金髪ロリツンデレラノベ 第一巻

第三話

昨晩は眠った時刻も遅く、肉体的な疲弊も普段のそれに比較して圧倒的であった。しかし、日常は待ってくれない。目覚まし時計のけたたましい音の先には、今日も学校があった。

登校するのは気が進まなかったが、休むだけの理由も無い。足取りも遅く、ベッドから起き上がった惰性に乗って通学路を進んだ。気づいたときには、いつの間にか目的地まで到着していた。教室では教師の言葉も聞き耳を半端に、流れる日常の輪の中に戻っていた。無論、その中には二人の姿は無い。吉川はギリギリの所で自宅養生、斉藤に関しては入院中であり、まだ正確な治療予定さえ立っていない。

4時間目の授業を終了を知らせるチャイムが鳴り響くと共に、緩慢な動作で教室を後にした。昨日のガキが教室にやって来た一件で、クラスメイトの多くは浮き足立った視線を向けてくる。だが、斉藤や吉川が居ないことに加え、こちらの様子が普段と違う事を察したのか、直接声をかけてくるような奴は居なかった。ヒソヒソと小声で交わされる途切れ途切れの会話が耳に入ってくる。

「…………ふん」

県下でも有名な進学校であるこの高校では、あの二人の他に気の会う奴もいない。手持ち無沙汰な様を露に、空腹を満たすべく学食へ向かう事にした。気分は滅入っていても、腹だけはしっかりと減るのがどうにもおかしくて、周囲から見ればさぞ気持ち悪いであろう不気味な笑みを作りながら、廊下をトボトボと歩いた。

学食は今日も繁盛していた。値段も安いし、味もそこそこである。食券を購入し、カウンターで湯気の上がるドンブリと引き換える。共に食事を取る相手も居ないので、ずらりと並んだ食堂の机達の中にあって、その一番端に腰掛け、きつねうどんへと箸を伸ばした。

一番上に鎮座している大きな揚げを、何か物に当たるような気持ちでかぶり付ついた。じゅわっと熱く湯気の上がる汁が染み出してきて口の中を満たす。

「…………」

そのとき、ふと、きつねうどんの器を乗せた盆に影が出来た。

成績は低いし、授業もサボりがちな俺は、この学校では完全な不良扱いである。事実が重なっての結論であって、それに不満があるわけではない。ただ、そんな奴の手前で食事をしようとする酔狂な奴の顔を見てみようと、何気なく顔を上げた。学食は生徒数に対して十分なスペースが確保されている。わざわざこんな隅の方までやってくるのは俺や斉藤くらいだ。

「なっ!?」

すると、そこには昨晩見たばかりの能面があった。沙希である。そりゃ、確かに同じ学校に通学しているのだし、学食で遭遇する可能性も十分にあるだろう。それほど驚くことでは無いのかもしれない。けれど、昨晩の出来事が出来事なだけに、そう易々とその相手の存在を受け入れる事が出来なかった。

「……あ、あっち行けよ」

ただ、どうにも感情に熱の入らない俺は、素っ気無くそれだけを口にして、視線をうどん器へ戻して箸を進めた。ズズズと箸で掴み上げた麺を啜る。下手に頭へ血が上るよりは全然マシだろう。

「こんにちは」

相手は定食の乗った盆を静かにテーブルへ置き、こちらの言葉を無視して正面の席に腰を下ろした。

「なんだよ?」

口元にぶら下がった麺を啜り込んで、そう聞き返す。

「おいしいですか?」

すると、割り箸を割りながら、そんなふざけたことを聞いてきた。

「そんなの、自分で食ってみりゃいいだろ」

何を律儀に答えているのだろう。

相手に目線を向けること無く、うどんを箸で掴んだまま、声だけで返した。

「そうですか、では買ってきます」

「………」

コイツ、理解不能だ。

沙希は手にしていた箸を置いて、再び食券販売機へ向っていった。

実際には大した距離が有る訳でも無いのだが、気分的に、生徒達の喧騒を遠く聞きながら、静かにうどんを啜っていた。出汁の効いたカツオベースの麺汁が、空きっ腹に染み渡っていく感覚が心地良かった。そして、どんぶりの中にあった麺を半分ほど胃の中に収めた頃になって、席を立った沙希が新たな盆に手にして戻ってきた。

「本当に買ってきたのかよ……」

「はい」

再び正面の席へと腰を下ろす。向かうテーブルの上には何某かの定食と、きつねうどんの器が並ぶ。腹が空いていれば食べられない量でもないが、線の細い女には厳しいだろう。周囲からも奇異の視線が向けられている気がする。

「頂きます」

パチンと音を立てて二本目の割り箸を割ると、キツネうどんへ箸を伸ばした。音を立てることなく、静かに麺を口まで運ぶ。

「おいしいです」

僅かに、咀嚼した麺を飲み込む音が届いた。

「そりゃ良かったな」

一体、コイツは何を考えているんだろう。あのオッサンの心変わりで、俺にトドメでも刺しに来たのだろうか。それとも、まだ姉をOKしてしまったことを根に持っているのだろうか。ちらりと器から視線を上げて、その表情を盗み見てみたが、まったく変化ない能面からは、何の感情も読み取ることが出来ない。

「…………」

「…………」

二人してズルズルと無言でうどんを啜っていた。そして、此方が麺を粗方食べ終えた頃である。今まで何か話をする訳でもなく、黙々とうどんと定食を口へ運んでいた沙希の手が止まった。

「貴方は……」

おずおずと口を開く。

「貴方の主を助けに行かないのですか?」

そして、そんな事を言ってのけた。

「………なんでだよ」

何故そんなことを聞いてくるのだろうか。そもそも、ガキを攫ったのはお前達だろう。

「貴方は昨日、私から主を助けた」

箸を盆の上に置いて、正面からこちらを見据えてくる。そこから視線を反らす事が、相手に負けることを意味しているような気がして、意味も無く、それに面と向かって言葉を返した。

「そうだな」

確かに相手の言う通りである。

「今も再び、貴方の主は窮地に陥ってますよ?」

「だろうな」

俺が頼み込んだ結果だ、忘れる筈が無い。しかし、今の俺にはそれも些細な事だった。アイツが現れたせいで俺達3人はとんでもない目にあって、斉藤はそれこそ生きるか死ぬかの狭間で行ったり来たりを繰り返している。吉川は組の人間を何人も失った。昨日は、事の直後では、少なからずアイツを思うところだってあった。けれど、それもこうして現実をまとめて突きつけられると萎えた。

「助けに行かないのですか?」

そんな俺の内心を知る筈も無く、沙希は再び問うてくる。

だが、幾ら問われようとも、行く気など毛頭無い。

「さぁ……」

そう、考えてみれば、元々あのルビーはオッサンの元へ辿り着く筈だったのだ。ともすれば、こういう結末に落ち着くのが一番自然な流れであり、成るべくして成ったと考えるのが普通だろう。こうして俺達が酷い目に遭ったのも、その流れがどこかで少し崩れてしまい、余波に掠められたに過ぎないんだ。別段、ルビーを拾ってきた吉川を責めるつもりも無いが。

「まあ、行かないだろうな」

ただ今は、起こってしまった事態が大きくて落ち込んでいる、そんなものなのだ。

「聞きたいことはそれだけか? 俺は食い終わったからもう行くぞ」

盆をもって席を立ち上がる。教室に帰ったとしてもやるべき事など何一つ無いが、それでもコイツと面を向け合っているよりは断然マシだと思った。

「あの時は……、あんなにも私を睨みつけてきていたのに、それももう終わりですか?」

しかし、沙希は続けた。

「昨日のことか?」

「はい」

「それが何だって言うんだよ?」

あの時は、目の前で人が死ぬところだったのだ、放っておくわけにもいくまい。

「貴方の威勢の良さだけは買っていましたが、それも、もう店仕舞いですか」

この娘は何を言いたいのだろうか。話しの真意が全く見えてこない。

「今更何を言ってんだよ。おまえ自身が一番の敵だろうが」

空になったどんぶりの乗る盆を両手に持つ。これ以上この女を相手にしても時間の無駄だろう。相手に背を向けて歩き出す。

「………」

「………」

段々と相手の気配が遠ざかっていく。

その距離が開ききる前に一言、沙希は俺に向かって何か言葉を投げかけてきた

「貴方な……」

最初の一語が耳に届いただけで、俺はそのまま学食を後にした。

だが、教室へ戻らずそのまま屋上へ行って時間を潰そうと、廊下をダラダラ歩いていた矢先に、又しても係わり合いになりたくない奴に声をかけられてしまった。

「やっと見つけたっ!」

廊下の角を曲がったところでバッタリと出会ってしまったそいつは、此方の存在に気づいて瞳を大きくした。それは昨日の昼に、旧校舎の裏庭でガキに当て身を食らってダウンした、沙希の姉だという一年の女子生徒だった。

「なんだよ……」

面倒な奴に見つかってしまい、思わず大きなため息が漏れた。まあ、結構手酷い目に遭ったのだ。コイツのような性格の女が何もしてこない筈が無い。しかし、今まで忘れていただけあって、急に来られると、これほど困るものも無い。

「なんだよ、じゃないわよっ! 一昨日はよくもやってくれたわね。携帯は壊してくれるし、体には大きな痣が出来てるし、もう踏んだり蹴ったりよ。どう責任とってくるれるつもり!?」

「そんなこと知るかよ。また痛い目に遭いたくなかったら話しかけて来るなよ馬鹿」

わざわざ構ってやることなど無い。素っ気無くそう答え、横を素通りして先へ進む。だが憤怒の抜けない相手はしつこく食い下がってきた。

「ふざけんじゃないわよ。そっちがそんな態度取るなら、こっちだって昨日のことを全部チクってやるからね。アンタなんてただでさえ不良してるんだから、これがバレたらそれこそ退学よ、退学」

「うるせぇよ、勝手に言ってろ」

携帯電話は壊した筈だ。それがどうやってチクるというのだろう。

「昨日の写真、アレだけだと思ってるの?」

しかし、その言葉を耳にして俺の足は止まるざるを得なかった。

「なんだよそれ」

振り向けば、そこには勝ち誇った笑顔を向けて腕組をする女の姿があった。

「いやー、なんていうんだっけ? バックアップ? そういうのがあったりするんじゃないのかなぁ~? 最近のパソコンの進化って凄いと思わない?」

「この野郎……」

TVCMでも良く流れているし、パソコンやらなにやらで携帯の写メを弄繰り回す術は聞いたことが無いことも無い。それをこの女が出来るというのならば、それこそ問題だ。

「どうする? 昨日だったら2万で済んだけど、………そうね、あれだけの事してくれたんだもの、十倍くらいは覚悟してもらうわよ?」

人が不機嫌なときに、コイツはどうしてこうも神経を逆なでしてくれるか。

「おい、そういう話は上でしよう、お前だって人を脅している現場を見られたくなんてないだろ?」

決定である。

こうなれば、手加減も何も無いところまで徹底的にやるべきだろう。あとは大なり小なり弱みを握ってしまえば、こちらに手出しをしてくることはなくなるだろう。そう覚悟を決めて、屋上を指して親指を上に立ててみせる。

ところが、いつの間にやって来たのか、俺の後ろからは、先ほど分かれたばかりの沙希の声が聞こえた。きっと食事を終えて教室に戻るところだったのだろう。テーブルの上には結構な量の昼食が並んでいたはずだが、随分な早食い女である。

「何をやっているんですか?」

その声の主と昨晩の出来事が相成って、気づいたときには反射的に飛びずさり距離を取っていた。

「っ!?」

「……なによ?」

しかし、そんな俺とは対照的に、姉妹であるにも関わらず、それまで俺を脅していた一年の女は、不機嫌そうに沙希を一瞥した。

「いえ、二人が何か険悪な様子でしたので声をかけました」

自分とは正反対の性格を持つ妹が淡々と告げた言葉に、姉は激しく反応した。

「うるさいわねっ、いちいちそんなことで話しかけないでよ気持ち悪い!」

それまでの俺を咎めていた口調とも違う、相手を嫌悪する直情的な感情に溢れた態度だった。

「すみません」

「すみませんじゃないわよっ!」

「はい、申し訳ありません」

「ああもう、喋らないでよっ。とっとと消えてよねっ、アンタって近くに居るだけで気持ち悪いんだからっ!」

周囲に生徒の姿は無い。こんな姉妹喧嘩に巻き込まれている姿を、他の生徒に見られなくて済むのは幸いだ。誰が見ても異常と思えるほどの嫌悪を露わにして、姉は一気にまくし立てた。

「アンタを見てると胸糞悪くなるのよっ!」

見た目だけならば、世辞を抜いたとしても、沙希の姿はかなりものとして映るだろう。しかし、妹を見つめる姉の顔は、醜悪な害虫を蔑むように歪んでいた。

というか、二人は姉妹なのだから顔の作りだって瓜二つだ、沙希が気持ち悪いというのならば、その姉である本人も気持ち悪いことになる。それとも、見た目の話ではないのだろうか?

「ですが姉さんは昨晩、携帯電話を壊されて画像は失われたと呟いていませんでしたか? 部屋の前を通りかかったときに偶然耳にしたのですが……」

姉の部屋を立ち聞きでもしていたのか? まあ、この姉妹の家庭の事情はどうでも良い。

俺はその言葉を耳にして、今後に光を見出した。

「ちょ、何言ってるのよ馬鹿っ! それにその面で私のことを姉とか勝手に呼ばないでよっ!」

沙希の言葉を受けて取り乱したように声を荒げる。この二人は本当に姉妹か?

学年を考えれば、双子の姉妹ということになるのだが、高校生にもなって、出会い頭にいきなりこんなやり取りを始める二人に、疑問は尽きない。

「すみません」

「うるさいっ! ああもう、やめやめ、やってらんないわっ!」

手の平をヒラヒラと振りながら俺に向き直る一年。

「気分最悪、今日はもうやめ。また明日来るから逃げるんじゃないわよ!」

そして、一方的にそう言い放つと、俺の横を素通りし、元あった進行方向へと歩みを進めていった。残された俺と沙希はその様子をただ黙って眺めるほか無かった。妹が姉の心配をして突っ込んできた辺り、仲のいい姉妹だと思っていたのだが、そうでもなかったらしい。

「ったく、なんなんだよ、あいつは」

去っていく姉に視線を向けたまま、ため息混じりで呟いた。

「ところで、その今言った事は本当なのか?」

「何がですか?」

「何がじゃねぇよ、写真がもう無いって話だよ」

内包するデータまでは確認まではしなかったが、筐体は確かに踏み潰して壊したはずだ。バックアップとやらが無いのならば、これで俺が脅される材料は無くなった筈である。

「ああ、それでしたら本当です。姉がそう呟いているのを耳にしましたから」

「なるほど、ってことは、さっきのはハッタリだったのか……」

「そうなりますね」

まったく、やってられないな。

「そうかい、ならいい」

これ以上話を続けるのも面倒くさい。この場から離れる為に相手に背を向けた。相手は吉川や斉藤が入院するような目を見るに至った諸悪の根源である。宝石を拾うことで、誤って横から手を出してしまった吉川の過失もあるが、それを差し引いたとしても、この女のした事は許されるようなことでない。

だが、場から立ち去ろうとする俺を三度に渡って、呼び止めてきた。

「あの、先ほどの続きですが……」

何かと思えばまたそれだった。やけに早く食堂を出てきたのは、もしかしたら俺の後を着ける為であったのかも知れない。

「うるせぇな、なんだよ?」

「貴方の主は貴方の事を待っているかも知れませんよ?」

これ以上なんだというのだ、コイツは。いい加減にイライラとしてきた。

「んなことあるかよ。アンタもあいつが叫ぶの聞いただろ? 俺はもうあんた達のような不思議グループとは何の縁も無いんだよ」

「ですが……」

「しつこいな。これ以上変な奴らと係わり合いを持たせないでくれよ。ただでさえ昨日の事で殺気立ってるんだ、もしかして、それを理解した上で話しかけてきているのか?」

「………」

「第一、なんで敵のアンタがそんなこと俺に告げ口するんだよ。それこそ敵に塩送ってるようなもんだろ。そんなに俺に殴りかかってきて貰いたいのか? そんなのごめんだよ。誰が好き好んで勝てない喧嘩に手を出すんだよ」

「それは………」

途端に沙希は何も言わなくなる。しばらく待ってみても、その答えが帰ってくる気配は無い。

「いいか? もうこれ以上俺に関わらないでくれ」

反応は無い。

「分かったならこれで終わりだ、じゃあな」

「しかし、それでは………」

背を向け歩き出した俺の背後からは、まだ何か言い足りないのか、沙希のぼそぼそと呟く声が聞こえてきた。

もう勘弁してもらいたい。

「やってられないよ……」

再び足が止まる事は無かった。

その日の授業は全くといっていい程、そのこと如くが頭に入らず、右から左へと抜けていった。それでは、普段ならば教師の話も頭に入って来ているのか、と聞かれれば、それも頷くことは出来ないが、しかし、今日はいつも以上に、全てが何か芯が抜けたような、空虚に過ぎていくのを感じていた。始めは入院中の吉川の為に、ノートを取っておいてやろうかと考えもしたが、それも筆箱からシャーペンを取り出したところでやる気が萎えてしまった。

どうにも鬱だった。

一通りの授業を聞き流し、終業の鐘の音に合わせて学校から帰る。

夕食は昨晩作ったシチューの残りがあるので、商店街へ寄り道することも無く、まっすぐ帰路に着いた。ガスコンロに乗っていたシチューの入った鍋に火をつけて、リビングのソファーへ体を投げ出した。

本当は、そのまま目を瞑り眠ってしまいたかった。しかし、メンタル的な疲弊を置いてきぼりにして、フィジカルな活力は全く衰えていなかった。これも吸血鬼の力というやつなのか。学校の帰りに二人の見舞いに行こうかとも考えた。けれど、学校が終わり、病院につく頃には既に、二人の面会時間は終了してしまっていた。今日は何もかもが不発で終わった感だった。

「ああーったくっ」

どうにも上手くない。喉の奥に肴の骨が刺さって抜けないような、幾ら手を突っ込んでも届かないような、原因があやふやで理不尽なもどかしさ。

横になるには手狭いソファーの上でゆっくりと寝返りを打つ。支えるものを失った体がドスンと低い音を立ててフローリングの床へと落ちた。しかし、感じる痛みもまた、あっという間に消え失せる。

「まったく……、大したもんだよ」

吸血鬼ってやつは。

仕方なく起き上がり、夕食の支度をすることにした。とはいえメインディッシュは既に鍋の中で暖められている。準備といっても冷蔵庫から取り出した野菜を適当にちぎって皿に乗せ、ドレッシングをかけるくらいだった。あとは食器を出せばそれで終わりである。またすぐにやることが無くなってしまう。

「あーあ……」

寝転がっていても、体を動かしていても、どうにもしっくりこなかった。

別段ダルいというわけでもない。何か足りないもどかしさが悶々と、体の中を蝕んでいるような感覚。何をやっても上手くない感じ。昼、学校で沙希に色々と言われたからだろうか。俺に関係の無い話が頭の中を縦横無尽に駆け巡り思考を揺さぶってくる。

もう、あのガキは関係ないんだ。それに、あれだけ人の事を踏んだり蹴ったり殴ったりと、ボロクソに扱ってくれたのだ。それをどうして、こうも悩み考えなければならないというのだろう。

頭を振って良くない思考を揮発させる。

そう、これでいいのだ。

「離せっ、このっ!」

空気の流れを感じさせない、日の光も入らない屋敷の一室。エリーゼは天井から垂れ下がったロープによって手を縛られ、その身を吊るされていた。無論、そんな事を許すような彼女ではなかったが、力を封ぜられ無力となった今は、ただの人間にも劣る腕力しか持ち合わせておらず、与えられた現状に喚くことしか出来ないでいる。

「塵っ! 屑っ! 下種っ! 畜生っ!」

彼女を薄ら笑いと共に見つめる男。その彼の背後に待機した沙希の存在が、エリーゼが抵抗する事の意味を全く奪っていた。

「やれやれ、何時になったら大人しくなってくれるのかね、貴方は」

彼女は昨夜、館の主、佐久間哲也に捕まってから今に至るまで、延々とあがき続けていた。

「やかましっ、とっとと下ろせっ!」

「貴方が大人しくしてくれたのなら直ぐに下ろしますよ」

「誰が大人しくなどするかっ!」

「このままでは契約云々の話も進められませんからな」

哲也はやれやれと肩をすくめて続ける。

「私も一日時間を差し上げたのだ。これ以上時間をかけるのはお互いの為にならないと思いやしませんか?」

「人を縛り上げておいて何を言う。全部が全部、貴様一人の為だろう。偉そうな口を利くな」

「ですが、貴方が態度を改めないというならこちらもやり方を変えざるを得ないですが?」

「ここまでやっておいて、今更そんな脅しか。私はただ付いて行くとしか言わなかったはずだ。貴様が勝手に勘違いしただけだろうが」

昨夜の騒動の後、エリーゼは哲也に連れられて、この部屋へと放り込まれた。ただ、そこまでは素直に哲也の後ろを付いて来た彼女だったが、話が先へと進むにつれだんだんと態度は荒ぶり始めたのだ。

「また、そんな屁理屈を。貴方もそろそろ諦めたらいかがです? あと数時間で約束の24時間になるでしょう。そうなれば先に話した通り、こちらも遠慮なしに無理やり血を抜き取らせてもらうことにしますよ?」

「黙れっ、誰が貴様なんぞ血をくれてやるか。ただの人間であるお前が私の血液を口にしたところで、下僕にって終わりだろうが。血液の交換は、私が先にお前の血液を吸い、下僕とせねば、全く意味の無いことだ。そんなことも知らないのか?」

顔を怒りに歪め、自分を縛り吊り下げる荒縄を揺らしながら吼える。彼女にしても雅之との契約は、本当に偶然の賜物だった。ほとんど同時に牙を交えたにもかかわらず、奇跡的に、エリーゼの血液が多少なりとも回った体に噛み付いた雅之は、ファミリーとしての権利を手に入れたのだった。

「ええ、それは百も承知ですよ。先ほどは思い切り吐き散らしてくれましたがね」

「あたりまえだっ!」

「ふふ、おかげで今は輸血用のチューブを発注していますよ。届き次第、輸血も直接血管に対して行わせて貰います。そうすれば、貴方が私の血液を口にしてくれなくても、別に問題は無いでしょう?」

「ふんっ。仮にその馬鹿げた行為が可能だったとしても、どちらにせよ一度は下僕化せねばならんのだ。その時点でお前は自我を失って終わりだ、とっとと諦めろ」

位置的に哲也よりも高い位置に居るエリーゼは、自分を見上げる男を冷ややかに睨みつけて、客観的な事実を口にする。だが、それでも相手は動じる気配も見せずに言葉を続けた。

「その通り。いかせん家族になる為には、吸血された下僕が吸血鬼化の後に、自らの主を吸血しなければならない、という面倒な手順ですからな」

それは主が下僕を仲間だと認めなければ成立しない行為である。

「だろう。ならばとっととこの縄を解け」

「いえいえ、一体何のためにコレがここに居ると思うのです?」

しかし、その為の算段も既に哲也は手中に収めていた。

「なんだと?」

「幸いにしてこちらには沙希がいるのでね。私が一時的にせよ貴方の下僕となったとしても、貴方に私の血液を飲ませるのは簡単なのですよ。無論、口ではなく、先ほど説明した通り、直接血管に注入する事になると思いますが」

「き、きさま……」

「何の準備も無く貴方を求めたりはしませんよ。それぐらいの保険が無いとやっていられないでしょう?。下手に手を出して下僕になって終わりではあまりにも間抜けすぎる」

当初、暴れるエリーゼを押さえつけた哲也は、自分の欲望に従って血液の交換を行おうとした。だが、相手の激し抵抗に合い、それが非常にリスクの高い行為であることを知った。そこで彼は、暴れるエリーゼの気分を落ち着かせる為に、一日という時間を与えた。そしてその間に、相手の意向が得られなかった場合の準備を進めていた。

「誰がそんな事を許すかっ! 離せ、この、糞っ!」

宙ぶらりんのまま、激しく体を振るわせる。しかし、それは自らの身体に縄を食い込ませるだけでしかない。彼女を縛り付ける縄は人の親指ほどの太さがある。とても素手で引き千切れるようなものではない。

「クソ、これを解け下種がっ!!」

「この調子では、このまま時間まで心変わりしてくれそうにないですな」

「当たり前だっ、誰が貴様の言う事など聞くかっ!」

時計も窓も無いこの部屋では、今が昼夜のいずれなのか、その判断もつかない。そんな空間に丸一日の間を吊るされていたにも関わらす、彼女は決して強固な姿勢を崩さなかった。

「プライドが高すぎるのも考えものだな」

「やかましい、勝手な尺度で人を評価するな。貴様等人間が低俗なだけのことだ。よくもまあ、それで私のファミリーになりたいなどと大口を叩けるな」

すると、それに何か思うところでもあったのか、哲也はふと昨晩の出来事を思い返した。友達を奪い返しに来たのだという、エリーゼの下僕の姿である。

「というとなんですか、貴方はそれ程までにあの男に執着があると?」

ただ暴れるだけだったエリーゼの様子が僅かに変化した。

「……何が言いたい?」

「いえ、別に大したことではありませんよ。しかし、最古に位置する吸血鬼の貴方が、まさか唯の人間に固着するような事などとは、これまた興味深い」

フムと顎を撫でながら視線を宙に浮かばせる哲也。

「はんっ、私がいつ人間ごときに思慮を割いたというんだ。訂正しろ」

憎々しげな表情はそのままに、しかし、それに若干の別の色が加わった表情で、エリーゼは哲也を睨みつける。その変化を目敏い彼は見逃さなかった。

「貴方もなかなか面白い反応をしてくれる。歳を取れば普通はそういう落ち着きを得るものだと思っていましたが、なかなかどうして、例外というものは何処にでもあるのですな」

そして、哲也の一言一言に反応するように、彼女の言動は段々と乱雑になっていく

「やかましいっ、それ以上何か言ってみろっ、殺す、殺してやるぞ」

「はっはっは、可愛いもんじゃないですか。始めは元祖位の吸血鬼と聞いて恐怖しましたが、開けてみればなんてこと無い。なかなか楽しませてくれますな、貴方も」

「っ!!」

羞恥と怒りにエリーゼの顔が紅潮した。

「だ、黙れっ! あの男はファミリーなどではない、ただの下僕だ。いや、今は下僕でさえ無い。そんな奴に何の意味があるというのだ、言ってみろ下種っ!」

暴れるエリーゼを尻目に、男はいやらしい笑みを作ってみせる。加えて更に、彼女の揚げ足を、これでもか、という程に突いてきた。

「では何故あの時、その、ただの下僕の言う事などに耳を貸したのですか?」

途端にエリーゼは返す言葉が無くなってしまった。

「あのときの貴方は、自らの思い通りに事を運べるだけの立ち位置に居た。下僕の言葉に従いさえしなければ、こんな状況にも陥っていなかった筈だろう?」

哲也の言うことは尤もであった。下僕の言葉に耳を貸さずに我を通していれば、こんな痴態を晒すことも無かった。けれど、現実はこの通りである。

「そ、それは……」

昨晩の彼女の判断、それは、ふと沸いた一時の感情に飲まれての結果であった。自身でも窺い知れない一瞬の激情である。何故あのようなことを言って放ったのか、それ口にした本人が一番理解できないでいた。そして、それから一日が経った今でも、その感情と判断の意味を、エリーゼは理解できないままでいた。

「とはいえ、まあ、それらは私には関係の無いことです。これ以上話をしていても無駄でしょう。こちらはこちらで勝手にやらせて頂くとしますよ」

「………」

身を翻し背後に佇む沙希へ声をかける。

「沙希、私は一仕事してくる。この方はお前に任せるからしっかりと見張っておけ」

「はい」

地下にあるこの部屋の、唯一の出入り口である古ぼけた木製のドアを開けて、哲也は外へと出て行った。外からの風によって、室内に積もっていた埃が舞う。その様子に目を顰めて、エリーゼは心中で深い溜息をついた。

「そういう訳ですので、よろしくお願いします」

起伏のない言葉を伴って、腰をきっちり30度曲げたお辞儀。

「ふん、何がよろしくだ。そんな礼儀はいらんからこの縄を解けというのだ」

「それは出来ません」

だが当然、返されたのは律儀な否定の一言。

「………やかましい、言われずとも分かっている」

目の前に居るのは、今の彼女ではどうにも出来ない相手である。顔を上げて、縛られた手首の先にある己の指を見つめれば、そこには薬指に輝く指輪が確認できる。部屋にある数少ない光源のガスランプ。照らされた宝石が光を反射し綺麗に輝いていた。

「なんて様だ。私も落ちたものだな、この程度の道具も破れぬとは」

「………」

小さく舌打ちする拘束された子供を、沙希はただ命令されたとおりに静かに監視する。

「魔力さえ、魔力さえあればこのようなもの造作無いというに、一体何処へ消えたというのだ……」

一昨日、雅之達によって開封された彼女が失ったのは、封印される前までは確かに持っていた力の大部分である。それは自分の意図しないところで、何処かへと消えてしまっていた。

「それはそんなに大切なものだったのですか?」

沙希が体を微動だにさせずに、口だけを静かに動かして問うた。

「当たり前だ、魔力さえあればこんな阿呆な事態になどなっていない」

忌々しげに、少しでも鬱憤を晴らそうとして、話し相手を睨みつけながらエリーゼは先を語る。

「私の魔力だぞ? この町を10回灰に帰してもまだお釣りが来るというものを……」

「そうですか」

沙希は傍らにあるテーブルの上、無造作に置かれた拳大のルビーへ視線を向ける。

「そうだ。それだよ。そもそもあの馬鹿が私を封印するから、こんなことになったんだ。ああ、思い出しただけで腹が立ってきたぞ」

ギシギシと縄を軋ませてエリーゼが吼えた。

「まったく、なぜ私がこんな目に遭わねばならんのだ」

「それは伺いかねません」

屋敷の人間でも、主とその娘である沙希以外は知ることの無い地下室には、それから延々と、エリーゼが漏らす悪口雑言だけが流れることとなった。しかし、いくらかの時間が過ぎたころ、それまでただ相槌を打つだけだった沙希がゆっくりと口を開いた。

「貴方は………」

「……何だ?」

普段よりも冷ややかに響く声。

「貴方はきっと恵まれています」

「何だと?」

それまで微動だにしなかった沙希が、ゆっくりと一歩吊るされたエリーゼの元へ進む。

「貴方は恵まれています。貴方はとても自由で、その為のちからも持っている」

「はぁ? お前は私のこの様子の何処を見て、何故そんな事をほざくというのだ。自由? 一体どのあたりがどうして自由なんだ?」

「………」

「呼吸をする自由か? 瞬きをする自由か? 天井から吊るされる自由か?」

沙希は何も答えない。

「フンっ、人間に吊るされた吸血鬼など聞いたことない。加えて魔力も空っぽときたものだ。やってられないな」

自嘲気味に一気にまくし立てて、そう吐き捨てた。

「ああ別に隠さないさ、今の私には、お前を退ける力はおろか、自分の下僕でさえ向かってこられればやられてしまうさ」

哲也の言葉通り、自らの無力さは彼女自身が一番良く理解している。指輪を嵌められ力を封ぜられたその時から感じている、全身を襲うような虚脱感は嫌悪すべき以外の何物でもない。

沙希はそう語るエリーゼを視界に収めながら、先を続けた。

「……それでも」

「それでも何だというのだ?」

より一層厳しい視線で相手を睨みつけるエリーゼ。

「貴方達はとても良く似ている」

今まで感情の見えなかった沙希の表情が、その瞬間だけ歪んで見えた。

突如として浮かべられた、自嘲の笑みである。

「……何がおかしいというのだ」

「いえ、特におかしいところはありません。ただ比較しただけです」

沙希の語る真意が分からずに、エリーゼは軽口を返す。

「人の顔をみて笑うとは良い趣味だな?」

それをどのように受け取ったのか、沙希は腰を折り、礼をして見せた。

「ありがとうございます」

「褒めてないっ!」

ツッコミともつかないエリーゼの嘆きが、密閉された部屋の中で木霊した。

それから数時間後、太陽が沈んで、世を照らす月が煌々と輝きだした頃合に、哲也は再びエリーゼと沙希の居る地下室へ戻ってきた。人が階段を降りて来る足音に気づき、二人が視線をそちらへ向けると、キィと高い音を立てて空いた木製のドアから、屋敷の主人は姿をあらわした。

「さてさて、こちらの準備は一通り完了しましたし、約束の時間もそろそろですがいかがしますかな?」

手には黒い革のトランクケースを持っている。

「…………」

さすがに疲労が溜まったのか、眼下で嬉しそうに語る哲也の様子をエリーゼは口を開かず視線だけで否定した。

「まだダメですか、貴方もなかなか強情ですな。しかしそれはそれで遣り甲斐があるというもの。早速始めさせていただくとしますよ」

手にしたトランクケースが開けられる。中に詰められていたのはガラス製の医療器具であった。宣言どおり、エリーゼの身体へ直接血液を注入する為の道具だろう。哲也は、それら器具を机の上に広げながら楽しそうな笑みを浮かべている。

「………下種が」

対するエリーゼの反応は、同様だ。苦虫を潰したような表情で相手を睨みつけている。拿捕されてから既に10時間以上が経過しているというのに、疲労を感じさせないその様子は、恐ろしいまでの精神力によるものだろう。

そんな少女の様子に、哲也は両手を上げて、やれやれと呆れてみせる。

「まあ、貴方が幾ら抵抗したところで結末は変わりませんよ」

手にした注射器がエリーゼの腕へ伸びる。

「っ!?」

とっさに肘を曲げ、自らを掴みに来た相手の腕を交わす。しかし、その努力も虚しく、後ろから生えてきた沙希の腕に体を押さえられてしまう。ロープから下ろされたエリーゼは、部屋に設置されていたテーブルに、四肢を錠で固定された。

「このっ、貴様ぁっ、いい加減に離せっ!」

「大人しくして下さい、どうせ今の貴方には抗うだけの力も無いのですから」

迫る針は躊躇無く、まだ幼さを残した柔らかな肉付きの腕へ埋もれていく。プツリという小さな音を越えて、白くしなやか皮膚に、小さな赤い雫が浮かび上がった。

「おや、泣かないのですか、偉いですな」

「やかましいわっ!」

人を小馬鹿にした相手の態度に、エリーゼは注射器の針を刺したまま、両手両足をバタつかせて吼えた。

「人に褒められたなら喜ぶものですよ?」

「いい加減舐めるな、私から見れば貴様の方が餓鬼だっ!」

ゆっくりと動く哲也の手に合わせて、注射器の中へ鮮やかな赤が勢い良く流れ込んでゆく。一体何を採取する為に作られたのか、注射器はまるで牛の搾乳にでも利用するのかと思われるほどの大容量を誇っていた。

「どれだけの血液が吸血鬼化に必要となるのか、文献にも記述はありませんでしたからね。出来るだけ取らせていただきますよ」

「うるさいっ! 貴様等に私の血を扱えるはずがない、死ねっ!」

体は金属で出来た錠で固定されていて動かすことは叶わない。まして、更にその上から沙希の豪腕で押さえつけられているとあっては、それこそ自由になるのは口以外に無かった。

「暴れると針が変なところへ刺さってしまう。今の貴方は我々人間と変わり無い存在なのだから、下手に動かないで頂きたい。まだ死なれては困るのですからな」

「魔力が空の私を、更には道具で力を封じ、やっとこさ触れる事ができているのだろうが。そこまでしておいて偉そうなことをぬかすなっ!」

ただの人である、という言葉が彼女のプライドを酷く傷つけた。

「まあ、それも後少しの間ですよ。吸血鬼化さえ完了すれば、私も晴れて外道の眷属だ。いきなり貴方のようには行かないかもしれないが、何時かは越える時が来るかもしれない」

「はんっ、貴様なんぞに私が越えられるはずが無い。下種はいつまで経っても下種だ」

ゆったりとした動作でありながら、注射針が太く出来ている為に、いつの間にか注射器の内容は、その八割程が赤い液体によって満たされていた。

「さて、こんなものだろう。私の血液は既に採取済みなのだから、そろそろ本題へと進むとしようか」

「っ!?」

哲也の言葉にエリーゼの顔が強張る。

「はっはっは、そんなに怯えないで下さいよ。ただでさえ貴方のような小さな子供を相手にしているんだ、これじゃあまるで、私が犯罪者か何かのようじゃあないですか」

「馬鹿言え、やってること自体犯罪者そのものだろうが。糞っ、放せ、放せというのだっ!」

「おやおや、それもそうでしたな」

哲也は慣れた手つきで注射器に収められた血液を点滴用のパックに注入し、密封作業を行う。そして、作られた真っ赤な血液に満ちる輸血パックを、エリーゼの横になったテーブルの隣にあるスチール製のスタンドに引っ掛けた。同様にして、カバンから取り出した自身の血液パックもスタンドに設置する。

「さてさて、それではまた針を入れさせて貰うとしますよ。ああ、まだ弁は開いていないから安心して下さい。私が貴方の血を受け入れるのが先なのでね」

そうして、わざわざ先ほどの採血に利用した位置と同じ場所に注射針を突き立てる。開いた傷口へ針を再び通される痛みに、軽くエリーゼの顔が歪んだ。抵抗する手段の無い彼女を相手にして、哲也は何に邪魔されること無く、テキパキと挿入した針をテープで固定し輸血の準備を完了する。

「さぁ、これで、これで後は私が貴方の血を飲み、そして、貴方の血管に繋がるその弁を開く。それだけの動作で、私は晴れて念願であった永遠の命を手に入れることが出来るのだ。ああ、堪らない」

「おめでとうございます」

悶える自らの父親に、沙希の感情の無い声がかかる。

「ああ、まさか本当にここまでこれるとは、当初は想像すらしていなかったよ。でも、それが今目の前にあるのだ、私はなんて幸せ者だろうっ!」

哲也の目の前には、ストローの刺さった輸血用パックが一つある。

「さぁて、ご馳走を頂く前に最後の確認をするぞ沙希」

「はい」

後ろを振り返り、そこで直立不動を保っている娘に嬉々として声をかける。

「昨晩話したことは覚えているな?」

「はい、覚えています」

無機質で感情のない、聞く人が聞けば不快になるような声を耳にして、哲也は満足げに頷く。

「一応確認をするとしようか、事が事だからな」

「分かりました」

「まず私の血液を点滴によって主に与える。これにより、私は主の下僕としてヴァンパイア化するだろう。そうしたらこの体をお前が拘束するんだ」

「はい」

「幾ら成り立てとはいえ、ヴァンパイアの力はお前も昨日見た通りだ。私だとしても油断するなよ?」

「はい」

「まあ、お前にはそれが出来るだけの力はある筈だ、問題は無いだろう」

「分かりました」

「そして、私を拘束したならば、そのままの状態で時間を置け。完全に下僕化が済むのを待つのだ」

「はい」

「そうだな、最低でも1時間は欲しい。そして下僕化を確認したならば、私に付けられた、お嬢の血液が入った輸血パックの弁を開くのだ」

「お父様に付けられた輸血パックの弁、ですね?」

「うむ。そうすれば後は時間が過ぎるだけで私も自我を取り戻し、晴れてヴァンパイアの家族へ仲間入り、という事になる訳だ」

「はい」

「糞、クソ、くそっ!」

王手をかけた佐久間親子の会話を耳にしながら、エリーゼは両手足をバタつかせて抵抗する。動かされる四肢は、金属と激しく擦れ合い血が滲んでいた。だが、それでも拘束は完全であり、何の影響を与えることも叶わない。

「操られた私が一体どんな行動に出るかは想像がつかない。十分な時間が経つまで私の拘束を解いてはいけないからな。操られた私がお前に命令する事も十分ありえる。時間だけを見て行動しろ」

「はい」

「よし、それでは早速はじめるとしようか」

「はい」

自らの娘に満足気な表情を浮かべて、哲也はエリーゼに向き直る。

「貴様……、この仕打ち、絶対に忘れぬからな」

「どうぞどうぞ、新たな家族の誕生なのです、覚えておいてください。ついでに、その味もしっかりと堪能させて頂くとしましょうか。ねぇ、主様?」

「き、気持ちの悪いこと口走るなっ! 誰が貴様なんぞを認めるかぁっ!」

沙希が向ける無言の視線と、エリーゼが発する大音量の罵倒とをBGMに、哲也はストローを咥え込み、その中身を勢い良く啜りこんだ。期待に満ちた彼の咥内に鉄の味が染み渡る。

「ん~、マイルド」

風呂に入り、歯を磨き、目覚まし時計をセットして、という一通りの流れを半分無意識のうちにこなした俺は、普段ならばまだリビングでテレビを見ているような時間帯にもかかわらず、部屋の明かりを消して自室のベッドへと体を投げ出した。スプリングが反発して体をバウンドさせる。

「あぁあああああ」

呻きともため息ともつかない音が、月明かりが差し込むだけの、暗い部屋に響いた。肺に何かよくないガスでも溜まっているような気分だった。とは言っても、別段体の調子が悪いわけでも、疲れが溜まっているわけでもない。ただ、何もする気にならいというだけっだった。

「あー、だる」

口から自然と漏れてくるのは、普段からの口癖である。だるいと思っていながらも、体力が衰えたわけでも、気分が悪いわけでもない。ただ全てが面倒で動きたくない感覚である。

「ぁあ……」

だから、そんな完全な体調を保持する体に、睡魔はなかなか訪れてくれなかった。そそくさとベッドへ入り込んだものの、後30分は眠れないだろうと自分でも分かっていたのだった。

「なんだってこんなに元気なのかね」

そして、こういう時に限って、どうでもいい事や考えたくない事は、まるでダムが決壊したかのように、何処からともなく溢れ出して、頭の中へ流れ込んでくる。

「エリーゼねぇ………」

浮かんで来たのはやはりと言うか何というか。ちっこいくせに態度でかいし、性格悪いし、おまけに手も早ければ足癖も悪いと三拍子、いや四、五拍子に渡って揃うクソガキの顔だった。今頃はきっとあの屋敷のどこかで、頭のイカれたオッサンを相手にしてギャースカ騒いでいることだろう。

「ったく、頭に来る奴だよな」

加えて芋蔓式に、昼休みでの沙希との会話が思い出された。

『助けに行かないのですか?』

一体誰がその原因だと思っているのか。

無責任にもそう言ってくれたのは、今回の件の張本人の娘である。吉川の家の人間を殺して、ガキを攫って、更には吉川や斉藤が病院送りになる原因を作ってくれた、諸悪の根源だ。それが、何故そんな馬鹿な事を口にするのか。能面の様な、その無機質な表情の裏で何を考えているのか、俺には全く理解できない。相手にするだけ馬鹿らしくなってくる。

「わけわかんないだろ……」

時間だけが十分にある夜の就寝前、ふと思い出した事柄が、また別の何かを連鎖的に浮かび上がらせる。モヤモヤといらぬ事ばかりが頭の中を占領してゆく。

「………」

沙希が口にした事は、まるでそれが正しい事だと言わんばかりに俺を苛んでくれる。そりゃあ確かに、捕らわれた子供を助けに行くのは正義のヒーローの仕事かもしれない。けど、この状況でそれはないだろう。

「これじゃあ、俺が悪役じゃないか」

助けに行って、勝てない相手と喧嘩しろというのか。冗談じゃない、あのガキでも勝てなかったんだ、俺が出て行ってどうにかなる訳がない。そもそも、俺が来ることをあのガキんちょは望んでいないだろう。なんせ、別れ際に死ねと叫ばれた位だ。こちらとしても、そんな奴を助けに行きたくなどない。

ごろりと、薄い掛け布団を巻き込んで寝返りをうった。

「俺だって被害者なんだぞ。いきなり噛み付かれるし、殴られるし、蹴られるし………」

それでもって足まで舐めさせられるし……。

「………」

思い返してみると、だんだんと腹が立ってきた。

考えてみれば、アイツにはしてやられてばかりで、一度もこちらが優位に立った例が無い。無論、一緒に居たのは1,2日であるが、それでも、ひたすらに虐められていた気がする。それも口先だけならまだ知らず、肉体的にも痛かった。物理的に痛かった。とても。

それこそ、ここ数年分は苛められたのではないかと思えるほどに。

「ああっ! 糞っ、あのガキっ!」

撓んだベッドのスプリングを拳で打つと、その反動が横たわる体を揺さぶった。

奴の足を舐めた事にしても、本当に意味があったのだろうか?

馬鹿にされていただけの様な気がしてならない。

如何ともしがたい理不尽な怒りが、沸々と腹のうちで煮えたぎり始めていた。

「そうだよ、俺は被害者なんだよ。本当だったら何にも関係無かったんだよ。アイツはあのオッサンのところへ行く予定だった訳だし、そりゃ、吉川があの宝石を拾ってきたのは予想外かもしれないけど、それにしたって、俺には何の非も無いはずだろうがっ」

月明かりを光源に薄ら照らされる夜の部屋にあって、独り言がブツブツと流れる。

そう、俺は被害者なのである。だからもう、あのクソガキやオッサン達は、昨日の事は、全く関係の無い事なのである。そう自身に幾度も言い聞かせた。

「…………」

しかし、どうしても頭の中にある靄は消えてくれなかった。こう、ねっとりとしたものが思考に付いて離れない。たしかに、吉川の家の人間がやられた事もあるし、ボコられた斉藤が救急車で運ばれる姿も見てきた。けれど、それ以外にどうにもスッキリしないものが胸の内に根を蔓延らせていた。とても深く。

「糞っ!」

何故、被害者である俺が悪人のような気分で夜を過ごさなければならないのか。終わりの見えない自問自答は布団に入ってから1時間以上に渡って続いていた。

そして、その際には必ず最後に、ガキの姿が脳裏に浮かぶのだ。横暴を尽くし、終いには俺の顔面に蹴りを入れてくれた、小憎たらしいクソガキの、だけど半分泣き出しそうな様子の表情である。そんな顔を俺は見たこと無い筈なのに。

「…………なんなんだよ、ほんとうに」

まだ斉藤や吉川の事で頭に来て特攻するのならば話は分かる。しかし、どうして僅か一晩顔を合わせていただけの奴の事で、ここまで悩まなければならないのか。

「そりゃ確かに、最後は俺があいつらにくれてやったようなもんだけど」

けど、あの時はしょうがなかった。でなければ斉藤は病院送りで済んでいたかどうか。

「………」

しかし、それは一つの仮定であって、結果に変わりが無い事を俺だって理解している。つまるところ、考えの及ぶ結論は一つしかない。

「………やっぱり悪者じゃん」

ああもう、やめだ。こんな事を考えたって無駄である。今更俺が出しゃばった所で意味があるとは思えない。とっとと寝るのが吉だろう。時間が無駄である。明日も学校はあるのだし、朝は早いのだ。

もぞもぞと動くうちに足元まで移動してしまっていた掛け布団を羽織り直すと、もう何も考えまいと心に決めて瞳を強く閉じ、羊の数を数え始める。

羊が一匹羊が二匹、羊が三匹羊が四匹………。

「………」

時計の針の動く音が、いやに大きなものに聞こえていた。

静かに、時間だけが進む。

ただジッと、何時訪れるか分からない睡魔を期待しながら、目を瞑ってベッドに体重を任せたのだった。

そして、一体どれくらいの時間が経っただろうか。

布団に入った時刻はあまり正確に覚えていなかったが、それでも大体9時半位だと記憶している。目を瞑ったのはそれから30分程が過ぎてからだろうか。脳内を右から左へと通り過ぎる羊の数が1864匹を突破し、いい加減眠ることを諦めた時、時刻は11時半を過ぎていた。

「だぁあああ、眠れないっ!」

掛け布団を引っぺがしベッドの上に胡坐をかいて座り込んだ。別段寝苦しいわけでも、蚊が耳元をブンブンと飛んでいたわけでもない。

原因はただ一つだけ。

「……あぁ、クソっ」

幾ら眠ろうとしても、幾ら羊を数えても、やってくるのは睡魔ではなく、あの憎たらしいガキの事ばかりであった。脳味噌はどうなってしまったというのだろう。

「惚れたか?」

いや、それはありえない。

子供だし。

でも、だったら何だというのだろう。

「………」

馬鹿な話、自分でも自分の事が分からなくなりそうだった。

ただ、脳裏に浮かぶのはあの子供の憎たらしい顔だった。

「あいつ、今度は安眠妨害かよ」

それは細く小さな四肢であったり、白く透き通るような肌であったり、光を反射するようなブロンドの長髪であったり、そして何より、笑みを湛えた夕食の光景であった。歳相応に見えたその様子は、それまでの印象から一変して、あのガキには不釣合いで、けれども十分に似合っていてた。

「………子供の癖に」

だからだろうか、その姿は、今は既に墓の下にいってしまった妹を無意識に連想させた。

交通事故にあったのが、丁度、あのガキくらいの年頃だった筈だ。学校から帰ってきて、友達の家に遊びに行くと言って出て行ったきり、家に帰ってくることはなかった。

「………」

背丈は小さく、母親譲りの黒く長い綺麗な髪をしていた。もう時が過ぎて数年が経つというのに、その様子は鮮明に浮かんでくるから不思議だ。

思い出してみれば、妹は何をするにしても兄である俺の後ろを付いて回っていた。そして必ずといっていいほどドジを踏んでは泣いては、それで何故か俺が母親に怒られて、などという悪循環が発生していた。

お兄ちゃんお兄ちゃんと連呼され、小さい頃はうっとおしくも思っていたが、それでも顔を合わさない日が一日でもあれば逆に何か足りない感覚に苛まれる。きっと親から見ればずいぶんと仲の良い兄弟をしていた事だろう。

とまあ、そんな感じで、可愛くなかったかといわれれば素直に可愛かったと口にできる妹だったわけだが。

「なんだかなぁ……」

その妹の顔と、あのクソガキが重なるというのも変な話なのだが……。

重なってしまったのだ、自らを誤魔化す術がない。

「ったく」

もし、またこのままアイツがどうにかなってしまっていたらどうだろうか?

相手は俺に何の関係も無い存在だ。

頭の中では理解している。。

けれども、間違いなく後悔する気がした。妹のときは病院のベッドの横で歯を食いしばっている事しか出来なかった自分だが、今回はこんなにも動き回れる。

………………………………………。

…………………………

……………。

何だかんだ暴言を吐いておいて、それでも心配せずにいられない自分自身が腹立たしい。あんなにも殴る蹴るの横暴を働いてくれた相手に、そう感じてしまうとは、自身が相当に狂っているとしか思えない。けれど、一度気になってしまうと、そのまま放置しておけるほど、俺は余裕のある人間でなかったらしい。

「……だから子供は嫌いなんだよ」

それに、アイツには斉藤を助けてもらった借りがある。それを残したまま勝手にどうにかなってしまっては、胸糞悪い事この上ない。

「ああもうっ!!」

頭の中でエリーゼと妹が一緒になってチカチカと点滅している。

ベッドから立ち上がり部屋の電気をつけた。

「ったく、どうしてこうなるのか」

暗闇になれた目が突然の光に悲鳴を上げる。手早くクローゼットから服を取り出して着替えた。時計に目を向ければ時刻は午後11時45分である。

「電車も止まってるよな、この時間じゃあ」

何よりアイツに助けられたまま、というのが癪に障る。

ジーンズのポケットに財布が入っている事を確認すると、俺は部屋を飛び出した。

「まったく、世話の焼けるご主人様だこと」

6月も下旬。けれど、夜の風はなかなかに冷えていた。

何処をどう走ったのかは良く覚えていないが、ただ、こっちだと直感的に思う方向へ足を進めてきた。無論、その道が正しいのかどうかは、頭では理解できないかったが、体が間違いないと太鼓判を押してくれた。

こうして隣町の屋敷へたどり着けた事も偶然などではないのだろう。人の足をはるかに越えた機能をもつ俺のそれは、車を追い越し、家々を飛び越し、目的の場所まで10分とかからずに辿り着いた。なんだかんだ文句を言ったところで、吸血鬼の能力というのは現代社会において、とても重宝するものに違いない。

「さぁて、お前の下僕様が来てやったぞ、っと」

吸血鬼がそのファミリーと呼ばれる相手の居場所を見つけられるのも、どうやら本当のようであった。体内に GPS を搭載しているが如き正確さである。

鉄格子で出来た門を蹴り飛ばして颯爽と庭を駆け抜ける。一体自分の何処にこれほどの力が秘められていたのか。吸血鬼というのは本当に化け物なのだと再認識した。自分でも自分の体を何処まで信じていいのか分からなくなってくる。

「誰もいない、か」

フロアの一階、入って直ぐのホールは都合の良いことに無人だった。こんなところで油を売っている時間はないので先を急ぐことにする。

だが……。

「下?」

感覚に引っかかった相手の居場所は、今立っている場所よりも、地面に向かって下に位置する所だった。

「地下室か? これだから金持ちは嫌だな」

吉川と探索していた時も、それらしいものは見ていない。どうやら一筋縄では見つけられそうに無い。けれど、ここまできたのだ。途中で引き返すつもりは微塵も無い。俺は下へと向かって伸びる階段の詮索を開始した。

だが廊下から見て取れる範囲には、上に伸びるものはあれど、下へ伸びるものは一つも見つけることが出来なかった。

「………無いな」

誰かが隣に居れば、話をすることくらいは出来るが、今は一人なのでそれも出来ない。無駄に緊張が高まり、脂汗が額に浮き上がるのを感じていた。時計の針が進むにつれてダンダンと焦りも大きくなってくる。午前中は何の意味も無く学校で授業を受けていたのに、今のこの状況はなんだろうか。思わず笑いがこみ上げてきそうだった。

屋敷へ向って走っている途中は、斉藤の時と同様に、またあの最上階の部屋に居るであろうと踏んでいたのだが、その考えは的を外れていた。

既に1階の立ち入る事が出来る場所は全て探した。となると後は吉川と来た時に入れなかった、例の鍵のかかった部屋に何かがあると信じるしかなくなる。こうなったら鍵を壊して、閉ざされている部屋の内部を確認する他に手はないだろう。

音を立てる事に些か躊躇したが、このまま何も出来ないで突っ立っていても、あの佐々木とかいう男や、その取り巻きの連中に見つかるのがオチである。だとすれば、多少のリスクを負ってでも先を急ぐべきだろう。

「……よし」

決意を新たに、最寄のドアに耳を擦りつけ、室内に気配が無いことを確認すると、木製の重厚な作りのドアを蹴り破った。喧しい音が周囲に響く。埃を巻き込みながら、蝶番を歪ませたドアはゆっくりと倒れる。それで室内の様子は明らかになった。

中に人がいないことを確認して室内に足を踏み入れる。入り口にあった室内照明のスイッチを上げた。

しかし、豪華な家具や一般人には無縁の絵画や彫刻といった調度品は多数あれど、此方の希望する地下への入り口になりえる箇所は発見できなかった。そして、扉は一枚を破ってしまったのだ、これ以降は遠慮している余裕も無いだろう。破壊音に館の人間が起きて来ない事を祈り、残りの鍵がかかった部屋を次々に破っていった。

決して控えめとはいえない音を立てて、ドアは室内に向かって倒れる。家を出てきたのが11時半過ぎである。ともすれば、既に時刻は12時は回っているだろう。

「………またスカか」

だんだんと遠慮なく扉を壊すようになっていく。

この館には人が住んで居ないのだろうか。かなりの音を立てているのに、使用人はおろか住人さえその姿を現そうとしなかった。

「これでどうだっ!」

此方にとっては都合がいい事なのだが、ここまで静かだと逆に不安になったりもする。まあ、今更考えたところで仕方のないことなのかもしれないが。

そして、なかなか現れない下へ向かう階段とかエレベータとかエスカレータとかに焦りを感じつつ、トータル10枚目の扉を破った時だった。

「あ………」

部屋の明かりをつけて見渡したその室内の奥、暖炉の隣に設置された床の穴に、ようやく目的のものを見つけることが出来たのだった。

「あった」

それは階段を伴って下へと伸びる、地下への入り口だった。

下へ伸びる階段の先の様子は真っ暗で全然分からない。しかし、幾ら大きなお屋敷様だろうと、こんなものがそう幾つもある筈が無い。ここが正解と考えて間違いないだろう。

「まったく、手間かけさせてくれて」

階段を前にして、身体を乗り出し中の様子を伺ってみるが、続く先はとても暗くて何も見えない。しかし、あまり慎重になって、この場で時間を使うのも良くない。屋敷の人間に気づかれてしまっては本末転倒である。なので、覚悟を決めて、先へと進むことにした。

階下に続く階段の手摺を力強く握り、ゆっくりと、ゆっくりと足を進めていった。

「ど、どうなってるんだ!?」

思いのほか長かった階段を降りきり、その先にあった木製の扉をあけた。すると、視界に飛び込んできた光景は、予想していたそれとはかなり異なっていた。

何がどう異なっていたかと言えば、まず一番初めに目に付いたのは、暴れる自らの父親を背後から腕を回して羽交い絞めに押さえつけている沙希の姿だった。オッサンの腕からはチューブが伸び、それが沙希の持つ赤い液体の入ったパックに繋がっている。

「仲間割れ……、な訳ないよな?」

二人の背後には、スチール製の調理台のようなものの上で、四肢を手錠によって台のそれぞれの足に固定されたガキの姿がある。台上には他に、注射器やガラス製の管、それに透明なビニールチューブ等々、なにやら不気味な医療器具がズラリと並ぶ。

「おまえら、一体なにやってんだ?」

どこをどう解釈しても納得の行かない様子に、気づけば思わずそんな事を口走っていた。部屋の中へ足を数歩踏み入れると、そこで沙希と向き合う形になった。自分より遥かに大きなオッサンを、涼しい顔で押さえつけている。

数メートルほどの距離を開けて歩みを止める。

今、ガキの横たわるスチール台の前正面には沙希が居る。つまり、この女をどうにかしなければ、先には進めないということである。

「な、なな、なぜ貴様がここに来るっ!?」

さて、この女を如何にして回避しようか。などと思案していたところ、此方の姿を見止めたガキが素っ頓狂な声を上げた。

「折角来てやったのにそんな口を利くとは、お前もずいぶんなご主人じゃないか」

とりあえず無事らしい。心配していたような事態に至っていなくて良かった。目の前には問題が山積みだが、ひとまず一息である。

「な、何だとっ!?」

「まあいいさ、お前は黙って横になってろ」

どうせ今の状態では出来ることなど何一つあるまい。

「やや、やかましいぃっ! やかましいんだっ! 私は貴様なんぞを呼んだ覚えは無いっ! 何故貴様がここにいるかと聞いているんだっ! 答えろっ!」

ガチャガチャと金属製の施錠を打ち鳴らし、一層激しく暴れはじめる。見ればその手首足首には赤いものが滲んでいた。予想はしていたが、相当に激しく抵抗していたようである。もしも吸血鬼の治癒力がなければ、下手をすれば痕が残るほどの傷口である。この娘は限度というものを知らないのか?

「別に呼ばれて無くたっていいだろ? 俺が来たくてここに居るんだから」

「なっ………」

何を思ったのかは知らないが、それでガキは言葉を失った。

とりあえずは元気そうだし、あれだけ元気に暴れているのならば平気だろう。

まあ、そうなると、現状で一番危うい立ち位置に居るのは俺だろう。なんせ目の前には沙希がいる。この女をどうにかしないことには、ガキを助けるどころかまたゲームオーバーに直行だ。今度はコンテニュー出来るかどうかも危うい。

「それで、そっちはそっちで中々楽しそうな事になってる様だけど、お父様はご乱心か?」

ギャーギャーと騒ぎ立てるガキから沙希へ視線を戻し、用心に身を固めながら口を開く。

「……結局来るのですね」

「しょうがないだろ、気になって寝付けなかったんだから」

「はい」

自分よりも二周り近い背丈の、しかも両手両足を振り回すようにして暴れている中年男性を拘束しながらも、沙希は余裕綽々といった様子で言葉を返してくる。

「父は現在、吸血鬼化の過程におりますので、私が押さえていないとならないのです」

「な、なんだってっ!?」

その言葉に慌ててガキへと目を向けた。

すると、そこには沙希の言葉に勢いを失ったガキの顔がある。

「な……、なんだっ! 何か言いたいことでもあるのかっ! これも貴様が望んだ事だろうがっ!」

怒っている様な、恥じているような、理解に苦しむ表情である。そこにどの様な感情が渦巻いているのかは窺い知れない。だが、俺に対してキレているのだけは確かなようだ。ひときわ大きな叫び声が鼓膜を激しく揺さぶった。

「っていうと、お前、血はもう交換しちゃったのか?」

このオッサンが吸血鬼化の過程にあるということは、そういうことなのだろう。わざわざ聞くまでも無いことだったが、無意識のうちに、ふと、意味も無くにそんな言葉がこぼれた。

「ああそうだともっ! 昨晩の貴様が言った通りになっただけの事だっ! 今更この私に何の用があるというのだ、ととっと帰るがいい。もう既に貴様は下僕でもファミリーでもなんでもないのだからなっ!」

「そ、そりゃ……、たしかに酷いことしちゃったし、その通りかもしれないけどさ……」

この勢いある物言いは相当に怒っていると見て間違いないだろう。ただ、攻め立てる言葉の節々に、変化する表情の瞬間瞬間に、何処か悲しげなものが垣間見えるのは、俺の気のせいだろうか?

「ならばとっとと去れっ!」

どうにも、勘違いではないような気がする。

そんな相手の、まるで隠された背面の部分に気がついて、なんだろう、罪悪感とでも言えばいいのだろうか、今まで軽い気持ちでいた部分の質量がドッシリと増した。

「ふん、どうせ貴様も私の血が欲っして来たのだろう? 人間というものは現金なものだな。糞がっ! 虫唾が走るわっ!」

吐き捨てるように言ってガキは俺から顔を背けた。スチール台の上に横たわる身体は、随分と小さく見える。

たしかに、この娘っ子が拉致られるに至った原因は俺である。

しかし………って、

「………血?」

血が欲しいとはどういうことだ?

「はぁ? なんで俺がお前の血を欲しがらなきゃならないんだよ。あいにくと俺は人様の血液を飲むような悪癖なんか持っちゃいないんだよ。お前と一緒にするんなっ」

「なんだと?」

「俺はただ、お前に作った借りを返しに来ただけだよ」

まさかコイツに面と向かって、心配になってやって来ました、などとは口が裂けてもいえない。頭に浮かんだ言い訳は、昨晩この屋敷に乗り込み俺を助けに来たガキの姿である。

「お前みたいな奴に借りなんて作ろうものなら、後で何をせびられるか分かったもんじゃないだろ?」

「嘘を言うなうつけがっ! 貴様は私の血液が無ければ日の下を歩けないのだ。それを知っていて何故そんな馬鹿げた嘘を吐ける。貴様も私を侮辱するつもりかっ!」

ガキは俺に背を向けたまま、錠でつながれた体を震わせ吼えた。

だがしかし、叫ばれた内容はまったくもって俺がここに居る理由に関知するものでは無かった。

というか……、

その事ぶっちゃけ忘れてたぁあああああ!

「ぁあああああああああああああああ!」

「な、なんだというのだっ!?」

突然の俺の叫びに、ガキは体をビクンと反応させた。

「お前ぇ、そういえばそんな設定もあったじゃないかっ! 忘れてたぞこの野郎っ!」

「な、なんだとっ! どういうことだっ!?」

俺の咆哮にガキの首が勢い良くこちらを振り返った。

「糞っ! こうなったら何が何でも助けないとならないな!」

「えっ………そ、それは……」

怒る鬼神の如くの表情で反らされていた顔は、しかし、驚きの色に染まって此方を振り返った。

「ったく、大人しく待ってろよ。意地でも助けちゃるっ!」

「お、おいっ! 忘れてたっていうのはどういう………」

キッっと沙希へ視線を戻し、ビシリと指差して声を高々に宣言する。

「そういうわけで、意地でもこのガキンチョは返してもらうぞ」

そう、忘れていたが、俺にとってガキは日々の生活を守る上での生命線でなのである。常に手の届くところに居て貰わねば困るのだ。それが、こんな訳の分からんオッサンに拉致られては堪ったものでない。

それに、こんな小さな子供を捕まえて縛り上げるとは、胸糞悪いにも程がある。

「そうですか………」

沙希の息を吐く音が耳に届く。

とはいえ、大変なのはこれからである。

「こんな奴でも、知り合ったのは何かの縁だ、見捨てるのは可愛そうだろう?」

「そうかもしれませんね、その考えには同意します。ですが、まさか貴方が、自身が吸血鬼であることを忘れていたとは思いませんでした。些か驚いているところです」

「う、うるさい。悪かったな、どうせ俺は物覚えが悪いよっ!」

「威張らないでください」

「威張ってないっ!」

しかし、ここから先はどうしたものか。

沙希の親父がエリーゼの血液を吸って吸血鬼になったと説明を受けたが、それが何故、娘とじゃれ合うに至っているのか、その理由が理解できなかった。

「ところで、お前等は何をやっているんだ?」

「父の事ですか?」

「ああ、吸血鬼に成ったのなら、それでもう目的は達成したんじゃないのか?」

ガキの血を飲んだのなら、それで吸血鬼なって終わりだろう。なぜ沙希を相手にして暴れまわる必要があるのだろう。

すると、俺の疑問に背後からガキから声が聞こえてきた。

「その人間はまだ完全に吸血鬼化しておらん。今はまだ、私の体内に自身の血液を無理やり送り込み、下僕と成ったに過ぎないのだ。つまり私が命令を送り動かし、娘がそれを押さえつけているということだ。その程度は理解してくれ」

「え? ……っていうと、どういうことだ?」

疑問符を三つ四つ浮かべた俺に、ガキは苦虫を潰したような渋い表情を作って言葉を続けた。

「吸血鬼に血を吸われた人間は、その人間の血を吸った吸血鬼の下僕となる。今はこの変なチューブで直接血液をやり取りしているが、やっているのは同じことだ。貴様にも教えてやったことだろうが」

顎で沙希の親父の腕に括り付けられた透明なビニール製のチューブを指してみせる。なるほど、確かに、そこには真っ赤な液体が流れていた。

「なんて物覚えの悪い馬鹿だ」

「う、うるせぇな。そんな事情を俺が知ってる訳ないだろう。お前等みたいに、この場で全てを見ていた訳じゃないんだから」

どの様な状況にあっても、このガキの口の悪さは健在である。

「ふんっ、その程度のこと様子から察せ。そもそも馬鹿を馬鹿と言って何が悪い。貴様のように頭のネジが飛んだ下僕は初めてだっ」

「な、なんだと? っていうか、誰がお前の下僕だこの野郎っ!」

「ほぉ? だがお前は先ほど、自分で自分を私の下僕だと述べていたではないか。なぁ?」

「っ!?」

つまらない台詞を吐いた数分前の自分を呪う。

「どうした? ご主人様に向かって過ぎた口を利くのならば、それ相応の罰を与えてやるぞ?」

自分の優位を確信したガキが、両手両足をスチール台に固定されたままの情けない格好で、しかし、そんな生意気な言葉を返してくる。その瞳は細められ、両端を歪めた真っ赤な唇と相まって、相対する者の神経を逆撫ですること必至な厭らしい笑みとなる。

「こ、この野郎……、人が折角心配して来てやったのに、舐めた口を利きやがってっ!」

だが、それについカッとなって返した言葉は、更に阿呆なものだった。

「はんっ、何を言って………、ん、心配だと?」

「うっ………」

感情が高ぶっていた為だろう。無意識のうちに口から漏れてしまったのだ。

ああ、俺はなんて素直なのだろうか。

「ちょ、ちょっと待った! 今の無し、無しだからなっ!?」

「ほぉ? 私を心配してやって来た、とな?」

「ぐぅ………」

沙希の背後にあって、手錠で固定され体を横にしたまま、こちらを見つめてくる。

「そうか、心配したのか。貴様にしては良い心がけだ、褒めてやる」

「う、うるせっ!、いちいち繰り返してんじゃねぇよっ!」

向けられた小悪魔的な笑みが非常に憎たらしい。何が楽しいのか、クックックと喉を鳴らして笑っている。

「そうだな、心配されては仕方あるまい。良いぞ? 思う存分に私のことを心配するといい」

「くぅぅぅ! やかましい阿呆ぅっ! 舐めんじゃねぇぞコラァッ!!」

「ほれ、早く心配しろ。駆け寄って来るか? えぇ?」

クソっ、何故こんな目に……。

「いちいち五月蝿いっ! お前は黙って捕まってろっ!」

「ふん、それではつまらん」

「つまらなくていいんだよっ!」

コイツは無視だ。まともに相手にしても馬鹿を見るだけである。

「それで、こちらの話を進めてもよろしいですか?」

「っ!?」

ガキとの問答に感情を高ぶらせたのも束の間、すぐ目の前に佇む女の言葉を受けて、俺は慌てて体勢を構えた。今は見方同士で争っている場合ではない。

「お父様の意識が戻らない間は、この場の管理を私が仰せつかっています」

「な、ならせめて客に茶ぐらい出さないのか?」

「残念ながらここには急須が無いもので」

そういう問題だろうか?

「ですので、このままお大人しく帰り願いたいのですが」

「俺としては、このガキを貰って帰りたいんだけど」

嫌な汗がジワジワと滲み出てくるのを感じる。昨晩のことで理解していたが、目前の相手は恐ろしく手が早いのだ。油断していると、気づいた時には頭と首が離れていた、などという事態になりかねない。神経を相手の挙動に集中させる。

「それは無理な相談です。お父様が意識を取り戻しておりませんので、私の一存で彼女の処遇を決定することは不可能です」

「お父様ねぇ………」

流石に話し合いで上手くいくような状況では無さそうである。

「もう少し待ってくだされば、お父様も意識を取り戻します。ですので、それまで大人しくしていて下さいませんか?」

「意識を取り戻す?」

「はい」

そういえば、お互いに血を吸い合った吸血鬼は対等な存在にうんたらかんたらと、ガキが喋っていたような気がするが。

「そこある輸血パック内の血液が全て彼女の中に流入すれば、父の下僕化は完了するのだそうです。既に八割は済んでいるので、あと数分も待てば終わるでしょう」

「ゆ、輸血パック?」

言われてみれば確かに、スチール台の上で横たわるガキの隣には、赤い液体の入ったビニールパックが、同じく鉄製の銀色に光るスタンドに括り付けられてあった。

「その後は、お父様に付けられたパックの弁を開けて作業は完了です。これによりお父様は其方の方のファミリーとして再び意識を取り戻すそうです」

パッと見では気づけなかったが、目を凝らしてみれば、そこから延ばされたチューブはガキの腕まで伸びていた。沙希の親父だけでなく、このガキも同様に、チューブを利用して強引に血液を輸血していたようだ。どうやら、血を吸うという行為は、その過程はどうあれ、体の中に相手の血液が入ってしまえば、それで良いらしい。

「や、やかましいっ! 見るな、見るんじゃないっ!」

俺の視線を受けて、四肢に付けられた錠をガチャガチャと揺さぶりながら、ガキは叫び声を上げた。

「お前等、本当に何やってんだよっ!」

医療器具というのは、それだけで危ういイメージが先行する。健康な身体へ針を突き刺されて横たわるその様子は、下手に殴られている様を見るよりも痛々しい。気がつけば俺は、ガキの元へ駆け寄ろうとして、その場を飛び出していた。しかし、相手がすんなりと通してくれる筈も無く、沙希はオッサンを羽交い絞めにしたまま、器用に蹴りを放ってきた。

しかし、不安定な状態で放った一撃は俺でも十分に避けられるほど緩い。首を狙ったであろう一閃をしゃがみ込んで交わす。そして、膝のバネを使い飛び上がると、ガキの横たわるテーブルの反対側まで空中を移動し、着地した。沙希とはスチール台を挟んで反対の位置にある。

「よしっ」

医療の経験などまったく無いが、とりあえずは針を抜けば良いだろう。相手がこちらへ回りこんでくる前に、腕に刺さっていた異様に太い針を引っこ抜いた。

「っ!?」

「あ、痛かったか?」

勢い良く引き抜いた為か、口から小さな悲鳴が漏れるのが聞こえた。

「あ、当たり前だ馬鹿者っ! もっと丁寧にやらんかっ!」

「今はそれどころじゃないし、それくらい勘弁してくれよ」

「ふん、主人に対する思いやりが足りんな」

「お前、こんな時に贅沢を言うなよ」

「それに、これだけの血液を体内に入れられてしまったのだ。今更抜いたところで何の意味も無い」

「…………」

その言葉には結構な罪悪感があった。その原因を作ったのは俺である。だが、今は過ぎた出来事に懺悔している暇も無い。2,3度言葉を交わしたところで、テーブルを回り込んだ沙希がこちらへとやってきた。無論、その両手はオッサンを羽交い絞めにしたままである。

「外してしまいましたね。また付け直さなくてはなりません」

ガキにかけられた手錠を外す間も無く、沙希の爪先が顔面に向かって飛んで来た。

「くぉおっ!」

場慣れしていないので、何をしてくるにしても、相手の一挙一動に驚きを隠せない。けれど、先程と同様に、オッサンが邪魔になって、相手の動きは鈍っている。避けられないことは無い。腰を屈め直撃の寸前で回避し、反撃に移った。

羽交い絞めにされているオッサンを標的にして、右の拳を力一杯振う。

しかし、相手は背後に跳躍して拳は交わした。

間合いが数メートル開く。

「何をしている、そのような娘とっとと殺せ」

「馬鹿言うなよ。お前が相手して無理だった奴を、俺がどうやったら倒せるんだよ」

背後から無理難題が飛んでくる。

「私の下僕ならば、その程度は出来て当然だ。いや、出来ぬ訳がない」

「根拠がわからんっ!」

横目でチラリと背後を盗み見る。ガキの手にかけられている錠は、かなり丈夫に出来た代物であることが伺えた。成人男性の手首と同じぐらいの太さがあるそれは、吸血鬼の馬鹿力を持ってしても、力任せに開錠するのは難しそうだった。とはいえ、鍵の在りかは分からないし、どうすればよいのか。

「さぁ、早く針を元に戻してください」

「誰が戻すかっ」

自ら取った間合いを、相手はじりじりと縮めてくる。

「それよりも鍵をよこせ、鍵っ!」

「それは出来ない相談です」

「いいからさっさと殺せっ!」

「お前は黙ってろっ!」

拳に汗を握りながら、少しづつ近づいてくる沙希の様子を静かに伺う。攻撃を避ける事が可能な今のうちに、何かしらの行動を起こさなければ、いつ沙希の言葉通り、オッサンが正気に戻るか分からない。そうなってしまっては手足も出なくなってしまう。

「クソッ!」

時間稼ぎにと思い、スチールテーブルの隅に置いてあった、仕様用途の不明なガラス管を投げつけた。

「そんな事をしても無駄ですよ」

しかし、それもコンマ数秒の間を持たせることしか出来ない。華麗な足技で叩き割られ、破片が音を立てて床に広がった。

「チェックメイトです。諦めてください」

「学校ではあんな事を言っておいて、結局来てみればこれかよ。一体何がしたいんだよお前は」

「私はお父様の言葉に従っているだけです。それ以外の何物もありません」

「なんだよ、結局お父様かよ」

この言動は人として明らかにおかしい。どこか、頭のネジが抜け落ちてしまっているのではないだろうか? 狂っているとしか思えない。

「おい、ご主人様」

「ああ?」

「そこにいるオッサンって、今はお前の下僕なんだろ? 何とかならないのかよ。こう、上手いこと操って脱出、みたいな」

「それが可能なら既にやっている。ああして暴れているのも、私がそうさせているからだ。だが、肉体を操っているに過ぎない以上、あの下種が持つ以上の力を行使させることはできん」

「マジかよ。あのオッサンも使えない下僕だな」

「それは貴様も同じだ阿呆が」

「んだよ。いいか、見てろよ? この超有能な下僕様の活躍する姿を」

こうなれば、ガキの身体を固定しているスチール台ごと抱えて脱出するまでだ。

幸い簡素な作りをしている。重さも3,40キロといったところだろう。ガキの体重が見た目通りならば、吸血鬼の馬鹿力を動員すれば、この程度は運べる筈である。

「よっしゃっ!」

敵は行く手を阻むように、地下室の出口と、俺とエリーゼの居るスチール台の置かれた場所との直線上に立ちはだかっている。これは非常に厄介な関門だが、しかし、なんとかするしかあるまい。

「おい、ちょっと揺れるけど我慢しろよっ」

「な、なんだ?」

沙希に注意を払いながら、すぐ隣にあるスチール台の両端を掴み。腰の辺りにあった天板を、胸の高さまで持ち上げた。大きさがあるので運び難いが、重さは大丈夫そうだ。

「お、おい貴様、何をするっ! ってぉおおおおあああ、こ、こらぁぁっ!」

「このまま逃げるぞっ!」

「ちょっ、ちょっと、待てっ! このままって、ぇえっ!?」

「させませんよ」

学校の教室掃除よろしく、机を担いで走り出す俺。それを止めるべく立ちはだかった沙希を相手に、机を持ったまま跳躍した。地下室の天井に当たるギリギリのところで身体を捻り半回転し、天井に両足を着いてワンクッション、空中で猫のように体勢を整え、出口の一歩手前辺りへ見事に着地する。

この屋敷へ向かって走っている時に気付いたのだが、俺の身体能力は吸血鬼という化け物に変化するに際して、恐ろしいまでに発達していた。自分でも、今の某中国雑技団顔負けの演技には、絶賛の拍手を送りたいところである。中学の頃では、友達と宙返りや後転飛びの練習をして遊ぶこともあったが、それとは次元が違う。

「な、なぁにを、いきなり、は、はは、走りだすかぁあっ!」

俺の動きに合わせて振り回されたガキからは、混乱気味の文句が聞こえてくる。でも、今はそれに答えている余裕も無さい。

「逃がしませんよ」

唾を飛ばし吼えまくるオッサンを両手で抱え、その上で更に、俺達を追撃するべく背後から沙希が迫っていた。

「マジかよ、凄いな」

二人羽織りの如く、奇怪な体位で迫ってくる沙希は、長身であるオッサンを正面に抱えながらも、相当な俊敏さである。

「い、意地でも逃げてやるっ」

机を持ったまま、3段飛ばしで先ほど降りてきたばかりの階段を駆け上がる。一歩駆け上がるごとに加わる振動で、机上の奴がギャアギャアと喚くが、気にしない。

「もっと丁寧に扱え馬鹿っ!」

「そんな余裕があるかっ!」

こんな間抜けな追いかけっこが他にあるだろうか? 子供を縛り付けた机を運ぶ男と、それを追う父親を抱えた娘。傍から見ればかなり阿呆に見えるだろう。やっている本人達は至って真面目なのだが。

「逃がしませんっ!」

階段を上りきり、屋敷の一室から窓を破って外へ飛び出る。ガラスの破片で顔に切り傷が付くも、数秒と立たずに煙を吐いて消えた。一応、台上の様子が気になって手元を確認したが、窓には背中から飛び込んだのでご主人様にガラス片が及ぶ事はなかった。吸血鬼の力を失った今のコイツには、僅かな傷にも治療が必要となるのだ。回避しなければならない。

それにしても、昨日とは立場が完全に逆だ。

「くっ、……早いですね」

聞こえてきた相手の言葉に、チラリと後ろを振り返る。割れた窓の隙間から、ちょうど階段を上りきった沙希と、その腕に押さえつけられているオッサンの姿が見えた。

「こっちだって必死なんだよ」

テーブルを持ったまま走るのは結構辛いし、鬼ごっこも出来る限り早く終わりにしたい。

「ええい、揺らすな阿呆、呆け、間抜け、馬鹿っ!」

「贅沢言うなっ!」

背後に気を取られたのも一瞬である。再び全力疾走で屋敷の庭を門に向けて走り抜ける。後ろからは沙希が追いかけてくる足音が聞こえるが、流石にに暴れるオッサンを相手にしながらでは辛いのだろう。段々と気配は小さくなっていく。

「よし、一気に行くぞっ!」

「な、なんだっ!? なにをするつもりだっ!?」

声高らかに宣言し、俺は脚に力を込めて全力で地を蹴った。

「ぉぉおおおりゃぁああああ!」

後ろへ流れる景色を視界の隅に収めながら、屋敷を囲う塀を越えて身体は上昇する。無論、両手には確りとスチール台を持っている。

「待ちなさいっ!」

そして、y 軸上において極限値まで上がった身体の座標値は、x 軸及び z 軸上において、既に下に屋敷の門と塀を越え、その前に通る道を捉えていた。流石の沙希も、暴れるオッサンを抱えてこのような真似はできないのだろう。相手が迫ってくる気配は感じられない。

「ききき、貴様っ、もうすこし丁寧にっ!」

「黙ってないと舌噛むぞ!」

「うぬぅっ!」

次第に重力の修正を受けて、加速度は上にマイナス値を取るようになる。落下し始める体。俺達は屋敷の前を通る片側一車線の道路を僅かに越えて、その先に茂る森の中へと落ちていった。

そして、樹木の枝に身体を裂かれながら、ゴウゴウと耳に風切り音を聞きつつ、落下感を味わうこと数秒。

「着地ぃいい!」

「ぁぁぁぁあうっ!」

足に伝わる強烈な刺激が全身を痺れさせた。テーブルに縛り付けられているガキは結構な衝撃を受けたようだが、まあ、コイツにはいい薬になるだろう。台は上半身で抱くようにしっかりと持っていたし、着地の衝撃も出来る限り和らぐよう努力した。怪我はしていないと思う。多分。

「だ、だ……だからもっと丁寧に……」

木々の茂る中に逃げ込んだので、お互いの姿を確認する術はない。しかし、相手は姿が見えなくとも何処かしらからこちらへ向かっている可能性も考えられる。ここは十分な距離を確保するべきだろう。実際のところ、何処まで行けば安心なのかは分からないが、俺の家ならば、この町とは市町村を別とするし、流石に追いかけてくることもあるまい。あと、ガキに付けられた手錠を取り払わなければならない。それも、家に帰れば、何かそれっぽい工具があるだろう。

そう結論付けて、夜空の下を家に向かい急いだ。

町を走っているときは、その姿を誰かに見られないかと心配だった。小さな子供を手錠でテーブルに縛りつけ、それを手にして必死の形相で走っている男の図である。誰が見ても変質者で確定だろう。警察に見つかれば無罪で現行犯逮捕である。

しかし、時刻が深夜の2時を回っていたことが幸いして、出歩く人の姿は殆ど見かけられず、人に声をかけられる事も無く、無事に家まで帰ることが出来た。

マンションへ戻り、リビングへスチール台を運び込み、ようやく、一息つくことが出来た。机の上には恐ろしくご立腹な様子のガキが、四肢を固定されたまま、顔だけこちらに向けて睨みつけてくる。

「貴様……」

そこから先は、相手が何を言いたいのか、手に取るように理解できる。

「だって、しょうがないだろ……」

ウサギやハムスターのような小動物ならば殺せそうな勢いの、まさに鬼の様な形相だった。しかし、格好が格好なだけに間抜けである。

「やかましいわっ! 敵前逃亡も然ることながら、主人に対するこの扱い。下僕の分際で好き勝手しおって、ぶち殺すぞっ!」

「あー、いやまあ。そりゃ、少しは悪かったとは思ってるけど、今回は仕方が無いだろ? それに、そんな格好で凄まれても全然怖くないぞ」

「な、なな、なんだとぉおおお!?」

コミカルに手足をジタバタと動かしながら、憤怒の形相で吼えている。けれど、机に貼り付けられたその状態では、怖いどころか思わず笑みを作ってしまいそうになる。

「クソッ、クソッ! 早くこれを解けっ!」

「分かってるよ。けど、こんな厳つい手錠をどうやったら取れるんだよ?」

手錠の直径は平均的な成人男性の腕の太さより一回り大きく、それを繋ぐ鎖も、まるで大型バイクのチェーンロックに利用されるような、非常に強力な物だ。正直、鍵無しで開けるにはワイヤーカッターを用いても、まだ足りない気がしてならない。

「お前は私の下僕だろうが、これくらい軽く引き千切れ」

「阿呆、それが出来たら苦労しないわ」

ガキの横たわるスチール台に両肘をついて、ハァとため息を漏らす。

「お前、やる気が無いぞっ」

「とは言っても鍵が無いだろ?」

「だから、この程度の鎖など取るに足らぬと言っているだろうが。さっさと解け。それとも、まさかわざとそんな態度を取っているのか?」

「だから、そんなの無理に決まってるだろうが。っていうか、お前って、こんな状況でも態度だけはデカイんだな」

「や、やかましいっ。下僕が主人の為に尽くすのは当たり前だ」

「けど、昨日屋敷に来たときは、俺なんてもう下僕でも何でもないとか言ってなかったか?」

「そ……、それは……」

「それともなんだ、やっぱり下僕が恋しくなったか?」

「ば、な、黙れっ! そんな筈があるかっ!!」

屋敷で捕まっていたときより、更に激しく台の上で足掻きだす。先程までは、素性の知れぬ相手に掴まり、その手の内に監禁されていたというのに、家に帰ってきてすぐにこのテンションである。なんてタフな奴なのだろう。

「貴様の戯言なんぞどうでもいいっ。それよりも早くこの錠を外せ。何時までこうしておくつもりだっ!」

「ったく、こんな状況でも強気でいられるとは恐れ入るね」

「な、なんだと!?」

「お前、まさか今まで俺にしてきた暴挙の数々を忘れたとは言わせないぞ?」

両手の指をワキワキと動かしながら、目前に横たわるガキへとゆっくり迫る。

「……何の事だ?」

「その指輪を嵌めてると、吸血鬼の馬鹿力とか、そういうのが一切合財全部無くなるんだよな?」

相手の右手に嵌められた指輪に視線を向ける。

「その通りだが、それが……、どうしたというのだ」

此方の様子に何か思うところがあるのか、その表情に若干の陰りが浮かぶ。

「それはな………」

そう、今こそ絶好の復讐チャンス。殴る蹴るの横暴の限りを尽くしてくれたこのクソガキに、少しでも虐げられる側の気持ちってを思い知らせてやらねばなるまい。これから行うのは、立派な道徳教育である。

「こういうことだっ!!」

相手は四肢をスチール製の台に固定されたまま身動きが取れない。ならばやることは1つだろう。その無防備な脇腹へ、勢い良く手を滑り込ませた。ガキが身に纏っている、例の水着の様なヘソ出しスタイルの服では、肌の露出している箇所が多く存在する。脇腹もその1つだ。俺はそこを猛烈な勢いで擽り始めた。

「ちょ、ちょっと、貴様っ、ま、待てっ!」

「はっはっはっは、苛めてばかりじゃ釣り合いが取れないだろ? たまにはやられる側も体験した方がいいんじゃないか? これも勉強だ、勉強」

コチョコチョという擬音が聞こえて来そうなほどに、脇腹や二の腕、太股といった箇所を、遠慮なく思い切り擽ってやる。

「は、ちょ、あああ、まてっ、こらっ! こ、こ、こりゃひっ!」

「だーれが、待つかよ。ほーら、どうだ、くすぐったいか? くすぐったいだろう?」

「ひゃっ、やめろと言っておろうがっ! き、きさあひゃぁっ」

「お前には散々やられたからな。言っただろ? 俺は借りは作らない主義なんだよ。お前の場合、相手が相手だからな。返せるときに返しておかないと、次の機会が何時になるか分かったもんじゃないし、今までの分をまとめて返してやる」

「あああ、ちょ、まって、ひゃああ、あ、あ、あ。ああやめ、やめっ、やめぇっ!!」

深夜のリビングにガキの喘ぐ声が響く。

これは非常に気味が良い。快感である。

「ほらほらほら、まだまだ終わらんぞっ!」

「ああ、やめぇろっ!」

相手は両手両足を封じられているのだ。身体を捩ったり、頭を振ってみたりと、必死になって抵抗してくるが、それも此方の行為を妨げるには至らない。むしろ、抵抗されれば抵抗されるほどに燃えてくる。

絶え間ない刺激に、小さなお腹がピクピクと痙攣して反応する。こうしてみると、なかなか可愛らしいではないか。

「そうだな……、後10分くらい擽ったら止めてやるよ。それまでは、まあ、頑張って耐えるんだな」

「なっ、そ、そんな・・・・・・ひゃっ! ば、馬鹿がっ! 無茶だっ!」

調子に乗って台の上に乗っかり、馬乗りになるような形でガキを擽り続ける。端から見れば変態そのものだが、ここは自宅である、何をしようと、誰かに咎められることもない。やりたい放題である。

「あっ、ああ、ひゃ、ひゃめ、ひゃめろっ! ぅあっ」

ヒクヒクと震える小さな体を押さえつけ、段々とはっきりしてきた弱点に焦点を定め、ひたすらに攻めた。触れる肌は絹のようにサラサラで指が良く滑る。変な言い回しだが、擽り心地も最高だ。

「そ、そこはっ、ああ、ま、まてっ、まっ、てっ!」

「ココが弱いんだろう? まかせろ、完膚なきままに擽りつくしてやる」

「ああ、そぁあ、やめ、やめろ………ああああっ!!」

………………………………。

………………………。

………………。

そして、そのまま本当に10分間に渡って、俺はガキの身体を擽り倒してやった。これで少しは俺の鬱憤も晴れるというものである。後でこの身がどの様な待遇を受けることになるのか、それは考えたくないが、現状では相手もただの人間と大差ない。ならば恐れるものは何も無いだろう。

「はぁ………はぁ………はぁ………」

荒い呼吸とタイミングを共にして腹部が大きく上下している。

「どうだ、これで少しは懲りて、俺に対する扱いというものをだな………」

「き、貴様………、絶対に殺すっ!」

「まだそんな事を仰いますか」

「やかましいっ! こんな………、少しでも貴様に期待した私が馬鹿であったわ」

唾を飛ばして荒げた声で叫ぶ我がご主人様。

「なんだ? 何を期待してたんだ?」

「な、なんでもないっ!」

言葉を返すと、途端にそっぽを向いてしまった。

「……………」

まあ、現状に至る一端の責任が俺にあるのも確かだ。だからこうして助けに行って、再び家に連れ帰ってきたわけでもある。下僕の報復も、この程度でいいだろう。

「………まあ、一応は理解してるよ」

力無く目の前に横たわるその姿は、本当に年相応の女の子に見えるから不思議である。例の馬鹿力と、性根の腐った性格が表に出なければ、その容姿は絶世の美少女と称して良いだろう。これで、あと10歳ほど老いていれば、ハリウッド女優も顔負けの美女が誕生したというのに、勿体無いことである。

「その期待通り、お前が元に戻るまでは手助けするさ。だから、お前は家でジッとしてろ。どうせ今のままじゃ、大したこと出来ないんだろ?」

「………それはそうだが、しかし、貴様に何ができる?」

「何のための下僕様だよ? 折角助けたんだ、これでまた捕まられたら、それこそ骨折り損の草臥れ儲けだ。お前はここで大人してろ、後は俺がやる」

「ふん、ずいぶんと偉そうな口を利くじゃないか」

「うるせぇよ、でなけりゃ助けに行ったりしないわ」

「…………」

実際のところ、あの沙希という女に勝てる見込みがあっての発言ではない。しかし、一度助けると決めたのならば、最後まで遣り通すのが道理だろう。こんな横暴な奴でも、俺の情けない頼みごとを聞き叶えてくれたのだ。それくらいの筋は通したいし、力になりたいと思わない訳でもない。無論、そんなことを面と向かって言えるはずも無いのだが。

「………ふん、勝手にしろ」

不貞腐れた様子で、そっぽを向いて答えた。

コイツにしては例外的な素直さであった。

「しかし、何をするにしても、この枷を外すのが先だよな。吉川の家に何か道具がないか聞いてみるから、ちょっと待っててくれよ」

油圧式のワイヤーカッターでも手に入れば良いのだが、それが無かったとしても、お家柄何かしら役に立つ道具がある筈だ。そう考えて、既に暗記してしまっている友人宅の電話番号を頭に浮かべながら、リビングの入り口にある電話台へと向った。

だが、それも数歩で背後からの声に呼び止められた。

「この鎖を持ってみろ」

有無を言わさぬ凛とした声が、耳の奥にまで響いた。

「だから、それを取る為に……」

「いいから持て。お前ならば出来ると言っているんだ。私の血を舐めるなよ? この程度の枷が引きちぎれずして私の下僕である筈がない」

先ほどとは打って変わって真面目な強面で睨みつけてくる。その圧倒的な雰囲気に気圧されて、足は自然とスチール台の前まで戻っていた。

「………持つだけでいいのか?」

「手に持って引っ張ってみろ。常人には強固な鎖でも、貴様にとっては子供の玩具に過ぎん」

「でも、そんなこと言われたってな………」

渋々と言われた通り、台に繰りつけられた手錠の一方と、ガキの腕に付けられたもう一方を左右の手で持つ。垂れた鎖が鉄製の台に当たって硬い音を立てた。

「そのまま引っ張ってみろ。私の腕を引きちぎらぬよう注意しろよ?」

「幾ら力んだって、こんなのが取れる訳ないだろ?」

仕方が無く言われるままに腕に力を込めた。

すると、何故だろう。果たして予想は大きく裏切られた。

手にした鉄製の鎖は、まるで粘土でも引きちぎるようにして、ブチンという鈍い衝撃とともに砕け散ったのだった。

「ああっ!?」

なんだこれはっ!?

「だから言っただろう。既に貴様が吸血鬼化してから二晩が経過している。昨日は目覚めたばかりで半端に覚醒した状態であったのだろうが、今は違う。貴様の体は完全な吸血鬼のそれになったのだ。力も、反射速度も、強固性も、人間とは比較にならんのだ」

「な、なるほど………」

開放された右腕の感触を確認するようにヒラヒラと振りながら、そんな説明をしてくれた。そうなると、屋敷へ走った時の人並み外れた脚力も、鋼鉄のドアを蹴り飛ばした時の凶悪な蹴りも、その説明に因るところなのだろう。とんでもない馬鹿力である。土木作業員になったとしたら、さぞ重宝されるに違いない。

「理解したのなら残りも早く外せ」

これなら工具を使うよりもなお早い。

「それとも、お前はこういうのが趣味なのか?」

貼り付けにされたままの、自らの身体を眺めてニヤリと笑みを作り、俺をからかう様にして無駄口を叩いてくれる。

「うるせぇ、誰がお前なんかに欲情するかよ」

「そうか? それは残念だな」

ブチン、ブチン、と軽い動作で残りの左手首と両足首の枷につながる鎖を引きちぎる。これならば、屋敷に助けに入った時点で解いてしまえば良かった。そうすれば、もう少し楽に救出を出来た筈だ。とは言え、ガキの言葉に聞く耳を持たず、一人で勝手に突っ走ったのは俺なので、そう口にすることは出来なかった。

「さぁ、これでいいんだろう」

「ああ」

身体の自由を取り戻し、台の上からぴょんと飛び降りる。しかし、あの変な指輪のせいで、自然に治癒される事のなくなった傷は、しっかりと両手両足に残っていた。枷を嵌められた状態で暴れたことにより出来たものである。

「やっぱり、その指輪は取れないのか?」

「ああ、これはただのリングでは無い。魔力を付与されているんだ。いくら貴様の力が強くなっていたとしても、魔力で太刀打ちできないのならば取り外す事は不可能だ」

「よくわからないけど、なんだか面倒そうだな」

「ふん、それもこれも貴様のせいだがな?」

「そ、それは……、俺だって悪かったと思ってるよ」

「どうだかな。どうせ口だけだろう? 人間は何時の世もそうだ、信じられるものか」

「本当だよっ!」

「そうか? ならば、それなりの誠意を見せてもらおうか?」

「誠意?」

「そうだ。一昨日の契約を再び契るとしよう。嫌だとは言わせんぞ?」

「一昨日の契約………」

「契約」という語句をキーワードにして、賢明に薄れつつある記憶を手繰り寄せる。すると身に覚えのある一つの事柄にたどり着いた。

「もしかしてお前、また汚い足を舐めろとかほざくんじゃないだろうな?」

「その通りだが?」

「こ……この野郎……」

「なんだ、やはり貴様もあの下種と同様に口先だけの人間か? 吸血鬼化しても、屑は屑ということだな。見下げた精神だ、反吐が出る」

「んだって?」

沙希の親父と一括りに纏められたことにイラっと来た。

「なんだ、違うのか? 誰かを犠牲に何かを得る。貴様がした事も、あの下種がした事も大差ないだろう? それが自分の為か他人の為か、その程度の違いが何だと言うのだ。別にそれが悪いとは言わないが、私を裏切ったのは同じことだ。そして裏切りは敵だ。そんな奴を無条件に許せる筈が無い」

「それは………、そうかもしれないけど」

「ほらみろ、なんて様だ」

冷笑を浮かべるガキに、俺は返す言葉が無かった。しかし、あの時の選択は決して間違ってはいなかったのだ。今だって俺はそう思える。

ただ、同時にコイツに対しても、悪かったと感じているのは確かである。だから、そう考えると相手の言い分が、なんとなく仕方の無いことのように思えてきてしまったのだった。自分の行動の落とし前は自分でつけるものだろう。その代償は最悪だが、それも一つの結果である。腹をくくるほか無い。

「ったく、わかったよ。足でも尻でも何でも寄こせよ」

コイツにしても、結構酷い目にあったのだろう。強制されるのは腹立たしい事この上ないが、その程度で寄った皺が伸びるのならば諦めよう。それに、既に1度行ってしまっているのだ。こうなれば2度も3度も変わるまい。きっと。

「ほぉ? ずいぶんと素直じゃないか」

スチール台に背を預けて佇むガキの、その足元にしゃがみ込んむ。

「そりゃ、屋敷での件は俺だって悪かったと思ってるからだよ。仮にも助けに来てくれた奴を差し出すような真似したんだから良心も痛むよ」

「………」

「けど、あれはあれで最良の答えだったんだよ。別に後悔も何も無い」

「ならばそれは何の真似だ? それは」

「はぁ? お前が誠意を見せろとか言ってきたんだろ? だから従ってるんだろうが。俺なりの謝罪だよ。言っておくけど、別に忠誠を誓おうって訳じゃないからな? 勘違いするなよ?」

「………」

膝を曲げて、尻を浮かせて座り込んだ状態のまま相手に向き直る。顔の位置は相手の方が頭ひとつ分くらい上にある。

「な、なんだよ。何か言えよ。いいか? 悪かったって言ったのは本当だぞ? だから、それを示せばいいんだろう? いいよ、足だろうとなんだろうと舐めてやるよ、それでお前の気が済むなら安いもんだ」

「………ふん」 

「だから、ほら、とっととその足を寄こせよ」

俺が自ら催促すると、ガキは無言で右足を目前に差し出してきた。

「好きにしろ」

そう答えた顔には、それまでの人を馬鹿にしたような笑みが消え、その代わりに、如何とも形容し難い、困惑に歪んだ表情が浮かんでいた。その感情は窺い知れない。

「いくぞ」

抵抗はあるが、それでガキの気が治まるのならば良しとしよう。これくらいは我慢である。目前に差し出された白い足を両手で持ち、その上に舌を落とした。

「んっ………」

きっと、くすぐったかったのだろう。頭の上から小さく吐息が漏れるのが聞こえた。

それにしても、これで他人の足を舐めるのも2度目である。俺も随分と落ちたものだ。こうなれば、体裁もプライドも知ったことか。思い切りやってやろう。ここまで来るとヤケクソだった。

親指を咥内に含み、舌で十分に撫で回す。肌触りの良いのは身体において末端である足の指も同様らしく、舌で舐め上げるにしても、サラサラとした感触が得られた。親指を終えると、次は残りの4本の指である。順に親指と同様に口へ含み、舌を這わせた。舌が触れてくすぐっったいのか、時折、咥内でピクピクと動くのが感じられた。続けざまに、指と指の合間に舌を差し入れて、チロチロとその隙間を舐め上げた。至れり尽せりのフルコースである。

「っ……ぁ…」

そして、最後は大口を開き、足の指5本をまとめて口に含み、しゃぶる。

「お、おいっ!」

それには流石に驚いたのか、上から声がかかった。しかし、口が塞がっているので言葉を返すことは出来ない。特に相手の言葉に反応することも無く、俺は「謝罪」を続けた。

口の中で、足の指を丹念に舐めまわす。唾液でべとべとになった指に、舌を丹念にこすり付け、一本一本を吸い上げるようにしてしゃぶっていった。静かな夜のリビングにピチャピチャと足を舐める音が響いていた。

音だけ聞いてるとずいぶんいやらしい。

唇で指先を甘咬みしながら、細部に至るまでを完璧に撫で回す。

………そんな事を、しばらく続けた。

まったく、何をやっているんだろう。