金髪ロリ魔王ラノベ

第五話

 翌日、昼過ぎに目覚めた山田は、自らの過ちを理解する。

「……アイツ、いねぇ」

 十二時過ぎにモソモソと起き出して、食事にでも行こうかと考えた。それがつい数分前のこと。ならば両隣の個室に休む奴らも連れて行くかと、身支度を調えてドアを叩いた。まずは魔王ロリータの側から。

 けれど、返事は一向に返ってこなかった。

 幾度か呼びかけたところで、不穏なものを感じた山田である。まさかと考えて、衝立の上側からブース内を覗いた。

 すると彼の目に映ったのは、蛻の殻となった個室だった。

 ビニールクッションの全面に張られたフラットスペースには、店内配布のタオルケットが、隅の方でくしゃくしゃと丸められている。着の身着のまま、荷物らしい荷物もなかった彼女だ。他にブース内では、テーブルの上にジュースの飲み残しやら何やらが転がる程度である。

「あの野郎、逃げやがったっ……」

 思わずギュッと拳を握る山田だった。

 苦労して手に入れた獲物を逃したとあっては憤怒も相応。

 瞬く間に身体が怒りに熱くなる。

 特に彼女を相手としては、何度目の嘘だろうかと。

「くそっ、ふざけんなよっ! 絶対に逃がさねぇぞっ!」

 清掃が行われていない点から、彼は魔王ロリータが出て行ってから、未だ間もないと考えた。今なら追い掛けることは可能なのではないか。そう思い至り、大慌てに足をフロントへ向ける。

 バタバタと駆けては、他の客から注目を浴びつつも移動したカウンター越し。店員を急かすようにして精算を終える。そして、エレベータへと飛び乗り、いそいそと同店舗の収まるビルを後とした。

 相手は金髪碧眼な色白の外国人少女である。黄色猿の溢れる日本都市においては、目立つことこの上ない。数十メートルを離れても特定可能だ。その一点に希望を託して、全力で街を駆けるストーカー。

「糞っ、どこ行きやがった、あんにゃろうっ……」

 全身から汗を垂らしつつ、血走った眼に周囲の様子を確認する。

 金髪ロリはいねぇか。金髪ロリはいねぇか。

 場所が繁華街とあっては、周囲を歩む通行人も避けて通るほど。

 しかし、どれだけを探し巡っても、彼は目当ての人物を見つけることができなかった。刻一刻と時間ばかりが過ぎていった。段々と移動距離も増える。町内を越えて隣接区にまで足が伸びる。

 ネカフェを後としたのが昼過ぎ。対して、いつの間にか時刻は午後三時。腹の中の糞も良い具合に消化されて、空腹も一入と言った具合。激しい発汗を受けては、喉の渇きも大したものだ。

「あの野郎、人にうんこ食わせておいて逃げるとか、マジぶっころだろ」

 やり場の無い怒りに自然と口数の増える山田だろうか。

 ブツブツと言いながらの捜し物。

 けれど、やはりどれだけを駆け回っても、目的の相手は見つけられなかった。

 ややあって、身体の乾きからその歩みも止まる。

「……ちくしょう、見つかんねぇ」

 店を出て数分の内に見つけられなかった時点で、彼の敗退は決定されていたようだ。疲労からがっくりと両肩を落として、その場に立ち尽くす羽目となる。

 交通量の多い片側二車線の道路に面する歩道。

 現地点は港区青山二丁目。

 表参道もほど近い青山通りの街並みは、一言に称してお洒落。滝のように汗を流しては、ハァハァと呼吸を大きくするキモオタを、全力に拒絶して思える。通りを歩む文化人達は、まるで彼を汚物のように見つめながら過ぎて行く。

「くそっ……」

 溜息と共に愚痴ばかりこぼれる駄目男だった。

 ならば、そんな駄目男の目にふと映る他人の姿。

 否、知人の姿。

「……あ」

 見覚えのある相手が、彼の眺める先、通りを歩んでいた。

「……あ」

 相手も彼の存在に気付いたのだろう。

 互いに二、三メートルの距離で立ち止まり声を上げる。

「……たしか、スタジオにいた……」

「え、えっと、こんにちは。たしか……新人の方……ですよね?」

 数日前のこと、アニメの収録スタジオに顔を合わせた新人声優だった。年の頃は二十代前半。声優業界全体からすれば、某天才声優少女のような例外を除いて、まだ若い部類に入る。山田と同じか少し下に思える年齢の女性である。

 多くの声優が去った後、それでも監督こと髭ロン毛の下に集まった、某天才少女と山田を除けば唯一の存在である。故に彼の脳味噌にも印象深く姿が記憶されていた。これは相手にしても同様だろう。

「あ、はい、ども……」

「いえ、こちらこそ……」

 互いに小さく頭を下げての会釈。

 汗だくな山田と異なり、相手は年相応の小綺麗な格好をしていた。リネンのタックイージーショートパンツ。サーモンピンク生地に白のアクセントが入ったTシャツ。その上にパンツと同じ色のジャケットをロールアップさせて着用のこと。

 そこそこ自分に自信がある二十代前半の女性が、少しばかり気取って外を出歩くに都合の良い格好だろうか。

 ただ、全体としての統一感は申し分ないが、個々の衣類については、そう高いものでもない。恐らくは総額を数えても、靴や鞄を含めて三万を下るだろう。異性に免疫のない山田が気付くことは無いだろうが、多くは中国製の安価な製品と思われた。

「あ、えっと……おでかけですか?」

「え? あ、まあ、そんな感じ、だけど……」

 突然のことに交わす言葉が思い浮かばずどもる山田。

 これに気を利かせた相手がそれとない言葉を差し出してくれた。

「お買い物、楽しいですよね。こうして通りから見てるだけでも」

「まあ、そ、そうかな……」

 彼はこれに乗っかることとして、おずおずと言葉を続ける。

 別に買い物など全く楽しくないブサメン系男子。

「やっぱり、か、買い物、ですか? お洋服とか……」

「あぁ、まあ……そんな感じ、ですけど……」

 なんともぎこちないやりとりだった。

 彼女にしては、どうして私は彼に声を上げてしまったのだろう、自らの行いに疑問を抱いて思えるほどに難しい表情。それくらいにキモいキモオタ然とした山田だった。

 彼にしては、返す言葉にどもるほど緊張しての受け答え。魔王ロリータに対するとは全く反応が異なる。これが射程圏内と射程圏外の違いだろう。

 非モテとしては、またとない異性との接触だった。

 なんとか会話を続けるべく、相手に楽しんで貰うべく、言葉を続ける。出会いは唐突にして、セックスだとか、乱交だとか、他に考える余地も無く、とにかく自分との会話で不快な思いをして貰いたくないが所以。

「お、お洒落っすね。声優さんって、そういうのも大変なんですよね」

「……お洒落とか、私なんてぜんぜんだよ?」

「いや、でもほら、なんかこう、青山っぽいっていうか、表参道的っていうか」

「別にそんなことないと思うよ。これ、全部五千円しないくらいの安物だし」

「そ、そうなの? そんな風には見えないけど……」

「ズボンとシャツを合わせても一万いかないし」

「え? マジで?」

「うん。靴も同じくらいだし、バックは貰い物だし……」

 出会って早々、何故か街頭でいきなり女性の衣服の品評会が始まってしまう。しかも相手は禄に言葉を交わしたことのない相手。伊達に年齢イコール彼女居ない歴を貫いていない素人童貞野郎だった。

 多少離れて二人の会話を耳としたイケメンが、ぶっちゃけありえない、心の中に叫んでいる。俺ならもっと上手く日中をエスコートして、夜はホテルまで導いてみせる、心の中に叫んでいる。

「いや、で、でも、凄い似合ってると思う。思いますけどっ」

「……ありがとう」

「ほ、本当っ、本当だからっ」

「でも、安物なのは一目瞭然だから」

「……そ、そうなの?」

「見る人が見ればすぐに分かるよ」

「…………」

 思わず返す言葉を失う山田。

 決して見る人にはなれない装飾レベルの最底辺だった。

「私、貧乏だし」

「あの、声優ってさ、もしかして儲からない?」

「……貴方も新人?」

「まあ、新人と言えば新人だけど……」

「前に、芹沢さんにタメ口だったから、てっきり色々あるんじゃないかと」

「芹沢?」

「え?」

「芹沢って誰?」

「あの、この前に貴方が口喧嘩してた子だけど……」

 口喧嘩という単語を耳として、山田の中でようやっと相手が特定される。

「あぁ、あの声だけは最高なクソガキか」

「く、クソガキって……」

 思わず素が出てしまった山田。

 その物言いに身を引かせる相手。

「あ、いや、そのっ……別になんかあるって訳じゃなくて……」

「この業界じゃあ、あの子に文句を言える人なんて限られてるから」

「え? そうなの?」

「そうだよ。あの子のご両親って、凄い大御所だもの」

「あぁ、そう言えばそんなこと監督も言ってたな……」

 相手の言葉を受けて、髭ロン毛の言葉を思い起こす山田だ。

「だから、同じ新人とは思えなくて。それに監督とも仲が良さそうだったから」

「あぁ、あの髭ロン毛は、なんというか、まあ、色々あって……」

「ひ、髭ロン毛てっ」

「髭ロン毛、じゃない? なんか、そんな感じだし」

「……ま、まぁ、そういう感じかもしれないけど……」

 無頓着な山田の物言いを受けて、思わず返す言葉に戸惑う彼女だった。

「けど、それなら貴方は私とは同じ新人でも違うんだね」

「いや、俺も普通に新人だと思うけど」

「私みたいな新人は、監督の顔色一つでどうにかなっちゃうし、あの子みたいな子に目をつけられても、やっぱりすぐにどうにかなっちゃうし、お給料も安いから、買いたい服があっても、ガラス越しに見て楽しむことしかできないし」

「声優の給料って、そんなにヤバイの?」

「貴方はどれくらい貰ってるの?」

「あ、いや、俺は録音するのも今回が初めてだから、給料はまだ貰ったことがないっていうか、ボイストレーニング? みたいなので、家とかカラオケで台本を読んで、たしか時給千五百円とか、なんか訳が分からない感じなんだけど……」

 数日前、髭ロン毛に提示された額を口にする山田。

 とは言っても、今となってはその支払いさえも怪しい。

「え? ボイトレでお給料貰えるのっ!?」

「あ、あぁ、お給料っていうか、練習しろって言われて、その給料ってことだけど」

「……凄いね、それ。凄く羨ましい」

「え? 普通って違うの?」

「ボイトレでお給料なんて貰えないよ。下手な子はスクールに継続して通うこともあるし、売れる前まではお金ばっかり出てくから、私の同期なんて誰も彼もバイトしてるし、それが忙しくて身体を壊して、声優の夢まで諦めた子もいるし」

「そ、そうなのか……」

 自らが想像した以上に厳しい声優道を、今まさにその道を進む相手から耳として、なんと返したものか、頭を悩ませる。つい一昨日のこと、某天才少女から受けた言葉が、彼の脳裏に半数される。曰く、自らは恵まれているのだと。

「えっと、貴方は……」

「……なに?」

「……もしかして、業界の関係者とか?」

 ここは自らの名前を名乗るところ。

 けれど、相手の言わんとするところを理解できず、首を傾げるばかりの山田。

「いや、ち、違うけど……」

「それじゃどうして、あの、あんなタメ口とか……」

「どうしてって、別に、ムカツクからっていうか……」

「む、ムカツクって、そんなのおかしくないっ!?」

「いや、別に普通だと思うけど」

「だって、相手はあの芹沢ちゃんだよ!?」

「いやまあ、確かに声は最高だけど、性格は最悪だし」

「そういう問題じゃないと思うっ!」

「そ、そう?」

「そうだよっ!」

 山田の物言いが気に入らないのか、段々と言葉を荒くする女性だった。

「そんな理由でタメ口とかできたら、私だって苦労なんてないし、それだったら私も、もっと売れて、ちゃんと声のお仕事でご飯も食べれて、こんな安い服で外を歩くこともなくて、この辺に売ってる服も買えるし、もっと沢山のファンに声を聞いて貰えるし、そもそもファンとか……」

 どうやら自らの置かれた状況に、相当量の鬱憤を堪えて思える彼女だった。

「私だって、ちゃんと機会が貰えるなら、今回のアニメの仕事も危ない橋を渡ってまで最後まで残らなくて、ちゃんとプロダクションの言うとおりにしたっ。だけど、どれだけ待ってもオーディションは受からないし、仕事もないし……それだと、どれだけ細くてもコネ作らないと……もう、後がないし……」

 どうやら山田の発言は、彼女の脆いところに触れてしまったらしい。

 ボロボロと漏れてくる愚痴。

 だからだろうか、これを受けて、ふと山田の脳裏に浮かんだ案がある。

「あ、そ、それなら……」

 おもむろにゴソゴソとズボンのポケットを漁る。

 目的のものはすぐに出てきた。

「これ、よ、良かったら……」

 ぶしつけ、札束である。

「え!?」

 魔王ロリータを売り払って得た三千万の内、咄嗟に回収した幾らばかりかである。額面にして百万とちょっと。某国大使館を脱出する際のこと、どさくさに紛れて回収していたのであった。もちろん、実際の回収額に対して、半分は今後の生活費として財布の中である。

「ちょ、ちょっとっ」

 突然、路上に札束を差し出されて慌てる女性。

 対して、山田は軽い調子に言葉を続ける。

「これ、使って良いよ」

「だから、ちょっと待ってよ。なにそれ。いきなり過ぎない!?」

「別に俺が持ってても意味ないし、使い道もなくなっちまったし」

「い、意味が分からないんだけどっ!」

 恐らくはそれが地なのだろう。大慌てに声を荒げる新人声優女性だった。

「っていうか、後で倍にして返せとか、そういうのでしょっ!?」

「いや、そんなこと言わないって」

「じゃあなんでっ!」

「…………」

 問われて困るのは、如何ともしがたい事情を抱える駄目男だろう。

 ただ、延々と黙っていることもできなくて、仕方なく言葉を続ける。

「俺、あと二ヶ月くらいで死ぬんです」

「……え?」

 相手女性の目が点になる。

「胃がんらしくて、なんか、あと二ヶ月ちょっとで死ぬらしいから」

 語る山田の表情は、酷く淡々としたものだった。

 未だ自身に与えられた運命が信じられない様子。故にどこまでも他人行儀。まるでニュースに見聞きする余所様の奇想天外な事件や事故を、遠くの国の出来事として語るよう。全てを酷く淡泊な態度に口としてみせるのだった。

 いずれ、ベッドの上に横たわれば、その表情も苦悶と絶望に変わるだろう。或いは薬剤に漬けられて、意識もまともに保てなくなり、睡眠と覚醒を繰り返すだけの、ウンコ生成機と成り果てるか。

「え? い、がんって……」

「がん、胃がん」

 これを受けては、新人声優も驚いてみせる。

 幾ら他人事であっても、幾ら相手がキモメンであっても、今目の前に立つ存在が冬を迎えることなく死ぬと理解しては相応。自らと夢を同じくするという点も、少なからず興味関心へ一役を買って思える。

「……そ、それって、あの、ほ、本当なの?」

「じゃなきゃ、こんな簡単に大金を渡したりしないと思うけど」

「…………」

 想定外の発言を受けて、彼女の身体は硬直していた。

「少しは信じて貰えた?」

「え、えぇ、まぁ……」

 もちろん、相手が胃がんだと聞いただけでは、ここまでの反応もなかったろう。

 その結果として、自らが多額の金銭を手に入れられるかもしれないと理解して、実に色々なものを天秤に乗せては計っているのだった。この一瞬で彼女の脳裏には恐ろしい量の情報が流れたことだろう。

 目の前のキモオタへ、どのように対応すれば、より上手く話を運べるか。現代日本において、無条件に他人の死を悲しむような人間はいない。特に女性にしては、利己心が行動を決定する全てだ。

「だから、これ、好きに使えばいいじゃん。綺麗な服も沢山買えるし」

 固まった相手に構うことなく、躊躇無く札束を差し出す山田。こちらは完全に自暴自棄からくる行為。世のサラリーマンが憤怒や失意から街頭募金に万札を与えるようなものだろう。既に通院だとか入院だとか、治療の一切合切を放棄している。今の彼に残っているのはアニメの収録のみだ。

 だからこその行いでもある。この後に及んでは、自身を取り繕う必要もない。

「え、あ、あの……」

「ほら」

「でも、その……」

 相手女性は目の前に万札の束を眺めて、反応ができないでいた。

 貰う側としては千載一遇の機会である。過去、通帳の上においても見たことの無い七桁。手を伸ばせば触れられる距離に置かれた現金。彼女の実家は彼女自身に同じく貧乏なのだ。事実、その眼差しは札束に吸い寄せられて止まない。

 しばらくの間を置いて、ようやっと反応を見せる。

「あの、これって、他に何かしろとか……」

 ごくり、生唾を飲み込んでの発言である。

 流石に出会って間もない間柄。

 共通の知人がいるとは言え、躊躇も相応といった具合。

「いや、エロ動画じゃないんだから……」

「そ、そっか……」

 彼女の瞳には札束しか映っていなかった。爛々と輝く眼差しで凝視。

 当人はまるで意識していないが、傍目、ちょっと危ない人に思える。

「別に無理にとは言わないけどさ。もし、使うならってことだから……」

 相手の躊躇する姿に、山田は札束を引っ込めるよう腕を動かす。

 これが決め手となった。

「あっ、そ、それならっ、あのっ……」

「……使うの?」

「つ、使う。使いますっ!」

 妙なやり取りだった。

 けれど、これにより札束は二人の間を移動する。山田の手から受け取って、新人声優の手元に収まる現金。まだ折り目も付いていない新札である。

 どっしり、想定外の重みを受けて、彼女の瞳が殊更に見開かれる。

「ほ、本物、なんだよね?」

「本物だよ。何枚か使ったし」

「……そっか」

 貰ったからには絶対に返すまい、ギュッと札束を握りしめる女性。

「あの、そ、それじゃあ私、これ、銀行に入れてくるっ! 危ないし!」

「え? あ、あぁ、うん……」

「それじゃあっ、あのっ、あ、ありがとうございましたっ!」

 そして、早々に踵を返すと、駆けだして行くのだった。

 山田が何を答える間もない出来事だろう。

 後ろ姿はすぐに小さくなり、人混みに消えて見えなくなる。

 山田にしては、唐突な走り出しを受けて呆然。気付けば相手の姿を見失っている。札束を差し出した腕は未だそのまま、前に差し出した状態。周囲に様子を窺っていた通行人にしても、少なからず驚いた様子だろうか。

「……女ってすげぇな」

 ぽつり、漏らされた彼の発言。

 ならば周囲の男性諸君は、コクコク、無言に頷いていた。

◇ ◆ ◇

 ところ変わって、こちらは騎士団の拠点である某国大使館。その一室にて、同組織の上から二番目の地位にあるサイの下へ、彼の下に付く幹部の一人が駆け寄っていた。向ける表情は非常に厳しいものだ。

「サイさんっ、侵入者ッスっ!」

「侵入者?」

「以前、魔王のアパートに仕掛けたとき、後始末の最中に見つけたカギってあるじゃないですか。サイさんの指示で金庫に入れていたヤツ。あれが盗まれたッス!」

 ハァハァと息を荒くしながらの報告。

 どうやら走ってやってきたらしい。

 今に二人が向き合うのはサイの執務室だ。西洋屋敷然とした間取りの絨毯敷き。広さは十畳ほど。簡素な机に椅子、本棚や鉢植えの観葉植物など、多少ばかりの調度品が並ぶ部屋である。

 デスクに向かい書類を捌く彼は普段と変わらずスーツ。他方、報告に挙がった幹部はと言えば、十代中頃を思わせる若いアジア人の青年。顔はフツメン。肌は色黒。東南地方出身と思われる。姿格好もTシャツにジーンズというラフな出で立ち。

「それは崩壊した旅人の居室に見つけたカギのことですか?」

「は、はい、そのカギっス」

「……まさか、あの者たちが昨日の今日で戻ってきたと?」

「いや、それが……」

 書類から青年に意識を切り替えて、サイは瞳を細める。

 その鋭い眼差しに見つめられて、青年はおっかなびっくり言葉を続けた。

「自分のことを占い師とか言うヤツがやってきて……」

「占い師……それはまさか、あの占い師ですか? 魔王を封じたという」

「いや、それはどうだか分からないけど、俺ら、真正面からやってきたのに、一発も当てられなかったッス。なんかこう、こっちのやること何もかも見透かされてるみたいで、まるで幽霊みたいな感じで」

「どのような姿をしていましたか?」

「頭からすっぽりローブ被ってたもんで、顔を確認できなかったッス。気付いたら後ろに抜けられてて、後を追い掛けても全然追いつけなかったッス。なんというか、ネズミみたいにすばしっこいヤツでした」

「全身ローブですか……」

「それと、結構な年寄りみたいで、声はしゃがれてました。背も凄く小さかったッス。あと、職のことは自分で占い師って言ってました。居合わせた中に職を確認できるヤツが居なかったんで」

「なるほど、それは間違いなさそうですね。私が過去に王から伝え聞いた風貌と合致しています。もちろん、占い師を語る偽物という可能性も考えられますが、今は本物であると考えた方が納得のゆく状況です」

 青年からの報告を受けて、うぅむ、唸り声を上げるサイだった。

 右手の指を顎に当てて、何やら考えごとを始める。

「しかし、仮にそうだとしても、どうして旅人の持ち物に、かの占い師が関わるのでしょう。彼は魔王だけでなく、占い師とも何かしらの関係を持っていると言うのでしょうか? だとすれば、偶然に居合わせて行動を共にしているだけとは考えにくいですよね?」

「いや、あの、それは俺に聞かれても、ちょっと分からないッス……」

「我々が魔王と接触したことと、何かしら関係があると考えた方が良さそうですね。あの旅人にしても、魔王と行動を共にしている点から、決して無関係ではないでしょう。しかし、まさか占い師までもがこの地を訪れていたとは驚きです」

 渋い顔になり、一人頷いてみせるサイだった。

 そんな彼の態度を眺めて、青年が疑問を続ける。

「サイさん、あのっ、俺、占い師っていう職を初めてみたんですけど、あれってそんなにヤバイんスか? 確かに逃げられちゃいましたけど、攻撃らしい攻撃もしてこなかったし、正直言って、魔王を封じるとか無理っぽいんスけど……」

「私も実際に相対したことはありません。しかし、我らが王の言葉を借りれば、魔王よりやっかいな相手、とのことです。王自身は過去に一度、かの者と対したことがあるそうです。しかし、たった一撃すらも、与えることができなかったとのことです」

「あの王がッスかっ!?」

「ですから、貴方がこうして無事に私の下へ現れたということは、戦闘にはならなかったということでしょう。もしも相手の目的がカギの奪還でなく、我々の壊滅にあったとすれば、今頃は全面的な戦争になっていました」

「マジッスか。そんなにヤバイ職があったとか驚きッスよ……」

「そもそも占い師という職も、現状ではあの者が唯一ですからね。職全体としてどうなのかという判断はできません。唯一存在する占い師が、非常に強力な力を持っている、というのが打倒な判断です」

「そ、そうなんスか……」

「とは言え、あの占い師が喧嘩を始めることは滅多にありません。最後に表立ち行動を起こしたのも、十数年前、現代の魔王の力を封じた一件です。それ以前の記録で、一番に新しいものはと言えば、大凡一半世紀前でしょうか。近々においては、魔王ほどの驚異でもないでしょう」

「なるほど……」

「しかし、そうは言っても、いつ何が起こるともしれませんからね。貴方たちが無事で良かった。もしもこれで誰かが傷つくようであれば、王はまたお嘆きになったでしょうそして、私はこれ以上、王が悲しむ姿を見たくはありません」

「なんていうか、かっこ悪い報告ばかりで、申し訳ないッス。サイさんや王は俺らのこと信頼してくれてるのに、前も旅人の一件で失敗したし、本当、次こそは絶対に上手いことやってみせます」

「いいえ、こればかりは仕方ありません。貴方たちは十分な働きを見せてくれていると思います。ただ、今回は少しばかり情報を整理したいので、後で私に報告書を上げるよう皆さんに伝えておいて下さい。面倒かもしれませんが、目撃情報もお願いします」

「分かったっス。きっちりと集めときます」

「ありがとうございます。あと、この件は他言しないようお願いしますね」

「了解ッス」

 大きく頭を下げて執務室を出て行く青年。早々に踵を返しては、歩み早に廊下へと向かい行く。やがて、バタン、ドアが閉められると、部屋は元の落ち着きを取り戻した。ドアを一枚挟んで廊下の先、タッタッタ、駆ける音はすぐに遠退いて聞こえなくなった。

 時刻は午後三時を多少ばかりまわった頃合。

 麗らかな午後の時間、空調の行き届いた快適な一室は穏やか。ガラス窓からレースのカーテン越しに差し込む夏日は、ミーンミンミン、蝉の音と共に。時折、庭先の木の葉が風に揺らされては、室内にその影が揺れて、陰る陽光もまた、キラキラと瞬いて揺蕩う。

「……早く魔王を捕まえて王の下に。でなければ、これ以上の負担は危険です」

 再び一人きりとなって、ぽつり、愚痴を零すサイだった。

◇ ◆ ◇

 新人声優と別れて以後、山田は元居たネカフェへ戻るべく道を歩んでいた。別に他の店舗で一晩を過ごしても問題ない。しかしながら、同所にはコックを放置したままである。流石にそれは悪いと考えての行いだった。

 ならば、道行く彼の下、不意に投げかけられたのが声。

「そこな旅人」

「あぁ?」

 場所は人通りも多い繁華街の一角。

 振り返った先、彼の視界に入ったのは、いつだか見た占い師の露天だ。

「そう、お主じゃ、旅人よ」

「あ、お前っ! あんときのっ!」

「覚えておったか」

 頭から足下までをすっぽりと覆うローブ姿は、まさか早々に忘れられるものでない。目深いフードに顔の全てを隠していても、けれど、その特徴的な外見と嗄れた声とは、彼も十分に覚えがあった。

「どうやら、元気にやっとるようじゃな」

「だから前も言ったけど、ぜんぜん元気じゃねーよ」

 歩みを止めて占い師に向き直る山田だ。

 時刻は午後五時を多少ばかり回った頃合。周囲には仕事を終えて帰宅するべく動くサラリーマンやオフィスレディの類いが雑多に行き交う。また、それらを店に呼び込まんと立ち並ぶ飲み屋のキャッチ。日中と比較しては人通りも増して、とても賑やかとなった繁華街である。

 そんな街路脇にポツネン、折りたたみ式の机と椅子から成るのが、占い師の露天だ。

「なんぞ悩みかの?」

「それを当てるのが占い師だろ?」

「以前、勝手に占うなと言われたのでな」

「だったら俺なんかに声とか掛けるなよ」

「お主に少しばかり用があるのじゃ」

「……用?」

「ほれ、落とし物のお届けじゃ」

「え?」

 何気ない調子に、腕を振るってみせる占い師。

 応じて、彼女の手から金属片が放られた。

 山田は大慌てに腕を動かして、両手にそれをキャッチする。

 投げて渡されたのは、ありきたりなデザインのカギだった。

「いきなり、なんだよ……カギ?」

「以前、お主にくれてやったじゃろう? 儂の貞操帯のカギじゃ」

「や、やっぱりマジだったのかっ!?」

「嘘じゃ」

「二度も言われると信憑性が出てくんだよっ!」

「まあそう言うな。持っておけ」

「なんでだよ? まあ、貰えるもんは貰っとく主義だけど……」

「でも、失くしたじゃろ?」

「……騎士団の連中に襲われたとき、家の机の上にあったんだよな、きっと」

 手中に収まるカギを眺めて、つい数日前のやり取りを思い起こす。占い師に貰って以後、ズボンのポケットから自宅の卓上へ放置。ずっと忘れていたのだった。紛失した事実すら気付いていなかったほど。

「他人からのプレゼントを無碍に扱うとは、酷い男じゃな」

「強盗に入られたんだよ。そんで失くなったんだから、俺のせいじゃない」

「強盗くらい撃退せいよ」

「できるかよっ!」

 過去二度の邂逅に同じく、妙に気さくな態度で語り掛けてくる占い師。

 その態度に少なからず辟易しながらも、一応は言葉を返して応じる山田。

「今日からは肌身離さず持っておくのじゃぞ」

「どうしてだよ? っていうか、これって何のカギだよ?」

「尻穴のカギじゃ」

「は? 尻穴?」

「お主が大切だと思う者がピンチのとき、その尻穴に突っ込んでやれ」

「いやいや、意味が分かんねーからっ!」

「なに、いずれ分かるだろうよ」

「分かりたくねーよっ! っていうか、どういう状況だよっ!」

 突拍子も無い単語を耳として、思わず声も大きく突っ込みを入れる山田。けれど、相手は飄々と笑うばかりで、自らの発言を取り消すこともない。

 実際、カギの作りは至って普通。そこいらに転がる有象無象と大差ない。尻穴に入れたところで、直腸に多少ばかり傷が付いて終わりだろう。

「ヤツは前の穴より、後ろの穴をほじられるのが好きそうじゃからな」

「おいっ、ヤツって誰だよっ!?」

 思わず一歩を踏み込む山田だ。

 これに対して、占い師は何気ない調子に答える。

「さて、渡すものも渡したところで、おいとまするかの」

「おいとまって、おいっ! 少しは俺の話をっ……」

「では、また近いうちに会うとしよう」

「っ!?」

 占い師の台詞が終わるか否かといった瞬間、まばゆい輝きが山田の視界を覆った。一寸先も確認できないほど、真っ白な光が全てを覆い尽くす。まるで太陽を目に入れたよう、咄嗟に目元を覆う。

「な、なんだよおいっ……」

 しばらくを呻き声と共に過ごす。

 やがて、目元が落ち着き始めるに応じて、ゆっくりと瞼を開けた。

 パチパチと瞬きをして、視界のちらつきが落ち着くのを待つ。周囲の光景が輪郭を取り戻すに応じて、彼は今し方まで占い師の露天があった場所へと意識を向けた。

 けれど、そこに目的の相手を見つけることはできなかった。

「またかよ……」

 光を目の当たりとした瞬間、なんとなく想像はしていた山田だろうか。

 両肩を落として、げんなりした調子に呟く。

「尻穴とか、つっこんでどーすんだよ、おい」

 ただ、彼の手の中にはカギが一つ、しっかりと握られていた。

◇ ◆ ◇

 結局、山田は魔王ロリータを見つけることができなかった。

 謎の占い師と分かれて以後、彼は小一時間ばかり街を巡った。それでも目的の相手は見つけられず、何の成果も上げられぬまま、昨晩を過ごしたネカフェへと戻ることになるのだった。

 時刻にしては午後六時。いい加減に腹も減ってきた頃合。

 ならば、いざ入店の受付をしたところで、知らされる驚愕の事実。

「ん? お前、どこ行ってたんだ?」

「なっ……」

 受付を済ませて、いざ自身に割り当てられたブースへ向かわんとした瞬間、彼の眺める先に魔王ロリータの姿はあった。フロント近く、ドリンクサーバーの設けられた辺り。

 片手に漫画の単行本を握り、もう片手にジュースの満ちる紙コップを握っている。いつの間に用意したのか、上下スウェット姿であって、随分と場に馴染んで思えた。

「なんでお前がここにいるんだよっ!?」

「いちゃ悪いかよ? お前が連れてきたんだろうが」

「いや、だってお前っ、逃げた筈じゃ……」

「なんだよ? 逃げて良かったのか?」

「…………」

 ここへ来て、彼は自らの早合点を理解する。

 全ては彼の魔王ロリータへの信用が低すぎた所以。

 どうやら彼女は一日をネカフェに食っちゃ寝していたらしい。

「……俺、なにやってんだよ」

「それは私の台詞だ」

 一日、完全に無駄足を食った阿呆だった。

 もしも発声練習に費やしていれば、どれだけを学べただろうか。

「それよりも腹が減った。メシへ行くぞ」

「あ、あぁ、俺も腹減ったし、コック呼んで外に行くか……」

「ヤツならば家に帰ったぞ」

「家? あのレストランか?」

「ああ。状況が落ち着いたら来いと言っていた」

「そういや仕事があるんだもんな。忘れてたわ」

「お前のような穀潰しとは違うな」

「うっせっ、お前だって似たようなもんじゃんか。というかそもそも、アイツがよく俺らを放って帰ったよな? 肉とか欲しがってたんじゃなかったのかよ?」

「そうだよ。お前が居なかったせいで、私は足と腕を一本づつ持ってかれた」

「……なるほど」

「なるほどじゃないわっ! 今度はお前がやれよ!? 私はもうやらんからなっ!」

「わ、分かってるよ。それくらい、まあ、約束したもんな」

「クソっ、力さえ封じられていなければ、あの程度の雑魚など……」

 忌々し気に毒を吐き捨てる魔王ロリータ。目元にまで深くシワを寄せてのこと。相当に悔しいのだろう。今にも暴れ出しそうであった。

「っていうか、どこで切ったんだよ? すげぇ血が出ただろ」

「風呂場でやった。凍らせてやれば出血はそれほどでもない」

「ここのシャワールームか……」

「ったく、力を取り戻したら、絶対にぶちのめしてくれる」

「そっか、だからスウェットなんて着てるのか」

「悪いかよ?」

「いや、別に。似合ってるじゃん」

「……なんで褒めるんだよ」

「庶民的な格好がよく似合うんだよな。お前」

「こ、このっ……」

 一瞬、ポカンとしたかと思えば、次の瞬間には眦を釣り上げている少女だった。もしも両手がふさがっていなかったのならば、或いは相手を殴り付けていたかもしれない。

 露骨に薄ら笑いを浮かべるキモオタ風情は、傍目、酷く苛立たしい顔面をしている。彼女でなくとも殴りたくなること請け合いだ。

「お前に外見をとやかく言われる筋合いはないっ!」

「んなこと俺だって理解してるわ。それよりもメシだろ、メシ」

 入店から数分と経たずして退店となる山田だろうか。

 とは言え、最悪のパターンだけは回避できたと、自らの阿呆を呪いつつもホッと一息だろう。思い出したように腹もぎゅるぎゅると鳴り出す。自身が朝から何も口にしていないと思い起こした。

「はっ! 顔が下品なら腹の音も下品だな」

「うっせ、朝から何も食ってないんだよ」

 いつの間にか隣に立つ魔王ロリータが、ジュースをちびちびとやりながら軽口。

「それで、どこへ行ってたんだ? まさか延々と散歩してた訳じゃあるまい」

「んなもん、外に決まってるだろ」

「……お前、私のこと馬鹿にしてるのか?」

「そういえば途中で占い師に会ったな。前に話したヤツ」

「な、なんだとっ!?」

 山田が何気ない調子に語る。

 すると、これを耳とした魔王ロリータは、占い師という単語に反応して、ビクリ、身体を大きく震わせた。同時、クワと瞳を見開いて、彼へと一歩を詰め寄る。ぴしゃり、少しばかり紙コップに注がれたジュースが床へとこぼれた。購入間もないスウェットにもシミが生まれる。

「おいっ! どこだっ!? どこで会ったっ!?」

「そこいらの通りだけど、なんだよ、まだ会えてなかったのか?」

「そこいらでは分からんっ! どこだよっ!」

 相当に執着して思える様子だ。

「もう居ねぇよ。なんかピカッと光って消えちゃったし」

「どこへ消えたっ!」

「んなこと知らねぇよ。知り合いなら電話でもすりゃいいじゃんか」

「番号なぞ知るか!」

「一方的にお友達気取りかよ。どーしょもねーな」

「そ、そういう意味じゃないっ!」

「ならなんだよ?」

「別に、なんでもいいだろ。お前には関係の無い話だっ」

 ジロリ、山田に見つめられて、一歩を下がる魔王ロリータ。どうやら彼女にとっての占い師とは、他の有象無象とは一線を画した位置にあるようだった。

 彼にしては二人がどういった間柄にあるのか、まるで想像が付かない。

「ふぅん? つってもまぁ、俺もお前のことなんてどうでもいいけどな」

「おい、あんまり調子こいてると逃げるぞ?」

「ふざけんなよ。仮に逃げ出しても、地獄の果てまで追い掛けるかんな」

「しかし、占い師がお前に何の用だよ? まさか、意味もなく他人の前に現れるようなヤツじゃない。そして、ヤツが動いたならば、何がどう転んでも、何かしら大きな出来事が起きる」

「何の用って言われても、なんだ、あぁ……なんかカギ貰った。カギ」

「……カギ?」

「これ」

 ズボンのポケットに入れっぱなしとなっていたカギを取り出す。

 手の平にのせて魔王ロリータへと見せる。

「なんだこれは」

「知らねーよ。尻穴のカギらしいぞ」

「……やっぱりお前、私のこと馬鹿にしているな?」

「本人がそう言ってたんだよ。疑うならお前がアイツを見つけて聞けよ」

「ふん、アイツが寄越したとなれば、どうせ碌なモノじゃないだろう」

 ああだこうだ、フロントの傍らに声も大きく言葉を交わす二人。当初は様子を窺っていた店員も、次第に不満が溜まっていったのか、幾らばかりか過ぎたところで、傍らより指摘を挙げる。

「すみません。他のお客様のご迷惑になりますので、声をお控え下さい」

「あ、あぁ、すみません」

「ほらみろ、またお前のせいで怒られただろうが」

「お前のせいだっつーのっ!」

 素直に頭を下げる山田に対して、しれっと責任を彼に押しつける魔王ロリータ。

 事情を知らない者が見れば、親子や兄妹としてこそ映らなくとも、保護者と児童には違いないだろう。喧しく騒ぎ立てた手前、既に周囲より幾分かの注目を受けている。

「ったく、メシ行くならさっさと行くぞ、ほら」

「ちょっと待てよ、これを読んでからだ」

 手にした漫画を彼の側へ掲げて主調する。

 某少年誌で連載される作品だ。

「んなもん帰ってきてから読めばいいだろが」

「いまちょうど良いところなんだよ」

「そんなの知るかよっ!」

 結局、魔王ロリータの読書は続いて、都合、二冊を読んでからの出発となった。

◇ ◆ ◇

 二時間ばかりの後、ありがとうございました、店員の声に送られて飲食店を後とする山田と魔王ロリータ。時刻は午後九時を回った頃合。後者にしては、腹を片手に摩りながら、ゲプー、音を鳴らしてのこと。

「しかし、見事に松屋ばっかりだな。もう少し他にないのか?」

「お前も他人に奢られてる分際で、毎度のこと偉そうだよな」

「二度三度と同じでは飽きるだろうが。せめて吉野屋とか」

「嫌だよ、あんな事故米出すような店は絶対に行かない」

「なんだと? あっちのが美味いだろうが」

「知るか。食事なんて必要な栄養が取れりゃそれでいいんだよ」

「松屋だって野菜は東北産だろうが。ネットで調べたぞ」

「流石に東北産を避けてたら生活できねーんだよ。俺だって気にしてるっての」

「それならせめて、次は松屋以外にしろよ。舌が飽きるんだよ」

「その割りにはまたダブルとか頼んでなかったか? しかもご飯を残してたし」

「白米より肉だろう。なんの為のダブルだよ」

「この贅沢女が……」

「松屋如きで贅沢を語るなよ。この貧乏男が」

 店を後として以後、二人並んで繁華街を歩む。向かう先は先刻まで居していたネカフェだ。某国大使館襲撃を経て、山田の懐には幾らか現金が貯まった。他にホテルへ宿泊するという手もある。しかしながら、魔王ロリータが漫画本の続きを強く望んだ為、本日もまたネカフェ難民をする運びとなるのだった。

「牛丼なんてどれも同じだっつーの。安くサッと食えて最高だろ」

「そんなだからお前は童貞なんだよ」

「なっ、ど、童貞じゃねーよっ! 経験あるに決まってるだろっ!?」

「はっ! どうせそこいらの風俗女にでも世話になったんだろうが」

「ぐっ……」

 図星を突かれて、思わず返す言葉を失う素人童貞だった。

「そ、そういうお前はあるのかよ? どうせ処女だろうが」

「処女? 冗談言うなよ。男など数えきれぬほど喰ってきたわ」

「なんだよそれ、威張れることか? このクソビッチが」

「素人童貞に言われたくは無いな」

「こ、このっ、人が何より気にしてること連呼しやがってっ……」

「なんならお前の素人童貞、この私が喰ってやろうか? あぁ?」

「いらねぇよっ! ガキなんて趣味じゃねぇよっ! もうちっと全体的に育ってから提案しろよ。そしたら全力で喰ってやるから。滅茶苦茶に犯してやるわ。っていうか、そもそも素人ビッチなんて商売女より尚悪いわっ! エイズ率高いらしいしっ!」

「偉そうによく言う。どうせ独りよがりなつまらない性交をするんだろうなぁ?」

「う、うっせっ! ビッチよりはマシだっ、このビッチっ!」

「素人童貞よりはマシだろ。同じ童貞なら、まだ普通の童貞の方が良い」

「ぐっ……」

「早まったな?」

「へ、別にいいじゃんかよ。玄人だろうが、素人だろうがっ」

 童貞という単語を耳とする度、過去の経験を思い起こしては、気持ちの悪い感覚に襲われる山田だった。未だにアラフォーなグロマンとのセックスはトラウマらしい。恐らくは当面に渡り魘され続けることだろう。

 人通りも多い道を歩みながら、童貞だ素人童貞だと連呼する二人。まるで周囲の様子が見えていない。道行く者達にしては、異国の少女の姿に目を奪われてチラリ、更に口から発せられる卑猥な単語にチラリ、意識を向けて止まない。

 そうして歩むこと数分ばかり。

 二人は再び元居たネットカフェへと戻ってきた。

 今晩は特に誰かに襲われることも無くの移動だった。

 手早く入店処理を終えて、各々、自らに割り当てられた個室へと向かう。共にフラットタイプのブースだ。一晩を過ごすことを踏まえての選択である。また、例によって店員が気を利かせたのか、スペースは横並びの位置取りである。

 恐らくは山田を保護者か何かと勘違いしたのだろう。

 そして、各々、個室のドアを開けては、その奥に控える机へと、手にした受付伝票の挟まるプラスチック製のバインダーを放り投げる。

 まだ靴を脱いでブース内へ入るには至らない。それはジュースやら漫画やらを手に入れてからだ。

「よし、続きを読むか」

「……そんなに面白いのか?」

「当然だろ? この私が面白いと感じているんだから」

 少なからず浮ついた様子で魔王ロリータが言う。

 僅か小一時間ばかりの外出ながら、食事の合間も続刊を楽しみとしていたらしい。口上こそ大仰なものであるが、スウェット姿も相まって、酷く俗物的な姿だった。日本語の習得に失敗した少し残念な感じの外国人少女と言えば、まさにその通り。

「ふぅん、なら俺も読んでみるか」

「ほぉ、なかなか殊勝な心がけじゃないか」

「なんで漫画本の一冊でそこまで見下されなきゃならないんだよ」

「よし、棚まで案内してやろう。さっさとついてこい、この犬っころ」

「誰が犬だ、誰が」

「お前以外に誰がいる。いいから大人しく来い」

 店内で喧嘩を始めては、店員に追い出されかねない。ここ最近の面倒に学んで、自らを堪える山田だろうか。ムッと怒りがこみ上げたところで、しかし、俺は大人、俺は大人、俺は大人、自身に言い聞かせるよう心中に繰り返して我慢。

 落ち着きを持って魔王ロリータの後に続いた。

 歩くこと数十歩ばかり。

「これだ、これ」

 本棚の一角を指さして少女が言う。

「……あぁ、からくりサーカスか」

「まさか知ってるのか?」

「それ面白いよな。俺も大好きだわ」

 小さく細い人差し指が指し示す先、ズラリ並んだ単行本。

 その背表紙は山田も見覚えのあるものだった。

「……なんか、ムカツクな」

「なんでだよっ」

「私が知らないものをお前が知ってるのが悪い。今すぐに忘れろよ。そして、もう一回、最初から読み直せよ。そうしたら、この漫画について語る権利をくれてやってもいい」

「お前ってウルトラふざけた性格してるよな」

「黙れ、知るか。ミラクル阿呆な貴様が語ると物語の質が落ちる」

「落ちねーよ」

 急に機嫌を悪くして、それでも単行本をせっせと棚から下ろし始める魔王ロリータだった。既に十二巻までを読んでいるらしい。残る三十一冊を縦に積み上げて両手に持ち、えっちらおっちら歩き出す。

「お前、ちょっと私の分のコーラを持ってこいよ」

「なんでお前の分まで持ってかなきゃならないんだよ」

「お前は馬鹿か? 両手がふさがってるからに決まってるだろ」

「そういう意味じゃねーよ!」

「ふんっ、使えないヤツだな」

 山田の手が使えないと理解して、一路、魔王ロリータの歩みはジュースサーバへ。

「……って、その格好で取りに行く気かよ」

「いちいち戻ってくるのは面倒だろうが」

「アホだな」

「黙れウンコイーター」

「お前が喰わせたんだろがっ!」

 どうやら一度に運ぶつもりらしい。前の様子を窺うにも、積み上がった漫画を避けるよう首を捻ってのこと。どうやって運搬するつもりなのか。

「ああもう、世話の焼けるクソガキだな」

 非常に危なっかしい。もし、途中でひっくり返しでもしたら、大変なことだ。下手をすれば漫画がジュースに浸る。都合、共に居る彼が強制的に保護者として責任を負う羽目となるだろう。

 これは面倒だ。

「ったく、おら、自分の部屋へ帰ってろよ。コーラ持ってってやるから。代わりに一巻から十二巻まで、ちゃんと全巻とも運んでおけよ? それ、俺も一巻から一気に読み直すんだから」

「……ふん、最初から大人しく頷いておけば良いものを」

「うるせーよっ。さっさと行けよ」

「死ねボケ」

「一言多いんだよっ!」

 漫画担当の魔王ロリータ。飲み物担当の山田。

 それぞれ分担して、自分達の欲するところをブースへと運び込むのだった。吸血鬼を自称する魔王様は、けれど、随分と人間の世俗に慣れたものだった。スウェット姿と相まって、まるで売春で生計を立てる家出少女のよう。

 山田はジュースサーバでコーラを二つ、カップに注いで魔王ロリータのブースへと向かう。すると、彼女はと言えば、個室のドアを開いたまま、フラットシートの上、身を横たえて漫画を読んでいた。

 既に書面へ夢中だった。

「おい、持ってきたぞ」

「ああ、そこいらへ置いてけ」

「せめて受け取れよな……」

 柔らかなシートの上に置いては、十中八九、身体を当ててこぼすだろう。山田は靴を脱いで個室に上がり込む。割合、広く作られたブースは二人が入っても、それなりに余裕のある作りをしていた。

 衝立に区切られた内側の最奥に位置するテーブルへ、コトリ、紙コップに注いだコーラを置く。シュワシュワと音を立てる淹れたてのコカコーラだ。

「ここに置くぞ」

「ああ」

 魔王ロリータは一度たりとも山田へ視線を向けることをしない。

 ずっと漫画を見つめたままだ。

「おい、一巻はどこだよ」

「そこらにあるだろ?」

「……ったく」

 フロアの隅に詰まれた漫画の山。

 その中に目的の一巻を探す。

 けれど、なかなか見つからない。

「そこらってどこだよ……」

 幾らばかりかを探したところで、ふと、魔王ロリータの尻の下敷きになった一冊を見つける。横向きに寝転んだその横尻の下である。

 そして、チラリ窺える背表紙には、見事、一巻の文字があった。

「テメェ、尻に敷いてんじゃねーよ」

 イラっときた山田は、その場にしゃがみ込むと、彼女の尻を片手に鷲づかみ、ぐいと持ち上げて、残る片手に目的の漫画を掴んだ。

 同時、少女の口から声が上がる。

「うぉおおおおっ!?」

「な、なんだよっ!?」

 大きな声だった。

 しかも声色こそ女のそれだが、発声は妙に男らしい叫びだ。

「いきなり何をすんだよこの変態がっ!」

「お前が漫画を尻の下に敷いてるからだろうがっ」

 咄嗟、肉体を弾ませては身体を起こす魔王ロリータ。まるで人の気配に驚いた野良猫のよう。ぴくん、全身を大きく振るわせてのこと。そのまま、ズササ、尻を引き摺るようにして、ブースの隅まで移動。背中を衝立に触れさせることとなる。

「この場に犯すつもりか? まさか、さっきの言葉を真に受けたか? あぁ?」

「だから違うっつってんだろっ!? なに粋がってんだよっ」

「い、粋がってなんかいないっ! この変態がっ! ウンコ野郎っ!」

「誰がお前なんか犯すかクソガキがっ!」

 山田にしても予期せぬ反応であった。

 これまでのやり取りからすれば、初心が過ぎる。

「しかしまあ、随分と可愛い反応を見せてくれるじゃんかよ? あれだけ大見得きった割には、ちょっと触られただけで大声出して、まるで処女だな。っていうか、本当にヤッたことあんのかよ?」

「なっ……なんだとっ」

「おー、図星か」

 度重なるパシリ扱いに鬱憤を溜めていた山田だ。

 ここぞとばかりに文句を向ける。

「だ、だれが処女だっ、この肉体に喰ってきた男なぞ、既に三桁を超えるわっ!」

「だったら今の声はなんだよ? うぉおおおって、お前、それでも女かよ?」

「ぐっ……」

 それは山田にしても想定外の叫びだった。

 多少の悪戯心はあったものの、そこまで反応するとは思わなかった次第だ。

 或いは無視されるだろうと考えていた。

「所詮は口だけかよ。ったく、見栄ばっかでかいヤツだよな、お前は」

「……こ、このっ」

「違うのか?」

「誰が見栄ばっかりだっ! 私はちゃんと素晴らしいんだよっ!」

 珍しくも口喧嘩は一方的だった。

 魔王ロリータの顔には酷く悔しそうな表情が浮かぶ。

「どうせヤリマンってのも嘘だろ? この似非ビッチ」

「じょ、上等だっ!」

「何が上等だよ?」

「そこまで言うなら、み、みみ、見せてやろうじゃないかっ!」

「だから何がだよ?」

「この、私の魅力ってやつをだっ!」

「……なんでそうなるんだよ」

「うっさい、黙れっ!」

 魔王ロリータの腕が伸びる。

 ドン、力任せに山田の身体を押し倒した。

「いてっ」

 勢いのままに背後へ倒れて、ゴツンと衝立に後頭部をぶつける。

 幸いにして隣は彼のブースである。また、魔王ロリータのブースは最端であって、対面は壁。声こそフロアに響いても、文句は飛んでこなかった。

「おいっ、いきなり暴れるなよっ! 追い出されるぞっ!?」

「いいから黙って大人しくしてろ」

 シートの上へ足を投げ出して座った形の山田。

 その正面から、魔王ロリータが迫った。

 彼の臀部へのし掛かるよう身を乗り出して、相手の顔に自らの顔を近づける。

「目に物見せてくれる」

「だ、だから、なんだよっ……」

 綺麗な蒼色の瞳が、数センチという距離で彼の濁った黒眼へ接近する。

 互いの額と額が、コツン、ぶつかり合った。

 長い金色の髪がさらり肩をながれて、山田の身体まで垂れている。

「いいか? 童貞野郎。これが女の肉体ってやつだ」

「だから、ど、童貞じゃねぇっつってんだろっ」

「なんだおい、顔が赤くなったぞ? 緊張しているのか? おめでたいな」

「だ、誰がっ……」

 異性の顔を真正面、鼻と鼻が触れあう距離に置いて、まさか、意識せずに居られる筈がない素人童貞だった。例え相手が年下の童女であっても、ドキドキ、胸が痛いほどに鳴るのを感じている。

 今度は山田が魔王ロリータに圧倒される番だ。

「なぁ、オマンコさせてやろうか? やりたいんだろ?」

「うっせっ、誰がお前みたいなクソガキとやりたいかよ」

「ふふん、そんなことを言っても、ここはしっかりとおっ立って……」

 魔王ロリータの手が山田の股間へ伸びる。

 けれど、その指先が触れた彼の性器は、小さいままであった。

 ふにゃちんである。ちなみに仮性包茎だ。

「な、なんで勃起してないんだよ!」

「だからしてないっつってんだろっ!?」

「しろよっ! 私がアホみたいだろうがっ!」

「無茶言うなっ!」

「まさか、インポかっ!? その歳でインポなのかよっ!」

「ちげぇよっ! ついこないだだって膣内射精余裕だったしっ!」

「じゃあなんでっ……」

「だから何度も言ってるだろっ!? お前みたいなガキに興奮できるかっ!」

「じゃあなんで顔が真っ赤っかなんだよっ!」

「う、うっせっ! 風邪っ! 風邪を引いたんだよっ!」

「嘘付くなっ! 凄く元気だろうがっ! さっきだって牛丼サラダセットとか喰ってただろうっ! 絶対に病人の食欲じゃないっ!」

「俺は風邪引いてもご飯とかモリモリ食べるタイプなんだよっ!」

「んなこと知るかっ!」

 酷い口喧嘩だった。

 魔王ロリータは言えば、完全に山田の股間の上に腰を下ろしてのこと。これでも勃起しないのだから、彼は完全にロリコンの気が無いのだろう。顔を赤くしているのは、一重に異性への不慣れからくるものに思われる。

「こ、この私が、ここまでしてやっているというにっ!」

「はぁ? 男喰いまくりじゃなかったのかよ? 何かここまでだよ」

「うっさいっ! そ、それは関係無いっ!」

 おかげで会話のペースは早々に山田の下へ返ってきた。

「っていうか、邪魔だからさっさと退けよ。漫画が読めないだろーが」

「いやだっ」

「なんでだよっ!」

「ムカツクだろうが! お前が勃起するまで誰が退くかっ!」

「だからしないっつってんだろっ!?」

「ならば無理矢理にでもさせてやるっ!」

 言って腰をグリグリと動かし始める魔王ロリータ。

 夏用の薄いスウェットの生地越しに、更にその下に穿いた下着越しに、少女の暖かな体温と、性器の柔らかな感触が山田の息子へと伝わる。空調の整ったフロアにあって、けれど、互いの身体の密着する部位は、妙に熱を籠もらせて思えた。

「う、動くなよっ!」

「どうだ? おら、どうだよ?」

 伊達に優れた身体能力を持っていない。魔王ロリータはグイグイと力強く自らの性器を押しつける。遠慮無く腰を前後左右に動かす。歳幼い少女が見せるにしては、酷く背徳的な光景だった。

 年下に興味の無い山田にしても、患部を直接刺激されては無反応に居られない。段々と鎌首を擡げ初めては、ややあって、五分勃ち、七分勃ち、性器へと血を集めることとなった。

「ど、どうだ? 段々と堅くなってきたようじゃないかっ!」

「そういう風にできてんだから当然だ! 生理現象なんだよ!」

「馬鹿を言え。この私の魅力と技の為せる結果だろうが」

 必至に腰をクネクネとやりながら、勝ち誇った笑みを見せる魔王ロリータ。

「絶対に違うわっ! このクソビッチ!」

「このまま果てさせてやるわ、素人童貞がっ!」

 その動きは段々と勢いを増して行く。

 応じて山田の股間もまた堅さを増して行く。

 退かそうと思えば力ずくで退かせる魔王ロリータを、けれど、それでも腹の上に乗せたままにしているのは、一重に相手の容姿が頗る優れるが所以。外見こそ小学校中学年を思わせるが、パーツの一つ一つはそこいらの日本人女性と比べるべくもなく美麗なもの。

 また、如何にロリ趣味が無い山田であっても、執拗に股間を女性器に擦られては堪らない。何より彼は素人童貞だ。金銭を支払わずして異性にすり寄られること自体が、非常に希有な出来事である。それを自らの意思に遠ざかるなど、なかなか決断できることではなかった。

 優柔不断な性格も手伝って、その先に待つ色々を妄想してしまう。

 立派な口上とは裏腹、既に期待している変態野郎だ。

「ほらっ、ほらっ、どうだっ!?」

「はっ、ぜんぜんに決まってるだろ? こんなのでイケるかよっ」

「その割には随分と堅くしてるじゃないか。嘘はすぐにバレるぞ?」

「堅くなったからって、ものが出るとは限らないんだよっ」

「な、ならば、このまま嫌というほど吸い出してやるっ!」

 今まで読んでいた漫画の存在も忘れて、必至に腰を振る魔王ロリータだった。

 彼女自身、相応に感じているらしく、ニチャニチャ、段々と性器のふれあう音に水気が混じり始める。とても汁の多い体質らしく、見ればスウェットの股ぐらはびっしょりと、完全に色を変えていた。

 当然、山田もこれに気付く。彼のズボンにもシミができていた。

「っていうか、お前のが凄いことになってね?」

「……う、うるさいっ! お前の汁だろうがっ! 私じゃないっ!」

「いや、男はこんなに出ないだろ」

「なら汗だっ! 汗っ!」

「局所的過ぎるだろ……」

 何が何でも山田をイかせたいらしい魔王ロリータだった。

 しかしながら、どれだけを擦っても、彼は射精しそうになかった。表情も顔こそ赤くとも、それ以上の変化を見せない。

 一方で段々と表情を崩してゆくのが少女だ。

「んっ……ふっ、ぅぅっ、ぐっ……」

 必至に喘ぎ声をかみ殺しながら、山田の股間の上に腰を振っている。

「お、おい、あんまり声とか出すなよ。店員が来たらどーすんだよっ」

「ならば、さ、さっさとイけっ!」

「だからこんなんじゃ無理だって言ってるだろっ!?」

 いよいよ魔王ロリータの様子がおかしくなってきて、逆に焦り始める素人童貞。相手がどういった状況にあるのか、まるで理解できないが故の態度。

「くっ……ぁ、うっ……」

「おいっ!」

「だ、だったらっ……」

 不意に魔王ロリータの腰が止まる。

 やっと終わったかと、安堵の溜息と同時、凄く残念そうな顔をする素人童貞。

 すると彼女は、唐突にも彼のズボンを下ろしに掛かった。

「お、おいこらっ! なに始めてんだよっ!?」

「うるさいっ! 黙れっ! この口に吸い尽くしてくれるっ!」

「ふざけんなよっ! 監視カメラついてんだからなっ!? 捕まるわっ!」

「いいからやらせろっ!」

「子供がいう台詞じゃねーよっ!」

「子供じゃないと言ってるだろっ!」

「実年齢が幾つだろうと、女は見た目が全てなんだよっ!」

 流石にこれ以上は不味いと考えて、力任せに魔王ロリータを遠退ける山田だった。自らの足に相手の顔をグイグイと押して、無理矢理に近づいてくる少女を接近させるまいと必死の様子。

 これ以上は彼も理性が大変だった。

 伊達に素人童貞をしていない。まさかチンコに吸い付かれては、好みの相手でなくとも全力で襲う自信があった。中出しする自信があった。

「こ、このっ、大人しくしろっ! このウンコ野郎っ」

「くんじゃねぇよっ! こっちくんなっ!」

「うるさいっ!」

 くんつほぐれつを始める二人。

 山田もいよいよ、抗う腕に力を篭め始める。

 何故ならば、相手もまた、かなり本気で腕を振るっていた。

「何がそこまでお前を熱くするんだよっ!」

「女のプライドだっ!」

「それはもっと育ってから言えっ!」

「もう育たないから言ってるんだよっ!」

「マジかっ!?」

 思わず目の前の残念ボディーに視線をやってしまう山田だった。

「大人しくしゃぶられろっ!」

「店員に見られるっつってんだろっ!?」

「見たいやつには見せておけっ!」

「それでいいのかよっ!?」

「クソっ、ベルトが外れんっ……」

「追い出されるぞっ!? そこの漫画も見れなくなるぞっ!?

「な、なんだとっ!?」

 漫画、その単語にピクリ、魔王ロリータが反応する。

「警察とか来たら、また大きな騒ぎになるし、そうなったら他の漫喫にも連絡が行くかもしれないだろ? もしも逃げ出したりしたら、どこ行ったって門前払いか警察呼ばれるようになるんだぞっ」

「ぐっ……なんだ、それは。ふざけたことを……」

 どちらかと言えば、これは山田の都合である。傍から見れば、魔王ロリータは一方的に保護されるべき被害者であって、主だって面倒を背負い込むのは彼だ。

 とは言え、共に行動することが前提の今後を思えば、彼女にしても決して無視できない状況か。その辺りを理解したのか、吠える言葉にも勢いが失われる。

「だから大人しく漫画読んでろよっ」

「クソっ、いいようにあしらったつもりになるなよっ!?」

「なるに決まってるだろ!?」

「なら一発抜かせろっ!」

「いい加減に諦めろよ!」

 語る魔王ロリータは酷く悔しそうだった。

 まるで会場入りに遅刻して不戦敗を受けたスポーツ選手のよう。その視線はシートの上に転がる漫画と、目の前の山田との間で行ったり来たり。

「くそっ、せっかくこの私が舌技でイかせてやろうというに……」

「そんなちっこい口に俺のは入んねーよ!」

「うるさい自慢するなっ、気持ち悪い!」

「だったら咥えるとか言うなよっ」

「ふんっ! 漫画を全部読み終えたら、覚えてろよ?」

「全部読み終える頃にはお前が忘れてんじゃないのか?」

「誰が忘れるかっ」

 云々、ひとまずは決着をつける二人だった。

 魔王ロリータは、ようやっと山田の上から身を退かせる。部屋の壁へ背を凭れかかるよう位置を取った。そして、今し方まで読んでいた単行本を見つけると、再び漫画へ意識を向ける。

 他方、山田はと言えば、無事に彼女の尻の下から目当ての漫画を手に入れる。片手に漫画、片手にコーラの満ちたコップ、それぞれを確保して、自らに割り当てられた個室へ戻ろうとした。

 けれど、一歩を躊躇する。

 つい今の今までの出来事を思う。

 少なくとも魔王ロリータと口喧嘩をしていた最中においては、自らの死から遠ざかることのできていた彼だった。それが彼女の個室を後としようとして、ふと、脳裏へ強烈によぎった次第である。

「…………」

 ここ数日、一人の時間を極端に怯える山田だった。

 仮に移動したとしても、薄壁一枚、距離にして一メートルもない間隔。

 それでも彼は、他の誰かと共に、同じ時間を同じ空間で過ごしたかった。

「…………」

 漫画とジュースを両手に立ち上がったところで、しかし、彼は魔王ロリータの個室にあって、隅の方に腰を落ち着ける。そして、彼女がそうするよう、背を壁に預けて、漫画の表紙を捲るのだった。

 丁度、彼女とは個室の中央を挟んで点対称の位置。

「……おい、なんでそこに座るんだよ?」

「うっせ、いちいち続きの巻を取りに来るのが面倒なんだよ」

 少女からは当然の疑問。視線は彼を見つめてのこと。

 これに彼は努めて素っ気ない態度に答えて応じた。極力、自らの心中を悟られぬよう、表情を取り繕ってのこと。今に口にした理由が全てであると、言外に主張する。

 すると、相手はそれ以上、問い掛けることをしなかった。

 相槌すら打たず、フンッ、小さく鼻を鳴らして、早々に漫画へと視線を戻す。

 これを肯定の返事と捉えて、山田もまた、漫画へと意識を向ける。

 その後、夜が更けるまで、延々と漫画を読み続ける二人であった。

◇ ◆ ◇

 翌日、山田の目覚めは魔王ロリータの声に因った。

「おい、起きろ。このウンコイーター」

 ガツンと脳天を爪先で蹴られる。

「ぅおぉおおおっ!?」

 眠っていたところ、唐突にも頭部を揺すられて、溜まらず声を上げる寝坊助だろう。何事かとばかり、大慌てに声を挙げて身を起こした。ビニール製のマットの上、座り込んだ姿勢のまま、キョロキョロと周囲を確認する。

 ならば目に入ったのは、すぐ近くに仁王立つ見知った姿。

「なっ、いきなりなにすんだよっ!」

「腹が減った。メシに行くぞ」

 場所は彼に宛がわれた個室。

 延々と魔王ロリータの個室で漫画を読んでいた彼だが、流石に二人並んで眠るスペースは無くて、就寝に際しては移動したのだった。無論、床へ就くに際しては、ガクガクブルブル、存分に孤独に震えたのはここ最近の避けられぬ習慣。

「んなもん一人で行きゃいいだろうがっ! いきなりあたま蹴るんじゃねーよっ!」

 おかげで睡眠時間は圧倒的に足りず、眠気から不機嫌のままに怒声を返す。

「金が無いんだよ。それなら財布を寄越せ」

「……声優とかなかったら、本当、速攻ぶっころしてやんのに」

「仮にそうならば、こうして行動を共にすることもないだろう。阿呆が」

「うっせぇよっ!」

 まさか、逃げ出す恐れのある相手を一人で行動させる訳にもいかない。仕方なく山田は腰をあげた。寝癖に立つボサボサの髪をガシガシと片手にかきながらの行い。典型的なネカフェ難民の態か。

 彼が眠っている間にも脱走しなかった点からして、ある程度は少女も協力的なのだろうとは考えられる。若しくは山田を対騎士団への戦力として数えているのか。だがしかし、そうは言っても未だに、初対面で受けた扱いから来る不信感は大きかった。

 一人で向かわせて、気変わりでもされては困る雇用主だ。

「んじゃぁ、行くか……」

 これまでの彼ならば罵倒の一つも続いたところ。

 ただ、寝ぼけ眼での言い合いは辛いと考えたのだろう。これ以上の言い合いは無駄だと諦めて、山田は彼女の言葉通り、昼食へ向かうこととする。靴を爪先にひっかけて、ブースを移動。その後をちょこちょこと、彼女もまた続く

 昨晩に同じく、二人連れだっての食事だった。

 時刻は午後十二時の少し前。

「ところで、お前、今日は何か用事があると言ってなかったか?」

「え?」

「その為に私を連れ回しているんだろ?」

「あ……」

 魔王ロリータの何気ない問い掛け。

 これを受けて初めて、山田は自らが大切なことを忘れていると気付く。

「あぁあああああああっ!」

 店舗内、大きな叫びが響き渡った。

◇ ◆ ◇

 山田がネカフェに絶叫している頃合のこと、都内某所に所在する音楽スタジオ、その収録室にて、髭ロン毛と天才声優少女が顔を向き合わせていた。他には誰の姿もない。二十畳近い広さの空間に二人きりだ。

「……来ないわね」

「ああ、そのようだな」

「これ以上は待っても無駄だと思うけれど?」

 二人が待つのは昨日に残ったメンバー。一人は山田、もう一人はデビュー間もない新人声優。共にスタジオで分かれて以後、今日という日に再び集まることを約束していた四人である。

 しかし、かれこれ小一時間を待ったにも関わらず、二人はやって来る気配が感じられなかった。髭ロン毛や天才声優少女の下に連絡一つ来ていない。彼と彼女は残ったのが自分達だけだと理解する。

「ああ、仕方の無いことだ」

「…………」

「どうした? 随分と不服そうな顔をしているが」

「別に、なんでもないわよ」

「……そうか」

 場の空気はとても暗かった。

 後に待つやり取りが、碌でもないものだと知らしめて思える。

「仕方ないが、説明を始めるとしよう」

「ええ、そうして頂戴」

 殊更、厳かな調子で口を開く髭ロン毛。

 耳を向ける天才声優少女にしても神妙な顔つきだ。

「まず、先に謝っておこうと思う。すまない」

「謝罪なんてどうでもいいから、早く話を進めてくれないかしら?」

「……ああ」

 頭を下げて、上げて、続きを語り始める監督だ。

「結論から言うと、声優は集まらなかった」

「それって、今までの担当者もってことよね?」

「ああ。プロダクションは問題なかった。だが、声優個人として、それぞれ断られてしまった。理由は様々だが、まあ、恐らくは今後の進退を含めて、色々なところから圧力を掛けられたのだろう」

「そう言えば、私のところにも来たわね。妙なのが」

「…………」

「それで?」

「加えて、到着を予定していた動画も未だにあがってこない。本来ならば、既に完成している分が、まだ海の向こう側ということだ。色々と事情を説明されたが、こちらもまた同様だろう。声優の都合が付き次第に送るという話だ」

「本当、駄目な監督ね」

「ああ、駄目な監督で、本当にすまない」

「つまり、収録どころの話じゃないってことよね。声優はおろか音響監督まで逃げ出しちゃったんだもの、監督と声優一人で何ができるのかしら? 紙芝居でも始めればいい? まあ、割と自信はあるけれど」

「ああ、それも悪くは無いな」

「本当、駄目な大人ね。これならまだ、三日で三千万、きっちりと稼いできたキモオタの方が見所あるじゃない。やると一度は口にしたのだから、貴方、自分の夢だと言うなら、死ぬ気でなんとかしなさいよ」

「……すまない」

「だからっ、私は一言も謝って欲しいとは言っていないのだけれど?」

 ジロリ、相手を睨み付けるよう語る少女。

 その口調はとても厳しいものだった。

「では言葉を変えよう。ここまで付き合ってくれて、ありがとう」

「…………」

 今一度、深々と腰を折って頭を下げる髭ロン毛だった。

「……もっと聞きたくない言葉だわ」

「このような結末を迎えるとは、思わなかった」

「まったくよ。こんなの前代未聞じゃない。きっと、色々な意味で話題に挙がるわね。けど、仮に話題に挙がって有名になったとしても、売るべきモノが、見せるべきものが何一つないのだから、ええ、情けない話よね」

「ああ、そうだな……」

 空気は完全に通夜だった。

 天才声優少女にしても、普段の勢いが微塵として感じられない。

 山田と口喧嘩をするに見せた元気も、今や完全に萎んで思える。

「じゃあ、これで終わりね」

「……そうだ」

「……本当に、アンタ、本当にそれでいいの?」

「良くはないさ。しかし、これが俺の限界だったということだ」

「だからって、諦めてしまうの?」

「諦めた訳じゃない。まだ、生きている限り、俺は俺の良いと思うモノを表現し続けるだろう。ただ、その手段として、アニメというものが無くなっただけだ。やり方など、他に幾らでもある」

「アンタからアニメを取ったら何が残るの? 業界から締め出されて、行く宛てなんてあるのかしら? その歳で手に職が無い人間が行き着く先なんて、生きるだけで精一杯、ものを作る時間なんて、禄に得られないわよ」

「そうはならんさ」

「数年で精神は疲弊して、おめでとう、キモオタの仲間入りね」

「……だとしても、俺にはその道が残されている。可能性はゼロじゃない。別にこれで死ぬ訳じゃないんだ。他にやりようなど幾らでもある筈だ。君のような若者を前に口とするのは些か憚られるが、悲観するにはまだ早い」

「前向きなのか後ろ向きなのか、さっぱり分からないわね」

「どちらに頭が向いていようと、足を動かせる限り問題ない」

「……そう」

 監督は既に、この場を諦めている様子だった。

 対する天才声優少女はといえば、そんな彼の振る舞いに苛立って思える。

 ただ、二人が幾ら言葉を交わそうとも、状況は決して好転することもない。ただ、延々と時間が過ぎるばかり。名残惜しくも話を締めようとする監督と、その態度にいちゃもんを付け続ける少女。

 両者のやり取りは平行線だった。

◇ ◆ ◇

「報告します、魔王と旅人が動き始めました」

 サイの凜とした声が一室に響く。

 場所は都内に所在するホテルの一室。

 ここで一言に一室と称しても、それはワンフロア全てを含む、最上位のロイヤルスイートである。金に物を言わせた結果の成金泊だった。上下のフロアも同様に押さえており、そこには騎士団の構成員が詰めている。

「今度は何を始めたんだい?」

「目的は不明ですが、都内の基幹道路を時速五十キロで移動中とのことです。ちなみに自動車の類いに乗車してはおらず、自らの足に走っているそうです」

「そりゃまた随分と派手なことしてくれるね……」

 部屋にはサイと王様の姿だけがある。

 前者にしても、今し方にやってきたばかりだ。

 スーツ姿にピシリ、直立不動で応じる姿は、まるで良く出来た執事のよう。ただし、これに向き合う王様がブサメンであるからして、なかなか、残念な絵となってしまっている二人。

「如何しますか?」

「当然、出るに決まってるよ」

「であれば、是非とも我々にお手伝いを……」

「これ以上、君たちに迷惑を掛ける訳にはいかない。今回は僕一人でやる」

「しかしっ……」

「まさか、僕が信用ならないかい?」

 茶目っ気の混じった、挑むような眼差しにサイを見つめる王様。

 これにイケメン執事は大慌てで否定の言葉を並べる。

「め、滅相もありません! 私は王の勝利を疑いません」

「なら、行かせてくれるよね?」

「……分かりました」

「ありがとう」

「では、そのように手配を整えます」

「色々と迷惑ばかり掛けてごめんね」

「いいえ、王からのお言葉こそ我が人生の快楽にございます」

「……流石にそれはどうかと思うけどね」

 恭しく頭を下げては、仰々しい物言いに語り見せるサイだった。その様子は一貫して変わらない。彼にとっての王様とは、とてもとても大切なものであるらしい。

「それでは、三十分後にここを発つ形で進めさせて頂きます」

「分かった。お願いするね」

「へりを用意致しますので、屋上に出る用意をお願い致します」

「うん」

「では、失礼します」

 角度にして九十度、深く頭を下げて礼をするサイ。

 然る後、丁寧に身を返しては、部屋を後とした。

 去り際のこと、部屋のドアは物音一つ立てず静かに閉じられる。

 後に残されたのは、ブサメンが一人。

「……しかし、なんだろうね、これは」

 ぼそり、彼は誰に言うでもなく呟く。

 視線は正面、今にサイが去ったばかりのドアを見つめてのこと。

「他の誰よりも、僕自身が魔王に価値を見いだしてないなんて、ね」

◇ ◆ ◇

 その日、都内を猛烈な勢いに駆け抜ける者の姿があった。歩道より外れて、車道を流れゆく自動車に平行する形。それらに決して負けない勢い。凡そ、真っ当な人間とは思えない脚力。時速五十キロ。オリンピック代表も真っ青のペース。

「うぉおおおおおおっ!」

 山田が走っていた。

「おいこらっ! 手を離せっ! 手をっ!」

 魔王ロリータも走っていた。

 二人して全力疾走だ。

「遅刻だよっ! 遅刻っ! やべぇよっ! マジやべぇよっ!」

 ネカフェにて、魔王ロリータから本日の予定を指摘されたのが数分前。

 即座、山田は収録スタジオを目指して全力疾走だった。もちろん、声優候補生である魔王ロリータの腕を掴んでの移動である。無理矢理に連れ立っているせいか、前者が後者を引き摺っているようにも思える。

 ここ数日の経験を経て、電車に乗るより自分で走った方が早く目的地に到着できると、理解しての行いだった。ただ、その姿格好は大変に酷い。全身、下着まで汗にぐっしょりである。まるでシャワーでも浴びたよう。後先考えないほど急いでいるからこその選択である。もちろん、これは山田に限った話でない。魔王ロリータもぐっしょりだ。

「ああもうっ、なんだって俺はいっつもこうなんだよっ!」

「だから腕を離せっ! 走りにくいだろうがっ!」

 山田に引き摺られるよう駆ける魔王ロリータ。

 足を動かさなければ引き摺られる。あんまりな彼の慌てようを受けて、仕方なくといった様子でその脇を併走である。抗議の声はネットカフェを出てより止めどない。けれど、全ては禄に相手まで届かない。

「くそっ、くそっ、くそっ!」

 必死の形相で走る山田。相変わらず運の無い男だった。

 けれど、彼の不幸は今に始まったことでない。

 そして、不幸には不幸が付きものだ。

 幾らばかりを駆けたところで、更なる不幸が彼の下へと舞い降りる。

 向かう先、警察による封鎖があった。道路を通過せんとする自動車の、しかし、尽くを防いで、一台として先へ進ませない。滅多で無い光景だろう。それこそ高速道路に事故でも発生したよう。

 パトカーが道路を横断するよう横に並んでいる。周囲には数十名から隊を作り、交通整理に当たる警察官の姿。周囲を通行する者達にしては、何事だとばかり、誰も彼もが意識を向ける先だ。

「おいっ、なんか妙な感じになってるぞ!」

「んなもん知るかっ! 俺はアニメで声優で収録なんだよっ!」

 ただ、山田にしては我関せず。

 そのまま突っ込んでいった。

 自動車ならば止められてしまう。もしも彼がタクシーの類いに乗車していたのなら、もれなく渋滞に引っかかっていただろう。迂回したかも知れない。けれど、地を足で駆ける身軽な今だから、列を為す車の脇を抜けて、無理矢理に先へ進もうとする。

 これが良くなかった。相手の思う壺である。

 延々と連なる自動車の列を越えて、その隙間をぬうように進む二人。

 山田にしては、どうせ事故か何かだろう、勝手に決めつけて、そのまま走り抜ける算段だった。例えばスーパーの出入り口に接した歩道を行く際、交通整理のバイトに、客の車が出るから立ち止まってくれ、軽い調子に命じられたが如く。故にそれを振り切らんとしてのこと。

 今の勢いなら問題なく突っ切れると考えての判断だった。

 するとどうしたことか、警察官たちは二人を止めることなく、自らの作る封鎖壁の先へと向かい入れた。交通整理に立つ者達の間を、横並びに駐車されたパトカーの間を、声一つ掛けることなく素通りさせた。

 そして、山田は対面する。

 警察の封鎖を越えた先、がらんどうの道路に立っていたのは、一人が一人。

 片側三車線。幅広な国道。

 その中央にぽつねんと、騎士団の王、スーツ姿のブサメンが仁王立ちだった。

「げぇっ……」

 向かう先、自らの天敵を目の当たりとして、悲鳴を上げる山田。

「何が今の君を駆り立てているのかは知らないが、ここは通さないよ」

 都合、駆ける勢いを殺す頃には、互いに十数メートルの距離だった。

 大慌て、立ち止まった彼は声を上げる。

「な、なんでお前がこんなとこにいるんだよっ!」

「仲間の敵を討ちに来た。そして、魔王を討ちに来た」

「なんだよそれっ! 追い掛けてくんなって言っただろっ!?」

「約束をしたのは、昨晩の時点で後を付けないという点のみだよ。人質が解放されて以後、仲間に手伝って貰い、君の場所を特定した。なにやら妙な勢いで走り回っていたようだが、これほど急いで向かう場所とはどれほどか、興味が沸かないと言えば嘘になる」

「急いでるのが分かるなら邪魔すんなっ! マジで急いでるんだよっ!」

「いいや、それはできないね」

「こ、このっ……」

 周囲には他に誰の姿も窺えない。王様は一人でやって来た様子だった。

 それを確認して、内心、小さく舌打ちをする山田である。これでは昨晩と同じ手も使えない。付近一帯はがらんどう。数十メートルに渡り、完全に通行人も自動車も、建物への出入りすら排除されていた。

 王様という肩書きは伊達で無い。

 相応、社会的に幅を利かせられるだけの地位に就いているようだ。

 しかしながら、だからと言って素直に捕まる訳にはいかない山田である。

 彼も人生を賭けている。文字通り命賭けだった。

「クソッ、ブサメンの癖して、俺の人生にちょっかい出してんじゃねぇよっ!」

「なに、分相応というやつさ」

「俺のがずっとマシに決まってるだろっ!? このブサメンっ!」

「……君に言われると、やっぱりカチンと来るね」

「どけよっ! いいからどけよっ! あとで幾らでも相手してやるから!」

「いや、この短い問答で、ますます退きたくなくなったよ」

 ブサメン同士、互いに睨み合う。

「おいこら、まさかヤツとやり合うつもりか?」

「んなこと俺に聞くなよ。アイツが勝手に盛り上がってるだけだろが」

「止めておけ。お前では勝てん」

「だったらどうすりゃいいんだよっ」

「…………」

 山田の傍ら、魔王ロリータもまた困窮して思える。

 いつだって尊大を崩さない彼女が、しかし、ここまで控えめな反応を見せるのだから、相当の難敵なのだろうと彼もまた理解がいった。何より昨晩のこと、腹部に受けた痛みは記憶に新しい。

 彼にしても叶うことなら二度と御免だった。

「君がどのような目的を持っているのかは知らないが、僕は滅ぼすと決めた」

「滅ぼすとか、格好つけてんじゃねーよっ! キモいんだよっ!」

「……ああ、殺すと決めた。そう決めた」

 喧嘩は避けられそうになかった。

「ちくしょうっ! くそっ、くそっ、くそぉっ!」

 ひー、ふー、みー、残された時間を改めて数えて、山田が吠える。

 残り六十八日。

 最後一週間をベッドの上に眠るなら、残すところ二ヶ月を切る。

 躊躇する余裕など、皆無だった。

「邪魔するなら、ぶ、ぶっとばしてでも、俺は行くっ! 行くぞぉおおお!」

「ああ、来るといいよ」

「うぉおおおおおおおおおおおおっ!」

「おいこらっ! 待てっ!」

 山田が駆ける。

 これを止めんと魔王ロリータが腕を伸ばすも、指先は空を切る。

 次の瞬間、彼の拳は王様の顔を捉えていた。

「っ!? 昨日より早いっ!」

「うぉおらああああっ!」

 堅く握られた拳骨が、ブサメンの鼻面を強かに打ち付けた。

 山田を侮った結果か、或いは純粋に圧倒されたのか。その肉体は大きく身を浮かせて、背後へ勢い良く吹き飛んだ。十数メートルに渡り、空を流れてのこと。一撃に決したと考えてもおかしくはない光景だった。

 しかし、決して相手は圧倒されていなかった。

 空中に姿勢を改めて、両の足からアスファルトの上へと着地する。

 まるで高所より放り投げた猫が、地上へ見事に着地するよう。

 トンと軽い音が響いた。

 殴られた顔も多少ばかり赤みがかっている程度。過去、人一人の頭部を破裂させた一発である。いや、今回はその時にも増して力を込めた一撃か。相当に頑丈な身体の作りが窺える。

「……なるほど、確かに舐めては掛かれないね」

「だからカッコつけてんじゃねーよっ! マジでムカつくんだよ!」

「次はこっちから行くっ!」

「人の話を聞けよっ!」

 受け身から間もなく、今度は王様の側から山田に向けて迫る。

 腰を落とし足早に迫る姿は、まるでアニメや時代劇に眺める忍者のよう。

 そんな姿勢で真顔のブサメンが迫る。

 気持ちが悪いと思った次の瞬間には、目前にその姿があった。

「うぉおっ!?」

 右腕が伸びていた。

 拳が頬を狙っていた。

「一撃だっ」

「くっそぉおおっ!」

 その勢いは山田の反射速度を遥かに超えていた。

 伊達に生まれて一度として喧嘩をしていない。いつも一方に殴られるばかりであった虐められッ子だ。他方、相手にしては随分と喧嘩慣れして思える動き。それなりの経験が窺われる一撃だった。

 しかし、王様のパンチが決まろうとした瞬間のこと。

「馬鹿っ、避けろっ!」

 不意に山田の身体が右から左へ大きく吹っ飛んだ。

 王様のパンチは当たっていない。

 彼の後方より走り来ていた魔王ロリータが、その身体を蹴飛ばしたのだった。

 都合、彼の肉体は驚異を避けるよう脇へと逃れる。

 同時に王様のパンチは、魔王の頭上を過ぎて獲物を失う。

「このっ……」

 彼女は拳を打ち抜いた相手の腹部目掛けて、力一杯に腕を振るう。

 ズドン、低い音と共に、再び王様の身体が後方へと移動した。

 しかしながら、今度は二、三メートルばかり、身体が滑った限り。どうやら、山田のパンチと魔王ロリータのパンチとでは、威力に違いがあるらしい。

 この事実が甚く不快であるよう、少女は忌々しげに吠える。

「ちっ、面倒なヤツだ……」

「君も同じ王を冠する職に就く存在だ。ある程度は理解できるだろう?」

「黙れよ。この身体では分かるものも分からん」

「ああ、君を封じてくれた占い師には感謝しないといけない」

「貴様が指図したのか?」

「いいや、あくまでもあれば偶然だよ。僕は依頼などしていない」

「ふん、どうだかな。調理人など呼びおってからに」

「それも僕は知らない。恐らくは僕の仲間が依頼したのだろう。魔王が弱っていると知って、機転を利かせてくれたということだな。君とは違って、僕には頼りになる仲間が沢山いるのだから」

「なんだよ、言い訳ばかりだな」

「言い訳? 違うね。自慢さ」

 睨み合う魔王ロリータと王様。

 共に油断ならない様子で向き合っている。

「随分と遠回りをしたけれど、今日で積年の恨みも解決だ。僕がこんな調子だから、仲間達も色々と気を回してくれてね。これ以上、彼らに面倒を掛ける訳にはいかない。僕は王なのだから」

「何が王だ。私には下らないしがらみに縛られた愚か者にしか見えないな」

「……まあ、そう思われても仕方が無いとは、僕も思っているよ」

「全ては過ぎた力が所以か」

「仲間を守る為の、大切な力さ」

「力が無ければ、仲間など生まれなかったのではないか?」

「あぁ、間違いないね。けれど、既に僕には仲間がいる。守るべき存在が、この両手に収まらないくらい、沢山、沢山いるんだ。まさか、この後に及んで後ろを振り返ることなど、できないっ」

「はっ、難儀な男だ」

「しかし、それも君を打倒すれば、全てが終わる。僕が終わらせる」

 浅からぬ確執を見せる魔王ロリータと王様だった。

 一方で二人の会話を尻目に、蹴飛ばされた山田が我を取り戻す。

 身体を起こして、自らの足に立ち上がる。十分に手加減された上での蹴りであったらしい。持ち前の異様な自然治癒も手伝い、特にどこが痛むこともなかった。とは言え、不満不平は蓄積して止まない。

「くっそっ、なんだよアイツ、不細工の癖に喧嘩するとかリア充かよ……」

 眺める先、彼の前には数メートルの距離で向かい合う魔王ロリータと王様の姿。

 何やら言葉を交わして思える。

「時間がないんだよ。くそっ、くそっ……」

 一分一秒が惜しい山田だった。

 時刻は正午を越えようとしている。

 約束の時間から、既に一時間を過ぎていた。

◇ ◆ ◇

 王様と喧嘩を始めた山田達。

 その一部始終を遠く、建物の屋上より眺める者の姿があった。手には双眼鏡。コンクリートの足下に身を転がせて、数百メートル先の様子を、真剣な表情に見つめている。

「あの馬鹿っ、王を相手に喧嘩売りやがった……」

 勇者イケメンだった。

 昨晩から飽きもせず延々と、一人で同所を張っていたらしい。

 双眼鏡の先では、今まさに喧嘩を始めた山田達の姿がある。

 彼は一連の様子を苦々しげに、憤りと焦りの表情で眺めていた。

 その姿は全身黒一色。整った顔立ちと相まって、まるでビジュアル系のバンドメンバーを思わせる出で立ち。南中高度を迎えたばかりの太陽からは、さんさんと降り注ぐ陽光。光を吸収した黒は肉体へ容赦なく熱を伝える。額にはびっしりと汗が浮かんでいた。

「……糞っ、この状況じゃあ手出しができねぇ」

 双眼鏡は執拗に魔王ロリータの動向を追っていた。

 山田が彼女に蹴り飛ばされて、以後、王と少女とが軽口と共に向き合う状況。

 一触即発の光景を目の当たりとして、彼の顔には多分に焦りが浮かんでいた。

「かと言って、このままじゃあ魔王もアイツに殺される……」

 どうやら、彼の目的は魔王ロリータにあるらしかった。

 双眼鏡越しに映るのは、真正面から向き合う二人の姿。

 脇へ吹っ飛んでいった山田には目もくれない。

「これだから低学歴は嫌なんだよ。人の足を引っ張ってばかりだっ」

 彼の見つめる先、王様の拳が振り上げられる。

 咄嗟に地を蹴って、魔王ロリータは身を後方へと飛ばす。

 けれど、それよりも早く一歩を踏み込んだ王様の一撃は、彼女の腹部を的確に捉えていた。みぞおちの辺りへ堅く握られた拳骨がめり込む。ズズン、人体を殴り付けたにしては過ぎた音が、彼の下へまで大きく響いた。

 同時に二人の周囲、足下を覆うアスファルトがクレーター状にめり込みひび割れる。まるでサイエンスフィクション。コンピュータグラフィックに作られた映画でも眺めているような光景が生まれた。

「…………」

 これを受けては、彼も言葉が出なかった。

 ただ延々と、双眼鏡越しに様子を見つめる他になかった。

◇ ◆ ◇

 ズドン、大きな音と共に魔王ロリータの身体が吹っ飛ぶ。

 王様パンチが彼女の腹部を捉えていた。

「お、おいっ!」

 その光景を目の当たりとして、流石の山田も瞳を見開いた。

 まるで巨大な大砲の弾にでも撃たれたようだろう。

 身体を宙に浮かせたまま、吹っ飛んでいった先には建物。ズズンと更に大きな崩壊音が響いた。その小さな身体は、コンクリートの壁を砕き、屋内へと消えていった。

 砕かれたのは六階建ての建物の一階部分。ガラガラと、構造物の破片が落ちては大きな音を立てる。ぽっかりと口を開いたのは数メートルばかりの穴。

 少なからず土埃の立ち上がる光景からは、少女の無事な姿が想像できない山田だった。人間の肉体が見せる反応にしては、あまりにも奇天烈な出来事である。

「あのブサメンっ、いきなり何してくれるんだよっ!」

 魔王ロリータに蹴られた怪我は軽微だった。即座に治癒される。

 彼は大慌てに立ち上がった。

「俺の声優だぞっ!? 傷物にしてみろっ、絶対にゆるさねぇっ!」

 呟いて魔王ロリータの下に向かい駆け出す。

 距離にして十数メートル。

 学生時代には五十メートルを万年九秒台であった彼が、しかし、数秒と掛からずに到着だった。建物の崩壊も恐れず、穴の中から内部へ足を踏み入れる。

 幸か不幸か、建物はテナントの抜けて久しい物件であった。外壁を抜けた先、彼を迎え入れたのは、がらんどうの一室。そして、その隅っこの方で、内壁に背を預けては、両足を投げ出すよう座る魔王ロリータの姿。

「お、おいっ! 大丈夫かよっ!?」

「……これが大丈夫に見えるか?」

「ぅおっ……は、腹が……」

「くそったれ。治癒が間に合わん……」

「ど、どうすんだよっ! っていうか、痛くねぇのかよっ?!」

 魔王ロリータの腹部は破れていた。

 ドクドクと血液を流れ出して止まない。

 腸やら胃やら、内蔵もちょびれている。

「ぴーちくぱーちくうるさいやつだなっ、これくらい屁でも無いわっ!」

「嘘つくなよっ!」

 彼女の下にしゃがみ込み、穴の空いてしまった腹へと指を伸ばす。

 人差し指と中指の先が傷口へと触れた。破れた衣服の先、肌を越えて肉を断ち、骨を折って内蔵にまで達する深い傷。その抉れた肉の穴の縁である。

「っ!?」

 ビクリ、魔王ロリータの身体が震えた。

 僅か触れただけで、二本の指の第二関節までが血液にべったり濡れる。

「ほらみろっ! やっぱり痛いんじゃんか!」

「い、いきなり触るなアホっ!」

 相当に痛かったのだろう。強がり娘は全力に吠える。

「だってお前、痛くないって言ったじゃんかよ」

「こ、このウンコ野郎はっ……」

 少女の額には青筋が浮かび上がっていた。

「お前の身体は俺のもんなんだから、勝手に怪我とかしてんじゃねぇよ! 声優ができなくなったら、どーしてくれんだよっ! 絶対に許さないからなっ!?」

「誰がお前のものだっ!」

「お前って言ってるだろっ!? 本当に人の話を聞かない奴だな!」

「それはお前だっ!」

 こんな時でも自然と口喧嘩に発展してしまう阿呆二名だった。

 ただ、平素ならば延々と続いただろうそれも、今回にしては早々に打ち切り。山田に続いて王様もまた、外壁に空いた穴から、建物の内側へとやって来た。

 革靴のカツンカツンとピータイルを叩く音が響く。

「さぁ、決着をつけよう。魔王」

 有無を言わさぬ力強い声が響く。

 自然と二人は会話を中断。意識を王様の側へと向ける。

「なんて苛立たしい。こんな情けない無様を晒すなど」

「は? お前なに諦めてんだよ? 死ぬなら声優やってからにしろよ」

「……お前というやつは、最後の最後までうるさい奴だな……」

 ギリリ、魔王ロリータが歯を噛む音が響く。

「そも、誰が諦めたと言った?」

「お前だよ、お前」

「ふん……下らない冗談だ」

 自らの膝に手を突いて、ゆっくりと身体を起こす。

 途中、傷口が開きを大きくしたのか、プシっ、軽快な音と共に腹部から血液が飛び散った。もちろん、少しずつ治癒は進んでいる。しかし、これまでの彼女の瞬間的な完治を思えば、非常に緩慢なものだった。他に支えなく二本の足で立ち上がるには、十数秒を要した。

 これを王様は平然とした態度に眺める。

「占い師の封印は大したものだ。君がここまで弱体化しているとは」

「少しは遠慮しろよ。寄って集って人のことを追い詰めやがってからにっ……」

「魔王という肩書きが果たしてどのようなものかは知れないが、それ相応の経験を積んだからこそのだろう。これもまた因果応報だと思うがいいさ」

「なにを偉そうに。騎士団の王が良く言うわ」

「君ほどの魔王を前にしては全てが霞む。もちろん、全てが仲間の為であるとしても、その行いの全てを否定するつもりはないがね。僕は僕の仲間の為なら、なんでもする覚悟がある」

「そういう奴が一番に迷惑なんだよ」

「だろうね。しかし、本人は全く気にしないよ。僕は僕の周囲が幸せであれば、他がどうなっていようと構わない。そういう意味では君よりも性質が悪いかもしれないね」

「私に自慢するようでは、いよいよ危ないな?」

「ああ、かもしれないね」

 互いに向き合ったまま言葉を交わす魔王ロリータと王様。そして、前者が必至に時間を稼ぐ間、なんとかして状況を打開線と頭を悩ませるのが山田だろうか。

 けれど、決してお利口とは言えない彼の脳味噌は、幾ら悩んだところで、良い案など一つとして導けない。絶体絶命のピンチを前に焦りばかりが増す。

 どうしよう、どうしよう、どうにかするしかない。

 この後に及んで迷ってはいられない山田だ。

 小心者は止めたのだ。

 臆病者は止めたのだ。

 今は残された時間を自らが思うように、全力で生きるのみである。そして、彼が目指す先は一つしかない。本日に設けられたアニメの収録。マイクに向かい、自らの声を叫ぶことが、彼が今を生きる意味。

 ならば何に躊躇することがあろうか。

 生きてスタジオへ到着すれば、それで勝ちなのだ。

「う、うぉおおおおおおおおおっ!」

 唐突にもうなり声を上げる山田。

 かと思えば、傍らに立つ魔王ロリータを脇に抱え上げる。

「お、おいこらっ! いきなりなんの真似だっ!?」

 急に身体へ触れられて、地面から足の離れる感覚に驚きから彼女は吼える。

「スタジオだっ! 収録なんだっ! ギターでバンドでライブで乱交なんだよ!」

「どうしてお前は毎度毎度、私を抱えるんだよっ! ついに狂ったかっ!?」

 大声を挙げては両手両足をばたつかせる少女だった。

 しかし、これに構わず、山田は駆け出す。

 腹やら脇やらをバシバシと叩かれるが、全く気にした様子も無い。まるで米俵でも抱えるように左腕でガッチリと。そして、右腕は正面に真っ直ぐ伸びて、ピンと張った人差し指の先に王様を捉える。

「だ、誰にも邪魔させるかよっ! この人生は、最高の俺の人生だっ!」

「だったら何だと言うんだい」

「俺の人生に俺以外のブサメンは要らねぇっ!」

 正面には王様が仁王立つ。

 これに踵を返して、山田は傍らの壁へ向かい全力に駆けた。

「逃げるのかいっ!」

「うるせーっ! そんなに喧嘩が好きならひとりでやってろっ!」

 床を蹴りつけ脇へ向けて跳躍。

 次いで、ヤクザキックにコンクリートの壁を粉砕。

 一瞬にして屋外へ飛び出した。

「待てっ、逃がさないっ!」

 これを王様は急ぎ足で追い掛ける。

 建物の壁に空いたのは直径二メートルばかりの穴。ここから三人は飛び出して、再び太陽の下に身を踊らせる。薄暗い屋内から一変、まばゆい陽光が燦々と注いでいる。外へ出ては一瞬のこと、そのまばゆさに目を細める。

「くそっ、スタジオはどっちだよっ!」

 右を見て左を見て、ひとまず右へ走り出す山田。

 先程まで居た大通りの側とは反対へ向けてだった。

「だからおいっ! 離せっ! 腹が痛いんだよっ!」

「さっきは痛くないって言ってただろっ!」

「ぅぐっ……い、いいから離せよっ! 関係ないだろっ!」

「怪我人は大人しくしてろよっ! 最後の元気は声優で使え! そしたら死ね!」

「なんでお前に死に際まで決められなきゃならないんだよ! お前こそ死ね!」

 多少の口喧嘩と共に、数十メートルばかりを駆ける。

 ビルとビルの合間を抜けて、片側二車線の県道へ。

 先程までいた道路とは異なり、こちらは交通規制も敷かれていなかった。あっちへこっちへ自動車が走っている。人気も相応。多くはスーツ姿のサラリーマンか。一帯はオフィス街だった。

 おかげで大怪我をした少女を担ぐ山田の姿は殊更に目立った。

 周囲からは瞬く間、視線が集められる。全身を血まみれに、ハァハァと息も荒く走る姿は変質者以外の何者でもない。加えて、大仰にも暴れる歳半端な児童を抱えていれば、誰が見ても立派な人攫いだ。

 けれど、これに構わず、彼は先を急ぐ。約束の場所へ急ぐ。

 このまま一直線に、スタジオを目指す予定だった。

 スタジオにさえ到着してしまえば、というのが彼の脳みその中の全て。

 後のことは何も考えていない。

 しかし、そう簡単に物事は進まない。

 多少ばかりを駆けたところで、彼の行く手を阻む者があった。

「ここは通しません」

 恐らくは延々と外野で張っていたのだろう。

 サイだった。

 今まで姿を現さなかったのは、王様に止められていたに違いない。

「またお前かよっ!」

「王の悲願、決して逃す訳にはいきません」

「くそっ……」

 周囲を行き交う通行人にしては、なんだ、どうした、突如として問答を始めた両者を眺めて歩みを止める。ドラマの撮影か何かかと、カメラを探す者の姿も多数。

 山田が脇に血まみれの子供を担いでいたり、対するサイがイケメンスーツの外国人であったり、そうした点で第三者の正常な判断を奪って思える。

「サイ、僕は控えていて欲しいとお願いした筈だけれど」

「申し訳ありません。しかし、王の悲願は我らが悲願。まさか逃す訳には」

「まったく、君は相変わらずだね」

 ならば早々のこと、後方から王様が二人へ追いつく。

「ご無礼をお許し下さい。いえ、許されずとも、どうかお手伝いをさせて下さい」

「そんなことだから、ケリーやボブにホモだなんだと言われるんだよ」

「私は王に敬愛を抱いております。その感情は確かです」

「……そ、そうかい」

 応じる王様は頬を引き攣らせてのこと。

 答えるサイにしては、本心からの発言なのだろう、極めて真面目な顔に自らの君主を見つめている。ホモの誹りを受けても何ら淀んだ様子が無い。

 一方、サイによる足止めを受けて、後方から迫る王様に追いつかれてしまったのが山田である。主従が妙なやり取りを交わす傍ら、どうしたものかと、今後の進退に頭を悩ませる。

 前と後ろから、それぞれサイと王様に挟まれる形だ。

「畜生っ、どうすりゃいいんだよっ、どうすりゃ俺はっ……」

 前を見て、後ろを見て、必死に思考を巡らせる。

 どうすればこの場を脱することができるか。スタジオへ向かえるか。

 考えに考え抜いた末、その脳裏に思い浮かぶ答えは一つ。

 とても簡単な理屈。王とサイ、弱いのはサイだ。

「お前らっ! お、俺の前に出てきたこと後悔すんなよっ!」

 まるで三下のやられ役を思わせる安い台詞。

 口汚く唾を飛ばしながら、周囲の視線も気にせず言い放つ。

 そして、言うが早いか彼は前方に向かい駆け出す。

 勿論、左の脇には魔王ロリータを抱えたままである。

「王の下に就く者として、この場は絶対に引けません」

「お前だって、どうせそのイケメン面(づら)で周囲に優越感感じちゃったりしてるんだろっ!? 王だなんだ偉そうなこと言っておいて、ブサメンに傅くイケメンの俺カッコイイとか、悦に浸ってるだけのナルシスト野郎なんだろっ!」

「だ、誰がそのようなことっ!」

「だったらお前も整形してブサメンになりやがれっ! それが本当の敬愛ってやつだ! それが嫌なら、うぉおおおおおお、俺が今この場でお前の顔とか、ぐちゃぐちゃのめちゃめちゃにしてやんよっ!」

 山田の拳がサイの顔を捉えた。

 端正な顔立ち、そのど真ん中、鼻の頭を潰すように一撃を叩き込む。

 カウンターを狙うスーツ男は、けれど、願い叶わず身体を飛ばした。

「サイっ!」

 その間、彼の後方からは王様が迫る。

 山田がそうしたように、彼もまた腕を振り上げてのこと。

「これ以上、僕の仲間を傷つけることは許さないっ!」

 硬く握られた拳が、サイを殴りつけた彼の後頭部を狙う。

「この馬鹿っ!」

 これに気付いた魔王ロリータが、大慌てに両腕を振るう。

 もちろん、山田に抱えられた姿勢のまま。

 頭を後ろにしているからこそ、反応できた。

 自らの両手を、山田の頭部を目掛けて迫る王様の拳に重ねる形か。

 都合、両者は一点において接する。

 バチンと大きな音が響いて、彼女は当然、その身体を抱える山田を巻き込んで、大きな爆発が発生した。二人はこれに巻き込まれる形で、今に殴り飛ばされたサイと同じく、アスファルトの上を転がる羽目となる。

「なっ、なんだぁあああああああ!?」

「くぅっ……」

 山田と魔王ロリータ、揃って苦悶の声を挙げる。

 二人一緒に吹っ飛んで行く。

「或いは、この程度で殺してしまってはつまらないと呟いて、この場を去る者も居るだろう。けれど、そんなものは人の手に作られたアニメや漫画の世界の空想。僕はそこまで適当ではないからね」

 呟いて、王様が次の手を構える。

「悪いけれど、今この瞬間に、絶対の終止符を打たせて貰うとしよう」

 吹き飛ばされた山田や魔王ロリータは、十数メートルに渡り歩道を移動する羽目となる。幸いにして車の流れと平行して移動した為、車道にはみ出ることはなかった。

 周囲では被害が拡大の一途を辿るにつれて、野次馬達が避難を始めている。

「これで終わりだ」

 王様は続けざま、自らの右腕を二人へ向けて掲げる。

 地べたを転がり、目を回している二人に対して、トドメの一撃に挑む。

 手の平が向かう先を法線として、大きな魔方陣が浮かび上がる。まるでロールプレイングゲームに眺めるそれだ。複雑怪奇な文字やら記号やらに彩られた、直径三メートルばかりの幾何学図形。

 そして、その中央から打ち出された光の帯。

 まるで宇宙映画に眺めるビームやレーザーのような何か。

 一撃は容赦なく山田と魔王ロリータを打ち抜いた。

 二人は悲鳴を上げる間もなく、光の只中に焼かれることとなった。キィンと甲高い音が響いたかと思えば、次の瞬間、彼と彼女を中心として爆発である。発射から着弾までは、瞬き一つする間もなかった。

 道路のアスファルトを砕いて、ズズン、大きな地響きが周囲に響く。

 破片があちらこちらへと飛び散って、少なからず周りへも影響を与える。ちらばるアスファルトやコンクリートの破片が、車道にまで至り、数台の自動車が急ブレーキに動きを止める。数台ばかり、ガツンガツン、玉突きに衝突が発生した。

 他にも山田達のやり取りを遠巻きに眺めていた野次馬の数名が、同様に飛んできた色々に身体を打たれて、その場に倒れることなる。一番の重傷は人間大のコンクリート片に全身を潰された中年女性か。

 一連の出来事を受けて、周囲からは数多の悲鳴が上がった。

 キャーだのウワァーだの、賑やかなものとなる。

 その様子を脇目に眺めて、少なからず表情を厳しいものとする王様。彼は大慌てに歩みを進めて、道路脇に倒れたサイの下まで駆け寄った。意識してのことだろう。彼の下にだけは何ら被害も及んでいない。

「サイッ! 大丈夫かいっ!?」

 地面へ仰向けに倒れたイケメン。

 その身体を抱き起こすようにして、王様は声を荒げる。

「はい、すみません。またも王の足を引っ張ることになってしまいました」

「いいや、君のおかげで追い詰めることができた。ありがとう」

「……勿体ないお言葉です」

 誰もが振り返る爽やか系イケメンフェイスは、しかし、見事に拉げていた。形の良い縦長の鼻は折れて、シミ一つ無いスラリとした頬は大きく凹み、右の目元には大きな青痣を作っている。

 ただ、王様の言葉に応じる彼は、痛みを感じている素振りすら見せない。大した従者っぷりであった。箪笥に小指をぶつけた程度で、痛い痛い、大騒ぎする山田とは心の強さがまるで違う。

「すぐに仲間が来る。そのまま下がるといい。後は僕の仕事だ」

「王の戦いを最後まで見たいのですが、構いませんでしょうか?」

「……まあ、本人が大丈夫だと言うなら無理強いはしないけどね」

「ありがとうございます。感謝です」

 ニッコリ、何故か穏やかな笑みを浮かべるサイだった。

 王様は苦笑いを返して、彼の身体を再びアスファルトの上に横たえる。

 そして、三度(みたび)、山田と魔王ロリータへ向き直った。

 視線の先では、爆発により生まれた土埃も晴れて、二人の姿が明らかとなった。

 魔王ロリータは腹部の大穴に加えて、体中あちらこちらに火傷を負っていた。特に両足の膝から下は酷い有様だ。こんがりと焼けて、先へ向かう毎に炭化。足首から先に至っては完全に消失。まるで燃え尽きたマッチ棒。

 そして、山田はと言えば、彼女にも増して酷いことになっていた。

「お、お前っ……」

「うぉおお……な、なんだよこれ……」

 彼が彼女を庇う形となり、今の一撃に晒されたようだった。

 おかげで身体の背面、後ろ半分が完全に焼き付いていた。少女の膝から下に受けた火傷が、彼では背中の全面に対してのこと。具合も比較しては殊更に強烈。フライパンに置いて強火に焼いたように、真っ黒に焦げ付いている。

 当然、服も前半分を残して、後ろ半分は完全に消失。当然、ベルトの支えを失ったズボンは、はらり、はだけて地面に落ちる。シャツもまた同様。おかげで数秒の間に素っ裸となった。

「せ、背中がすげぇ突っ張るっ……どうなったんだよおいっ……」

 恐らくは火傷の程度が酷い為、麻痺が生じているのだろう。

 怪我の痛みを感じている様子が無い。

 頭髪は完全に縮れて、一部、頭蓋骨に浅く穴の空いて、脳内組織がちょびれていた。

 かなりグロテスだ。まるで映画やゲームに眺めるゾンビのよう。

「な、なんで私を庇うんだよっ!」

「お前がいなくなったら、せ、声優が困るだろうがっ!」

「なんだよそれはっ!」

「っていうか、う、うまく身体がうごかねぇぞっ、くそっ! どうなってんだよ!」

「馬鹿っ! 動くな阿呆がっ!」

 これを目の当たりとしては、魔王ロリータも少なからず動じて思える。

「治癒へ力をまわせっ! でなければ死ぬぞっ!」

「んなこと言ったって、やり方とか分かんねぇよっ! どーやんだよ!」

「それぐらい知っとけっ!」

「うぉおあっ!? なんだこれ! 腕がっ、腕がめっちゃ焦げてるじゃんかよっ! あ、足もかっ!? っていうか、これ、背中とかどうなってんだよっ!? おいっ! 俺ってばどうなっちゃったんだよっ!?」

「だから治癒へ力をまわせっ!」

「うぉぉおお、ってやればいいのかっ!? うぉおおおおおおおおおおっ!」

「叫ぶなっ! 暴れるなっ! なにをやってるんだよお前はっ!」

「お前がやれって言ったんじゃねーかよっ!」

「んなこと言ってないっ!」

 全身を焦げ付かせて、過去に無い衝撃を受けている山田だった。完全に思考は混乱して、魔王ロリータの言葉も右から左へ流れる限り。うぉおおおお、ひたすらに咆吼を上げる阿呆だった。

 この光景を眺めて、王様にしては苦虫を噛み潰したようにぽつり呟く。

「周囲を気にして、力を絞りすぎたようだ……」

 とても見苦しい光景だった。

「すぐにトドメをさしてあげるよ」

 再び、その右腕が二人へ向けて掲げられる。

 ピンと広げられた五本の指。手の平へ添う形で平行に浮かび上がるのは、今し方に生まれたものと同様、光輝く巨大な幾何学図形。ビームもどきのおかわりだった。

「お、おいっ! またなんか来るんじゃねぇのかっ!?」

「くそっ、逃げるぞっ! さっさと私の腕に掴まれっ!」

「足が無い癖に、どうやって逃げるんだよっ!」

「そんなの根性だよっ! 早くしろっ!」

「根性でどうにかなるかよっ!」

「さっきお前も、うぉおおおおお、とかやってただろがっ!」

「あんなの根性じゃねぇっ!」

 頭に銃口を突きつけられたような状況。

 すると、慌てる山田の足下に、チャリン、乾いた音が響いた。ビームもどきの影響を受けてだろう。尻の皮に焼き付いていた何某かが、剥がれて路上へ落ちたようだった。自然と二人の視線もそちらへ向かう。

 それはカギだった。

 つい先日のこと、占い師により届けられた、ごく普通の形をしたカギ。

「あ……」

「あの阿呆が寄越したカギかっ……」

 ひびが入り、砕け、めくり上がった一帯のアスファルト。その上に転がるカギは、キラリ、陽光に照らされて鋭く金属光沢を見せる。脇見をすれば、地面の凸凹の合間に見失ってしまいそう。けれど、今この瞬間だけは、二人の意識を奪っていた。

 だからだろうか、ふと、山田の脳裏に思い出された占い師の言葉。

『お主が大切だと思う者がピンチのとき、その尻穴に突っ込んでやれ』

 正直、利用のシーンを考えたくないすっ飛んだ取扱説明。

 けれど、今にしては藁にも縋る思いの彼である。

 そして、彼はもう他に失うものなど何も無かった。

 たった一つの、最欲の願いを叶える為に、躊躇は無かった。

「う、うぉおおおおおおおおおおおおっ!」

 足下に落ちたカギを拾い上げる。

「お、おい、何のつもりだっ!? 根性は要らないから、早く腕に掴まれっ!」

「俺はっ……俺はぁっ!」

 指先につまみ上げたカギ。

 これはなんと丁度良い。

 ターゲットはビームもどきに衣服を焼かれて、見事に露出している。

「どすこぉおおおおおおおおおおおおおいっ!」」

 山田はカギを自ら尻穴へ突っ込んだ。

「おぃぃいいっ! お前は何をやってるんだよっ!?」

「うっせっ! 素人は黙ってろっ!」

「なんのだよっ!」

「アナルだよっ!」

 直腸が傷つくことも厭わない。力任せに突っ込んだ。突き刺した。

 更に人差し指を使い、更に奥へと押し込んだ。

 魔王ロリータの文句も何のその。

「うおっ!? きたきたきたきた、なんか身体の中が熱いぞぉっ!」

 カギを直腸内に収めた瞬間、山田は体内に熱いものを感じ始める。それは下腹部に発して、身体の内を巡り、胴体から先、手先や足先、更には脳天に至るまで、正体不明の熱気を伝え始める。

 やけくそ気味に吠える山田。

 心なしか身体が光輝いて思える。

 その姿を目の当たりとして、途端、魔王ロリータの顔色が変わる。

「こ、この力はっ……」

 大きく瞳を見開いて、半裸のまま尻穴に指を突っ込む変態野郎を凝視。

「お、おぉ……怪我が治ってくぞおいっ! このカギってばスゲェ!」

 彼女見つめる先、山田の身体に変化が起こる。

 全身に負った火傷が、見る見るうちに癒え始めたのである。

 今し方までは一向に治る気配のなかったそれが、文字通り瞬く間に治ってゆく。焦げ上がった皮膚は元の柔らかさを取り戻し、色をしろくして、遂には元来から在る肌の色へ還る。傍目に眺める光景は、ここ数日に渡り経験してきたそれに他ならない。

「なるほど、どおりで占い師が自ら取り戻しに来た訳だね」

 山田の肉体が完全に癒えたのを確認して、王様がぽつり呟く。

「自らの手の内に魔王の封印があったなんて、まるで気付かなかったよ」

 右腕を構えたまま、油断ならない表情で山田を見つめていた。

 どうやら彼の変態的行為が、少なからず状況を変えた様子だ。

 他方、尻穴男の隣では、魔王ロリータがキャンキャンと喧しく吠える。

「おい、お前っ! それをどこで手に入れたっ!? 言えっ!」

「占い師って言っただろ? っていうか、マジスゲェ、治っちまったっ!」

「よ、寄越せっ! それは私のだっ! 返せよっ!」

「は? 俺が貰ったんだよっ! 俺のに決まってるじゃんか!」

「元は私のだっ! お前のじゃないっ! いいから返せよっ!」

「とりあえず、これで逃げられるぞっ! っしゃぁっ!」

「あっ、おいっ!」

 勢いを取り戻した山田は、大慌てで魔王ロリータを持ち上げる。

 先程までと同じく、片腕に左脇へ抱えてのこと。

 スーパーマーケットに米袋でも抱えるようだろう。

「おいこらっ! だからどうして、お前はいちいち私を抱えるんだよっ!」

「うっせっ! んだことより収録だよ! こんな場所で時間喰ってられるか!」

「それよりも力を返せっ! 力さえあれば、あのような雑魚などっ……」

「うっせっ、行くぞっ!? 喋ってると舌噛むぞっ!」

「人の力を借りて偉そうにするなっ! 大人しく私にかぎゃえぅっ!」

 フルチン野郎は誰の言葉も聞く耳を持たない。魔王ロリータが舌を噛んだ。

 即座、場より逃げるべく足を動かす山田だった。

 王様と喧嘩をするという選択肢は彼になかった。

 ならば、一歩を踏み出したところで、チャリン、再び音が響く。

 彼は数歩ばかりを勢いのまま移動したところで、これに後ろを振り返る。

「あ……」

「ば、馬鹿っ! 尻からカギが落ちてるじゃないかっ!」

 二人が見つめる先、地面に落ちているカギ。

 遠目にもキラキラ、金属光沢。

 同時、山田の身体を包んでいた淡い発光現象が失われる。

 目に見えて勢いを取り落とした感があった。

 地を駆ける足取りも幾らか衰えてのこと。

「マジかよっ!」

「この阿呆っ! ちゃんと尻に力を入れておけよっ!」

 加速の付いた身体は、彼の想いとは裏腹、一息に十数メートルを移動する。おかげで地面に落ちたカギから遠ざかる。都合、カギと彼との距離は、カギと王様との距離にも増して、大きく開いてしまった。

 咄嗟に踵を返しては、カギの下へと駆け寄らんとする山田。

 けれど、全てにおいて王様の方が早かった。

「なるほど、体内に入れても消化されることはないのかい」

 素早い動作に先んじてカギの元へ駆け寄り、ヒョイとつまみ上げる。

「……しかし、君、尻の穴は良くペーパーで拭った方がいいよ」

 どうやら便が付着していたようだ。

 顔をこれでもかと顰める。

 その光景を目の当たりとして、これ以上ないほどに魔王ロリータが吠えた。

「おいこらどうすんだよっ! なんで落としたんだよっ!」

「んなこと言われたってっ、し、尻穴の都合なんて知らねぇよっ……」

「お前の尻穴だろうがっ! 都合くらい押さえとけっ!」

 山田の身体は治癒後、再び崩れたりはしなかった。

 肉体が癒えたのは幸いだろう。

 しかしながら、これで先程までにも増してピンチとなった二人だ。

 王様が尻穴にカギを入れたら、彼らの勝機は更に失われるだろう。

「あまり気持ちの良い話じゃないけど、これは僕が頂こう。この場は確実に終えたい。怨敵の力となれば、悔しいには悔しいが、使えるものは何でも使おう。例えそれが魔王の力であったとしても」

 嫌々呟いて、けれど、王様がズボンへと手を掛ける。

「なにより旅人である君が使えたのならば、僕であっても問題ない筈だ」

 僅かばかりベルトを緩めて、自らの尻穴へとカギを押し入れるのだった。

 もぞもぞとズボンの下に腕を動かす姿は酷く不格好である。

「お、おいこらっ! 俺のカギに変なことすんじゃねぇよっ!」

「私のカギだよっ! それ以上変なところに入れるなっ! カギが腐るっ!」

「くっ、こ、これはっ……身体が……熱い……」

 カギを尻穴に収めて、即座、王様の表情が恍惚としたものに変化する。

 恐らくは今し方に山田が感じたのと同じ感覚を受けているのだろう。プルプルと小刻みに全身を震わせては、その腕に自らの身体を抱きしめる。ブサメン面と相まっては酷く気持ちが悪い姿格好だろう。

「ちっ、仕方ないが逃げるぞっ! 悔しいがこれ以上の手はないっ!」

「お、おうっ……」

 魔王ロリータに叱咤されて、山田は大慌てに足を動かす。

 彼にしては収録が全て、この場を逃げるにも何ら抵抗はなかった。

 けれど、そう簡単に事は運ばない。

「いいや、逃がさないよ」

 声はカギの熱から自らを取り戻した王様のものだ。

 短く呟いて、その足は二人の元へと一直線に向かった。

 目にも止まらぬ勢いで、山田の駆ける進行方向へ先回りである。

「げっ……」

「クソっ、どっちが化け物か分からないな……」

 想像以上の変化を受けて、魔王ロリータもしかめっ面である。

「たしかにこれだけの力があれば、魔王へと至るにも納得だよ。今まで延々と追い掛けてはいたけれど、正直、ここまでの力を宿していたとは、まるで想定していなかった」

「だったら返せよ。この泥棒が」

 先程にも増して、忌々し気に呟く少女だろう。

「悪いが、それは出来ない相談だね」

「この野郎、ズボン穿いてるからって威張ってんじゃねぇよっ! ずるいじゃんかよっ! カギとか入れるなら、そっちもズボン脱げっ! 尻穴の力で頑張ってた俺が阿呆みたいじゃんかっ!」

 これにそうだそうだと言わんばかり、山田もまた言葉を続けた。

 そんな彼は今現在素っ裸である。

 どうやら本気で怒っているらしいが、まるで決まらない姿格好だ。

「そんなルールは聞いたこと無いね」

「そもそもお前はぜんぜん頑張ってなかっただろうがっ! この尻緩男っ!」

「わ、悪かったなっ! 過敏性大腸炎でっ! すげぇガスが出やすいんだよ!」

「んなこと聞いてないわっ!」

「ぉおおお、もうっ、くそっ、なんだよおいっ! 俺の人生だぞっ!」

 山田にしては、どうにもならず、地団駄を踏む。

 一度は掴みかけた勝利なだけに、酷く悔しそうであった。

「まあ、少しばかり遠回りしてしまったけれど、これで終わりだ」

 再び王様が二人に向けて腕を構えた。

 今度こそは逃がさないと言わんばかり。

 手の平の正面へ、光の筋に描かれる魔方陣が生み出された。

「ちぃっ、またかっ!」

「おい、くっちゃべってないで逃げるぞっ!」

 それでも山田は諦めなかった。

 今一度、魔王ロリータを抱きかかえて駆け出す。

「無駄だよ。これで終わりさ」

 王様へ背を向けて、脱兎の如く逃げ出す負け犬二人。

 今に走って追いつかれたばかりである。

 まさか、逃げ果せることはできなかった。

 未だ大怪我の治らぬ少女にしては、段々と息遣いも荒くなりつつあるところ。おびただしい出血は一向に止まる気配がなく、過去に見せた圧倒的な治癒の勢いも、今は多少ばかり傷口をかさぶたに固める程度か。

「喰らうといい」

 王様の正面に生まれた魔方陣、その中央からビームもどきが放たれた。

 直径一メートルを超える光の帯は、二人の背中を目掛けて一直線に突き進んだ。

「っ!」

 咄嗟、背後を振り返った山田の瞳に、まばゆい輝きが映る。

「なんで俺ばっかり、いっつもっ、いっつもぉっ!」

 どんれだけ頑張っても絶対に逃げられないと感じる、圧倒的な光の瞬き。

 今し方の一発を鑑みれば、まさか身に受けて無事には済まないだろうと、山田にも理解できる。何もせずにいれば、このまま二人一緒に終わりである。

 そうしたほんの短い間の出来事である。

「く、くそぉおおおおおおおおおおおっ!」

 果たして、何を考えたのだろう。

 咄嗟のこと、彼は腕に抱いた魔王ロリータを脇へ向けて放り投げる。

「お、おいっ! なにをっ……」

 都合、少女の身体は光の進む延長線上から逃れて、橫数メートルの位置にゴロンゴロンと転がった。走りながらの投擲、更には予備動作も間々ならない出来事。数日前の入魂一投に比べれば、勢いは弱々しい。

 他方、山田自身はと言えば、彼女を投げた反動に僅かばかり身体が橫へと動いた。とは言え、未だに半身は光の向かう先に晒されたまま。そして、次の瞬間にはジュッと音を立てて、輝きに飲み込まれるのだった。

 僅か一瞬の出来事だった。

「……またも避けたかい」

 一連の光景を目の当たりとして、王様は関心の声を上げる。

「君にとっての魔王という存在が、そこまでのものとは思わなかったよ」

 その視線は山田を追い掛けていた。

 光は数十メートル先までを貫き、建物に命中して激しい爆発を起こした。恐らく、決して少なくない人間が死亡しただろう。けれど、これにも何ら構った様子を見せない。仲間の為なら何でもするというのは決して嘘ではないのだろう。

 光の帯の先へと消えた山田。

 彼の動向を追いかけては、魔王ロリータもまた瞳を見開いて声を上げる。

「お前っ、なんでまた私を庇うんだよっ! なんでっ!」

 声を荒げると共に、大慌てで身を起こす。

 そうこうする間にビームもどきより発した光はちりじりとなり、視界は元在った景色を取り戻す。一撃は大きく歩道のアスファルトを融解させて、深さ一メートルばかり、一筋の溝を延々と先まで伸ばしている。

 その脇に転がるよう、山田の姿はあった。

「う、うぅ……」

 僅かばかり上がった苦悶の声から、未だに命があると判断できる。

 しかしながら、その在り方は酷いものだった。

 顔から股先まで、身体の左半分が完全に消失していた。

 呻き声を上げることすら、不思議に思えるだけの光景である。

「この馬鹿っ! いきなりなにやってんだよ、お前はっ!」

 失われた膝から下の代わり、両手に身を起こして、這うように彼の下まで向かう。以前には悠然と空を飛んでいた彼女だけれど、今はそれだけの余裕も残っていない様子だった。ガキを尻に入れ損ねたので、未だに怪我も癒えていない。

「この阿呆っ、返事をしろっ! い、生きてるんだろっ!?」

「ぅ……ちくしょう……ちくしょう……」

「しっかりしろっ!」

 山田の口から漏れるのば、延々、無様な文句の連なり。

「さっさと一人で逃げれば良かったものをっ、なんでまた……」

「う、うっせっ……」

「うるさくないっ! どうしてだよ!?」

 余程のこと苛立っているのだろう。吠える少女の声は荒い。

「……だったら、お、お前が逃げりゃ、いいじゃんかよ……」

「なんでそうなるんだよっ!」

「前も、そうだった……じゃんかよっ……」

 山田が指摘するのは、彼が初めて彼女に出会った際のこと。

 体中に刺さった包丁を抜いたご褒美に殺されかけた一件であった。

 指摘された側も、相手の言わんとすることは早々に思い至った。

 男女の出会いとしては酷く印象的なものだろう。

「あっ、あれはっ……」

 咄嗟、返す言葉に詰まる魔王ロリータである。

 だがそれも一瞬のこと、早々に言葉を変えては問い掛ける。

「だったら尚更に何の真似だっ! 意味が分からんっ!」

「俺だって、死にたくねぇ……死にたくねぇよ……こんなかっこわるい最後なんて、嫌だ、絶対に嫌だったのに……」

 半分だけ残った顔、その目元からは悔し涙が溢れていた。

 いつだか演じた名も無いアニメキャラクターの台詞が、自然と脳裏に蘇る。

 そのキャラクターと、今現在の自分とを自然と重ね合わせる彼だった。

「でもっ……やっぱり、俺の人生なんて、こんなもんなんだろ……。はじめから決まってたんだろ。なにやったって、うまくいかないし、どうせ収録、行っても、きっと満足なんて、できないだろうし……」

「あ、諦めるなよっ! それでいいのかっ!?」

「だったら、せめてお前が、お前の声が、代わりに、頑張ってくれよ、くそ……」

「声ってお前、まだそんなことを……」

「お前、声だけは、いいからな……」

「お、おいっ!」

 今更ながら、山田がこれまで延々と、収録だ収録だ、騒いでいたことを意識する魔王ロリータだった。かなり良い感じの声を出す彼女からすれば、子供のお遊戯以下、非常に下らないものとして聞こえる山田の声。

 ただ、それが今は彼女の耳に、妙に強く響いて聞こえる。

「なんか、まるで僕が悪者になったような気分だね」

 二人のやり取りを眺めて、十数メートルばかり先、王様が呟いた。

 その肉体は未だにかすり傷一つ負っていない。この場の誰よりも強い証だった。騎士団において、上から二番目に位置するサイと比較しても、圧倒的な差が感じられる。

「……罪悪感でも感じているのか?」

「少なからずは感じているよ。けれど、それにも増して、今は驚きの方が大きいね。まさか、君が他人と馴れ合う姿など、想像もできなかったから。魔王の意外な交友関係だ」

「誰が馴れ合っているものか」

「随分と執着のようじゃないかい」

「……何の話だよ?」

「長らく力を封じられて、情の味を覚えたのかい?」

「…………」

「僕が過去に出会った君が、もしも今の君であったのなら、或いは、こうしてその背を追い掛けることはなかったかもしれないね。まあ、全ては過ぎたことだけどさ」

「ふん、こんな男……別にどうだっていい」

「本当かい?」

「……ただ」

「……ただ?」

「今の私が、酷く苛立っていることは、決して否定できない」

「ならばこれは、僕にとって絶好の機会だと言えるね。昔、僕が感じた辛みの幾らかでも、今この瞬間に君が感じているのだと言えば、こうして延々と追い掛けてきたことにも、意味を見いだせるかもしれない」

「…………」

 山田から離れて、魔王ロリータの視線が王様へと向けられる。

 ギロリ、釣り上がった眼差しは、彼女の怒りが相応である証か。

「とは言え、こんな風に淡々と受け答えができる時点で、既に僕の中の色々は、疲弊して、元の形を失ってしまっているのだろうね。こうして悔しがる君の姿を見ても、何ら感情は動かない」

「……だったら、なんだと言うんだよ」

「彼にトドメを指してみようと思う」

「っ……」

 これで何度目になるだろう。王様の腕が二人に向けて構えられる。

 流石にこれ以上のミラクルは期待の出来ない状況だった。

 七転八転とした山田と魔王ロリータの行く先も、ついに終点が見えてきた。

「こういうのは、どうだろう」

 ヒュンと乾いた音が響いて、手の平から光が発せられる。

 今し方の一撃と比較しては細い、鉛筆程度の太さの筋。

 けれど威力は申し分なく、山田の残る肉体、その脚部を貫いた。

「っ!?」

 ビクン、その身体が衝撃に震えた。

 果たして痛みを感じているのか否か。

 一頻りを喋ったところで、疲弊が過ぎたのか、悲鳴も禄に上がらない。

 生理反応から身体がビクリビクリ、僅かに震えるばかり。

「こ、このっ……」

「君もこうやって、僕の愛すべき人を殺してくれたじゃないかい。まあ、まさかここまで心地の悪いものだとは思わなかったけれどね。正直、僕の趣味じゃない。君が相手でなければ、こんな弱いもの虐めみたいな真似は絶対にしないさ」

 語れば語るほど、王様は顔から表情を失わせていった。

 今に語る言葉は決して嘘でないらしい。

 とは言え、山田をいたぶる手を止めるつもりもないようだ。

 王様の手の平には、いつの間にか控えめに魔方陣である。

「まだだよ」

 再び、ヒュンと乾いた音が響いた。

 今度は右肩が打ち抜かれた。

 やはり、ビクンビクン、震える山田だろうか。

「おっ、おいっ!」

「なに?」

「コイツは関係ないだろうがっ……」

「君に関わった時点で、既に無関係ではないよ」

「っ……」

「もしも今日この場で君を逃せば、いつの日か、今度は全く逆に、君が僕へ復讐を果たす日が来るかもしれないね。それはそれで、興味があるのだけれど、色々と迷惑を被りそうだから遠慮かな」

 今一度、王様の手の平から光が伸びた。

「あっ……」

 応じて、少女の口から小さな呟き。

 光は山田の頭に小さな穴を開けて、ガクリ、身体の震えを大人しくさせた。

「お、おい……」

「これで終わりさ。幾ら旅人だろうと、二つ上に位置する王、更には魔王の力を取り入れた相手からの一撃を治癒することはできないだろう」

 自らに言い聞かせるよう語る王様だった。

 他方、魔王ロリータは山田の姿を眺めたまま、呆然。

 ピクリとも動かなくなった身体を凝視。

「さぁ、これで終わり。そして、次で君も、終わりだ」

 手の平が、今度は彼女の身体へ向けて、構えられた。

 三十センチ程度の小さめの魔方陣。

 その中央に光が集まり、少女に狙いを定める。

「まさか、魔王が他人へ好意を抱く瞬間に出くわすとは、僕もこれで色々と見てきたつもりだけれど、世の中は広いものだね。今まで君が殺してきた幾百万という人間が知れば、どんな顔をするだろうか」

 狙いは彼女の心臓だった。

 既に息も絶え絶えの肉体であるから、撃たれれば一発で終わるだろう。

「魔王へ至る条件こそ知らないけれど、今に君が感じている感情は、それこそ、魔王としての精神の在り方に、大きく影響するだろう。僕の目に映る君の姿は、魔王というにはあまりにも弱々しい」

 幾らか言葉を並べたところで、ふと、王様が言葉を尻すぼみ。

「そう、大きく影響……」

 何かに思い至った様子で、ビクリ、眼に瞳を震わせる。

「……まさか、変わったりするのか? 今この瞬間に……」

 続けざま疑問が漏れた。

 ならば、これに答えたのは他の誰でもない、魔王自身だ。

「あぁ、そうだな。お前の言うとおりだ。とても魔王らしくないよな」

 ジッと山田を見つめたまま、独白するように魔王が言う。

「自分でも理解したよ。私はなにをやっているのだろうと。こんな惨めに地べたを這いずりまわってまで、あぁ、本当に阿呆らしい。力を封じられて情の味を知ったというのも、あながち間違いじゃないのかも知れない」

「精神の在り方が、職が変わる……」

 魔王の肉体が、ふわり、地べたから浮かび上がる。

「自分でも、自分の感情が信じられない。随分と長いこと生きてきたのにな」

 両足を失って尚、幽霊のようにプカプカと宙に昇る。

「まさかっ……」

 王様の目がクワと見開かれる。

 驚愕に身を強張らせる。

「……子供のごっこ遊び? たしかにその通りなのかもしれない」

 周囲からの注目が集まる只中、彼女は天に向けて宣言をする。

 大きく胸を反らし、頭上の太陽を睨み付けて、声高々に吠える。

「辞めだっ、辞めだっ! 魔王など今日で辞めだぁあああああっ!」

 その瞬間、いつだか山田がそうであったよう。

 少女の身体が光に包まれた。

◇ ◆ ◇

 まるで太陽が空から落ちてきたよう。

 周囲一帯が白に覆われた。

 そして、幾らかの後、輝きが収まった後に現れたのは、五体満足、これまでの負傷の一切合切を癒やした、全快の少女だった。衣服こそ腹の辺りに大穴が空いていたり、スウェットのズボンの裾が焦げていたりと、以前に変わりないものの、肉体的には見事に完治していた。

「……確かに、アイツの言うとおりだ。自分の職がまるで分からない」

 彼女は独白するように語る。

「しかし、これは以前にも増して力が漲っている……」

 驚いたように自らの身体を見つめてのこと。

 二、三度、手を握ったり開いたり、身体の調子を確認か。

「なんて都合が良い話もあったもんだ。ははっ、笑えるな……」

 彼女は地面から数メートルの位置に浮いた位置に静止。

 ギロリ、王様を睨み付ける。

「……本当に新しい職を得たのか」

「言っただろう? 魔王は今日で終わりだ。次はもう無くて良い」

 少女の行動は迅速だった。

 多少を呟いたかと思えば、次の瞬間には場所を移していた。

 ブサメンの背後。

「っ!?」

「楽には殺さない」

 次の瞬間、王様の腹から、彼女の腕が生えていた。

 五本の指にはぎゅうと握られた心臓。

「い、いつの間に……」

「なんて汚らしい」

 少女が力を入れると共に、プシャリ、持ち主の前に潰される。血液や千切れた肉の類いが飛び散って、ブサメンの高級シャツを汚くする。

 けれど、王様も決して負けてはいなかった。心臓をえぐり取られて尚も、その一挙一動は何ら衰えない。ニィと口の端を釣り上げて、言葉少なに応じてのこと。

「……だが、今の僕ならば、まだいける」

「っ!?」

 自らの頭越し、両腕で背後へ迫る少女の頭部を掴む。

 かと思えば、ブチン、力任せに捻り引き千切った。

 応じて、大量の血液が噴水のように小さな身体から吹き出す。二人の身体は先程の血肉の飛沫も目立たぬほど、血で真っ赤に染まった。髪も肌も服も全てがデロデロのベチョベチョになる。

 けれど、それでも喧嘩は止まらない。

「このっ」

 首を失って、けれど、残る少女の下半身が動く。

 足の裏で相手の背中を蹴りつける。

 王様の身体は、勢い良く前方へと飛んでいった。

 その間、彼女は首から上を瞬く間、霧に霞んだかと思いきや、元在ったとおり生やしてみせる。これまでの驚異的な治癒能力が、今度は王様を相手としても有効に働いているようであった。

「殺してやる。覚悟しろよ人間」

「あぁ、そう言えば君は元が吸血鬼だったのだねっ……」

「死ねっ!」

 再び、少女が王様へ向けて飛びかかる。

 そこから先は、今に眺めたやり取りに同じく、殴っては殴られて、引き千切っては切り裂かれて、焼いては凍らされて、暴力に暴力を重ねる、止めどない応酬となった。

 周囲には通行人らしき野次馬の群れに紛れて、騎士団の面々もまた幾名も数を連ねて様子を窺う。しかしながら、誰もが手出しを出来ないまま、二人の喧嘩を見つめていた。

 これはサイにしても同様。悔しそうに、けれど、大人しく堪え忍ぶ。

「これほどの力、どんな職を得たのか興味が出てきたよっ!」

「知るかっ! 今はお前を殺せれば、それで十分だっ!」

 飛び交うのは暴力に限らない。

 口喧嘩もまた上々。

 罵詈雑言が行ったり来たり。

「この後に及んで、彼の肉体に気遣っているあたりが、本物だなっ……」

「黙れっ!」

「ぐっ……これはっ……」

 少女の拳が王様の腹を捉える。

 ドスっと低い音を立てて腹部がはじけ飛ぶ。

 どちらかがどちらかを殴れば、血飛沫を散らして、肉が落ちた。けれど、互いにこれを気にした様子はない。守る暇があるならば、その間を惜しむよう、ひたすらに相手を攻め続ける。

 喧嘩の場にはあちらこちらに臓物が飛び散って、酷い状況だった。

 けれど、誰もこれを止められる者は居ない。

 おかげで争いは決着が付くまでを、延々と続けられることとなった。

 時間にして一刻ばかり。

 この間、両者は共に怪我こそ恐ろしい速度で癒やす。だがしかし、体力的には凄まじい勢いで消耗していた。ハァハァと息も荒く、長距離を走り終えたマラソン選手のような姿を晒してのこと。今すぐにでも倒れてしまいそう

「どうしたっ、勢いが衰えて来たぞっ!」

 空を舞う少女が、遥か上空より巨大な火の玉を打ち出した。

 数にして数十。

 一つ一つが数メートルの大きさを伴う驚異だった。

 まるで隕石のように降り注ぐ。

「くぬぅっ……」

 これを地上に立つ王様は、両手を正面に構えて堪える。

 ズドン、ズドドン、地震を思わせる地響きが周囲一帯を震わせる。着弾地点は大きく抉られて幾つものクレーターを重ねる。

 一つ、また一つを受ける都度に、彼の身体は焦げてゆく。

 しかしながら、全ての火球が落ちて尚も、その足が折れることは無かった。

「は、ははっ、これだけの力を持つ職を、僕は初めて見た……」

「奇遇だなっ、私もだよっ!」

「まったく、こんな簡単に職を変えて、振る舞って、生きて、君はなんて自由なんだ。それに比べて僕は、なんて下らないことに悩んでいたのだろう。けれど、その下らないことが、どうしても捨てられないっ……」

 少女を目指して、ふわり、王様の身体が空へと浮かび上がる。

「貴様のことなど知るかっ! 悩みがあるなら死ねっ!」

「たしかに、それも魅力的な提案なのかも知れないっ」

 テレビ局が報道ヘリを飛ばしてもおかしくない、とても派手な喧嘩だった。

 けれど、争いの場には警察官の一人さえやって来ない。恐らくは騎士団の面々が動き回った成果だろう。周囲からは無関係な一般人の気配も捌けて、段々と野次馬も数を減らして行く。

 そして、特別な観衆の只中、勝敗は決する運びとなる。

「いい加減にくたばれっ!」

「っ……」

 少女が渾身の想いを込めて、拳を振るう。

 幾度目になるだろう。

 王様の腹部へ、ズドン、見事に入った。

 まさか痣の一つでは済まず、腹部に大きな穴が空く。また、殴られた肉体は、上から下へ、空に殴られて地上へ落ちる。まるで、火薬に打ち出された弾丸のように、凄まじい勢いで一直線。

 ズズンと低い地響きを立てて、地面に一際大きなクレーターを生んだ。

 拳骨を振り切った彼女は、相手が道路の凹みの底、大人しくなったことを確認する。そして、完全に反応が失われたことを理解して、その脇へと身を下ろした。

 トン、軽い音と共にその身体が地上へ降り立つ。

「まったく、手間を掛けさせてくれる……」

 眺める先、そこには地べたに仰向けで横たわる王様の姿。

「……どうやら、僕の負けのようだ……」

 少女の足下に呻き声が上がった。

 腹部には大きな穴が空いていた。

 そして、その穴はなかなかふさがる気配が無かった。

 腹パン耐性が限界を超えたらしい。

「まさか、あの状況から逆転されるとは思わなかったな……」

 ぽつり、王様は呆れ調子に呟く。

 その妙に軽い調子を受けて、少女は眉を顰めた。

「なんで笑ってんだよ? 苛つく奴だな……」

 ジロリ、少女が王様を睨み付けて言う。

 それも当然のこと、これまでの争いを思えば、随分と拍子抜けな語り草だろう。愛すべき者の仇を討たんとして、逆に怨敵から返り討ちにあったとあれば、毒こそ吐いても、素直に負けを認めるなどおかしな話だ。

「なに、僕も僕で得るものがあったということさ。或いは、無意識のうちに、こうした結果を望んでいたのか」

「どういう意味だ?」

 けれど、王様は淡々と言葉を続けた。

「彼の言葉に同じく、きっとこれが、僕の人生というやつなんだろう。どれだけ恨みたいと願っても、昔あった憤りは戻ってこないし、忘れてしまった悲しみは胸を軋ませない。ただ、ゆっくりとした疲弊だけがあるんだ……」

「……高々数十年を生きた程度に随分と語ってくれるな?」

「君のような人外と比べたら、そうかもしれないね。人間と吸血鬼は精神構造からして、何か大きな違いがあるものかもしれない。今の僕にはそう思えてならないよ」

「下らない。だったら何だと言うんだ」

「皆の前でこんなことを言うのは、とても申し訳ないけれど、これで少しは僕も楽になれると思うんだ。人が集まれば、人が集まっただけ、上に立つ者は色々と神経を使わなきゃならないからね」

「だったら、幾らでも逃げればいいだろが。どこかの馬鹿みたいに」

「僕も昔は逃げていたさ。伊達に彼と同じ道を歩んでいない」

「……同じ道?」

「あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、確かにその時期は自由だった。けれど、自分の居場所を見つけたとき、そこに留まることを決めたとき、全ては始まるんだよ。やっぱり、王だなんて、僕には過ぎた職だったみたいだ」

「お前の職歴なんてどうでもいい。下らない」

「それなら、さっさと殺すがいい。僕は君へ復讐を挑んで、見事に返り討ちとなった。これで物語は、少なくとも僕の人生は終了だ。色々とあったけれど、なかなか大した物語じゃないかい。割と満足だ」

「ちっ、最後の最後まで胸くそ悪い奴だな……」

「だろうね。その一言が、今は何よりの復讐になったろう」

「……あぁ、遠慮無く殺せる」

 少女が腕を振り上げる。

 その光景を目の当たりとして、今の今まで観戦に徹していたサイが吠えた。

「お待ち下さいっ!」

 いつの間にか顔の凹みを癒やしての参上だった。山田に殴られて台無しになったイケメンフェイスが、けれど、元在った格好良さを取り戻しての登場である。少女の治癒に同じく、何某か不思議な力を借りてのことだろう。

 彼は大慌てに王様の下まで駆け寄ってきた。

「我々の存在が負担であるというならば、是非っ、是非とも逃げて下さいっ! ですから、どうかっ、このまま魔王に討たれるなどとは、どうか、何卒ご勘弁をっ!」

「……相変わらず気持ちの悪いやつだな。コイツはホモか?」

 語るイケメンの姿を目の当たりとして、苛立たしげに少女が吐き捨てる。

「さて、これを僕は否定できないが、不用意に触れたい事柄ではないかもね」

「面倒だ、まとめて殺してくれる」

「わ、私はどのようになっても構いません。ですから、どうか王だけはっ!」

「ああああああ、とても気持ちが悪い。それならあの馬鹿を生き返らせて見せろ。できないだろう? できないならば死ね。そんなに好きなら地獄の底で抱き合っていろ」

 頭上へ掲げられた少女の右腕。

「待って下さいっ! ありますっ、彼を生き返らせる方法がっ!」

「……なんだと?」

「ですから、待って下さいっ」

 サイの言葉を受けて、今まさに振り下ろされんとした少女の腕が静止する。

 ギロリ、瞳は彼を睨み付けてのこと。

「本当だろうな?」

「王が何の為に魔王を追い掛けていたのか。ここ十数年の変化を、私は少なからず理解しておりました。だから、その為にできることを、全てをリセットする為の方法を、私は探しておりました。故に私は私の理由があって、貴方を追い掛けていました」

「なんだよおい。お前、下の奴にも全部ばれているじゃないか」

「……そのようだね」

 少なからず驚いた様子で答える王様。

「そもそも、彼はまだ死んではいませんっ!」

 一方でサイは二人を前に声も大きく言い放つ。

 同時、ピクリ、少女の身体が震えた。

「お前、私を馬鹿にしているのか?」

「貴方は今、ご自身が新たに就いた職を理解していますか?」

「そんなものはどうでもいいっ!」

「いいえ、良くはありません。なによりそれが重要です」

「……どういうことだよ」

「貴方は嫁です」

 ズビシ、サイが少女を人差し指に指し示して言う。

 しかも至極真面目な表情でのこと。

 これを受けては彼女の機嫌も殊更に荒れる。

「お前は人を馬鹿にしているのか? あぁ? 誰が誰の嫁だって?」

「貴方が彼の嫁です」

「……やっぱり、馬鹿にしてるだろ?」

「実際に我々の仲間が確認をしました。そして、文献にあった過去唯一の記録に従えば、千年に渡り処女を守った女が、一切の打算のない好意を男に向けたとき、初めて発現する職、とのことです。まあ、具体的に千年を計る存在は世界に有り得ないでしょうから、相応の精神経験という意味だと思われますが」

「お、おいちょっと待てよっ! なんで処女とか知ってるんだよっ!」

 サイの言葉を受けて、少なからず焦る自称ビッチ。

「そして、嫁が持つなによりの特性は、一蓮托生。嫁自身が想う相手の不死性にあります。嫁に想われた相手は、例えどれだけ強力な相手から攻められようと、嫁が生きている限り、決して死に絶えることはありません。近しい例で言えば、吸血鬼の下僕が持つ性質。その上位互換といったところでしょうか。これなら貴方にも馴染みがあるのでは?」

「いい加減なことを言うな。私が変化したのは奴が死んでからだっ」

「これはタイミングの問題でしょう。なにより本人を確認すれば話は早いです。見て下さい、ほら、ピクピク、動いているではありませんか。少なからず損傷状態から回復してきております」

「…………」

 皆々の視線が、ジッと山田の側へ向かう。

 地べたに横たわった裸体へ向かう。

 ならば確かに彼の言葉通り、ピクリ、ピクリ、その身体が震えていた。

「……ほ、本当なのか」

「貴方が普通とは少なからず離れた感性、端的に言えば不細工な顔に惹かれる傾向があることは、事前の調査で明らかとなっておりました。尚且つ齢千年を重ねる処女の化け物。これほど理に適った相手はいません。ですから、その好意を我らが王へ向けることで、その不死性と共に、自由への道を切り開けたらと考えておりました」

「だからなんで私のことを知ってるんだよっ!」

「こちらは占い師に聞きました。というか、あちらから教えて下さいました」

「またアイツかっ!?」

 他の何より知られたくないところを指摘されて、羞恥からワンワンと吠える少女だった。散々デカイ口を叩いた手前、山田には絶対に聞かせられないと、サイの声を遮るよう、無駄に声を張り上げてのこと。

「そもそも、自分の主人に死ねと言うのか? 大した騎士だなっ! おいっ!」

「王自身が一度死ぬ。ここまで大きくなった組織を崩すには、それしかありません」

 少女からの言葉を受けて、サイはきっぱりと言い放った。

 これには王様も酷く関心した様子で言葉を漏らす。

「なるほど、馬鹿みたいな話だけれど、謎が解けた気分だよ。一時期から魔王の捜索に対して、妙に意欲的だと感じ始めていたけれど、君はそんなことを考えてたのか。しかも嫁と言えば、数少ないランク一位じゃないかい」

「申し訳ありませんでした」

 これはサイだけの秘密であったらしい。

 恭しく頭を下げて、自らの内を全て吐き出したイケメンだ。

「だけれども、問題の嫁は彼に好意を持ったようだね」

「はい、重ね重ね申し訳ありません。まさか、嫁単体でここまでの威力を伴う職であるとは、想定外でした。付帯能力に優れた職であると考えていたのですが、嫁はそれ自身が非常に強力な職ですね。一位は伊達ではありませんでした」

「それは僕も同意だよ」

「けれど、おかげでこうして、我々は問題を白昼の下に共有することができました」

「……サイ」

 頭を下げっぱなしのサイ。その姿を眺めて、頷く王様は何とも言えない表情だった。ただ、少なからず平素からの穏やかな様子を取り戻して思える。彼らの抱える大きな問題の一つが、今、解決へ向けて一歩を踏み出した様子だった。

 他方、一連のやり取りを耳として、居ても立っても居られないのが少女である。

「あああああっ、くそっ、そういうことは先に言えよっ!」

 二人への対応も適当、大慌てに山田の下へと駆け出した。

 王様にトドメを刺すことすら忘れてのこと。

 彼女は数秒と掛からず、山田の傍らまで移動した。そして、地面に横たわる身体を、優しく両手に抱き起こす。未だ半身のまま、断面は血みどろグロテスク。けれど、これを全く気にした様子も無く。

「おい、しっかりしろっ」

 指先に頬をやんわりと撫でる。

 すると彼女の声が届いたのか、一度は閉じられた彼の瞳が開く。

 結果、何を勘違いしたのか、彼はポツリと呟いた。

「……走馬燈の最後がクソガキとか、ねーよ」

「あ、あるんだよっ!」

 パチン、頬を張り手に軽くはたかれる山田。

 多少の衝撃に意識は鮮明さを取り戻す。

「……って、あれ、俺……生きてるのか?」

「そうだよ。まだ生きてるんだよ。この阿呆が」

「ま、マジかよ……」

「まってろ、すぐに治してやる」

 呟いた少女の手の平に、パァと淡い光が灯る。

 そして、これに撫でられた彼の怪我は、まるで彼女自身がそうであったように、瞬く間、癒やされてゆくのだった。骨も肉も筋も内臓器も、全てが元在った形を取り戻すよう、数秒の内に生え揃って行く。

「うぉ……」

 一連の光景を目の当たりとしては、山田本人にしても驚愕。

 過去に幾度と経験のある事柄ながら、声を漏らさずには居られなかった。

 衣服こそ戻らず素っ裸ながら、多少ばかりを待てば、身体は完全に元通り。自らの足に地面へ立てるまでに復帰する。恐る恐るといった調子に立ち上がった彼は、数歩を歩んで自身の健常性を理解した。

「相変わらずズゲェな……」

「おいっ、感謝しろよな? まずはお礼を言えよ」

「あぁ……まあ、ありがとな」

 腹を撫でてみたり、腕を摩ってみたり、背中へ首を捻ってみたり。

 あちらこちら具合を確かめながら、素直に感謝を口とする山田。

「……なんで素直に言うんだよ?」

「お、お前が言えって言ったんじゃんかよっ!」

 答える少女は相変わらずだった。

「っていうか、何があったんだよ? なんか凄いことになってるじゃんか」

 周囲一帯は少女と王様の喧嘩により、酷い有様だった。そこら中で地面は陥没、大きなクレーターが生まれている。自動車がまともに走れる状況にない。近隣建物への被害も大きく、全壊した構造物も決して少なくない。

 気を失う前と後で様変わりした風景に、山田は驚いた様子だった。

「別になんでもいいだろっ!」

「ぜんぜん良くないだろっ!? っていうか、アイツら倒したのか!?」

 自然と彼の視線は王様とサイの下へ向かう。

 都合、両者の間には十数メートルばかりの距離。

「当然だ。この私が倒してやったっ!」

「どうやったんだよっ!? お前、足とか無かったじゃんかよっ!」

「足なら生えたっ!」

 嫁云々、詳しくは触れて欲しくない少女である。

 事の顛末を隠すべく、情報を小出しに片言での受け答えか。

「なんかプルプル震えてないか? 膝の辺りとか特に」

「う、うるさい奴だなっ! ちょっとばかり疲れてるんだよっ!」

「そうなのか?」

 言葉の全てはやせ我慢。実は立っているのもやっとな彼女だった。王様との喧嘩に加えて、山田の怪我を治したことで、残る力の全てを使い果たしたようである。

「そうなんだよっ! だから少し寝るっ!」

 これ以上は動けないとばかり、背を地に付けて大の字となる。

「あ、おいっ……アイツらは……」

「ホモなど放っておけ。気色悪い」

「え? アイツらホモなのかっ!?」

 少女の言葉を耳として、山田の意識が王様とサイに向かう。

 そんな瞬間の出来事だった。

 ホモ二人の肉体が、空より降ってきた数本の剣に串刺しとされる。

「あ……」

 想定外の出来事を受けて、山田の身体が硬直する。

 肩やら足やら腕やら、全身を突き刺される形で、二人は地べたへ身体を縫い付けられた。本来であれば、十分な余裕と共に振り払うことのできた強襲だろう。けれど、少女との喧嘩に疲労した二人には、上等な脅威足り得た。

 そして、飛んできた剣の形は、山田も見覚えのあるものだった。

「……アイツっ、この前の慶応っ」

「来たっ! 来たぞっ! 遂に俺の時代が来たようだなっ!」

 剣より遅れること数秒、空から勇者イケメンが降ってきた。

 ストン、軽い音と共に、彼は王様のすぐ近くへと降り立つ。

「公爵を倒し、王さえを倒し、俺は更に上へ、勇者の次へと向かうっ!」

 恐らくは今の今まで、延々と山田達が争う様子を窺っていた二枚目である。そして、両者が十分な疲弊と共に倒れたこの瞬間、最後に美味しいところを攫う為に、空より舞い降りたのだった。

 剣が刺さるに応じては、音も短く、王様とサイの苦悶の声が響いて聞こえた。

「き、貴様はっ……」

 空から降ってきた勇者。その姿を捉えて、少女もまた表情を険しくする。今し方に橫となったばかりだというに、飛び起きてのことだ。その両足は山田が指摘したとおり、疲弊から依然として小さく震えている。

「来た、来たぞ、身体が熱いっ、燃えるようだっ!」

 串刺しとなった王様とサイの傍ら、悶えるよう全身を震わせる勇者イケメン。

 同時、今し方に少女が見せたよう、全身を輝かせる。

「王を討ったことで、奴の在り方が……職が変わる」

 呟く少女は苦虫を噛み潰したよう。

 その様子に当てられて、隣立つ山田もまた身を強張らせる。

「おぉぉぉおおおおおおおっ!」

 付近一帯が真っ白に染まった。

◇ ◆ ◇

「は、はははっ、やったぞっ! 俺はやったぞぉっ!」

 勇者イケメンの肉体より発する輝きが晴れた。

 周囲からの注目を一身に受けて、けれど、彼はなんら気圧された様子も無く、歓喜に打ち震えていた。声も高々に笑う。両手を橫に広げて、自らの肉体を誇示するよう、全身に喜びを訴えて見せる。

「身体の内から力が溢れてくるっ! これはなんだ!? 俺は何になったっ!? やはり英雄かっ! 英雄しかないかっ! 勇者を越えた先、遂に俺もランク二位まで達したという訳だなっ!」

「くっ、お、お前はっ……」

 サイが苦悶の表情を浮かべて、元勇者イケメンを睨み付ける。

 王様共々、剣に串刺されたまま、上手く身動きを取れないでいる。

「これで更に魔王を討てば、いや、今は元魔王か? まあどちらでもいい。これでそこのガキを殺せば、俺は更なる高みへ、ランク一位と至ることができるのだろう。きっとそうに違いない」

 元勇者イケメンは血走った目に少女を見つめる。

 ランクだの何だの、門外漢の山田には微塵も理解できない。

 けれど、相手が自分や少女にとっての脅威であることだけは理解できた。

「延々と待ち続けた甲斐があったというものだっ!」

「あのクソガキ、延々と隠れていたのか……」

 忌々しげに少女が言う。

「な、なんだよおいっ、次から次へとっ……」

「まずは芝浦、お前らから殺してやるよ。抱えて逃げられると厄介だからな」

 串刺しの王様とサイは放置。

 元勇者イケメンが山田と少女へ向けて一歩を踏み出す。

「ちぃっ、ふざけた真似をっ」

 相手に応じるよう、少女もまた彼に向けて一歩を踏み出す。

 しかし、これを山田が片腕に止めた。

「お前っ、もう無理だとか言ってたじゃんかよ。また喧嘩するつもりかよっ」

「ならば無様にやられろとでも言うのかっ!? あぁ!?」

「うっせっ! それなら、つ、次は俺の番だっ!」

「な、なんだと?」

「お前は隅っこで休んでろっ! 助けられてばっかでいられるかっ!」

 今にも飛び出さんとする少女。

 その身体を押さえて、ズズイ、数歩を前に踏み出す山田。

 彼女にしては非常に物言いたげな態度だろう。けれど、彼が少しばかり腕に力を入れると、疲労が足に来たのか、よろりバランスを崩して、その場に倒れ込んでしまう。どうやら相当に無理をしていた様子だ。

「な、なにをするっ! これ以上お前に借りを作って溜まるかっ!」

「うっせっ! 今はそんなことを言っている場合じゃないだろっ!? それに俺だって、こんなところでグズグズしてる暇はないんだよ! とっととやっつけて、収録へ行くに決まってるだろっ!」

「私ならばまだ動けるっ! 禄に拳の振るい方も知らぬ奴が偉ぶるなっ!」

 必至に身を立てようとしながら、それでも上手く立ち上がれずに吠える少女。

 生まれたばかりの子ヤギを彷彿とさせる姿である。今し方に語られたサイの言葉を、まさか理解していない筈がない。けれど、必至に叫ぶ様子は、決して気遣いや世辞の類いではなく、本心からの想いが見て取れた。

「そっちこそ膝とかガクガクさせてる癖に偉そうなこと言ってんじゃねーよっ!」

「こんなのすぐに治るっ!」

「治んねーよっ! むしろ俺が頑張った方が、早く片付くっていってんだよっ! これ以上、時間を無駄にしてる暇なんてねぇっ! 今の俺には寄り道してる余裕なんて、一ミリ秒もねぇんだからなっ!」

 なんだかんだ、未だ声優業を諦めていないブサメンだった。

 ちなみに今の彼は依然として素っ裸である。

 一方で、これに対する元勇者イケメンはと言えば、余裕綽々の様子。

「なに馬鹿なこと言ってんだよ。芝浦が慶応に喧嘩売るとか有り得ないだろ」

 やれやれだとばかり、呆れ調子に言葉を返す。

「うるせぇよっ! 芝浦舐めるなっ! 豊洲の最高学府だぞクソっ!」

「相変わらず馬鹿っぽいこと言うよな。お前、絶対に童貞だろ?」

「ど、童貞じゃねぇっ!」

 都合、慶応と芝浦で互いに睨み合う形となった。

 これに加えて、二人の周囲をいつの間に集ったのか、数十名からなる騎士団の面々がズラリと囲う。ただ、こちらは囲うだけ囲ったものの、どうして手を出したものか、計りかねて思える。

 王様とサイが容易く打倒されてしまった為、相手の力を警戒してのことだろう。

「まあいい、まずはお前から殺してやるよ。この変態が」

「ふざけんなっ! っていうか、前にも俺のこと騙して逃げてくれたよな?」

「世の中、騙される方が悪いんだよ」

 先んじて仕掛けたのは元勇者イケメンだった。

 地を蹴って山田の元へと駆け寄る。その手には先程に王様とサイを串刺しにしたものと同様、剣が握られている。例の刀身を黒く塗った両刃の西洋剣である。パッと見た感じ、とてもカッコが良い。

「さっさと死ねっ! お前みたいな脇役に用は無いんだよ!」

「脇役じゃねぇっ! 俺の人生は俺が、俺だけが主役だっ!」

 これを迎え撃つべく、山田もまた拳を振り上げる。

 互いに歩み寄り、剣と拳とが交差した。

「ひぐっ!?」

「ふぐぅっ……」

 元勇者イケメンの剣が山田の左腕を切り飛ばす。

 同時、山田の拳骨が元勇者イケメンの右肩を砕く。

 身体に受けた衝撃から、前者は大きく後方へ身体を転がした。当たった場所が身体の軸から外れていた為、錐揉みしながらのこと。先の喧嘩で凸凹になったアスファルトの上、身体のあちらこちらを障害物にぶつけながら移動して行く。

 他方、後者は決して慣れることのない激痛に背を丸めて身体を震わせる。おびただしい量の出血が、切断面から噴水のように吹き出した。無事なもう一方の手に傷口を庇うよう身を抱いて、必死の形相で痛みに耐える。

 切り飛ばされた山田の腕は、以前と比べて治りが遅かった。

 それだけ相手が強いということだろう。

「く、くそぉおおおおっ! コイツ、ほんとに腕とか切りやがったぁっ!」

「このっ、芝浦如きが俺に楯突くんじゃねぇっ! マジでぶっ殺すっ!」

 今の一撃に両者とも、頭へ血が上った様子だった。過剰に分泌される脳内麻薬の影響か、痛みからの立ち直りも早い。本来であれば、泣き喚いてはのたうち回るだけの状況に晒されながら、しかし、気丈にも自らの足に仁王立つ。

 そして、互いにキッと相手を睨み付けた。

 バチバチと視線に火花を散らして思える光景だろうか。

「ふざけんなっ! 底辺が舐めた真似してんじゃねぇっ!」

「慶応も大差ねぇよっ! 自慢したかったら飛び級でハーバードくらいしろ!」

「ハーバードなんて成金が通う場所だっ! 慶応こそ世界最高の大学だっ!」

「だったら芝浦工大だって同じだっ! 銀河系最強だっ!」

 互いにいがみ合う様子は、両者の力関係の拮抗を思わせた。

 少女と王様の喧嘩に比べては控えめ。けれど、多くが疲弊した現在にあっては、場の状況を大きく左右するだけの争いだった。故に誰も彼もの注目は、二人の一挙一動へと向けられる。

 特に騎士団一同にしては、介入すべきか否か、判断に迷って思える。

 つい今し方までは敵だった山田。しかしながら、現在の彼は見方によって、王様やサイを守るように動いているようにも窺える。そして、少女や王様と比較すれば劣る彼にしても、他の騎士団構成員と比較しては、飛び抜けた位置に居る。

 また、ただでさえ喧嘩慣れしていないように映る引き籠もりだから、下手に乱入しては要らぬ混乱を招く可能性が高かった。おかげで場は今に動き回る二人を除いて硬直。前にも後ろにも進めぬままである。

「どんな職だか知らないが、俺の英雄に勝てる筈がねぇんだよっ!」

 無事な片腕に剣を構えて、元勇者イケメンが地を蹴り駆ける。

「勇者だろうが、英雄だろうが、知ったこっちゃねぇんだよっ!」

 これに答えるよう、山田もまた残る右腕を振り上げて前へ。

「俺の邪魔をすんじゃねぇっ! このブサメンがっ!」

「そっちこそ邪魔すんなっ! イケメンは死ねっ!」

 再び剣と拳とが交差する。

 振り下ろされた刃の先、堅く握られた拳がぶつかった。

 キィンと甲高い音が響く。

「ぐっ……」

「っしゃぁ……」

 身を乗り出すよう鬩ぎ合う両者の間で、山田の拳と元勇者イケメンの剣とが、ぶつかり合ったまま静止していた。上手い具合に勢いが拮抗したのだろう。互いに力を込めるがまま、プルプルと震えている。

 凶器と素手、既成観念から山田の顔に笑みが浮かぶ。

「こ、今度は切られてねぇぞちくしょう」

 丸められた五本の指は、まるで同じ金属のように刃を受け止めていた。

 何某か特別な力が働いてのことだろう。

「この負け組野郎がっ、くそっ、舐めたことしてんじゃねぇよっ!」

 元勇者イケメンの表情が、殊更に憤怒の色を強くする。

「何が慶応だ。今のお前は俺からすれば、道端に落ちてる石ころ以下なんだよっ!」

「なんだとっ!?」

「絶対に叶わない夢なんて、もう腐るほど見送ってきたんだよ。だから、これだけは意地でも叶えてやるんだよっ! 死んでも諦めねぇよっ! 血反吐こうが手足が飛び散ろうが、何がなんでも叶えてやる! じゃなきゃ、俺は何にもなれないまま終わっちまう! 一度は諦めかけたけど、でもやっぱり、それだけは死んでも嫌だ!」

「うるせぇよっ、素っ裸で生意気言ってんじゃねぇよっ!」

「石ころに躓く人生なんて、そんなの俺は認めねぇっ!」

 歯を食いしばり、一歩、前へと歩みを進める山田。

 都合、拳も前に出て、対する剣を押し返す形となる。

「なっ、このっ!」

 これに驚いた相手は大慌て、殊更に握る柄へ力を込める。けれど、片腕が故だろう、上手く応じることができない。ギリギリ、ゆっくりと後退を余儀なくされる。

「俺は俺の世界で最高に楽しくなってやるんだよぉおおおおっ!」

 そして、最後の一歩。

 山田は力の限りを込めて、その腕を振り抜いた。

「なっ、馬鹿なっ……」

 耐えきれず、キィン、耳障りな音を立てて剣が根元からへし折れる。

「イケメンは死ねっ!」

 同時、支えを失った拳骨は、向かう先、相手の顔面を目掛けて突っ込んだ。堅く握られた五本の指が、イケメンの鼻を押しつぶす。イケメンのイケてる部分を尽く破壊するよう、打ちのめすのだった。

「へぶぅっ!」

 鼻面を強打されて、再び後方へ吹っ飛ぶ羽目となる元勇者イケメン。

 今度は数十メートルを宙に舞ってのこと。

「ハァ、ハァ、ハァ……」

 山田にしては息も荒く、肩を上下させながら、その光景を眺める。

 何度か地面とぶつかり合い、やがて、ガードレールに衝突。元勇者イケメンの身体は静止した。首から上は酷い有様だ。鼻は高さを失い、頬骨は砕けて、眼球は完全に外へと飛び出してしまっていた。

 ピクリとも動かなくなった元勇者元イケメン。

 その姿を確認して、山田は短く声を上げる。

「はっ、ははっ! イケメンがなんぼのもんだちくしょぅっ! ざまみろぉっ!」

 喧嘩のおかげだろう。良い感じにテンションが上がっていた。

◇ ◆ ◇

「おいっ、大丈夫なのかっ!?」

 元勇者元イケメンが動かなくなったところで、大慌て、少女が山田の元まで駆け寄ってきた。依然として震える膝に無理を言わせてのこと。

 ならば彼はこれに抱擁を持って答える。

「よっしゃ、このまま走って行くぞっ!」

 その身体を無事な右腕に抱え上げた。

「あ、おいこらっ、いきなり、なんの真似だっ!?」

「収録に決まってるだろっ!?」

 そして、応じる言葉も短く、全力に走り出す。

 場に集まった者達を全て置き去りにして、記憶を辿りに収録スタジオへ駆けるのだった。周囲を囲う騎士団の面々にしては、唖然、走り去る彼を追い掛けることも叶わぬまま、驚きの只中に見送る限り。

「何を考えているんだっ! 少しは頭を使えっ!」

「馬鹿にすんなっ! これが最高に使った結果だっ!」

「ならどうして走ってんだよっ! その身体でっ!」

「俺はこれが一番に大切なんだよっ! これしかないんだよっ!」

「だからってっ、自分の身体の具合も分からないのかっ!? あと服くらい着ろ!」

「こんな身体、あと二ヶ月もすれば死んじまうんだ、少しくらい早かろうが関係ねーよっ! 世間体なんて糞食らえだ! それよりも今は、アニメの声なんだよっ! 俺の声を、絶対に、絶対に残してやるんだよっ!」

「お、おいっ、それはどういう意味だっ!?」

 走りながらの問答。

 当然のように両手両足をばたつかせて暴れる少女。けれど、これに構わず山田は足を動かした。周囲の目もお構いなし。歩道を、車道を、高速道路を、線路を、空を、全力で駆け抜けた。全裸のまま。

 ならば数分の後、彼は目的の場所へと辿り着く。

 ここ数日で幾度となく訪れた、例の収録スタジオである。

 そして、目指した建物の脇、ふと山田は見つける。

 同様にここ数日で見知った相手の姿を。

「あっ、お、お前……」

「二日ぶりじゃな」

 占い師だった。まるで狙ったように、山田が訪れた先、玄関の隣に露天を出していた。姿格好は過去に出会った際と同様、首から上の全てが隠れる目深いフードを被った全身ローブ。

 正面に置かれた折りたたみ式の机には、上に小さな水晶玉。腰を落ち着ける椅子も折りたたみ式。総じてこじんまりとした出店である。ただ、その物静かな佇まいには、思わず一歩を止めてしまうだけの存在感があった。

 そして、同占い師の姿を目の当たりとしては、彼以上の反応を見せる者が一人。

「き、貴様はっ!」

「ところで、隣の吸血鬼は何十年振りかの?」

 山田から少女へ、占い師が意識を移す。

「お前っ、お、お前のせいで私はっ! 私はぁっ!」

「一通り見させて貰った。なかなか愉快なことになってたようじゃのぉ」

「ふざけるなっ! 今更なにをしにきたっ!?」

 山田の腕に抱かれたまま、けれど、両腕をグイと伸ばして、占い師へ食って掛からんとする少女。これまでの疲労すら忘れん勢いで暴れまくる。彼女の探していた占い師とは、山田の知っている占い師に間違いなかった様子だ。

 一方、対する相手は極めて涼しげな様子。そんな彼女の姿を眺めて、クツクツと楽しげに笑ってみせる。嗄れた声が全ての顔形すら窺えない姿格好も相まって、どうにも底が見えない。

「流石にその姿で向かう訳にはいくまい? 治してやろう」

「っ!?」

 占い師が腕を振るう。

 応じて、山田の失われた右腕が復活した。

 灰色の煙が傷口より吹き出した。かと思えば、次の瞬間には見慣れた左腕が、元在ったとおり生えている不思議。ただし、やはり服までは戻らない。未だに全裸のままの変態野郎だ。

「ついでに服もなんとかした方が良くはないかぇ?」

「あっ……」

「その格好では何をするにも不便だろう。人と会うなら尚更に」

「うっ……」

 途端、自らのスッパが恥ずかしくなる山田だろうか。

 子供と老婆とは言え、異性に股間を丸出し。しかも路上露出ときたものだ。

「だ、だったらお前も一緒にこいっ! だから、そのローブをくれっ!」

「ふぇ?」

 何を考えたのだろう、咄嗟のこと占い師へ腕を伸ばす山田。彼の手は目の前の相手から、その身を包むローブをはぎ取るよう動いた。

 これは相手にしても想定外。

 妙な声が上がった。

 かと思えば、次の瞬間には力任せ、強引にローブがはぎ取られる。

 羅生門の下人も真っ青の早業だった。ゆったりとした作りのローブは、軽く羽織るように被っていた限り。上へ持ち上げるよう引っ張ると、するり、容易に袖からすぽ抜けてしまった。

「なっ……」

 驚きの声は山田の口から漏れたもの。

 結果、ローブの下から現れたのは、耳に届く嗄れた声とは裏腹、彼が脇に抱く少女と同世代に思われる歳幼い童女。しかも、同様に色白な肌と腰下までの長い金髪を持つ、異国の人であった。

「……ぜ、ぜんぜんババァじゃねぇっ!?」

「服をはぎ取った上、更にババァ呼ばわりとは、随分と酷い話じゃのぉ」

 椅子に腰掛けたまま、ブスッとふくれっ面を晒す占い師。

 ただ、彼の驚愕も束の間のもの。

「ま、まあもう、この際なんでもいいだろっ! とっとと行くぞっ!」

「いいのかぇ?」

 はぎ取ったローブへ無理矢理に袖を通して、股間を隠すよう前を止める。

 そして、右腕に少女を抱えなおし、更には左腕に占い師を抱え上げて、スタジオへと足を向けるのだった。今の彼は、余程のことでも動じることは無い。ひたすらに収録へ向けてひた走る限りだった。

「だからこのっ! お、おいこらっ! 持ち上げるのやめろよっ!」

「その割には大人しいのぉ。大人しいのぉ。どうしてかのぉ?」

「な、なんだよお前はっ! っていうかお前には言いたいことが山ほどっ」

 遠回りに遠回りを重ねた山田のマラソンも、そろそろ終わり。

 ゴールはすぐ目の前まで迫っていた。

◇ ◆ ◇

「オッサンッ!」

 部屋のドアを足に蹴り破り、山田が現れた。蹴り破られたそれは蝶番から外れて、室内の側へ、数メートルばかり吹っ飛ぶ。彼はこれに構わず、ズカズカ、大部屋に足を踏み入れた。

 当初予定した時間から二時間の遅刻。

 けれど、約束の場所に二人の姿はあった。

「えっ!?」

「なんとっ……」

 唐突にも吹き飛んだ出入り口を目の当たりとして、目を点にする天才声優少女と髭ロン毛アニメ監督。飛ばされたドアは二人の脇、すぐ近くにガシャン、けたたましい音を立てて落ちた。

「あ、あんたっ! いきなりドア壊すとかどういう了見してるのよっ!」

「……まさか本当に来るとは」

「しかも、なんで子供を抱えてるのよっ!」

「更に日本人ですらないな……」

 目的の人物を見つけて、思わず眦に熱いものをこみ上げさせる山田だ。

「そんなこといいから、おいっ、収録なんだろっ!?」

「良くないわよっ! っていうか、その格好もなんのつもりよっ!」

 あれもこれも列を為して突っ込み待ちな、山田の身辺状況だろうか。

 事情を知る者にしては、仕方がない、同情を与えただろう。けれど、彼の前に立つ二人にしては、刃物やら火の玉やらが飛び交う世界など、全ては物語の中の出来事である。まさか想像がつく筈もない。

 突如ドアを蹴り破り現れたのは、露出趣味に猛る性犯罪者さながらの手合い。

「あと、声優を捕まえてきたぞっ! 声優っ!」

「だから、人の話を聞きなさいよっ!」

 何もかもが理解できないとばかり、声を荒げて天才声優少女が吠える。

「話ってなんだよ? それよりも今日は収録だろ? 声優なんだろ?」

「こ、この変態はっ……」

 度重なる喧嘩のおかげで、未だ興奮冷めやらぬ変態野郎だった。

 天才声優少女に至っては、堅く握った拳をプルプルとさせている。

 このままでは不味いと考えたのだろう。髭ロン毛が脇より声を上げた。

「君、流石にずっと抱えたままでは、その子らも辛いんじゃないか?」

「え? あ、あぁ、そうだな……」

 これを受けて山田は、自分が二人を抱えたままであることを思い出す。素直に少女二名を解放した。特に内一名に関しては、随分と長いこと抱えられていたので、相応に不平を溜めて思えた。

「まったく、この阿呆は何を考えてるんだ……」

 やれやれだとばかり、溜息を吐いて見せる元魔王、現嫁ロリータ。

「他人に抱かれるなど何十年ぶりかのぉー」

 一方で占い師は相変わらずの飄々とした態度に呟く限りか。

 そんな少女二名の姿を眺めて、流石の髭ロン毛も疑問を口とする。

「一つ質問なのだが、この子達は君の知り合いなのか?」

「そうだよ。声優が足りないんだろ? だったらさ、コイツらを使おうぜ!」

「使おうぜって、アンタ、本当に何を考えて生きてるのよ。喋れれば良いって訳じゃないのよ? それくらい、アンタ自身も十分に理解しているんじゃないの?」

「いや、それがコイツってばマジでヤバイんだって」

 山田がロリ嫁を視線に指し示して言う。

 指し示された側は、黙って目の前のやり取りを眺める限りか。

 状況を計りかねている様子だ。

「なにがどうヤバイのよ? 今のアンタよりヤバイものなんて滅多にないわよ?」

「ぶっちゃけ、お前と同じか、それ以上に声が最高だ」

「……それ、本気で言ってるの?」

 ピクリ、天才声優少女が眉を振るわせる。

「っていうか、収録って今日であってるんだよな? どうして二人しかいないんだよ? も、もしかして、もう全部おわっちゃったのか!? そりゃ、遅刻したのは悪いと思うけど、あの、俺も頑張るから、せめて一言くらい喋りたいんだけどっ……」

 今更ながら、閑散とした収録部屋に気付いた山田だった。

◇ ◆ ◇

「……それ、マジかよ?」

「すまない。ここまで付き合わせておいて、本当に申し訳ない」

 呆然とする山田の手前、髭ロン毛が頭を下げる。

 約束の時間より遅れてやって来た彼へ、今まさに監督から事情の説明が行われたのだった。故にこうして、全てが無駄であったと理解した彼は、途端、絶望の只中へと突き落とされた次第である。

 愕然とした表情で髭ロン毛を見つめてのこと。

「な、なんとかするって、言ってたじゃんかよっ!」

「あぁ、君の怒りも尤もだ。本当にすまない」

「なんで、そんなっ……」

 王様に喧嘩を売られた際であっても、ここまでのショックは見せなかった山田である。今を生きる理由の全てを否定されて、心ここに在らずと言った具合、このまま放っておけば、翌日には首をくくっていそうだ。

 散々かけずり回って、這いずり廻って、やっと辿り着いたゴールは、しかし、既に撤去された後であった。クズの人生はやっぱりクズだと、世界に拒絶された気分を味わう底辺野郎だろう。

「……アンタ、そんなに声優がやりたかったの?」

 少なからず引き気味に問い掛ける天才声優少女。

 これに彼は、目元に涙さえ浮かべて答えた。

「や、やりたくて悪いかよっ!?」

 ガチ泣きである。

「流石の私も、アンタがここまで入れ込むとは思わなかったわ」

「悪かったなっ……クソ、クソ、クソッ」

 あまりの悔しさに地団駄を踏む山田だった。

「だから、すまないが、この一件はこれにて終了となる」

 最後を締めるよう、髭ロン毛が厳かな口調に言った。本当に全てが終わってしまったのだと、否応にも理解せざるを得ない物言いであった。語る本人も、山田の態度にあてられたのか、肩を小さく振るわせていた。

 ただ、そんな辛気くさい一室でのこと。

 不意に出入り口より響く声が一つ。

「やっと追いつきました。山田さん」

 ドアの外れた戸口から、サイがひょっこり顔を覗かせた。

 室内に居する面々にしては、突然の声を受けて一斉に出入り口を振り返る。

「はぁっ!? なんでお前がここに来るんだよっ!」

 つい今し方までの喧嘩を思い出して、咄嗟、表情も硬く身構える山田とロリ嫁。一方で事情を知らない天才声優少女と髭ロン毛にしては、予期せぬ来客に首を傾げる。そして、恐らく全てを理解する占い師にしては、ニヤニヤ、面白そうに笑みを浮かべてのこと。

「ひとまず緊張を解いて下さい。こちらに戦闘の意思はありません」

「だ、だったらなんで追っかけてきたんだよっ!」

 まさか素直に信じられず、声を荒げる山田だろうか。

「今日という日を逃しては、次ぎにいつ会えるとも知れませんからね。せめて、受けた借りだけは返すべく、こうして参った次第です。もちろん、これは我らが王の意向でもあります」

「……借り? なんだよそれ」

「計らずとも我らが王を救って下さったことへの借りです」

「いや、意味が分かんねぇよ」

「まあ確かに、山田さん自身が理解するのは難しいでしょうね」

「ど、どういうことだよ? ちゃんと説明しろよっ!」

「詳しくは後で、そちらのお嫁さんに聞いて下さい」

「は? 嫁? 嫁ってなんだよ?」

「お、おいこらっ! それは言うなっ! なんで言うんだよっ!?」

 何気ないサイの言葉にロリ嫁が慌てる。

「お前、またなんかやらかしたのかっ!?」

 その様子を傍らに置いて、山田は疑念の眼差し。

「何もやってないっ! こいつの妄言だっ!」

「じゃあなんでコイツが俺らを追ってきたんだよっ」

「そ、そんなこと私が知るかっ! 自分で考えろっ!」

「考えても分からないから聞いてんだよっ!」

 まさか自らの口から説明できる筈もなく、声を荒げてごまかしに掛かるロリ嫁。そんな彼女の危地を救うのは、話題を持ち出してきた当の本人。

 スーツ姿のイケメン、サイである。

「まあ、その辺の話はおいおいやって下さい。それよりも、少しばかり話を聞かせて頂きましたが、山田さん、貴方は今、随分とお困りのようですね」

「な、なんだよいきなりっ……」

「もしよろしければ、貴方の抱える問題、我々が解決いたしますよ」

 ニコリ、朗らかな笑みを浮かべての提案である。

◇ ◆ ◇

 翌日、収録スタジオには山田を筆頭として、髭ロン毛、天才声優少女、ロリ嫁、サイ、占い師の姿があった。一同は大部屋から続く、マイクの設置された小部屋に集まり、スクリーンを前としている。

 また、これに加えて山田も面識のない人間が、幾名も大部屋の側に待機していた。

 昨日には閑散としていたスタジオが、今日は人気に溢れていた。

「映像は全てこちらで回収させて頂きました」

 何気ない調子に語るサイ。

 髭ロン毛は酷く驚いた調子で、スクリーンに映る動画を見つめていた。全ては彼が受け取る筈であったものだ。ここ数日、延々とかけずり回って、けれど、何一つとして手に入れられなかったものでもある。

「……まさか、本当にここまでするとは」

「ここから先は山田さんの意向どおり、貴方の領分ですね」

「本当に、本当に頂いてしまって良いのだろうか?」

「ええ、構いませんよ。それほど労力を必要とした訳でもありませんし」

「凄いな……」

 大部屋から続く小部屋に集まり、皆々で眺めるのはアニメの動画。

 まだ色の塗られていない、今回の収録に使われる予定の映像。

 そう、サイの提案とは、山田の悲願を実現することであった。

「ありがとう。こんな、こんなことが叶うなんて、夢のようだ」

「お礼は山田さんに仰って下さい。我々は彼に借りを返しただけです」

「……そうなのか」

「他にスタッフも用意させて頂きました。既存の制作ラインへ乗せることは不可能だと思われますので、今後の制作については、我々へ注文をお願い致します。どの分野に置いても、我が組織に所属する最高の仲間を揃えさせて頂いております」

「まさか、全編を取り直しと言っていたのは……」

「やるからには徹底的に、と。我らの王からの指示です」

「そ、そうか……」

 サイの言葉を受けて、ほろり、髭ロン毛の頬に涙が伝った。

「では、始めましょうか」

 サイの言葉を受けて、彼が連れてきた者達が一斉に動き始める。

 ある者は音響機器へ向かい、ある者は台本を片手にマイクへ向かう。今日この日の為にサイが、騎士団や騎士団の下位組織、友好組織から募った、有職者により構成される一団である。もちろん、職云々については伏せての精鋭クリエイターという形だ。

 二人の間で取り交わされた約束はたった一つ。これまでの制作を捨てて、スタッフを新たに作品を作り直すというものだった。そして、これに必要な費用や人員をサイが全て用意するという、一方的な契約である。監督にしては、願ってもない幸運だろう。

 サイと髭ロン毛のやり取りを傍らに眺めて、ロリ嫁が何気ない調子に呟いた。

「これがお前のやりたかったことか……」

「そうだよ。これが俺のやりたかったことだよ」

 スクリーンから彼女に意識を移して、山田は素直に頷く。

「これで以前と変わらぬ駄目声を晒しては、大した恥さらしだな?」

「う、うっせぇなっ、んなこと分かってるよっ」

「本当か? 本当ならこうしてこの場へやって来ることもなかったろうに」

「誰がぶっちするかよっ! 俺は喋るんだよっ、絶対にっ!」

「ははんっ、せいぜい笑いものになるがいいさ。私も笑ってやろう」

「このクソガキっ、相変わらず良い性格してやがるな……」

 ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべるロリ嫁だった。

 その立ち振る舞いは、昨日までと何ら変わりない砕けた態度だ。

 ならば、そんな二人の下へ歩み寄る者が一人。

「ちょっとアンタ、昨日言ったこと、嘘じゃないでしょうね?」

 天才声優少女である。

 彼女は挑むような調子で山田へ語り掛けた。

「昨日?」

「その子の声についてよ」

「あ? あぁ、そのことか。それなら間違いない。絶対だ」

「……絶対、ね」

「おい、なんだ? この小娘は」

「こ、小娘って……」

 自分より歳幼い童女から小娘扱いを受けて、頬を引き攣らせる天才声優少女。後者が中学生であるのに対して、前者は小学生中学年程度の外見をしている。当然と言えば当然の反応だった。

「いや、お前の声も凄いけど、こっちも伊達にプロじゃないんだよ」

「この娘も役者なのか?」

「そうだよ」

「ふぅん……」

 役者という共通の知見が故だろう。

 ロリ嫁の品定めするような視線が、彼女へと向けられる。

「な、なによ?」

「まぁ、そう言うからには楽しみにしておいてやろう」

「ねぇちょっと、この子、なんでこんなに偉そうなのよっ!」

「いや、お前だって普段はこんなもんだろ?」

「わ、私はここまでじゃないわよっ!」

「傍から眺めりゃ、大して変わらねーよ」

「変わるわよっ!」

 出会って早々、口喧嘩を始める天才声優少女と山田。

 ただ、本日にしてはそれも長くは続かない。

 ああだこうだ、言葉を交わす三人の下へと監督から声が掛かる。

「では、そろそろ始めるとしようか」

「よっしゃっ!」

 山田紅蓮、ようやっと、待ちに待った収録の時間だった。

◇ ◆ ◇

 幾つものマイクが立ち並ぶ一室にて、以前に同じく、その日の収録は行われている。そして、場面は今まさにクライマックスを迎えようとしていた。

 山田が演じる男性キャラクターの名前はジョン。ロリ嫁が演じる女性キャラクターの名前はローラ。この二人が強大な敵に追われて逃げ惑うシーン。

『畜生っ、やっと、やっとここまで来たってのにっ!』

 マイク越しに山田の声が響いた。

 これに間髪置かず、ロリ嫁の声が続く。

『お願い、一人で、一人で逃げてっ! もう私のことはいいから!』

 本来の彼女であれば、絶対に言いそうにない台詞だろう。けれど、これを彼女は完全に映像へ添わせる形で、それこそが生来のものだと言わんばかり、見事に演じてみせる。

 対する山田はと言えば、傍らに彼女の存在を置いて――――

『だ、誰が逃げるかよっ! こうなったらとことんまで付き合うぜっ……』

 けれど、全く気負った様子もなく、ただ無我夢中に自らのキャラを演じていた。今この瞬間を他の誰よりも楽しむのだと、他の誰よりも精一杯に生きるのだと、他の誰よりも満足な時間にするのだと。

「……確かに凄い」

 マイクから離れて、天才声優少女が呟く。

 彼女の耳を通しても、ロリ嫁の演技は大したものだった。

 また、彼女の他、大勢集まった有職者達にしても、これは同様である。映像に向かい声を吹き込むロリ嫁の姿に圧倒されていた。こちらにしては二つの意味で圧巻だろう。純粋に役者としての能力と、また、世間に恐れられた元魔王の意外な一面と。

 マイクの前に声を発する態度こそ、まさに元来の魔王ロリータを思わせる、酷くふてぶてしい様子そのもの。けれど、スクリーンに映し出された映像を眺めては、そうした姿も寸毫として想像できない弱々しい女性の在り方。

『どうしてっ!? どうしてそこまで、そんな、私に……』

 チラリ、台詞を口にしたロリ嫁が、隣に立つ山田へと視線をやる。

 彼女の見つめる先、彼はただ一心に映像を目に追っていた。

『うるせぇっ、なんでもいいから、ほらっ、ちゃっちゃと逃げるぞっ!』

『でもっ! もう、わ、私なんて、私なんて捨てていいからっ!』

 ここで新しくキャラクターが画面へと入ってくる。二人の担当するキャラクターを追い掛ける敵役。天才声優少女が演じる、ミラという名前の女性キャラクターだ。同アニメにおいては視聴者人気を二分するレギュラーヒロインである。

『ふはははははっ! 見つけたぞっ!』

 中学生とは到底思えない、貫禄と迫力を兼ね備えた声が響く。

「ほぅ……」

 これを耳としては、ロリ嫁も関心した様子だ。

 小さく息を漏らす。

『あっちへ行ったりこっちへ行ったり、よくまあ逃げてくれたものよ』

『ちぃっ、もう追いついて来やがった……』

 天才声優少女が傍らに声を発しても、山田の意識はスクリーンから離れない。

 必至の形相で線画から成るそれを見つめている。

『ジョンっ! もう駄目よっ、早く、貴方だけでもっ!』

『なに阿呆なことを言ってんだよ!』

 実際、ロリ嫁や天才声優少女と比べずとも、山田の声はあまりよろしくない。ずぶの素人と比較してはマシだが、それでも新人声優としては下手な部類に入る。これが二週間に渡る特訓の成果だとすれば、もちろん、決して悪くはない。けれど、如何せん経験が不足していた。

 しかしながら、妙に耳に残る声質であって、これが最低限のところで彼の声を聞けるものへと至らせていた。天才声優少女が彼に対して、少なからず興味を抱いたのは、この声質から来るものが大きい。

 ただ、当の本人はその点をまるで気にしていなかった。

 今をひたすらに、自らへ割り当てられたキャラクターを演じばかり。

 そして、もちろんそれは、数日前にはロリ嫁に否定された、担当キャラクターへの自己投影を踏まえた上での行い。自分には叶わない色々を、せめて映像の中に残すべく、今の彼はジョンというキャラクターになりきっているのだった。

 最後の台詞へ向けて、自らの内にキャラクターの心を得ようと、一生懸命だった。

『逃げられるものか。二人まとめてなぶり殺しにしてくれるっ!』

『ローラ、先に行けっ! 俺が時間を稼ぐっ!』

 唾を飛ばしながらの台詞。

 昨日の喧嘩もさながらの気迫が、今の山田にはある。

 ただ、どれだけ役に自らを漬け込んでも、彼は手応えを感じられないでいた。幾ら熱を入れてみても、映像の中のキャラクターは、自分とは異なり、最後の台詞を想像しただけで、遠く離れていってしまう。

 それが不安となったのか、ぶわっと額には大量の汗が。

『いい加減に死ねよ。貴様らには過ぎた幸福であったと知るがいい』

 いよいよ、場面の終わりが近づいてきた。

『君だけでも行ってくれっ、ローラっ!』

『えっ!?』

 山田の演じるキャラクターが、ロリ嫁の演じるキャラクターへ向けて腕を伸ばす。トンと背中を押す。今まさに閉まるべく動いていた、巨大な石の扉を境として。

 これにより両者は分厚い壁に挟まれて、袂を分かつこととなる。

 山田の演じるキャラクター、ジョンの背後からは、天才声優少女が演じるキャラクター、ミラが駆け足に迫る。まさに絶体絶命のシーンだった。

 ゆっくり、けれど、確実にしまりゆく扉。

 既に身を通すことは出来ないほどに間隔を狭くした、観音開きの扉。

 その隙間を挟んで、僅かばかりのやり取り。

 画面に映るのは嘆くローラだけ。ジョンの姿は扉の向こう側。

『ジョンっ! どうして、どうしてぇっ!』

 ロリ嫁が一際に耳を惹く声を発した。

 そして、次に用意されたのが、山田に与えられた最後の台詞。

 何度を口にしても、決して理解できなかった、男の台詞。

 だから、今この瞬間、彼は続く言葉に詰まってしまった。

 数瞬が流れて、彼の両隣に立つロリ嫁と天才声優少女から視線が集まる。彼女達の他、部屋を同じくする声優達からも注目を浴びる。

 時間にしては数秒にも満たない時間。

「……この阿呆は」

 ボソリ呟いて、ロリ嫁が彼の手を、自らの手に握った。

 彼と比較しては、とても小さな手だ。

「……え?」

「……早く喋れよ。お前の台詞だろ?」

「あ……」

 指に触れた暖かな感触と、すぐ近くにあるロリ嫁の顔。

 ほんの僅かな、とても些末な出来事。

 何気ないロリ嫁の行い。

 けれど、それは山田の胸を熱いもので一杯にした。

 ここ数日の間で経験した、実に様々な出来事が、一挙に彼の思考を占拠する。そして、そこに占める目の前の相手の姿。今日も昨日に変わらず、相変わらずのスウェット姿が、ツンとした素っ気ない眼差しが、彼の心に焼き付いて、離れない。

 止めどなく熱いものを生み出し続ける。

 そして、それは小さく窮屈な山田の心から、容易に溢れ出した。

 続く台詞は意識することもなく、自然と口から溢れていた。

「お前のことが、好きだっ、好きなんだっ! ……だから、さ、先に行けよっ!」

 幾十、幾百と繰り返して、けれど、初めて満足のいく最後の台詞だった。

 画面には映らない、壁越しの告白。

 瞬きをする間もなく、唐突、ツゥと、頬に涙を伝わせる現実の恋愛童貞。

 スクリーンの中では、バタン、石の扉が完全に閉じられて、ジョンとローラが離ればなれになる。厚い壁の反対側に好きな男を残して、彼女は悲しみから声を荒げる。両手に石壁を叩く姿は、まるで現実が信じられないよう。そして、声はまさにその通り。

『ジョンっ! えっ? ジョ、ジョンっ!? ジョンっ!?』

 石の壁を必死になって叩くローラ。

 演じるロリ嫁の声色は、本当に泣いているかのようだった。

『ジョンっ! ジョンっ! お願い、お願いだから返事をしてぇっ!』

 シーンの最後は、泣き叫ぶローラの悲鳴に終えられた。

 そして、終幕。

 この瞬間を持って、山田紅蓮の人生の目的は、全てが達成されたのだった。数週間に渡り、あれやこれや、やたらと遠回りをする羽目となった一連の出来事。思い起こす本人にしては、感無量、ギュッと眼を閉じて、天井を瞼越しに見上げる。

 スクリーンには、次話へ続くの文字が流れていた。