金髪ロリツンデレラノベ 第二巻

第二話

昨日の超局地的大地震事件は一切が世間に報道されないまま終焉を迎えた。

2度目の揺れの後で、校舎の外へ飛び出した俺達が見たのは、地震など何処吹く風で、いつもの日常を限りなく平和に謳歌する世間の風景であった。

なにせ、揺れを実際に体感したのは生徒及び職員の合わせて1000人にも満たない者だけである。仮にそれを警察やマスメディアに報告しようとも、せいぜい、学内で性質の悪いチンピラが暴れたものとして扱われるのが関の山だろう。まさか、数百平方メートルの敷地内に限ってマグニチュード7を越す大地震があったとは、まともな思考回路を持つ人ならば思うまい。

そして、その翌日である今日は、校内がゴミ箱をひっくり返したかのように荒れていた事もあり、授業を行うのは不可能だという職員会議の決定によって、朝早くから滅多に使われない連絡網が回り、臨時の休校となることが生徒諸君に伝達されていた。おかげで、俺の早起きは無駄になった。ついでにいうと、昨日の晴天から一変して、速度を上げた台風の上陸によってこの辺一帯には大雨洪水警報が発令中だった。

世間も天候も大忙しである。

ただ、幸いだったのは、昨日の昼過ぎに家へ帰ってきてから今に至るまでの間で、エリーゼの暴挙が俺に働かれていない点である。アイツもアイツで例の少女を相手にしての心労が貯まったのだろうか? 昨日は家に帰ってきてから食事を要求した位である。その後は別段何事も無く時間は過ぎて、静かに夜を迎えた。逆に怖いくらいである。

「さぁて、今日はどうするか」

リビングの掛け時計によれば、今は午前10時47分。

朝食を食べ終えた俺は、ダラダラとソファーの上で無駄に時間を過ごしていた。3時間ほど前に回ってきた高校の連絡網によれば、明日からは通常通り授業があるらしい。つまり、期末テストが引き続き実施される予定になっている。しかし、一度こうして間が空いてしまうと、机に向う気力も霧散してしまい、どうにもやる気が沸かなかった。

「おい雅之、喉が渇いた、何か持って来い」

隣には家庭用ゲーム機のコントローラを握るエリーゼがいる。先日発売されたばかりの最新ゲームを相手に奮闘しているのだ。RPGゲームを買い与えたのは正解だった。定価6800円のソフトウェアは結構な時間に渡ってコイツを拘束してくれている。なかなか大したコストパフォーマンスだ。

「それくらい自分で行けよな」

「私は今忙しいのだ。もう少しでこのボスが倒せるのだぞ? 何のために3時間もかけてレベルを上げたと思っているのだ。リアルタイムバトルを舐めるな」

食い入るようにテレビ画面に見つめたまま、メーカー広告の受け売りを返すエリーゼは真剣そのものだ。大きな剣を持った男が画面を右へ左へ忙しなく動き回っている。

「それって、そんなに面白いのか?」

始めてからかれこれ3時間は続けている。

「そうだな、人間が作ったものにしては上出来だ」

取扱説明書で確認したところ、そのソフトにはスタートボタンでゲームの進行がストップするという仕様が存在するのだが、しかし、幾ら俺が非難の声を上げたところで、コイツは聞く耳を持たないだろう。

「ったく」

まあ、俺も喉が渇いたところだ。

重たい体を奮い立たせて席を立つ。たしか、冷蔵庫の中にはまだペットボトルに入ったジュースの類が残っていた筈だ。

ノリの良い戦闘シーンのBGMを背にしてキッチンへと向う。

冷蔵庫を開けると、予想通り中身を半分以上残したペットボトルが見つかった。昨日買ってきたばかりの炭酸飲料水である。夜中に目を覚ました誰かさんがガブ飲みしない限り無くなる事はないだろう。それもつい三日ほど前の話だ。

だが、それとは別の問題が浮上した。

「あ、やばいな……」

ジュースはあったが、昼食の材料が無かった。

冷蔵庫の奥を覗き込んでみる。まともな食材は、野菜室に入っているタマネギと、賞味期限が近づいて酸っぱくなったパックキムチくらいだ。残念ながら、俺のレパートリーには、こいつ等だけで作れる料理は存在しない。

炊飯器の中には湯気を上げる白米が3合程度あるが、こういう時に限ってレトルト食品は切れている。まったく、運の無い事だ。

「おい、早くしろ」

リビングから催促がかかった。とりあえずジュースの入ったペットボトルとコップ二つを手に取り、リビングに戻った。

ソファーテーブルに置いたガラスコップへオレンジ色の液体を注ぐ。エリーゼはそれを感謝の言葉も無く手に取ると、一気に飲み干した。栓を開けて一日経つとはいえ、仮にも炭酸飲料である。それを一気飲みとは、コイツの喉も随分と頑丈な作りをしているようだ。

「礼ぐらい言えよな?」

自分の分を注いでソファーに腰掛ける。

「下僕が主人の命に従うのは当たり前の事だ。いちいちそのようなことで話しかけるな、気が散るだろうが」

しかし返ってきたのは愛想も何も無い失礼な物言いである。無論、視線はテレビ画面を射抜くように見つめたままだ。とはいえ、これでも慣れてしまえば、だんだんと腹も立たなくなってくるから不思議なものだ。というか、いちいち訂正を入れるのにも疲れた。

「…………」

黙ってテレビ画面に目を向ける。

ボス戦もどうやら佳境らしい。段々と少なくなってきた生命ゲージやアイテムリソースに渋い顔をするエリーゼは真剣そのものだ。

ちなみに俺はまだプレイしていないので、ステータスバー等の画面情報からゲームの詳細な状況を読み取る事はできない。ただ、なんとなくエリーゼがピンチっぽい感じがするのは、味方キャラのステータスがどれも赤色に点灯していることから想像される。

それでも、しばらくの間は持ちこたえていた。

しかし、3時間のレベル上げも成果を上げる事は出来なかったようだ。時計の分針が90度ほど角度を変えた頃には、真っ黒な画面に赤い文字でGAME OVERの文字が表示されていた。エリーゼが力一杯投げつけたコントローラーを、窓ガラスにぶつかる手前で俺がキャッチ出来たのは、本当に奇跡としか言いようがないだろう。

「な、投げんなよっ!」

これは叱るべきだろう。

「やかましい、コイツが悪いのだっ! 私の、私の努力を何だと思っているっ! これでもう3回目だぞっ!」

「だからって、物に当たってんじゃねぇよっ!」

やはり、エリーゼから目を離すのは危険なようだ。

「んなこと言うなら、もうゲームはやるんじゃねぇぞっ!」

「このような稚拙な遊びを誰がやるものかっ! 折角私が遊んでやったというに、この仕打ちとはずいぶんと人を舐めた道具だ」

先程とは言っていることが間逆である。

「そりゃお前がヘタなだけだろ?」

「黙れ、喋るな、死ねっ! もういい、やってられるかっ!」

まったく、ゲームオーバーになった程度で随分な反応である。

ソファーの上でふんぞり返ったエリーゼは興奮を隠すことなく、怒りに鼻息を荒くしている。ゲームオーバーのシーンが奏でるドロドロとしたBGMが遣る瀬無い感じを誘う。

というか、今の俺が抱える問題は、エリーゼに対する家庭用ゲームソフトの難易度を考える事ではない。今日の昼食をどうするかである。外は台風が上陸中なのだ、出来れば買出しは遠慮したいところである。しかし、この雨では店屋物を頼むにしても、配達は望めないだろう。俺だけなら一食くらい抜いたところで問題は無いのだが、こんな状態のエリーゼに我慢させるのは、まず不可能といってよいだろう。

そして、当のお邪魔虫は俺の都合などお構いなしで突っ掛かってくる。

「そうだ、私のことを下手だと言うのならば貴様がやってみるがいい。倒せる訳が無い、そういう風に作られているのだ、このゲームは」

「んな訳あるかよ」

時刻はまだ11時を少し過ぎた程度である。しょうがない、とりあえず今はエリーゼが他に物を壊さないように相手をしてやることにする。コイツの手のかかるところは魔力があろうと無かろうと、見た目相応のガキと大して変わらない。

「人間の作ったものに私が翻弄されるなどありえん。この聡明な頭脳が訳の分からぬ四角い箱に翻弄されて堪るものか」

「でも現に、遊ぶどころか遊ばれまくってるじゃんかよ」

「そ、そのようなこと知るかっ!」

「どういう理屈だよ……」

言われてゲーム機のコントローラーを手に握る。何の練習も無しで、リアルタイムのアクション性が高いゲームをやるのは大変だろう。しかし、ゲーム自体には興味もある。というか、だからこそ買ったのだが、先にプレイ権を取られてしまったのだ。俺はエリーゼの言う通りにすることにした。

加えて、そこで一つ良い事を思い当たり、条件を一つ出す。

「じゃあ、これで俺がさっきのボスを倒せたら、お前が俺の言う事を無条件で一個聞くってのはどうだ?」

「なんだ、随分と自信があるようだな?」

「別にそういうわけじゃないさ。ただ、普通にやったって楽しくないだろ?」

俺の言葉を受けて、エリーゼはニヤリと笑みを作った。余程このゲームの難易度に自信があるのだろう。伊達に4回も同じ所で失敗しているわけではない様だ。だが、俺は知っている。コイツはこの手のゲームがかなり下手なのだ。

「私は別に構わんぞ。しかし、お前がソイツを倒せなかったのならば、逆にお前が私の言う事を無条件で一つ聞くことになるがな。言っておくが、お前が失敗したその後で、前言を撤回させるような真似は許さないぞ?」

「ああ、別にそれでいいぞ」

きっと何とかなるだろう。今まで様子を眺めていた限りではそんな気がする。主人公側の能力は十分な値を持っている。エリーゼの言う3時間のレベル上げというのも上出来だ。コイツがボスを倒せなかったのは、単にゲームが下手なだけだろう。

「じゃあ、やるぞ?」

「ああ、とは言っても結論は既に見えているがな」

「冗談ぬかせ」

コントローラの十字キーを押して、GAME OVERという表記の下に描画されていたCONTINUEのボタンを選択する。すると、ゲームは最後にデータを記録していたボス戦直前のシーンまで戻った。

こういうゲームをやらせてみると分かるのだが、普段の素行はガサツで大雑把なエリーゼなのだが、意外と几帳面な一面を持っていたりもする。例えばセーブされていたキャラクターのステータスは万全の状態だし、ステータス画面のアイテム欄を見れば、キャラクターが持てる限界まで買い込まれた回復アイテムの類がギッシリとソートされて並んでいる。ソファーテーブルの上には自作らしいダンジョンマップや、購入予定のアイテムの値段を概算したメモまでが置かれている。結構必死でやっているみたいだった。こういう所はちょっと可愛いと思う。

「…………」

キャラクターを動かして場面を一つ移動させると、ボス戦はすぐに始まった。フラッシュバックする画面効果と共に現れた3Dのクリーチャーが勢い良く襲い掛かってきた。炎の息を吐いたり、空から落雷を落としたりしてくる。流石は新作、迫力満点だった。

画面に映し出されている派手な3D映像を目にしていると、まだ、エリーゼの魔力とやらもマシな気がしないでもない。ただ問題なのは、こういったゲームと大差ない状況が普通に身の回りで起こっているという点である。

とはいえ、今はそれを嘆いても仕方が無いだろう。もしも、ここでボスを倒せればエリーゼに好きな命令を一つ出来る。それが大きなやる気となって、俺は真面目にコントローラを握った。

………………。

…………。

……。

そして、エリーゼが30分以上をかけて奮闘していたその戦闘は、なんてことはない、アッサリと10分程度で終わってしまった。それほど苦労した感じもないし、むしろ簡単であった。

軽快な音楽と共に、その戦闘によって得られた経験地やお金といったボーナス情報が画面に表示される。続けざまにキャラクターのレベルアップを知らせる軽快な効果音が幾つか鳴り響いた。

「どうだ?」

隣に目を向けてみる。

すると、そこには目を丸くして画面を見つめるエリーゼがいた。どうやら俺がボスを倒すとは想定の範囲外であったらしい。ポカンと開いたままになっている口が間抜けだった。

「な……、何故だ……」

「いや、何故って言われてもな」

きっと、お前が下手なだけだろう。

少なくともゲームソフト側に問題が無いことは、これで証明された。

「ありえん、何故お前が倒せて私が倒せなかったのだっ!?」

「そりゃ、お前が下手なだけだろ?」

「そのようなことがあるはず無かろうっ! 私がコレほどまでに真剣に取り組んだ結果なのだぞ? それを下僕如きに越されるはずがないっ!」」

「でも、現に俺は倒したぞ?」

「そ、それは………」

とても悔しそうな表情である。これはなかなか気分が良い。

「そうだ分かったぞっ! 今のは私が事前に挑んだ後にお前が挑んだからこその結果なのではないのかっ!? 私の前哨戦があったおかげで、お前はそいつを倒す事が出来たのだっ! そうだ、そうに決まっている」

「んな事あるかよ。ステータスやアイテムにしても全部元に戻ってただろ? お前も見ただろうが、俺がデータをロードしたところ。あれでどうしてお前の結果が反映されてるんだよ?」

「だ、だが……、それでは何故私は倒せなかったのだっ!」

隣に座っているエリーゼは支離滅裂な理論武装を盾にして、グッと圧し掛かる様にして迫ってくる。腿の上に置かれた右手がデニム生地のズボンを悔しそうに握り掴んでいた。爪が立っていて少し痛い。

「理由なんて、俺が上手いか、お前が下手なのか、そのどちらかに決まってるだろ? 明らかに結果が違いすぎるし、運とか偶然とか、そういう問題じゃないだろ、これは」

「お前が出来て私が出来ないとは考えられんっ!」

「でも実際にそうなんだからしょうがないだろ。それよりも、さっきの約束は忘れてないよな?」

咄嗟のことであったが、約束しておいて良かった。

「っく!」

俺がそう言うと、エリーゼは心底悔しそうに顔を歪めた。

「今更無かった事にはさせないぞ?」

前言は撤回させない、とはコイツの言葉だ。

「わ、分かっているっ! その程度の事でいちいち喚くなっ」

「ならいいけどな」

また、いつもの調子で踏み倒されるかとも思ったが、今回は流石のエリーゼも自分の負けを認めたようだ。誰が見ても明らかな結果だろう。俺も良い事を思い立ったものである。十数分前の自分を褒めてやりたい。

しかし、何でも一つ言う事を聞くということだが、実際には何を命令しようとか、一切考えていなかった。

俯き調子で、自作のボス戦用メモを片手にブツブツと呟いているエリーゼ。まさか俺が倒せるとは思わなかったのだろう。相当なショックを受けたようだ。だが、俺も初めてやるゲームでここまで差が出るとは思わなかった。それを考えると、エリーゼの下手さ加減は相当なものなのだろう。

「それで、約束の命令だけどな……」

さて、一体何を命令しようか。普段ならば幾らでも出てきそうなものが、逆にこうして状況が用意されると悩むものである。とはいえ、下手なことを言えば、逆ギレされて俺が痛い目を見るのは請け合いだ。適当なところで手を打つのが良いだろう。

「何にするかな」

「…………早くしろ」

ソファーに浅く座り、手には自作メモを握ったまま、背骨を丸めた姿勢で顔だけをこちらに向けている。

「あー、でも、早くしろって言われてもな……」

こんな機会は滅多にないのだし、慎重に考えたいところだ。急かされては良い考えも浮かばない。

意味も無くリビングをぐるりと見渡す。すると、いつの間にか11時もその半分を過ぎようとしている掛け時計の分針が目に入った。そういえば、昼食の用意がまだであった。

「とりあえず今は飯の支度を先にするから、この話の続きは後でな。お前も腹が減ってきてるだろ?」

「フン、好きにしろ」

不貞腐れるエリーゼを尻目に、窓ガラスから外の様子を伺ってみる。台風の名に恥じない勢力を持った熱帯性低気圧は、ベランダをビショビショに濡らして、それでもまだ飽き足らずにガラス窓へ大粒の雨をバシバシ叩きつけてくれている。正直、外へ出るのは億劫である。

しかし、ここで食事を作らないなどと言ってしまった日には、破裂寸前の爆弾となったエリーゼがなんと騒ぎ立てるだろうか。それに俺も朝はトーストと目玉焼きしか口に入れていないので、腹が減っている。

「しょうがない、雨合羽で行くか」

いつか買った記憶のあるビニール武装を取りに自室まで戻る。

できる事ならば、この昼食の買出しこそをエリーゼへの命令に使いたいところだが、アイツの破綻した性格では、まともに現代社会のお買い物システムを利用できるとは考えがたい。それに、利用出来たとしても、ちゃんと頼んだものを買ってきてくれるのかどうか、怪しいところである。その辺を考え直してみると、先ほどの賭けは随分とハイリスク・ローリターンだったようだ。

まあ、結果は俺の勝ちだったのだし良しとしよう。それよりも今は買い物だ。

「んじゃ、買い物に行って来るから大人しくしてろよ。くれぐれも窓ガラスを割ったり、家具を壊したりしないようにな」

雨合羽を着込んだあと一度リビングへ戻り、ソファー越しに見える金髪へ声をかける。だが反応は無かった。随分と落ち込んでいるようだ。これでこのままずっと大人しくなっていてくれれば良いのだけれどな。

「…………じゃあ、行ってくるな」

そして、俺は決意を新たにして、嵐の中を近所のスーパーまでの道のりに、その一歩を踏み出した。

目的の「スーパー 内山」は奥様方に大人気の地元密着型の食料品販売店だ。野菜から雑貨まで生活に必要なものは一通り手に入る。特にこの店は生鮮食品のコストパフォーマンスに優れ、ご近所の間では無くてはならない存在である。今日のような台風の日でも、客足が途絶えていないことからして、その人気は伺える。

場所的には自宅のマンションから歩いて20分程度だろうか。それなりに距離があるので、いつもはバイクなり自転車なりを使って通っているのだが、流石に今日は歩いて向った。増水した溝の水が路上へ逆流し、至る所で道が川と化していた。こんな日に二輪に跨るのは自殺するのに等しい。

近所の主婦達に交じって昼食と夕食の材料、それに夜食や間食の為にお菓子やら何やらを適当物籠に突っ込むと、俺はレジを手早く済ませた。エリーゼが美味いと賞賛していた銘柄のプリンもついでに買っておいてやる。これで少しは機嫌も取れるだろう。

着込んだ雨合羽の僅かな隙間から染み込んだ雨がTシャツとズボンを濡らしている。あまり気持ちのよいものでもないので、早いところ帰るとしよう。

清算の済んだ商品を矢継ぎ早にビニール袋へ突っ込んで、俺は「スーパー 内山」を後にした。携帯を取り出して時刻を確認すると、既に12時を回っていた。家では何処かの国の自己中なお姫様が憤慨して食事を待っていることだろう。急いで帰らなければ、また窓ガラスがピンチな事態に陥っているかもしれない。

雨合羽のフードを目深に被ると、俺は足早に帰路へ着いた。

帰り道は行きに来た道とは別の道を選んだ。途中で溝の水が増水し、足首の辺りまで浸かってしまうような場所があったからだ。距離的には大して変わらない迂回路があったので、そちらを通る事にしたのである。幾ら雨合羽を着ているとは言え、車が通るたびに全身泥水のシャワーでは堪ったものでない。

しかし、それが過ちだった。

始めは人の叫ぶ声が聞こえてきたのだ。

それに驚いて声の聞こえてきた方向へ視線を向けると、そこは近所の公園だった。

通学路にもなっている黄瀬川の川べりに沿って作られた、ちょっとした規模の公園である。川の水を取り入れた噴水付きの溜池が近所の子供達に大人気、というのはそろそろ17歳の誕生日を迎えようとしている今の俺には余り関係の無い情報だ。

だが、こんな雨風が吹き荒ぶ日に、一体何をやっているのだろうか。公園を囲うようにして植えられた樹木が視界を遮ってくれている為に声の正体は分からない。しかし、声が子供のものであった事に気を引かれて、俺はその中へと足を運んだ。もしも本当に誰かが居るのならば、警察の一つでも呼んだ方が良いだろう。そんな慈善意識が働いたのである。

けれど、俺が引っ掛かったのは随分と性質の悪いトラップだった。

声の主は俺も見知った相手であり、それも、もう二度と会いたくないと心から思っていた奴だった。

ジャングルジムの周囲で、ダンボールに囲まれて慌てふためいているのは、一昨日俺の通う学校を迷路にしてくれた変態少女以外の何者でもない。遠めにも一際目立つ腰まで伸びた艶やかなブロンドが、強風に広がっては流れ、彼女の体に巻き付いては離れてを繰り返していた。

ジャングルジムの外枠にはダンボールが幾つも貼り付けられており、少女はそれが強風に飛ばされないように押さえているようだった。雨に打たれながら、両手を伸ばして風に耐えるその姿は、まさに必死である。

「マ、マリーのっ! マリーのマイホームが、飛んでいってしまうのだよぉおおおおっ!!」

そんな台詞が強風に乗って俺の元まで聞こえてきた。

どうやら、少女は本当にホームレスをやっていたらしい。

「壁がっ! 家の壁が剥がれていくのだよぉっ!!」

近くにはコンクリブロックで作られた釜戸があったり、飯盒や鍋が転がっていたりする。ブランコと鉄棒の支柱の間にはロープが張られ、暴風にはためく洗濯物が洗濯バサミで止められていた。無論、取り込まれていないそれは、雨に濡れてビショビショである。随分と生活感に溢れる光景である。

「…………」

最もベストな判断は、相手が誰だか分かった時点で、すぐに帰る事だった。しかし、そんな奇天烈な様子を、その場で棒立ちになり眺めてしまっていた。

だからだろう、反応は先方から上がった。

「おっ!? おおおっ!? そこに見えるはエリーゼ君の下僕君じゃあないですかぁっ!!」

少女に見つかってしまったのだ。

「あ、……ああ」

何と返せばよいのか反応に困るところだった。

「素晴らしいタイミングなのだよっ! ここで出会ったのも何かの縁、ここは一つマリー邸の崩壊を防ぐ手助けをして欲しいのだよっ!」

両手でダンボールを押さえたまま、顔だけをこちらに向けて語りかけてくる。

既にダンボールの大半は風で飛ばされてしまっている。辛うじて遊具の鉄枠に引っ付いている残り少ない奴等も、その全てが雨に濡れてヘタレてしまっている。既に救済は不可能だろう。正直、これ以上の復旧は不可能だと思うのだが、少女は至ってやる気だった。この糠に釘を全力で打ち込もうとするテンションは如何なものだろうか?

「手助けって言ったって、それはもう無理だろ」

雨具を持たずに雨の中で奮起する少女は全身ずぶ濡れである。轟々と音を立てて吹き荒ぶ暴風が、少女の身に付けたローブをはためかせる。放っておいたら少女自身も風に攫われて飛んで行ってしまいそうだ。

「いやいや、悲観的な考え方は良くないのですよっ! いずれは百万の兵にも攻め入られぬ鉄壁を誇るマリー城となるべくこの邸宅が、この程度の嵐でヤラれるとでも言うのですかっ!?」

「いや、現にボロボロだし」

「ふふん、甘いのだよ。雨降って地固まるとはこの国の言葉なのだろう? 今は正にその雨が降り注ぐシークエンスっ! ならばしかる後、地はしっかりと固まって、ダンボールも固まって、防御力の向上した鉄壁が形成されること間違い無いのだよっ!」

財布の中が貧乏なら、頭の中も貧乏なのだろう。少女の大脳新皮質からは、色々と大切なものが抜け落ちてしまっているらしい。

「こんな雨の中でお前の妄想に付き合うの暇は無いんだ。俺は帰るぞ」

「あ、そ、そんなぁっ! ちょっと待って欲しいのだよっ! せめて、少しの間でいいから、ここを押さえていて欲しいのだよっ! そうすれば、こことそこをガムテープで止めて……」

ガムテープかよ。

「悪いけど他のやつに頼んでくれ、俺はこれから家に帰って昼飯を作らなきゃならないんだよ」

そう、腹を空かせたエリーゼが暴走までのカウントを確実に減らしながら待っているのだ。これ以上ここで時間を取られる訳にはいかない。

「で、でも。もしもこの家が壊れてしまったら、マリーはどうやって今後を暮らしていけばいいのだいっ!? 宿無しですかっ!? ホームレスですかっ!? それは結構寂しいのだよっ!」

「もう既にホームレスだろ、これ以上何があるんだよ。堕ちる所まで堕ちてるだろ? 何も怖いものなんてないじゃん」

「ち、違うのだよっ! 今はまだこうして家が残っているのだよっ!」

「勝手に公共物へ巣を作っておいて、それを家呼ばわりとはお前も随分とふてぶてしい奴だな」

「そ、それは……その……」

エリーゼとは違い、一応、世間というものを理解しているのか、俺の言葉に段々と言葉を失ってゆく少女。

「あ……」

その時、一際強く吹いた風が、少女の抑えていた残りのダンボールを全て奪い去った。風に乗ったダンボールは、水分を吸って重くなっていたにも関わらず宙を舞い、遠く園外へと飛び去っていく。

「ああぁ……」

それを見た少女は、呆気に取られたように小さく声を漏らした。

ジャングルジムの中には少女の持ち物らしき物品が幾つも転がっていた。しかし、その全ては既に雨に晒されて泥まみれになってしまっている。時折吹く強風に転がるそれらは、飛んでいったダンボールと同様に、段々と彼女の元から離れてゆく。

「残念だったな。再建の間もなく没落だ」

「うっ……うぅぅ……我が家が、マイホームが無くなってしまったのだよ……」

残っているのはジャングルジムの骨組みだけだ。幾らなんでもこれは吹っ飛ばないだろう。ともすれば、もう押さえる手を貸してやる必要もあるまい。

「つーか、なんでお前がこんなところに居るんだよ。とっとと自分の家に帰ればいいんじゃないのか? わざわざホームレスやってる必要なんて無いだろうに」

海外から来たと言っていたが、台風の影響で空の便に欠航でも出たのだろうか? しかし、だからと言ってこんな所で寝泊りする必要は無いはずだ。

「そ、それは……、お金が無いからなのだよ」

くだらない疑問に頭を悩ませていると、少女はポツリと呟くように言った。

「お金が無いって、旅費の話か?」

俺が問うと、少女は小さく頷いた。

「エリーゼ君を追って来たのは良いのだけれど、飛行機の切符は片道分が一杯一杯で、帰りの分が手に入らなかったのだよ」

「お前なぁ……、だったら来るなよ」

「け、けどっ、エリーゼ君のことを思うと居ても立っても居られなくなってしまったのだよっ! この情動、マリーには止めようが無かったのだよっ!」

「そんなの知らねぇよ。つーか、もう少し頭使えよ馬鹿」

「でもでもでも、結果的にはエリーゼ君に会うことが出来たのだし、こういう結末が待っていたとしてもマリーとしては満足なのだよ! エリーゼ君にはそれだけの価値があると、君もそうは思わないかい?」

吹き付ける雨風もなんのその、といった様子で少女はしみじみと語ってくれる。

「動いているエリーゼ君を目の当たりにしたのは何年ぶりだろうか。この感動は永遠ですよ」

エリーゼはシーラカンスか何かだろうか?

「さよか」

「さようなのですよっ!」

まあ、本人が納得しているなら別に問題は無いだろう。そして、これ以上俺が関わる必要も無い。

「なら良かったな、そういうことなら俺にできる事は何も無い、帰るぞ?」

別に何かしてやるつもりも無かったが、これ以上この少女の能書きに付き合ってやるほど俺も暇ではない。下手に係わり合いを持つ前に引き上げるべきだと、第六感が早鐘を鳴らしていた。

「あっ、あっ! で、でも出来ればマリーだって生きているのだし、酸いも甘いも理解できる知的生物ですし、屋根のある所で眠りたいとか、そういう欲求も無きにしも非ずなわけで……」

「……何が言いたいんだよ?」

「それは、その、何と申しますか……」

少女の欲求は言わずもがな明らかだろう。

「もしよろしければ、不肖このマリーを下僕君の邸宅へ置いて頂けないかと具申する次第でありまして……」

「それは遠慮してくれ」

「ええっ!? 即決ですかっ!?」

ただでさえエリーゼという問題児が居座っている我が家である。それに加えてこの変態に敷居を跨がせた日には、その先に待っている結末は明らかだろう。両親が帰ってきたら、部屋が一つ吹き飛んでいました、などとあっては、目も当てられないではないか。

しかし、少女も生活がかかっている訳で、頑なに食い下がってくる。

「お、お願いなのだよっ! マリーの一生のお願いなのだよっ! どうか屋根を、壁を、そして一杯の暖かなスープを提供して欲しいのだよっ!」

「嫌なものは嫌だ、悪いけど他を当たってくれ」

叩きつけるような雨は、雨合羽を着て入るにもかかわらず、着々とその下に着込んだTシャツやズボンを濡らしてゆく。これ以上時間を無駄にするのは遠慮したので、公園の出口に向おうと踵を返した。すると、そんな俺の背を少女は必死に掴んだ。

「お願いなのだよっ! もうマリーには君しか頼れる人がいないのですよっ!」

少女と俺の人外的な馬鹿力によって大岡裁きをされたのでは、安物のビニール合羽などあっという間に破れてしまう。仕方なく足を止めて顔だけを背後を振り返った。

「なんで俺がお前に頼られる人なんだよ」

「そ、その辺は知人ということで、少しは突っ込むのを遠慮していただきたかったり……」

「いいから離せよ。俺は帰るんだから」

「どうか、お願いなのですよっ! 一晩だけでかまわないから、いや、雨が止むまでで全然構わないから、お願い申し上げるのですよっ!」」

雨合羽が引っ張られ、それによって出来た襟付近の隙間から雨が内部に垂れてきた。夏場に長袖ビニール合羽を着ていることで、肌は蒸れて汗ばんでいる。そこに流れ込んできた雨雫は随分と冷たく感じた。

「ったく、お前もしつこいなぁ」

「お願いなのですよ。せめて雨風が弱まるまでの間だけ、別に上に上げてくれなんて贅沢は言わないから、玄関に入れてくれるだけでもいいから、お願いなのですよっ!」

「嫌なものは嫌なんだよ、いい加減諦めろよなっ」

段々と貯まってきたフラストレーションに、俺は纏わり付いてくる少女の体を右手で後ろへ押し返した。子供が嫌いという訳ではないが、こういう聞き分けの悪い奴は好きじゃない。

「あっ……」

すると、ドシャっという音が返ってきた。

別段、それほど強く押したつもりは無かったのだが、それでも吸血鬼の馬鹿力が作用した為だろうか。思いのほか勢いの着いた少女の体は見事に吹っ飛び、雨にぬかるむ泥の上に背中から着地した。ビチャリビチャリと周囲に跳ねた泥の一片が、俺の顔にも飛んできた。

「あ、悪い……」

昨日と同じ格好をした少女の、全身をスッポリと覆うローブのような衣服は、雨にぬれて色が変わっている。それに今の転倒が加わり、全身は泥がベットリと付着して、これぞ紛う事なきホームレス、というか、それ以上に哀れな姿であった。社会の底辺を端的に現したような姿である。腰下まで伸びた長く艶やかな金色の髪も、泥に塗れてその輝きを失っていた。

「うぅ……、この国は弱者に厳しいのだよ」

地に手を着いてゆっくりと背を地から起こす少女。この泥沼状態の地面に座り込んでしまえば、反応する間もなく下着までグッショリだろうに。

「そりゃ……、先進国なんてどこもそんなもんだろ?」

そして俺はこの土砂降りの雨の中で、何を語っているのだろう。

「まあ、そういう訳だから俺は帰るからな、じゃあな?」

とりあえず、今はこの場を離れるが吉だろう。そう自分に言い聞かせて俺は足を動かした。

「あっ、ああっ!」

人としてかなり酷い事をしているような気がしないでもない。けれど、ここで下手に情けをかけて、後で後悔するのは遠慮したい。明日の平和は今日の犠牲の上に成り立つと、誰か偉い人が言っていた気がするが、最近になって俺が得た教訓は、今日の平和なくして明日の平和はありえないということだ。

すがるように手を伸ばした少女だったが、それも今度は宙を切った。

「ご、後生だからお願いなのですよっ! 雨が弱まるまででいいから置いて欲しいのですよっ!」

聞こえない、聞こえない、俺には何も聞こえない。

運がよければ巡回中の警官が見つけて保護してくれるだろう。その後で警官を襲う意味不明な少女の語りとテンションは同情に値するが、それでも俺の関する限りではない。多少の後ろ髪を引かれる思いはあるが、三十六計逃げるが勝ちとは今の状況を指すに違いない。

そして、地に腰を落としたまま、何事かを叫ぶ少女を後ろにして、俺は公園を出ると、もと来た道に戻り帰路に着いた。

少女との要らぬ遭遇があったものの、迂回した道は行きに通った道ほど浸水が激しく無く、それなりに歩ける状態にあった。しかし、それでも雨脚は決して弱まることを知らず、打ち付ける大粒の水滴が、その場にいるだけで体力を奪ってくれた。

サンダルをカパカパ鳴らしながら歩道を小走りで駆ける俺は、それから10分程度のランニングを終えて、なんとか家までたどり着いた。全身雨合羽の完全防備であったにも関わらず、内に着ていたTシャツとズボンは襟首や裾がかなり濡れていた。

マンションの自宅まで辿りついた俺は、玄関で雨を落とす。びしょ濡れの雨合羽は、行きがけに準備しておいたハンガーにかけて、バスルームに干しておく。台風が一体どれ位の間この地域に滞在してくれるのかは分からないので、また使うかもしれない。

「ただいま」

リビングの扉を開けると、エアコンによって作られた湿度0%の快適空間の中で、エリーゼが先ほどのゲームと再び格闘していた。なんだかんだ文句を言っていた癖に、出来なければ出来ないで悔しいらしい。そういう負けず嫌いな所は日頃の様子からも明らかだろう。

「まだ倒せないのか?」

ドサリと「スーパー内山」のロゴが入ったビニール袋をダイニングテーブルに置く。

「やかましいっ。気が散る、黙っていろ」

食い入るように画面を見つめるエリーゼは相当真剣である。ここで茶々の一つでも入れようものならば、後に待っている報復は目も当てられないものになることだろう。

俺もそこまで馬鹿ではない。ビニール袋から出した食材を手に、大人しくキッチンへ退散することにした。どうせエリーゼはボスを倒す事は出来ないだろう。チラっと目に入っただけでも、既に味方キャラクターの半数がお亡くなりであった。奴は相当ゲームが下手だ。きっとリアルファイト専門なのだろう。

「……さてと」

ならば、せめて機嫌をとる意味も込めて、昼食は意識して作るとしよう。ただでさえ外は嵐なのだ。また窓ガラスに被害が及んでは堪らない。

キッチンに立つと丁度背面にリビングが来る。後ろから聞こえてくるノリの良い16ビートの戦闘音楽をBGMにして俺は昼食の準備に取り掛かった。

しばらくの間、言葉を交わすことも無く、キッチンにはリビングから聞こえてくるゲームのBGMと効果音だけが響いていた。どうにも痛々しいダメージ音が多く耳に入ってくるのは、きっと気のせいでは無いだろう。

そして、案の定エリーゼはボスを倒せなかった。

電源をそのままに、コンテニューするかどうかをプレイヤーに尋ねる画面のまま放置されたゲーム機は、誰が触ることなく、ドロドロとしたゲームオーバーを演出するBGMを垂れ流している。

「やっぱり無理だったみたいだな」

テレビゲームを相手に四苦八苦する我がご主人様を尻目に、昼食の準備は終っていた。ダイニングテーブルの上に並んだ食事を目にして、コントローラを放り出したエリーゼは、俺の正面に座ると、チキンライスを掻っ込み始める。相当キているらしく、今にもスチール製のスプーンを噛み切ってしまいそうな勢いだった。

「やかましいっ! あのようなボスなど何時でも倒す事は可能なのだ。しかし、私は完璧な勝利を考えているのだ。だから、このように何度も挑み、最高の勝利を得る為に情報を集めているんだ。お前のようないい加減な勝ち方では駄目なんだよっ!」

「随分と長い言い訳だな」

「い、言い訳などではない、本当だっ! そもそも人間如きが作った稚拙な遊び道具に私が本気になるわけがあるまい。遊び道具に遊ばれてどうするというのだ」

遊ばれていないつもりなのか?

「まあ、回りの物にあたって壊してくれるなよ? でなけりゃなんでもいいさ」

「雅之……、お前は下僕の分際で主人である私を見下しているつもりか?」

「でも、俺が倒せたものを、お前がまだ倒せていないのは確かだろ?」

「フンッ、見ていろ、すぐにあのようなボスなど倒してみせるわ。無論、貴様が行った戦闘よりも、より華麗にな」

「だといいけどな」

RPGゲームのボス戦に華麗もなにもあったものなのか。随分とマニアックな事を仰ってくれるご主人様だが、はてさて、今日中に倒せるのかどうかさえ疑問である。加えて、エリーゼが苦労している敵は別段ラスボスという訳でもない。コイツの苦心惨憺はゲームをクリアするまで、当分続くことになるだろう。

「しかし、随分と振ってきたな……」

テレビ画面から視線を移し、窓から外を眺める。朝食を食べ終えた頃からだろうか、雨脚は段々と勢いを増してきている。台風は今どのあたりにいるのだろうか? 気になった俺はテレビのリモコンを手にとると、画面を国営の情報番組へと変えた。

するとダイニングテーブルの対面から抗議の声が上がった。

「き、貴様いきなり何をするっ!? ゲームが消えてしまったではないかっ! ちゃんとメニューから選択して終了しないとセーブデータが消えてしまうかもしれないのだぞっ!?

エリーゼである。

「大丈夫だって、ちゃんと元に戻るから」

映し出された番組はお昼のニュースである。丁度良いタイミングで気象予報士が本日の天気をつらつらと述べているところだった。

「本当だろうな?」

俺と家庭用ゲーム機を交互に睨みつけてくれるエリーゼ。

「入力を切り替えただけだから、そんなに心配するなよな。ボタン一つでも元に戻るよ」

「ふん、紛らわしい真似をしおって」

テレビ画面の中央には気象衛星からの映像が映し出されていた。

画面を9割以上を占める日本列島の尺図は、その7割が雲に覆われて霞んでいる。東北地方を除いて、本日の日本は全国的に雨模様だそうである。また、この辺一帯には見事な白い渦巻き雲が鎮座しており、中心の気圧は930ヘクトパスカル、中心付近の最大瞬間風速は50メートル、中心の東側300キロ以内と西側260キロ以内では風速35メートル以上の暴風が……等々、凶悪な情報が飛び交っていた。

どうやら歴史的に見ても殿堂入りしそうな規模の台風らしい。そんなものが本州に上陸したのだから国民も心中穏やかではないだろう。俺も結構穏やかではない。雨合羽を着てマイクを握ったレポーターが必死の形相で現地中継を行っている様子が放送されていた。仕事とは言えご苦労なことである。

「このような天災で命を落とす者もいるというのだから、人間は脆いものだな」

ズズズと湯気の上がるコーンスープを啜るエリーゼが、テレビ画面を眺めながらつまらなそうに言った。

「そりゃ、お前を基準にしたら世の中にあるもの全部が玩具みたいなものだろうに」

川べりの一軒家が濁流に飲まれ、流されていく様子が中継されている。画面の右端に表示されているテロップには、ここからそう離れていない地域に流れる川の名前があった。河川の増水によって、50世帯、200名余りの人達に避難勧告が出ているそうだ。学校の体育館に避難した住民達の苦悶に満ちた表情が映し出され、早く台風が過ぎ去って欲しいとコメントする難儀な姿が報道されていた。ご愁傷さまである。

ちなみにこの部屋はマンションの地上15階にあるので、雨による浸水等の問題は皆無である。挙げるとしたら、洗濯物の乾きが悪くなった程度だろうか。今日ほどマンション住まいで良かったと思ったことはないだろう。これで床上浸水ともなった日には堪ったものでない。

「…………」

「…………」

しばらくの間、特に言葉を交わすことも無く、二人してテレビの報道に耳を傾けていた。雨合羽で武装した局のレポーター達は、普段の平然とした様子からは伺えない必死の形相で、各地の惨状をお茶の間に伝えてくれている。

このような状況でも、あの少女はまだ公園にいるのだろうか?

昼食を作っている時からそうだったのだが、気にならないと言えば、それは嘘になる。やはり、あの変態染みた言動の少女は印象に良く残るのだ。加えて立ち去る間際の状況が状況であっただけに、無駄に思い返してしまう。

「なあ」

そうなると、エリーゼを前にして口にしないでいるのもむず痒い。

「なんだ?」

呼びかけに答えて、蒼色の瞳が俺を見つめた。

「その、さっき買い物に出かけたときなんだけどさ」

アイツは自分のことをマリーと呼んでいた。エリーゼもそう呼んでいたような気がしないでもない。ならばその通りなのだろう。

「マリーって言ったっけ? 昨日学校で会った奴」

「ああ」

その名前を聞いた途端にエリーゼの顔が嫌悪に歪んだ。余程苦手な相手らしい。

「そいつが近くの公園に居てさ」

「あやつがか?」

「ああ、なんでも金が無くて国に帰れないとか言ってたよ」

「はんっ、馬鹿な奴だ」

中身を飲み干したマグカップをドンとテーブルに置いて、エリーゼは吐き捨てるように答えた。

確かに、今まで俺の人生の中であの少女ほど馬鹿という言葉が似合う奴は居ない気がする。学校では馬鹿の代名詞のような扱いを受けている斉藤でも、あの脳味噌が沸いているとしか思えない言動をする少女よりは幾分マシな筈だ。

ただ、どうにも困った事は、そんな馬鹿な奴の事がどうにも気になってしまっている俺がいるということだ。

最後に手違いとはいえ突き飛ばしてしまったのが悪かった。あれが無ければそのまま見てみぬふりも出来たような気がするのだが、どうだろう、なんだか家に帰ってきてから罪悪感がヒシヒシと沸いてくる。見た目が子供だから尚更に性質が悪いのだ。

エリーゼに言えば、間違いなく放っておけと釘を刺されるだろう。それに、少女にしても真っ当な人間ではなく、凶悪な馬力を誇る人外に違いなく、エリーゼの言葉ではないが、たかが天災でくたばるような事は無いだろう。

しかし……、それとこれとはまた話が別である。

「なんだ、どうかしたのか?」

俺が悩む姿に何を見出したのか、エリーゼが声をかけてきた。

「いや、別に何でもないんだけど」

そういえば、あの公園は隣に川が流れていた筈だが、どうだろうか。もしかしたら増水した河川がテレビの中継よろしく、公園の遊具達を押し流していたりするかもしれない。

「ならば変な顔をしているな。ただでさえ不細工なものが更に歪むぞ?」

「うるせぇよっ」

シーソーの跨ぎ木に乗って太平洋まで流れていく少女の姿が浮かんだ。

「…………」

クックックと笑うエリーゼを睨み返してマグカップに口をつける。若干冷めて温くなったコーンスープが喉を流れた。

なんというか、こういう事は一度気にかけてしまうと止まらなくなってしまうから困る。きっとこれは俺に限った話ではないだろう。人間そういう風に出来ている筈だ。

ニュース番組は、スタジオに移った放送が今日から一週間の天気を、大量の雨マークと共に予報していた。台風が過ぎた後にも停滞している梅雨前線の影響で向日一週間は雨の日が続くらしい。

「…………なんだかなぁ」

時計に目を向けると時刻は13時を丁度過ぎたところだった。台風はこれから十数時間をかけてゆっくりと本州を横断し、太平洋へと抜けていくとの事だった。この辺一帯に出された暴風警報が解除されるのは日が落ちる頃になるだろうか。随分と速度の緩い台風である。

話に寄ればこの時間がこの地域には台風が最も接近しているらしいが、さてさて、いよいよ自分の判断に責任を持てなくなってきた。

「ったく」

ギシリとソファーを軋ませて立ち上がる。リビングを出ようとすると、背後からエリーゼに声をかけられた。

「出かけるのか?」

感ずかれただろうか? もしかしたら口にすべきでは無かったのかもしれないが、過ぎた事を悔やんでも仕方が無い。

「部屋で明日の勉強をするんだよ、邪魔するなよな?」

適当にごまかしてみると、思いのほか素直に納得したエリーゼはそれで静かになった。

「ならば画面を元に戻せ。私はあのゲームの続きをやるのだ」

「ああ、そういやそうだったな」

言われてダイニングテーブルの上に置かれたリモコンを手に取り、入力切替のボタンを押した。映し出されるゲームオーバーの表示と、それにあわせて流れるドロドロとしたBGMが1時間程前の出来事を思い出させてくれる。

「いいか、コントローラーは投げるんじゃないぞ?」

意味があるかどうか定かではないが、一応注意をしておく。

「わかっている、お前は勉強でも何でもやっていろ」

「ったく」

ゲームのコントローラを握り締めたエリーゼは、いつまでたっても倒せないボスに挑み行く。とりあえず、これをやっている限りは概ね大人しくしているのだ。それ以上の心配はしてもストレスが溜まるだけだし、それでどうにかなるわけでもない。

全神経をテレビ画面に集中させる麗しのご主人様を一人残して、俺はリビングを後にした。

無論、向うのは自室ではない。

浴室にかけて置いた湿めぼったい雨合羽を再び着込み、俺は再び雨風の吹き荒れる外の世界へと重い足を踏み出した。この後でエリーゼが見せる反応は、きっと見物だろう。

家を出て十数分歩くと、俺は先ほどの公園まで戻ってきた。

雨によって増水した河川は氾濫し、周囲を巻き込んで巨大な湖を形成していた。川沿いにある公園と、その付近の道路は既に膝上まで浸水しており、普通に歩くだけでもかなりの苦労を強いられた。一定の間隔で波打つその様子は、まるで此処が海岸線であるかのような錯覚すら覚える。

この様子では、河川に近い公園内の水位は恐ろしい事になっているだろう。

「すっげぇなぁ……」

思わず感動してしまう。

テレビ中継では、この季節になれば毎年一度は報道される光景である。しかし、まさか自分の家の近くでそれが起きるとは思ってもみなかった。

吸血鬼の馬鹿力に物を言わせて、ざぶざぶと威勢良く水を切って歩く。先ほど同様、園内に入って遊具が連なるエリアまで進むと、その娘っ子は簡単に見つかった。

ジャングルジムを放棄した少女は、荷物をまとめて滑り台に転居したようである。

波打つ水面を不安そうに見つめながら、既にウォータースライダーと化している滑り台の上でしゃがみ込んでいた。

園内の浸水は激しく、先ほどの路上から僅か50メートル程度の距離を進んだだけで水嵩は変化し、なんとその水位は腰の高さにまで達していた。中途半端な傾斜に公園が作られているのが原因だろう。

また、川が近い為に、増水したこの辺一帯の水にも流れがあった。もしも俺に吸血鬼の魔力云々が無かったのならば、今頃は水洗トイレよろしく流されていただろう。しっかりと踏ん張っていなければ、流れに攫われてしまう。まるで流れるプールだった。

ついでに言うと、既に雨合羽はその役目を放棄して、ただの暑苦しいビニールの蒸し器になっている。

「おいっ!」

水をかき分けて歩き、滑り台までたどり着いた。

こちらの存在に気づいた少女は目を丸くして口を開いた。

「げ、下僕君ではないかいっ! 一体どうしたんだいっ!?」

「だから、俺は誰の下僕でもないって言ってんだろ?」

体のサイズに合わない遊具の階段を数段だけ上る。少女は俺と視線を合わせるように、その場で両手両膝をついたまま、驚きを露に続けた。

「どうして君が此処に来るのだい? もしかして、君の家もマリーの家と同様に、雨風に打たれて崩落してしまったのかい?」

「なんでそうなるんだよ」

ダンボールと鉄筋コンクリートを比べないで貰いたい。

高さ3メートル程の滑り台はそれなりに大きな代物であったが、それも成年男性が上るには窮屈で、加えて少女の荷物がドッカリと置かれていては無理も当然であり、仕方なく俺は階段の途中で足を止めると、そのままの体制で少女に向き合った。

「ならば何故このような所に来るのだい? 既にマリー邸は崩壊してしまったのだよ。幾ら居住を望もうとも、それは最早叶わぬ夢なのだよ」

流石の少女も、救い様の無い現状にそれまでのテンションを落としているように見える。人外にしても人間同様、長時間に渡って雨に打たれていれば体力を失うらしい。

「別にお前の家に興味なんて無いよ」

「ならば何の用なのだい?」

泥の飛んだ汚れ顔で見つめてくる。

「ま、まさか、君はこのマリーの哀れを笑う為にやって来たというのかいっ!? それこそ、まさに外道なのですよキミィっ!」

「そんな理由で俺はわざわざここまで来るのか?」

幾ら俺でもそこまでは捻くれていないぞ。

「だったら一体何のようなのだい?」

疑問符を浮かべる少女は、俺がこの場にいることを心底不思議そうに首をかしげた。

「別に嫌だったらいいんだけど、俺はさっきの話をもう一度持ってきただけだ」

「さっきの話?」

「ああ」

俺の言葉に少女はしばらく悩むような素振りを見せていた。しかし、その話というものが何であるのかを理解したのだろう。突然、ぱぁっとその表情を明るくさせた。

「そ、それはもしかして君の邸宅へマリーを招いてくれるという話ですかっ!?」

弾むような声色で話しかけてくる。

「端的に言えばそういう話」

滑り台の階段を数段登り、手摺に手をかけたままの中途半端な体制で俺は頷いた。

「な、ななな、なんとぉっ!」

少女のテンションは急上昇だった。

身を乗り出すようにしてこちらに向き直る。

いくら頑丈に出来た人外であったとしても、台風の下でホームレスをやるのはしんどいだろう。雨は桶をひっくり返したように降り注いでいる。風呂場のシャワーなんて目じゃないくらいだ。

「それは本当かいっ!? やっぱりやーめた、とか言って後でガッカリさせたりするのは無しですよっ!? 鍵のかけられた玄関の前でうな垂れるのは嫌ですよっ!?」

「んなことするかよ」

小学生じゃあるまいし。

「で、でも、それはどういう心変わりだいっ!? さっきはあれほど拒絶してくれていたではないですか。それが今は手のひらを返したように優しくなって……、ちょっと怪しいのですよ」

「別に、お前が嫌だって言うなら強制はしないけど?」

確かに少女の言う事はもっともである。そう言われてしまうと、俺としては返す言葉が無く、受け流すほか無い。

「あ、嘘、嘘ですよ嘘。そんなこと疑ったりしないのだよっ! マリーは君に全幅の信頼を寄せているのだよっ!」

「別に寄せなくてもいいけどさ」

「貰えるものは何でも貰っておくのがマリーの信条なのだよ」

「お前の信条はどうでもいいよ、それで結局どうするんだ?」

聞かずとも分かっているようなものだが、一応聞いてみた。

「是非ともお呼ばれしたいのですよっ!」

弾む笑顔に乗せて言う少女に俺は小さく頷いた。

一晩くらいだったら別段問題は無いだろう。今はそう思っておく事にする。

エリーゼにはなんと言われるだろうか。とりあえず殴られそうな気がするのは、決して気のせいじゃ無いだろう。それなりに覚悟を決めていった方が良いかもしれない。

「じゃあとっとと行こうぜ、こんなんで風邪でも引いたら堪ったもんじゃない」

「吸血鬼は風邪なんて引かないのだけれど、君の意見には賛成なのだよ」

ほう、それはなかなかお得感のある能力だ。後でエリーゼに聞いてみるとしよう。

「ならほら、乗れよ」

滑り台の階段を下りた俺は少女に背を向けてみせた。

この辺一帯の水位は少女の背丈と大差ない。まさか泳がせる訳にもいかないので、仕方なく肩車である。

「本当にいいのかい?」

「だってお前、自分の身長を考えてみろよ」

それに滑り台の上には両手に余るほどの荷物が乗っかっている。

「…………ありがとうなのだよ」

俺に言われる通り、少女はゆっくりと肩の上に腰を据えた。

身体は思いのほか軽かったが、その両手に抱えられた荷物がべらぼうに重い。顔を挟むようにして伸びた少女の太ももは細く、雨に濡れて冷たかった。

「随分とサービス精神旺盛な下僕君だね」

「なんなら振り落としても構わないぞ?」

両手に持った少女の足を離し、体を軽く前後左右に揺すってみせる。

「うぁっ、うああぁぁ、待って! て、訂正するのだよ。そうっ、キミは立派な非下僕君なのですよっ! 全然下僕なんかじゃないのですよっ!」

荷物を持つことで両手が塞がってしまっている少女は、その身を落とされまいと、必死になって首を腿で挟んでくる。柔らかな太股の肉が強く首に当たって形を変えている。エリーゼと同様で、ちっこい身体に有り余る馬鹿力だった。

「い、痛い痛い痛い、落としたりしないから力いれるなよっ」

慌てて前言を撤回した。

「つーか、非下僕ってなんだよ、嫌味か?」

「ち、違うのだよっ! マリーとしては最大限に君が下僕であることを否定したのですよっ!」

「そうなのか?」

「そうなのですよっ!」

語る少女は真顔だった。

まあいい、いい加減にツッコミを入れるのも疲れてきたし、とっとと家に帰るとしよう。そうすればこの少女の相手は自動的にエリーゼの仕事となってくれる筈だ。アイツも大変な奴に好かれたものである。

「荷物は全部持ったよな? 行くぞ?」

「了解なのだよっ!」

一向に減る気配の無い路上に満ちた水に一抹の不安を感じつつ、一路、少女を担いだ俺は帰路を急ぐのだった。

そして、想像通りの展開が家では待っていた。

「何故貴様がここに来るっ!」

怒鳴り声を上げたのは勿論エリーゼである。

どうやらコイツは、俺が本当に自室で勉強をしていると思っていたらしい。まさかその足で少女を連れてくるとは想像もしなかった事だろう。

そして、相変わらずテレビ画面にはゲームオーバーの文字が表示されている。これが今のエリーゼの機嫌の悪さを上昇させるのに一役買っているのは間違いない。

「短い間だけれど、お邪魔するのだよエリーゼ君」

一方の少女はホームレスからの開放が余程嬉しかったのか、満面の笑みを浮かべて俺の隣に立っている。ちなみに、雨と泥でグチョグチョになっていた例のローブみたいな服は、家に着いた早々に剥ぎ取って、洗濯機に突っ込んである。

「とりあえずお前はシャワーでも浴びて来い、臭いし汚いし、その状態で家の中を歩き回られたら大変だ」

上半身は裸で、下は薄いショーツ一枚という元気な格好になった少女を風呂場へ向わせる。リビングを抜けて、廊下の先にある一枚のドアを指差してやると、少女は頷いて元気一杯に駆けて行った。

「こ、こらっ! 私の話はまだ終わっていないぞっ!」

その後ろを追う様にエリーゼの叱咤する声が飛び交う。とにかく、少女が風呂へ行っている間にコイツとの話をつけてしまおう。

一応、案が無いわけでもない。

リビングのドアを閉めて背後を振り返ると、ソファーに踏ん反り返る小さな居候が、苦虫を噛み潰したような顔をして俺を睨みつけていた。

「貴様は一体どういうつもりだ?」

目くじらを立てるエリーゼは、今にも襲い掛かって来そうな気迫を纏っている。

「どうしたもこうしたも、ちょっとした同情や善意だろ?」

「貴様は善意で身を滅ぼすつもりか?」

「いや、流石にそれは勘弁して貰いたいところだけどさ……」

俺としても若干の失敗した感は否めない。けれど過ぎてしまった事をどうこう言っていても仕方が無い。それに、少女にはエリーゼにジャレつかないことを条件にすると、道すがら話してある。もし騒ぎ始めるような事があるなら、その時点で外へ放り出してしまえば問題ないだろう。それならば約束を破ったという非は相手にあるのだし、俺も良心を痛めず事に当たれるだろう。

「ならば何故奴を連れてくるっ!? 狂ったか!?」

御尤もな意見である。しかし、それに答えるうまい言葉が俺には無い。

「仕方ないだろ、色々とあったんだから」

「色々だと? 何がどのように色々あったならば、あやつを連れてくるに至るというのだ。正気の沙汰とは思えんな」

「別に何があったっていいだろ。それにここは俺の家なんだし、どんな客人を連れて来ようと俺の勝手だろうが。なんでいちいちお前に伺いを立てなきゃならないんだよ」

「それは貴様が私の下僕であるからに決まっているだろう? 下僕のものは当然その主のものでもあるのだ。貴様は主である私の許可も無く、私の家に勝手に浮浪者を連れてきたのだぞ」

「なんでそうなるんだよっ!」

お前はどこの虐めっ子だ。

「まあいい、押した引いたでお前と話をしても、答えが得られないのは私も理解している。貴様が拒否するというのならば、私が自ら手を下すまでだ」

「ちょ、ちょっとお前、何するつもりだよっ」

俺の横を素通りしてリビングから廊下へ向おうとするエリーゼの腕を慌てて掴んだ。

「離せ」

鋭く蒼い瞳に射抜かれた。かなり怖い。

しかし、ここで引いては豪雨の中、公園まで足を運んだ努力が水の泡だ。

「なぁエリーゼ、さっきしたゲームの話は覚えてるか?」

「何のことだ?」

「俺がテレビゲームのボスを倒せたら、お前は俺のいう事を無条件に一つ聞くってやつだ。忘れたとは言わせないぞ?」

そして俺は見事にボスを打ち倒した筈だ。なんなら今からもう一度やって見せてもいい。きっと余裕で打倒できる。

「まさか、それを理由に奴をここへ置くつもりか?」

「理解してくれたなら話は早いな」

「つまらない冗談だ。もう少しまともな願いならば聞いてやらぬ事もなかったが、それは無理な相談だな」

エリーゼは俺の言葉に聞く耳を持というとはしない。両手で腕を掴んでいるにもかかわらず、縋りつく俺を引きずるようにして進んでいくのだ。力勝負でコイツに勝つのは絶対に無理だろう。俺は廊下の床が軋むほどに踏ん張っているのに、一方のエリーゼは、そんな必死の抵抗を意にも介していない。

「だ、だからちょっと待てよコラッ!」

短い廊下を進み、脱衣所のドアに手をかけようとするエリーゼを後ろから羽交い絞めにする。これで効果があるとは思えないが、その辺は気分の問題だ。

「しつこい奴だな。お前にしても奴を相手にして良い思いをした事など無いだろうに、何故それを庇うというのだ。全く理解できん」

「ちょっとした手違いがあったんだよ。別に俺だって全身全霊を込めてアイツを家に誘った訳じゃ無いし、それに、何もずっと置いておくわけじゃないんだ。雨が止むまでの話なんだし、それくらいだったら良いだろ?」

最後の望みをかけて説得を試みる。

エリーゼの事だ。やると言ったならば、本当に少女をリビングの窓から放り捨てかねない。ここで止められなければ、哀れ少女は豪雨の元にとんぼ返りする事になる。一度は誘った手前、ここまで来てやっぱり駄目だった、とは言えないだろう。

「ふん、随分と必死だな」

「俺だって色々あるんだよ。お前みたいに唯我独尊を貫いて生きていけるなら、どれほど幸せだろうな」

中途半端に優柔不断な性格が恨めしい。

俺の言葉にエリーゼは顎に手を当てて、しばらく考えるようにしていた。しかし、次にこちらを見たときには、それまでの釣り上がった眦を落とし、多少の不満を露にしながらも、しぶしぶといった様子で口を開いた。

「まあいい、約束は約束だ、貴様の言う事は聞いてやる。しかし、これで先ほどの話は終わりだ。これ以上は一切の願いは無いものと思えよ?」

「ああ、分かってる」

というか、エリーゼが素で俺の頼みを聞いてくれる事なんて滅多にあるもんじゃない。それこそ意味の無い話だ。だが、とりあえずこれで目前にあった問題は片付いたと見てよいだろう。血を見る目に合わずに済んで良かった。

エリーゼにしては些か素直過ぎる感じがしないでもないが、今は俺もそれに習って素直に喜んでおくとしよう。

「分かったならばこの腕を離せ。何時まで抱きついているつもりだ?」

「え、あ、ああ。悪い悪い」

言われて両脇に回していた腕を解いた。

「私はゲームの続きをやる。くれぐれも邪魔をしてくれるなよ?」

それはきっと浴室にいる少女の事も踏まえての台詞だろう。俺が頷いたのを確認すると、エリーゼは不満の残る足取りでリビングへと戻っていった。

やれやれである。

俺は妹の部屋へ行くと、エリーゼの時と同様にクローゼットの中から適当な服を上下一式見繕い手に取った。あの少女が着ていたローブのような服は生地が厚く、そうそう簡単に乾きそうには無いのだ。また、一度の洗濯で臭いや汚れが落ちるかどうかも疑問である。ともすれば、その間に着ているものが必要だろう。サイズ的にも背丈はエリーゼと大差ないところを見ると丁度良い。

問題なのは、例によって矢鱈とファンシーなデザインのものしかハンガーに掛かっていないという点だ。出来る限りおとなしい感じのものを選んでみたものの、元となる母集団のフリル率が高いのでいかんともしがたい。まあ、その辺は仕方がない、諦めるとしよう。

「おーい、入るぞー」

声をかけて脱衣所のドアを開けた。曇りガラスを一枚挟んで浴室の中からは、少女がシャワーを浴びる水音が聞こえてくる。

「タオルと服はここに置いておくからな、ビショビショのまま出てくるなよな?」

声をかけると、くぐもった返事が返ってきた。とりあえずはこれで良いだろう。

脱衣室の扉をバタンと閉めて、俺は一つ大きなため息をついた。なんというか、一仕事終えたような気分だった。

リビングに戻って時計に目を向けると、いつの間にか時刻は2時を回っていた。明日はテストがあるというのに随分と余裕のある休日を謳歌しているものだ。

「はぁ……」

下らない現実を思い出して少し鬱になった。

エリーゼは相変わらずテレビゲームと睨めっこである。どうせまた負けて悔しがるに違いない。後であの少女にもやらせてみるのも良いかもしれない。それで上手いことボスを倒してくれたのなら、エリーゼは相当凹むことだろう。

冷蔵庫から取り出したペットボトルのジュースを、ソファーテーブルの上で置きっぱなしになっていたグラス2つに注ぐ。

「倒せそうか?」

オレンジ色の液体に満たされたグラスを手に取ると、俺はエリーゼの隣に腰掛けた。

「やかましい、今は話しかけるなっ!」

余程ゲームに集中しているのだろう。少し話しかけただけで怒られた。

仕方が無いので、手持ち無沙汰なまま、ぼんやりとエリーゼの操るキャラクターを目で追う。

「…………」

段々と動きは良くなってきている気がするが、それでもまだまだ下手の領域から抜け出ていない。俺が簡単に倒せた事を考えると、やはり、こういうのは小さい頃からの経験が物を言うようだ。

「少しは上手くなってきてるな」

「…………黙っていろ、気が散る」

せっかく褒めてやったのにこの対応だ。可愛くない奴である。

「…………」

しかし、こうしてテレビゲームに熱中している姿は歳相応の子供に違いない。これで口さえ開かなければとても可愛いのだが、なかなか世の中は上手くいかないものである。

しばらくの間、エリーゼがプレイするゲームを俺が横から眺めている、という静かな時間をマッタリと過ごした。リビングに流れる音は、ゲームのBGMと効果音、それに窓の外で波打つように吹き荒れる雨音だけである。

部屋に篭ってゲームをする。これこそ台風の日の正しい過ごし方だろう。

しかし、それから10分としないうちに、周囲の落ち着きを粉砕するようにして、リビングの扉が勢い良く開かれた。無論、開かれた扉から現れたのは俺が公園で拾ってきた例の少女である。

「いいお湯だったのだよぉっ!」

部屋に入って第一声がそれである。なんか異様に日本人染みた台詞ではなかろうか?

声の主へ視線を向けると、そこにはそれまでのホームレスから一変して、何処かの国のお姫様もかくやといった風貌の少女が立っていた。

確かに容姿だけなら結構可愛いんじゃなかろうか、とは思っていたが、今こうして目前に立っているその姿は想像以上の出来だった。驚いた。

妹の部屋のクローゼットから頂いてきた服は、控えめなものを選んだとは言え、例によってフリルで武装されたお嬢様100%な風体をした衣装である。身に着けた衣服が雰囲気を出しているのは間違いないだろう。

しかし、それを除いたとしても、少女は十分に評価できる容姿をしていた。

長く腰下まで伸びた長髪は艶やかで、水分を含んだプラチナ・ブロンドは蛍光灯の光をやんわりと受けては煌びやかに輝いて見えた。また、端整な顔立ちは勿論のこと、スラリと伸びた細い四肢は白く、染みの一つも見つからない。触れればサラサラと何の抵抗も無く指を滑らせてくれることだろう。張りの良い頬の肉は突けばプニプニと心地よい弾力を返してくれるに違いない。

なんというか、騙された気分だった。

「風呂に入っただけで、これだけ変わって見える奴も珍しいよな」

「ん? 何の話だい?」

湯上りの少女は白い湯気を立ち上らせながら、ニコニコと笑みを湛えて、ソファーに座る俺のもとまでやって来た。

「いや、別に大したことじゃない。気にするな」

コイツの事だ、下手に褒めたりしようものなら、その後に待っているのは話し相手を置いてきぼりにしたマシンガントークに違いない。そんな腹を空かせた池の鯉に餌をやるような真似は控えるべきだろう。

「?」

よく分からないぞ、といった表情で首を傾げる少女。

「いいか、重々注意しておくけど、もしも家のものを壊したりしたら直にでも出て行ってもらうからな? あと、エリーゼにジャレつくのも禁止だぞ?」

「了解なのだよ。その辺はしっかりと守るのですよ」

「頼むからな?」

一抹の不安は拭えないが、とりあえずはこれで良しとしよう。部下の失態は上司の責任になる。結果、エリーゼに首を刎ねられるのは俺なのだから、その点はしっかりと見張っておかねばならない。なるほど、中間管理職とは大変な役職である。

「ところで、エリーゼ君は何をそんなに必死になっているんだい?」

俺の隣でテレビ画面を食い入るように見つめているエリーゼに、少女が疑問の声を上げた。

「ん、ゲームだよ」

敵を追い出すことを諦めたコイツは、苦肉の策として少女の存在を無視し、家庭用ゲーム機のコントローラを握り続けていた。

「コイツってこの手のゲームがえらい下手でさ、さっきからそのボスが倒せなくて躍起になってるんだよ」

「ほぉぉ、それはなんもはや……」

エリーゼとは反対側の、俺の隣に腰を降ろした少女はテレビ画面を見つめる。

「まさかエリーゼ君がテレビゲームに夢中になっていようとは思いもしなかったのだよ」

戦況は芳しくないらしく、点灯する幾つものレッドゲージは、絶え間なく自己主張をしている。この様子では今回も先は見えているようなものだ。

「貴様等は人が集中している隣でいちいち五月蝿いぞっ! 黙っていろっ!」

「ご、ごめんよエリーゼ君」

素直に謝る少女に関心しつつ、俺は席を立ってキッチンへ向った。

新たにグラスを一つ持ってくると、それにジュースを注いで少女に手渡す。

「ほら」

「おおっ、ありがとうなのですよっ!」

オレンジ色の液体に満たされたグラスをおいしそうに口へ運ぶ少女は、とても素直で可愛げがあった。今だけはこの少女の爪の垢を煎じてエリーゼに飲ませてやりたい気分である。いや、飲ませるだけでは生ぬるい。点滴静脈注射で直接血管にぶち込んでやりたいくらいだ。

「…………」

「…………」

「…………」

そして、しばらくの間は少女と二人で大人しくエリーゼのプレイするゲームの様子を眺めていた。しかし、落ち着いたのも束の間である。それから10分程が過ぎた頃には、またしてもゲームオーバーの表示が画面一杯に表示される事となった。リビングに吹き荒れるのは屋外の台風にも負けぬエリーゼの鬱憤である。

「ああもうっ、なんなんだこのゲームはっ!」

再びコントローラを投げつけようとするエリーゼの腕を、隣に座っていた俺は即座に取り押さえた。

ああもうっ、なんなんだお前はっ! というのが俺の意見だが、それは今は口にしない。

「だからお前は物に当たるのを止めろってんだよ」

「ならばこのゲームを何とかしろっ! いったいどうなっているんだっ! 貴様はズルをして倒したのではあるまいなっ!?」

「んなことしてねぇよ」

「ならば何故お前が倒せて私が倒せないのだっ!」

「だから、それはお前が下手なのか、俺が上手いのか、そのどっちかだろ?」

「っく!」

心底悔しそうな表情を作るエリーゼに、俺は先ほど思いついた一案を口にした。

「そんなに疑うんだったらコイツにもやらせたらどうだ? 俺は現代っ子だからどうだか分からないけど、コイツだったらお前と同じ不思議系だろ? 同じような結果になるんじゃないのか?」

隣で大事そうにチビチビとジュースを飲んでいる少女を指差してそう提案した。

相対的に評価を手に入れたとしてもエリーゼの腹の虫が納まるのかどうかは分からないが、ものの試しにやらせてみるのも良いかもしれない。もしも少女がすんなりとクリアしてしまったとしたなら、それそれで大変な事になりそうな気もするが、そのときはそのときである。

「…………」

「マリーもそれをやるのかい?」

エリーゼは悔しそうな顔をそのままに、しばらく悩んでいるようであった。しかし、それほど時間を置かずして小さく頷いた。

「いいだろう、やってみろ。どうせ結果は知れている」

ゴーサインを貰った俺は少女にゲームの取り扱い説明書を渡すと、一通りの簡単な操作説明をした。エリーゼもそうだったのだが、この少女はそれ以上に物覚えが良く、コントローラの操作配置やら、アイテムやらの記載ページを見せたところ、その全てを一瞥しただけで覚えてしまった。それが人外の力なのかどうなのかは想像もつかないが、この少女は馬鹿なのではなかったのだろうか? 疑問の尽きない奴である。

「大体は理解したのだよ」

説明を終えた俺に満足げに頷いてみせる。

「じゃあやるか?」

「やるのだよっ!」

「ふん、せいぜい足掻くがいい。だが事に当たるに当たって一つ条件がある」

少女を睨みつけるエリーゼは、先ほど俺が提案した条件を持ち出した。

「もしも貴様がこいつを倒すことが出来なかったのならば、そのときは私の命を一つ聞くのだ。無論、どのような内容だとしてもだ」

そう言うエリーゼは目を細めてニンマリと笑う。コイツの考えている事は手に取るように分かる。ゲームに託けて少女を家から追い出そうという魂胆だろう。

「では、もしもマリーが倒す事が出来た場合はどうなるのだい?」

当然の疑問に少女が口を開いた。

「そのときはエリーゼがお前の言う事を何でも一つ聞いてやるんだよな?」

そうでなければ話は成り立たない。

「ああ、いいだろう。好きにしろ」

俺の言葉を受けて頷いたエリーゼは、それで口を閉じるとソファーに深く腰かけた。すでにその瞳は勝利の色に染まっている。

「じゃあ、はじめるぞ」

ゲームのデータをロードした俺は、場面をボス戦まで進めてコントローラを譲った。少女が意気揚々と言った様子で画面に向き合うと、すぐにエンカウントが発生し、戦闘は始まった。

実際のところ、ゲームは普通の人ならば十中八九勝てる程度の難易度である。つまり俺が特別上手いのではなく、エリーゼが格段に下手だというのが結論だ。そして、少女は思いのほか現代人をしていた。

画面上に展開されていた敵勢力は、見る見るうちに削られていく。一向に減少しない味方のステータスバーに嫌な汗を流しているのはエリーゼだ。

「っ…………」

その表情は非常に険しい。

そして、ド派手な画面効果や効果音を眺めているうちに、少女は俺が十数分かけて倒したそのボスを僅か5分程度のプレイタイムで打倒して見せたのだった。

「な、何故だ……」

これにはエリーゼも唖然とするほか無い。俺も驚きだ。

「ふっ、この程度のゲーム、マリーの手にかかればお茶の子さいさいなのだよっ!」

満足げな表情でソファーテーブルの上にコントローラを置く。

少女はソファーテーブルに乗っかっていたグラスの中身を一気に飲み干すと、笑顔で俺とエリーゼの方へ振り向いた。

リビングにはエリーゼとマリーの心情を代弁するかのように、倒されたボスキャラクターの悲痛な叫びと、そして、勝利のファンファーレが反響していた。

これはエリーゼの奴も随分と大きな墓穴を掘ったようである。よりによって自身の天敵に好きな命令を許してしまうというのだ。傍から見ている分には面白くてよいのだけれど。

「さぁ、エリーゼ君。約束なのだよ」

「くっ……」

ソファーから立ち上がり、少女はゆっくりとエリーゼに迫る。

「貴様、一体私に何を乞うつもりだ」

「それは簡単なことなのだよ」

少女が望む事など考えずとも容易に思い浮かぶ。しかし、それをエリーゼが承諾するかどうかといえば、難しいだろう。そして、結果として争いが起これば部屋は汚れて、下手をすれば窓ガラスどころか壁に穴が開く惨事にも繋がりかねない。

俺は若干の緊張を身に感じながら、二人の様子を見守ることにした。

「エリーゼ君がマリーにキスをするのだよ」

少女は目を輝かせながら、胸を張ってそう言った。

しかし、エリーゼがそんな要求を呑むはずもない。

「そのような真似を誰がするか、冗談も休み休みに言え」

冷たい視線を少女に向けて、エリーゼは頑なに拒絶の意思を露にした。

「な、なんですとっ!? いきなりそれは酷いんじゃないかいっ!? 約束はどうなってしまったのだい!?」

手に取ったオレンジ色の液体の満ちるグラスへ口をつけて、涼しい顔で返したエリーゼは少女を見下して続ける。

「貴様は先ほど雅之に言われただろう、私にジャレつくな、とな。ならば幾ら私に懇願したところで、前提が覆されるわけにはいくまい? でなければこの雨の中再び外へ出て行くことになるぞ?」

「そっ、それは……」

いつでも直球を投げてくるエリーゼとしては、なかなか理屈っぽい言い訳である。だが、それは若干違う。

「でも、この場合だったら話は逆だからいいんじゃないのか?」

止せばいいのに、ちょっとした好奇心に負けた俺は少女の援護をしたのだ。

「お前がキスをするんだろ? それだったらコイツがお前にジャレつきに行く訳じゃないんだから、俺が言った制限には引っ掛からないぞ?」

俺は少女に対して、エリーゼにジャレつくのを止めろと言った。ならば、エリーゼが少女にジャレつく分には問題ない。キスでもレズプレイでもエリーゼ主導ならば好きなだけやっていればよい。

「雅之っ! 貴様は余計な事を言うなっ!」

「お、おぉっ! その通りなのだよ下僕君っ!」

「だから俺は下僕じゃねぇっていってるだろうが」

俺の言葉を受けて、少女は水を得た魚のごとく目を輝かせる。対してエリーゼは眦を釣りあがらせて抗議の声を上げた。

「いいか、私は絶対に認めないぞ! でなければこの家を吹き飛ばしてくれる」

少女とのキスが相当嫌なのだろう、勢い良く立ち上がったエリーゼの腕には紫色の淡い光が煌いていた。それは何でも壊せる不思議パワーだ。

「だ、だからなんで直にそうなるんだよっ!」

なんて直情的な反応をしてくれるのだろうか。

「でなければコイツを止めろ、今すぐにだっ! もしも私の言う事が聞けないというのならば……」

大した脅しである。なにせ、困ったことにエリーゼの脅しは、宣言した事をそれがどんなに現実離れした話であれ実行してくれるから性質が悪い。きっと、少女が迫ればコイツは言葉通りこの部屋を壊滅させてくれることだろう。下手をすればマンションが基礎から崩れかねない。そして壊す事は出来ても直す事が出来ないのが、エリーゼのどうしようもないところだ。

「ちょ、ちょっとまて、分かったから待てよなっ!」

慌てて少女とエリーゼの間に入って制止を図る。

「邪魔をしないで欲しいのだよ」

「しないわけにいかないだろうが。でなけりゃ3人まとめて公園に戻る羽目になるぞ? お前はそれでいいのか?」

やはりこの二人を一緒に管理しようとしたのが間違いだったのだろうか。エリーゼが塩素系の漂白剤なら、少女は酸性のバスクリーナーといったところか。混ぜると毒ガスを発生してくれるのは間違いない。いや、きっと爆発する。

「そ、それは……そうかもしれないのだけれど」

俺の言葉に少女は勢いを落とす。

「でなけりゃお前にはこのまま出て行ってもらうぞ? 部屋のものを壊したら出て行ってもらう約束だっただろ?」

「でもっ! それはエリーゼ君が勝手に壊すということで、マリーが直接手を下すわけでは……」

「結果的に壊れるなら同じだろうが。お前が焚き付けなけりゃ、これでも一応は平和なんだよ」

屁理屈の捏ね合いをしている場合ではない。今はキレかかっているエリーゼを宥めるのが最優先だ。

「で、でも……そんなのルールを無視しているのだよ」

「なら今すぐに出ていくか?」

雨風の吹き荒ぶ窓の外を指差してみる。

「それは………うぅ……」

流石の少女も嵐の中でホームレス活動を再開するのは抵抗があるのか、それで大人しくなってくれた。加えて、室内にいればエリーゼと一緒にいられるという、少女に取って大きな魅力もある。

「わかったのだよ、ならばこの勝利はひとまず保留にしておくのだよ」

「ああ」

そうしてくれるのが一番ありがたい。後で俺が関知する必要の無い場所へ行った時にでも、盛大に乳繰り合うがいい。

「保留などする必要ない、そのまま忘れてしまえ馬鹿が」

「何を仰るのだいエリーゼ君。このマリーがキミに対する命令権を、一つだけとはいえ手にしたのだよ? 忘れるわけ無いのだよ。ここ一番という時の為に、何か良い事が思いつくまでストックしておくのですよ」

胸を張って宣言する少女にエリーゼは半分諦めた様子で口を開いた。

「くだらない、勝手にしろ」

「ふふふん、勝手にするのだよぉ~」

答える少女は気分上々だった。

「ふんっ」

エリーゼは再びゲームに挑まんとしている。少女に負けたという事実が、否応なしにもコイツを家庭用ゲーム機に向わせる。負けず嫌いな奴である。

時計に視線を向けてみれば時刻は午後3時を回ったところだった。

さて、これ以上ここに居ても良い事は無いだろう。先ほども暇にまかせて変な思案をしたせいで、無駄に危うい目を見たのだ。そろそろ俺も自分の部屋に帰るとしよう。エリーゼも放っておけば大人しくゲームをやっているだろうし、少女さえ遠ざけておけば静かなものだ。

それに明日はテストがまっている。そろそろテスト勉強を始めたとしても撥は当たらないだろう。というか、そろそろ始めないと壮大な撥が飛んできそうだ。

「んじゃ、俺は自分の部屋に戻るけど、絶対に窓は割るなよ? もし割ったらお前等まとめて外へ放り出すからな?」

反応の無いエリーゼと無駄に元気な返事を返す少女に一抹の不安を感じながら俺は立ち上がる。

「何をしに行くのだい?」

こちらを見上げるようにして問うてくる。

「勉強だよ。明日は学校でテストがあるから勉強しなくちゃならないんだよ」

「テストというと、いわゆる期末試験というやつかい?」

本人曰く数百年の間を眠っていたエリーゼとは違い、この少女は随分と現代に慣れ親しんだ様子で、俺の言葉に質問を重ねてきた。

「そうだよ」

文明の発達も目覚しいこのご時勢である。チベットの山奥にでも篭って生活しているのでなければ、自然とそういった文化も入ってくるのは当然だろう。ただ、当然であるといえばその通りなのだが、魔法だの何だのといった不思議系の方々が、そのように現代社会との接点を持っているというのは違和感を感じないでもない。それまでの自分達が慣れ親しんでいた文化が、実はおかしな世界とも通じていたという事実に抵抗を感じるのだろう。

とはいえ、今はそんな感想も無意味なものだ。既に自分自身がその不思議系の一部に組み込まれてしまったのだから。

「用がないなら俺は行くぞ?」

ソファーから立ち上がり、座る少女の前を横切って俺は自室へと向おうとした。

だが、そこで服の裾がクイっと引っ張られた。どうしたのかと後ろを振り返れば案の定、犯人は少女であった。

「なんだよ?」

「一つ提案があるのだよ」

「提案?」

唐突に何を言い出すのかと思えば、続ける少女の言葉は意外なものだった。

「もしも君が許可をしてくれるなら、マリーに君の家庭教師を勤めさせて欲しいのだよ」

「はぁ? お前に家庭教師をか?」

「そうなのだよ」

答える少女は自信あり気に胸を張って頷いた。

「なんでそうなるんだ?」

実年齢がどれ程であるにせよ、その容姿は完全に小学生低学年といった具合だ。それが面と向って家庭教師を勤めさせてくれと言ってきたならば、誰であろうと疑問符の一つも浮かべたくなるだろう。

「それは君がマリーを家に招待してくれた事に対するせめてものお礼なのだよ」

「あぁ、お礼か……」

なかなか殊勝な心がけである。

「そうなのだよ。人の世は道連れと言いますし、ならばここでマリーが一肌脱がなくして、いつ脱ぐというのだい。確かな教育で君の成績が鰻上り間違いないのだよっ!」

俺を見上げる少女は自信たっぷりに語りかけてくる。だが、この少女はかなりの馬鹿だろう? 教える事はあっても教えられる事があるとは思えない。

「でも、お前が俺の家庭教師なんてできるのか?」

確かに俺は凄い馬鹿だろう。偏差値だってきっと50も無い。しかし、それを上回る勢いでコイツは馬鹿っぽい。出会ってからまだ一日も経っていないのに、そう確信できる勢いで馬鹿だ。

浮かび上がった疑問に頭を悩ませていると、俺達のやり取りに痺れを切らしたエリーゼが横槍を飛ばしてきた。

「貴様等、部屋に行くのならばとっとと行け、五月蝿くてゲームに集中できんだろうがっ!」

五月蝿くてゲームに集中できないとは随分と横柄な物言いである。とはいえこれ以上エリーゼを刺激するのはよろしくない。仕方が無い、とりあえず少女を連れて部屋に行くとしよう。

「分かった、とりあえず部屋に行くぞ」

「了解なのだよ」

鬼神のごとくコントローラのボタンを連打するエリーゼを尻目に、俺は少女を誘って自室に向った。

部屋に入って電気をつける。

デスクには幾冊もの教科書やノートの類が開きっぱなしのまま積まれている。とはいえ、実際に勉強していたのかと言えばNOである。どの教科書も一度はカバンから取り出して開いてみるのだが、それを1時間以上に渡って読み続けた試しは無い。

俺は勉強用のガスチェアに腰掛けて少女に向き直った。

「それで、本当にやるつもりか?」

一応そんなことを聞いてみる。だが、少女はいたって真面目に頷いてみせるものだから、どうしたものだろうか。困ったものだ。

「君は高校生なのだろう?」

「そうだけど、それがどうかするのか?」

「だったら何の問題も無いのだよ」

一体何に対して問題が無いのか、俺には良く分からない。

「さてさて、それでは早速お勉強を始めるのですよ。明日のテスト教科は何だい? 数学でも英語でも、なんでもドーンと来るのだよ。ドーンっ! ドーンッ!」

こちらの困惑などお構いなしに、少女は話を進めていく。仕方ないので俺もそれに従って机に向う事にした。

「まあ、やるとしたら数学なんだけどさ。できるのか?」

九九の暗算なら流石の俺も間に合っているぞ?

「もちろんなのだよっ! 君の知性が求めて止まない数学知識をマリーが一片の欠落無く教えてあげるのですよっ!」

やたらに自信満々なところが怪しいが、本人ができると言っているのだから仕方が無い。やる気も半端に、俺は卓上に広がった教科書の山から目当てのテキストを探し出すと、適当に開いて見せた。

「これが日本の高等学校で利用されている教科書なのだね。ちょっと拝借してもいいかい?」

「ああ」

好奇心に目を輝かせている少女に、今しがた開いたテキストを手渡した。

ペラペラと手早くページを捲る少女は本当に内容を理解しているのだろうか? 頭から読み始めて一通り目を通すような素振りを見せた後に、小さく一人頷いて教科書を返してくれた。

「どうなんだ?」

顎に手をついてジト目に少女を見つめる。

「そうだね、この国の教育体制には詳しくないのだけれど、おおよそ標準的な高等学校としての教育レベルだと思うのだよ」

お前に理解できるのか? というつもりで聞いたのだが、帰って来たのはなんとも偉そうな物言いだった。

「ところで、君はこのテキストにある項目をどれほどの期間内に学びたいのだい?」

「そりゃ、テストは明日だからなぁ。何時までって言われれば明日まで?」

無理難題もいいところだ。俺としてはテストが再度行われるというだけでもめっけものなのだろうが、しかし、明らかに結果が見えてしまっているというのがやる気を激減させる。

「そうなると君の理解度にもよるだろうけれど、結構大変なスケジュールになると思うのだよ。少なくとも他の教科に時間を割いている余裕は無いのですよ」

「そりゃそうだろうなぁ」

無論、全てを勉強する気なんて更々無い。テスト範囲に焦点を絞って山を張るだけだ。そして後はやったところがテストに出題される事を祈るのみである。勉強にしても一夜漬けの丸暗記だろう。幸いなのは、明日のテストが昨日の局所的大地震によって潰された数学のみであるという点だ。

「しかし安心するのですよ。マリーは一度口にしたことはかならず実行してみせるのだよっ! 有言実行、なかなか美しい言葉じゃないかいっ!」

机上に散らばっていた「化学Ⅱ」や「国文学Ⅰ」などと銘を打たれた他科目のテキストを隅のほうに寄せると、少女は手にした数学Ⅲ/Cの教科書を1ページ目から開いて、俺の目の前に置いて見せた。これは一体何のつもりなのだろうか?

「お前さぁ、別に初めからやる必要なんてないだろ?」

開かれた目次には今学期で学んできた筈の内容が列挙されている。

「何を言っているのだい。無理を不可能にするのがマリーのミッションっ! これは是非とも完遂して、君にはテストでマックスオーバーしてもらうのだよっ! 目指せ満点、プラスオプションなのですよっ!」

「いや、意味分からないし」

「まずは君の理解度を知るために初めからテキストを読んでいくのだよ。そして、その結果を踏まえて勉強を進める、それが理系の学術を教えるデファクトスタンダードなのだよキミィっ!」

「そんなんで間に合うわけないだろうが。つーか、そもそもお前がこの教科書の内容を理解できるのか?」

広げられた教科書の厚さは、机の上で閉じられているノートパソコンと大差ない。それを一から読んで進めていたのでは、時間が幾ら会っても足りない。既に試験開始時刻まで残り24時間を切っているのだ。

「さぁ、いざ学問の世界へ飛び込もうではありませんかっ! 君の明日は微分方程式よりルンゲ=クッタ法の輝きへっ!」

だが、俺に勉強を教えるというだけで、無駄にテンションを上昇させている少女はノリノリで、人の話なんてまるで聞いていない。コイツの申し出に頷いたのがそもそもの失敗だったようだ。

これはもう、明日のテストは終わったな。

そんな諦めを感じながら、仕方なく少女の言葉に従った俺は、卓上のテキストへと視線を向けるのだった。

そして、机に向ってどれほどの時間が経ったのだろうか。

勉強を始めた時刻を覚えていないので正確な経過時間は分からない。しかし、それでも結構な時間が経っている事は間違いなかった。

卓上に置かれた携帯のディスプレイを確認すれば、時刻は既に7時を回っていた。

「それじゃあ、少し休憩をするのだよ」

そう言って少女はそれまで手にしていた赤色のボールペンを机の上に置いた。

それに応じて俺も椅子から立ち上がると、大きく腕を伸ばして伸びをした。凝り固まった体の各部がボキリと小気味よい音を立てる。

「はぁ……」

思わずため息がでた。

それは落胆のため息ではなく、感嘆のため息だった。

少女は確かに俺の勉強を見てくれた。

「本気で半分終わっちまったよ……」

そして、テスト勉強は少女の言葉通り、本当に教科書の1ページ目から始まって、まるまる一冊分ある試験範囲の半分を消化していた。

しかも、急ぎ足どころか全力疾走で話を進めている割には、学んだ内容が頭に残っているのである。定理や公式の暗記は別としても、応用問題をスラスラと解いている自分がいるのだ。まるで脳味噌だけが別人になってしまったかのような感覚だった。

「もう少し時間がかかると思ったのだけれど、君の理解力が優れているので随分と早く進める事が出来たのだよ。この分なら余裕をもって今日中に終れると思うのだよ」

笑顔で満足そうに頷く少女が眩しかった。後光さえ輝いて見える。そう思えるほど少女は人に物を教えるのが上手だった。学校の教師なんて目じゃないだろう。高校入試で世話になった某予備校の豪腕教師だって色あせて見える。

「実はお前って凄い人?」

だからそんな言葉が口から漏れた。

「ふふふ、それはどうだろうね。マリーの教育能力が凄いのか、君の学習能力が凄いのか、一概には評価できないのだよ。けれど、君の学習能力が同年代の学徒と比較して優れているのはマリーも認めるのだよ」

「そ、そうか?」

普段から馬鹿のレッテルでグルグル巻きにされていただけに、その言葉は感動的だった。俺にそんなことを言ってくれたのはこの少女が始めてなのではないだろうか? 

「とはいえ、高校教育の数学は初等教育なのだし、先にあるものを考えると、まだまだ評価は下せないのだよ。もしも君がそれ以上を望むと言うのならば、今以上の努力はかならず必要になるのですよ」

そう答える少女は、出会ってから今までの間で、一番真面目に物を言っているように見えた。

「ああ」

俺も興奮しているのだろう。テンションも高く、声を大きく少女の言葉に頷いていた。過去に例がない程に長時間集中して勉強していたにもかかわらず、精神はそれほど疲弊していなかった。

俺が椅子から立ち上がると、それにあわせるようにして部屋の扉が開いた。やってきたのはエリーゼだ。気づいた少女が声を上げて目を輝かせる。

「おおっ、エリーゼ君っ!」

「雅之、そろそろ食事の時間だろう」

少女の言葉を無視したエリーゼは、気だるげな様子を隠そうともせずに、仏頂面で空腹を訴えた。

「そういやそうだな」

時計の針が指すのは、いつもだったら夕食の準備を始めている時刻だ。

裸足のエリーゼはそのまま部屋に入り、ヒタヒタと音を立ててフローリングの床を進むと、俺の隣までやってきた。少女とは椅子と俺の身体を挟んで反対の位置である。

「これが勉強か?」

卓上に散らかったテキスト群の様子を伺う。そこあるのは、俺のここ数時間での勉強の過程である。

「悪いかよ?」

「別になんとも言っていないだろうが」

俺の言葉に短く答えると、無表情のまま、机の上に散らかされた教科書やノートを手に取りペラペラと捲る。特に関心があるようには思えない。

「やっぱり、お前もこれくらいは楽勝なのか?」

ふと気になってそんなことを聞いてみた。実年齢を考えるのなら、コイツは俺よりもずっと婆さんなのだ。つい先日聞いた話では、歴史の教科書に出てくるような出来事の一つや二つは生で体験しているらしい。ならば、この少女がそうであるように、エリーゼもまた歳相応の学があるのかもしれない。

だが、俺の疑問に答えたのはエリーゼ本人ではなく、隣に立つ少女だった。

「いや、エリーゼ君はこの書籍にあるような話は知らない筈なのだよ」

自信を持って言い切る少女の言葉に俺は疑問を口にした。

「なんでなんだ?」

エリーゼはテキストに視線を落としたまま、つまらなそうにページを捲っている。内容を読んでいるのかどうかは怪しい。紙をめくる乾いた音が足早に過ぎてゆく。

「このテキストに書かれている事柄は18世紀から始まって、19世紀以降に主な理論を展開するに至るものばかりなのだよ。だから、その間をマリーの作った封印の中に居たエリーゼ君には縁遠い話なのだよ」

「なるほど……」

確か500年位だった気がする。以前エリーゼが聞かせてくれた話では、それくらいの期間を、例の赤い宝石の中に閉じ込められていたのだそうだ。

「だが、この程度の書物に難色を示すというのは、些か脳に障害があるんじゃないのか?」

「どういうことだよ」

あからさまな言い回しに若干声を低くして聞き返すと、予想通りの言葉が返ってきた。

「直接言葉にしなければ理解できないのか? お前が馬鹿だということだ」

手にしていたテキストをパタンと閉じて続ける。

「かなりの馬鹿だとは思っていたが、まさかこれ程とは思わなかったな」

「わ、悪かったな、馬鹿で」

俺だって自分が馬鹿なことは重々理解している。しかし、コイツに面と向って言われるとムカッと来ないわけが無い。

「けど、お前だって分からないんだろ? だったら俺と大して変わらないじゃないかよ」

「私をお前と一緒にするな。この程度の書物に私が頭を悩ますと思うか? 一日あれば十分だ。それをお前は何日かけて悩んでいたのだ?」

エリーゼに言われて、ふと数月前のことを思い返してみる。

たしか、最初の3ページで一週間悩んで、それから3日後に理解する事を諦めて、以後テスト期間に入る一昨日までの間を、教科書はずっと学校の机に入れっぱなしになっていた気がする。

「…………」

……馬鹿で悪かったなこの野郎。

俺の身体を強引に退けて、その後ろにあったデスクチェアーに飛び乗ったエリーゼは、潤滑油の足りない椅子の背もたれをキィキィと揺らす。何をするでもなく机の上をぼうっと眺めている様だが、やることが無いのなら、わざわざ人の部屋にやって来てまで悪口を言わないで貰いたい。

「……なんだよ、それも吸血鬼の能力ってやつか?」

俺の八つ当たり染みた疑問に少女が答えた。

「多少は関係しているかもしれないのだよ」

「多少?」

こいつ等に関する事はまだまだ窺い知らぬ情報が多い。

「人間の脳は一定の年齢を境にして脳細胞が死滅し始めるだろう? でも、エリーゼ君の場合は若年で吸血鬼化したから、そういった加齢と共に発生する脳細胞の減少が起こっていなかったのだよ。だから、それによって若い優れた学習能力を永遠に持っていられるのだよ」

「うっわ何それ、反則クセェ」

そんなカラクリがあるのなら、俺だって一生懸命勉強するだろう。ピアノや英会話は子供の頃から始めましょう、って話だろう? けど、そんなスタートダッシュが未来永劫ずっと続くというのなら、どんな天才だって叶わないじゃないか。

「でもそれは今の下僕君にも言えることなのだから、状況的には大して変わらない位置にいるのだよ。ただ、年齢差による多少や、エリーゼ君の場合はそれまでの経験があるから、その分だけ差がでるのだよ」

「そうなのか?」

「そうなのだよ。そして、その年齢差というのが思いのほか大きいのだよ。特に学術という積み重ねが物を言う世界では、それと向き合ってきた時間が単純に比例するのだよ」

なるほど、確かにそれは学校の教師からも良く聞かされるフレーズの言葉だ。

ただ、今の少女の話で気になるのは、誰々の頭が良いの悪いのという事よりも、「若年で吸血鬼化した」という台詞である。それはつまりエリーゼが元来の吸血鬼ではなく、元は普通の人間であった、という事を示しているのではないだろうか? 常日頃から人間の事を蔑んでいるエリーゼに限って、しかし、その元は人間であったというのなら、それはなかなか面白い話だろう。

そして、そんな俺の心中を知ってか知らずか、人の椅子に勝手に踏ん反り返ったエリーゼは偉そうな物言いで人の事を見下してくれる。

「主人である私が下僕であるお前よりも優れているのは当たり前だろうが」

ニヤリと口を歪めて、いつもの人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。

「うるせぇよ、出来合いレースもいいところじゃねぇか」

勝負は既に、少なくとも500年以上昔から始まっていたというのだ。その差をどうやって埋めろというのだろうか。

つまり、今のやり取りから導ける結論は、何にしても俺ではエリーゼに勝てないということなのである。年齢差からして、唯一勝ち目のありそうな体力は、しかし、魔力などという反則技でどうにでもなってしまうし、こうしてみると正直やっていられない。

「ったく、吸血鬼っていうのも存外役に立たないよな。腕力なんてどうでもいいから、頭の方を良くしてくれればよかったのにさ。幾ら腕っ節が立ったって、頭が悪けりゃ学歴社会の藻屑だ」

「贅沢な事をいうな。第一、頭脳に限っては限界なんぞ無いのだ。それこそ私を越える事だって可能なのだぞ? それを自身のやる気の無さを棚に上げておいて随分な言い分だな」

「そ、そんなこと分かってるよ。けど、そう考えるくらいいいだろ?」

「ふん、大した体たらくだ。それでもお前は私のファミリーか?」

「…………なんだよそりゃ」

珍しい単語がエリーゼの口から出てきたので、俺は返す言葉を詰まらせる。例の吸血鬼同士で血を吸ったの吸わないので作られる家族みたいな関係である。

「それとも、所詮下僕に過ぎない貴様には無理な話だったかな」

「うるせぇよ、俺だってコイツに教えてもらって勉強してるんだ。一冊は無理かもしれないけど、今日中に半分は終らせてやるよ」

「そうか、ならば精々無駄に足掻くがいい」

「誰が無駄だってんだよ、黙ってろ呆け」

「やかましい、お前こそ黙れ下僕が」

「ま、まあまあ、喧嘩は良く無いのだよ二人とも」

俺とエリーゼの間に入って両者を嗜める少女。

その距離が縮んだ事に嫌悪を感じたのか、言いたいことだけ言い散らかしたエリーゼは目前に現れた天敵を一瞥して、椅子から飛び降りて部屋から出て行った。ドアを出る間際に再びこちらを振り返り、短く夕食の催促を忘れない辺りが図々しいというか、なんというか。

とはいえ、俺も腹が減っているのは確かである。釈然としないものを感じるが、仕方が無い。ここは一つ食事の支度をするとしよう。元ホームレスの現家庭教師だって腹を空かせているに違いない。

「じゃあ飯の用意でもするか、お前も腹減ってるだろ?」

「も、もしかして、マリーの同席を許可してくれると言うのかい?」

「ああ、俺に勉強を教えてくれたしな。エリーゼと一緒にリビングで待ってろ」

「了解なのですよっ!」

俺の言葉に嬉しそうに頷いた少女は駆け足でリビングへと向っていった。

さて、今晩の献立は麻婆茄子である。あいつ等の口に合えばよいのだが、西洋のお嬢さん方にはどうだろうか? まあ、実際のところ悪食も良いところのエリーゼとその知り合いだ。きっと何を出しても文句を言いながら食ってくれることだろう。

夕食を終えると、俺は再び机に向った。無論、隣には家庭教師役の少女が立っている。

明日は普通に学校へ登校せねばならず、そして試験がある。朝に回ってきた連絡網によれば、昨日の1時間目で古文の試験は終了していたので、明日はやり残しの数学だけが行われるらしい。切羽詰った状況にある俺としては、譲れない起死回生のチャンスだった。ちなみに明日は土曜日なので、いわゆる休日出勤となる。不平を漏らす生徒がほとんどだろうが、俺としては好都合だった。

少女との勉強は滞りなく進み、時計の針が天を指して一つに纏まるころには、教科書の内容も一通り終っていた。試験範囲は全てを網羅し、それに加えて問題集の要点も少女の指示に従って幾つか解いてある。なんて素晴らしいのだろう。涙が溢れてきそうな完成度だった。

今更だが、これならば何とかなるかもしれないと、そんな予感を少なからず持てるだけの余裕が俺の中に出来ていた。

明日の支度を終えた俺は、少女と共にリビングへと向った。すると、そこには依然として家庭用ゲーム機のコントローラーを握るエリーゼの姿があった。

「お前、まだやってたのかよ」

呆れ半分にそう呟くと、若干キレ気味な口調で言葉が返ってきた。

「やかましい、コイツを倒さずにして眠れるわけが無いだろうが」

「つっても、そんなにムキにならなくてもいいじゃんよ」

「別に、ムキになどなっていない」

ゲームの効果音やBGMを越えて、カチャカチャとコントローラーのキーを連打する音が耳につく。これをムキになっていないというのなら、どのような様子を指してムキになっていると言うのだろうか。

「エリーゼ君は本当にゲームが苦手なのだね」

「みたいだな」

キッチンから取ってきたコップの一つを少女に手渡してジュースを注いでやる。一人で暮らしていた頃と比べて、居候が増えたおかげで嗜好品の消費も随分と早い。自分のグラスに7分ほど注いだところで、昨晩は半分以上あったペットボトルの中のジュースは底をついていた。

「いちいち気が散るのだ、お前達は大人しく寝ていればいいんだ。今いいところなんだからな」

「言われなくてもそろそろ寝るけどさ」

「ならばとっとと行け」

こちらを一度も振り向かずに、画面を凝視するエリーゼは小さく顎だけを動かしただけだった。

「ったく」

窓の外に目を向けると、既に雨は上がっていた。

雲の散った黒い空には僅かだが星の瞬きが見て取れる。いつの間にか、台風は通り過ぎていたようだ。雨粒の消えたベランダへと通じる大張りの窓ガラスの先には、眼下に広がる住宅地がある。民家に灯る明かりが、絨毯のように広がるここからの夜景は、小さい頃から何度と無く俺の目を楽しませてくれた絶景だ。

「…………」

まあいい、今日はそろそろ寝るとしよう。明日もテストは一時間目からあるのだ。学校側も実質的に授業時間は1コマ分しかないのだから、昼からの登校にしてくれれば良いものを、几帳面にも朝の早い時間から始めようとは、一体何を考えているのだろうか。

「カーテン閉めるからな?」

窓ガラスの両端から引っ張った厚手の布で、眼下に広がる夜景を一息に遮る。カーテンレールをすべる金属金具が小気味良い音を立ててぶつかった。リビングのカーテンを閉めるのは普通に俺の日課である。

そして、問題はその後に発生した。

エリーゼの握るコントローラーと、家庭用ゲーム機の本体を結ぶケーブルに俺の足が引っ掛かったのだった。

頑なに握られていたコントローラーはエリーゼの手を離れる事は無く、自然と引っ張られる形となったゲーム機本体はテレビ台の中棚から落下する。そして、予期しない事態にバランスを崩した俺は、手にしていたグラスに満ちるオレンジ色の液体を周囲にぶち撒かしてしまった。

「ああっ!?」

「なっ!?」

「うわっ!?」

3人分の短い悲鳴がリビングに響いた。

次いで、バシッ、という何かが弾ける音がしたかと思うと、部屋のブレイカーが落ちた。俺のこぼしたジュースがコンセントのある辺りに飛び散ったのだろう。明かりが消えた部屋は暗く、閉じられたカーテンの隙間から差し込む月明かりだけが唯一の光源だった。

「な、何が起こったのだっ!」

突然の豹変に驚いたエリーゼが臨戦態勢で立ち上がり、周囲を警戒し始める。

事態を理解していた少女がそんなエリーゼを嗜めるように口を開いた。

「ブレーカーが落ちたようだね」

「っぽいな」

俺がジュースを溢してしまった辺りには、テレビやゲーム機、それにテレビチューナーといったAV家電の電源を一挙に担ってくれているコンセントがある。きっとそれを直撃したのだろう。

「ブレーカーだと?」

俺や少女の落ち着いた様子に、エリーゼもまた構えを解き、姿勢を柔らかくして口を開いた。

「そうなのだよ。いわゆるコンセントの親玉みたいな奴なのだよ」

「ほぉ……」

まったく、こんな夜中に俺は何をやっているのだろうか。思わず泣きたくなってくる。

「だが、それが落ちるとはどういうことだ? 何者かが手を下したとでも言うのか?」

「いや、そうじゃなくってだね……」

疑問符を浮かべるエリーゼへの説明を少女に任せた俺は、コンセント周りに飛び散ったジュースをティッシュで拭き取ってゆく。床はフローリングなので染みになるような事はないだろうが、だからといって楽なものではない。明かりの一切無い、暗がりのでの作業は非常に面倒であった。

そして、適当なところで作業を中断すると、ブレーカーを上げる為にキッチンへと向った。壁に設置されている配電ボックスの蓋を開けると、リビングのブレーカーは見事に落ちていた。これが無ければ大変な事になるのは分かっているのだが、いざ落ちてくれると面倒なものである。

「はぁ……」

ため息と共に下を向いていたレバー上げる。応じて、部屋の明かりは無事に灯ってくれた。

「おぉ、明かりが戻ったな」

「ブレーカーが上がったのだよ」

カウンターキッチンを越えて反対側からは、少女とエリーゼの上げる声が聞こえてくる。二人は天井を見上げて関心するように照明器具を見つめていた。

カウンターを迂回してリビングに戻る。

「一般家庭の作りも随分と複雑になったものだな」

エリーゼがなにやら遠い目をしてぼそりと呟いた。

「何の話だ?」

「いや、こっちの話だ。気にするな」

ショートしたコンセントに視線を向けてみる。暗がりでは気づかなかったが、その周囲は若干黒く焦げていた。近づいてみると、プラスチックの溶けた嫌な臭いが鼻を突いた。これは親が帰って来る前に何とかしておかなければならないだろう。下手に家の事を心配されて、悠々自適な一人暮らしが終ってしまうのも楽しくない。

「ところで雅之」

俺が溶けたポリプロピレンの表面を指でなぞっていると、背後から声をかけられた。

「なんだ?」

しんみりとした気分で後ろを振り返ると、そこには事態も半端に早速ゲームのコントローラを握ってソファーに座るエリーゼがいた。

「ブレーカーとやらは直ったのだろう? ならば早くゲームを元に戻せ。あと少しで倒せる所まで来ているのだ」

「あ……」

それを聞いて、殊更に色々と終った気がした。

落ち着き無く画面と俺とを交互に見るエリーゼは、今だに自分のゲームがどういう状況に追い込まれてしまったのか、という事に気づいていないようである。そして、俺はこれからそんな奴に面と向って死の宣告をしなければならない。

思い出す。幼少の頃に、母親が掃除機でカートリッジ式の家庭用ゲーム機に改心の一撃を加えた事を。その時の俺は、大切な記憶を失ってしまったゲーム機を目の前にして、三日三晩怒りと悲しみの連鎖に明け暮れたものだった。

そして、それが今まさに俺を標的として起きようとしていた。しかも相手はよりによってエリーゼである。これが意味するところは容易に想像できるだろう。想像しただけで鳥肌が立っていた。

「どうした、早くしろ」

あと少しでボスを倒せる。その言葉はきっと嘘でないのだろう。そこには期待に満ちた瞳の輝きがある。そして、俺の一言によりその輝きは、コンマ1秒とかからずに、地獄の業火に取って代わることとなるだろう。

「…………」

困った。並大抵の覚悟ではその一言は口に出来そうに無い。しかし、そんな俺の心情を知ってか知らずか、それを呆気なく口にするのが、エリーゼの横に立つ少女であった。

「エリーゼ君、それはちょっと無理な話なのだよ」

「ちょ、まっ、お前待てよっ!」

俺が止める間もなく少女は口を開いていた。

「そういったゲーム機の類は電源を常時供給していないと動作しないのだよ」

「……どういうことだ?」

聞き返す声色が硬いのは俺の気のせいだと嬉しい。

「つまり、一度でも電源の供給が途絶えてしまうと、それまで主記憶に展開していたデータが失われてしまうのだよ」

「失われる……」

あぁ、いらぬ事をペラペラと喋ってくれる……。

「無論、そうでないデータもあるのだけれど、エリーゼ君が欲するデータは主記憶上にあって、電源に依存するデータだったから、もう二度と同一のデータは戻って来ないのですよ。あぁっ! これこそ悲しきRAMメモリーの性なのですよっ! 愛しの記憶は何処へっ!?」

「…………だから、つまり、それはどういうことなのだ?」

眦の釣り上がったエリーゼに胸倉を掴まれた少女は、それまでのおどけた様子も何処へやら。目前に迫った怒気に押されて途端に泣きそうな顔になる。

「つ、つまり、エリーゼ君がプレイしていた状況を元に戻すことは不可能ということなのだよ」

「…………」

それでエリーゼの口は堅く閉ざされた。

その表情は俯いてしまっているので伺えない。だが、今の状況は台風の過ぎ去った外とは正反対で、嵐の前の静けさ以外の何物でもない。この後に待っているのは昼に味わった豪雨などとは比べ物にならないハリケーンだろう。

逃げるか?

廊下へ逃げ出すべく身を翻そうとしたときだった。

「おい」

酷くドスの効いた声が耳に届いた。

「な、なんだ?」

このまま夜の街にスタートダッシュを切っても良いのだが、エリーゼと俺では如何せんスペックが違いすぎる。俺がチョイノリならコイツはZZR1400だろうか。それくらいの違いはある。ともすれば、追いかけっこをして逃げ切れる可能性はコンマ1%も存在しない。

「お前、わかっているな?」

重々承知している。

「悪かった。悪かったよ」

だから素直に謝る。しかし、コイツが謝っただけで許してくれる筈が無い。エアコンの効いた室内に居てなお、嫌な汗が頬を伝って垂れた。猫の前の鼠、鵜の前の鮎、蛇に睨まれた蛙、そんなことわざが幾つも浮かんでは消えた。ただ一つ違う事は、エリーゼが生態系のピラミッドでダルマ落としをするような常識を超越した存在であるということだ。

「一体、私がどれだけの苦労をしたと思っているのだ?」

「で、でもお前はやろうと思えば何時だってクリア出来るとか言ってなかったか?」

せめてもの弁明に口を開いた。しかし、それも最早火に油を注ぐに過ぎなかった。いや、油どころかガソリンである。

「そのようなこと知るかっ!」

一気に爆発、炎上するエリーゼが吼えて俺に突っかかってきた。

「お前に私の気持ちが理解できるのかっ!? これからその身に降りかかる業に、涙を流して悔いるがいいっ! 地獄を見せてやるっ!」

「ちょ、ちょっと待てよ。俺だって結構分かるぞっ!? というか、少しは話し合いとか、示談とか、そういう方向性を持ってみようとか思わないのかっ!? なぁ、ちょ、ちょっとなあっ!?」

ソファーテーブルを飛び越えたエリーゼが、体当たりをするようにして圧し掛かってきた。体重はそれ程でもないのだが、如何せん勢いが強かった。体を支えきれなくなった俺は、滑る様にして床に倒れこんだ。

「痛ってぇ……」

頭をフローリングに強く打ち付けて視界が暗転した。だが相手は俺が患部を摩る時間さえ待ってくれない。

「さぁ、どうして欲しい? 失態を犯した愚かな両足を圧し折ってやろうか? それとも足元の様子にさえ気づけない、そのイカレタ眼球を刳り貫いて欲しいか?」

ワキワキと動く指先が近づいてくる。

一見して華奢なエリーゼの指先は、その細く色白な様子とは裏腹に、今しがた口にしたことを実際に実行できるだけの破壊力を持っているのである。俺にとっては凶器以外の何物でもない。触れられるだけで冷や汗がドッと沸いて出るのは、嘘でも誇張でもなく真実だった。

伸びてきた指先に触れられて、ひんやりとした感触が頬に伝わる。

「なぁ、雅之?」

鼻と鼻が触れるほどに顔を近づけられて、俺は思わず身震いをしてしまった。情けないことこの上ないが、生き物としての生理現象には抗えない。

「だ、だから悪いって言ってんだろ。脅すんじゃねぇよ」

「ここまで来て、まだ強がりを口にするか? お前の威勢も随分なものだな」

ニヤリと静かな笑みを浮かべるエリーゼは…………、本当に怖い。

「だが、今回ばかりはそれが仇となると知れ」

腹のうちでは煮えたぎった熱湯が今にも溢れんとしているに違いない。

「ちょ、ちょっと待てよっ!」

「待たぬ」

首と背に回された両腕が体を強く抱き上げる。尋常じゃないエリーゼの腕力に抗う術は無く、続いてやって来た首筋に走る鈍い痛みに、俺は顔を顰めた。それは久しく忘れていたコイツの性癖で、つまるところ、一般に言う吸血行為だった。

首筋に犬歯を食い込ませるエリーゼは、ゴクゴクと喉を鳴らして血液を喉へ流し込んでいた。口元で受け損じた血が胸元に流れて、まだ買って間もないお気に入りのシャツを赤く濡らす。

「お、お前、いきなり何するんだよ」

幾ら暴れようとも相手はピクリとして動かず、何の抵抗にもならない。しかたなく、俺は口を開いて抗議の声を上げるのみである。しかし、エリーゼはそれに意を返す事も無く、ひたすらに首から湧き出る赤い飲み物を啜り続けた。

隣に居るはずの少女も、興奮したエリーゼを宥めるのは無理だと判断したのだろう。それらしい素振りを見せる事は無く、黙って血を抜かれていく俺の様子を眺めているようであった。その表情が些か翳って見えるのは気のせいだろうか?

「…………」

ゴクゴクとエリーゼが喉を鳴らす音だけが、静かになった夜のリビングに響いている。

血を吸われ始めて数分が経過すると、脳細胞が酸素不足を訴えて視界を段々と狭め始める。悲鳴のように上げる抗議の声も、段々と呂律の回らないものになってくる。まるで酒に酔っているようであった。

加えて、俺はそれほど血の気の多い体質ではない。むしろどちらかと言うと低血圧で、血の気は少ない。それなのに、コイツは一体どれだけの血を飲むつもりなのか? 幾ら吸血鬼とはいえ体中の血を抜かれたら死んでしまうのではないだろうか?

得体の知れない恐怖が段々と広がっていく。

体には力が入らなくなり、腕を上げる事も出来なくなった。

視界は視点を中心として、それを囲うように段々と暗闇に侵食されていく。

体に力が入らないのは血を吸われているからなのだろう。声を上げようとして開いた口も僅かに喘ぎを漏らすだけだった。自分の体温がゆっくりと下がっていくのを感じる。

それから俺が気を失ったのは十数秒後の事だった。

気を失うという非日常的な事が、ここ一週間ばかりで既に6回を越え、これで7回目となる。それは平均を求めれば一日一回の割合だ。それも全てはエリーゼが原因であって、首を絞められたり、血を吸われたり、後頭部を強打されたりと、バリエーションに富む。俺もやめれば良いのに、口喧嘩はすぐにリアルファイトに発展して、そのたびに俺の意識は空の彼方へと旅立っていく。弱い犬ほど良く吼えるというが、情けない事に現状はその通りかもしれない。だが、弱い犬は主張を暴力に訴えることも難しく、吼える事でしか自己主張が出来ないのだから、身を守るにも吼えるほか無く、結果として俺は毎度毎度痛い目に合っているわけだ。

だが、今回はそれだけでは終らなかった。

「また、やられたのか……」

次に目を覚ましたとき、体は自室のベッドに寝かされていた。

しかし、仰向けに寝かされた俺の腹の上にはエリーゼが乗っかっていたりするので救われない。

「ようやく起きたか」

冷やかな視線が向けられる。

「……重いんだよ」

返す言葉に困り、そんなことを口にした。

「ふふ、そうだな。この程度で根を上げられては困る。私の鬱憤はまだ晴らされていないのだからな。まさか血を吸われた程度で吸血鬼が死ぬ事もあるまい? 痛みに苦しむ事はあるだろうがな」

「ま、まだ何かするつもりか?」

これ以上何をするというのだ。一抹の不安を拭えない俺は、しかし、それでも吼えて答えた。というか他に口にするような言葉もない。泣き叫んで許しを請うのは最後の手段だ、それこそ今後の生活に多大な影響を与える事だろう。

「肉が食いたい、肉がな」

ニャリと嫌らしく口元をゆがめたエリーゼは、血よりも赤い舌でペロリと唇を嘗め回した。その行為には一体どういった意味があるのか。考えたくも無かった。

「肉だったら俺の部屋じゃなくてキッチンだ。豚でも牛でも好きなのを食ってきたらどうだ? 生憎、グラム100円の安い肉しか無いけどな」

昼にスーパーで買い込んだ食材を思い出して軽口を叩いた。だが、相手は俺の言葉なんぞ聞く耳を持たないらしい。

「血で腹は膨れんだろう? だから肉を食べるのだ」

返ってきたのは意味不明な台詞である。

「お前、人の話聞いてるか?」

悪寒の走るエリーゼの物言いに背筋が寒くなった。まさか、そんなことは無いだろう。

周囲を見回せば、部屋の隅には少女の姿もある。エリーゼに伴ってここに居るのだろう。ならば、少しは間に入ってくれてもよい気がするのだが、エリーゼにゾッコンである少女にそれを願うのは無理な話か……。

「いい加減にどけよ、重いって言ってんだろ?」

体を起こそうとして腕を立てた。すると、それに反応したエリーゼが俺の両腕をシーツの上に押さえつけた。まるでレイプされているような状況だった。だが、相手が相手なだけに微塵も嬉しくない。それどころか、能力差を考えれば本当に犯され、もとい、殺されかねない状況だった。

「だからお前はなんなんだよ。肉だったらキッチンだって言っただろ? 別に何もしないから離せよ」

「何を勘違いしている? 私が欲しい肉は今この場に横たわっているではないか。今更この衝動を豚や牛で慰められると思っているのか?」

ジッとこちらを見つめてくるエリーゼと、その視線が絡み合う。ベッドの上で静かに見つめ合う一組の男女。さぁ、これがクラスの可愛い女の子とだったらどれほど嬉しい事か。しかし、悲しい事に今の俺の目前にあるのは、日本人離れした麗しき碧眼と小学生サイズのボディーである。

「おい、お前な……」

くだらない冗談は止めろ。

そう言おうとした口は、形を歪めて無様な悲鳴を上げた。

肩口にかぶりついたエリーゼが、噛み締めた歯をそのままに、肉を引き裂いて頭を上げたのだった。ブツリという鈍い音と共に、味わった事の無い鈍痛が体を駆け巡る。

「な、い、痛っっ!!」

見れば肩口は裂け、皮膚は無論のこと、その下にある赤い色をした体組織までもが露出していた。エリーゼの口が小さいおかげで、傷口はそれ程でもないが、痛いことには変わりない。

「お、おお、お前っ!!」

怒りに声を荒げて顔を上げると、口元を血で真っ赤に汚したエリーゼが目と鼻の先で笑っていた。

その口に銜えられている赤く滑った物体は間違い無い。確かに言葉通りのものだった。

顎からはポタポタと赤い雫が垂れている。エリーゼは見せ付けるようにして、口に含んだものをクチャクチャと時間をかけて租借する。口の周りは血に濡れて真っ赤である。そして、あまりの嫌悪感に顔を背けようとした俺の頭を両手で掴むと、わざわざ鼻が触れ合う距離にまで顔を近づけてきた。一体なんのつもりかと疑問に思っていると、相手はその行為見せ付けるようにして、咥内に含んだモノを、ゴクリと喉を鳴らし飲み込んだのだった。

「な、なにやってんだよ……」

肩の痛みは吸血鬼の異常な治癒能力によって直に引いていく。視線の片隅には傷口から上がる白い煙があった。しかし、エリーゼの奇天烈な行動は俺の意識に尋常じゃない動揺を与えていた。

「言っただろう? 肉が食いたいと」

なんてこと無い様に言い放つ。

「だからって、なんで俺のなんだよっ! 意味わかんねぇよっ!」

そもそも人肉というのが問題だ。そういうのは一部の都市伝説だけでおなか一杯だ。

「お前の意向など知ったことか」

「ちょ、ちょっと待てよっ!」

再び口を開き肩口に喰らい付かんとするエリーゼに、声を荒げて謝罪の言葉を並べた。

「ま、待ってくれよっ! 悪かった言ってるだろっ!? ゲームくらいで馬鹿なことするなよっ! なんでもするから勘弁してくれよっ!」

足蹴にされる程度ならば、まだ我慢していれば良いかもしれない。しかし、これは何かが違う気がした。なんというか、良くない世界にコンニチワをしてしまいそうな感覚があったのだ。まるで幼心に初めてSMのアダルトビデオを見たときのような……。

…………。

って、何を考えているのだろう。俺がそんな変態である筈が無い。

そうだ、そんなことあるはずが無い。しかし、だからといって、これ以上の痴態を繰り広げられても困るし、耐えられそうにも無い。ともすれば結局、唯一の解決案はプライドもへったくれもない平謝りだった。

「なぁっ、頼むからっ!」

自分に組み伏せられた相手が必死になって懇願する様子は余程おかしかったのだろう。エリーゼは声を漏らして笑い始めた。

「なんだ、随分とあっさり落ちたな? 存外下手に痛めつけるよりも、こちらのほうが余程効果的だったようだ」

「………効果的ってなんだよ」

今は恨めしい視線を送る事しかできない自分が情けなかった。

「私があれだけ苦労して、あと一息で倒せるというところまで進めたゲームが、お前の下らない失態で水泡に帰したのだぞ? それをお前はどうやって償うつもりだ?」

「だから、それは悪かったって謝ってるだろ」

「謝られたところで私のゲームは戻ってこない。貴様が私に代償として何を提供できるかが問題なんだ。理解できないか?」

「そ、そりゃそうかもしれないけど……。でも、俺がお前に何をできるよ?」

俺が代わりにゲームを進めたところでエリーゼが満足するはずも無い。かといって、消えてしまったデータは戻らないのだから打つ手は無い。

「そうだな……」

俺の言葉にエリーゼはしばらく悩むようにして口を噤む。

きっとろくでもない事を考えているのだろう。だが状況は俺が圧倒的に不利な訳で、どんな命令を出されたとしても、甘んじて受ける他に選択肢は無いだろう。もしここで拒絶しようものならば、また体のどこかを啄ばまれかねない。

「ならばこうしよう」

大人しく黙りこくり、一抹の不安を感じながら胸中の早鐘を16ビートで打ち鳴らしていると、どうやら代案が浮かんだらしいエリーゼが一つ案を上げて来た。

「お前には私のペットになって貰おう。どうだ? 楽しそうだろう?」

案件とはいっても、それはコイツの欲求を満たす為だけのもので、俺にはなんのメリットは無い。それを拒絶したときのリスクを考えると、相対的にはメリットがあるのだと自分に言い聞かせて我慢するほか無い。

しかし、ペットとはまた酷い……。

「俺は畜生か?」

「下僕も畜生も似たようなものだろう?」

「違ぇよっ!」

確かに文化圏によってはそういう認識もあるかもしれない。けれど、少なくても日本でペットをやっている畜生は可愛がられてなんぼの存在である。

「まあ、そうつんけんするでない。十分に可愛がってやるぞ?」

ニヤニヤと笑みを浮かべるエリーゼはとても楽しそうで、憎たらしい事この上なかった。コイツの人を苛めて興に入る性格はなんとかならないものだろうか? 相当歪んでしまっている。

「お前が嫌だと言うのならば、私はそれでも構わないが、そのときはまたお前を頂くとしよう。三日三晩も喰らえば腹も膨れるだろう?」

そんなに食われたら骨も残らないだろう。

ジュースを溢しただけでえらい事になったものだ。

「……っ糞が、好きにしろよ」

シーツの上にあって、横になったままの俺は、目前にあるエリーゼから顔を背けるようにして小さく頷いた。元より選択肢は無いのだ。覆いかぶさるような体勢から、こちらを見下して笑うブロンドの悪魔は、腹立たしいほどに満足気だった。

「ならば早速、ペットには主人に奉仕して貰うとしよう」

一体何のつもりだろうか? エリーゼはベッドの、俺の横たわるその隣にゴロンと体を横たえた。長い金髪が宙を舞い、白いシーツの上に撒き散らされる。その一端が俺の顔にもかかり、甘い匂いを鼻に運んだ。

「奉仕ってなんだよ……」

そもそもペットに奉仕を求めるとはどういう了見だろうか。

「マッサージだ。今までずっと座りっぱなしでゲームをやっていたからな、少々身体が凝っているのだ」

随分な体たらくだった。

確かに実際の年齢はかなりのもので、お婆ちゃんと言えばお婆ちゃんには違いない。しかし身体は子供だろう?

「何時まで横になっているつもりだ、早くしろ」

「わ、分かったよ」

まだ血が足りていないのか、若干気だるい身体を引き起こし、すぐ隣でうつ伏せに横たわるエリーゼに向き直った。

「マ、マッサージだったらマリーにも任せてみるのだよっ!」

すると、それまで黙っていた壁際の少女が口を開いた。

「このマリーのフィンガーテクでエリーゼ君の精神を空の彼方までフライアウェーしてあげること間違い無しの心地よさですよっ!?」

その目が何処か血走っているような気がするのは、きっと気のせいじゃあないだろう。

だが、それをエリーゼが認めよう筈が無い。

「やかましい、貴様はそこで黙って見ていろ。雅之との約束を忘れたのか?」

エリーゼにジャレついたら追い出すという約束である。

「ぅ、うぅ……それは…………」

既に台風は過ぎ去ったのだが、それでも外はまだ小降りの雨が続いている。少女としては判断に困るところだろう。何よりもここにはエリーゼがいる。

「貴様に触れられる事を考えるだけで鳥肌が立つわ」

「そ、それは、酷いのですよっ!?」

加えてこの非情な台詞に、流石の少女も意気消沈したのだった。

「ま、マリーはそんなに嫌な存在なのですか? まるで害虫じゃあないですか……」

「大して変わらないだろうが、いや、虫のほうがまだ使い道がある。黙ってそこで見ていろ馬鹿が」

「ば、馬鹿の称号……、かなり欲しく無いのだよ」

「随分な扱いだな」

俺の中では少女の株が急上昇中だったので、少しくらいは同情の余地もあった。しかし、エリーゼにはそんな甘い考えなど毛頭無いらしい。これも長年のストーカー行為による賜物なのだろうか。

「雅之、コイツは放っておけ。それよりもお前は腕を動かせ、でなければ再び喰らうぞ?」

ったく、俺はこれほど我が侭な奴を生まれてこのかた見たことが無い。

「はぁ……」

今日は無駄にため息ばかり漏れてしまう日だった。

とりあえず今は素直に言う事を聞いておくしかないだろう。出なければ口論と虐待の無限ループへ再び突入だ。

「で、どこからやるんだ?」

寝転がって伸びをしている飼い主に伺いを立てる。

「そうだな……、とりあえず足だ。長い事同じ体制で居たからな、随分と凝り固まっているだろう」

そう言うと、異様に長いニーソックスを丸めて脱ぎ取り、ベッドの下へ落として捨てた。きっと、これも後で俺が洗濯する事となるのだろう。既に家政婦の域である。

「あいよ」

やると決めたのならば、一気にやって手早く終らせてしまうとしよう。俺は注文を受けてエリーゼの下半身へと向き直る。

しかし、こうしてその体躯を目前にしてみると、改めて感じざるを得ないのだが、エリーゼの身体は随分と小さい。コイツ、身長はどれくらいあるのだろうか? 夜中にこっそりメジャーか何かで測ってみたい欲求が沸いてくる。きっと、1メートル程度が関の山であろう。体重にしても、以前抱き上げた感覚では、スーパーで買う10kgの米袋二つ分より軽いと思う。

「…………」

だが俺はそんな奴に、ここ一週間に渡って振り回され続けているわけだ。そして今もリアルタイムでペット扱いである。家畜なのだそうだ。

そんな事を考えていると、遣る瀬無い気持ちが溢れて止まらなくなってくる。泣いてしまいそうだった。

「どうした、早く始めろ」

「あ、ああ」

急かされた俺は思い出したように、シーツの上に投げ出された足に手を伸ばす。エリーゼは今日も例の水着のようなボンテージファッションだったので、マッサージは面倒無くそのままの格好で始められた。

横たわる四肢は、憎たらしいほど綺麗なものであった。

白く細い脹脛は俺の手首より少し太い程度で、強く握っただけで容易に折れてしまいそうな脆さがある。触れるとひんやりとした冷たさが手のひらに伝わってきた。平温は俺よりも幾らか低いらしい。エリーゼらしいといえば、そんな気がする。

「揉むぞ?」

「別に断らなくてもいい」

変なやり取りだ。

やんわりと力を込めて、本人曰く凝り固まっているらしい肉を揉む。実際はフニフニと柔らかく、一体これの何処が凝っているというのだろうか。滑々とした心地よい手触りは、同世代の女性からは決して得られない幼い故の特権だろう。染み一つ無く、張りの良い肌も同様だ。

「…………」

相手が家族だったりするなら、ここで一つ「お客さん、凝ってますね~」などと冗談を口にしたりもするのだが、エリーゼ相手ではそれも馬鹿なことだろう。やって白けるのは目に見えているし、そういうテンションでもない。

特に口を開く事も無く、俺は黙々とマッサージを進めていった。これならば、精神的にも肉体的にも、足蹴にされたり身体を啄ばまれたりするより全然良い。

脹脛を終えると、その上には腿がある。

「随分と慣れているな?」

次の部位へ手を伸ばそうとすると、エリーゼが口を開いた。

「小さい頃から親父を相手に良くやってたんだよ」

とはいえ、身体のサイズが全然違うから勝手はまるで別物だ。それでも慣れていると評価されるなら、そんな昔の出来事も良い経験だったのだろう。まさか、幼少時代の俺もこんな形でマッサージのスキルが役に立つことになろうとは思いも寄らないだろうがな。

「そうか……」

その言葉をどのように受け取ったのかは知らないが、エリーゼは短くそう呟くと、それでまた口を閉ざしてしまった。先ほどまでの騒々しさは何処へ行ってしまったのか、一変して静かだった。

「そうだよ」

だから俺もそれだけを答えると、再び作業に戻ることにした。薮蛇は避けたいし、存外、俺のマッサージを満喫してくれているというのならば、それはそれで良しとしよう。今は相手のご機嫌取りが最優先である。

目下の肢体に視線を向ける。

エリーゼは目を瞑ってうつ伏せたままピクリとも動かない。

それにしても……、あまり褒めたい相手ではないが、エリーゼの身体は綺麗だと思う。

きわどいカットのショーツと、パレオのような下半身を覆う面積の小さな布地。そこから伸びたスラリとした太腿は、艶かしい肉付きをしていながらも、俺の二の腕と大して変わらない太さだ。脹脛と同様に染みや黒子の一つも無く、白い肌には産毛が生えている様子さえ伺えない。誰がその比喩を始めて口にしたのかは俺の知る限りでないが、確かに言葉通り、それはまるでよく出来たビスクドールのような出来栄えだった。俺の腕が並ぶと、二つはまるで別の生物であるような気さえしてくる。そう思える程の違いがあった。

「…………」

実年齢は数百歳との事だが、コイツの肉体の年齢は一体幾つなのだろうか? 思い返してみれば、そういったプライベートな情報を詳しく聞いた試しはない。俺がエリーゼのことで知っているといえば、昼夜を問わず行動できる凄い吸血鬼だ、という事だけだ。

「……ふぅむ」

まあ、今はそんなことはどうでもいいか。少しは気にならない訳でもないが、知ったからといって何かが起こるかといえば、そういう訳でもない。

伸ばした手を肌に触れさせて、ゆっくりと腿の肉を鷲掴んだ。

「んっ……」

すると、それに応じて小さく声が上がった。

「痛かったか?」

それほど強く掴んだつもりはなかったが、体格の違いによるものだろうか? まさか子供相手にマッサージなんぞ、やったことがあろう筈がない。加減が分からないのだ。

「いや、気にするな。続けろ」

「そうか?」

「ああ」

まあ、多少の傷ならば目にも止まらぬ勢いで完治させるエリーゼだ。問題はないだろう。それに本人が大丈夫というのならば大丈夫だ。俺は指示をされるがままに作業を続ける。

腿は脹脛よりもなお柔らかく、手に吸い付くような肌触り、という文章としてしか知識に無い感覚を、始めて体感するに至った。

太股を更に上へ進むと、その先にはやんわりと膨らみ、二つ寄り添う丘がある。手の平一つで覆い切れてしまいそうな小さな尻だ。穿いているのはヒップハングショーツというやつだろうか? 生地は皮なのだろうが、普通のショーツよりなお露出に長けた下着のようなそれでは、全てを覆う事は不可能である。腿の付け根のショーツからはみ出た肉がどうにも意識をそちらの方向へ引っ張っていってくれる。加えて、隠しきれていないお尻の割れ目はどうしてくれたものか。

俺は決して幼児性愛を旨とはしない。しかし、これは如何ともしがたい。普段はなんてことないのだが、こうして面と向うような状況だと、否でも應でも目に入ってしまうのだ。

それもこれも、エリーゼの服装が良くないからだ。下はショーツのような穿き物と、それをギリギリ隠す程度に覆うパレオのようなスカートしか身に着けていない。対する上は混沌としていて、ビキニスタイルの胸を覆うトップと、四肢を覆う黒光りする皮製のベルトがシルバーリングで巻き巻きだ。既に衣類としての形容も難しい。

ちなみに下にはいたショーツのような黒いパンツが下着に類するものなのかどうかは未確認だ。だが、見た目が同じならばどちらであったとしても同じ事だろう。相手が幾ら子供でも、これだけ突出した格好をしていれば、否応なしに意識してしまう。

そして、もしもそんな俺の内心がエリーゼ本人に露見しようものならば、どれほど馬鹿にされるだろうか。考えただけでも屈辱である。

「どうした? 手つきが荒っぽくなってきたぞ」

「き、気にするな」

とにかく、早いとこ終らせてしまおう。

そう念頭において、俺は動かす指のスピードを上げてた。

エリーゼに叱咤された少女は大人しく、そんな俺の様子を恨めしそうに眺めている。コイツにしてみれば嫉妬を覚えない筈が無い。しかし、本人に嫌われていると認識した事に加え、手を出せば外へつまみ出されてしまうという状況が、ギリギリの所で少女に我慢をさせていた。

できるだけエリーゼの身体を見ないようにして、フニフニと柔らかい両の太腿を揉みしだいた。柔らかく心地よい手触りが、今は逆に恨めしかった。よからぬ衝動が少しずつ鎌首を擡げてくるのはどうしてだろう。

「…………」

いや、それは気のせいだ。

そんなことはありえない、錯覚だ。

きっとそうに違いない。俺は自分を信じている。

そうでなければ、極度のペドフィリアがマゾヒストで大変な事になるだろう。そんな特殊な性質はありえない。

ありえない。

宙ぶらりんの視線は、しばらく部屋の中を彷徨っていた。だが、ふとベッドの頭に置かれた目覚まし時計に意識が向いた。

それまでの騒ぎで忘れていたが、考えてみれば俺が少女との勉強を終えてリビングへ向ったのがPM12時である。それに加えて、ジュースを溢して一騒ぎしたあと、エリーゼに血を吸われてダウンしたのだ。目が覚めた今の時刻がとんでもない事になっているのは容易に想像できる筈だった。

「マジかよ……」

色々あったおかげで時計に目を向けている余裕が無かった。気がつけば後の祭りである。時刻は夜の3時を回ろうとしていた。

ちなみに、明日のテストは1時間目からあるわけで、午前8時30分には担当教官がテスト開始の合図を出す予定になっている。事前にセットしておいた目覚まし時計の起床時刻は7時だ。これでは満足な睡眠は諦めるほかない。

加えて、今はエリーゼのご機嫌取りの最中だ。まさか、コイツが俺のテストの為に手を引いてくれるとは思えない。こちらの都合なんぞ、路上に落ちている石ころ程度にしか見ていないだろう。意見を申し出ようものならば、車道に蹴り出されるのがオチだ。

「なんだ、どうした?」

俺の呟きを耳にして、枕に顔を落としていたエリーゼがこちらを振り返った。

さて、ここはどうするべきだろうか。そのまま何事でもないと言ってスルーしてしまえば、今を無難に通す事はできる、だが十中八九で明日は死ねる。しかし、明日を生きる為には今日死ぬ覚悟が必要だ。

「その、なんというか……」

優柔不断な自分が恨めしいが、留年の可能性がかかっているのだ。容易には決められない。まさか不眠で受けて通るような簡単なテストでもあるまい。加えて俺は相当に馬鹿なのだ。幾ら少女に勉強を教わったからといっても、それが次の日からいきなり天才に化けるような事も無いだろう。

「…………」

「どうした、何か文句でもあるのか?」

「いや、そういう訳じゃないけどさ」

文句ならば幾らでもある。だが、今はそれを口にしている余裕も無い。

「ならどうしたというのだ、手の動きが鈍いぞ。こんなことで疲れたとでも言うのか?」

「疲れちゃいないさ、ただ、ちょっと時間がな……」

やはり留年だけは勘弁してもらいたい。

「時間?」

俺の言葉を聞いて、エリーゼは目覚まし時計に目を向ける。カチコチと音を立てて周る秒針が、丁度時刻がAM3時を回ったことを教えてくれていた。

「3時だが、それがどうかしたのか?」

「いや、どうかしたっていうか、そろそろ寝ないと不味いんだよ。俺は明日からまたテストがあるから、幾らかでも寝ておかないと集中力が持たないし」

よく徹夜でそのまま教室へ向う奴がいるが、あれは俺には出来ない。せめて1時間程度は眠らないと死ねる。その辺は過去の試験で経験済みだ。最悪のケースでは、テスト中に眠ってしまった事もある。

だが相手は非情だ。そんな願いは一切の考慮無しに否決される、

「そうか………」

筈だった。

「分かった」

エリーゼは短くそう答えた。

それは一体何を「分かった」のだろうか?

「あ?」

「ならばマッサージはもういい、眠れ」

想定外の言葉をかけられて、俺はエリーゼの腿の肉を掴んだまま停止した。

「今、なんて言った?」

きっと、俺の聞き間違いだろう。そう思って問い返した。けれど、返ってきたのはやはり同じ言葉だった。

「だから、マッサージはもういいと言ったのだ」

顎を枕に埋めたまま、首だけを捻ってこちらを向いたエリーゼは、いつもの素っ気無い表情をしていた。怒っているようには見えないし、かといって例の子悪魔的な、人を無駄に挑発してくれる笑みも浮かべていない。いつもの素の表情だった。

「とっとと眠って身体を休めろ。明日はテストがあるのだろう?」

「え、あ、ああ。まあ、そうなんだけどさ……」

先ほどまでの怒りは冷めたのだろうか? 

酷く調子の狂う反応である。

本来ならば、それはそれで喜ぶべき事なのだが、相手がエリーゼである時点で、他に何か裏があるのではないかと、変に勘ぐらざるを得ないというか、なんというか……。

つまり、俺が落ち着かないのである。

だが、どうやらこの部屋には、俺以上にエリーゼの態度に対して落ち着いていられない奴が居るようであった。

それは耳を突く大きな声である。

「な、なな、なんですとぉおおおおっ!?」

それまで部屋の隅でいじける様にして拗ねていた少女であったが、その様子が一変。大きく目を見開いて叫び声を上げていた。

「いきなりなんだよ。夜中にデカイ声だすなよな」

声につられてエリーゼ共々視線をそちらに向ける。すると、そこには頑なに拳を握り、ふるふると身を震わせている少女が居た。

「ありえない、ありえないのだよっ!」

「何がありえないんだよ。つーか、声のボリューム少しは落としてくれよ」

叫ぶ少女は怒っているような、悲しんでいるような、それでいて何かを懼れているような、そんな複雑な表情をしていた。加えて顔には涙と鼻水のオプション付だ。あまり近寄りたい状態ではない。一体何時の間にその様な変身を遂げたのだろうか。

「だって、あのエリーゼ君が、こうも簡単に下僕の要求を呑んだのですよ!? そんなこと過去に例が無いのだよっ! なぜ? どうして? どうやって? 絶対にありえない事なのだよっ!」

それは俺も疑問に感じていた事である。しかし、下手に突っ込みを入れて前言を撤回されては困るので、あえて口にしていなかった。それなのに、この少女は余計な事をしてくれる。

「そのようなこと貴様には関係の無い話だろうが。下らないことでいちいち喚くな馬鹿が」

だが幸いなことに、話のベクトルは俺の危惧する方向からは反れてくれた。

「マリーにとってはくだらないことなんかじゃ無いのだよ。というか、むしろ最重要な情報なのですよ。だから、教えて欲しいのだよエリーゼ君、どうしてなのだいっ!? それは相手がこの下僕君だからなのかいっ!?」

懇願するように問い返す少女は必死だった。

「さぁな、もしそうだとしたら貴様はどうするというのだ? 泣き面で国に逃げ帰るのか? それもなかなか滑稽だな」

相手の心情は知っているだろうに、あえて傷口を抉るような言葉を並べる。必死の形相で迫る少女とは対照的に、相手に何の関心も持っていないエリーゼは無表情のままである。

「私が何を考えてどのように行動しようとも貴様には関係の無いことだろう。いちいちその程度で突っかかってくるな」

「か、関係あるのだよ。だってマリーはエリーゼ君のことを愛しているのだよっ!? それを関係ないの一言で無下にされるのは辛いのだよっ!」

「それは相愛ならばこその理論だろうが。言っておくが、私は一度でも貴様に興味を覚えたことなど無い。それをどうして関係があると言い切るのだ」

「そ、それは……、その…………」

「さぁ、話は終わりだ。とっとと部屋から出て行け」

随分な修羅場である。

これも惚れた弱みというのだろうか。若干ニュアンスが違う気がしないでもないが、むしろ惚れすぎてしまっているからこそ、この少女はエリーゼ相手にここまで盲目になれるのだろう。そもそも、真っ当な脳味噌を持っている奴だったら、万が一にもこんな女に惚れる事は無い。

「で、でも、やっぱりおかしいのだよっ!」

エリーゼに押されっぱなしの少女だが、それでも身を引くという選択肢は無いようだ。

「何がおかしいというのだ」

身体を起こしたエリーゼはベッドの縁に座り、果敢に挑み来る少女を見つめる。

「マリーの知っているエリーゼ君なら、今頃この下僕君は跡形も無く消し飛んでいるのだよっ! これだけ君に対して逆らう下僕にどうして甘い顔をしていられるんだい!?」

また随分と物騒な話である。

今のところ、俺は少女が言うような、跡形も無く消し飛ばされるような憂き目には会っていない。こうしてちゃんと生きている。しかし、日々の虐待に悲鳴を上げている俺の置かれたこの状況を、コイツは甘いと評してくれた。冗談も休み休みにして欲しい。

少女はエリーゼをジッと見つめたまま続ける。

「それに、下僕は道具に過ぎないと豪語していた君が、あろうことか自らの手を煩わせて、その世話を焼いているのだよっ!?」

いや、むしろ世話を焼いているのは俺である。

夜中であるにもかかわらず、少女は大きな声で次から次へと喋り続ける。

「それどころか、君は下僕を作ることさえ稀だったじゃないか。それがどうして、こうまでもこの下僕にこだわるのだいっ!? マリーには君のその変化が理解できないのだよっ!」

眦に大粒の涙を浮かべる少女は必死だった。

「しかも、今、君は下僕を同じベッドに上げさせて、あまつさえ身体に触れることまで許しているのだよ? 今までそんなことがあったかい? 少なくともマリーは始めて見たのですよ」

「…………」

少女の言葉を聞いてエリーゼは押し黙った。

今でさえ歯止めの利かないエゴイストのエリーゼが、昔は更に酷かったというのだ。それが真実ならば、俺のように中途半端な関係ではなく、本当の意味で「下僕」となってしまった奴は、相当な目に会っていたに違いない。

「ど、どうなのだい?」

自分の過去を振り返っているのだろうか? 少女に再び問われるまでの間を、エリーゼは部屋の床をジッと見つめたまま動かないでいた。

そして、しばらく待って口から漏れたのは、少女の問いからは些か外れた返答だった。

「貴様は……、いちいちやかましい奴だな」

眦をキッと吊り上げたエリーゼは、少女を睨みつけるようにして続ける。

「時刻が時刻だ、私もちょうど眠くなったところなのだ。それを理由に下僕の提案を呑んだところで何の問題がある? くだらない推測でものを口にするな」

怒声とまではいかないが、それまで淡白だったエリーゼの声色に若干の苛立ちが交じり始めていた。

「それじゃあ答えになっていないのだよ!」

しかし、少女は身を引くことなく、頑なに食い下がった。

「黙れ、何故私が貴様の問いに答えなければならないんだ。下僕をどのように扱おうが私の勝手だろうが。しかも貴様は私の全てを見てきたような物言いだが、本当に私の全てを知っているのか? 冗談も休み休みにしろ馬鹿が」

「けど、いくらなんても君が下僕の失態を見逃すのはおかしいのだよっ! 今までこんな事があったかい!? 君に取って下僕なんて道具に過ぎないのだろう? それがどうしてここまでの越権を許すのだい!? それがファミリーというものなのかい!?」

「や、やかましいっ! コイツは私の下僕だ、それ以上でもそれ以下でもないっ!」

「だったら何故なのだいっ!」

段々と論議を加熱させていく二人に、俺はあっという間に置き去りだった。会話に混ざる事も出来そうに無い。加えて少女の言う昔のエリーゼの話は、俺には知る由も無いことだ。おかげで全体が見えてこない。ただ一つ理解できるのは、コイツが今も昔も相当捻くれた性格をしていた、という事だけだ。

「答えられないのかい? そんな幼稚な対応は、なんの意味もなさないのだよ。それとも本当に答えを出せないでいるのかい?」

「……何を勝手に言ってくれる」

「だったら、マリーに本当のことを教えて欲しいのだよ」

第三者として様子と見ている限りでは少女がエリーゼを押している気がしないでもない。しかし、最終的な結果を出すのはエリーゼであって、少女はそれを受け入れるしか出来ない弱い立場にある。元から意味の無いやり取りなのかもしれない。

「ふんっ、……くだらない」

縋るような瞳で自分を見つめてくる少女に、エリーゼは鼻で笑って答えた。

「その疑問が晴れたところで今の貴様に幸が向く訳ではない。くだらない好奇心で身を滅ぼすというのならば止めないが、それでも私に挑むのか?」

「こ、これは好奇心なんかじゃないのだよっ!」

「ならば、貴様の言う昔の私らしさでその身を滅ぼしてやろう」

見ているこっちが寒くなるようなキツイ視線に射抜かれて、少女は小さく身体を震わせた。

傍から見ていても絶望的なまでに嫌われている。だというのに、どうしてこの少女はここまで喰いついていけるのか。これ以上のアプローチをかけたところで、相手には悪い印象しか与えないだろう。

「……………なんで、マリーではダメなのだい?」

相手を全く意にかけない物言いのエリーゼを相手にして、少女の勢いは段々と失われていく。

「やっぱり、特別なのはこの下僕君だからなのかい?」

「黙れ、雅之は何も関係無い」

少女は繰り返し俺を引き合いに出してエリーゼに語りかける。

当たり前だと思うのだが、エリーゼは俺に対して好意など持っていない。とりあえず便利だから一緒に居ることを許してやる、といった感じで勝手に寄生されているのが今の俺の状況だ。でなければ、こうも毎日詰られることもないだろう。好きな子には意地悪をしたくなる、という話もあるが、それにしてはやりすぎだ。

だが、それにもかかわらず何を疑っているのか、少女は随分と粘ってくれる。

「今も昔も関係ない。ただ、私は自分のやりたいようにやっていただけだ。それを酸いの甘いのと要らぬ理由を取っ手につけて、くだらない痴話話にして語るな。それもこの下僕を相手にだと? 虫唾が走るわ」

「君はそう言うけれど、マリーからすればこの下僕君の立場は羨むべきところにあるのだよ。だからその様子を見ていると、マリーはどうしてもエリーゼ君を諦めきれないのだよっ!」

「その減らず口はまだ言うか、とっとと諦めろ気色悪い。貴様が何を望もうが、私は微塵も答えるつもりは無い」

「…………」

時計の分針は着々と俺の睡眠時間を奪っていく。ベッドにはエリーゼが居るし、ここで俺一人が「じゃあ俺は寝るわ、おやすみ」といって横になるのも気が引ける。というか、それを実行するだけの度胸が俺には無いし、仮に横になったとしても絶対に眠る事などできない。

嫌な緊張があった。

「エリーゼ君が何を言おうともマリーは納得できないのだよ。どうしてマリーでなく、この下僕君なのだい?」

「くどいぞ?」

「ぅう……」

瞳を鋭くしたエリーゼに脅されて少女は縮こまる。

これ以上の無駄口を叩けば、エリーゼは問答無用で実力行使に出てくるだろう。そんな気迫が感じられた。それを少女も理解したのだろう。標的を見失った矛先が次に向けられた獲物は俺だった。

「だったらマリーにも考えがあるのだよ。聞きたまえ、そこの下僕君っ!」

声を大きく叫ぶと、ズビシと効果音が立ちそうな勢いでこちら指差してきた。

「何で俺なんだよ」

初めから傍観者を決め込んでいた手前、いきなりの名指しにドキリと心臓が高鳴った。相手がこの少女とあっては、きっと碌でもないことだろう。心の中で溜息を一つついて、少女に向き直った。

「マリーは決して君を、エリーゼ君の隣に認めはしないのだよ」

「そ、そりゃどうも」

別に認められたいとも思っていないし、エリーゼを相手に好きだ嫌いだと言い合うつもりも無い。むしろ引き取ってくれるというのなら喜んで差し出したい。たあ、今ある生活を考えると、諸事情によりそれも難しい話でもある。

「そして、マリーはこの命ある限り、エリーゼ君を諦めないのだよ。そこで今考えるべきは何か? それは君という存在だなのだよ」

「…………」

エリーゼを相手にしている時とは打って変わってテンションを上げていく少女。先週の出来事といい、エリーゼとの生活といい、俺は不思議系の中にあってやられ役で確定なのだあろうか。

「君はエリーゼ君に相応しい存在かい? それは否、エリーゼ君に相応しいのは、この世界においてマリー以外にありえないのだよ。 ドゥーユーアンダスターン?」

「知るかよ……」

睡魔の侵略に着々と犯されつつある脳味噌は、少女の高テンションな会話について行くだけの回転数を保てない。

「だから明日、君はマリーと決闘をするのだよっ!」

そして、何をどの様に解釈すれば前後の会話からそのような展開に話を持ち込めるのだろうか。胸を張って声を高らかに、少女はまた阿呆な事を言い放った。

「お前なぁ、なんで決闘なんだよ……」

突拍子も無いことを言い出した少女に、エリーゼが面倒臭そうな顔をして口を開いた。

「貴様は誰の許可を得て人の下僕を勝手するつもりだ?」

というか、俺はお前の下僕じゃないと何度言ったら分かるのか。こいつらときたら人が黙っているのをいいことに下僕下僕と連呼しやがって……と、そんな突っ込みを入れるのもいい加減に面倒になってきた。段々と鎌首を擡げ始めた睡魔に抗いながら、右から左に二人の会話を聞き流すだけだった。

「いや、これだけは幾らエリーゼ君に言われたとしても譲れないのですよっ! 男ならば決着はつけなければならないのだよっ! どちらがエリーゼ君に相応しいのか、それを証明する必要があるのですよっ!」

お前は女だろうが。

「するとなんだ、もしもその決闘で貴様が雅之に負けたとしたら、貴様は素直に国に帰り、私の前には二度と顔を出さないと誓うわけか?」

少女の提案を逆手に取ったエリーゼは、ニヤリといやらしい笑みを浮かべる。。

「ぅっ……そ、それは……」

「それくらいのリスクが無ければ決闘をする意義が無いと思うが?」

「それは……そうなのだけれど……」

その言葉に、少女の顔から一瞬で血の気が引いた。踏んでしまった地雷は大きそうだ。

「どうなんだ?」

だが、脂汗を浮かべて苦しむ少女は、悩む刻も僅かに、潔く頷いたのだった。

「わ、わかったのだよっ! 誓う、誓うのですよっ!」

「ほぉ……」

途端にエリーゼの表情が明るくなる。

つまり、もしも俺がその決闘とやらで勝てば、エリーゼはこの少女に追い掛け回されることも無くなり、悩み事が一つ減るという訳だ。一体何のための決闘だろう。実際に立ち会う俺には何の利益も無いじゃないか。

「ならばその決闘、許可しよう。存分にやるがいい」

「本当かい?」

そして、話は当事者の一人を無視して勝手に進んでいく。

「ああ、だが条件はある。貴様と雅之がまともにやり合っては1秒と持つまい。それなりのハンディは用意してもらうぞ?」

ハンディか……。

「分かったのだよ。君の言い分も確かだし、その条件は呑むのだよ」

確かに、こいつ等に比べれば俺は弱いかもしれない。けど、1秒ってなんだろうな、1秒って。流石にそこまで言われると遣る瀬無い。別に人並みはずれて強くある必要も無いが、こうやってあからさまに口にされると寂しくもなる。

それにしても、本人の承諾を取らないで勝手に話を進めていくのはどうだろうか。

「なぁ、俺は一言も決闘をするなんて言ってないぞ?」

時計の針を気にしながら、おずおずと口を挟んでみた。第一、何をやるにしても今はテスト期間である。、決闘どころの話じゃない。仮に明日の数学のテストが終ったとしても、残っている教科は沢山あるのだ。

しかし、俺の存在など、この2人にとっては既に己の利権をかけて戦う為の道具に過ぎないのだろう。そんな抗議は華麗にスルーされていた。

「ならば決闘は明日執り行うとしよう。どうせ去るならば早い方が良いからな」

「そうだね、マリーは絶対に負けないのだよっ!」

そして、この少女は自分から話を持ちかけておきながら、この決闘とやらで、自身の被るリスクに対して全く利益が無い事に気づかないでいる。勉強を見て貰ったことで、実は頭が良いのではないのかと、考えを改めようかとした矢先にこれだ。やはりコイツは馬鹿の鏡である。

「勝手にほざいていろ、馬鹿が」

「ふふんっ」

しかし、決闘とは何なのだろうか? 口調からすれば喧嘩のようなものだと思われるが、その辺は想像の域を出ない。仕方ない、後でエリーゼに聞いてみるとしよう。どうせ、俺の意思は関係なく実行されるに決まっている。

「それでは、マリーは明日の決闘に向けてこれから用意に取り掛かるのだよ。実施時刻は下僕君のテストが終ってからが良いだろうから、昼過ぎにするのだよ。場所はマリーの家があった公園でいいかい?」

「もう勝手にしてくれ」

この二人を相手にして俺の意志が入り込む余地は無い。唯一出来るのは相手の事後報告に頷いて泣きを見るくらいだろう。

「下僕君」

「なんだ?」

眠気に閉じつつある眦を擦りながら答える。

「君には出会ってから、まだ一日しか経っていないのだよ。けど、マリーとしては、君個人としてのパーソナリティをなかなか好ましく思っているのですよ。今風に言うと、好感の持てる好青年なのですよ」

「そ、そりゃ、どうも……」

少女はそれまでエリーゼに向けていた視線を俺に移し、向き直る。

「けど、それ以上にエリーゼ君の存在は、マリーにとって重要なのですよ。人生かけてるのですよ。一生ものなのですよ。それ自体がマリーの存在意義なのですよ。」

少女はグッと拳を作って語る。

「だから、それがなんだってんだよ」

それまでの愚直な言動が目立つ少女にしては、珍しく遠回りな話し方だった。一体何が言いたいのか。言葉の先を促すと、途端に少女の瞳が鋭くなった。それまでのやんわりとしていた碧色と蒼色のオッドアイが色を変えたように俺を見入る。

「だから、明日は覚悟を決めてくると良いですよ」

相手は何時に無く真剣な表情をしていた。

「マリーは決して手加減をしないのだよ」

「…………」

一体どの程度の覚悟をしておけば良いのだろうか。その一言は、妙に俺の不安を煽ってくれる物言いだった。対応に困り、エリーゼの様子を伺ってみるも、こっちは少女に対して微塵の興味も無いらしく、そっぽを向いたままで、何の助けも期待できない。

だから、仕方なく無く頷いておいた。

此方の応答に応じて、少女もまた同様に頷いて答えた。なんというか、青春という単語が頭に浮かんでは消えた。少年漫画の見過ぎかもしれないが、得てして今の状況はそんな感じである。

「ではでは、マリーはこれにて失礼するのだよっ! それと、ついでになってしまって申し訳無いのだけれど、下僕君、今日の事は感謝しているのだよ。夕食までご馳走してくれてありがとうなのだよっ!」

そして、少女は口早にそう言うと、こちらが答える間も与えずに部屋から駆け足で出て行った。シュタっと手を上げた少女が木製の扉を一枚挟んで消える。バタンというドアの閉まる音が、俺とエリーゼを残す室内に、いやに響いて聞こえた。そろそろ空も白ずんでこようかという時刻であるのに、元気な奴である。このタフさ加減は俺も加減は見習うべきかもしれない。

そして、しばらくして荷物をまとめたのだろう。ドタドタと廊下を走る音がリビングから玄関へと向かい、機密性を高めた厚手のドアが近所迷惑な音を立てて閉まった。

窓から外を眺めると、雨は既に止んでいるようであった。これならばアイツも濡れる事は無いだろう。

「はぁ……」

溜息を漏らして時計を確認すると、時刻は既に3時30分を回っていた。風呂にも入りたかったが、これは諦めた方が良さそうである。

「私は寝るぞ」

「ああ」

ふぁぁ、と可愛い欠伸を見せて、エリーゼもまた部屋から出て行った。一日中神経をすり減らしながらゲームをやっていたのだ。なんだかんだで疲れているのだろう。

血のついたシャツを洗濯機に放り込んだ俺は、ベッドのシーツを張り替えて床に就いた。最近は一日一日がやたらハードであった気がする。そして、それは間違いなく気のせいではなく、おかげで俺は5分とかからずに夢の世界へ旅立つ事が出来た。

加えて、夢の中でも例の少女とエリーゼが大暴れしてくれていたのは、特筆すべき事で無い。