金髪ロリツンデレラノベ 第一巻

第四話

「それで、これからのことだがな」

ガラステーブルを挟んで反対側のソファーにどっしりと腰を下ろしたガキが、偉そうに口を開いた。その態度は家主である俺よりも大きい。

「ああ……」

なんとかご主人様の許しを得ることが出来た俺は、今後の対策を考えるべく、睡眠時間を削ってリビングに居た。最後まで面倒を見ると豪語してしまったのだ、その約束は果たさねばなるまい。それに、このガキが弱ったままでは、俺もこの先ずっと負い目を感じて過ごしていかなければならない。それは精神衛生上よろしくない。あと、少しだけだが、一切の利己心を考えなかったとしても、純粋に助けてやりたいと思わない訳でもない。

「分かってるよ。言ったからには当面お前の面倒は俺がみるさ」

「……当たり前だ」

答えると、拗ねたような口調でそっぽを向いてしまった。

「けど、面倒見るのはいいけど俺は一体何をすればいいんだ?」

とりあえず家に連れ帰って来たのだが、この後の事など、殆ど何も考えていなかった。あのオッサンが此方を追いかけて来るかもしれないし、そうなったら、今度こそ沙希に殺されてしまうだろう。

「ぁあ?」

「いや、だから、お前の面倒を見るって言っても、具体的に何をすればいいんだよ」

「それぐらい自分で考えろ。いちいち私に聞くな」

さて、どうしたものだろう。

この様子では、コイツにしても何も案は浮かんで来ていないのだろう。

「なぁ、自分の事なんだから少しは深刻そうな面を見せたらどうだ?」

「ふん、別に私がどんな表情をしていようが貴様には関係ないだろう。それに、あの下種は既に目的を果たした筈だろう? ならば苦労してこちらを追ってくる事もあるまい」

「本当か?」

「ああ、私の血の特異性に気付いていれば話は別だが、この身が封印されて久しいこの時代、極東の島国でその事を知っているのは、お前くらいだろう」

特異性というのは、昼もお天道様の下を闊歩できる能力を指してのことだろう。

「だといいけどさ……」

「疑うなら勝手にしろ。そもそも、貴様自身が忘れていたではないか、阿呆が」

「う、うるさいな。仕方が無いだろ、色々と忙しかったんだから」

ガキはガラステーブルの上に置かれた冷茶を一口含む。

「………しかし、このままというのも困るな」

「そうか?」

「当たり前だ。まさか、お前は私に、ずっとこのままでいろと言うのか?」

「俺としては、お前が弱っててくれると非常に助かるんだけど、駄目か?」

「あっ、当たり前だっ!」

俺の言葉に思いのほか憤慨したガキは、その場で立ち上がり、怒鳴り声を張り上げる。

「貴様は下僕のくせに、自らの主人の不幸を願うというのかっ!?」

ガラステーブルを乗り越え、シャツの襟を掴み、圧し掛かって来る。太股の上に座り込み、ガクガクと身体を揺さぶってくるその行為は、もしも、その手に指輪が嵌められていなかったのなら、首の骨を容易に脱臼させるだけの威力があっただろう。やはり、指輪の存在は大きい。

「だから、いちいち実力行使に訴えてくるなよ。襟が伸びるだろうがっ、襟がっ!」

「やかましい。貴様の襟が伸びようが縮もうが知ったことかっ! そもそも貴様は下僕としての態度が成ってないのだっ!」

力を封じられていようが封じられていまいが、コイツの横暴な性格には全く変化が無い。

「うるせっ、誰が下僕だ、誰が。っていうか、下僕下僕と連呼してくれるけど、考えてみれば、今は俺の方がお前よりも強いんじゃないか?」

「な、なんだと!?」

「だって、そうだろ? 君、指輪のおかげで普通の子供。俺、君のおかげでスーパーマン。どうよ?」

「き、貴様……、まさか私を裏切る気か?」

これまでは、話が此方に有利に流れると、相手は即座に暴力に訴えてきた。話し合いは常に俺の無条件降伏で終っていた。しかし、例の指輪の登場で、そんな二人の会話に新しい選択肢が出現していた。これは大きな一歩であろう。それを自らの手で再び帰さねばならないのが非常に悔やまれるが、約束してしまったのだ、仕方が無い。

「なんだよ、そこまでは言ってないだろ。責任は持つって言っただろ?」

相手の言葉にムッとするものを感じながらも、そう言葉を返した。すると、途端にガキは罵倒も半端に押し黙ってしまった。

「………………」

「な、なんだよ、いきなり黙って……」

「だ……、だったら早く何とかしろ。この呆け」

「分かってるよ、っていうか、本当に、一言も二言も口が多い奴だな」

「だから、そ……、それはお前が役に立たないからだっ!」

「うるせぇ、ほっとけっ!」

それで気分が落ち着いたのか、シャツの襟を握っていた手が離された。予想通り、綿で出来た生地はベロンベロンに伸びてしまっている。首の後ろが痛いほどに、全力で引っ張られていたのだ、それも当然だろう。

まあ、過ぎてしまったことをうじうじと考えていても仕方が無い。氷で冷えたグラスを傾けて、その中にある液体を一気に飲み干した。暑い季節に飲む麦茶はうまい。

「しかしなぁ……」

屋敷で沙希の親父が言っていた言葉が本当ならば、ガキの指に嵌められた指輪を外すことができるのは、それを嵌めた本人、つまり沙希だけということになる。何とか外してやりたいとは思うけれど、これは難題だろう。せめてあのオッサンが嵌めたのなら、脅すなりなんなりして外させることも出来るだろうが、沙希が相手ではそうもいかない。。

「はぁ……」

どうしたものだろうか。

「何をため息なんぞつく」

「今後の事を考えて、ちょっと鬱になったんだよ」

せめて、もう少し可能性のあれば、やる気も起きただろう。だが、挑むべきは、一昔前のドットゲーム以上に難易度の高いミッションである。気分が萎えるのも仕方が無い。

「…………」

口にした言葉に、返ってくる嫌味や暴言は無かった。

カランとグラスの中で解けた氷が音を立てた。時刻はそろそろ2時30分を回ろうかとしている。家を出たのが11時30分を過ぎた辺りだったので、なんだかんだで都合3時間を走り回っていたことになる。飛んだり撥ねたり駆け回ったりと、結構な運動量があった為か、小腹も空いてきていた。

「…………」

目の前には、数十センチほどの隙間を開けて、顔を伏せたまま突っ立っているガキがいる。何かしらお暴言を返されると思ったのだが、返ってくる言葉は無かった。何のつもりだろうか?

「なんだよ、なにか文句でもあるのか?」

額に血管を浮き上がらせる勢いで怒っていたかと思えば、急に静かになってしまった。どういう感情の変化だろう。さっぱりである。続ける話題も思いつかず、そんな様子を暫く眺めていた。

すると、掛け時計の秒針が一回りした辺りで、反応があった。

「……貴様は」

それまでの怒声とは一変して、やけに細い声色だった。

「貴様は、それほど迷惑か?」

俯かせていた顔を上げ、その蒼色の大きな瞳で見つめてくる。俺はソファーに座っているが、相手の背丈は小学校低学年の子供と大差ない。その関係で、顔の位置は同程度の高さに来る。竹物差し一本分程度の間隔を空けて、顔と顔で向き合う形となった。とても近いところで見るその瞳は、吸い込まれそうなほど深い色をしていて、ガラス玉のように綺麗だった。

「何がだよ?」

それほど迷惑か?

そう聞かれれば、コイツの存在そのものが、俺にとっては迷惑極まりない。だが、それでも、少しは何とかしてやりたいと思うところだってある。だから、今だって足りない脳味噌をフル活用して、今後の対策を練っているのだ。

それは事実である。

「……………」

ただ、それは素直に口にするには非常に抵抗がある。しかも、相手はこのガキである。絶対に恥ずかしい。第一、そんな事を宣言すれば、それこそ下僕として、骨の髄までしゃぶりつくされてしまうような気がする。それだけは避けるべきだろう。

そう結論付けるに至り、俺は適当な話題でお茶を濁すことを選んだ。

「そんなの、どうでもいいだろ。それより夜食でも食おう。色々と走り回ったせいで腹が減ったよ。一昨日作ったシチューの残りしかないけど、お前だって腹は減ってるだろ?」

無論、相手はそれに反論してくる。

「わ、私の話を聞けっ! そんな話、今はしてい……」

「文句を言うならやらないぞ?」

けれど、その辺は力押しである。幸いなことに、今は俺のほうが肉体的にも上にいる。無理矢理どうこうされることは無い。

「くっ……………」

相手の言葉を強引に遮ると、ムッスリとした表情で睨み返された。

「いらないのか?」

だが、腹が減っていたのはガキも同様であった様だ。再び声をかけると、存外素直に頷いた。

「い、いるっ!」

もしかしたら、屋敷では一晩何も口にしていなかったのかもしれない。

「じゃあ、準備してくるからお前は此処で大人しくしてろよな」

「あっ…………」

今の話の続きだろうか。何かを言いかけた様であったが、それを無視して、俺はキッチンへと逃げるように向った。

それにしても、これから先どうしよう。

それから、特に会話も無く黙々と進んだ食事の後、リビングのソファーテーブルを囲んで、今後の作戦会議を開く事となった。無論、今後の対策とは、ガキの指輪をどのように外すかである。

「それで、明日どうするかだけどさ」

「ああ」

俺は食事中に、ふと思い至った案を口にした。

「屋敷のオッサンには娘がいるよな? 沙希って奴」

「ああ、いるな。だがそれがどうした」

「いや、ほら、アイツってこの間、学校で俺とお前で会ったじゃん?」

「……思い出しただけでも腹立たしい」

「っていうことはさ、アイツってちゃんと学校に通ってるってことになるよな?」

「だろうな」

「それなら、昼間のうちに屋敷へ行けば、あの沙希って奴とやり合わなくても済むよな? 少なくとも平日は」

「ああ」

短く答えて、テーブルの上に置かれたグラスを掴んだガキは、コクコクと喉を鳴らして、その中身を飲み干す。

「だが、この指輪はあの娘が嵌めたのだ。娘がいないのに屋敷へ行って、何をするつもりだ?」

それは当然の疑問だろう。

「例えばの話なんだけど、沙希を相手のは無理かもしれないけど、あのオッサンと俺がやり合ったら、どっちが勝つと思う?」

「お前と下種がか?」

「ああ」

考えついた案は非常に単純なものだった。まず、沙希の留守中に、その親父を捕まえて人質とする。そして、学校から本人が帰ってきたところで、捉えた父親の身柄と引き換えに、ガキの指輪を外させる。それだけである。沙希は見た感じ親父の命令に忠実だ。それが危うい目に遭っているとなれば、素直にいう事を聞いてくれそうな気がする。

手早く説明すると、ガキもなるほどと頷いてくれた。

「腹立たしくも、あの下種とて私の血を吸った吸血鬼だ。だが、お前も実際に感じたであろうが、完全に吸血鬼化するには若干の時間がかかる。既に私の血を受け入れてからまる2日以上経っているお前に対して、あの下種はまだ数時間程度、力の差はあると考えていい」

「じゃあ、いけるか?」

「いけるか? ではない。やらねばお前をいびり殺してやる」

「分かってるよ。なら問題はないんだな? 学校でやり合った時みたいなのは御免だぞ?」

「大丈夫だ、その辺は安心しろ。私が保証してやる」

「ならいいけど」

随分といい加減な立案だが、それほど悪くない筈だ。ガキも特にこれと言って口を挟んでこないし、それなりに可能性があるという事だろう。

「となると、問題は時間だな」

「ああ、戦力差は出来るだけあったほうがいいし、明日は朝の登校時刻が過ぎたら直ぐに家を出よう。あとは、オッサンを押さえ込んだら携帯にでも連絡を入れて、沙希の奴を屋敷まで帰ってこさせればいい。それだって1時間もあれば十分だ」

「うむ、朝方ならば与血から丸一日と経っていない。問題は無かろう」

「一応、沙希が屋敷を出るのも確認しておいたほうが……、いいよな?」

「だろうな、貴様では、あの娘はどうにもならん」

「それは昨日の件で身に染みてる」

この案で一番の問題点は、相手に指輪を外させてから、どのようにして敵の追撃を振り払い、逃げ遂せるかである。現時点で最強の駒は相手にある。それを防ぐ手立てを見つけない限り、此方に勝機は無い。

とはいえ、その辺は行き当たりばったりである。他に思い浮かぶ案も無いし、根性を出して、何とかするしかないだろう。ガキに力が戻れば、それなりに道も見えてくる筈だ。そう信じて頑張るしかない。

「どういったカラクリがあるのかは分からんが、あの身体能力は、下手な吸血鬼よりも上だ。そうでなければ、幾ら魔力を失っているとは言え、私が負ける筈が無い」

「そうなのか?」

「あたりまえだ。本来ならば私の敵ではないんだ。あのような娘、一瞬で葬ってくれる」

これまで見せてきた数々の醜態は何処へいったのやら。鼻息も荒く、偉そうなことをのたまってくれる。こういった言葉は何度も聞かされているが、実際に、その圧倒的な力というのを目の当たりにした事が無い俺としては、強がりにしか聞こえない。

「まあ、お前の言うそれが本当だったなら話は早いんだけどな。どうしてこんな事になっているのか、俺も頭が痛いよ」

その影響もあって、自然と憎まれ口を返していた。

「なんだと?」

すると、何気ない皮肉に、テーブルを乗り越えて来たガキが、又しても襟首を掴んできた。ソファーの上に、身体を寝かすように浅く座った、その臀部の上に両足を開いて圧し掛かって来る。此方の身体をソファーの背に押しつけるようにして、顔を近づけてくる。

「ちょ、ちょっと待て。わかった、わかったから、直ぐに掴みかかってくるなよっ! 襟が伸びるだろ。悪かったって」

ただでさえ、先ほど掴まれたせいことで、外に着ていくには不恰好に思えるほど、シャツの襟口は伸びてしまっていた。これ以上引っ張られたら、それこそ生地が破れかねない。慌てて謝罪の言葉を連呼した。

「私の力が封ぜられているからといって調子に乗っているな? 後で覚えておけよ」

落ち着いた声で、しかし、凄みの聞いた声色での脅しだった。今はまだ良いが、これで力が元に戻ったときの事を考えるとゾッとする。

「だから、悪かったって。謝るから、だから襟を引っ張らないでくれよ」

「何が悪かっただ。誠意の欠片も感じられないな?」

「な、なんだよ。俺だって、こうして、ちゃんと明日の事を考えてるじゃん」

襟を掴んだまま、釣りあがった目で睨みつけてくる。若干ずり落ちた感じでソファーに身を置く現状では、臀部に座った相手にマウントポジションを取られた体勢となっている。子供独自の高体温を下腹部に感じながら、仕方なく、頭を下げてきちんと謝った。明日は強敵と合間見えようというのだ、喧嘩をしている場合じゃない。

「悪かったよ。ごめん。ちゃんと謝るよ。だからもういいだろ?」

そう口にして、すぐ目の前にあったガキの頭に右手を置いた。サラサラとした、とても滑らかなブロンドの髪は、非常に触り心地が良かった。上等な毛皮のストールを撫で付けているような気分である。いや、それ以上かもしれない。

手の平に感じた感触は、想像を圧倒していた。

「な、何をするっ!?」

すると、此方の感動も半端に、ガキが猫のような反射神経で背後に飛び退いた。スッポンのように引っ付いて来ていたそれまでとは対照的な反応である。当然、きつく握られていた襟もすぐさま離される。

「貴様……、い、いきなり何をするっ!」

「何って、ちょうどいいところにお前の頭があったから」

もう少し撫でていたかった気がしないでもないが、襟が開放されたのは幸いである。

「そ、そそ、そんな理由で勝手に主人の頭に触るなっ!」

ソファーテーブルの上に飛び乗ったガキは、驚きと怒りを7対3で織り交ぜたような表情を浮かべて、非難の声を上げる。

「なんだよ、そんなに怒らなくたっていいじゃんか」

「やかましいっ! 貴様のような下僕が私の髪に触れようとは万年早いわっ!」

「そ、そうかよ……」

どうしようもなくプライドの高い奴だった

「ったく、何をしても怒り出すのな、お前は」

「当たり前だっ! 人の髪に勝手に触る奴が悪いっ!」

「はぁ、当たり前ですかい」

そりゃ、髪は女の命などと言われる程だ。神経質になるのは頷ける。しかし、ここまで過敏に反応しなくてもよいだろう。なにも初対面という訳でも無いのだ。それに、お前はまだ子供だろう? もう少し可愛げのある反応を見せてくれてもいいんじゃないか?

そんな下らない不満を、危うく口から零れる直前で飲み込んだ。

「お前、この指輪が取れた時暁には目にものを見せてやる」

「はいはい」

「こ、こらっ、軽く流すなっ!」

これ以上いがみ合っては、何時また口喧嘩に発展するか分からない。今は明日の予定を決めてしまうことが先決だろう。

「分かってるよ。ちゃんと聞いてるって」

相手の言葉を強引に遮り、大幅に脱線していた会話の流れを元に戻す。

「それで話を戻すけどさ」

「…………」

敵に身構える獣の様に睨みつけているガキ。俺はそれに構わず言葉を続ける。

「明日はまず学校に行って、沙希を確認して、それから屋敷に乗り込むってことでいいな?」

出来れば近づきたくない相手だが、屋敷に行って、万が一にでも遭遇しようものなら、それで一巻の終わりだ。その辺の手回しは確りと行っておくべきである。

「ふん……、好きにしろ」

「好きにしろって……、お前も一緒に行くんだろ?」

髪を触られたことが気に入らなかったのだろう。又も機嫌を損ねてしまったようだ。女の扱いは難しいと言うが、コイツの場合は筋金入りだ。取り合え使い説明書が欲しいくらいである。

「当たり前だ、何を寝ぼけている。私が行かずして、どうやってこのリングを外すというのだ」

「だったら少しは真面目に聞いてくれよな。こっちだって色々考えてるんだから」

「うるさい、お前は私の下僕なんだ、その程度は当たり前だ」

これでは話もなかなか進まない。仕方が無い。気分は乗らないが、今は俺が折れるほか無いだろう。相手の暴言を無視して強引に話を進める事にした。

「わかったよ。けど、それで一つ問題があるんだけどさ」

「…………なんだ?」

「あの菊池って奴と、その取り巻きのスーツ軍団いるだろ?」

「ああ」

「奴等って銃を持ってるけど、それって、いくら吸血鬼だとしても喰らうと不味いよな?」

沙希はどうにかなったとしても、あの黒服達は学校に行く筈も無く、きっと屋敷を徘徊していることだろう。まして抗争があったばかりだ。警備も厳重になっている可能性も高い。

「銃か………、私が眠っている間にどれほどの進歩があったかは知らんが、吸血鬼を鉛玉程度で殺せる筈は無かろう。貴様のような新米には辛いかもしれんが、何とかしろ」

「おいおいおい、随分簡単に言ってくれるじゃないか」

「そんな事をいわれても、私とてこの世に出て2日しか経っておらん。無茶を言うな」

「あぁ…………、まあ、それもそうか」

いくら俺が化け物になったとはいえ、足を折られたときは死ぬかと思った。それを考えると、銃撃をまともに喰らおうものなら、相当な痛みを伴うに違いない。ならば、その衝撃にのた打ち回っている間に、敵に囲まれて私刑にあって終わり、なんていうことも十分にありえる。

「結局のところ、死に難くはなるけど、それ以外はあんまり変わらないんだな。吸血鬼って言っても」

「何を偉そうに。それは貴様が未熟なだけだ、分かった風な口を利くな」

「そういうもんか?」

「当たり前だ。昨日も足を折られた程度で声を上げて泣き叫びおって。情けない奴だ。それでも私の下僕か?」

「そ、そりゃ足を折られれば、誰だって悲鳴の一つは上げるだろうが」

「それが未熟だというのだ。骨の一本や二本我慢しろ」

「馬鹿言うなよ。痛いものは痛いんだよ」

本当に、コイツは何時だって無茶を言ってくれる。

しかし、そうなると出来るだけ菊池や黒服連中とは会わないように注意しなければならない。弾に当たって即死することは無いのだろうが、それでも一発当てられれば、満足に歩くことも難しくなるだろう。

「まあ、沙希よりはマシだと思えば楽なもんか」

「だろうな」

直接的に死へ繋がるような存在でないと言う保証は、非常に心強い。

さて、とりあえずこれで明日の予定は決まったことになる。高校の登校時刻は生徒によってまちまちだが、それでも平均して朝7時30分程度である。その周辺で張り込んでいれば、沙希を確認することも出来るだろう。

「さてと」

リビングには親父が買ってきた悪趣味な洋物の掛け時計がある。その長身が指す時刻は、既に3時を回っていた。グッスリと休眠を取るには足りないが、明日は戦争である。少しでも多く寝ておいたほうが良いだろう。

「んじゃあ、予定も決まったしとっとと寝るか」

「そうするがいい」

「明日は朝ちょっと早めに起きろよな?」

ガラステーブルに置かれた、空になった二人分のグラスを持ってキッチンへ向う。すると、背後からガキに声をかけられた。まだ何か話し足りない事があるのだろうか? そう思い振り返ると、件はそれとは全く関係の無いことであった。

「おい、寝る前にシャワーとやらを使うぞ」

そういえばコイツは沙希の親父に捕まっていたのだ。屋敷で入浴していなければ、一晩風呂に入っていなかったことになる。湿度と気温の高いこの季節でそれは、結構な不快感に繋がるだろう。

「ああ、勝手にやってくれ。タオルとかは脱衣所にあるのを適当に使ってくれて構わないから。俺は寝る」

「言われずとも勝手にやる」

カウンターキッチン越しに、とてとてとリビングから出て行くガキの後姿を確認する。水で軽く漱いだコップを元あった食器棚に戻す。

身体はいい感じに疲れが滲み出てきていた。

自室に戻り、エアコンのタイマーを早朝にセットする。

「ふぁあ、寝るか」

小さく欠伸をしてベッドに倒れこんだ。

肉体的にも精神的にも結構な疲れが溜まっていたようだ。つい数時間前にベッドの上で転がっていた時とは対照的に、瞼を閉じるとあっという間に、意識は眠りの渦へと落ちていった。

そして翌日、昨晩仕掛けた目覚まし時計のスヌーズ機能により無事に目を覚まし、手早く身支度を済ませた俺は、リビングで朝食を作っていた。

食卓には、既にこんがり焼けたベーコンと生野菜のサラダ、それに目玉焼きといったオーソドックスな朝食が並んでいる。後はトーストが焼けるのを待って終わりである。

時刻は6時30分、丁度良い頃合だろう。

今日の予定を脳内で反復しながら、トースターの中で段々と色を変えてゆく食パンを眺めていた。しかし、その後20分程が経っても、ガキがリビングにやってくることは無かった。食べずに待っていて朝食は当然冷めてしまっていた。まあ、それは良いとしても、そろそろ起きてもらわないと今後の予定に支障をきたす。

「あいつ、何やってんだよ」

まだ眠っているのだろうか?

仕方が無いな、と呟いてリビングを出る。そして、目的の部屋の前で、そのドアを軽くノックした。けれど、木製のドアを指の関節が打つ軽い音が朝の静かな廊下に響くだけで、中からは何の反応も無い。

「おーい、起きてるかぁー?」

もう一度ノックしてみる。

「…………」

だが反応は無かった。

これは間違いなく眠りこけている。

「ったく、子供じゃないんだったら、朝くらい一人で起きてくれよな」

自身を大人だと豪語していたガキだが、こういうときに限って子供っぽいのはどうしたものか。勝手に部屋に入って後で文句を言われるのもどうかと思ったが、流石にこのまま放って置くわけには行かない。ゆっくりとドアノブを回した。

「おーい」

すると、そこには想像通り、ベッドの上で安らかに寝息を立てているガキの姿があった。昨晩渡したパジャマ(というか、妹でさえ嫌がって一度も着なかった、肌が透ける程に薄いレース生地のネグリジェ)は寝相の悪さに開けてしまっており、スラリと伸びた四肢を、シーツの上で露にしていた。艶かしい曲線を描く太股は白磁の様に白い。若干やせ気味な感があり、肉付きが良くない様にも思えるが、それでも、女経験の無い俺には、その光景は非常に眩しく映ったのだった。両足の合い間には、母親がこれまた妹の為に大枚を叩いて買って来た、シルクのショーツが顔を覗かせている。家に残る女物の下着はこれしか無かったのだ。

「おー……い」

耳元で大声を出して、盛大に起こしてやろうと思っていた。

だが、小さく寝息を立てて眠る、その健やかな寝顔を目にして、そんな気もいつの間にか失せていた。

「………………」

なんというか、非常に可愛かった。

不覚にも見とれてしまう自分がいた。

普段が毒ばかりを吐いているので、その分ギャップも大きかったのだろう。静かに胸を上下させてい眠っている、愛らしい寝顔は、それが昨晩の、暴言を吐き散らして俺に食って掛かってきた奴と同じだなんて、詐欺もいいところだと思う。

カーテンの隙間から洩れる陽光が、シーツの上に広がったブロンドの髪に反射して綺麗に瞬いている。可愛らしい子供の容姿を、良く出来たアンティークドールのようだ、と形容している本を以前読んだことがある。その比喩は正しくその通り、いや、コイツの場合はそれ以上とも思える程であった。

って、見とれてるんじゃないよ。

「いかんいかん」

慌ててよくない思考をストップさせる。それよりも今は、早くコイツを起こして、そして、朝食を食べて学校に行かなければならない。

「眠っていれば可愛いのに、どうして起きてるとああもやかましいんだか」

まあ、愚痴っていても仕方が無い、起こすか。

「おい、朝だぞ」

ベッドの縁に腰を下ろし、未だ夢の中にある表情を伺う。

なんとも和む。

「ん………」

すると、覚醒が近いらしく、ガキが身じろぎをして小さな声を上げた。

「起きるか?」

それとなく声をかけると、それに反応して、閉じられていた瞳がゆっくりと、そしてうっすらと開いた。長い睫毛が小さく震えた。

「やっとお目覚めか」

「ん…………あ……」

顔に色が戻ってくるような感じ。それは、とてもゆっくりとしていて静かな、羨ましく思える程の目覚め方であった。出来ることなら俺も、目覚まし時計などに頼ることなく、こうして自然で柔らかな目覚めが欲しい。

「おはようさん」

右手を上げて朝の挨拶をしてみる。

それに気づいた相手は、目呆け眼でジッとこちらを見つめてきた。きっと寝起き直後で、頭が上手く回っていないのだろう。普段の他者を問答無用で挑発するような、ツンとした威嚇的な表情ではなく、目尻の下がった、柔和な表情をしていた。

しかし、そんな呆け顔も一瞬の出来事である。

然る後に覚醒したガキは、俺の良く知る、鋭利な表情に戻ってしまった。そして、そこまで来ると、今まで部屋を包んでいた、朝の柔らかな時間は終わりを告げる。

「き、貴様がなぜここにいるっ!?」

やはり、口を開くと最悪だ。

「起こしに来てやったんだよ。そろそろ支度をしないと間に合わないぞ?」

「………そ、そうか、分かった。すぐに起きる」

眠そうに目を擦りながら、大きく欠伸をしてベッドから立ち上がる。そして、部屋の中央に脱ぎ捨ててあった、例の水着のようなデザインの服を拾い上げた。周囲には金属製のリングやチェーンが散乱している。

せめて畳んでおいたらどうだ? という突っ込みは、朝っぱらから口喧嘩をするのも面倒なので、心の中に仕舞って置くことにした。

相方も目を覚ましたようだし、朝食を暖め直すとしよう。

「ふぁぁああ」

ガキは大きく欠伸をすると、おもむろにネグリジェを脱ぎだす。俺は慌ててベッドの縁から立ち上がった。

「もう飯の支度はできてんだからな、早く来いよ?」

「ああ、分かっている」

そう一言、背中越しに声をかけて、部屋を後にした。

「しっかし、調子狂うよな」

それは先ほど目にした寝顔のせいである。その姿は如何ともし難い破壊力を持っていた。加えて、普段の傲慢な態度とのギャップが、指数関数的に奴の魅力を上昇させていると考えられる。素直に可愛いと思ってしまったことに、腹立たしさを覚えていた。

リビングに戻り、冷めてしまった朝食を電子レンジで再び温め終わった頃、着替えを済ましたガキがやって来た。

「目は覚めたか?」

「ほぉ、食事の用意は出来ているようだな。これに関しては褒めてやる」

「偉そうなことを言ってないで、とっとと食え。時間だってそんなに無いんだよ」

「折角この私が褒めてやっているというに、随分と釣れない態度だな」

共にダイニングテーブルの椅子へ腰掛ける。

「まあ、貴様の取り柄なんぞ、この程度だがな」

「うるせぇよ。いらないなら俺が全部食っちまうぞ?」

「ま、待てこらっ! 誰も要らんとは言ってないだろうがっ」

自らの皿に伸びてくる俺の箸を、慌てて両手で牽制する。

「だったら黙って食え」

「う、うるさい。言われずとも食べてやるっ。感謝しろ」

そう憎まれ口を言い放ち、器用に2本の箸を使って、ムシャムシャと目の前に並んだ料理に取り掛かる。まったく素直じゃない奴だ。ガキに倣い、俺も自分の分に箸を進めた。

こうして、朝食を誰かと食べるのは久しぶりだった。その相手が、例えこんな奴であったとしても、妙に嬉しく感じられたのは、俺がまだまだ経済的にも、精神的にも自立できていない子供だからなのだろうか。まあ、嬉しいと感じられるのならば、今はそれを満喫すればよいか。

そして、普段から比べれは些か早めの朝食の後に、出会ってから何度目になるとも分からない言い争いを軽くこなし、思いのほか過ぎてしまっていた時間に慌てて、俺とガキはマンションを飛び出した。

朝の人目が多い通勤通学の時間帯で、人外の脚力を発揮して街中を飛び回る訳にも行かない。学校へは結局バイクで向う事になった。初めは普通に歩いていこうと思ったのだが、ガキがやたらと絡んできたおかげで、その時間もいつの間にか消えていたのだった。

出来るだけ目立たずに行きたかったのだが、こればかりは仕方が無い。相手が先に登校を済ませてしまっては意味が無い。校内に入られてしまうと、確認するのが面倒になるばかりか、逆に相手に此方が見つかってしまう可能せいも高くなる。そうなってしまっては、屋敷へ行く前に万事休する。相手方がガキを探しているかどうかは、本人に言わせれば、ありえない話らしいが、それでも注意するに越した事は無い。万が一でも、ターゲットとして狙われてた日には、逃げる間もく殺されてしまう。

そうなると結局、沙希が屋敷から離れた事を確認するには、校門に先回りし、遠巻きから視認するしかない。無論、気付かれないよう十分な距離を取ってである。

「しっかり掴まってろよな?」

「うるさい、私に命令するな」

「ったく、落ちても知らないからな」

アクセルを回してゆっくりと加速、そのまま住宅街を抜けて、いつも通っている通学路を迂回する。人通りの少ない裏路地を通り、高校へ急いだ。

「ここら辺いいか………」

飛龍高校の向かって南正面にある正門。その前を通る片側一車線の県道を1本挟み、向かいに建つパン屋の脇に俺はバイクを止めた。そのパン屋は普段、高校が昼休みになると、校内から抜け出してきた学生達で賑わう味の良い店なのだが、今は準備中の看板がかけられていて、こちらに意識を向ける学生は殆どいない。また、バイクは店の正面から見て、自動販売機に隠れて死角となる位置に止めた。ここならば、登校途中の生徒達に見られることも無いだろう。俺はともかく、ガキの金髪は目立ちすぎる。人目につく場所に居るのは危険だ。

「ここで待つのか?」

「ああ、そうだ」

サイドスタンドを下げて、ハンドルにメットの顎紐を引っ掛ける。財布から小銭を取り出し、パン屋の管理するサントリー社の自販機で、ジュースを2本購入した。

「ほらよっ」

そして、そのうちの1本、オレンジジュースをガキへ向かって放り投げる。

「むっ」

トマトジュースなんてのもあったが、あんまり面白い冗談ではないのでやめておいた。

「しばらくは此処で待つ事になるから」

時刻は7時40分といったところ。

朝練のある運動部員や生徒会委員といった面子を除いて、この時間帯に登校してくる生徒は稀である。この学園の始業時刻が8時45分ということを考えれば、余裕を持ってこれたと考えてよい。幾ら真面目そうな出で立ちをしていた沙希とはいえ、隣町からこの時間帯以前に登校してきている筈は無い。

「おい、これは何だ?」

自動販売機の背後から、高校の正門を眺めつつ、缶コーヒーをグビグビ飲んでいると、背後から声がかかった。見れば、バイクのタンデムシートに座ったまま、アルミ缶と格闘しているガキの姿がある。

「あー、悪い悪い。ちょっとかしてみろ、開けてやるから」

こういったところで、自称300歳のギャップが出てくるとは思わなかった。難儀しているガキの手から缶を取ると、プルタブを引っ張り封を切る。プシっというガスが抜ける音共に、清々しいオレンジの香りが鼻に届いた。流石は果汁100%である。

「ほら、飲め」

「これは飲料物か?」

手渡された缶の中を覗き込む。

「そうだよ。この時代じゃ必須だから覚えとけ」

「うむ………」

訝しげな表情をしながら口をつけ、ゆっくり内容物を喉に送る。その神妙な面持ちは、まるで毒でも入っているのではないかと、疑っているかの様であった。しかし、それが自分の知っている飲み物である事に気付くと、こわばった表情も驚きに、そして納得のそれに変化した。

「まったくもって人の世も便利になったものだな」

ぷはっ、と缶から口を離して、まず最初に返ってきたのは、そんな年寄り臭い台詞だった

「そうか?」

「人間も、こういう小細工に関しては昔から得意だったからな」

「ふーん」

確かに便利といえば便利だろう。夏場なんざ、これが無ければ生きていけない。

あっという間に飲みきったコーヒーの空き缶を、販売機の横に備え付けられたゴミ箱に放り投げた。ゴミ箱は、今は懐かしい金網を丸めた円柱型のものである。缶がしっかりと入ったことを確認して、再び高校の正門に向き直った。無論、登校中の生徒に見つからないように、自動販売機の陰からそっとである。

時間は早ければ早いほうがいい。とっとと沙希が登校してきてくれると良いのだが……。

「おい、私は寝る。事が済んだら起こせ」

ジュースを与えたことで、しばらく静かにしていたガキだったが、それも全て飲み干してしまったらしい。何もしないでただ待っていることに嫌気が差したのか、そんな声が聞こえてきた。振り返ってみれば、タンデムシートに座り、両足をタンクの上に投げ出し、シーシーバーに背を預けて目を閉じていた。

「ったく、誰の為の張り込みだってんだかね」

「やかましい、しっかりと見張っていろよ」

「まあ、もう別にいいけどさ……」

なんだか、段々とコイツの言う事に反発しなくなり始めた自分がいることに気づいた。諦めの境地だろうか。認めたくは無いが、先に折れるのは、どうやら俺になりそうだった。まあ、一応は俺の言葉にも何だかんだで反応してくれているし、良しとしよう。なによりも、今この場で口論をするのは非常に良くない。

「さてさて」

視線を正門へ戻す。

それまで殆ど見られなかった制服達が、ちらほらと登校して来ていた。昨日出合った時の服装や喋り方からして、沙希はかなり真面目な模範生だと考えられる。だから、それなりに早めに登校してくると考えるのだが、どうだろうか。

携帯は壊されてしまったので、腕時計を持たない俺は高校の校舎の外壁に備え付けられた、時計を見て現在時刻を確認する。幸いなことに時計は校舎の向って正面につけられているので、こちらからでも確認が可能だ。時間は刻々と過ぎ、そろそろ8時になろうとしていた。

この時間帯あたりから、登校してくる生徒の数はグッと増え、おおよそ8時15分をピークとして、正門は賑やかになる。まあ、いつも遅刻ギリギリの俺がこの時間に登校したことなど数えるほどしか無いのだが。

「…………」

その後、しばらく静かに正門に目を向けていた。

後ろからはクークーという可愛らしい寝息が聞こえ来るが、それも額に青筋を作りながら、なんとか我慢した。

と、そのとき見知った顔が歩いているのに気づいた

「ん、吉川じゃん」

腕を包帯で釣り、顔にも白いものを巻きつけた、とても痛々しい姿をしている。距離が離れているので、表情は細かく分からない。しかし、普段のアイツから比べると、その顔色は暗く感じる。

「まぁ、そりゃそうだよな……」

いつもの軽快な足取りも、今日はやたらに重そうだった。

「本当に、これからどうしたもんだか」

多分、俺達3人の中で最もショックが大きかったのが吉川だろう。あの場に親父さんが居合わせなかったのが不幸中の幸いといった所だろうか。だが、それでも組員の半数は先の件に巻き込まれて亡くなったと言う話だ。

俯いたまま、吉川は吸い込まれる様に正門を通り、校内へと消えていった。

まあ、こんな状況でも、しっかりと学校へ登校して来る辺りが、流石は吉川と言ったところか。

「…………」

斉藤はどうしただろうか。

無事であってくれればいいが……。

しばらく、ブルーな気分で流れる生徒の群れを見ていた。その後、10分程が過ぎたあたりで、ようやく目的の人物はやって来てくれた。

「よしっ、ちゃんと登校して来てるな」

黒く長い髪に膝下まであるスカート、そして凛として整った顔立ち。あの茶髪にミニスカートで、光物のアクセ付けまくりのウザイ妹とは全く対照的なその様子は、間違いなく沙希だろう。

まさか、向こうも監視されているとは思いもしまい。吉川と同様に、沙希は周囲の学生の流れに逆らうこと無く、正門を通り校舎へと消えていった。

「よし、これで一つ目の関門はクリアだ」

最後までしっかりと見届けた俺は、手早くハンドルに引っ掛けてあったメットをかぶり、うたた寝をしているガキに声をかけた。

「おい、確認したから次いくぞっ。とっとと起きろっ!」

浅眠であったらしく、その一言に反応してゆっくりと目を開く。

「娘は居たのか?」

「ああ、ちゃんと確認した。時間が惜しいからとっとと行くぞ」

「ああ、今ならばあの下種も吸血鬼化して丸一日と経っておらん。貴様でも十分に対処できる筈だ、急いで向かうがいい」

昨晩と同じ台詞を口にする。

「言われなくたって急ぐってーの」

シートに跨り、キーを回してエンジンをかける。

「飛ばすからな? しっかり掴まってろよ」

「だから、いちいち私に命令するなと言っているだろうが」

「へーへー、けど今のお前はただのガキなんだから、マジで落ちんなよ?」

「や、やかましいっ! 誰がただのガキだというのだっ!」

「だからお前がだよ。っていうか、今は言い争ってる時間は無いんだ、行くぞっ!」

「ま、待て貴様、話は済んでないぞっ!」

アクセルを回してエンジンの回転数を上げる。クラッチを繋げて、勢い良く目の前を走る県道へと乗り出した。後は車の流れに乗って一息に加速する。朝の通勤で流れが滞る道を、車の合い間をすり抜けながら、一路、隣街の屋敷へと急いだ。

目的地には40分程かかって到着した。

「よし」

途中、道に迷いそうになったが、ガキの道案内によって、何とか目的の屋敷まで辿り着けた。また嫌な借りを作ってしまった事になる。鬱だった。

屋敷の入り口の門は、施錠されておらず、簡単に中へ入ることが出来た。手入れされた芝生の広がる庭の隅に、乗ってきたバイクを止めてメットを脱ぐ。目の前に佇むのは一般家屋からは遠く離れた風貌の、とても大きな屋敷である。

ガキもシートからピョンと飛び降り、これから潜入しようという敵アジトに目を向けた。

「行くぞ」

「うむ」

広く殺風景な庭には、特にこれと言って遮蔽物は無く、所々に転々と、観葉樹や外灯が立っている程度である。

周囲には人の気配も感じられない。駆け足で玄関まで歩みを進めた。そして、玄関扉の前で頷き合い、そのドアノブに手をかける。仰々しいトラの頭を象ったドアノックが付けられている両開きの扉は、若干の力を加えると、大した抵抗も無く開いた。鍵はかかっていなかった。

「……誰も居ないみたいだな」

こういった大きな屋敷では、使用人もそれなりに居るであろうし、施錠を習慣としていないのかもしれない。相手側の罠、という可能性も否定は出来ないが、今はそのことで議論していられる様な状況でもない。ガキもそれを理解しているのか、顎で行く先を示し、自ら先立って歩き出した。

「その方が好都合というものだ。急ぐぞ」

ここは腹を括るしかないだろう。第一、相手がその気になれば、此方の家の住所くらい簡単に割り出すことが出来るだろう。ならば、自宅が被害に遭う前に、敵の居城で全てを決してしまう方が利口だ。

「とりあえず例の地下室だよな。一番近いし」

音を立てぬよう、ゆっくりと玄関扉を閉める。

入ってすぐの玄関ホールでは、まだ日が昇ったばかりだというのに、シャンゼリアに火が灯されていた。流石、金持ちはやることが違う。夜間でさえ、使っていない部屋の電気を消すようにと、小さい頃から親に口を酸っぱくして言われていた人間としては、それは理解しがたい散財である。

「おい、どうした。早く行くぞ」

頭上を見上げて下らない感慨に耽っていると、数メートル先を先行する相棒から叱咤が飛んできた。

「ああ、分かってる」

屋敷は南を正面にして建っており、玄関を入ってすぐのホールには、東西に伸びる廊下がある。それは玄関ホール正面の中央にある、2階へ続く階段の先に通った一本と、今しがた入ってきたドアが設置されている、その壁伝いに伸びる一本の、合計二本である。目的は昨日訪れた地下室なので、そのうちの後者を、東へ向かって足早に進む。

「これで2度目だけど、やっぱり静かな屋敷だな」

本当に人が住んでいるのか、疑いたくなるような静けさと、そして、生活観の無さ加減が気になった。廊下の隅に読み終えた週刊誌の山でもあれば、少しは所帯じみた親しみも感じられるのだが、生憎と目に付くのは高そうな絵画や彫刻の類ばかりである。

「あの下種の館というのでなければ、此処に住んでやってもいいのだがな」

隣を歩くガキは、落ち着いた様子でそんな事を言ってくれる。

「お前も贅沢な奴だな」

「貴様の家は小さいのだ、もっとデカイものを用意しろ。ベッドも狭いし、風呂はろくに体も伸ばせん」

「無理言うなよ。あれでもこのご時勢なら良い方なんだから」

学生の身分で3LDKのマンション住まい。それ以上を臨むなんて罰当たりにも程がある。第一、コイツの様なミニマムボディーならば、ベッドにしたって風呂にしたって、うちのマンションでも十分なスペースを確保できるのではないだろうか?

「平民は何時の世も、苦い汁を吸って暮らしているのだな」

「その通りだよ」

地下室へ続く階段があったのは、玄関ホールから数えて10室目の部屋だった。その扉は昨晩強引に押し破った筈であるのに、既に修理されていて、しっかりとそこにあった。

目的の部屋の前にたどり着いて歩みを止める。木製の扉に耳を擦り付け、中の様子を伺ってみるが、その先からは何の物音も聞こえてこなかった。昨晩と同様に、誰も居ないのだろう。これは好都合である。

「開けるぞ?」

「いちいち確認せんでもいい。とっとと開けろ」

面倒臭そうに答える声に応じて、ドアノブに延ばした手を回した。

すると、思っていた通り中は無人だった。一歩中に入ると、部屋を覆う埃の匂いに、思わず顔を顰めてしまう。

「ったく、臭いなぁ、この部屋は」

地下室へ通じる階段は、昨日見たときの姿でそこにあった。

「愚痴を溢している暇があるならば先を急ぐぞ。時間をかければそれだけ貴様が不利になるのだ。それを忘れるなよ」

「そんなこと分かってるよ」

「ふん、どうだかな」

まだ朝だというに、覗き込んだ階段の伸びる先は真っ暗である。

「降りるか」

「うむ」

自分の足元さえ危うい視界の中で、足先に伝わる感触だけを頼りにして、ゆっくりと一歩一歩、その先を確かめながら進む。電灯の類も探せばあるのだろうが、敵陣に忍び込んでおいて、点灯させるわけにはいかない。

階段を下りて暗闇の先にあるのは、3メートルとない短い廊下と、その突き当たりにある扉である。幸いなことに、地下室の入り口には、扉の横に小さな照明があり、明かりが灯っていた。それを越えれば、ガキが捕まっていた、例の実験室のような風体をした部屋に辿り着く

「開けるぞ?」

「かまわぬ、開けろ」

先立ち前を進んでいた俺は、一応後ろを振り返り確認を取る。

「また捕まるんじゃないぞ?」

「だ、誰が早々捕まるか阿呆っ!」

握ったドアノブを回し、勢い良く扉を押し開けた。

勢いのついた扉は、蝶番で繋がる室内側の壁に当たって鼓膜を突く大きな音を立てる。同時に俺とガキは室内に走り込み、身構えて辺りに目を馳せた。

しかし、室内は無人であった。

部屋にはガスランプが一つ置かれており、それが唯一の光源として部屋を怪しく爛々と照らしている。

「なんだよ、居ないのか」

「貴様の勘も役に立たないな」

「うるせぇな、勘なんだからしょうがないだろ」

二人して部屋の中をグルグルと回ってみたが、オッサンは出てきそうに無い。

「それで、どうするのだ?」

「決まってるだろ。次へ行くぞ」

「上?」

「この間、お前が俺を見つけた階に、アイツの部屋っぽい所があったんだ」

それは斉藤が捕まっていた部屋である。

目的の相手が居ないとなれば、これ以上ここに留まる理由も無い。元来た道を急いで引き返した。階段を上る靴音が、他に音の無い物静かな館に響く。

「こりゃ、少し急いだ方がいいかな」

「そうだな、時間が経てば、その分お前の分が悪くなる」

地下室への階段を駆け上がり、室内から廊下へ出る。無論、その際に周囲の様子を確認する事も忘れない。幸いなことに、廊下には俺達のほかに人の姿は無い。ここは一気に進むのが吉だろう。次なる目的地へ向かい、歩みを小走りに代えて、上階を目指した。

「っていうか、思ったんだけどさ、吸血鬼って自分のファミリーとかいう奴の居場所が問答無用で分かるんだろ? それだったらさ、その力を使って、あのオッサンの場所を特定できないのかよ?」

「ふん、それが出来るなら、すぐにでもやっている。今の私はこの指輪のせいで魔力が皆無に等しいんだ。相手の位置なんぞ分かるものか」

「なんだ、無理なのか」

我ながら良い案だと思ったのだが、そんな閃きはアッサリと棄却されてしまった。

「当然だ。というか、それを察して何も聞いてこないのだと思っていたが、まさか考えるに至っていなかったとは思いもしなかったよ。お前は本当に馬鹿だな」

加えて、馬鹿にするどころか、呆れ口調でそんな事を言われてしまった。

「う、うるせぇよっ」

思わず、此処が敵の居城である事も忘れて大きな声を上げてしまう。

「だって仕方ないだろ? 吸血鬼なんていう、普通だったらありえない例外的なルールを扱うのは初めてなんだから」

「よく言う、私が見ている限り、ここ二日でお前の馬鹿さ加減は、言い訳の出来ないレベルで露見しているぞ?」

「だったら俺だって言ってやるよ。お前こそ、必要な時に使えない奴だよな。沙希との件だって、大口叩いてた割にはアッサリと倒されちゃったしさ」

「なんだと?」

「そうだろ? 俺が間に入らなけりゃ今頃どうなっていたことか」

「こ、この餓鬼……」

「違うのか?」

「やかましいっ! あれはしょうがないんだっ! 始めに言っただろうっ。封印から解かれて、私の魔力は何処かへ消えてしまっていたんだ。そうでなければ、あの程度の小娘に手こずる筈が無いっ!」

「だから必要な時に使えない奴だってんだよ」

「ならばとっととあの下種を探し出して指輪を外させろっ!」

「威張ってんじゃねぇよっ! その為にこうしてわざわざ此処まで来たんだろうが」

いつの間にか口喧嘩に発展してしまったヒソヒソ話を続けながら、行く道を急ぐ。俺にしてもガキにしても、興奮すると周囲が見えなくなる性質のようだ。

屋敷の東西に配置されたうち、地下室に通じる部屋に近い、東側の階段を駆け上る。後ろから続くガキは、現状では大した身体能力を持っておらず、その歩みは遅い。仕方なく進軍もそのペースに合わせることになる。とはいえ、多少の焦りは感じるが、この階段はつい先日も利用したばかりである。その先が5階にある例の部屋に繋がっていることは間違いない。地の利とは大きいもので、それだけで多少の不安は消えてくれた。

しかし、勢いの付いた進行は、耳を突く様な銃声によって止まるざるを得なくなった。

音が響いてきた方向、これから向かうべき先にある、3階と4階の間の踊場には、突如として飛び出して来た、菊池率いる黒服達の姿があった。

「貴様等ぁ……、何度も何度も人様の家に、勝手に乗り込んで来てんじゃねぇよっ!!」

白いスーツで身を固め、厳ついサングラスをかけた菊池が、硝煙を上げる拳銃を片手に持ち、此方を見下ろしていた。

「うわっ、出やがったっ!」

「加えて何だ? 馬鹿デカイ声でペチャクチャとくっちゃべりやがって、テメェら俺を舐めてんのかっ!?」

勢いの付いていた足を慌てて止める。額に血管を浮かび上がらせる菊池の背後には、十数名の取り巻き達が待機している。手には菊池と同様に拳銃が握られ、照準は俺達を捉えていた。

「何をしている、そのような者共とっとと蹴散らしてしまえ」

「馬鹿言うなよ。こんな大勢を相手にして勝てる筈ないだろうが」

それに、仮に俺が何とか出来たとしても、こちらには口と態度の悪さ以外が虚弱化したガキがいるのだ。流れ弾の一発でも十分な脅威となる。俺にコイツを守りながら先へ進めるだけの能力があるのなら、それも良い。けれど、そんなものがあるのなら、初めからこのような苦労はしていない。

加えて、幾ら直ぐに治るとは言え、痛いものは痛いのだ。正直相手にしたくない。

「あんだけ痛めつけてやったのに、お前もまだ理解出来て無いようだな?」

「うるせぇよ。誰が理解するかよ」

売り言葉に買い言葉とはよく言ったもので、口を衝いて出るのは相手と対して変わらない罵声である。

「んだとコラァ!!」

此方の挑発に反応して動いた右手人差し指が、握った銃のトリガーを引いた。

途端に、ブォンという風きり音が届いた。どうやら、弾丸は耳の直ぐ横を掠めたらしい。背後にあった廊下の壁にめり込んだ弾丸は、その周囲の壁材をパラパラと落としていた。

これはかなり危険な状況である。

吸血鬼だろうがフランケンシュタインだろうが、こんなものが頭に当たれば、きっと死ねる。

「どうしたよ、ビビッて声も出ないのか? あぁ?」

かなり飛んでしまっている声色である。

とりあえず、ガキだけでも後ろに下がらせないと不味い。幸いにしてこの屋敷の階段は、踊場を挟んで折り返し上に向かう、いわゆる学校の階段のような造りになっている。少し降りれば銃口から逃れられる。無論、その幅は学校のそれに比べて半分程度しか無いが、人数差を考えれば、それは好都合である。

「おい、下がるぞっ!」

腕や手ならば、一発や二発当たったところで何とかなるだろう。そう考えて、俺は右後ろに突っ立ていたガキを腹の前で抱えると、自らの背中を盾にして階下へ逃げ出した。

「こ、こらまてっ! 何をするっ!」

「見りゃ分かるだろ、逃げるんだよっ!」

「なんだとっ!?」

無論、相手はそれを許す筈も無く、続いて耳に届くのは銃声である。

「撃てっ! ぶち殺せっ!」

相手は軍隊のように訓練されている訳でも無い。てんでバラバラに放たれる銃弾が、屋敷のあちらこちらに当たり、周囲に飾られている美術品や観賞用植物を打ち砕く。

「どぁあああああああ!」

そんな中をただひたすらに、当たりませんように、と心の中で祈りつつ、俺は階段を駆け下りた。

「待ちやがれっ!」

相手の腕が悪いのか、それとも運良かったのか、幸いなことに、一発も鉛玉を喰らわずして3階の階段ホールを折り返し、相手の射程から身を隠せた。しかし、それで終わるような状況ではない。

「ああもう、お前等、撃つの止めろっ! 撃ってないで追うんだよっ!」

鳴り止んだ銃声の代わりに、廊下を叩く沢山の靴音が聞こえてくる。こんな事ならば俺も吉川から1丁借りてくれば良かった。此方には相手を牽制する手立てが一つも無い。逃げるほか打つ手は無い。

「それでも私の下僕か? なぜ逃げるっ!?」

「今のお前は普通の人間と大差ないんだろう? 流れ弾にでも当たったらどうするんだよ阿呆っ」

「く、口答えするな。それくらい何とかなるっ!」

グッと顔の前で拳を握って見せる。

「なるわけねぇだろっ!」

暴れるガキの脇の下に両手を差し入れ、その身体を持ち上る。

「クソっ、あとちょっとだったのにっ!」

これまで上がって来た階段を、5段飛ばしで駆け下りる。敵の銃は脅威だが、身体能力は吸血鬼のそれに勝ること無く、俺と菊池達の距離は瞬く間に離れていく。

「逃げてどうする。このまま何もせずに帰るというのかっ!」

「違うよ。俺だって馬鹿だけど、一応頭使ってるんだよ。このまま2階の廊下を進んで、もうひとつある西側の階段から上がるんだよっ!」

「な、なるほど。それならばそうと早く言え」

腕の中で、今にも暴れだしそうな勢いで声を上げていたガキだったが、その説明に満足が行ったのか、それで少し大人しくなった。

「お前が口五月蝿く突っ込んで来るから、説明している隙が無かったんだよ」

「私のせいにするというのか?」

「全くもってその通りだよ。つーかそろそろ黙ってろ、喋ってると舌を噛むぞ」

「や、やかましいっ。誰が舌なんぞ噛むか。それに私は物か?」

「なんだって!?」

「このような扱いをしおって。もっとしっかりと抱き上げろっ、体が痛いだろうが」

「やかましい、贅沢言ってんじゃねぇよっ!」

何故いつもこうなるのか。こんな時、こんな場所でも口喧嘩が絶えない。3階から降りて、2階の階段ホールを抜け、そこで進路を変えて東西に伸びる廊下を西に向かって全力で走る。昨日、吉川と一緒に屋敷を徘徊していた事が、今になって非常に役立っていた。

この屋敷は一般家屋と比べれば非常に大きい建造物だ。しかし、一片が何キロもある訳でもない。吸血鬼の身体能力も手伝って、目的の階段にはあっと言う間にたどり着いた。

「ここだ。上に行くぞっ」

「うむ」

上った先には待ち伏せの黒服達がズラリ、なんていう事態になっていないことを祈りつつ、降る時と同じく5段抜かしで階段を駆け上がり、3階、4階と一気に駆け抜けた。

吸血鬼の力の賜物だろう。疲れを知らない無限のスタミナに任せて、あっという間に5階の階段ホールまでたどり着いた。菊池達は俺達が外へ逃げたのだと勘違いして、そのまま一階まで行ってしまったのだろうか、

「誰も居ないみたいだな」

壁から頭を半分だけ出して、階段から続く廊下の様子を伺ってみるが、そこに人の姿は見あたらなかった。

「ならば急げ。また追いかけられて逃げ出すなんぞ、私はご免だ」

「俺だって嫌だよ」

ガキを抱えたまま、一昨日も訪れたフロアの中央に位置する応接室らしき一室へ向かって走る。

途中、昨晩やり合った箇所を通り過ぎたが、既に修繕が済まされており、綺麗なものであった。廊下のカーペットに染み付いていた血痕さえ見当たらない。

廊下を先へ進み、突き当たった角を右へ曲がると、目的の部屋はすぐにある。

扉の前で抱えていたガキを下ろした。

「よし、んじゃあ開けるぞ」

「うむ、開けろ」

ドアノブを右に回す。重厚な作りのそれは、俺の家のものより些か重い抵抗を伴って、ゆっくりと回る。扉を内側へ押し進めた。

「…………」

キィという木を擦る音が小さく聞こえてドアが開く。

すると、その先には果たして、俺の勘が予想した人物が確かに居た。

例のオッサンはソファーにゆったりと腰をかけ、書物片手にパイプをふかしている。

「おぉ、これはこれは我が家族。よくいらっしゃいましたな」

俺達に気付いた相手は、手にした書物をソファーテーブルに置いて、こちらへ向き直った。その余裕のある様子からして、此方が屋敷に忍び込んでいた事は既に聞き及んでいたのだろう。

「下種が。その口を二度と利けぬようにしてやる」

オッサンの言葉に、恐ろしいまでの怒気を湛えたガキが、今にも飛び出しそうな表情で拳を震わせる。

「おやおや、怖いですなぁ。折角家族として始めて顔を合わせた瞬間だというのに。そのように吼えられては怯えてしまうよ」

「っ!!」

そして、その台詞でガキの短い導火線に火がついた。

「人の血を勝手に口にしておいて何が家族だ糞がっ! 私は貴様なんぞをファミリーとして迎えた覚えは無いっ!」

「お、おいおい、あんまり挑発に乗るなよな」

「ええいっ! 誰が挑発に乗っているというのだっ! 貴様が役に立たないからこうして憤慨しているというのだっ!」

今の自分がどれだけ弱い存在であるかを忘れてしまっているのか、頭に血の上ったガキは相手の口車に乗って激昂する。

「下種がっ! 今直ぐに殺してやるっ!!」

そして、宣言通り駆け出した。

「あっ、ちょ、待てコラ」

慌てて腕を伸ばし、腕を掴む。

「は、離せ馬鹿者っ! 貴様は私の下僕だろうがっ!」

「今のお前じゃ何も出来ないだろが。一人で突っ走ってどうする気だよ」

「やかましいっ! だったらお前が殺せっ! 今すぐにっ!」

「だから、その前に落ち着けよっ!」

「おやおや、早速仲間割れですかな? これでは、この先長い悠久の時が思いやられますな」

対する相手は、未だソファーに腰をかけたまま、余裕の表情でパイプをふかしている。

「うるせぇ、お前は黙ってろっ!」「やかまし、貴様は黙っていろっ!」

そんな横柄な態度に、俺とガキはハモって言葉を返していた。

「やれやれ、随分と嫌われたものだ」

両手の平を肩の高さまで上げて、大げさなジェスチャーなんぞしてくれる。ガキが突っ走りたくなる気持ちもよく分かる。とはいえ、それは百害あって一利なしだ。今は堪える時である。

「ああもう、離せ阿呆っ!」

そう言って腕を振り回し、必死に逃れようとする様子を目にして、改めて、例の化け物染みた馬鹿力が無くなってしまっている事を認識した。ジタバタと見た目は激しく暴れているが、自らを掴む手を振り払う程の力は無いらしく、ポカポカと腕を殴ってくる様子も可愛いものだった。

「お前なぁ。俺に何とかしろって言ったんだから、最期まで任せろよな?」

「なにを偉そうな。貴様のような奴に任せられるかっ!」

「また捕まったらどうすんだよ馬鹿。少しは考えて行動しろよ」

「っく………。そ、そんな事言われずとも理解しているっ!」

「君達は漫才でも見せに来たのか?」

「うるせぇよっ!」

話は進みそうになかった。

「そもそも、お前は私の下僕なのだ、いちいち主人の命に反するなっ!」

「だから、命令に従って相手を何とかするから、一端落ち着けって言ってるんだよ」

「ええいっ、うだうだ言っていないでとっとと殺れ」

オッサンに馬鹿にされて、相当頭にきているのだろう。額に血管を浮かび上がらせる勢いで、暴言罵倒を連呼する。

「わ、わかったよ」

ここは俺が折れる他に無いだろう。まあ、やることは同じだ。ガキが自ら突っ込んでいかなければ、それで良いのだ。どちらが折れようと結果は変わらない。

「ならば早く行けっ! ぶち殺せっ!」

一応は納得してくれたのか、ひとまずガキの突進は止まった。

その代わりに俺が一歩前へ出ることとなる。

「話はまとまったかね?」

それに応じて、ソファーに腰をかけたまま此方を眺めていた相手は、余裕の笑みを浮かべ、短くそう聞いてきた。

「一応」

「そうか、それは良かった」

自身が吸血鬼となったことが、それほどまでに自信へと繋がるのか。オッサンの様子には戸惑いも怯えも一切感じられない。確かに今のガキはただの子供に過ぎないが、俺はこれでも吸血鬼なのだろう。相手もそれは知っている筈だし、それならば、敵対すればどうなるかも、理解していて当然だ。なのに、この余裕はなんだろう。

「まったく、下僕が下僕なら、主人も主人のようだな。まあ、それを言っては私も同類として括られてしまうかもしれんがね」

「き、貴様ぁっ!!」

その言葉を聞いて、とりあえずは落ち着いたかと思われたガキの怒りのボルテージが再び上昇する。

「おい下僕っ!」

そう叫ばれた。

下僕という単語を撤回させたい所だが、それも今は後回しで良いだろう。

「分かってるっ!」

いい加減に、鬱憤が限界へ達した。相手も自分と同じ人外魔境な力を持っているという話だ。遠慮も何もいらない。俺は短く答えて床を蹴った。

毛深い高級そうな絨毯を踏みつけて、一気に跳躍する。間にあった5メートル程度の距離を一瞬にして詰める。あっという間に流れる周囲の様子。

そして、力いっぱいに振るい上げた拳を、オッサンの顔面目掛けて勢い良く振り下ろした。

右手に伝わる衝撃と共に、部屋には肉を撃つ音が大きく響いた。

「がぁはっ!?」

かすかに耳に残ったのはオッサンの呻き声だ。

拳は相手の顔面を正確に捕らえ、その体を吹き飛ばした。普通の殴り合いではありえない距離を、2メートル近い巨躯は宙に浮いたまま吹っ飛ぶ。そして、背後にあった火の灯っていない暖炉に全身を強く打ち付け、体を大きくバウンドさせて止まった。

衝撃によって、レンガ造りの外観にピシリと皹が入った。

「なんだよ。あれだけデカイ口を叩いておいて、こんなもんなのか?」

その言葉は皮肉でも挑発でもない。沙希の時のように、初打は避けられるかとも考えていたのだが、思いのほか拍子抜けであった。体を大の字に仰向けで倒れたオッサンはピクリとも動かない。

それにしても、今の歯気持ちが良い決まり具合であった。ここ二日間で断続的に堪って来ていた鬱憤が、一挙に霧散した気分である。人を殴りつけてストレス発散とは危ない思考だが、相手が相手だ、これはセーフとする。

「…………」

相手からは何の反応も無い。この様子だと気を失ったのだろう。容態を確認する為に、倒れたままピクリとも動かない巨漢へと近づく。流石は吸血鬼の馬力といったところか、相手は身長2メートル近い大男だというのに、一撃でこの威力である。自信の振るった力に惚れ惚れしてしまった。

近づくと、倒れたオッサンの瞳は閉じられており、鼻からは出血が見られた。

「阿呆っ! 何を余裕に構えているんだ、早く首を取れっ!」

そんなとき、背後からガキの叫び声が聞こえてきた。

「首だって?」

首を取れとはどういうことだろう? 今の一撃で相手は十分に痛めつけた。後は沙希を学校から呼び戻し、この親父と引き換えに指輪を外させれば良いんじゃないのだろうか?

そんな疑問をふと巡らせた所で、俺は吸血鬼という存在が、反則的な治癒能力を備えていることを思い出した。

そして、指摘はまさに的を射ていた。

「子供の喧嘩ではないのだよ。この程度の事で吸血鬼がくたばるとでも思っているのか? そのような事も知らないとはなんと愚かな」

「っ!?」

背後から聞こえた声に危険を感じて、振り向こうとした時には既に全てが遅かった。

左即頭部に強烈な一撃を受けていた。

身体はバランスを崩し、全身を床に強く打ちつけながら、ガキの足元まで転がる。

「な、なな何をやっている阿呆っ! お前には説明しただろうがっ!」

「………うるせ、ぇな」

頭の中がクワンクワンと鳴っていた。

まさか殴られるとは思っていなかった。避けることも、防ぐことも出来ずに、思い切り喰らってしまった。横になっていた上半身を起こし、カチカする視界にオッサンに映せば、そこには既に立ち上がり、こちらを見下す姿があった。

「吸血鬼の再生能力が如何程のものか、一発貰ってはみたが、これはなかなか素晴らしい。同属の一撃を受けても、数十秒で元通りときたものだ。凄まじい能力だ」

その表情は、俺に思い切り殴られた後だというのに、満足気に綻んでいた。

こっちは今しがた出て行った鬱憤が、再びとんぼ返りで戻ってきた気分である。

段々と痛みが引いていくのを感じて身体を起こし、立ち上がった。

まあ、オッサンが感動しているのは理解できる。吸血鬼というのは化け物だ。今の一撃にしろ、普通なら間違いなく集中治療室行きだろう。にもかかわらずこの通り、すぐに復帰できている。

「さて、君は丁度良い実験相手だ。十分に私の性能を測らせて貰うとしよう」

「舐めるのも加減にしろよっ!」

もう二度と、今みたいな失態はしない。

体が満足に動くことを確認して、再度相手に走り寄る。無論、標的は真正面で腕組をして仁王立つ立っているオッサンだ。その脇腹に一撃入れるべく、短い助走から両膝のスプリングにより低く飛び上がり、蹴りに移った。

流石に肋骨を折られでもすれば、治癒にも時間がかかるだろう。

だが、そんな考えも甘く、俺の蹴りは空を切って終わった。

「んなっ!?」

オッサンは一歩後ろに体を引き、一撃を交わしていた。

いや、少しは掠った感覚が足先にあるのだが、ダメージは無さそうだった。アバラの代わりに高そうなスーツとネクタイに切れ目が入っただけである。それだけでも十分凄い気がするが、今は相手に怪我をさせなければ意味が無い。

「なるほど、すばらしい。この反射速度、動体視力。これだよ、これこそが私の求めていた吸血鬼というものだっ」

「糞っ、いちいちうるせぇんだよっ!」

しかし、俺とてこれで終わらせるつもりは無い。この状況からみて、相手も随分と吸血鬼化が進んでいるらしい。戦力が均衡しているというのならば、一息に畳み掛けるほか無いだろう。

「さぁ、もっとだ。もっと私の能力を試させてくれっ!」

「そんなに痛い目を見たいなら、幾らでも殴ってやる」

ガキが沙希とやり合っていた時の様子を思い出し次の手を考える。

今の空振りで1つ結論を得るに至った。吸血鬼のような化け物の相手をする時は、初手の一発を入れる事だけを考えていては駄目らしい。

路上の喧嘩ならば、先に大きいのを一発入れた奴が大抵勝つだろう。拳が一発でも入ってしまえば、人はそれで大きく戦意を損失する。呻いている間に追い討ちをかけるのはとても簡単だろう。加えて、多くの場合では、相手が格闘技でもやっているか、余程喧嘩慣れしていない限り、お互いの拳を避けることなで出来ない。だから、初手に全てを賭けて、とにかく大きな一発を入れれば勝てる。

しかし、これだけ頑丈で素早い奴とやり取りとなると、勝手が違うらしい。まず、先制しても一撃で撃沈してくれないし、大振りになれば簡単に避けられてしまう。これからは一手二手先を考えて立ち回る必要がありそうだった。

「ぅっ!」

試しに、ボクシングの要領で顔を狙った左ジャブを放った。

だが、それは当然のように避けられる。

「甘いぞ。そんなものでは私の限界を知る事はできん。もっと考えたまえ」

「うるせっ!」

そこで、左の拳を繰り出したのに続け、間髪置かずに右で大きくストレートを放つ。狙うのは鼻を僅かに右にずれた目の下にある骨の部分である。

しかし、その一撃も僅かに首を傾げただけで、難なく交わされてしまった。

「ふむ、君の能力はその程度なのか?」

「くっ!」

けれど、それも考えの内である。わざわざ速度を落として放った一打を避けて、オッサンは満足気な表情を作ってみせる。その間に、俺は延ばしたままであった右手で、白髪の目立つ相手の後頭部を掴んだ。

「な、なんだと!?」

「いい気になってんじゃねぇよっ!」

掴んだ腕を力任せに手前に引き、同時に右膝を振り上げる。

「喰らえっ!」

髪をつかまれて逃れられないオッサンは、せめてもの対抗に上半身を屈ませる。迫る右膝を避けることが出来ないのは理解したらしい。どうやらガキの言っていた力の差というのは、確かにあるようだった。

「ぷぎぇっ!」

先程の仕返しも兼ねて、力の限り膝を鼻先に打ちつけてやった。

鼻骨が折れる感触をジーパンの生地越しに感じる。変な悲鳴をあげて鼻血を噴出したオッサンに、次の一撃を加えるべく両手を握り合わせた。

前のめりに倒れ行く相手に、自身の頭上まで振り上げた握り手を、ハンマーの如く振り下ろす。

「死ねっ!」

ゴキっという音が、はっきりと耳に届いた。背骨が折れたのだろう。痛恨の一発を受けて、オッサンの体は曲がってはいけない方向に「く」の字に変形していた。そして、打撃の勢いはそれだけに留まらず、殴りつけられた身体は、部屋の床を突き破り、けたたましい音を立てて下の階へ落ちていった。

大きな穴の開いた室内には、屋敷を構成していた建材が砕け、破片となって埃と共に舞い上がった。

「うわ………、とんでもないな」

自分の所業なのだが、思わずそんな言葉が口から洩れていた。

「かまわん、もっとやれっ」

「あ、ああ………、けど、どの程度痛めつければいいんだ?」

正直、今ので十分な怪我を負わせたと思う。しかし、ガキの判断は非情であった。

「とりあえず首を取れ。でなければ安心して交渉には臨めんだろう」

「く、首か?」

「そうだ」

「人質にするだけだろ? 首なんて取る必要ないだろうが」

「何を甘っちょろいことを言っている。先程殴られた痛みをもう忘れたのか?」

「そ、それはそうかもしれないけど、でもいくらなんでも首なんて……」

「吸血鬼を人質に取るとはそういうことだ。黙って私の命に従え。でなければ、逆に貴様の首が飛ぶぞ? 言っておくが、これは冗談では無いからな?」

「………」

なんて凄惨な世界に足を突っ込んでしまったのだろうか。だが、状況は既に後戻り出来ないところまで来てしまっている。人の首を刎ねるなんて、一生物のトラウマになりそうな経験だが、しかし、そうでなければ自分の首が危ういのだと言う。ああ、酷い二択もあったものだ。

「わかった……、やるさ」

首を刎ねられることがどれだけ痛いのか。

「ならば追うぞ」

今後も一生、味わうことなく過ごしたいと、切に願う。

「じゃあ、下に降りるか」

腹を括ったのならば、膳は急げである。頼りない決意が変わらない内に、急いで手を下すとしよう。駆け足でガキの元まで駆け寄り、その身体を抱き上げた。相手が再生しきらない内に、できる限り穏便に蹴りをつけてしまいたい。

「こ、こらっ、脇の下を持つな阿呆っ! そういう抱き方をするなと言っているだろうがっ!」

もがくガキの意見を無視して、その身体を抱きかかえ、階段を使わずに、オッサンの開けた穴から下の階に飛び降りた。それまで居た5階の応接室らしき部屋の階下あったのは、以前、屋敷に潜入したときに利用したのと同様の作りの便所だった。どうやら3階と4階は同じ作りになっているらしい。

流石に地上1階までぶち抜きで、とまでは行かなかった様で、敵の巨漢は4階の便所にある洋式便器に、頭から突っ込んで止まっていた。

「うわっ、マジかよっ!?」

とてつもなく情けない姿が、目の前にある。

便器に頭を突っ込んでしまった奴の相手にしなければならないとは、衛生的にかなり鬱であった。

「勘弁してくれよ」

「敗退する様まで下種な輩だ。早く首を取ってしまえ」

「い、言われなくたって下手に回復される前に倒したいよ」

便器から若干離れた所にガキを降ろし、一歩、相手に近寄ってみる。

体は腹を前に突き出す形で、逆向きの”く”の字に曲がっている。頭は便器の中だ。その様子はまるで、何処かの美術館にありそうな前衛的オブジェ……、というか、安い漫才師の身体を張ったギャグである。これだけ痛めつけたのならば、幾ら治癒するといっても、当分は動けない気がするが……。

とりあえず蹴りでも入れてみようと、人の刺さった便器に嫌々近づく。

その時、唐突にオッサンが叫び声を上げた。

「沙希っ、沙希っ、今すぐに来いっ!!」

TOTOと書かれた白い陶器に、首から上を塞がれた状態で叫ぶ。ただでさえ低い声が更にくぐもってトイレに響いた。

問題はその台詞の内容である。

「沙希っ!?」

「な、なんだとっ!?」

俺とガキの驚く声が重なった。

なにせ、その名前を持つ奴は、今頃学校でシコシコと勉学に励んでいる筈なのだ。

「う、嘘ついてんじゃねぇよっ!!」

叫ぶ俺の頭上から、パラパラと木片が舞い落ちてきた。

「っ!?」

かと思いきや、トサっと軽い音と共に、人が一人飛び降りて来る。それに気づき、慌てて後ろに飛び退いた。

「下僕っ、これはどういうことだっ!」

「俺が知るかよっ!」

オッサンと俺の間に立ち塞がるようにして現れたのは、確かに言葉通りの人物だった。

「おはようございます」

それに何の意味があるのか。軽い会釈で俺達に向かい、朝の挨拶なんぞをしてくれる沙希。

「挨拶なんぞいらぬ。沙希、このクソガキを殺せっ、殺してしまえっ!」

静かな沙希とは対照的に、わめき散らすオッサン。相変わらず態度の変化が激しすぎる。

「………分かりました。小さいほうの吸血鬼はいかがしますか?」

そして、そんな父親の様子に引くことなく、娘はまるで役所の受付嬢のような淡々とした対応してみせる。

「ああ、そっちは殺すな。だが、二度と口を開けぬよう半殺しだ。分かったなっ!?」

「はい」

便器に突っ込まれたのが余程屈辱だったのか、一昨日と同様にオッサンは完全キレていた。先程までの紳士ぶった態度は何処へ行ってしまったのか、大した二重性格だった。

しかし、こちらも沙希の登場で楽観的に構えている余裕が無くなった。

「お前、しっかり確認したのだろうなっ!?」

「したに決まってるだろっ? 俺だってそこまで馬鹿じゃねぇよ。ちゃんと校門通って学校に入って行ったの見たんだよっ!」

「ではこの状況はなんだっ!」

「知らねぇよっ。つーか、俺が真面目に張り込んでいた時に、後ろでグースカ眠ってた奴が偉そうな事に言ってんじゃねぇよっ!」

「な、なんだとっ!? そのような事は下僕であるお前の仕事に決まっておろうが!」

「だから、いい加減に下僕とか言ってんじゃねぇよっ!」

混乱気味に繰り返される俺とガキの罵りあい。その問答の答えは便器の中から返ってきた。

「ふはははっ、馬鹿共めがっ!」

「んだとっ!?」

「まんまと騙されたようだな。それは沙希の姿をさせた私の娘だ。そんな事にも気付かず自ら罠にはまるとはなっ!」

「む、娘だって?」

「はい、確かに今朝、姉は私の制服を身にまとい、長髪のカツラを被って学校へ向かいました」

じょ、冗談じゃない、なんだってそんな手の凝った事しているのだ

「お前等、意味わかんねぇよっ!」

そんな、此方を罠に嵌めるような真似を、どうして考えたのが。

「私は今朝知ったのだよ。そこにいる吸血鬼、貴様の主人が太陽の下でも活動可能な稀有な吸血鬼、デイウォーカーである事をな」

便器に頭を突っ込んだまま、床に固定されていた白い陶磁器を根元から破壊して立ち上がる。折れた背骨の治癒は完了しておらず、曲がったままであり、顔の周りには、ライオンのタテガミの様に、便器が付いている。

「頭から便器を被ってちゃ、全然カッコがつかないぞ?」

加えて、顔は貯め水に浸かったことで、びしょ濡れになっている。

「だ、黙れクソガキっ!」

背骨が曲がり、真っ直ぐに立てないオッサンは、フラフラと身体を揺らしながらも、必死にバランスを取っている。

「貴様等には散々苦い汁を飲まされたが、此処でそれも終わりにしてくれよう」

そして、立っている事を諦めたのが、そう短く言って、その場にドシンと座り込んだ。背後に曲がった背骨のせいで、座っているというよりは仰向けに寝そべっているような格好になる。

「お前にだけは言われたくないよ。そりゃ俺の台詞だろ」

一体この数日で、どれだけ痛い目にあった事か。

「っていうか、なんでオッサンがこのガキの事を知ってんだよ。全然意味わかんねぇよっ!」

第一、その話のどこをどう解釈すれば、それが姉に妹の格好をさせて学校へ行かせる事に繋がるというのだ。

「今朝、私は自身が吸血鬼となった確認をする為に、朝日に当たってみたのだよ」

「マジかよっ!?」

あの激痛は今でも忘れられそうに無い。 それを簡単にやってみせる無知とは怖いものである。

「焦ったぞ。いざ朝日に肌を晒してみれば、何の痛みも感じないではないか。始めはヴァンパイア化を疑ったが、ナイフで作った傷は直ぐに修復する。となれば答えは一つのみ、簡単な事実だ」

「ふん、そのままくたばってしまえば良かったものを」

「あんたも随分と疑い深いんだな。良くやるよ」

今にしても、背骨が折れているのだ相当な苦痛を感じている筈である。いや、もしかしたら痛覚が麻痺しているだけかもしれないが。

「当然だ。一体どれほどの金を注ぎ込んだと思っている。貴様のように、適当な成り行きでヴァンパイアと成った訳ではない」

「悪かったな、俺だって成りたくて成ったんじゃないんだよ」

どちらかと言えば、俺は被害者側だ。

「けど、俺の時は朝起きて、いきなり死にそうになったぞ。どういうことだ?」

オッサンの言葉と実体験の間に矛盾を見つけ、目前の沙希と対峙したままの状態で、背後のガキに言葉を投げかける。

「ああ、それはお前が摂取した私の血液量が少なかったからだろう」

「血の量が?」

そんなの関係あるのか?

「そうだ。この下種は私からかなりの量の血液を抜き取ったからな。それを全て体内に取り入れたのならば、その結果も頷ける」

「…………」

「逆に、お前が私の下僕となった時に口にした血液は些細なものだっただろう?」

「って言うとなんだ?」

「お前が眠りにつき、朝を迎えるまでの間に、血液の効能の殆どが切れていたということだ」

「なるほど」

「まあ、それでも若干の効力があったからこそ、あの日の朝にお前は灰と化さずに済んだ訳だがな」

そんなことだったらもう少し啜っておけばよかった。

「私はプライドの高い姫君が指輪を外す為に、再び此方へ戻ってくることを予測したのだよ」

ガキの口上が終るのを待って、オッサンの説明が続く。

「そこで、貴様等が此方へ向かいやすいよう、娘に沙希の姿をさせ、代わりに学園へ向かわせた訳だ」

「随分と用意周到なんだな」

「これに関しては沙希が進言してきたことだ。娘は相当嫌がったがな」

全く余計な事をしてくれたものである。大人しく学校に行ってくれていれば、こんな苦労も無かっただろうに。

「でも、別にそんな面倒な事しなくたって、ファミリーの力だかなんだかで相手の居場所は分かるんだろ? 直ぐに捕まえに行けたんじゃないのか?」

実際に、その力に世話になった事がある分だけ、それが嘘っぱちで無い事は理解している。

「ああ、確かに私とて既に家族の居場所は感知出来ている。だがな、別に此方から出向いても構わなかったのだが、貴様等の悔しがる様子でも拝まねば、私の腹の虫が納まらないのだよ。わかるだろう?」

語る相手の表情は非常に満足気で、否応無しに、こちらの神経を逆撫でてくれる

「そういう意味では、君達は此方の予想通り動いてくれたな。なんと気持ちの良い事か」

いちいち癪に障る奴だ。

しかし、幾ら姉に妹の姿をさせたとはいえ、あそこまでそっくりに変装することが可能なのだろうか? 

「けど、即席の案にしては、随分とそっくりに似せられたな」

まあ、遠目に見ていたこともあるし、二人が一卵性の双子だと言うのならば、見間違える可能性もそれなりにあるのだろう。また、二人のそれまでの出で立ちは、それぞれ相反するものであった。そこから来る、此方の思い込みによる誤認も大きい。

「それはそうだろう、なんせ沙希の素体はあの娘なのだからな」

しかし、返ってきたのは、そんな意味不明な言葉だった。

「なんだよそれ」

娘というのは、沙希とその姉のことだろう。

では、素体というのは何だ?

「やれやれ、これだから馬鹿の相手は疲れる」

自身の優位を確信して、オッサンの態度はいつの間にか、元の穏やかな状態に戻っていた。

「おいガキっ」

「私が知るか阿呆っ、お前が考えろ」

使えないご主人様である。コイツが理解できないことを俺が理解できる筈が無い。そもそも素体という単語の意味が分からないのに、相手の意図を捉えるなど不可能だ。

すると、そんな疑問の答えは、俺から自らの親父を守るように立ちはだかった、沙希自身から返された。

「同じ素体というのは、私がお父様に作られた、姉のクローンという事だからです」

「は?」

突然の場違いな用語を耳にして、間抜な声を出してしまった。

「私は姉のクローンです」

姉のクローン?

「ああ、そういえば貴様等は知らなかったのだったな」

俺の反応が面白かったのか。便器をかぶったままのオッサンが、まるで親に買って貰ったばかりの玩具を自慢する子供のように、説明を始めた。

「貴様のような馬鹿でも言葉くらいは耳にしたことがあるだろう?」

吸血鬼の治癒力のおかげで、語るオッサンのボッキリ折れていた背骨の角度が、段々と緩くなってきている。背をトイレの個室の壁に預け、床に座り込んだ状態で話を続ける。

「沙希は私の娘から作り出したクローンだと言ったのだ」

クローン……。

クローンっていうと、クローンである。

豚とか羊とか。

そういた類の見出しが新聞に掲載されて話題に上がったことは多々あった。しかし、それが人間に応用するにまで至っていたとは知らなかった。とはいえ、人体のクローンを精製した等というニュースは聞いたことがない。幾らなんでも人間のクローンが作られたのであれば、新聞やテレビで報道する筈だろう。

「適当なこと言うなよ。そんなの聞いたこと無いぞ」

「当たり前だ。まだ公には発表されていないのだ。考えても見ろ、そのような事実が世間に洩れようものなら、あっという間に規制がかけられてしまうではないか」

「………………」

「あるところにはある、ということだ」

「なんか、突拍子もない話だな」

中途半端に現代科学が関わっている分だけ、吸血鬼や魔法といった言葉よりも驚きがあった。

「それに沙希は普通のクローンではない。科学的に作り出されたクローンと、借金までして競り落とした過去のホムンクルス技術の、その二つの技術を織り込んで作り出された、最高の人形なのだ」

「………………」

ホムンクルス。

次から次へと出てくる聞きなれない単語の連続に、どう反応して良いのか分からなかった。

「それにしても、沙希は想像以上の出来だった。その能力は貴様等も見ただろう? これこそ人類英知の結晶ともいえるだろうな」

「それであの身体能力か」

オッサンの言葉を受けて、頷いてみせるガキ。なんだか、一人置いていかれた気分だった。

「そうなのか?」

「そうなのだ」

聞くと、そっけない返事が返ってくる。

「………………」

そうなのか?

よく分からないけど納得しておく事にした。

まあ、俺にとってはどうでもいいことである。吸血鬼などという存在を受け入れてしまった現状では、新たに追加実装された代物が、クローンだろうがホムンクルスだろうが、もうどうにでもなれ、といった具合である。

ただ厄介な奴である。という認識が俺の沙希に対するイメージである。

「さて、話はここまでだ。今一番重要なのは、貴様を殺して、そこにいる大切な姫君を私の物にすることだっ!」

そう言い放ち、握った拳で自らの首から上を覆う便器を打ち砕いた。ガキンという硬質な音が響いたと思うと、崩れた白磁が大理石で出来た便所の床に、音を立てて散らばった。

「まさかのデイウォーカーだ。これほどまでの運に恵まれるとは、私はなんと幸せなのだろうか」

出てきたのは便器の水でびしょ濡れになった中年男性の顔である。今にも臭ってきそうだった。

「誰が貴様のような下種に血を分け与えるか。馬鹿も休み休みに言え、クソがっ!」

確かに、今のオッサンは糞みたいな臭いがするだろう。

「其方の意向などどうでも良い。その時はまた、無理やり血液を抜き取るまでだ」

「き、貴様ぁっ!」

コイツにとって血液とは、それほど特別な意味を持つのか。そのたった一言で頭に血を上らせる。

「ちょ、ちょっとおい、待てってっ!」

又しても駆け出しそうとしたガキの腕を取り、特攻を阻止する。

「止めるというならば貴様が殺せっ! 今すぐに、こいつを私の前でなぶり殺せっ!」

「分かったから、ちょっと落ち着けよ」

指輪はまだ指に嵌ったままだ。これをどうにかしない限り、幾ら逃げ帰ろうとも、同じことの繰り返しになるだけだ。

「ふははは、何を今さら。こちらには沙希がいるのだ。貴様等がどうあがこうと、結末は見えているのだよ」

とはいえ、今は相手の言葉通り、逃げ出すことさえ危うい状況である。

「ったく、どうするよ……」

大口を叩いてみたところで、現状は相当に緊迫している。背後を庇うように、ジリジリと後退する。このままガキを置いて逃げる、という選択肢も無いわけではないが、流石にここまで来ておいてそれは遠慮したい。

「おい下僕、耳を貸せ」

「ああ?」

後ろから囁きが聞こえてきた。

「あの娘、ホムンクルスというものは、元来その制御を行う為に、体のどこかしらに制御装置を付けるのが定石だ」

「制御装置?」

いきなり何の話だろう。視線に沙希を捉えたまま、耳を背後へ向けて、その声に応じる。

「うむ、幾らホムンクルスが人工物とはいえ、理論上は生物であり、理性は存在する。そこで、それを封じ、製作者の都合がいい様に操れるようにする為に、制御装置を付けるのだ」

「お前、こんな状況で何を言ってんだよ」

「黙って聞けっ!」

「お、おう」

その真剣な声色に、黙って従った。

「それでだ、この沙希という娘も、様子からして例外ではあるまい」

「制御装置が付いてるってことか?」

「そういうことだ。クローンという技術がどういったモノかは知らぬが、十中八九違いあるまい」

「なるほど……」

一応弱点らしきものが存在するらしい。

「理解したか?」

「了解了解、そいつを壊せばいいんだろ?」

「そういうことだ」

満足そうにガキが頷いた。

「とは言え、制御装置がどういった形をしているのかまでは分からん。そのあたりは自分で見つけろ」

「自分で見つけろってお前なぁ。一番重要な所が分からないのかよ?」

「しょうがないだろう。私とて万能ではないのだ。まあ、身体に直接付けていることだけは確かなのだがな」

「身体のどこかって言われても、沙希を相手にそれを探れって言うのか? それじゃあ知ってても知らなくても、大して変わらない気がするぞ」

「試しもしないで音を上げるな。お前は私の下僕なのだ、その程度を軽くこなせなくてどうするのだ。少しは私を喜ばせてみろ」

「人使い荒いよ、お前は」

「気にするな、既に貴様は人で無いのだからな」

「………一分の救いも無いな」

「そうか?」

「そうだよ。とんでもない貧乏くじを引いたもんだ」

目を閉じて、再び開けば、そこには見慣れた自室の天井があるのではないか? そんな錯覚に陥りそうな程の、人気少年週刊誌のファンタジー漫画も真っ青な展開にあって、こうして普通に会話をしている自分の順応性に拍手を送りたい。

「ふむ、では上手く事が済んだ暁には貴様に褒美をやろう」

「褒美?」

「ああ、褒美だ」

語るその口からは、珍しい単語が飛び出してきた。

「そりゃまた、お前らしからぬ発言だな」

「仕事をした下僕に報酬を与えるのも主人の務めだ。分かったなら行け。死ぬ気で働いてこい」

「分かったよ。期待しないで頑張るさ」

そこで会話を打ち切って、改めて沙希に向き直る。

「さてさて、其方の打ち合わせも済みましたかな?」

「おかげ様で……」

悲しいほどの虚勢だが、それも無いよりはマシだろう。

「どうやら、威勢だけは良いようだな」

「らしいな」

それはガキにも何度か言われた記憶がある。

「いいだろう。せいぜいのた打ち回って私を楽しませてくれたまえ」

「下僕、お前は力に任せて動きすぎるところがある。突っ込みすぎるな」

「分かってるよ。お前も飛び出して来たりしないで、そこで大人しく待ってろよ?」

「ふん、生意気を言うでないわ」

俺の軽口に、ニッと小さく笑みを作ってみせる。

しかし、沙希を相手にして、上手く立ち回る事が出来るだろうか?

「やってしまえ沙希。だが、くれぐれも小さい方は殺すなよ」

「分かりましたお父様」

親父の言葉に素直に頷いた沙希が、スカートのポケットから一振りのナイフを取り出した。それは一昨日、旧校舎の裏庭で振り回していた物だ。真っ赤に塗られた刀身がいやに目につく。相対してみると感じるが、随分と不気味なデザインであった。

「それでは死んでいただきます」

「誰が死ぬかよ」

先に仕掛たのは沙希だった。

今は攻める他に手は無い。

前向きに頑張ろう。

そう心に決めて、迫る敵の挙動に神経を集中させた。

大きな屋敷の便所とはいえ、それまで居た居室に比べれば、その面積は半分にも満たない。加えて、個室の仕切り板が、長方形の3分の1程を占領しており、両手を振って身体を動かすには、この場所は狭かった。だから、もしかしたら、ガキが俺を助けに来た先日の件の様に、相手の動きが鈍るかもしれない。俺でも何とかなるかもしれない。そんな期待が少なからずあった。

しかし、敵は想像以上に化け物であった。

あのときの沙希の敗退は、その相手がガキであったからこそなのだろう。幾らその性能が鈍化しようが、対するのが俺では、その恩恵に与れる筈も無く、困った事に一発目で早速死にかけたのが、一連の淡い妄想に対する結論だった。

二人の間にあった3、4メートルほどの距離を、瞬く間に詰めた沙希は、驚くべき事に、この狭い空間で後ろ回し蹴りを繰り出してきたのである。

そんな大技が見られるのは格闘技番組の中だけだと思っていた。相手が攻めてくることを承知していたとは言え、その凄まじ勢いで迫る健脚に恐怖して、俺は逃げるように背後へと飛びずさった。前髪が数本宙に散っていった様を目にして、身体中から滝のように冷や汗が噴出した。

「お、おいおいおいおい」

あと少しでも退くのが遅かったのなら、首の骨がポッキリ折れていたと思われる。

また、相手の身長は俺より20センチほど低い。にもかかわらず、それが俺の頭を狙って飛び上がり、なおかつ足で一撃を加えてきたのだ。とんでもない化け物である。もしも、此方から仕掛けていたのなら、今のでポックリ逝っていただろう。

「残念です」

呟く表情は全くの無表情である。全然残念そうには見えない。

「お前、マジかよ」

ガキはこんなヤツを相手に立ち回りしていたのか。改めてその凄さを思い知った。今ならば、アイツの狂言の様な自慢話も、真面目に聞いてやってもいいかもしれない。正直、勝てる気がしなかった。

「ですが、次は外しませんので」

感情の感じられない表情に加えて、機械的な口調が更に恐怖心を振るわせる。コイツにそう言われると、本当に次で終わってしまいそうで怖い。

「だ、誰がやられるかよ」

とはいえ、弱気になってもいられない。

今の俺に残された道は、この1本しかないのだから。

構える二人の間は2メートル程度の距離がある。この間隔で沙希に仕掛けられて、果たして避けられるのだろうか? ふと浮かんだ疑問に、鳥肌が立つのを感じたが、そこで気合負けしてはいけない。その前に俺が出て行くしかな。防戦一方では勝機はない。

「畜生っ!」

拳を振りかざし、正面から相手を捉えて歩を進めた。俺には沙希が扱うような華麗な技も無ければ、その手に持つ武器も無い。惨めな話だが、唯一あるのは握った拳だけである。けれど、それでも打倒を信じて、渾身の限りをこめて右腕を振り下ろした。いままでに振るってきた中で、最も勢いのついた一撃である。

しかし、それは完全に相手に見切られていた。

「それでは、全然当たりません」

あっさりと避けられた。

位置的に最も狙いやすい顔へ向けた一発は、首を傾げただけで簡単に避けられていた。

「っ!?」

加えて、隙だらけになった身体の、その腹部に膝蹴りを入れられた。朝食べたトーストやらサラダやらが、勢い良く口から飛び出した。だが、ビチャビチャと音を立てて落ちるペースト状の朝食を視線で追う事も叶わない。

「まだ、くたばらないで下さい」

腹部を押さえて丸くなった俺に、更に追い討ちを書けるように、沙希は振り上げた脚を脇腹に向けて叩きつけてきた。ミシリという肋骨の上げた悲鳴が、耳に届いたような気がした。口から出てくるのは、嗚咽と呻きだけだった。

続けざまに与えられた痛みで、段々と自分が置かれている状況が分からなくなってくる。

とどめだとばかりに、前かがみに丸まった身体の背を、まるでサッカーボールを蹴飛ばすかの様に蹴りつけた。

人を遥かに越える身体能力を前にしては、人間の体重など些細な重さでしかないのか、汚い呻きしか口に出来ない俺の身体は、床に身体を擦る様にして弾き飛ばされ、顔面から大理石で出来た便所の壁に、思い切り叩きつけられた。

ピシっという音を立てて、光沢のある石壁にひびが入る。

「あ゛っ!」

だらしなく胃の中のモノを吐き散らす。鼻を突く胃酸の匂いが気持ち悪い。鼻の置くからせり上がって来た熱く赤いものが、顎を伝って床にポタポタと落ちていた。

「全然、駄目ですね」

ヒタヒタと近づいてくる沙希の足音が辛い。気が付けば、いつの間にか絶体絶命であった。

こんなヤツを相手にして、どうすれば良いと言うのだろう?

「はっ……、はっ………ぁぁ」

連続して起こる嘔吐によって痛めた喉を労る時間さえ無く、無理やり呼吸を整える。

「いいぞ、もっと痛めつけてやれ」

迫る沙希の後ろでは、心底楽しそうに此方を見ているオッサンがいる。先ほどとは打って変わって強気なものだ。

「ク………ソッ!」

何とか立ち上がろうとするも、腰を浮かせた途端に全身に痛みが走り、バランスを崩し尻餅をついてしまう。

「なんだよ……、役に立たないな、俺って」

泣きたくなる程に悔しかった。

「馬鹿者っ! だから突っ込むなと忠告したではないかっ!」

焦り調子のガキの声が聞こえてくる。端から見ていても、今の状況は間違いなくピンチらしい。まだ始まって3分と経っていないのにこの様である。笑うに笑えなかった。

「わ、悪かったな」

「ななな、何を言っているっ! 諦めるな馬鹿者っ!」

「……分かってるよ」

当然だ、此処で諦めようものならば、その先に待っている待遇は想像に難くない。

しかし、これはどうしたものか……。

「随分とあっけなく終わりそうですね」

床の上に伸ばされた俺の足先まで近づいてきた沙希は、何の感情も垣間見ることのできない、能面の様な表情で此方を見下ろしてくる。

「だといいな?」

「なるほど、態度だけは大きいようですね。次は足を潰しますのでご承知を」

「お、お前、またかよっ!」

「はい、またです」

宣言通り右足を踏みつけられた。

「っ!!」

「十分に痛めつけるよう言われておりますので、申し訳ありませんが我慢してください」

「ば、馬鹿言え、我慢なんて出来るかよっ!」

「そうですか?」

踏みつけられている足は、まるで万力で挟まれているかの様に、膝の関節をグイグイと圧迫してくる。

「っつぅ、や、やめろよ馬鹿っ! 折れるだろうがっ!!」

「折れますね」

「折れますね、じゃねぇよ阿呆っ!」

嗚呼、このままでは本当に殺されてしまう。

踏まれた足は押しても引いても、捻っても、全く外れそうにない。加わる圧力が大きくなるにつれて、段々と増してゆく痛みが怖い。

「如何ですか?」

如何も何もあったものか。これぞまさに絶体絶命である。視線を上に向ければ、そこには何の感情も無く、人を見下してくる憎らしい顔がある。

「ああもうっ! 糞っ垂れ!!」

出来る事はといえば、相手へ罵声を送る事くらいだった。

「私は糞尿を垂れ流してはいませんので、あしからず」

ミチリと小さく骨の軋む音が聞こえた。

あと一押しすれば、大した抵抗も無く、膝の関節はポキリといくに違いない。

しかし、事態は俺の膝骨が折れる前に急展開を見せた。

「っ!?」

火薬の弾ける、耳が痛くなるほどの大きな音が、便所の中に響き渡った。かと思いきや、俺の脚を踏みつけていた沙希の脚の、その右太股から大量の鮮血が噴出した。

制服のスカートを翻し、溢れ出てきた血液が、そのすぐ下にあった俺の顔に飛び散る。生ぬるい感触が頬を伝う。

「っ!?」

沙希は驚愕の表情を浮かべ、バランスを崩してその場にしゃがみ込んだ。

何が起こったのかサッパリだった。

だが、続けて聞こえてきた俺の名を呼ぶ声に、その状況を理解した。

「雅之、大丈夫っ!?」

頭上からの聞きなれた声に顔を上げる。すると、そこには吉川の姿があった。上階の部屋に開いた穴を通して構えられた銃の銃口からは、薄っすらと白煙が上がっているのが見て取れる。

「吉川!?」

「やっぱり居たよ、しかも凄いことになってるし……」

「な、何でお前がここに居るんだよ」

オッサンを叩き落した穴の縁で、腹這いになって銃を構えている吉川は、へたり込んだ沙希へ照準を合わせたまま、此方の問いに答える。

「学校に行ってみれば雅之は全然来る様子が無いし、なんとなく気になって屋敷まで足を伸ばしてみれば案の定、雅之のバイクが置いてあるし、なんか屋敷の中は騒々しいし」

「お前、そんなことで、わざわざここまで確認しに来たのかよ」

「そうだよ、でも来て正解だったね」

「あ、ああ……。美味しいところを持っていかれたよ」

「うん」

持つべきものは友達である。

ちょっと泣きそうだった。

「ところでお前、あの菊池って奴等はどうしたんだよ。屋敷中を俺達探して走り回ってる筈だぞ」

「ああ、それなら大丈夫だよ。爺ちゃん達も来てくれてるから」

「吉川の爺さんが?」

吉川の爺さんといえば組の頭だ。それがわざわざ本人自ら出陣とは。

「うん。ここまで事が大きくなると、家の沽券に関わるらしいから、もう昨日の内から準備をしてたらしいよ」

「なるほど」

「おかげで僕も、タイミング良くここに来れたよ」

そう言って、口元に小さく笑みを作ってみせる。

確かに、そういう筋の人達ならば、やられたらやり返すのが普通だろう。それも今回は孫が拉致された上に、組員が幾人もやられている。様子を伺うことは叶わないが、其方も相当凄い事になっているに違いない。沙希が此方にいるのならば、吉川の爺さん達もなんとかなるのではないだろうか。まあ、その代わり俺がピンチな訳だが。

「とりあえずそこから離れてよ。下手したら雅之に当たっちゃうから」

「お、おう」

言われる通り、体を引きずりながら壁伝いに移動する。横腹を蹴られた際に巻き込まれた腕がかなり痛むが、他はとりあえず大丈夫だ。歩いて移動する分には問題ない。此方の挙動に反応して、太股に向けられていた視線が再び向けられた。

「さ、沙希っ。何をしている、早く奴等を殺してしまえっ!」

突然のお助けキャラの登場により、オッサンは焦り気味である。それまでの笑みは消え失せ、渋い顔を露に、唾を飛ばして叫ぶ。

「は……、はい」

吉川が構える銃口から沙希までは距離にして大体10メートル程である。

これだけの距離が開いていると、素人が拳銃で動いている相手を打ち抜くことは、まず不可能だろう。先ほどの一発も、命中したのはかなり運が良かったと思っていいだろう。俺に当たっていた可能性だってそれなりにあった筈だ。

だから、余り吉川に頼ってもいられない。

シュワシュワと煙を立てながら自然治癒していく身体の各部に目をやりながら、次の行動を考える。相手は今ので脚にかなりのダメージを受けた。そして、沙希は主として足技で攻めてきている。となれば、俺でも何とかなるのではないだろうか?

此方は例の反則的な回復能力を持っているのだ。多少の怪我を覚悟の上ならば、希望も見えてくる。

「吉川、後は任せろ」

「えぇっ、いいのっ!?」

「おうっ!」

下手に撃たれて、流れ弾が当たっては堪らない。頭上に声をかけて、向かい来る沙希に対峙する。此方も満身創痍ではあるが、目立った傷は左腕だけである。他の打撃傷は治癒も早く、それほど問題ではない。顔が鼻血まみれなのは格好がつかないか、その辺は仕方が無い、諦めよう。

「一気に片付けろっ!」

「言われなくたって分かってるよっ!」

吼えるガキに短く答える。

向き合う二人の感覚は1メートルと無い。今ならばいけるだろう。そう踏んで、出来る限りの小さな予備動作で勢いを付けた右腕を、先ほどまでのお返しとばかりに、思い切り振り下ろした。すると、初めて拳に伝わる、重みを弾く感触があった。

挑戦幾回目かにして、今度こそ確かに、拳は相手を捕らえていた。

「よしっ! よくやったっ!」

遠慮の無い一撃を腹部に受けて、沙希の体は先ほどのオッサンと同様に宙を舞った。身体は一度も地に擦れることなく、背後にあった掃除用具入れの中へ、扉を破り突っ込んでいった。

「よしっ!」

それまでが一方的であっただけに、非常に嬉しかった。

しかし、それでも外野の声は手厳しい。

「おいっ、油断をするな馬鹿者っ!」

「お、おう。わかってるよ」

相手が強いのは承知している。一発殴っただけでどうにかなるとは思っていない。

やかましい音を立てて崩れる清掃用具に混じって、沙希の苦悶の声が聞こえてきた。しかし、それでも、流石というかなんというか、自身に倒れ掛かってくる用具を退けて、必死に立ち上がろうとする。

「ったく、一体どっちが化け物なのか、疑いたくなるな」

「言っただろう? 相手はホムンクルス、姿形は似ているが人間ではないのだ。それを忘れるな」

「あ、ああ」

倒れた沙希の元へ向いつつ、ガキの薀蓄に相槌を打って応じる。すると、聞きなれない単語を耳にして、頭上の吉川が口を開いた。

「ホムンクルス?」

「ああいや、気にするな。こっちの話だ」

「そうなの?」

とりあえず、相手の出方を伺うべく、用具入れから出てくる沙希の姿を監視する。

「当たれば……、そこそこ効きますね」

腹部を押さえながらも、二つの足で立ちあがり、ヨタヨタと頼りなく向かってくる。

「当たれば、な」

とはいえ、今の感触からして、この調子でいければ何とかなるかもしれない。そう思えるほどに、先程とは一変して希望が沸いてきていた。

「おい下僕、分かっているだろうな?」

「あぁ? 何がだ!?」

「阿呆、先程私が言った事だ」

「あ、ああ。それか、覚えてるよ」

それは例の制御装置云々の話だろう。まあ、この調子ならば、それも必要の無い話かもしれないが、今の言葉は、そんな俺の思考を見透かして、あまり有頂天になってしくじるなよ、というご主人様なりの忠告なのだろう。そう捉えておく事にする。

「っていうか、馬鹿とか言ってんじゃねぇよ」

「ふん、私の下僕の癖して簡単に弄られおって。貴様なんぞ馬鹿で十分だ」

沙希に向き合ったまま、口だけを動かして左斜め後ろにいる奴の言葉に答える。

「余所見をしていると痛い目に会いますよっ!」

しかし、ソレも僅かな間である。

腿に受けた銃弾により、確かにスピードは落ちてはいた。膝を目掛けて振るわれた右ローを小さく飛び上がり上方に避け、続けざまに着地を狙い放たれた左の足払いを、足を折って膝で踏みつけ回避する。

「くっ!」

化け物と言えども、鉛玉を食らっては満足に動くことは難しいらしい。それまでの俊敏さは無くなっていた。それを差し引いても十分な機動性を持っていはいるが、現状ならば、ついていけないこともない。

膝で踏みつけた足をそのままに、顎を狙ったアッパーを打った。

しかし、流石にそれは大穴を狙いすぎたか、上半身をそらしただけで交わされてしまった。

けれど、それで終わるわけには行かない。腕を振り上げた勢いで、上昇する体の動きをそのままに、折ったままになっていた膝を立たせる。そして、振り上げた腕を、肩の筋肉をバネにして、逆に勢い良く降下させ、左肩を狙った肘打ちに転じさせた。

「っう!?」

ゴキンと重々しい音が俺の耳にまで届く。

「入った……」

打たれてすぐに、沙希は打撃を受けた箇所を庇うように、背後へ飛びずさり距離を取った。その肩から下は力なく垂れ下がり、プラプラと揺れている。骨が折れたのか、それとも脱臼したのか、様態は計り知れないが、それがかなり大きなダメージであったのは間違いない。

「形勢……、逆転か?」

対する俺はといえば、最も怪我の具合が酷かった左腕の治癒もその殆どが済み、完璧とは言えないが、十分に動き回れるまでになっている。全身に受けた打撲も、この僅かな時間の間に完治したようだった。

「……ま、まだまだです」

「お前も凄いな、本当に」

この期に及んで、何の感情も感じられない能面の様な沙希の顔には、しかし、一筋の汗が伝っていた。

「…………」

次で決めてやろうと、内心決意して、一歩、大きく沙希に向かい足を進めた。狙うは右足の膝関節である。幾ら相手が人間離れした俊敏性を持っていようとも、足の関節が壊れてしまえば、戦うのは不可能だろう。幸いなことに、俺やオッサンと違って、沙希は怪我が自然に回復したりしないらしい。これは大きな利点だ。

しかし、善戦を始めた俺はその決意も半端に、一歩を前に進んだだけで、その歩みを止めざるを得なくなった。一瞬、腕が焼けるように熱くなったかと思うと、途端に激痛が身体を駆け巡った。

「っっっ!?」

半田ごてを押し付けたような、とんでもない衝撃を右腕に感じた。

俺は脊髄反射で、その場から後ろに飛び退いた。

「な、なんだよ一体っ!?」

慌てて視線を自らに向ければ、そこには見事に焼け爛れた右腕があった。

「痛ってぇ……」

皮膚は焼け落ち、露になった肉は、ジクジクと染み出してくる血液に濡れて、グロテスクな姿を晒している。皮下の組織が直接外気と触れることで、僅かな風の流れさえもが激痛に繋がった。

その、あまりにも突拍子の無い展開に、俺は軽いパニックに陥った。これで痛みが無ければ、多少は冷静に思考も働いたのだろう。相対していた沙希に視線を向けてみるも、特にこれといって、何らかの手を講じた風には感じられない。

「何という間の悪さだ。まさか、よりによってこんなところで血が切れるとは」

ガキが何事かを呟いた。

血が切れる……?

俺は痛む傷口を庇うように、背が大理石で出来た便所の壁に当たって止まるまで、よろよろと覚束無い足取りで後退した。この状態で攻めてこられようものなら、満足にその相手さえ出来ずに終ることだろう。

「血だ、血の効能が切れたんだっ!」

そんな頼りない俺の様子を目に、ガキが短く叫んだ。

「ち、血ぃ……?」

「お前に与えた私の血の効能が切れたんだ。日の光を浴びるな、灰になるぞっ!」

その言葉を耳にして、昨晩の出来事が鮮明に思い出された。それは、おぞましくもガキの血を口にした自らの姿である。

アレの効果が切れたというのか?

「ちょ、ちょっと待ってくれよ。聞いてないぞおいっ!」

吸血鬼は太陽の下に出ることは出来ない、という例の定説である。

説明の通り、今しがた俺が立っていた場所には、天井に空いた上階へ通じる穴から差し込んでくる一筋の陽光がある。よりによって、こんな時に効果が切れるとは運が無い。というか、家を出る前に事前に補給しておくとか、そういう対策を行っておくのは普通なんじゃないだろうか? うちのご主人様は何をやっているのだ。

「どぉするんだよっ!」

「しょ、しょうがないだろうっ! 私だって一分一秒に至るまで効果時間を管理できる訳ではないのだっ!」

「だからって、なにもこんな時に切れなくてもいいだろうにっ!」

「だ、だから、そのようなこと私に言われても困るっ!」

「そりゃそうかもしれないけど、でも、いくらなんでもタイミング悪すぎだぞっ!」

シュウシュウと音を立てて、腕に出来た火傷の傷は早速再生を始めている。昨晩、太陽の光を浴びれば俺は簡単に死んでしまうと説明されたが、この程度の部分的な火傷であれば、治癒は可能ということなのだろう。しかし、出来た傷が治ったとしても、既に切れてしまったガキの血液の効能はどうにもならない。

まあ、現状ならば、差し込んでくる光は一筋だ。それも日照面積は拳大のサイズでしかない。避けながら、というのも現実的な範囲で可能だ。まさか、この状況で悠長にガキの血を啜る訳にはいかないだろう。

「はははは、どうやら運は此方に向いてきたようだなっ!」

それを吉と見たか、それまで萎んでいたオッサンの態度が急遽に肥大化した。

「馬鹿言え、そっちだってボロボロの癖によく言うぜっ!」

背骨が真ん中からポッキリと逝ってしまったオッサンは、それでも、表情だけを取れば、先ほどとは打って変わっての笑みであるが、満足に動くには至っていない様子だ。

「確かに、私では貴様には及ばないだろう。それは先ほど確認した。しかし、沙希はまだ十分に動くことが可能だ。何の問題も無かろう」

「なに言ってんだよ。その沙希だって十分に怪我人だろうが」

「さぁ、どうだかな? お前はもう、太陽の下に出ることは出来ないのだぞ?」

「だから何だってんだよ。そんなの屋根の下に居れば何の問題も無いんだよ。そりゃ、差し込んでくる光は致命的かもしれないけど、それだって、そっちに比べれば圧倒的に有利だと思うぞ」

「ほぉ、本当にそう思うか?」

「なんだって?」

含み笑いを漏らすオッサンは、人差し指を俺の後方へ向けて、声も高々に言い放った。

「おい沙希っ、その娘を連れて外へ出ろっ!」

「んなっ!?」

「くっ!」

「わかりましたお父様」

応じて、静かに頷いた沙希が、此方が制止の声をかける間もなく駆け出す。

「ちょ、ちょっと待てコラッ!!」

それは反則だろう。それでは手も足も出なくなってしまう。

焦りに駆られ、慌ててその行く手を遮った。迫る相手とガキとの間に自らの身体を置いて関とする。怪我をしている沙希ならば、俺でも十分に相手を出来る筈だ。ならば、相手がガキを攫う前に潰すしかない。

しかし、構えを作った俺に飛び掛ってきたのは沙希ではなかった。

「雅之危ないっ!」

「んあっ!?」

それはオッサンだった。

折れた背骨をそのままに、苦痛に歪んだ表情を隠すことなく、壮大な体当たりをかまして来た。血走らせた目をギョロリと向け、上半身を背後へ曲げたまま、血液や唾液といった体液を撒き散らしながら迫ってくる様子は、もはや人間というよりも、化け物そのものである。 、 一方に集中のみに意識を傾けていた俺には、その突進を避けることは叶わなかった。見事に吹っ飛ばされた身体は、オッサン共々大理石で出来た便所の床に倒れ込んだ。

「な、何をすっ……っ!」

「クソっ!」

固い床に後頭部を強打した事で、一瞬だが、視界が暗転した。便所に響くガキの声は、しかし、最後まで届くことなく、半端に掻き消える。それで、敵の目論見は達成されたのだと理解した。

「この野郎、退きやがれクソっ!」

続いて幾発かの銃声が便所に響いた。吉川によるものだろう。だが、それに続く悲鳴は誰のものも聞こえてこない。外れたのだろう。

「退けと言われて退く阿呆がいると思うのかね。私もこれで結構必死なのだよ」

「こっちだって必死だよっ!」

必死に立ち上がろうとする俺の腰に、オッサンは両腕を絡め、体重をかけてしがみ付いてくる。

「ああもうっ! どうでもいいからお前は死ねっ!」

男に抱きつかれている気色悪さと、沙希に逃げられてはならないと思う焦りとで、気づけば相手の顔を殴打していた。けれど、無理な体勢では拳に力が込められない。おかげで大した打撃にはならずに、相手の捕縛から逃れるには至らない。

体を「く」の字の逆に曲げて、厭らしくも笑いながら抱きついてくる中年男性。その気持ち悪いことこの上ない状況に、生理的悪をひしひしと感じて、鳥肌の立つ腕で、全力を持って、その顔を幾回も殴りつけた。

その甲斐あってか、しがみ付いてくる腕の力は徐々に緩まり始め、その隙を突いて、なんとか逃れる事ができた。時間を無駄にした事へのお返しにと、腹部に蹴りを入れてやると、宙を飛んだ身体は、便所の壁に当たってグッタリと動かなくなった。瞼を落とした顔は、青痣だらけである。見るも無残な状態だ。

だが、逃れたのは良いが、それでも、沙希が逃げるのには十分な時間を奪われていた。

既に周囲には沙希の姿は無い。

「クソっ、待ちやがれこの野郎っ!」

ここでアイツを逃したら、今までの頑張りも全てが水の泡である。

「どうする雅之っ!?」

「どうするもこうするも、追うしかないだろっ!」

踵を返し、便所のドアから廊下へ躍り出て、もと来た道を全力で駆け戻った。

背後にはその後を付いてくる吉川の足音が聞こえたが、悪いが今は一緒にゆっくり進む余裕はない。吸血鬼の発達した身体能力をフルに活用して走った。目指したのは一階の玄関ロビーである。

途中、銃を片手に血を流す黒服達が幾人か倒れていた。吉川の爺さん達も頑張っているということだろう。廊下に出てみれば、遠くから銃声も聞こえてくるのが聞いて取れた。

「酷い状況だっ」

駆け足で辿り着いた先には、銃跡で蜂の巣になり、開け放たれたままの玄関扉があった。

玄関ホールに差し込んでくる光は、玄関の外に付けられた雨避け屋根のおかげでホールにまでは入ってきていない。ただ、それでも外に出て1メートルもすれば、そこは溢れんばかりの陽光に覆われた世界である。曇で太陽が隠れていれば少しは違うのだろうが、腹立たしい事に、頭上に広がるは青の世界である。今日は文句なしの快晴だった。

「残念ですが、これで貴方達も終わりです」

玄関を越え、雨よけ屋根の下にあって、陽光に当たらないギリギリの位置に立つ。そこから正面に、数メートル程を離れた位置には沙希の姿がある。無論、その腕の中にはガキが抱かれていた。

「逃げるなよこの野郎。正々堂々勝負しやがれっ!」

「それは友人の狙撃に助けられ、弱った相手を狙う貴方の言える台詞ですか?」

「い、いいじゃないかよ、それぐらいっ!」

「いいえ、全然よくありません」

クソ、無駄なところで多弁だな。

「お前もケチな奴だな……」

「別にケチでもいいです」

「…………」

ったく、どうすればいいんだよ。。

「ええい、いい加減に離せ。何時までこうしているつもりだ」

「残念ですが、お父様の命令ですので離せません。それに、今の貴方に私を止めることは不可能です。大人しくなさっていてください」

「よく言ってくれるわ、この下種が。魔力さえあれば貴様等なんぞ一瞬で葬ってくれように」

「ですが、今の貴方には魔力のまの字もありませんし、私を止めることも出来ません」

「うるさいっ、そのようなこと言われずとも分かっているわ」

「でしたら、もう少し素直になっては如何ですか?」

「貴様は、この私に屈伏しろと言うのか? ホムンクルス如きに? 人間如きに? 貴様の冗談は面白いな、えぇ?」

「ありがとうございます」

「ほ、褒めてなどおらんわ馬鹿者っ!」

「そうですか?」

「当たり前だっ!」

沙希との間にある距離は、数メートル程度である。詰めようと思えば一息に詰めることも可能だ。

「それにその脇の下を持つのは止めろっ!」

「いけませんか?」

しかし、仮に沙希に一撃加え、ガキを取り返したとしても、全身に陽光を浴びてしまっては意味が無い。幾ら驚異的なスピードで傷が治るとはいえ、俺が焼かれて悶えているその間に、ガキは再び相手に持って行かれてしまうだろう。

「いけないに決まっておろうがっ。体重がかかって脇に手が強く当たるあだろう。それが痛いんだよ。抱くなら抱くでもっと丁寧に扱え阿呆っ!」

「……はい」

どうしろというのだろう、この状況。

けれど、俺には今後の予定を考える時間さえ用意されていないらしい。

というのも、唐突として上の階から降ってきた巨漢が、沙希の隣にドスンと軽い地響きを立てて降り立ったのだ。

「ああっ! もう復活しやがったのかっ!」

「当然だ。デイウォーカーを目の前にして早々に休んでなんぞおられん」

それは顔からは、現在治療中を示す煙がシュウシュウと立っている。

未だに体は逆方向に曲がったままである。幾ら吸血鬼とはいえ、致命的なダメージは治癒するにしても時間がかかるのか。それとも、オッサンが俺と同様に新米の吸血鬼だからだろうか? まあ、今はそのようなことはどうでも良い。

「卑怯だぞ、お前だけ外を歩き回りやがってっ!」

「貴様も先ほどまではそうであっただろうが。まあ、運が無かったと思いたまへ青年」

「糞っ、舐めやがて……」

今まで自分がそうであったように、青空の下を悠々闊歩するその姿は、見ているだけで腹立たしい。太陽の下に出られないことの、なんと苛立たしい事か。

「さて、これでようやくデイウォーカーが私のモノになるのだな」

「誰が貴様のものだ。嬲り殺すぞ、下種が」

「はっはははは。精々足掻くがいいさ。口先だけだがな」

まるで笑いが止まらない、といった様子で、オッサンは憎たらしい笑顔を作って見せた。

「だが、その前にやっておかねばならないことがあるな」

「なんだよ?」

「貴様等には随分と世話になったのだからな。その分の借りを、ここで返しておかねばなるまい?」

「俺はお前に施しを与えた記憶は無いぞ?」

「さて、いつまで虚勢を張っていられるかね」

にんまりと細まった、人を小馬鹿にしたような目で此方を見据えて、オッサンは続ける。

「そうだな、折角こんな絶好のロケーションにあるのだ。ここでこのデイウォーカーの両手両足をへし折ってやろう」

「お、おいっ! お前、ちょっと待てよっ!」

「この吸血鬼のお嬢様には、随分と計画を引っ掻き回されたのだ。悪戯が過ぎるとどうなるか、ここは体を持って教育を受けるべきだろう?」

そう言って、オッサンは沙希に抱かれてたガキの右腕を手に取った。

「っ!」

「さぁ、まずはこの右腕をポッキリ折らせて貰おうか」

「薄汚い手で触れるなっ!」

スルリと伸びた、細く色白なガキの腕を、大きく無骨なふたつの手が、肘を中心に挟んで掴む。今のガキの状態を考えれば、オッサンが少し力を加えただけで、肘は本来曲がらない方向へ、呆気なく折れることだろう。

「子供相手に本気になってんじゃねぇよっ!」

「別に子供だろうと老人だろうと、歳の違いなど些細な物だ。第一、この手を出したくても出せないという難儀な状況だからこそ、演出をする甲斐があるんじゃあないか。今やらずして、何時やるというんだ?」

相手は此方の言葉に耳を傾ける気など皆無である。

「違うかい?」

「うるせぇよっ!」

俺に講釈を垂れながら、オッサンは握った腕へ、ゆっくりと力を込めていく。我慢なら無い憤りを感じながらも、それを晴らすことの出来ないこの身が恨めしい。

「ふんっ、折りたければ折るがいい。腕の1本や2本くれてやるわっ」

強がって見せるガキの表情は、それまでと変わらぬ凛としたものだが、流石に痛みはあるのか、口元が引き攣っている様にも見える。

蹴るは殴るはと、俺のことを随分と手酷く扱ってくれたガキではあるが、それでも、こうして目前でその危機を見れば、ジッとしているとは辛い。たった二晩の付き合いだが、それでも、黙って見捨てるには、多く係わり合いを持ち過ぎたようだ。陽光を浴びる事で火傷をするのだと知っていなければ、直ぐにでも飛び出して行ただろう。だが、あの痛みを知ってしまった後では、それも躊躇われた。直射日光を浴びた箇所はおろか、今来ている薄いインナー、アウター程度の生地ならば、陽光は容易に貫通して、下にある皮膚を焦がしてくれる。

畜生……。

折角、一度は連れ戻したというのに、一日と経たずして逆戻りしてしまった。

「おいっ! それ以上やるっていうなら、こっちにだって考えがあるぞっ!」

それは無論、思いつきのハッタリである。

「はっはははは、やれるものならやってみたまえ。私は一向に構わないのだぞ?」

そんなことは相手も重々承知しているらしく、此方が外へ出て行かないと確信したオッサンは、態度を悪くして増徴の一途を辿る。

「ほら、どうした。出て来たまえ」

「う、うるせぇっ! お前こそ出て来いよ、卑怯だぞ、このペド野郎っ!!」

対する俺は、情けなくも、ただ野次を飛ばすことしか出来ないでいる。頭にくること、この上ないだろう。無論それは、何も出来ない自らの無力さに因する。だが、それとは別に、傍若無人、唯我独尊を絵に描いたようなガキが、こうも簡単に陥れられている光景が、何故か不思議と、自らの不甲斐無さに加えて、更なる苛立ちを感じさせた。

「さぁ、君が此方へ来たまえ。どうした、出来ないのか?」

「こんのぉ………」

自らの額が、自然と小刻みに痙攣しているのが感じられた。鏡を覗けば見事な青筋が立っているが見て取れるのではないだろうか。

「さぁ、貴様が来ないのならば、この娘の腕は折ってしまうとしよう。使えない下僕を持つと主人も大変ですなぁ?」

「負け犬が良く吼えるというのは本当の様だな。下僕なんぞ来なくとも何の問題もない。折るならとっとと折ればいい」

「ほぉ、これはまた強がってくれますなぁ? でしたら、ご所望通り致すとしましょうか」

「ふん、骨の1本や2本、蚊に刺された様なものだ」

「はっはははは、まったく下僕が下僕なら、その主人も主人ですな。まあ、その家族となってしまった私が言える事でもないのだろうがね」

「いつ誰が貴様をファミリーに迎えると言った? 冗談も休み休みに言え」

「その強がりも何時まで続きますかね」

軽口を叩き合う二人であったが、その瞬間、何の前動作もなくオッサンの腕が動いた。

「ま、待てっ!!」

制止の声をかける余裕も無かった。

直後に、ベギリという嫌な音が聞こえてきた。

「あ゛あ゛っ!!」

同時に、ガキの口から生々しい悲鳴が漏れた。

テレビのチャンネルを変えるような何気ない感覚で、その細い腕は呆気なく、しかし、完膚なきままに折られた。

破れた肉の中からは白いもの突き出し、外気に晒されていた。周囲に飛び散ったのは、破れた皮膚と肉の間から溢れ出た血液である。あらぬ方向に曲がってしまった肘の関節は、オッサンの手を離れて、支えを失った二の腕から先を、ゆらゆらとぶら下げている。

その光景が余りにも痛々しくて、来るところまで来ていた我慢は、容易に限界を超えた。弱弱しく洩れた嗚咽が、感情を激しく奮い立たせた。はち切れんばかりに膨れ上がった怒りに、自らを抑えることが出来なかった。それまで自然とかかっていたブレーキが、此処へ来て、遂に切れたのだった

「この、野郎ぉっ!」

制止を考える間も無く、足は陽光の元に佇む敵に向かって駆け出していた。頭で考えるよりも先に体が動いてしまう、というのは幼少よりの短所である。それが遺憾なく発揮された結果であった。

瞬発的な感情に促され、足は力強く地を蹴って前へと進む。

「ぅっ……ば、馬鹿者っ!」

その行為が余りにも予想外だったのか、オッサンと沙希、それにガキに至るまでが、豆鉄砲を食らった鳩のような表情で此方を見つめていた。

「そ、外に出るなどとっ!?」

吸血鬼という化け物になってしまった今の状態ならば、数メートル程度の距離を詰めるには数秒とかからない。全身をバネのように爆ぜらせて、ひたすら、我武者羅に相手を目指した。

陽光に晒されて、肌はすぐに焼け焦げ始める。生肉の焼ける気持ちの悪い匂いが漂う中で、身体中の神経が悲鳴を上げ始める。しかし、良い感じでキレてしまった頭には、後ろへ引き返す、という選択肢が浮かぶことは無かった。なによりも、体が痛いと思う以上に、腹が立っていた。

そして、両者の間にあった距離は、瞬く間にゼロとなった。

走り込んだ勢いをそのままに、握った右拳を振り上げ、オッサンの顔面を目掛けて渾身の一発を打ち込んだ。

「あがぁぁぁっ!!」

余程勢いがついていたのだろう。拳を受けた身体は、情けない悲鳴をあげながら宙を飛び、屋敷を囲うブロック塀にまで達した。そして、塀にぶつかった巨躯は、盛大な音を立てて制止した。ガキは沙希に抱かれているので、巻き込まれることは無い。胸がスカッとする一発であった。

しかし、敵を討った右手もまた、その衝撃の大きさと、容赦なく受けた陽光のおかげで、手首から先が焼け焦げて、崩れ落ちてしまっていた。

「あ、あ゛あっ、ああああああっ!!」

けれど、ここまでやっておいて、中途半端に尽きるわけにはいかない。悲鳴にならない奇声を上げながら、崩れかけた体に鞭を入れ、その場に踏ん張り、倒れることを踏み留まらせた。重症のガキには悪いが、こっちも一杯一杯である。立っているだけで辛くて堪らない。他人を気遣う余裕なんてこれっぽっちも無い。

拳を振るったままの格好で止まっていた腕を引き戻す。そして、オッサンと同様に、驚愕の表情で此方見つめていた沙希の腕から、乱暴にガキを奪い取り、俺は再び日の光から逃げるべく、屋敷を目指して全力疾走だった。

「き、……貴様何を、馬鹿な」

その身を抱く腕の中では、ガキが何事かを喚いているが、身体中が痛いのと、必死なのとで、聞く耳を向けている余裕は皆無だった。ただ今やりたいことは、このまま日の光が届かない所まで逃げる、だった。

体中が痛かった。

俺はそれほど酷い形相をしていたのだろうか。呆け顔の沙希からガキを奪取するのは、非常に容易に済んだ。しかし、そんな油断も僅かな間である。次の瞬間には自身の獲物が奪われた事に気付き、慌ててこちらを追いかけて来た。

「くぞっ!」

この期に及んで一体何が悔しいのか。痛みに垂れる涙や鼻水に紛れて、そんな言葉が自然と口から洩れていた。

吉と出るか凶と出るか。俺は最後の望みをかけて、銃声が響く方向を目指して走った。もしかすれば、吉川の爺さん達に助けてもらえるかもしれない。そう混乱の一歩手前の脳味噌で考えた。

しかし、窓ガラスを割って飛び込んだ部屋は、期待とは裏腹に無人であった。銃声は、その戦場から音が反射して聞こえてきていたようであった。

「っ!?」

「ぐぅッ!」

ガキを抱えたまま、部屋の床に背中から倒れ込む。勢いの付いた身体は数回その先へ転がって、ようやく止まった

「お、お前……、何故だっ!」

身体を横にしたまま、顔だけ僅かにを動かして視線を巡らせると、そこが例の地下室へ通じる部屋であることに気づいた。

室内に入ったおかげで陽光は届かなくなった。しかし、既に身体中の感覚は麻痺して、触覚さえもが無くなっていた。痛いのか痒いのか熱いのか、何がなんだか分からない。自分の体がどうなってしまったのか、目を向けることさえ億劫だった。

「こ、こら動く、な、阿呆っ!」

腕の中ではガキがモソモソと動いている。けれど、それに応じて身体を動かすのさえ、今の自分には相当に体力を消費する大仕事に思えた。

手を伸ばせば触れられる位置には、地下へ伸びる階段は、薄暗い口を覗かせている。そこは昨晩、ガキが捉えられていた場所である。そして、何をどう考えたのか、混乱した脳味噌は殆ど無意識のうちに、迫りくる敵から逃げるべく、身体に寝返りをうたせた。重力に従い、俺はガキを抱えたままの格好で、地下へ続く階段を転がり落ちるよう降っていった。

全身を殴打しながら落ちていった階段の先で、身体は地下室の入り口に勢い良くぶつかり、その木製の扉を押し破った。弾け飛んだ扉に続いて、満身創痍の肉体は、暗く冷たい室内へ転がり込んむ。

そこまでが、俺に出来る限界だった。階段を転がり落ちた勢いをそのままに、地下室の冷たい石床の上へ、仰向けに倒れこんだ。

「っ!」

咽び返した口から、暖かいものが飛び出して口元を汚した。

地下室には何の音もなく、ただ、俺とガキの気配だけがあった。所狭しと詰まれた書籍や、何に使うのか想像もつかない、歪な形をしたガラス器具、金属部品が至る所に置いてあった。更に、一体何に利用するのだろう、部屋の隅には炉の上にかけられた、人を一人湯で上げられそうなサイズの大釜が設置してあった。

しかし、ここへ転がり込んだのは良いが、これから先をどうすればよいか。

「はぁ……、あぁ……ぁ……」

腹部に圧迫感を感じ、閉じかけた瞼を上げると、仰向けに横になった俺の腹の上にちょこんと座るガキの姿が目に入った。

「お前………重い、んだよ……」

眼球だけを其方に動かして、その様子を伺った。

その姿は凄惨たるもので、怪我をしているのは腕だけだが、傷口は直視するのが躊躇われるほどであり、患部から噴出した血液で、全身は真っ赤に染まっていた。怪我は本人が語っていた通り、自然と治る素振りは皆無であった。無事な左手で、折れたもう一方を労わる様に抱いているその姿は、どうにも痛々しくて、堪らなかった。

そして、呆けた表情で此方を眺めていたと思いきや、俺の非難の声で我に返ったのか、唐突に、激しい口調で問いただしてきた。

「き、貴様はっ、何故、どうして出てきおったのだっ!」

「は……ぁ?」

俺が何も考えずに、日の下へ飛び出してしまった事を怒っているのだろうか?

だが、そのおかげで、一時的なものかもしれないが、窮地からは脱したのだ。幾らなんでも、第一声でこれはないだろう。とはいえ、問い詰めてくる相手の表情は、怒りに歪んでいるわけでも無く、悲しみに揺れているわけでもなく、ただ、純粋に困惑している様に見てとれた。

「だから、何故、お前は陽光の下に出て来たのだ、と聞いているのだっ! 答えろっ! 吸血鬼が太陽の下に体を晒せばどうなるか、それは貴様にも教えただろうがっ!」

「あぁ……」

たしかに、教えられたとおり、その辺の事情に関しては身を持って理解している。今更教えられるまでも無い。

「何故、何故だっ!」

自らを問いただすように、ガキは言葉を続ける。

「…………」

何故飛び出したのか、と問われれば、それは感情に任せて、と答えるのが正解だろう。しかし、腹の上に座っている奴は、そんな恥ずかしい事を面と向かって言えるような相手ではない。

「幾ら吸血鬼とはいえ、弱点もあれば死の概念だって存在するのだぞ? それなのに貴様はどうしてっ!」

「マ、マジかよ? そうだ……、ったの……か?」

「あ、当たり前だ馬鹿者っ!! 成り立ての癖に出しゃばりおってからに、貴様は私の話を聞いていなかったのかっ!?」

「いや……、俺は……吸血鬼っていうのは、死なないモノなのかと……思って」

世間で広く語られている、最もオーソドックスな御伽話の場合では、太陽の光を浴びた吸血鬼は、蝙蝠になって寝床へ逃げ帰るのが定石だ。その場で直に死んでしまうような描写はあまり見たことが無かった。

「馬鹿言え。吸血鬼といえど生物だ。生まれれもすれば死にもする。そのような事も理解していなかったのか?」

もしかしたら、そんな説明も受けていたかもしれない。勝手に間違った解釈で受け取ってしまっていたようだ。

「そ、そうだ、ったのか……で痛いと……、思った」

「貴様は死ぬぞ……。今の自分がどの様な姿をしているのか、理解しているのか?」

「そんな……ことを言われたら、見たく、無くなるな……」

幸か不幸か、体の具合は最悪であり、首を捻る動作さえ億劫だ。視界に写るのはガキの顔と、地下室の薄暗い天井だけである。

「お前は……本当に、どうして出てきたのだ……」

「あぁ?」

疑問の言葉はしぶとく続く。

「あのまま突っ立っていれば、貴様には何の影響もなかっただろうに」

「まあ……、そりゃそう、だったな」

「そりゃそうだったな、じゃない。私の問いに答えろ」

軽い言葉を口にして、相手の問いかけを受け流そうと試みたが、それも許されることは無く、眉を吊り上げたガキの真剣そうな顔が、グッと迫ってきた。そんな風に問い詰められると、まるで、俺がなにか悪い事をしてしまったかの様ではないか。

「さぁ、なぁ……」

「主人の命令が聞けないというのか?」

しつこい奴である。

幾ら恍けようとも、無駄に食い下がってくる。

「そりゃ……、あのオッサンが、頭に来たからじゃ……、ないか?」

それを問いただす事にどんな意味があるのか、全く分からない。しかし、どんな意味があろうとも、その問いに素直に答えるのは如何にも憚られる。なので仕方なく、適当な嘘を並べてこの場を凌ぐことにした。

「……それは本当か?」

すると、それに対して、相手はその真面目な表情を崩すことなく、口にしたばかりの言葉の真偽を聞き返してくる。

「だか…ら、さぁな、って言った……だろ? 俺だって、良く分から……ないんだよ」

これ以上見ていられなかった。見ていて辛かった。そんな言葉は幾らでも浮かんでくるが、その全ては心の内に秘めておく事にする。ここでそれを言ってしまえば、そこから先は、また昨晩の二の舞になること必至だろう。

「…………」

それにしても、流石に今のは身体に堪えたようである。段々と、目を開けているのさえ辛くなってきた。

「なんか、結構やばい、かも……」

「ちょ、ちょっと待てっ! 目を閉じるな馬鹿者っ! 意識をしっかりと持てっ!」

「無茶、言うなよ……」

「クッ、貴様はそれでも私の下僕かっ!? しっかりしろっ!」

「……俺は、お前の下僕じゃ、ない……」

「あ、阿呆っ! 目を、目を開けろっ!」

自然に瞼が落ちてきた。

同時に身体が激しく揺すられ始める。

「あぁ……」

段々と下がってゆく瞼の隙間からは、重症の怪我人に跨って、その肩をガクガクと揺するガキの姿がある。こいつ、一体どういう神経をしているんだ。もう少し優しく扱ってくれても撥は当たらないんじゃないか?

「お前、少しは、静かに」

「死ぬぞっ! 意識を失ったらそれで終わりだぞっ! いいのかっ!?」

「よ、良くない。……けど」

「けど、なんだ?」

「眠い………」

「阿呆ぉおおおおおお!」

大きく声を張り上げて叫ぶガキの声も、その音は篭って聞こえた。

「いいか、眠るな、眠るんじゃないぞっ!」

「あ、ああ……」

しかし、幾ら眠るなと言われても、眠いものは眠かった。睡眠欲は人間の三大欲求の1つである。早々簡単に抗えるものではない。重たくなった瞼は重力に従って、自然と下に落ちてゆく。

「って、言ってる傍から目を閉じるなぁあああああああああ!」

激しく揺すられる身体にあって、意識は落ちたり戻ったり落ちたり戻ったりと、小刻みに状態を遷移させている。まるで、昼食を食べた後で受ける、昼下がりの授業中に在るような、まどろみと覚醒の反復運動を繰り返す。そして、それも数回を繰り返すと、段々と侵略してくる眠気達が勢いを増し、意識の覚醒間隔が長くなってくる。

「おい、しっかりしろ。しっかりしろと言っているんだっ!」

ガキの声がとても遠くに聞こえた。

なんだか、起きているのがとても疲れる事の様に感じ始めていた。

しかし、いざ眠りに落ちようと決めて瞼を落としたとき、唐突に、ドシュっと低音の良く効いた効果音が耳に届いた。

そして同時に、左腕に激痛が走った。

「あだぁぁぁぁあああ!」

眼が反射的に限界まで見開かれた。

中途半端に残っていた痛覚に強烈な刺激が走った。

「な゛、なんでこんなもんがぁっ!?」

首を捻って視線を向けると、そこには、俺の右腕を押しつぶし、そしてなお、石製の床に深く突き刺さった鋼鉄製の外灯の柱があった。

「いってぇえっ! 痛いっ! ああああああ、もううあああっ!」

我慢できない痛みだった。

声を上げていないと、どうにかなってしまいそうな感覚があった。

「な、何が起こったっ!?」

腹の上に座り込んでいたガキが慌てて立ち上がる。コイツに当たらなかったのは不幸中の幸いだろう。

「もう、もう、容赦はせんぞ貴様等ぁあああああああああああああ!」

首を捻って、声のする方向へ顔を向ける。

やはりと言うか、なんというか、もう勘弁してくれと思いたくなる相手がそこには居た。

「甘い顔をしておれば調子に乗りおって、この糞ガキャあぁっ!!」

地下室に続く階段を半分ほど降りたところに、オッサンはいた。俺も人の事は言えないのだろうが、相手もかなり酷い形相をしていた。殴られた頭は右半分が凹み、目も片方しか生きていない。真っ赤に腫れ上がった皮膚は、血で染め上げられ、B級ホラーのゾンビを模した、新手のクリーチャーの様である。

それにても、復活の早い奴である。

「お、おい。逃げろ、ガキっ!」

「ば、馬鹿言えっ、誰が逃げるかっ!」

「なんでだよっ!」

「一人で敵に背を向け、おめおめと逃げるならば、ここで死んだほうがマシだっ!」

相変わらずプライドの高い奴だった

「はははははは。何をほざけっ。誰が貴様等を逃がすと言った?」

血走った目をこちらに向けて、狂った笑みを浮かべている。

「そう、まずは死に損ないの貴様を殺してやろう。娘はそこで自らの下僕が果てる様を見ているがいいっ!」

「誰が貴様如きに殺されるか! この男は私の下僕だぞっ!」

ガキの良く通る凛とした声が、冷たい地下室に響く。

「だが、その下僕は貴様を助けたが為にもう虫の息じゃないか。その体で何が出来るんだ?」

「っ……」

階段を降りながら、ジリジリ近づいて来るオッサン。

「どうした、その通りだろう?」

「ぅぅっ!」

「その様子ではもう立ち上がる事もできまい。下手をすれば、そのままあの世行き、と言ったところか」

「……うるせぇ、誰が…死ぬかよ」

「はっはははは、強がったところで貴様が動けない事には変わりなかろう」

まったくもって、その通りである。こうして意識を支えてくれている痛覚さえ、身体の麻痺が進み、段々と薄れていっているこの状況である。言われなくたってそのようなことは理解している。

「しかしだな……。考えてみれば、死に損ないの貴様を痛めつけたところで、大して面白くも無いな」

「な、なんだと?」

「となればこの際だ、予定を変更して、この下僕の前で先ほどの続きをするとしようじゃないか」

「こ、この野郎っ!」

なんて趣味の悪い奴だろうか。

「ははははは。そのほうが楽しかろう。なぁ?」

「っ……」

今の状態では、仮に立ち上がった所で、ガキを抱えて逃げるのは、まず不可能である。

「ふんっ、それで貴様の気が済むなら好きにするがいい。下種がっ!」

「お、おいっ!」

「お前は黙っていろ」

コイツは何を考えているのか。これでは、先ほどの俺の頑張りが、何の意味も持たなくなってしまうではないか。

「これはまた随分と素直だな、どういう心変わりだ?」

腕に受けた傷が刺激となって、それまであった強烈な眠気は多少だが和らいだように感じる。だが、その代わりに、二人を取り巻く状況は、更に危うい方向へと向って進んでいっている。

「やるのか? やらないのか?」

「はっははははは、やるともやるとも、早速始めてあげようじゃないか」

気持ちの悪い笑い笑みを浮かべて、暗い階段を降りきった巨漢は、横たわる俺の身体の前に立ちはだかったガキの元へ、ゆっくりと近づいて行く。その背後には、沙希が控えているのが確認できた。

これはもう、諦めろという事だろうか。

「先ほどは貴様等を舐めたばかりに痛い目を見たからな、とっとと事を終らさせて貰うとするぞ」

そう言って、ガキの腕を手に取り、その肌を無骨な手の平で撫で回してみせる。

「口の減らない下種だ」

それに対して、まるで汚物でも前にした様に、ガキは額に皺を作って顔を歪める。一度相手に掴まれてしまえば、その身体能力の差は明らかだ。ガキには振りほどけるものではない。

「はっははは。相変わらずの減らず口だな」

そして、7号サイズのバスケットボールでさえ、片手で余裕を持って掴み上げられそうな大きな手が、目の前にある金色の小さな頭を鷲掴みにする。それは吸血鬼の能力によって成せる技だろう。上に向かい動かされる腕に応じて、ガキの足が床から浮き上がった。

「っ!」

バタバタと動く両足は、空を切るだけである。自らの頭を掴む手を外そうと、必死にもがいている様だが、それも焼け石に水、といった感じだ。

「何故そうまでも私を嫌う? 同じ血を分けた家族じゃないか」

対するオッサンは、それまでの満身創痍であった身体の治癒が進み、逆 “く”の字の形に曲がっていた背骨は、歪みがそれほど目立たない程度にまで回復している。

「そうだろう? 我が母よ」

「ふ、ふざけるなっ! 貴様と私を一緒にんひぃぎいいいいいいい!」

「おっとコリャ失礼」

グシッという音が聞こえ、それと同時に、甲高い叫び声が地下室に響き渡った。

「あああぁ……あぃぃぅ……」

叫びに応じて、辺りに真っ赤な液体が飛び散った。見れば、オッサンの空いた左手が、ガキの肘の関節を完膚なきままに握り潰していた。押しつぶされたピンク色の肉の合い間から、白い骨が覗いてみる様は、あまりにも痛々しくて、直視するのが辛いほどである。

「や、止めろよっ! おいコラァ!!」

「何を言う。誰がこんな楽しいことを止めるものか」

「あ、あぁぁぁ……ウゥ……」

「さぁ、次だ。次は右足だな」

左肘の関節を潰した左手は、続けざまにジタバタと動いていた右足を掴みとり、足首を持って、それを強引に捻り上げた。

「んぎぃいいいいいいいっ!?」

本来は曲がる筈の無い方向へ、無理に矢理捻じ曲げられた足は、膝の関節が壊れ、腿の付け根が股関節の辺りで無残にも裂けた。骨の砕ける音が、窓の無い薄暗い室内で、大きく響いた。

その惨たらしい様を目の当たりにして、言葉のあやでも、ましてや比喩でもなく、本当に頭が変になりそうだった。

「これはもう、殺してしまってもかまわないかもな。デイウォーカー云々も、この悲鳴を聞いているとどうでもよくなってきたわっ!」

本気で殺意を覚えるほどの笑顔がそこにはあった。

「今にして思えば、何もオリジナルにこだわる必要はなかったのだ。沙希と同様に、後でクローンを作ればいいだけの話だ」

腱が切れてしまったのか、両腕は肩から力無くぶら下がっている。右足は、つま先が背後に向いてしまっており、ひざの関節が不気味な膨らみを持って、内部にある骨の結合が粉砕された事を示している。頭を掴まれたままの状態で、その小さな身体は抵抗する力さえ尽きたように、ぐったりと垂れていた。

「こ、この野郎ぉおおっ!」

腕の傷口から露出したピンク色の肉が、ピクピクと痙攣しているのが確認できる。

「どうだ、貴様のご主人様が大変なことになってしまっているなぁ?」

相手はわざわざ、俺がその顔を確認できるように、頭を左手で持ち直し、その姿を見せ付けてくる。すると、視界に飛び込んで来たのは、泡を吹いて白目を剥いているガキの姿だった。半開きになった口からは、力無く舌が下がり、ビクビクと痙攣を繰り返しながら身体中を自分の血で真っ赤に染め上げていた。オッサンが腕を動かすたびに、垂れ下がった四肢がプラプラと揺れる。それがまるで、等身大の操り人形か何かなのではないかと思えてしまう程に。

「おおっと、まだ意識を失ってもらっちゃ困るな」

まだ続けようというのか、再び頭を右腕で持ち直したオッサンは、ガキの顔を執拗に殴りつけ、その意識を戻そうとする。無論、死んでしまわないよう手加減はしているのだろうが、それでも十分に強烈な一撃一撃が、白く艶やかな頬に、幾重にも渡って赤い痣を作っていく。

「あ、がぁ……あ……」

そして、幸か不幸か、ガキはそれで失った意識を覚醒させてしまう。

「うぅぁぁぐぅ……き、きさ…ま………」

ボロ雑巾様な、とはこういう様を指すのだろう。もう人としての形を半分失いかけている。けれど、それでもなお、光の戻った瞳だけは、キッと力強く相手を睨みつけていた。きっとそれが、このガキが体現するプライドなのだろう。

「そうだな、ここで一つ休憩にして、最後の左足は後の楽しみに取っておくとしようか」

すると、それに何か思うところがあったのか、ふとオッサンがそんな事を口にした。

「あ゛、んだ、と?」

まだ周囲の状況を認識できるらしく、相手の言葉に反応して、蚊が鳴くような小さな声が、真っ赤にはれた唇の間から漏れて聞こえた。

「折角だ、貴様の下僕がくたばるところを見てから死ぬといい。運がよければ地獄で合えるかも知れないな?」

「ぎ、ぎざまぁああっ!!」

幾度と無く殴られていたせいか、口周りの筋肉が上手く動かないらしく、応じて上がった叫び声は、しゃがれた酷い声色だった。

オッサンが右手を開くと、同時にドスっと音を立て、ガキの身体が床に落ちた。

「あぐっ!?」

すでに受身を取るだけの余裕も無く、身体はうつ伏せに倒れ、無様にも顔から床に叩きつけられる。

「さぁて」

そして、標的を代えたオッサンは俺に歩み寄ってくる。

「さて、折角吸血鬼を相手にするのだ。ここは一つ、その治癒能力と不死身性能の測定の為に、生きたまま内臓を引きずり出してやるとしよう」

そんなの冗談じゃない。

「う、うるせぇっ、できる……もんなら、やって、みろよっ!」

だが、対抗する手段は皆無であり、出来る事といえば、意味の無い罵倒を送って虚勢を張る程度である。

「はははは。ここまで来ると、その威勢は賞賛にあたいするだろうな」

大きな手が首を掴み、体を宙に持ち上げる。

「ああぁっ」

身体中がボロボロで、もう、それを跳ね除ける力も残っていない。

「威勢がいいのは結構だが、私は口にした事は確実に実行するようにしているのでな、そこのところをよろしく」

畜生……。

「く、糞が」

これじゃあ首吊りしているのと変わらない。息が、息が出来ない。

「生きたまま内臓を引きずり出すなんぞ、流石の私も始めての経験になるだろうな」

首にめり込む指は幾ら足掻こうとも外れそうにない。

「痛かったら痛いというのだぞ?」

視界の隅で、相手の腕が動いているのが分かる。幾ら吸血鬼とはいえ、身体の中身を持っていかれたら、治癒も何もないのではなかろうか? それ以前に、痛みでどうにかしてしまう。

「まあ、貴様は吸血鬼なのだ。直ぐには死なないだろうな」

「ぅぅっ」

呼吸も満足に出来ない状況では、相手の言葉に反応している余裕さえ無い。

「苦しんで苦しんで、太陽の毒が回りきり、蘇生が間に合わなくなるまでのた打ち回って、そこでようやく死ねるのだ。どれ、ひとつ地獄よりつらい生き地獄を堪能してみてくれ」

「っ!」

耳まで割けそうな勢いで、オッサンはニンマリと気味悪く笑ってみせる。それが合図だった。

それなりに筋肉の盛り上がった形の良い腕が、手刀を伴って振り上げられた。それが次の瞬間には、腹の皮と肉を突き破るのである。

余りの恐怖に硬く目を瞑った。

…………………………。

…………………。

…………。

だが、

しばらく待ってみても、衝撃が訪れる事はなかった。

酸欠で朦朧としてきた意識の中で、幾ら待ってもやって来ない痛みに疑問を持ち、恐る恐る瞳を開いた。すると、俺の腹に刺さる筈であったその手刀は、俺とオッサンの二人の間に割り込んだ何かによって遮られていた。

「なっ………」

あろうことか、開かれた視界に飛び込んできたは、オッサンの手刀を自らの胸で受け止めたガキの姿である。

明後日な方向へ折れ曲がった右足は満足に床へ付くこともなく、腿の付け根から捩れ、ぶら下がっている。唯一満足に動く細い左足が、その支えている自重に耐えて、小刻みにプルプルと震えていた。肘から下を力無く垂らした両手を広げて、懸命に立ちふさがるその姿は、鮮烈なイメージとなって俺の脳内に展開された。

「な、なんで……」

腹部を貫通した無骨な太い指が、ガキの背中から5本、生えていた。

「……ま、まったく貴様は、役に立たない………下僕だ………な………」

背後を振り返り、俺を見つめてそんな事を口にする。

「お、お前………」

まるで時が止まったかのような静寂があった。何故こんなことになっているのか。ありえない光景である。それを仕掛けたオッサン自身も唖然として、その様子に見入っていた。

しかし、ガキの身体が崩れ落ちる音で現実に色が戻る。

身体が崩れ落ちるに伴って、突き刺さっていた手がズルリと引き抜ける。そして、ぽっかりと空いた腹部の穴から、噴水のように血液があふれ出し、俺の顔を真っ赤に染めた。

「………………………」

小さな身体の倒れ行く様子は、まるでスローモーションのように見えた。

その様子に、胸の内が遣る瀬無さで一杯になった。

「こ、コノヤロロォオおおおおおおお!!」

頭に血が上るとか、キレるとか、そういうものとは次元が違う。

勝手に自身の身体が動き出してしまいそうな、恐ろしいまでの破壊衝動が沸いた。もしかしたら、殺人犯はこういった感覚を持って人を殺すに至るのかも知れない、そう感じられるだけ怒りがあった。何もかもを壊して暴れたい、暴れたいと思った。

しかし、首をつかまれ宙ぶらりんの俺にできる事といえば、腕や足を振り回すことだけである。とても悔しかった。けれど、だからと言って素直に諦められるようなものでもない。無駄とは理解していながら、それでもひたすらに足掻いた。

「くっ、大人しくしろ死に損ないがっ!」

「この野郎っ! この野郎っ! コノヤロォっ!!」

目の前にいる憎たらしい奴を、今すぐにでも殺したい。本気でそう思った。殺したい。正直、百回殺しても飽き足らない。

だが、それが出来ない。

ああもう……。

死ね……。

くたばれ……。

消え失せろ……。

自分でも何を口にしているのか分からないくらい、言葉にもならない咆哮を上げながら、全身に走る痛みさえ忘れるほどの怒りに任せて、出鱈目に体を暴れさせた。先ほどまでは自らの足で立つことさえ困難に感じていなのに、怒りの衝動とは凄まじい。両手両足を振り回すように激しく抵抗した。

しかし、俺は何も出来ない。

崩れ落ちたガキの目は閉じられており、仰向けに倒れた体からは、ピクリとも動こうとはしない。胸に空いた穴から漏れる血液は、周囲に段々と赤い池を広げていく。その姿は幼い子供である。けれど、四肢はへし折られ、顔は痣だらけ、胸には大きな風穴が空いている。こんな悲しい姿は他に無いだろう。

怒りのあまり、我武者羅に暴れていた勢いで、誤って噛み切ってしまった唇から流れ出た血液が、咥内に鉄の味を伝える。自らを意識している余裕など無かったのだが、よほど激しく足掻いていたのだろう。見も蓋もなく振り回していた足が、何かに当たりガタンと音を立てた。

軽い衝撃が脛の辺りに伝わってきた。それは机だった。足が当たった机は、けたたましい音を立て、上に載っていた本やら仕様用途の不明なガラス器具やらを撒き散らして、その場に倒れた。

「ええいっ、大人しくしろと言っているのが聞こえんのかっ!」

手に負えなくなったのか、オッサンは倒れた机に向かって俺を投げつけた。満足に動かない身体は、受身を取る事も叶わずに、雑多に物品が散らばる床へ、顔から叩きつけられた。

「沙希っ! デイウォーカーの細胞が壊死する前に標本を採集するぞっ! 今すぐだっ!」

「はい」

既に俺のことなど眼中に無いのか。そう叫んだオッサンは沙希を従て、地下室に備え付けられていた棚から、仕様用途の想像できない怪しげな金属性の器具群を漁り始める。この期に及んで、まだ何か、コイツを苛めようと言うのか?

何が標本だろうか。

何が細胞だろうか。

死ぬんだぞ?

人が一人、……ガキが死ぬんだぞっ!?

「エリーゼッ! おいっ! 起きろ、起きろよエリーゼッ!!」

幾ら叫ぼうとも反応は返ってこない。ただ、小さな身体がグチャグチャになって、そこに横たわっているだけなのだ。

「お、おい……エリーゼっ」

ぐったりとした身体は、まだ命が宿っているのか、それとも、もう失われてしまった後なのか。

「…………エリーゼ」

そんな姿を目にして、それまであった、脳味噌を沸かすような破壊衝動は反転した。どういう理屈だろうか。続いてやって来たのは、とんでもない喪失感であった。

妹が死んだ時も、こんな感じでかなり気を滅入らせた。それはハッキリと覚えている。しかし、これほど感情が渦巻くことは無かった。まるで、自分の中の全てが終ってしまったような感覚だった。

別に、自分が死んだわけでもないのに、この身体が震えて止まらない感覚はなんだろう。目の前が真っ白になるような感覚はなんだろう。本当に、何もかもが、全てがどうでもよくて、現実を放棄してしまいたい、そんな感覚だった。人の事を散々巻き込んで、おいてこんな終わりなんてないと思う。

理不尽すぎて涙が出てきた。

泣くなんて何年ぶりだろう?

「なんで……」

そして、身体もいい加減限界だった。

両手をついて、その場に跪いた。

それまであった、何もかもが去っていってしまった様であった。

酷いもんである。

そんなとき、冷たい床に手を着くと、そこにあった何かが指先に触れた。

「………あ?」

滲む視界の先にあったもの、それは地下室の少ない光源から光を浴びて、紅く輝く美しい宝石であった。吉川が川原で拾ってきた、拳大のルビーである。きっと、机の上に置いてあったのが、俺が暴れたせいで転がり落ちたのだろう。

「………………」

思い返してみれば、コレが事の始まりだった。

そして、それが再び俺の手元に帰ってきた。

舞台はもう、役者を壇上から追い出したいと言うのだろうか?

「そりゃちょっと、短すぎるだろ……」

冷たい夢が覚めたような、けどその冷たさも去ってみれば心地よかったような……。

「…………ぁぁ」

俺がもう少し頑張っていれば、頑張っていれば、そうすれば、こんな結末も少しくらい変わっていたかもしれないのに。

変わっていたかもしれないのにぃっ!

「糞ぉお大オオ大オオお大オオおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

唯吼えることしか出来ない自分が憎い。

憎くて憎くて、自分を殺してしまいたい程に憎かった。

もっと俺が強かったなら良かった、と思う。

もっと強かったら……。

けれど、流れ流れて事態は結局、こういう形まで収束してしまったのだ。一体、何処をどのように間違えて此処に行き着いたのか。もしかしたら、もっと良い道もあったのかもしれないのに。

そう、力さえあればっ! 

魔力さえあればっ!

あんな糞野郎なんかには、絶対に負けはなかったのにっ!

絶対に負けやしなかったのに……。

………………………………。

……………………。

…………ん?

「…………魔力?」

思い返してみれば、アイツはことあるごとに、魔力があればどうのこうのと喚いていた。けれど、俺は正直なところ、それをガキの言い訳にしか思っていなかった。沙希に負けた事も然り、ただの負け犬の遠吠えだと考えていた。

しかし、

もしも仮に、ガキが本当に、その「魔力」とやらを「沢山」持っていて、とても強い吸血鬼だったとして、でも、いざ宝石の中から現れてみれば、その力とやらは全くの空っぽだったとすると、それはどういうことだろう?

「……………………」

10引く1は幾つだろう?

…………いや。それは9に違いない。

「……………………ぁ」

おいおいおいおいおいっ!!

ガキが出てきた時に、俺達はこの宝石を「少し」だけ砕いた。だから、まだこうして殆ど原型をとどめたままのコイツがここにある。

だったら………………、だったらっ!

「見つけたぞエリーゼっ!」

もしかしたら、間違っているかもしれない。けど、正解かもしれない。ただ今はとにかく、急がなければならないのだ。もしも、その推測が正しければガキは、ガキはぁっ!!

「エリーゼっ! お前の欲しがってたものだぞぉっ!」

目の前にあるのは紅の宝石、赤く紅く力強く光る宝石、エリーゼの眠っていた宝石。

それを、

「今なら半値だ、持ってけこんちきしょぉおおおおおおお!!!!」

俺は左の拳で、力一杯殴りつけた。

そして・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・それは見事に砕け散る!

以前も感じた事があるような、眩い閃光に強く眼を照らされて、俺は世界を見失った。

明るい、とても明るい光があたり一面を照らす。そして、やや遅れてやってきた突風に身体を吹き飛ばされた。周囲のモノ全てが、四方八方に吹き散らされて、お互いがぶつかり合う音が、あちらこちらから聞こえてくる。

俺の身体にも、そこいら辺に落ちていた物品が勢い良くぶつかって来る。

それは、痛いことこの上ない。

そう、痛い事この上ない。

なのだけれど……。

何か、とても力強い何かを近くに感じて、心はとても安らいだ気分になれた。

閃光は僅かな時間だった。

突風は閃光が弱まるにつれて、徐々に流れを変え、やがてある一点に収束していった。

という事は、きっとそこに居るのだろう。

というか、此処まで期待させる演出を披露してくれているのだ。居てくれなければ俺が泣く。

「……………………」

光源が消え去ってから、暫しの無音。

強烈な閃光に眼がやられて、周囲の状況を把握することが出来ない状態にあったが、それも数十秒で自然と治り始める。そして、光の霧が晴れたその後に、確かにそいつは、そこに立っていた。その後姿は見間違うはずも無い。怪我もしていないし、腹に穴も開いていない。どうやら俺は間違っていなかったようだ。

二本の足で、しっかりと、そこに立っていた。

そう、胸を張り、腕を組んで、あの偉そうな態度で。

「エリーゼッ!」

そいつは俺の叫びを受けて、こちらへ背を向けたまま、声だけで答えた。

「前言撤回しよう」

「は?」

なんだって?

唐突な語り出しに、相手の意図を理解できずにいた俺へ、続く言葉は投げかけられる。

「貴様は………そこそこ役に立つ下僕だ」

耳に届くその声は、とても穏やかだった。

「………おい、だから俺は下僕じゃないって何度も言ってるだろ?」

「ん、ああ、そういえばそうであったな。失念していた、許せ」

「んだと?」

コイツが俺に許せ?

一体、何を企んでいるんだ?

「な、なぁ……。お前、本当にエリーゼ……」

どうにも不気味なものを感じて、口を挟もうとすると、それを遮ってガキは続けた。

「そうだな。確かにお前は私の下僕では………なかったな」

「おいおい、お前は………」

「そう、お前は………、お前は、そこそこ役に立つ私の………」

「いきなり何を言って……」

「私のファミリーだったな。雅之っ!」

ガキが、クルリと軽いステップを踏み、此方を振り返る。

「っ!」

それは、とんでもない不意打ちだった。

かつてコレほどまでに動揺した事なんて無かった。

間違いない。

確かにその笑顔は、その時その場所で、俺の目前にあった。

これほどコイツに相応しく無くて、これほどコイツに似合う表情が他にあるだろうか?

「………そいつは嬉しいな」

その笑顔の眩しさに、思わず心臓が早鐘を打ったのことは、今後、俺のトップシークレットとなることだろう。

「感謝しろよ?」

いつの間に身に纏ったのだろう。エリーゼは、放課後の教室で初めて出会った時と同じ、例の水着のようなデザインの服を身に着けていた。ビキニスタイルのトップに加えて、下はショーツと、それ隠す丈の短いパレオの様なスカート。加えて、身体の至る所には、黒く重々しい幅広のベルトが巻かれ、地下室の僅かな光源を反射して、鈍く光る金属製のリングが、それを四肢に固定していた。

また、それまでの争いが嘘のように、幾重にも重ねられた顔の痣は消え去り、透けるような白い肌には擦り傷一つなく、あらぬ方向へ折られてしまっていた四肢も、完璧に元通りだった。

これは完全復活なのだと理解して差し支えないだろう。

いや、どちらかと言えば、状況的には強くてニューゲーム、と言ったところか。

「随分と景気良く吹き飛ばされたようだが、平気だったか?」

そう口にして、冷たい石製の床を裸足でひたひたと歩くエリーゼは、部屋の隅で蹲っている俺の元までやって来た。そして、あろうことか、床に腰を落としたその身体に、自らの手を差し伸べてきたのである

「あ……、ああ。平気だけど、お前、どういう風の吹き回しだ?」

「なに、復活記念で気分が良いだけだ、気にするな」

「そ、そうか。そいつは良かった」

差し出された小さな手を握る。すると、力を込める素振りなど全く感じられない様子で、エリーゼは俺を引き起こした。己の数倍はある体重の男の身体を、いとも容易く引き上げて見せるその力強さは、今この状況下にあって、とても頼もしく感じた。

とても元気そうである。

「でもお前、あの指輪はどうしたんだよ」

それは例の、沙希に無理矢理嵌めさせられた指輪である。アレが指にあっては、幾ら身体に魔力が戻ったとしても、間髪おかずに、再び封ぜられてしまうのではないのだろうか?

元より、危険を承知でここまでやって来たのも、その指輪を取り外す為である。しかし、そう指摘した俺の言葉は、自身と力に満ち溢れたエリーゼの一言の下に、無碍にも切って落とされた。

「あんな陳腐な道具で、私の持つ膨大な魔力を封ぜられるとでも思っているのか?」

「違うのか?」

「当たり前だ。魔力さえ戻ったのなら、あの程度の玩具など痛くも痒くも無い」

相手側からすれば、色々と反則的な物言いだと考えられるが、けれど、現にこうして今までの全てを覆し、復活して見せたのだ。それは事実だろう。

「お前は、私を誰だと思っている?」

「……誰って、言われてもなぁ」

それは名前を聞かれているのだろうか? 一応、名がエリーゼだということは覚えていたが、姓の方は忘れてしまっている。ミドルネームの入った覚え難い名前であったことは覚えているのだが、詳細は、それ聞いてすぐに脳味噌から揮発してしまっていた。第一、自らの名前を確認したところで何になると言うのだろうか。

「まったく、人間というものは、すぐにこれだ。少し歴史から見えなくなれば、昔の事などあっと言う間に忘れてくれる。だから同じような過ちを繰り返しては、自らの首を苦しめる目に遭うのだ」

「けど、そんなこと言われたって、知らないものは知らないんだから仕方ないだろ?」

今までいい様に扱われてきたことへの反動だろうか。目前に立つエリーゼは、普段に比べて幾割も増して偉そうに感じられた。

「ならば、よーく覚えておけ。これから起こる光景をな。そうすれば、お前は永遠にこの名を忘れる事はなくなるだろう。エリーゼ・フォン・マルファッティ、それが私の名前だ」

そう言って、エリーゼは身をくるりと翻した。

その足が向かう先には、部屋の中央を挟んで、俺とちょうど反対側の壁に打ち付けられて悶えているオッサンの姿がある。

「お、おいっ!」

一抹の不安を拭いきれずに、慌ててその後姿に声をかけた。

「お前はそこで私の姿を眺めていろ」

しかし、それも四の五の言わせぬ強い口調で、妨げられてしまう。

加えて、エリーゼの手を借りて、身体を起こしたのは良いが、それもすぐに限界に達して、すぐに壁に背を預ける形となってしまった。何だかんだで怪我の具合は一向に改善していない。吸血鬼の治癒能力とやらは何処へ行ってしまったのだろうか。潰された腕も麻痺が進み、既に痛覚は無いに等しい。全身を襲うのは激しい虚脱感だ。

「さぁ、覚悟しろ?」

屋敷自体はかなりの規模だが、地下室はそれほど広く無い。壁から壁までが10メートル程度である。標的を定めて足を進めるガキは、二人の間に横たわる距離を、ジワジワと縮めていく。その歩みはとても堂々としていて、活力に満ち溢れていた。対して、いまひとつ自分の置かれた状況を理解できないでいるオッサンは錯乱調子である。

「き、貴様、何故動けるっ!? それに……今、口にした名前はっ!?」

床に尻餅を付いたまま立ち上がることも出来ないでいる。まるで夜の墓場で幽霊に鉢合わせしたような、そんな驚愕に見開かれた眼で、自身を見下ろしてくるガキの姿に震えていた。

「なんだ、貴様は知っているのか?」

「と、当然だっ! 私とてそこまで無知ではないっ!!」

それは俺が無知だと言いたいのだろうか?

「ならば貴様は、自分が喧嘩を売った相手が誰であったか、気づいていなかったのか?」

「そんな、そんな筈があってたまるかっ! 彼女は既に300年以上の昔に果てたというのが定説だっ。それが何故、今こうして出現したなどと言えるのだっ! 私だって企業の末端だ。その程度の知識は持っているっ!」

「ほぉ、よく知っているじゃないか。確かに、それぐらい昔になるだろうな。私が死に損ねたのは」

「っ!?」

その言葉を受けて、全身を激しく震わたオッサンは、背中を背後にある石壁に押し付けて、それでもなお、エリーゼから距離を取るべく後ずさろうとして、必死に床を引っかき始めた。

「た、助けてくれ。しし、知らなかったんだ。だってそうだろうっ? まさか貴方が存命でらっしゃったなんて。そ、そんな情報は何処にもなかったんだっ!」

「久ぶりだったな。ここまで私をこけにしてくれた馬鹿は」

「ひぃぃっ!?」

細い腕がゆっくりと振り上げられる。すると、その周囲に黒い霧が波を打った。黒く霞む霧は、腕を軸にしてその周りをゆっくりと回り始める。

「百回殺して、百一回生き返らせてやる」

「えっ!?」

恐怖に歪んでいた顔が、一瞬だけ呆けたものに変わる。

「そうだな、サイクルは10年に一回くらいで良いだろう」

「な、何の話ですかっ!?」

そして、段々と焦りの色に染まってゆく。

「なぁに、今後の貴様の人生設計だ。幸いここには地下室もある。埋めてしまえば2,3世紀は見つかりやしまい。土の下でゆっくりと休暇を取るがいい」

「そんなっ! た、たす、助けてくれ。なんでもする、何でもするから助けてくれ、本当だ、お願いだっ!」

「10年という時間を苦しみ続けた貴様は死ぬ。だが、確かに生き返る貴様は、また次の10年を苦しみ、それを一人で闇の中、100回に渡って繰り返すのだ」

「わわわ、私が悪かったっ。助けてっ、助けてください、許してくださいっ!」

「何故怖がる? 今後1000年間に渡って、貴様はこの世に存在し続けられるのだ。どうだ、貴様が望んだ不老不死そのものじゃないか。うれしいだろう?」

「お願いだからたすっ!?」

おもむろに右足を上げたエリーゼが、力なく震えるオッサンの脛を踏みつけた。ただそれだけで脛の骨は砕け、押し千切られた肉の間からは白骨が顔を覗かせた。

「あ゛あ゛ああああああああっ!!」

「汚い声で喚くな屑がっ、耳が腐れ落ちるわっ!」

踏みつけた脚を、グリグリと床に擦り付ける。泣き叫び許しを請う相手の姿を楽しんでいるかのように、口元には嗜虐的な笑みを浮かべて、傷口を抉り、押し開き、踏みにじる。その鬼畜極まりない行為は、まさに鬼の所業である

「だぁぁあのぁら、だ、たずげでぇっ!!」

「誰が誰を助けるって?」

涙や唾液、鼻水によってグチャグチャに汚れた顔を歪ませて、縋りつくようにして自らに意見してくるオッサンの、そのみすぼらしい姿に様子を目にして、エリーゼは顔を顰め、相手の膝を踏みつける足に力を込める。

「いぃいい゛っ……、そ……、そんな゛ぁ!」

「そうだな、いい加減に貴様の醜い顔は見飽きた」

「ひっ!」

そして、そんな救いのない相手の姿に短く侮蔑の言葉を吐き捨てたエリーゼは、なにやらブツブツと呟き始める。地下室自体がそれほど面積がある訳でもないので、俺とエリーゼの間にある間隔は、大したものではない。しかし、口に出されるその声は小さく、よく聞こえなかった。微かに耳に届くその言葉は、日本語や英語とは遠い、何処か別の国の言葉のようである。

「deek sl dgge gwela gen ………………………… tee puw gen sooun sj……」

静かに呟かれる言葉に応じて、エリーゼの周囲に上昇気流が発生し始めた。地下室には窓など無く、唯一外と繋がっているのは、部屋の出入り口となっている扉だけだ。となると、この現象も、例の魔力云々が原因なのだろう。つまり、あまり深く考えたら負けである、ということだ。

上へ上へと向かい風に乗って、エリーゼの長い金髪が宙にサラサラと泳ぐ。その様子はとても神秘的で、綺麗だった。

「や、やめてくれぇええええ!」

やがて、その足元で淡い発光が始まったかと思うと、石製の床の上に、じわじわと染み出る様にして、奇怪な幾何学模様が浮かび上がってきた。まる、さんかく、しかく、五角形、ひし形 etc etc 、様々な図形が折り重なって、複雑な陣を描いている。

「gn gaan loen qo bnoon vli wlng gw geon ・・・・・・・ gg aoi looi nm wn・・・・・・・」

それに応じて、頭上にかざされた腕の回りに。黒い霧の様なものが漂い始めた。始めは団扇で扇げば霧散してしまいそうな薄ぼんやりとしたものあったが、時間が経つにつれて、それは段々と確かな影を作るようになり、同時に強く波打ち始めた。そして、その霧は徐々に面積を拡大させていき、数十秒後には、二人の頭上に揺らめく黒いオーロラとなっていた。

「たすけ、たすけてくれっ! おねががいだぁっ!!」

黒いオーロラは直径3メートル程度のサイズである。

「嫌だね」

そして、二人の上を漂っていたオーロラは、次第にその濃度を凝縮させるように、オッサンの周囲へ集まり始めた。部屋の天井から、エリーゼの頭上までを覆っていた黒い靄が、ある点を目指して、段々と集まってゆく。

「貴様のような下種なんぞ、幾ら殺したところで何の得にもならんだろう。だが、そうでもしないと私の腹の虫が収まりそうに無いのでな」

「ひぃいいいっ!?」

涙を流して泣き喚くオッサンの周囲を、光さえ通さない黒い雲が覆う。両手両足をバタつかせて、必死にそれから逃れようとするオッサンだが、その片足をエリーゼに押さえつけられている為に、それも叶わない。

「これだけ上等な術で苦しめる事を光栄に思えよ?」

「や゛ぁああああああああめ゛ぇえええええええでぇえええええええ!」

「ハハハハ、醜い肉塊になって永遠を苦しむがいいっ! 豚がっ!!」

叫ぶと同時に、エリーゼは自らの腕を相手に向けて振り下ろす。

すると、それに応じてオッサンを囲んでいた黒い雲が、眩い光を放ち始めた。強烈な閃光に目を細めながら、それでも、そこで一体何が起こっているのかを確認すべく、必死に目を向けていた。

「短い間だったが、最高に胸糞悪かったぞ。死ね」

「ひぁっ!」

「永遠のDGell dangDge Dowglow!」

聞き取る事の叶わない音の連続が、ガキの口から放たれる。その言葉には、どのような意味があったのか。それに連動して、オッサンの身体が床から50センチ程の高さで浮かび上がった。そして、その身体を包み込む黒い雲が、見る見るうちにサイズを縮め始めた。しかも、それは中にいるオッサンを押し潰しながらである。

「いだぁああ、いだああぁいあああっ!」

光さえ通さない黒い何かに包まれて、メキメキと音を立てる人体は、無理矢理に圧迫されて縮んでいく。外からの圧力に耐えかねた皮膚が裂けて、そこから血液が噴出する。だが、それまでもが、霧の中で肉体と共に圧縮されてゆく。

「あ゛ぁっ! あ゛ぁっ!」

人としての形を保っていられたのは数十秒程度である。そこからは、先ほどのガキの言葉通り、もとあった肉体は段々とその形を崩し、言葉通り、肉階へと変わっていった。喉が潰れたのか、次第に悲鳴さえも聞こえなくなる。骨を折り肉を潰す音だけが部屋に響いていた。

そんな様子を、俺は言葉も無く、ただジッと見入っていた。

縮小を続けた肉塊は、やがてピンポン玉程度の大きさにまで縮んで、ようやくその縮小活動を停止した。周囲から黒いオーロラが消えて無くなると、小さな肉玉は支えを無くして床に落ちた。玉にはそれほど重量があるのか、石製の床に半分ほどめり込んでいた。

「貴様は誰にも気付かれる事なく、その小さな空間の中で、長き時間を延々と苦痛に耐えながら、孤独に生き続けるのだ」

ガキは掲げられていた腕を戻し、床に落ちた玉を、その小さくも凶悪な足で踏みつけた。

この一連の流れによって、何がどうなって、このような状態に落ち着いたのか。魔力云々を伴って語られるオカルト話に関しては、原理や理屈を理解できる所に俺は居ない。しかし、ただ、この復活して元気になったガキが、この上なくヤバイ奴だという事は、十二分に理解できてしまっていた。

「……………」

これは今までの比では無い。

俺はポカンと開いた口が塞がらなかった。

「どうした、間抜な面をしおって。阿呆な顔が余計に間抜けて見えるぞ?」

肉玉を踏みつけていた足を、凹んだ床から引き抜きいて、此方を振り返る。

「べ、別になんでもない」

慌てて言葉を返すと、その声は緊張の為か、裏返ってしまっていた。

「ふふん。その様子だと、お前もようやく私の凄さに気付いたといったところか。いいんだぞ、我慢せず存分に称えるがいい」

「え……、あ、ああ。そうだな、凄いんじゃないの?」

まさか、今の様子を目にしてビビりました、なんて相手に知られてしまった日には、それこそ、今後の生活がどうなるか分かったものではない。バクンバクンと音を立てて鼓動を刻む心臓を押さえつけ、必死になって平然を装いつつ答えた。

「お前…………顔が引きつってるぞ?」

だが、それもバレバレの様であった。

「そ、そうか?」

今の光景を見てしまった後では、それまでの足蹴にされていた状況でさえ、随分と生温く感じられる。幾度と無く自らを讃えていたのは、伊達では無かったらしい。俺はコイツに関する認識を、今後大幅に改める必要がありそうだ。

「もしやお前、今の光景を目にして、私が恐ろしくなったんじゃあるまいな?」

エリーゼは此方の心情の全てを見透かしたように、にんまりと子悪魔的な笑みを浮かべている。

「じょ、冗談っ! 誰がお前なんかにビビるかよっ!」

相手の言葉はまさに図星であった。それが腹立たしくて、俺は慌てて反論した。けれど、それは墓穴を掘ったに過ぎなかった。此方がムキになって反抗するのを楽しむように、笑いを絶やさないエリーゼは、からかうように言葉を続ける。

「そうかそうか、それは失敬した。しかしだな、その割には顔が青ざめているように見えるが?」

「こ、これは体が重症なんだから仕方が無いだろうがっ。何でお前を怖がらなくちゃならないんだよっ!」

「ふふ。そうだな、今日はそういうことにしておいてやろうじゃないか。お前のプライドの為にもな」

「こ、この野郎……」

事態が好転したのは良いが、今度は代わりに俺の立場が危うい……。

「まあいい、その辺は後でじっくりと話し合おうか。今後の事を含めて色々とな?」

「くぅっ……」

エリーゼは邪悪な笑みを浮かべながら、上機嫌に声を上げて笑ってみせる。それまでの一杯一杯だった状況から一転して、魔力が戻った途端にこの調子である。魔力さえあれば、という口癖も、今となっては素直に頷けるだけの説得力があった。

まったく、大したものである。

「さて、次は………」

そう呟いて、周囲を見回すエリーゼの視線が止まった先は言うまでもない。自身の親父が潰れてゆく様子を目に、言葉も無く立ち尽くしている沙希だった。

「小娘、貴様も覚悟は出来ているんだろうな?」

そう言葉をかけて、エリーゼは何を警戒することも無く、ツカツカと沙希に歩み寄ってゆく。その様子は、俺と軽口を叩いていた今しがたとは明らかに違う。感情の見えない冷めた口調は、全くベクトル外にいる俺の背筋までもを波立たせていた。

「すぐにでも親父の後を追わせてやる、感謝しろ」

「っ!?」

エリーゼの声に当てられて、それまで放心するように突っ立っていた沙希が、慌てて構えを作った。

「ほぉ、私とやり合おうというのか?」

「……そういうことになります」

そして、相手の挑発に臆することなく乗る。先ほどまでの、自らの親父が朽ちてゆく姿を目の当たりにしてなお、このような対応を取れると言うのだから、それもそれで凄い。とはいえ、エリーゼの話では、この女には制御装置と呼ばれる機械が付いているらしので、その機械の効能によるのだろうが。

「ハハハハハ、貴様の方が幾分か、あの下種よりマシだな」

「貴方の細胞を生きたまま採取するのが命令ですので」

「それはまた、随分とでかい口を叩いてくれるじゃないか」

既にオッサンは死んでしまったというのに、まだ命令を守り通そうとするらしい。

「…………」

「フンっ」

無言で向き合う二人。

とはいえ、先ほどまでの、指輪の効能によって力を制限されていたエリーゼならば苦戦は強いられないのだろうが、魔力を取り戻した今の状態にあっては、どのような化け物が現れようと、素敵に無敵な力によって、徹底的に打ちのめしてくれるような気がする。たとえ戦車や戦闘機が突っ込んでこようとも、機関銃で打ち抜かれようとも、高笑いの下で、何もかもをぶち壊してしまうような、そんなイメージがあった。

「いいだろう、せめてもの手向けだ。貴様は苦しませずに一瞬で葬ってやる」

「…………ありがとうございます、とは言いたくありませんね」

「いいだろう、上等だ人間」

初手を取ったのは沙希であった。この期に及んで、なおも挑んでくるのは、ホムンクルスという存在が、その主の命令に忠実な存在であることの現われなのか。

エリーゼの腰の高さ程にまで姿勢を落とし、音も無く敵の懐を目掛けて駆け込んみ、そして、手にしたナイフを縦に一閃した。だが、血飛沫は飛ばない。

「以前の私と同じように考えているならば、その1秒後には首から上が無くなると思え」

「っ!?」

肩口めがけて振り下ろされた赤い刃は、あろうことか、エリーゼの細い指に挟まれて、その場で止まっていた。

「魔力のまの字も無かった私が貴様の限界だったようだな。さぁ、どうする?」

口元には冷ややかな笑みが浮かべられている。

「どうにかします」

「出来るものならやってみろ。一撃でも加えられたのなら、貴様を生かしておいてやらぬこともないぞ?」

相手の指によって捕らわれたナイフをその場に残したまま、先は大きく背後に飛びずさり距離を取った。それと同時に、エリーゼの指に挟まれていた赤いナイフは、甲高い音を立てて砕け散った。

「っ!」

沙希を相手にして遊んでいるのだろうか? その態度は余裕以外の何ものでもない。完璧な自信の表れだろう。今なら素直に思えるが、絶対に敵対したくない相手である。

「次は貴様の頭がこうなる番かもしれんな?」

挑発的な笑みを浮かべ、ナイフを砕いた指をワキワキと動かしてみせる。

「っ………」

なんだか、どちらが悪役なのか分からなくなってきた。別に、俺達が善かといえばそういうわけでもないのだろうが、それでも、そう思わせしめる程に、エリーゼの力は圧倒的過ぎた。

しかし、エリーゼはやはり、沙希もオッサンと同様に、殺してしまうつもりなのだろうか? 先程までの状況からして、腹の内は相当煮えたぎっているに違いない。となれば、その可能性はかなり高いのだろう。とはいえ、それは流石に憚られる。

「さすがに、なぁ」

歪な形で四肢を折り曲げられた沙希が、エリーゼの拳によって、血反吐を撒き散らしながら朽ちてゆくイメージが脳内に浮かび上がった。

「…………」

いやいやいや、流石にそれは酷だろう。

エリーゼの語った話が本当ならば、沙希自身はオッサンに無理矢理操られている事になる。

そりゃ、確かに俺もエリーゼも、沙希にはとんでもない目に会わされた。しかし、別に二人とも死んではいない。加えて、怪我は吸血鬼の強力な自然治癒能力によって、すぐに治ってしまうのだ。吉川の事を考えると許す事は難しいかもしれない。けれど、幾らなんでも殺してしまうのは、後味が悪過ぎやしまいか?

「どうした、いまさら怖気づいたか?」

ようやく焦りらしい焦りの表情が、沙希に現れた。

「ぅ………」

この戦況は、どうあっても覆る事はないだろう。

オッサンを相手にしていた時は、こちらも相当に頭にキていたので、エリーゼのする事に対して、特に感じるものも無かった。それが今、こんなふうに考えてしまうのは、相対しているのが女であるからだろうか?

「どうやら、貴様もここまでのようだな。私に殺される事を誇りに思い、地獄へ落ちるがいい」

誰だって同い年の、それも同じ学校に通ってる女の子が死ぬ様なんて、見ていて気持ちの良いものではないだろう。

俺がエリーゼを助ける為に、一歩を踏み出してしまったのも、それと似たような感覚である。

「いいえ……」

後退したまま反撃の兆しの無い沙希に、痺れを切らしたエリーゼが先手を打って踏み出した。

「私はまだ、死ぬわけにはいきませんから」

それに合わせて沙希もまた一歩前へ出る。

「それは私に対する挑戦か?」

「そう取っていただいて結構です」

エリーゼの魔力が解放された余波により、部屋の中は滅茶苦茶に荒れいた。棚は倒れているし、本は部屋中に散らばっているし、フラスコの中にあったよく分からない液体は、そこらじゅうにぶちまけられているし、目も当てられない状態である。

「私も随分と舐められたものだ、これでなお逃げ出さないとはな」

「命令ですから」

エリーゼの言葉に短く返して、沙希は頑なな表情で相手を見つめる。

「命令ときたか。その様子では、貴様も随分と強固に制御されているようだな」

「…………」

「先に言っておくが、私は同情などというつまらぬものは持ち合わせていないからな。後で泣いても今泣いても、結果は変わらんと思えよ」

「後にも先にも泣くつもりはありませんので安心してください」

「ほぉ、大した自信じゃないか」

「ええ、泣けませんから」

「ならば…………、泣かせてやるまでだっ!」

声高々に宣言したエリーゼが沙希に歩み寄る。

エリーゼは失われていた魔力を取り戻し元気一杯である。対して、ただでさえ身体能力に圧倒的な差のある二人の間にあって、沙希は吉川に撃たれた傷が枷となって、その動きは、それまでに比べて明らかにぎこちない。振るわれた拳を避けることは、まず不可能だろう。次の一手で、この一連の件はピリオドを打たれることとなる。

しかし、それをただ、傍から眺めてはいられなかった。いくらなんでも、沙希までもがオッサンと同じ目をみるのは胸が痛む。そう考えるに至った俺は、短く叫びを上げて、二人の下へと駆け出した。

「ちょ、ちょっと待ったぁ!!」

とはいえ、頭で考える動きに対して、疲弊した肉体はまともに着いて来てくれなかった。それは、吸血鬼の強力な自然治癒能力が、何故か正常に働いていないことによる。オッサンに潰された腕は、無様にも押し千切られたままであり、全身の火傷もジクジクと熱を持って疼いている。

結果、床を蹴って飛び出したはいいが、満足にバランスをとる事も出来きない身体は、前方へにつんのめり、飛び出した勢いのままで、進行方向に対してヘッドスライディングをかます形になってしまった。

「う、うおおおおおお!」

吸血鬼の超馬力によって、怒涛の勢いがついた身体は、遮蔽物を打ち倒しながら地下室を端から端へ、横断するようにカッ飛ぶ。そして、予測着地地点はなんてことだろう、沙希とエリーゼがまさに打ち合おうというポイントだった。

「お前等どけぇえっ!」

「お、お前は何をっ!?」

「っ!?」

予想外の乱入者に驚愕の表情を浮かべる二人。それでも、エリーゼは素早い身のこなしで俺との激突をやり過ごした。だが、余程正面に集中していたのだろう。気付くのに遅れた沙希には、避ける余裕も無かったらしい。瞬く間に距離を縮めた二人は、痛々しい音を立てて、盛大にぶち当たった。

「うげぇっ!」

「くぅうっ!」

運動エネルギーを殺しきれず、二人は身体を接した状態のまま、ゴロンゴロンと石製の冷たい床を数回転がる。そして、その延長線上にあった部屋の壁に当たり、なんとか止まった。場所が地下室なだけに周囲の壁はコンクリートで作られている。沙希の身体と壁との間に挟まれた俺は、その衝撃の大きさに全身の骨を軋ませた。

「い、いきなり飛び出してきおって、どういうつもりだっ!」

打ち付けて痛む頭を上げると、目の前には両腕を組んで仁王立つエリーゼの姿があった。。目を釣りあがらせて、口をへの字に曲げて、ギロリと睨みつけてくるその形相は、本来の彼女の力を知った後では、それはそれは恐ろしい代物であった。

「え、あ……、ああ。悪い悪い」

横たわっていた身体を起こして、床に腰を落としたまま、背後の冷たい壁に身を預ける。

「お前を止めようと思ったんだけど、勢いが付きすぎて身体が止まらなくなっちまったんだよ」

思いのほか身体の具合は良くないようである。

「はぁ?」

すると、コイツは馬鹿か? とでも言いたげな表情を返された。

「だから、お前を止めようとしたんだって。けど体が言うことを聞かなったんだよ」

「なに馬鹿な事を口走っているんだ。私がお前に止められねばならん道理が何処にある? とっととそこを退け、邪魔だ」

想定どおり、エリーゼは沙希を殺すつもりでいる。

「いや、で、でも、お前だって便所で言ってたじゃん。コイツはオッサンに制御装置ってやつで操られているだけなんだって」

「確かに言ったが、それとお前が突っ込んできたのとは、どのような関係があるんだ?」

「ならさ、別に殺すなんて物騒な事しなくたっていいんじゃん?」

そう口にして説明すると、反応が返ってくるまでに、しばしの間が空いた。それを俺は、考慮の余地だと受け取ったのだが、交渉の相手は、それほど聞き分けの良い奴ではなかった。

「お前は私に命令する気か?」

「だ、だって、幾らなんでも可愛そうだとか思わないの?」

「微塵も思わん」

「か、可愛げのない奴だな……」

「ふんっ、別にお前に可愛がられたくなど無い。分かったのなら、さっさとそこから退くがいい」

此方の言葉になんぞ聴く耳持たぬ、といった様子だ。その素っ気無い態度からして、これ以上コイツを刺激するのは危険な香りがする。しかし、今ここを退いてしまうのも、何か負けた気がして気分が悪かった。

ただ、今回ばかりは、エリーゼの言葉に従って、素直に退いて置けばよかった。

敵の親玉が死んだとはいえ、沙希はまだ操られたままであり、彼女にとって、俺は邪魔な敵であるのに変わりなかったのである。気付いた時には時既に遅し。

「ば、馬鹿者っ!」

エリーゼの叱咤が耳に届いたのは、床に伏せていた沙希が、俊敏な動作で起き上がるのと同時だった。

「んあっ!?」

突如手が伸びて来たかと思うと、背後に回りこまれた。逃げようと思った時には、既に右腕を捻り上げられ、間接は固められてしまっていた。何の抵抗も出来ないまま、あっという間に拘束されてしまったのだ。

背後から腕を締め上げられる。首に回された二の腕は非常に強い力で身体を拘束してくる。今のボロクソ状態にあっては、まともに足掻く事も出来なかった。

「ちょ、ちょっと待てよ俺はお前を……」

「申し訳ありませんが、貴方は今から人質です。暴れないで私の指示に従ってください。でなければ命の保障は致しません」

「ま、マジかよっ!?」

「お前は、本当に何がしたいのだ……」

極めて真面目な表情で語る沙希と、俺の間抜けっぷりに偏頭痛でも起こしたのか、額を押さえて呻くエリーゼ。なんと馬鹿な話だろうか。助けの手を差し伸べた相手に、まさか、逆に捕まってしまうとは考えてもみなかった。

「貴方のファミリーは私が抑えました。無事に帰して欲しければ、貴方の体組織から細胞のサンプルを抽出させてください」

これに勝機を見たか、俺を盾にして沙希はエリーゼに食い下がる。

「馬鹿だとは思っていたが、まさかこれほどまでとはな」

「う、うるせぇよ。だから、俺は、コイツをお前から助けようと思ってだなっ!」

「それがこの様か? 開いた口が塞がらんな。下らな過ぎて、笑うにも笑えんよ」

「ぅっ……」

確かに、この展開は馬鹿丸出しもいいとこだ。けれど、素直にエリーゼの言葉に従うわけにもいかない。

「っていうか、俺の事はいいから、話を聞けって」

「それは、その小娘を助けろという事か?」

「ああ」

「ならば時間の無駄だな」

「即答かよ。ちょっとくらい聞く耳もってもいいんじゃないのか?」

「言っておくが、お前が何と言おうと、私の決定は揺るがないからな」

エリーゼは思っていたよりも頑なであった。やはり、俺が説得した程度では、コイツはどうにもならないのか。しかし、この場にあって最弱の存在が講じることの出来る手段は、他に何も無い。

「そりゃ、お前も痛い目を見たかもしれないけどさ、でも、もうそれも治ったんだし、大目に見てやったらどうだ?」

「それはお前の考えだろう? 確かに、お前はそれでも良いのかもしれん。だが、私は全然納得していない。それをどうしてくれると言うのだ?」

「そ、そりゃぁ………」

言われてみれば、エリーゼはここ2,3日の間で、幾度と無く血を流してきた。そう考えてしまうと、あまり強くも言えなくなってしまった。

「やられたらやり返す。それが私のポリシーだ」

「でも、幾らなんでも……」

「それよりも、お前はこの期に及んで他人の心配をしている余裕があるというのか?」

「しょ、しょうがないだろっ。気になるもんは気になるんだからっ!」

「………………」

答えた俺の言葉に、エリーゼは何も答えない。

「俺がさっき、日の下に飛び出したのだって……、その、なんていうか、お前がやられてる姿を見てるのが嫌だったからなんだし……」

「それが、どうした?」

「今の状況だって対して変わらないってことだよ」

なんだって、こんな真面目に意見してるのだろうか。

「…………………ふん」

エリーゼが短く頷いたように見えた。

「納得してくれたのか?」

けれど、それも淡い幻想であった。

「いや、全く関係の無い話だった」

「ちょっ、お前っそんな……」

「そんなにその娘が良いと言うのならば、二人地獄で、末永く語り合っているといい」

「ま、待てって、おいっ!」

「そうです、でなければこの男の命は……」

「フハハハハハ、笑わせるな。その人間が人質だというか? ならばに煮るなり焼くなり好きにするがいいっ」

「な、何故ですかっ!?」

「その男が泣こうが叫ぼうが、私は痛くも痒もないのだからな」

「おいおいおいぃいい!」

予想通りの返答を口にして、こちらを挑発するかのように、大きく一歩を歩み寄る。

「ちょっとくらい気にかけてくれよっ!」

「元々お前が勝手に突っ込んで来たからこうなったんだろう? 自分の尻くらい自分で拭いたらどうだ?」

「そ、そりゃそうだけど、少しはたじろぐとか、そういうのはないのかよ!?」

「よく言う。少し優しい言葉をかけた程度で勝手に勘違いされても困るな。お前なんぞ、私にとっては道端に落ちた石ころほどの価値も無いのだからな」

なんて態度の豹変が激しい奴だろう。先ほどの笑みも嘘だったと言うのだろうか? これだから女と言う奴は分からない。そして何よりも、こんな子供におちょくられた感があるのが腹立たしかった。

「それ以上近づかないでください。でなければ本当に、本当にこの男を殺します。それで宜しいのですか?」

「かまわんかまわん、好きな様にしろ。だがその代わり、そいつを殺した後には、貴様もその後を追うことになるのだがな?」

「………………」

沙希は口にした事を必ず実行するだろう。そして、エリーゼもまた、この様子では手を引くとはとは思えない。俺はどうれば良いのだろうか?

「さぁ、貴様から来ないならば私から行くぞ?」

「っ!」

首筋にズキリと痛みが走った。どうやら沙希の指爪が刺さっている様だ。滲み出てきた血によって、Tシャツの首周りが赤く汚れている。

「ちょ、い、イタッ、お前っ、爪が刺さってるってっ!」

「刺さっているのではなく、刺しているのです。彼女の攻撃が私に当たるとするならば、貴方は盾になるでしょう」

「なんだって!?」

「上等だ。その男ごと貴様をこの世から消し去ってやる。一塵の灰さえ残らぬような」

「お、おいっ! そりゃないだろっ!?」

「本当に貴方は、それでよろしいのですかっ!?」

ハッタリの効かないエリーゼを相手にして、流石の沙希も焦りが色濃く混じった声を荒げた。

「だから、かまわぬと言っておろうに。何度言わせるつもりだ」

「お前、少しは他人に気遣う心を育めよっ! コイツだって、今も命令されて動いてるだけなんだろっ!?」

「そんな事は百も承知だ。だが、私に喧嘩を売ったという事実に代わりが無いのも確かだろう」

「喧嘩ぐらい売られたっていいだろっ!? お前みみっちいぞっ! 少しは大人になりやがれっ!」

「やかましい。お前こそ少しは頭を使って行動しろっ。助けに入って逆に人質になるとはどんな芸当だ」

「う、うるせぇっ! なっちまったもんはしょうがないだろっ!」

「ならば私とて、その”なっちまった人質”を見殺しにするのも仕方の無いことだ」

「こ、この野郎……」

「フン……」

沙希を置いてきぼりにして、二人の間では無駄口の叩き合いが加熱する。

「お前上等だ、ブっ殺してやるっ!」

「ほぉ? 出来るものならやってみろ」

答えたエリーゼの腕に、白い光が渦巻き始めた。

「二人まとめて消し飛ぶがいい」

本当にやってくれるつもりかっ!?

淡い光は段々と光量を増してゆく。始めは蝋燭程度であった光は、段々と煌きを増し、薄暗い地下室の全体を眩く照らす光源となった。

「さぁ、覚悟しろよ?」

「っ!」

最後の最後まで粘るつもりか、ここまで来ても沙希は俺を離そうとしない。

なんてことだろう。

だから、俺も逃げられないぞこの野郎っ!

さっきは頼みもしないのに、勝手に人の事を助けた癖して、それもやっぱり止めましたってことか? なかなか良い性格をしている。

「dde gel hoonih woh gwzpp opgn gehw ………」

オッサンを仕留めたとき同様に、聞き取る事も叶わない不思議な言葉をブツブツと呟き始る。そんなエリーゼを前にして、俺と沙希はその場から一歩も動けないでいる。というか俺が盾となった程度で、エリーゼの一撃を防げる筈も無い。沙希はどうするつもりだろうか。

「geeee ann glwe ioi qnnn ogi nl whe toiqwi roi nl ………」

あまりの眩しさに正面を向いていられなくって、俺と沙希は共に顔を背けた。

「さぁ、これで終わりだ」

エリーゼの腕を中心として、膨大な光が波打ち膨れ上がる。目は光の渦に飲まれて、周囲の様子を伺う事さえ出来ない。そんな中で、人の足が床を打つ音が聞こえた。正面でエリーゼの動く気配を感じる。こいつは一体何をしようというのか。その気配に応じて、辺りに満ちていた膨大な量の光が、一本の線となって収束し、俺と沙希を捕らえた。

「心して喰らうがいい」

光の線は的を捉えて、音も無く大きく膨れ上がる。

「く、糞野郎ぉおおおお!!」

他に出来ることも無く、俺は喉が痛くなるほどの声量で、叫び声を上げた。

「惑光の G Een loin DEeeeee!」

エリーゼの腕から放出された光の柱が、恐ろしいスピードで迫り来る。

耳を突くような甲高い爆発音が、鼓膜を激しく震わせる。光の瞬きが視界を白に埋め尽くした。視覚と聴覚を奪われた状態にあって、自分がどんな状況に置かれているのかを確かめる事もできない。抵抗らしい抵抗も出来ずに、俺はそれを正面から、自らの腹で受け止めた。硬く目を瞑り、本日二回目の死の宣告に体を強張らせる。

だが………、

痛みが無い?

「あぁ?」

意識さえはっきりとしている自分に疑問を覚えて、腹部を両手で撫で回した。しかし、エリーゼの放った光線が当たった筈の箇所には、穴など開いていない。それどころか、服が焦げた跡も無ければ、その下にある素肌には傷ひとつ無かった。

「ど、どうしたよおいっ!?」

次第に機能を取り戻しゆく眼球によって、周囲の状況が顕わとなっていく。気がついてみれば、いつの間にか、身体を拘束していた沙希の腕は、無くなっていた。そして、つい先ほどまで、目の前に気配を感じていた筈の、エリーゼの姿も見えない。

「はっはっははははは、あはははははっははははっ!」

代わりに、その笑い声はすぐ近くから聞こえてきた。

「な、なんだっ!?」

慌てて声のした方へ振り返る。すると、そこにはグッタリと床にうつ伏せ倒れた沙希と、その背に座り、腹を抱えて笑いこけているガキの姿があった。

「お、お前、俺に何しやがったっ!」

鉛のように重たい身体を起こし、なんとか立ち上がった。この数瞬の間に何が行われて、その結果、今がどういう状況にあるのか。全てが不確かなまま、無駄に興奮している感情を隠すことなく露にして、俺は乱暴な物言いでそう吼えた。

「あっはははは、別に、お前には何もしておらん」

だが、返ってきたのは、そんな素っ気無い言葉だった。

「な、なんだよそれ!?」

「少しからかってやろうと思っただけなのだがな。本当にお前は単純な男だよ。威勢が良いのは結構だが、これはこれで問題だぞ?」

眦に浮かんだ涙を人差し指で拭いながら、諭すような穏やかな口調で語る。

「か、からかったってお前……」

「ん?」

「お前は人をからかう為にそいつを殺したのかよっ!?」

高ぶった感情に身を任せて、そう怒鳴り声を上げた。しかし、それを耳にしたエリーゼは、心外だと言わんばかりの横柄な態度で、両手の平を挙げてみせる。

「別に殺してなどいない、ちゃんと生きている。よく見てからものを言え」

「え、ほ、本当か? マジで生きてるのか?」

「ああ。ちゃんと五体満足、五感満足、今はただ気を失っているだけだ」

指摘されたとおり、その華奢な沙希の身体に視線を向ける。すると、その様子を意識して眺めてみれば見れば確かに、とても僅かな動きではあるが、沙希の身体が呼吸に合わせて、ゆっくりと上下しているのが確認できた。

「で、でも、だったらお前は何をしたんだよっ!」

釈然としないものを感じながら、沙希の身体に座るガキの元へ詰め寄った。

「別に、ただ貴様の頼みを聞いてやっただけのことだ。この慈悲深い私に感謝するがいい」

「……俺の頼みを聞いたって?」

「なんだ、嬉しくないのか?」

「え、あ、いや………」

語る言葉の真意が訳が分からず、返答に困った。それは予期していなかった展開だった。

「そ、そりゃうれしいけど……」

けれど、だとしたら先程のビームみたいなモノは何だったのか。

「ならば素直に喜んでおけ。私がお前の頼みを聞いてやるなんぞ、滅多な機会ではあるまい」

腕組みをしたエリーゼが偉そうに語る。

「あ、ああ………そりゃ喜びたいけど」

「私としては、今この場でこの首を掻っ切ってもよいのだぞ?」

俺の反応が面白くないのか、気を失って倒れた沙希の首筋を、その小さな手で撫でてみせる。それが冗談なのか、それとも本気なのか、知る術は無い。ともすれば、素直に頷いておくのが良いだろう。

「素直に喜んでおきますともっ!」

下手に藪を突いて蛇にかまれるのはご免である。ここは素直に頷いておくことにした。

「でも、なんで倒れてるんだ?」

うつ伏せに横たわったまま、ピクリとも動かない沙希に視線を落とす。

「また襲い掛かってこられては面倒だからな。お前に話した通り、制御装置を壊したんだよ。大方、気を失って倒れたのは、そのショックが原因だろう」

「っていうと、あのやたら眩しかった光もその時の?」

「いや、あれはただの目晦ましに過ぎん。何の殺傷能力も無いただの光だ」

「そ、そうだったのかっ!?」

「だが、お前の様ときたら爽快だったな」

うろたえる俺の姿を思い出したのか、そう言って、エリーゼはクックックと笑ってみせる。

「そりゃ、その事をお前が先に言わないからだろっ!? あんな訳の分からないもの見せられたら、誰だって叫び声の一つや二つ上げるわっ!」

「お前がそのつもりなら、私はいつだって相手をしてやるぞ?」」

「う、うるせぇっ!」

指輪を嵌められていた時ならまだしも、元あった魔力を取り戻した今のエリーゼを相手にしては、1分と持ちこたえられる自信も無い。瞬きをひとつ擦る間に塵と化されてしまうことだろう。一昨日のように、惨めにも地を舐める羽目になるのは目に見えている。

糞……。

「ハハハ、お前は可愛いなぁ」

言葉に詰まった俺を眺めて、楽しそうに笑うエリーゼ。

「こんの野郎ぉ……」

このまま言い争いを続けたとしても、最終的には、俺が力負けしてそれで終わりなのだろう。ならばこんな話題は止めである。これほど不毛なものはない。

「糞、まあいいっ。それで、その制御装置とやらは何処にあるんだ?」

あからさまな物言いだが、話題を反らすべく俺はそう聞いた。

「ああ、それならばこれだ」

すると、エリーゼはその手に握ったものを差し出してきた。

「ん?」

それは拉げた黒い金属製のリングだった。俺の爪の先程度の大きさしかない。

「イヤリングか?」

手に取ってしげしげと眺めてみる。

「他にそれらしい物は身に着けていなかったからな。もしも体内に埋め込まれていたら難だったが、おかげで楽に見つけられた」

ただの鉄ではなさそうだ。それなりに値の張るものなのだろうか。

「小さいな。こんな輪っか一つでどうにかなってたのか。この女は」

「サイズは関係ない。問題なのは込められている魔力が強力か否か、それで機能強度は決まるのだ」

「やっぱり、結局は魔力なのか?」

コイツが嵌めさせられた指輪にしても、このリングと大差ない代物であった。物質的な側面しか捉える事のできない俺にとっては、魔力なんて空を漂う雲よりも曖昧な存在である。

「今のお前も、少なからず持っているはずだぞ?」

「そうなのか?」

「まあ、持っていたところで今のお前には、まともに使いこなせるような代物ではないだろうがな」

わざわざ腕組をして、偉そうにウンチクを垂れてくれる。

「別に、俺は今の自分に満足してるから、吸血鬼だの魔力だのはどうだっていいんだよ」

「なんだ、つまらん奴だな……」

「つまらん奴で上等だよ」

吸血鬼の圧倒的な身体能力は、普段の生活のにおいても非常に重宝するだろう。しかし、それにも程度と言うものがあろうだろう。特にエリーゼのそれは明らかに行き過ぎだ。力の加減を間違えれば、何かの拍子にマンション一棟を全壊させかねない力がある。そんなの、常に対戦車ミサイルを懐に入れて、持ち歩いている様なものだ。危険極まりない。

「ところで一つ聞くけど、コイツって、時間が経てばちゃんと目を覚ますよな? なんか、死んじゃったみたいで気分が悪いんだけど」

「保障は出来ないが、今は装置を壊したショックで気を失っているに過ぎんだろう。時間がたてば自然に回復する。どちらかと言えば、問題は足の傷だろうな」

エリーゼに言われて、はだけたスカートから伸びる長い足に目が行った。赤黒い点として残る銃痕からは、血液が凝固するにはまだ時間がかかるのか、今も少しずつ赤い液体が傷口から滲み出てきている。

「そういえば、吉川に一発貰ってたんだよな……」

撃たれた後も、そ知らぬ表情で動き回っていたので、失念していたが、普通に考えれば重症であるに違いない。

「ここから離れてから救急車を呼べば……いいよな?」

沙希も沙希で十分化け物である。きっと死にはしないだろう。今までだってあれだけ動き回っていたのだ、そうに違いない。

「救急車?」

「ああ、気にするな何でもない。こっちの話」

「そうか?」

しかし……。

俺自身も、いい加減に人の心配をしている余裕が無くなって来た。

「なんか、疲れたぁ……」

一度に色々とありすぎて、身体的にも精神的にもかなり参っていた。張り詰めていた精神が、ぷつりと切れた途端に、津波のように押し寄せて来たのは疲労だった。

「すごい眠いわ」

そう、疲れたというより眠い。なんだか、体を動かすのさえ面倒な感覚である。

「ならばとっとと帰るぞ、私も眠りたい」

「あ、ああ」

疲れた、と思ったからだろうか?

急に頭が朦朧とし始めた。よほど気を張り詰めていたのだろう。これほど体に響く疲労は初めてだ。

「しかし、300年ぶりに目覚めたと思ったらいきなりこれだ。おちおち眠ってもいられんな」

「ああ……」

沙希の上から立ち上がり、地下室を後にしようと俺に背を向けたエリーゼの、その後姿が、突然モノクロになって写った。

「悪い、……なんだか身体が変だ」

「ん?」

そう思った途端、自分でさえその感覚を掴めないまま、いつの間にか身体はバランスを崩して、足元から背後へ傾き始めていた。

「お、おいっ!」

危ない、と思った瞬間には既に遅かった。反応の鈍った体はこちらの意図した通りには動いてくれない。そのまま倒れて、後頭部を床に打ち付けてしまった。

鈍い痛みと、脳の揺れが意識を揺さぶる。

「ど、どうしたんだっ! しっかりしろっ!」

「あ……なんか…………結構ヤバイ感じ」

全身が激しく火照っているような、けれど芯はとても冷たい、そんなわけの分からない感覚に囚われていた。

「お前…………、まさか陽光の影響かっ!?」

目に入るもの全てが、酷い乱視にでもなったかの様に、何重にもぼやけて見え始めた。

「は……あ……?」

「ええいっ、身体を見せろっ!」

エリーゼが俺の腕を掴み、そこに視線を落とす。

そうこうしている間に、視界は暗く、暗くなってきた。加えて体に力が入らない。体中の関節が外れてしまったように、幾ら力を込めても、やたらに重く感じる四肢は、ピクリとも動いてくれない。

「糞ッ、なんてことだ。治癒が全く働いていないではないかっ!」

「…………」

それまで立っていられたことが嘘のように、とんでもない勢いで身体中の力が抜けていく。口を開く事さえ辛いという訳分からない状況だった。脳さえもが考える事を放棄したかのように、言う事を聞かない。何も考えられない。

「ええいっ、寝るなっ、気…………らそれで終りだぞっ!」

「………………あぁ……」

隣で叫ぶエリーゼの声が段々と遠くなってゆく。

「……しっか………………これをの…………お……口をっ!」

「あ……ン…………?」

「あほ…………うが……………………おまッ……っ!」

次第に目を開けている事さえ辛くなって、瞼はゆっくりと降りていった。

「……っ!………………だ……うっ!」

五感を失い、肉体に入ってくる情報が全て遮断されると、もう、後はする事など何も無くなってしまう。意識はただ闇に落ちるだけだった。

自我は…………数秒を持たずして消えた。