金髪ロリツンデレラノベ 第一巻

第二話

その夜、布団に入ったばかりの俺の耳に、けたたましく鳴る玄関の呼び鈴の音が届いた。

時刻は夜の10時過ぎである。本日は色々と大変な目に合い、とても疲れていたので、早く床に着いたのだ。しかし、今日という日は、まだ俺を寝かしてはくれないらしい。呼び鈴は間隔をおかず何度も何度も連打され、そのたびに室内には、やかましくピンポンピンポンと耳障りな音が鳴り響く。パジャマ姿のまま、玄関の前まで来たときには、呼び鈴以外にも、扉を叩く低い音まで加わっていた。

「一体なんだよ……」

こんな時間に人が尋ねてきたことなど殆ど無い。不機嫌を全開にして、玄関のロックを解きドアを開けた。すると、見知った顔が1つ、切羽詰った表情でそこに立っていた。

「吉川か? お前どうしたんだよこんな時間に」

一人暮らしでこれだけの環境だ、友達が遊びに来ることは多々ある。けれど、真面目な吉川が一切の前約束も無しに、こんな時間帯にやって来るのは非常に稀有なことだった。しかも、その表情は普段の吉川からは伺い知れない程に焦って見えた。

そして、突然の来訪者は、俺の顔を見るなり勢い良く口を開いた。

「雅之、話を聞いて欲しいんだよ」

何か、とても必死な様子だった。

「あ、ああ、そりゃ構わないけど………」

普通じゃない相手の様子に疑問を感じながら、応じて吉川をリビングへと通した。先程は玄関のドアまで叩いていたのだし、その話というのが只事で無いことは想像がつく。これが斉藤だったのなら、下らない与太話の可能性も高いが、いつも沈着冷静な吉川が、この様子なのだ。それ相応の何かがあるのだろう。

とりあえずソファーを薦めて座らせた。その間に、キッチンからカップを2つとペットボトルのジュースを取ってくる。ガラステーブルの上に置いた透明なグラスにペットボトルから緑色の液体を注ぐ。

「…………」

改めて見てみれば、吉川は学生服のままであった。しかも、その所々は、解れたり破れたりしていて、明らかにおかしい。手には鞄も持っていない。一体何があったのだろう?

ガキを既に寝かせた後でよかった、と一人心の中で一息ついてから、俺は声をかけた。

「で、何したんだ?」

喧嘩でもしてきたのだろうか? だが、斉藤ならそれも頷けるが、吉川が、というとそれはどうにも信じがたい。先程から頭の中では、この状況に至る過程をあれこれと想像していた。まさか車に引かれたとか、階段から落ちたとか、そんな阿呆な話でもあるまい。しかし、見た目のボロボロ具合は、他に理由が思いつかない。

俺の問いから暫くの間隔を置いて、吉川はゆっくりと口を開いた。

「あのさ雅之、昨日僕が拾ってきた赤い宝石、あれ覚えてる?」

「ああ、ルビーだなんだってやってたやつだろ?」

そういえば、今日は一緒に宝石店へいって、その鑑定をして貰う約束をしていたのだった。ガキが学校へやって来たり、一年の女に殺されかけたりと、余りに色々とあり過ぎたせいですっかり忘れていた。

「うん。けど、それで……、その事で僕達、おかしな奴等に捕まっちゃってさ」

すると、俺の言葉に答えて、吉川はなにやら物騒な事を口にした。その「僕達」というのは、吉川と斉藤のことを指しているのだろう。あまりにも想定外であった結論に、素っ頓狂な声を上げて聞き返していた。

「は? 捕まったってなんだよ?」

しかも、おかしな奴等とは何者だ。

「うん、ちゃんと全部を話すから聞いて欲しいんだ」

相手の神妙な雰囲気がこちらにも伝染してくるのが感じられる。

「わかった」

俺は妙に重い空気を纏って頷いた。

「ありがとう」

やっとのことで一日が終ろうとしていたのに、最後の最後で振出へ戻った気分だ。ベッドに横になって隙を見せたのが良くなかったのだろうか? まさか、そんな筈がある訳も無いだろう。しかし、そういった阿呆な妄想が浮かぶ程に、思考は無駄に加速していた。

「それで、その、学校が終わった後なんだけどさ、雅之の携帯に連絡を入れたんだけど全然反応がなかったから、斉藤と話し合って二人で宝石の鑑定に行く事にしたんだ」

「ああ」

「それで、二人で黄瀬川の通りを歩いていたんだよ。そしたらそこで、菊池とか言う男にに声をかけられてさ……」

俯き加減の吉川は、その後の二人に一体何が起こったのかを語ってくれた。

話しの流れは至って明快なものであった。授業を終えて学校からの下校途中に、吉川と斉藤の二人は、見知らぬ男に襲われたというのだ。

なんでも、その男は吉川が川原で拾った例の赤い宝石の持ち主であったようで、誤って落としてしまったそれを探していたらしい。吉川が手に持っていた宝石を目にして、話しかけてきたのだという。ただ、出会い頭には、紳士的な態度をとっていたその男も、見つけた宝石に傷がついてしまっていることを知り、態度を豹変させたのだという。

宝石が落し物であったことを考えれば、拾ったときから傷はついていた、と適当な説明すれば良かったものを、斉藤がうっかりと口を滑らせたせいで、話は面倒なことになってしまったらしい。原因が二人であることを知った男は、その場を逃げ出した二人を捕まえ、車に押し込んで連れ去ったのだという。

そこまでを語ると、一度吉川は言葉を切った。

「それで、お前等は、その菊池とかいう奴に拉致られたのか」

もしも、それが本当ならば、警察を呼んでも差し支えない話である。その男というのも、真っ当な職種の人間ではないだろう。

「うん」

「でもじゃあ、こんなことを聞くのも悪いかもしれないけど、何でお前は俺の家まで戻ってこれたんだ?」

それに斉藤が一緒でないのも気になる。

ふと沸いて出た疑問を口にすると、吉川はおずおずと説明を続けた。

「男の車で連れて行かれた先は、隣町の長泉町にある大きな洋館だった」

「隣町?」

「そこで、僕達はロープで縛られて、倉庫みたいなところに閉じ込められたんだよ」

段々と話が怪しい方向へと進んでいくのを感じながら、俺は吉川の話に黙って耳を傾けた。

「その時に携帯も取り上げられたんだけど、僕はいつも家の用事の為に、2つ持ち歩いていたから、そのもう一つ取られずに残っていた方で、家に連絡をとって助けを呼んだんだ。縄はきつかったけど、斉藤がいたから、電話をかけるくらいは出来たんだ」

頭の中には、映画のワンシーンで、悪の組織に掴まった主人公が縄抜けをする様子が浮かんだ。まさか自分の友達に、そんな非日常的な出来事が訪れていたとは思いもしなかった。

「幸いなことに、隣町の洋館って言うと、家の人はそれが何処なのか理解してくれて、すぐに助けに来てくれたんだよ」

「なるほど」

ジュースを一口含み乾いていた喉を湿らせた。

「館の前に止まっていた車の数からして、かなりの人数が来てくれたんだと思う」

「ああ」

「それで、連絡を取ってから3,40分位すると、外が騒がしくなってきたんだ。倉庫の中は真っ暗だったけど人が叫ぶ声とか銃声が聞こえてきたから、それで家の人が助けに来てくれたんだと分かった。しばらく待ってると、僕達が捕まっていた倉庫にも人が来てくれて、助け出してくれたんだ」

家の人、というと、吉川の組に居を置いている人達のことだろう。吉川の家に遊びに行くと、お菓子やらジュースやらを出してくれたりするので、俺も少しだけなら、面識がある。

「話を聞くと、断然こっちのほうが優勢で、僕達を助け出したから、後は撤退するだけだって笑って教えてくれたよ。それで、僕と斉藤は助けてくれた人に連れられて、玄関ホールまで逃げたんだ。後は、そこで他の人と合流して帰るだけだって言われてた。その洋館、建物は大きいんだけど、あんまり人はいないみたいで、僕達は誰とも顔を合わせずにホールまでたどり着いたよ」

「ああ」

語る吉川の顔色は頗る良くない。話も今の時点では、幸いな方向へ向っている。となると、この後に何某か、良くない出来事が待っているのだろう。

「それで、やっと帰れるとおもって二人して走ってホールに入ったんだよ」

そこで言葉を切り、吉川はテーブルの上に置かれたコップの中身をゴクゴクと飲み干す。続きが気になる俺は、姿勢を正して、続く言葉を待った。コップをテーブルに置く硬い音が、音が静かな夜のリビングに響く。

意を決したように吉川は続きを口にした。

「そしたら、ホールには家の人達が沢山倒れてたんだよ。腕がちぎれてたり、足が無くなってたり、首が飛んだりしてて……」

「…………はぁ?」

予想を遥かに上回る言葉に、俺は素っ頓狂な声を上げてしまっていた。

「一緒にいた人も驚いてた。ホールに居た人達は、その殆どが死んでたよ。生きてる人も何人かいたけど、それでも傷だらけで、立ってるのがやっとって感じだった。体中が真っ赤な人も居たし、耳が取れてる人も居た、目が潰れてる人だって居た、内臓がはみ出ちゃってる人さえ居たよ」

「なんだよそりゃ」

ヤクザ同士の抗争とは言え、幾らなんでも、それは激しすぎだろう。抗争の現場を目撃した経験がないので、程度の判断基準は持ち合わせていない。けれど、そんなノルマンディー上陸作戦の語りの様な出来事は、そうそう身近な所で起こるものではないだろう。

「うん、僕も始めは何が起こったのか全然わからなかった。けど、その場で一人だけ、女の人がいたんだ。僕達と同じくらいの年頃で普通の女の人が」

「女が?」

「それで、その人が手に持ってたんだよ、誰かの腕を」

「そ、そりゃあ……」

なんてコメントすれば良いんだろうか?

「おかしいよね、普通に考えておかしいよね。腕だよ? 足だよ? 取れちゃうものなの?」

「ちょっと待てよ、なんで女が腕持ってんだよ。そいつがお前の家の連中をやったって言いたいのか?」

「それは分からないけど、でも持ってたんだよ……」

悪い冗談にしか聞こえない。

「僕も始めはそんなこと考えもしなかったよ。けど、目の前でその人は、手に持っていた腕を、両手で持って引きちぎったんだ。ブチブチって嫌な音を立てて、人間の腕を引きちぎったんだよ。二つになったんだよ」

「……………」

返す言葉が見つからなかった。だから、黙って吉川の言葉に耳を傾けた。

「だけど、それでも、そこに居た人達は、僕達を逃がしてくれたんだ。僕と斉藤を外まで逃がしてくれて、外には車が止めてあるから、それで逃げろって鍵もくれて」

そこまで語って、吉川は静かに顔を伏せた。亡くなったのは、血こそ繋がってはいないが、家族のような関係にある人達だったのだろう。それが目の前で、ともなればショックは大きいに違いない。腕を引きちぎる、というのは誇張が過ぎるかもしれないが、それも混乱しての事だろう。

「けど、だとしたら斉藤の奴はどうしたんだ? 一緒に逃げてきたんじゃなかったのか?」

吉川の体がビクっと小さく震えた。その様子に俺は嫌な予感を覚えながら、もう一度同じことを聞いた。

「斉藤はもう家に帰ったのか?」

しばらくの間、吉川は口を開かなかった。

ただ黙って、じっと膝の上で硬く握られた拳を見つめていた。回答を得られないまま、時計の秒針がゆっくりと時間をかけて1周、2周、と回っていく。そして、4周目を回ったあたりだろうか、俯いたままになっていた顔が、ゆっくりと上げられた。

「ごめん雅之、斉藤も車に乗り込むときに、僕を庇って捕まったんだ」

今にも泣き出しそうな、子供のような声が耳に届いた。

それを聞いて、やり場の無い怒りと虚しさが、体の中に溢れた。

よりにもよって斉藤まで。

「ごめん、僕がしっかりしてなかったから、しっかりしてなかったから斉藤も捕まっちゃって……」

ソファーテーブルを挟んで反対側には、悔しそうに歯を食いしばり、握った拳を振るわせている吉川の姿があった。

「別に誤らなくてもいいだろ。お前だって被害者なんだし」

本当に、今日はどうなっているのだろう。良くないイベントが目白押しだ。

「なんか、夢でも見てる気分だな」

「夢だったらどれだけ良かったかな」

これからどうしよう。そう考えると、浮かんでくる答えは1つしか無かった。

「吉川、行くぞ」

自分がそうしたところで、事態が改善されるとは思えなかった。相手は吉川の組の人達が束になって、それでも負けてしまったような相手だ。しかし、友達が捕まっていると聞いて、家でジッとしていることは出来なかった。もしかしたら何か出来るかも知れない、そう思った。

吉川の話では、斉藤は捕まった、とのことだ。全てが終ってしまった訳でもない。

「うん、ありがとう」

吉川が力強く俺の言葉に答えた。

「それじゃあ、ちょっと待っててくれよ、直ぐに着替えてくるから」

ベッドに横になった状態で呼び鈴を聞いたので、今はパジャマ姿のままである。

「わかった」

「あと、車はあるんだろ? 場所は覚えてるよな、運転は任せたぞ」

「うん」

ソファーから立ち上がり、早歩きでリビングのドアに向かった。

だが、俺がそのドアノブに手をかけるよりも早く、扉は勝手に開かれた。それに驚いて、半歩後ろに飛び退く。すると、そこから顔を出したのは、妹のパジャマに着替えて、眠そうに目を擦りながら、こちらを見上げるガキだった。

「で、お前は死に行くわけだ」

「な、なんだよお前は」

いきなり随分な物言いである。てっきり寝ているものとばかり思っていたので驚いた。

「悪いが立ち聞きさせてもらったぞ」

「寝てたんじゃないのか?」

ガキは俺の横をすり抜けて、吉川が座っているのとは反対側にあるソファーに腰かけた。足をガラステーブルの上に投げ出し、全身をだらしなく伸ばした体勢で、顔だけをこちらに向けて言葉を続ける。

「あれだけピンポンピンポンとやかましい音が聞こえてくれば、目だって覚めて当然だろう」

ソファーテーブルの上にあった、俺の飲みかけのジュースを、グイっと一気に飲む。

「何事かと思い足を運べば、湿った奴らがモソモソとやっているじゃあないか。私だって気を利かせて部屋に入るのを躊躇ってやったんだぞ? まあ、正直どうでも良かっただけだがな」

「だったら突っかかってくるなよ、お前には関係無いことなんだろ?」

吉川は俺とガキとを交互に目で追っている。何か言うわけではないが、その表情は俺に無言で説明を求めているようだった。とはいえ、それも面倒なので無視する。

「ふん、人が折角注意をしてやっているのに、ずいぶんと態度のデカイ奴だ」

「何が注意だよ。悪いけど、今はお前と喧嘩してる暇は無いんだよ」

そう言って、自分の部屋へ戻ろうと踵を返す。しかしガキは言葉を続ける。

「お前は、そこにいる小僧の話に、何か思うところは無いのか?」

「思うところ?」

足を止めて振り返る。

「学習能力の無い奴だな。今日私が教えてやったばかりだろう」

つまらなそうな表情で、ガキはペットボトルからコップへジュースを注ぐ。

「何を言いたいんだよ」

「まったく、本当に馬鹿だな。この小僧が言った事を聞いていたんだろう? 腕を引きちぎられたと」

「ああ、聞いてたよ、だけどそれがどうしたっていうんだよ」

「だとしたら、そいつはお前が言うところの普通じゃない奴だ、それを理解しているのか?」

「あ――……」

言われて気がついた。

斉藤が捕まった、という事態に混乱していたのだろう。吉川の話も、半分は恐怖に脚色されたものだと思っていた。けれど、それで終わらない場合が、世の中にはあるのだということを、俺は昨日と今日で身をもって理解していた。そして、それが今の自分の存在そのものであったりするのだ。

「あの一年の女みたいな化け物がいるってことか?」

高校の裏庭での壮烈な鬩ぎ合いを思い出し口にした。

「この小僧の言う事が本当なら、そうなるんだろうな」

「じゃあ……」

「だから言ったのだ。お前は死にに行くのか? と」

「だ、だけど。だからってここでジッとしてる訳にはいかないだろ。俺だってそんな化け物に関わるのは嫌だけど、斉藤が捕まってるだよ。なんとかしないとヤバイんだよ」

「ふん、力は無いくせに、口先だけは一人前だな」

手に持ったコップに口をつける。小さな喉からコクコクと音が鳴る。

「確かにお前は吸血鬼になって、常人からはかけ離れた力を手に入れた。それも、この私のファミリーだ。並みの吸血鬼より遥かに強力である事は保障する。だが、お前はまだ新米だ。相手が並の化け物だったら何とかなるかもしれない。しかし、並でなかったなら、お前はここへ戻ってはこれないぞ?」

「…………」

「それにお前が持つ魔力は微弱なものだ。相手がそういう奴だったら、肉体的な力量差なんて関係ない。少しばかり小突かれて、それで終わりだ」

「そ、そんなのやってみないと分からないだろ?」

「だったらお前、今日のあの娘に喧嘩でも売ってみたらどうだ? よーく現実を理解できると思うぞ?」

そう返されると、返す言葉が無かった。

「…………」

「どうだ、それでも行くか?」

ちょっと手を突っ込んだだけでも、全身をズタボロにされてしまいそうな、ガキと一年の鬩ぎ合いは、俺にとっては雲の上の出来事だった。それが、今度は目の前に敵として現れようというのである。

「腕や足が千切れていた? 力だけを考えても、人間に比べれば結構な怪力じゃないか。どうする?」

ニヤニヤと笑みを浮かべて、俺を問うてくる。だが、幾ら脅されたところで、俺がやることは変わらない。自分でも馬鹿な性格だとは思うが、これは頑張って直せるようなものじゃない。

「そんなの関係ないんだよ、行くっ言ったら行くんだよ」

そう吐き捨てて、俺は自分の部屋へと駆け出した。背後からは特に何も言葉は返って来なかった。そもそも今は時間が無いのだ、あんなガキの言う事にかまっている暇は無い。

「糞っ」

急いで寝巻きを脱ぎ捨てる。ジーンズを穿き、ワイシャツを下着代わりに来ていたTシャツの上から羽織る。そしてズボンのポケットが財布で膨らんでいる事を確認して、リビングに駆け足に戻った。

「行くぞ吉川」

リビングのドアノブを開けて、その中に一歩を踏み出し声をかける。部屋では無言でくつろぐガキと、その様子をチラチラと盗み見ながら、先ほどと同じ体勢のまま、おとなしくソファーに座っている吉川の姿がある。

「うん」

答えて吉川が腰を浮かした。

「まったく、人の言う事を聞かない下僕だな」

ソファーの上に寝転び、体を横にしたまま、仰向けのままこちらへ視線を向けてくる。

「お前に何と言われても俺は行くんだよ」

吉川が隣を抜けて玄関に向かう。それに続いて、俺もガキへ背を向ける。

「んじゃ行って来るから、おとなしくしてろよな」

時間を確認すれば夜の10時40分である。返ってくるのは一体何時になることだろうか。いや、無事に帰って来られれば良いのだが。

「まて」

リビングのドアを閉めようとして、けれど、それが閉まりきる前に、なかに居る奴に呼び止められた。まだ何か言い足りないのだろうか? 俺は振り返らずに、ドアの隙間30センチから聞き返した。

「なんだよ、急いでんだよ」

すると、無言の沈黙が帰ってきた。

「用が無いなら俺は行くからな」

こうしている間にも、斉藤が危ない目にあっているかもしれない。こんなところで足止めを食らっている時間は無いのである。

「じゃあな……」

キィと音を立てて扉を動かすと、ガキが続きを口にした。

「一つ取引をしないか?」

「取引?」

「お前が土下座して頼むならば、私も手伝ってやらないことも無いぞ?」

な、なんだよそりゃ。

「うるせぇ、お前の手助けなんていらねぇよ!」

俺は自分でもやかましいと思うほど音を立てて、乱暴にドアを叩き閉めた。

「行くか吉川」

「うん」

今日は6月も末日である。外は気温も高く、汗ばんだシャツが肌にくっ付く感じが、どうにも気持ち悪かった。早いとこ斉藤を助け出して家に帰り、熱いシャワーを浴びてサッパリしたいものである。

俺の家を出発した後は、武器を調達する為に一度吉川の家まで戻った。それから、吉川の運転する車が、隣町にある目的地へ着いたのは、夜の11時を回ってからのことだった。夜遅いこともあり、道はとても空いていた。普段ならば2時間近くかかる道のりを、その半分程度の時間で進み、吉川の言う、例の洋館にたどり着いた。規模的には、ただの洋館というよりも、屋敷といった方が良いだろう。そこに建っていたのは、かなりの規模の建築物であった。少なくとも一般庶民とは縁遠いものだ。

俺達は屋敷の前を通る路上に車を捨て、特になんの障害もなくその敷地内へと入り込んだ。入り口の門から屋敷まではかなりの距離がある。正面に同じ形の窓が幾つも並んだ5階建の屋敷は、長方形の敷地の中央にドカンと建っている。その周囲には隙間無く芝生が敷き詰められ、所々に観賞用と思われる木々が植えられていた。また、母屋と思われるその大きな洋館の隣には、2階建ての小さな、とは言っても普通住宅と大差ない規模の家が一軒ある。きっと屋敷で働く小間使いの為の家だろう。

外から様子を伺っている分には、屋敷は静かで、本当にここで乱闘騒ぎが起こったとは思えなかった。だが、間違いなく屋敷の前には、見覚えのある吉川の家の車が何台も止まっていた。屋敷の周囲を囲む庭は見通しが良い。誰かに見つかるのを恐れて、俺達は駆け足で芝の上を進み、屋敷正面の馬鹿でかい入り口の扉を押し開いた。

すると、その光景が目に飛び込んできた。

「こ、これは……」

玄関を入ってすぐのところには、真っ赤な池があった。玄関ホールには大小幾つもの血溜まりがあり、その中でも一際大きな赤い池が、ホールの中央に出来ていた。

「酷いな」

「………」

ホールは2階まで吹き抜けで、左右から上の階へと続く階段が伸びている。一階の入り口から見て同じ階の正面には二つ開きの大きな扉があった。

「これが全部血なのか?」

俺の言葉に吉川は黙って頷く。天井から下げられた大きなシャンゼリアが眩く輝き、ホールに出来た幾つもの血の池を、不気味に照らし出していた。2階へ続く左右の階段の近くには、南を向いて建つ屋敷に対して、東西に伸びる廊下がある。

中央に出来た出鱈目なサイズの血溜りを迂回して、左側にある階段の元まで歩いた。後ろには吉川も続く。

「ここで、吉川はその女を見たのか?」

周囲を見渡して、確認するように声をかける。

「うん、ちょうどあの辺りに立ってた。皆もその周りにいたよ」

ホールの中央にある一際大きな血溜まりの、その真ん中あたりを指差す。皆というのは組の人間を指してのことだろう。亡骸が見つからないのは、既に屋敷の者によって片付けられたからだろうか。周囲には人っ子一人見当たらない。

「悔しいけど、アイツの言う通りかもしれないな……」

そう考えると、鳥肌が立つのを感じた。

「アイツ?」

「いや、なんでもない。気にするな」

これから屋敷の奥へ進むことになるのだろうが、そうなると、吉川の説明した「女」とやらが出てきた場合、俺達には一切の対抗手段が無くなる。ガキの言葉じゃ無いが、今の俺に対処できる相手ではなさそうだ。辺りに広がった凄惨な光景を目にしては、どんな自信も揺らぐ。

「先に進むか?」

「……うん」

階段を慎重に一歩づつ昇っていく。出来ることならば、斉藤の名前を呼んで走りだしたいところだが、そんな事をすれば、あっという間に見つかってしまうだろう。それも、相手は吉川の組の人間が全滅の憂き目を見るような奴等である。下手に目立った行動は取れなかった。

「とりあえず上へいってみようぜ」

後へ続く吉川に声をかけ、屋敷の中を東側へ伸びる廊下に足を向けた。2階の吹き抜けに面した廊下から、手摺を挟んで、その下にある玄関ホールへ視線を落とす。周囲には視界を遮るような物も無く、目下に広がる階下の全容が、くっきりと目に入った。そこで起きたであろう壮絶な出来事の情景が、実際に立ち会った訳でもないのに、脳裏に浮かんできた。

「雅之、これから、どうするつもり?」

俺と吉川の手に握られているのは、安全装置の外れた銃だ。それを胸に引きつけた吉川が隣に並ぶ。生まれて初めて手にした拳銃は、想像よりもずっと重たかった。吉川の家で調達してきた武器だが、まさか、こんな物を手にする日が来るとは思ってもみなかった。それも、拉致被害にあった友達を助ける為とは、ドラマ顔負けの舞台設定である。

「とりあえず、人に見つからないように、手近なところから探そう」

「そうだね」

建築物の規模が大きい為に、捜索は難航しそうであった。これが一般家屋ならば、ものの数分で事足りるだろうに、この屋敷はフロアの数だけで5つもあるのだ。加えて、各階には10を越える居室が並んでいる。状況が状況でなければ、是非ともかくれんぼをして遊んでみたいと思う。

「それに屋敷の構造も少しは知っといた方がいいだろ。斉藤を助けた後の逃げ道も確保しておかなきゃならないし」

「そうだね」

3階以上のフロアに捕まって居たりしたら、窓から飛び降りることも出来ない。そうなると、相手に見つかってしまった場合は、屋敷の中を逃げ回りながら、脱出を試みることになるだろう。ともすれば、多少なりともこの屋敷の構造を知っておくことは必須だ。万が一にも袋小路へ追い込まれたりしようものなら笑えない。

「だれか一人、相手方を捕まえて話を聞くっていうのもありだと思うけど、どうする?」

屋敷の廊下は、俺の家のそれと比べて2倍以上の幅がある。俺と吉川が隣り合って進んでも余裕だ。こういう種の邸宅が、自宅から足の届く所に建っていたとは知らなかった。余程の金持ちの家なのだろう。豪華絢爛な絵画の数々が、廊下のいたるところに飾られているのは、金が余ってしまって仕方が無い、と主張しているように思えてしまう。

「悪くはないと思うけど、でも、相手も銃を持ってた場合を考えると、それはかなり危ないんじゃないかな。少なくとも、僕は賛成出来ないよ」

「そうか、やっぱり駄目か」

慎重な足取りで先を急ぐ俺達は、廊下に面する部屋を3つ、4つ、と過ぎていく。その前を通るだびに、扉へ耳をこすりつけて、中の様子を伺っているのだが、今のところ反応のあった部屋は無い。無論、中も確認しようとはしたのだが、今は使われていない部屋なのだろう。どの扉にも鍵がかかっており開かなかった。

「しかしデカイ家だな、まったく」

俺もかなり緊張している様で、気を抜くと無駄に喋りだしてしまう。きっと、黙っていることに不安を覚えてのことだろう。

「普通の一軒家だったら楽だったのにね」

すると吉川はその都度、軽いジョークを交えて返してくれる。けれど、その表情は普段よりも硬く、随分と強張って見える。

「いっそのこと1Kのアパートに越してくれないかね」

進む廊下は明かりが少なく暗い。部屋の扉と扉の間には、電燈が設置されているが、廊下の規模に対して出力が弱い。光の届かない端の方は闇と同化していた。だが、廊下自体の作りはとても豪華で、まるで都内にある高級ホテルの廊下を歩いているようだった。明かりが弱いのも、雰囲気を作る為の演出だろう。

「お、階段があるな」

7個目の扉を確認し終わった時に、俺たちは廊下の途中に上階へ続く階段を見つけた。階段は学校のものと同じように踊り場があり、二つに折れ曲がって、上の階へ続いている。

「上、……行く?」

階段の折り返し地点である踊り場を照らすのは、小さくも豪勢なシャンデリアである。

「なんか、この階はどの部屋も留守っぽいし、上の方が居そうじゃないか?」

先程、俺達は玄関ホールから階段を上がってきた。つまり、今居る場所は屋敷の2階である。ここで更に階段を上に上れば、その先は3階という事になる。

「そうだね、確かに物音1つ聞こえてこなかったし」

そうなると、もう窓から飛び降りたりは出来なくなる。帰りは屋敷の中を移動して、階段を使って階下へ向わなければならない。覚悟を決めて飛び降りれば、何とかなるかもしれないが、間違いなく怪我はする。ともなれば、相手の手の内にあって、脱出することは不可能だろう。

とはいえ、この場でウジウジと悩んでいる訳にも行かない。もしかしたら、斉藤は一刻を争う状況にあるかもしれないのだ。

俺達が進んできた2階の廊下の先には、まだ少し部屋が続いている。しかし、この先も同じように開かない扉が続いているだけだろう。そう考えて、階段を上がる事を決めた。

「じゃあ、上に行くか」

「うん」

一歩一歩と段差を越えて上へ向う。最後の一段を上り終えた後は、二人して壁伝いに背をつけ移動する。階段のホールから続く廊下の様子を、顔だけ出して確かめる。幸いなことに周囲に人の気配は無かった。階段は更に上の階へ続いていたが、まずはこの階を調べる事にした。1フロアつづ順番に行くとしよう。

「とりあえず、誰も居ないっぽい」

手招きして後ろに合図を送る。吉川がすぐ隣までやってきたのを確認して、2階に続き、3階の探索を開始した。

「それにしても、一体どこにいるんだよアイツは」

3階の構造も、先ほどまで歩いていた2階と対して変わらない。長い廊下が東西へと伸びており、その両側に部屋がいくつも並んでいる。また、1階及び2階で玄関ホールがあった場所は、3階ではテラスになっていた。階下の玄関ホールの上部に当たる箇所だが、そこだけが屋敷の階壁から窪み、屋外に出ており、夜空へ通じる大きなガラス窓の外には、テーブルや椅子、それに手入れの行き届いた沢山の花壇が配置されていた。よく見てみれば、始めは暗くて分からなかったが、外のテラスに面した大きなガラス窓のうち、その一つはドアになっていて、そこから外へと出られるようだった。

「せめて何階に捕まってるのか、それだけでも分かればいいんだけどね」

「だよな、ついでにダンジョンマップの乗った攻略本の一つでも置いておいてくれれば最高なんだけど」

「ついでに攻略推奨レベルも知りたいね」

「ああ」

段々と緊張も高まってきたのか、互いに無駄口が絶えない。もしも一人で来ていたのなら、挫けて家に逃げ帰っていたかもしれない。出来る限り急いで、それでいて音を立てないように、俺と吉川は先を急いだ。

だが、3階の廊下に並んだ扉も、確認した場所は全て鍵が閉まっていた。

先程上がってきた東側の階段から出て、廊下を西へ向かって進んだ。途中通路がT字路になる形で分岐していたが、とりあえず真っ直ぐに進んだ。

「もしかしてあれか、ほら、ボスが居るのはこういう場合、大抵は最上階だろ」

「でも、探してるのはボスじゃなくて斉藤だけどね」

「けど、マジで最上階は勘弁して欲しいよな」

階が上がれば上がるだけ、逃げる距離も比例して増える。流石に5階からでは、飛び降りることも出来ないだろう。ただでさえ天井の高い建築物だ、骨折程度で済むとは到底思えない。助かっても九死に一生といった所だろう。

「そういえば聞いてなかったけど、お前と斉藤が閉じ込められたのは何階だったんだ?」

かなり重要な事を聞き忘れていた。考えてみれば、まず始めはそこを調べるのが普通だろう。だが、そんな俺の問いに、吉川は渋い顔をして答えた。

「ごめん、それが逃げるときは、助けてくれた人の後を付いて行くのに夢中だったんで、覚えてないんだ。上へ行ったり下へ行ったり、かなり色々と歩き回ったから、方向の感覚が無くなっちゃって」

なるほど。助けられた後に、二人が誰にも会わずにホールまで逃げられたってのは、その人が危ない場所を迂回して移動したからだろう。幾ら屋敷が大きいとは言え、普通に移動しただけで階数を忘れることもあるまい。

「それじゃあ、このまま順番に回るか」

「うん」

屋敷の構造が階下と同じだった為に、3階はそれほど時間をかけずに進む事が出来た。そして、しばらく進むと、先程上がってきた階段と東西で丁度正反対の位置に、まったく同じ作りの階段を見つけた。見つけた階段の先にも廊下は伸びていたが、先程同様、どうせこちらも下の階と同じく開かない扉が並んでいるに違いない。

「どうやら対照的な構造をしてるみたいだね」

「なら、一度T字路のところまで戻って、先にそっちを調べよう」

ここまで全く人に会わずに来れてしまったのが逆に怖いが、すでに来るところまで来てしまったのだ。ここは腹をくくって奥を目指すしかあるまい。

俺と吉川は小走りに元来た道を戻った。

「ここだね」

「ああ」

右手に握った銃のグリップは、手から出た汗でグッショリと濡れていた。屋敷の中は場所が廊下にもかかわらず空調が効いていて、快適な室温を保っている。それにも関わらず、この具合だ。俺も相当テンパっているらしい。

「……暗いな」

「うん」

一度通り過ぎたT字路まで戻り、その先を進む。それまでとは違い、続く廊下にはドアは1つも見つけられなかった。また、廊下自体の長さも、東西に伸びたものと比較すると短い。数メートル進むと、すぐに行き止まりに突き当たった。

「なんだろな。さっきまで廊下に並んでたのとはまた違うみたいだけど」

そして、行き止まりとなった廊下の先には、少し広がった空間と、横に並んだ同じ作りのドアが2つあった。そのデザインは、今まで見てきた物とは多少異なっている。

「どうする?」

「開けるか?」

鍵穴は見当たらない。多分引っ張れば開いてくれるだろう。

「うん、行ってみよう」

今までに無い展開に、心臓の高鳴りを感じながら、ドアノブを握った。

「開けるぞ……」

ゆっくりと、扉を開く。段々と視界に部屋の様子が入ってくる。ゴクリと喉を鳴った。心拍数を高めながら、顔だけを覗かせて中の様子を盗み見た。すると、その先にあったのは大理石の敷き詰められた床、金に光る美しい蛇口、それを飾る造花、そして三つ並んだ白磁の便器……。

「………便所かよ」

扉の先にあったのはトイレであった。想定外の展開に、思わず、誰に突っ込む訳でもなく声を出していた。

「トイレ?」

「ああ、そうみたいだ」

中に誰もいないのを確認してドアを開け放ち、足を踏み入れた。後ろからは吉川も続く。

「なるほど、確かにトイレだ」

入ってすぐの右側に手を洗う場所があり、その先には開け放たれた扉が3つ並ぶ。各々の扉の奥には白く輝く大便器が鎮座していた。男性用の小便器が無いことから、ここは女性用だと判断できる。となれば、もう一つ隣にあったドアは、男性用の便所という事だろう。

「流石に、便所に捕まってたりはしないよな」

「だね……」

無駄に緊張して疲れた。憎らしげに視線を便器へ向ける。綺麗に掃除された便座は、つやつやと光沢を放っていた。金持ちの家は便器までもが高級感に満ち溢れている。

「ついでに用でも足してくか?」

「あー、うん。そうだね、僕も最後にいってから結構な時間が経つし……」

今居るトイレは女性用であるが、他人の家に忍び込んでいる時点で、既に家人に見つかったら後戻り出来ない所まで来ている。気にする必要も無いだろう。それぞれ個室に入り、出すもの出す事にした。些か緊張感に欠ける行為だが、いざという時に尿意が攻めて来たら、それこそ堪ったものでない。出せるときに出しておくべきだろう。

俺が用を足して個室を出ると、吉川は手洗い水に濡れた手をハンカチで拭いているところだった。

「早いな」

「そう?」

これでもかというほど豪華に作られた蛇口をひねり水を出す。ハンドソープの入っている容器までガラスで作られていた。無性に叩き割りたくなる。

「じゃあ、行くか」

濡れた手をワイシャツに擦りつけながら、待っていてくれた吉川に声をかける。

「うん、準備はいいよ」

探索の続きである。

「よし」

ポケットに突っ込んであった銃を握り直し、空いている左手でドアを押し開けて外に出た。

すると、すぐ隣から唐突に声が聞こえてきた。

「ったくまた下痢ピーかよ」

「ゲリピー?」

慌ててそちらを見る。すると、そこには白いスーツで身を固めた長身の男が立っていた。どうやら俺達と同様に用を足していたらしく、水に濡れた手をハンカチで拭いている。

「ん、誰だ?」

これは非常に良くない展開だろう。

「ヤバッ、逃げるぞ吉川っ!」

「テ、テメェは吉川の坊主っ!」

男の手が胸へ伸びるのと同時に、俺達はかつて無いほどのスタートダッシュを切って走り出した。後ろを振り返ること無く、手にした銃を数発発砲する。

「ちぃ!」

男が舌打ちをする音が聞こえてきた。悲鳴が上がらなかったことからして、撃った弾は外れたらしい。状況的には当たるに越したことは無いのだが、いざ拳銃を人に向けて、それで相手に怪我をさせたときのことを考えると、当たらなくて良かったとも思えてしまうから困ったものだ。

無我夢中で数メートルの距離を一息に走る。先程曲がったT字路の直前まで来たところで、相手からも反撃の銃声が聞こえてきた。

「お前等待ちやがれっ!」

けたたましい足音と共に、ダァンダァンと連続して銃声が響く。

「どっちっ?」

「右だ!」

吉川の問いに答えて、屋敷の廊下を西へ向って進む。もちろん全力疾走である。背中から撃たれるのではないかと考えると、生きた心地がしない。

「止まれって言ってんのが聞こえねぇのかコラァっ!」

「うるせぇ!」

段々と近づいてくる罵声に後ろを振り返ると、T字路を曲がってきた男が、廊下の曲がり角を盾にして、俺達二人に銃口を向けていた。牽制の為に、照準もあいまいなまま手にした銃を発砲する。それに脅威を感じたか、男は慌てて曲がり角の奥へ引っ込んだ。

「お前等調子こいてんじゃねぇぞっ!」

だが、相手も諦めることは無く、廊下の曲がり角を盾にして、腕だけを出してこちらに応戦してくる。耳を突く銃声が屋敷の廊下に反響する。火薬の焼け焦げた匂いが、段々とあたりに漂い始めていた。

「このクソガキャ、人様の家に忍び込んでタダで済むと思うなよ」

「走れ吉川、階段を上がって上に行くぞっ」

数秒感覚で後ろを振り返りながら、発砲を繰り返す。とは言え、走りながらでは照準を定めることもままならない。闇雲にでも、発砲することで相手を牽制しつつ、斉藤の救出を優先して、先を行く吉川に続く。相手は飛び交う弾丸に、T字路の曲がり角から東西に伸びた廊下へ出ることが出来ないでいる。そのおかげで、相手も此方を満足に狙うことが出来ない。銃弾はどれも見当違いな方向へ飛んでいく。これなら弾が当たることも無いだろう。この調子で上の階へ急ごう。

「おい、俺だ。お前ら、屋敷のなかにネズミが入り込んだ。今3階にいる。急いで来い」

遠くから怒鳴る男の声が聞こえてくる。どうやら電話で仲間を呼んでいるようだ。

「雅之、早く!」

「わかってる」

マガジンの残弾を確認する暇も無く発砲を繰り返しつつ、なんとか西側の階段までたどり着いた。3階は一通り確認した、今までの調子で進むならば、次は4階だろう。しかし、相手に見つかってしまったこの状況では、ゆっくりと各階を調べている余裕も無い。調べることが出来ても、あと1フロアで一杯一杯だろう。

「このまま一気に5階まで行こう」

だがら、上に伸びる階段を2段飛ばしで駆け上りながら、吉川にそう言った。

「分かったよ。敵はラスボスってことで?」

「ああ、そういうことで」

最上段に斉藤がいるとは限らないが、こうなれば一か八かである。4階を素通りして5階へ向った。背後からは引っ切り無しに、迫る男の怒声が聞こえてくる。だが、幸いなことに階段を上る途中で、他に人と出会うことは無かった。

階段を昇りきり、最上階のフロアにたどり着く。すると、そこは2階、3階とは作りが異なり、階段を抜けてすぐ左手側に、南北へ伸びる廊下があった。東西に伸びる廊下は存在せず、階下において廊下があった場所には、代わりに壁があった。

「ああもう、なんだか分からないけど、こっちでいいだろ」

「了解」

南か北か、どちらへ進むべきかを論理立てて考えている余裕も無い。直感で北へと進むことに決定する。フロアの構造は異なっているが、建築物としての廊下の作りは、下の階と同じである。下に敷かれたやたらと毛長の長い絨毯が走り難かった。

「俺は西から追う。お前等は東から来て挟み撃ちにしろっ」

後ろの方からとんでもない事が聞こえてきた。もしも男の口にした事が実現すれば、俺も吉川も敵に囲い込まれて蜂の巣になってしまう。2階、3階と探検してみたところ、この屋敷にある階段は西にあるものと東にあるもののふたつだ。その両側から攻められては、後は窓から飛び降りる他に逃げる手は無い。

「どうする雅之っ!?」

「そりゃ、どこか適当な部屋に入ってやり過ごすしかないだろ、きっと」

進む廊下の先は途中で90度右に曲がっていた。本来なら慎重に角の先を確かめてから進むべきだろう。だが、今はそれだけの事をしている余裕もない。走りながら後ろを振り返ると、階段を上がってきた男が、南北の分岐路で俺達を発見したところだった。

「やっぱり5階に行きやがったか、止まれ糞餓鬼共っ!」

「誰が止まるか馬鹿っ!」

壁に激突しそうになりながら、吉川共々、なんとか勢いを殺して直角のカーブを曲がる。時を同じくして背後から銃声が聞こえてきた。廊下の曲がり角に置いてあった調度品の壷がけたたましい音を立てて割れる。

「あぶなっ!?」

「ギ、ギリギリだったね」

二人とも休む暇なく足を動かす。すると進行方向の左側に扉が見えた。廊下の角を挟んで俺達は男の死角にある。今なら相手は此方の様子を確認することが出来ないだろう。ともすれば、逃げ込むとしたらここしかない。これ以上粘っても、またチャンスがあるとも限らないし、時間をかければ東側の階段から上がってきた男の仲間に見つかってしまう可能性が高い。

「そこに入ろうぜ」

「うんっ」

どうか鍵がかかっていませんようにと、心の中で神様仏様に手を合わせて一願し、ドアノブをひねった。主は願いを聞き届けてくれたようで、ドアノブは容易に自身を回転させた。

「よっしゃ、開いてるっ!」

確かな手応えに感謝しながら、大急ぎでドアを押し開け、室内へ転がり込んだ。勢いよくドアを閉めて、中から鍵をかける。

「とりあえずこれで………」

少しは持ってくれるだろう、そう口にしようとした。

しかし、その言葉は吉川の叫び声に遮られた。

「斉藤っ!!」

斉藤?

「斉藤が居るのかっ!?」

慌てて吉川の視線が向う先へ目を向ける。すると、そこには確かに斉藤が居た。身体をロープで縛られて、床の上に座らされている。これは運が良い、まさかこのタイミングで発見できるとは思いもしなかった。

だが残念な事に、部屋にはそれ以外にも人影が1つあった。

「吉川っ、それに雅之かっ!?」

吉川の声に反応して、部屋の入り口に背を向け座っていた斉藤がこちらを振り向いた。

「なんだ、またネズミが潜り込んで来たのか」

斉藤が座るその先。ソファーに腰掛け、パイプをふかすスーツ姿の中年男性が低く渋い声を上げた。

「やれやれ、一体護衛は何をやっているんだか」

俺達が入り込んだ部屋は、20畳程の広さを持つ古めかしい作りの応接室だった。

サッと周囲を見渡す。

部屋の最奥にはレンガ造りの暖炉が設置されていた。入ってすぐの左手側には、酒のボトルやグラスの並ぶ棚がある。男の座るソファーも無駄に大きく、成人男性が横に5人は並んで座れるだけの余裕がりそうだ。随所に置かれた家具や調度品の数々は、見ていて溜息が出そうになる程に立派だった。

「さしずめ、敵の親分ってところか?」

「なんだね君達は、勝手に人の屋敷に入ってきて」

「斉藤、今縄を解くからっ」

吉川が斉藤の元へ、銃を掲げならが駆け足に向かう。斉藤は男の前にあって、胡坐をかいて座り込んでいる。

「今日は呼んでもいない客ばかり来るな。はてさて、どうしたものかね」

こちらの手の内にある拳銃が見えているだろうに、男はまったく慌てた様子を見せない。それどころか、深々とソファーに腰かけてパイプをふかしている。その余裕は一体何処から来ているのだろうか。

「どうしたも、こうしたも、そっちが斉藤を拉致りやがったのが原因だろうが。偉そうに喋ってんじゃねぇよ。本当だったらこんな所は呼ばれたって来たく無いね」

斉藤を縛り上げている荒縄を、吉川は自宅から調達してきた大型のサバイバルナイフで解いた。

「サンキュ、吉川」

「なるほど、君達がこの子が言う紅石の封印を解いた仲間達といったところか。わざわざ自分から出向いて来てくれるとは探す手間が省けたぞ」

封印を解いた?

それは今朝、俺がガキから聞いた話にあった単語のひとつである。それがどうして、この男の口から出てくるのか。吸血鬼に始まって、魔法だの魔力だのと奇想天外な言葉の連発だったが、それを男も知っているというのだろうか? というか、こいつは斉藤と二人で何をやっていたんだろう。

「お前、斉藤に何したんだよ」

縄を解かれ自由になった斉藤は、吉川と共に男から距離を取り、俺の隣まで下がって来た。相手からは4,5メートルほどの距離がある。背後には先程入ってきたドアがある。

「別に何もしていない、少々話をしただけさ」

口から吐き出された葉巻の煙が霧散して、こちらまで葉の香りを届ける。

「話って何だよ」

「ああ、私が何年も時間をかけてようやく手に入れた紅石に、一体何があったのか。それを、その斉藤君とやらに聞いていたのだよ」

紅石というのは、吉川の拾ってきた宝石のことに違いない。

「とは言っても、大した事は分からなかったがな。だが、封印が解けてしまったのは確かなのだろうな。まったく、折角手に入れたと思ったら、とんだ邪魔が入ったものだ」

男は芝居がかった様子で嘆いてみせる。

「しかし、一度逃げ出した吉川の坊ちゃんが戻ってくるとは意外だったな、しかも、また別の友人まで巻き込んでな。友達思いの良い子だと褒めておくべきかな? ここは」

「うるさい、本当に斉藤には何もしてないんだろうな」

吉川は憤怒を露にして、男へ銃口を向ける。

「ふはは、また危ないものを手にしておられるじゃないですか、一応は次期頭としての意識もあるのかね。まあ、今となっては組の相続自体危ういとは思うが」

「な、なんだとっ!?」

「親父さんは元気かね?」

そう言って、男は嫌らしい笑みを浮かべた。

それは吉川にとって、絶対に許せないものだったのだろう。

「お、お前ぇぇっ!!」

震える吉川の人差し指に力が入り、引き金が少しずつ下がっていく。

「落ち着けって吉川」

それを慌てて止めた。

ここで銃を撃つのは非常に良くない。銃声を聞きつけた先程の男やその仲間達がやってきてしまうかもしれないからだ。それに、このオッサンが敵の頭ならば使い道は幾らでもある。

「よくも……」

制止に応じて、銃口は下げられた。

「こっちも一つ聞きたいことがある」

今にも飛び出していきそうな吉川を腕で制止しつつ、パイプを咥えた男に話を切り出した。

「ほぉ? 私も君達にいくつか聞きたいことがあったのだが、いいだろう、先に話すがいい。運がよければ答えてあげよう」

「アンタ、紅石って言ったよな?」

「ああ、これの事だ。君たちが川原で拾ったらしいな。そのまま届けてくれれば、感謝の気持ちに茶の一杯でも出して歓迎したものを」

男はパイプを口に咥え、テーブルの上においてあった赤い宝石を持ち上げた。そして、両の手で大切そうに撫でてみせる。余程近くからでなければ見えないだろうが、どこかに俺達が削った跡も残っていることだろう。

「それは、あんた達の物なのか?」

「無論だ。これは私が大枚を叩いてヨーロッパから取り寄せた正真正銘のルビー。表に出回っているどれよりも大きく美しい。苦労したよ、手に入れる為に財産の大半を売り払ってしまったからね。今では、残っているのはこの屋敷と下にある土地ぐらいなものだ」

語りながら笑う男は、それでも満足そうな表情を浮かべていた。

「じゃあ、なんでそんな大切なものを川原に落としたりしたんだ?」

吉川の言葉なら、この宝石はその場所に落ちていたはずだ。

「そんなつまらない事を聞くな。物が物だ、オークションで競り落とした後に、搬送途中で何者かに襲われたんだ。おかげで私の元に着たときには、こんな姿になってしまっていたんだがな」

男は宝石のある一部を何度も指でなでる。多分、そこが俺達がノミで削り取った部分だろう。

「まったく、価値の分からない人間のやることは怖いものだ。もしも、これが美術品としての一品だったのなら、君達が仕出かしたことは、何をもってしても償いきれないものだよ」

「美術品として?」

それはどういう意味だろう?

「まあいい。聞きたいことというのはそれだけか? ならば次はこちらの番だが」

「いや、後一つある」

「なんだね?」

「アンタがさっき口にした、封印っていうのは、一体何なんだ?」

自分の中にある答えが本当に正しいものなのか。返ってくる言葉次第では、悠長に銃を構えているような状況じゃない。向ける銃のグリップを強く握り締めて相手の反応を待つ。

「さて………」

男は顎を手で擦りながら、何か悩んでいる様子で、俺をジロジロと眺めている。

「どうなんだ?」

「まあ、君達には語ったところで何の意味も無いことだがな」

男は手にした宝石をもとあったテーブルの上に戻す。

「落としてしまった我々にも非はあるが、紅石がこうなってしまった理由の一部は君達だ。鬱憤晴らしに自慢話でもするとしよう。付き合いたまえ」

「自慢話?」

先の見えない態度だ。

「まず始めに断っておくが、私はこの石に芸術的な価値を求めているわけじゃないんだよ。無論、希少性でもない」

「…………」

俺に吉川、斉藤は男の言葉に耳を傾けることにした。

「この石はな、魔法の石なんだよ」

「魔法の石?」

斉藤が上げた声に、男は静かに頷いた。

「ああ、魔法の石だ。そして、この魔法の石の中には、その昔高名な魔法使いが封印した、それはそれは凶悪な化け物が眠っていたのだ」

眠っていた、か。

それが過去形で表現されている理由は俺がこの場では一番良く理解できるだろう。

「…………」

斉藤と吉川は訝しげな視線をオッサンへ向けている。何を馬鹿な事を口走っているのだろう、そう思うのが普通な反応だろう。俺にしても、ガキに出会って説明を受けていなければ、こんな与太話に付き合ってなどいない。

「今となっては、その化け物の姿は誰にも分からない。石に施された魔法使いの封印は、300年以上に渡ってさまざまな人々に守られ続け、現代に至るまで残されてきた。この石はその中に化け物を秘め続けてきたんだ」

そして、その化け物とやらが、今は俺の家に居候中である。見た目は普通の子供だったが、その身体能力は化け物といっても差し支えないだろう。封印された、というのも周囲の被る迷惑を考えれば頷ける。

「化け物はそれこそ数え切れない悪行を行ってきた。だからこそ封じられたのだが、その分、内に秘めたる力は恐ろしく、封印の儀を執り行った魔法使いとやらも、一仕事を終えたら直ぐに、ポックリ逝ってしまったそうだよ」

やはりアイツは悪役担当で決定のようだ。あの性格の悪さである。周りの奴等が封印してしまいたいと思うのも当然だろう。本人の説明だけでは胡散臭い感じがあったが、こうして第三者の言葉が加わると、信憑性もグッと増して感じた。

「とまあそれがこの宝石、紅石に一番初めについてくる有名な昔話なのだが……」

オッサンは手に持ったパイプをもてあそびながら続ける。

「では、その化け物というのは一体何者だったのだろうか? 疑問に思った私は、魔法使いが封じたという、その石の中に眠る化け物について調べてみる事にしたのだ。現役を退いたこともあって、正直なところ暇だったんだな」

「その歳でオカルト趣味かよ」

「悪いか?」

「……いや、別に」

きっと、このオッサンも俺達が信じないことを前提に話をしている。相手は何の目的も無く、先程の言葉通り、鬱憤を晴らす為の自慢話をしているのだろう。俺のツッコミにも気にした風も無く話を続ける。

「そして、何百という古来の書物を読み漁り、幾年もの歳月をかけて、私はその正体を調べ上げたのだよ」

オッサンは感慨深そうに語る。

「とはいえ、そこまでの流れは、石の存在を知った好奇心から来たもので、特に何かしたいというわけでもなかったのだよ。事業に余裕が出てきたのも一因だろうな」

ここまでは俺も既に知ってる事か、このおっさんの私情である。知りたいのはその先だ。

「……それで?」

「当初は下らない思い付きから始まって、そのまま惰性に任せて進めていた作業だったが、そうこうするうちに、色々な発見があってな。段々とのめり込んでしまったんだよ。そして、長い歳月をかけて、私は一つの答えを出すまでに至った」

男は淡々と続けた。

「私が出した答えから導き出された化け物の正体、それは現在では現存する数が圧倒的に減った、それこそ絶滅寸前とまで言われているヴァンパイア種だったのだよ」

オッサンは本当に真面目な顔で語る。それを受けて、普段ならばこのような胡散臭い話をされれば、幾度と無く突っ込みを入れているだろう斉藤が、しかし、口を噤んで語る言葉に耳を傾けている。

「とはいえ、石に興味があったのは事実だが、当初は欲しいとまでは思わなかった。競売に出されている物の値段が値段だったからな。調べているだけで満足だった。ただの暇つぶしに過ぎなかったしな」

「じゃあ何で今そこにあるんだよ」

「調べを進めていくうちに段々と気が変わっていったんだよ」

足を組みなおし、手元にあるグラスに注がれた液体を一気に煽る。

「ヴァンパイアは血を吸った人間を下僕の吸血鬼と化して使役する」

話の流れが変わった。

「それは我々人間にもか良く知られている御伽話の一説だ。だが、ヴァンパイアの間にはそれ以外にもヴァンパイア同士を結ぶまた別の関係があったのだよ」

それはきっと、あのガキの言うファミリーとやらだろう。その関係に自分が巻き込まれたのだという、実際的な感覚は無いが、知識としては頭の中にある。

「それは人間で言う家族と呼ばれる関係で、血を吸ったヴァンパイアが、血を吸われたヴァンパイアに自分の血を吸わせて形成させる関係らしい」

「ヴァンパイアの家族?」

何も知らない吉川は、構えた銃をそのままに、疑問符の入った言葉を口にする。俺も話を聞いた当初は同じようなリアクションを取ったはずだ。

「そうだ。始めはそれがどうしたといった風に見ていたのだがな。ヴァンパイアは半不老不死の存在だ。当初は稀有な存在というだけで、それ以外には私達の中で厄介者でしかなかった彼らだったが、その家族という関係を知って、私は一つの欲求を思うようになった」

男の語りが段々と熱くなってきているような気がする。

「………なんだよ?」

なんとなく、その次に続く内容を予感しながら口にした。

「普通ならば、ヴァンパイアに血を吸われれば、人間は自我を失い永遠に尽きる事のない命で主に尽くすだけの下僕に成り果てる。しかし家族は違う。それは自分としての自我を持った、完全な一つのヴァンパイアとして存在できるのだ。現代では失われてしまったヴァンパイア化の秘法以外の、唯一の人間が完全なヴァンパイアになる方法だ」

「それでそいつを探したのか」

傍らにある赤い宝石、今となってはルビーであると太鼓判の押された宝石は、前に見たときよりも鮮やかに輝いて見えた。ヴァンパイアやら魔法やら、色々と信じきれないが、こうして大の大人までもが財産を投げ出して求めるだけの物が、確かにこの世には存在しているらしい。

「そうだ、自我を持ったヴァンパイアになりたい、そう思うようになったんだよ。当時は手元になかった紅石だが、その所在ははっきりしていていてな。それがさらに私の欲求を駆り立てた。時間だけに限れば、それこそ永遠に生き続けられる存在へと変われるのだ。万人が望んでもなしえなかった一歩を踏む事が出来る。その願いが実際につかめる位置まで来ていたんだ」

いささか興奮気味に語る男を俺は少し冷めたい位置から眺めた。こいつが語っていることは、ちょうど今の俺の立ち位置である。あのガキの態度を考えると、どうにも違っている気がするが、それでも現象だけ見れば間違いない。置いてきぼりを食らっている二人をそのままにして、続く自慢話に付き合うことにした。

「で、結局あんたはそのヴァンパイアとやらになれたのか?」

俺はあえて分かりきった質問を投げかけた。ここで俺が既にそのヴァンパイアとやらに会ってしまっていると、更には偶然とはいえ、家族という関係になってしまっていると知ったら、相手は何をしてくるか分かったものでない。

「ふん、そうならば君達もここにはいまい。そこで私が君達に質問をするのだ」

「なんだよ?」

こちらの予想通りの展開で話は進む。

「君も、隣の二人と一緒に石を壊してくれた仲間だろう?」

「だったらどうなんだ?」

「斉藤君は突然の発光現象と突風を確認したようだが、それ以外は何も覚えていないと言っている。後は君と吉川の坊ちゃんが持っている情報が私の全てだ」

「ごちゃごちゃ言ってないで、言いたい事があるなら素直に言えよ」

男はソファーから立ち上がると、先ほどとは打って変わって鋭い眼光を向けて問うてきた。

「君はこの石を削ったときに、何かおかしな現象を見なかったか?」

座っていた時は、特別大きいとは感じなかった男だが、立ち上がった姿は思いのほか長身であった。先程追いかけられた白スーツの男もそうだが、自分より背の高い奴に会うと、何か腹の立つものを感じてしまう。俺自身も180近くあるので、高校生としては大きいと言えば大きい方なのだが、斉藤は180を越えているし、ここでは小柄な部類に入っていしまいそうだ。

「さぁ? 俺も斉藤の言う突風で椅子が飛んできて、後は気を失ってたから、何も分からないな」

わざわざ本当のことを教えて話をややこしくする必要も無い。当たり障りのない嘘で返した。相手にはソレを嘘だと見破る術は無いのだ。

「そうか、そいつは残念だ」

斉藤がこちらを見て何か言いたそうな顔をしていたが、表情に出しただけで、口にする事は無かった。コイツは嘘が下手で、直ぐにボロを出す。少し慌てたが、特に何か言うでもなく終わって胸を撫で下ろす。

「では、そちらの坊ちゃんはどうだい。何か覚えている事はないか?」

全員の視線が斉藤の隣に立った吉川へ移る。

「僕も雅之と同じだ。光ったのと風が吹いたのしか知らない」

相手は身内の敵である。キッと睨み返して答えた。普段おとなしい吉川からは想像出来ない怒り具合だった。

「三人もいながら誰も様子を見ていなかったのか……。開封した場所は確か飛龍高校といったな。封印を解いた場所は学校のどの辺りだ?」

まさか案内しろとでも言うんじゃないだろうな?

「聞いてどうするつもりだ?」

「足を運んでみるのだ。もしそこで開封されたのならば、それなりの反応を見つけることが出来るかも知れないからな。幸い私には良く出来た娘がいる。あの子ならば何か見つけてくれるかもしれん」

娘ね……。

こんな狂った親を持つ、顔も知らない女に安い同情を感じた。

オッサンを睨む吉川の隣で、俺はこれから先のことを模索する。とりあえず斉藤は回収できた。あとはこの屋敷からどうやって逃げるかである。今はこうして相手側のボスらしい奴と話しなんぞしているが、外をうろついている奴らが何時この部屋へ入ってくるとも限らない。

「それで、そっちの聞きたい事ってのは終わりか?」

「ああ、君たちが知らないというのなら、話はそれで終わりだ」

一番ベターだと思われるのは、この相手方のボスらしき男を人質に取って、洋館の外まで移動するという案だろう。とはいえ、その場合でも相手が追ってくれば、そのままカーチェイスになってしまう訳だが。

「………」

お互いに聞くことを聞いてしまうと、会話も無くなる。誰が喋ることも無く、居心地の悪い無音の時間が流れる。それが内にある焦りを増させる。部屋にある大きな柱時計の秒針が震える音が嫌に耳についた。

「さて、変なことを話してしまったが、君たちも聞きたい事はそれで全部か?」

「ああ、そろそろ帰ろうかと思ってた頃合だよ」

吉川はまだ何かが絶対的に足りないといった表情をしているが、俺も友達を人殺しにはしたくない。前に進もうと動く体を真横に差し出した腕で止めた。それに、ここで下手に騒ぎを起こしては、逆にこちらが危険な状況に追い込まれる事になる。

「そうか、そいつは残念だ。となるとここでお別れのようだな」

「ああ……」

吉川に目配せをして、相手を拿捕するべく足を一歩前に進める。縄は斉藤の手の内にある。相手は大柄な体躯を持つ強面な男だが、3対1ならばどうとでもなる。そう考えて、策を進めようとした。

しかし、耳に飛び込んできた此方の予想を裏切る相手の言葉に、事態は自分が思っていたよりも良くない方向へ進んでいた事を知った。

「では、そろそろ入ってきたまえ菊池君」

男の声に応じて応接室のドアがゆっくりと開かれた。そこに居たのは、先ほどまで俺と吉川を追いかけ回してくれていた白スーツの男だった。大柄なオッサンに勝るとも劣らない大きな体と、オールバックに撫で付けたセミロングの髪に、サングラスをかけた堀の深い顔。いかにもといった感じの風体である。

「あ、お前は俺等を拉致りやがった野郎っ!」

「クソっ!」

慌ててそちらへ銃口を向ける。だが、俺が銃を構えるよりも早く、相手は手の内にある銃を一発の銃声と共に打ち落とした。扉のすぐ前に固まっていたことが災いした。相手との距離は数メートルと無い。

「っ!?」

強烈な静電気のような痛みに慌てて手を引く。

「先ほどはよくもまあ、やってくれましたなぁ、おい」

こうなってしまっては、逃げる事も応戦する事も出来ない。銃口は眉間を捕らえている。手に持った銃を撃ち落せたのだ。額を打ち抜くことも造作ないだろう。

「だ、騙したなっ!?」

吉川がオッサンに銃を向けたまま叫んだ。

「何を言っているんだい、私が君たちをすんなり帰すと思ったのか? まさかっ。これだけの事をしてくれたんだ、それなりの対応をさせてもらうに決まっているではないか」

「大人を舐めるなよ?」

人差し指が引き金にかけられる。

まさか、これで終ってしまうのか?

いや、そうでもないだろう。

「観念しな。脳天に一発くれてやるよ」

考えてみれば敵の頭であるオッサンは、こちらの手の内にある。それを上手く使って立ち回れば、この状況も改善可能なのではないだろうか。

「吉川頼むっ」

「うん」

構えた銃をそのままに、吉川はオッサンに駆け寄った。

「こ、こらテメェ等っ!」

それを見た菊池が声を荒げて叫んだ。

「斉藤もロープ持ってるだろ? それでオッサンを縛り上げろ」

「おう、まかせとけ!」

「テ、テメェ等っ! これが見えないのかっ!!」

「アンタが幾ら俺を脅そうとも、こっちは大将を抑えてるんだ。仮に廊下の外で待ってる黒い奴等で俺達を囲んだとしても、そっちは手出しできないだろ」

「なんだと?」

菊池の表情が怒りに染まる。

「まあ良い菊池君。少し待てば沙希がくる、そうなれば後はどうとでもなる」

しかし、凄まじい形相で怒鳴りつけてくる菊池とは対照的に、最も危うい立場に居るはずのオッサンは冷静そのものだった。

「いえ、ですが幾ら沙希さんでも…」

「君もまだまだ青いようだね。アレは特別性だ、一体幾ら金をつぎ込んだと思っている? この程度どうにかしてくれねば見合わないというものだよ」

「ですか……」

「私が大丈夫といっているんだ、君はただ指示に従っていればいい」

「・・・・・・はい」

俺を挟んでオッサンと菊池が不穏な会話を交わしていた。どうやら沙希という奴がここへ向かっているらしい。名前からして女だろう。だが、この状況では人が一人増えたところで、状況が変化するとも思えない。そりゃゴルゴみたいなのが来られた日には致命的だろうが、あれはフィクションだ。

「このオッサンが大切だったら銃を降ろせよ」

内心は相当にビクついているのだが、それを必死で抑えて、強気に言いつけた。背後では吉川と斉藤がオッサンを縛り付けている様子が音で伝わってくる。

「お前、ふざけるのもいい加減にしろな?」

眉間に皺を寄せて言葉を返してくるその様子に、思わず小便を漏らしそうになる。余程頭に来ているのだろう。額には血管が浮かんで見えた。しかし、今はとにかくこちらの道理を押し通すのみである。

「オッサンが死んでもいいのか? お前が撃てば、吉川だって撃つ。その後に残るのは俺が死んだっていう事実じゃなくて、オッサンを守れなかったっていうあんたの不名誉だけだろ」

「……何を言いたい?」

「吉川もたまに口にするけど、アンタ等の世界っていうのは信用が大切なんだろ? だったら自分の大将を目の前で、それも俺達のようなただの高校生に取られたとあっちゃあ、面目は丸潰れなんじゃないか?」

「こ、この野郎……、そんなに早死にしたいのか」

出来る限り相手を刺激するような言葉を口にする。逆効果とも思えるかもしれないが、今はこちらのペースへ引き込む事が先決だろう。最悪腕や足に一発くらい食らったとしても逃げ切れればそれで結果オーライだ。それに、ガキの言葉を信じるのなら、俺は多少怪我をしたところですぐに治る。痛いのは嫌だが、吉川や斉藤が怪我をしなければ問題は無い。

「それはアンタ次第だろ?」

「っ!」

菊池の顔は端から見ても分かるほど怒りに極まり、銃を持った手がフルフルと震え始めていた。

「どうだ?」

菊池の居るドアのある方向を向いたまま、声だけをかけて確認する。

「こっちはOKだよ」

「おもいっきりふんじばってやったぜ」

後ろから二人の声が返ってきた。状況が状況なので振り返って確認することは出来ないが準備はいいだろう、後はこのまま外へと出るだけだ。

「そういう訳だ、アンタも邪魔だからそこをどいてくれ」

「だ、誰が退くかっ!」

その言葉にキレたのか、不意に菊池が間を詰めてきた。額に黒いものが押し付けられる。ヒンヤリとした感触が恐ろしかった。しかし、悲鳴を上げる訳にはいかない。出来る限りにの強気で相手を睨み返した。

「退けって言ってんのが聞こえないのか?」

今はハッタリをかまして場を凌ぐしかなかった。すると、そんな此方の心情に気づいているのかいないのか、オッサンは場違いな程に落ち着いた声で菊池を諭した。

「かまわんよ、通してやれ」

「で、ですが、………本当によろしいので?」

「ああ」

その気味が悪い素直さの裏には、先程名を上げられた沙希という女の存在があるのだろう。銃をおろした菊池を廊下に下がらせたものの、一抹の不安は拭いきれない。廊下の外には菊池の部下だと思われる黒いスーツを着込んだ男達が銃を構えて待機している。

「よし、じゃあ歩いて外へ出ろ」

俺の言葉に応じて、斉藤がオッサンの背中を小突いて足を進ませる。部屋の入り口に群がっていた黒服の男達を退け、出来た空間を抜けて廊下へと進む。菊池の頭に銃を向けて先頭を進む俺に続いて、オッサン、吉川、そして斉藤が続いた。

「なぁ雅之、車は何処に止めてあるんだよ」

「屋敷の前の道路に止めてある。それに壊されてたとしても、ここなら足には困らないだろ。車なんて幾らでもあるし」

吉川の運転してきた黒塗りの高級車を思い出しながら答える。とりあえず今は急ぐべきだろう。男の言う沙希という奴がどれだけ凄かろうと、車の足に敵う筈が無い。この屋敷を出てしまえば俺達の勝ちだ。それに、ガキの言葉を信じるならば、俺だって昨日付けで化け物の仲間入りを果たしている。ちょっとやそっとの奴に喧嘩で負けることも無いだろう。

「行こう」

「うん」

全員が部屋から出たことを確認して、元来た道を戻り始めた。応接室を出てすぐのところには、先ほど曲がった廊下の角がある。菊池によって壊された花瓶もそのままで、廊下を散らかしている。

「その沙希っていう人が来る前に急がないと」

「ああ、分かってる」

俺は吉川の声に急かされ、歩みを速めてその角を曲った。あとは来た道を戻るだけなのだから、自然と希望も沸いて来る。相手に見つかったときはどうしようかと焦ったが、何とかなりそうだった。

しかし、物語に起承転結が要求されるように、この冒険活劇にも、最後のオチが待っていた。それは廊下の角を曲がってすぐのことであり、予期しない人物の再登場であった。かち合わせた相手を目にして、全身の血が引くのを感じていた。

「あら……」

先に声をかけてきたのは相手の方だった。

「貴方は、今日学校でお会いした方ではないですか?」

「な、なんでお前がここにいるんだよっ!」

それは、今日の昼休みに学校の裏庭で、俺とガキを後一歩というところまで追い込んでくれた一年の女子生徒だった。

「なんでと聞かれましても、一応ここが私の家ですから、居るのは当たり前です。どちらかといえば、貴方がこの場に居る事の方が私にとっては不可解です」

女は俺の後ろで吉川の銃口に晒されているオッサンに視線を向けて言葉を続ける。

「それにお父様も何故そのような格好を?」

その身体は、先程まで斉藤を縛り付けていた縄で逆にグルグル巻きにされている。

「お、お父様!?」

するとオッサンは、今の状況にまったく動じることなく、自分の事をお父様と呼ぶ一年の女子生徒に言葉を返した。

「遅かったな。おかげでやんちゃな子供に捕まってしまったよ」

「申し訳ありません。ですが、一体この方々が何を?」

俺と斉藤、それに吉川へ目線を向ける。相手が嫌に落ち着いているた理由はコレだったのか。まさか、この女が出てくるとは思いもしなかった。そして吉川の説明にあった、腕を引きちぎる女、というのも、今なら納得のいく話だった。

「お、おお、お前は……」

「おい吉川、こいつがもしかして……」

背後からは吉川と斉藤の震えるような声が聞こえてくる。それで全ては理解できた。

「雅之、この女は……」

「わ、分かってる。吉川、斉藤、走るぞっ」

そう叫んで、オッサンの腕を掴み階段に向って勢い良く駆け出した。沙希と呼ばれた一年の女子生徒を横に過ぎて、その先へ全力疾走である。こうなってしまっては作戦もなにもあったものでない。まともにやり合ったならば、まずこちらに勝ち目は無いだろう。この女なら普通に銃弾さえ避けかねない。今日の昼の出来事が、大きなトラウマとなっていた。

「沙希、コイツらを止めろ」

吸血鬼の力によって肉体能力の上がった俺に引きずられながら、オッサンは淡々と自分の娘に命令を下した。

「わかりました、お父様」

すると、そう答えるが早いか、数秒置くか置かないかの間に、進行方向の前方には、それまで後方に居たはずの人物が移動していた。幾らこちらが人を一人引きずっているとは言え、返事を返してから、その間隔は数秒と無かった。相手が横を過ぎ去った際には、髪が風に揺れるのを感じた程だ。

「お父様、この者達も先ほどの方々と同じでよろしいのですか?」

「ああ、そうしてくれてかまわない。彼らが私の夢を遠ざけてくれた立役者だ、出来るだけ痛めつけてやれ」

「はい」

一年の顔は昼と同様の能面で、何の感情も浮かんでいない。

避ける間もなく、無常なまでの一撃が俺の腹へ叩き込まれた。

「ぐぇっ」

片手におっさんを掴んでいたとはいえ、もう一手を防御に回す余裕さえ無かった。そして与えられたのは、肉にめり込むのではないかという程の膝蹴りである。

「うぅ……」

「「雅之っ!」」

口の中に戻ってきた胃液を無様にも床へ吐き散らしていた。口の中に胃酸の嫌な味が広がる。

「お、お前……、いきなりかよ」

自然と背が丸くなり、膝に手を突いた。だが、それでもおっさんを掴む手は緩められない。その存在だけが、今の俺達の命綱であるからだ。もしも逃そうものなら、背後に待機した黒服達の一斉放火で蜂の巣になるだろう。

「吸血鬼化に伴う肉体の変異が続いているようですね」

沙希と呼ばれた一年の女子生徒は、此方の顔を一瞥し、そんな事を口にした。

「あのときに比べて時間が経ったせいでしょうか、吸血鬼化の進行が進み、身体が丈夫になって来ているようです。今のでダウンすると思ったのですが、なかなか頑張りますね」

「う、うるせぇよ。そんなことより、これが見えないのか?」

俺は顎でおっさんを示した。その後頭部には、吉川の持つ銃の銃口が押し付けられている。

だが、沙希はその様子を全く気にした風も無かった。余程自らの腕に自信があるのだろう。それどころか逆に、その脅しの材料にされた当の本人が、どういう訳か顔を驚愕の色に染めていた。

そして、何を思ったのか、腕を掴んでいる俺に対して、逆にしがみついてきた。

「き、君はヴァンパイアになったのか!?」

そして、聞こえてきた第一声はそれだった。

「そうなのか? 吸血鬼になったのか? どうしてだ? 一体誰に噛まれたんだ?」

肩をガクガクと揺さぶられる。沙希の余分な一言のせいで、事態は余計な面倒を巻き込むこととなった。

「うるさいな、そんなこと知るかよ」

こうなってしまっては無視を通すほか無いだろう。顔を殴り相手を黙らそうと試みた。だが、手加減が過ぎたのか、頬を赤くはれ上がらせてもなお、オッサンはすがる様に言葉を続けた。

「君はっ、君はどこでっ!」

肩と腕を掴まれた状態で、顔を近づけられる。非常に気持ちが悪い。

「今の沙希の言葉通りならば、君はヴァンパイアと会っていたのだろう? 出なければ自我のあるヴァンパイアが生まれる筈が無い。現存する吸血鬼は古参の者か、そのファミリーだ。でなければ、その者達によって自我を奪われ下僕となったヴァンパイアのみだっ!」

「だったら何だっていうんだよ……」

沙希は黙って自分の親父の様子を見つめている。

「君の、君の家族の名前なんなんだ!? 何処にいる!? 君はどうして自我を持っているんだっ!?」

「うるさいな、誰が教えるかよ」

吉川と斉藤は話についていけずに、置いてけぼりを食らったまま、こちらの様子を眺めている。そして、その後ろには廊下の角で銃を構え並ぶ黒服達と、その指揮を執るべく一歩前に出た位置でこちらを睨む菊池の姿があった。

「沙希、今言ったことは本当か? この男はヴァンパイアなのか?」

「はい」

「ふむ……、そうか、ならば、ならば問題は何も無い」

沙希の言葉を受けて、一人頷いてみせるオッサン。

「こうして現存するという事は、やはり私の見立ては正しかったのだっ! あの石はまさしく本物だったのだっ!」

一同の視線を集めたオッサンは、一人ブツブツと何かを呟いた後、悪いモノに取り憑かれたかのように叫び声を上げた。

「そう、そうだったな、その通りだ。多少予定は狂ったがまあいい。それに、まさかこのガキが主という訳ではあるまい。となれば……」

その表情が、段々と喜びの色に染まっていく。

「沙希、菊池、コイツを縛り上げろ。絶対に吐かせるんだ、殺すんじゃないぞ」

今までの冷静さとは打って変わって大声を張り上げ命令する。

「か、勝手するな、大人しくしろっ!」

慌てた俺は、すぐさま菊池から奪った銃をおっさんに押し付けて叫んだ。

それにより、今まさに殴りかからんとしていた沙希の動きが止まった。額の数センチ先まで迫った沙希の拳に冷や汗を垂らしながら言葉を続ける。

「お前の親父は俺を殺すなと言ってるけど、俺はお前の親父を殺れる。お前等が俺に殴りかかるのは勝手だけど、こっちが引き金を引くよりも早く、お前等はそれを止められるのか? それに、あまり手荒なことをすれば俺は死ぬぞ?」

極限状態の緊張に、芝居がかった口上を述べる。そして、銃の引金を絞り、すぐ隣に居たオッサンの左手を打ち抜いた。薬莢の転がる音が、間を置かずして上がった叫び声にかき消される。

「言っておくけど本気だからな。こっちは後先考えられるほど大人じゃないぞ」

左手を抱いて身体を丸め込んだオッサンの、その額に再び銃口を当てる。先程までの偉そうな様とは180度方向性の異なる様子に、笑いすら浮かぶ思いだった。

「き、貴様……」

「・・・・・・」

叫ぶ菊池と、それとは対照的に、澄まし顔で自分の父親を見下ろす沙希。拳は俺の目の前でぴたりと止まったまま動かない。

とにかく、この五月蝿い男を引きずって、屋敷の一階まで降りるのだ。そうすれば、なし崩し的に車へとなだれ込めるだろう。菊池は大人しく構えていた銃を降ろした。

「分かったならお前も退け」

同様の叱咤を沙希に対して再び飛ばす。

だが、此方の言う事は聞こえているであろうに、その体はピクリとも動かなかった。

「お父様?」

「か、構わん、行かせろ」

「いいのですか?」

「つ!……ぁ…構わないと、言ったんだ、そうしろっ」

自分でやったことながら、苦痛に歪んだ表情はとても痛々しく感じる。親父の言葉に反応して、沙希は体を廊下の隅に寄せた。

「なんだ、ずいぶんと素直じゃないか」

「はっ……、だから貴様等は子供なんだ……その幼稚な考えとかな」

「なんだよそりゃ」

「沙希、今すぐに、そこにいる吉川の坊ちゃんを確保しろ」

沙希の視線が俺の隣で現状に立ち往生している吉川の姿を捉える。そして、良くないことに、吉川の銃口はオッサンを捉えていない。

「えっ!?」

唐突に話を振られて慌てる吉川。だが、沙希は悠長に待つ時間を与えず、即命令を実行したのだった。駆け出す姿勢は低く、相手に立ち往生する間さえ与えずに迫る。

「い、痛っ、痛い痛い痛いっ!」

そして、慣れた手つきで腕を締め上げて、その動きを封じてしまった。手から落ちた銃が廊下に敷かれた毛の長い絨毯の上で、ドサッと音を立てる。

「お、おいっ! 止めろよ、コイツの頭を打ちぬくぞっ!?」

吉川の腕を締め上げる沙希へと叫ぶ。だが、回答は俺の隣から戻ってきた。

「やってみたまえ。だがそうしたところで君の友達はどちらにせよ死ぬ。もう、この坊ちゃんに用はないのだからな。君が死ぬのは困るが、君の友達が死ぬ分には何の問題も無い。つまり、君以外はもう十分に死んでいるのだ」

左手の傷に顔をしかめながらも、口元をニタリと歪ませる。

「そう、君が君の家族の名前と居場所を言うなら……、話は変わってくるかもしれんがな」

「このっ、……卑怯だぞっ!!」

自分達も随分と汚い手を使っている気がするが、それでも口からはそんな言葉が出てきた。

「素直に吐けば、二人を助けてやらないこともなくもない。目的が達せられるのならば、紅石に傷があろうとなかろうと関係ないのだからな。それに、封印を解くためには遅かれ早かれ割らなければならなかったんだ」

そう口にしたオッサンは、左手に走った痛みに顔を顰める。

「畜生……」

この男の娘がガキの天敵であることを考えれば、下手にその情報を教えてしまうと、それは直接ガキの危機に繋がる。だが、かといって、吉川や斉藤を見捨てることも出来ない。そして、今ここにある危険は、何ものにも代えられない。

「わかったよ、わかったから吉川を離せよ。その主って奴の居場所を教えてやるから」

「ああ、それでいいんだ。素直なのは良い事だ」

相手は額に黒光りするものを突きつけられたまま、満足げに頷いた。

「だが……」

しかし、ことはそれだけで終らなかった。

「先程までの様子といい、君は油断なら無いからな。体の自由を奪う意味でも、両足の骨を折らせてもらうとしよう」

「なっ!?」

そんなの聞いていない。

「お、おいオッサンっ! 雅之は分かったって言ってるじゃんかよっ! テメェもいい加減にしやがれよっ!」

それまでは理解に苦しむ話を前に口を閉じていた斉藤だったが、ここにきて自分にも理解できるやり取りを耳にして、声を張り上げた。

「わかったな、沙希」

わかったな、ではない。幾ら後で治癒されるとはいえ、痛いものは痛いのだ。そう簡単に折られては堪らない。

「はい、お父様」

だが、沙希はまるで機械のように返事を返して歩み寄ってくる。開放された吉川が止めにかかったが、吸血鬼である俺やガキを叩きのめす程の怪力女は、自分にしがみつく者を引きずりながらこちらへ向かって来る。

「や、止めろよなっ!」

本気で折るつもりなのか?

「痛いですが我慢してください」

「我慢なんてできるかっ! んなこと言うならやるなっ!」

相手が腕を伸ばしてきたので、慌てて後ろに飛び退いた。しかし、それでもなお、沙希はツカツカと歩み寄ってくる。

「糞が、止めろっていってんだろっ!!」

「残念ながら私はクソではありません。それでは一本目を頂きますね」

いくら相手が強いとはいえ、俺だって素直にやられるつもりは無い、自由になった吉川にオッサンを任せて、沙希へと殴りかかった。こうなれば破れかぶれである。沙希から上手く逃げおおせる事は不可能だろうし、まさか吉川と斉藤をおいて逃げる訳にもいかない。ともすれば他に選択肢は無かった。

昼間よりも些か鋭さを増した拳が相手の顔面を捉える。自分ではそう思った。しかし、沙希は体を若干横へ反らしただけで、それを難なく交わしてくれた。

「糞ッ!」

そして、一連の挙動で出来てしまった隙を立て直す時間は無かった。相手の一手を避ける事が出来ない。左足に恐ろしい速度のローキックが決まった。体の中からミシっという音が聞こえて来た。

「ッてぇぇっぇぇえええええええええええ」

床に倒れて、悶えられるだけ悶える事になった。今日という日は俺に数え切れないほどの苦痛を投げつけてきたが、今回という今回は本気で目から涙が出てきてしまった。周囲の様子も忘れて、ひたすらに声を上げた。

「雅之っ!!」

斉藤が沙希へ飛び掛るのが見えた。だがそれも一瞬である。痛みに閉じた目を次に開けた時には、廊下の壁に体を預け、力無く座る斉藤がいた。

「女性にいきなり飛び掛ってくるとは失礼ですよ」

静かな声が耳に届く。蹴られた箇所は直ぐに修復が始まったらしいが、それでも痛みが消えるには、まだ時間がかかりそうだ。蹴られた箇所を触れた途端、電流が流れたような鋭い痛みが走った。

「ってぇ……」

「悶えているところを悪いのですが、二本目を折らせていただきます」

「ふ、ふざけんじゃねぇ!」

痛みと怒りに体を震わせる。だが歯向かう事も叶わない。唯一出来る事といえば、腰を落としたまま、ずりずりと這うようにして後ずさることだけだった。

「逃げないでください、どうせ無駄なんですから」

「やかましい、普通逃げるわっ!」

無駄な事は自分でも良く分かっている。やっとこさ空けた間隔を数歩で詰めた沙希は、立ち上がることの出来ない俺の脚を踏みつけてきた。

「このまま折って差し上げます」

「い、いちいちうるせぇよっ! やるんだったら黙ってやれっ!!」

覚悟を決めて目をきつく閉じた。いくら吸血鬼とはいっても痛覚は人間のときのまま残っているのだ、それに、こうして宣言をされると更に辛い。それは小学校の頃に受けたインフルエンザの予防接種で、その順番を待っているときの感覚と近い。必ず訪れる痛み顔をゆがめていた記憶は、古くとも鮮明に残っている。

踏みつける足に力が加わる。

「では二本目です」

脛にかかる圧力が増した。

「畜生ぉっ!!」

迫り来る苦痛に、思わず自分の足から顔を背け叫んだ。

ミチリと骨が軋む感覚が来る。

そのときである。

どういう訳か、この場に居るはずの無い奴の声が飛び込んできたのは。

「まったく、お前のように馬鹿な下僕を持つと苦労するな」

その言葉を受けて、俺を含めて、その場にいた全員の意識が音源に集中した。

「弱いくせに口だけは一人前と来たものだ、なぁ?」

この偉そうな物言いと、人を見下した態度は、そう簡単に忘れられない。

「な、なんでお前がここに居るんだよ」

菊池やオッサン達が陣取る廊下の角とは反対側の、逃げる俺達が目指していた、来るとき上ってきた階段の設置されている方向に、ガキは居た。例の露出が激しい水着のようなデザインで衣装に身を包んでいる。コイツには羞恥心というものがないのだろうか?

「わざわざ迎えに来てやったのだ。感謝しろ?」

無遠慮にツカツカと、こちらへ向かってくる。

「迎えに来たってお前……」

「しかし、幾ら新米とはいえ、この体たらくは何だ? その程度怪我、私の下僕なら3秒で直せ」

「無茶言ってくれんじゃねぇよ。俺だって治せるもんなら直したいよ、クソ痛いんだから」

「自己治癒の制御も出来ないとは、情けない」

「やかましいわ。制御も何も、見えないモノを相手にどうしろってんだよ」

ガキは倒れる俺の元まで来ると、その直ぐ隣で俺の脛を踏みつけている沙希に向き合った。

「ところで、なぜこの娘がここにいる?」

それは尤もな質問だ。

「そこにいるオッサン、この屋敷の持ち主の娘らしい」

ガキと半歩の距離で向かい合ったまま、自らに話しの焦点を移されて、沙希が口を開いた。

「貴方は今日学校でお会いした方ですね。もしや、また姉を?」

「馬鹿を言え、誰がそんなくだらない事でこの身を動かすか。私は下僕を取りに来ただけだ」

「あら、ずいぶんと御優しいご主人様ですね」

「やかましい。コレは私の物だ。私の下僕なのだ」

新たな役者の登場に戸惑う菊池と黒服達。ここへ来る前に一度顔を合わせていた吉川も、その突然の登場に目を白黒させていた。だが、この場にいる中でもっとも変化の大きかったのは、隣で体を丸めて座り込んでいたオッサンだった。

「あ、ああ……」

その身体は小刻みに震えている。

「あ、貴方がこの青年を吸血鬼化させた主ですか? そうなのですか?」

沙希とのやり取りの流れで理解したのだろう。まるで何かにすがるかのように、手の痛みすら忘れてガキに縋りつこうとする。しかし、その手が肌に触れようかというところで、容赦の無い蹴りがその顔面を射止めた。

「触るな下種が!」

硬いブーツの底が鼻の頭を強打する。

だが、オッサンは鼻血を垂らしながらも、なお、ガキへ嬉々とした表情で迫まった。口元を血で染めながら迫って来る中年男性の様子は、他人事であったとしても気持ちが悪い事この上ない。

「私を、私を貴方の家族に、家族に迎えてください。差し出せるものは何でも差し出しますから。お願いです。地位も金も名誉も、あるものは全て差し上げます。ですから、ですからどうかお願いしますっ!」

どうしてそこまで卑屈になれるのか、先ほどまでの偉そうな態度からは様子からは想像も出来ない程に謙った態度でガキへ懇願していた。その姿には、後方に控えていた菊池やその部下達も驚いたようで、困惑の表情を浮かべながら、己の主の醜態を目の当たりにしていた。

「お父様、こちらの下僕さんの足はいかが致しますか?」

「いい、そんなものどうでもいい。主が自らが御出でくださったのだ、下僕なんて放っておけっ」

「はい」

どうやらガキの登場で、俺の残った左足は助けられたらしい。それだけは感謝するべきだろう。折られた右足も、徐々にだが、吸血鬼の治癒能力とやらで治り始めている。骨がくっ付いたかどうかは分からないが、少なくとも、動かないで安静にしていれば、殆ど痛みは感じない。この特殊能力は随分と即効性が強いらしい。

「お願いです、どうか私も貴方の家族の一員に迎えてください」

「何を馬鹿な事を言っている、誰が貴様なんぞをファミリーにするか。ファミリーどころか、下僕にさえ勿体無いわ」

「なっ、そんな……」

そして、それまで場の注目を集めていた俺と沙希は舞台から下ろされ、屋敷の廊下で繰り広げられるのは、オッサンとガキの平行線を辿る言い争いだ。周囲の人間は事態がどのように転んだのか理解できないまま、二人の様子を見つめている。

「お願いします。言われたことは何でも致します。私の持つ全てを差し出します。ですから、ですから何卒お願いします」

この暴君を相手にして、頼み込んだだけで何とかなると思っていたのだろうか。その表情は一変して青くなった。

「私にはそれなりに財力もあります、ですからきっと、貴方様のお力になれる筈です」

その振る舞いは、俺達を相手にしていたときの態度とは程遠い。終いには土下座までし始めた。

「………」

「貴方が封印されていた期間を考えれば、今の世は、貴方が暮らしていた時代と比べて、全くの別世界でしょう? 何か困っている事などありませんか? 私でしたら間違いなく貴方様をサポートできますよっ!」

「………」

「それに、この館だって提供します。どうでしょうっ!? この周辺でここよりも広い邸宅はまずありま……」

「やかましいっ、下僕もファミリーも、もう十分間に合っている!」

相手の態度に苛立ちを覚えたのだろう。足元で諂うオッサンの頭を、サッカーボールを蹴るような気軽さで蹴り飛ばした。身長2メートル近い巨漢が、すぐ背後にあった壁へ叩きつけられ、ドスンと低音を響かせた。

「お父様、痛そうですね」

その様子を、沙希はまるで他人事のように傍観している。オッサンにせよ、菊池とかいう男にせよ、それなりに一貫したものを持っているが、この女はどうにも掴み所が無い。まるで機械人形のようである。

「お前の父親なのだろう、看病でもしてやれ。私は下僕と帰る」

腕が掴まれたかと思いきや、廊下に座り込んでいた身体が浮き上がる程の、凄まじい力で引っ張られた。相変わらずの馬鹿力である。

「お、おい」

そのままの体勢で居ては、流石に腕が痛いので、仕方なく立ち上った。その動作に、折られた右足へ痛みが走ったが、吸血鬼の回復能力というのは俺が思っていたものより凄まじいらしい。足は既に歩けるまでに治っていた。これなら、ガキの言う3秒で治せ、というのも無茶難題では無いのかもしれない。

「ほら、行くぞ」

「ちょ、ちょっと待てよ」

周りの奴等など眼中に無いのだろう。掴んだ腕を引っ張って、そのまま階下へ向かおうとする。

そんな時である。一体誰が発しているのか、後方から気持ちの悪い笑い声が聞こえてきた。

「ふ、ふふふふふ」

低く、腹に響く笑い声だ。

「こ、今度はなんだよ」

予感通り、音源は尻を突いて座り込み、顔を伏せて鼻血を垂らすオッサンだった。

「沙希っ」

叱咤が飛ぶ。

「はい、お父様」

「その吸血鬼を捕らえろ、怪我をさせてもかまわんっ! 生きていれば十分だ、適当に痛めつけてしまえっ!」

手酷く扱われたのが、相当頭に来たのだろう。見事にキレていた。菊池といい、このオッサンといい、この屋敷の人間は態度の変化が激しい。

「分かりました」

特に拒む理由も無い。沙希は父親からの命令に頷き、それを即座に行動に移した。

「フハハハハハはハッハッハッハハははははっはあはっはは!!!!!」

オッサンは駄目だ。目がイってしまっている。顔を蹴られたのが余程効いたのだろう。ネジが数本抜け落ちてしまったようだ。

「というわけですので、大人しくして下さい」

「おい、お前らまたやり合うってのかよっ」

俺は昼間の出来事を思い出して、慌てて口を挟んだ。そんな事をしたところで二人の意向を曲げさせる不可能だろうが、何もしない訳にはいかなかった。結果の分かりきった喧嘩をさせる訳にはいかない。

「退いていろ、私もやられたままというのは癪に触る。ここで確実に息の根を止めてやろうではないか」

ガキに小突かれて、危うく壁に顔から激突しそうになった。文句を言おうと背後を振り返ると、そこには既に、拳を振り上げて迫る沙希の姿があった。

「自慢の武器はどうした? 素手では勝負にならんぞ?」

相手の拳を背後へ一歩下がって避ける。

「それは、やってみなければ分かりません」

「無駄なことを」

それを追って、さらに腕を伸ばした沙希へ、迫る2打目を避けたガキは蹴りを放つ。腹部を狙った鮮やかなハイキックだった。

「っ!?」

まともに当たれば結構なダメージを負うことになるだろう。それを理解して避けようとするが、横に狭い廊下において、回避行動を取った彼女の体は、肩を壁にぶつけてしまった。そして、隙を得たガキの2打目が見事に相手の脇を捕らえた。見事な跳び後ろ廻し蹴りだった。

「どうだ? 今のでアバラの2,3本は折れただろう?」

顔を痛みにゆがめ後ろへと飛び退く沙希。だが、その対戦相手はこの場で最も、思いやりという言葉から縁遠い存在である。ここぞとばかりに攻撃は激しさを増す。拳の連打が、沙希の急所を怒涛の勢いで攻め立てた。

「くっ……」

沙希は学校の裏庭でやり合った時とは違い、防戦一方である。この狭い空間がそういう方向へ争いを導いているのだろう。傍から見ていても、動き難そうにしているのが分かる。この場に限っては、身体が小さいほうが有利だった。

「どうした、あれは持っていないのか?」

アレとは、昼の校舎裏で振り回していたナイフの事だろう。それが図星だったのか、沙希の色のない表情が、些か歪んだように見えた。

「そんなもの無くても、貴方など素手で十分です」

「ふふっ、だとしたら貴様はここで終わりだ」

床を蹴り、飛び上がる。相手の横面へスピードの乗った蹴りを向けた。

それを沙希は、危なくあたる所で上体をそらし回避する。そして、お返しだとばかりに、反らした上半身をバネにして、半回転捻りの回し蹴りを放った。

「ちっ!」

両腕の防御の上からであったが、勢いの乗った一撃に、小さな身体は宙を飛ばされた。だが、その先にあった壁に両足で緩衝を得ることで、それほど堪えた様子も無く着地した。見れば、足を突いた壁は数センチ程の深度で凹んでいる。かなりの威力であったらしい。

「貴方のような子供はリーチが短くて大変ですね、それとも、ただ短足なだけですか?」

「やかましい、誰が短足だっ!」

吼えたガキの蹴り込みが、沙希のわき腹に入った。虚を疲れたのだろうか、それまでの緊迫した鬩ぎ合いからすれば、呆気なく見事に決まった。防御も半端に、勢いを殺しきれず、彼女は背後の壁へ大きな打撃音を立てて打ち付けられる。その衝撃で、廊下の壁に飾ってあった、高そうな額縁に飾られた絵画が、けたたましい音を立てて落ちた。

「っ!」

座る自分の視線よりわずかに高い位置にある相手の顔を見つめる。

「昼はブラッディーマリーの魔力で、自らの身体能力を上げていた、というところか。比べると些か性能が落ちているな」

余裕の表情を浮かべ、尻を突いて座り込んだ相手に笑みを浮かべてみせる。もしかしたら、あまりに呆気なく決まった一撃は、それまでガキが相手の様子を見て相手をしていたからなのかも知れない。

「それはどうでッ…!」

喋っている途中で、顔面へ無慈悲に蹴りが入れられた。皮膚が切れたのだろう、血飛沫が辺りに飛び散った。まさに外道である。その非道な様子に、周りの人間もただ黙って見ているだけでは終わらなかった。それまで静かだった外野から罵声が飛んで来る。

「おい貴様っ、コレが見えないのかっ!!」

目の前で繰り広げられる鬩ぎ合いに意識を奪われていて、周囲の状況に意識を払うことを忘れていた。そして、気付いたときには既に時遅く、菊池の持つ拳銃が、斉藤の速頭部に突きつけられていた。廊下の壁に背を預けて、ぐったりと座り込んだ斉藤は、意識が無い。

「なっ、この野郎っ!」

慌てて床に落ちていた銃を拾い上げようと手を伸ばす。しかし、それを菊池は一発の銃弾で廊下の先まで弾き飛ばした。

「おっと、誰がそいつを拾っていいと言った」

「っ!」

「さぁ、分かったならそこのガキ、お前も止まれ。出なければコイツの頭で汚い肉花火が上がるぞ?」

銃口が強く皮膚に擦れ、血が滲んでいた。菊池と呼ばれる男も、俺達の様な子供に手駒に取られていたことで、相当頭きていることだろう。だが、此方の事情を知らないガキは、そんな菊池の神経を逆撫でする様に、軽く言い放つ。

「やかましい、そいつがどうなろうと私の知った事でない。煮るなり焼くなり好きに好きにすればいい」

ガキの意識が菊池へと向いたその一瞬の間に、座り込んでいた沙希は素早く立ち上がり、間合いを取った。

「な、なんだと!? コイツが死んでもいいのかっ!?」

「当たり前だろう? 何故私が何処の馬の骨とも分からぬ奴の為に動かねばならんのだ」

予想外の態度に慌てる菊池。

「お前はコイツ等を助けに来たんじゃないのか!」

「コイツ等、だと?」

言葉を返されて、その口元が人を小馬鹿にした笑みを作る。

「何を勘違いしている。私が迎えに来たのは下僕だけだ。他がどうなろうと知った事じゃない」

「ぐっ!」

「分かったなら黙っていろ屑が、でなければ殺すぞ?」

ガキが数メートル離れて構える沙希へと向き直る。だが、菊池は引き下がらなかった。その細められた瞳が俺を射抜く。

「………ならば、たしかにお前にとって、この小僧はどうでもいい奴も知れない。でも、けどなぁ、そこの下僕とやらはどうだ? そいつにとっては大切な友達なんじゃないのか?」

「お前、卑怯だぞっ」

「お前等だって同じ事をしているだろうが。さぁ、どうよ?」

急遽向けられた矛先に、返す言葉も浮かばなかった。

「だったら……、どうしろっていうんだよ」

「なに簡単なことだ。そこのガキを止めろ、出なければこいつを殺す」

その一言に、今まで座り込んで様子を傍観しているだけだったオッサンが、素晴らしいぞ菊池君、などと歓声を上げた。

「いいか、早くしないとお友達が大変な事になっちまうぞ? 俺だってみてくれだけでこんな仕事をしてるわけじゃないんでな」

そんな事を言われては、此方には贖う術も無い。元々この屋敷へ来たのも、斉藤を助ける為なのだ。ここで首を横に振ったら本末転倒だろう。

「・・・・・・クソ。分かったよ、分かったから斉藤を離せよ」

「それはその化け物を止めてからだ。お前にはしてやられてばかりだからな、これくらいの注意はさせて貰う」

斉藤は意識が戻らず体重を壁に預けたままピクリとも動かない。

「…………」

沙希と向かい合ったまま、ガキは視線だけで俺を伺う。

「で、私を止めると言うのか? 下僕」

「ああ、もうそれで終わりにしてくれ、出ないと斉藤が死んじまう」

ただ、コイツがそう簡単に言う事を聞いてくれるような奴で無い事は、肌をもって理解していた。この場の誰より我の強い性格をしているに違いない。他人の命令に従う姿なんて想像不可能だ。

「やなこった」

帰ってきた言葉は予想通りのものだった。

「頼む、お願いだ」

けれど俺にはそれしかなかった。

「お前は私を止めてどうするつもりなのだ? そこの小僧を助けて、私をコイツらに差し出すというのか?」

「ちがっ……」

言われて、そんな簡単なことに気づいていなかった己を知った。

「違うのか? ではなぜ止める?」

「それは……」

結局は二者択一である。

だが、一方は高校始まってからの友人、そして、もう一方は昨日顔を合わせたばかりの正体不明の子供。相手が相手である。引き渡したら最後、このガキがどのような待遇で迎え入れられることになるのか、その先は想像に容易い。しかし、それでも、きっと斉藤の命には代えられない。

やり切れない気持ちで胸が一杯になった。

「クソッ、…………おい、オッサン」

「なんだ青年。そんなに大きな声を出さずとも十分に聞こえるだろうが」

俺が撃った左手を押さえながら、それまで床に落としていた重い腰を持ち上げ、此方に視線を向けてくる。

「オッサンが欲しいのは吸血鬼なんだろう? だったら俺だって吸血鬼だ。ガキじゃなくて俺のファミリーになればいい。そうすれば別にガキにかまう必要だってなくなるだろ?」

こんな中年の男を相手に、首筋を噛んだり噛まれたりするのは想像するだけで鳥肌が立つ。けれど、今は贅沢を言っていられる状況でもなかった。苦肉の策である。けれど、俺にとって唯一の提案は、一刀の元に切り捨てられた。

「何を馬鹿な事を言っているんだ?」

なんだって!?

「なんでだよ。オッサンが欲しいのは吸血鬼の血だろ? だったら別に、このガキじゃなくて、俺のだって十分じゃないのかよ?」

オッサンは冷めた笑みを浮かべ、やれやれといった風に続けた。

「君は自身が吸血鬼であるにもかかわらず、それに関する知識が殆ど無いようだね。いいか? 吸血鬼に血を吸い吸われてファミリーになった者の能力は、自身が血を吸った元の吸血鬼のそれに大きく影響を受けるのだ。つまり、君のような新米の血を吸ったとしても、それは確かに吸血鬼としての能力を得る事は出来るが、程度は高が知れているんだよ」

「………」

そういえば確かに、そんな事をガキも言っていたような気がする。

「わかるか? となれば当然目の前にいる、より強力な吸血鬼の血を飲みたいと思うのが人としての道理というものだろう?」

「ぜ、贅沢いってんじゃねぇよ」

「そちらこそ勝手に都合の良い方へと話を持っていかないでくれたまえ」

欲剥き出しで威張りやがって。

「だそうだ、俺にはよく分からない話だけど、理解したなら早くそいつを止めろ。でないと間違って鉛玉を飛ばしちまうかもしれないな。こっちとしては人質のスペアもあるんだ。コイツが死んだところで何の問題も無いんだよ」

主人の言葉に乗っかって、菊池が楽しそうに言った。

「畜生……」

「言っておくが、脅してるわけじゃないからな?」

本当に、どうすれば良いのだろうか。何もかもが俺のところへシワ寄せて来ている。こっちはまともに身動きの1つも取れないというのに。

「頼む、ならせめて人質は俺がなる、だからそいつを放してやってくれ」

「馬鹿言え。話聞いてりゃ、お前も化け物の仲間みてぇじゃねぇか。今更そんな奴を人質にするほど俺はお人好しじゃないんだよ」

「だ、だったら僕が、石を拾ったのだって、それを削ったのだって僕なんだ、斉藤はただ見てただけなんだから、だから僕が代わる」

「ぐちゃぐちゃと五月蝿い奴等だな。お前はもう抵当に入ってるんだってんだよっ」

俺と吉川、揃いも揃ってぐうの音もでない。これでは埒が明かない。

「ああもうっ!!」

こうなれば、俺の選ぶ選択肢は一つしかない。

覚悟を決めてガキへ向き直った。

「頼む、下僕でもなんでもいい、何でもしてやる。だから今だけは、今だけは俺の頼みを聞いてくれよっ」

今だけは、相手に向って心の底から頭を下げた。土下座という屈辱極まりない格好も、しないよりはマシだろう。額を床に擦り付ける。廊下に敷かれた毛並みの良い絨毯が頭皮に擦れてくすぐったかった。

「なっ、貴様、何をやっているっ!?」

「頼む、お願いだ。斉藤を助けてやってくれ。もうこれ以上何も望まないから、だから頼む。お前の下僕だろうと何だろうとなってやる、だから、だからっ」

「ほう、いい格好だな青年」

「雅之……」

頭を下げているので周囲の様子は分からない。誰も喋りだす者は居らず、辺りは急に静かになった。

そんな中しばらくして、ガキの声が館の廊下に響いた。

「お前は、お前はそいつがそんなに大切なのか? ファミリーである私よりもそいつが大切だと言うのか?」

「………」

投げかけられた言葉に何も答えられない。けれど、その態度が示すところはただ一つである。

「本当に、そうなのか?」

返す言葉も無い。

「……すまん」

だから、気づくと俺は謝っていた。

「くっ……」

相手の様子が気になって、恐る恐ると顔を上げる。すると、途端にガキの蹴りが顔面を捉えた。

「っ!?」

鼻の骨が折れる感触を、血の味と共に味わう。

「去ねっ!、もう貴様なぞ知らん。何処へでも行け! 消え去れっ! 朽ち果てろっ!」

「お、おい………」

鈍い痛みを感じつつ、背を向けるガキへ手を伸ばす。だがそれも、その小さい手によって強く叩かれた。

「わかったさ、それが貴様の最後の願いなのだろう? いいだろう、聞いてやる。聞いてやろうじゃないか! ああ、聞いてやるともさっ! だが、もうお前など私のファミリーでも下僕でもない、次に会ったときは殺す、必ず殺してやるっ!」

後ろを向いてしまったガキの表情は分からない。しかし、その声が怒りに震えている事だけは良く分かった。けれど、俺にはこうするしかないのだ。それが俺の選べる最高の選択なのである。

「どうだ、聞いただろう? 貴様らの言う事を聞いてやる。だからその小僧を解放しろ。今すぐだ。でなければここにいる者達を全てを殺す。確実に殺す。それがこの男の最後の願いであって、お前達に出来る唯一の選択だっ!」

見間違いなどではない。ガキのブロンドの髪が揺ら揺らと重力に逆らい広がっていく。昼に沙希とやり合った時でさえ、これ程までの様子は見せなかった。その姿を目にして、何か、自分が取り返しのつかないことを口にしてしまった気がした。けれども、それ以外に選択肢は無かったのだ。でなければ、斉藤を見殺しにすることになる。

「お、おお、では私を家族として迎えてくれる、ということですね!」

そして、先程までとは態度を一変させたオッサンが、その顔を歓喜に歪ませてガキを向い入れた。なんて現金な野郎だろう。

「好きにしろ屑野郎!」

けれど、それは俺も同じだろう。

「なんとすばらしい、これで私も、永遠の命を手に入れることが出来るのですな」

「おめでとうございますお父様」

沙希の無機質な声に、オッサンは嬉しそうに答える。

ガキはそれ以上、何も口にしようとはしなかった。

「ああ、だが、その前にやっておかねばならないことがあるな」

一頻り喜びの言葉を繰り返していたオッサンであったが、その感動に打ちひしがれていたのも束の間、何かを思い出したらしく、そう口にした。

「なんですか?」

「沙希、コレを吸血鬼殿につけるんだ」

そう言って、男はポケットから取り出した指輪を隣にいる沙希へと手渡した。それは大きな一粒の宝石が飾られた、シンプルな作りの指輪だった。宝石は薄い青色をしており、照明の光を反射して眩く綺麗に輝いている。

「これは?」

手の平に載せた指輪を目にして短く問う。

「それは魔力を抑制するための道具だ。コイツをつけられた化け物は、どれ程強力な者だろうと、その魔力の大半を封印される。お前にも以前話した、例の魔法使いの作った物らしい」

例の魔法使いというのは、俺達に語って聞かせた、このガキを宝石の中に封印したという奴のことだろう。

「はい」

「私だって何の準備もせずに、ヴァンパイアの封印を解いたりはしない」

「分かりました、ではそういたします」

父親の説明に興味のなさそうな相槌を打ち、沙希がガキの手を取る。

「触れるなっ、誰がそんなものを嵌めると言ったっ!」

すると途端に、ガキはその手を弾いた。

「大人しくするとは言ったが、そのような物を嵌めるとは一度も言っていないぞっ!」

その忘却武人な態度を菊池が許さなかった。人質であったオッサンを失い、敵と丸腰で対する俺達に、大口径の黒光りする銃口を向ける。

「おっと、お嬢ちゃん。抵抗するのは結構だけど、そうなるとコイツ等の命は保障できないな」

「っ!」

チラつかされた拳銃の威力を300年前の吸血鬼は理解しているのか。それで、吼える吸血鬼は大人しくなった。コイツの性格を考えれば、何もかもを破壊して暴れだしそうなものだが、どうしてだろう、今に限っては、不思議なほどに従順だった。

「さぁ、手を貸してください」

「……ふん、勝手にしろ。下種共が」

ガキの指には大きすぎる指輪が沙希によって通される。すると、金属で出来ている筈のそれは、粘土のように形を代えて、ガキの指にぴったりと合ったサイズに変化した。まるでクレイアニメを見ているかの様であった。

「それでいい。これで貴方はもう、歳相応の人間と同じ力しか発現させることが出来ない。しかも、その指輪を取ることが出来るのは、それを嵌めさせた沙希だけだ。そして、沙希は私の命令しか聞かない。これで貴方は私の元に下ったということだ」

傍からすれば、腹立たしい事この上ない満面の笑みを浮かべて、オッサンは微笑む。

「まあ、貴方が史上に残る一級デーモンのような強大な魔力を有していれば話は別ですが、それも関係の無い話でしょう?」

「勝手に言っていろ屑が。何時かその身に地獄が与えられると思え」

「それは怖い怖い、肝に銘じておくとするよ」

「ふん……」

ガキを軽く往なすと、オッサンは待機していた部下に声をかけた。

「さあ、後は菊池君、君の仕事だ。」

「はい」

「人質は解放するとしても、この落とし前はしっかりとつけなければならない。私は紳士だ、約束は守ってやるが、代わりにこの3人を死なない程度に痛めつけろ。終わったら適当に捨てて来てしまってかまわない」

「はい」

そう冷たく言い放ち、オッサンは沙希とガキを連れて、菊池を筆頭に並ぶ黒服たちの背後へと去っていく。これで、後は俺達がボロクソにされて一件落着となるのだろう。

「これは笑えないな……」

色々と挫けそうだった。

「俺としては、それ位させて貰えないと、今までナメて貰った分、全然笑えないんだけどな。お前らには存分に泣き叫んで貰うとするさ」

銃を手にした黒服の男達は、俺と吉川、斉藤を囲むように輪を作る。これから始まるであろう惨事に、実が震えるのを押さえられなかった。斉藤にいたってはいまだ意識を取り戻してもいない。

「おい、お前等、逃がすんじゃねぇぞ」

「「はい」」」

「……さっさと終らせろよ」

「偉そうな口を聞いてんじゃねぇよ、うっかり殺しちまったらどうすんだっ!」

頬を銃のグリップで思い切り殴られた。ゴキっという骨が折れる感触を脳が理解し、体が猛烈な苦痛を訴える。

それから、夜の屋敷の廊下には、肉を打つ音が断続的に木霊することとなった。体中が痣だらけになっても、まだお釣りが貰える程の私刑である。意識は絶える事のない鈍痛によって引き戻されては失ってを何十回と繰り返し、だんだんと深い闇へと落ちていった。

その後、オッサンの言葉通り、俺と斉藤と吉川は、ご丁寧にも隣町のゴミ捨て場に捨てられていた。

それでも俺は、吸血鬼の回復力とやらの効能で、意識が戻った頃には折られた左足もくっ付き、私刑によって出来た痣や傷も、いつの間にか癒えていた。皮膚や衣服の至る所には血液が付着しているが、その元となる傷口は見られない。だが、俺とは違う二人の有様は壮絶だった。

体中に打ち傷、きり傷、青あざ、その他諸々が随所にあった。まともに立ち上がる事すら間々ならない様子であった。斉藤に至っては、意識も無くされるがままだった為か、その様子の異常さに呼んだ救急車の中で、肋骨が2本折れ、内臓が破裂していることが判明した。吉川にしても両手を合わせて手の指が3本折れてしまっていた。

無論、二人共そのまま病院へ担ぎ込まれ、即手術、入院となった。

警察が駆けつけ来たり、学校関係者が乗り込んできたりと、とんでもない騒ぎになった。だが、取り立てて異常の見られなかった俺だけは、警察の事情徴収を経て、それから1時間後には解放された。家に帰ってみれば時間は午前2時だった。何も考えられないまま、全てを放棄して、そのままベッドへと倒れこんだ。

それで、長かった今日という一日は、ようやく過ぎ去ってくれた。