金髪ロリツンデレラノベ 第一巻

第一話

窓の外から聞こえてくるチュンチュンという雀の鳴き声に俺は目を覚ました。

目覚まし時計は鳴っていない。素晴らしい事に、そのベルが鳴り始める前に身体は勝手に覚醒したようであった。そのせいもあって、寝起きは最高である。今日ほど清々しい目覚めは久しぶりだった。ベッドの中でグッっと伸びをする。昨日、放課後の教室で打ちつけた腰の方も痛みも既に引いており、体は最高潮といった具合だ。

「起きるか」

ベッドから降りてもう一度立って伸びをする。今日は宝石屋へ行って、吉川の拾ったルビーを鑑定してもらう予定である。

「………………」

それはまるで、遠足の前夜に感じえた興奮状態のような、懐かしい感覚である。夜は疲れが溜まっていたおかげか、いつの間にか眠っていたが、これから登校して、学校が終わるの間が酷く待ち遠しく感じる。

部屋へ光を入れる為に、部屋の南側にあるベランダに面した窓のカーテンを空ける。生地を両手で勢い良く引くと、シャッっと小気味良い音を立てて、薄水色のカーテン布地が窓枠の元へと移動する。それに応じて、良く晴れた空から日光が部屋へと入り込んできた。暗闇に慣れていた目が明るい光に刺激されてホワイトアウトする。

本日は雲ひとつ無い快晴らし……、

途端、

俺は体が焼かれるような激痛に襲われた。

「あ゛ああああああああああああああああ!」

一瞬何が起きたのか理解できなかった。とにかく体が熱く、それこそ火のついたタバコを全身に押し当てられているような衝撃が全身に走った。

余りの激痛に膝をつき、フローリングの床を転がるように移動して、ベッドに横たわった。刺激のある部分に目を向けると、皮膚は熱した鉄板に押し当てられたかのように焼け爛れていた。

「な、何だっ! なにがっ!?」

突然の痛みに頭の中が真っ白になる。火傷が出来たのは一瞬の出来事であった。逃げるようにしてベッドに横になり、体を抱えて必死になって耐える。焼け爛れた部分からくるズキズキと疼く痛みに、必死になって歯を食いしばり、声を上げないよう我慢した。

「………………ぅぅ」

カーテンを開けた途端に、全身が鉄板で焼かれたような感覚に見舞われたのだった。その痛みはあれは尋常ではない。今まで生きてきた16年間の内で、これほどの激痛を感じた事はない。

「ッてぇ…」

どうしようもなく痛かった。シーツと焼けた皮膚が擦れ、それがまた目玉の飛び出るように痛くて、叫び声が口から漏れそうになるのを、ギリギリと音が立つ程に歯を食いしばって耐えた。

「痛ぇ……」

目も開けていられない。この歳で声を上げて泣き出しそうだった。涙が溢れてきそうだった。下手に動くとまたシーツや布団に皮膚が擦れるので、下手に身動きを取ることも出来ない。ただひたすらにジッとベッドの上で固まっているしかなかった。

「……………………」

目を覚ました時には全然なんともなかったのに、それが一瞬の内に全身火傷である。

「どうなってんだよ……」

皮膚は爛れて、グチョグチョのデロデロのである。正直、自分の身体でありながら、生理的嫌悪感を抱かずにいられない状態であった。加えて、周囲にはフライパンで生肉を焼いた様な、なんとも言えない悪臭が漂っている。それが自身の体から出ているのだと思うと、思わず吐き気を催した。

そして、更に追い討ちを掛けるかのような出来事が俺の身に起こった。それは、ある意味皮膚が焼け爛れるよりも恐ろしい変化である。

一切の理解を得ないまま、ただひたすらに痛みに耐えていたのだが、何故だろう、不思議なことに、体の痛みが徐々に引いていくのを感じたのである。そこで、俺は閉じたままになっていた目を薄っすらと開いたのだった。

「け、煙っ!?」

視線の先には、まず煙があった。そして、その煙はどういう訳か、身体の焼け爛れた箇所から上っていた。グラスへ勢い良く炭酸水を注いだ時に聞こえてくるような、そんな軽い音を立てて、煙は身体の至る所から立ち上がっていたのである。

「お、おい、どうしたってんだよ、おいっ!」

加えて、煙が立ち上がっている箇所は、痛みを感じながらにして、どうにもむず痒かった。正直、怖くて見たくないのだが、自分の身体の事なのだ、確認しないわけにもいかない。反らしてしまった視線を再び、煙を立ち上がっている箇所へ恐る恐る向けた。すると、まるでトカゲの尻尾が再生する様子を早送りで見ているかのように、俺の焼け爛れた皮膚は元の状態へと戻っていっているのだった。

「だぁぁぁっ!」

自分の体に起こっていることの気持ち悪さに、思わず叫び声を上げて身悶えしてしまった。傷口から上がる煙は、ドライアイスから気化した二酸化炭素のように、天井へゆっくりと上っては、途中で霧散して消えていく。

「煙が出てるよ、煙が……」

煙は無臭で特に何か刺激があるわけでもない。けれど、その現実味の無さ加減といったらどうしてくれよう。自身の身体に起こっている事なのに、言葉も無くその様子を見つめるしか出来なかった。

しばらくして、傷口から噴出す煙はある時をピークにして徐々に減っていった。煙の勢いが弱まっていくことに、多少だが胸を撫で下ろす。それまでは、このまま体が煙になって無くなってしまうのではないだろうか。などと恐ろしい想像までしていたのだが、だが幸いな事にそれはなかった。

そして、最後には全てが元通りとなっていた。今までの出来事は全てが無かったかのように、傷ひとつ無い綺麗な肌が煙の中から顕になったのである。痛みも疼きも何も無くなっていた。焼け爛れていたはずの皮膚に、その跡は一つも残っていない。

「治った…………のか?」

本当に僅かな時間で、俺の体は痛くなったり直ったり。

「なんだっつーんだよ、こりゃ」

体の芯から来る、寒気にも似た恐怖に思わずベッドの中へともぐりこんだ。俺の体に何が起こったというのだろう。

朝起きたときはなんでもなかったはずだ。そう、たしかカーテンを開けた瞬間に、いきなり激痛が走ったんのである。そして身体は火傷を負っていた。正直理解に苦しむ展開である。

爽快な目覚めは速攻で、かつて無いほど最悪なものへと変わった。正直、これは夢だと思いたかったが、先ほどの痛みは間違いなく現実だった。布団から頭だけを覗かせて窓の方を見る。外からは太陽の光が燦々と注がれており、今日が快晴であることが良くわかる。

「ああもうっ、意味わかんねぇよぉっ!」

布団を頭までかぶって、ベッドの中で答えの出ない謎に思考をめぐらせる。もう本当に叫ぶことしか出来なかった。

俺の体はどうなってしまったのだろう。火傷をして、煙が出て、傷が直った。恐ろしいことに、あれほど凶悪だった痛みは微塵も感じられない。触れる皮膚の感触はいつもの通りで、そこがつい先ほどまでボロボロに焼け爛れていたなどとは到底思えない。

「…………」

どうにもベッドの中から出られない。下手に動いて、またあの意味不明な火傷を味わうのは嫌だった。甲羅に閉じこもり動けない亀のような心境だった。

「アハハハハ、なかなか面白いことをしているな」

「っ!?」

そんなとき、ベッドの上で布団に包まっていた俺の耳に、高々と響く笑い声が聞こえてきた。

「な、なんだ!?」

一瞬外を歩く奴らの話し声とも考えたが、それにしては良く耳に届く。驚いた俺は掛け布団の間から顔だけを出し、声のする方向を向いた。すると、そこにはベランダから部屋へと土足で踏み入ってくる子供の姿があった。

しかも、そいつは正しく昨日俺が教室で見たあのガキであった。

「お、お前は……」

「なかなかおもしろい事になっているようだな」

顔には笑みを湛え、声は楽しそうに弾んでいる。

その幼い身体に不釣合いな、無駄に露出の多い衣装は記憶に新しい。腰下にまで伸びた長いブロンドの髪は、きっと今後数年は忘れる事の無いであろう、圧倒的な存在感を持って、俺の脳内に残っていた。

「気になって様子を見に来てみれば、これまた、なかなか笑える状況になっているじゃないか」

相手は土足のままフローリングの床を歩き、こちらへとやってくる。そして、昨日と同様に、その容姿に随分と不釣合いな、人を舐めきった口調で、こちらの神経を逆撫でる挨拶をしてくれた。

「なんでお前がここにいるんだよっ! しかも勝手に土足で人の部屋に入ってきてんじゃねぇよっ! 靴脱げ靴っ!」

「そりゃ下僕のいる場所くらい把握しているさ。貴様のような奴でも、偶然とはいえ私のファミリーになってしまったのだからな」

下僕? 家族?

ガキは何やら良く分からない単語をツラツラと口にする。

「私も堕ちたものだ。いくら力の損失に動揺していたとは言え、このような塵に血を許してしまうとはな」

俺の話など何処吹く風で、相手は勝手に何やら喋りながらゆっくりと進んでくる。

「ふ、ふざけんじゃねぇぞっ!」

布団を払い除け、ベッドの上に仁王立ちになった。

「ほぉ、そこから出てもいいのか? また痛くなるかもしれないぞ?」

ニタリと口元を歪め冷笑を浮かべる闖入者。

「う、うるせぇ、なんでお前がそれを知ってんだよっ」

それほど広くない俺の部屋である。ガキは数歩進むとすぐにベッドの隣まで来た。腕を組んで偉そうに俺を見上げてくる。その様子は確かに、昨日に放課後の教室で会った奴に違いない。

「それは見ていたからな。貴様が悶え苦しむ姿はなかなか甘美だったぞ?」

「こ、この野郎舐め腐りやがって」

今の自分が置かれた状況と、相手の意味深かつ偉そうな物言いが、俺の混乱した頭に最後の一撃を与えていた。普段ならば子供を相手に此処まで熱くなる様なことはあり得ない。しかし、先程からの理解不能な出来事の連続が、俺の理性の箍を軽く壊していた。

布団のから飛び出した俺は、勢いに任せてその襟首に掴みかかった。

「んなっ!?」

しかし、俺の手はガキの腕をつかむことなく空を切った。一瞬、その意味する所がわからなかった。どういうことだろう、相手はそれまでいたフローリングの上から、いつの間にか俺と同じ土俵、ベッドの上に立っていたのである。

「なっ、いつの間にっ!?」

しかも土足である。

「それはお前がトロいからだろう? 吸血鬼化したとは言えまだまだひよっ子といったところか」

「ひ、ひよっ子だって!? 一体なんだってんだよ、このクソガキがっ!」

掴み掛かったのを避けられた事と、それを更に馬鹿にされたことで、一気に頭に血が上った。今度こそ捉えてやろう。そう思い再び相手の腕を掴みにかかった。しかし、それもアッサリと避けられてしまった。そして、腕を伸ばした俺の脇下を潜り抜け、次の瞬間にはこちらの背後を取っていた。その動きは早いなんてもんじゃない。

「学習能力の無い奴だな。お前では私に触れることは出来ないと分からないのか? 貴様は猿か?」

「この野郎、一体どうなってんだよ!」

先程から俺の言葉は疑問詞の連発である。

「まさかこの私が貴様のような奴に血を奪われるとはな。これでは怒りを通り越して笑うしかないな」

「んだとっ!?」

相手の言葉の意味は俺には分からない。しかし、それが俺を馬鹿にしているということだけは、何となく相手の態度から理解できた。

「まあ、そう怒るな。別に今日は取って食いに来たわけじゃない。話があって来たんだ」

「何が取って食うだってんだよっ! 昨日は思いっきり噛み付きやがったくせして、良くそんな台詞が吐けるな。それに、こっちは朝から訳の分からない事が連発で大変なんだよっ! お前に構ってる時間なんざコンマ一秒も無いんだよっ!!」

混乱気味の脳味噌は、未解決のまま処理の止まっていた言葉達を、矢継ぎ早に何の脈略も無く吐き散らしていく。

「そうだろうな、何も知らずに起き掛けで早速死にかけたのだろう?」

「っ!」

「だから私がこうして、わざわざ出向いて来てやったのだというのだ。大人しく黙って私の話を聞け屑が」

「く、屑とか言ってんじゃねぇよクソガキ!」

相手の子供はとんでもない毒舌で語りかけてくる。これが初対面の相手に対する態度だろうか? というか、これが本当に子供の話す言葉だろうか? もう、何がどうなっているのか判断のつかない状況に、頭は混乱を極めるばかりである。

「ほぉ、だが聞く耳持たぬと言い張るのも結構だが、そのままだと貴様は永遠にその理不尽な症状に悩まされることになるぞ。それでもいいのか?」

「な、なんだよ、お前が何か知ってるって言うのかよ」

「ああ、知っているぞ?」

「っ!」

コイツは何者なのだろう。

「いいのか? 訳も分からずに火傷を負って、のた打ち回る目に合うような身体のままで」

「い、いいわけねぇだろうが」

「だろう? だったら私の話を聞いたほうが得だと思わないか? 私はお前の体に起こっている不思議を説明してやれるぞ」

クックックと不気味な笑い声を上げながら人の顔に手を伸ばしてくる。

「さ、触んじゃねぇよっ」

その手を触れるか触れないかの所で、慌ててと叩き落とした。

「まったく威勢がいいな。だが、そういう態度を取っている限り、貴様は一生そのままガクガクブルブルと震えたままだぞ?」

「くっ……」

「わざわざ私がこうして来てやったのだ、それをよもや叩き返すとはな。ならば私もこれ以上は何も言うことも無いわけだが、まあ、貴様が良いというのならば、それも良かろう。私も無理強いはせん」

「そりゃ……、仕方ないだろうが。第一何でお前が俺のこと知ってるんだよっ」

俺としては混乱が最高潮である。

「今は私が貴様に問うているんだ。聞くのか? それとも聞かないのか? 悪いが私はそれほど温厚に出来ていないのだがな」

ガキは人の内心を見据えたような態度で挑発してくる。正直一発ぶん殴ってやらないと気がすまないのだが、それでも俺は自分の体に起こっている事が知りたかった。背に腹は代えられないという奴である。

「…………」

「どうした?」

冷ややかな笑みを浮かべて俺を見下してくる子供がいる。そんな生意気なガキの言う事など、普段ならば無視だろう。けれど、今は自分の体がどうなってしまったのか、心配でしょうがなかった。

「わかったよ、聞いてやるよ」

だから、俺の選ぶ選択肢は一つしかない。

「フン、ずいぶんと偉そうな物言いだな。まあいい、教えてやる」

俺を鼻で笑ったガキは勝手にベッドへ上がり、そこに土足のまま胡坐をかいて座った。

「で、話ってのは何だよ。いい加減な事を言いやがったら、ただじゃおかねぇからな」

「ああ、無論話というのは貴様の体についてだ」

ガキが笑みを作るに応じて、口元がニィと不気味なまでに吊り上げられた。顔形は怖いほど美しく整っているが、それを差し引いたとしても上等に気味が悪い表情である。

「その物言いからすると、もしかしてお前が俺の体に何かしたって事か?」

でなければ、このガキが俺の身体について何を知っているというのだ。

「端的に言えばその通りだな」

口にした推測は、あっさりと肯定された。

「ほぉ……」

つまり原因はコイツなのか?

「それは事と次第によっちゃあ、ただじゃ済まさないぞ」

「それは別に構わんが、貴様が私に何か出来れば、の話だがな」

「こ、この野郎……」

相手の一言一言が癇に障る。

しかし、今は幾ら吼えても仕方が無い。とりあえず話の続きを聞くとしよう。何をするにしたって、その後でも遅くないはずだ。

というか、そもそもコイツは一体何者だというのだ。

「まあ……別にいい。それで、お前は俺に何をしてくれたんだよ」

「ああ、そうだな……」

言葉に困ったのだろうか。ガキは顎に手をあてて、何やら考える素振りを見せた。そして、しばらくの後に顔を上げ、俺の目を射抜くように見つめると、おもむろにその口を開いた。

「一言に言えば、お前は私の眷属になった。貴様らで言うところの吸血鬼、ヴァンパイア、ドラキュラそういった言葉で呼ばれている存在になったのだ」

「…………」

何を偉そうに語ってくれるのかと、息を呑んで待っていた。だがしかし、その口から語られた予想外の台詞を耳にしては、俺は怒鳴ることも出来なかった。

「吸血鬼ぃ?」

口をついて出てきたのは子供の戯言だった。

「お前、いい加減にしろよな」

「いい加減にしろ? それは貴様だろうが。私は吸血鬼になった、と言ったのだ。耳をかっぽじってしっかり聞いていろ屑」

「んだと? 馬鹿言ってんじゃねぇよ。今時流行らねぇぞ、そんなアホなの」

少しでも期待した俺が馬鹿を見た。しかし、目の前の奴は俺の言葉が届いていないのか、その先を気にすることなく続けた。

「やかましい、黙って聞いていろ。信じるか信じないかはお前が決めればいいだろうが。私はただ事実を言うだけだ。こうして教えてやるだけありがたいと思え」

仕切りなおしのつもりか、ケフンと咳払いを一つするガキ。

「まだ何か言うことがあるのかよ?」

いきなりやって来たかと思えば世迷いごとを。このガキは一体どこの家のお子様だろう。警察に連絡すれば、連れて行ってくれるだろうか? 今は自分の事だけで手一杯だというのに、勘弁してもらいたい。

「そしてだ、お前同様私も吸血鬼なのだ。というよりも私がお前を吸血鬼にした」

「はぁ? お前が俺に何をしたって?」

ガキの妄想はまだまだ続く。

「昨日私が現れた時、お前に食らいついただろう?」

言われて昨日の放課後の出来事が思い出された。

「ああ、やっぱりありゃ夢じゃなかったんだな」

首筋に手を当てると、昨日の貧血に倒れたときの感覚が蘇る。徐々に血を抜かれ、視界が狭まり、身体には力が入らなくなり、そして気を失ったのだ。それは、てっきり俺の勝手な妄想か何かだと思っていたのだが、そうではなかったようだ。

「無論だ、私は夢魔では無い」

夢魔ってなんだ?

「それで、だから何だっていうんだよ?」

とりあえず、よく分からない単語は無視して先を促す。

「あの時、自らの魔力が失われている事に気づいた私は、手近にいたお前を下僕にしようとして血を吸ったのだがな……」

「…………」

相手が続けるのは、馬鹿な話しの上塗りだ。突っ込み所は満載だが、その全てに言葉を返していたのでは限が無い。大人しくその口上に耳を傾けることとした。

「吸血鬼に血を吸われた者はどうなるか知っているか?」

「俺が知ってるわけねぇだろうが」

というより、その吸血鬼とやらが駄目なのだ。そこから発展する話には意味なんてない。そもそもの仮定からして間違っているのだ。

「吸血鬼に血を吸われた者は吸血鬼になるんだよ。それも血を吸った吸血鬼の下僕、奴隷、手下、そういった類の精神までを完全に支配された吸血鬼になる」

「なんだよそりゃ、どんな御伽噺だよ」

吸血鬼というとアレだ、今やってるゲームで、どうしても倒せない中ボスが確か吸血鬼だった筈だ。

「だからお前も俺も吸血鬼なのか? そりゃまた大きく出たな」

子供のホラ話にしては随分と細かな設定だ。

「なんだ貴様、吸血鬼も知らんのか?」

「知ってても知らねぇよ。っていうか、そんな奴が居るって言うなら、是非とも見てみたいものだね」

Lv47の勇者様が最強装備でも太刀打ちできないままゲームオーバーだったんだぞ? 一発の攻撃でパーティーが全員HP半分以下なんだぞ? 正直ゲームの世界で言うレベルという尺度がどれほどのものなのかは理解しかねるが、少なくとも民間人は一撃で死亡だ。そんな奴が町を闊歩していたら明らかにアウトだろう。

「ならば願いかなったりではないか、感謝しろよ」

「…………」

しかし目の前の相手は真顔でそんな事をのたまってくれる。

「まぁ、いきなり信じろといっても無駄かもしれんがな」

「当たり前だろうが。そんな与太話じゃガキも騙せないだろ」

「だが、今の貴様に起こっている変化も似たようなモノではないのか? 朝日を浴びただけで体が溶けるなんぞ、滅多にかかれる病では無いと思わないか?」

「………ぁ」

朝日なのか? 原因は。

「それは、そうかも……しれないけど。でも……、そんな馬鹿な話があるかよ」

やたらと皮膚が弱くなって、日光で溶け出すようになった。

…………とかは無理があるか。

「吸血鬼が太陽の光を浴びるとどうなるか、聞いたことは無いのか?」

「そうだな、今やってるゲームなら防御力半減ってところだな」

それでも倒せないから困っている訳だが。

「だとしたらどうだ」

ガキの語る話の真偽は、今の俺にはどう頑張っても判断できないだろう。普通なら、警察に電話の一本でも入れて、それでいっちょあがりだ。けれど、俺の置かれた状況は決して普通ではなかった。

「…………」

さぁ、これはどちらを選べば良いのだろうか。

「まっ、貴様が信じようが信じまいが、その身体で陽光を浴びれば、のた打ち回るのには変わりないがな」

「マ、マジかよ!?」

淡い希望であったがやはり、あの痛い出来事は嘘や偶然でないらしい。開いた口が塞がらないとはまさにこの事である。

「どうだ?」

どうだ? と言われても俺はどうすれば良いものか。

頭は現状を整理することさえままならない混乱具合だった。

とはいえ、先程の痛い思いが聞いたのだろう。しばらくの沈黙を置いて俺の首はゆっくりと縦に動いた。ガキの言う童話は信じられる代物ではないが、事実として火傷は起こったのだ。それならば、少なからず耳を傾けた方が良いのでは? といった判断を脳味噌は下したのだった。

というか、むしろそれは無意識下で相手の話を自分に無理やり信じさせようとした結果なのかもしれない。無論、相手の意向通りに話が進むことへの腹立たしさを感じるが、事実として俺の体に起こった変化は相手の言葉通りであり、自分が知っているどんな病にも該当しない。

結局、選択肢は元より無かった、という結論だった。溺れる者は藁をも掴むとは誰の言葉か。宗教団体がいつの世もなくならない理由を理解できた気がした。

「それでお前は、俺がその吸血鬼という奴の下僕になったのだと言いたわけだ?」

話の合間に所々出てくる魔力云々といったファンタジーな単語は、適当に無視しておく事にする。とりあえず今聞くべきは自身の身体に関してだ。

「いや、それが本当はここで頷きたい所だが、それが出来ない」

「違うのかよ?」

「確かに血を吸われた人間は血を吸った吸血鬼の下僕となる。しかし何事にも例外が存在するように、その血を巡る吸う吸われるの関係にも例外がある。それが昨日起こったことだ。覚えているか? お前に食らいついた私にお前がした事を」

「俺がした事?」

教室での出来事を思い出す。あの時こいつに噛み付かれた俺は……、確か噛み付き返したのだった。

「お前に噛み付き返したな。思いっきり」

「それだ、それが吸血鬼の主従関係の中にある唯一の例外だ」

「例外、ねぇ・・・・」

「普通、下僕になった吸血鬼はその精神さえも血を吸った吸血鬼、主とでも言うべき存在に強制的に服従させられることになるのだ。実際のところは体内に取り入れた血を元にその対象を操るわけだがな」

「ふーん」

「しかしだ、そのとき逆にその血を吸われた吸血鬼が、自らの主の血を吸ったらどうなると思う?」

「俺が知るかよ」

「頭の悪い奴だな。そうなった吸血鬼は上下関係から開放されるのだ。そして二人の吸血鬼はまったくの対等な存在になる。まあ、考えてみればなんとなくでも納得できるだろう。お互いがお互いの下僕なのだからな。うまく出来ているものさ」

「ふーん」

こいつの口から出てくる話はその全てが御伽噺もいいところだ。俺が返せるのは間抜けた相槌だけである。

「それでだ、そうなった吸血鬼は一般的にファミリーと呼ばれる関係になるのだ。言葉の意味どおり日本語でいう家族と言う奴だな。夫婦、兄弟、姉妹、そういった関係だと思えばいい。実際に吸血行為をしたと言う事は、物理的に血がつながってしまったという事でもあるからな」

「………家族ねぇ」

一体それが何だと言うのだ。

「ああ、一つ言っておくが、吸血鬼にとっての自分の血というのは生きていくうえでもっとも大切な事だ。忘れるな」

そりゃ血が無ければ死んでしまうんだ。大切に決まっているだろう。

「で、それが俺の体が痛くなるのにどう関係してるんだよ」

「貴様も吸血鬼という言葉を聴いたのは初めてではないだろう? 我々は人間共の書く書物によく出てくる存在だからな」

「ああ、知ってるよ」

十字架とにんにくが苦手ってやつだろ、たしか。

「じゃあ、もう大体想像がつくんじゃないのか? 吸血鬼は十字架が苦手、にんにくが苦手、流水を渡れない、銀に弱い。いろいろと弱点がそれら書物には記されているだろう。だがその中で最も吸血鬼にとって致命的な弱点、それが日光だ」

「日光?」

そういえば、さっきは俺がカーテンを開けたとたんに……。

「もう理解できただろう。まあ、貴様は私の血を多少なりとも飲んでいたからこうして全身にこの太陽光を浴びたにも関わらず生きていられるのだからな。感謝しろよ? 普通の新米吸血鬼だったらさっきので間違いなく灰になっていたぞ」

灰になっていた?

吸血鬼だから?

っていうか、吸血鬼って?

「なあ、それって結局……」

「なんだ?」

こいつの言葉を全て信じるつもりは無いが、もし、仮にその吸血鬼とやらが本当に存在したとすれば、こいつが話した事をまとめれば、俺の体が訳の分からない事になってる原因っていうのは……。

「全部お前のせいじゃねぇかこの野郎っ!」

かつて無いほどの形相をしているであろう俺は、思い切り目の前の相手を睨みつけて吼えた。自分の中にある、どこに向けたらいいのか分からない理不尽な怒りの矛先が、ようやく見えたのだった。

「そういう事になるな」

しかし、相手はそれをしれっと軽く受け流し、何でもないことのように口にした。

「そういう事になるな、じゃねぇよ! どうしてくれんだよ俺の体をこんな風にしてくれてっ」

冗談じゃない、なんで俺がこんな目に会わなきゃならないのか。吸血鬼云々はこの際どうでもいいが、実際にこうなった結果とその原因が目の前で偉そうな態度を取っているのが非常に頭にきた。

「まあ、聞け。今日私が出向いてきた本題はここからだ」

「聞けだぁ? 何言ってやがる。そんなことよりとっとと俺の体を元に戻しやがれっ!」

「悪いがそれは出来ない、言い忘れたが、吸血鬼になってしまった人間を元に戻す方法はかれこれ何百年と研究されているらしいが、今のところ成功例は一つもない。吸血鬼への変化は一方通行なんだ、あきらめろ」

は!?

なんだって?

じゃあ俺はどうなる?

「じゃあなんだ、俺はずっとこのままこうして部屋で震えてろっていうのかよ、おい!」

「だから聞けといっているだろうが。まだ太陽の下を歩く方法が無いと断言した訳ではないだろうが。第一現にこうして私はここまで日の下を移動してきたんだ。少しは落ち着いたらどうだ」

言われてみればそうだった。コイツは部屋に入る前はベランダにいた。だとしたらそこでは間違いなく日の光を体に浴びているはずだ。にもかかわらずこうして何も起きていないということは……。

「何かあるのかよ?」

「ああ、言っただろう? ここからが本題だと」

「…………」

クソっ、さっきからずっとこいつのペースだ。

「ふんっ、続けろよっ」

ぶっきらぼうにそう言い放ち、俺は湧いた怒りを何とか押し静めた。

「言われずとも続けるさ」

応じて、淡々とクソガキの語りは続く。

「人間にも色々と種別があるだろう? 黒いのやら白いのやら黄色いのやら」

「ああ」

「それと同じでな、吸血鬼にもいろいろと特殊性と言うものががあるのだ」

特殊性?

「それがなんだ?」

「つまりだ、中には私のように太陽の光を浴びたしても痛くもかゆくも無い、というような体質を持った者が、希少だが居るということだ。そして、お前が日の光を浴びておきながら、新米の癖に死なずに火傷程度で済んだのも、それが理由だ」

「ってことは、俺がその体質だっていうのか?」

「いや、残念ながらそれは違う。けれど、昨日お前は私の血を吸った。太陽の下を歩ける吸血鬼の血を吸ったんだ」

「だったら何だって言うんだよ、もったいぶるんじゃねぇよ」

じれったい奴だ。

「吸血鬼はな、血を吸った相手が吸血鬼だった場合、その体質の影響を一時的にだが受けるんだよ。だからお前はさっき日の光を浴びたにも関わらずくたばらなかった。私の血の効果で、太陽の光からの影響が少なくなっていたという訳だな」

「ふぅん…………」

「まあ、吸った血の量が少なかったから完全に無効化とはいかなかったが、間違いなくその効果は効いていただろう。とはいえこれも吸血鬼に限った話だ、普通の人間が吸血鬼の血を飲んだところで何も起きないがな」

「血を吸って…………なぁ」

「お前の場合は本当に神がかり的なタイミングだったのだな。ちょうど下僕化した直後に、それまでの勢いで私の血液を吸ったのだろう」

ということは、もし少しでもタイミングがずれていたのなら、俺は文字通り、このガキの下僕とやらに成り果てていたという訳か。それは身の毛も弥立つ話である。

「今説明したファミリーというものもそうだがな、とにかく相手の血液を口に出来ればその時点で相手の体質、能力といってもいいな、それが手に入るんだよ」

「そいつはまた、便利な機能がついてるもんだな、吸血鬼ってやつには」

「まったくだな。そして吸血行為に関しては昨晩の私がしたように、無論無理やり奪ってもかまわない。とにかく血を飲めばそれで良いのだ。無論、その場合は一方的に相手は下僕となるわけだがな」

「でも俺はお前の血を飲んでも糞痛かったぞ? そりゃいったいどうなってるんだよ。お前の血を飲めば太陽も大丈夫なんじゃないのか? なんか矛盾してるじゃんかよ」

先程の出来事は、もう、思い出しただけでも痛くなる。正直夢に出てきそうな程だ。

「それは単純に口にした血の量が足りなかったんだろう。吸血鬼化して一日も経っていない貴様が全身に陽光を浴びていたのだ、もし私の血を得ていなければ今頃は死んでいたと先ほど言わなかったか? 多少なりとも効果があったことに感謝しろ」

「ぁ、ああ…………」

やっぱり、それって本当の話なんだよな?

「ま、運が良かったんだな」

なんて物騒な話だろう。そんな簡単に死ぬだの生きるだのと、まるで違う世界の話をしているようだ。

「そうだな、お前くらいの体格だと1リットルは飲まなければ完全な効果が現れ無いだろう。それで大体3日、4日は持つはずだ」

「1リットルもか!?」

1リットルと言えば、ペットボトルのジュース2本分である。

「本気で言ってんの?」

「お前を相手に嘘をついても、私には何の得もない」

鼻血が出たときのことが頭に浮かんだ。鼻から口へ回った血液が少し喉を通過するだけでも随分な嫌悪を感じるというのに、それを1リットルも? しかもそれを3日に一回? あり得ない話だ。

「冗談じゃねぇぞおいっ!」

そんなの飲める筈が無い。間違いなく吐き出してしまう。

「だが、お前はそれをしないと一生日の下に出ることは出来ないぞ?」

「っ、クソがぁ………」

思わず拳を作った手に力が入った。しかし、そんな俺の感情を知ってか知らないでか、相手はさらに講釈を続ける。

「それに第一、いつ私がお前にタダで血を飲ませてやると言った?」

「な、なんだと!?」

くれるんじゃないのか!?

「あたりまえだろう? なぜ私がお前にそんな事をしてやる義理がある?」

「ってめぇ、人をこんなにしたのはお前だろうがっ!」

「そうだな、こうして中途半端に自我を残してしまったの問題だったな。まさか逆に噛み付いてくるとは思ってもいなかったんだ。お前は威勢が良すぎなんだよ」

「ふざけてんじゃねぇよっ! 何が威勢が良すぎだ、責任とれってんだよっ!」

「悪いがそんな責任を取るほど私は善人じゃない」

「んだとぉぉっ!」

散々薀蓄を並べておいて最後にそれかよ、人を馬鹿にするのもいい加減にして欲しい。

「もう辛抱ならんっ!」

相手が子供だと言う事も忘れ、俺は腰を上げて目の前の相手の顔面に殴りかかった。しかし、それは相手の小さな手の平によって、いとも簡単に止められてしまった。

「ふ、ふざけんなよっ!」

どうなってんだよっ!

「まあ待て、タダではやらんと言っただけだろう。タダでは、と」

「…………なんだよ」

「これから話すことが、私がここへきた理由だ。おとなしく聞け」

ったく、こうして拳を止められて、次はどうしろっていうんだ、クソガキが。

争いごとに巻き込まれた経験は、俺の17年間の人生の中でも幾らかはあった、だが、ここまで明らかな力量の差を見せられたことは一度も無い。言うまでも無く圧倒的だった。とはいえ、だからといって納得して腹の虫が収まるものでもなく、俺は煮えたぎった心中をギリギリのところで押さえながら相手に向き直った。

「なんだよ、聞いてやるから言ってみろよ……」

せめてもの抵抗にと、偉そうな物言いで言葉を返す。

「私はお前と契約をしに来たのだよ」

「契約?」

「そうだ、先ほど言ったようにファミリーになった吸血鬼には上下関係がなくなってしまう。つまり相手を強制させることが出来なくなる。しかし今の私は下僕が必要だ。」

「…………下僕ねぇ」

「無論、貴様以外の者でも良かったのだが、偶然とはいえファミリーになってしまったのだ、様子見ついでにこうして来たという訳だ」

自分のこめかみがピクピクきているのがよく分かる。

「その契約というのもお前が私の下僕であることを認める儀式なのだがな…………、まあ吸血鬼の上下関係ほどの強力なものではないから安心しろ。精神の自由もあるし、自我も十分に保てる。ただ私の命令に逆らうことが出来なくなるだけだ。まあ、これも形式的なものだがな」

「お前、本気でそれ言ってるのか?」

「無論だ。そもそもお前には選択権なんぞ無いんじゃないのか? この契約を飲まなければ永遠に日の下へ出ることはかなわないんだぞ?」

「お前、人に弱みに付け込んで、よくもまあふてぶてしい事を言ってくれるな」

「なんだ、うれしくないのか? 私の下僕だぞ? もっと喜べ、ほら」

「誰が喜ぶかこの糞野郎っ!」

無駄とは知っていながらも、理性のタガが外れた俺は再び相手に殴りかかった。振りかぶった右手を前に突き出す。ストレートだった。けれどまたも拳は空を切る。

「馬鹿が」

相手は首を捻り、ギリギリのところで拳を避ける。避けられたと思った時には既に腹部に向かって伸びて来る細い腕があった。ヤバイと感じる暇もあったかどうか。まったく対処が出来ないうちに、鳩尾へ恐ろしい衝撃が走った。

「っ!?」

応じて情けない音が口から漏れた。強烈無慈悲な一撃に、肺までが圧迫され息が出来なくなる。

「か、はぁあ」

腹を抱えこんで、口の中まで戻ってきた胃液を必死に抑えながら、シーツの上へ横たわった。俺の身体を受け止めたベッドは、そのスプリングを軋ませる。あたりには埃が舞い上がる。

「お前は猿か? いや、猿でも勝てない相手に手を出すような真似はしないぞ?」

座っていたガキが立ち上がる。相手はその場に座ったままの状態で、俺を一発のもとにノックアウトしてくれたのだ。こんなのありえない、何かの冗談ではないのか?

「しかも、もうコレで何回目だ? かれこれ3,4回は手を出して返り討ちにあっているんじゃないか? 本当に学習能力の無いやつだな」

ニタリと厭らしい笑みを浮かべたまま、相手は俺のすぐ前に立ちはだかった。

「おい、どうする? もっと殴って欲しいか?」

「こ、この野郎・・・・・」

「口がデカイ割には、腕っ節は大した事無いな。えぇ?」

打ちのめされたまま布団に肩を付けて喘いでいると、あろう事かそいつはこの俺の頭に足を乗せてきた。

「私も一応新米の手前、我慢しておとなしくしてやっていたのだが…………、そろそろこちらもお前の態度に合わせて行くとするぞ」

状況は恐ろしくピンチだった。喧嘩とか、小競り合いとか、そういうレベルじゃない事にようやく気付いた。ヤクザに喧嘩を売って袋にされているような、そんな圧倒的な感覚である。加えて、相手が相手なだけに、その悔しさに涙が出そうだった。まさかこんなチビのガキにやられるなんて、それこそ思いもしなかったのだ。

「う、うるせぇ……」

「ん? なんだ? よく聞こえないな。言ってみろ、ほら」

ブーツの底でぐりぐりと俺の頭をこねくりまわしてくれる。

「まあ、普段だったらお前のような奴は昨日の段階で始末してしまっているんだがな、私もファミリーを作るのはコレが初めてなのでな。感謝しろよ?」

グイグイと押し付けられる硬い靴底が、頭皮と擦れ合って非常に痛い。

「こ、この……」

「たまにはそういうのも良かろうと思い、こうして話をしてやっているんだ。私がYES、NOを受け付けているうちに頷いておいた方が身のためだとは思わないか?」

「…………」

「それにこの際だ、お前の自我は尊重してやろう。まあ、今の生活も条件次第では続けさせてやってもいい。無論、血も供給してやる。どうだ、悪い条件じゃあないだろう?」

「ぅう……」

「私に仕える事でバラ色の人生が始まる訳だ。どうだ、素晴らしいじゃないか」

それはどういう理屈だ畜生。思わず、脊髄反射で罵倒を口に出しそうになった。だがしかし、それは自制の元、喉の下に送り返される。自分でも本当に馬鹿げているとは思うのだが、もしもそれを口にしたのなら、相手の言葉通り、この人生の終わってしまいそうな感じがあった。

「さぁ、最後の選択だ。私と契約するのか、しないのか。答えろ」

頭の上の足に力がこめられた。

「…………っぅ」

仮に体重の全てをかけても、これだけの圧迫感が得られるものなのだろうか。頭蓋骨にかかる圧力は非常に大きい。その力に目玉が飛び出そうになる感覚を覚えた。

「どうした? このままでは頭をつぶしてしまうぞ?」

ギリギリと足にかかる力が段々と強くなってくる。これ以上力を加えられたら本気で頭蓋骨が陥没してしまうような気がする。

「ぐっ…ぅ………」

「どうした? 口を開け。私はそんなに気が長くないんだよ。あまり焦らされるとうっかり足に力が入ってしまうかもしれないぞ?」

踏みつけてくる力は段々と増していく。今まで感じたことの無い、全てを締め付けられるような痛みに、一瞬視界が反転した。

「ク、クソっ!」

そこが限界だった。嘘や張ったりでなく、コイツは本気で俺を潰す気なのかも知れないと思ってしまった。加えて、痛みも限界を超え、我慢が出来ない所まで来ていた。

「わ、わかったから! 契約する、するから足をどけろっ!」

朝の静かな部屋に俺の声が響く。言ってしまった後は否応にも感じる敗北感がある。

その回答に満足したのか、頭にかかっていた力はそれで解放された。頭上からは笑い声が聞こえてくる。まるで性質の悪い苛めにあっているような心境であった。こんな屈辱は生まれて始めてである。叫んで答えたのはせめてもの自尊の結果だろう。

「あぁ……」

開放された安堵の為か、出したくも無い情けない声を上げてしまった。

「そうだ、それでいい」

俺を見下し満足げな笑みを浮かべるクソガキ。

「では早速、縛を契るとするか」

今の俺の頭の中にあるのは、コイツに対する悪態だけだった。

「何が契約だ……」

頭に残る鈍い痛みを感じながら、布団に顔をつけてうつ伏せていた。すると、フローリングの床の上に、何かが放り投げられた。体勢をそのままに顔だけをそちらへ向けてみると、それはガキの履いていたブーツだった。次いで、頭上からは何かが擦れる音が聞こえてくる。

「お前、今度は何をやってんだよ」

痛む頭を起こし腕ををベッドに突いて、半身が横たわった姿勢のまま頭上の相手を見上げる。すると、そこには靴と靴下を脱いで、その足を俺の顔へと向けているガキがの姿があった。

「何の真似だよ?」

良くない不安を覚えながらも俺は聞いてしまった。

「何の真似? 決まっているだろうが」

そして、その良くない不安は速攻で的中し、現実のものとなり我が元へとやって来た。右足が口元に突き出され、その後に命令の声が続く。

「舐めろ」

「んなっ!?」

どこのSMクラブだよこの野郎っ!

「ふ、ふざけんじゃねぇぞ、何が契約だっ! 誰がそんなことするかっ!」

慌てて体を起こそうとした。しかし、俺がそう答えた途端に、相手の足は再び頭を踏みつけてきた。

「お前は私の問いに頷いただろう? 契約するとな。言っておくが、やっぱり無しなどと口にしてみろ、本気でこの中身の無い頭を潰すからな?」

「ぐぅっ……」

頭にかかる圧力は先程にも増して更に強い。思わずベッドの上に脳髄をぶちまけて横たわる自分の姿が浮かんだ。なんて凄惨な光景だろう。

「…………」

「どうした? 私は焦らされるのが嫌いだからな。言う事があるのならばとっとと口にしたほうが身の為だぞ」

「っうぅ……」

「ごぉぉぉーう、よぉぉーん、さぁぁぁーん」

なんて馬鹿な。秒読み始めやがったよ、この糞が。

ああもう、なんで俺がこんな事になってんだよっ!

「にぃぃぃいっ」

ギリっというありえない音が頭蓋骨から発せられた。

痛い、酷く痛い。

なんで朝っぱらからこんなアホなシチュエーションを繰り広げているのだろう。

どうしようも無いのだろう? 選択権なんてないのだろう? 

分かった、分かりましたよこの野郎っ!

「わぁーったよっ! やる、やればいいんだろっ!」

もう、プライドも何もかも全てが俺の中から流れ出てしまっていた。

「そうだ、それでいいんだ。初めから素直に頷いていれば痛い思いをすることもなかったのに、全くお前は馬鹿な奴だ」

俺が答えることで、頭に加えられていた力は消えた。

「まあ、人間素直が一番ということだな。といっても、お前は既に人間じゃないんだけどな」

頭に乗っていた足が降ろされる。そして、それはそのまま顔の前へと置かれた。俺の今の体勢は肩と膝をベッドにつき、四つん這いである。こんな屈辱的な格好はない。しかも、そんな格好をして、これからやろうとしているのはソレだ。

「…………」

目の前には白く小さい足がある。それこそ本当に子供の足だ。その様子をジッと眺めていると、上から声がかかった。

「どうした。早くしろ」

笑いを含んだ癇に障る声で催促してくる。分かっている、分かりたくもないが、そうしないと俺は明日の陽を拝めないんだろう。

まった、なんてことだろうか。

「…………クソっ」

口を開いて舌を出す。

そしてゆっくりと、ゆっくりと、それに近づけていく。

頭上ではガキが、その様子をさぞ楽しげに、ニヤニヤと笑いながら見ていることだろう。想像しただけでも胸糞悪い。出来る事なら目の前にあるその五本の足の指を噛み千切ってやりたかった。だが、そんな事をしようものなら、先程の比ではない暴虐の限りが、この身を襲うことだろう。

「…………」

たった十数センチの距離を、俺はそれこそ自分でも体感できない程ゆっくりと時間をかけて近づき、そして、舐めた。

ひんやりとした冷たさを舌で感じる。

「んっ……」

上のほうから何か声が聞こえてきたような気がした。だが、羞恥と怒りで破裂寸前の頭には、そんな些細なことに反応するだけの余裕は無かった。とりあえず、今はこのふざけた行為を一刻も早く終えることが大切だった。

「…………」

アイスクリームを舐めるように、舌を5本の指の上でつぅと動かし、そして離す。

「これでいいんだろっ」

頭を上げて体を起こし、ベッドの上で胡坐をかいた。

毛も逆立つような怒りの矛先は、けれど向ける場所が無い。ギリギリの理性で腹立たしさを押さえつけた俺は、せめてもの抵抗にと、頭上のガキを睨みつけた。

「ふん、まあ物足りない感じはするがいいだろう。これでお前は私の下僕だ。もう私の出す命令に逆らうことは許さないからな」

対するクソガキは満足気な笑みを浮かべて俺を見下ろしてくる。

「ああそうかよ、良かったなっ」

そっぽを向いてそれだけを口にした。もう、この状態では何を言っても俺の言葉は負け犬の遠吠えにしかならない。

「しっかりと働いてもらうからなぁ、下僕」

「うるせぇっ!」

ふと時計の針に目をやると時刻は既に午前8時00分を回っていた。授業の開始時刻は8時50分であり、家から学校までは歩いて30分程かかる。急げば間に合わないことも無いが、この分では遅刻で確定しそうだ。

「貴様、名はなんというのだ?」

「名前?」

「そうだ、名前だ。一応聞いておいてやるから早く言え」

「んだよ、態度でかいな」

無視してそのまま不貞寝てしまおうかとも考えたが、それではまた頭を踏みつけられかねない。俺は仕方なく素直に自分の名前を口にした。

「雅之、近藤雅之だよ」

何の特徴も無い、至って普通の日本名だ。

「近藤雅之か、わかった覚えておいてやろう。光栄に思え」

俺が答えると、ガキはそれを繰り返し口にして、腕を組み頷いてみせた。

「何が光栄に思えだよ。偉ぶってんじゃねぇよ。それに人に名前を聞いたんだ、そっちも名乗るのが礼儀ってもんだろうが」

こんな常識の無いやつに礼儀を語っても意味の無いことだろうが、他に大した反論も思い浮かばなかった俺は、知りたくも無い相手の名前を尋ね返した。

「ああそうだな、分かった教えてやろう」

容姿からして日本人では無いと思ったが、果たして確かに、俺の耳に届いたのは異国の人間の姓名だった。

「私の名前はエリーゼ・フォン・マルファッティという。お前のご主人様の名前だ、しっかり覚えておけ」

自分でも熱くなり易い性格だと理解はしていたが、コイツを相手にすれば、きっと誰であろうと青筋を立てずにはいられないだろう。子供の戯言ならば、それも軽く聞き流してしまえるが、このガキの場合は言葉に加え、実害が伴ってくる。それが非常に性質が悪いのだ。

「………ガキのクセに、いい加減にしろよな」

「お前は私の下僕なのだから当然だろうが。私のことはなんと呼ぼうが構わないが、そのことを忘れるんじゃないぞ? というか忘れたらその場で折檻だな」

「何が折檻だよ、クソが……」

相手の一言一言にフラストレーションが溜まる。

「それにしても、お前も随分と口の悪い男だな?」

「…………くっ」

段々と奪われていく自由に、鬱憤は確実に溜まっていく。

悔しいが、ここは天災に巻き込まれたとでも思って、やり過ごすしかないのだろう。それは無条件に相手の蛮行を我慢する事と等しいが、他に手が無いのだから仕方が無い。相手は暴力に訴えてくるのだ、下手に行動へ移すことは出来ない。

「フンッ、まあいい。いずれにせよ貴様は永遠に私から逃れる事は出来んのだ」

「お前、何時か覚えてろよ?」

「ああ、覚えておいてやるとも。精々無駄に足掻くがいいさ」

そう言って笑うガキは、人の反感を誘う最高に厭らしい笑みを浮かべていた。ベッドに座った俺を、ガキがその頭上から見下す様は、まるで王様とその家来の様な、いや、主人と奴隷といった様な、現代ではあり得ない古い主従関係を髣髴させた。

本当に、今日は最悪だった。

「そうだ、それでは早速だが、私の部屋を用意してもらおうか」

俺が渋い顔をしていると、それをさらに曇らせるような台詞が耳に飛び込んできた。

「は? なんだって?」

「私の部屋を用意しろと言ったんだ。ご主人様の面倒をみるのは下僕の務めだろう? ならば私の部屋の用意をするのもお前の仕事だ。同じ屋敷に住んでいなければ面倒を見る事も叶わんだろうしな」

俺が驚いている事に気がついていないのだろうか。ガキはそれが至極当たり前であるかのように振舞って見せる。

「なんで俺がそこまでしてやらないとならないんだよ」

「いいからとっとと用意しろ、痛い目見たくないだろう? お前は下僕だが、同時にファミリーであるのだ。家族であるお前を痛めつけるのは、私も心が痛むのだよ。わかるだろう?」

ニタリと笑いながら、心にもないであろう事を平然と言ってのける。

そして、ガキの口にした「痛めつける」という言葉が、否応なしにも朝のカーテンを開けた時の激痛を思い出させた。体中の皮膚が焼け爛れて疼く。あれは我慢して耐えられるものじゃあない。

「…………」

「おい、さっさと用意しろ。私は眠いんだ。でなければこの部屋を頂くぞ?」

「ああもうっ、分かったよ。隣の部屋を使えよ」

ここまで来ると、もうヤケクソだった。

「ならば案内しろ」

「くっ、………つ、ついて来いっ!」

どうしようもない苛立ちを伴って、乱暴にベッドから立ち上がる。俺は太陽の光を浴びないように気をつけながら自室から廊下へと出た。

「こっちだ」

俺の後にはガキが続く。

「まったく…………」

どうしてくれようこのクソガキ……。

俺が住んでいるのは3LDKのマンションである。高校生で一人暮らしというのも珍しいかもしれないが、本当は去年まで母親も一緒にここで暮らしていた。しかし、海外赴任している夫が恋しくなったとか何とか言って、俺が高校へ進学するのと同時に、母親も父親を追って海外へと出て行った。一応、息子である俺を一人で日本に残していくことに抵抗があったようではあるが、こちらとしても一人暮らしというスタイルの生活に憧れる年頃だ。そこで、迷っているその背中を一押ししてやった所、それじゃあ、と申し訳なさそうな、そして、うれしそうな顔をして母親は異国の地へと旅立っていった。

とはいえ、それでも年末年始は夫婦そろって帰ってくるので、家族としてはうまくいっているのだろう。夫婦仲は息子の俺が引く程に良い。ただ本当は、それに加えて妹が一人居たのだが、数年前に交通事故で他界してしまった。まあ、それも結構昔の事なので、今はそれが原因でセンチメンタルな気分になることも殆ど無い。

また、家計は親父が会社で結構な役職に就いているらしく、それなりに潤っている。仕送りはしっかりと貰っているし、あえてバイトをする必要もない。それでいてオートバイを一台維持していられるだけの余裕があるのだから、今の生活には非常に満足していた。

しかし、そんな俺の悠々自適な一人暮らしは、訳の分からない闖入者の出現により、開始一年で、今まさに乱されようとしていた。

背後に感じるガキの気配に気分を重くしながら廊下を進む。裸足の足はひんやりとしたフローリングに接して離れてを繰り返し、ペタペタと音を立てる。部屋を出てしまえば、そこにはもう窓も何も無いので、日の光を気にすることなく移動できた。季節はそろそろ夏になろうかと言う頃合、エアコンの効いていない廊下は気だるい生暖かな空気で淀んでいる。

「お前、家族はいないのか?」

後ろを付いてくるガキがまるで狙ったかのように尋ねて来た。

「今はいねぇよ。一人暮らしだ」

特に会話をしたい相手でもないので、それで終わりにしてしまおうと、ぶっきらぼうに言い放つ。しかし、そんな俺の気持ちなど知る由もなく、相手は言葉を続けた。

「それにしてはなかなか良い所に住んでいるじゃないか。一般市民の生活水準は随分と上昇したようだな」

「生活水準?」

「違うのか?」

相手は壁を手で撫でてみたり、あたりをきょろきょろ見回したりしている。確かに、俺みたいなガキが独りで住むには上等すぎる。それにこのマンションは都心からそう離れていない場所に建っている。一介の高校生には明らかに不釣合いな暮らしであろう。

「そりゃまあ、親父様が稼いでるからな」

親父とは一緒に住んでいた頃からして、会話をする機会が少なかった。なので、余り詳しいことは聞いたことがない。ただ、母親が言うには結構な有名企業に勤めているとのことだった。それに、そのこと自体は興味のある話でもなく、また、親の給料に関係するような話題は、子供から振るには重い話だ。今まで団欒の話題に上がることも無かった。

「では、その息子がこの体たらくでは、親も泣くに泣けないな。少しは親孝行をして見せたらどうだ?」

「う、うるせぇよっ! っていうか、お前にそんなこと言われたくねぇよっ!」

俺だって少しは気にしてるんだ。

というか、会ったことの無い、ましてや、その姿を見たことも無いであろう親父を掴まえて、俺を蔑むネタにしないで貰いたい。今の台詞こそ、このガキ自身が最も耳を傾けなければならないのではないだろうか。こんな性格破綻者が己の子供だとしたのなら、きっと、その親は自殺ものだろう。

相手の一言一言に心中で悪態を突きながら、しかし、それを口に出来ない俺は、怒りに肩を震わせて目的の部屋へ急いだ。

ガキを案内するのは、玄関から入って、そのすぐ左手にある部屋だ。

「ほら、ここだ」

一体何日ぶりに触るであろう部屋のドアノブを掴むみ、ゆっくりと回した。

「ずっとつかってなかったから埃が溜まってるかもしれないけど、家具は一通りそろってる。ベッドちゃんとある」

生ぬるい廊下にあっても、金属で出来たドアノブはひんやりと冷めていた。ドアが開き室内の様子が目に入ってくる。

「なるほど、なかなか悪くないな」

ドアが開くと、その壁との隙間をすり抜けるようにして、ガキは俺よりも先に部屋の中へ滑り入る。

まったく、俺は何故こんな馬鹿な事をしてるのだろう。相手を刺激できない手前、悪態は心の中で繰り返される。平常心を保つ為に深く深呼吸をすると、俺もガキに続いて、バリアフリーな部屋の敷居を跨いだ。

「ふむ、暗いな」

部屋の中央に立ったガキが呟いた。

部屋のカーテンは全て閉められており、中は廊下よりもなお暗い。日の光は殆ど入って来ていなかった。まあ、俺にとしては好都合に違いない。

しかし、そんな此方の内心を全く考えなしに、ガキは勢い良くカーテンを開け放った。既に太陽の顔を出した快晴の空からは、部屋に明るい光が勢い良く差し込んでくる。

「ぃってぇーーーー!」

そして、その光の一部が、部屋に一歩入った所で立ち止まっていた俺の左足の指を焼いた。他の部分に光が当たらなかったのは幸いであったが、後一歩でも踏み出していたのなら、それこそ寝起きの時の二の舞となっていたことだろう。しかし、焼け爛れる面積が少ないとはいえ、痛いものには変わりない。俺はあわてて部屋から飛び出すと、廊下まで転がるように後ずさった。

「て、てめぇ、いきなり開けてんじゃねぇよっ!」

それは寿命が縮む思いだった。

「おお、そういえばそんな困った体質の奴もいたな、悪い悪い」

今のは故意であったに違いない。答える声は明らかな笑いを含んでいた。

「お前、ふざけんなよっ!」

自身の優位を確信して、相手は相当いい気になっている。調子に乗りすぎだ。

「まあ今のは一種の忠告だと思っておけ。私に逆らうとこうなるということだ。契約の応酬も痛みを伴うからな。お前だって嫌だろう? 毎日毎日痛い思いをするのは」

一体何が面白いのか、言葉の後に続いたガキの笑い声は、静かな朝の部屋に嫌に響いて聞こえた。

「んだってんだよっ!」

「まあそう怒るな、そのうち身も心も私のもになるだろうさ」

「誰がなるかよっ!」

「ハッハハハハハ」

畜生、馬鹿にしやがって。

「それよりも、部屋が少し埃っぽい、血を吸わせてやるから部屋を掃除しろ」

「…………」

「おいどうした、さっさとやらないとまた痛い目を見せるぞ?」

なんで俺はこんな目にあっている……

「…………わかったよ、やってやるからとっとと血をよこせ」

正直、コイツの血を飲むという行為自体がムカつくし、それに加えて、喉へ血液を通さなければならないという生理的嫌悪感も大きい。しかし、今の俺にはそれ以外の選択肢が存在しない。血を飲まなければ太陽の下へ出られないのだと言うし、悔しくも、その言葉が真実であることを俺は認知してしまっている。

「よし、ならばこっちへ来い」

開いたカーテンを再び閉めると、ガキはベッドに腰かけた。薄暗い部屋の中で、僅かに差し込む太陽の光が、長い金髪に反射してキラキラと輝いていた。

命令に応じて俺は無言でベッドに向かった。足に受けた火傷は寝起きの傷に比べれば全然軽いものである。傷口は本当にわずかな時間で治癒されていた。自分が人間離れした存在に成ってしまったのだということを、強く理解した瞬間であった。

「さて、では約束通りお前に私の血をくれてやる。しかし、1リットルと口でいっても貴様には分からないだろう? だから私がいいというまで飲み続けろ。わかったな?」

「ああ」

「ならば、そこへ座れ」

そう言ってベッドの下の床を指差す。その態度に又もムカっと来るものがあったが、今ここで暴言を吐いて、そのお返しにとカーテンを開けられては堪らない。俺はおとなしく、その指示に従った。すると目の前にズイと右腕が差し出された。ガキの四肢は白く細く、そして何よりも美しくあって、本当にこの腕が俺を一発で再起不能にしたのかと思うと、正直信じられない程に繊細な作りをしていた。

「ほら、飲め」

その見事な体躯に感嘆して俺に、相手は凛とした口調で命令してきた。

分かったよ、飲むさ。飲んでやるさ。

腕に手を伸ばして顔を近づける。エアコンも効いておらず、長いこと放置されていたこの部屋にあって、しかし、その肌は汗に蒸れる事も無く、サラサラと乾燥していた。どういう訳か、汗一つかいている様子も無かった。それどころか、手に触れた腕はヒンヤリとしていて、冷気さえ感じられる程である。本当に化け物もいいところだった。

「…………」

それにしても、やってやるとは口にしたものの、実際にこうしてその行為を目の前にすると怖気づいてしまう。

「おい、どうした早くしろ。私は早く眠りたいんだ」

「わ、わかってるっ」

それに、いきなり血を飲めと言われてもやり方がわからない。飲めと命令するのはいいが、実際どうしろと言うのだ。本当にこの腕に噛み付いてもいいのか? それに、噛み付いたとしてもそんなことでまともに血を飲めるのか?

「貴様、まさか今更になって怖気づいたのか?」

声に応じて顔を上げると、そこには笑みを浮かべて此方を見下ろしてくるガキの姿があった。ニタァと口元を上げて笑う様子は腹立たしい事この上ない。

「うるせぇ、誰が怖気づくかよっ!、いきなり血を飲めとか言われたってやり方がわかんねぇんだよっ!」

図星を突かれ、驚きながらも反論した。

「ほう、そこまで教えてやらねばならないのか。お前の口に生えている、その鋭く尖った犬歯は一体何のためにあると思っているんだ?」

「犬歯だって?」

指摘され、慌てて自分の口に手を当てる。すると、今まで全く気付かなかったが、口から飛び出てきそうなサイズの歯が左右に一本ずつあることに気がついた。口を閉じていれば、外からは見えないが、触ってみるとその大きさが周りのものと比べて二回り以上大きいことが分かる。

いつの間にこんなになったんだよ。

「どうだ? あるだろう? それが吸血鬼の証である牙だ。そいつで皮を破り、肉を突き、血を貪る。私が昨日お前にしたようにな」

「コレで……」

「どうした、早くしろ。説明までしてやったんだ、これで出来ないとか言ってみろ、頭を潰すぞ」

「うるさいな、分かってるよ。飲むさ、それしかないんだろっ、俺には」

「その通りだ」

視線をガキの腕へと戻す。

目の前には白く細い腕がある。本当にこんな脆そうなものに噛み付いても平気なのだろうか? 良心が痛むと言うわけじゃあないが、簡単に壊れてしまいそうなイメージがあって、どうにも怖い。

「後で痛いとか文句言われても聞かないからな?」

「何を馬鹿な。私は貴様のような痛がりで貧弱な坊やとは違うんだよ」

「っ!」

その言葉に腹立たしさがこみ上げ、俺は決意してガキの腕へと自らの牙を振り下ろした。プツっという皮膚に穴が開く感触が歯を通して伝わってくる。それと同時に、何かが口の中へと勢い良く流れ込んできた。咥内に広がるのは鉄の味。最初の一口目で思わず吐きそうになったが、それでもなんとか我慢した。今ここで口を離してしまったのなら、それこそもう二度と飲む気にはなれないだろう。

「んっ…」

ごくごくという血液を租借する音が嫌に大きく部屋に響いて聞こえた。ガキは本当に痛みを感じていないのか、悲鳴どころか声さえ上げず、わずかに吐息を漏らしただけだ。

そして、腕に噛み付いてから結構な時間に渡って俺は血を吸い続けた。

腕と口との間から漏れた血がひざの上に垂れる。

これじゃあ、この服はもう着れないな、などと適当な事を考えては思考を他所へとずらし、口の中にある嫌悪感を振り払おうと努力した。必死になってあふれ出てくる赤い液体を喉の奥へと押し込んでいった。

どれくらいの時間がたっただろうか、ようやくガキから止めろという声がかかり、その行為から開放された。顔を上げると口の端から血がつうっと垂れてきた。血は下顎までを伝い降り、最後は雫となってポタリと床に落ちた。

腕は俺が口を離すと、途端に噛み付いた場所から煙が立ちあがり始め、即座に治癒が完了した。何度見ても慣れそうにない光景だった。

「よし、こんなものだろう。これでお前はもう太陽の下でも活動できるはずだ」

試してみるか、と軽く口にすると、ガキは一息にカーテンを開け放った。まばゆい光が暗闇になれた目を突く。寝起きでの出来事が、ある種トラウマになっていた俺は、情けなく身体を震わせて縮こまった。しかし、体に感じる太陽の光の暖かさは柔らかく、身を裂くような痛みは訪れなかった。

「どうだ? これで私の話も信じれるだろう?」

悔しいが確かにその通りだった。

「感謝しろよ。言っておくが、私は今まで他の吸血鬼に血を許した事など一度も無かったのだからな。これはとても光栄な事なんだぞ?」

ベッドに腰をかけたまま偉そうに言う。

「ああもう、分かったよ、助かったよ。けど、こうして俺が馬鹿みたいな身体になっちまったのは、元はと言えばお前のせいなんだから、偉そうに講釈たれるんじゃねぇよ」

「ふん、体の調子が戻れば早速その態度か。いいだろう、そんなに足を舐めたければ今すぐにでも舐めさせてやる」

ガキの足が三度伸びて来る。

またかよ…………。

「わ、わかった、分かったよ。分かったからやめろよ」

顔面に無理やり足の裏が押し付けられる。それを両手で必死に防ぎながら、俺は情けない言葉を口にするほか無かった。

「部屋を掃除してやるからとっとと寝てくれよご主人様」

自暴自棄になりながら暴君の命令に答えた。もうこれ以上の屈辱を受けるのはごめんだった。とっとと部屋を片付けて学校へ行く。それが俺の中で出た唯一の現状に対する答えだった。

「よしよし、それでいい」

伸びて来ていた手が俺の頭を撫でていた。

「んなっ!?」

慌てて振り払う。足を舐めるのもそうだが、これもまた限りなくムカつく。なんて屈辱だろう。

「なんだ、嫌いか? せっかく褒めてやっているのだ、素直に喜べ」

「だれが喜ぶかよ、だったら自分の頭でも撫でてろっ! それに掃除するんだから、一旦は部屋から出て行けっ!」

「フン、まあいいだろう。綺麗にしろよ。少しでも埃が残っていたらやり直させるからな」

「やかましい」

ガキは減らず口を叩いて立ち上がると、ゆったりとした歩調で廊下へと出て行った。

「畜生が、何であんなガキの召使やってんだよ俺っ!」

ひたすらに罵倒の言葉を繰り返しながら、俺は本来の主のいなくなって一年以上が経つ部屋の掃除を始めた。部屋は表立ったところに積もった埃以外は思いのほか汚れも無く、掃除は一時間とかからずに終えることが出来た。まあ、人が使っていないのだ、元からある以上に汚れが付くようなこともないだろう。掃除は箒と雑巾のコンビで片付いた。

作業を終えて用具を片付け終えた後に部屋へと戻ってみると、いつの間に嗅ぎ付けたのだろうか。そこには既に、ベッドの上で横たわり寝息を立てているガキの姿があった。

「この野郎、礼も言わないで勝手に眠りやがって……」

寝顔に一発入れてやろうかとも思ったが、その後でどうなるかを考えると、それこそやる気も萎えた。また頭を踏まれるのはごめんだった。

「ったくっ!」

部屋を出て、ドア勢いよく閉める。

ドンというデカイ音がしたが、中からは何の反応も返って来なかった。

「くそっ…………ああもう、学校でも行くかっ!」

ここまで来て、俺は自分がまだパジャマ姿のまま、朝飯さえ食べていない事を思い出した。

「遅刻じゃねぇかよ…………」

通いなれた通学路を、普段通る時刻から、おおよそ2時間程を遅れて俺は歩いていた。道はそれほど道幅の広くない片側一斜線の通りで、その肩脇にはこの町を二分する一級河川の黄瀬川が、並行するように流れている。道路は車の通りも然程では無く、十分なスペースの確保された歩道をゆったりと歩いていると、とても雰囲気の良い散歩道だと感じられた。また、平日の昼間と言うこともあって、道行く人影は俺以外には見つけられない。まるで通りの全てを自分が独占して歩いているような気分になれる。これで今の状況が、学校へ遅刻しての登校、というのでなければ、実に素晴らしい通学日和だっただろう。

「はぁ……」

ため息が自然と口から漏れた。視線を落として自身の手を見る。結んだり開いたりしてみるが、それは紛れも無く俺の手だ。しかし、同時にあいつと同じ化け物の手でもある。

「まったく、朝っぱらからなんでこう重いんだよ」

俺は普段から悩み事に頭を悩ます機会の少ない人間だった。小さいことは気にしない性質である。けれど、今回ばかりはそうも行きそうに無かった。頭は風邪を引いたわけでもないのにズキズキと痛んだ。これはストレスから来る偏頭痛だろうか? 

正直なところ、今でも今朝のことが信じられない。ただ、それでも頭は徐々にだが、今の状況を受け入れるべく動き始めていた。なによりも、事実として俺の身体に起こった変化が決定的であった。加えて、ガキの振るう暴力が、否応がなしに妄想を現実のものとして定着させてくれる。口答えをすれば殴られる、蹴られる、押しつぶされる。堪ったもんじゃない。

「つーか、どうしてあんなに小さい奴が俺より怪力なんだよ」

本人曰く、私は吸血鬼だ、とのことで、答えは既に知れている。しかし、それこそ滑稽な話だろう。科学至上主義の真っ只中で、そんな神秘主義に台頭されては堪った物でない。子供に語って聞かせる御伽噺の一説が、どういうわけか目の前に再現されてしまった状況に、いい加減頭はオーバーヒートしそうだった。

「吸血鬼とか絶対に反則だろ」

あのガキの話では、俺もその吸血鬼とやらに成ったらしいが、それが事実だというのなら、どうしてあそこまでの力量差が出たのだろうか。今朝の俺は相手に一度も触れることが出来ずに終ったのだ。それこそ詐欺ではないか?

「…………くだらね」

まあ、もうどうでもいい。

今はアイツも隣に居ない、好きにするがいい。

俺は学校へ行って、ゆっくりと眠るとしよう。

鞄を脇の下に挟み、ポケットに両手を突っ込んで歩く。最近舗装されたばかりのアスファルトは色濃く交通線を残しており、その上を歩く歩行者たる俺も、少しだけ気分が良くなる。

と、そのとき、ふと俺の耳に幾人かの荒々しい男共の声が入ってきた。

「おい、そっちはどうだ? 見つからないのか?」

「はい、見つかりません」

「こちらも見当たりません」

「こちらもです、やはり場所がまちがっているんでしょうか?」

「馬鹿言え、他の場所だって探したんだ、後はここしかない。しっかり探せ。それに手ぶらで帰ってみろ、俺達の命が危ないんだぞ?」

「「は、はいっ」」

声のする方向へと目をやる。声は舗装された歩道を越えて、隣り合う川縁から聞こえてきた。耳に届く言葉の中には、なにやら物騒な単語も混じっている。この平日の真昼間から、この男たちは一体を何しているのだろうか。

しばらく歩みを緩めてみていると、白いスーツに身を包んだ男が立ち上がり、一際大きく声を上げた。

「よし、次だ、移動するぞ」

「はい」

視線の先には、この梅雨の蒸し暑い気候にありながら、スーツを着て川辺を這いずり回る男たちの姿があった。年齢は個人差があり、上下に若干違えて見えるが、その殆どは20歳から30歳の間に収まる程度だろう。俺からすれば随分と年上だが、社会人としてはまだ若い奴らだった。

「お前達5人は引き続きここに残って、もう一度全体を探し直せ。残りの奴は俺について来い、もう少し下流を探す」

「「わかりました」」

「それじゃあいくぞ、なんとしても見つけ出すんだ」

「「はい」」

男たちは何かを探しているらしい。汗だくになりながら必死な形相で川原に生えた草の合間に顔を突っ込んでいた。一体何を落としたというのだろうか。明らかに一般市民とは一線を駕す特殊な人種に見える。

「何やってんだコイツ等……」

そんな滑稽な様子を遠目に見ながら、俺はゆっくりと歩く。川縁を這い回っている奴等は、その格好や体格からして、吉川の家の若い衆ではないかと想像させる。かなり切羽詰っているようだった。

白いスーツの男が歩き去り、その姿が見えなくなった頃になって、その場に残っていた男のうち一人が口を開いた。

「見つからねぇな」

「ああ、本当にあるのかよ、その紅石ってやつは」

「そんなこと知るかよ。けど、上がやれって言ってんだから、やるしかねえんだろ?」

「けどよ、しっかしなんだって俺らがこんなことしてんだよ。落としたのは、そのなんだっけ? 良く分からないけど、実際に荷物を運んでた奴等だろ?」

男は草の根を掻き分けて、ヒーヒー言いながらも愚痴を溢し続ける。仕立ての良いスーツにオールバックに撫で付けた髪が特徴的な、なかなか顔の良い男である。先程、川の下流へ向ったのは彼の上司だろうか、真面目に何かを探してはいるが、不満は随分と溜まっている様である。そして、そんな男の愚痴に付き合って相槌を打っているのは、その隣で、こちらも同じく草むらに頭を突っ込んでガサゴソとやっている体格の良い長髪の男だ。

「俺が知るかよ、それにお偉いさんにとっちゃ誰が落としたかなんて別に知ったことじゃないんだろう。要はモノがあるかないかだろ」

「けど、幾らなんでも、このクソ暑い日にわざわざ探さなくてもいいだろ? ありえねぇよ」

「いいから黙って探せ。菊池さんの耳に届いたら大目玉だぞ」

「わぁーってるよ、探せばいいんだろ、探せば」

文句を口にしているのはそのオールバックだけではない。川縁からは幾人者者達の愚痴と不平の声が届いてきた。どれほどの規模で創作しているのだろう。パッと見えるだけでも十人以上の人員がそこには散らばっていた。

「それにお前さ、さっきの菊池さんの慌て具合からして、落としたのは相当ヤバイものだぞ」

「だよな。菊池さん珍しく焦ってたもんな。今回はマジで指飛ぶかもな」

指が飛ぶ?

これは間違いないだろう。明らかにそっちの筋の人達だった。そして、この近辺でそういった人種の人達というと、元締めは吉川組に違いない。

「朝っぱらから物騒なこと言ってんなぁ」

まあ、俺には関係の無いことだろうが、もしも覚えていたのなら、後で吉川に聞いてみるのも良いかもしれない。

「こりゃ本気で見つけないとマズイかも知れないな」

「ああ」

一体何を落としたのかは知らないが、吉川の家も大変そうである。

俺には関係の無いことだけどさ。

「とっとと行くか」

流石に4時間目には間に合いたいので、歩幅を広めて歩くスピードを上げた。

そこから黄瀬川にそって上流へと歩くこと3km程で俺の通う高校にたどり着く。名前は私立飛龍高校という。中学の頃に必死で勉強して入ったその高校は、県下でも相当に有名な進学校で、毎年結構な人数を有名私立や国公立の大学へと送り出している。

とはいえ、俺はその中ではどん底の落ちこぼれである。

まあ、それでも少なからず友達はいるし、それなりに楽しくやっている。進学校だけあってテストやら何やらが厳しいが、それも吉川のおかげで無事留年することなく2年を迎えられた。あいつには本当に感謝している。たぶん斉藤も俺と同じ思いだろう。

俺が校門の前にたどり着くと、うまいこと時計は三時間目と四時間目の間の休み時間を指していた。

「よし、ナイスタイミング」

急いで昇降口へと向かい、靴を上履きに履き替える。今日の4時間目は体育でサッカーを行う予定の筈だ。あのクソガキによって溜まった鬱憤をボールに思い切りぶつけるとしよう。

自分のロッカーから上履きを取り出すと、なぜか一緒に紙のようなものがヒラヒラと待って俺の足元に落ちてきた。

「あ? なんだこりゃ」

拾ってその両面を確認すると、それはどうやら手紙のようだった。封がアジサイの絵の描かれたシールによって閉じられていた。しかし、宛名や差出人は一切かかれておらず、ただ無地の白い封筒にシールが張ってあると言うだけの簡素な作りの便りだった。

「誰だよこんなことしてんの」

意味深なメッセージに、俺は早速封を切って中を覗いてみた。

が、

「空じゃねぇかよ・・・・」

封筒の中には何も入っていなかった。

誰かの悪戯か?

「人を馬鹿にしてんじゃねぇよ、まったく」

封筒を目にした瞬間には、淡い期待も膨れ上がったのだけれど、どうやらそれは見当外れであったようだ。朝のことといい、この手紙といい、今日は厄日のようだ。

空の封筒を元あった場所へ突っ込み、俺は足早に教室へと向かった。着替える時間も必要だし、余り余裕は無い。まったく無駄な時間を食った。

そして昼休み。

「ぁあ・・・・・だりぃ、早く放課後にならねぇかなぁ」

教室で売店で買ったウィンナーロールを啄ばむ俺の隣で、同じく売店で購入したハンバーガーを頬張る斉藤が、ウザッたい声を上げた。

「昨日の宝石のこと?」

同じ机を囲んで吉川もいる。こいつは焼きそばパンを手に持っている。

「ああ、昨日の夜は興奮しちゃって全然眠れなかったぜ」

「随分と子供染みてるな?」

「うるせぇな、しょうがねぇだろ。興奮するもんは興奮するんだよ」

斉藤は床に口の中のものを飛ばしながら言葉を返してくる。

なんて汚い奴だろう。

「口の中の物を飛ばすなっ」

手に持ったウィンナーロールを口へと運ぶ。この高校の売店が販売しているウィンナーロールは、包まれているウィンナーが大きく、ボリューム満点であり、結構な人気商品である。

「けどまあ、確かに楽しみって言えば、楽しみだよな」

「だろ?」

「二人とも今日は放課後に用事無いよね?」

「当たり前だろ、あったとしてもキャンセルするってもんよ」

「俺も無いよ」

「じゃあ予定通り今日の放課後に行こうか。僕も結構楽しみにしてたんだよね」

そう言って吉川は鞄へと目配せをしてみせる。きっと、その中に例の正体不明な宝石が入っていることだろう。まさか本物だとは思わないが、それでも下らない期待を抱いてしまうのは、庶民ならば仕方の無いことだろう。

「そう言えば、今朝登校するときに、黄瀬川の川縁で吉川の家の若い衆を見たんだけど、何かあったのか? 何かを必死になって探してたけど」

吉川の顔を見ていて、ふと、今朝の通学路での出来事を思い出した。

「……僕の家の人達が?」

「ああ、結構な人数がいたぞ。それに指を詰めるとか、物騒なこと言ってたし、ちょっとビビるぞ?」

「本当? 昨日の今日で、そんな大事あったかな……」

俺の言葉を受けて、吉川は視線を宙にふらふらと漂わせる。

「けど親父さんも特に何も言ってなかったし、探し物っていうとまた誰かがあれを落っことしてきちゃったのかな……」

「あれってなんだ?」

斉藤が速攻でハンバーガーを食いつくし、次のパンの包装を解きながら聞いた。

「ん、商売道具」

「そ、そうか、そいつは危ないな」

確かに、吉川の家の商売道具は危ないものに違いない。

「それであんなに必死になって探してたのか、命が危ないとかいってる奴もいたもんな」

「本当?」

「ああ、相当切羽詰った声だったからよ」

「前々から思ってたけどお前んちって結構怖いのな」

「いや、流石に落としただけでそこまでやるって事は無いと思うんだけど……」

頭の上に若干の疑問符を浮かべながら、吉川は焼きそばパンをゆっくりと租借する。

「まあ、遠目に見てただけだから人違いかもしれないし、そう気にすることでもないだろ。変なこと言って悪かったな」

「そう?」

「ああ」

「それより今は宝石だよなっ、宝石っ」

「ほんっとうにお前はそればっかだな」

口の中に物を詰め込んだまま、斉藤は大口を開けて楽しそうに喋る。

「まあ、斉藤だし」

「んだよ、その斉藤だしってのはっ」

「言葉通りの意味だろ、単細胞ってことじゃねぇのか?」

「うるせぇよ、この野郎っ!」

叫びを上げる斉藤の声は、とにかく大きくて迷惑この上ない。それでもクラス連中から叱咤の声が飛んでこないのは、こいつが随分な強面だからだろう。まったく困った存在もいたものである。とはいえ、今俺の家に巣食っている例のガキに比べれば全然可愛いものであろう。そう考えると、不快なはずの斉藤の濁声も、全然増しに聞こえるから不思議である。

そして、購買で購入したパンも全てを食べ追え、下らない会話を交わすうちに、休み時間も残りわずかとなった。次の授業は移動教室である。そろそろ準備をして移動を始めようか、そんな考えが脳裏に浮かんだ時のことであった

教室の後ろ側のドアが勢い良くピシャンという音をたてて開けられた。鼓膜に響く大きな音に、クラス連中共々、俺達は音源へと反射的に顔を向けた。

するとそこには見慣れない、一つ下の学年色のネクタイをつけた女子生徒が立っていた。一体なんだって二年の教室なんかに来たのだろう。

「ん?」

女子生徒は教室の中を険しい顔で一瞥すると、なぜか此方をキッと睨みつけ、遠慮なしにズカズカと入ってきた。1年が2年の教室を前にして、よくこれだけの態度を取れると思う。

「誰だ、あの子」

斉藤が誰と無く聞いてきた。無論、俺の知る相手では無かったので首を横に振っておく。吉川の反応も俺と対して変わらない。

「一年の子だよね?」

「っぽいな」

それまでの喧騒はどこへやら、教室はいつの間にか静まり返っていた。そして、クラスの全員が注目する中、そいつは俺達三人がいる机の前まで来ると、腕を組んで仁王立ちとなり、口を開いた。

「貴方、近藤雅之ね?」

第一声、その一年は俺を指差して、タメ口で話しかけてきた。

「だったら何なんだ?」

突然のことに驚きながらも、それを表に出さないよう素っ気無く返す。

俺は1年には知り合いなんて一人も居ない。

「雅之の知り合い?」

「いくら待っても来ないと思ったら、何でこんなところでくつろいでるのよ。私は昼休みの間中を、今までずっと待っていたのよ? なんで来ないのよっ!」

と、いきなりタメ口で話しかけてきたと思ったら、今度は意味不明なことを怒り口調で捲くし立てる。俺はコイツと待ち合わせの約束をした覚えは無い。

「なぁ、お前何言ってんの? 俺がいつお前と待ち合わせの約束をしたんだよ。つーか、俺はお前を知らないし、見たことも聞いたことも無いんだけどさ」

普段なら女子に対してはもうすこし優しい言い方をするのだろうが、相手の失礼な態度を受けて、こちらも地が出てしまった。

「約束はしたじゃない。ちゃんと下駄箱に手紙いれたんだから。読んだんでしょ?」

一年生の女子生徒は俺を指差して言葉を続ける。この女は初対面の相手に対して、一体どれだけ失礼な態度を取れば気がするのだろう。

「下駄箱の手紙?」

「そうよ、その為に今朝は早めに学校へ来たんだから。手紙を入れるときには、ちゃんと上履きしか入ってないことも確認したんだからね。アンタがその後から登校してきたのなら、目に入らない筈が無いわ」

手紙というと、今朝のあれか、中身が空だったやつだ。

「ああ、確かに封筒は入ってたよ。中身は空だったけどな」

俺は昇降口での出来事を思い出して口にする。どうやら、あの悪戯はコイツがその犯人であったらしい。相手は口をぽかんと開けたまま、何かに驚いているようであった。

「なんだよ、それがどうかしたのか? っていうか、お前もいい年して変な悪戯するなよな。少しでも期待した俺が馬鹿みたいだろうが」

あえて何に期待をしたのかは口には出さないが、そんなことは丸分かりだろう。

「空だったの?」

一年の女子生徒は、俺の言葉を耳にしたことで、若干の勢いを失って口を開いた。

「アジサイのシールで封してあった奴だろ? おもいっきり空だったよ、スカだったよ。」

「本当に?」

コイツ、もしかして手紙を入れ忘れたのか? だとしたら相当な間抜けだぞ。

「嘘ついてどうするよ?」

「で、でも……」

やはり今日は厄日だろう。今朝のクソガキに続いて、変な奴に絡まれている。

「で、お前は何の用なの?」

俺としては相手方の用事など、どうでも良いことなのだが、まあ、こうして他学年の教室までわざわざやって来たのだ、仕方なくそう聞き返した。隣からは吉川や斉藤、そして他のクラス連中から来る、好奇の視線を感じる。

「ま、まあ手紙のことはいいわ。それより近藤雅之、ちょっと一緒に来てくれない?」

すると、相手は手紙の件を一言で片付けて、今度はそんなことを言ってきた。いきなり尋ねてきておいて、その失礼な言動に恥じる事無く、今度は相手のご足労を願いたいらしい。なんて理不尽かつ了見の得ない発言だろう。

「はぁ? だから何を言ってんのお前は」

「なによ、文句あるの?」

この女は自分が今とっている行動をどう感じているのだろうか。もしかして、それがごく普通のことだと感じているのだろうか? もしそうならば、社会的にかなりの問題児だろう。

「お前なぁ、いきなり尋ねてきておいて、そんなデカイ態度で面貸せって言われても、はいそうですか、って素直について行くと思うか? 頼むならもう少し丁寧に言えよ」

ただでさえ学年が違うのだ、普通はもっと下手に出るものだろうに。

「うるさいわね。アンタは下級生に敬語使って貰って、自分が上にいる事を感じて、下らない満足感に浸りたいの? くだらない自尊心ね、安いわっ」

「お、お前なぁ…………」

どうしてだろう、こいつにに似た奴を俺は朝一番で相手にしていたような気がする。よくもまあ、ここまで舌が回るものだ。

「何? 違うの? だったら早く付いて来なさいよ」

腰に手をあてて胸を張る。その名前も知らない一年は、さも自分が正しいと言うかのように威張り腐っていた。

「やかましい、誰が行くか。死んでもごめんだ」

相手がそういう態度を取るというのなら、俺だって絶対にここから動いてやらない。自分がしていることも、周りから見れば幼稚に写っているのだと理解できるが、それでも腹が立つのは止められない。どうせあと5分もすれば授業が始まる。そうすれば相手だって自分の教室に帰らざる得ないだろう。

「ああもうっ! だからアンタは黙ってついてくりゃいいのよっ!」

そして言うこと聞かなければ逆ギレするらしい。

「だからその理由を先に言えよ」

「うるさいわねっ、あんたは私に付いて来る、それだけでいいのっ!」

「何キレてんだよお前は」

「キレてないわよっ!」

さすがに場が暑くなってきたのが分かったのか、目の前の女を嗜めようと、横から吉川が口を挟んできた。

「まあまあ、一体どういう事情があるかは知らないけど、少し落ち着いて話なよ。雅之だって良く分かってないみたいだしさ」

しかし、そんなやんわりとした吉川の言葉さえ、目の前の女には何の意味も成さなかった。

「うるさい、黙ってろメガネっ!」

「め、めがねっ!?」

罵倒を受けて、吉川は反射的にメガネのレンズへ手を当てる。高校へ入ってから目が悪くした吉川は、そのことが周知の事実となる程にコンプレックスとなっていた。きっと、ここまで見事に一撃を食らわされたのは初めてだったのだろう。後に続く言葉も無い。

「僕はメガネ、…………メガネ…」

見れば、そこには肩を落として落ち込んでいる哀れな姿があった。

「お前さ、初対面の奴に普通そんなこというか?」

流石にここまで来ると、怒るのを通り越して呆れてしまう。

「そんなことは関係無いのよ。アンタがとっとと付いて来ればいいの。それに、素直に私の言うことを聞いておいた方が身のためよ? 無事に済ますつもりも無いけど」

「訳が分からないっての」

コイツ、絶対に友達いないだろう。既に俺の中には、目の前の相手の言葉に従うという選択肢は無かった。というか、こんな奴は無視して早いところ教室を移動するとしよう。あと10分もすれば授業は始まる。そうなればこの女に構うこともない。

しかし、女を無視して机の中の教科書を漁りだした俺の耳に、そのとき突如として、その場にいるはずのない人物の声が飛び込んできた。

「貴様も懐の狭い男だな、話程度を聞いてやればいいだろうが」

流れるように綺麗なソプラノは、しかし、どこか冷めた響きを持っていた。そして、否応なしにムカつきを覚える口調は間違いない。

慌てて声のした方向へと目を向けると、それこそ想定外の事態が発生していた。教室の後ろ側の入り口に立ち、こちらを見据えていたのは、あのクソガキなのである。

しかも、その姿は朝に俺が見た時のままである。つまり、例のボンテージファッションなのであった。

教室中の視線が一年の女からクソガキへと移った。その姿を視界に捉えるや否や、教室はまるで祭りの様な喧騒に包まれた。時間帯が昼休みもそろそろ終わろうかという頃合であった為に、教室の人口密度は高い。耳が痛くなるような騒々しさだった。

「何あの子っ!」

「うわっ、すごい格好っ!」

「ていうか、何で子供がこんな所に居るんだよ」

「あの服装ってさぁ………」

「なんかヤバクねぇ?」

「ねぇ、今のって近藤君に話しかけなかった?」

一瞬のうちに、幾人もの生徒達の会話が、勢い良く耳の奥まで飛び込んで来た。

「な、な、なんでお前が此処に居るんだよっ!」

その突然の出現を受けて、俺も無視を決め込めば良かったものを、反射的に反応してしまった。言葉を口にしてから失敗したと感じる。それがまた、クラス連中にいらぬ話題を提供することとなった。

「なんだ、折角ご主人様が下僕の様子を見に来てやったんだ。もっと喜べ」

「なっ…………」

「それにだ、食事も用意せずに勝手に出て行くどはどういう了見だ」

苛立ちを誘う憎たらしい笑みを浮かべて、ガキは此方へ向って来る。昇降口で靴を脱ぐという校則は、当然知っている筈も無い。黒光りするブーツがカツカツと音を立てて近づいてきた。

「近藤君と知り合いみたいよ?」

「マジかよっ!?」

「つーか、どういう関係だよ」

「今ご主人様とか言わなかったか?」

「言った言った、それに下僕とか聞こえたよ」

先ほどまで俺に突っかかって来ていた一年の女子生徒も、他のクラス連中と同様である。そのガキの出現に呆気にとられていた。

「お前は寝てたんじゃないのかよっ! っていうか、何で俺が飯の用意までしなけりゃならないんだよ。とっとと自分の家に帰れよっ!」

コイツを目の前にすると、今朝の出来事が思い出され、どうにも理性を抑えられなくなる。止めて置けば良いのに、売り言葉に買い言葉で会話を続けてしまった。

「当たり前だろう? お前は下僕なんだからな。主人の食事の用意をするのは当然だ。そんなことも理解できないのか?」

「うるせぇよ、そんなこと理解できるわけねぇだろうがっ!」

ああもう、公衆の面前で人のことを下僕下僕と連呼するのは止めて貰いたい。ただでさえクラスの奴等には良く思われていない俺なのに、これでその株はさらに下方修正だ。頭に血が上って、ここが教室であるという事を忘れそうだった。

しかし、俺が罵倒を続けようとして息継ぎをしたタイミングで、それまで驚きに止まっていた一年の女が横から口を挟んできた。

「もしかして、昨日の放課後に近藤雅之に噛まれてた女の子っ!?」

なんだって?

女の言葉を耳にして、段々と上昇しつつあった血圧が、一瞬にして正常値まで戻った。今の言葉の意味を確かめるよう冷静に考える。

「昨日って……」

俺がこのクソガキに首を噛まれたのだ。この教室で。

「ほぉ、あの時、部屋の外に隠れていたのは貴様か」

隠れていた…………。

つまり昨日の光景を見ていたと?

ゆっくりと歩みを進めたガキは、いつの間にか俺の席の直ぐ近くまで来た。その目は何が面白いのか、ニヤリと笑みに細められ、俺を見ていた。

「「か、噛まれてたぁ?」」

俺の横では、吉川と斉藤が口をそろえて間抜けな声を上げていた。俺を見る視線が痛いのは、決して気のせいではないだろう。また、いらぬ問題が発生したようだ。

「なあ、近藤君ってもしかして危ない人なんじゃないか?」

「ニュースで聞くあれか?」

「うっわーーー、激ヤバっ!」

気にするのも腹立たしい。周囲は、ああでも無いこうでも無いと、人様の問題を肴にして盛り上がる。

「お前、いったい何やったんだ?」

訝しげな目で俺を見つめながら、吉川と斉藤がおずおずと聞いてきた。っていうか、あれはガキの方が先に仕掛けてきたんだよ。

「やかましい、お前らは黙ってろいっ!」

今はコイツ等に事を話すような事は何も無い。

「いいか? あれはそもそもな、そのクソガキがいきなり襲い掛かって来たんだよ。俺は何もしちゃいないんだよ。お前も勝手な事を言ってんじゃねぇよっ!」

話の方向修正をしようとして、慌てて一年の言葉を否定した。しかし、

「おいっ、今襲ったって言ったか?」

「言った言った、もしかしてマジで?」

「そんな変態趣味……」

「じゃああのヤバイ格好も近藤君がやらせて……」

「無理矢理っ!?」

周りは俺らが何か口にする度にざわめき立つ。

「うるせぇよっ!!!」

こめかみにピクピク来ていたモノを、声を荒げて外へと吐き出した。するとクラス連中は短い悲鳴を上げて静かになった。少しは黙っていて貰いたい。事態は収拾するどころか、段々と復旧不可能な域へ進みつつあった。

「まあいい、それより今は食事だ。何か買ってくるなり家へ帰って作るなりしろ」

ああもうっ、次はお前か………、なんて自分勝手な奴だろう。

もういい、この際ガキは無視することにする。

しかし、本当にこの一年は、あの時の様子を見ていたというのか。

「おい、今の話は本当なんだろうな?」

その言葉の先に続くものを理解していたのか、一年はこちらを向いて満足げに頷いた。

「理解してくれたなら話は早いわ。その事で話があったのよ。だからとっととついて来て」

一年は校則違反の肩にかかったセミロングの茶髪をふぁさっとかき上げてみせる。

「………どういうつもりだよ」

確かに、この場で昨日の事を喋られるのは良くない。

「別にどうって事無いわ、ただ、あんたも聞いておいて損は無いはずよ? というか、得をするのは私だけど」

明らかに状況は俺が不利である。相手はこの自分の優位な立ち位置を理解していて、ここまで大きな態度を取っているのだろう。加えて、昨晩の様子を見ていたというのだ、全てとは言わないが、その振る舞いにも納得がいった。

「下僕、私を無視する気か?」

隣に立つガキが何やら喚いているが、それよりも、今は目の前にいる一年を何とかしなければならない。

「頼むからちょっとお前は待っててくれ」

とは言え、ガキはガキで、キレると何をし始めるか分からない。ここで今朝あったように、床に頭を押し付けられるような真似をされたら、それこそ俺のプライドは木っ端微塵だ。というか、居場所さえなくなってしまう。

「言っておくけど、付いて来ないと、かなり酷い事になるわよ?」

今度は俺が後に続くことを予測しているのだろう。一年は俺に背を向けると、後ろを振り返ることもせずに、そのまま教室の前側のドアから出て行った。

「ちょっと待てよ」

他に手の無い俺は、それを慌てて追おうとした。しかし、その前にまずはガキをどうにかしなければならない。

「おい、今は下僕でも何でもいいから俺と一緒に来てくれよ、飯も用意してやるから」

この爆弾は俺の手の届く範囲に置いておく必要がある。下手にクラス連中がこいつを刺激しようものなら、それこそどうなるか分かったものじゃない。

「お前はいつも偉そうだな。まあ、食事を用意するというのならば付いて行ってやる。感謝しろ」

「ああ、感謝しておくよ」

俺は背後にガキの気配があることを確かめながら、早足で一年の後を追った。

そして、5時間目の授業開始のキャイムがなるのと同時に、俺は学校の裏庭へと降り立った。今日の授業はこれ以降、出席出来そうにない。自ら進んで欠席する時はなんとも思わないが、他人によって出席が阻害されるのは、なかなかどうして、腹の立つことを知った。

俺達の居るその裏庭は、凹の形をした建造物として建設された旧校舎の、その建物に囲まれた窪みにある。新校舎からは、かなり歩かなければならない距離にあり、生徒はおろか教師もめったに通らない。その為に、こうして人を呼び出して恐喝をするには、格好のロケーションとして多くの生徒に知れていた。

「なんだ、ずいぶんと静かだが、何を始めるつもりだ?」

周りをキョロキョロと見ながら、ガキは率直な感想を口にした。周囲には俺達の他に生徒の姿は無い。とりあえずはコイツも放置しておいて構わないだろう。幾ら罵られようと、ここには聞き耳を立てている奴も居ない。

「まったくだ、いきなり呼び出したりして何様のつもりだ?」

俺は腕を組んで偉そうにしている一年に、怒気をはらんだ口調で尋ねた。

「アンタこそ、良くあれだけの事をやっといて普通に登校してきてくれちゃってるわね。しかもその態度、神経が図太いにも程があるわよ」

「はぁ? 何のことだよ」

「隠したって無駄よ。私は昨日のこと全部見てるんだからね」

昨日の事、ねぇ………。

そう言われて思い当たるのは節は一つしかない。

「だからなんだよ、その昨日の事っていうのは」

しかし、もしかしたら俺の思う所とはまた別の話かもしれない。下手に自分から口走り、いらぬ事まで教えてしまうような失態はゴメンである。当たり障りの無い返答を返した。

「そんなのもう決まってるじゃない。アンタが昨日の放課後、教室でその子に変態な事してたってことよ」

ひと際大きく口にして、一年の女子生徒はガキへと視線を移した。当の本人は、俺の隣で事の成り行きをつまらなそうに傍観している。

「へ、変態だって?」

「変態よ変態。こんな小さな子を連れ込んでいやらしい事して、あんたを変態って言わなかったら何を変態って言えばいいのよ。分かってるんでしょ? 自分のやったことを」

「何言ってんだよお前」

「別に個人の趣味をとやかく言うつもり無いけど、それでも、妄想してるだけならまだしも、本当に実行しちゃうなんて社会の屑よ」

コイツは何を勘違いしているのだろうか。あの場面での被害者はこのガキではなくて俺だ。それが何故、咎められなければならないのだろう。

「いつ俺がこのガキに変な事したんだよっ!」

「昨日の放課後教室でしてたじゃない」

「してねぇよっ!!」

確かに、こんなご時勢だ、傍から見ていただけでは、そういう意図で解釈される事もあるかもしれない。けれど、いきなり初対面の相手を変態呼ばわりとは、この女もずいぶんと図太い神経をしている。

「まあ、アンタが認めようが認めまいが関係ないわ。何を言おうと証拠だってあるんだからね」

そう言って一年はスカートのポケットをまさぐり始める。一体どの様な証拠があるというのだろうか。

「これよ」

「あぁ?」

ポケットから取り出されたのは携帯電話だった。二つ折りのそれをパチっと器用に片手で開き、その画面を俺の顔に向けてきた。

「なにが証拠だってんだよ………」

言われ無き罪状だが、相手の手中にある情報は確認しないわけにもいかないだろう。屈み込んで液晶ディスプレイへと目をやった。一年の女子生徒が持っていた携帯電話は、最近良くCMで見る、発売されたばかりの新機種だった。大画面の液晶が見やすい……。

「って、こりゃ…」

俺の持っている物より二周りは大きな、そのディスプレイに映し出されたのは、放課後の教室でガキに噛み付かれている俺の姿だった。

しかし、こりゃあ………。

「どう? 言い逃れは出来ないわよ?」

写真は廊下側からガラス窓を背景にして撮られていた。それが、本来はガキが俺の首に噛み付いている筈の絵を、俺がガキに噛み付き返した状況だけを鮮明に映し出していた。これではどう見ても女の言葉通り、俺が加害者であった。俺の頭を挟んで反対には間違いなく俺の首に噛み付くガキの口がある筈なのに、そんな様子は微塵も感じられない。もし、写真が窓側から撮られたものであったのなら、しっかりガキの牙が俺の首に刺さる様子が写っていた筈だ。

「違うんだよ、これは俺が最初に噛み付いたんじゃなくて、このガキが噛み付いて来たのを、俺が噛み付き返したんだよ。だから悪いのは俺じゃなくてこっちなんだよ。先に手を出したのはコイツなんだよっ!」

隣に突っ立っているガキを指差して弁解した。

「私が何をしたというんだ?」

「お前が昨日、俺に噛み付いてきたときの話だよ。この女はそれを誤解していらん因縁をつけて来てるんだよ」

「ほぉ……」

ほぉ、じゃねぇよ。結局は全部がお前のせいじゃないか。

「嘘言ってんじゃないわよ。どう見たってあんたがこの子に襲い掛かってるようにしか見えないじゃないっ」

確かに、客観的に見ればそういう方向へと持っていくのが普通なのかもしれない。けど、俺にはそんな変態じみた趣味も無ければ、こいつを襲う理由だってない。

「だから違うって言ってるだろ。その写真は廊下側から撮ってるから、そういう風に写ってるだけで、本当はこの俺の頭の反対側でコイツが俺の首に喰らい付いてるんだよ」

「でも現にこうして貴方が襲ってる写真じゃない。言い訳は見苦しいわよ?」

「あのなぁ、人の話聞けよっ。第一、高校にこんな子供がいるってこと自体が、おかしいとか思わないわけ?」

話は延々と平行線を辿りそうだった。

そういえば、今まで考えることを放棄してしまっていたが、昨晩いきなり現れたコイツは一体どこから来たのだろう。あのとき、教室に居たのが俺と斉藤と吉川の3人だけであることは疑いようも無い。本人は初めから居たと言っていたが、それも本当かどうか怪しいところだ。

「そんなの、あんたが連れ込んだに決まってるじゃない。それとも何? この子の方から自発的に来たって言うの?」

多分、その通りなんだろう。

「そんなの俺が知るか、本人に聞いてくれ」

「ふん、まあいいわ。どちらにせよ写真は私の手の内にあるんだから、手早く話を進めましょうか」

なにやら話し相手の表情が変わった。それは人を上から見下してくるような腹立たしい笑顔である。

「俺はお前と話をするつもりなんて、これっぽっちも無いぞ」

「はぁ? まだ自分がこうして呼び出された理由が分からないの?」

「だから、その理由を教室にいたときからずっと聞いてたじゃねぇかよ」

この場所に呼び出されて、あの写真を見せられた時点で、大体のところは予想できていた。しかし、相手のペースに乗ってしまうのも癪である。あえて知らぬ振りをした。

「………あんた馬鹿ね」

「馬鹿で結構だ」

どちらが本当に馬鹿なのかは明らかであろう。

「別に簡単な事よ」

何か、値踏みを擦るような視線を感じた。

「そうねぇ、まずは1万で手をうってあげるわ」

やはりそう来るらしい。

「何言ってんだよ。なんで俺がお前に金を渡さなきゃならないんだ」

「何? 私に逆らうの? まあ、それでもいいけど、その代わりにこの写真は学校中に送信しちゃうわよ?」

一年の指がケータイの送信ボタンへと伸びた。

「私としてはどこの馬の骨ともしらない不良が学校にいられなくなったって、別に何も困らないしいいんだけど、折角だから話を持ちかけてあげてるのよ? 感謝してくれてもいいんじゃない?」

「…………」

さて、どうしてくれようこの女。

実際の言い分は俺が正しいに違いない。きっと、ガキ本人に証言を求めたとしても、その通りの回答が得られるだろう。しかし、この写真を見た者が、同様の判断をしてくれるかといえば、それはきっと無理な話だろう。現にこうして、この女が誤解したまま俺を脅してくれているように、多くの人は俺を加害者として見るだろう。

「払うの? 払わないの? 不良でも高校くらいは卒業しておきたいでしょ? 親に迷惑をかけるのが嫌なら、一万位安いもんじゃない」

性根腐ってるなコイツ、俺とお前どっちが不良だよ。

「というか、こんなのばら撒かれたら警察じゃん?」

しかし、確かにその写真が教師の目にでも入ったのなら、それこそ停学退学は確実だろう。一年の言葉ではないが、本当に警察の世話にまでなりかねない。ましてや少女誘拐だのなんだのと騒がしい時期だ、それこそマスメディアにとってはいい餌だろう。

「ほらほら、早くしないと送信しちゃうわよ?」

正直金を払うつもりなんて微塵もない。けれど、相手の行為は止めなければならない。

「よくもまぁ、そんな大口叩いてくれるな」

ここなら人目も全く無い。ちょっとやそっと声を上げられてもバレる事はないだろう。俺はある一つの結論に達し、それを実行すべく決心した。こういう馬鹿な女は一度痛い目を見なければ分からないらしい。今回は脅した相手が悪かったと勉強してもらおう。

さてどうしてくれようか、などと内心で舌なめずりをして一歩、女に近づいた。その時、隣で様子を眺めているだけであったガキが口を開いた。

「女、お前はコイツを脅しているのか?」

「え?」

俺とのやり取りに夢中だったのか、それとも子供に不釣合いな、そのおかしな物言いに驚いたのか、一年が素っ頓狂な声をあげた?

「な、何?」

「この男のことだ。もう一度聞く、お前はこの男を脅しているのか? 答えろ」

そう尋ねるガキの声は、やけに低く耳に聞こえた。

「なにこの子、頭おかしくない? それとももしかしてアンタがそういう風に呼ばせてるの?」

語尾の上がる今時のイントネーション。俺を軽蔑してのことだろう、顔はさらにゆがんだ笑顔を作っていた。そして、それが致命的に悪かった。

「馬鹿、お前そんなこと言うとっ……」

注意をした時には、既に遅かった。

突如として、それまでの沈黙を破り動いたかと思うと、ガキは一年の腹へと強力な一発を打ち込んでいた。拳は制服を身体に押し込むようにして、無慈悲にもめり込んでいた。無様な悲鳴を上げて一年の女子生徒は白目を剥いた。

「あ………、いったか」

口からは唾液と胃液の混ざり合った液体が飛び出し、地面に斑点状に飛び散った。止めにかかる間もなく、事は数秒とかからずに終わってしまった。今のはかなり効いただろう。相当に痛そうであった。

けれど、俺としても同じ事をするつもりだったので、いささか予定は狂ったが結果オーライだ。近づいて確認してみればどうやら失神しているようであった。呼吸があったので、とりあえずは安心である。

しかし、

「オマエ、本当に遠慮無いな」

殴られた瞬間には足が浮いていた。俺が今朝受けた仕打ちより、その肉体的な痛みだけを考えたのなら更に酷い。

「何を言う。人間如きにああも言われて黙っていられるか」

左様ですか。

「まあ、俺としては手間が省けたし、丁度良かったな」

正直ムカつく奴だったのでコレくらいがちょうど良い。

「お前、ケータイ寄こせよな」

地に横たわりながら、それでも握り締められたままになっていた携帯電話をむしり取る。こんなものをチラつかせたりしなければ、痛い思いをすることも無かっただろうに。奪い取ったそれを地面に落として、思いっきり踏みつけた。結構値の張る機種だろうが、まあ自業自得というやつだ。

「オマエも運が無いな。今度から脅すにしても相手を選んだほうがいいぞ」

このガキが関係している時点で相手が悪かった。

足の下でその凶器がしっかりと砕けている事を確認する。ディスプレイは割れ、ボタンもいくつか取れている。フォルムもゆがんでいるし、これならきっと、写真のデータも飛んでいることだろう。

「おい、下僕」

「なんだよ、つーか下僕はやめろって言ってるだろ」

「用事は済んだのだろう? ならばとっとと食事の準備をしろ、でなければ貴様もこの娘と同じ目に遭うと思え」

そういえば、そんな約束もしたんだった。

断ったら何をされるか分かんないし、この女のようになるのはごめんである。こうなっては午後の授業をサボるしかないだろう。幸いな事に、俺の学内での信用はゼロにも等しい。別に今さら無断で授業を欠席したところで、特に何かが起こるわけでもない。

「分かったよ。作ってやるから家に帰るぞ」

「ああ、素直で良い。全てにおいてそうならば良いのだがな」

って、カバンは教室だったよ。

「けど、今更取りに行くのもな……」

仕方が無い、置いて帰るか。まさか、このガキを連れて校舎の中をうろつくわけにもいかないし。ただでさえ子供の形してて目立つのに、加えてこの馬鹿げた格好である。人目につかない筈が無い。

「そうだ、家に帰ったら服をやるから着替えろな」

一体何処へ行ったら購入できるのだろう。その幼い体型に不釣合いな露出の激しい衣装は、作りだけを見るならば、値の張りそうな皮製の秀品であった。

「着替える?」

「ああ、オマエの格好は目立ってしょうがない。その格好のオマエと一緒にいたら俺が捕まっちまう」

「……何に捕まるというのだ」

意味が分からないといった様子で聞き返してくる。どうやら、コイツは一般常識が大きく抜け落ちているらしい。

「そうだな……、分からないのなら、それはこの際どうでもいいよ。けど、これもお前の言う下僕の仕事の範疇にあるんだろうから、衣食住は俺に任せろよな?」

物は言いよう、とはよく言ったものである。それで相手は納得してくれた。

「ふむ………。まあ、私の世話をさせてやっているのだ、それくらいは構わんか」

それよりも問題なのは帰り道だった。まさか、この格好のまま道を歩かせるわけにもいかない。

「なあ、オマエはどうやってここまできたんだ?」

これだけ人目に付く格好をしていて、声をかけられたり、警察に保護されたりせずに、良く此処までやってきたものだ。空でも飛んできたのだろうか? 相手は不思議系なのだし、そういうのもアリなのかも知れない、などと妄想した。

「普通にお前のいる場所を確かめて歩いて来たが、それがどうした?」

「って、歩いてきたのかよっ!」

しかし、返された答えは至って普通のものであった。

「でなければどうしろというのだ? 空でも飛んでくれば良かったのか?」

「い、いやまあ、そりゃそうだけど……」

よく何事も無く済んだものだ。家から学校までは、片道で40分かかる。その間を何の障害に躓くことも無く来れたのは奇跡と言っても過言ではないだろう。警察に見つかれば、間違いなく職務質問を受けていただろう。

「けど、俺の場所を確かめたって、お前、そんなことどうやって確かめたんだよ」

まさか GPS 発信機でも取り付けられていたとでも言うのか?

「それは昨日も説明しただろう。ファミリーならばお互いのいる場所を感じ取る事が出来ると」

ああ、そういえばそんな話を聞いた気がする。

とはいえ、俺にはガキの居場所なんて全く感じられない。人間の五感を超越した話なのだ、ついていけないのは当然である。非現実的である。しかし、現にこうしてコイツが高校までやって来た事を考えると、その言葉も本当なのだろう。信じざるを得ない。

「けど、よく何事も無くここまでこれたな。声とかかけられなかったか?」

「別に何も無い」

そうか、それならとりあえずは安心だ。

これだけ突拍子の無い格好で町を歩いておきながら、何事も無かったというのも、それはそれで変な気もするが、とりあえずの所はよしとしよう。

「そうか。なら別にいいや、気にすんな」

「……分けの分からん奴だな」

きっと、周りも声をかける事に気が引けたのだろう。そう解釈しておく。

「まあいいや、なんか疲れたし、とっとと帰るか」

服は着替えも無いし、学校にあってはどうしようもない。とりあえずは俺のジャージでも着せておくしかないだろう。最低限それで言い訳はできる。サイズ的にも、上を羽織れば、こいつなら腿くらいまで隠れてくれるだろう。

「っていうと、どちらにせよ教室に戻ってジャージを取ってくる必要があるんだよな」

踏み出した一歩を止めて、後ろへ続くガキへ振り返った。

「どうした。まだ何かあるのか?」

「ああ、忘れ物だ。ちょっとここで待っててくれ、直ぐに取ってくるから」

「それなら私も一緒に行こう。どうせそのまま帰るのだろう?」

「いや、頼むからここで待っててくれ。お前が一緒に来ると、ろくな事にならないから」

先程も僅か数回、口を開いただけで大騒ぎだった。

「折角の私の好意を無碍にするつもりか?」

俺の対応を受けて、相手の表情がよろしくない方向に変化する。それを慌ててフォローする。

「いや、本気で頼むよ。お前の行為は気持ちだけ貰っておくからさ。こっちにもこっちの事情ってやつがあるんだよ」

「フン、事情か……」

分かったくれただろうか?

「まあいい、勝手にしろ。その代わり急げよ?」

「分かってる」

踵を返して急ぎ足で走り出す。

ただでさえ、コイツを一人で残しておくのは不安なのだ。それに加えて、長時間を待たせたとあっては、何をされるか分かったものじゃない。痺れを切らされて、先程あったように、勝手に校舎内を徘徊されたりしようものなら、今度こそ俺の人生が危うい。そう考えると、全力でスタートダッシュを切っていた。

しかし、それも数歩を進んだところで止まることとなった。というのは、自分がこれから向かおうとしていた方向から、突如として人が現れたからである。

「え?」

女の高い声が聞こえた。

見られてしまった。

ただでさえ変な格好をしたガキを連れている。それに加えて、大して離れていない場所には、気を失って倒れた一年の女が横たわっている。これは、人に見られるには、流石にマズイ光景だろう。

「どうした?」

背後からも声が届いた。

現れたのは、倒れている一年と同じ色のネクタイを締めた女子生徒であった。

「これは……」

出会いがしらに視線があった。腰にまで伸びた長い黒髪が実に印象的である。先程、俺を脅してきた馬鹿な女とは違い、落ち着いた雰囲気の女だった。きっちりと膝下まで伸びたスカートは、今時の女子高生としては珍しく、校則通りの丈である。それが俺の目には新鮮に写って、随分と可愛らしく思えた。

「それに…………、そこに倒れているのは姉さん?」

そして、その口から続けざまに出てきた言葉は、俺を酷く驚かせた。

「姉さんってお前、こいつの妹かよ……」

今日は本当に、踏んだり蹴ったりだった。というか、この一年も何故こんな時間に旧校舎へ来たのだろうか。今は授業中の筈である。

「あのな、こいつの事だけどな」

仕方なく俺は言い訳を始める。それこそ被害者の俺がすることでもないのだろうに、何故こんな事態に陥っているのだろうか。いっそのこと、この女も殴って隣に寝かせるか? そんな悪魔の囁きが、一瞬にして脳裏を駆け巡った。だが、流石にそれは良くない。

「こいつが悪いんだぞ? 俺を脅して金を奪おうとしたんだからな? これはその、それ相応の対処ってやつだ。正当防衛? そんな感じだ」

殴ったのは俺じゃないのに、どうしてこんな事を必死になって説明しなければならないのか。段々と悲しくなってきた。まるで、これから正義の味方に殺されようとしている、三下の悪役を演じている気分である。

対して、その一年は暫くの間をダウンした一年を眺めていた。しかし、此方が聞き取れない小さな声で何事かを呟くと、唐突に鋭い視線を向けて睨みつけてきた。

「これはいったいどういうことですか? いつまで経っても授業に戻ってこないと思い探してみればこんな状態です。貴方は姉に何をしたんですか?」

倒れている姉とは違って妹の方は丁寧語で会話が出来るらしい。

それにしてもこの二人、纏う雰囲気は真逆だが、顔の作りはそっくりである。一卵性双生児というやつだろうか? 遊び人のような姉と比べて、お淑やかな淑女といった印象が強い。

「これはだな、そこに倒れてるお前の姉? まあいいや。そいつが俺を脅してきたから、それ相応の対処をさせて貰っただけなんだよ。こっちは悪くないし、どちらかと言うと俺が被害者なんだからな?」

支離滅裂な言葉の並びとなってしまったが、俺の言わんとすることは、果たして相手に伝わるだろうか。

「しかし、まさかとは思いましたけれど、本当にこの学校に居たとは……」

「だから文句だったら受け付けてないからな? お前からも姉に注意しておいてくれよ、人を脅すなんて一番良くないことだってさ」

「つまり、結論として、これをやったのは貴方ということで、よろしいですか?」

「ああ、確かに手を出したのは悪かったかもしれない。けど、先に脅してきたのはそっちの姉とやらの方だからな」

「ええ、それは理解しています。あれだけ止めたにもかかわらず手を出してしまうとは、本当に困った姉です」

「そうだな、せめて口の利き方位はしつけておいた方がいいと思うぞ」

ふとガキのことが気になって後ろをり返える。今は言葉無く待ってくれているが、その表情は露骨に苛立ちを露にしていた。これはとっとと切り上げた方が良さそうである。幸いにして妹の方は人間が出来ているのだ。

「というわけで、俺はこれで失礼するから、後はよろしくな」

姉の介抱を妹に任せて、俺は教室へ向うべくその足を再び前に一歩進めた。

しかし、そうすんなりと話は終わってくれなかった。

「ですが、こんな姉でも私の姉です。それがこのような状況にあっては、妹としては素直に頷いて終るわけにもいきません」

「終われませんっていわれてもな。じゃあアンタは俺に何するつもりなんだ? 教師に言いつけるか? それとも姉の仇打ちにに殴りかかってくるか?」

最後の方は多少苦笑が混じりに言葉を返していた。

「おい下僕、いい加減にしろ」

後ろからは、痺れを切らしたガキの罵声が飛んできた。そう、これ以上は俺にも余裕が無いのだ。

「そちらの方は?」

その発言を受けて、一年の視線が俺からガキへと移された。

「あー、それは……」

問われた内容に、俺は答えるだけの回答を持っていなかった。実際のところ、俺だってコイツが何者なのかなんて知らない。とはいえ、何かしら適当な回答は必要だろう。

「私はこの下僕の主人だ」

ところが、俺が困っている間にガキは自分から一年の問いに答えていた。

「主人……」

「そうだ。躾のなってない威勢が良いだけの下僕だがな」

「うるせぇよ、誰がいつてめぇの下僕になったよっ」

っていうか、勝手に口を挟まないで貰いたい。またこれで変な勘違いをされたことだろう。その誤解を解くのに、どれほどの労力が必要になるだろうか、考えただけでも頭が痛い。

「今朝そう契約したではないか。それとも、もう忘れたと言うのか? また痛い目を見たいというのならば、何度でも相手をしてやるが、どうする?」

途端に、ガキの顔にはあの邪悪な笑みが浮かび上がった。

「う、うるせぇな…………、わかってるよ、糞がっ」

殴られるのはもう嫌だった。

けれど、相手の脅しに屈して、段々と従順になっていく自分の姿は見ていて悲しいことこの上ない。何たる屈辱だろうか。いつの日か、この鬱憤を晴らせる日が来ることを信じて、今は耐えるしかない。

「なるほど、貴方の方が下僕だったんですね。それは私も勘違いしていました」

いや、お前もお前で納得しないで貰いたいのだけれど。

「ところで、姉をこうしてくれたのはお二人のうちどちらですか? 下僕のほうですか、それとも主人の方ですか? まさか二人がかりで?」

そんな事を聞いたところで、一体どうするつもりなのだろうか? まさか本気で殴りかかってくるつもりなのだろうか?

「私だ。貴様も姉妹ならば姉の躾はしておけ」

応じてガキが答えた。

「なるほど、主人の方でしたか。となると少々骨が折れるかもしれませんが、仕方がありませんね。これも制約ですので」

一体何を考えるのだろうか。見知らぬ一年の女子生徒はツカツカとこちらに歩み寄ってきた。そして俺の横を素通りすると、その後方にいるガキへと近づいていく。

「お、おい、もし本気で仕返しとか考えてるならやめとけ。そいつは見た目小さいけど、絶対に痛い目見るのお前だから。だから下手なことしない方がいいぞ」

幾ら女とはいえ、このような小さい子供を相手にして、高校生がダウンを取られる筈が無い。普通に考えれば分かるだろう。相手だって、その程度の判断は出来るはずだ。ただ、まさかこの歳で子供を相手に暴力を振るうことはないだろうが、仮に躾と称して頬でも叩こうものなら、その身に及ぶのは万倍返しの苦痛だろう。考えただけでも痛々しい。出来ることなら素直に教室へ帰って欲しかった。

しかし、妹が取った行動と、それに続く展開は、俺が予想するどんな結果にも異なっていた。

「何のつもりだ人間」

二人は数メートルの距離を開けて向かい合っていた。ガキは面倒くさそうな表情で相手を見つめている。すると、一年はその場で姿勢を低く構え、突如としてガキに向かって回し蹴りを放ったのである。

「なっ!?」

しかもそれは、テレビの格闘技番組でプロの選手が見せるような、思わず鮮やかと称えたくなる程の華麗な一撃だった。

「なんだとっ!?」

ガキもこの事態は予想していなかったのだろう。避けることも叶わずに、その全てを受け止める結果となった。咄嗟に両腕でガードしたのが効いたのらしく、ダウンする事はなかったが、勢いを殺しきれなかった身体は足を砂に滑らせて、後ろに十数センチ程後退していた。幸いな事に怪我をしている様子は無い。

「貴様……」

「どうかいたしましたか?」

「って、どうなってんだよ、おい」

この二人は何を始めようというのだ。

「私に喧嘩を売ったことを後悔するなよ?」

「そちらこそ、調子に乗っていると痛い目をみますよ?」

「ぬかせ!」

先に仕掛けたのはガキだった。一年の回し蹴りと、その事後動作によって出来た、両者の間の僅かな間合いを一気に詰める。そして、顔面へと狙いをつけて右腕で殴りにかかる。動作そのものは大雑把な感じがするが、スピード、重さ共に身をもって強力だと知るそれは、どんな相手でも一撃必殺の凶器である。

しかし、俺にはとっては脅威でしかないその一撃を、一年の女子生徒はギリギリの所で避けてみせた。また、同時に向って伸びてきた腕を掴み、空いたもう一方の腕で脇を掬い上げると、そのまま投げへと転じた。

ガキのちっこい体が宙に舞う。

「あっ」

見ているこっちが声を上げてしまった。けれど、投げられた本人は人間離れした身体能力を発揮し、空中で体勢整えて、足から地面に着地した。そして力任せに自らを掴む腕を振り払う。仕返しだとばかりに、姿勢を落としローキックを放った。身長差のある一年から見れば足払いになる一撃である。

「それでは無理です」

対する一年は、迫る足を後ろへ跳躍して避けた。だが、ガキは間髪おかず間を詰め、今度は腹部へと腕をのばした。

「そんな事を言えるのは今のうちだっ!」

拳は相手の腹部へと命中したかに見えた。しかし、一年の女子生徒は寸前のところで、両手の平を当てて、受け止めていた。とはいえ、殺しきれなかった勢いは、その身体を後方へ吹き飛ばしていた。またしても二人の間に出来た間合いに、各々は体勢を整え直に身構えた。

というか、殴って体が吹っ飛ぶという時点で、相当にヤバイ喧嘩だった。人体を吹っ飛ばすようなパンチなんて見た事ない。この一年の女子生徒は何者だろうか? ガキと対等にやり合っている時点で、只者でないことは明らかだ。俺はと言えば、この輪の中に入る事もできず、かといって止める事も出来ずに、一傍観者として様子を少し離れた所から見ているだけだった。

拳を受けた一年は体制を整えて、力強く地を蹴る。すると、それだけで三メートル以上あった間隔はゼロになった。オリンピック陸上競技の強化選手も真っ青の跳躍力であった。そして、一年は飛び出した勢いをそのままに、腿から足を大きく上げて、かかと落としを放った。まるでワイヤーアクションを見ているようだった。

振り下ろされた足は惜しいところで外れ、ガキの髪を撫でるに終った。そして、ドスンという低い音を立てて、地面に靴の半分以上をめり込ませた。

「あ、危ねぇ……、なんて女だよ、こいつ」

あんなものが当たったら、それこそ仕掛けた方も仕掛けられた方も無事じゃ済まないだろう。音からして半端ない。

一年が足を地から引き抜くわずかな隙に、ガキが脇腹へと拳を叩き込んだ。

「ぐっ」

防ぐ事が出来なかった一年はモロにダメージを受ける。相手のかかと落としに比べれば、些か力不足な感じもするが、その一発だって俺が喰らえば一発でダウンしているに違いない。

拳の当たった左脇腹を押さえて、一年は後ろへと飛び退き距離を取ろうと試みる。ガキはそれを逃がさんと追う。

「どうした、当たってしまったぞ?」

余裕のある口調で皮肉を口にしながらも、振るう腕は容赦が無く、鋭く相手の顔面を攻めにかかる。

「問題有りません」

対する一年は脇へ食らった一撃が堪えたのだろう。苦しげな表情でなんとかそれを避けると、後ろへ数歩後ずさった。その様子を目にしたガキの顔に、楽しげなな笑みが浮かんだ。どうやら弱いもの虐めが好きらしい。随分な性癖であった。

しかし、この二人は一体何者なのだろうか。この喧嘩に比べれば、テレビでやっているK1やボクシングといったリングスポーツが子供騙しに見えてくる。まさか今までの一連の流れがヤラセという訳もあるまい。

苦い顔をしている一年だが、守りに転じる気はないらしい。左脇腹を摩る手を再び攻撃に転じさせ、相手にストレートを打ち込みに行く。だが拳は空を切った。

ガキは一年の腕が伸びきるのを確認すると、鳩尾へ左の拳を向けた。

「まだまだです」

当たるかと思った一撃は半身を回転させた一年に避けられた。受け手は勢いを止める事無く、残った半回転分の勢いを、左足を軸にして利用し、二度目の回し蹴りをガキの後頭部目掛けて放った。

「ちぃっ」

しかし、予備動作が大きかった為、ガキは自分に迫るものに気づき、しゃがみ込んで足を避けた。一年も自分の放った一発が避けられた事を理解して、急いでその場から飛び去り間隔を取った。

「さすがに主だ。かなり骨が折れそうです。しかも吸血鬼には魔法もへったくれもあったもんじゃありませんし、これはちょっとキツいかもしれませんね」

「言っておくが今更謝ったところで私は止めないからな?」

「いくら貴方が吸血鬼であろうと、私は退きません」

両足を肩幅に開き、脇を閉め、いつでも攻めて守れるように構えを作る。それは拳の位置こそ違えど、ボクサーのファイティングスタイルに似て感じられた。対するガキはと、特にこれといって身構えることも無く、その場でただ突っ立っているだけであった。

「って、今、一年の奴………、吸血鬼って……」

確かに言っていた。

なんでそんな単語を口にするんだ?

俺は吸血鬼という言葉を口にした覚えは一度も無い。

「良く吼える女だ、この下僕にしろお前にしろ、最近の人間は威勢ばかり良くて困るなっ!」

ガキが飛び出す。

「威勢だけではありません。第一、貴方にしても何故か殴りかかってくるばかりだ。それでも本当に吸血鬼ですかっ!?」

対して一年がそれに答える。

ガキが繰り出す拳の軌道を、一年は自らの腕で逸らしカウンターへとつなげる。だがカウンターの筈であった右アッパーは、あろう事か飛び上がったガキの足に踏みつけられていた。身長差があったために繰り出した位置が低かったのだ。さらに、ガキはそれを土台にして、もう一方の足でサマーソルト・キックを仕掛けた。それも、エドワード・カーペンティアが使うようなせこい技ではない。正真正銘、後方宙返り中にあって、蹴りへと繋げる大技だった。ちっこい体が空中で鮮やかに回転する。それは声も無く見とれてしまう程に可憐だった。川の流れに太陽光が乱反射するように、宙を舞った長いブロンドの髪がとても綺麗だった。この光景は当分忘れない。

まったく、なんてあり得ない世界だろう。性質の悪い冗談のようだった。

エナメル質の黒光りするブーツは、形の良い顎へ鋭く迫った。しかし、それを一年は少し顔を上へと上げただけで避けきった。そして、伸びた腕を胸元まで戻すと、同時に自身の体を前へ滑らせる。一年は空いてしまった間合いを埋めて、即座に鋭いハイキックを繰り出した。

「ちぃ」

大技を放った後であったこともあり、追撃は避ける事が出来そうになかった。ガキは仕方なく左腕を盾にしてダメージを殺した。しかし勢いは完全に頃す事が出来ずに、軽い身体は、撃たれた方向へ足を滑らせて後退した。

「コレは、遠慮はいらないということでいいのだろうな」

一体どちらが優勢なのか、俺のような一般人には判断不可能なやり取りを二人はしていた。

ただ、そんな鮮やかな競り合いの様子を目にしていても、先程一年が口にした吸血鬼云々という呟きが忘れられなかった。吸血鬼なんてファンタジーは、早々世の中に出てきてはいけないものなのではないのか? というか、何でそのことを知っているのだろうか? それは自らの生活にも関係してくる情報であり、俺は決心して口を挟む事にした。なにより、この一年の口ぶりはガキに関する何かを知っているような節がある。

「遠慮してくれていたなんて、ずいぶんとやさしいんですね」

一年がジリジリとガキとの距離を詰めてゆく。今ならば、と勘ぐって俺は口を開いた。

「おい、ちょっとお前ら」

近づくのはおっかないが、二人がいがみ合う場へ向って数歩足を近づける。

「下僕は黙って見ていろ」

だが、相方からは大方予想通りの回答が帰ってきた。俺としても二人の殴り合いに参加つもは全く無い。黙って見ていろという言葉には至極同意する。ただ、幾らか聞いておきたいことがあるのだ。

「分かってる、手出しはしないし、俺の問いに答えてくれれば後は黙って見てるから、だから、一つだけ聞かせてくれ。そこの一年、お前に聞きたいことがあるんだ」

自分に話が振られたのが意外だったのだろう。ガキと向き合う姿勢は崩れなかったか、僅かに身を震わせて、一年の女子生徒は答えてくれた。

「なんですか? 話なら後にして頂きたいのですが」

「悪いがちょっとだけだから答えてくれよ、お前、今さっき吸血鬼がどうのこうのって言ってたろ?」

二人がいがみ合う場所から5メートルほど離れて話しかける。下手に近づくと巻き添えを喰らいかねない。

「確かに言っていました。ですが、それがどうしたというのですか?」

やはり、この一年は吸血鬼なんていう物語の中の存在を普通に受け入れているらしい。

「なんで、お前はそんな与太話を信じてるんだよ?」

「与太話ですか?」

「そうだろ? 普通」

「まあ、世間一般ではそうかもしれませんが、ですが、貴方にしても立派に吸血鬼ではないですか。私としては、吸血鬼でありながら、こうして日の下で活動しているあなた方の存在が不思議です」

「そ、それは、そう言われると返す言葉が無いんだけど………」

その辺はエリーゼが今朝説明してくれた所だろう。

「ってそうじゃなくて、なんでお前は吸血鬼なんてものを知ってんだよ。つーか信じてるんだよ。吸血鬼だぜ? 普通だったらそんな事を真面目に言う奴なんていねぇよ」

先程と同じ問いを繰り返した。俺の言葉を受けて、一年は口を噤み、何の反応も無くなった。もしかしたら俺のことを無視することに決めたのかと疑った。だが、どうやら何か、考え事をしていたらしい。

「姉に見せられた写真と、この主の言葉を合わせれば、貴方は昨日吸血鬼になったばかり、という事ですね」

「え、あ、ああ。まあそんな感じなんだろ、多分」

一年は体勢をまったく動かさずに続ける。幸いな事に、対峙するガキはその間に襲い掛かることも無く、何もしないで待っていてくれている。

「だとしたら、貴方はこの方のファミリーなのですよね?」

一年の視線の先には対峙する相手の姿がある、この方とはガキの事だろう。

「ああそうだ、この下僕は私のファミリーだ」

その問いに俺が答えるよりも早く、ガキが肯定を口にした。

「それでしたら、この方から説明なり何なりを受けているのではないですか?」

「ああ、話は確かに聞いたけどさ……」

「私は姉の写真からお二人を判断したに過ぎません。この知識にしても全てお父様から戴いたものです。それ以上の事は私は知りません」

世界は広いと言うが、今こうして俺の目の前に存在している世界は、どう考えても、それまで住み慣れていた世界とはチャンネルが異なっているように感じる。

「そして、姉も私の範囲内にありますので、制約上、こうなってしまっては貴方の主人に挑むほかありません。よって、今の状況にあるわけです」

「範囲内?」

「話は終わりだ、下僕」

「いや、ぜんぜん良くないんだけど」

となると、そのお父様とやらも吸血鬼を知ってるって事か? 俺以外のどれだけの人間が、チャンネルを別にして生活を送っているのだろう。

「黙れ、貴様は私の命に従っていれば良いのだ。そこで大人しく私の姿を眺めていろ」

「それでは私が勝利した場合、貴方は随分と恥ずかしい目を見ることになりますよ?」

明らかに挑発的な物言いに、俺は危ないものを感じて二人の間から飛びのいた。

「フンッ。ほざいていろ、人間が!」

途端に、二人は先ほどと同様、非常識な鬩ぎ合いを開始する。もう口を挟む事も出来ないだろう。視界の隅には、気を失ったままの一年の姿が確認できる。もしも、この二人の喧嘩に横槍を入れようものならば、俺もこの女と同じ道を辿ることとなろう。それは絶対に遠慮したいところだ。

それにしても、姉と妹で随分と印象の違う姉妹である。ダウンしている姉の方は、肩にかかるセミロングの茶髪に、耳ピアス×3、太ももの辺りまで丈を短くしたスカート、ヘソの見えそうなブラウス、etc etc といった様子で、なんとも分かりやすい格好である。それに対して妹の方は、まったく色の入っていない真っ黒な長髪を腰まで伸ばし、校則を完璧に守った膝下まで丈のあるスカートを穿き、皺の無い整った制服に身を包み、まさに優等生を絵に描いたような出で立ちをしている。双子ということもあり、顔の作りは殆ど同じである。けれど、その姿格好が二人を全く異なる人種の人間として、分け隔てていた。

「死ねっ!」

本人の背丈に匹敵する長さを持つブロンドの髪を靡かせて、ガキが一年へ迫った。

それを迎撃せんとする一年は下段に構えて接近を待つ。しかし、ガキは相手の懐へ踏み込む一歩手前で真上に跳躍、宙へと舞った。恐ろしいジャンプ力で一年を悠々と飛び越え、その背後に着地する。対して予想外の展開に驚いたのは一年である。背後に存在するであろう相手を視認する暇も無く、本日何度目になるか分からない回し蹴りを闇雲に打ち込んだ。

「フンっ」

ガキはそれをしゃがみ込んで避ける。そして、折りたたんだ膝をバネにして、相手の腹部めがけて、勢い良く拳を打ち込んだ。

「づぁ!」

どの程度の力が加えられていたのかは分からないが、拳を受けた一年は、勢い良く後方へ吹っ飛んだ。距離にして5メートル程である。しかし、吹っ飛んだ身体はバランスを崩すこと無く、地に膝を突くこともない。ガキに負けず劣らず、これまたかなりの化け物だろう

「まだまだ、です」

とはいえ、全くダメージを受けていないという訳でもないようだ。腹に手を当てて、若干前屈気味の姿は、少なからず痛みを堪えている様に見える。それを勝機を見たか、ガキの攻める手は勢いを増した。

こうして客観的に眺めていると、何となくだが思うところも出てくる。ガキに劣る肉体の基本性能を、一年は技術的な側面によって補っているようだ。動きが綺麗に見えるのも、それが格闘技としての技だからだろう。しっかりと型の決まった動きは見ている側も気持ち良い。格闘技など習ったことは無いので、それが一体どういった種別の型に属するのかは分からないが、足技を多様している所からして、ムエタイやサバット、テコンドーといった辺りから来ているのだろう。

「というか、同じ高校にこんな奴がいたって事が何よりも驚きだけどな……」

これだけの技量があれば、結構な規模の大会であっても賞を狙えるのではないだろうか?

「はっ!」

防戦一方であった一年が、ガキの大振りな殴り込みにカウンターを仕掛ける。勢い良く近づいてきた相手の顎へ、蹴り上げられた膝が見事に命中した。

「ぐっ!」

小さな体は放物線を描いて飛び、重力に逆らうことなく地面に音を立てて落ちた。

「貴方が体格の小さい吸血鬼で助かりました」

肩で息をする一年は、地面に崩れた相手に目を向ける。

ガキは体を起こすと、片膝を地に突いてしゃがみ込み、憎憎しげに言葉を返した。

「クソ、魔力さえあれば貴様など一瞬で消し炭にしてくれるものを……」

例の、吸血鬼が持つ特別な治癒能力の効能なのだろう。かなり強烈な打撃を受けたにもかかわらず、ガキは直に立ち上がった。しかし、受けたダメージは完全に癒えている訳でも無い様だ。その身体は多少ふらついていた。

「……魔力さえあれば?」

ガキの言葉に一年が反応した。

「それは一体どういうことですか?」

若干の表情の変化を伴って、そう相手に尋ねた。一体どういうことですか? そんなの言葉通りの意味だろう。魔力という不思議パワーが手元に無いということだ。

だが、その言葉を耳にして、途端にガキの様子が変化した。まるで悪戯を親に見つかった子供のような、あせりと怒りの混じったような表情がそこにはあった。

「…………くっ」

「どうしたのですか? 答えてください」

「やかましい、なんでもないわっ!」

キッっと相手を睨み返して、体を硬くした。

「吸血鬼にしては、ただ殴りにかかってくるだけで、どうにもおかしいと思っていました。ですが、まさか今の言葉通り、貴方には魔力が無いのですか?」

「……………」

「てっきり人間相手の嗜好的な感覚で私の相手をしていると考えていたのですが、実際は本当にこれが全てだったと、そういう事になるんですか?」

「……………だとしたらどうだと言うのだ?」

一体何の話をしているのだろうか。俺には先が見えない。

「そうなると、形勢は一気に逆転します。貴方のように、未成熟な身体の吸血鬼が魔力を持っていないとなると、それは多少の力を持った足の速い人間と変わらないですから」

何やら、ガキの不利を仄めかすような台詞だが、理由はサッパリ分からない。

「笑わせるな。魔力が有ろうと無かろうと、人間如きに遅れを取るなどありえん」

「そうですね、確かに普通の人だったらそうかもしれません。姉のように」

だけど、と続ける一年。

「私は違います」

一体何の真似だろうか。特にそこに何かあるわけでもないのに、一年は右腕を水平に前へと突き出し、手のひらをガキへと向けた。五本の指はきっちりと閉じられている。

「吸血鬼を相手にしては、人間の持つ微々たる魔力など、何の影響を与えることも出来ないでしょう。ですが、今回ばかりはそれも偽なり、といったところでしょうか」

「ふん、やれるものならやってみるがいいさ」

そう吼えるガキの姿は、今までの余裕に満ちたものとは少し違って感じられた。強いて言うならば、それまでの自信が若干揺らいで見える。いや、気のせいかもしれないけど。

「そうですね。私にどの程度の事が出来るのかは分かりませんが、貴方がそう言うのですから試させて頂きます」

それにしても、こいつ等の争いは何時まで続くのだろう。

この場で二人の様子を眺めているのは、俺が一人で何処かへ行くと、また、ガキが学校の中をうろつく事になるので、それを防ぐ為である。とはいえ、先程からずっと立ったままであるので、いい加減に足が疲れてきた。そろそろ家に帰りたいと思う。

「それでは、道具を使わせていただきます」

これから第2ラウンド開始といった所だろうか。

仕切り直しにそう宣言して、一年はスカートのポケットへ手を突っ込んだ。一体何が出てくるのだろう。多少の好奇心を持って見守っていると、そこから顔を現したのは一振りのナイフであった。

「何の真似だ? 今更そんなものを取り出したところで、勝敗が変わる訳でもあるまい」

相手の対応を受けて、ガキは訝しげな表情を作った。

「人間の魔力は吸血鬼と違って、それは少ないものなのです、だからこうして……」

一年は取り出したナイフで、自らの腕を浅く切りつけた。

「な、なにやってんだよお前っ」

その不可解な行動に、見ていたこっちが声を上げてしまった。一見まともに見えて、実はかなり頭のおかしな奴なのかもしれない。

「道具に頼らなければならないんです」

噴出す程ではないが、傷口からは結構な量の血液が流れ出てきていた。腕を伝って指先まで到達した血液は、更に、その手に握られたナイフへと伝う。そして、傷口から始まって、刃の先端までを駆けた血液は、ポタポタと下に垂れ、ゆっくりと地面に吸い込まれていく。それは俺の日常からはあまりにもかけ離れた行為であった。

しかし、それ以上に非日常的な現象がが続けざまに発生した。なんと、一年の持つ刃渡り15センチ程のナイフの、その刀身が薄くぼんやりと光り始めたのだ。

「このナイフは人間の血を元にして魔力を発生させる事が出来ます」

何の感慨も無く、自らの腕に出来た傷にさえ興味が無いのか、一年はガキを見つめたまま物静かに続けた。コイツは痛みを感じないのだろうか? 正直、理解に苦しむ光景であった。

「ブラッディ・マリーか。よくそんな古いモノが残っていたな」

一年の自爆パフォーマンスを受けて、ガキの表情が険しいものに変化した。流石の吸血鬼様も刃物には弱いのだろうか。

一年が手にしているナイフは、刀身はもちろんのこと、柄も含めて全てが金属で出来ている。色は銀色で、日陰の校舎裏にあって、鈍く光って見える。刀身には赤い筋のようなものが通って見えるが、それがデザインなのか、それとも腕から流れ出る血液なのか、判断はつかない。

「知っているんですか?」

「馬鹿にするな、それに、そいつはお前のような人間が手に入れられる安い骨董品ではなかった筈だ」

「コレはお父様に貰ったものです。私が彼から貰った中で唯一気に入っているものです」

「赤い刃も随分と落ちたものだな、まさかこのような扱いを受けているとはな」

「失礼な言い方ですね。ですが、それは自身の身をもって反省していただきます。姉の分もありますしね」

「やれるものならやってみろっ!」

両者同時に相手へと駆け出していた。やはりというか、その初速は人間の比ではない。バイクの急発進を超える加速度で駆け出した一年は、腕の傷口から血液を飛び散らせながらも、ガキへと切りかかった。狙いは左わき腹である。突きあげるようにして心臓を狙っていた。

「幾らソレを使おうと、扱うのが人間では高が知れるわっ!」

ガキは足払いで一年の体勢を崩す。そして、軌道の反れたナイフを屈んで交わし、左手で刃を握った相手の腕を掴むと、右ストレートを腹部めがけて放った。

「っ!?」

だが、何を思ったのだろう。拳が相手に届く前に、ガキは自ら後ろへ飛び退いた。疑問に思って目を細めて見れば、どういう訳か、ガキの5本の指は切り裂かれてていた。

掴んだ一年の右手に握られていたナイフは、逆手に握りなおされており、それが指を刻んだのであった。

「ナイフの扱いには自信があります」

そして、二人の間に間隔が空いたのも束の間である。相手に休む暇を与える事無く、一年は攻撃を仕掛けた。

というか、これは止めないとマズイんじゃないだろうか? 

「・・・・・・・・・・・・」

けれど、そうは思った所で、俺が出て行ったとしても、それこそ逆に刺されて死ぬのがオチである。如何すれば良いのだろう。段々と危ない方向へ進む事態に焦りを覚えた。

「やってくれるな、小娘がっ!」

人間離れした二人の鬩ぎ合いを前にして、驚き半分で観客をしていた俺だが、喧嘩もここまでエスカレートすると、段々とその先が心配になってきてくる。

二人とも赤いものを撒き散らしながら殴り合い、切りつけ合っている。こんなところを誰かに見られたら、一緒に居る俺まで巻き添えを食らってしまう。そもそも、下手をしたら死人が出るんじゃないだろうか? そうなったら警察ものだ。ただじゃ済まない。

「本当に魔力が無いのですね。結構効果があるみたいです。これならば私でも十分に相手をすることが可能ですので、覚悟してください」

だが、止めようと思っても出来ないのが悪循環だ。考えてみれば、そもそも俺が止める必要も無い。しかし、あのちっこいガキが血まみれで殴り合っている姿を見ていると、どうにも良心が痛い。なんてズルイ奴だろう。

それに、姉の仕返しをするにしても、これはやり過ぎだろう。他人事だと傍観していたが、段々と心配になってきていた。喧嘩に際してナイフをチラつかせる行為は良くあることだ。けれど、今俺の前で繰り広げられている光景は、それとはかなり次元が違う気がする。

「お、おい、お前ら、いいかげんにしろよなっ」

情けない事だが、近づくと危ないので少し離れたところから声をかけた。だが、当たり前のように二人は無視してくれた。それとも俺に気を向ける余裕も無いのか。

一年が相手の首を狙ってナイフを横一線させる。それを見ている方が慄く程の紙一重で避けたガキは、過ぎた刃の後を狙って顔面に向けて拳を振った。

「おーい、一年の奴っ! お前も姉の仕返しだか何だかしらないけど、けど十分だろ? ナイフはやり過ぎだってのっ! 教師に見つかったら間違いなく退学だぞ。停学じゃなくて退学だぞぉー!」

振るわれる刃を器用に避けながら隙を狙うガキへ、しかし、容赦なく一年の上段蹴りが決まる。打撃の勢いを殺しきれず、両腕を上げてガードをした姿勢のままガキは前後左右にふらついた。

コイツら聞いちゃいねぇ。

「やめろって言ってんのが聞こえ無いのかよっ!」

「下僕さんが呼んでますよ?」

「知るかっ!」

足技にプラスして右手に握られたナイフにも注意が必要となり、先程まで均衡していた様に見えた二人のやり合いは、しかし、段々と一年の優勢へと傾いていく。

「だーーーーーから、やめろってんだよ!!!!」

自分が相手にされていない事にイラつきを覚え、足は知らず知らずのうちに、段々と二人のやり合う方向へ向って進んで行った。

「くっ……」

ガキが苦い顔をして飛びのいた。見れば左腕を肘から手首にかけて、20センチ以上に渡って切り裂かれていた。露出が激しい衣装を着ていることもあって、傷口からの出血が遠目にもはっきりと見えた。

ていうか、マジでヤバイじゃないかっ!?

「しっかりと効いているようですね。魔力の無い貴方には、このナイフで受けた傷は辛いでしょう。治癒にもそれなりに時間がかかる筈です。このまま全身を真っ赤に染め上げて差し上げます」

「ぬかせっ! この程度の傷、どうということ無いわっ!」

「それは貴方が普通の吸血鬼であった場合の話です」

良く見れば、ガキは腕に受けた傷以外にも、身体のあちこちに赤い筋が通っていた。僅かな服生地が覆う胸や下腹部以外は殆どが素肌である。その為に、多少掠った程度でも裂傷が刻まれてしまうのだ。

「貴様も、いちいち五月蝿い奴だな」

せめて、もう少しまともな格好をしていれば良かったのに。

そんなツッコミを心の中で入れながらも、俺だって少しずつ頑張っている。先程立っていた場所から結構な距離を詰め、二人まであと少し、という所まで来ていた。あと数歩近づけば十分巻き込まれる位置である。

「くっ……」

鋭利な突きを飛び上がって交わし、ガキは間合いを取るべく後退する。しかし、相手はそれを許さず、追撃の手を激しくさせた。急所を狙ったナイフの突きが、幾度と無く繰り返し放たれる。

心臓や、喉、頭といった様に、一発でも当たれば昇天確実な急所への攻撃は見ている方も気が気ではない。そして、その全てを避けきるガキの顔色は、しかし、心なしか先程よりも悪く見えた。それも当然である。地を駆けるその身体は、既に救急車を呼んでも差し支えないほどの満身創痍であった。

「おい一年、もう止めろよっ! これ以上やったら本気でヤバイだろっ? 救急車呼ぶからな! 止めないと捕まるぞっ!!」

これは脅しでもない。ズボンのポケットの中から携帯電話をつかみ出し、二つ折りのソレを急いで開いた。

たしか、救急車は 110 番だったよな?

使い慣れた携帯端末の入力ボタン、その上で親指を滑らせる。しかし、三桁ある電話番号の、その二桁目を入力したところで、手にしていた携帯電話が吹っ飛んだ。

見れば、いつの間にか俺の隣には一年の女子生徒がいた。

「なっ、何するんだよっ!」

携帯電話は一年の手刀によって叩き落されたのである。下を見れば、地面の上には無残にも破壊されたプラスチックの筐体と、その隙間から垣間見える基盤、外れた電池ボックス、割れた液晶、等々、悲惨な光景が広がっていた。

「貴方も、それ以上の事をするのでしたら、容赦しないですよ?」

耳元でささやいてくる。

「吸血鬼という存在が世間の明るみに出てしまうと、色々と都合が悪いのです。間違っても病院等には行かないで下さい」

そして、俺の携帯電話が機能しなくなったことを確認すると、迫り来るガキを迎激せんとして、再び喧嘩の場へ戻って行った。

「それに、魔力による怪我は、病院などへ行ったところで治療出来ませんしね」

ガキの拳を避けながら、一年はそう続けた。

「お、おいコラっ! 俺の携帯どうしてくれんだよ!」

携帯を壊された事よりも、相手に慄いてしまった事への羞恥心から、俺は叫んだ。

「それはお相子です。貴方達も姉さんの携帯電話を壊しているでしょう」

だが、そう言われると、返す言葉がなくなってしまう。

「…………糞っ」

互いに鬩ぎ合っている状況にあっても、一年は俺の相手が出来るだけの余裕がある。対するガキはどうだろう? 一時は圧倒的な力量差を見せ付けていたにもかかわらず、今は相手の勢いに飲まれつつある。いや、寧ろ既に飲まれてしまっているのではないだろうか? 相手が刃物を使い始めたのを期に、攻めの手数が明らかに減ってきている。

「ああもう、携帯はわかったから止めろよっ!」

肩で息をするガキに対して、一年の表情には余裕がある。

膝下から掬い上げるように振るわれた刃を、ガキは身を引いて交わす。しかし、その動作も予想の範疇にあったらしい。攻撃の手は緩められることも無く、間髪置かずに肘突きが迫った。

「下僕さんはああ言っていますが?」

それをガキは、重ねた両手で何とか受けきった。

「やかましい、私の知ったことかっ!」

そして、叫びながら自らの拳を打ち返す。

元気なのは良いことだが、今は強がりを言っている状況でもあるまい。振るわれるナイフは、元が銀色であったことを感じられない程に赤く濡れている。それが本人の腕から垂れる血液に拠るものか、それとも相手の皮膚を裂いて得られたものか、俺には判断できない。しかし、いずれの場合でも、この喧嘩を止めるには十分な理由になるだろう。

「お前、自分の体を見てみろよっ! 真っ赤じゃねぇか」

ブロンドの長髪には赤が混じり、それまでの光沢を無くしている。一年も同様だが、こちらは下地が黒のため余り目立たない。互いの腕が振るわれるたびに、周囲には赤い液体が飛び散って落ちる。

「下僕は下僕らしく、黙って主人の姿を見ていろっ!」

ガキが焦っているのは間違いない。両腕を縦に構えて、目前に迫ったミドルキックに対抗する。本来ならば胸部を狙う一撃は、しかし、数十センチはある身長差によって、ガキの顔面を捉える。防御が間に合ったので顔への直撃は避けられた。だが、勢いを殺しきれない体は、力の延長線上に後退する。

「っ!」

その表情は随分と辛そうだった。

「まあ、貴方が止めると言っても、私は止めるつもりはありませんので、結局は変わらないのですが」

次打は体勢を立て直す間もなく振るわれた。交わすことの出来ない、心臓へと向かう一撃を、ガキは自分の左腕を盾にして耐えた。

「っう」

細い腕にナイフが突き刺さった。刺し口の反対側からは赤くぬれたナイフの先端が光って見えた。

「お、おいっ!?」

その光景を目にして、止めておけばいいのに、俺は二人の下へ走り出していた。苦痛に身体を震わせるガキの姿を目の当たりにして、沸いて出た感情を抑えられなくなったのである。

弱い者の味方だなんて言わないが、こうして小さな子供が虐げられている様を黙って見ていられるほど、俺の良心も腐ってはいない。

大した距離があったわけでもないので、二人の元へは直にたどり着いた。

一年は俺の事など気にもかけていないのだろう。その視線はガキに向けられたままである。何の戸惑いも無く、その細い腕に埋まっているナイフを、力任せに引っ張り抜いた。小さな嗚咽が耳に響く。俺は慌てて二人の間へ体を滑り込ませた。栓の抜けた傷口からは、血液が勢い良く噴出した。学生服の背中を温かく濡れるていた。

「邪魔です退いてください。貴方には、特に用も何もありません」

目の前には制服を真っ赤に染めた一年がいる。離れて見ていたときよりも、ずっと赤く見える。

「誰が退くかよ。これ以上やったら本当に死んじまうだろっ! それぐらい理解しろよ。お前だってもう高校生やってんだろっ!?」

「理解しています。ですからこうしているのではないですか。姉の仕返し、というのは無粋な理由ですが、吸血鬼を相手に猶予はありません。止めは必須です」

「止めってお前、本気か?」

「………下僕は、…………どいていろっ!」

後ろから何か聞こえてきたが、今は無視である。

「本気です」

そして、一年の口から飛び出したのは殺します宣言だ。

チラリと背後を振り返る。出血は段々と止まってきているが、傷が塞がるには至っていない。家では、俺が噛み付いた傷跡を、一瞬で消して見せたが、それも今は出来ない技なのだろうか。腕の刺し傷に加えて、体中の至る所には、切り傷、刺し傷、擦り傷、青あざ等々、大小様々な傷が見て取れる。

「何が本気だよ、いい加減止めろよ。これ以上やったら許さないぞ、こん畜生っ!」

なんだか、俺もヤケクソである。

「別に貴方に許してもらう必要はないでしょう。それに主である吸血鬼がこの状態なのです。貴方が私をどうこうするのは無理なのではないですか?」

「そ、それは…………」

「怪我をしたくなかったら、そこで大人しくしていてください。すぐに済みます」

「こ、この野郎っ!」

思わずカッとなって、相手の胸倉を掴みに行っていた。しかし、俺の手が制服の襟を掴むよりも早く、伸びてきた相手の腕は、逆に此方の胸倉を掴み取っていた。そして、ヤバイと思った次の瞬間には、足を取られ、投げ飛ばされていた。視界が反転し、体が浮遊感に包まれる。そして、気づけば校舎の壁へと叩きつけられていた。

「あ゛ぁっ!」

背中を強打した為に、上手く息が出来なくて地面をのた打ち回る。まさか投げ飛ばされるとは思ってもいなかった。なんとか顔を上げてみれば、ゆうに10メートルは飛ばされていた。

「貴方はそこで黙って見ていて下さい。そちらから手を出さない限りこちらは何もしませんから」

「そ、そういう、問題じゃ……ないんだよ」

とにかく急いで呼吸を整える。風呂場ですっ転んで、背中を浴槽に打ちつけた経験がある。そのときに一度だけ、今感じているような呼吸困難を味わった。だが、今回はそれ以上だ。気づけば、自然と涙が出てきていた。身体も相当痛かったようだ。

「じゃまな下僕は排除させて頂きました」

「ぬかせっ!」

刺された腕を庇う事もせずに、ガキはそれまでと同様、相手に殴りかかる。だが痛みのせいだろう。動きは先ほどよりも鈍っている。

「もう、終わりですね」

あっさりと拳を交わした一年は、軽口を叩いてナイフを走らせる。それをガキは危ういところで掻い潜り、なんとか避ける。

「まだがんばりますか」

「…………」

「ろうそくは消える前が一番良く燃え上がると言います。精々がんばってください」

攻防は休み無く続けられる。

売り言葉に買い言葉を返していたガキの口上も、時間が経つにつれて少なくなり、そして、いつしか黙々と逃げ回るだけになってしまった。

幾度と無く見た一年の鮮やかな回し蹴りが迫る。それを左腕で受けたガキは、顔を苦痛で歪めた。力んだせいだろう。傷口が血を吹いた。

「っつぅ」

俺は何とか呼吸が出来るようになって、立ち上がった。余り遠くない位置には、ガキによってダウンさせられた姉の方が横たわっている

「ッてえな、糞……」

ふらつく頼りない体で二人のいる方へ向う。

鮮血をまき散らしながら、それでも喧嘩を続ける二人は、まるでよく出来た格闘ゲームを見ているようだった。そして、ここへ来てガキによる、相手の顎を狙った一撃が見事にヒットした。脳を揺さぶられた一年は立っていられなくなり、バランスを崩して地面に片膝を突いた。

その隙を逃すようなガキではない。今までやられてきた鬱憤を晴らすように、一年の腹部へ拳を叩き込んだ。打撃音は俺の耳にまで聞こえてきた。防御することも、回避することも叶わなかった一年は、それをマトモに受けて、遥か後方まで吹っ飛んだ。勢いのついた身体は地面の上を転がり、随分な距離を移動してようやく止まった。腹に穴が空きかねない一撃である。また、ここへ来て形勢はまた分からなくなった。

「どうだ、今のはかなり堪えるだろう」

ガキはニヤリと笑みを浮かべる。全身ボロボロなのは相変わらずだが、それでも、その表情には余裕が生まれた。そして、追い打ちをかけるべく、横たわる一年の元へと一歩一歩近づいていく。

「私にここまで色々とやってくれたんだ、もう先は無いと思え」

「かはぁっ、はぁ…………やって、…………くれますね」

一年は身体を起こそうと、必死にもがいている。だが、それもなかなか叶わない。受けたダメージは大きそうである。そんな、そんな懸命な一年を見下ろして、自分の優勢を確実にしたガキは言葉を続けた。

「人間としてはよくやった方だろうが、相手が悪かったな。魔力が有ろうと無かろうと、人間に負けるような安い吸血鬼じゃあないんだよ、私はな」

一年は焦点の定まらない目で、自分を見下ろしている子供を見つめ返す。

「ま、まだまだですよ」

横たわっていた上半身をなんとか起こした。

「その体で何を言う。内蔵に相当なダメージを受けている筈だ」

「それはそちらも同じでしょう。立っているのがギリギリの体で何をおっしゃいますか」

「フン」

一年の言葉は本当なのか、それを否定する言葉はガキの口から出てこない。

「だが、貴様とて満足に動ける訳でもあるまい。ならば立っている私がこの場の勝者だ。このまま永遠に立てない身体としてやろう」

「やれるものならどうぞ」

そして、地に腰を落としたままの一年は、しかし、自身の置かれた状況を理解していないのか、随分と生意気な口を利く。

「いいだろう、死ね!」

邪悪な笑みを浮かべ、ガキが打って出た。

「ちょ、もう十分だろうがっ!」

ガキの拳が一年の顔面を捕らえた。当たれば鼻の骨が折れる程度では済まないだろう。強烈無慈悲な一撃である。

しかし、事態は更に一片を期した。

一年は土を掴むと、それをガキへ向けて放った。目潰しだった。

「っ、な、なにっ!?」

予期せぬ事態に、拳は狙いを反れて空を切った。その間に、腰を上げ立ち上がった一年は、多少身体をふらつかせながらもガキへと迫った。

「ちぃっ、見えん!」

目の中に異物が入る痛みと、周囲の様子が確認できない状況に焦る。立ち上がった一年は、そんなガキの背後に回りこんだ。その動きは緩慢としていて、当初の挙動からすれば随分と頼りない。しかし、負傷し目潰しを喰らった今のガキには大きな脅威だった。

「おまっ、止めろっ!」

一年の握るナイフは、ガキの背中を目指し突き進む。

二人の殴り合いの凄まじさに呆然としてしまっていた俺だが、その光景を目にして我に返った。慌ててガキの元へ駆け出す。

しかし、俺に足よりも、相手の振るうナイフの方が幾倍も早かった。

「終わりです」

ドスっと低い音を立てて、赤い刀身がガキの体に埋まる。

「あ゛ぐぅっ!?」

「吸血鬼とはいえ、痛覚はしっかりとあるようですね」

静かな裏庭に、ガキの呻き声はやけに大きく響いた。。

「お前マジかよっ!?」

目の前で起きたとんでもない事態に体が固まった。

というか、固まっている場合ではない。

慌ててガキの元へ駆け出した。

それほど距離があった訳でもない。その元へはすぐに辿り着いた。すると、タイミングを合わせたように、一年がナイフの刃を引き抜いた。

栓を失って、傷口からは血液が噴き出す。

ガキの小さな体から、まるで噴水のように、赤い液体が噴き出した。

目の前が真っ赤になった。

それを避けようともせずに全身で浴びている一年は、ただジッとその場に立っている。相手が呻き苦しみ、そして、地に崩れる様を静かに眺めていた。

「これくらいでは死なないでしょう? 次は何処がいいですか?」

ホラー映画も真っ青なノリで言葉を続ける。体中に滴り落ちる程の血を受けながら、眉一つ動くことも無い。コイツは本当に人間なのだろうか? 

「ど、どどどうするんだよっ!?」

抱き起こした小さな体は小刻みに痙攣していた。一度に大量の血液を失った為だろう。力無くうな垂れている様子は、今にもくたばりそうだった。吐き出された血の塊が学生服を真っ赤に染める。

「邪魔をしないで下さい。障害になるのであれば、貴方にも同じ思いをしてもらいます」

しゃがみ込んでガキを抱き抱えた俺を、能面の様な、感情の感じられない顔で見下ろしてくる。ガキが挑んでも、結果はこれだ。まともに挑めば、俺なんてものの数秒で昇天すること間違いないだろう。

けれど、このままコイツを放り出して逃げるのには抵抗がある。それではまるで、三下のヤラレ役みたいじゃないか。けれど、だからと言って正面から向かって行くには、俺は貧弱すぎる。

「う、う、うるせぇよ。これ以上やるってんなら俺が相手になってやるよっ!」

けれど、言ってしまった。

止めておけば良いものを、ついつい流れに流されて口にしてしまった。

身体はガクガクと震えているのに、口先だけは一人前だった。

「なるほど、そういうことでしたら不本意ですが相手をさせて頂きます」

一年が俺に対してナイフを構える。

ああ、どうするよ。

正直勝てる相手じゃない。

逃げる事だって出来そうにない。

「馬鹿………、やめておけ……」

腕の中から、くぐもった声が聞こえてきた。

背中からの出血は勢いを失っていた。出るだけ出てしまったのだろう。体温の低下は著しく、肌は冷たい。酸素不足は深刻で、白雪の様な肌は、全身が紫色に染まり始めていた。これは死ぬ、間違いなく死ぬ。

「や、やかましい。お前は酷い怪我してんだから黙ってろ。背中を思いっきり刺されたんだぞ、おとなしくしてろ」

先程までの二人の会話と、こうしてガキが倒れている事実関係からして、一年の振るうナイフに刺されると、吸血鬼の治癒能力でもその傷は癒せないらしい。いや、多少は癒せるけれど、完全には無理、といった具合だろうか。

俺も吸血鬼らしいので、少しくらいは喧嘩が得意になっているのだろうと期待はするが、相手はどう見ても格闘技の達人である。まともに相手をしては身の破滅だ。どうやってこの場を逃れたらいいか、かつて無い勢いで脳味噌を回転させた。

「遠慮はしませんからね」

少しはしてくれよ。

その時、一年が口を開くのと同時に、授業終了のチャイムが新校舎の方から聞こえてきた。どうやら俺達は、5時間目の授業を丸々と潰してしまったらしい。

「授業が終わってしまいました。人目につく可能性もありますので、即急に片付けさせて頂きます」

構えられたナイフから、血が一滴落ちて地面に吸い込まれた。

相手の足が動く。先程ガキに貰った、腹部への一撃による影響が残っているのか、当初程の勢いは無い。だが、それでも俺にとっては早いなんてもんじゃなかった。赤く光る刀身が喉めがけて迫って来る。

「ぬぉおおおおおおお!!」

突き、という分かりやす動きであった事に加え、未だ足下のおぼつかない不安定な一手であった。おかげで、なんとか避ける事が出来た。だが、間髪ギリギリである。

「うおぉ、危なっ!」

距離を取る為に後ろへと飛び退く。ガキはこんな奴を相手にして、平気でヒョイヒョイと避けていたらしい。改めて腕の中にいう奴の凄さを思う。

「お、おろせ……、下僕……」

「うるせぇっ、今はお前より俺のが動けるんだから黙ってろいっ!」

「避けられましたか。ですが、次はそうはいきません。仲睦まじく主従共々に死んで頂きます」

そう宣言して、一年は再び走り迫ってくる。正直なところ、あのナイフをもう一度避ける自信は無い。けれど、他に手は無いのだ。備えるしかない。

相手は喉元を狙った横なぎを繰り出してきた。これならなんとか避けれる。そう感じて、上半身を後ろへとそらし、刀身の軌道上から首を遠ざけた。ところが、ナイフによる一撃に加えて、足による2打目が続いた。思いもよらぬ所から、避ける暇の無い攻撃が迫っていた。

「んなっ!?」

脛にローキックが決まった。上半身を反らした事で不安定になった身体は、想像していたよりも更に強烈な足技を受けてバランスを崩す。

「ってえ!」

ドスンという景気のいい音を立てて、地面に尻や腰を打ち付けた。蹴られた箇所には、それにも増して強力な痛みが走る。まるで、極太の丸太で打ち付けられたような衝撃だった。

「新米の吸血鬼としては1打目をかわしただけでも大したものです。ですが、今回は相手が悪かったですね、これで終わりです」

顔を上げれば、そこには刃をかざした一年がいた。

「ち、畜生っ!」

「逝って下さい」

ナイフが額目掛けて振り下ろされる。刃の迫ってくる様子はやけにゆっくりとしていて、まるでスローモーションの様に感じられた。これで本当に終わってしまうのだろうか? なんて馬鹿な話だろう。目を硬く瞑り、手近にあった腕中のガキを強く抱きしめた。

だが、その一撃が俺に叩き込まれるであろう瞬間、予想外の音が辺りに響いた。

「松沢先生、本当に悲鳴なんて聞こえたんですか?」

「ええ、間違いありません。私が授業をしていたのは旧校舎に近い物理室でしたから、しっかりと聞こえました。悲鳴というよりは呻き声でしたけど」

「そうですか? 私は全然聞こえませんでしたよ」

人がこちらへ向ってきている。荒れ放題の旧校舎の周辺にあって、草を踏む音がゆっくりと近づいてくる。そして、言葉を交わす者のうち、その一方の声色には聞き覚えがあった。

「とにかく行ってみれば分かるはずです。学校で良くない事が起きているなら、それを止めるのは教師の責務です」

多分、俺のクラスの担任である松沢だ。

「それはそうですけどねぇ……」

額には針が刺さったような微弱な痛みがある。目を開けてみれば、そこには眉間ギリギリのところで止まったナイフがある。その先端は僅かに頭皮を破り、垂れた血の雫が、鼻の頭を静かに伝わっていた。

「どぉああああああっ!」

腰を地に落としたまま、慌てて身を引いた。兎にも角にもナイフから距離を取る。

一年はつまらなそうな顔をして、声の聞こえてきた方向を見つめていた。

「残念です」

ナイフを一振りして大雑把に血を払い、そのまま拭うこともせずに、スカートのポケットへ突っ込んだ。

「あなた方は運がいいです。今回のところはこれで終わりにします。教師の方々に感謝することですね」

「な、なんだよそりゃ……」

随分と一方的な物言いである。

横たわる姉の元へ向いながら、一年は言葉を続ける。

「ですが、また姉に手を出すような事がありましたら、そのときは容赦しません。私にはそう命が下っておりますので」

今はまだ姿の確認できない教師達の話し声が、しかし、段々と大きくなってくる。

「ここで事が公になり、お父様に迷惑をかけるわけにはいきません。とっとと逃げ帰ってください」

「な、なんだよっ、散々やっておいてその言い方は無いだろうっ!」

「何を勘違いしているんですか? 私が許してあげたのです。貴方は御自身の立場を理解しているのですか?」

俺達が居るのは凹の字の形をした旧校舎のコンクリートに囲まれたその中央付近である。教師達は旧校舎を挟んで反対側からやって来ている。

「そうですね…………、許すというより、ただ優先順位が変わっただけですね」

「何が優先順位だ、お前なんてただの犯罪者だろうがっ!」

確かに、これ以上やり合っていたのなら、危なかったのは間違いなく俺達の方だった。というか、俺に関しては今しがた死に掛けたばかりだ。けれど、このやりきれない怒りの捌け口は欲しかった。

「貴方も主をつれてとっとと逃げてください。もしも事が明るみに出ましたら、私は貴方とその主を消しに追わなければなりません。仕事は増やさないで下さい」

「…………」

そんなの知るかよ。

「では、私はこれで失礼します。」

そう言って、一年の女子生徒は、自らの姉を抱き抱えて新校舎のある方へ、教師達が向かって来るであろう道とは逆周りに旧校舎を抜けて、去っていった。

後に残されたのは俺とガキである。

ちなみに、ガキは意識を失ってぐったりとしている。

何もかもが苛立たしい。

「………ああもうっ、逃げるぞこんちくしょぉっ!」

誰に言う訳でもなく、やりきれない思いを胸の中に残したまま、俺は帰路を走るのだった。

普段なら30分以上かかる学校から自宅までの道程を、しかし、俺は全力で駆け抜けて、10分とかからずに消化した。吸血鬼になったことで、体力や脚力が強化されていたのだろう。人間離れした速度で走る自分の体に恐怖した。

また、自分がどれだけヤバイ姿を晒しながら、町内を走ってきたのかを考えると、頭が痛くなった。腕には血みどろの子供を抱いて、自身も全身は真っ赤に血で濡れて、それはどう考えても犯罪の匂いが香る姿であっただろう。もしも通報されていたのなら、後々厄介なことになりかねない。

しかし、今はそれどころではなかった。自宅へたどり着いた俺は、靴を脱ぐことも忘れて母親の部屋へ直行する。そして、今朝方に張りなおしたばかりのシーツの上へ、ガキの身体を横たえた。染み一つ無かったシーツは、その身体を下ろした途端に赤く染り始める。出血は完全には止まっていないようであった。

「お、おい、しっかりしろっ!」

悔やまれるのは、この場で出来る治療が殆ど無いということだ。

これだけの重症でありながら、このガキを病院に運ぶという選択肢は、俺の中には無かった。それは、一年に脅されたことも関係している。ただ、それと同時に俺自身も、この吸血鬼という特殊な存在が、世間一般でまともな待遇を受けられるとは思えなかったからだ。

突如として傷口から煙を噴き出し、かと思いきや、負った怪我を瞬く間に自然治癒してしまう。そんな摩訶不思議な存在を医者が知ったら、それこそどうなるか分かったもんじゃない。特に背中からの刺し傷は普通の人間だったら即死モノだ。それがこうして息をしているのだ。下手に病院へ連れて行けるような怪我じゃない。

とはいえ、呻き苦しむその姿を目にしていると、 119 番へ電話をかけたくなる衝動に駆られる。なんとかして楽にしてやりたかった。

「俺の声が聞こえるか? 意識はあるか?」

手を握りながら声をかける。小さいころ風邪を引いた時に母親が俺の手を握ってくれていた事を思い出していた。それだけでも、小さかった俺はいくらか落ち着いたものだった。それがこのガキに通用するのかどうかは疑問だが、それでも何もしないよりはいいだろう。

「…………血を…」

「まだ意識はあるんだな……」

俺だって全身に火傷を負いながらも助かったのだ。その俺を遥かに圧倒するコイツなら、きっと助かるに違いない。そう信じるしかなかった。

出血は大したことない。ただ、背中に出来た傷口は未だに開いたままになっている。吸血鬼が破傷風の様な細菌性の病気にかかるかどうかは分からないが、せめて、消毒はしておいた方が良いだろう。

駆け足でリビングへ向い、救急箱を探しだした。中に入っていたのは包帯や脱脂綿に、オキシドールやピンセットといった応急処置のフルセットである。一人暮らしを始めてからは、一度も開ける事無く過ごしてきていたが、きっと、今日という日の為に備えられていたのだろう。今は遠い母親に感謝する。

白いボックスを手にした俺は、ガキの居る部屋まで急いで駆け足で戻る。

「道具もって来たぞっ!」

俺の言葉が耳に届いているかどうかは怪しいが、とりあえずそう報告して、作業に取り掛かった。

箱の中から脱脂綿を取り出し、それを手頃な大きさに千切る。そして、ピンセットで摘み上げ、鼻を突く臭いのする消毒液で湿らせる。

「超絶沁みるだろうけど、我慢しろよな。行くぞ」

とりあえず、手近な小さめの傷から消毒を進めていく。

「っ!」

傷口に消毒液のしみた脱脂綿を当てると、ガキが体をビクンと振るわせた。

「がんばれよ、すぐ終わるからな」

腕や足の裂傷を末端から順番に消毒にしていく。無論、土埃の汚れを拭き取る事も忘れない。出血が殆ど止まっていてくれたおかげで、処置はそれほど梃子摺ること無く進められた。とはいえ、傷口はそのいずれもが非常に生々しく、特に左腕に出来た大きな裂傷は、見ているこちらが痛みを感じてしまいそうな程である。消毒液を運ぶのにも、かなりの決心が必要だった。ついでに言うと、背中の傷口に至っては、下手に触れることも出来ずにいる。

「っぅ・・・・・・」

小さいのも大きいのも、とりあえずひたすらに消毒していく。

吸血鬼という存在が、こういった処置を必要とするのかどうかは分からないが、何かしらやる事が無いと逆に俺の方が心配で落ち着けなかった。幸いにしてガキが身につけているのは肌の露出が多い服装だったので服を脱がす手間が省けた。

「この服にもう少し面積あれば、こうも切り傷だらけにならなかっのに」

特に、皮膚を数ミリ裂いただけの比較的小さな傷が多いのだ。身に着けている衣服は厚手の皮で作られていたこともあり、多少刃物が掠った程度では、その下にある肌を傷つけられることも無い。

「…………う、………さい」

俺の言葉に反応してガキが何かを口にした。うまく聞き取れなかったが、意識があって喋れるのならば、それは良いことだ。

「大人しくしてろよな。あと少しで痛いのは終わるから」

背中から刺さったナイフは腹部へ貫通していたのだ。普通だったらこんなに落ち着いて対処できるような患者じゃない。恐ろしいまでの忍耐力である。もしも俺が同じ怪我を負ったのなら、大声で泣き叫んで、のた打ち回っていることだろう。

細かい傷の消毒を終え、最後に背中の一番大きな刺し傷へと手を向ける。身に着けている衣装が、背中の大きく開けた服だったので、傷はよく見える。だが、逆にそれが痛々しくて、思わず治療の手が止まってしまう。そこには無惨な縦線がはいっていた。垣間見えるのは血で濡れたピンク色の肉だ。

「もうちょっとだからな、痛くても我慢しろよ・・・・・・」

正直そこへ消毒液をつけるのは気が引けたが、暫し悩んだ末に他の場所同様、消毒液を含んだ脱脂綿を当てた。相当堪えるだろうと思っていたのだが、ガキは一言も痛いとは口にせず、何度か短い呻きを上げただけだった。随分と我慢強いガキである。

「よっしゃ、おわったぞ」

体についた土や汚れを拭き取り、消毒を一通り終わらせて、仕上げに包帯を巻く。一体これのどこに、俺を一発でダウンさせるだけの力があるのかと、疑いたくなるような細い手足。そこへ白い包帯をクルクルと巻いていった。傷が体の至る所にあったので、全身真っ白になってしまったが、この際仕方が無い。服もかなり汚れていたので、洗ってしまおうかと思ったが、いかせん特殊な物だったので、脱がせ方が分からなかった。加えて素材は革である。下手に洗濯機で洗うことも叶わない。仕方なく、汚れをタオルで拭き取ってそのまま包帯で巻き込んだ。

赤く汚れてしまったシーツを新しいものに取替え、その上に寝かせつける。血を浴びたせいで、パキパキに固まってしまった髪も洗いたかったが、さすがにシャワーを浴びさせる訳には行かなかったので、軽く濡れたタオルで拭いて済ませた。

「……他に、何か俺に出来る事はあるか?」

やる事が無くなりベッドの横に座りる。手に仕事がなくなると急に不安になるのだ。まさかこのまま死んだりしないだろうか、などと不安な予感が頭を過ぎる

「…………を」

するとガキの口が少し動いた。何か口にしたようだが全く分からない。

「ん、なんだ? もう少し大きな声で言ってくれよ。聞こえないだろ」

耳を口元へと近づける。

「……血を…………くれ」

血をくれ、そうガキは口にした。

輸血が必要だというのか?

学校では一年にこっ酷くやられて、恐ろしい量の血液を流していた。普通だったら、間違いなく出血多量とか、そういう感じで死んでいる。輸血を臨むのも当然だ。とはいえ、そんな設備が一般家庭にあるはずも無い。

「血………って言われもなぁ……」

だが、しばらく悩んだ後、相手が自称吸血鬼である事、そして、昨日の学校で、俺に噛み付いてきた事を思い出し、それがどういった要求なのかを理解した。

「もしかして血っていうと、俺の血で……、いいのか?」

幾ら血液が不足しているとは言え、口から摂取した血液が、そのまま血管内を循環する筈が無い。とはいえ、プロの吸血鬼である本人が、そう言うのだから、何かしらの助けにはなるのだろう。正直なところ、自分の血を吸わせるなどというおぞましい行為は、金を貰ってもごめんだったが、今は是非を言っている余裕がない。

「ああ……、血…………だ」

やはり血を吸わせろという事だろう。多少戸惑ったが仕方が無い、と開き直り答える。

「その……、自分で吸えるのか?」

コップにでも注いで出せばいいのかと、迷ってそんな事を口にした。するとガキは横になったまま力なく首を縦に振った。

「そうか、分かったよ。だけど全部吸うなよな? 俺が死んじまうから」

そう言って、ワイシャツのボタンを上から4つ外し、自分の首筋をガキの口元まで持っていった。相手は半分閉じられた、うつろな目でこちらを見ていた。ベッドの上で俺がガキへと覆いかぶさるような体勢になる。

「いいぞ、勝手にやってくれ」

牙が首にささった時の痛みに驚かぬよう、目をキツく閉じてその時を待つ。ガキの力無い腕が俺の背中へと回り、体を引き寄せてくる。以前とは違い、それは簡単に振りほどけるほど弱々しい。

「っ!」

両腕がギュッと体を抱きしめる。同時に首筋に鋭い痛みが走った。首筋に牙の突き立てられた痛みである。噛み付かれてからしばらくすると、出血に伴う倦怠感も感じられ始める。

「おい、治りそうか?」

血を抜かれるに伴って、段々と意識が朦朧としてくる。それを誤魔化そうとして声をかけたが、相手は口が塞がっているので無論回答はない。

そして、随分と長い時間に渡って、ガキは俺から採血を続けた。始めの数分は、まだ意識を保っていられた。だが、それもだんだんと難しくなり、時計の秒針が何周か回る間に、俺の体はだんだんと重くなって、遂には、その意識は眠りに落ちるように深く沈んでいった。

ただ、手の中には冷たい感触を確かに感じ取れていた。

「目を覚ましたか………」

軽い頭痛を感じて目を開けると、そんなぶっきらぼうな声がすぐ近くから聞こえてきた。体を起こして声のしたほうに目を向けてみる。すると、その隣には、体中を包帯でグルグル巻きにしたガキがいた。

俺と同様、ベッドの上に横たわり、こちらを見ている。横幅の狭いシングルベッドなので、その距離は文字通り目と鼻の先である。

「体は平気か?」

そう尋ねられ、自分が気を失った理由を思い出した。血を吸われ過ぎて貧血で倒れたのだ。吸いすぎるなと言ったにも関わらず、これである。このガキ、結構な量を吸ってくれやがった。

「ああ、大丈夫だ。血が一気になくなったから貧血でも起こしたんだろう」

ベッドの縁へと手をかけ、やけに重たく感じる体を立ち上げた。どうにもクラクラするが、こうして身体を起こせるのなら、それほど問題という事でもないだろう。それよりも、俺としてはこちらを気遣ってくる相手の様態が気になった。

「それより、お前こそ体の調子はどうなんだ? 普通に喋ってるけど傷はもう治ったのかよ」

吸血鬼の治癒力とやらが、どれ程のものかは知らない。しかし、先程までは本気で死にそうだったのだ、いきなり治りましたよ、とはいかないだろうに。それに、身体に巻いた包帯からも、血液が赤く斑点状に滲んでいる。

だが、俺の問いにガキはなんて事ないように、しれっと答えた。

「傷ならもう問題ない。おかげで完治した」

それはどんな魔法だろうか?

「ほ、本当か? お前死にかけてたじゃん。それがそんな簡単に治るわけないだろ?」

「私を馬鹿にするな、あの程度のダメージなど、なんてこと無い。そもそも吸血鬼ならば、刃物で切られた程度の傷口は、その場で即座に修復するものなのだ。今の私は魔力不足が深刻で、そう簡単にもいかないがな」

吸血鬼云々と言われてしまうと、俺としては反論のしようも無い。けれど、それでも気にならない訳が無かった。

「でもお前、ここへ連れて帰ってきたときは、本当に虫の息って感じだったんだぞ?」

その様子を思い出す。あれは本当に助からないのではないのかと思った。

「や、やかましい。それは魔力、そう、魔力がなかったからなのだ。魔力さえあれば、あの程度の傷など、どうという事ないのだ。それに人間の娘に遅れを取るような痴態だって晒していなかったのだっ」

もしや図星で瀕死だったのか、焦り口調でまくし立てる。これは急いで帰ってきて良かったのかもしれない。

「ふーん、そういうものなん?」

「そういうものだ! それに、貴様も新米とはいえ吸血鬼の端くれ。魔力くらい既に持っている筈だ。身体で理解しろ」

「俺が…………何を持ってるって?」

前々から気にはなっていたが、又もガキの口からはメルヘンな単語が飛び出て来た。

「魔力と言ったんだ。既に吸血鬼化してから一日は経ったからな、微弱だろうが既にあるはずだ。まあ、完全に肉体が変化し、吸血鬼に成りきるにはあと1,2日は必要だろうがな」

「魔力なぁ……。そんな事言われたって、俺からしてみりゃさっぱり分からないな。学校でも同じような事を言ってたけど、それって一体何よ?」

魔力と言えば、魔法使いが火の玉を飛ばしたりするときに使うやつだろう。だが、実際にその単語を口にされると、。疑問符を頭に浮かべる他ない。

「あれか? こう、火の玉を出したり隣の町までワープしたり出来るのか?」

頭に浮かんだ事をそのまま口にだす。

「お前が何を想像しているのかは知らないが、つい昨日まで人間だった奴の感覚からすればその通りだ。そういう人間にとって普通じゃない事を起こす力だと思っていれば、遠からず、といったところだろう」

「不思議な事なぁ……」

「この際だから全て説明しておく。今日のようにやり合っている途中で話しかけられるのはごめんだからな」

「あぁ、なら一応聞いておくか」

シーツの上から立ち上がり、床へと降りる。ガキは身体を起こし、ベッドと接している壁に寄り掛かるようにして此方を向いた。元は母親の使っていたデスクと対の椅子を、その前まで引っ張ってきて、対面するように腰をかける。

「お前が持っているイメージが火の玉なら火の玉でもいい。魔力というのは、それを発生させるための源だ。実際には目に見えないから、その場に存在しているかどうかは分からないかもしれない。けれど、間違いなくあるものなのだ。吸血鬼として生きていれば、そのうちになんとなく分かるようになる」

「ふぅん」

実感の無い話だが、時間が経てば分かるというなら今は待つしかないのだろう。

「口で言ってしまえばそれだけの話だ。実際の例を挙げるならば、私がこの子供の身体であるにも関わらず、お前を拳一発で沈められるのも、筋肉や骨格といったものに関係なく、魔力があるからだ」

「なんだよそりゃ」

「魔力はただ火の玉を出して遊ぶだけのものじゃない。それをどう加工するかによって、色々な用途があるんだ。薪を燃やして湯を沸かすとしたら、その薪に相当するのが魔力だ。そして、沸いた湯がお前の感覚では火の玉に当たるわけだ。無論、火の玉に限った話ではないのだがな」

何かゲームの取り扱い説明書を朗読されている気分だった。けれど、一応は真面目に聞いておくことにする。実際に、ああも壮絶なやり取りをしていたのだ。その原因が魔力とやらにあるのなら、聞いておいて損は無いはずだろう。

「つまり、どう使うかによって、その性質がコロコロと変わるわけだ。同じ木材でも、薪としてではなく、建築用材として使えば家が立つし、削れば彫刻になる」

微妙に分かりにくい例を出してくれているが、その感じが掴めないわけでもない。

「そして、その加工例として肉体の強化があるわけだ。人間も我々同様に魔力を使う事が出来るから、あの娘のように人間離れした動きも出来る。とはいえ、だからといって人間の魔力は吸血鬼の魔力とは比べ物にならないほど微弱なものだがな」

あの娘とは、自身を見事に仕留めた一年の女子生徒を指してのことだろう。

「そのせいで、あの一年はあそこまで異常だったのか」

「そういうことだ。実際にあの娘がどの様な手段を講じて、肉体の強化を実現しているのかは分からないがな」

つまり、今日から俺も魔法使い、と。

「でも、その魔力ってのが無かった割には、お前も良い勝負してたじゃん?」

「ああ、そうだな。無いとは言っても少しばかりは残っている。本当に少しだがな。ならばこそ貴様を下に敷くことも出来る訳だ。もしも魔力が完全に無くなってしまっていたとすれば、私には歳相応の身体能力しか残らないからな」

「たしかに、言われてみりゃそうか…………、ムカつくけどな」

「当初は魔力量の差を考えるに、いくら弱まっているとはいえ、私の方に分があった」

「けど一年がナイフを取り出した途端に押され始めたよな? 何でいきなりそうなったんだ? 吸血鬼はナイフで切られても、その傷は直ぐに治るんじゃなかったのか?」

戦況は一年がナイフを使い始めた時を境にして一変したのだ。ただ、端から見ていた俺には、その理由はまったく分からなかった。

「それか………」

ガキの表情が曇った。

「それってなんだよ」

「フン、思い出したくも無いものを持ち出してきおって、あの娘が」

「はぁ?」

はき捨てるように呟いた。一体何が癪に障るというのだろう。

「それはあのナイフが特別だからなんだよ」

「そんなに高い物なのか?」

「あれは名前をブラッディー・マリーというのだがな、実態は血を吸う刃なのだ」

「はぁ?」

蚊か何かの親戚か?

「吸った血を元に魔力を刀身へ纏わせる事の出来る特別なナイフ。それがあの娘の振るっていた物だ。私が最後に見たのも、そうだな、かれこれ200年以上は昔になるな」

「はぁ、200年ですかい……」

なんて実感の沸かない数字だろう。

「わかってないな、お前」

「いや、分かった何も、それで一体どうしてお前が不利になったのか、想像もつかないんだよ」

「…………ああ、私も馬鹿な男を下僕にしてしまったものだな」

「な、なんだよ、いきなり説明されて、分かるわけないだろっ」」

「ならば黙って聞け」

「ぬぅ………」

なんで俺が罵られなければならないのだろう。理不尽なものを感じながらも、ここで反論しても意味が無いことは理解しているので、仕方なく折れて口を噤む。

「魔力というものは、その力で相手を攻撃する事も出来るわけだが、相手からの攻撃を防ぐにも、同様に魔力を使うんだよ。つまり、剣で切りかかった攻撃を盾で防ぐように、魔力での攻撃は魔力でしか防げないのだ」

また良く分からない説明である。

「魔力でしか防げない?」

「そうだ、物理的な現象は物理的な手段で防げるように、魔力も魔力で防ぐ」

「…………」

「それであのナイフなんだ。アレは刀身に魔力を帯びている、結果、その攻撃は物理的でありながら、魔力的でもあるんだ」

「だから魔力が無いと防げないってか?」

「そういうことだ。しかも腹立たしい事に、あれは思いのほか効率よく出来ているんだ。結果として、私に残っていた魔力より、あのナイフが放つ魔力が少しばかり勝っていたのだろう、普段ならばなんて事の無いはずの一撃だったのだがな」

「でも、結果的には治ったじゃん?」

「ああ、それは貴様の血液を得たからな」

「俺の血がなんで関係あるんだ?」

「吸血鬼の血液は魔力を濃く持っている。それは貴様も同様だ。だから、それを直接体内に取り込むことで、足りない分を補充したのだ」

なるほど、魔力というものは、随分と強引に出来ているようだ。

「ついでに言うと、私のような特殊性を持つ吸血鬼は、その特殊性もまた、己の血液中に持っているのだ」

「左様ですか……」

つまり、俺の持ってる魔力とやらを勝手に吸い取ったということらしい。

「吸血鬼の強力な回復能力も魔力によるものだから、それが無ければ傷は塞がらない。しかし、逆を言えば、与えられた傷以上の魔力があれば、どのようなダメージを受けようと、傷はかならず塞がってゆく」

「なるほど………、じゃあ今回はどうだったんだ?」

「お前の分を勘定にいれてギリギリだったわけだよ、悔しいがな」

「や、やっぱり相当やばかったのか……」

「拳にせよ、あの娘のナイフにせよ、吸血鬼にとって物理的な傷は大した意味を持たない。その強力な治癒能力のおかげで、瞬く間に元通りだからな。頭を潰されようが、心臓を裂かれようが、魔力によって負けなければ死ぬことは無いのだ。唯一の例外は太陽の光だけだ。重々に言っておくが、あれは浴びたら死ぬと思っておけ」

「あ、ああ。それは絶対に忘れないから安心しろ」

あれは痛いなんてもんじゃない。

「だから、結局は簡単な加減算に過ぎないんだ。防御に魔力を使うならば、受けようとする攻撃と同等か、それ以上の魔力を用意できなければ、差分は自身へのダメージとして届く。その逆も然りで、相手にダメージを与えたければ、相手を越える魔力を持って、何かしらの行動をしなければならない」

それは、最近のテレビゲーム中で現れるダメージ計算の公式に比べれば、遥かに簡単である。とはいえ、まさかそんな話が現実に適用されるとは思いもしなかった。

「結局のところ、そういった理屈があるから、普通だったら人間が吸血鬼に致命傷を与える事など、まず不可能なんだよ。今まで肉体機能でも魔力でも劣る人間が吸血鬼を破った例など、本当に数えるほどしかないんだ」

「つまりあれか、吸血鬼は強いんだぞ、ってか?」

「無論だ。人間を相手にして遅れを取るような輩は、お前のような新米くらいだ」

「そうすると何だ、仮に俺がそのブラッディー何たらとかを持っていたら、お前みたいなガキに下僕下僕と呼ばれなくても済むって訳だ?」

遠目にあの赤い刀身を思い出す。

「はん、馬鹿を言え。仮にアレを持っていたところで、お前の稚拙な運動神経では、その刃を私に触れさせる事も出来まい。言っておくがあの娘、内包する魔力自体は大したこと無いが、体術ならばお前なんぞ軽く上回るぞ」

「そ、そうなのか?」

「それになんだ? 私の下僕である事がそんなに不服か?」

グロッキーだった状況は何処へやら。元気を取り戻したガキはニタリと嫌な笑みを浮かべ、俺を脅してくる。

「あ、当たり前だろうが。誰が好き好んでこんなガキにこき使われなきゃならならないんだよ」

「私のような美しい女と一緒にいられるんだ。男だったら手を叩いて喜ぶものだろう? それ、踊ってみろ下僕。感激の舞だ」

「なにが美しい女だ、そういう台詞はあと10年たってから言えよな?」

「………釣れん奴だな、また足でも舐めさせてやろうか?」

「こ、この野郎………」

「ハハハハハ、まあ、そう怒るな。私も長きに渡って封印されたままだったんだ。久しぶりに出た外なんだから、軽口の相手くらい付き合え」

「うるせぇよ、なんだって俺がお前の遊び道具にならなけりゃならないんだよ」

「それは貴様が私の下僕だからだ」

「クソ、畜生が……」

いつの間に、この上下関係は形成されてたのか。少しでも反論すれば、このクソガキは直にこちらを脅してくる。しかも下僕下僕と連呼する。いつか仕返しをしてやろうと心に誓い、今はとりあえず話題を変える事にした。このまま言い負かされるがままになっているのは不快極まりない。

「そうだ、そういやずっと気になってたんだけどさ、昨日はお前って、いきなり俺の前に出てきただろ? アレってどうなってんだよ」

話題を変えるつもりもあったが、そのついでに、今まで頭を悩ませていた疑問をぶつけてみた。そもそもコイツは何故に学校なんかへ来たのだろうか。

「ふん、分かりやすい奴だな」

そんなの余計なお世話である。

ガキは偉そうに咳払いをして続けた。

「あの時、私は始めからそこに居た、そう言っただろう?」

それは今朝に聞いた話だろう。

「だから、そうは言っても全く目に付かなかったんだよ。あの時、教室にいたのは俺と斉藤と吉川だけだった筈だぞ」

そもそも他の奴が教室から出て行ったことを確認して話を始めたんだ。まさか、いくら小さい身体をしているからといって、人を一人見逃すこともあるまい。

「たしかに、お前の目にはつかなかったのかもしれないな、なにせ、私は宝玉に封ぜられていたのだからな」

「宝玉?」

また新しい不思議ワードが出てきた。

「そうだ、宝玉だ。その中に私は封印されていたんだよ」

どうにもパッとしない話だった。

というか、宝玉とは何だ?

「とはいっても、その間の私は意識を保っていられなかったからな。一体どれ程の時間をその中で過ごしたのかは分からんのだ」

ぐるりと周囲を見回して言葉を続ける。

「この様子からして、相当時間が経ってしまった様だな。外を歩いた時も私の知る面影なんぞ欠片も見つけられなかったぞ。一体、今は西暦で何年だ?」

「西暦? それだったら2015年だけど」

ちなみに今年の干支は羊である。

「そうか、すると私はあの中に300年にも渡って封ぜられていたことになるのか……」

そう呟いて、ガキは遠い目をしてみせる。300年前といえば、日本は江戸時代中期である。丁髷を結った武士が刀を差して町を闊歩していたり、松尾芭蕉が奥の細道を書いていたりするような時代だ。感慨深くもなりたくなる年月だろう。その頃の情景など想像もできない。というか、素直に信じられない。

「まったく、あの馬鹿者は、あれほど出力を抑えろと言ったのに、とんでもなく強力であったではないか」

「あぁ?」

「ああいや、なんでもないこっちの話だ」

まあ、300年だろうと400年だろうと、俺には関係の無い話だ。話を先に進めよう。

「それで、その封印云々ってのは何なんだ?」

「ああそれはだな、封印というのは言葉そのままの意味だ。私は宝玉、そうだな、コレくらいの大きさのルビーの中に詰め込まれていたんだ」

そういって手を握り、拳を俺の前へ突き出してくる。

「ルビーだって?」

「そうだ、ルビーだ。それと、先程の話を蒸し返すなら、私を封印拘束していたのも魔法だ。出なければ肉体がそんな小さな容器に入る筈がないからな」

ルビーという単語を耳にして、一昨日に吉川が川原で拾ってきたという赤い宝石が思い出された。まさか、あれがそうだったのか?

「で、その封印が昨日突然破られた訳だ。封印が解かれたのだ」

一息おいた後に俺を見て、その先をゆっくりと続ける。

「お前によってな」

「お、俺が!?」

それじゃあ、俺は自分で自分の首を絞めるようなマネをしたことになるのか? けれど、封印を破るとは言うが、そんなことをした覚えは無い。なんで決め付けられなければならないのだろう。

「俺は封印なんて知らない。第一、封印を解くっていったって、そのやり方を俺は知らないぞ。なんで俺がやったって決め付けるんだよ」

そもそも、その魔力と言うものも、今しがた説明を受けたばかりである。そんな奴が封印だの何だのといった事を出来るはずも無い。

しかし、続けられた相手の言葉に、俺の心臓はドキリと大きく脈打った。

「お前、宝玉を壊しただろう?」

宝玉、壊した、その二言から自然と昨晩の出来事が連想された。放課後の教室で、金槌を振り上げる吉川の姿がふと浮かんだのだ。

「あ、ああ、そうだ。たしかノミで少しだけ削った。実際にやったのは俺じゃないけど」

まさかアレが原因だと言うのだろうか? ただ、ちょっと宝石を削っただけである。それで、その封印とやらが解けたとでもいうのか?

嫌な予感をヒシヒシと感じながら、思い浮かんだ答えを口にする。すると、返ってきたのは思い切りの良い肯定だった。

「ああ、それで封印が解けたのだろう。あれはそういう風に出来た魔法だったんだな。媒体であるものが、その形を崩されたときに封印は解けるようになっていたのだ。だから宝玉などという高価で硬くて、壊され難い代物を使ったのだろうな」

「ってことはあれか? 俺は自分の掘った穴を、今必死になって埋めているって事か?」

「お前がそう感じているのならば、それはその通りなんだろうな」

「…………」

思わず、言葉も無く頭を抱え込んでしまった。

なんてことだろう。まさか、あれが原因だったとは思いもしなかった。このガキを解き放つその一手を、自らが担っていたとは泣けてくる。ただ、そう考えるのなら、吉川だって俺と同じ扱いの筈だ。第一、実際にノミを振るった事を考えれば、奴は俺よりも封印解除とやらに貢献している。ならば、本当は俺ではなく吉川がこのガキの下僕とやらになるべきであったのではないだろうか?

「お、おいっ、それなら言っておくけど、実際に宝石を削ったのは俺じゃねぇぞ! 俺はただ手伝っただけだ」

「ほぉ?」

「となれば、お前の下僕になる必要があるのは、実際にその宝石を削って封印を解いた奴じゃないのかよっ!?」

慌ててまくし立てた。

「そうなのか? だが、封印を解いた者を下僕にするなどという決まりがあるわけでもない。たまたまお前がそこにいたからそうしただけだ。特にお前がこうなった事に理由はないんだよ」

しかし、ガキはそっけなくそう言い放った。

「な、なんでだよっ!?」

「お前は私の下僕、もうどこへも逃げられないんだ。どんな屁理屈をこねたところで、何かが変わるわけでもない。観念しろ、じっくり可愛がってやるさ」

怖いほど整った白い顔がニタリと歪められる。それが今は非常に憎たらしい。思わず手が出そうになるのを堪えるのが辛い。

「本当に、いつか覚えてろよ」

こいつの気まぐれでこんなわけのかからない体になったと思うと無性に腹が立つ。しかもこの物言いだ。

「それにお前は私のファミリーでもある。悪いようには扱わないから安心しろ。私の言う事さえ聞いていれば今の生活だって保証してやらないことも無い」

「当たり前だ! これ以上何かされたらたまったもんじゃねぇよ」

今日一日で一体、俺はどれだけのものを失ったものか。。

「まあ、私が下僕を作った理由の一つをあえて上げるとすれば……」

「……なんだよ?」

「私はほとんど魔力が無いと言ったが、それは前からそうだったわけじゃない」

「ふーん、そうですか?」

腹の中でドロドロと渦を巻く怒りを抑えながら、適当に相槌をうつ。

「原因は私も良くは分からないが、多分封印にある。かなり長い時間を封印されていたからだろうか? 体の中の魔力がだんだんと抜けていってしまったんだろうな。昨日開封されたときに、初めて自分の体から魔力が抜け落ちている事に気付いたんだ」

「左様ですかい」

俺には関係ないな、そんなこと。

「魔力を持たない吸血鬼は、その存在意義の殆どを失ったと言ってもいい。吸血鬼の取り柄は、他の種族に比類しない強大な魔力だからな。それを失っては、牙の折れた狼と同じようなものなのだ」

「だったらなんだっていうんだよ?」

こいつの話は往々にして回りくどいのが特徴だ。

「つまり、何処へ消えたのかは分からないが、私はその失われた魔力が元に戻るまでの間、かなり無防備な状態にあるということだ」

「…………」

言う事に欠いて、それは無いだろう。これだけやりたい放題やってくれていて、随分と謙虚な物言いである。一年の女子生徒には負けたものの、成人男性を片腕で捌くその手腕は並大抵でない。何処が無防備だと言うのだ。

「で?」

「うむ、そこでお前の出番というわけだ」

「は? なんで俺なんだよ?」

「頭の回転が遅い奴だな。無防備だったら誰かに守らせる必要があるだろう。だからこそ下僕が必要なのだ」

はぁ?

「なのだ、じゃねぇよ。それだったら早く自分の家に帰れよ。そんでもって、その魔力とやらが元に戻るまで布団被ってガタガタ震えてればいいじゃんかよ」

「やかましい、下僕がいればそれで済むんだ。だったらそれで構わないじゃないか」

「俺の自由意志は何処へ行った。非常に構うわ馬鹿が」

「そんなもの野良犬にくれてやれ」

「テ、テメェ……」

「つまり、お前には私を守る義務がある。契約をしたのもその為だ」

そう言って、ガキはベッドの上に座ったまま、包帯でグルグル巻きになった右足を差し出す。小さな背丈の割りに、思いのほか長い脚部が目前にスラッと伸びてきた。5本の指が目の前にある。

「契約を忘れたのか? ならば、ほら、もう一度舐めろ下僕」

「ったぁぁぁあああーー、誰が舐めるかボケっ!」

そんな真似は、もう二度と御免である。目前に迫った足を手で引っ掴み、薄手の掛け布団の中へと、深く仕舞いこんだ。

「ああもう、わかったよ。そうですか、下僕ですか、わかりましたよ」

腕っ節で敵わない以上、何をしたところで結果は変わらないのだろう。口先で言い負かしたところで、最終的に物を言うのは腕力だ。それに、下手に手を出して、相手の機嫌を損ねるのも遠慮したい。ともすれば、俺の最良の妥協点は現状に他ならない。

「ったく、いいよ。好きにしろってんだよ!」

自分に言い聞かせるようにして、短く吐き捨てた。

まったく、何だってこんな事になっているのだろう。。

っていうか、あれだ、もしかしたら吉川のせいか?

アイツが変な石を拾ってこなければ、こんな展開はありえなかっただろう。理不尽な理由で殴りつけられることも無かっただろうし、子供の足を舐めるような真似もせずに済んだだろう。そう考えてみると、恨まずにいられなかった。

気づけば、思い浮かんだ吉川の笑顔に、心中で罵倒を浴びせかけていた。

「ったく」

まあ、今更とやかく言っても仕方ないのだろうけれど……。

「ふむ、ようやく自分の立ち位置というものを理解したようだな」

俺の態度に満足がいったのか、ガキは笑みを浮かべてみせる。

「うるせぇよ」

何故に俺が子供のお守りをしなければならないのか。というか、明らかに俺のほうが貧弱だろうに。仮にあの一年の女子生徒に襲われたとしても、まともに対応できる自信なんて無い。というか、現に殺されそこなったのだ。

「そもそも、俺よりお前のほうが強いだろう。俺がお前を守るなんて意味無いんじゃないか? 足手まといになるだけだろ?」

考えてみれば、非常に矛盾している。

「その辺は気にするな。実際にその必要が出てくる可能性もあるが、お前が新米の間は、それも建前で、実際のところは私の小間使いだ。身の回りの世話を焼け」

その言葉を聞いて、頭の血管がブチブチっと数本逝った気がした。

「そ、そぉですか……、俺はお前の小間使いですか……」

「なんだ、不服か?」

「当たり前だろうがっ!」

なんだか、先程から頭に血が上りっぱなしだ。

「いちいちやかましい奴だな」

「それもこれも全部お前のせいだろうが!」

ったく、これ以上コイツの相手をしていたら、頭がおかしくなりそうだ。

「もう説明はいい、大体わかったから」

晴れることの無い憤りを感じて、乱暴に椅子から立ち上がる。勢いづいたデスクチェアは、キャスターをキュラキュラと鳴らして背後へ進み、デスクに音を立てて当たって止った。

当初は怪我の心配もあって、イラつきを覚えることも無かったが、これ以上は限界である。とっとと食事の準備でもするとしよう。今はこのガキと距離を取ることが大切だ。でなければ、これ以上話を続けていたら、また、相手に掴みかかりかねない。そうなった時に被害を受けるのは俺だ。返り討ちなんて御免である。負け犬だろうと何だろうと、今は逃げるが吉だ。

「この話はコレで終わりだ。やめやめ」

ガキに遊ばれるのは御免だ。それに、俺も段々と腹が減ってきた。今から支度を始めれば、丁度良い頃合で食事を取ることが出来るだろう。

「で、もう一度聞いとくけど、本当に体はもう平気なんだな? 痛いところとかは無いんだな?」

それに、これだけ元気ならば付き添っている必要も無さそうだ。

「え? …………あ、ああ。……体はもう平気だ」

すると、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、ガキは拍子抜けした声で答えた。まあ、平気ならそれでいい。これだけ喋れるのだ、その通りなのだろう。

「だったらとりあえず良かったよ。俺は飯の準備してくるから、お前はここでおとなしく寝てろ」

そう言って踵を返し、寝室からキッチンへ向かおうと、廊下に繋がるドアノブへ手を伸ばした。すると、背後から短く声がかかった。

「おい」

無論、声の主はガキんちょである。

「なんだよ?」

仕方なく振り返って答えた。

「その、あれだ、一応は言っておくとしよう」

このガキは、まだ俺で遊び足りないのだろうか?

今度は何を口走ってくれるのだろう。

「だから、なんだよ?」

その先に続く言葉に、心中静かに身構えた。

だが、続いて出てきた台詞は全くの想定外であった。。

「今日は助かった。礼を言うぞ」

は?

「礼? そりゃまた、随分と今更だな……」

それは今までの態度からすれば、まずあり得ない言葉である。それが新しい虐めの趣向かと勘ぐってしまうのは仕方の無いことだろう。だが、違ったようだ。続く言葉は毅然として肯定の一言であった。

「やかましいっ。義務を果たした下僕に声をかけただけのことだ。耳に届いたのならそれでいい、とっとと行けっ!」

「はいはい、言われなくって出て行きますよ」

床に放ってあった学生服を手に取り、ドアノブを回した。

「準備が出来たら呼ぶから、それまでおとなしくしてよろな?」

「ああ、早くしろよ?」

「わーってるよっ」

ドアがバタンと音を立てて閉まる。

言葉も無く、冷たい廊下をヒタヒタと歩きながらキッチンへと向かった。もっと素直にしてればアイツも可愛いだろうに、なんて勿体無いことだろうか。

「どうやったら、あそこまで性格が捻じ曲がるんだろうね」

…………

きっと、相当に甘やかされて育ったのだろう。想像に容易い家庭環境である。ここへ来る前は贅を尽くした豪邸で、何不自由なく暮らしていたのだろう。吸血鬼の家庭がどの様なものかは想像の域を出ないが、それはきっと、有名企業の社長令嬢に勝るとも劣らない待遇に違いない。でなければ、あのような性格が形成される筈が無い。これだから金持ちは嫌だね。

「………………」

まあいい、これ以上は考えるのを止めておこう。俺が鬱になるだけだ。

それよりも、今晩は何を作ろうか……。

自分の感覚では4時くらいだろうと思っていたのだけれど、キッチンの時計を見て、まず、その短針が7を指していたことにまず驚いた。結構な時間に渡って、気を失っていたらしい。夕食前に軽く何か作ろうかと考えていたのだが、そのまま本日の晩餐を作る事となった。冷蔵庫の中身を前にしてしばらく悩んだが、病人もいることだし、スープ系が良かろう、という結論に至り、シチューを作った。

それから然る後に、病人を部屋から呼び出し、今までは一人だったダイニングキッチンの定員を二人に増やして、一緒に食事を取ることとなった。本来ならば、すぐにでも家から追い出してやりたいところだが、実質的な力の関係上、その願いは遠く叶いそうに無い。それに、相手は一応だが怪我人だ。今の状況で追い出すのも酷だろう。後者はどうにも言い分け臭い言葉に聞こえるだろうが、事実には違いないだろう。そういうことで、己の脆いプライドを守るためにも、仕方なく、俺はガキの居住を認めたのだった。

食卓では、顔を合わせれば直ぐにでも、口喧嘩が始まるかとも思った。けれど、テレビから聞こえるニュースキャスターの声をBGMにして、晩餐は思いのほか平穏なものとなった。もしかしたら、なんだかんだで相手も疲れているのかもしれない。

「ふむ、結構美味いじゃないか」

大人用のスプーンを、不釣合いな小さい口へ突っ込みモゴモゴしている。こんな奴にでも作ったものを褒められれば、なかなか悪い気はしない。

「そうか、口に合うなら幸いだ。文句の一つでも言った日にはそのまま皿を下げてやったのにな」

自分も湯気の上がるソレをスプーンで掬って口へと運ぶ。

「別に構わないが、その時は貴様の腕が一本飛ぶと思え」

テーブルの上にはシチューの皿の他に、フランスパンの入ったバスケットとバター、それに二人分の生野菜のサラダが置いてある。

「ふ、ふんっ、よく言うぜ。感謝して食えよな」

一人暮らしを始めた当初は、毎日毎食コンビニ弁当で済ませていた。しかし、半年を過ぎた辺りから、周辺にある殆どの店のメニューを食べ飽きてしまった為に、以降自分で作るようになっていた。始めは面倒だと思いつつの作業であったが、他にやることも無かく、なんとなく惰性で続けていたら、時間が経つにつれて、いつの間にかそれが普通になっていた。慣れとは怖いものである。

「しかしまあ、食事に関しては上等だ。褒めてやるぞ下僕」

「うるせっ、だからそれはやめろ」

切り分けたフランスパンにバターを塗り齧り付く。

この毒舌は癖の様なものだろうか? どんな時にでも会話の端に棘を紛れ込ませてくるのは、もう諦めるほか無いのかもしれない。とはいえ、そう簡単に慣れられるようなものでもない。ついつい反応してしまう自分が恨めしい。

「いい加減に、その言い方やめろよな? こっちだって世間体とかプライドとかそういうのがあるんだから」

もぐもぐと口の中のものを噛み砕き咀嚼する。そんな単語を人前で連呼された日には、それこそこの町内から俺の居場所が無くなってしまう。

「何を言う、お前は私に誓っただろう? 我が下僕であると。だとするなら、私が下僕である事を認める限り、お前は永遠に下僕だ」

ずずぅ、とスプーンにすくったシチューを飲む。

「なんだよそりゃ……」

「それに私にしても名前があるんだ、ガキ、ガキ、と程度の低い呼び方をするな。お前がファミリーであるからこそ許しているが、もしそうでなければ、そう口にした回数だけ身を引き裂いてやっているところだぞ?」

テーブル中央に置かれたフランスパンと、偉そうな物言いをしながらも、それを懸命に取ろうとして手を伸ばして、しかし、やはり取れないガキ。仕方なく幾つか取って本人の取り皿の上においてやる。

「そう言うんだったら、そっちこそ下僕ってのは止めろよな」

「ひゃめん!」

口にパンを頬張ったまま頑として言う。

「だったら俺もそのままだ」

「ふん…………ならば好きにしろっ」

ったく、本当に強情の強い奴である。

まあ、そんな感じで、常に何かしらの軽い小競り合いを繰り返しながらも、食卓は賑やかに進んだのだった。口では無駄な言い合いが絶えないが、取っ組み合いの喧嘩にはならないので、とりあえずは問題も無い。

時間は一人で食事をする時と比べて、ゆっくりと過ぎていった。相手はこんな奴だが、自宅で他人との団欒を感じることが出来たのは、酷く久しぶりで、悪い気はしなかった。柄にも無く感慨にふけってしまう。

なんでも話を聞いたところでは、このガキは300年もの間を、例の赤い宝石の中に封印されていたらしい。だからだろう、語る話は今と昔の違いがどうのこうのといった事が多かった。まあ、確かに時間を300年も越えれば驚きもするだろう。

ただテレビや水道、冷蔵庫といった家電群には余り興味が無いらしく、ちょっと説明すると直ぐに飽きてしまった。なんとも順応の早い吸血鬼である。俺だったら、いきなり時間を300年も飛ばされれば、それこそ気が動転してしまうだろう。だが、当の本人は対して気にしている風も無く、呆気カランと語っていた。器がでかいのか、もしくは、とんでもない馬鹿なのか、判断に困るところである。

また、例の宝石に封印された元の場所はドイツらしい。そして、開放されたのが日本なのだから、その間に本人の意識があったかどうかは定かでないが、これまた大した旅行であろう。俺も幼い頃は親の都合でドイツに住んでいたのだが、飛行機ならフライト時間は12時間を越える。どうして日本語を喋れるのかと気になって聞いてみれば、長く生きていれば、人間の喋る単純な言語など簡単に覚えてしまうものだ、などと返ってきた。英語のテストで毎回赤点ギリギリな俺としてはうらやましい限りだった。

そして、食事が終わった後に、程なくして風呂の湯が沸いた事を知らせるブザーが鳴った。食事の後片付けもあったので、俺はガキへ先に体を流すよう告げた。

「風呂?」

すると、キョトンとした声が返ってきた。

「ああ、お前も傷の具合が良いんだったら行ってこい。一応タオルで汚れは取ったつもりだけど、ちゃんと全部拭いたわけじゃないからな。それにお前、汗だってかいただろう?」

「そうだな……。分かった、場所を教えろ」

洗い物が途中だったので、水道の蛇口を閉じて、タオルで濡れた手を拭く。

「ついてこい。こっちだ」

しかし、考えてみればコイツは代用の服など持っているのだろうか? 荷物を手にしていた様子は一度も無かったし、この家へ来たときも、教室に現れたときも、それらしいものは確認できていない。

「お前、代わりの服とかある?」

後ろから裸足でヒタヒタと付いてくる奴に声をかける。

「服か? そんなもの無い、1着あれば上等だろう? 別に見た目に気を使うような趣味も無いしな」

すると、速攻で予想通りの回答が返ってきた。この居候は、その身ひとつで我が家へ越してきたとみて間違い無いだろう。昨晩に、放課後の教室で出合った時も、何か手荷物を持っている素振りは無かったのだ。

「ってことは、服も用意しなきゃならないのか……」

「別に私はこのままで構わん、しかし、貴様が下僕として仕事をする、というのならば止めんがな」

初めて出会ってから今に至るまでの間を、コイツはずっと、例の狂ったデザインの衣装で過ごしてきた。例えるなら、ビキニスタイルの水着である。とは言え、素材は厚手の革であって、とても強固な作りをしているように見える。水着とは違うのだろう。また、ショーツの上には、丈の短いスカートを履いて、ギリギリの所で下を隠している。動き回るたびに中が丸見えになるのが気になるが、その辺は本人も理解しているのだろうか。あの性格では全く考えていない気がする。とはいえ、肌に革製品を直接当てるのは不快感があるだろうし、下に何かしら履いていることだろう。

トップとショーツとは別に、身体には幅の広いベルトが幾重にも巻かれていたりする。その端々は金属製のリングによって留められ、身体に固定されている。此方に関しては既に衣服としての意味を成していない。ちなみに、スカートや、ベルトも他と同様に革製である。色はその全てが黒だ。

昨日の今日で、段々と目が慣れてきたのか、その奇抜な服装に突っ込む事を忘れていたが、流石に今後この格好で外を歩かせるわけにもいかない。

「いや、俺が困るから服は着替えてくれ。確か、妹の服があるはずだから探してくるわ。風呂はここだから先に入っていてくれ。服は見つけたら脱衣所に置いておくから」

そう言って、廊下の端にある脱衣所へ繋がるドアを指差してみせる。

「用意するのか?」

「ああ、300年前はどうだったか知らないけど、今は生活していくにもいろいろと規則ってもんがあるんだよ」

「ふん、面倒な話だな。まあ、たまには人間の真似事も良かろう」

「っていうか、なんでお前はそう偉そうなんだよ」

「偉いからだが?」

「………はぁ」

なんてクソガキだろう。

ガキが脱衣所へと入っていった。応じてバタンと扉がしまる。

それを確認して、俺は廊下を挟んで反対側にある一室へと足を向けた。

妹は俺がまだ中学になったばかりの頃に、交通事故で死んでしまった。だが、その後も母親は妹が身につけていた服や小物を当時のままの状態で大切に仕舞って、取っておいてある。

それが何であろうと、とりあえずは取っておく。という母親の癖も、たしか、その頃から段々と開花していった気がする。おかげで、この家には良く分からない物品が至る所に仕舞い込まれている。

脱衣所の正面にある部屋が、妹が使っていた部屋だ。室内も母親がココに住んでいた頃はこまめに掃除をしていたのだが、それも海外へと発ってからは、半場開かずの間として立ち入る事すら稀になっていた。最後にドアを開けたのは何ヶ月前だっただろうか。それすらも思い出せない。

室内は妹が死んだその日から、まったく手を加えずにそのままになっている。まるでそこだけが時間に取り残されたかのよう。開きかけのノートや床に投げ出されたランドセル、それに帰ってきてから食べるのだと楽しみにしていた、そして、既にカビが生えてしまっている母親手製のクッキー…………。

「…………」

まあ、くだらない昔話だった。

その時は俺もかなり泣いたらしいが、今となってはもう日記の中の出来事に過ぎない。

ちなみにガキにあてがったのは母親の使っていた部屋で、現状では最も綺麗な状態にあるだろう、と考えてのことである。他の部屋は使用していない期間が長いから、きっと埃だらけになっているに違いない。

「さてと」

そして、ドアを開くと、やはりというか、光の差し込まなくなって長い妹の部屋は、かなりの量の埃が積もっていた。ドアを開いたときの風で、室内に溜まっていたそれが舞い上がった。喉が痛い。とりあえず、電気をつけてクローゼットへと向かう。

「げほっ、げほっ」

久しぶりに開けたが、かなりイイ感じに空き部屋感が漂っている。人がすまないと部屋は痛むというが、なんとなくそれが分かる状態にあった。出来ることなら、暇な時間を見つけて掃除するべきだろう。

「っと、確かクローゼットに入ってたよな」

部屋に入って右手奥にある両開きの大きなクローゼット。スライド式のドアを出来るだけ埃を立てないように静かに開けた。故人の者を勝手に使うというのも、道徳的にどうかと考えたが、不思議とあのガキが着る分には構わないような気がしていた。

妹が交通事故に合ったときの年齢が小学校低学年であって、ちょうど、あのガキと同じくらいの発育状況にあった。それが親近感を沸かせているのだろう。性格は間違っても遠く及ばないが。

「お、あるじゃん」

開かれたクローゼットの中には、記憶に寸分違わず、妹が昔着ていた服が綺麗にずらりと並んでいた。もしかしたら虫に食われているかとも思ったが、パッと見て、どれも綺麗なものだった。ただ、それとは別に、ここへ来て少しばかり問題が発生した。

「そういえば、思い出したよ。妹が着てた服って、こういうのばっかりだったよな……」

クローゼットに衣服の存在を確認して一喜する。しかし、そのいずれもが、色彩豊かなフリルの大量に付いた、まるでお姫様のドレスの様な出で立ちをしていることに一憂である。

「ったく、母さんの少女趣味にも困ったもんだよなぁ」

目の前に並ぶのは、西洋ドールに着せるようなドレスばかりである。クローゼットを開けるまで、母親にこういう趣味があった事を忘れていた。妹もコレには苦労させられていたのを覚えている。本人はどちらかとボーイッシュな格好をしたがっていたが、母親にせがまれて、嫌々これらを来て学校へと登校していた。母親は妹を使って、自らが着れない乙女チックな衣装を堪能していた。しかも、その多くは自作だから大したものである。

「けど、これしかないもんな……」

妹が普段着ていた普通の服は、母親が海外へ発つ際に、その全てを持っていってしまったようだ。本来ならばTシャツやジーンズといった衣装が入っている筈の中ダンスには、埃しか入っていなかった。クローゼットの中に残っているのは、置いていかれた普通じゃない服ばかりである。とにかくフリルフリルフリル…………、とにかくフリルが目に付く。

「仕方ない、出来るだけまともな奴を探すか」

ハンガーにかかったそれらを一つ一つ手にとっては、それがどんなものか確かめていく。一つ見るたびに、うわぁ、と声を上げてしまうほど派手な、形容しがたいデザインの服が目に飛び込んでくる。もしかしたらまともな服などないのかも知れない。

あーでもないこーでもない、と並ぶ何十着もの衣装を前に苦悩する。すると、そんな俺の耳にガキの呼ぶ声が聞こえてきた。

「おい下僕、こっちへ来い」

「はぁ?」

浴室から叫んでいる為か、かなり小さい声しか聞こえなかった。

「下僕っ!」

放置すると、また体罰を与えられかねない。とりあえず衣服の物色を一時保留とし、やかましいご主人様の元へ向かった。

「下僕、早く来い」

「聞こえてるからデカイ声で騒ぐなよ」

妹の部屋から出て、その対面に位置する脱衣所の扉を開ける。だが、そこにガキの姿はない。洗濯機の横に置かれた篭には、例の黒い水着みたいなヤツが、ちょこんと置いてあった。

「どうしたんだ?」

浴室の扉を開けた。

すると、そこには裸ののガキが腕を組んで仁王立ちしていた。

「…………」

しなやかな四肢は恐ろしいほどに細く、強く掴めば折れてしまいそうな儚さがあった。つま先から指先まで、染みの一つも無い白い身体は、まるで高価な白磁の様な美しさである。思わず見とれてしまっていた。クラスの女連中が知ったら嫉妬しそうな身体である。

「おい、下僕」

「な、なんだよ。いきなり呼びつけてくれて」

相手があまりに堂々としているので、こちらが悪い事をしたような気持ちになる。

「使い方がわからん、説明しろ」

そう言ってガキは自分の隣にあるシャワーを顎で指した。言われてみれば、説明を忘れていた。リビングにある家電は一通りの使い方を教えたが、シャワーは盲点であった。

「そういえばこれは教えてなかったな」

靴下を脱いで夏でも冷たい風呂場のタイルへと降りた。

「コレはこうやって、このレバーを上に倒すとお湯が出てきて……」

ズボンのすそをめくって風呂場にしゃがみ込むと、シャワーの出湯口を右手に持ち、お湯を出したり水を出したり繰り返してみせる。

「下へ倒すと水とかお湯が出るんだよ。倒した具合と、その角度によって、水量と水温が変わるからな」

「ほぉ、それは便利なものだな」

俺のすぐ横に胡坐をかいて、風呂場のタイルにドンと腰を下ろした自称300年前の吸血鬼は、湯気を立たせるシャワーのノルズを目にして、感嘆の息を漏らした。

「そうか?」

次いで、湯沸かし器の説明をするにあたって、お湯を止める。

「ああ、これは便利だ」

その視線は好奇心に輝いて見えた。

「そんでもって、こっちにボタンがあるだろ?」

湯船の近くの壁に設置されている温水器の制御スイッチを指差す。面倒なんで一度に全部教えてしまう事にする。このガキは物覚えはすこぶる良い。この程度は一度の説明できちんと覚えてくれるだろう。

「ああ」

立ち上がり今度はそちらへと移動する。

「これで風呂場を制御すると思ってくれ。この熱くって書いてるのを押せば、ここから出る湯が熱くなったり、風呂の湯が熱くなったりする。冷たくって書いてあるやつは、その逆の効果だ」

「ほほぉ……」

試しに指でポチポチと押させる。すると液晶の表示が、水温40度付近を元に、上がったり下がったりと変更される。

「とまあ、これでいいだろう。後は勝手にやってくれ」

「うむ」

「ああ、そういや一つ聞くけど、下着はどこやったんだ? 風呂入ってる間に洗っちまうから貸せ。明日には乾いてないとまずいだろ?」

服はあっても、流石に下着は無い。しかも子供用である。ならば、夜のうちに洗わなければ、明日着る物がなくなってしまう。流石に皮製の水着もどきやベルト群は洗濯機で洗えないが、下着くらいは平気だろう。

「そんなものつけてない」

しかし、返ってきたのは予想外の回答である。

「は?」

「つけてないと言ったんだ。私が身につけていた物はそこに置いてあっただろう? それで全てだ」

「じゃあ、下に何も着けないでアレを直接履いてたのか?」

「そうだが? 別に貴様がとやかくいうことでもあるまい。それより使い方は分かったから早く出て行け。湯がかかるぞ?」

「え、あ、ああ……」

「それとも私の体を洗いたいのか? そうならば幾らでもあらわせてやるぞ、ほら、早く洗え」

そう言って、ガキは偉そうに両腕を広げる見せる。まったく膨らみの無い胸が、虚しく前面に押し出される。

「だれがお前の風呂の面倒までみるかよ」

下手に絡まれないうちに、慌てて浴室から出る。

「じゃあ分かったな、くれぐれも壊すなよ?」

「承知している」

短く確認して、浴室のドアを閉めた。

「ったく、面倒のかかる奴だな……」

口から漏れたため息は思いのほか大きかった。