金髪ロリツンデレラノベ 第二巻

第一話

校舎に休み時間の終了を知らせるチャイムが鳴り響く。

普段ならばここで、廊下や教室で談笑する生徒達が自分の席へすごすご戻ってゆく姿が見られるののだが、今日は少しいつもと違っていた。なにせ期末テスト前である。各々は休み時間の始まりから今に至るまでの間を、自分の机に噛り付いたまま教科書やノートを前にして過ごしていた。無駄な足掻きとはよく言うが、無駄と分かっていてもやらざるを得ないのは人間の心理だろう。無論、俺もそれに習っている。

「くっそ、昨日はアイツのせいで全然勉強できなかったし……」

俺の目の前にあるのは、相変わらず空白の占める割合の多い綺麗なノートである。

「しかもこれで時間切れってな、どうしたもんか……」

「雅之は普段の心がけが悪いんだからしょうがないね。来年はきっと僕の後輩だよ」

「そんなの冗談じゃねぇよ」

対して常に成績上位をキープしている吉川は、俺の席まで来ては余裕の表情で無駄口を叩いてくれていた。

「なら、がんばるしかないだろうね。もしかしたら何とかなるかもよ?」

「もしかしたらってお前なぁ、何とかならなきゃヤバいんだよ」

「そう? 別に1年くらい遅れたって雅之なら平気だよ」

「1年遅れて平気なわけあるかよ。つーか、俺だから平気って根拠がわかんねぇよ」

「さぁ?」

「はぁ……」

たしかに、自業自得といえばそれまでなのではあるが、しかし、こういう状況に立ってみれば、愚痴の1つや2つは出てくるものである。

「駄目駄目だね」

「しょうがないだろ?」

あと数分せずにテストは始まってしまうのだ。無駄に足掻く時間さえ既に失われている。今から出来る事といえば、出題される問題が簡単であることを祈るのみである。

「一応、僕の渡したコピーをやっておけばそこそこは取れると思うけどさ。まあ、出来る範囲で頑張りなよ」

「頼りにしてるよ」

「とは言っても、それも雅之が覚えていたらの話だけどね」

「…………」

笑いながら去っていく吉川を俺は生ぬるい視線で見送った。

本日のメニューは1時間目が古文で2時間目が数学である。その内、一時間目の古文は既に終了していた。事前にテスト範囲を教えてくれる温和な松本ティーチャーのおかげでこちらは難無く通過できた。しかし次に待つ数学は鬼で知られる伊藤ティーチャーである。1点でもボーダーに足りていない生徒はバッサリと切られてしまうのだ。

ガラガラと音を立てて教室の前のドアが開かれ、答案用紙を持った教師が入ってきた。机の上に出してあった教科書類をしまう。当初はカンペでも仕込もうかと考えたのだが、それもバレたら即刻停学である。ただでさえ単位がギリギリなので、今ここで停学を喰らおうものなら、それは即ち留年を意味する。ということで、流石に止めておいた。人間真っ当に生きるのが一番である。

「よーし、それじゃあ教科書をしまえー。テストを始めるぞぉー」

生徒達の用意が出来たことを見計らい、間延びした声の体育教師が順に答案用紙を配ってゆく。教室中央の列の前から4列目、用紙を受け取った俺は早速問題に挑むことにした。時計は授業開始の午前10時を指している。これからの50分間が俺の命運をかける時間となるのだ。

「なになに……」

問1: xy 平面において x 座標, y 座標共に整数であるような点を格子点と呼ぶ。     格子点を頂点に持つ三角形 ABC を考える。     辺 AB, AC それぞれの上に両端を除いて奇数個の格子点があるとすると、 辺 BC 上にも両端を除いて奇数個の格子点があることを示せ。

「……………」

(えっと、格子点ってのが整数座標……なんだよな?)

ただ繰り返し問題をなぞり、なぞる。そして深みへとはまって行くのである。高校に入ってからは勉強なんぞ全くと言っていい程していない。やはり数学は厳しかった。

(……糞、全然わからねぇよ)

周囲からはカリカリと回答を書き込む音が聞こえてくる。昔の俺は何故こんな高校を選んでしまったのか。現在、俺の通っているこの高校は県下一番の進学校であった。思い返してみると、進学校には可愛い子が多いという話を聞いてこの高校を選んだような気がする。そして運悪く試験に合格してしまったのが事の始まりである。そんな不純な動機では学業主体の生活が長続きするはずも無かったのだ。

素敵な高校生活を夢見て入学式を終えるも、待っていたのは初日から参考書の山である。高校進学も中学3年の1月に入ってから必死になって始めた口なので勉強には免疫がない。おかげで入学して三ヶ月ともたずに俺は赤点保持記録歴代トップの座に着いたのであった。なんて情けない話だろう。

そして、そんな馬鹿な男にはこの高校の女子連中が取り付く筈が無い。確かにクラスの女子は可愛い子が多かったが、勉強が出来ないだけで遠目に見られてしまう。バラ色の青春なんて言葉は昭和の時代で死んでしまったらしい。後に残ったのはただひたすらに詰まれた宿題の山だけであった。

(つーか、吉川のプリントにもこんな問題なかったぞ……)

綺麗だった解答用紙がいびつな図形に埋められ汚れていく。しかし回答は見つかりそうにない。周りの奴等はこの問題を本当に解けているのだろうか?

「…………」

馬鹿という単語から連想されたのだろう。ふと斉藤の事を思い出した。奴はつい2日ほど前に意識を取り戻したのだった。その一報を耳にした俺と吉川が見舞いに行くと、体中の至る所を包帯でグルグル巻きにされた斉藤は、それでも笑ってベッドに横になっていた。なんとか峠は越えたとの事である。まさか自分の知り合いがこんな大事になるとは思ってもいなかったが、元気そうで良かった。後4週間程度様子を見て問題が無ければ自宅へ戻れるらしい。

何はともあれ無事でよかった。これでどうこうなっていたら俺としても目覚めが悪いなんてもんじゃない。

「…………はぁ」

とはいえ、今はこの問題をどうにかしなければならないわけなのだが。

今は何時だ?

壁にかけられた丸い掛け時計に視線を向けるといつの間に過ぎたのだろうか。既にテスト開始から10分が過ぎていた。

やばいやばい、今は人のこと気にしてる場合じゃない。

なにせこのテストで赤点を取ってしまったのなら留年決定である。進学校である分、そういった面でこの高校は非常にシビアなのだった。一応、補講と追試験による救済制度もあるのだが、このテストで受からなかったのなら、それも怪しい。それに、何よりも夏休みを返上して勉強をしなければならないというのが嫌だ。

「糞っ」

テスト中であるにもかかわらず、思わず舌打ちなどしてしまう。一問目を後回しにして、続く問題へと目を進めてはみたが、悲しい事にその全ては俺にとって理解不能な難問奇問ばかりであった。吉川に貰ったプリントも、昨日の家での勉強も全く役に立っていない。そして時間だけは確実に過ぎてゆく。元々50分という時間も、数学のテストに関してはそれ程余裕のある時間でない。それも俺のような馬鹿にとっては尚更である。気づいた時には既に遅し、時計の長針は9の位置まで進んでしまっていた。残り5分、何が出来るというのだろうか。

これは、本当にヤバイ。

俺の答案は一つとして埋まっていない。担当教官が残り時間を警告し、最後の見直しをするよう生徒を促した。だがこちとら回答は真っ白である。見直すべき回答が無いというのも悲しい話だ。正直、その言葉も俺への皮肉なのではないかと錯覚さえしてしまう。

また俺は2年を繰り返さなきゃならないのか?

ここまで見事に分からないと、諦めモードにもなってくる。握っていたシャーペンを机の上に置いた。やはり、これは追試にかけるしかないのだろう。そんな悟りを開いてしまった。何にせよこのテストではもう何をやっても無駄である。あと5分では何も出来ない。それにこれ以上頭に負担をかけるのは良くない。きっと良くない。

椅子の背もたれに体重を預け、大して高くない教室の天井を仰いだ。

はぁ………。

音を殺してため息をつく。どうしようもなく欝な気分だった。補講により学生生活で最大の楽しみである夏休みが削られていく。そんな様子を黙って眺めていることしか出来ない自分が悲しかった。加えて追試は夏休み明けの9月頭に行われるらしい。これでは肉体的にも精神的にも休まる時間が無い。折角の夏休みがぶち壊しだった。

「…………糞」

完全にテストを放棄した俺は、意味も無く教室の天井に出来た染みの数でも数えようかと、くだらない暇つぶしを考え始める。

その時だった。

机の上においてあったシャーペンが音を立てて落ちた。

かと思いきや、体が上下左右にブレる感覚。ふと感じた小さな違和感は数秒と待たずして大きな揺れに変わった。

「うぉおおっ!?」

「な、なんだっ!?」

「きゃぁあああっ!」

周囲からも叫び声や悲鳴が上がる。

机がけたたましい音を立てて移動、横転を始めた。壁に設置されていたスピーカーもガシャンと落下。机から落ちた解答用紙が宙を舞った。

「な、なんだっ!?」

何重にも重なり合った女子生徒の甲高い悲鳴が教室に混乱を撒き散らす。天井から吊るされていたテレビモニタが落下して試験監督をしていた体育教師の頭にぶち当たった。気を失う教官と、さらに音量を増す女子の悲鳴。

そう、地震だった。

「マジかよ!?」

俺は小学校の頃の防災訓練を思い出し慌てて机の下に潜り込んだ。するとそれに応じるようにして窓ガラスや蛍光灯が割れ、あたりにその破片を飛び散らせた。教室内の混乱は更に加速する。

「お、おちつけっ! おちつけぇっ!」

叫ぶ誰かの声が耳に届いた。だがその叫びを上げる本人が一番混乱しているように見えるのはきっと間違いではない。中には机にしがみつき必死になって答案を続けている馬鹿もいた。

揺れ動く机に噛り付いて悲鳴に耳を痛めながら何も出来ずにジッと耐える。段々と強くなっていく振動はやがて山場を向かえる。教室の中で立っていられる奴はひとりも居なかった。誰もが腰をつき、必死になって周囲の物にすがっている。そして極限を回った振動はゆっくりと時間をかけて収まっていった。時間にして3分程度だろうか、時計は持っていないので感覚的ものであるが、相当長い間揺れていた気がする。

完全に揺れが収まったのを確認した俺は、恐る恐る机の下から這い出て立ち上がった。するとまあ、そこにあるのは悲惨な状況だった。

「ぅわ……」

教室の中は台風でも通り抜けたかのようにグチャグチャだった。机の中の物が辺りに散乱していて足の踏み場も無い。教科書類に混じってMDプレイヤーや化粧道具といった私物もまた、そこらじゅうに散らばっている。逆に見ていて気持ちが良い程の荒れ具合だった。

加えて多くのクラス連中は割れた蛍光灯の破片やらなにやらで怪我をしていた。そこらじゅうから呻き声が聞こえてくるのだ。バランスを崩して体を打ち付けたのか、それとも何かが落ちてきたのか、それぞれに起こった事は分からないが、床の上でうずくまっている奴が多い。中には倒れてきたロッカーの下敷きになり気を失っている不幸な者もいた。

「雅之っ、大丈夫だった?」

声に振り返ると吉川がいた。どうやら無事であったらしくこちらに歩いてきた。

「ああ、とりあえずなんともないけどさ」

教室の様子を眺めている限りではそう簡単な事でもなさそうであった。

「かなり大きかったよね?」

「震度幾つくらいあったんだろうな?」

「7くらい?」

「どうだろ、そんな感じか?」

多分、俺も吉川も気分が高ぶっている。

二人して荒れ果てた教室の様子を呆け顔で眺めた。一番前にあったはずの教卓が教室の中央で横になっていたり、壁から外れた黒板が生徒を巻き込んで倒れていたりと、かなり有り得ない事になっていた。

「つーかこういう場合って、早く外に逃げたほうがいいんじゃねぇ?」

「でも怪我してる人がいるから、先にそっちを何とかしないと」

「あぁ、確かにそうだな。やばそうだ」

余程テストに集中していたのだろう。机の下に潜り込んだような暇人は俺一人だけだったようだ。いや、怪我をしていないところを見ると吉川もそうだったのだろうか。そこらじゅうから唸り声が聞こえてくる。勉強嫌いが役に立った始めての瞬間だった。

「俺、保健室いって絆創膏とか消毒薬を取って来るわ」

「うん」

無駄な使命感に燃えて、床に散らばった教科書類を足蹴にしながら教室のドアへと向かう。誰のものだろう、香水のビンが割れて異臭をあたりに漂わせていた。これも事が収まった後で教師に叱られたりするのだろうか? 途中、数学Ⅲと書かれた本に足を滑らせ、肝を冷やしながらも、俺は教室の後ろにあるドアに手をかけ廊下へと出た。

かと思いきや、顔面を何かに強打した。

「んがっ!?」

情けない悲鳴を上げ、その場で腰を曲げて丸くなった。

「な、なに? どうしたの!?」

唐突な俺の反応に驚く吉川。しかし悲鳴を上げた本人にも、何が起こったのか分からない。体制を立て直し、改めてドアの先にある物に視線を向けた。するとそこにあったのは廊下ではなくコンクリートの壁であった。

「は、はぁ?」

ドアを開けたら壁があった。そんな滑稽な話だった。ここはウィンチェスターハウスか?

「おい吉川、来てみろよっ! 壁があるぞ、壁がっ!」

「壁?」

応じてこちらに駆けてくる吉川。その表情は訝しげなものであったが、実際にそれを目の当たりにすると、素直に驚き一色に変わった。

「ほんとだ、壁があるよ……」

二人してペタペタと冷たいコンクリートの壁に手を這わせる。もとよりそこから先は何も無かったかのように、ただコンクリートの壁がピッチリとドアの先数センチの位置に鎮座していた。あたかもそれが設計通りであるかのように、隙間無く、真っ直ぐに、しっかりとである。

「どうなってんだ?」

力を込めて押してみたがビクともしない。

「地震で上の階が崩れ落ちてきたのかも」

「あー、そりゃすごいな」

「これじゃこっちの出入り口は使えないね」

コンコンとコンクリートを軽く叩いて渋そうな顔をする吉川。

「しょうがないな、前のドアから出るか」

重厚なコンクリートの壁である、阻まれてしまってはそれ以上先へ進めない。仕方ないく俺は教室にあるもう一方の出入り口、前のドアへ向かった。余震がまだ来るかもしれないし、急いだほうが良いだろう。

散らかった机や椅子、壁から落ちた黒板を踏みつけ進む。そしてドアの取っ手に手をかけると勢い良く横に引っ張った。だが残念なことに、こちらも後ろのドアと同様であった。その先にあったのは灰色のコンクリートである。無論、壁は一部の隙もなくピッチリと行く手をさえぎっていた。

「うわ、こっちもかよっ!」

「また壁?」

吉川がやって来る。

「そう、壁」

確認の為に横開きのドアをスライドさせ、反対側も確認してみる。だがその先も行き止まり。コンクリートの壁があるだけだった。

「これじゃ出られないな」

押してみたがビクともしない。吸血鬼の何たらかんたらでパワーアップしているらしい俺だが、いくら力を込めても何も起きなかった。上階部の建材は余程大きく崩れてきたのだろう。

「雅之、廊下側は全部塞がれちゃってるみたいだよ」

壁を相手に渋い顔をしていると隣から声がかかる。廊下に面した教室の壁、そこにつけられているガラス窓を覗き込む吉川がいた。

「マジ?」

歩み寄ってみれば確かに。割れたガラス窓の先には灰色の壁があった。

「この教室の廊下側全体に上の階が落っこちてきたみたいだね」

「どうしょうもねぇ欠陥工事だな」

「どうする?」

「正直、教室の上に落ちてこなかっただけは良しとしたいけど、これじゃ打つ手が無いよな」

「となると、後は窓から飛び降りるとか?」

「ここ4階だぞ?」

「そういえばそうだったね……」

二人で壁を相手にしばらく唸っていると、幾人かの生徒達がうつ伏せた体を起こし始めた。

「あ、委員長が起きたみたい」

「ん?」

振り返ってみるとそこには坊ちゃんヘアーの男が一人、額に手を当て立っていた。

「よ、吉川君?」

「委員長こそ大丈夫? 怪我とかしてない?」

「うん。ちょっと痛いけど大丈夫」

分厚いメガネに170cmの吉川より更に低い身長。成績優秀ということでクラス委員に半場無理やり押し上げられた頼りの無い委員長であった。高校生というより中学生と言ったほうがしっくりくる奴である。名前は知らない。

吉川はなにやら委員長と話し始めた。俺はといえば特に接点も無い相手なので仕方なく近くにあった椅子を寄せて腰を下ろした。まだ床の上では呻いている奴や気を失っている奴が沢山いる。教室のいたるところから「大丈夫?」と、お互いに確認を取りあっている声が聞こえてくる。段々と教室に喧騒が広がり始めていた。

「ねぇ、雅之」

こちらを振り返る吉川。

「なんだ?」

「携帯も繋がらないっぽい」

手に持った携帯をパカパカと閉じ開きしてみせる。

「本当か?」

さすが地震だ。この辺りの基地局も駄目になってしまったのだろう。俺の買ったばかりの最新機種も同様、アンテナは一本も立っていなかった。必要なときに役に立たないものである。

「けどさ、そうなると完全に閉じ込められたっぽくないか? ここ」

出入り口を塞がれて携帯も通じないのだ。これでは助けさえ呼べない。いや、多分俺なら4階だろうと5階だろうと、飛び降りて脱出する事は出来るだろう。しかし、クラス連中の手前そんなアホな事をするわけにはいかない。それに吉川を置いていくのも気が引ける。

「救助隊待ちってことになっちゃうね」

吉川が委員長を引き連れてやって来る。

「あ、あの……」

委員長が恐る恐る口を開いた。

「なんだ?」

「あの、僕達これからどうしたら、いいんでしょうか?」

上目遣いにそんなことを聞いてきた。

「そんなこと俺が知るかよ」

「ご、ごめんっ」

いつも委員長はこんな感じである。顔を俯かせてしまった。頼りにならない委員長である。

「けど、どうにかしないとね」

「ああ。とりあえずドアは塞がれてるから他の場所から外にでるしか手は無いんだろうけど……」

「え? ドア、塞がれてるの?」

弱々しく聞いてくるのは委員長。

「ああ、見えるだろ? ほら」

俺に促されて委員長の視線は教室の前後にある出入り口へと向かう。無論その先にあるのは意味を成さないドア枠とコンクリートの壁だ。

「あ……本当だ」

その様子に委員長のただでさえ悪い顔色が更に青白くなった。

「ったく、どうするよ?」

「やっぱり窓しかない?」

「スパイダーマンにでもなるつもりか?」

「できれば僕は遠慮したいなぁ……」

ここは一つ、カーテンでロープを作って脱出するという、火事が起きたらお約束的な展開を実行するべきなのだろうか? 話には良く聞くが、実際にやる羽目になるとは思っても見なかった。

しかし、そこで俺はおかしな事に気づいた。

「なぁ、吉川」

「何?」

視線を向けた先にあるのは直射日光をさえぎる為の遮光カーテン。午前のテスト時間中は陽光の直射で回答用紙が見難くなる、という生徒の要請を受けて閉じられていたのだが、おかしな事に、その布生地の裏からは光が一切差し込んできていなかった。

加えて、地震が起こったというのに天井からぶら下がった蛍光灯は明るさを失っていないのである。携帯の基地局がやられるような大きな地震であったのに、ライフラインは絶たれなかったのだろうか?

「なんか、変じゃないか?」

椅子から腰を上げ窓へ駆け足に歩み寄る。布地を両手に掴み、閉められていた薄色のカーテンを勢い良く開け放った。するとどうだろう、その先にあったのはいつもの見慣れた校庭とは全く別の光景であった。

「なんだよこりゃっ!?」

「ろ、廊下?」

そのありえない様子に俺達は呆然と立ち尽くしす。何故だろう。開かれた布生地の先にあったのは校舎を背に広がるグランドではなく、良く見慣れたこの高校の廊下だった。

「こりゃ一体なんの冗談だよ、グラウンドが消えたぞ!?」

「すっごい廊下っぽいね」

「いや、間違いなく廊下だろ」

そして廊下を挟んだその先には、ちゃんと教室のドアが並んでいる。かけられたプレートには化学実験室などと書かれていた。

「お、おい。ちょっと行ってみようぜ」

これで好奇心をそそられない奴はいないだろう。窓枠を跨ぎ、俺はグランドの代わりに出現した謎の廊下へと足を踏み入れた。

「危なくない?」

「ああ、大丈夫っぽいぞ。ちゃんと感触あるし、一歩目から下に向かってまっさかさま。なんて事はないらしい」

床を上履きでペシペシと音を立てて叩いてみせると、吉川もまた窓枠を越えてこちら側の廊下へとやってきた。二人ともしっかりと二本の足で立っている。

「平気なの?」

震えている委員長が今にも消えそうな小声で囁いた。

「良くわかんないけど、少なくとも俺達は立ってるじゃん?」

「委員長はそこにいなよ。僕達ちょっと様子を見てくるよ」

「うん……」

震える委員長に後ろ手を上げて答える。俺達はまず廊下に並ぶドア、その一つを開けてみることにした。廊下の幅は至って普通で3メートルも無い。距離的にもそれほど離れていないので、中の様子は教室にいる委員長からでも伺えるだろう。

「おい、開けるぞ?」

「うん」

一応確認をとってから勢い良くドアをスライドさせる。ピシャリと音を立てて開くドア。一体何が出てくるのだろうか。年甲斐も無くその先にあるだろう光景にドキドキと胸を躍らせた。そして俺達の期待は色々な意味で裏切られた。

その先にあったのは化学実験室などではない。開かれたドアから現れたのは、なんと女子トイレであった。

「え?」

「マジで?」

トイレのタイルの上、尻餅をついていた女子生徒と目が合った。制服に付けられたリボンの色から判断して、その女子生徒は一年なのだろうが……何故?

「…………」

「ええっと……、これはなんだ?」

「……さぁ?」

見つめ合う三人。なんだか良く分からないが、女子トイレの構造は男子トイレのそれと大して変わらないのだと、今日始めて知った。

「あの、ここって女子トイレなんですけど……」

静まった雰囲気の中ポツリと女子生徒が言葉を漏らした。正直理解に苦しむが、ここは間違いなく女子トイレだ。それには俺も異論は無かった。どうして女子トイレなのかは理解に苦しむが。

「あー、いや、悪かった」

言って俺はドアをしっかりと閉め、ゆっくりと背後に向き直った。出来る事と言えば、それが精一杯だった。頭上にかけられたプレートを見上げてみる。しかし、そこには確かに化学準備室と書いてあるのだ。

「なぁ吉川」

「何?」

いきなり出鼻を挫かれた気分である。

「これって何だと思う?」

「そんなの、僕に聞かないでよ」

なんというか、どう考えても人を馬鹿にしている構造設計だった。理由も分からずに恥ずかしい。

「つーか、あのプレート全然違うじゃねぇかよ」

「だから僕に言われたって知らないよ」

「ったく。このプレート直しておかなきゃ駄目だろ。これじゃ全然役にたたないだろうに」

「というか、そういう問題?」

「いいんだよっ!」

どうなっているんだこの学校は。そもそも教室の窓に廊下が繋がっているという時点でアウトである。遊園地のミラーハウスもこれには真っ青だろう。

「で、どうする? 再チャレンジ?」

「このドアは止めよう。次行こう、次」

続く廊下自体は至って普通で、この高校の廊下そのものであった。化学実験室の隣には化学実験準備室、そして物理実験室といったように教室が続いている。その順番は本来の並びと同様である。

「ったく、気味悪いな」

「なんかお化け屋敷みたいだね」

「だよな」

化学実験室は俺達の教室がある棟の5階にあった筈なのだが、何をどのように変えたら窓の外に現れてくれるのだろうか。これもまた欠陥工事の賜物なのだろうか? いや、まさかそれはな無いだろう。

「それにしても、正気の沙汰じゃないよな」

「僕達が夢でも見てるのかな?」

「それにしてはやけにリアルだな」

「抓ってあげようか?」

「いや、絶対に痛い自信があるから遠慮しとく」

「だろうね」

隣のドアへ向かって歩き出す俺の隣に吉川が並んだ。

「で、早速隣には準備室があるわけだが」

教室のドアなんてものはたかだか数メートル間隔で並んでいるのだ。心の準備も無く次のドアへは直ぐに着く。

「開けるの?」

「開けるしかないだろ?」

「そうだけどさ、ちょっとは考えるよ普通」

「別にいいじゃん。それにここでビクビクしてると、すごく何かに負けた気分にならないか?」

「そういうもの?」

「…………そういうものなの」

吉川の言葉を押し切るようにして、ドアの窪みに手をかけガラガラと横に引く。

するとその先にあるのはホルマリン漬けの標本棚が並ぶ小さな教室。たしかに化学実験準備室であった。

「おおっ、プレート通りだぞっ!」

「普通に準備室っぽいね、標本とか普通にあるし」

あまり行く機会の無い場所だが、確かにここは化学実験準備室である。好きになれない臭源不明の鼻を突く匂いがまた化学っぽい。

「それにしても、化学準備室のホルマリン漬けって授業では全然使わないよな? 一体何のために置いてあるんだ?」

今の状況には全く関係ないが、常々疑問に思っていたことを口にしてみた。

「そう言われてみると確かに使った記憶が無いね。中学のときもそうだった気がする」

保管用のガラスケース上に積もった埃の厚さがその証拠である。

「だろ? なんで使いもしないのに、こんな不気味なものを並べておくのかね」

俺のイメージでは、ホルマリン漬けの無い化学準備室なんてこの世の高校には存在しないのだが、その辺どうなのだろうか? 化学の教室といえば白衣とホルマリン漬けである。

「雰囲気作かな?」

吉川が無理やり答えをひねり出だす。

「なんか、それが正解っぽい気がしてならないな」

「もしかしたら僕達の知らないところで使ってるんじゃない?」

「そうなのか?」

「いや、知らないけどさ」

まあ、ここで幾ら吉川と話をしていても答えは出ないだろう。今度、機会があったら化学の教師にでも聞いてみる事にしよう。

「けど、まさかこのカエルとかネズミとかが動き出してきたりしないよな?」

「それはかなり嫌だよ。っていうか絶対に嫌だね」

「今ほど準備室を怖いと思ったことは無いだろ?」

「だから、そういう事言うの止めようよ。本当に動き出したら雅之のせいだからね」

「俺だってこんなのに動かれたら嫌だよ、気持ち悪い」

目に留まるのは、腹部を裂かれ内臓を露出させた子犬や、体を半分にスライスされたネズミといったエグイものばかりである。こんなのが動き出した日には、子供でなくたって泣く。多分、俺も泣く。

「まあ、今はホルマリンはどうでもいいだろ? さっさと進もうぜ」

「う、うん」

つい1週間ほど前のエリーゼ絡みの一件で、世の中には人が理解できない不思議な事が溢れているのだと俺達は知った。だから、今の冗談もにしても次の瞬間には真実に成っていたっておかしくないと考えられるのだ。

「…………」

そんな理由で、俺と吉川はかつて無いほど慎重な足取りで狭い準備室を進む。まさに、本物のお化け屋敷を探検している気分だった。

思わず先月クリアした新作ホラーゲームを思い出してしまう。ゲーム中では華麗なコントローラー捌きによって、迫り来るクリーチャーをなぎ倒す事ができた。しかし、今の俺達の手元には44マグナム弾も、ロケットランチャーも無い。いや、あったとしても困るだけだろうが。

「ところでさ、ここからだったら化学実験室に行けるんじゃない?」

先程の出来事を思い出してか、吉川がそんな事を言った。

「ああ、そうだな。そう言えば繋がってたんだよな、この部屋とは」

吉川の言葉通り、化学実験室とその準備室は扉を一枚挟んで、直接行き来が可能になっている。その先がどうなっているのか気になるところだ。

先程は、その化学実験室があるべき場所に女子トイレを確認した。しかし、女子トイレには準備室と繋がる事が出来るような扉は見当たらなかった。となれば、そこに疑問を持つのは当然である。

「行ってみるか?」

「行ってみよう」

「よっしゃ」

早足で仕切り戸へと向かう。扉は木製の引き戸で鍵はかかっていない。本来ならばこの先にあるのは化学実験室。しかし先程の件を考えると、そこにあるであろうは女子トイレ。さて一体何が出てくるのだろうか。

「いいか? 開けるぞ?」

「別に断らなくてもいいよ」

「一応だよ一応っ」

ドアノブを握り締めゆっくりと開いた。

しかし、木の板を挟んだその先にあったのは化学実験室などではなかった。

加えて言うなれば女子トイレでさえない。ドアの先にあったのは音楽室であった。

「くそ、やっぱり意味わかんねぇよ」

「完膚なきまでに音楽室だね」

並ぶ楽器と有名音楽家のポスター達。音楽なんぞ一年の時に少しやっただけで、それ以降この教室に足を運んだ記憶は無い。だがここはこの高校の音楽室に違いない。黒板の上に張られたベートーベンの肖像画には見覚えがあった。問答無用で睨みつけてくる偉そうな奴だ。

「ここもちゃんと中に入れるみたいだな。さっき見た校舎の外にある廊下と同じような感じか?」

恐る恐る中へと足を踏み入れてみる。

「というか、この建物全体がそうなってる様な気がするね」

これではお化け屋敷というより迷路と言ったほうがよいかもしれない。先ほどまで居た教室と同じように、日光を注ぐ筈の窓の先には、又もや廊下が伸びていた。校舎はどうしても俺達に青空を見させたくないらしい。

「なぁ、これって本当に外に出られないんじゃねぇの?」

「僕も本気でそんな感じがしてきたよ」

ドンと鎮座しているグランドピアノが無性に腹立たしかった。

「なんか、学校に閉じ込められた臭いよな」

「誰に?」

「そんなこと知るかよ」

他の教室とは違う絨毯張りの音楽室を二人してウロウロと捜索する。だが窓の外が廊下である事を除いて、他に変わった点は見つけられなかった。この教室もまた蛍光灯が明かりを灯している。運よく変電所や電線、配電設備が壊れなかったのだろうか? 結構大きな地震だったし、そんな事は無いと思うが、それ以外の理由は考えられない。

「戻る?」

確かにこれ以上ここに居ても特に意味はなさそうである。

「そうだな、一度戻るか」

それに他の教室がどうなっているのかも気になる。隣のクラスだって、俺達と同じようにテストをしていたはずだ。

「これじゃ保健室に行くのも無理そうだね」

「ああ、まずは地図を作るところから始めないとな」

「笑えないよそれ」

「まったくだ」

まさに無限ループであった。

「というか、普通の地図じゃあ表現できないんじゃないかな、この状況」

「あからさまにおかしいよな。女子トイレのあったスペースに音楽室が入るわけないし」

「でも繋がってるんだよね」

こういう状況でも、俺と吉川が少なからず落ち着きを持っていられるのは、一週間前の出来事のおかげだろう。そして、今回も似たような不思議系が原因になっているに違いない。近いところで言えばエリーゼが沙希あたりだろうか?

「まあいいや、考えててもしょうがないし、次に行こうぜ」

きっと吉川も俺と同じような事を考えているに違いない。

「そうだね、とりあえず校舎の外に出ないと救急車も呼べないよ」

「ああ」

すごすごと元来たドアを通り化学実験準備室へ戻る。

準備室の様子は入ってきた時のまま変わっていなかった。もしかしたら移動するたびに行き先が変化するのか!? などとこの間までやっていたRPGゲームを思い出したりもしたが、そういう事は無いらしい。

それは準備室から廊下に出ても同じだった。ちゃんと教室の窓に面した廊下先ほどの廊下である。ガラス窓を一枚挟んで、教室の中には見知った顔が幾人かへたり込んでいる。

「なぁ吉川」

頭上を見上げると、天井に設置された蛍光灯は音楽室や教室と同様しっかりと灯っていた。やはりこれは気になる。携帯は繋がらないのに、なぜ電気は通っているのだろう?

「なんで電気が点いてるんだろうな」

口にせずにはいられずに、俺は小さく呟いた。

「この学校って非常用電源なんてあったっけ?」

「そんなもんあるわけねぇだろ」

「だよねぇ……」

街の大学病院ならいざ知らず、普通の高校にそんな大仰なものが配備されている訳が無い。

「けど、点いてるんだよな」

「うん」

煌々と明かりを灯す蛍光灯は、教室や廊下に設置されているそのどれを見ても、一本たりともチラつくこと無く灯っているのだ。

「…………」

「…………」

化学準備室のドアを背にして、二人してぼんやりと天井を見上げていた。

そんな時、廊下の先にある角から俺と吉川の見知った人物が現れた。黒い長髪と男顔負けのスラリとした長身が印象的である。

「あ……」

吉川が短く声を上げる。俺達の虚をついて現れたのは一学年下の後輩、佐久間沙希だった。

一応、吉川にも先週起こったいざこざの顛末は話してある。しかし一度作られてしまったトラウマは決して消える事はないだろう。隣にいて、緊張しているのが分かった。仕方の無い事といえばそうなのだが、こういうとき友人としては微妙なところだ。

「アイツまだこの学校に通ってたんだな」

「みたいだね」

その表情は否応無しにも硬くなる。一応、エリーゼの説明にあった「変な機械で操られていたのだ」云々というのは説明してある。だが事実は事実といったところだろうか。起こってしまったことは、その通りに受け止めるほか無い。

「こっちに来るっぽいな」

相手もこちらに気がついたらしい。Tの字になっている廊下の角を左へ折れて、沙希はこちらに足を向けた。

ここから曲り角までは大した距離があるわけでもない。吉川と2,3言葉を交わしているうちに沙希は準備室前までやってきた。吉川ほどではないが、俺も少なからず緊張している。いきなり殴りかかってくるような事は無いと思うが、それでも、記憶に新しい鮮烈な姿を思い出してしまうと、体が硬くなってしまうのだ。

「どうしたんだ?」

とりあえず声をかけてみる。

考えてみれば沙希とは屋敷の地下でやり合ったのを最後に一度も顔を合わせていなかった。だからだろうか、どういう顔をして話せばいいのかちょっと悩む。まあ、考えても仕方の無い事だろうが。

「お久しぶりです」

「あ、ああ。久しぶりだな」

短い声掛けに返ってきたのは、抑揚の無い無機質な挨拶だった。吉川はジッと口を閉じて黙ったまま、俺の隣でその姿を眺めている。

「お前、体はもう平気なのか?」

別れ際の状況を思い出した俺は、ふとそんなことを聞いてみた。俺達が館から帰るとき、沙希は気を失って倒れていたのだ。加えて足に結構深い傷を負っていた事も覚えている。公衆電話で救急車を呼んではおいたのだけれど、その後が気にならなかった訳でもない。

「俺達はそのまま帰っちまったけど、あの後で救急車は来たよな?」

足や腕には擦り傷や切り傷が目立つが、それでも沙希は松葉杖や車椅子に頼ることなく自身の足で立っていた。

「はい、すぐにやって来ました」

スカートの下から覗いた包帯が気になるところだが、その程度はしょうがないだろう。逆にあのエリーゼを相手にしてこれだけで済んだのは行幸だ。今を共に生活している俺がそう考えるのだから間違いない。

「おかげ様で、完治とまではいきませんが順調に回復してきています」

「そうか、ならよかった。あそこで死なれてたら目覚めが悪いからな」

吉川が隣に居るという事もあって余り多くは口に出来ないが、あのエリーゼに脅されてまでやった事である。一応は結果は知っておきたかった。

「その節は非常にお世話になりました。どうもありがとうございます」

沙希はその頭を下げて恭しく頭を下げて謝礼する。

「別に俺はいいよ」

「ですが貴方には命を助けていただいたのですから、私が感謝するのは道理です。加えてこの身も自由にして頂いて、これほど喜ばしいことは今までありませんでした」

館から帰って次の日には早速、新聞の朝刊や朝のテレビニュースでは事の次第が報道されていた。無論、吸血鬼云々なんて言葉は一つも出てこない。ただ全国的に見ても珍しい規模で行われたヤクザ同士の抗争が、キャスターによって語られていた。

「そんな大したことをしたつもりは無いんだけど」

「ですが結果的にはそうなりました」

沙希は会社の会計報告をする秘書官のように、淡々と言葉を述べていく。秘書官なんかに会ったことは無いんだけどさ。

「まあ、助かって良かったな」

「はい」

幸いだったのは吉川側に警察の手が伸びなかった事だろう。どこぞの偉い人が圧力をかけたのか、それとも吉川の親父さんの手際が良かったのか。詳細は不明だが、その報を耳にして俺もようやく一息ついたものだ。

「それに吉川さんの身内の方々には非常に申し訳ないことをしてしまって。なんと申し上げればよいのか……」

「…………」

沙希が吉川に向き直る。

「幾ら謝っても許しては頂けないと思いますが、それでも謝らせてください。申し訳ありませんでした」

ピシリと伸ばされた長身が腰の位置で綺麗に折れる。先ほど俺にしたのと同じように、沙希はゆっくりと、そして深々と吉川に頭を下げた。傍から見ていれば火に油を注いでいるとしか思えない状況である。外面は優等生然としているが、そういった機転の良さは持ち合わせていないようだ。

「その、遅ればせながら、私もこの度のことは遺憾に思わせて頂きます」

言葉を受けても吉川はしばらく俯いたまま何の反応も返さなかった。また、沙希にしてもそれほど多弁というわけではない。どちらかといえば無口なほうである。だからだろう、会話はそれっきりでブッツリと途切れてしまった。

ジッと相手の顔を見つめる沙希と、視線を合わせようとしない吉川。なんと居心地の悪い空気だろうか。よりによってこの二人が顔を合わせるとは運が無い。

そんな状況に気を悪くしたのだろうか。仕方がないといった風に顔を上げた吉川はゆっくりと口を開いた。

「別に気にしないで下さい。貴方の事は既に雅之に聞いています」

「…………はい」

表情は硬いが怒ってはいなかった。しかし、やたらな丁寧口調が吉川の場合は逆に怖い。

「それに僕もこれ以上そちらに申し上げることはありませんし、事はこれで済んだのですから終わりにしましょう。何時までも同じ事を引きずっていてはお互いに良くありませんよ」

吹っ切れた、という訳でもないだろうが、吉川は頭の良い奴である。俺なんかよりもずっと大人だった。

「…………」

それに元々そういう職業に就いていた人達である。遅かれ早かれこうなる人だっていた筈だ。ならば頭の中では無理やりにでも割り切ってしまうのが本人の為になるだろう。

「ですが、それでは吉川さんは……」

「確かにそれで僕の気持ちがそれで救われるわけではありません。けど少なくとも、これ以上に事がややこしくなることは無い筈です。それに過ぎたことをウダウダと続けるのは僕も嫌いです」

やはりというかなんというか、吉川の言葉はいつもとは温度が違っている。だが、これで済まそうと言うのだから大したものである。斉藤だったら出会った瞬間に飛び掛っていた事だろう。アイツは単細胞だ。

「……はい」

それだけ口にして吉川はまた口を閉じた。横から見ている俺としては胃が痛い状況だった。

「分かりました。お心遣い感謝します」

「そうして頂けて幸いです」

一体どこのお偉いさん達の会話だろうか。この二人のやり取りを見ていると、今の俺達が置かれているおかしな状況さえ忘れてしまいそうだった。

「…………」

「…………」

そして言うことだけ言った二人はそれで押し黙ってしまった。となれば、この場は俺が進めるしかないのだろう。こいつ等も、嫌なタイミングで出会ってくれるものである。

「それでだ、挨拶の済んだところで話を進めようか」

奥へ伸びる廊下とそこに並んだ教室の扉。とりあえず、今の俺達がやらなければならないのはこの狂った校舎から外へ出る道を探すことである。教室には怪我をした奴だっている。出来るなら早く病院へ連れて行ったほうが良いだろう。

「そうだね」

「はい」

俺の言葉に乗って吉川と沙希も頷いてくれた。今のところはこれで良しとしよう。

善は急げばよいのか、急がば周ればよいのか、この状況では、どちらが正しいのか分からないが、まあ、そういう時は適当にやっておけば良いだろう。そのうちに道も開かれるに違いない。クラスに知り合いの少ない俺としては、それほど気圧されるような状況でもないのだから。

「ところで沙希はどっちから来たんだ? 教室でテストやってたんだろ?」

「はい、確かにテスト中でした。ですが急な揺れと校内の変化に気づいたので、安全確認の為に、周辺の探索を行っていました」

「っていうと、俺達と同じようなものか」

腰まで伸びた長髪をさらりと揺らして沙希は静かに頷いた。

「一年の教室って俺等2年の教室より一階上だったよな。やっぱりそっちもおかしくなってるのか?」

「私がここへ着くにあたって、少なくとも階段を上り下りした記憶はありません。そういう意味ではおかしくなっていると思います」

「やっぱりそうなのか」

「そちらも同様ですか?」

「ああ、すぐそこが俺達のクラスだ。もちろんその間には階段なんてないし、どういうわけか窓枠を乗り越えなきゃならない」

「大変ですね」

「これじゃまるで迷路だよ。入場料とったらきっと儲かるぞ?」

「出口があれば、だけどね」

「それも、怪しい気がしてきたけどな」

「私も今のところ出口になるような箇所は発見できていません。本来、外へ繋がっている筈の箇所は、校内のいずれかに連結されていました」

「僕達が見たのと同じみたいだね」

「この窓みたいな奴だよな?」

廊下の窓は依然として俺達の教室や、隣に並んだ他の教室へと繋がっている。

「はい、そうです」

やはりここは地図でも作って進むべきなのだろうか。

「本当にどうなってるんだろうな、この学校は」

そもそもこういう「ありえない」事が起こっているときは、それに順ずる「ありえない」奴が関係していると見て違いない。となると、またしても俺達は人外な事件に巻き込まれてしまったのだろうか。

「やっぱりこれもエリーゼみたいな奴が関係してるのか? なんつーか、俺としてはアイツの悪戯のような気がしてならないんだが」

これが自然現象であるはずが無い。

「それは分かりません。ですがエリーゼさんは貴方と共にあるのではないのですか?」

「いや、アイツは家で留守番してるよ。テレビゲームと漫画をどっさり置いてきたからこっちへ来るような事は無いと思うけど」

エリーゼの最近の流行は、なんてことのない家庭用ゲーム機と人気少年漫画だ。ソファーに寝転がってコントローラを握り、ポテトチップスを貪る姿は、自身の言う長い年月を生きてきた偉人とは程遠い。

「それに、アイツが意味もなくこんな遊びを始めるとは思えないしな。なんだかんだで、かなりの面倒くさがりだぞ?」

身体を起こすことさえ億劫になって、寝転がったままテレビのリモコンを足の指で操作している姿には、容姿が容姿なだけに俺も少なからずショックを覚えたものだ。

「そうですか。ですが、この状況がエリーゼさんによるもので無いとしても、これは間違いなく普通ではありません」

「それって沙希やエリーゼみたいな奴が、他にもこの学校に通ってたってことか?」

「その可能性は否定できません。ですがこれほどまでに強力な力を持っているものが一介の学生に身を落としているというのは不可解です」

「強力なのか? この変な状態は」

「はい、既に感づいているとは思いますが、今のこの校舎の中では一切の魔力が反応していません」

「魔力が?」

魔力というのは俺やエリーゼの馬鹿力や再生能力を作る素みたいな奴である。詳しくは知らない。

「じゃあ、コンクリートの壁を殴ったときにビクともしなかったんだけど、それもこの変になった校舎のせいか?」

「校舎に直接的な原因があるかどうかは確かではありませんが、私の予想では十中八九そうだと思われます。そして、考えるに貴方の吸血鬼としての魔力が発動しないのならば、ほぼ全ての魔力が同様の状況にあると思われます」

「そうなのか?」

「吸血鬼は現存する異種の中でも特に強力な魔力を持つ存在です。ですから、その魔力が発動しないというのならば、他の種でも同様である可能性が高いのです。貴方の場合は存在が変化してからの時間が短いので例外的に捉える必要もありますが、今のところは最悪の場合を考慮してその様に考えておくべきかと思います」

「へぇ……」

となると、今の俺は傷が自動的に直ったりしない、ということか。

「でもそうなると、まずエリーゼが原因である可能性は無いな」

「何故ですか?」

「だってアイツから魔力を取ったら何にも残らないだろ?」

「確かにその通りですね、納得です」

色々といらぬ経験してしまったおかげで、今ではこういう恥ずかしい会話にもそれほど抵抗がなくなっていた。それはそれで問題な気もするが、そうなってしまったものはしょうがない。

「ねぇ雅之」

「なんだ?」

「僕は教室に戻って他の人の様子を見てくるよ。雅之達といてもあんまり力になれないだろうし」

吉川は俺と沙希を交互に眺めて口を開く。それはきっと沙希の存在を考慮しての発言だろう。俺としても二人の間で板ばさみになるのは嫌だし、その提案は是非とも可決すべきものだった。

「それに怪我をした人も結構いるみたいだから人では多いほうが良いと思うんだ」

教室からは呻き声や叫び声が耳に届く。これでも吉川は人望が厚いし、そういう面では適材だろう。それに状況からしてこの後は沙希と行動を共にする可能性が高い。そうなれば吉川としては最もな提案に違いない。

「そうだな、お前がそうしたいんならそれがいいと思うよ」

「うん」

「もし保健室が見つかったら薬とか届けに行くから待ってろよな」

「期待して待ってるよ」

「おう、任せとけ」

窓の外にある廊下の存在に気づいた者達が段々とこちら側にやってくる。それと入れ替えるようにして吉川は教室に戻っていった。

「雅之も気をつけてね」

「お前もな」

そう、この状況には間違いなくエリーゼや沙希の様な変態の存在が関わっている。ここから先は気を引き締めて進むべきだろう。加えて今の俺には再生能力がないらしいのだ、館でのような軽々しい行動は極力控えなければならない。でなければ、今度は内臓を撒き散らして倒れるような場面が出てきたとしても助からないのだ。そんな想像を勝手にしてしまう俺も自分をどうかと思うのだが、まあ、それが直情的な行動の抑止に繋がるのなら良しとしよう。

「それでは、今後の予定はいかがしますか?」

振り返ると沙希が聞いてきた。

「お前は何かやる事ってあるのか?」

「いえ、特にコレと言ってありませんが」

だとしたら、この前までの事はどうあれ、今は一緒に行動できる奴が居た方が心強い。沙希が俺の味方なのかどうかは分からないが、しかし、ここは一つ提案してみるべきだろう。今の俺と沙希の間には特に敵対するような理由も存在しない。少なくとも寝首をかかれるような事は無いと思う。

「だったら俺と一緒に進まないか? 別に嫌だったら断ってくれていいけど、どんな奴が関わっているのか分からないから一人でいるよりはその方が心強いんだ」

男としてはかなり情けない台詞だった。だが下らないプライドが身を滅ぼすという事は、エリーゼの居る生活で学習済みである。悲しい事実だった。

「はい、私もそのように提案しようと思っていました」

「そうか、なら良かった」

「はい」

エリーゼの説明にあった吸血鬼のお互いを感じる云々といった感覚も、地震が起こってからは無くなっていた。これも魔力が発動しないという現象の一端だろう。

「皮肉なもんだよな」

「どうしてですか?」

「だってこの中に居れば俺は普通の人間をやっていられるんだよ。それに窓がないから太陽の光だって入ってこないし」

「確かにその通りです」

「ですが、基本的には貴方は吸血鬼です。その事実は変わりません。加齢によって体組織が変化することも無ければ、容姿が変化することもありません」

「それは分かってるよ。けど少しくらいはそう思える時が欲しくなるんだよ」

「ですが吸血鬼になってから、貴方はまだ間もないと記憶していますが」

「そりゃそうだけどさ」

「吸血鬼の寿命は永遠です。一週間足らずの期間などその長い生の中では、ほんの一瞬に過ぎません」

「…………まあ、別にいいけどさ」

沙希の物事をズバズバと口にする性格は、操られていた事を除いても、遺憾無く発揮されている。きっと、これがコイツの素なのであろう。吉川と良い勝負である

「まあいいや、それよりも問題なのはこれからの予定だ」

「何か策がありますか?」

「特に無い。お前は?」

「私もこれと言って決定打になるようなことはありません」

「となると、八方塞だな」

「はい」

こちら側の廊下にも、他の教室から窓枠を乗り越えた生徒達が続々とやって来ている。俺と同じように女子トイレのドアを開いてしまった男子生徒もいる。他人事ならばこれはこれで面白い。周囲が段々と騒がしくなり始めていた。

「けど、そうなったら手当たり次第に歩き回るしかないよな。それでもいいか?」

「はい、当面はその方向ですね」

もしエリーゼがここに居たのならば、少しは現状も変わっていたかもしれない。まあ、アイツに頼るのは出来るだけ遠慮したい所だが。

「ところでさ、この学校を狂わせてる奴っていうのはヤバイのか?」

「なぜそう思うのですか?」

「さっきお前が強力だとかなんとか言ってただろ?」

聞き間違えでは無いと思う。

「はい。たしかに力が強大であるということは間違いないと思います」

「それってどうしてなんだ? 俺はまだこういうことが良く分からないんだけどさ」

魔力云々といった話は出来るだけ遠慮したいが、今は俺も渦中にあるのだ。状況を理解するには仕方が無い。

「それは、これだけの規模で魔力の発動を制御することが、並大抵の事でないということです。それに対象には貴方のような吸血種まで含まれています」

「それってエリーゼと同じくらいヤバイのか?」

「それは実際に確認してみなければ分かりませんが、仮にエリーゼさんが此処に居て、その魔力の発動が我々と同じように影響を受けるとするならば、少なくとも相手はエリーゼさんと同等か、それ以上の存在という事になります」

「お、おいおい、それってかなり危ないんじゃないのか!? あんなの一匹だけで十分だって」

エリーゼと同等かそれ以上の奴? それこそ命が幾つあったって足りないだろう。

「ですからそれは仮の話です。ただ、現にこうして貴方の魔力の発動が制御されているという事実と、この校舎全体が巻き込まれているという規模からして相手の力量は我々にとって脅威となりうるということです」

「っていうと、俺とお前だけじゃあ戦力不足ってことか?」

「はい、それが自然な論証だと思われます。ですが、それも実際の仕組みが不明な事もあり、エリーゼさんのことも含めて、一概に言い切れることではありません。加えて私達の魔力が受ける影響にしても、先ほどは発動が制御されていると言いましたが、実際は魔力そのものが無効化されているのかもしれませんし、詳しくは私にも分かりません」

「となると、結局は分からないこと尽くしなんだな」

「端的に言えばそうなりますね。申し訳ありません」

「いや、別に謝らなくてもいいけど」

「ですが、学校を変質させた者が決して甘く見てよい相手で無いことは確かです。これだけのことを出来る者となれば、そうは居ない筈です」

「……なるほど、困ったもんだな」

この間の事件からまだ一週間しか経っていないというのに、これまた大変な奴が来たものである。先の件だって長い人生で一回あるか無いか、いや、絶対にありえない出来事だったのに。

「しかし、お前ってずいぶんと博学なんだな。オカルト趣味でもあったのか?」

「いえ、別に趣味にしているわけではありません。昔、お父様にそういった教育を受けてていただけです」

「あのオッサンはそんな事までやってたのかよ」

「はい」

沙希を操っていたイヤリングみたいな装置は、エリーゼによって破壊済みである。しかしその父親に対する呼称が、あいかわらず「お父様」のままであるのが微妙に気になった。

「お前まだお父様って呼んでるのか?」

呼ばれる本人は既にいない存在なのだろうが。

「はい。改めて呼び方を変えるのも慣れませんし、別にそれで私がどうこうなってしまう訳ではありませんから」

「そういうもの?」

「吉川さんも仰っておりましたが、私にとっても先の件は既に過ぎたことです」

「そいつはまた、ずいぶんとカッコイイこと言うじゃないか」

「そういうわけでもありません。ただ、感情に乏しいだけでしょう」

淡々と事実だけを述べる沙希の表情は、確かに全く変化していなかった。瞬きをしているのかどうかさえ怪しい。

「お前もずいぶん寂しい奴だな。そんなことを真顔で言う痛い奴は始めて見たぞ」

「制御装置を付けられていたことの弊害でしょう。しかし、それも過ぎたことです」

なるほど、それならば今の沙希の様子も少しは納得できる。

「そうですかい」

「はい」

まあ、本人が良いというのだ。これ以上突っ込むことも無いだろう。それよりも無駄に時間を過ごすのは勿体無い。そろそろ動き始めるとしよう。時計は性格に動いているから今の時刻は確認できる。携帯のサブディスプレイにはAM11時13分との表示があった。普段通りならば、今頃はテストが終わって休み時間だ。

「さて、それじゃあ進もうぜ。エリーゼには昼までには帰るって言ってあるから遅れたら大変なんだよ。昨日も昨日で無理を押し付けてくれてさ」

あと1時間もすれば、きっと腹が減ったと騒いで暴れ始めるだろう。

「了解です」

沙希と話をしている内に、こちら側の廊下は異変に気づいた生徒達で一杯になっていた。俺達のクラスから横に並んで5つある教室。そこから窓を越えて沢山の生徒がなだれ込んで来ているのである。

「進むのでしたら私達も急いだほうが良いと思います。相手の出方によっては他の生徒と教職員にも危険が及びますから」

「そうだな」

別に人助けをするつもりは無い。しかしやるべき事の延長上にそれがあるのなら少しくらいは意識してもいいだろう。

「悩んでいても始まらないし適当に進むか」

「はい」

先ほど出てきた化学実験準備室の隣にあるのは物理実験室である。手始めにそこから当たってみよう。

「とりえあず、ここから行こうぜ」

沙希が頷いたのを確認して、俺は横開きのドアを勢い良く開いた。

先ほどまでの事もある。まともな状況を期待していなかった俺達は、そこにある様子を見ても何の驚きも無かった。

「今度は男子トイレか」

「私は中の様子を始めて見ます」

「だろうな」

一応警戒しながら床のタイルを踏みしめる。ここには誰も居ないらしい。廊下に溢れていた生徒達も、俺達が近くで話をしていたからだろうか、ここへはまだ一人も入っていなかった。

「普通のトイレだな」

「はい」

特にこれと言って怪しい場所はない。ただ、壁際に設置された窓の外には青空が無く、代わりに印刷室へと続いていた。開け放たれたガラス窓の奥にはコピー機や裁断機が確認できる。

「このまま進むか?」

「そうですね、あえて戻る理由もありませんし進みましょう」

沙希が頷いたのを確認して、印刷室へと乗り込む。

若干高い位置にある窓枠へ足をかけて室内に入った。男子トイレの窓に繋がっていたのは印刷室の窓だった。こんな事になって初めて気づいたのだが、印刷室の窓と男子トイレの窓はサイズがまったく一緒だった。なんて不必要な知識だろうか。

加えて困ったことに、続く印刷室にも何ら変わった場所は無かった。あまり足を踏み入れることの無い場所だけに、調べるにしても比べるものが無いのだが、それでもおかしいと思える場所は無かった。

「よーし、こうなったらガンガン進むぞっ!」

こうなればトコトンやってやろう。それにこの状況はアトラクション染みていて少し楽しい。幸いにしてトイレの場所は覚えたのだから、そういう事で困ることも無いだろう。

「ですが警戒は怠らないで下さい。どこで相手からアプローチがあるか分かりません。それに相手が私達にとっての敵となりえるのかどうか、それも確認しなければなりません。何かあっても直ぐに手を出さないようにして下さい」

「あいよ」

「はい、ありがとうございます」

「つーか、いちいちありがとうとか要らないからさ」

「はい」

印刷室の中には人の姿も無かった。ここはこれで良しとしよう。ずらっと並んだ印刷機材に別れを告げて、俺達は閉じられていたドアを開き、次のフロアへと足を進めた。

印刷室のドアに繋がっていたのは、普通の廊下であった。作りからして教務棟一階の廊下だと思う。ここは正しい繋がり方をしているようであった。確か、この棟の2階には職員室があったはずである。

「やっぱりここも地震はあったみたいだな」

廊下へでると、そこには倒れて角を凹ませた消火器や、壁から落ちてしまった絵画、割れて粉々になった窓ガラス等が散乱していた。

「先ほどの地震がこの町全体のものなのか、それともこの学校のみに影響を与えるものなのか。気になりますね」

「俺としては学校だけであって欲しいよ。帰って家が滅茶苦茶になってたら泣けるし」

「はい、私もそうです」

それに、電気が生きているところを見ると、校舎の外には影響が無かったと考えるのが妥当である気がする。まあ、それも外へ出ないことには何の意味も無い推測だ。今は後回しでも良い。

廊下に出てすぐに左右を確認してみたが、職員の姿は見つけられなかった。下手に教師連中に捕まるのは面倒である。これからはそういった確認もおろそかに出来ない。すぐ近くには職員室に繋がるドアがあるのだが、それもまた、別の教室へと繋がっているのだろうか? 確認してみたい気もするが、正しく職員室内へ繋がっていた場合を考えるとリスキーな選択だ。

「ところで、お前って今は何処に住んでるんだ?」

音の無い静かな廊下を歩きながら、ふとそんなことが気になって聞いてみた。館では、かなり豪快にやり合った事を覚えている。そこらじゅうがズタボロに破壊されていたはずだ。加えて警察やマスコミだって大勢押しかけて来たに違いない。マトモに生活が出来ているとは思えなかった。

しかし沙希の言葉は完全に俺の予想に反したものであった。

「特に引っ越したりはしていません。あの屋敷に住んでいます」

「マジで?」

「はい、本当です」

思い返してみれば、玄関ホールはバイオハザードだったし、廊下にはいたるところに銃痕が残っているだろう。いくら修繕したとしても、精神的にキツイものがあるのではないだろうか? 少なくとも俺はそんな環境で生活したくは無い。

「あの館ってもうボロボロじゃないのか? 俺も結構な数の壁とか壊した気がするんだけど」

「そうですか?」

「そうじゃないのか?」

しかし沙希は平気な顔で答えた。

「人間慣れれば何とでもなるものです。私はそれほど気になりませんでしたから問題ありません」

繊細な容姿とは相反して、結構タフな奴だった。感情が乏しいといったのも伊達ではないのだろう。

「それに、幸い私の部屋は無事でしたし、壊れたところを除いても、それなりに生活は出来ています」

「不幸中の幸いってやつだな」

「はい、心配していただいてありがとうございます」

「別に心配したって程でもないけどさ。少し気になった程度だから気にすんな」

何を考えているのか、いまいち謎が多い奴だが、それでも人並みの生活は必要だろう。

「私は今までの素行もありますし、この学校で話しかけて下さる方は貴方だけです」

「そうなのか?」

「そうです」

オッサンの束縛から解放されたとはいえ、今こうして様子を見ている限りでは、コイツの存在は明らかに周囲から浮いている。そして、それを自分で治せないというのだから、不幸といえば不幸な奴である。

「ところでこの先はどっちへ行く? 右か? 左か?」

印刷室を出てとりあえず左へと進路を取って歩いてきたが、その先、廊下はT字路になって突き当たり、道を左右に伸ばしていた。このあたりは元の校舎の構造と同じである。たしか、左右に伸びる廊下は共に、突き当りの付近で上階に上る階段があった。少なくとも俺の記憶の中では。

「どちらを選択するにしても、私にはなんの判断材料もありません」

「そりゃ俺だって同じだよ」

そもそも現段階では、何も分かっていることが無いのだ。

「困ったな」

「そちらは何か案がありますか?」

こういうときこそエリーゼの奴が居てくれるべきなのだろうが、肝心なところで役に立たない奴である。

「いや、特に無い」

「そうですか、残念です」

とは言え、どちらを選んだところで現状では大して変わらない気もする。

「まあいいや、適当に行こうか」

「というと?」

「とりあえず右、右に行こうぜ」

こういうときは悩んでいるだけ時間の無駄である。もしダメだったら戻ってくればよいのだ。それに、考えてみればさっきだって適当に左を選んで進んでいたのだである。今ここで理由を考えるのもおかしな話だ。

「わかりました」

周囲には特別怪しいものは無い。

一応警戒をしながら、俺達は右に折れて先へ進んだ。角を曲がってすぐにあるのは職員室、そして、そこから廊下に窓口を接する事務室があり、続けて来客用の玄関ホールがおかれている。

来賓の目を楽しませる為に置かれたのであろう。廊下の端々に設置されていた置物やら何やらは、しかし、そのこと如くが壊れ、至る所で破片を飛び散らして散乱していた。この一帯も地震の影響を受けているようである。

「とりあえず玄関か? 出口があるなら確認したいし」

「はい、それが良いですね」

もしかしたらここから外へ出られるかもしれない。そんな希望も少なからずあるので、自然と進む足も速くなった。

距離的には十数メートルである。職員室と事務室の前を素通りした俺と沙希は直ぐに玄関ホールに着く。

「あ……」

しかし、本来ならば正門を前にして人を迎える筈の空間は、教室がそうであったようにコンクリートの壁で埋め尽くされていた。今だから確信を持って言えるが、その壁は人為的に処置したとしか思えない程にピッタリと隙間無く聳え立っており、人が出入りするのはまず不可能だと考えられる。

加えて、ここにきて予想外の事態が発生した。

「なんだ雅之か、驚かせるな馬鹿者」

そこにはなんとエリーゼが居たのだった。

「な、なんでお前がここにいるんだよ!?」

驚いたのは俺の方である。

「なんだ、私がここにいては不都合があるというのか?」

エリーゼはコンクリートで塗り固められた玄関ホールの壁を背後に、手を腰にあてたポーズで此方を眺めている。

「い、いや。別にそういうわけじゃないけどさ。でも驚くだろ普通」

「わざわざこの私が出向いてきてやったというのに、お前もずいぶんとぞんざいな態度だな?」

「だってお前は家で留守番してたはずだろ? なんで学校に居るんだよ?」

ゲームや漫画には飽きてしまったのだろうか? それとも、学校へ来る前に渡した長編RPGや、全78巻の壮大なファンタジーコミックを全て消化し尽してしまったのだろうか?

……まあ、その辺はどうでもよい。

今はむしろエリーゼが来てくれたほうが嬉しい状況にある。

ただ問題なのは、俺があれだけ言い聞かせたにも関わらず、コイツが身に着けているのが例の水着みたいな服であることだ。コイツの平坦な体には、ボディーラインのはっきりと出てしまうそれが似合うはずも無い。異様に長いニーソックスと、ビキニのような作りのショーツとトップがあり、その上から幅のある皮のベルトを幾重にも巻いて、それを金属製のリングで数箇所止めている。パレオのような丈の短いスカートが、ギリギリの所でショーツを隠してくれているのがせめてもの救いだった。まあ、最近下火になってきたビジュアル系バンドの追っかけと言えば、通じるかもしれないが、子供のする格好じゃないのは確かだろう。ただでさえ金髪の外人というだけで目立つのに、これでは共に居て他者に見つかったときに、フォローのしようが無いではないか。

「私がやって来た理由? それはお前だって理解しているだろう?」

とは言え今は、実際にその格好で来てしまったのだから仕方が無い。ここへ来て他に着替えるような服も無いのだし、家に帰ることが困難な現状では手の打ち様が無い。ならば今はその問題は保留だ。考えないようにしよう。

「……何のことだよ?」

色々と頭痛の種を感じながら言葉を返した。

「いきなりお前の存在が認識出来なくなったんだよ。まさか気づいていなかったのか?」

「ああ、それか……」

例の、吸血鬼が自身のファミリーという存在を、お互いに感じあえるという機能である。たしか地震の直後から俺もエリーゼの事が見えなくなっていた。見える、という物言いもおかしなものだが、感覚的にはそれが一番シックリと来る言葉である。

「ならば理由としては十分であろう? そもそも本来ならばこういうときは下僕であるお前が私の元へ向かうのが普通なのだ」

「俺だってそれが出来ればとっくに帰ってたさ。けど、こっちはそれどころじゃなかったんだよ」

「分かっている。それは私もこの建物に入って理解した」

「後ろのそれを見れば誰だって分かるわな」

「うむ」

エリーゼの背後にある玄関の扉。大人が数人まとまって同時に出入りできるサイズのドア枠が、全て灰色に埋め尽くされている様はとてもシュールだった。エリーゼにしても、俺達と同様に、出口を探して彷徨っていたのだろう。

「なあ、そういやお前さ」

「ん?」

しかし、ここが塞がっているということはエリーゼは何処から入ってきたのだろうか? それが分かれば俺達は外へ出られる筈である。

「どこからここへ入ってきたんだ?」

沙希も同じ事を考えているに違いない。状況はどうあれ、学校から出られるならそれに越したことは無いのだ。クラス連中を助けるにしても、まずは外と連絡が取れなければ意味が無い。

「外から来たんだろ? お前」

だが返って来たのは答えは俺の期待するものではなかった。

「ああ、そこからだ」

背後を振り返えるエリーゼ。その指先が指し示す先にあったのは、コンクリートで埋め尽くされた玄関だった。

「は?」

ふざけているのか?

「何言ってんだよお前」

「だからそこから私は入ってきたのだ。文句があるのか?」

「いや、文句っていうか、明らかに嘘だろそれ」

だってそこには人間どころか蟻一匹とて通れる隙間も無い。

「何が嘘だ。私がそこを通った途端に空間が変質したのだ。後は見ての通り出入り口は塞がれてしまった。一体誰の仕業なのかは分からないが、ずいぶんと舐めた真似をしてくれる」

「空間が変質?」

「平たく言えば……、壁が出てきた」

「壁……か」

なるほど、今のこの学校の状況を見る限りそれもあり得ない事でも無い気がする。思い返してみれば、俺も似たような事を教室で経験していた。きっとエリーゼが言いたいのもそれだろう。

「だが問題はそんな事ではない」

こちらを振り返ったエリーゼは憎々しげに続けた。

「もしかして貴方も魔力が発動しないのですか?」

「貴様も気づいていたか」

「はい」

エリーゼの言葉に沙希は特に表情を変えることなく頷いた。この二人がお互いに顔を合わせるのは館での一件以来のはずだ。だが、エリーゼは何の感慨も無く、昨晩分かれた知り合いに朝の挨拶をするような気軽さで言葉を投げかける。そして、沙希もまたその会話に何の躊躇も無く淡々と答える。流石というか、なんというか、そういう所は素直に関心する。まあ、それも時と場合によるのだか。

「どういうわけか魔力が発動せん。貴様は何か知っているのか?」

「いえ、特に何も知りません」

しかし、まさかエリーゼまで影響を受けることになるとは思わなかった。沙希の言葉を信じるなら、それは俺達がかなり大変な状況下にある、ということなのではないだろうか?

自分で豪語するだけあってエリーゼはとんでもない化け物である。それはここ一週間過ごしてきた日々の生活で、痛いほど思い知っている。それがこうもアッサリと封ぜられてしまったというのだから、敵はどれほどのものなのか。

「ふむ、そうか……」

沙希の言葉を思い出すなら、それは同等かそれ以上。どちらにせよ俺が手におえる相手ではないだろう。

「なぁエリーゼ、ちょっと聞きたいんだけどいいか?」

「なんだ?」

ふと思い出した。

「外では地震とかあったか?」

「地震?」

「ああ、さっきはかなり揺れただろ?」

金具がとれて中身をぶちまけてしまっている来客用の下駄箱。台座から落っこちて見事に割れてしまった壷。玄関にしかれたタイルには大きくひびが入っている。何処をどう見ても、地震の後にある光景だ。

「たしかに、この場はそうであったようだな」

周囲を見渡したエリーゼは、興味なさそうに呟いた。

「ちなみに外っていうのは学校の外のことだぞ?」

「馬鹿にするな、そのようなこと分かっている。地震なんぞ一片もなかったわ」

言葉が過ぎただろうか。思い切り睨まれた。

「そうか、やっぱり学校の中だけだったんだな」

「この建物を中心として何らかの施行があったのだろうな。それが魔力によるものなのか、別の何かによるものなのかは分からんが、少なくとも影響を受けているのはこの建物の内部だけだ」

「っていうと、外から見たら普通の格好してるのか? この学校は」

「ああ、外見は変質しておらん」

「随分とおかしな話だな」

今、俺達が直面している光景を前にしては、マウリッツ・エッシャーの絵画も霞んで見える。

「だが事態はこうして実際に起こっているものなのだ、ならば納得するしかないだろう。貴様が首を突っ込んだ世界はそういうものなのだ」

「首を突っ込んだってお前なぁ、元々の原因はお前だろう?」

腰に手をあてて偉そうに講釈を垂れるエリーゼに、口を尖らせて講義する。

「やかましい、お前が私の封印を解いたのが事の発端だろうが。言うなれば自業自得だ、人のせいにするな」

「だからそれは俺じゃねぇって言ってんだろうが。つーか、お前が俺の血を吸うから、こんなになっちゃったんじゃねぇかよっ」

「そのようなこと知るか。私の目覚めに立ち会ったお前が悪いのだ」

「この野郎、ずいぶんな物言いだな」

「ふんっ、下僕如きに何故私が言葉を選ばねばならぬというのだ?」

「…………」

それにしても、魔力が使えなくてもこの口の悪さ。やはり一度コイツは徹底的にしばき倒してやったほうが良さそうである。蓄積していくストレスは既に限界で、それどころか、段々とコイツのこの態度に慣れてきてしまっている俺がいる。流石にそれだけは否定したい。

「しかし、またしても魔力が封ぜられるとはな。なんと忌々しい」

そんな俺の心中を知ってか知るらずか、はき捨てるようにして吼えるエリーゼ。コイツから魔力を取ったら何も残らないのは周知の事実である。それも当然といえば当然だが、だとしたら、もう少し大人しくはならないものか。

「俺としては、お前が弱ってくれる分には万々歳だけどな」

「なんだと?」

「当たり前だろ? お前はこの一週間で俺を何回殴ったか覚えてるか?」

正直、10や20では済まないだろう。

「それはお前が私の言うこと聞かないからだろうが。そもそもお前には下僕としての自覚が無さ過ぎるのだ、主人である私をなんだと思っているんだ?」

「だ、だから下僕とか言うんじゃねぇよっ! お前は何回言えば分かるんだよっ!」

しかも、他の奴が居る前で下僕下僕とでかい声を出してくれる。もしも沙希以外の事情を知らない奴に聞かれようものなら、俺はこの先、学校で一体何と噂されるのか、分かったもんじゃない。

「やかましい。下僕は下僕だ、それ以外の何物でもない」

「コ、コラっ、また下僕って言いやがったな、このクソガキっ!」

「ク、クソガキだとっ!?」

「ああそうさ、年上の言うことを聞けないガキはクソガキなんだよ。あー、クソガキ、クソガキ、超クソガキ」

「き、貴様っ!」

途端、早速飛び掛ってくるエリーゼ。コイツも随分と気の短い奴である。いや、どちらかといえば、異様なまでのプライドの高さに所以する行為なのだろうが、今の俺にとってはどちらでも良いことだ。この状況にあっては、勝機があるのは間違いなく俺だ。なにせ相手は魔力が使えない。ともすれば言葉通りコイツはただのクソガキに違いないのだ。単純な腕力勝負ならば俺がこんなちっこい子供に負けるなんてありえない。

「っ!?」

右腕を振り上げて殴りかかってきたエリーゼ。しかし日々の虐待で少なからず鍛えられた俺である。エリーゼの行動パターンも何となくだが理解してきていた。狙いを違わず伸びてきた拳を左手で受け、余裕の表情を見せてやる。

「どうした? エリーゼちゃん?」

相手に魔力の補助が無いのなら、殴りかかってくる勢いだって大したことはない。受け止めるのに苦労は無かった。

「き、ききき……キサマァっ!」

先ほどの発言が余程頭に来ているのだろう。それでもエリーゼは、一応それっぽい動きで繰り返し仕掛けて来る。だが、幾ら形が整っていようとも、そこに加えられる力が皆無では痛くもなんとも無い。というか、可愛くすらある。

「死ねっ! 貴様は死ねっ! いっぺん死ねっ!」

繰り出される蹴りや突きのなんとひ弱なことか。まさに快感である。今まで溜まりに溜まっていたストレスが、一発を受け止める度に霧散していくようであった。

「ほらほら、ご主人様らしい所を見せてくれよな」

「っっっ!」

終いには言葉にならない奇声を発し始める。しかし、それでもなおエリーゼは腕を振り回しては足掻き続けた。その様のなんと滑稽なことか。

というか、こういう機会が無くては正直やっていられない。つい先日から俺が胃薬を飲み始めたのも全てはコイツのせいだ。本人から説明を受けた限り、吸血鬼は人間が利用する薬の類から効果を得ることは難しいらしいが、それでも気休めは必要だった。

なにせコイツときたら、真夜中に起きてきては食事を作れだの、作ってやった夕食が口に合わないから作り直せだの、エアコンは空気が乾燥するから団扇で扇げだの、我が侭の限りを尽くしてくれているのだ。そして俺がそれに逆らおうものなら武力行使で報復される。

これも良い薬だ。少しは虐げられる側の気持ちという事を理解すべきだろう。自分ではとんでもない年月を生きて来た、などとほざいているが、ならば周囲に対してそれ相応の節度ある対応をしたらどうだろうか? その容姿と相まって、家でのコイツは子供そのものだ。

ギャアギャアと叫びながら殴りかかって来るその様は、デパートでお菓子をねだって親に泣きつく小学生もさながらだった。

「…………」

だが、しばらくして両腕を振り回していたエリーゼが途端に大人しくなった。

俺を殴りつけんとして振り回されていた腕は大人しく下ろされ、罵倒を連呼していた口は静かに閉ざされた。挑みかかるような視線をヒシヒシと感じさせた双眼を床へ落とし、頭をうな垂れさせて目前に佇むその姿は一体どういうことだろうか?

「ん、どうしたんだ?」

疑問を感じて声をかけてみるが、反応は薄かった。俯き加減のまま、小さく身体を震わせて怒りに堪えている様子は、傍目からも相手の心境がどういう状況にあるのかを理解できる。

「……………貴様」

そして、続けざまにかけられたその言葉を耳にして、俺はそれまでの熱を一気に失った。

「貴様……、覚えていろよ」

怒りに肩を震わせる相手は、一際声のトーンを落として静かにそう言った。俯き加減の顔を少しだけ上げて俺を睨みつけてくる。その表情は、壮絶なまでの怒りに彩られていた。長い髪によって陰の出来た目元は眼球だけが蒼く煌々と輝いている。それは本人の実態を知るものからすれば恐ろしい事この上なかった。

あまりに稀有な展開と相まって、どうやら俺は調子に乗りすぎたようだった。エリーゼの様子が可笑しくて、色々と大切なことを忘れていたのである。

「この建物から一歩でもでてみろ、そこがお前の墓場だ」

しかし、それも後の祭りである。

「ちょ、ちょっと待てよ、今のはちょっとした冗談だろ!?」

顔には笑みを浮かべているエリーゼだが、悲しいことに目は笑っていなかった。

「冗談? お前は何か可笑しなことでも口にしたのか?」

「…………」

こうなってしまうと返す言葉が無い。

「そうだな、まずは手始めにお前の太ももの間にぶら下がったモノを握りつぶしてやろうか。こう、ゴリっとなぁ?」

「お、おまっ!?」

聞いただけでも痛々しい極刑である。

「そして、次は少しずつ体を切り刻んでいってやる。手の指から順番に一本一本丁寧に切り裂いてやろう。きっと良い声を上げて鳴いてくれるのだろうな?」

事後の顛末を考えていなかった時点で、俺の末路は決まっていたのかもしれない。とんだ墓穴を掘ってしまったようだった。余りにもエリーゼをからかうのが楽しくて調子に乗り過ぎていた。

「な、なぁエリーゼ」

「なんだ?」

エリーゼの顔に浮かぶのは、外見年齢に相応しくない歪んだ笑みだった。

「そ、その、なんだ、今の悪ふざけは謝るから。だから、それはちょっと勘弁してもらえないか? お前は俺の自慢の、最高にイケてるご主人様なんだからさ。そんな真似は似合わないぞ?」

とりあえず作り笑顔を向けてみる。だが、その程度の接待で相手の腹の虫が収まってくれるのなら俺だって慌てる事もない。楽しそうに此方を眺めるエリーゼは嬉々として言葉を続ける。

「どうせ貴様は直ぐに治癒されるのだ、日がな一日かまってやろう。どうだ、素敵なプランだろう? 最高にイケてるご主人様と一日中一緒に遊べるのだ、喜ばしい限りだな」

「ちょ、ちょっと待ってくれよエリーゼっ!」

「さぁな、最近耳が遠くてな」

「頼むからっ!」

あっという間に形勢逆転だった。

ただでさえよく分からない状況に置かれているのに、更に仲間内での関係を険悪にしてどうするというのだ。こういう状況だからこそ一致団結すべきなのに。けれど、幾ら俺が嘆いたとしても、一度暴れだしたエリーゼの腹の虫は、そう簡単には収まらないだろう。

「カンベンしてくれよな」

小さく呟くと、隣にいる沙希が無愛想に答えてくれた。

「……がんばって下さい」

何をどのように頑張れば良いと言うのだろうか。

「お前も、ずいぶんと遠慮無いな」

「お二人の関係は、私には関係ありませんから。それに端的に判断すれば、今のは貴方の自業自得であるように思われます」

「…………」

そう、コイツにすがっても意味の無い話だった。

「フフフ、たっぷりと可愛がってやる。覚悟しておけよ」

変わり身の早い事で、自身の優位が確定した途端に、先ほどまでの様子が嘘であるかのように余裕の表情を浮かべてみせるエリーゼ。

「………う、うるせぇよっ!」

まったく、コイツの扱いにも困ったものだ。

というか、馬鹿なやり取りのせいで危うく忘れてしまうところであったが、今はそんな事をしている状況ではない。今はこのおかしな状況から脱するのが最優先だ。ここでこうしてエリーゼといがみ合っていてもしょうがない。明らかに時間の無駄である。とりあえず、このことは隅に退けておいて後で考えるとしよう。それに、この校舎の中に居る分には、幾らエリーゼが暴れようとも俺が痛い目を見ることはないのだ。

この場でエリーゼを宥めるのは無理かもしれないが、当面は先に進むことを考えるべきだろう。正体不明の敵かどうかもわからない相手、その手中にいるらしい今の俺達は、もしかしたら結構大変な状況下にあるのかもしれない。加えて学校には他の生徒達だって大勢いる。ここでこの間の屋敷でのような事が起こりでもしたら大惨事だろう

そして、事態は俺が望もうが望むまいが、勝手に進行してしまうのが常らしい。俺とエリーゼの会話が途切れた瞬間を、まるで狙い済ましたかのようにして、それまで何の反応も無かった事務室のドアが、突如として勢い良く開け放たれた。

「っ!?」

慌てて身構える三人。しかし、ガラガラと音を立てて開けられたドアの奥から出てきたのは、スーツに身を包んだこの学校の事務員だった。黒髪のショートヘアで、身長は160程度だろうか、手にはなにやら書類の入ったファイルを携えている。

事情を知っている俺と沙希はとりあえず一息。突然の出来事に応じて、それまでのいがみ合いをとりあえず脇へと退かしたエリーゼは、この新たな展開に備えて構えをそのままに、相手を睨みつけていた。

「エリーゼ、この人はここの事務員だ。別に構えること無い」

「事務員だと?」

それまでの怒りが静まったわけではないのだろうが、とりあえずのところは俺の言葉にも聞く耳を貸してくれている。

「そうだ、だからそんな変なポーズをしなくてもいいんだよ」

一方こちらの様子を目にした事務員は、ポカンと目を見開いたままその場に突っ立っていた。視線の先にいるのはエリーゼである。

相手が面識のある教師ならば少しは話も出来る。しかし事務員ではそうもいかない。会話をしたことが無いどころか、年に数回、校内で歩く姿を眺める程度の関係でしかないのだから。

加えてこの事務員、何を思ったのか突然大声を上げて俺達を指差したのである。

「あ、ああああ、貴方っ! 一体何をやっているのっ!」

その指が指し示すのはエリーゼ。そして叫びを向けられたのは俺だった。理解できない相手の反応に疑問符を浮かべる。しかし、そんな俺の疑問に答えてくれたのは、隣に突っ立っていた沙希だった。

「……その、エリーゼさんの格好が……問題なのではないかと」

視線の先にはエリーゼがいる。

身に着けている衣服はまるで水着のような作りをした、ショーツとトップだけのビキニスタイル。四肢を覆うのはエナメルの光沢を放つ黒皮のベルトと、太ももまでをカバーする異様に長いニーソックス。ベルトを固定するように幾重にも飾られた大小のシルバーリングはキラキラと光を反射して曇りなく輝いている。そして、それら黒と銀で統一された衣装は、色白なエリーゼの肌と相まって美しいモノクロのコントラストを作り上げていた。その様はまさに、クラブのS嬢もビックリのボンテージファッションである。

だからだろう、事務員はエリーゼの手首を方をムンズと掴むと俺から引き離すようにして吼えた。

「貴方は学校で何をやっているのっ! こ、こんな、こんな小さな子を相手に一体何をさせているのっ!?」

「え、あ、ああ……それは……」

「き、貴様、いきなにな……っ!」

魔力の無いエリーゼはされるがままである。声を上げる暇も無く、ツカツカと歩み寄ってきた事務員に腕をとられて、問答無用で引き寄せられた。そして俺と対面するように位置を取った事務員の後ろに隠されてしまう。いい様に扱われるエリーゼの表情がイラつきに歪んでいたのは言う事も無い。だが、事務員はそんな変化にも気づく事無く言葉を続けた。

「全員こっちへ来なさいっ!」

事務員の女性は俺達に背を向けると、エリーゼの手を掴んだままズンズンと事務室の中へ入っていこうとする。

「どうしますか?」

沙希が小さく聞いてきた。

「どうするって、そりゃ逃げるしかないだろ」

まさかこんなところを他の教師に見つかるわけにもいかない。事務員一人に見つかった程度なら、まだ言い訳も出来るだろう。ともすれば選択肢は一つだ。

「分かりました」

二人で静かに頷きあう。

しかし、そこで我慢の効かなくなったエリーゼがキレた。

「貴様、一体何様のつもりだっ!」

「えっ!?」

子供らしからぬ物言いに驚き、事務員の女性は自身が腕をとる少女を振り向く。そこにあるエリーゼは掴まれた腕をぶんぶんと振り回しもがいていた。

「ええい、放せっ! 放さぬか下種がっ!」

勢い良く暴れだすエリーゼの様子に、驚いて力の抜けた事務員の手はすぐに外れた。

さぁ、逃げるならば今だろう。

「いくぞ沙希」

言って俺はエリーゼを抱きかかえる。右腕で荷物を抱えるように、背中から脇腹の横を通し、腹の下に手の平を回して持ち上げた。見かけ通り軽い身のエリーゼはそれで何とか運ぶ事が出来そうだった。

「なっ!? こ、今度は何だというのだっ!」

「いいからお前はちょっと黙ってろっ。舌噛むぞ」

そんな様子をポカンと見つめていた事務員だが、俺達が背を翻すと共に、状況を理解したのだろう。悲鳴ともとれる様な大きな声を上げた。

「ま、待ちなさいっ!」

誰が待つというのだ。

他に算段も無く、俺は全力で廊下を走り出した。

当然、背後からはパタパタと廊下を走る音が続いてくる。子供一人抱えている分、俺の方が苦労は大きい。だが、ここで捕まるわけにはいかない。幸いにして今の学校は迷路になっている。こうなれば後はとにかく逃げ続けるしかないだろう。

腕の中ではエリーゼが暴れに暴れてくれている。「離せっ」だの「この馬鹿っ」だのと、五月蝿い事この上ない。これがお互いの為だというのに分からない奴だ。

それに、早く撒いてしまわないと俺の体力が持たない。幾ら軽いとは言え人一人抱えて走り回るというのは体力を使う。今は吸血鬼の力も効果が無いのだから、そう長くは持たないだろう。

「逃げるのは良いのですが、この先はどうしますか?」

隣を涼しい顔で並走する沙希が聞いてきた。もしかしたらコイツにエリーゼを運ばせた方が良策だったのではないかと思うのだが、今は荷物を受け渡している暇も無い。全力疾走で鬼ごっこは続けられる。

「適当に走って撒くぞっ」

「わかりました」

「このっ! 放せっ! 下僕がっ!」

「だから、お前は黙ってジッとしてろっ!」

「なんだとっ!?」

ギャアギャアと騒々しく言い合いながら校舎の廊下を走り回る。しばらく進むと2階に上がる階段が見えてきた。T字型の校舎にあって、その両端に設置されている階段だ。

「上に行くぞ!」

「はい」

沙希の頷く姿を待たずに、階段を2段飛ばしで駆け上がる。背後からは依然として「止まりなさーいっ!」と大声を上げて追ってくる事務員の女性。こういうご時勢だからこそ、このエリーゼの格好が疎ましい。折角普通の服(とはいっても微妙だが)を用意したのに、どうしてコイツはこの格好で来てくれるのか。さもなくば新聞の一面を不本意な見出しで飾る事になってしまうではないか。

「何階まで行きますか?」

「そ、そうだな……」

下手に扉をくぐって、教室のように行き止まりになっていたら困る。とはいえ、階段の先がいきなりコンクリートに埋め尽くされている可能性だって否定できないわけではない。となると、ここまで来ればもう、運以外には頼れるものは無いのが現実だ。後は適当に進むが吉だろう。

「行ける所までいくか」

「わかりました」

化学実験準備室から音楽室へ通じているような狂い具合である。この階段だってどこへ続いているのか怪しいものである。俺達は2階を通り過ぎ、3階、4階へと足を進める。もし俺が知っている校舎だったならば、この建物は4階までのはずである。

「うおっ! 続きがあるっ!?」

しかし、階段は普通に5階へとなお続いていた。

「どうしますか?」

「と、……とりあえずこのまま上がろう」

まあ、校舎は至る所が迷路になっているのだ、この程度の事で、その都度いちいち驚いてはいられない。この階段にしても、きっと屋上まで続いているような事は無いだろう。ともすれば、どこか他の場所へと通じているか、行き止まりになっているかのどちらかである。

「どの道を選んだって対して変わらないだろ、多分」

「はい」

それに、この狂った階段も中々に役に立ったようだ。6階、7階と階を重ねるごとに、背後から聞こえる声は小さくなっていった。相手はコテコテの文官であったようである。それなりに体力もある高校生の健脚に敗退するのは時間の問題だった。

そして、こちらも息が上がり始めた12階。階下から迫ってくる足音と叫びは聞こえなくなったのだった。

「もう平気だと思いますが」

短く告げた沙希の言葉に俺も足を緩める。耳を澄ましてみても、確かに追っ手の気配は感じられなかった。ようやく諦めてくれたようであった。

「しかし……」

自分の腕に視線を落とす。

無論、そこに居るのは両手を振り回し、もがきにもがくエリーゼである。

「ええい、とっとと降ろせっ! 貴様は私をいつまで抱えているつもりだ」

唸るエリーゼが爪を立てて暴れてくれたおかげで二の腕は薄く血が滲んでいた。

「放せと言ったら放せ、この馬鹿者がっ!」

まるで、抱かれて暴れる猫のようだった。

「わかってるよ……ったく」

これ以上抱えていても意味は無い。素直に従うのも癪ではあるが、俺は素直にエリーゼを下に降ろした。これでも放り落とさないだけ感謝してもらいたいものである。

「ふんっ」

両の足で階段の踊り場に降り立つと、エリーゼは不機嫌を全身で表現しながら、思い切りそっぽを向いた。ヒリヒリと痛む腕は、やはりすぐに治ったりしなかった。吸血鬼の不気味な治癒力も、慣れてしまえば便利なものであった事をしみじみと感じた。

「ったく、引っかくなよな」

「やかましい! 貴様が問題を起こすから悪いんだろうが。それに腹を持つなと何度言ったら分かる? 私は猫かっ!? 同じ抱えるにしても、もっと丁重に抱き上げろっ!」

ギャーギャーとわめき散らすエリーゼは、先ほどの件も含めて、今は余程ご立腹なのだろう。これは機嫌を取り直すのも難しそうだ。これ以上無駄な事に体力を使うのは勘弁して欲しかった。

俺は荒い息を整えながら、諦め調子で呟く。

「分かったよ、全部俺が悪かったよ。だからもう止めようぜ」

流石に疲れていた。

「ふん、……使えぬ下僕だ」

俺の言葉を受けて短くはき捨てたエリーゼは大人しくなった。それで怒りが静まったとは思わないが、とりあえず暴れださないだけで良しとしよう。

「…………はぁ」

数えで12階となる校舎の廊下には、他に人の気配は無い。俺の荒い呼吸音だけが響いていた。対して、隣でこちらの様子を眺めている沙希は息一つ乱れていなかった。今は沙希の超人具合が羨ましい。どうやら沙希の人外パワーは魔力ではなく鍛錬によるものであるようだ。それはそれでまた別の意味で凄い話である。

俺は呼吸が整うのを待って再び口を開いた。無論エリーゼに対してである。

「なぁ、ところでエリーゼ、ちょっといいか?」

始めは無視されるかとも思ったが、幸いにもちゃんと答えてくれた。とりあえずはそれに一息である。

「下僕風情が何の用だ」

余分な名詞が付いているが、今は気にしないことにしよう。

「その、これからの事なんだけどさ」

魔力が使えないとはいえ、コイツはこういう不思議系に関して結構な物知りだ。話の一つでも、聞いておかない手は無い。そっぽを向いていたエリーゼに面と向かって俺は続けた。

「お前は何か心当たりとかあるか?」

とりあえず、当たり障り無くそんな事を聞いてみた。俺にはこんな迷路職人の知り合いはいない。もしここにいる奴で何かしらの関係があるとすれば、それはエリーゼに違いない。

けれど、返ってきたのはそっけない返事だった。

「知らん」

「本当に何もないのか?」

「ああ、心当たりも無い」

特に意地悪をしている様子も無い。本当に何も知らないのだろう。

「そうか……」

少しは期待していたのだが、それも破られたようだった。

「じゃあ、こういうときの対処法とかは無いのか? こうしたら外へ出られる、みたいな」

教室には未だに呻いている奴等もいるだろう。吉川には保健室を探しておくとも言っておいたが、それも未だに見つかっていない。

「さぁな。私とて万能ではないのだ」

けれど、返されたのは素っ気無い否定の一語である。

「つまり知らないと?」

「…………」

どうやら図星らしい。

俺の言葉にエリーゼは閉じた口で答える。

「お前って、いざって時に使えねぇよなぁ」

「な、なんだと!? 下僕ごときが偉そうな口をぬかすなっ!」

「けど知らないんだろ?」

「っく……」

ギリと歯を鳴らすエリーゼ。飛び出た犬歯が光を反射してキラリと光って見えた。顔の紅潮具合からして、今のは結構効いた様である。

って、またコイツを怒らせてどうするのだ俺は。

「ああ、悪い。別に悪気があって言ったんじゃないからな、気にするな」

なんというか、どうもエリーゼを見ているとちょっかいを出したくなるのだ。猫や犬を見ると苛めたくなるタイプの人間っているだろう? 可愛いものを見ると、どうしても苛めたり困らせたりしたくなる、そういった衝動に駆られたことのある人は結構いるんじゃないだろうか。今の俺はまさにその感覚を味わっていたのである。まあ、エリーゼの場合は可愛いと言えるのも見てくれだけの話であるが。

「き、貴様もずいぶんと言ってくれるな。後で覚えていろ……」

「だから謝ったじゃん」

「そのようなこと知るかっ!」

「悪かったって、気を静めてくれよ」

睨みを利かせてくるエリーゼに対し、薄っぺらい笑みを浮かべてスルーしようと試みる。そんなとき、急に隣に立っていた沙希が口を開き、話に割って入ってきた。

「今まで様子を見ていた限りでは、この状況が何者の手によって作られたのかはわかりませんが、出口を探すのは難しいと思います」

淡白な事務口調の声が、構造上吹き抜けとなっている階段の上下に響き渡った。

「ん?」

これは先ほどの俺の質問に答えてくれているのだろう。

「校舎の様子からして、この空間は中にいる者を閉じ込める為に作られたものである可能性が非常に高いと思います」

「やっぱりそんな感じだよな。けど、何の為なんだ?」

俺も相手にはそういった意図があるように感じる。

「そこまでは分かりません。もしくは、閉じ込める為ではなく混乱させる為かもしれません。しかし、この状況が相手にとって有利に働くであろうことは確かだと思います」

「ふん、そのようなことは誰でも理解できよう」

沙希の言葉に鼻を鳴らしてエリーゼが文句を垂れる。

「はい。ですから、もしも相手が雅之さんを目的としてこの状況を作り出していると仮定するならば、相手側から何らかのアプローチがあるはずです」

「お、俺か!?」

突然の指名に思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

「この高校にあって、私を除いた人外は貴方だけです。相手が私達を干からびるまで放置する事を目的としているのならば、その限りではないですが、これだけの状況を長時間維持するのは難しいはずです。となると、そう考えるのが妥当だと思いますが」

「いや、けどなんで俺なんだ?」

「そのあたりはエリーゼさんの方が多く仮定をあげられると思いますが」

沙希の言葉を受けてそちらへと視線を向ける。するとエリーゼは素直に口を開き、沙希の言葉に続けた。

「……それは貴様が私の下僕だからだ」

「お前の?」

「そうだ、前にも言っただろう。私の血は特別だ、と」

「え、ああ。例の吸血鬼なのに太陽の下でも歩き回れるってやつか?」

その「特別」のおかげで俺は今もこうして学校に通ったり、友達と遊びまわったり出来ている訳だが。

「そうだ」

「けど、それだったらエリーゼ本人を直接狙えばいいんじゃないのか? 俺だってお前の血を啜らなきゃお天道様の下は歩けないんだし」

「そこまでは知らん。しかしお前は私の下僕であると同時にファミリーでもある。仮にそれを知った者がいたとして、私に近づく算段の一つとしてお前に接触してきたというのならば納得できない訳でもない」

「エリーゼに近づく算段ねぇ……」

「なんだ、物言いたげだな?」

「いや別に大したことじゃないさ。ただ、お前なんかに近づきたいとは、随分と物好きなやつもいるもんだと思ってな」

「言っておくが、これでも私の名は有名なんだぞ?」

「有名ねぇ……」

いまいち胡散臭い台詞だった。

「…………信じてないなお前?」

「そりゃそうだろ。俺はお前の事なんて殆ど知らないし」

「…………」

けれど、沙希の親父もエリーゼのことは知っていたようだし、それが俺の知る世間一般からかけ離れた遠い世界の出来事なのならば、真実であるのかもしれない。ただ、今はそんなことよりも、俺が狙われているかもしれないというのがショッキングだった。確実にそうだと決まった訳ではないが、これからは気を引き締めて行くとしよう。

「けどさ、そうなると俺達はこのままここで待ってりゃいいのか? その相手っていうのがやって来るのを」

地上12階の廊下はとても静かで、何の音も無い。

「現状では校舎がどういった状況下にあるのか把握できていませんし、罠が張られていないという確証もありませんから、それが無難だと思います。しかし、これまで色々と動き回っていた間に何のアプローチも無かったことを踏まえると微妙なところです」

つまり決定材料は一切無いと。

「まったく、下らないことに足を突っ込んでしまったものだな」

やれやれと両手を広げてみせるエリーゼ。

「誰のせいだよ誰の」

その様子を目にして、又しても思わず反論が口からこぼれた。

「そんなの、お前のせいに決まっているだろうが。何を寝ぼけている」

「あのな、何度も言うけど、大元は全部お前なんだからな?」

「黙れ、その台詞は聞き飽きた」

「ったく……」

これ以上突っ込んでも、また同じ事の繰り返しになるのが関の山といったところだろう。仕方なく俺は折れた。

「不毛ですね」

「分かってるよ」

「はい」

はぁ、とため息をついて、冷たい階段の踊り場に腰を下ろした。胡坐を掻いて座り込む。相変わらず窓の外に空は見当たらず、コンクリートの蓋がしてあり、続く階段は永遠と、それこそ天国まで通じているのではないかと思える高さがあった。踊り場から出てすぐの廊下には、それとは対照にもう一本の廊下が窓枠を挟んで続いている。段々と日光が恋しくなってきた。

「あー、なんか飽きてきたな、この状況も」

「そうですか?」

始めは迷路になった校舎に好奇心を隠せなかったが、それも慣れ始めてしまうと面倒以外のなにものでもない。

「いつまでこうしているつもりだ?」

廊下に座り込んだ俺を上からじっと見下ろしてくるエリーゼ。丁度俺の顔の位置に相手の股間があるのがムカつく感じだ。

「さぁな。動きようが無いんだから、こうして待つ他に無いだろ? 無闇に動き回って疲れるのも嫌だし」

「……まったく、忌々しいものだな」

俺の言葉に納得したのか、そう言ってエリーゼは俺の隣に腰を下ろした。沙希もそれに習う。冷たいピータイルの床は確かに俺の知っている校舎の一部なのに、どうしてこんなおかしな事になっているのだろうか。

けれど、幸か不幸か俺達3人がゆっくりと腰を落ち着けていられた時間は僅かなものであった。

突如としてピンポンパンポーンと、聞きなれたチャイムの音が耳に届いた。廊下の天井近くに設置されていたスピーカーからである。

「ん?」

電気が生きているのだから、校内放送が使えるのも頷ける。放送施設の端末は職員室にも置かれているのだ。きっと教師の連中が五月蝿い小言でも垂れ流そうとしたのだろう。そう思った。

けれど、スピーカーから流れてきた声色は、俺が想像していたよりずっと可愛らしかった。

『えー、えー、ただいまマイクのゲホッ、ゴホッ、う゛え゛ぇええええええ……』

まだ歳半端な子供の声が、スピーカーの向こうで咳き込んでいた。

「な、なんだ!?」

「分かりません」

3人して顔を見合わせる。しばらく待ってみると、呼吸が整ったのか、放送の続きが始まった。

『はーい、諸君!』

声の質からして、マイクを握っているのが教師でないことは間違いない。

『ご拝聴、ご拝聴、学徒及び教職員の皆さんは耳を傾けて欲しいのだよ!』

声の主は女の子だろうか、良く通る高い声色の持ち主だ。

『一年生の佐久間沙希君。一年生の佐久間沙希君。すこーしお話があるので、至急放送室に来るのだよ!』

放送は静かな廊下につらつらと流れてゆく。

『えー、繰り返すのだよ。一年生の佐久間沙希君。一年生の佐久間沙希君。やっぱり色々とお話があるので、至急放送室に来るのだよ!』

『また何処かで彼女を見つけたりした人は、放送室までご連絡をお願いするのだよ。今なら有力な情報を持ってきてくれた人には金一封をプレゼントしちゃいますよぉっ!』

その放送を耳にして俺と沙希は反射的に腰を浮かせていた。

突然の校内放送は、短くそれだけの事を述べてブツリと切れてしまった。沙希に会って話をしたいという放送者の趣旨は理解できたが、そこに至る理由はさっぱりだ。このような短い放送ではその過程を推論することさえままならない。

そして、放送が終ると周囲からは再び音が消えた。だが、静まり返った12階の廊下からは、先ほどまでは無かった得体の知れないプレッシャーがひしひしと感じられる。

無論、それは意識的なものなのだろうが……。

「どうやら俺じゃなかったみたいだな」

こう言っては沙希に失礼かもしれないが、俺としては肩の荷が下りた気分だった。

「そのようですね」

対して、その矛先が向けられたにもかかわらず、沙希は相変わらずの無表情で無感情な顔をして、さも何事も無かったかのように答えた。

「貴様の知り合いか?」

「いえ、声を聞く限りでは違うと思いますが」

「相手は貴様を知っているようだぞ?」

「はい、ですが私には分かりかねます。私の交友関係はそれほど広くはありませし、もしも面識のある相手でしたら声で気づけると思います」

「つーか、放送室に来いとか言ってるんだけど? どうするんだ? この状況でさ」

「どちらを選択するにしても困りましたね」

「ふむ……」

エリーゼが顎に手をあてて、何かを考えるような様子を見せる。どうやら今の状況にまともに取り合ってくれているようだ。

「何かあるのか?」

「いや、別にそういうわけではないが、ただ少し引っ掛かるものがあってな」

胡坐をかいたままの姿で低く唸り声を上げるエリーゼと、それを立ち上がった位置から見つめる俺と沙希。

「まあいい、気にするほどの事でもなかろう」

「そうなのか?」

「ああ」

小さく頷いて、エリーゼはすっくと立ち上がった。

「それで、行くのか? 行かないのか?」

俺と沙希を交互に見上げて聞いてくる。俺は沙希の方を見た。

「行きます」

沙希は迷い無くそう言った。

先ほどの放送を聴く限りでは、相手も沙希を見つけない限り手を引くことは無いだろう。この状況に時間制限があれば話は別だが、それも確証があるわけではない。ならば此方から相手を探りに行っても、相手から探り出されても結果は対して変わらないと思われる。

「そうだな、行くか」

多少の進展を期に幾分軽くなった体を奮い立たせる。ただ、問題はどうやって放送室まで向かうかだろう。

「ところで、行くのはかまわんが、その放送室というのは何処にあるんだ?」

一同が同様に思い浮かべたであろう問題を、エリーゼが先立って口にした。

「さあなぁ、放送室なんて一度も行ったこと無いし、加えてこの狂い具合だぞ?」

「まったく、使えん下僕だな。その程度は事前に知っておけ」

「無茶言うな。つーか、下僕は関係ないだろ?」

相変わらず阿呆な事を言ってくれる。

「校舎が正常であったのなら場所は把握していますが、この状況下ではその情報も意味が無いかと思います」

「まあいい。適当に歩いていればそのうち見つかるだろう」

「そうですね、それが尤もな方法だと思われます」

気の短いエリーゼにしては殊勝な台詞だった。

とりあえずだが目的の決まった俺達は、特にこれといった根拠も無く進む道を決めて歩き始めた。だが、仮に放送室と書かれたプレートを見つけたところで、そのドアが本当に放送室に繋がっているという保障は無い。というか、今までの経験からして、その確率のほうが低いだろう。

そこで仕方なく、俺達は通る廊下に面した全てのドアを、虱潰しに開け放ちつつ進んでいった。そのなんと面倒なことか。一つのフロアにあるドア全てを確認したら、階段を上り、また次のフロアでも同様に全てのドアを確認して、と地味に時間と手間のかかる作業の繰り返しである。そんな事を何回も繰り返した。

始めは大人しく歩いていたエリーゼも、階段を5つほど上ったところから徐々にイラつき始め、地上30階まで攻略した今は、噴火寸前の活火山のごとくだった。数あるドアは支離滅裂な繋がり方をしており、まともなドアは片手で数えられる程しか無かった。途中で何度か他の生徒に見つかりそうになったのにも肝が冷えた。

しかし、その苦労は無駄では無かったようであった。

縦に伸びたフロアの中間あたりに位置する教室、プレートには4Cの5と書かれているその部屋の、前側のドアを開けた先にあったのは、見慣れない絨毯張りの部屋だった。

首を傾げる俺の背後で沙希が口を開いた。

「ここが放送室ですね」

「ここが?」

「はい、先生に頼まれて放送を行った事もあるので、間違いはありません」

廊下から繋がる絨毯張りの部屋には放送設備は置かれていない。ただ、靴箱やロッカーといった備品と、使われていないレコードやコードの類が乱雑に置かれている。そして、部屋の奥には、俺達が開けて入ってきたものとは別にもう2つ、重々しいドアがあった。防音対策だろうか、放送室は二重構造らしい。一方のドアには収録室と、そしてもう一方のドアには設備室との表記がしてあった。入学してから既に1年と数月が経つが、始めて見た。

「やっと着いたのか。……何者かは知らんが、手間を取らせてくれる」

普段のエリーゼを知っている者ならば、身を振るわせたくなる声色が隣から聞こえてきた。火山は噴火寸前といったところか。

「さぁ、とっとと行くぞ」

それまでの鈍足から打って変わって、俺と沙希を押しのけたエリーゼは、設備室へ繋がる扉に向って足早に歩き出す

「ちょ、ちょっと待てよっ!」

警戒や躊躇は微塵も無く、エリーゼは部屋の奥に扉に手をかけた。先ほどまでの無限地獄を思い出すと、もしかしたら、この扉もまた別の何処かへ繋がっているのではないか。そんな不安に駆り立てられた。

だが幸いな事に、開かれた扉の先にあったのは、たしかに放送室であった。大量のツマミやボタンの配置されたメタリックな設備が、エリーゼによって開かれたドアの隙間から垣間見えた。実際に放送室へ足を運んだ事は無いが、これは当たりと考えて間違いないだろう。普通の教室より明りの弱い照明が、室内を薄暗く照らし出していた。

放送室はL字型の部屋であり、ドアの外からでは中にいる奴の姿を確認する事が出来ない。一体どんな奴が待っているのか、こっちは心臓が早鐘を打つほど緊張しているというのに、エリーゼときたら何の用心も無く、先へ先へと進んでくれる。現状では大した力も無いというのに、よくもまあ、これだけ堂々としていられるものだ。

さて、俺達も置いていかれるわけにはいかない。一足先に設備室へと消えたエリーゼに、早足で続いた。しかし、部屋の敷居を跨ぐか跨がないかといった所で、突如として前方から素っ頓狂な声があがった。俺達は驚き思わず足を止める。

「な、なぜ貴様がここにいるっ!?」

「ぉおおお、エリーゼ君!?」

部屋の中から聞こえてきた声の一つはエリーゼのものである。だが、もう一方の声には聞き覚えが無い。きっとそれが先ほどの校内放送の主の声だろう。

ひとまず俺は部屋の中に入った。後から続いて沙希も室内に入ると、抑える者の居なくなった部屋のドアは、自らの重みでバタンと閉まった。応じて、何か嫌な匂いが鼻を突いた。

「……臭いな」

「はい、何か異臭がします」

視線を先に向ける。窓の全てに暗幕の取り付けられた薄暗い室内には二つの人影があった。無論、その内の一人はエリーゼである。しかし、その様子は若干おかしい。あの何事にも動じない図太い神経の持ち主であるエリーゼが、目を見開いて驚いているのだ。

俺と沙希の意識も自然とエリーゼの視線の指す方向に向う。すると、そこに居たのは放送室の備品であるオフィスチェアに深く腰掛けた、金色の髪を持つ小さな背丈の女の子だった。椅子に座っているので大まかな目分量としてしか判断できないが、その身長は丁度エリーゼと同じくらいだろうか。結構低い様に見える。そして、少女もまた、エリーゼと同様に相手の顔を目にして驚いているようであった。

「なぜ貴様がこのようなところにいるのだっ!」

エリーゼは先ほどと同じ台詞を叫んだ。かなり興奮しているようである。

「何故、どうして、君はまさしくエリーゼ君ではないかっ!!」

二人は知り合いなのだろうか? 驚きの表情のまま固まっているエリーゼに対して、少女は驚愕から一変した笑顔を作り、叫ぶようにしてそう答えた。

「まさか、まさかまさか、着いてすぐに君に会えるとは、思ってもいなかったのだよっ! これはまさに神の導きとでも称すべき展開っ!」

椅子に座っていた少女は声を上げて勢い良く立ち上がる。その動作に思わず俺と沙希が身構えた。しかし、此方の予想とは裏腹に、少女は何をとち狂ったのか、目の前に立っていたエリーゼに抱きついたのだった。話しの前後関係が全く理解できない。

「マリーは、マリーは今とても感動しているのだよ! まさかいきなり君に巡り会えるとは思っても見なかったのだからっ! これこそまさに運命としか言いようの無いだろうとも! まさに確率の女神の微笑みっ!」

喜びに涙さえ流しながら、少女はエリーゼの背中に腕をまわした。正直、理解に苦しむ状況だった

「ええい引っ付くなっ、うっとうしい! 私は何故貴様がここに居るのかと聞いているのだっ! 人の話を聞けっ!」

それを両手でいなしながら、エリーゼは荒い口調で続けた。喜びを目一杯に表現している少女に対して、一方のエリーゼは若干の怒気を含んで対応しているように見える。

「そんなの君を探しに来たからに決まっているじゃないか。何を寝ぼけているのだいエリーゼ君」

会話の流れからしてこの二人が知り合いであるのは確かなようだ。

「ま、まさか長く生き過ぎて、とうとう呆けてしまったのかいっ!? 君はこのマリーよりも先にアルツハイマーになってしまったとっ!? なんという悲劇っ!?」

「やかましい、誰が呆けるかっ!」

唾を飛ばして吼えるエリーゼの言葉を、少女は満面の笑みで受け止めていた。まるで、それがとても愛しいものであるかのようにである。

「カリカリするのは体に良くないのだよ? 怒ってばかりだと血圧が上昇してしまうのですよ。正常な血圧の値はは最大血圧が140mmHg以下で最小血圧が90mmHg以下なのだよ?」

「黙れ、誰のせいだっ! そもそも吸血鬼の不安定な血圧なんぞ、健康の指標になるかっ! 第一それは人間の値だっ!」

エリーゼもなかなか細かいツッコミを入れてくれる。

しかし、なんとも意外な展開だった。俺としては、この間のオッサンのような危ない奴が待っているものだと想像していたので、かなり拍子抜けである。血を見るような惨事が再び起こるのかもしれない、などと腹をくくっていたのは杞憂であったようだ。

だが、その少女にしても、決して「普通の女の子」と呼べるような相手ではない。

パッと見で少女を判断するならそれはホームレスだろう。これで橋の下にダンボールを敷いて横になっていたのならば、間違いなく断言できる。少女はそんな姿をしていた。

例えば、頭からすっぽり被るタイプの雨合羽があるだろう。それを目の粗い布で作ったような、麻布製のポンチョとでも称すべきような服を少女は纏っていた。良い言い方をするならば、RGPゲームで魔法使いが着ているようなローブと言えばシックリくるかもしれない。丈は長く、布生地は膝下までを覆っている。ただ、そのローブのような布切れは、至る所がほつれ、染みや土ぼこりで汚れてしまっていた。身に着けていれば一応は衣類として認識できるのだが、一度脱いでしまえばそれも難しいだろう。袖を通す部分など、生地が裂けて大きく穴が開いてしまっていた。軽く触れただけで指先に汚れが移って来そうである。靴にしてもそれは同様だった。一枚革で出来た古い作りのショートブーツは、そこらじゅうが綻び、大小幾つもの穴が開いていた。ローブの裾からスラリと伸びた四肢は、遠目に見ても土埃や垢にまみれてかなり汚らしい。この様子ではきっと靴下も穴だらけだろう。臭いを嗅いだのなら、一発でKOが保障されそうな具合の膝下だった。部屋に入ったときから感じていた異臭はこの少女から発するものに違いない。

しかし、薄汚れた風体とは一転して、少女の端正な顔立ちは、腰下まで達したブロンドの髪や、クリクリと動く大きな蒼と紅のオッドアイと相まって、その存在を明らかに周囲の光景から浮きぼらせていた。素材自体はかなり可愛らしい部類に入る女の子だ。将来は相当な美人になるに違いないと断言できる。

暗がりの放送室にあって身を接する二人の少女を、俺と沙希はかける言葉も無くただ見つめていた。無論、その少女は髪の色からしてエリーゼ同様日本人ではない。その白い肌の下には一体何処の国の血が流れているのだろうか。いや、エリーゼの知り合いという時点で人の血が流れているかどうかも怪しい。

「けど、やっぱり封印は解けてしまっていたのだね。エリーゼ君に会えるのはうれしいけど、あの時の苦労を考えるとちょっと残念なのだよ」

笑顔に若干の陰りを見せて少女が言った。

「貴様、…………また私を封じ込めるつもりでいるのか?」

「それはエリーゼ君次第なのだよ」

二人の会話の内容は良く分からない。何か確執があるのは確かなのだろうが、俺と沙希は既に蚊帳の外である。一方的に呼びつけておいてそれはないだろうと思うのだが、当の本人が黙ってみているので、俺もそれに従うことにする。

「ふん、貴様も毎度毎度舐めた口を利いてくれる」

「あぁ……そんな事言わないでほしいのだよ。マリーはこんなにもエリーゼ君のことを愛しているというのに。それをどうして分かってくれないのだい」

「やかましい、気色悪い事を言うなっ! というか腕を放せこのゲテモノっ!」

「えぇっ!? ゲテモノ呼ばわりっ!? それは幾らなんでも酷いのだよエリーゼ君」

「貴様なんぞそれで十分だっ! だからとっとと放せ馬鹿が、いい加減に臭いんだよっ! 鼻がもげるっ!」

背中に回された両腕から逃れようと、エリーゼは必死になって足掻いている。たしかに、こうして離れていても臭ってくるほどの少女の体臭だ、抱き疲れているエリーゼの鼻にかかる負担は計り知れない。しかし、魔力が使えないのでは、その身体能力も高が知れている。相手の少女がどれほどの腕力を持っているのかは知らないが、今の状況がこの少女によるものだとするならば、その腕から逃れる事は難しいだろう。

「ふふふ、でもマリーはエリーゼ君を手に入れる為だったら、この身がゲテモノと称されようとも構わないのだよ。あぁ、愛しすぎるのだよエリーゼ君。こうして触れ合うのも何百年ぶりだろうか」

「ああもう、だから放せこの痴れ者がっ! いい加減死ねっ! 臭いっ、臭いんだよっ!」

「いいや、マリーはエリーゼ君を手に入れるまで死なないのだよっ」

「っ! 止めろ止めろ止めろ、気色悪いっ!」

「ああ、もっと強く抱くのだよっ!」

「だ、抱くなっ!」

足掻くエリーゼはいつに無く必死の形相だった。見ているこっちが鼻をつまみたくなるような刺激臭に覆われて、眦に涙が浮かんでいるのが見えた。今だけなら、俺も同情してやっていいと思う。

そして数分後、両手両足をばたつかせ抵抗していたのも、全くの無駄という訳ではなかったらしい。嫌がるエリーゼにその顔を両手で突っぱねられて、少女は仕方なさ気に両腕の束縛を解いた。ゼェゼェと荒い息を吐いているエリーゼはきっと本気だったのだろう。脂汗が額に浮かんでいるのが見えた。

「ったく、いい加減にしろ……」

息も絶え絶えといった様子だった。しかしエリーゼという爆弾を相手にして、ここまで大きく出れるこの少女は一体何者なのだろうか? 沙希が言っていた事を信じるならば、エリーゼとドッコイドッコイでヤバイ奴なのだろうが、だが、様子を見ている限りでは、それも微妙に信じがたい。

「ところでエリーゼ君、何故君は人間と行動を共にしているのだい?」

「ぁあ?」

間を置かずに、いきなり話題を変えてきた少女を、両膝に手を付いたまま顔を上げたエリーゼは憎々しげに睨みつけた。

「そこにいるのは新しい下僕かい?」

それまでエリーゼにしか向いていなかった少女の視線が俺と沙希に向けられた。

「次から次へと五月蝿いやつだな。そのようなこと貴様には関係のないだろうがっ」

「えぇっ、そんなっ!? それくらい教えてくれてもいいじゃないか!」

「やかましい、何故わざわざ貴様に報告しなければならないのだっ!」

「では、君が教えてくれないというのならば仕方が無い。マリーはまたエリーゼ君に熱い抱擁をプレゼントするのだよ?」

そう言って少女はエリーゼの前で両腕を広げてみせる。

「こ、この……」

その言葉を受けて、エリーゼは怒りに顔を引きつらせる。しかし、それでも徐々に迫ってくる両碗と爆臭を目前にして観念したのか、しぶしぶ重い口を開いた。

「……貴様、後で覚えていろよ」

「ふふん、何を言っているんだい。マリーは君の一挙一動を完璧に脳内へ保管しているのだよ。あぁ、この愛しきライブラリーを利用して、日々切磋琢磨する愛の生成に磨きがかかるっ!」

「糞が……」

そして、まるで言い訳のように呟いてエリーゼは続けた。

「……貴様の言ったとおり、そいつは私の新しい下僕だ」

「やはりマリーの判断に間違いはなかったのだね!」

エリーゼが答えたのを受けて少女の前進が止まった。

「それがどうした。貴様には何の関係もないことだろうが。それに言っておくが、娘の方は違うからな?」

「というと、こっちの男の子の方が君の新しい下僕なのかい?」

「そうだ」

頷いたエリーゼと視線が合う。何か言いたげな表情をしていたが、口が開かれる事は無かった。というか、状況に流されるままに下僕扱いをされている俺なのだが、これは反発すべき場面なんじゃなかろうか?

「なるほどなるほど…………」

それまでエリーゼに向けられていた少女の意識がこちらに向けられる。一瞬心拍数が上昇したが、なんとか平然を保って落ち着ける。

少女はエリーゼの横を通り、カツカツと靴の裏鋲を鳴らして俺の前までやってきた。

俺はまだ相手が何者なのか、敵なのかそうでないのかさえ理解していない。どう対応すればよいのだろうか?

「…………」

少女は俺の頭から足の先までを品定めるようにして眺めてくる。

自己紹介をすべきかとも悩んだが、自分の名前を教えてまで係わり合いになりたい相手ではない。とりあえず、他に喋る事も無いのだし、先ほどのエリーゼが発言した下僕という言葉を否定しておくとしよう。

「なぁ」

声をかけてみた。すると、少女は普通に反応してくれた。

「なんだい下僕君?」

顔を上げてこちらを見つめる少女と視線が合う。それだけで周囲に漂う刺激臭の濃度が上昇したような気になる。

「……言っておくけど俺はエリーゼの下僕なんかじゃないからな?」

いくら今が「はじめまして」で始まる出会いから程遠いとはいえ、初めて顔を合わせる奴に対してなんて第一声だろうか。

「下僕ってのはエリーゼが勝手に決め付けてるだけだから鵜呑みにするんじゃねぇぞ? 言っておくけど、俺はアイツの下僕でもなんでもないからな」

だからだろうか?

「おおおっ!?」

「な、なんだよ?」

少女がいきなり声を上げて後ずさった。別に変な事は言っていない筈である。しかし、その表情は墓場で幽霊をみた子供のような驚きようであった。

「エリーゼ君っ! 下僕が反論したのだよっ!」

なんだかイラっとくる物言いである。

「ああ、そいつは特別なんだ。気にするな」

「と、特別とはどういう意味なんだいっ!?」

その言葉を受けて、少女はそれまでの人懐っこい笑みを一変させ、キッと引き締まった表情を作る。そして、有無を言わさぬ勢いでエリーゼに詰め寄った。

「別に大したことではない。そいつが私のファミリーになってしまっただけの話だ」

それは以前にエリーゼが語った薀蓄である。吸血鬼に血を吸われた者は、血を吸った吸血鬼の下僕となって、意思や精神さえも支配されてしまう、というやつだ。きっと少女は下僕と信じた俺が自分の言葉で会話をしたのに驚いたのだろう。

「ファ、ファミリーですとっ!?」

素っ頓狂な声が上がった。

「ああ、おかげで使い難い下僕になってしまった。未だに主人の世話さえ満足に出来ない有様だ。やはり教育は始めのうちにしっかりとしておくべきであったな」

「うるせぇよ。何が教育だこの野郎。自分の世話くらい自分でしやがれ」

「やかましいっ。それが下僕の仕事だと、何度言ったら貴様は理解するのだ」

「理解するわけないだろうが、何を勝手言ってんだよお前は。馬鹿か?」

「わ、私が馬鹿だと?」

既に脊髄反射の域にまで達した俺の反論に、これまた釣堀の養魚の如き反応でエリーゼが喰らい付く。普段だったらこのまま永遠と口喧嘩が続いていただろう。しかし、それは少女の叫びによって遮られた。

「ぬぁああああああああああっ! も、もしかして、いや、もしかしなくても、エリーゼ君がファミリーを作るのはこれが初めてだったりするんじゃないのですかぁああっ!?」

「ば、馬鹿、でかい声を出すな!」

鼓膜を痛いほど揺さぶる声量に、顔をしかめた俺とエリーゼは少女に意識を移す。

「だ、だって……エリーゼ君にファミリーが出来たなんて聞いたら、聞いたら、マリーはどうしていいのか分からないですよっ!?」

「別にどうもせんでいい、放っておいてくれ」

「放っておけるわけがありませんよぉおおおおおおおっ!」

何か、非常に疲れたような表情をしているエリーゼに対して、少女は涙を流して吼える。

「だって、今までそういう素振りさえ全く見せなかったエリーゼ君がいきなりファミリーなんですよ!? マリーがいくら頼んだってしてくれなかったファミリーなんですよっ!?」

少女はエリーゼの体にすがり付く様にして言葉を続ける。

「それが、それが、マリーの知らない間にいつの間にかファミリーを作ってしまっているなんてっ! これは悲劇っ! マリー・アントワネットも真っ青なのだよっ!」

「だからいちいち触るなっ! 離れろ気色悪いっ」

「うぅ…………、酷い、酷いのだよエリーゼ君。マリーというものがありながらこのような仕打ち。君はマリーが自殺してしまっても良いというのかい!?」

「いちいち五月蝿い奴だな。そうしてくれるならば非常に助かる、というかとっとと死ね」

「な、なんとっ!? そんな無情な……」

少女は両手両膝を床に付いて、グッタリとうな垂れた。

今までの様子から考えるに、このマリーという少女がエリーゼに惚れ込んでいる、というのは理解できた。しかし、当のエリーゼにとっては何でもない相手、というか、むしろウザったいと思われているようでだった。

まあ、それも少女の様子を眺めている限りそれも納得である。その異様なテンションの高さに付いて行くには相当の体力が必要だろう。

「まあいい、それより早くこの空間を開放しろ。貴様の求めていた女はこれで見つかったのだろう?」

倒れこんだ少女に追い討ちをかけるようにしてエリーゼは冷たく言い放った。だがその言葉も、悲しみに打ち震える相手の耳には届いていないらしい。

「そんな、マリーだってこんなに君の事を愛しているのに……何が足りないというのだいっ!? 愛かいっ? 情熱かいっ? それとも優しさかいっ!?」

少女は床に腰を落としたままエリーゼを見上げて懇願する。

「貴様も勘違いするなよ? コイツが私のファミリーになってしまったのも、元はといえば偶然の産物なんだ。私が望んでファミリーを作ったわけではない」

「そ、そうなのかい!?」

「当たり前だ。そうでなければこんな馬鹿な人間をファミリーなんぞにする筈も無い。困った事に自意識を持ってしまってはいるが、結局のところコイツはただの下僕だ」

「お、おぉぉぉ」

「だから下僕じゃねぇっていってるだろっ!」

酷い言われようだった。別に俺だって好き好んでこんな奴と係わり合いになった訳ではないのだ。被害者の最たるは俺なのである。

「ではではではっ、マリーにもまだまだ無限大の可能性が残っているということなのだねっ!?」

エリーゼの言葉を受けて、少女は途端に元気になった。表情の移り変わりが激しい奴である。

「言っておくが、それは限りなくゼロだ」

「あぁ、なんてキッパリと言い切ってくれるのだい……」

「それよりも早くこの空間を開放しろと言っているのだ、これは貴様によるものなのだろう? 出来ないとは言わせないぞ」

「ならばエリーゼ君、空間を開放する代わりにその限りなくゼロに近い可能性を10%ほどアップして欲しかったりするのだけれど、善処してはくれないかな?」

「勝手に言っていろ馬鹿が」

「うぅ………」

救いようが無いほどの嫌われようだった。

まあ、この少女の恋路はどうでもよい。それよりもコイツが学校を迷路にしてくれている犯人だというのなら、それを早いところ元に戻して貰いたい。教室では結構大変な事になっているクラスメイトや体育教師が居たり居なかったりするのだ。別にこれで死んでしまったとしても、構わないといえば構わないのだが、それでは些か目覚めが悪い。

「そもそも、貴様はこの娘に用があったのではないのか?」

視線の先にはひたすら沈黙を守って様子を見ていた沙希がいる。

「ああ、それだったら既に事は済んだのだよ」

よろよろと起き上がりながら少女は答えた。

「……そうなのか?」

「いえ、特に私は何もしていませんが」

問われた沙希はいつもの無機質な表情で答えた。一同の視線が少女に向けられる。

「そもそも、なぜ貴様がこのような所に居るのだ?」

相手が一体何者であるのか、それすら知らない俺としては、まずこの少女について説明が欲しいところであるが、ここはエリーゼに任せることにしよう。面識の無い相手にいきなり出身を聞くのも抵抗がある。

「考えてみれば、私の封印がこのような国で解かれたというのもおかしな話だ。私を持っていたのは貴様ではなかったのか? マリー」

眉を吊り上げたエリーゼが少女をギラリと睨みつけた。

「わ、分かったのだよ。ちゃんと理由は説明するのだよ。だからそんな怖い顔をしないで欲しいのですよ」

「ならばさっさと話せ」

エリーゼの刺々しい言葉に背中を押されて少女は続けた。

「マリーがこの国へやってきたのはエリーゼ君を探す為だったのだよ」

「私を探す? 私を封じた媒体は貴様が持っていたのではなかったのか?」

「それが、いつの間にかマリーの元から盗み出されてしまってだね、何処かへ行ってしまったのだよ」

「………貴様は私を一体なんだと思っているのだ?」

エリーゼの表情が急に険しくなった。「私を封じた媒体」というのは、きっとエリーゼを封印していたあの宝石の事だろう。ということは、あれの元々の持ち主は沙希の親父ではなく、この少女だったのだろうか?

「ま、待って欲しいのだよ。だからマリーだってこうして色々な国を回って、必死になって探していたのだよ。別にエリーゼ君への愛が薄れてしまったとか、そういう訳じゃないのだよっ!?」

「ふん、まあいい。おかげで私はこうして外へ出られたのだからな。それで、続きはどうなったのだ」

「そ、そうっ! マリーは必死に宝石の行方を追ったのだよ。すると、最後に人の手から人の手に渡った記録に残っていたのが、この佐久間沙希君の父親である佐久間哲也君という名だったのだよ」

「それでここまでたどり着いたというわけか」

「そうなのだよ。けど、いざ佐久間君の邸宅まで言ってみれば、本人は既に他界してしまっているではないですか。そこでマリーはその娘である佐久間沙希君を尋ねてみようと思ったわけですよ」

「しかし、いざ娘に会いに行ってみれば、私本人がその娘と共に現れた、と」

「その通りなのですよ。これにはマリーも驚いたのだよ。用心に用心を重ねて高価な結界まで張ったのだけれども、それも無駄だったのだよ。まあ、元々はエリーゼ君に対抗する為に作ったものなのだから、これで良かったと言えば良かったのかも知れないけれど」

「おかげで私は無駄にこの迷路の中を歩く羽目になったわけだ」

「そ、その辺は気にしてはいけないのだよ」

断片的にしか理解できない二人の会話だが、それでも一応は少女の話す内容が整理できた。要は、エリーゼの封印されていた石を盗まれた少女が、それを取り返しにやってきたという事だろう。けど石の封印は既に吉川によって解かれてしまっていたから、さぁ、どうしましょう、といった具合か。

他にも二人の間には含むところがあるのだろうが、その辺は俺には関係の無い話だろう。

しかし、そうなると、エリーゼを宝石の中に封印したのは、この少女の仕事よるものなのだろうか? それだけは、ふと沸いた疑問に好奇心が刺激された。

「なぁエリーゼ」

試しに聞いてみることにする。

「なんだ?」

「少し気になったんだけどさ、お前をあの宝石に封印したのって、もしかしてこの女の子なのか? 正直疑わしいんだけどさ」

どうも想像できない光景である。しかし、エリーゼはしぶしぶといった様子で首を縦に振って答えた。

「ああ、……忌々しいがな」

予想は的中していた。しかし、こんな頭のネジがダース単位で抜け落ちてしまっているような奴にしてやられたとは、エリーゼにしてはとんだ笑い話だろう。

「本当にこんな奴やられたのか?」

「ち、違うっ! 完全な状態だったのなら私だって遅れは取らなかったんだぞ? あの時に余計な邪魔さえ入らなければ……」

苦虫を噛みつぶしたような表情だった。

「見苦しいな、言い訳か?」

「や、やかましい、黙れっ!」

沙希のオッサンが語っていた「エリーゼを封印した大昔の偉い魔法使い」という奴が、目の前に突っ立っているこの状況は如何なものか。しかも話からすれば、この少女もエリーゼと同様に、見た目は子供で中身は百年単位の老女、という不思議設定になるわけだ。

そう考えると、なんとも言えない気分になってきた。きっとこの場に居る4人の平均年齢は、えらい事になっているだろう。

「そう、失われたエリーゼ君を探し、永遠彷徨った放浪の日々。しかし、そんな孤独とも今日でおさらばなのだよ。エリーゼ君、マリーは君をもう二度と離さないのだよっ!」

「ええいっ、貴様もいちいち引っ付いてくるなっ!」

エリーゼは牙をむき出しにして少女を威嚇する。だが、それもいい加減疲れてきたらしい。声の張りが先ほどに比べて些か落ちてきていた。

「けど、なんでエリーゼは封印されたんだ? 話を聞いている限りじゃあ、そんなに険悪な関係には見えないんだけど」

「それはコイツが変態だからだ、貴様もそれくらい要領を得ろ」

「変態? そうなのか?」

「ああそうだっ! 人を石の中に封印して、それを恍惚な表情で眺めて満足するような変態だっ!」

「…………なるほど。そういうことか」

確かに変態だった。

エリーゼにしても、そんな理由で長々と数百年に渡って封印されていたというのだから、恥ずかしい話だろう。

「変態とは酷いのだよエリーゼ君。これも君への愛の賜物ではないかっ! あの後マリーはエリーゼ君の詰まった宝石を肌身離さず持ち歩き、毎夜毎晩に渡って愛を注ぎまくったのだよ!?」

「か、語るな気色悪いっ!」

抗うエリーゼは両腕に鳥肌を立てながら、抱きついてくる少女の顔をバシバシと叩き始める。しかし、大して筋肉もついていない細い腕では、まるで抵抗になっていない。少女にしてもそれほど腕力があるようには見えないが、そこにはまた例のによって、魔力という名前の不思議エネルギーが働いているのだろう。

「糞っ、離せっ! いい加減に離せっ!」

普段の高圧的な態度からは縁遠い、ヤケクソに怒鳴り散らすその姿は見ていて愉快なものである。たまにはこういうエリーゼを拝むのも悪くない。これはこれで、なかなか乙なものである。

「おい、雅之っ! 貴様もボケっっと突っ立ってないでコイツを何とかしろっ!」

「いや、何とかしろって言われてもな……」

臭いだけは如何ともしがたいものを感じるが、別に実害は無いのだし、放っておいても良いと思うのだが。

「あぁっ! エリーゼ君、堪らないのだよぉぉぉ。この感触っ! この匂いっ!」

「ぁあああっ、こらっ!? 勝手に触るな呆けっ!」

エリーゼの平坦な胸の、本来は谷間があるであろう場所に少女は顔を埋める。

「お、おいっ! こらぁあっぅ!」

「あぁ、こんな幸せ何年ぶりだろうか。今にも天に召されそうな勢いなのだよぉ……」

自らこの変態少女に係わり合いになるのも馬鹿な話である。その辺はエリーゼの件で十分に学習済みだった。そういうことで、俺は特に手出しする事も無く、組んづ解れつする二人を生暖かい目で見守る事に決めた。隣にいる沙希もまた無言でその様子を眺めている。

エリーゼからは、やれ助けろだの、ぶち殺すだの、物騒な単語が飛んでくるが、その辺は適当に無視である。そう、いつも俺のことを苛めてくれる奴に、誰が助けの手を差し伸べるかというのだ。

だがしかし、それまで罵声を上げて足掻き、暴れまわっていたエリーゼが、あるとき、ふと急に大人しくなった。じたばたと動き回っていた腕はぶらりと降ろされ、汚い言葉を垂れ流していた口は静かに閉じられた。

なんか嫌な感じがした。

このようなエリーゼの急な態度の豹変は、大抵の場合、俺に何らかの不利益を与えてくれるのだ。それは根拠の無い経験則なのだが、悪い事に限って思いのほか的中率が高いから困る。

「わ、分かった、一つ聞け。貴様に本当のことを教えてやる」

長い髪をクシャクシャにかき乱したエリーゼは少女に向きなおると、息も絶え絶えにそう言った。

「なんだいエリーゼ君?」

エリーゼの反応を楽しむようにして、その体を撫で回していた少女が動きを止めた。

「貴様には一つ言っていなかった事がある、だからちょっとこの手を離せ」

「言ってなかった事とはなんだい?」

「だからそれを教えてやると言っているのだ、ほら、手を離せっ」

「ふむ、分かったのだよ」

唐突に真顔で語られた少女は、素直にエリーゼを解放した。

「まあ、見ていろ」

そして自由を取り戻したエリーゼは、少女に短くそう呟くと、こちらに向って歩いてきた。一体なんだというのか。

「な、なんだよ?」

助けなかった事の腹いせに、俺を殴ろうとでもいうのだろうか? いや、今のエリーゼが相手ならば、それも大したことでは無いので構わないといえば、構わないのだが……。

明らかに俺の方へ向ってやって来るその姿を眺めながら、あれこれと想像をめぐらせる。しかし、幾つか思い浮かべた予想は全てが見当違いなものだった。

あと半歩も前に出れば身体が接する程に、妙に間隔を詰めて近づいてきたエリーゼは、俺を見上げてその顔をニヤリと邪悪に歪めた。

「っ!?」

そして、何を考えたのか、細い腕が伸びてきたかと思うと、いきなり俺の学生服の襟を掴み、体重をかけて思い切り下に引っ張ったのだった。ミシリと嫌な音を立てる布生地に、俺は慌てて膝を曲げて中腰になる。

「い、いきなり何するんだよっ!」

代えの制服なんて、そう沢山は持っていないのだ。破れたらどうしてくれるつもりだろうか。

「まあ聞けマリー、先ほどは言わずに隠していたのだがな」

エリーゼはこちらの心境などお構い無しだった。両手でシャツ襟を掴んだまま背後を振り返ると、少女になにやら語りだした。腰を曲げたまま静止している、その無理な姿勢がなかなか辛い。しかもこっちの言葉は完全に無視だ。

「何を話してくれるんだい?」

少女はキョトンとした表情でこちらを見つめている。隣にいる沙希も同様だ。

「貴様には悪いが、私には既に心に決めた相手がいるんだ。その辺を理解してもらいたいと思ってな」

これはどういう流れだ?

「え、えっと、……相手とは何の話だい?」

エリーゼの言葉を受けて、少女が微かに震えて見えた。

「まあ、分かりやすく示すならば、こういう事だ」

言って、エリーゼはこちらに向き直る。

細められた瞳が俺の脳みそを射抜いた。

何事かと思ったのは一瞬である。次の瞬間には、急に近づいてきたエリーゼの小さな顔が、俺の顔に重なった。後頭部にまわされた腕が強く顔を顔を引きつける。唇には暖かくて柔らかいモノが触れていた。

どうやらキスをされたようだった。

そう気づいたときには既に咥内に相手の舌が入ってきていた。開かれたままの瞳は、家で俺を苛めるときのように厭らしく細められていた。今までに無い距離で見るその瞳は、透明度の高い南国の、綺麗な珊瑚が広がる海のような、そんな澄んだ蒼色をしていた。

「んっーーー!?」

「…ん………んっ」

俺は驚きのあまり、情けなくも口を塞がれたまま、声を上げてしまっていた。

無理やりねじ込まれた舌が歯茎や舌を舐め回していた。想定外の出来事に、頭の中が真っ白になってしまっていた。相手が相手なのだ、驚かざるを得ないだろう。しかも、思い直してみればキスをするのは、これが初めてなような気がしないでもない。

そして、それは長かったのか短かったのか。気づけば引き抜かれた舌と、だらしなく開かれたままの口の間に伝った唾液の橋が目の前にあった。

「んっ、はぁ」

エリーゼの吐く吐息に耳にして、俺は飛んでいた意識を取り戻した。

「お、お前っ! いきなり何するんだよっ!」

不覚にも驚いてしまった。そんな事実に対する羞恥心の表れか、口調は無意識のうちに荒いものになっていた。

「なんだ、嫌だったのか?」

「う、うるせぇ、俺が知るかよ!!」

クックックと薄ら笑いを浮べるエリーゼは苛めっ子モードだった。俺で遊んで楽しんでいる、間違いなく。これで相手が年上の豊満な肉体を持った美人だったりしたのなら、素直に喜べるし、得した気分にもなるのだが、相手がエリーゼでは腹立たしさしか残らない。

「唇を重ねた程度でいちいち吼えるな、その歳で初めてと言う事もあるまい?」

「あ、ああ、当たり前だろうがっ!」

だが、そんな余興も間を置かずして上がった奇声によってかき消された。

「ぬぉあああああああああああああああああああああああっ!?」

それは少女から発せられていた。女の子という単語からは程遠い叫び声である。形容するならば獣の咆哮とでも言った方がより近いだろう。

「こ、今度はなんだよっ!?」

「フッ、コイツには良い薬だ」

腕を組んだエリーゼが、隣で満足そうに頷いていた。

「ひっ、酷いのだよエリィィイイイイイイゼくぅぅううううううんっ!」

少女は本気で涙を流しながら叫び声を上げていた。どうやらエリーゼの演技に完璧に騙されているようであった。まあ、好きな女が自分の知らない男と出来ていたりすれば、ショックも受けるだろう。

「そういうわけだ。諦めろ」

「う、うぅぅうううううう……」

かわいそうに、少女は崩れ落ちるようにして床の上にへたり込んだ。

可能性の有無は定かでないが、あからさまに非情な振られ方だった。もし、普通のシチュエーションでこんな振られ方をされた日には、誰だって立ち直れないだろう。少女の存在が喜劇染みているので、素直に同情は出来ないが、ご愁傷様といったところか。

しかし、事はそれだけで終わりはしなかった。

「なぜっ! なぜその男なのだいエリーゼ君っ!」

少女は頑なに食い下がった。

「別に貴様には関係の無い事だろう?」

「でも、でもでもでもっ! マリーは納得いかないのだよっ!」

「愛とはそういうものだ、理解しようと思って理解できる事だと思うなよ?」

愛を語るエリーゼの顔はとても楽しそうである。

「臭い台詞だな、おい」

今のは少女が放つ体臭よりも、なお臭かった。

「き、貴様は黙っていろっ!」

対して少女は涙やら鼻水やらでくしゃくしゃになった顔を露にしてすすり泣いていた。先ほどまでは満面の笑みを湛えていたというのに、なんと表情の切り替わりが早い奴なのだろうか。

「うぅぅ、エリーゼくぅん……」

救いようの無い状況である。

「というわけだ、貴様にはここにいる理由も無くなった。とっとと巣に帰れゲテモノ」

「さ、更に再びゲテモノ呼ばわりですかっ!?」

「違うのか?」

「そんなぁああ! 酷い、酷すぎるのだよエリーゼ君。マリーはこんなにも君の事を愛しているというのに。この愛は君には届いていなかったのかいっ!?」

「どうやら道中で配送事故を起こったようだな、素直に諦めろ」

「そんなっ!? マリーが書留サービスを利用しなかったばっかりに、まさかの結末ですかっ!? The End ですかっ!?」

今日昨日に始まった事でもないのだが、エリーゼも存外酷い奴である。とはいえ、この少女の性格を考えれば、こういう対応をしたくなるのも頷けないわけではないか。

「その通りだ。理解したのならば、とっととこの空間を開放しろ」

「くぅっ、でも……でもマリーは認めたくないのだよ」

「貴様が認めようが認めまいが事実は変わらんだろうが。人の心など移ろい易いものだ。いや、貴様に関しては移ろいを恐れる必要も無かったか。元より訪れた事が無かったのだからな」

「でもっ! でもぉおおっ!」

床に膝を落として嘆く少女はどこかコミカルで、蚊帳の外から眺めている俺としては、素直に悲しんでいるように見えない。それがまた悲劇だろう。

「ところでエリーゼさん」

不意に、それまで黙り込んでいた沙希が口を開いた。

「……なんだ?」

名前を呼ばれたエリーゼは面倒くさそうにそちらへ振り向いた。

「あの、お召し物が乱れていますが」

指摘されて自身の体に意識を向ける。

「ん、ああ……」

すると、確かに沙希の言葉通り、その指が指す先にはエリーゼの黒いビキニ、とでも表現すればよいのだろうか? それが動き回ったおかげでズレて、臀部がムッチリとはみ出していた。元より生地面積の小さな衣服であったが、それが尻の割れ目に食い込んでしまっていることで常時半尻状態である。

「まったく、いらん手間をかけさせてくれる……」

それをエリーゼは、人差し指を衣服と肌の差し込んで元あったように直した。

しかし、何度見てもおかしなデザインの服である。異様に長いニーソックスと、ビキニのような作りのショーツとトップがあり、その上には幅のある皮のベルトが幾重にも巻かれ、所々が金属製のリングで数箇所止められている。視覚的にはベルトによって肌も隠されているのだろうが、衣服としての機能はゼロに近い。唯一、パレオのような丈の短いスカートが、ギリギリの所でショーツを隠してくれているのが、せめてもの救いだろう。今は気温も暖かいから良いが、冬はどうしているのだろうか? いくら吸血鬼でも寒いものは寒いだろうに。

服装なんて個人の自由だし、とやかく言うつもりは無い。ただ、それも人目に止まらない家の中だけにして欲しいところである。でなければ一緒に居る俺までが被害を受けてしまう。それに、そもそも似合っていないのが問題だ。

「さぁ、話は終わりだ。私は帰るのだから、とっとと空間を開放しろ」

エリーゼが凄むようにしてマリーに一歩近づいた。

「ま、待って欲しいのだよ。もう一度、もう一度チャンスが欲しいのだよっ!」

「そもそも貴様にチャンスを与えた試しは無い」

「だったら、最初で最後でも構わないからチャンスをおくれよエリーゼ君っ!」

「嫌なこった」

「そんなぁ……」

エリーゼにしてもこの状況にはいい加減、飽きてきているのだろう。ずいぶんとぞんざいな態度である。というか、このような突き放した態度が少女に対しての日頃だというのなら、何故こうまでも少女はエリーゼに惚れていられるのだろうか。頭がおかしいとしか言えない。

「ぅう、でも、でもぉおおっ! だったらマリーにだって考えがあるのだよっ!」

急に少女が立ち上がった。

そして、何のつもりだろうか、その瞳が俺を鋭く捕らえた。

「ほぉ? また私に挑むとでも言うのか? 今度は運任せで何とかなるような状況ではないぞ?」

語るエリーゼは魔力が使えないことを忘れているのか、遥か高みから少女を見下すようにして語る。だが少女にしても、それまでの涙は何処吹く風で、その表情は意気揚々と変化させた。

「甘いのだよエリーゼ君っ! でも涙と鼻水が混ざり合ってちょっと酸っぱいのだよっ! いいかい? 城を攻める為に、まずは堀から埋めようとした武将は、しかし、土が足りなくて切腹自殺! なんて衝動っ!」

少女の言葉は、何を言いたいのかが全然理解できない。

「君が落とせないのならば、マリーは堀を埋めようとして東奔西走、迫り来る資金繰りに対して、外道に手を染め、然る後に君とフォーエヴァー・ラヴっ!」

エリーゼに振られた事がショックで、頭のネジが更に数本抜け落ちてしまったのだろうか。一人テンションが空回りしている。

「帰るぞ?」

「あぁっ! ま、待つのだよっ! つまり、君の下僕をマリーが頂いてあげようというのだよ! そうすればエリーゼ君を挟んで構成されるトライアングル・リレーションシップッ! どうですかお客さんっ!? 放っておけないでしょうっ!?」

帰る手段なんて無いであろうに、踵を返す素振りを見せたエリーゼに対して少女は慌てて場を取り繕った。

「…………」

「三角関係……か?」

言わんとしていることは理解できた。確かにエリーゼが言ったことが本当だったのならば、それは効果的だっただろう。しかし、今の状況だと、実際には何の意味も無い。きっと俺が苦労するだけだ。というか、俺がこの少女に惚れる可能性がゼロな時点で話にならない。

エリーゼの表情を伺ってみる。案の定、つまらなそうな顔をして少女を眺めていた。

だがそれも少女が口にした次の言葉で変化する。

「それに君達は今、マリーのフィールドに立っているのだという事を理解しているのかい? マリーが常にエリーゼ君の言葉を従順に実行するという保証は無いのだよっ! たまには愛のムチを持ってして君の喘ぎ声を聞ぃきたいなぁっ?」

「ほぉ?」

鋭く変化した瞳が少女を見据えていた。しかし、一方の少女はそれにおびえる様子も無く続ける。

「さぁ、エリーゼ君。君はどうするのかな? ではでは始めると致しましょうかっ!」

語る少女がグッと腕を振り上げた。その手にはいつの間にか棒状の何かが握られていた。

「貴様、何をするつもりだ」

「それを言ったら面白くないのだよ」

少女は自身の体を両腕で抱くと、小さく身震いをして叫んだ。

「あぁっ! エリーゼ君が悔しさに涙する様子を想像するだけでマリーは、マリーはぁあああああっ! レッツ・プレイっ!」

「やってくれるな糞がっ」

身を構える少女とエリーゼ、それに沙希。

「おい雅之、気をつけろっ!」

「き、気をつけろって何にだよっ!」

「そんなもの私が知るかっ! 来るぞっ!」

衝撃が訪れたのはエリーゼの言葉に答えたのと同時だった。

台風の突風に飛ばされたような、高いところから落っこちたような、そんな浮遊感が訪れた。足をすくわれるようにして体はバランスを崩す。視界は90度回転して床をを見下げていた。

恐ろしいスピードで走り寄ってきた少女が、いつの間にか、俺の体を肩で抱え上げていたのだ。

その小さな体の何処に、これほどの力があるのだろうか。両手両足は床から離れて、プラプラと揺れている。まるで、土木作業員に抱えられるセメント袋のような心境だった。

「ちょ、ちょっとお前」

「さぁエリーゼ君、一人で過ごす孤独な生活の幕開けを楽しむと良いのだよ。マリーはこの下僕君と楽しくやらせて貰うとするのだからね。ではではアディオス、またの日をお楽しみにっ!」

俺の台詞は軽くスルーされる。

「おいこらっ! 下僕を持っていくのは構わないが、この空間を開放してからにしろっ!」

「ふふふ、そんな強がりを言っていられるのも今の内なのだよぉ~」

放送室を飛び出した少女は廊下を駆ける。背後からはエリーゼの叫ぶ声が聞こえてくるが、それもすぐに途絶えた。沙希が追ってくる様子も無い。少女の走るスピードは存外速く、俺を抱えているのが嘘の様な身のこなしである。幼い外見に不釣合いな、想定外の身体能力であった。

「お、おいちょっとお前、いきなり何すんだよっ!」

少女が一歩一歩と進むのにあわせて、体がガクガクと上下に揺れる。

「君はマリーに全てを委ねていれば良いのだよ。あとはエリーゼ君が君を追ってやって来るのを待つだけなのだから」

「アイツが来るわけねぇだろうが……」

「ふふふっ、そして君を追ってやって来たエリーゼ君が見るのは、マリーと君の鮮烈なる禁断のワンシーン。さぁ、破局は目に見えましたよっ!」

自分の世界にどっぷりな少女は俺の話など聞いちゃいない。そもそも自身の好意を伝えておきながら、このような策を講じる事に意味があるのだろうか? 俺には馬鹿の一人劇にしか思えない。だが不幸な事に、エリーゼや沙希曰く、この魔力が制限されているらしい空間でも、少女は人外なパワーを発揮し放題である。止めようと思っても、此方からは手の打ちようがない。この場を作った張本人は制限も免除されているのだろうか? 全く分からない。

少女はカツカツと靴の裏鋲を鳴らし、割れた窓ガラスの破片をものともせずに廊下を突き進む。途中で他の生徒に出会わないことを祈っている俺はチキンだろうか? 

「お、おい、ちょっと揺れすぎだ、腹が痛いだろうが」

少女の肩の骨が俺のアバラに丁度良い具合に当たっている。

「君は男の子だろう? 我慢なのだよ」

「なんで俺が我慢しなきゃならねーんだよ、つーか、降ろせよっ!」

少女は先ほど俺達が上ってきた階段を2段飛ばしで駆け下りる。腹部に回された腕は細いくせに恐ろしいまでの力で固定されていて、幾らもがいても振りほどけそうに無い。まるで父親に抱きかかえられた子供の様だった。

「いやいや、それは出来ない相談なのだよ。君はエリーゼ君との取引材料なのだから、大人しくしておいて欲しいのだよ」

「取引材料って、お前なぁ……」

階段を幾階か下った少女は、再び廊下へと進路を移し走り出す。一体何処へ向っているのだろうか? 両足をバタつかせて抵抗を試みたが、それも片腕でアッサリと押さえつけられてしまった。なんて怪力だろう。

それからしばらくして、俺はようやく小刻みな上下運動から開放された。

「さて、この辺で良いかな?」

せわしなく校舎を走り回っていた少女は、家庭科室、と書かれたプレートのぶら下がる教室の前で歩みを止めた。恐ろしい事に、汗一つかいていなければ、呼吸も全く乱れていない。コイツもエリーゼとドッコイドッコイの化け物である。

「とりあえずここに入ろうじゃないか下僕君」

「だから俺は下僕じゃねぇって言ってんだろっ!」

少女に担がれたまま家庭科室のドアをくぐると、その先にあったのは体育倉庫だった。これまた微妙なところと繋がっている。

「ちょっと埃っぽいのだよ」

「そりゃ、ここは倉庫だからな」

「となると、こういう陰湿な場所だからこその演出、それすなわち、二人きりの男女、交わる体、忍び漏れる喘ぎ、そして第三者によって勢い良く開かれる扉と、始まる愛憎の三角関係の縺れ……。素晴らしいシチュエーションだとは思わないかい?」

「俺が知るかよ」

ガラガラと音を立てて、入り口の引き戸が閉められる。体操マットの上にドスンと降ろされて、俺はようやく少女の腕から開放された。

「さぁ、とりあえずここでエリーゼ君が来るのを待つとするのだよ」

そう言って少女は俺の隣に腰を下ろした。

しかし、エリーゼは間違いなく来ないだろう。今頃は堪った鬱憤を晴らすべく、沙希に八つ当たりをしているのではないだろうか? 

「ちょっと言いたいんだけどさ」

少女は先ほどのエリーゼの演技を信じきってしまっている。ここは本当のことを話すしかないだろう。このまま待っていても無駄に時間が過ぎるだけである。

「なんか勘違いしてるみたいだから言っておくけど、さっきのエリーゼが言った事は全部嘘だぞ?」

それに、本当のことを言っても困るのは俺じゃなくてエリーゼだ。別に問題は無い。

「……嘘?」

「ああ、全くの嘘だよ」

こちらへ向き直った少女の、くりくりとした大きな瞳が俺を捉える。こいつもエリーゼ同様、口さえ開かなければ可愛らしい女の子なのだろうが、如何せん変態だ。正直、一緒に居たい相手ではない。

「君は先ほどの事実を、それだけの言葉で否定してくれちゃうのかい? マリーを騙そうとしたってそうはいかないのだよ」

「だから、それも勘違いだって」

「勘違い? 現に君達はマリーの前でモチュモチュのケチョケチョだったじゃないか。それをなんだというのだい? 嘘はよくないのだよ」

「それも違うんだよ。あれもエリーゼの嘘なんだよ。別にアイツが俺に特別どうって訳でもなくて、ただお前から逃れる為の、その場しのぎの嘘だったんだよ」

というか、それぐらい気づいて欲しい。

「君は、あのエリーゼ君がただの人間を相手に唇を許すとでも思っているのかいっ? そもそもエリーゼ君がマリーから逃れる必要性が思い浮かばないのだよ」

「んなこと言ったって、現にそうだったんだからしょうがないだろ? アイツのことだし、どうせまた俺をからかって笑いたかったんだろ?」

「フッ、そんな嘘には引っ掛からないのだよ。マリーは独占欲が強いから一夫多妻制は認めないのだよっ! エリーゼ君に相応しいのはこのマリーをおいて他にいないのだよっ!」

とりあえず説得を試みた俺だったが、しかし、相手は全く取り合おうとしない。

「さぁ、大人しくここで君はマリーの妾となってエリーゼ君を待つのだよ。そしてマリーはエリーゼ君の妾となるのだよぉ~」

ぐぐっと体を近づけてくる少女に、俺は慌てて腰を引く。

「ふふふ、逃げても無駄なのだよ。君の身柄は既にマリーのものになのだよ」

ウヘウヘと笑いっている。なんか、良くないキノコを食べてしまったような目をしていた。きっと頭の中ではエリーゼとのピンクな妄想が始まっているのだろう。

「こ、こっちへ来るなってんだよ、気持ち悪いぞお前」

ジリジリとにじり寄ってくる少女から逃げようとして、俺は腰を落としたままズルズルと後退する。しかし、その背は直に硬いものに当たって止まった。跳び箱である。一番上の段に縫い付けられている布地は、叩けば埃が山と出てきそうな汚れ具合だった。

「いくらエリーゼ君の下僕とはいえ、マリーの愛しの人を奪った罪は大きいのだよ。それを今から君に教育してあげようじゃないか」

「だから違うって言ってんだろっ!」

なによりも困った事は、コイツがエリーゼ同様、何が起きるか分からない不思議パワーの持ち主であることだ。下手に手を出してしっぺ返しを喰らうのは避けたいところである。一撃で粉砕される可能性もあるのだ。

「ああっ、だから寄るなってんだよっ!」

今はとにかく逃げるしかない。

「いくら逃げたって無駄なのだよ。ここはマリーの手の内なのだから君はぜぇったいに逃げられないのだよ」

「だからって逃げないわけないだろうがっ!」

「無駄な努力は程ほどにするのだよ」

「うるさいわっ!」

加えてこいつは、あのエリーゼさえ厄介がる相手なのだ。客観的な事実に基づいてみれば、俺に対処できる相手ではない。今はよく分からないテンションで迫ってくるだけだが、もし牙を向かれたならば、待っている結末は想像に難くない。

そして何よりも身体が臭い。

「ああこらっ! 勝手に触るな馬鹿っ!」

「恥ずかしがらなくても良いのだよ。マリーに任せてくれれば脳は蕩けて全ては夢の中なのだよ。物理的に」

「ぶ、物理的!?」

ここ一週間のエリーゼが居る生活のおかげで、俺もずいぶんと弱気になったものである。小学生くらいの女の子を相手に逃げ回る男子高校生の図、というのも哀れなものだ。悲しいことこの上ない。

「く、来るんじゃねぇよっ!」

「ふふふ、後は煮るなり焼くなり、生でサラダにトッピング?」

「うわっ、コラっ!」

少女の垢に塗れた腕が、俺の脚を掴もうとしてススッと伸びた。

「お前もそんなんだからエリーゼに嫌われるんだよっ!」

しかし、その指先は学生ズボンに触れようか触れまいか、といったところでピタリと止まった。少女は俺の言葉に反応して体をビクリと振るわせた。俺は今何か変な事を言っただろうか? いや、いたって普通だった筈だ。

「マ、マリーがエリーゼ君に嫌われているですとっ!?」

それまでのふざけ調子は何処へ言ったのか、少女の表情は驚愕一色に染められていた。今更何に驚くというのだろうか?

「当たり前だろうが。あんなあからさまな態度を取られて嫌われてないわけないだろ。滅茶苦茶嫌がってたのが見えなかったのか?」

「まさかっ! そんなこと無いのだよ。冗談も休み休みに言うのだよ」

急に真顔になった少女は強い口調で迫ってくる。

「それこそ冗談じゃないのか?」

「何を言うのだいっ! エリーゼ君は先程だってマリーの熱い抱擁に答えてくれていたではないかい。これを愛と言わずしてなんというのだいっ!」

「そうか? 俺には思いっきり嫌がっているようにしか見えなかったけど」

「い、嫌がっていたですと!?」

「そうじゃないのか?」

「そんなことあるわけないじゃないかいっ! エリーゼ君はマリーを愛しているのだよ? それを何故嫌がる必要があるのだいっ!」

「愛してるか? 全然そうは見えなかったぞ」

「違うのだよ、あれはきっと、嫌よ嫌よも好きのうち、という日本の古き良き伝統に則った求愛行為なのだよっ! あぁエリーゼ君、そこまでマリーの事を愛しているというのだね」

「でも眉間に皺まで寄せて、止めろって叫んでなかったか?」

「だからそれも演技のうちなのだよ。そんなことありえないのだよ。君の見間違いなのだよっ!」

「でも俺にキスしてきたのだって、お前から逃げる為だったんだし、お前の言葉を借りるなら、ただの人間とキスしたほうがマシなくらい嫌われてるんじゃないのか?」

「なっ!?」

俺の言葉を受けて少女の口があんぐりと開かれた。

「でなけりゃアイツが好き好んでそんなことするわけないだろ? それに関しちゃ俺もお前に同感だよ。正直ありえないって」

「キ、キミィ! 嘘はいけないのだよっ! 嘘をついたらハリセンボンを胃の中に放り込まれるのだよっ!?」

というか、もしかしてこの変態少女は自分がエリーゼに避けられている事を自覚していなかったのだろうか?

「なんでマリーがエリーゼ君に嫌われるのだいっ! 前言撤回すべきなのだよっ! 不穏な発言は控えるのだよっ!」

「んなこといったって、そうとしか見えないんだからしょうがないだろ?」

「ありえないっ! ありえないのだよっ!」

鬼気として迫る少女は俺の両肩に手をかけてガクガクと体を揺さぶってくれる。

「ちょ、ちょっと待てよ、おいっ、揺するなっ!」

「だって、マリーは、マリーは……」

「お前等の関係は知らないけど、傍から見てても明らかに避けられてるって分かるぞ? というか、お前は理解してなかったのか?」

「なぜマリーがエリーゼ君に嫌われなければならないのだいっ!? マリーはこんなにも彼女を愛しているというのにっ!」

「それが原因じゃないのか? ぶっちゃけストーカーじゃん」

「ち、違うのだよ、マリーそんなんじゃないのだよっ! ただ愛しい人を思い、ひたむきに走る愛の戦士、それがマリーなのだよっ!」

「それが気持ち悪いんだよ」

「なっ、なぜ!?」

「何故って、普通そうだろ?」

「そんな……、マリーはエリーゼ君を思い、求めているだけなのに……、それが嫌悪に変わるというのかいっ!? そんなの狂っているのだよっ!」

「狂ってるのはお前だよ。基準を勝手に変えないでくれ」

そもそもこいつらは女同士ではないのか? 同性愛は理解の射程外である。

「くぅ……、けど、マリーがエリーゼ君に嫌われているなんて、そんな事実は認めないのだよ。彼女のあのツンケンした態度だって、ただ恥ずかしがっているだけなのだよ。そう、羞恥の念に違いないのだよっ! だからいずれは軟化した彼女がマリーを求めて腿を摺り寄せ近づいてくる日が……」

「それは無いな、エリーゼの性格からして」

エリーゼが好きな相手を前にしてモジモジと後手に回るようなシーンなんぞ、

……………。

………。

…………想定の範囲外だ。気色悪い事この上ない。

「………で、でも、少しくらいは」

「あれが人に恋焦がれて恥ずかしがるような性格してると思うか?」

「そ、それは……」

「悪い事は言わないから、素直に諦めるのがお前の為でもあると思うぞ。あんな化け物を相手にどうこうしようなんて正気の沙汰じゃないって」

「けど、けれどもですよ? マリーはこんなにもエリーゼ君を愛しているのですよ? 愛の力は世界を超えるのではなかったのかい? それが嫌われているなんて、これからマリーは何を支えにして生きていけばいいのだいっ!?」

「そんなことまで俺が知るかよ」

「だって、マリーはこの数百年間、エリーゼ君だけを愛し続けて来たのですよ? それを、そんな、……嫌われているだなんて言われた日には、マリーは路頭を迷うホームレス以下じゃないですかっ!?」

「お前の場合は身なりからしてその通りだな。臭いし」

「く、臭いですかっ!?」

「気づいて無かったのか?」

「た、たしかに、言われてみればそこはかとなく香る異界の香りが……」

「いや、凶悪な刺激臭だわ」

というか、あれほど直球で嫌われているにもかかわらず、人に言われるまで気づかない辺りで、この少女の異常性が見て取れる。相当な勘違い野郎である。ワイドショーを度々賑わせる世間の妄想狂言者は、きっとこの少女のような思考の持ち主なのだろう。

「うぅ……酷い、酷いのだよ。世界がマリーを苛めるのだよっ!」

「言っておくけど別に誰も慰めたりはしないからな。つーか、そのくらい自分で気づけよな」

「う、うぁああああああああああああああん」

本気でエリーゼに好かれていると思っていたのだろう。マジ泣きである。

ぐだっと体育マットの上にうつ伏せる少女は頬を涙でべチョべチョに濡らしていた。咽び泣く声が嫌でも耳へと入ってくる。そのそもエリーゼの何処に惚れたというのだろうか。俺には理解できない感覚である。

というか、そろそろコイツから開放されたいのだけれども、俺はどうすべきだろうか?

「まあ、そういうわけだ」

別に変態少女に付き合う必要は無い。とりあえず放送室まで戻って二人と合流するとしよう。担がれ運ばれてきた道順も、今ならまだ覚えている。

「それじゃ話は終わったようだし、俺は帰らせてもらうぞ。いくら待ったってエリーゼは来ないだろうしな」

背後でひっくひっくと震えている少女に言葉をかけて体育倉庫のドアに手をかけた。しかし、腕に力を入れて、いざ立て付けの悪い横開きのドアをスライドさせようとした時に、学生服の背がむんずと掴まれた。無論、掴んだのは少女である。

「返さないのだよ。君は返さないのだよ……」

「な、なんだよ」

仕方なく足を止めると、俺は背後へ振り向いた。少女は涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔でこちらを見上げていた。これ以上、一体なんだというのだ。

「君は一蓮托生という言葉を知っているかい?」

「ああ?」

少女はマットの上、立ち膝で俺に向き合っている。

「マリーだけがエリーゼ君に嫌われるなんて認めないのだよ」

「だ、だったらなんなんだよ?」

「エリーゼ君との幸せな日常はプライスレスのタイムレスなのだよ?」

「アイツが一緒に居て幸せになれるわけねぇだろ?」

「あぁ……、君はなんと贅沢者なのだろう。マリーはこれほど激しい嫉妬を覚えたことは無いのだよ」

「だから、お前は何が言いたいんだよ」

今ならエリーゼの気持ちも良く理解できる。

いい加減、相手をするのが面倒になってきた。感情に任せて苛ついた声色で言葉を返した。すると、俯き半分で呟きを繰り返していた少女は、しかし、瞳に光を戻すと声を大きくして叫んだ。

「君も、……君もマリーと共にエリーゼ君に嫌われてしまうのだよっ!」

同時に、少女はガバッと埃臭い体育マットから立ち上がる。

「は、はぁ?」

想定外の行動に、思わず一歩後ずさる。こんどは何をしようというのだろうか。

「エリーゼ君がマリー以外の者と一緒になっている姿なんて見たくないのだよっ! ならばマリーが行うべきはひとぉおおつっ!」

元気良く立ち上がり、ビシリと天井を指差す少女は、しかし、顎からポタリポタリと涙と鼻水の交じり合ったモノを床に落とし続けている。顔は今にも泣きそうな笑顔だった。なんだかよく分からないテンションである。

「さぁ、共にエリーゼ君に嫌われようじゃないかっ!」

「どういう理屈だよっ!」

「そんなの知らないのだよっ!」

「威張るなよっ!」

なんて思考の切り替えの早い奴なのだろう。加えて、混乱も極まったのか、既に手段が目的と化してしまっている。早い話がヤケクソなのだろう。

だが、そんな少女の暴走に俺が付き合う道理は無い。

「さぁ、そうと決まれば直にでも出発なのだよっ!」

「ちょ、ちょっと待てよっ!」

しかし、相手はこちらの都合などお構いなしである。俺の首根っこを掴むと、自分の倍以上はある体をズルズルと引きずりながら、元来た道を戻り始めた。

「お、おいこらっ!」

「さぁ、大人しくするのだよ」

「勝手に人を巻き込むなよっ。やるなら一人でやってくれっ!」

俺の必死の抵抗に、少女の手は学生服から滑る。その反動で体は前のめりに倒れこんだ。しかし相手は無慈悲にも、そんな俺の右足首を引っつかむと、そのまま引きずって歩き出す。

床に頬を擦りつけながら、近くにあったスチール棚の足を掴もうとした腕は、悲しいが見事に宙を泳いだだけだった。土ぼこりに汚れた床を学生服で磨きながら引きずられる俺。だから学生服の代えは、そう沢山ある訳では無いというのに……。

「暴れるでないのだよ。君の人生はマリーと共にあるのだよ? さぁ、共にエリーゼ君の嫌気を一身に浴びて爽やかな後生をエンジョイしようじゃあーりませんかぁっ!」

完璧にヤケクソである。

「誰がお前と一緒にエンジョイなんだよ。いいから離せよ変態っ!」

「ふ、ふふふふ……」

体育倉庫から廊下へと出る。そして先ほど駆け下りた階段を今度は一段飛ばしでズンズンと上っていく。一段上るたびに腰が階段の段差の出っ張りにぶつかって痛い。

「こ、こらっ! 引っ張るな、引っ張るなよっ! 痛いだろうがっ!」

「なぁに、心頭滅却すれば火もまた涼し、とは日本の言葉ではないかい。そのうち慣れるのだよ」

「慣れねぇよっ!」

ガツンガツンと打ち身を重ねながら、先ほど降った分だけ階段を上る。そして、そろそろ涙も滲み始めようか、という頃になって、ようやく俺と少女は放送室のあった階までたどり着いた。後は目的の部屋まで直線で数十メートルといったところである。

「というか、言っておくけど、俺だってエリーゼには好かれてる訳じゃないんだぞ? むしろ嫌われてるんだよ。今更どうこうした所で何にも変わらねぇよ」

でなければ、生傷が絶えなかった、ここ一週間の生活は何だったと言うのだろうか?

「そんなの嘘に決まっているのだよ! あのエリーゼ君と共に、しかもファミリーとして連なっているのだよっ!? それを嫌われているなんて、言語道断なのだよっ! ありえないのだよっ!」

「ファミリーになったのは偶然なんだからしょうがないだろ? 俺だって好き好んでなったんだじゃないし、出来るものなら元の生活に戻りたいんだよ」

「な、なんて贅沢を言うのだい君はっ!」

「当たり前だろ? あんな色々と反則で、しかも色気の欠片も無いような奴に振り回されて、楽しいわけないだろうが。あれでもっと、こう、そそるものがあれば少しはマシだったのにさ。やってらんねぇよ」

「色気が無いですとっ!? あれ程の色香を漂わせる女性は、この世にエリーゼ君を除いて他の一名も居ないのだよ。それを色気が無いとは何事ですかっ! 君の目は節穴に違いないのだよ! 早急に取り替えた方がよいのだよっ!」

「アイツの何処に色香が漂ってんだよ」

「そんなの全てに決まっているではあーりませんかっ!」

少女はまるで自分のことのように胸を張って言い切った。

「確かに顔は綺麗かも知れないけど、あの幼児体型だぞ? 1ミリも膨らんでない胸とかどうするよ?」

「ふふん、君は分かっていない、分かっていないのだよ。エリーゼ君の正しい魅力はそんな端的な評価に収まらないのだよ。その様子では、君は女性の本当の魅力というものを理解していないのだろうな。不憫な事なのだよ」

「だってお前、本当に膨らんでないんだぞ? 見た事あるのか?」

「エ、エリーゼ君の胸をかい?」

「アイツときたら、本当に何も無いんだぞ? 完全な平地で、完璧な洗濯板なんだぞ? しかも、今以上は絶対に成長しないんだろ? あのチビっこい姿のまま永遠に生き続けるっていうんだから、正直、女として終わってるよ」

いつか、風呂場で裸を垣間見たときの事を思い出す。しかし、少女は俺が示したいところとは別の言葉に反応した。

「キ、キミィ、その物言いからすると、もしかしてエリーゼ君の胸を直視した経験があったりするのかいっ!?」

「え、あ、ああ。偶然な」

あの時は、不覚にも驚いてしまったような気がしないでもないが、それも今思い出せばなんてことはない。ただの子供の裸絵図だった。ただ、少女に取ってはそうでもなかったらしい。

「うぁあああああああああっ! やっぱり、絶対、かならず、確実に、君はエリーゼ君に嫌われなければならないのだよっ!」

耳にツンと来る大きな声で喚き始めた。

「だ、だからいきなりなんだよ!」

「マリーでさえ見た事の無い禁断エリアを見た事があるですとっ!? ああもうっ! どうしてくれるんだい、この頭の中に蔓延る妄想をっ!」

「んなこと俺が知るかよっ!」

「胸、エリーゼ君の胸なのだよ!? あぁ、きっとやわらかくて、さらさらで、暖かくて、甘い匂いがするに違いないのだよ。そして、マリーはそれに顔を擦り付けて、頬ずりをして、そしてそして…………」

かなりイってしまったピンク色の声が頭の上から聞こえてくる。足首をつかまれ引きずられている状況にあるので、相手の様子までは確認できない。しかし、涎を垂れ流し恍惚の表情を浮かべる少女の姿が容易に想像できた。

「ああっ! 想像しただけで辛抱たまらんのだよっ!」

プルプルと身震いをしてみせる少女。これで容姿は幼い子供というのだから対処に困る相手だ。

「どうやったらあの平坦な洗濯板で、1ミリの膨らみも無い胸で、そこまでの妄想ができるんだよ。きっと、冷たくて、硬くて、手でも揉むのにも一苦労だぞ? まあ、ブラを買わなくて済むのは経済的だろうけどな」

ずんずんと歩む少女に廊下を引きずられながら、くだらない口論に付き合わされている。なんで俺はこんなところでこんな事になっているのだろうか。これならば、まだテストを受けていた方がマシである。

しかし、無情にも状況は更に悪い方へと進路を取ったようであった。

「貴様は、……私の胸がそれほど憎いのか?」

進行方向から嫌な声が聞こえてきた。少女に引きずられている為に視界は後ろにしかない。しかし、その声の持ち主には心当たりが確実にある。

これまた狙ったようなタイミングだった。

「マジかよ?」

首を捻って進行方向へと向ける。すると、そこには冷ややかな怒りに身を震わせるエリーゼが立っていた。背後には沙希が静かに控えている。

「1ミリも存在せず、平坦で、洗濯板で、冷たくて、硬くて、おまけに手で揉む事も叶わないのか、私の胸は……」

どうやら二人は、今まさに放送室から出てきた所のようであった。その後ろには開かれたままのドアがある。しばらく待ってみたが、帰ってくる様子が無いので、仕方なく探索を始めようとした、といったところだろうか? きっと沙希の提案だろう。

「あー、まあ、なんというか……」

エリーゼの眉がピクピクと震えている。

「首を下に曲げてみ?」

きっと、視界を遮るものは皆無だろう。

素直に首を曲げて下を見たエリーゼの目に映ったのは、何にも邪魔されること確認できた自分の足に違いない

「き、貴様ああああああああっ!」

俺の言いたい事が理解できたらしい。途端にエリーゼは俺の腹を踏みつけるという暴挙に出た。

「ちょ、イテッ! 痛てぇってっ! 待てコラっ!」

「死ね、死んでしまえ、貴様なんぞ死んでしまえっ!」

今のエリーゼには大した力も無い。だが、いくらなんでも横になった状態で腹を踏みつけられれば痛い。とても痛い。俺だって今は普通の高校生だ。

「おぉっ、なんとマリーが手を下さずとも早速この展開とはっ! 素晴らしいのだよキミィっ! 流石はマリーの見込んだ男なだけはあるのだよっ!」

「か、勝手に見込んでんじゃねぇっ!」

少女はエリーゼに虐げられている俺を満足げな表情で見下ろし、うんうんと一人頷いた。なんて外道だろう。

「悪かったなっ! そうだ、その通りだっ! 私の胸は1ミリも無く、平地で、洗濯板で、冷たくて、硬くて、おまけに手で揉むことも叶わないんだろうなっ! 金をかける必要も無く非常に経済的なのだろうなっ!!」

ドスドスと振り下ろされるエリーゼの足が幾発か連続して鳩尾に入った。

「ま、待てっよ……こ、こらっ!」

思わず胃の中の物を吐き出しそうになったのを寸前の所で塞き止めた。

「しかも永遠に成長せず、ずっとこのままなんのだ。女として終わっているのだっ!」

「わ、わるっ、悪かったっ! だから、やめっ……」

俺はエリーゼが秘めたる、永遠のコンプレックスに触れてしまったようだった。

「だから貴様は死ねっ! 死んでしまえっ!」

「なんで……だからって……お前……俺は、関係ない……」

幾度と無くこみ上げてくる胃酸を飲み込んで堪える。昼飯前で良かった。もしも食事を取った後であったならば、きっと内容物を盛大に吐き散らしていたに違いない。っていうか、そんなことに安堵している状況ではない。

「そうだ、貴様の性器も潰してやろう。男として永遠に終わってしまうがいいっ! どうだ、素晴らしいだろう?」

「ま、待て馬鹿っ!」

少女に掴まれた足は万力のような力で固定されてしまっており自由にならない。俺は慌てて腕を伸ばすと、床に手を着き、腹筋を使って体を丸めた。

血走らせた目をギラギラと輝かせてエリーゼの手が迫ってくる。

狙われた下半身を守らねばならない。吸血鬼の治癒能力が無いこの現状で、ナニを潰されたとあっては死んでしまう。いや、治癒能力があったとしても御免である。

「ええい、表を向けろっ。見えないだろうがっ!」

「誰が見せるかよっ!」

なんで俺はこんなアホな事をしているのだろうか。仮にもここは学校である。ここで他の生徒がこの場にやって来たりしたのなら、それはもう、かなり恥ずかしい事になる。というか、絶対に来ないで欲しい。

腕を伸ばし下半身を弄ってくるエリーゼに、俺は体を振って必死に抵抗した。そんなとき、掴まれていない自由だった左足が、少女の左腕に当たった。

それに合わせて、カツンという音がした。何かが彼女の手元から廊下に落ちたようだった。

「ああ?」

音のした方に目を向ける。廊下の床に落ちたそれは、コロコロと転がって俺の手元までやってきた。

30センチ程度の長さの、金属光沢を放つ銀色の棒だった。

ただ単に棒と言っても何のことだかサッパリだろうが、しかし、俺としてもそれ以外の表現の方法が無い。本当になんの装飾も無ければ、取っ掛かりもない、ただの棒だった。

余り気にはしていなかったが、思い返してみれば放送室から出て以降、少女はそれをずっと握っていた気がする。何かの道具なのだろうか?

とりあえず手に取って見た。

「……た、ただの棒だよな」

途端、少女が大仰な声で叫んだ。

「あ、ああああっ! 駄目なのだよっ! それはマリーのアンチフィールドスティック・斉藤さんっ!」

「斉藤さん?」

ひんやりとした感触が手のひらから伝わってきた。かと思いきや、それまで鳩尾の辺りでズキズキと疼いていた痛みが、突然消えてなくなった。

「お、おおっ!?」

加えて、今までどれだけ足掻こうとも外れなかった右足首を握る少女の拘束が、僅かな身じろぎと共に無くなった。

「なんだこれ、すごいじゃん」

「か、返すのだよキミィっ! それはマリーのなのだよっ!」

それほど大切なものなのか。少女は棒を取り返そうと、床の上で横になったままの俺に圧し掛かってきた。しかし、その動作はどれをとっても赤子の手を捻るように軽い。今までの凶悪なまでの握力やら脚力は何処へ行ってしまったのか。

そして、それまでどんなに感覚を澄ましても感じる事が出来なくなっていたものが、つい一週間ほど前から存在している胸の中の暖かな点が、時を同じくして蘇った。その点が示すのは、今まさに俺のすぐ隣に居る存在である。これはどういうことなのか?

唐突な変化に混乱した。しかし、このような事が起こる原因を俺は一つしか知らない。

なんとなくだが、想像が固まるのは早かった。

しかし、俺が答えを口にするよりも早くエリーゼが腕を一閃、棒を狙って振るった。

「テ、テメェッ!」

慌てて棒を握っていた手を引っ込める。

空を掴んだエリーゼは、あからさまに舌打ちをして顔を歪めた。

「雅之、大人しくそれをよこせ」

偉そうな物言いである。しかし、エリーゼのその態度が、俺の推測に間違いが無い事を保障してくれた。

そう、どういう理屈なのかは分からないが、この棒を持っていると魔力が使えるようになるのである。鳩尾の痛みが消えたのも、少女の凶悪な握力が突然感じられなくなったのも、それが理由に違いない。

「だ、誰が渡すかよ! 今ここでお前にコレを渡した日には、俺の命なんて幾つあったって足りねぇよっ!」

「主人の命に逆らうというのか? いいから寄こせっ!」

「嫌だねっ!」

「だから、それはマリーのなのだよっ!」

少女に加えてエリーゼまでもが圧し掛かってくる。しかし、如何に二人がかりでマウントポジションを取られようとも、魔力が使えるのならば何の問題もない。少し身じろぎ一つしただけで、二人の少女はバランスを崩し、床に倒れた。まさに赤子を捻る如きである。

「凄いぞこの棒っ!」

コレさえあればこの空間からも脱出できるかもしれない。先ほどまで少女が異様なパワーを誇っていたのもこの棒による為だろう。

「糞が、大人しくそれを渡せと言っているのだっ!」

「誰が渡すかボケっ! お前は一人でお子様やってろっ!」

「な、なんだとっ!?」

「ふ、二人とも、少しは持ち主の事を考えるのだよっ! 落し物を拾ったらちゃんと交番に届けるべきだとマリーは考えるのだよっ!」

二人は執拗なまでに棒を狙ってくる。蔓植物に纏わりつかれているような気分である。

「ああもうっ、鬱陶しいぞお前等っ!」

そんな二人の首根っこをひっ捕まえて俺は廊下の端へ放り投げた。多少手荒い気もするが、相手が相手だ、大したことではない。

尻から床に打ち付けられて、二人の少女は短く悲鳴を上げた。エリーゼもこうなってしまえば可愛いものである。一週間ほど前の、不思議指輪をはめられて弱りきっていた姿がフラッシュバックした。

「き、貴様っ! 主人に対してこの仕打ちとは何様のつもりだっ!」

「酷いのだよキミィっ! それはマリーのではないかい。勝手に取ってしまうなんて強盗なのだよっ! 犯罪なのだよっ!」

起き上がり、顔を上げた二人は早速俺を罵倒し始める。だが、誰が聞く耳など持つものか。もし、第三者がこの様子を見ていたのならば、真っ先に児童虐待として映るだろう。しかし、こいつ等を相手にして罪悪感など微塵も沸くはずが無い。虐待だって大歓迎だ。

「悪いけどコレは俺のね」

細い銀色の棒を指の間でクルクルと回してみせる。

「下僕の分際で……よくまあ、それだけ大それた事を言ってくれる」

エリーゼの表情はかつて無いほど怒りに一色である。しかし、今はそれも心地よい。たまにはこういう薬を与えてやるのも良いだろう。

「あ、ああこらキミっ! そんな軽々しく扱ってはいけないのだよっ!」

ところがエリーゼとは対照的に、怒るというより狼狽する少女は、俺の手元で回る棒を目にして慌てた風に言った。

「それはこの空間中での唯一ある例外で、この空間のコントローラ的存在だったりするのだよっ! だから万が一それが壊れちゃったりした日には、マリー達はこの閉鎖された空間に閉じ込められてしまうのだよっ!」

「マジで!?」

「超絶マジなのですよ。だから、早くそれをマリーに返して欲しいのだよ」

なるほど、やはりコレはそういう道具だったらしい。

「となると、絶対に返せないな」

「何故っ!?」

「あたりまえだろうがっ! とっとと学校を元に戻す方法を教えろっ!」

何をどうすればこの狂ってしまった学校を元に戻せるのか。棒にはボタンの一つもついていない。使い方はサッパリだった。

「ふふん、それはそう簡単には教えられないのだよ。今、この状況でエリーゼ君に魔力を振るわれた日には、マリーの命は幾つあっても足りないのだよ」

腕組をした少女は、何故か満足気な笑みを湛えてそう言った。

「…………なんだ、お前も少しはコイツの事を理解してるじゃないかよ」

確かにその通りである。怒りのボルテージが限界を越えようかという、今のエリーゼの表情を鑑みるに、少女の言葉は果てしなく正しい。

「マリーだって命は惜しいのだよ。それに、キミだってそれは同じ事だろう? というか、今の状況からして、先にトドメを指される確率は君のほうが遥かに高い気がするのだよ」

「…………あ、ああ」

言われてみればその通りだ。エリーゼの憤慨具合からして、このまま元の学校に戻ったりした日には、血の雨が大降りに違いない。無論、その血液の供給元は俺である。いくら吸血鬼の治癒能力があるとは言え、それは受け入れられない提案だ。

だが、既に相手は了見を得たようなもの。俺と少女のやり取りなぞ耳にも入らぬのか、こちらの手の内にある棒を求めて、ひたすらに突貫してきた。

「ええいっ、何をグダグダとしている。素直にそいつをよこせっ!」

「お前だけには死んでも渡すかよっ!」

「だったら死ねっ!」

「だ、だから、それはマリーの物なのだよっ!」

その様子を見た少女もまた、エリーゼに並んで飛びついてきた。

いくら相手が相対的に非力な状況にあるとは言え、何かの間違いも考えられる。俺は慌ててその場から飛びのこうと立ち上がった。しかし、思いのほか俊敏だった二人は、俺の脚を捕まえると、両腕を回してしがみついて来た。

「こ、こらっ。離しやがれこの野郎っ!」

左足にはエリーゼ、右足には少女がしがみ付いている。

「いいか? 今、素直にソイツを寄こせば半殺しで勘弁してやろう、しかし、渡さないというのなら全殺しだ」

「ぜ、全殺しってお前なぁ……」

「さぁ、どちらを選ぶのだ?」

「どっちも嫌に決まってるだろっ!」

しがみついて来る二人をそのままに、無理やり立ち上がる。両足を交互に浮かして、前後にブンブンと振り回す。しかし、なにもこんなところで発揮せずとも良いのに、要らぬ根性アビリティを発動させた二人は、遮二無二へばりついて離れない。

「き、貴様っ! やめろっ、やめろこの馬鹿者っ! 足を振るなっ!」

「あ、頭がシェイク、シェイクされて二酸化炭素が霧散してしまうのだよっ! なんて不味いペプシコーラっ!」

ズボンについた汚物を払うように、強引に足を振るった。しかし、しがみ付いた二人は白いワイシャツに飛んでしまった醤油の斑点の如き頑固さを発揮してくれており、なかなか振り払う事が出来ない。

加えて困った事態が発生した。

振るい落とされそうになった少女の偶然伸びた手が、俺の右手が握る銀色の棒に触れてしまったのだ。何かに驚いたような表情をする少女だったが、状況を理解すると、即座にそれを握り返してきた。

「ふっ! 捕まえたのだよぉおおおおっ!」

叫び声と同時に、棒が凶悪な力で引っ張られる。俺も慌てて握る手に力を入れ、済んでのところですぽ抜けそうになった棒を力強く握り返した。

棒は俺と少女の手の中で大岡裁き状態である。ただし、どちらも有罪必死だ。

「そ、その手を大人しく引くのだよっ!」

「だ、誰がお前なんかに渡すかよっ!」

運動会の綱引きよろしく一本の棒を巡ってギリギリと引き合う二人。どうやら魔力自体はこの棒に触れてさえいれば使えるようになるらしい。少女の馬鹿力が発動している今の状況からして、それは間違いないだろう。

しかも、上手い事に二人のパワーバランスは釣り合っており、棒はその場で静止したまま、加えられる力にプルプルとその身を揺らしていた。

「なるほど、それは触れさえすればこの空間の制約からは解放されるのか」

それを見たエリーゼが楽しそうに呟いた。

ヤバイと思った次の瞬間、頭に描かれた予感は速攻で現実のものとなっていた。

「あ、ああっ! なんでこったいですよっ!?」

細くしなやかなエリーゼの指が銀の棒を確かに握っていた。

「貴様等もずいぶんと馬鹿だな」

既に自分の勝利を確信しているらしい。エリーゼは俺と少女から棒を奪い取ることなく、3人が棒を握っている状態を維持したまま不適な笑みを浮かべた。

「お、お前のせいだぞ馬鹿女っ!」

「そんなっ!? 君はマリーに責任を押し付けるというのかいっ!? というか、馬鹿女って結構酷いのだよっ!」

しかし、起こってしまった事実は覆せない。

「さぁて、どちらから痛めつけて欲しい?」

なんて幸せそうな、もとい邪悪そうな笑顔だろう。今なら惚れてもいい。

「ま、まあ待ちたまえエリーゼ君。ここは一つ語ってみようじゃないかっ!」

「そう、その通りだ。いつでも暴力でも物事が解決すると思うなよっ!」

「だが、今回も解決しそうだぞ?」

「そんなのお前が一人で満足してるだけじゃねぇかよっ!」

「何を言っている。私がお前等の面倒をみなければならない義務など、元より一片たりとも無いだろうが」

糞っ、せめて一瞬でも棒からコイツの手が離れれば何とかなるのに。

「このっ! 離せっ! こんちくしょうっ!」

僅かな希望にかけて、俺は棒を握る手に力を込めた。

しかし、魔力を得たエリーゼは強力で凶悪だ。幾ら俺が力んだところで、手にした銀色の棒はピクリとも動かなかった。

「どうした、それでも力んでいるつもりか? お前もずいぶんと可愛いな」

ニヤニヤと極上の笑みを浮かべるエリーゼは、もう一方の腕をゆっくりと俺に伸ばす。触れられたら何が起こるのだろうか。事の顛末は手に取るように分かる。

「こ、この野郎っ!」

俺の腕の血管は、はち切れんばかりに浮かび上がっている。対して、エリーゼの白く細い腕には、微塵も力の加えられている様子が無い。なんて絶対的な差だろうか。相手は涼しい顔で奮起する俺の様子を眺めているのだ。

「どうした、少しは根性を見せてみろ。でなければ面白くなかろう?」

エリーゼの指が俺の首筋に触れた。ひんやりとした感触が気持ちよい。だが、思考は逆に加熱の一途を辿る。

「でなければ、この首が抜け落ちることにになるぞ?」

爪が首の皮を一枚破った。僅かに流れた血液がシャツの襟を赤く染める。これでまた一枚、新しく購入しなければならなくなった。学生服は思いのほか値段が張るのだ。痛い出費である。

「フフフ、ほら、どうした?」

自分の絶対的な有利を確信しているのだろう。口元に浮かぶのは余裕の笑みだ。

「このっ……、糞っ!」

人のことを馬鹿にしやがって。

「ちょ、ちょっと君達っ! あんまり力を加えると危ないのだよっ!」

少女が何か喚いている。しかし、頭に血が上り始めた俺はそれを無視してエリーゼに食ってかかった。

「上等だこの野郎! 目に物見せてやるぞコラッ!!」

「ほぉ? やれるものならばやってみるがいい」

頭に血を上らせて年甲斐も無く叫ぶ俺の様子は、エリーゼの目にはさぞ滑稽に映っていることだろう。そうすることで相手を楽しませる結果に繋がることは、良く理解しているのだが、イラつきが押さえられないのだ。仕方が無い。

俺のテンションが上がるにつれて、銀色の棒に加わる力も増していく。

だからだろうか、俺もエリーゼも予期していなかった出来事が起こったのだ。

それはパキンという乾いた音だった。

「っ!?」

「なんだとっ!?」

「ああっ!?」

力学上の支点が急に消えた。力の拠り所を失い、俺は空回りする体の勢いを押さえる事が出来ずに、背後へとひっくり返っていた。背中から思い切り床に叩きつけられる。後頭部を強く床に打ち付けたことで視界が暗転した。口からは勝手に間抜けな悲鳴が漏れていた。

「あああああああああああああああああああああああっ!」

けたたましい少女の咆哮が鼓膜を痛いほど振るわせる。

「き、君達は何てことをっ!」

背後にすっ転ぶ瞬間、見えたのは俺とエリーゼの手の間で見事に折れる銀色の棒だった。

「いってぇ……」

打ち付けた頭を擦りつつ体を起こす。

ズキズキと疼く痛みは引きそうにない。やはり例の棒に触れていなければ吸血鬼の治癒能力は効果が現れないようである。

「あぁ……見事に折れてしまっているのだよ」

地面に落ちた銀色の棒は、見事にポッキリと半分に折れてしまっていた。一方はエリーゼの手の内に、もう一方は両手両膝を床に着いて嘆く少女の目前に転がっている。

「なんだ、ずいぶんと脆いな」

そんな少女の様子を冷やかな顔で眺めるエリーゼは、そっけない口調で言った。

「も、脆いってエリーゼ君っ! 君は自分のしたことを理解しているのかいっ!?」

「棒っ切れが折れた程度でいちいち騒ぐな五月蝿い」

「そ、そんなっ! この棒はただの棒じゃあないのですよっ!? この空間を制御する為の凄い重要な棒なのですよっ!? 孫悟空の如意棒だって避けて通るくらい凄いのですよっ!?」

「ならば文句はそこの下僕に言え。こいつが無駄に力をかけたから折れたのだろう? 素直に私に渡していれば何の問題も無かったはずだ」

「なんだよっ、勝手に人のせいにするなよなっ! それを言うんだったら、初めからお前が余計な手出しをしなけりゃ良かったんだよ」

「なんだと?」

立ち上がった俺はエリーゼの元まで行き、その目前で思い切りガンたれてやる。しかし、相手にしても譲る気などある筈も無く、そのまま、お互いに鼻の頭がくっつきそうな距離で、いがみ合う形となった。

「いい加減にお前も、自粛とか我慢とか、そういう言葉を勉強したらどうだ?」

「それは下僕である貴様の仕事だろうが。なぜ私がお前如きの言葉に耳を傾けねばならないんだ。馬鹿げているわっ」

「だから、その態度を直せって言ってんだよ。頭が悪けりゃ耳までイカれてるのか? 救いようがねぇな」

「それ以上ふざけた事をぬかすならば、その使えない口で、また足を舐めさせるぞ?」

「はんっ、やれるものならやってみやがれクソガキが」

「ク、クソガキとはいい度胸だ。いいだろう、その言葉をしっかりと覚えておくがいい」

「けど、大口を叩くのも結構だけど、逆の状況になってなければいいけどな? なんだかんだで、魔力がなけりゃ何も出来ないお子様なのがお前だろ? 俺の足の指でもしゃぶってみるか?」

「ぬかせ馬鹿が、妄想が酷いと早死にするぞ?」

「それはお前だろ?」

お互い一歩も譲らないまま、額に浮いた血管をピクピクと痙攣させていがみ合う。

「だ、だから諸君、喧嘩なんかしている場合じゃないのだよっ!」

目の前に伸びてきた細く白い腕は、俺とエリーゼの間に僅かばかりの距離を作る。そして、その間に割って入った少女は、すぐにでも取っ組み合いの喧嘩になりそうな俺とエリーゼを止めようとして声を大きく叫んだ。

「ええいっ、そこを退けっ!」

エリーゼが少女の肩を掴んで叫ぶ。

「退かないのだよっ! それよりも少しマリーの話を聞いて欲しいのだよっ!」

「貴様の話しなんぞ聞きたくも無い、いいから退けっ!」

しかし、少女はそれに従うことなく、その場で踏ん張っている。銀色の棒が折れてしまったのは、それほど大変な事なのだろうか。

「聞きたくなくても聞いて欲しいのだよっ!」

少女は喚き散らすエリーゼを宥めようと必死である。しかし、感情の高ぶったエリーゼは自らを抑える事など考えもせず、周囲に不満を喚き散らすだけである。これで魔力が健在だったのならば少しは違って見えるのかもしれないが、棒が折れてしまった現状では、それも駄々を捏ねる子供そのものだ。

しかし、そんなツンと澄ました態度も、少女が続けた言葉を聞いて一変した。

「あの棒が無いと、マリー達はこの空間から外へ出る事が出来なくなってしまうのだよっ!」

どうやら、先ほどの棒は俺達が考えていた以上に重要なアイテムであったようであった。外へ出られないというのは、今の俺たちにしてみれば実質的な死亡宣言だ。

「そ、外へ出られないだと? 貴様、それはどういうことだ?」

「マジでっ!?」

少女の両肩を掴んだエリーゼは、ただでさえ釣り上がった眦の角度を更に急にして相手を睨みつけた。

「だ、だから、あの棒はこの空間の制御例外であって、それが壊れてしまったということは、マリー達はこの空間から外へ出られなくなってしまった、ということなのだよ」

「他に手が無いと言うのか?」

エリーゼに急かされて、少女は慌てて説明を始める。

「あの棒は、この空間における唯一の例外なのだよ」

「なんだよそれ?」

例外とか言われても何がなんだかサッパリだ。

「マリー達は、この棒を通して魔力を発動させる事によって、この建造物に展開された空間を制御できるのだよ。棒に触れてみて理解したとは思うのだけれど、あれに触れている限りでは、この空間の内側にあっても魔力を扱う事が出来ただろう?」

少女は床に転がる折れた棒の片割れを手に取って俺達に見せた。

「折れてると使えないのか?」

効果が半分になるだけとか、そういうのはどうだろうか?

「残念ながら使えないのだよ」

「まったく、使えん道具だな」

少女の説明を耳にして、エリーゼは吐き捨てるように言った。

「そんな、君はマリーが悪いというのかいっ!?」

「当たり前だろうが。そもそも貴様が勝手に仕掛けて自爆したようなものだろう? 回りまで巻き込んでおいて、よくそんな大口が叩けるな」

「だ、だけど、この棒はマリーの血と汗と涙と色々な体液の結晶なのですよ!? 作るのに結構苦労したのですよ? それを壊しておいて謝罪の言葉も無いのは、幾らエリーゼ君とは言え悲しいのですよっ!」

「誰が貴様なんぞに謝るものか。貴様さえ余計な事をしなければ誰も被害を被ることはなかっただろうが。何を寝ぼけた事を言っている」

「そ、それは……そうなのかもしれないけど、でも、そうでない可能性だって少なからず否定できない論理的推論が無きにしも非ずという決定が行われる時すらあるのだからして一概に言い切れる事では……」

段々と小さくなる少女の呟きはやがて聞き取れなくなる。

確かにエリーゼの言う事は正しいだろう。元々は少女が勝手に仕掛けてきたこの状況である。責任を帰着させるならば、大元は少女に違いない。これは誰が判断したとしても明らかだろう。エリーゼがそれを口にした事もあってか、少女はそれで少し大人しくなった。

「それで、結局どうなるんだ?」

身長の対して変わらないエリーゼと少女だが、今は萎縮しきった少女を腕組をしたエリーゼが見下すような構図になっている。コイツも無駄に偉そうな態度が似合う奴である。

「うぅ……、だ、だから、そういうわけで、棒という魔力を利用する為の接点を失ったマリー達は、この空間を制御する方法を失ってしまった事になるのだよ。制御する事が叶わないのなら、このまま空間は存在し続けるのだよ。加えて残念なことに、この棒はスペアを作って無いから、これ一本だけしか無いのだよ」

人差し指をつんつんと突き合わせながら少女は説明を並べていく。当然といえば当然なのだが、エリーゼの怒りの矛先は、自然と俺から少女へ、そのベクトルを変化させた。

「というとなんだ、私はまた貴様の作ったよく分からないモノの中に閉じ込められたということか?」

「現状では空間の制御が出来ないイコールそういうことになるのだよ。でも、例外接点が壊れても空間が暴走しなかったのは、流石はマリーなのだよっ! 素晴らしき設計だとは思わないかい?l」

エリーゼの言葉を受けて、少女は素直に頷いた。

「流石はマリーなのだよっ、ではないっ! 自分が作ったものならば、責任を持ってなんとかしろっ!」

「だ、だから、だからマリーは止めたのだよ。なのにエリーゼ君達は全然話を聞いてくれなかったのだよ」

「ならば、そういう大切な事は先に言っておけっ!」

「それを聞かなかったのがエリーゼ君なのだよっ!」

エリーゼと少女の言い合いは、このまま何処までも平行線を辿りそうであった。

「現状ではこの棒を修復する事も不可能なのだよ。道具があれば何とかなるのだけれど、その道具も今はこの結界の外に置いて来てしまったのだよ」

「ったく、貴様も必要なときに使えん奴だな。何の役にも立たんではないか」

「そ、そんなぁっ!?」

加えてこの毒舌である。まあ、今はまだ魔力が無いだけマシか。

しかし、少女の言葉が本当ならこれからどうなってしまうのだろうか? 出入り口が一切ないのだから、下手に無人島で遭難するよりも性質が悪い。救助隊の助けだって望めない。このまま干からびて死んでしまうのだろうか? そんなの冗談ではない。

「何か他に手立てはないのですか?」

それまで沈黙を守っていた沙希が口を開いた。そういえば居たなぁ、などと思ってしまった俺は失礼な奴だろうか。

「他の手立てかい……」

「無いのか?」

「いや、無いという訳ではないのだよ」

少女は腕を組むと、俯き加減で悩み始めた。

「あるのならばとっとと教えろ。このような所に長居したく無い」

それは俺も同じだ。

「でも、それは……マリーとしては出来る限り遠慮したいのだよ」

「何故だ?」

「そ、それは……」

ズイっと迫るエリーゼに対して、先程まで攻めの一方だった少女は一変して後退を始めた。この状況と比較して何を困る事があるというのだろうか。

「何を出し惜しむことがある。貴様にしても、魔力が使えないのならば、後はこの空間で干からびて死ぬのを待つだけだろう? 早くしろっ」

「でもでもでもっ! マリーとしては、出来ればそれだけは勘弁して欲しいのだよ」

「それって、そんなにヤバイ事なのか?」

嫌々と首を振る少女の様子に疑問を覚え口を出してみる。

「ヤバイと言えばヤバイのだよ。なにしろマリーの生活がかかっているのだよ」

「貴様の生活など知ったことか、とっとと吐けっ!」

「お、お願いなのだよ、許して欲しいのだよ。せめて他の手を考えるだけの時間を頂きたいのだよっ!」

「既に確実な答えが出ているのなら、それを使うに越したこと無いだろうが。わざわざ時間をかけるまでもない」

余程腹が減っているのか、エリーゼは断固として自分の意見を突き通そうとする。

「けど、そうしたらマリーの今後の人生設計が……」

「やかましい、早く教えろっ!」

「そ、そんなぁ……」

涙目になって拒む少女は頑なだった。

しかし、少女にしても魔力が使えないのは致命的なのだろう。エリーゼの言葉に、当初は渋っていた少女も、段々と態度を緩め始める。エリーゼがそうであるように、少女もまた魔力がなければ見た目相応の子供に過ぎないのだ。ともすれば今の状況はかなりのピンチに違いない。

「わ、わかったのだよ、教えるのだよ」

それから暫くして、エリーゼの説得とも言えない恐喝が功を奏したのか、少女は腹を割って頷いた。

「初めからそうしていれば良いものを、無駄に時間をかけさせおって……」

「それで、どうすればいいんだ?」

沙希を含む3人が少女に注目する。

後には引けない状況に置かれて、少女はしぶしぶと口を開いた。

「一つ前提として知っておいて欲しいのは、この空間がこの棒やマリーの魔力によって作られているのでは無いということなのだよ」

肩を落として落ち込む少女は少し可愛そうにも思えた。だが自業自得だ、気にするような事ではない。

「だから、別に棒が壊れても、マリーが制御をどうこうしなくても空間自体は安定していられるのだよ。今、こうして実際に棒が折れてしまっても、何も起こらなかったのはその為なのだよ」

「それがなんだというのだ?」

「まあ、聞くのだよエリーゼ君」

エリーゼは講釈を垂れる少女をじれったそうに見つめる。

「つまり、この建造物を変質させ、この空間を作り上げている装置が、マリーやこの棒を別として、他にあるということなのだよ。そして、その装置を破壊する事が出来たならば、理論上では空間も破壊され、元の状態に収まるはずなのだよ」

「なるほど」

説明は単純明快だった。校舎を迷路にした原因を壊せば良いだけの話である。だが、それの何処に少女は出し惜しみをしたのだろうか? 生活がかかっている理由が俺には思いつかない。

「では、その装置とやらは何処にあるのだ?」

気の早いエリーゼが早速歩き始めた。帰る気満々である。しかし、続く少女の言葉を受けてその歩みは数歩と歩かずして止まった。

「それがマリーにも分からないのだよ。それに、装置にはマリーが時間をかけて貯めに貯めた魔力が包容されているのだよ。だから、出来ることなら壊したりしたくないという思いがあったりするのは当然のことだと思いましょうっ!?」

「貴様の事情など聞いてはいないっ! それより場所が分からないとはどういう事だ」

振り返った顔は怒りに激しく歪んでいた。

「そ、それは、その、なんというか……、マリーが装置を設置したのは、この建造物の変質が起きる前の状態の出来事であって、今の空間が変質した状態においては、装置を設置した場所が何処であるかという位置情報を得る事が出来ないのだよ。こういうのを情報の非可逆性と言って……」

説明を続ける少女は、しかし、目前に迫った鬼の形相を目の当たりにして、口を閉じると身を小さくして震えた。

「ええい、やかましい。回りくどい講釈はどうでもいいからどうすればいいのか教えろっ!」

「だ、だから、装置を見つけるには直接マリー達が探すしかないのだよ」

「ならば初めからそう言えっ!」

今日のエリーゼは頭に血が上りっぱなしだ。この若さで苦労が耐えないね、なんて同情はしたくないが、しかし、少女の言葉の通りならば、それはまた面倒な仕事である。先程も、放送室を探して結構な時間を彷徨ったのである。それも再び行えというのだから酷な話だ。

「つーと、なんだ、また歩くのか?」

「実際の解法はそういうことになるのだよ」

まったく、こっちはテスト期間の真っ只中だというのに、とんだレクリエーションの連発である。思わず頭に血が上ってしまいそうだ。

「その装置というのはどのような形状をしているのですか?」

段々とやる気をなくしていく俺やエリーゼに代わって沙希が建設的な質問を投げかける。

「形状は立方体の箱型で、大体マリーが一抱えで持てるくらいのサイズなのだよ。色は赤と黄色の縞模様で、重さは60kg程度だったと記憶しているのだよ」

赤と黄色の縞模様とはずいぶんと奇抜なカラーデザインだな。

「というと、それはどこかに置かれている、という状態にあるのですか?」

「その通りなのだよ沙希君。確か、木で出来た床の広々とした部屋に設置したと記憶しているのだよ。天井もかなり高かったのだよ」

両腕を広げてその場の状況を説明してみせる少女。

「となると、体育館しかねぇよな」

「そうですね」

あそこならば、出入り口になりうる窓も沢山付いているし、他の教室と比較して早く発見できるかもしれない。少しは明るい期待も持てる。

「まったく、貴様が出てきて人に迷惑をかけなかった試しは無いな。状況が把握できたのならば、とっとと行動しろ。私は空腹なのだ。いつまでもこのような所に拘束されて堪るか」

「だったら当然、お前も探すのを手伝うんだよな?」

「何故私が手伝わねばならんのだ。そもそもの原因はコイツであろう? ならば原因を作った奴が責任を取るのは道理ではないのか?」

「そりゃ、普通はそうかもしれないけど、それも状況によるだろうが。時と場所を選んで物言えよ。今は一致団結して頑張りましょうって話だろ?」

最近はエリーゼのおかげで、気分は保父さん一直線だ。なぜこの歳で子供を叱り付けなければならないのだろう。それもこれも、コイツの教育が成っていないせいである。親の顔が見てみたいとは、まさにこのことである。一体どこのお姫様のつもりだろうか。

「それに、その装置とやらが見つからなけりゃ外へ出られないのはお前も俺も同じだぞ? 早く出たいのなら手伝っても損はないだろ?」

「そう言って、また歩くのか?」

「まあ、そういう事になるな」

「別に私が探す必要もないだろう。貴様等が探し回ればよい。私はここで待っている」

「言っておくけど、人が一人減れば、その分だけ長くここに居なきゃならないって事だぞ。腹が減ったならお前も付き合えよ」

「というと、やはり全員で散開しての探索ということになるのですか?」

「その方が効率的だろ?」

エリーゼやマリーを単品で野放しにするのは結構なリスクを伴う気もするが、この際、その辺の事には目を瞑ろう。

「はぁ……、一体私が何をしたというのだ」

珍しく、ため息なんぞをついて見せたエリーゼは、ヤレヤレといった様子で首を振った。今のやり取りも、コイツにとっては現実逃避の一環だったのかもしれない。俺の気分も同じ延長線上にあるのは確かなのだ。理解できないわけじゃない。

「ああもうっ! ならばとっとと行くぞ屑共っ!」

屑共は余計だこのクソガキ。

口喧嘩の元を危うく吐き出しかけて飲み込んだ。何はともあれ、やるべき事が決まったのは確かな進歩だ。

「えっと、出発前に言っておくのだよ」

「ぁあ? 今度はなんだ?」

ヤケクソ気味に歩き出したエリーゼを少女の言葉が引き止めた。

「一つ君達にお願いがあるのだよ」

「お願い?」

「そうなのだよ。もしも、諸君が装置を見つけたならば、そのときはマリーを呼んで欲しいのだよ。多分、装置を破壊、もとい解体するのはマリーでなければ難しいと思われるのだよ」

「なんだよ、ただ壊すだけじゃ駄目なのか?」

「下手に衝撃を与えて装置が暴走したとしたら、それこそ本当にマリー達はこの空間から出られなくなってしまうのだよ」

「そうなのか?」

「だから、探索は個人で行い、その間に装置が見つかっても見つからなくても、所定の時間を定めて、再びこの場所に集合する。そして、それを装置が見つかるまで繰り返す、といった作戦を提案するのですよ」

「いちいち戻って来るのか? ずいぶんと面倒な話だな」

「お願いなのだよ。でなければ、本当にマリー達はこのままこの空間で干物になってしまうのですよ」

少女は大きな瞳を震わせて、懇願するように言った。

「わかったよ。それしか手が無いならしょうがない、戻るしかないだろ」

「そうですね。携帯電話も利用できませんし、この状況ではそれ以外に選択肢はありません」

そういえばそうだった。携帯も今やただの時計兼アドレス帳に成り下がっていたのを忘れていた。

「そうしてもらえると、非常に助かるのだよ」

兎にも角にも、今は外へ出る事が最優先だ。少しばかり時間がかかってしまうのは諦める他しょうがないだろう。エリーゼという反面教師が間近にいることで、俺の欲求不満にも歯止めがかかっているのは、果たして良い事なのか悪いことなのか。

「見たところこの建造物には時計が沢山あるから、時間の確認には困らないと思うのだよ。各自一定の時間内で収まる範囲について探索をするのですよ。それで範囲圏内の探索が十分に行われたと判断できたならば、集合地点を少しずつズラして進むのだよ」

なるほど、それならば確かに確実ではある。気の遠くなりそうな話でもあるが。

「じゃあ、次に集まるのは何分後だ?」

ちなみに今は午後の12時45分である。そろそろ本格的に腹が減ってくる頃合だ。

「そうだね……、とりあえず30分後の13時15分くらいを考えてみてはどうだろう」

「妥当なところですね」

「そうだな、その装置とやらが見つかったときの事を考えると、それくらいが妥当か」

「私はどうでも良い、好きにしろ」

「ではでは、それで決定するのだよ」

3人分の反応を受けて少女は大きく頷いた。

しかし、この迷路になってしまった校舎の中を探検して、然る後に、指定された制限時間内で帰還する。それは言葉で言うより思いのほか大変な作業内容であるに違いない。迷わないように気をつけなければならないだろう。

「言っておくけど、お前等くれぐれも迷子になるんじゃないぞ?」

一般常識が大きく欠如した二人の子供に釘を刺す。頭の良し悪しは分からないが、見た目がアレなものだから、そういった心配事ばかりが浮かんでくれるのは、多分俺だけじゃ無い筈だ。

「だまれ下僕が、貴様こそ迷うなよ? もしも定刻に遅れてみろ、後で目に物見せてやろう」

「ああ、上等だ」

言って俺は手元の携帯の時刻を確認する。通信機能の失われた電子端末の時刻設定は確かに動いている。

「それでは、出発でよろしいですか?」

「おーっけい、探索開始なのだよっ!」

少女の言葉を皮切りに、俺達は思い思いの方向へ向って歩き出した。エリーゼは放送室の扉を背にして廊下を左へ進む。沙希はそれを右へ。そして少女は廊下に面した窓枠を乗り越えると、隣接する何処にあったものとも知れない廊下へ向った。

さて、となると俺はどうするんだ?

「………」

別段、途中で路を別にすれば良いのだが、スタートを他の奴と同じ進路にするのも癪である。そこで、とりあえず放送室の外窓から次のフロアへ抜けてみる事にする。

踵を返した俺は背後にあった横開きのドアをスライドさせると、照明の落とされた暗い室内に足を踏み入れた。とりあえず機器室にある窓から先へ進むことにする。部屋の最奥に設置されたガラス窓に目を向ける。シャッと音を立てて暗幕を兼ねるカーテンを開くと、その先にはやはり続いている校舎の廊下があった。

「ったく、どこの遊園地のアトラクションなんだか……」

エリーゼが隣から居なくなったことで、思わず口から漏れてしまった不満に自身のテンションを下げながら、俺はトボトボとまだ見ぬ装置とやら探して彷徨い始めるのだった。

そして探索開始から十数分後、俺の前に現れたのは目的の装置ではなく、吉川に探しておくと約束した保健室でもなく、我が校の生徒達に弄られているエリーゼの姿だった。

「き、貴様等、止めろと言っているのが聞こえないのかっ!? 触るなっ! 持ち上げるなっ! 撫で付けるなっ!」

遠くから聞き覚えのある声が聞こえてきたのが切っ掛けだった。なんとなく気になって、喧騒の方向へ足を向けてみると、廊下の角を曲がったところで人の集まりを発見したのである。

声の主を想像して限りなく嫌な予感がした。しかし、だからと言って放っておくことも出来ずに、お節介にも人垣を乗り越えた俺は騒ぎの中心へと向ってしまった。それが致命的な失敗だった。

「やっぱりお前か……」

俺の予想は正しかった。人の輪の中央で四方八方から伸びた腕によって揉みくちゃにされていたのは、魔力を失ってただのクソガキに変化したエリーゼだった。

人間様をいいように扱われてしまっているのが非常にご立腹な様子である。しかし、今のエリーゼには力が無いので、それも跳ね除ける事が出来ない。悲しくも、ただ喚き散らすのみである。哀れと言えば哀れな姿だった。だが、これもまた良い薬だろう。

主に周囲を囲っているのは女子生徒である。金髪の外国人が珍しいのか、キャアキャアと甲高い声を上げながら、エリーゼの光沢ある長髪をベタベタと撫で回している。他にも、数人の女子生徒は羨ましそうな表情で、そのきめ細かな白い肌に触れては騒いで、触れては騒いでを繰り返している。校舎が迷路になってしまったこの状況下で、こいつ等のテンションも普段の三割り増しといったところだろうか? 実情を知らない奴は暢気なものである。

まあいい、触らぬ神に祟り無しだ。

俺は相手に気づかれないように、ゆっくりと人垣を後ろへ戻ろうとした。今ここでエリーゼとの関係を周囲に知られるのはかなりマズイことである。下手をしたら、そのまま新聞の一面を飾りかねない。

しかし、それよりも早く上がった叫びが、周囲の意識を俺に収束させたのだった。

「ま、雅之かっ!? おいっ! こいつ等を何とかしろっ!」

見つかってしまったようだった。

途端に、それまでの喧騒が嘘であったかのように、その場が静まり返った。無論、全員の視線は少女ではなく、少女の視線が向かう先、つまり俺に向けられていた。

「だ、誰の事だ?」

今更ながら他人のふりを試みた。しかし、相手の言葉に応じた時点で既にアウトであることに、俺は惜しくも言葉を返してから気がついた。逃げるつもりならば、初めから何も答えずにそのまま歩き去っていればよかった。

「何を寝ぼけているんだ、お前の事に決まっているだろうがっ!」

エリーゼは血走った目でこちらを睨みつけている。

「ええいっ、今はそのような事はどうでもいい。それよりも、早くこいつらをなんとかしろっ! 私を何だと思っているのだっ!? 愛玩人形か!?」

毒を吐き散らすエリーゼであっても、周囲の女子生徒は引くことなく、それさえ興味の対象にして囲いを大きくする。そんな厄介な奴等は、俺が同じ高校の制服を身に着けていることを目にした途端、再び口を開き始めた。喧騒をはそれまで以上のものだ。

「ああもう……、何だってお前は迷惑ごとばかり起こすんだよ」

冷静に考えてみれば、最終的には家に連れ帰るのにエリーゼは回収しなければならなくなるだろう。それに、もしもこの状態でエリーゼの魔力が元に戻ったりしようものなら、その周囲でチョッカイを出している生徒達の身は一瞬で灰になること請け合いだ。

そう、これは人命救助に他ならないだろう。

「私が知るかっ! こいつらが勝手に付きまとってくるのだ、って、ああこらっ! 勝手に触るな呆けっ!」

「まあ、それは大体想像つくけどさ」

ただでさえ外人というだけで目立つのに、加えてエリーゼが身に着けているのは例の衣装である。これでは鯛の養殖場で撒餌に海老でも撒いているようなものである。針の付いた糸を垂らせば、餌を付けなくとも入れ食い確定だろう。

「ならば呆けっとしていないで何とかししろっ!」

改めて思うほどの事でもないが、今日のエリーゼは叫んでばかりだ。

しかし、何とかするにしても、どうすればいいんだ? 女子生徒は制服に付けられたリボンの色からして一年に違いない。ならばデカイ声を出して脅しでもすればよいのだろうか? いや、それは出来れば遠慮したい。

となると、話し合いで解決するほか無いだろう。

「なぁ、ちょっとそいつ貸して貰えない? 実は俺の妹でさ……」

土壇場ででっち上げたシチュエーションをテイクワン、スタート。無難な単語を使ってカモフラージュを試みる。

正直、髪の色からして兄妹はありえない話だが、今はそれも些細なことだ。俺が兄妹だと言ったら、兄妹なのだ。こんな妹絶対に欲しくはないが、今はそれも仕方が無い。

「おい! 誰がお前の妹だというのだ。いつから私は貴様の従順に……おごもごお」

エリーゼは嬉しい事に、俺の言葉に反応していちいち反論してくれる。仕方ないので片手でその口を強引に押さえて話を進める。パッと見て変態以外の何者でもないが、その辺はあえて気にしない。こういうのはノリとテンションが大切だ。

エリーゼを囲う女子生徒達は少女と俺を交互に見比べた後、お互いに顔を見合わせて言葉を交わし始めた。

理解している。自分が馬鹿を言っていることは。

「あのぉ、それって本当ですか?」

しばらくして、おずおずといった様子でエリーゼの長髪を撫で付けていた女子生徒の一人が口を開いた。その視線は疑心暗鬼に満ちている。きっと俺は路上で遊んでいる子供をお菓子で車に連れ込もうとする変態のようなポジションにいるのだろう。自分が自分をそう思えるのだから間違いない。

「なんか、すっごい外人っぽいんですけどぉ……」

当然のように、他の子もそれに加わって物言いを付けて来る。

しかし、ここで素直に頷いてしまうわけにはいかない。今はその場の勢いで乗り切るほか道は残されていない。

「マジマジ、超マジだって。だから返してくれないかな?」

無駄に明るい声で言葉を返す。その低い姿勢は痛烈なるナンパ野郎だ。これは家に帰ってから自己嫌悪の嵐だろう。自分で喋っていて堪らない。

「髪の色とか、めちゃくちゃ違ってませんか?」

「気のせいだって、ソイツ染めてんだよ。この歳で金なんて珍しいよな? うちの親ってかなりの馬鹿でさ、そいつも本当に大変なんだよ」

お父さんお母さん、馬鹿扱いしてごめんなさい。

「でも、肌の色も違いますよ?」

「ああ、それ? それはね、新作のファンデーションなんだよファンデーション。超イイ色してるでしょ? うちの親が化粧品メーカーに勤めててさ、やっぱり女は美白だよな? それでさ、試作品のテスト? そんなのをやってるんだよ、そいつ。だから白く見えるんじゃねぇの?」

俺が何かを喋る度に、「エェー」とか、「うそぉー」といったノイズが走る。だが、聞こえない、そんなものは俺には聞こえない。

「本当ですかぁ? なんか顔の骨格からして日本人とは違うような気がするんですけど」

「彫とか深くないですか?」

「何言ってんだよ、本当の妹に決まってるだろ? いや、もう、こいつも苦労してるんだって。幼いながらに色々あるわけよ、ほら、ストレスとか、家庭内ドメスティックなんだらとか? まあ、なんだ、そういうわけだから返してくれない? 早く家につれて帰らないと親も心配するだろ? 最近ただでさえ物騒だしさ」

「でも、だったら何故こんなところに居るんですか?」

「いやぁ、それが勝手に俺についてきちゃってさ、まいったね。こいつ見ての通り性格が悪くてさ、ついでに口も悪いし、何を言っても聞かないのよ。いつの間についてきたんだろうね? はっはっは」

「でも、この子って目が青いですよ?」

「え、嘘マジで!? じゃ、じゃあ、きっと、カラコンじゃね? ほら、最近流行ってるだろ? ヴィジュアル系とかよくしてるじゃん? きっと、それも親が勝手にいれたんじゃね? まったく、とんでもねぇ親だよな。な?」

「じゃあ、この服も親御さんが着せてるんですか?」

エリーゼは口をモゴモゴと動かして、文句の百や二百は言いたそうな表情で俺を睨んでいる。しかし、今ここでコイツに場を引っ掻き回されるわけにはいかない。それは今後の俺の学校生活に大きく影響するのだから。こんな変な妹がいるのだと公言している時点でアウトな気もするが、そこは必要最小限の被害として容認するほか無い。

「そ……、そうそう、そうに決まってるだろ? 本当にどうしようも無い親だよな。なんていうの? こういうの。ほら、あれだ、虐待? そこまではいかないかもしれないけど、酷い話だよな?」

「えぇー、それってヤバくないですか?」

「え、あ、ああ。俺も止めろっていってんだけどね? けど、まあ、それが本人も気に入っちゃっててさ。だから家に居るときだけは着せてるらしいんだよ、だからいいんじゃね? 俺も知らねぇよ」

語れば語るほどドツボに嵌まっていくような気がする。とにかく、多少強引でもエリーゼを回収してずらかるとしよう。これ以上こいつ等と話をしていた所で揚げ足を取られるのがオチだ。いや、むしろ既に取り返しの付かないほど取られているのだが。

「まあ、そ、そういうわけでコイツは貰ってくからな?」

半ば女子生徒たちから奪うようにして、俺はエリーゼの体を抱きかかえた。嫌そうな顔をしてはいるが、誰が味方で誰が敵なのかは本人も理解しているらしい。暴れたりはしなかった。

というか、ここで暴れられた日には、俺の称号は変態で確定する。

「あぁー、先輩ずるいですよ、もうちょっと触らせてくださいよぉ」

「そうですよ、可愛い妹さんじゃないですか」

「髪とか超うらやましいですよ。めちゃくちゃ綺麗な金髪ですよね」

「悪いけどコイツも結構つかれてるっぽいし、親も心配するだろ? だから早く家に帰してやらないとな」

エリーゼを目の前にして、一年の女子生徒たちは既に校舎の異変さえなかった事のように至って普通に振舞っている。今時の女子高生の順応能力の高さには感服する。

「それじゃ悪いけどまたな」

俺は二度とエリーゼをこいつらの目前に置いたりはしないだろう。

「ああっー!、待ってくださいよっ!」

「せ、先輩ストップっ!」

キャアキャアと喧しい一年の女子生徒を背後にして、俺はエリーゼを抱いたまま早足でその場を離脱した。遠ざかるにつれて段々と走る速度を上げながら、もと来た道を駆け戻る。しばらくの間は俺を追うような素振りを見せていた奴もいたが、それも幾らか廊下を走り、階段を3,4駆け上る頃には居なくなっていた。

なんとか撒けたらしい。

「はぁ……」

俺も苦労の絶えない男になったものだ。

「糞が、なんて忌々しい……、これだから下賎な奴等は好かんのだっ!」

抱えたままだったエリーゼを階段の踊り場に降ろす。今回はちゃんとお姫様抱っこで運んでやったので文句も少ない。しかし、状況が状況であっただけに、かなり興奮気味だ。

「だったら少しはまともな格好しろよな?」

膝に手をついて、荒くなった呼吸を整える。なんだか、今日は走ってばかりな気がする。

「やかましい、貴様等人間の勝手な解釈を私に押し付けるな。そもそも、何故私がこのような目に合わねばならないのだっ!」

「そう叫びたいのは俺だって同じだよ、ったく……」

間違いなく、二人の思うところは同じである。

早く家に帰りたい、と。

時計の針は既に1時を回っていた。校舎が迷路になってくれたおかげで、昼食をとることも叶わない。気づけば二人そろって空腹に腹を鳴らせた。これで、運良く購買にでも出会えれば菓子パンの一つや二つ買って食べる事もできるのだろうが、今のところそれらしい場所は見つけられない。

「おい雅之」

「んだよ?」

学生服の裾を引っ張られて、俺は視線を斜め右下でへたり込んでいるエリーゼに向けた。

「私はもう疲れた。抱け、又はおぶれ」

「はぁ?」

「足が痛いんだ、歩くのが辛い。だから後はお前が私を運ぶのだ」

そう言って、両腕をこちらに突き出した。階段の踊り場、その壁際に座り込んだエリーゼは、既に自分で立ち上がる気力さえ無いらしい。

「足が痛いって、お前なぁ……、本当に自分勝手な奴だよな?」

「お前もいちいち小言の多い男だな。下僕のお前が主人である私に尽くすのは当たり前だろうが」

「なにが下僕だよ、他から見れば我が侭な妹に振り回される兄の図だろ? お前なんてお荷物以外の何物でもないぞ?」

「ふん、人間の価値観など知ったことか」

文句を垂れるエリーゼは、しかし、魔力が使えない為なのか、確かに本人が言うとおり、いつもよりも疲弊しているように見えた。先程まで、あれほど一年の女子に好き放題されていたのに、ずいぶんと落ち着いているのも怖い。体力も魔力に比例するのだろうか? 全体的に弱っているように感じる。

「情けないものだな、魔力が使えなくなった途端にこれでは、笑うに笑えん」

自身の体を抱くようにして、エリーゼは自虐的な笑みを浮かべた。

「なんだよ、ずいぶんと弱気じゃんかよ?」

「生物的にもそれなりに成長した状態で吸血鬼となったお前には永遠に理解出来ないことだろうさ、呪うならばこの身だな」

何が言いたいのだろう。

「始めは気が狂うかとも思ったが、過ぎてしまえば後に残るのは後悔くらいなものだ」

「お前、意味わかんねぇよ」

「別に気にしなくてもいい」

俺はまだ吸血鬼というものになってから一週間程度しか経っていない。沙希の言葉に従うなら、それは長いその寿命に対して、一瞬にも満たない時間だという。長生きしていると、思うところも沢山でてくるのだろうか? 俺にはよく分からない。悟りでも開いてくれちゃっているのだろうか。

「しかし、魔力が使えないと、お前って本当に何も出来ないんだな」

「や、やかましい。そのようなこと私とて理解しているわっ!」

水を失った魚、とでも形容すればよいのだろうか。改めて思い返してみると、今のエリーゼの状態も頷ける。それまでは当然としてあった魔力の肉体的な補助が失われたのだ、その喪失感は大きいだろう。宇宙から帰ってきた宇宙飛行士が、地に立って自分の足で体を支えられない事に驚愕するのと同じようなものだろう。

「…………」

そうなると、先ほどの言葉が気にならない訳でもない。日頃の横暴な態度が当たりになっていたので、あまり気にかけることは無かったが、こいつの体はかなり線が細く、華奢である。もし、それが見た目相応のものであるのならば………どうだろうか? 

………………。

どうなのだろうな。

「なんだ、ジッと見てくれて」

急に黙りこんだ俺に訝しげな表情を向けるエリーゼ。

「いや、ちょっと足を貸してみ?」

「……何の真似だ?」

エリーゼは壁に背を預け、両足を放り出すようにして座り込んでいる。しゃがみ込んだ俺は、その右足に手を伸ばし、編み上げのブーツを脱がせた。

すると、現れた黒いニーソックスの末端には若干の色濃い染みが見て取れた。触れてみると、僅かだが赤いものが指先に付着する。どうやら靴擦れを起こしているようであった。確かにこれなら痛い痛いとブー垂れるのも頷ける。

「脆いものだな、たったこれしきのことで疲弊するとは使い物にならん」

本人も出血していることには気づいていなかったのだろう。自らの足先を目にして、気を落とした風に口を開いた。

「お前が魔力に頼りすぎてるのが悪いだろ? すこしは自分の力で運動しろよな」

そうすれば足の皮も、面の皮とまではいかないだろうが、少しは厚くなるだろう。

今日は結構歩き回った気もするが、それでも時間にして1、2時間程度だ。それで皮がむけて血が出るような足というのは、どれほど柔な足なのだろうか。脆いにも程がある。

「…………フン」

俺の言葉を正論と受け取ったのか、エリーゼは鼻を小さく鳴らしたものの、特に食いかかって来ることは無かった。

しかし、手当てをしてやろうにも、ここには絆創膏も何も無い。出来る事といえばソックスを脱がせる程度だろうか? 擦れると結構いたいんだよな、これは。

「何のつもりだ?」

脱がしたソックスは丸めて学生服のズボンに突っ込んだ。腿までをカバーするやたら長いデザインのおかげで、先端部分は収まりきらずにポケットの口から顔を覗かせていた。

「ったく」

エリーゼの言った通りになってしまうのは悔しいが、かといってそのまま歩かせるのも可愛そうである。

「ほら、お前の言うとおりになっちまったよご主人様」

仕方なく、俺はしゃがみ込んだ体勢のままエリーゼに背を向けた。

「なんだ、ずいぶんと愁傷な心がけだな……、空腹に負けて、何かおかしなものでも拾い食いしたのか?」

「誰が食うか。嫌なら止めるぞ?」

「べ、別に嫌とは言っていないだろうが」

首にひんやりとした腕が回された。片手を後ろに回して尻の下から体重を支える。空いたもう一方の手で脱いだまま床に転がっているブーツを拾った。幸いにしてエリーゼは軽い。体が小さいということもあるが、同年代の子供の平均体重を考えた上でも、軽いと思う。だから片手でも十分支えられる。これでどっしりと詰まっていたのなら、速攻で放り出していただろう。まあ、流石にこの姿でそれは無いだろうが。

「んじゃ、一度戻るか。そろそろ30分経つし」

一度エリーゼのブーツを置いて、取り出した携帯の液晶に視線を落とす。すると、既に少女と約束した時間まで残り5分となっていた。今から歩き始めれば丁度良い頃合だ。目的のものは見つけられなかったが仕方が無い。こればかりは運任せである。

「……そうだな」

エリーゼが頷いたのに合わせて俺は歩き出した。今居る場所から放送室前の廊下まではそれほど離れてない筈だ。すぐに着くだろう。途中、一年に追われて忘れかけた道も何とか思い出せた。俺の想定灰色な脳味噌に盛大な拍手である。

余計に上りすぎた階段を幾階か下り、廊下へと出る。後はL字路の角を一つ曲がって、真っ直ぐ進むだけだった。

だが、その時ふと、俺の視界の端に妙なものが写った。

廊下と教室の間の壁にはガラス窓が設置されている。普段は締め切りの曇りガラスなのだが、夏場の暑い日には教室内の換気を行う為に開放されており、今も半分ほど隙間が空いていた。

そして、そのガラス窓の合い間から、なにか、熱帯雨林にでも生息していそうなカラーデザインの物体が見えた。遠目に見えるそれは、奇抜なカラーデザインも然ることならが、サイズも随分と大きく、金庫のような外観をしていた。

「どうした?」

俺が立ち止まると、背中から疑問の声が上がった。

「いや、もしかしたら……」

少し近づいて中の様子を覗き込んでみた。

すると、ガラス窓は俺の予想通り、通常の教室ではなく体育館に繋がっていた。そして、大胆にもフロアの中央に鎮座している金庫は立派な立方体で、色は赤と黄色の縞模様である。これは間違いないだろう。

どうやら一発目で当たりクジを引いたようである。

「なぁ、これって間違いないよな?」

首を横へ向けると、すぐ近く隣にはエリーゼの顔があった。

「奴の言った事が正しいなら、こいつに違いあるまい」

「というか、学校にこんな変な物は常備されてないだろ。明らかに外から持ってきた物だだな」

「見つかったのならば、早く奴を呼びにいくぞ。このような所に長居したくない」

「ああ」

まさか他の誰かが持ち去ってしまうような事も無いだろう。そもそも、他人が見たところで、それが何なのか判断さえつかない筈だ。加えて重さは60kgだという。持ち上げるだけで一苦労だ。

俺達は発見した装置とやらをそのままに、急ぎ足で元居た放送室前の廊下まで引き返した。といっても、距離的には数十メートル程度しか離れていない。角を一つ曲がると、見知った顔が既に二つあった。

沙希と少女である。

「待たせたな」

エリーゼの靴を持ったままの左手を上げて二人の視線に応じる。

「ああああぁっ!? なんで二人はおんぶなんてしちゃってるのですかっ!?」

すると、こちらの姿を認めた途端に、少女が声を大きく吼えた。いちいち五月蝿い奴である。

とりあえず駆け足で歩み寄る。エリーゼを降ろして、自由になった右手でポケットに突っ込まれていた携帯を取り出した。外部液晶に目を向けてみれば、時刻はこの場を離れてから、約束の30分後で丁度だった。なかなか大したタイミングである。

「コイツが靴擦れを起こしたんだよ」

エリーゼの足指に視線を向ける。皮がむけて赤くなった指先は、しかし、ゆっくりと瘡蓋になり始めていた。下らない発見だが、吸血鬼の血液にも血小板は存在しているらしい。

「だ、大丈夫かいエリーゼ君っ!?」

そして、少女は露になった足の傷を見るや否や、早速エリーゼに詰め寄った。

「君の白雪の如き肌にこのような傷が……なんて、なんて酷い。痛くはないかいっ!? もしも痛いというのならば、このマリー特性の万能塗り薬を塗りまくってあげるのだよっ!」

親しい友人が交通事故で重体に陥ったかの如き悲壮感を漂わせて、少女は大げさなリアクションを取ってみせた。たかが靴擦れを起こしただけでなのに随分なうろたえ具合だ。この急なテンションの変化には正直ついていけない。

「貴様もいちいち五月蝿い奴だな。別にいらん、邪魔だから離れろ」

一方のエリーゼは、両手で少女の体を押さえて、これ以上は近づかれまいと必死である。

「でもでもでも、血が出てるのだよっ!」

「出血ならば既に止まっているし、元々大した傷でもない。この程度のことでいちいち騒ぐな」

自身の足を一瞥して、偉そうにそう言い捨てる。

「なら、その大した傷でない傷で、おぶれだの何だのと喚いていたのは誰なんだ?」

「や、やかましい、貴様は黙っていろっ!」

まったく、自分勝手な奴である。

「そうだ、エリーゼ君っ! 幾ら出血が止まったとはいえ、消毒は必要だと思うのだよっ! 小さな傷だったとしても、それが破傷風とかに被害拡大してしまっては一大事だろう? そこで、不肖このマリーが君の可愛い足に生息する雑菌細菌その他諸々を殲滅してあげるのだよっ!」

エリーゼが俺の言葉に意識を取られているうちに、何事かを叫んだ少女は、突き出された両腕の包囲網をすり抜けてしゃがみ込んだ。そして、その場に両手両膝をついて屈みこむと、ソックスを脱いでそのままになっているエリーゼの足の指に舌を這わせたのだった。

「な、なにをっ!!」

指先に異物を感じて慌てて後ろに飛びずさるエリーゼ。見れば、その指先は少女の唾液に濡れてテカテカと光っていた。

「貴様はいきなり何をするかっ!」

「あぁ……エリーゼ君の味がするのだよ……まろやかぁ……」

少女は、それが一瞬であったにもかかわらず、恍惚の表情を浮かべて廊下の天井を仰いでいた。口をモゴモゴと動かしているのは、舌に残る足の味を味わっているからなのだろうか。たしかに、今ならばエリーゼの言う少女の変態性を眼で見て実感できる。したくはないのだが。

「ええい気色悪いっ! 貴様は死ねっ、いい加減に死ねっ! くたばれ外道っ!」

「何を言うのだい、唾液中に含まれるラクトフェリンやリゾチームといった諸成分は雑菌細菌に対して非常に有効な抗菌作用をもっているのだよっ! これを今使わずしていつ何時使うというのだいっ!」

「一生使うな馬鹿者がっ!」

ボケる、というか、既にそのレベルを超えた少女の破天荒な行動に、エリーゼは翻弄されて叫ぶばかりだ。沙希は沙希で無言のまま、何の感情も読み取れない無機質な表情でその様子を眺めている。ともすれば、話を次のシークエンスへ進められるのは俺だけなのだろう。

「エリーゼ君、お願いだからもう少し舐めさせて欲しいのだよ。まだまだ、味わい足りないとマリーの味覚神経は更なる至高を求めて……」

「ああもう気持ち悪いっ! 離れろっ! 触るなっ!」

すぐにでも走って逃げ出しそうなエリーゼと、ジリジリ距離を詰める少女。

とにかく、今は見つけた装置を早くこの二人に報告すべきだろう。エリーゼの靴擦れにしても、外へ出られたならば、コンマ1秒で勝手に治ってくれる筈だ。いちいち構っているだけ時間の無駄だ。

「おいお前等。じゃれ合うのもいいけど、ちょっと俺の話を聞けよな」

言ってエリーゼと少女の間に割って入る

「エリーゼの足を舐めるのは構わないけど、そういうことは後でやってくれよ。それよりも、お前の言う例の装置とやらが見つかったんだ、早いとこ外に出してくれよ」

俺の助けに安堵の息を吐いたエリーゼが、畳み掛けるように言葉を続けた。

「そうだ、それが貴様の仕事だろうが、早くしろっ!」

余程この少女が苦手なのだろう。俺の背後に隠れる形となったエリーゼは、顔だけを横から出して、学生服の背を握っている。初対面の相手を怖がり、母親の背に隠れる子供、といった具合だ。

「なんと、探索一回目にして早速見つけたのかいっ!?」

変わり身の早い少女は、すぐに意識をエリーゼから俺に移すと、その報告に眼を丸くした。

「偶然見つかったんだよ。このくらいの大きさで赤と黄色の縞模様だろ? 体育館のど真ん中に置いてあったぞ」

両手を大きく動かして、先ほど見つけた金庫のような物体を表現してみせる。その形は少女が言ったように、確かに立方体であった。

「おぉ……、確かにマリーは装置をフロアの中央に設置したのですよ。これはまた、なかなか仕事の早い下僕君だね、素晴らしい働きなのだよ」

「だから、俺は下僕じゃないって言ってんだろうが」

一体何度言えば分かるのだろうか。いや、きっと理解した上で何度も繰り返しているのだろう。言われる側としては、そうそう慣れるような呼称ではない。呼ばれる度に、これまでのエリーゼの横暴が、トラウマとして鮮明に蘇ってくれるのだ。って、今はそんな愚痴に溺れている場合でもない。話を進めよう。

「さてさてさてっ、見つかってしまったのなら仕方が無いのだよ。有言実行、装置を解除して、皆で仲良く外へ出ると致しましょうっ!」

「場所はあっちだ。そこの角を曲がった所にある教室が体育館に繋がってる」

俺の先導を受けて、一同は体育館に通じる教室の前まで場所を移動する。先ほど確認したガラス窓同様、教室の前と後ろに設けられた横開きのドアに関しても、同じようにそれぞれが体育館の出入り口に繋がっていた。

思えばこんな目に付きやすい場所にあって、どうして散開後すぐに見つからなかったのか。そんな疑問がふっと沸いて出たが、思い返してみればこの方向を調べていたのはエリーゼである。きっと、ろくすっぽ探しもせずに、ただ歩き回っていただけだったのだろう。まったく、どうしようもない奴だ。

背中に荷物を背負ったままドアの敷居を跨ぎ、体育館へ入る。中には俺達の他に生徒や教師の姿は見当たらない。これは不幸中の幸いだった。

「確かに、繋がっていますね」

「だろ?」

「私に感謝しろよ? 私が靴連れを起こしたおかげで見つかったのだからな」

「うるせぇよ馬鹿」

フロアの中央に置かれた気色悪いカラーデザインの箱。それを囲って集まった4人の視線が少女に集まる。

「どうなんだ?」

「うん、間違いないのだよ」

俺の言葉に少女は深く頷いた。

「そうか、ならば早くしろ。いい加減腹が減った」

まったくだ。今にも腹の虫が鳴り出しそうである。

「ではでは、解体するのだよ。少し時間がかかるから待っていて欲しいのですよ」

やる事の無い3人は、装置と向き合う少女の後姿を手持ち無沙汰に眺める。ようやく、この迷路と化した校舎から外へ出られるようだ。

しゃがみ込んだ少女は目の前の箱に手を伸ばし、家庭用コンピュータのスライドパネルを空ける要領で、その側面の一つを取り外した。中にはなんだか………、よく分からないモノがギッシリと詰まっていた。少なくとも俺の部屋にあるパソコンの比ではない複雑さだ。

ドクドクと脈打っている生き物の臓器を模範したような部品さえ垣間見える。携帯電話やコンピュータのような電化製品とは根本的に作りが違うらしい。ずいぶんグロテスクな代物だった。プリント基板上にはシリコンチップやコンデンサが散りばめられ、その隙間をメタリックなケーブルが所狭しと蔓延っている傍ら、脈打つ心臓のような有機物が至る所に配置されている。これで何かしらの機能を持っているというのが信じられない。端的に外見だけを評価するならば、何の目的も無く組み上げられた小学生の自由工作だ。無論、それにしてはグロテスク過ぎるが。

「さぁ、これを壊したら終わりなのだよ」

しばらくして、少女が箱の中から拳大のキラキラと緑色に光る宝石のようなものを取り出した。その端からはなにやらケーブルが延びており、一端は箱の中に続いている。それが一体どういった機能を担っている部品なのかは想像もつかない。しかし、室内灯の光りを反射してキラキラと光る様子は、いかにも重要そうな部品だという感じがする。

「ならばさっさと壊せ、時間が勿体無い」

「でも、これは非常に高価な代物なのですよ? 出来ればマリーとしては、もう少し様子をみる時間が欲しかったりするのだけれど……」

「貴様の事情など知ったことか。自業自得だろうが」

たしかにその通りである。

「貴様が壊せないというのならば私が壊してやろう。貸してみろ」

「い、嫌なのだよ。せめて壊すならマリーが自分の手で砕くのだよっ」

エリーゼの言葉に慌てた少女は、光る宝石を左手に握って振り上げた。

「そんなんで壊せるのか?」

「問題ないのだよ」

自信たっぷりに頷く少女。そして、その腕を勢い良く振り下ろした。

立方体である装置の各辺が一点に集まる場所、つまり、箱の角になった部分に打ち付けられた宝石は、静かな館内に乾いた音を響かせて見事に砕け散った。思いのほか脆い鉱石であったらしい。キラキラと室内灯を反射して飛び散るその破片はキレイなものだった。

しかし、その光景に見とれることが出来た時間も僅かである。

突如として激しい揺れが俺達を襲った。

体育館のど真ん中という他に何も縋る物が無い場所で、俺達4人は見事にすっころび、床に倒れた。揺れはテスト中に起こったヤツと同程度の規模である。

「な、なな、何事だっ!?」

「また、じ、地震かよっ!」

「こ、こここ、この揺れが収まったら全ては元に戻っている、る、る、筈なのだよ、よ、よ」

床にへばりついて揺れに耐えながら、それでも説明をしてくれる少女。

「も、もっと、やさしく出来ないのかよっ!」

「こ、こればかり、り、はしょうがないのだよっ!」

「つかえん、ん、道具だっ!」

舌を噛みそうになりながら騒ぎ立てる。体育館の中央にあっては、周囲に手で掴まれるような突起も存在しない。強烈な横揺れに身体を左右へ滑らせながら、俺達は必死に耐えていた。頼みの綱は手に汗を握った、その表面にある多少の摩擦係数である。直近くに鎮座していた例の装置も揺れに贖うことは叶わずに、右へ左へと床に引っかき傷をつけながら動いていた。

揺れは2,3分程度続いた。上から照明器具が落ちて気やしないかと不安だったが、流石に場所が場所なだけに対策は施されていたらしい。教室のときのような惨状にはならなかった。ガラス窓は既に一度目の揺れで全て割れてしまっているから飛び散る事もない。

そして、揺れが収まったとき、恐る恐る顔を上げる俺の視界に移ったのは、果たして確かに、靴擦れの傷跡がキレイサッパリ消えたエリーゼの足の指だった。ちょうど目の前にあったのである。

いの一番に目に入ったのがコイツの足というのは気に食わないが、床に伏せたままで慌てて周囲を見渡すと、どうだろう、窓から覗くのは地上に燦々と光りを注ぐ夏の太陽だった。

他の3人もまた同様に、外の景色に意識を奪われていた。

「これは……ようやく、元に戻ったのか」

腰を起こしたエリーゼが口を開いた。

「間違いなく戻ったのだよ」

「確かに、そのようですね」

開け放たれたままになっていた窓から、チュンチュンと雀の鳴き声が聞こえてきた。間違いない、校舎はもとあった姿に戻ってくれたようである。

「はぁ……」

思わずため息が漏れた。

胡坐をかき直し、ポケットに突っ込んである携帯を取り出してみる。数日前に買ったばかりの最新型は、ディスプレイに電波が十分届いている事を示す、アンテナ3本のアイコンを表示していた。その隣に表示された時刻は、今が1時35分45秒であることを示している。そして、胸の中にはすぐ近くにエリーゼが居ることを示す、暖かな点が確かにあった。

「ったく、苦労させてくれるよな」

「まったくだ」

しかし、外へ出られて嬉しいことは嬉しいのだが、この後また元気になったエリーゼの相手をしなければならないことを考えると、胃がキリキリと痛んだ。それに、今はテスト期間の真っ只中だ。勉強だってしなければならない。嫌な事はどうしてこうも重なってくれるのだろうか。

「おい雅之」

立ち上がったエリーゼが俺を見下ろして名前を呼んだ。

まさか、早速今までの報復を行おうと言うのではあるまいな?

慌てて俺も立ち上がろうと、床に手を着いて足に力を入れた。しかし、腰が床を離れるか離れないか、と言ったところで、スッと伸びてきたエリーゼの腕が俺の学生服の襟首を掴んだ。

「な、なんだよっ!」

それまでの力関係とは一変して、今度はこちらが狩られる側である。ヘビとカエル、ライオンとシマウマ、トムとジェリー、etc etc 。思わず上ずった声が出た。しかし、相手はどうやら今すぐに俺を詰るつもりは無いらしく、

「とっとと帰るぞ」

と、短く言って握った襟首をそのままに体育館の出口へと踵を返した。

「ちょ、ちょっと待てよ、生地が伸びるだろうがっ」

2倍近い身長差のおかげで立ち上がる事もできずに、腰を曲げた中途半端な姿勢で引っ張られる。最近、こういう無理な体勢で強引に引っ張られる事が多いのは、多分気のせいじゃないだろう。

「やかましい。私は疲れたのだ、それに腹も減った。もうこのようなところには一秒たりとも居たく無い」

それは俺も同じである。

「あ、ああっ! ちょっと待つのだよエリーゼ君っ! マリーも連れて行って欲しいのだよっ!」

そんな様子を見た少女が慌てて後をついて来た。

「黙れ、誰が貴様など連れて行くか」

それは言わずもがなだろう。俺としても全力で遠慮したい。しかし、相手は口で言って素直に聞くような相手ではない。エリーゼもそれは理解している筈である。

「いくぞっ!」

だからだろう。俺の手首をとったエリーゼはこちらの了解も待たずに大きく跳躍した。恐ろしい力で体が上に引っ張られる。

「ぬぉおおおおおおおおおっ!?」

悲鳴さえ置き去りにして、足は床から遠く離れていた。

沙希と少女をその場に残して、俺はエリーゼと共に割れたガラス窓から勢い良く体育館を飛び出していた。ちなみに、体重の全てを支えているのは、小さな手によって握られた手首の僅かな面積である。跳躍した勢いと相まって、痛いことこの上ない。

「あ、あぁぁっ!? そんなっ! また君はマリーの元から逃げるのですかっ!? 待って欲しいのだよぉおおっ!」

少女の叫び声が良く晴れた青い空に響く。けれど、それもエリーゼの馬鹿みたいなジャンプ力の前に、すぐに小さくなって消えた。どうやら少女にはエリーゼを追うだけの身体的能力が備わっていないらしい。追ってくる様子は無かった。

強引に引っ張られて痛む片腕から背後へと意識を移せば、そこには既に小さくなった体育館の姿があった。また、隣接する校舎は確かにいつもの校舎で、化学準備室から音楽室へ繋がっていたりするようには見えない。あの狂った校舎も元通りとなったようである。とりあえずは、これで一安心といったところか。吉川に何の連絡も入れないで出てきてしまったことは多少気になるが、まあ、どうせすぐに学校で顔を合わせるのだ、構わないだろう。

外の空気は校舎の中と比べて幾分澄んでいて気持ちが良かった。実際にはそれほどの時間を彷徨っていたわけではないが、ずいぶんと久しぶりに陽光を浴びるような気がして、やけに太陽が眩しかった。

だが、今はそんな開放感に入り浸っている場合ではない。

「っていうかお前、痛いんだよ、おいっ!」

恐ろしい速度で飛び回るエリーゼに連れられて、俺の身体はまるで強風の中をはためく鯉のぼりの様な状態であった。血液の循環が行えなくなった手首より先は、赤く肌の色を変えている。長くこの状態が続けば壊死しかねない状態だ。

「やかましい、貴様だって私の脇を持って走り回ってくれただろうが、文句を言うな。言っておくが、あれは意外と痛いのだぞ?」

「だからって、コレは酷すぎだろうがっ!」

エリーゼは家屋の屋根を蹴って颯爽と走る。コイツが跳躍と着地を繰り返すに応じて、掴まれている俺の体は、上下左右に激しく揺さぶられる。そしてたまにぶつかる電信柱や店の看板に涙を浮かべるのだ。

「フンッ、知ったことか」

「お、おいっ、だったらせめてスピードを落とせよっ! というか、もう追って来てないんだから普通に歩いて帰ればいいだろうが。なんで屋根の上を走ってんだよっ!」

「腹が減ったといっただろう? 早く帰るに越した事はないだろうが」

エリーゼはそれがさも普通であるように答える。そして、そんな横暴に文句を返そうとした俺は、しかし、エリーゼが着地するのに合わせて、ビルの屋上に、冷たいコンクリートへと全身を叩きつけられていた。喋る事に気を取られていて受身を取ることも出来なかった。

「っ!!!!」

「ほら、喋っていると舌を噛むぞ?」

すでに噛んでいる。

「い、い、痛いぃぃっ!」

目には大粒の涙が浮かんでいた。

色々と挫けそうだった。

「フッ、馬鹿が」

聞きたくも無いのに、いつの間にか耳に慣れてしまった嘲笑が今日も俺を苛む。

「ぃつぅぅ……」

この身に起こった不幸と俺はどう向き合っていけば良いのか。

まだエリーゼが来て一週間しか経っていないのだ。

これでは、先が思いやられる……。