっ! 知らないからなっ!? 悪いのはお前らだからなっ!?」

 彼はひん曲がってしまった道路標識を放り捨てる。

 ガランガラン、喧しい音を立てて棒状のそれは地面を転がった。

 他に何か武器になるものは無いか、彼は必死になって周囲を探る。すると、その目に映ったのは、すぐ近くに突っ立っていた道路標識よりも尚のこと長くて、太くて、頑丈そうな棒状のもの。

「俺はこんなところでやられてる暇なんてねぇんだよっ! 明日は収録なんだよっ! もっともっと練習しなきゃならないんだよっ! そんでもって、俺の、俺の声を撮って貰ってっ!」

 直径数十センチ。電信柱を両手に抱え込んで力一杯に引っ張る。

 ならば、バキンと大きな音を立てて根元からへし折れる驚き。

「なっ……」

「ちょっとコイツっ!」

「おいおい、マジかよっ」

 対する面々は驚きに身を強張らせる。

 これに構わず、彼は電信柱を振り回した。

 遠慮無く振り回した。

「うぉおおおおおおおおおっ!」

 やけくそ気味に声を張り上げて、打ち付ける。

 上から下へ、力一杯に叩き付けられた一撃は、標的となった男性一人を脳天からたたきつぶした。金属の杖を構えた老齢の男性である。距離にして十数メートル先。電信柱の長さは前衛を飛び越して、その背後に佇む相手を一撃する。

 肉体はぐしゃりと潰れた。大地を大きく凹ませて、その身体は完全に拉げてしまった。原型を留めず板状伸びきって、砕けたアスファルトの合間に埋もれてしまう。まるで伸した餅のよう。

 更には宙よりぶら下がるケーブルの類いから、バチバチと火花が散っている。未だ繋がるケーブルからの放電だった。下手に触れては感電必至である。彼の身体に垂れたケーブルが触れなかったのは不幸中の幸いか。

 そして、電信柱本体はと言えば、完全に砕けて、彼が持つ部分より先は粉末状となっていた。対象は中心が空洞となる構造物であるからして、想定外の負荷に耐えられなかったのだろう。ただ、だとしても有り得ない砕け具合。相当の力が掛からなければ不可能な状態だった。

「じゃ、邪魔したら潰すっ、潰すからなっ! 女でも、もう潰すっ! 社会の底辺、なめんじゃねぇぞっ! 思いやりなんて、もう一ミリも残ってねぇからなっ!? 全力でぶっころだからなっ!?」

 早々に二人を殺して、いよいよ、彼の精神も極まって思える。

 口元を引き攣らせて、必死の形相で相手を睨み付けていた。

「なんてこった、ジョイがやられたっ……」

「こんなっ……なんてひどいっ」

「あっちは順調のようだが、このままではこちらが危険だっ!」

「おいおい、流石にこれ以上は俺もきっついぜっ!」

「んなこと見れば分かるさ」

 彼が見せた攻撃的な反応に、対する一同は混乱し始めていた。

 まだ戦力として数名が残っている。けれど、二名を殺された事実は、決して無視できない損失であったらしい。特にこちらのチームのリーダーとおぼしき男性にしては、困惑も顕わにどうしたものかと頭を悩ませている。

 フルチン野郎に苦戦する彼らとは対照的。もう一方のチームでは、良い具合に魔王ロリータを追い詰める様子が窺える。相手の消耗を誘う作戦なのだろう。相変わらず見事な連携だった。人員は一人として欠けていない。一方で少女は疲弊も甚だしく、ハァハァと肩で息をしている。

 そして、動きが鈍くなった彼女に対して、容赦ない一撃が入った。

 ドスドスドドス、低い音を立てて突き刺さる数多の矢。後方より放たれた幾十本もの驚異が、魔王ロリータの正面にびっしりと、一瞬にして打ち込まれた。頭部から胸、腹、腰、股、至るところから矢が生えて、文字通り針の筵。酷く痛々しい姿だろう。

「決まったっ、流石はジョンの祈り矢だっ!」

「相手が魔王で助かったかな? 伊達に教会で祈っていないよ」

「言ってくれるわね」

「っしゃっ、このままとっ捕まえるぞっ!」

 彼女の肉体は矢に射貫かれた勢いのまま、大きく後方へと飛んだ。距離にして数メートル。その間を地面から足を浮かせてのこと。そして、幸か不幸か、彼女の飛び行く先にはフルチン野郎の姿があった。

「うぉおっ!?」

 壊れた電信柱を放り捨てて、次なる武器を探していた彼である。

 そこへ明後日な方向から、魔王ロリータが背中から体当たりだった。

 予期せぬ衝撃を受けて倒れるフルチン野郎と、その上にのし掛かるよう伏す少女。

 大慌てに身を起こした山田は、自らに当たったものが何であるかを確認、反射的に悲鳴を上げる。身体の前面がハリネズミのようになった少女だ。現代日本に生きてきた人間からすれば、ホラー映画の中にしか見ることの叶わない光景。

「ひっ……」

 思わず身を引いてしまう小心者。

 ゴツン、彼の腹の上から動いて、少女の頭部が地べたに落ちた。

「ぐっ、こ、この程度……」

「な、なんだよおいっ! どうなってんだよお前っ!」

「黙れっ、私は、私は認めんぞっ、このような無様っ……絶対に……」

「いや、お前こそ黙れよっ、大怪我じゃんかよっ!」

 以前にも串刺しとなっていた彼女だ。だが、今回は殊更に酷い。

 なにより打ち込まれた矢の数がべらぼうに多くて、傍目、非常に気持ちが悪い。しかも何故か、矢の刺さった部位からは、しゅうしゅうと音を立てて煙が上がっている。まるで身体の内側に煙でも満たしているよう。

 両手を地について、なんとか上半身を起こすも、腰に力が入っていない。立ち上がろうとしたところで、ガクリ、膝を突いてしまう。地べたに触れた矢の一端が押されて、下半身に刺さるものが、自重からぐしゅりと深みを増す。

「クソっ、この矢がっ、ち、力を……」

「だからおいっ! 動くなよっ! 今抜いてやるからっ!」

 剣山のような魔王ロリータの姿を前として、流石の山田も戸惑う。

 過去に幾度となく辛酸を舐めさせられた経験も忘れて、大慌てに刺さる矢へと手を伸ばす。相手の身体に突き刺さったそれらを、大慌てに抜き始めるのだった。感極まれば根っこの部分では優しい男だった。

 ただ、周囲がそれを許さない。

「こうなればまとめて無力化するまでだっ! 一気に行くぞっ!」

 二つのチームを統べるだろう誰かの声が響いた。

 同時に彼と彼女の周囲に数多の魔方陣が浮かび上がった。

 総勢十数名からなる一団が、今まさに最後の一撃を与えるべく動く。局面を決しようとしていた。フルチン野郎を相手にしていた面々にしては、有効打を見いだせなかった故の全力投球か。

 各々、身体をピカピカと輝かせてみたり、周囲に火の玉を浮かべてみたり、全身に奇っ怪な模様を浮かべてみたりと、最終決戦の四文字が相応しい姿格好で、二人へ睨みを効かせていた。超必殺技の準備をしていることがバレバレである。

「お、おいっ! なんかやばそうだぞっ!? どどど、どうすんだよっ!」

 魔王ロリータに刺さる矢を、スッポン、スッポン、大急ぎに抜き取りながらも慌てるフルチン野郎。刺さった矢はかなりの数に及ぶ。まだ全てを抜け切れていなかった。このままでは間に合わないのではないか。顔は焦りの一色。

 一本を抜く毎に赤いものが飛び散り彼の身体を汚す。ぴしゃりと肌に直接感じる暖かな感触。血液のゆっくりと肌を垂れる感触。それさえ全く気にならないほどの焦燥だった。どうしようどうしよう、思考ばかりが空回りする。

「くっ……この程度、この程度で私が殺されるなどっ……」

「ああもう分かったからっ、そのテンプレ台詞はしまっとけっ!」

 抜かれる側にしては、憎々しげに苦悶の声を上げる限り。

 いつもと同じ、面白くない台詞の繰り返し。

「だ、黙れっ……」

「っていうか、現に今すぐ死にそうじゃねぇかっ! もう抜いてらんねぇよ! このまま逃げるかんなっ!? 痛くても我慢しろよっ!? 文句とか言うんじゃねぇぞっ! 死んでも化けて出るんじゃねぇぞっ!」

 これ以上は勘弁とばかり、少女を抱えて走り出すフルチン野郎。

 この世で最も情けないお姫様だっこのできあがりだった。

「逃がすなっ、撃てぇえええええっ!」

 彼が駆けだして数瞬の後、呼応するよう全体のリーダーだろう男が吠えた。

 その叫びを皮切りにして、一斉に放たれる色々。

 例えば炎の塊だったり、巨大な氷柱だったり、極太い光の帯であったり、数多の剣や弾丸であったりと、実にファンタジーな光景だった。コンピュータグラフィクスの粋を集めて作り上げたフィクション映像のよう。

 そして、全ては一足先に駆けだした彼の背中を目掛けて宙を進む。

 両者の間には数十メートルの距離。

 数秒と掛からず、放たれた色々は彼の元へと辿り着いた。

「うぉおおおおおおおおおおっ!」

 咄嗟、後ろを振り返った彼は、既に避けられない状況にあると理解した。

 同時、もしかしたら自分だけなら、これを受けても助かるのでは無いかとも考えた。既に今日一日でも何回を殺されたのか知れない。だと言うに次の瞬間にはぴんぴんしているのだから、当然の思いだろう。

 俺だけなら助かる。

 だから、そう思いついた瞬間、彼は考えるよりも先に身体を動かしていた。

「と、とんでけぇええええええええっ!」

 魔王ロリータの身体を両手に掴み、そして、力一杯、空へ向けて投げつけた。

「ぎゃっ……」

 ぶぅんと豪快な音を立てて振られた両腕。その指が開かれたとき、少女の肉体は目にも止まらぬ勢いで、空の彼方を目掛けてすっ飛んでいった。その口から悲鳴が聞こえたのは僅か一瞬のこと。

 放たれた瞬間、ズドン、周囲にはまるで火薬でも爆ぜたような大きな音と、周囲の建物にヒビを入れるほどの衝撃波が走った。

 そして、数秒と経たぬ間に少女は空の一点となり、見えなくなってしまう。

 魔王ロリータは西の空へと消えていった。

 これと時を併せて、彼の身に襲い掛かるファンタジーな色々。

 ズドン、ズドドン、大きな爆発と共に噴煙が立ち上がった。

 視界は完全に失われて、そこに何を確認することも出来ない。一寸先は白煙。その只中にあって、彼の肉体もまた失われていた。ただ、数瞬前に本人が抱いた思いに同じく、早々のこと修復は始まる。

 一連の攻撃が収まりを見せるのに幾らばかりか。

 更に爆発が収まり、土煙が晴れるた後には、これまでに同じく、全裸のまま立ち尽くす醜男の姿があるのだった。肉体は貧弱なモヤシ体系。酷い猫背でとても頼りない様相からは、まさか今の一撃を耐えうるとは思えない。

 しかし、皆々の目には無事な彼の姿が映っていた。

「馬鹿な……これじゃあ封印される前の魔王と大差ないじゃないか……」

 漏れた言葉は誰のものか。

 皆々、一様に驚愕だった。

 逆に驚かれる側としては、ここ数日でだいぶ慣れた感覚。

 真っ黒だった視界に光が差し、やがては元在った景色が取り戻される。

「っつぅ……、よ、よっしゃっ、俺ってば死んでねぇよっ! マジすげぇっ!」

 土煙の晴れた先、一人、小さくガッツポーズを決める。

 そして、自らの置かれた状況を今一度思い起こしては、大慌てに敵の側へと意識を向ける。薄暗い路上に集うのは十数名からなる一団。老年の大男から、十代前半と思しき少女まで、老若男女の並び。

 皆々、剣やら杖やらを構えていた。

 まさか一人で喧嘩を売る気にはなれない。

「お前らっ、ま、マジで通報もんだからなっ!? 追ってくんじゃねぇぞっ!?」

 声高らかに捨て台詞を残して、その場より駆け出すのだった。

 相手は彼を追うべきか追わずにおくべきか、咄嗟に判断に悩む。

 その間に彼はとんずら。

 バイクの急発進も斯くやあらんといった凄まじい勢いで、争いの場から逃げ出す。幾ら殺されても元に戻るとは言え、それが後何回続くとも知れない。故にこれ以上の争いは彼にとっても大きな負担だった。

 他方、襲った側にしても、相手の奇っ怪な身体能力を目の当たりとして圧倒。その背を追うことは叶わず、躊躇の末に場を持ち越すこととなるのだった。

 そして、同日深夜の都内では、全裸で走り回る男が各所にて目撃される。

 付近の交番には近隣の重点警備が通達されることとなった。

◇ ◆ ◇

 翌朝、山田の目覚めはネットカフェのリクライニングチェアとなった。

 慣れない姿勢で睡眠を取ったため、睡眠の質は最低。幾度となく覚醒と睡眠を繰り返して迎えた朝だった。時刻を確認すれば午前九時。店に帰ったのが深夜零時であったことを考慮すれば、都合、七時間弱の休眠である。

「あぁ……」

 気分が優れない様子だ。

 けれど、迫る門限を想い、彼は自らの肉体に鞭を打つ。

「っしゃぁっ、やる、やるぞっ!」

 パンと頬を両手に軽く打って、無理矢理に意識を覚醒させた。

 何をやるかと言えば、いよいよ本日に迫った収録である。

 昨日のファンタジーな喧嘩は記憶の彼方へ。一分一秒を生き急ぐ男は、一人静かに燃えていた。スウェット姿の自称魔王はどこまで飛んで行ったのだとか、今の彼にしては些末な問題。考えることを完全に放棄していた。

「行くぞスタジオっ!」

 未だ台本の末に控える愛の囁きには、明瞭な答えを得ていない。

 けれど、だからと言って休むことはできない。まさか延期など不可能。

 故に元気だけでも、やる気だけでも、無駄に奮い立たせての出立だった。

 荷物を纏めてフロントでチェックアウト。早歩きで最寄り駅まで向かう。ジーワジーワ耳喧しく鳴り響く蝉の音を背景に、額からはダラダラと大量の汗を流しながらの移動。シャツは早々に色を濃くする。

 もちろん、道を歩む間も、繰り返し、心の中で台詞を口にする。

 どうにも上手くいかない愛の告白を、幾度となく囁き続けるのだった。

 ガタンゴトン、乗り換えを含めて電車に揺られること小一時間。

 そして、相変わらず答えは出ないまま、辿り着いた先は収録スタジオ。

 流石に三度目の訪問となれば、玄関先で躊躇することも無い。早々に出入り口を抜けて、電話が置かれる限りの受付を素通り。収録スタジオの収まる一室を目指して、ズンズンと廊下を進んだ。

 数メートルばかりを過ぎて辿り着くドア。

 ガチャリ、ドアノブを回して、多少ばかりの緊張と共にその先へ。

 ならばそこで彼は、思いも寄らぬ言葉を耳とする羽目になる。

「え、延期ですかっ!?」

「あぁ……すまない。どうか、あと三日、三日だけ待ってくれ」

「監督、幾ら何でも無茶ですよ。そもそも放送はどうするんですか?」

「最悪、ディスクでの販売は保証する」

「でも監督、あの、これって前代未聞じゃないですか?」

「そうですよ。ディスクで売るって言っても、これじゃあ周りが納得しないんじゃないですか? スポンサーが黙ってる筈がないと思うんですけど。しかも、今回はかなり厄介なところから借りているとか……」

「そこは私がなんとかする。だから、すまないが三日だけ時間を貰いたい」

「いえ、まだ僕らは良いですよ。けど、他はどうしようもないと思うんですが……」

「そ、そうですよね。私もちょっと怖いっていうか、事務所との話がどうなってるのか、一応、確認とかしたかったりするし。他の人達のお話とかも聞かなきゃだし……」

「だ、だよね……」

 収録スタジオ。その大部屋に集まり、何やら揉めている監督と声優一同。誰も彼も表情は深刻なものだ。決して演技などでは無い素の顔つきで、ああだこうだと言葉を交わしていた。

 山田が入ってきたことに気付く余裕すらない。

 仕方なく自ら人の輪に割り込んで語り掛けることに。

「あの、ど、どうかしたんすか?」

 あまりにも皆々が真剣な表情であった為、気後れしながらの発言。

「あ、あぁ、君か。良く来てくれた」

「いや、良く来てくれたっていうか、凄い大変な感じっぽいんだけど……」

「すまない。少々事情があって、本日の収録も延期することとなった」

「……マジで?」

「ああ、マジだ。だが、次は必ず、必ず収録まで進めてみせる」

 出会い頭に伝えられて、なんと答えたら良いか戸惑う山田だった。

 彼としては悲しくもありがたい連絡である。伊達に未だキャラクターを演じるに悩んでいない。けれど、周囲の悲壮感漂う雰囲気を目の当たりとしては、まさか、喜べるような状況とは思えなかった。

 どうやら状況は相当に悪いらしい。

「動画はどうなってるんでしょうか?」

「そっちは今、話を付けているところだ。恐らくは出し渋っているだけだろう。物自体は既に完成している筈だ。時間的には既に一週間の猶予を与えているのだからな」

「噂で聞いたんですけど、今回の下請けって、あそこですよね?」

「……ああ、信用していたのだが」

 交わされるやり取りはサッパリだった。門外漢の山田にしては、ただ、アニメの制作が上手く進んでいないということしか分からない。だからだろう、周囲の面々が言いたくても言えないことを、ズバリ、口にしてしまう

「あのさ、それで具体的にどういう感じなんだよ? なんつーか、今にもオッサンの会社が潰れそうな雰囲気なんだけど、本当に三日後に収録できるのかっていう……」

「このままでは、その可能性も決して否定できない」

「え?」

 自ら訪ねておきながら、しかし、驚きに固まる山田だった。

「だが、こちらも努力する。している。だから、もう少しだけ待って欲しい」

「い、いや、倒産って、マジなの?」

「ああ、そうだな……」

 山田の言葉に監督は幾らばかりか躊躇。

 多少を悩んだ後に言葉を続ける。

「この後に及んで隠し事は無しにしよう。素直に吐いてしまえば、資金繰りの問題だ。あと三日間の内に三千万。これだけ揃えることが出来れば、少なくとも、ディスクの販売までは行ける」

「は? 三日で三千万ってなんだよおい」

 想像異常の状況に思わず唸り声を上げる山田。

 これを受けては、周囲の面々にしても連なるよう非難を口とした。

「か、監督、それは流石に……」

「しかも、それだけ揃えてもディスク待ちって、あの、広告費はどうなるんですか? テレビ放映が無くなったら、何を売るにしても、元も子も無いと思うんですけど」

「その辺りは、流石に苦しいが、なんとか話題性でカバーするつもりだ」

「監督、ちょっとそれは無理があるのでは……」

 髭ロン毛が一言を発する毎に場の空気が悪くなっていく。

 コミュ障の山田にも、ありありと実感できた。

 そうこうしている内に、再び大部屋のドアが開く。

「まったく、毎日こうも暑いと堪らないわね」

 バタン、勢いよく開かれた先、現れたのは毒舌天才声優少女だった。はたはたと片手の平に顔を扇ぎながら、酷く不機嫌な顔に登場。

 タイミングとしては最悪だった。

「って、どうしたのかしら? 揃いも揃って辛気くさい顔してるわね?」

「あ、いや、なんか、オッサンの会社が倒産しそうだって……」

「はぁ?」

 速攻で口を割った山田。

 これに少女は今し方に彼が見せたものと同様、驚きの表情となる。

「ちょっと、それはどういうこと?」

 彼女は大股に歩み行き、髭ロン毛へと詰め寄る。

「彼が口にしたとおりだ」

「いきなり言われても意味が分からないわよっ! ちゃんと理由を説明しなさいよっ! なんの為に、この糞暑い中、わざわざスタジオまでやって来たと思ってるのよっ!」

 ただでさえ釣り目がちな瞳を、殊更に釣り上げるようして吠える。

「言葉通りの意味だ。資金繰りに失敗してしまい、あと三日間で三千万を用意できなければ、この企画は最終回までコマを進められずに終了となる。もちろん、そのような形で終わらせるつもりは微塵もないがな」

「はぁ? なんでそんな状況になってるのよ!」

「すまない。こればかりは謝罪するほかに無い。私の力不足だ」

「だから、謝れって言ってんじゃないわよ! 原因を聞いてるの!」

「すまないが、それだけは説明できない」

「ぐっ……」

 淡々と、けれど、普段と比べては申し訳なさ気に受け答えする監督。その姿を目の当たりとして、少女は握り拳を硬くする。

 伊達に幼少より大人の社会に生きていない。押して叶うべきところと、幾ら押しても無駄なところ、区別は付いているらしい。

 何かを言いたそうに口をパクパクとやったところで、けれど、続く言葉を喉の下に飲み込む。どこかの阿呆と比べても、余程のこと成熟した精神だ。

「ふんっ、どうしようもない駄目監督じゃない」

「ああ、すまない。だが、三日、どうか三日だけ待ってくれ。そうすれば、必ずや資金を調達してみせる。そうなれば、少なくともこの作品を世に出すことだけは、皆にも確約できるんだ」

「……一週間待たせて、また三日。そんな相手の言葉を信じろっていうの?」

「すまない。だが、どうか待って欲しい」

「まあ、今作はアンタが初めて作るオリジナルだものね。何が何でも完成させたいっていう思いは分かるわよ。けど、自分の力で掴めない大きすぎる夢は、きっと、アンタの見て良い夢じゃないわ」

「それをこの三日間で確かめてみせる」

 ジッと見つめ合う二人。

 これには周囲の誰も口を挟むことなどできなかった。

 ただ静かに口をつぐんで、ことの成り行きを見つめるばかり。

 ややあって、先に折れたのは少女だった。

「いいわ。三日、三日だけ待つわ。でも、これ以上の延期は無理よ」

「……ありがとう」

 プイと視線を逸らして、不機嫌な調子を隠そうともせず語る少女。

 これに髭ロン毛は頭を下げて礼を言った。

 ただ、これで場が上手くまとまるかと言えば、そうとは限らない。彼女が承諾して以後も、他より声が上がる。

「あ、あの、監督、大変に申し訳ないのですが、私はちょっと……」

「あっ、わ、わた、私も流石にこれ以上は……」

 監督を中心として生まれた人の輪にあって、隅の方に立っていた女性声優が二人ばかり。酷く落ち着かない様子で、おずおずと小さく手を上げての発言だった。共に二十代中頃を思わせる。

「ああ、君たちは今回からの役だったな……」

「すみません。あの、事務所にも聞いてみないと分からないので……」

「私も、お、同じような感じで……」

 これより乗らんとする船が、早々に沈み行く泥船であると理解したのだろう。

 下手に関わったところで、損はあっても得など皆無であると、火を見るよりも明らか。時間の無駄も甚だしい。また、万が一にも自分の名前を汚しては、それこそ目も当てられない。声優業としては致命的。

「すみません。あの、これで……」

「ごめんなさい……」

 早々のこと、荷物を纏めて部屋を出て行く二人だった。

 ならば、その姿に触発されたのか、他からも声が上がる。

「すみません、私も事務所と確認を取ってきます」

「あ、申し訳ないんですが僕も……」

「じゃあ、お、俺も……」

 一つ倒れれば全て倒れるドミノのよう。

 一人、また一人と大部屋から去って行く。

 誰しも生活を賭けて仕事をしている。それは声優業であっても変わらず。ご飯が食べられないと理解しては、まさか続けることも難しい。髭ロン毛も去りゆく面々を止めることはできなかった。

 元は十数人が集まっていた一室である。

 けれど、数分の後にはたった四名を残すのみとなった。

「んで、どうしてアンタが残ってるのよ?」

「べ、別にいいだろっ!? 残ってちゃ悪いかよっ!?」

 監督と音響監督の他、天才声優少女と山田である。

 二十畳近い大部屋にあっては、とても閑散として感じる。

「よりによって一番に使えない奴が残るなんて、最悪ね」

「う、うっせっ! だったらお前がアイツらを説得してこいよ! 偉いんだろ!?」

「無理に決まってるじゃない。私、性格が悪いんでしょう?」

「この、く、クソガキ……」

 今の状況は山田にしても非常に面白くないものだった。

 他の何よりも大切な、自身の全てを賭けるのだと決めた収録が、目の前に崩れ去ったのである。胸の内に滾るのは消失感と、それを遥かに終えた怒り。矛先の失われた憤怒であった。

「っていうか、そうだよっ! おいっ!」

「なによ?」

「お前、売れっ子なんだろ? だったら三千万くらい出せるんじゃないのか!?」

「は?」

「だから、三千万!」

「なんで私が支払わなきゃならないのよ? 私のお金は私のものよ? 仮に持ってたとしても、びた一文出す気はないわ。幾ら監督とは言え、お先真っ暗な相手に誰がお金を貸すのかしら? ここは大学の仲良しサークルじゃないのよ?」

「なっ……」

「それは当然だろう。君、まさか私もそこまで落ちぶれてはいないよ。彼女の言うとおり、私の夢は私のものだ。他の誰に頼ることも無い。自分で為さねば、それは決して自分のものとはならない」

 山田の言葉を受けて、髭ロン毛自身もまた、待ったを掛ける。

 流石に社会人として阿呆が過ぎる発言だった。

 伊達に大学生をしていない。中身は少女にも増して子供だ。

 けれど、彼としてはどれだけ恥ずかしい目にあっても、手に入れたい三日後である。その表情は髭ロン毛自身に否定されても、未だ多くを語りたそうであった。伊達に命を賭けていない。というより、既に幾十回と死んでいる。故に使えるものは何でも使えの精神。生き恥など幾らでも晒す所存である。

「け、けどっ……」

 少女に向けて一歩を踏み出した山田を、監督が片手に制する。

「三日間で絶対に立て直してみせるさ」

「ふん、二度も収録を延期させておいて、これまた随分と今更の宣言ね?」

「う、うむ……」

「まあ、せいぜい頑張ればいいわ。せいぜい汗水垂らして行脚なさい」

 そして、そうこうするうち、少女もまた大部屋を後とするのだった。軽い調子に言葉を交わし、その場に踵を返す。ツカツカと歩んでは、一度として背後を振り返ることも無い。バタン、小さな音を響かせて、開いたドアは早々にしまった。

 後に残るのは一人減って三人となった。

「……なんだよおい、こんなの困るじゃんかよ……」

「あぁ、君には申し訳ないことをしてしまった。バイト代も、少し待って貰いたい」

「べ、別にそんなのいらねぇよ! それよりも、だったら早くお金とか探しに行けよっ! こんなところで俺なんかとくっちゃべってる暇なんてないんだろ!? ほらっ! さっさと行けよ!」

「ああ、そうだな」

「ったく、なんで、なんで俺はいつもこんな……」

 溺れ縋り付いた藁が、けれど、根元から千切れて再び濁流の中。

 山田もまた、逃げるようにスタジオを後とするのだった。

◇ ◆ ◇

 その日の午後、山田は街を一人で歩んでいた。

「三千万、三千万、三千万……」

 視線は足下へ落とされて、何やらブツブツと呟きながらである。

 運命の宣告から二週間が経過して、残すところ二ヶ月と半分。心なしか体調がよろしくないなと感じたり感じなかったり。

 のっぴきならないところまで髭ロン毛の提案に入れ込んだ結果、彼の想いの全ては、三日後に実施の有無が決定されるアニメの収録へ向けられていた。

 この後に及んでは、既に方向修正も不可能である。

 まさか何もせずに三日を待てるほど、心に余裕のある男ではなかった。

 最後の瞬間を少しでも充実したものとする為、文字通り必死である。

「クソっ、クソっ、金だよっ、やっぱり金なんだよっ、最後はっ!」

 故に自ら金策を巡り頭を悩ませている次第だった。

 とは言え、三千万という額は、彼がこれまで生きてきた二十四年という時間に稼いだ金銭の総和より遥かに大きい。調達しろと言われても、どうやって調達したら良いのか、想像も付かなかった。

 それこそ宝くじや馬券の類いでも買いに行く程度か。

「どうすりゃいいんだよっ……」

 サラ金という選択も浮かんだ。老い先短い彼にしては決して悪くない案だろう。けれど、幾ら相手がヤクザであっても、学生の身分にある彼に三千万は貸さないだろう。良くて百万が関の山。全然足りない。

 ああでもない、こうでもない、一人ぶつぶつと呟きながら道を歩む。

 今に進むのは人通りも多い繁華街。周囲では人がひっきりなしだ。

「もう、本当、こうなると臓器売るくらいしかねぇよ……」

 何度を死んでも蘇る彼ならば、決して不可能ではないだろう。しかしながら、まさか売買ルートなど持っていない、知っていない。昨日の今日で、三日以内に自らの臓器を金銭に変えられるとは思えなかった。

 彼が求めるべくは、信用取引で無く、目の前に詰むことの可能な現金なのだ。

「くそっ! もうちょっと、もうちょっとだってのに……」

 悔しそうに歯を食いしばり、忌々しげに呟く。

 ならば、そんな彼の眺める先、街頭の大型映像端末に映し出された映像があった。

 大きなビルの正面に設けられたディスプレイだ。どうやら近隣に所在する飲食店の紹介番組を流しているらしい。二十代中頃の女性リポーターが、エプロン姿の飲食店従業員と共に、食事をしている姿が映し出されていた。

 これを一目見て、山田は驚愕した。

「あ、アイツっ!」

 映像に映る調理服姿は、彼も見知った相手であった。

『こちらのお店、つい先月にオープンして以来、翌日から毎日行列ができているんです。凄いですよね。そして、大勢のお客さんが押しかけて止まない同店で、得にオススメのお料理がこちら!』

 リポーターの元気の良い声が辺りに響く。

 なにやら湯気を上げる料理を頬張っては、キャッキャと喜んでいる。

 山田は思わず足を止めて、映像に釘付けだった。

『そして、気になる料理人はこちら、本場フランスで十年以上に渡り料理を研究されていて、三ツ星レストランで筆頭シェフをしていた経験もあるという、凄い経歴のイケメン店長です!』

『いいや、私は料理人ではなく、調理人だな』

『え? 調理人ですか?』

『ああ、そうだ。私は料理を作る者では無い。調理を行う者だ』

『お、おぉっと、流石は元三ッ星のシェフ。こだわりをひしひしと感じます!』

 どこかネジの外れたやり取りは、山田の知る変態コックそのものである。まさか、都内に自分の店を構えていたとは、彼にしても驚愕であった。正体を知った後では、真っ当な料理が出てくるとは思えない。

 ディスプレイの向こう側では、リポーターが料理を摘まんでは、美味しい美味しい、同じ言葉を延々と繰り返している。コックはその傍ら、時折のこと相づちを打つ限りか。一昨日に見たような、エキセントリックな暴力行為は微塵として感じさせない。

「……まさか、人の肉とか食わせてたり、してんじゃねぇよな……」

 リポーターが口へ運ぶ肉料理に、ちぎり取られた魔王ロリータの片腕が重なって思える山田だった。生きた人間の腕が引きちぎられる光景は、そう易々と忘れられる光景では無かった。

 おかげで一つ、ふと、彼の脳裏に浮かんだアイディア。

「あ……」

 彼もまた、一つだけ持っていた。

 自らの臓器を売買するルートを。

「…………」

 流石に抵抗は大きい。大きいなんてもんじゃない。

 けれど、放って置いても二ヶ月半後には朽ち果てる肉体だ。今を利用せずにいつ利用するというのだ。自らに言い聞かせるよう、心中に繰り返して、その足を映像に示された場所へと急がせるのだった。

 問題の店舗は距離にして凡そ一キロばかり。

 駆け足に数分の距離であった。

 額に汗を滝とながしながらの移動。彼は早々に目的地へと到着する。

 加えてどうやら、今し方の放送は生放送であったらしい。

 山田が変態コック経営の飲食店に到着したとき、そこでは番組放送を終えた放送局員たちが、慌ただしく撤収作業に従事していた。店自体は以後を通常通り営業するらしく、周囲には開店を望み列を為す客の姿も見受けられる。

 早速、番組放送の効果が現れている様子だった。

「あ、いた……」

 軒先から覗いたガラス窓の奥、彼は店内に目的の人物を見つける。

 以前に出会ったときと同じく、白衣にコック帽という出で立ち。

 放送局員やら店員やら、雑多に人の溢れる店内であっても、二メートル近い巨漢の外国人は、すぐ目に付いた。放送の為に移動したテーブルやら椅子やらを、テキパキと自らの手に直している。

 これを確認して、彼は即座に特攻。

 店内へと歩みを向けた。

 客の入店を知らせるべく設置された鈴が揺れて、カランカランと乾いた音が鳴る。

 応じて店内に動き回る者の幾名かが、彼の側へと意識を向けた。

 そして、その中には問題のコックの姿もあった。

「ぬっ……貴様は……」

 山田の姿を目の当たりとして、相手の表情が豹変する。

「お、おいこら。メシ、食いに来てやったぜ……」

 不意の闖入者に首を傾げる関係者一同。コイツは誰だと言わんばかり、放送局員、店員を違わず、数多の視線が山田の下に集まる。例外は語り掛けられた者のみか。

 妙な緊張を伴い、山田とコックとはジッと視線を交わすのだった。

◇ ◆ ◇

「つまり、貴様は自身の肉を私に売りたいと」

「そ、そうだよ。買うか? 買うのかよ?」

 場所を移してこちらは変態コックの飲食店、その二階に位置する事務所の一室。他に人の姿は無い。六畳ばかりの空間で、互いにソファーへ腰を掛けて向かい合う。

「確かに先の一件で、私単体で貴様を狩ることが不可能だとは理解した」

「だったらっ……」

「しかし、手持ちの金銭では、貴様の言い値を用意することは不可能だ」

「でも、も、儲かってるんじゃねぇのか?」

「この店を建てるのに散財してしまった。経営の上で言えば負債が勝る」

「……マジかよ」

 一通りを説明したところで、変態コックから返された返答。

 それは山田の期待を裏切るものだった。

 人気飲食店との話を聞いて、きっと大丈夫だろうと踏んだが所以の落胆か。

 しかもこのコック、何気に言葉を交わしてみれば、話の通じる相手だった。伊達に生放送に出演していない。料理云々さえ関わらなければ、日常生活に支障をきたすような最重度のキチガイではないらしい。

「クソっ、役に立たねぇコックだな……」

「期待に添えず悪いな。だが、肉を寄越すというならば、いつでも歓迎だ。もしも貴様が私に隙を見せれば、即座に引きちぎる覚悟はある」

「やらねーよっ! 貧乏人にやる肉はねぇ! っていうか、その覚悟は俺がするべき覚悟じゃねぇか! なんでお前が自己申告してんだよっ!」

「そうか……」

 山田の攻撃的な返答を受けて、しょぼん、両肩を落とすコック。

「しかし、一晩を待つというなら、工面できないこともない。そこいらにあるヤクザの事務所でも襲撃すれば、金の一山や二山、どうとでも都合できる」

「俺が欲しいのは綺麗な金だよっ! んなところから引っ張ってきてどうすんだ!」

「ふむ、面倒な話だな……」

「くそっ、貧乏人に用はねぇっ!」

 昨日の敵は今日の他人。

 相手が文無しであると知って、早々のこと席を立ち上がる。

 自分の方が遥かに貧乏だというに酷い言いぐさもあったものだ。相手は地上波に流れるほど有名な飲食店を起こした、一国一城の主だというに。貯金も底をついた底辺学生の言葉では無い。

「どこへ行くんだ?」

「んなもん、金持ちを探すに決まってるだろ」

 言っていることもやっていることも滅茶苦茶な山田だった。

 こうなるとコックと比べても、どちらがキチガイだか分からない。

「ふむ、なるほど」

「んじゃなっ」

 長居は無用だとばかり、部屋の出入り口へと歩み行く。

 そんな彼をコックは呼び止めた。

「まあ待て、手が無いわけでは、無い」

「……マジか?」

 ピクリ、肩をふるわせて振り返る現金な男。

「どうすんだよ? 何か当てがあるのか!?」

「三日と言ったな?」

「あ、あぁ、三日だよ。三日の間に三千万だ」

「……ならば、なんとかなるやもしれぬ」

 コックは渋い顔に語ってみせる。

 余程に山田の肉が惜しいのだろう。

「本当かっ!?」

「しかしながら、なかなか難易度の高い話になるだろう」

「なんでもいいから教えろよっ! どうすればいいんだ?」

「既に理解しているだろうが、私が騎士団から受けた依頼は魔王の捕獲。達成すれば、貴様の欲する額を越えて、十分な報酬を得ることが出来るだろう」

「……おい、魔王って、もしかしてあの妙に偉そうなクソガキか?」

「ああ、そうだ」

「…………」

 想定外の提案を受けて、思わず返答に窮する山田だった。

「ちょっと待てよ、俺はその騎士団っていう連中に襲われたんだぞ!?」

「そのような話は知らぬ。だが、私に提案できるのはこれが限界だ。無論、これに乗ると言うのならば、騎士団と話を通すところまでは手伝ってやる。当然、魔王の肉は報酬と別に貰うがな。無事に金を得られたなら、貴様の肉も同様だ」

「…………」

 何が何でも肉が欲しいコックだった。

 対する彼はと言えば、ドア前にあって、背後へ振り向いたところで静止。

 酷く悩んで思える。

「どうした? 別段、貴様が困ることはあるまい?」

 淡々と問い掛けるコック。

 これに答える言葉は、なかなか見つからない。

 ただ、考えれば考えるほど、彼の思考は冴えて行く。

 もしも彼の精神が健常であったのなら、或いは、断りを入れたかも知れない。共に松屋で晩飯を食った間柄。その身をヤクザ組織へ売り渡すには些か抵抗が大きい。しかし、人生残すところ二ヶ月と半月。自分以上に優先すべき事柄など、早々見つけられない山田だった。

 だから、既に結論は出ていた。

「分かった。アイツをとっ捕まえて、連中に渡せばいいんだな?」

「ああ、そうだ」

「んじゃ、詳しく話を聞かせろよ」

「うむ」

 そうして、ここに山田とコックの打倒魔王ロリータ同盟が発足するのだった。

◇ ◆ ◇

「ここか?」

「まあ、居るかどうか分からないけどな……」

 その日の夜、山田とコックは共に行動していた。向かった先は、昨日に彼が寝泊まりしていたネットカフェである。時刻は午後十時を回った頃合い。後者にしては店を少し早めに閉めて以後の活動か。

 目当てとする魔王ロリータは、昨晩に山田が適当ぶん投げた為、どこへとも飛んで行ってしまった。そこで仕方なく、こうして最後に出会った場所へやって来た次第。そろそろ戻ってきてはいないかと、確認に訪れたのである。

 ちなみにコックはジーパンにYシャツという出で立ちに着替えてのこと。流石に白衣姿で街中を歩き回っては奇異に映る。縦長帽子も店に置いてきた。その辺りは山田が指摘してのこと。でなけらば、普通にエプロン姿で街中へ繰り出さんとした変態だ。

「んじゃ、俺はこっち探すから」

「分かった。ならば私はこちらの喫煙スペース側を探そう」

 二手に分かれての捜索活動である。

 物静かな店内を物色し始める二人。とは言え、各スペースはセパレータにより区切られている。まさか覗き込んでは通報必至。それとなく漫画を物色する素振りを見せながらの捜索だろうか。

 既に夜中という時間帯も手伝い、店内は非常に物静かだった。

 既に寝入っている客も決して少なくない。

「クソっ、やっぱりここにはいないのかよ……」

 手狭いスペースとスペースの合間を歩みながら愚痴を漏らす山田。

 周囲には彼らの他に立ち歩んでいる者の姿も少ない。延々と歩き回っていては、やがて店員に問い詰められること必死の状況。残すところ三日という期間もあって、彼は焦りに焦っていた。

 ここを覗いては、他に当ても無いのだ。

 しばらく店内を見て回り、やがて、フロア脇の便所前に集まる二人。

 山田とコックとは互いに報告を交わす。

「居たか?」

「否、見つけられぬ」

「クソっ、やっぱり居ないのか……」

「そもそも貴様はどうしてここに居ると考えた?」

「いや、昨日までここに一緒に泊まってたからな。アイツの性格からして、絶対に文句の一つでも言いに帰ってくると思ってたんだけど……」

「なにかあったのか?」

「昨日の晩だけど、騎士団とか言う連中に襲われたんだよ。アイツと一緒に居て」

「それで、魔王はどうしたんだ?」

「あ、あぁ、なんかヤバイ感じになったからぶん投げた」

「ぶん投げた?」

「どこ行ったのかは知らないけど、まあ、そんなに遠くまでは行ってないだろ」

「……そうか、逃した、ということか」

「逃したっていうか、なんていうか……」

 恐ろしく少ない情報から、しかし、正確に当時の状況を推測するコック。かなり頭が良いらしい。山田は知る余地も無いが、この男、日本語に加えて、英語や中国語、フランス語、スペイン語といった、世界各国の十数という言語を操る天才である。全ては調理のために習得した知識だろう。

「では、そのような相手を再び売ることとなっても、お前は良いのか?」

「……まあ、お、俺だって、俺の事情があるし……」

 他方、問われて困窮するのは、母国語も満足に話せないキチガイ男。当時の状況を思い起こして、なんと答えたものか躊躇する。たしかに逃したと言えば逃したと言える。ただ、改めて指摘されると、何故にそうしたのかは、自身の心持ちながら知れない。

 全ては潔癖極まる現代教育が所以。命は大切です。それが幼いなら尚更です。

 精神的にギリギリまで追い詰められた結果、極限の状況下で発揮された善意だった。本人も説明するには難しい。現に今こうして、コックと同盟を組んで、一度は助けた相手を陥れようとしているのだから。

「それにアイツだって、俺のこと何度も裏切ってくれたんだから、べ、別にいいだろ」

 最初の出会いからして、魔王ロリータからは散々な目に遭わされていた彼だ。何かを一方的に与えられた覚えは無い。どちらかと言えば、搾取される側にあった。痛い目を見たことも度々。

「まあ、私は肉が手に入れば、なんだろうと構わないがな」

「だ、だったら聞くなよ」

「しかし、この調子では捜索も難しそうだな。場所が悪い」

「なんとかならないのか?」

「私は調理専門だ。諜報に向いたスキルは持っていない」

「んだよ、つかえねーな。もうちょっと頑張れよ」

「悪かったな」

「っていうか、調理人ってなんだよ? 前に誰かが言ってたけど」

「調理人とは調理を行う者だ」

「んなこと字面見りゃ分かるってーの!」

「我が肉体は調理を行う為だけに存在している。この指は肉を裂くために、皮を剥ぐために、骨をへし折る為に、筋を毟る為に、そして何より得物を狩るために。故にこの世の生物全てを凌駕するだけの肉体を手に入れる必要があるのだ」

「いや、意味が分からないし」

「はっ、調理の道を理解せぬ貴様に語ったところで詮無きこと」

「だったら言うなよ」

「訪ねてきたのは貴様だろうが」

「ま、まぁ、そうだけどさ」

「しかし、この調子では魔王を見つけるのも難しそうだな」

「そうだな……」

 二人して店内を見渡す。既に多くの客が就寝モードとあって、静かなものだった。一部のスペースにおいては照明も落とされている。もしもその中に目的とする少女が含まれていたならば、探し出すことは困難を極めるだろう。

「なんつーか、面倒だな」

「貴様が一つ一つ、ドアをこじ開けて見てくれば良かろう?」

「さ、流石にまだそれは駄目だ。もうちょっと粘れる時間とかあるし」

「なんだ、使えないな」

「っていうか、それだったらお前がやりゃいいじゃんかよ。アイツの肉が欲しいんだろ? 前に襲ってきたときとか言ってたじゃんかよ」

「確かに魔王の肉は気になる。しかし、その肉は既に腕一本とは言え手に入れている。尚且つ、私はお前という存在を見つけたのだ。今は下手に手を出すより、堪える時期であると考えて当然のこと」

「俺かよっ!?」

「人間にして不死さながらの反応を見せる肉、必ずや得て見せよう」

「だ、だったら先にアイツを見つけてからにしろよなっ!」」

 二の腕に鳥肌を浮かべて吠える山田だった。

「むぅん、面倒なことよ」

 コックにとっての調理とは、そこまで主張するほど、何にも代えがたい行為であるらしい。頭を悩ませてみせる姿は、本心からの振る舞いに思える。心底、山田の肉が欲しくて貯まらない様子だった。

「まあ、とりあえず一度でるか。あんまり長くうろついていて通報されても困るし」

「うむ、承知した」

 この場を諦めて自ら歩み出した山田。その後にコックが続く。

 すると多少を歩んだところ、退店処理の為にフロントへ向かった際のこと。二人が向かう先、何やらカウンター越しに店員とやりとりしている少女の姿があった。財布を片手に差し出したカードを前として、あれやこれや。

「では、三百六十二番になります」

「ああ、分かった」

 見た目小学生でありながら、大人相手でも崩れない荘厳な言葉遣い。

 魔王ロリータだった。

「っしゃぁっ!」

 思わずガッツポーズの山田。だいぶ性格が崩壊して思える。

 声も大きく吠えた彼の声を耳として、先方もまた、その存在に気付いた。

「き、貴様っ!」

 山田の姿を確認して魔王ロリータが吠える。

 一瞬、驚きに大きく瞳が見開かれた。それは純然たる驚愕。

 この場に姿を現したということは、恐らく、彼を探してのことだろう。店員とのやり取りも中断して、その眼差しは山田を捉えていた。

 けれど、それも一瞬の出来事。

 彼の隣にコックの姿を確認して、語る調子はぐっと緊張感を増す。蒼色の瞳がクワと見開かれる。どうやら、大男の存在は彼女としても想定外であったらしい。

 驚きは即座に怒りへと変わり、キッと鋭い眼差しとなる。

「……これはどういうことだ?」

 言葉少なに問うてくる魔王ロリータ。

 スゥと細められた視線。

 対して、山田は意識して悪役を気取り言葉を返す。

「わ、悪いけどな、俺の幸せのために、お前には犠牲になって貰うぜ……」

 でなければ、まともに返事ができなかった。

 罪悪感が胸をキシキシと痛ませる。

「……なるほど、そういうことか」

 これを受けて、魔王ロリータは一度の返答で大凡を理解した。

 今に眺める二人が、総じて自らの敵になったと理解したのだろう。

 否、本来の理解を通り越して、相手が意識しない領域までをも推測する。

 彼女はギュッとその身を強張らせた。

「お、お客さん?」

 カウンター越しに店員が声を上げる。その手は魔王ロリ-タに会員カードを手渡さんとしたところで、けれど、相手が一向に受け取る気配も無く、余所へ意識をやっていることで静止していた。

 差し出され続ける会員カード。

 三者の向き合う様子を眺めて、店員は途方に暮れる。

 これを置き去りとして、少女は山田に向けて吠えた。

「上等だ。ぶち殺してくれる」

 ピンと眦を釣り上げて宣言する魔王ロリータ。

 金髪ロリータ。

 その様子は数瞬前の驚きを置き去りにして、憤怒に燃えていた。今にも飛びかかって来そうなほど。

◇ ◆ ◇

 ネットカフェの受付を後として、山田とコック、それに魔王ロリータは、近隣に所在する路地裏に場所を移していた。周囲に人の気配は皆無。日中であっても人通りの少なく思える細路地だった。

「こういう算段だった訳だな。無害そうな顔をして、計ってくれる」

 魔王ロリータは山田の顔を見つめて、憤りも顕わに吠える。

「あぁ? こういう算段ってどういう算段だよ?」

「黙れクソがっ! この後に及んで何を語ることがあるか!」

 届けられる少女からの物言いに、ギシリ、山田の胸が軋む。

 しかし、彼は折れない。

 かかっているのは自らの生命。

 例えこの世の全てを押し退けてでも、自らの幸福に対して貪欲となる。

 自分さえ良ければ、他はどうでも良いのだ。

 女々しさもここに極まれりである。

「そんじゃあ話は簡単だよな。この前の恨み、百倍にして返してやる……」

「この私を討つとでも言うか? 上等だ」

「俺の幸せの為だ。生け捕りにしてやる」

「はっ! やれるものなら、やってみろっ!」

 魔王ロリータが地を蹴り飛び出した。

 拳を振り上げて山田に迫る。

 都合、数メートルばかりの距離は一瞬にしてゼロとなった。

「死ねっ!」

 ブォンと風切り音を立てて迫る拳骨。

 対して、山田は咄嗟のこと両手を自らの顔の前に突き出し重ねた。

 ドンと低い音を立てて両者がぶつかり合う。

「受け止めるか……」

「このクソガキ、いつも大人しく殴られてばかりだと思うなよっ」

 幾度となく殴られ続けてきたおかげだろうか。感極まった精神状態も相まって度胸も相応。彼は魔王ロリータの一撃を正面から受け止めていた。

 特に指がもげていたり、腕がちぎれていたりはしない。五体満足での防衛。

「っしゃ、おいコック、このままふん縛って持ってけばいいんだよな!?」

「いや、持って行く必要は無い。電話連絡を入れれば向こうから来るだろう。昨晩に聞いた話では、一昨日の時点で王が自ら日本へ向かっているとのことだ。或いは直接乗り込んでくるやもしれぬ」

「王? なんだよそれ」

「騎士団のトップに立つ人間だ」

「あぁ、偉い奴ね」

「偉いか否かは知らぬが、強い」

「んじゃ、警察が来ないうちにサクサク行くぞ、サクサク」

「そうだな」

 傍らに立つエプロン野郎と、多少ばかり言葉を交わしたところで、今度は攻勢に移る山田。相手の拳を受け止めた手をそのままに、力一杯、魔王ロリータの腹部を蹴りつけた。いわゆるヤクザキックである。

「ぐっ!?」

 安物のスニーカーが、少女の腹にめり込んだ。

 大きく後方へ身を飛ばす魔王ロリータ。

 どんがらがっしゃんと音を立てて、道の脇に備えられたゴミ置き場に突っ込む。

「へ、へへっ、少しは俺の気持ちを理解しやがれ。クソガキが」

「こ、このっ……人間如きが……」

 少女にしては怒り心頭の様子。

 鬼の形相で彼を見つめる。

「この様子ならば、早々に呼びつけてしまった方がよさそうだな」

 山田の蹴りを目の当たりとしたコックが、懐から携帯端末を取り出す。熟れた調子に操作して、どこへとも電話連絡を入れ始めた。

 その様子を目の当たりとして、魔王ロリータの顔に焦りの表情が浮かぶ。

「ふん、騎士団の連中に買収されたか……」

「うっせっ、なんとでも言えよ。俺は金が必要なんだよ。金が! 三日で三千万!」

「三千万? はっ、所詮はその程度の男か」

「何が所詮だよ。格好つけてんじゃねーよ。そもそも俺はお前に味方した覚えなんて、一度も無いからな? お前だって俺に味方したことないし。っていうか、どちらかって言うとお前には酷い目に遭わされてばかりだしなっ! ああ、なんか、思い出したらむかついてきたわ」

 自らの行いを正当化するよう吠える山田だった。

 そんな彼を酷くつまらなそうに見つめて、ゴソリ、ゴミ山の中から這い上がる魔王ロリータ。不運にも突っ込んだ先は生ゴミ置き場であったらしい。連日の猛暑により良い具合に発酵したゴミ達は酷く匂う。

「しっかし、いよいよこれで、そのスウェットも洗わないとヤバイよな」

「だ、黙れっ! スウェットはいいんだよっ! もうっ!」

「もしかしてそのまま過ごすつもりか? 流石に臭いだろ」

「っ……、ここまで私を馬鹿にしてくれた奴は、お前が初めてだよ」

「マジで? どんだけ友達少ないんだよ。俺と同じだなっ!」

「誰が同じだっ!」

 そこから先は殴り合いの喧嘩だった。

 彼が拳の他に手段を持たないのに対して、少女は火の玉を飛ばしたり何をしたりと、攻めの手が多岐に渡る。

 炎が火を噴くと、都度、彼は身体のあちらこちらを消失させる羽目となった。

 ただ、痛みは一瞬のこと。即座に復帰するので、段々と少女も頻度を通して行き、やがては肉弾戦へと移行していった。

 傍から眺めた限りでは、喧嘩に不慣れな山田が傍目には不利に映る。

 とは言え、腕やら足やらを吹き飛ばされても、彼の肉体は即座に癒える。これは魔王ロリータも同様だが、しかし、幾度を繰り返しても、なんら消耗を見せない彼に対して、少女はと言えば、少なからず疲弊してゆく。

 これが時間の経過と共に、両者の勝敗を分けゆくのだった。

 十数分ばかりが経過した頃には、魔王ロリータの肩が荒い呼吸と共に上下し始める。どうやらスタミナ切れの様子だった。他方、山田はと言えば、服こそボロボロであるが、身体的には疲労を感じさせない。

「なんて忌々しい人間だっ……」

「ふ、ふへへ、なんだよおい。口だけかよ」

 後者は良い感じで変態だった。

 ぱっと見た感じ、児童を襲うホームレスの図。

 コックはと言えば、全てを山田に任せて脇に眺める限り。恐らくは彼の力量を計っているのだろう。或いは自分が混じるまでもないと判断したのかもしれない。いずれにせよ見ているだけ。

 やがて、更に数分ばかりが経過したところで、一帯に響き渡る声。

「なるほど、確かに彼が魔王を追い詰めているようですね」

 どこからやって来たのか、いつの間にか現れた人影。

 コックの隣に人が一人立っていた。

 エプロン姿の大男は取り立てて驚いた風も無く、これに応じて頷く。

「先に話したとおりだ。現金で受け取ることを求めている」

「ええ、承知しました。魔王を生け捕りとならば、王も喜ぶでしょう」

「しかし、サイ、わざわざお前が来るとはどういう風の吹き回しだ?」

「既に幾度となく失敗を繰り返しているのですから、当然のことです。これ以上の失態は決して許されません。我らが愛しき王の為、是が非でも魔王を捉え、その下へ引き摺り出すのがこの私、いいえ、我らが騎士団の勤め」

「……勤勉なことだ」

「ええ、私は王に遣える騎士ですからね」

 山田にしては初見。新キャラのようだった。

 眼鏡を掛けた伊達男である。この糞暑いなかスーツ姿のイケメンである。身の丈は百八十程度か。長めの金色の髪を七三に分けている。年は二十代中頃、山田と同じくらい。色白の欧米人である。

 特にこれと言って凶器の類いを持っているようには思えない。どうやら手ぶらにやって来たようだ。語る調子はとても丁寧なもの。まるで金持ちの家に仕える執事のような立ち振る舞いである。

「しかし、どうやって拿捕するつもりだ?」

「用意はしてあります。既に弱っている様子ですし、捕まえてしまいましょう」

 コックの言葉に軽い調子で答えて、イケメンは二人の下へ歩み出す。

 そして、数メートルばかりを進んだところで、おもむろに叫ぶ。

「山田さん、後ろへ飛んで下さいっ!」

「あぁっ!?」

 急に名前を呼ばれて、思わず身体が反応してしまう山田さん。小心者が所以、言われたとおり、地面を蹴って大きく背後へと飛び退く。

 同時に彼と入れ替わるよう、イケメンが魔王ロリータの下へ駆けた。

「っ!?」

「これで終わりです」

 手には小さな輪っかが握られていた。

 男はそれを少女の首へと向ける。

 まるで警察官の振るう手錠のように、輪っかは相手の首へはまった。カチンと乾いた音を立てて、金属製だろうそれが肌にめり込む。どうやら施錠されたらしい。

 途端、少女の身体が勢いを失った。

 がくっと膝から地べたへ崩れ落ちる。倒れ伏すことこそなかったが、まるでフルマラソンを終えたばかりの長距離ランナーのように、疲弊して思える姿だった。

「なっ……これはっ……」

「これで貴方はそこいらの人間と大差ない程度まで力が落ちました。身体の欠損も治癒などされませんから、大人しくすることをオススメしますよ。もちろん、外すことは不可能です。カギもありません」

「貴様ぁあああっ!」

「まったく、封印様々ですね。以前であれば、こうはいかなかったでしょう」

 語るイケメンは相変わらず涼しい顔だった。

 一方で途中に割り込まれた山田にしては困惑。

 自らの得物、金ずるを取られたのではと焦り調子に声を上げる。

「お、おいっ、誰だよお前っ!」

「あぁ、ご挨拶が遅れました。私は騎士団の人間で、サイ・フリンと申します」

「きしだ……、っていうと、そこのコックが呼んだヤツ?」

「はい。そうです」

「そ、そか……」

「既に話は通っております。貴方に敵対する意思は、今のところございません。ご安心下さい。また、この度は我々の活動にご協力下さりありがとうございます。昨晩までの失礼はこの場にお詫びさせて頂きます」

「いや、べ、別に、まぁ、それはいいんだけ……いや、よくねぇけど……」

 昨日とは打って変わり、丁寧な物腰に訴えられて困惑する山田だった。

 問答無用で襲い掛かってきた者達と比較しては雲泥の差。同じ組織の人間だとは思えないほど。小心者な彼だから、下手に出られると弱いのだった。

「約束のものは明日にでもお届け致します。よろしいでしょうか?」

「それってさ、ほ、本当にくれるんだろうな? 嘘じゃないよな?」

「当然です。ご安心下さい。現金にてお持ちさせて頂きます」

「そ、そか……」

 約束の三千万円。彼の夢を叶える為の三千万円。

 思ったよりも簡単に事態が進み、拍子抜けだろう。

 他方、売られた側にしては憤怒も一入と言った具合。声も大きく騒ぎ立てる。

「貴様っ! この私を売ったなっ!?」

「う、うっせっ! 先に俺のこと殴ったのはお前じゃんかよっ!」

「ぐっ……」

「大人しくして下さい。今の貴方では私から逃れることも不可能ですよ」

「このっ、黙れっ! 誰が貴様らなぞっ……」

 必至になってもがいている。

 彼女の左腕はスーツ系イケメンに握られている。まるで万力に固定されてしまったよう、どれだけもがいても外れそうになかった。

「くそっ、力っ、力さえあればっ……」

「諦めて下さい。既に貴方は拿捕された身の上にあります」

 涼しい顔で言うサイ。なんら動じた様子もない。

「このっ……」

 自由な右腕を振り回してみたり、両足で蹴りを入れてみたり、暴れに暴れる魔王ロリータ。けれど、全く効果はなさそうだった。今し方に語られた通り、見た目相応の子供が暴れているよう。

「それでは、約束のもの、確かに頂戴致しました」

「あ、あぁ……」

「車を待たせておりますので、私はこれにて失礼致します」

「はなせぇぇえっ!」

 そして、呆然と眺める山田に一礼、サイは歩み早に場を後とするのだった。もちろん、片手に少女を引き摺りながらのことである。

 児童誘拐というよりは、だだをこねる娘を強引に連れ回す父親のよう。

 やがて、その姿は裏通りから消えて、建物の角より先、見えなくなるのだった。

「……行っちまった」

「ああ、無事に完了だ」

 ややあって響いたのは、ぶろろろろ、走り出す自動車の排気音。

 二人してサイが消えた側を眺めながらに語る。

「以前に相対した際にも感じたが、やはり、封印云々は本当だったようだな」

「噂? なんだよそれ」

「元来の魔王は非常に強力な存在だ。本来であれば、こうも容易に拿捕できる相手ではない。先程に利用された拘束具にしても、指の一本で引きちぎるだけの力を備えた化け物だという話だ」

「そうなのか? にしちゃあ、なんか随分と呆気なかったけど……」

「力の多くを封じられているからだ。伊達に王やら占い師やら嫁やら、他の伝説級の職に肩を並べてはいない。それくらいに強力な存在であるのだ」

「あぁ、本人も耳喧しく繰り返してたな。封印がどうだとか」

「もしも封印がなければ、私は貴様では拿捕など不可能であっただろう」

「そ、そうなのか?」

「ああ、逆に滅ぼされるのがオチだ」

「……マジか」

 封印という単語にしては、彼にしても幾度となく耳としていた。ただ、興味を感じることは無かったので、取り立てて話に乗ることもなく流していた。今更ながらに影響の大きさを理解だろう。

「故に魔王と呼ばれているのだろう」

「な、なんだよそれ……」

 もしも相手が本来の力とやらを取り戻したならば、などと考えて、少なからず仕返しの影に怯える小心者だった。だからだろうか、自らに言い聞かせるよう、この話はこれで終わりだと主調せんばかりに言葉を続ける。

「……まあほら、金が貰えるなら今更どうでもいいし。もう会うことも無いだろ?」

「ああ、滅多なことでは、魔王と関わることもないだろう」

「ならいいじゃんかよ。もうこれはこれで終わり。後は金貰って終わり」

「うむ。ならば私も、ヤツの肉が欲しい。騎士団の連中と交渉してみるとしよう」

「肉好きだな、お前……」

「当然だ」

 後に残ったのはむさい男が二人きりだった。

◇ ◆ ◇

 山田が魔王ロリータを騎士団なる組織へ売り渡す。

 その一部始終を遠く、建物の屋上より眺める者の姿があった。手には双眼鏡。コンクリートの足下に身を転がせて、数百メートル先の様子を、真剣な表情に見つめている。

「ちっ、あの野郎。魔王を騎士団の連中に売りやがった」

 勇者イケメンだった。

 ここ数日に渡り、魔王の行動を張っていたらしい。

 双眼鏡の先では今まさに、騎士団ナンバーツー。サイの手により少女が車へと詰め込まれたところだった。その様子を彼は苦々しげに、憤りと焦りの表情で眺めていた。

 その衣服は全身黒一色。整った顔立ちと相まって、まるでビジュアル系のバンドメンバーを思わせる出で立ち。

「糞っ、どうする、どうするっ……」

 親指の爪を小さく噛む様子は、彼が本心から焦燥を感じている証。

 やがて、自動車が動き出す。

 これを少しばかり躊躇した後、追い掛けることと決めた。

 背の高い建物の並び立つ都内にあっては、車一台を追い掛けるのも大した苦労だ。大慌てに立ち上がった彼は、今に居する建物の屋上から、隣立つ建物の屋上へ、大きく空を舞い跳躍、移動をする。

 双眼鏡を目元に当てては、相手の居場所を確認。

 自動車が動けば、その都度に自らもまた移動。

 夜の闇に紛れて、空を跳躍を繰り返す。建物から建物へ移り行く。まるで欧米映画に眺めるダークヒーローさながら。スタントマンも真っ青のアクション。けれど、彼はどこまでも冷静に、淡々と自動車を追い掛けた。

 移動時間は凡そ数十分といったところ。

 やがて、標的の自動車はとある建物の前に停車した。

 とても大きな西欧屋敷であった。場所は都内の一等地。数分ばかりを歩めば、この国にあっても指折りの繁華街へと通じる。周りを囲うのは背の高い壁。道路に面する門を抜ければ、そこから先には広々とした庭と続く豪邸。

 周囲は制服を着た警察官に固められている。建物の周りには、今に停車した自動車の他、警察車両が幾つか見受けられる。他に近く、派出所の存在も窺えた。大手直系ヤクザの事務所であっても、ここまで厳重な軽微は希だろう。

「……なんてこった。ここが奴らの根城か……」

 その光景を双眼鏡越しに眺めて、勇者イケメンは愕然とした。

 彼にしても想定外の目的地であった。

「六本木なら、俺も多少は顔が利いたってのに、なんでこんなところで止まるんだよ」

 忌々しげに歯を食いしばる。

 道路に面した門が開かれる。

 自動車は開かれた門を越えて敷地の中へ。

 応じて、門は即座に閉じられる。

 敷地の内側には警察官の姿も無い。

 自動車は玄関前に停車。歩み早に降りた運転手の手により、後部座席のドアが開かれる。車両から降りるのはサイと、サイに連れられた魔王ロリータ。彼女はそのまま、腕を無理矢理に引かれて、建物の中へと連れられていった。

 背の高い壁と門の向こう側、警察官達は何を理解することも無く、ただ淡々と自らの仕事に従じる限り。この場に行われる全てに関知しない。自分たちに与えられた日々の仕事を果たす限り。

「糞っ……どうする。どうするっ……」

 一連の光景を眺める勇者イケメンにしては、ただ、焦りを増させるばかりだった。

◇ ◆ ◇

 明けて翌日、山田は大切なことに気付いた。

「おい、金を持ってくるとか言ってたけど、俺はどこで待ってりゃいいんだよ」

 都合、昨晩にコックと別れてから数時間。昨日と同じネットカフェに一晩を過ごし目覚めて、ようやっと気付いた阿呆だった。相手も認知しているだろう彼の自宅は、しかし、当の騎士団の手により崩壊している。

 まさか、例のスーツ系イケメンが、今に自らの居するネットカフェを把握しているとは、到底考えられない山田だった。だからこそ、焦りを感じざるを得ない。

「ま、まさか、俺、また騙されたんじゃないだろうなっ……」

 過去に幾度となく経験した悲しい記憶達が蘇る。

 最近ではパネマジ上等のアラフォー風俗嬢か。

「ちくしょうっ! マジかよっ!? マジなのかよっ!?」

 手早く荷物を纏めると、バタン、大きな音を立てて個室より出る。

 フロントで所定の料金を支払い、大慌てに店舗を後とした。

 時刻は午前九時を多少ばかり回った頃合い。表通りには既に人が溢れていた。スーツ姿のサラリーマンやオフィスレディであったり、私服に着飾る学生であったり、大通りとあっては非常に活気づいて思える。

 その只中を彼は駆けた。

 向かった先は昨晩に魔王ロリータを捕縛した場所。大して距離の無い細路地。

 日中帯とあっては、時折のこと人の姿も見受けられる。

 しかしながら、目的の人物は見つけられなかった。歩み行くのは誰も彼も日本人ばかりである。金髪のイケメンならば、早々に気付いて道理。

「クソっ、いねぇしっ!」

 雀の涙ほどの期待も裏切られて、どうしたものか、焦りを増させる駄目男だった。連絡先も交換していないので、連絡を取ることも叶わない。

 残る希望はエプロン姿の大男だろうか。

「そうだっ、あいつならっ!」

 昨晩、携帯端末を片手に渡りを付けていたコックの姿を思い出す。

「あの店に行けば会える筈だっ!」

 踵を返すと、大慌てに駆け出す山田。

 屋外へ出て数分、既にシャツの襟周りは汗でぐっしょりだった。

 目的の飲食店までは、凡そ一キロ弱の距離がある。

 これを彼は駆け足に向かった。真夏、炎天下の下を正気の沙汰とは思えない。けれど、今はお金のことで頭がいっぱいの貧乏人だった。汗が顎を伝い落ちるのも、まるで気にした様子がない。

 やがて、数分ばかりを経過したところで、目的の店舗へと辿り着く。

 店内は昼前にありながら、客の姿に溢れていた。

 昨日に流れたテレビ中継の影響だろう。特に二十代後半から三十後半までのふくよかな女性が多い。今が平日の日中帯であることを鑑みれば、多くは片働きの夫を持つ専業主婦だろう。

「おいっ! コックいるかっ!? コックっ!」

 彼は叫びと共に店内へと駆け込んだ。

 かなり大きな声であって、客も店員も一様に山田の側を見つめる。

「ん? 何用だ?」

 カウンターの先、見知ったエプロン姿の巨漢が居た。

 包丁片手に調理の最中である。

「アイツらっ、アイツらってこなかったか?」

「アイツら? ……あぁ、そのことか」

 山田の問いかけを受けて、コックは早々に彼の言わんとするところを理解した。彼とは対照的、とても頭の回転が早い。伊達に自分の店を構えていない。

「来たのかっ!?」

「落ち着け。そして、空いている席に座れ。他の客が驚く」

「え? あ、あぁ……」

 言われて改めて周囲を見渡す山田。

 周囲からの視線に気付き、途端、勢いを萎ませた。

「わ、悪い……」

「そこだ」

「おぅ……」

 コックに言われるがまま、カウンター近く、空いていた二人掛けの席へ腰掛ける。もちろん、対面には誰が腰掛けることもない。周囲が女性客ばかりだと知って、少しばかり身を小さくする。

 店内では数名からなる店員が優雅に動いて回る。席は八割が埋まっているものの、昼食時まで数刻を待つ時分とあっては、注文もコーヒーや紅茶の類いが大半。それほど忙しいようにも思えない。

 午前十時、いわゆるアイドルタイムというやつだった。

 だからだろう、普段ならばキッチンに籠もりっきりだろうコックにしても、ホールにやってきて彼の相手が叶う。ややあってのこと、カウンターを迂回してやって来た大男が、空いた対面の椅子へと腰を下ろす。

 手にはいつのまに用意したのか、二人分のティーセット。

 盆に乗ったままのそれを静かに卓上へと置いた。

「茶だ。飲め」

「あ、あぁ、悪いな」

 言われて、彼はカップの一つへとポットから茶を注ぐ。

 湯気を上げる淹れたての紅茶だ。

「っていうか、この糞暑いのにホットかよっ!?」

「悪いか?」

「悪いに決まってるだろ!? 誰が飲むんだよ」

「私が飲む。嫌なら水でも飲んでろ」

「むしろ水が飲みたいわっ、水が!」

 今の今まで炎天下を走り回っていた山田だ。まさか熱々の紅茶など飲めない。屋内の冷えた空気に身を置いて、しかし、未だに全身から汗を滴らせている。酷く汚らしい汗かき野郎だ。

 彼が声も大きく吠えたからだろうか。気を利かせた店員が水の満ちるグラスを持ってきた。コトリ、テーブルの上に置かれる。それを山田は早々のこと手に取り、ゴクリゴクリ、喉を大きく鳴らした。

 グラスの水は数秒の内に飲み干された。

「しかし、やはり連中の連絡先を知らなかったか」

「お前、電話とかしてたよな? 教えてくれよ。どこへ行けば会えるんだよ?」

「既に金は預かっている。これが欲しかったのだろう」

 答えてコックはエプロンのポケットへと手を突っ込む。

 おもむろに引き抜かれた手には、札束が握られていた。凡そ十センチ程度の厚さを持った束が三つばかり。普通のポケットでは無理だろう。エプロンに備えられた大きなそれだからこその収容。

「マジかよっ? なんでポケットなんか入れとくんだよ」

「ここが一番に安全だからだ」

「いやまあ、そりゃお前なら安全なのかも知れないけど……」

 ドンとテーブルの上に並べられた札束。縦に並ぶと三十センチ。過去、十数万の貯金が関の山であった山田にしては、非常に衝撃的な光景だった。書類の上でならばまだしも、八桁の現金となれば、滅多なことではお目にかかれない。

「今渡してしまって良いのだろう?」

「お、おうっ」

 慌て調子に頷いて札束へと手を伸ばす山田だった。

 彼に限らず、その光景を目の当たりとしては、周囲からも好奇の視線が寄せられる。人前に金銭を扱うなど、普通の人間なら躊躇しそうなところ。けれど、このコックにしては何ら動じた様子もなかった。

「マジだ。すげぇ、本物だ……」

「当然だろう」

「いや、だけど、すげぇな。こうしてみると」

 ぺらぺらと札を指先にめくっては、頻りにすげぇすげぇと連呼する貧乏人。

「ところで、腹は減っているか?」

「あぁ? 腹?」

「そうだ。腹だ」

「……朝飯食ってないし、それなりには減ってるけど。なんでだよ?」

「奢ってやろう」

「マジか?」

「ちょっと待っていろ。仕込みは既に終えている。貴様がコンビニの弁当以下だと乏しめた我が料理、前言を撤回させる良い機会だろう。この腕と舌を持って、貴様を圧倒することと決めた」

「いいぜ? んじゃさっさと持って来いよ。食ってやる」

「ああ、そこにまて。三十分ほどで支度ができるだろう」

「分かった」

 多少ばかりを喋ったところで席を立つコック。紅茶には一口を付けた限り。

 今に語った通り、下ごしらえなどしていた手前、彼がここへやって来ることを、事前に想定していたのかも知れない。

 スタスタとカウンターの反対側、キッチンに消えていった。

 思わぬ形で朝食兼昼食を得た山田は、自然と顔にも笑みが浮かぶ。

「なんだよアイツ、顔は怖い癖になかなか気が利くじゃんかよ」

 無条件に与えられる他人からの好意は、彼にして滅多でないものだった。

 言われたとおり、大人しく料理が運ばれてくるのを待つ。

 店長と親しげに話していた手前、依然として周りからはチラリチラリ、視線が向けられて止まない。けれど、今の彼はそれが気にならないほど、自らの意識をテーブルの上の現金と、キッチンに作られる料理に向けていた。

 やがて、伝えられたとおり三十分ばかりの後である。

 山田にしても汗が引いて、シャツの冷たい湿り気が気になり始めた頃合。早く乾けよとシャツの襟を指先に摘まみ、パタパタとやっていたところ、再び声を掛けられた。無論、コックである。

「待たせたな」

 巨漢が再び彼の着くテーブルの脇に立つ。

 手には盆に載った皿と、皿に乗った料理。

「おぉっ」

 盆から卓上へ移されたそれは、見事な油淋鶏だった。

「日本人はこれが好きなのだろう?」

「お前っ、良く分かってるじゃんか! 腹が減ったらこれだよ、これ!」

 ご多分に漏れず唐揚げ好きな彼にしては絶賛。

 早々に箸へと手を出す。

「く、食ってもいいか?」

「ああ、食え」

「おっしゃっ」

 パチン、割り箸を割るや否や、速攻で肉へと食らいつく山田だった。

 揚げたてのそれは、がぶり、かみつくに応じてじゅわと肉汁を滴らせる。熱せられた油に多少ばかり驚きながら、けれど、食欲が勝った彼は、ほふほふと口を唸らせながら必死に顎を動かす。

 そして、十分に噛み込んだ後、ゴクリ、大きく喉を鳴らして飲み込む。

 一口を終えて、彼の表情は幸せそうだった。

「おい、これ美味いなっ! マジで!」

「では前言を撤回して貰おうか」

「いや、これは流石にコンビニじゃ食えねぇよ。スゲェ美味いし!」

「……ならば良い」

「流石は五つ星だな! 伊達に長い帽子かぶってないよなっ!」

 星を二つばかり勘違いしたところで、早々、二口目に取りかかる山田だった。

 意識は目の前の唐揚げに釘付けである。大学進学以後ここ数年に渡り、食生活の半分を松屋に通う貧乏人だ。久方ぶりに食べる美味い食事は、今この瞬間、他の如何様な娯楽にも勝る快楽であった。

 おかげで皿の上にあった油淋鶏は、瞬く間に彼の腹の中へと消えて無くなる。

 隣に合わせ置かれた茶碗も空っぽだ。

 会話すら忘れて、無我夢中で終えられた食事だった。

「随分と腹が減っていたようだな」

「ここんところメシも禄に食えなかったんだよ。色々と面倒事のせいで」

「そうか」

「いや、マジで美味かった。ありがとな」

「別に構わん」

「けど、良い鶏って、食感まで違うのな? 普通の鶏より断然にこっちだわ」

「いや、鶏ではないぞ」

「え? 違うのか? じゃあ何だよ? まさか豚じゃないだろうし……」

「吸血鬼のもも肉だ」

「……は?」

 コックから返された、予期せぬ言葉に目が点となる山田。

 彼の中では鶏肉だった。鶏の唐揚げだった。

「昨晩、私が貰い受けた肉を使ってみた。これがまた包丁に良く馴染む。独特の臭みがあったので、今回は刻んだバジルを浅い切り口に練り込んでみた。これが良い具合に相まってな。一つ線を越えた領域へと至るに一役買っている」

「…………」

「どうした? あまりの旨さに言葉もないか?」

「……ほ、本当に? 本当にアイツの肉だったのか? おい」

「ああ、ヤツの、魔王のもも肉だ」

「…………」

 かしゃん、手にした箸を盆に取り落とす山田だった。

 既に肉は腹の中だ。美味しく頂いた後だ。

「ふ、ふざけんんぁああああああああっ!」

 だから、次の瞬間には吠えていた。

 あまりに大きな声であって、店内の注目が例外の一つなく彼の下に集まる。

「耳喧しいヤツだな。いきなり声を上げるな。他の客の迷惑だ」

「お前の料理は俺にとって迷惑だっ!? おいっ!」

「美味かったのではないのか?」

「美味かったよっ! あぁ、クソっ、超絶美味かったよっ!」

 食っちまったもんは仕方が無い。

 やけくそ気味に吠える食人野郎だった。

「全部食っちまったよっ! どーすんだよっ!? 俺どーすんだよっ!?」

「食事は食べる為にある」

「そういう意味じゃねーよっ! 客になんてもん出すんだよ!」

「客ではないだろう? 金を求めた覚えは無い」

「あぁぁ……なんかこう、急に胃が重くなってきたぞ、ちくしょう……」

「油が効き過ぎていたか?」

「ちげぇよっ! っていうか、おいっ!」

「どうした?」

「肉取ってきたの、昨日って言ったよな?」

「ああ、昨晩だ」

「アイツ、今は普通の人間と同じになってるとか、あのイケメンが言ってなかったか? もも肉なんてどうやって取ったんだよ?」

「どうもこうも、包丁で切断した」

「……マジか」

「ああ、確かに貴様の言うとおり、生えてくることはなかったな」

「…………」

「惨めな姿をさらしていたな」

「っ……」

 今に語られる光景を想像して、思わず冷や汗を垂らす山田だった。

 その原因の一端を自らが握っているともなれば、罪悪感も一入か。

 一方で他の客達にしては、二人のやり取りを耳としても、何が何やら、概要を理解することも叶わない。吸血鬼云々、まさか世間に通じる筈もなかった。油淋鶏は油淋鶏。おかげで無駄に騒動となることはない。

「クソっ、は、吐きたくても、吐き気なんて全然ねぇよっ、おい」

「我が料理を口として吐くなどありえん」

「威張ってんじゃねぇーよ! ああもうっ、コイツ、やっぱり全然駄目だっ……」

 思わず頭を抱えるカニバリスト。食したのは吸血鬼の唐揚げ。

 金銭を受け取りにきて、要らぬ称号まで得てしまった。

 吸血鬼という存在が、人間とどれだけ異なるのか。詳細は山田の知るところに無い。しかしながら、見た目こそ人と大差ないとあって、実質的に食人と違わない感慨を覚えている次第だった。

「もういいっ! 二度とこねぇしっ!」

「行くのか?」

「当然だっ!」

 声も大きく吠えて、席を立つ山田だった。

 平素と変わらぬ調子に問うてくるコック。

 これに叫び答えて、歩み早に店を後とする。

 カランカラン、乾いた鈴の音が、食人鬼を天下の往来へと送り出した。

◇ ◆ ◇

「おーいっ! オッサンッ、オッサンッ!」

 コックの店を後とした山田は、その足で髭ロン毛の事務所へと向かった。

 腹の中の色々は全て無視することと決めての上。どうせ老いる暇もない短小な人生なのだからと、細かいことにはこだわらない姿勢だった。むしろ他人よりレアな経験ができたんだぜと、自らに言い聞かせてのこと。

「おいこらっ! オッサンっ! いないのかっ!?」

 時刻は既に昼の十二時を回っている。

 まさか寝ているということもないだろう。

 しかし、幾ら待っても返事は無かった。

 呼び鈴に加えて、ドンドンと事務所のドアを叩いても、何ら反応は返らない。

「……出掛けてるのか?」

 流石の彼も腕を止める。

 事務所の収まる建造物はフロア単位の賃貸となっている。今に彼が立っているのは二階の玄関前に位置する。階段を抜けて上に六階、地下に一階という、都内に数多ある小規模の雑居ビルだった。

 金属に作られたドアの向こうに反応は無い。

 資金に困窮している現状を鑑みれば、昼間に眠りこけている可能性はとても低い。むしろ今に山田が呟いたとおり、金策に東奔西走しているが無難なところ。

「幾ら金が手に入ったって、オッサンに会えなきゃ意味がねぇよっ!」

 肩から提げたバッグをちらり見て愚痴る。

 その中にはコックから貰った三千万が収まっている。

 銀行に預けることなく、すぐにでも手で渡せる用意だった。

「くそっ、連絡先とか聞いときゃ良かったっ」

 貰った名刺は自宅を騎士団に襲われた際に端末諸共紛失していた。

 彼が髭ロン毛に出会えるとしたら事務所の他、残る可能性は一つ。

「スタジオ、行ってみるか」

 呟いて踵を返す。

 事務所からスタジオまでは電車を二本ばかり乗り着いて半刻程度の距離。

 彼は駆け足で最寄りの駅へと向かった。

 約束の三日目は明日に迫っている。三日間で用意できれば良いとは聞いていた。しかし、三日目の何時までとは聞いていなかった阿呆だ。三日目の朝まで、といった条件であれば、金銭は今晩中の受け渡しが必須である。

 故に急ぐのだった。

 ネカフェを後としてから長らく炎天下を走り移動した為、シャツの襟周りには塩が吹いていた。濃いグレーのシャツだから、円を描くように白いものが浮かび上がってしまっている。全身は汗にぐっしょり。下着までが湿るほど。

 けれども、彼は一生懸命に駆ける。

 数週間前までの彼ならば、絶対に有り得ない努力だろう。

 おかげで目的の場所へ辿り着いた頃には、まるで雨に濡れたがごとく脳天から足先まで汗にビッショリとなっていた。髪は濡れに濡れて額にぺたり。シャツは袖や裾の先まで色を変えている。更にはハァハァと息荒く、肩を上下させている。

 傍目、明らかに不審者の態。

 もしも警察に見つかれば、その不細工な外見も手伝い、職務質問必至の様相だ。

 けれど、これに構わず彼はスタジオの収まる建物の中へ。この後に及んでは、他者の目など気にしている余裕もなかった。

 電話だけの置かれたロビーを抜けて、廊下の先、収録室へ通じる部屋へ向かう。

 ふぅふぅと荒い息を必死に整えながらのこと。

 ややあって、見知ったドアに出会う。

 山田は躊躇なくドアノブに手を伸ばす。

 グイと捻りを加えて、力一杯にドアを開いた。

「オッサンっ! いるかっ!? オッサンっ!」

 ドアを開けて速攻、一歩を踏み出すに同じくして声を張り上げる。延々と走って来た為、テンションも相応だった。腹から出た声は、想像以上に大きなもので、室内に大きく響いて聞こえた。

 ならば、部屋の中には十数人ばかり人の姿。

 皆々一様に彼の姿を見つめて、ポカン、呆気に取られた様子に出迎える。

「……あれ?」

 これに首を傾げるのが山田。

 途端、別所より上がる声。

「あ、あああっ、アンタっ! いきなり入って来てなんのつもりっ!?」

 その出所は彼も見知った相手であった。

 部屋の中央に集まった一団の中、一際背の小さな女。

「あ、天才じゃん。こんなところで何やってんだよ?」

「何やってんだじゃないわよっ! アンタこそいきなり乱入してきて何のつもりよ!?」  天才声優少女だった。

 周囲を大人に囲まれているので非常に目立つ。パッと一目見て彼もまた早々に相手を特定することができた。

「っていうか、収録って今日だったのか!? 明日じゃないのかよっ!?」

「これは他のよっ! 他のっ! まさか、ここがあの事務所だけに使われてるとでも思ってるのっ!? これだけの施設を自前で用意できるくらいなら、お金に困ったりしないわよっ!」

「あ……」

 図星である。

 少なからず考えていた彼だった。

「まさか本気っ!? 本気でそんなこと考えてたのっ!? これくらい少し考えれば小学生だって分かるわよっ!?」

「あ、いや、ここだったら、あのオッサンも居るかなって……」

 大慌てに言い訳を並べる。

「居ないわよっ!」

「そ、そうみたいだな」

 見渡し先、右を見ても左を見ても、続く小部屋を覗いても、彼の求める髭ロン毛の姿は見つけられなかった。どうやら他の作品の収録の最中であったらしい。

 楽器の類いが見つけられないことから、恐らく、アニメやゲーム、もしくは音声ドラマに使われる会話の収録と思われる。

 大半は声を当てるべく集まった声優だろう。片手に台本らしき髪の束を持ち、円を組む形で互いに向かい合っていた。打ち合わせか何かだろうか。

「っていうか、何をどう考えたら居るって結論に向かうのよっ!」

「だってほら、最後に会ったのここだし……」

「だからってスタジオに常駐してる訳がないじゃない!」

「でもオッサンは監督なんだから、普段から足を運んだりとかするんだろ?」

「しないわよっ! なんで監督がスタジオに入り浸りなのよっ!」

「だ、だって……事務所にも居なかったしさぁ……」

「本当、どうしようも無いバカね」

 答える言葉はしどろもどろ。彼にしても、はて、自分は何故にここへ向かったのだろう、疑問を覚えてしまうほど。単純に過去、髭ロン毛と出会った場所を巡っていただけの、とてもとても浅はかな大学生だった。

 故に、天才少女から乱暴な突っ込みを受けては逆ギレ

「だ、だって、んなこと俺が知るわけないだろっ? しょうが無いじゃんかよっ!」

「だからって奇声上げながら入室するアホはアンタくらいよっ!」

「お、おいっ、バカとか、アホとか、そこまで言わなくてもいいじゃんかっ!」

「言うわよっ! このバカっ! アホっ! クズっ! 変態っ! キモオタっ!」

「キモオタとか関係無いだろっ!? っていうか、アニメにどっぷりなのはお前の方じゃんかよっ! オタク! オタク女!」

「私はアンタほどキモくないからいいのよ! プラスマイナスゼロなの!」

「このっ……ちょっと可愛いからって偉そうにっ……」

 思わずカッとなり拳を握る山田。ただでさえ感情的になりやすい昨今、年下の女の子から徹底的に貶されて怒りが回った様子だ。かろうじて踏みとどまるも、憤怒の形相は傍目にも明らか。

「ああもうっ、これから打ち合わせだっていうのにっ!」

 他方、頭をガシガシと掻いて、苛立ちを隠すことなく喋る天才声優少女。

 怒りに加えて、本心から困りきった様子を見せる。

 苛立ちから吠える限りの山田と比較しては、大変に大人な反応。

 彼女は何を考えたのか、おもむろに山田の下へと歩み寄る。

 そのシャツの裾を掴む。

「アンタっ、ちょっとこっち来なさい!」

「ちょ、おいこらっ、服掴むなよっ! 生地が伸びるだろっ!?」

「もう十分に伸びきってるじゃないっ! 洗濯のし過ぎよっ!」

 そのまま室外へと連れ出される山田だった。

 部屋に居た他の面々にしては、皆々、呆け顔に見送る限り。一連のやり取りの間で、誰一人として一言を発することもなかった。

 すぐに二人の姿は、バタン、ドアに遮られて見えなくなった。

 廊下に出て少し歩んだところで、少女は山田に向き直る。

「アンタ、いったい何がしたくてここまで来たのよっ!?」

「いや、だからオッサンを探しに来たんだってっ!」

「一介の役者に過ぎないアンタに、どんな要件があるのよ!?」

「この間、金が無いって要ってただろ? 三千万」

「ええ、言っていたわね」

「あれが手に入ったから、渡しに来たんだよ」

「はぁ?」

 突拍子も無い山田の言葉を受けて、いよいよ天才声優少女も呆け顔となる。コイツは何を言っているのだと言わんばかり。

「う、嘘じゃないぞっ!? ほらっ!」

 相手の反応が気に入らなかったのだろう。山田は肩にかけたバックから、現物を取り出してみせる。一つ十センチ程度の厚みがある札束が三つ。実際に数えたわけでは無いが、推定三千万と思しき一万円札たち。

「ちょ、ちょっとっ、あんたなんてモン持ってきてるのよっ!」

「だって必要なんだろっ!? それに明日までっていう話だし」

「だからって現金で持ってくるとか、頭悪いんじゃないのっ!?」

 これを目の当たりとして、流石の天才声優少女も焦り顔となる。

「俺だって現金で直接貰ったんだから、仕方ないじゃんかよ」

「だったら銀行に預けてからくればいいじゃない! っていうか、三千万をポンと昨日の今日でくれる相手って、どんな金持ちよっ! 意味が分からないわっ! まさか、盗んできたんじゃないでしょうねっ!?」

「ち、ちげぇよっ! 綺麗なお金だよっ!」

「明らかに汚れてるわよっ! まるで信じられないわっ!」

「本当だってっ! ちゃんとした俺の金だしっ!」

「どうやって稼いだのよ!? まさか実家に泣きつきでもしたの? アンタを見ていると、お金持ちにはぜんぜん見れないわよ。歯並びは悪いし、衣服も安物だし、育ちが悪いの丸わかりじゃない」

「う、うっせっ! だから俺が自分で稼いだって言ってるだろ!?」

「それが信じられないのよ。出所不明の大金なんて、危なくて使える訳がないじゃない。そこいらの学生が一日や二日でこんな大金を用意できる筈がないわ。それこそ銀行強盗でもやらなきゃ無理よ」

「だから、それは大丈夫だってっ! 俺だってやるときはやるんだよ!」

「だったら、なにをどうやったのか、ちゃんと過程を説明して欲しいのだけれどっ」

 少女は完全に彼のことを疑っていた。

 その眼差しは犯罪者を見る目だ。

 全ては山田が悪い。それらしい言い訳を事前に用意しておけば良かったのだ。宝くじが当たったでも、実家に借りたでも、仮に嘘であったとしても、ある程度の潔白さを証明するだけの根拠を。

 けれど、金銭が手に入ったことで舞い上がった彼だから、まさか、そこまで気が回らず今に喚く限り。まさか本当のことは言えない。見ず知らずの子供を見ず知らずの組織に売りました。どれだけ真っ当に語ったところで、警察に通報されるのが関の山だ。

 少女から指摘されて初めて気付いた山田である。

 もちろん、本来であれば、ここまでの阿呆でもない。ただ、今の彼は何をするにしても、一杯一杯なのだった。全ては日常生活へ支障をきたすほどに精神を疲弊させているが所以。伊達に毎晩、悪夢に魘されていない。

 ここ数日でシャツの脇が、どれも真っ黄色に染まるほどのストレス。

「し、知り合いっ、コックをやってる知り合いに借りたんだよ」

「知り合い? アンタ知り合いにコックなんているの?」

「そうだよ! なんかスゲェぞ? フランスの五つ星レストランでシェフってたヤツだから。都内に店を構えてて、割と売れてるらしいし、こないだもテレビに出てたし。そりゃ三千万くらいポンってやつだ、ポンって」

「……ふぅん、随分と気前の良い知り合いも居たものね」

「なんだよ、いちゃ悪いかよ?」

「ちなみに五つ星はレストランじゃなくてホテルなんだけど?」

「え? そうなのか?」

「まったく、このキモオタは……」

 答える少女にしては、片手に額を押さえてのこと。

 阿呆の相手に困窮して思える。

「まあいいわ。だったら、いずれにせよ少しそこで待ってなさい」

「え? こ、ここでか?」

「あと少しで収録が終わるわ。監督には連絡がつくから、私も一緒に行く。どうせこの後で会う予定だったし、アンタが同席するくらいなら問題ないでしょうから」

 彼女にしても、明日に迫った期日に思うところあっての発言だろう。

 これを耳として、パァと目に見えて山田の顔が喜びを得る。

「おぉ、マジか?」

「こんな時に嘘言ってどうするのよ」

「そ、そか。なら頼むわ。ありがとな」

「いい? 大人しくしてるのよ? 部屋に入ってきたら殴るわよ?」

「んなこと分かってるよ。子供じゃないんだし」

「その自信がどこから出てくるのか、私は甚だ疑問ね……」

 そして、語るだけを語り、再びスタジオへと戻り行く少女。

 山田はその背を大人しく扉の向こう側へ見送るのだった。

◇ ◆ ◇

「なるほど、知り合いから借りたという訳か」

「お、おう。だからほら、遠慮無く使ってくれよ」

 天才声優少女の収録を待って以後、山田と彼女は髭ロン毛の事務所へやって来ていた。少女が電話連絡を入れたおかげで、こうして無事に目的の人物と出会うことができたのだ。どうやら延々と外回りを続けていたらしい。

 顔を合わせているのは、以前にも二度ほどお邪魔した応接室だ。一方のソファーに監督が腰掛けており、対面に位置するもう一つに、山田と少女とが横に並ぶ形。両者の間には露骨に空間が空いてのこと。

 時刻は午後六時を回った頃合か。

「その件なのだが、無事にこちらで都合することができた」

「え?」

 向き合わせのソファーに挟まれて置かれた足の短いガラステーブル。

 その上には山田が持ってきた現金三千万がポンと置かれている。

「事務所やら何やら、色々と抵当に入れることとなってしまったが、つい先程に手続きも完了した。後は全力で作品の完成へ突き進む限りだ。延期に延期を重ねて、ああ、君たちには面倒をかけてばかりだな。すまなかった」

「そ、そうなのか?」

「ちょっとっ! 事務所を抵当ってどういうことっ!? しかも色々ってなによ!」

 髭ロン毛の言葉を受けて、少女が焦り調子に声を上げた。

「なに、今作が売れれば何ら問題ない」

「売れなかったらどうするのよっ!」

「そのときはそのときだ。私はこの作品に自らの全てを賭けている」

「だからって、全く、いい年した大人がなにやってるのよ……」

 まるで自らのことのように、頭を痛めてみせる天才声優少女。

「男とはそういう生き物だ。生物としての繁栄を目指す一方、明日死んでも良いと思えるだけの生き様を目指す。果たしてそこまで至る者がどれだけ居るかはしれないが、夢とロマンは、幾ら年を取っても変わらぬよ」

 髭ロン毛の語り調子は普段と何ら変わらない。

 とても落ち着いたものだった。

「……そっちのキモオタといい、貴方といい、ここの男はバカばかりね」

「君が気にすることは無い。私が君に求めているのは、その素晴らしい声だ」

「分かってるわよ。っていうか、人の肩荷を勝手に重くしないで欲しいのだけれど」

「いつも通り、普段通りの君を聞かせて貰えれば、私は満足さ」

「これで普通にしろって言う方がおかしいわよ。まったく……」

「っていうか、なんで俺まで一緒にバカにされてんだよ、おい」

「アンタはもっと考えなしでしょうがっ!」

 ここ最近、何かと吠える機会に恵まれて止まない天才声優少女だった。

「そういう訳だから、このお金は貰えない。君が君の為に使って欲しい」

「いや、俺の為って言われても、別に金とか今更貰っても……」

 予期せぬ突っ返しを受けて、思わず返答に窮する貧乏人だった。残りの人生、既に二ヶ月と数日。今更、三千万程度を手にしたところで、できることなど限られている。何より彼が目指す先は、金銭に解決できる世界でない。

「ところで、声の方、調子はどうだ? 捗ってはいるか?」

「あ、いや、それが……その……」

 急な話題転換。

 何気ない調子に髭ロン毛が訪ねた。

「なによ、まだ何か悩んでいるのかしら?」

「べ、別に悩んでねぇよ。すぐに良くしてやるから、大丈夫だっての」

「そう? それなら期待させて貰おうかしら? 私を新人だと称するほどの美声に」

「お前も結構根に持つタイプだよな……」

「うるさいわね。相応のことを口にしたのだから当然よ」

 実は未だに最後の台詞が芳しくない素人声優だった。

 ただ、それを少女や髭ロン毛の前に語るのは憚られて、虚勢に胸を張る。

「まあいいわ。明日になれば全ては白昼の下よ」

「はっ、み、見てろよ? すげぇ声を聞かせてやるから……」

「ええ、楽しみだわ。とても」

 ニンマリと嫌らしい笑みを浮かべる先輩声優。その姿を目の当たりとして、尚更に焦りを増させる彼だった。苦しく辛い最後から逃げる為、最高の自らを世に残すべく、何が何でも究極的自己満足を得ないとならない胃がん患者なのだ。

「それじゃあ、私はこれで失礼するわね」

「え? お前もなにか用があったんじゃなかったのか?」

「今の説明で十分よ。明日の予定を確認したかっただけだもの」

「あぁ、そうかよ」

「では、明日も頼んだぞ」

「ええ、それじゃあ」

 そして、会話も早々に席を立つ天才声優少女。

 そそくさと応接室を後とするのだった。見送りにと席を立ち掛けた髭ロン毛を待つことのない早足である。男二人に見送られて、パタン、小さな音と共に、部屋のドアが開いては閉じられる。

 彼女はツカツカと大股に廊下を進み、歩み早に事務所を後とした。

 階段を下り雑居ビルより面する通りへと出る。建物の面する通りは人通りもまばらな細路地。角を幾つか曲がっては、車通りも相応の繁華街へと至る。

 それから人の流れに紛れて、数百メートルばかりを歩んで後のこと。少女は右手をすっとスカートのポケットへ差し込む。

 薄い綿生地に包まれた先、五本の指に握られたのは通帳と印鑑。彼女の名義に作られたものだった。日々の声優生活に溜まり行く金銭の終着駅である。そこに示された額は、どっかのバカが用意した現金と比較して、今回の問題を補い有り余るものだった。

「……なにやってるんだか」

 彼女の呟きは誰の耳に届くことなく、夜の街を満たす雑踏に紛れて消えた。

◇ ◆ ◇

「……これ、どーすんだよ」

 その日の晩、既に自宅と化したネカフェで山田は悩んでいた。

 目の前には個室ブースの卓上、でんと並んだ札束が三つ。

 合計三千万円。

「今更、こんなモン貰ったって、どうすりゃいいんだよ……」

 ネカフェから高級ホテルに鞍替えする程度は叶うだろう。しかし、今の彼にとっては日々を過ごす場所など些末な問題だった。むしろカラオケルームの併設されたネカフェの方が好都合なほど。

 正直なところ、明日の収録が終わって以後も、髭ロン毛に頼み込み、身体が動かなくなるまで声優業を続けさせて貰うつもりの彼だった。土下座でもなんでもして、給料も必要無いからと、既にお願いする為の言葉まで用意していたりする。

 故に病院へ入院するつもりも無く、金銭については、残りの日数分の食費と居住費があれば、事足りてしまうという認識であった。まさか、自身の容態を実家へ伝えるなど、寸毫として考えていない。

 だからこその悩みである。

「…………」

 そして、目の前の札束を眺めていると、自然と思い出されるのが魔王ロリータ。彼の天敵にして、今日の昼ご飯。急場を凌ぐ為とは言え、騎士団などと言う怪しい組織へ売り払ってしまった相手の姿。

 性格こそ尊大なものの、見た目は小学生中学年と思しき少女。

 しかもかなり可愛らしかったりするから、どうにも彼の良心を刺激してくれる。

「この金を返せば、アイツって返して貰えるんかな……」

 自然とそんなことを呟いてしまう。

 急場を凌いだことで、少なからず冷静さを取り戻したが為の反応だった。

「け、けど、足食っちゃったんだよなぁ……」

 今更、どんな顔をして会いに行けば良いのかと、戸惑いも相応と言ったところ。何より彼は彼女と関わって、碌な目に遭っていない。

「第一、アイツにそんな義理もないし……」

 害悪を与えられることはあっても、良くして貰った覚えなど――――。

「……まあ、声は綺麗だったけど」

 唯一、このネカフェで台詞の練習に付き合って貰った程度か。

「…………」

 出会って数日の間柄ながら、妙に鮮明に思い出されるスウェット姿。

 目に眩しく映る金髪碧眼は、酷く印象的だった。

「まあいいや、寝る、寝るぞっ! 明日は収録なんだから!」

 自らへ言い聞かせるよう口にして、ごろり、フラットシートに寝転がるネカフェ難民。しかしながら、胸の内に広がったモヤモヤは一向に収まることを知らない。

 結局、眠りに就いたのは、それから三時間が過ぎてからのことだった。