金髪ロリツンデレラノベ 第二巻

第三話

次の日、聞き慣れた目覚まし時計の電子音で、俺は予定通りの時刻に起床した。

案の定、エリーゼは爆睡中である。今日は昼過ぎまで惰眠を貪ろうという魂胆だろう。なんて羨ましいことだ。部屋に忍び込み、頬を突いてみたが、起きる気配は微塵も感じられなかった。

薄い掛け布団をベッドの下に蹴り落とし、仰向けで大の字になっている。エアコンの効いた室内は快適そのものだ。すーすーという静かな寝息に応じて、平坦な胸をゆっくりと上下していた。きっと良い夢でも見ているのだろう。歳相応の可愛らしい寝顔が、今は逆に憎たらしいかった。

「…………ったく」

床に落とされていた掛け布団を、そっとその上に戻してやる。

白いシーツの上に散りばめられたブロンドの髪は、カーテンの隙間から漏れる朝日を反射して眩しいほどの光沢を放ち、手に取ればサラサラと指の隙間をを滑り落ちていく。やんわりと閉じられた瞼は、その一本一本が屈指の職人に作られた芸術であるように精緻で歎美な出来栄えを誇る細く長い睫毛に彩られて美しく映える。あと数時間後にはゆっくりと開かれる、その先に臨む碧眼は果たして何を映すのだろうか。

怖いほどに全ての造形が完璧すぎて、その存在自体が俺とは全く別の生き物であるように感じられる。いや、実際に生き物としての種別は微妙なところだが、それでも、何か一線を越えた違う世界の生き物のような気がしてならないのは、多分コイツに会って全ての人が思うところだろう。

「…………」

そして、そんな容姿端麗な相手だからこそ、俺には一つの疑問がある。

エリーゼとはここ一週間程度の付き合いになるのだが、コイツが根入れて肌や髪の手入れをしている所など見たことが無い。シャンプーは俺が使っているものをそのまま流用しているし、ボディーソープや洗顔剤にしてもそれは同様で、価格を挙げるなら、それは近くのスーパーで298円の安物だ。付け加えると、コンディショナーやリンスといった部類のケア用品も利用していない。はてさて、これは一体どういうことなのだろうか? そこいらの女子高生など、放っておけば1週間で見るも無残な容姿に化けるというのに、こいつはそんな世間一般の女性が持つ苦労を全く意に介していないようであった。それも吸血鬼の特権の一つなのだろうか? もしも、本当に暇で暇でどうしようも無くなったら、聞いてみるのも良いかもしれない。

「…………」

あれやこれやと、徒然なるままに、眠るエリーゼを眺めながら、心に映りゆく由無し事を、そこはかとなく思いつくろっていた。

そして気づいてみると、はだけたパジャマから覗く白い肌に目を奪われて、貴重な朝の数分を無駄にしていた。いくら見た目が可愛いとはいえ、子供を相手に何をやっていたのだろう。しかも相手はエリーゼである。冗談でない。

善からぬ煩悩を頭を振って払い飛ばした。

そんなことより今日はテストである。万が一にも遅刻なんて許されない。許された出発までの時間配分を頭の中で再計算すると、思いのほか状況は切羽詰っていた。

慌ててキッチンに戻った俺は、仕方が無く炊き立ての白米を諦めて、朝食を軽くトーストで済ませる。そして、昨晩のうちに用意しておいた学生服に袖を通すと、いつもよりも5分ほど送れて家を後にした。玄関を出る際に、「いってきます」などと声をかけてみたが、返ってくる言葉もあるはずが無い。得も知れぬ寂しさを感じた。

外は昨日とは一変して今日は見事な快晴である。出て歩き出せば、頭上から注ぐ太陽の直射日光を受けてすぐに汗が滲み出てくる。6月も昨日で終った。そろそろ梅雨も明けてくれるだろうか。

この分ならば、昨日の大雨で出来た水溜りも昼を回る頃には軒並み蒸発して無くなっていることだろう。川の増水は2,3日続くだろうが、路上の浸水は既に収まり、道路は普通に車が行き来している。少女との約束の時刻には、昨日の公園も歩いて通れる程度には収まっているだろう。

ただ、台風の爪痕は決して小さくないようで、床上浸水を喰らった家屋の住人が室内の泥を必死で吐き出していたり、暴風で飛ばされてきた看板に、店頭のショーウィンドウを割られて嘆く服屋の姿があったりと、世間は今日一日を昨日の後始末で翻弄することになるだろう。他人事とはいえ、ご苦労さんなことだった。

そして、世間の多忙に尽きる様子をぼんやりと眺めながら歩いていると、足はいつの間にか学校に着いていた。連絡網で回ってきた通り、土曜である本日にあっても、学校はいつも通りの営業をしていた。後で吉川から聞いた話だが、なんでも夏休み期間中へ授業日程がめり込まないようにする為の学校側の配慮らしい。もしそれが本当ならば、学校側もなかなか粋な計らいをしてくれる。とはいえ、目下の理由は塾生通いや夏季合宿、模試テスト等を控えた生徒達の予定を狂わせない為の処置だろう。その辺は流石、進学校なだけはある。

教室へ入ると、クラスの連中は既に全員が揃っていた。どうやら俺が最後の一人のようである。まだ始業までは10分以上あるというのに勉強熱心な奴等である。誰も彼もが机の上に教科書やノートを開き、それを食い入るように見つめていた。

一昨日の地震で怪我をしたのだろう。教室には身体に包帯を巻きつけている奴が幾人か居たりするのだが、それでもクラスの全員が登校してきているというのは、入院に至るような大怪我をした奴がいなかったということだ。それは幸いである。

「っていうか、何時の間に教室とか掃除したんだ?」

机の上に荷物を置いて周囲の様子を眺めてみる。

教室の窓ガラスや蛍光灯はいつの間にか新品の物に取替えられており、あれだけ散らかっていた室内も、いつの間にか普段のそれと変わらない程度まで整えられていた。細かいところにまで目を向ければ、角が凹んでしまっている黒板や、閉まりの悪くなった掃除用具入れ、それに、いつの間にか消えてしまったプロジェクター等々、気づく事も多々ある。しかし、それでも昨日の今日でこれだけ修繕してみせるとは、この学校の職員も大したものである。

椅子に腰を落ち着けると、吉川がやって来た。

「おはよう雅之」

「ああ、おはよう」

そういえば、コイツとは地震の後で別れたきりだった。

「吉川、あの後はどうなったんだ?」

改変された校舎が元通りの落ち着きを取り戻した後、俺は教室に顔をだす余裕も無く、エリーゼによって強引に連れ去られ、家に帰る羽目になった。おかげで、その後の学校側の対応に関しては全く情報が無い。唯一の情報源は昨日の朝方に回ってきた連絡網くらいである。

「一昨日あった地震の話?」

「そうそう、あの時はお前、教室に戻ってたよな?」

「うん」

沙希と共に校舎の探索を始めようとする俺から別れて、吉川はこの教室で他の奴等と一緒に居たはずだ。本当は、俺も一度戻るつもりでいたのだが、それも叶わずに、吉川には悪い事をしたかもしれない。

「雅之はあの後、そのまま帰っちゃったの?」

「ああ、ちょっと色々とあって、最終的にはエリーゼに襟首掴まれて家まで強制送還されたんだ。何の連絡も入れなくて悪いな」

「そ、そうなんだ……」

他人が聞けば何の話だろうと思われるかもしれないが、吉川はエリーゼの怪力具合を承知している。これだけの説明で事情を理解くれるのはコイツくらいだろう。非常に助かる。

「メールで連絡の一つも入れておけば良かったんだけど、それも忘れてた。ごめんな」

「いや、それは別にいいよ。それに、学校側もどうせ雅之は混乱に乗じてテストから逃げ出したんだろう。みたいな事を言って大した心配もしてなかったし、問題にもならなかったよ」

「それは喜んでいいのかどうか微妙な所だな。つーか、なんでそんなこと知ってるんだ?」

「いや、僕も職員室の前を通りかかったときに、小耳に挟んだ程度なんだけどさ」

「職員室かぁ……、ここの教師連中も随分と酷い奴等だな」

やはり、この学校での俺の扱いはその程度なのだろう。自業自得と言えばその通りなのだが、少し悲しい気がしないでもない。

「まあ、担任の松沢先生は一応心配していたようだったけどね」

「松沢が?」

「携帯電話が鳴ってなかった?」

「ああ、そういえば震えてた気がしないでもない」

エリーゼに急かされてフライパンを振るっていた時に、ダイニングテーブルの上で携帯が震えていた事を思い出す。知らない番号であったので無視しておいたのだが、それが多分そうだろう。

「僕が番号を教えちゃったんだけど、良かった?」

「それくらい別にいいよ」

「そう、それならよかった」

担任に携帯の番号を知られるというのは、それだけで束縛されているような気がしないでもない。だが、いくらかかって来ても出なければ問題は無い。それでも頻繁に掛かってくるようなら、番号を変えれば良いだけのことだ。

「しかし、あれだけの事があったのに、全員が全員でテスト勉強に夢中みたいだな」

「そうだね」

地震があってから、今日は休日明けの登校である。普通だったら教室はそれに関連した話題で持ちきりだろう。しかし、このクラスの真面目な学徒達は、それらしい様子は微塵も見せずに黙々と学業に勤しんでいる。こういった時期でなければ和気藹々とした会話も耳に届いてきたのだろうが、試験開始まで後5分を切っているような状況ではそれも難しいようだ。たまに聞こえてくる会話の声も、試験の内容に関する事ばかりなので、ここにいると頭が痛くなりそうである。

「まあ、テスト前だからね。しょうがないと言えばしょうがないよ。普段だったら少しは違ったんじゃないかな?」

「どうだかなぁ」

とはいえ、俺も達観していられるような状況では無いのだから、他人のことで偉そうな口を利いていられるような立場ではない。

「雅之はテスト勉強しないの?」

カバンの中に詰められている教科書の類を覗き込むようにして聞いてくる。

「勉強なぁ……」

そう言う吉川は非常に頭が良い。成績は学年で常に一桁台をキープしているし、全国模試でもかなりの高得点を挙げており、担任から聞いた話ではランキングの上位へ常に名を連ねているらしい。だからだろう、試験を前にしてこの余裕の見せつけっぷりは。

「時間があるならするけど、テストまで後5分もないだろ? 今更足掻いたって意味無いって」

一度でいいから、俺も吉川のように精神的な余裕を持って試験を迎えてみたい。

「それもそうだけどさ、雅之の場合、少しは足掻いた方がいいんじゃない?」

「いいんだよ。出来るときは出来るし、出来ないときは出来ない。俺だって家で勉強して来たんだから、それを信じてやるんだよ」

「本当? ここで滑って、来年からは僕の後輩になりました、なんてのは勘弁だからね?」

「うるせぇ、勝手に言ってろ」

ハハハと軽い笑みを浮かべながら吉川は自分の席へ戻っていった。

俺だって好き好んで試験に落ちたいとは思わない。起きてすぐの朝方に、なんだかんだで試験が心配になり、教科書を開いてみたりもしていた。そして、少なくともその時点では、昨晩例の少女に家庭教師を勤めて貰って勉強したその内容を覚えていた。だから、この分ならば少しは今回のテストも期待できるかもしれない。そんな甘い考えだって、僅かにはあったりする。

吉川が席に着くと、タイミングを見計らったように、担任の松沢が教室へ入ってきた。

HRはいつもより若干長く、一昨日の件に関する職員会議からの報告に、松沢の私的な見解が織り交ざって述べられていた。とはいえ、試験日の朝のHRなんて真面目に聞いている奴も少なく、大抵の生徒は視線を机の上に置かれたテキストに落としたまま、顔を上げようとはしなかった。

そして、そうこうしている内に短い朝の時間は過ぎ去る。HRの終了を伝えるチャイムが鳴り響くと、顔を上げようとしない生徒達に寂しそうな表情を作り、松沢は大人しく職員室へと引き返していった。生徒は形だけの起立、礼、を済ませて再び勉学の世界へと浸り行く。それは随分と世知辛い風景だった。

HRが終ってしまえば、後に待っているのは本日のメインディッシュである数学のテストである。カバンから筆箱を取り出したり、逆に机の中の不要な物をしまったりと、その支度をしていると、ガラガラピシャリと激しい音を立てて教室のドアが開いた。

現れたのは五分前行動を己の信条だと豪語する体育教師である。どうやら今回の数学のテストもまた、この体育教師が担当のようであった。

地震が起きたときには、頭上から落ちてきたディスプレイに頭を強打して気を失っていたが、僅か1日のブランクで復活して見せるとは体育教師の名は伊達ではない。余程強固な身体のつくりをしているのだろう。吸血鬼も目じゃない耐久力だった。

HR終了のチャイムから5分、再びチャイムが校舎に鳴り響く。

さて、一時間目の試験が開始された。

試験問題はやはりというか、当然というか、前回のうやむやになってしまったものとは別の問題が用意されていた。

正味50分の試験時間を、俺はかつて無いほど必死になって机に向った。これで失敗したら留年が決定する。そんな背水の陣で挑む試験はやはり違う。前回は完全に理解不能だったので諦めもついたが、今回は中途半端に勉強したので素直に諦める事も出来ない。冷や汗を垂らしながら試験に挑んだのは生まれて始めての経験だった。

前の席から回ってきた空白の解答用紙にカリカリとアラビア数字を書き込んでいく。

正解なのか、不正解なのか、とりあえず、解けたであろう方程式のイコール記号の先に現れる数を血走った目で解答欄に羅列していった。

前日の勉強のおかげで、前回のような、問題文を読解する事さえ出来ない状況は脱した。これは大きな進歩だろう。多分、この学校へ進学してから今日に至るまでの間で、最もまともにテストを受ける事が出来た瞬間だった。記述式の回答欄もそれなりに埋められたし、まさに少女様様であった。今この瞬間に限れば、アイツの振るう破天荒な暴挙の一切合財を許してやれる気がする。

とはいえ、回答にはあまり自信が持てるわけでもない。なんというか、足が地に着いていないような、落ち着かない感じがある。きっとこれは、学問に対する経験を、昨夜に行った数時間分しか持てないでいる、俺の日頃の怠け癖が原因だろう。もう少し勉強を数こなしていれば、どっしりと構えていられたかもしれない。身体を使った技能に限らず、何事にも経験と積み重ねが必要らしい。ひとつ利口になった気がした。

そしてテスト時間として設けられた50分は駆け足で過ぎ去る。

教室に設置されたスピーカーから流れるチャイムを聞いて、生徒達は一斉にペンを置いた。起立、礼、の号令が行われてこの時間は終了だ。

まあ、なんにせよ難関を一つ越えたのだ。今は素直に喜んでおくとしよう。これ以上過ぎた事に頭を悩めていてもしょうがない。同じ頭を使うならば次の試験科目へ意識を向けるべきだ。

授業時間が過ぎると、教室はつい先刻の試験内容を種に話を始める生徒達の喧騒で途端に喧しくなる。テストの監視員としてやってきた体育教師は、教卓上に集められた解答用紙を手早くまとめて出て行った。

これで今日の予定は帰りのHRを残すのみである。あと5分もすればチャイムが学内に鳴り響く。そうすれば、このクラスの担任である松沢はすぐにでも教室へやって来るだろう。松沢は今年で24歳になるらしいのだが、その新米教師の肩書きは伊達でなく、1年前の入学初日のHRでは生徒を前にして、某熱血系教育ドラマを影響に受けて教師になった、と豪語した程の際物である。そして、その熱は1年経った今でも失われておらず、それどころか更なる加熱を続けている。メガネをかけて、肉付きの良くない容姿をしているが、そんな外見に反して無駄に熱い性格が扱いに困る難儀なキャラだった。

「帰るか」

だから、誰に言うでもなくそう呟いて、俺はカバンを手に席を立った。

そんな担任の人間性のおかげで他に比べてHRの長いこのクラスである。まともに聞いて過ごすのは退屈以外の何物でもない。それに一昨日の事もある。万が一にも呼び出されて個人面談をする、なんていわれた日には目も当てられない。ともすれば、ここは逃げるが勝ちだろう。

しかし、席から離れて数歩の所で吉川に見つかり声をかけられた。

「雅之、何処行くの?」

そんなこと、聞かずとも明らかだろう。

椅子に座ったまま背後を振り返り、こちらを見ている。その周囲にはそれまで駄弁っていたのだろう。良く見る吉川の友達が幾人かいた。

「見れば分かるだろ?」

歩みを止めて答えた。

「そりゃ、見て分かるから聞いてるんだよ」

「だったら聞くなよな、帰るんだよ」

「HRは?」

「止めとく」

「相変わらず腐ってるね」

そんなことは自分でも理解している。

うるせえよ、と短く返して教室を後にした。

なんだかんだ言われようとも、HRをサボった程度では退学や停学になる事も無い。一応、俺もそれなりに打算した上で行動しているのだ。効率的、計画的、そういった語で称してもらいたい。

だが、廊下に一歩踏み出してふと思う。

これから家に帰ったところで何が待っているのだろうか?

「…………」

それは少女の言う「決闘」とやらである。

昨晩のやり取りを思い出して、思わず頭が痛くなった。

それが一体どういうものなのかは知らないが、そんな冗談見たいな命名のイベントには付き合う気になれなかった。けれど、困ったことに少女だけでなくエリーゼもまた、その謎なイベントに肯定的である。もしも家に帰ったならば、速攻で少女のところへ連れて行かれるだろう。

これは非常に面白くない。それに比べれば、松沢の熱血トークも多少はマシに思えてきた。というか、明らかにマシである。エリーゼの関係した出来事に巻き込まれて、無事に終れた試しが無い。

「…………」

教室のドアを跨いだまま止まっている俺に、吉川が訝しげな声をかけてきた。

「雅之?」

やはり人生、真面目に生きるのが一番である。ズルをすれば、いずれはその竹箆返しが己に返って来るのである。今回はそれを事前に防げたのだ。なんて素晴らしい機転だろう。

「やっぱりHRは受けて帰るわ」

その場で180度回転した俺は、すごすごと自分の席に戻った。

「はぁ?」

呆れ顔で疑問符を浮かべる吉川は、事情を説明するのも面倒なので放っておく。人肌の暖かさが残る椅子に腰掛けた俺は、手持ち無沙汰に机へと突っ伏した。自分の家に帰るのが鬱だなんて、妹が死んだとき以来の心境だった。

それから程なくしてチャイムが校内に鳴り響き、時を同じくして担任が教室にやって来た。そして、HRは予想通りの延長戦だった。

聞く耳を持たない40名の生徒を前にして、それでも雄弁を振おうとする松沢はある意味で最強の存在だ。何時まで経っても終わりの見えてこないその演説は、いつか報われる日が来るのか。冷やかな視線を送りながら退屈な過ごした。

幸いだったのは、一昨日のことで呼び出しを食らうことが無かったことだろう。時間を超過して喋り続けた松沢は、廊下を歩く他クラスの生徒の喧騒に気づき、帰りのHRを延長10分で終了させた。選手は皆グロッキーだった。

しかし、家に帰るという選択肢を失った俺には今後の予定が皆無だった。

とりあえず日が暮れるまでは家に帰りたくない。少女がそれで決闘とやらを諦めてくれるとも思えないが、だからと言って大人しく帰って、奴等のいい様に事が運ぶのも癪にさわる。それに、もしかしたら有耶無耶になって終ってくれるかもしれない。

ということで、今すべきことは日が暮れるまでの間をどの様にして過ごし、時間を潰すかである。本来ならば依然として残っている期末試験科目の勉強をすべきだろう。しかし、その為の勉強道具が家にあるという時点で案は却下である。

だが、そうなってくると残る選択肢は限られてくる。大抵の場合、こういうときはゲームセンターへ行くのが正しい暇の潰し方だ。それはいつもの行動パターンでもある。だが、別段ゲームがやりたいわけでもないし、今は居候が一人増えたので、そういった面での出費は抑えたい所である。

良さ気な案としては、斉藤の見舞いと称して病院へ駄弁りに行くことだろうか。けれど、日が落ちるまでには、まだ半日以上の時間がある。幾らなんでもその間をずっと病室でクッチャベっているわけにも行くまい。

「…………」

やはりここはお金をケチらず、漫画喫茶にでも行っておくのがベストだろう。時間を潰すという目的ならこれほど適した環境もあるまい。ただ、潰さなければならない時間と、それに応じた経費を考えると、最近ただでさえ軽い財布が音も無く軋んだ。

「ったく…………、どうしたものか」

なかなか解決しない贅沢な悩みを抱えた俺は、生徒の姿も疎らとなった放課後の廊下を一人歩きながら、後ろ向きな思考に花を咲かせていた。

そんなとき、階段の踊り場で見知った奴に出会った。

「あ……」

「ん?」

そこに居たのは沙希だった。

場所は階段と廊下が接する、防火シャッターの設置された少し広めの空間で、近くには生徒用のトイレがあったりする。2年の教室が連なるこのフロアは校舎の3階であり、そして1年の教室は一つ上の4階にある。沙希はその4階からちょうど降りてきたところだった。

「こんにちは」

こちらに気づいた沙希は、抑揚の無い声で物静かに会釈した。

「今から帰りか?」

「はい」

俺が尋ねると、短くそれだけが返ってきた。無機質な面構えは相変わらずである。何を考えているのかよく分からないのもご愛嬌だ。これでも突然襲い掛かってこなくなっただけマシだろう。

「こっちも担任のHRが長引いてくれたおかげで今帰るところなんだ」

「そうですか、それは大変でしたね」

校内にあっては家が何処にあろうと向う先は同じ昇降口だ。無駄に時間を持て余していることも手伝って、俺は沙希の横へ付いて歩き出した。相手もこちらを避けるような素振りは見せないので、これは構わないと取って良いだろう。

「うちの担任って去年教職に着いたばかりの新米でさ、HRとかにやたら熱を入れるんだよ。誰も聞いてないっていうのに一人で空回りしてくれてさぁ」

「それは災難でしたね」

「まったくだよ」

ポケットから取り出した携帯のサブディスプレイに視線を向ける。時刻は午前10時を回ったところだった。日照時間の長いこの時期にあっては、太陽が落ちるまでに結構な時間があるだろう。

「ところで、あの後は大丈夫でしたか?」

「あの後?」

共に階段を降りながら問い返す。

「一昨日の件ですが、随分と勢い良く飛び去っていかれたのを記憶しています」

「ああ、地震騒ぎでエリーゼに連れ去れた後のことか」

「はい」

沙希の言葉を耳にして、記憶に新しい一昨日の出来事を思い返した。

すると否が応にも浮かんでくるのは、あのハイテンション少女の顔である。そもそもの原因は奴の存在である。あの少女が変な事を言い出さなければ、今日にしても素直に家に帰ってベッドで横になれたのだ。なのに今は自宅に帰るのさえ億劫である。それもこれも唐突に「決闘」だなんて口走ってくれる奴の無駄なテンションのおかげである。

「それがなんというか、あの時は何とかなったんだけど、その後で話が色々と拗れてさ」

「何か問題が?」

やはり、あの時公園で少女を拾ったのが失敗だったのだろう。エリーゼに偉そうなことを語って聞かせたが、今にしてみると正しかったのはアイツの方であったようだ。同情なんて滅多な事ではすべきでない。

「問題っていうかなんていうか、例の挙動不審な金髪の女の子いたじゃん? エリーゼじゃなくてもう一人の方の子」

「はい」

「それが昨日のことなんだけど、近くの公園で何故かバッタリ会っちゃってさ……」

愚痴を漏らすようにして、俺は一昨日から続く一連の騒動を沙希に話した。

辛い事でも口にすれば少しは楽になるというが、それは確かに頷けるかもしれない。隣を歩く無表情な聞き手は、時折小さく相槌を打ちながら、静かに俺の語る憂鬱な休日の情景に耳を傾けてくれていた。十中八九愚痴の塊になっているであろう話に、いちいち頷いてくれるあたりに、得も言われぬ癒しを感じた。

もしかしたら、こういう話を黙って聞いていてくれる知り合いって、コイツしか居ないんじゃないだろうか? そんな疑問がふと浮かんでは消えた。

「……とまあ、そんなわけで今に至る訳だ」

話し終わって一息つと、少し胸のつかえが取れた気分だった。

まとめてしまえばそれほど長い話でも無いのだが、いつの間にか俺たちは下駄箱のある昇降口までやって来ていた。昇降口は今まで授業を受けていた教室のある棟から、隣り合う校舎を1つ挟んだ位置にある。途中には校舎間を結ぶ渡り廊下が各棟の2階に設置されており、校舎内から外へ出ることなく、建物内を移動できる為、ずっと室内履きのまま来れる。

「では、今日はその決闘という催しには行かないのですか?」

「そういうこと」

「そして、現在は身の置き場が無く困っているのですね?」

「夜までまだ半日以上あるから相当な時間を潰さなきゃならないし、だからって、街をぶらつくにしても限界があるだろ。流石にゲーセンで10時間とか無理だし」

加えて、昨晩は眠ったのが午前3時を回ってからである。起床時間が7時である事を考えると、睡眠不足は深刻だ。数学の試験で無駄に神経を使ったのと相まって眠気は最高潮にある。出来る事なら眠りたい。それを考えると、漫画喫茶へ行ったとしても、横になれるスペースが確保できなければ、過ごさなければならない時間からして、かなり厳しいことになりそうだ。

「確かに、そうですね」

本日の結論と問題を口にして、俺は靴を取りに2年のロッカーが並ぶ箇所へ向おうとした。すると、それを背後から呼び止められた。

「あの、ですが、それでしたら私に一つ提案があります」

「ん?」

呼び止められて背後を振り向いた。

「もしよろしければ、私の家にいらっしゃいませんか? 大した娯楽設備があるわけではありませんが、部屋をお貸しする程度は出来ますし、食事も用意いたします」

それはなんとも魅力的な提案だった。

「知っての通り、部屋数だけは多い屋敷ですので」

確かに、沙希の家に腐るほど部屋があるのは知っている。いや、規模を考えると、あれは家というより屋敷である。何度か足を運び、あまつさえ勝手に探検してしまったダンジョンであったりするので、それなりに知っていることも多い。廊下に同じ作りの扉がずらりと並んでいる様子は、まるでホテルの一角を眺めているようであった。

「それってマジ?」

「はい、非常にマジです」

若干遠いのがネックではあるが、それを差し引いたとしても、当てなく街を彷徨って時間を潰すよりは全然マシだろう。なによりも、昨晩の睡眠時間が少なかったおかげで今は非常に眠い。あの屋敷にあるクイーンサイズのベッドで眠ることが出来たのなら、どれほど安らかに惰眠を貪れることだろうか。

「それは是非ともお呼ばれしたい」

「はい、どうぞいらして下さい」

そんな願いを、沙希は二つ返事で迎えてくれた。

都合数回顔を合わせた程度の、さして面識のあるわけでもない俺を相手にして、何故ここまでしてくれるのか。疑問に思える部分もあるが、それはそれ、今は目の前にチラつかされた人参に喰らいつく馬になろう。

「では、このまま私と一緒に向いますか?」

「ああ、そうさせて貰うわ。確かお前の家って隣町だったよな?」

「はい」

この地区に隣接する市町村は幾つかあるが、沙希の屋敷があるのは向って東方に位置する長泉町だ。規模はそれ程でもなく、扱いこそ町であるが、隣接する市町村で働いている者達のベッドタウンとして一役買っており、経済的に潤っている地区だ。最近は国営の大きながんセンターが建設されたり、それに伴ってJRの駅が増設されたりと、派手なニュースばかりを耳にする。

「んじゃ、ちょっと靴を履き替えてくる。出口でな」

「はい、分かりました」

小走りで上履きから外履きへと履き替えに行く。手早く済ませて昇降口の外出口へ向うと、そこには既に沙希がいた。学校指定のカバンを両手で持ち、直立不動の姿勢でピクリとも動かずに、俺が来るのを待っていた。

「では行きましょう」

「おう」

持つべきものは友である、とは一体誰の言葉だったのか。知った話ではないが、確かに今日はその通りであった。ここ最近は新しい出会いの毎に散々な目にあっていたので、こういった他人の優しさが途方も無く嬉しかった。

学校を出て最寄のJR駅へ向う。

道中では、沙希の必要最低限な事しか口にしない寡黙な性格のおかげで、お世辞にも会話が弾んだとは言えなかった。とはいえ、別段気を使うつもりも無かったので、会話が無いなら無いで問題も無かった。どちらかといえば、睡眠時間が少なかったことも手伝って、今は少しグロッキー風味である。逆に口を開く必要がなくて助かったのかもしれない。

駅からは電車に揺られて数分、そこから更にバスへ乗り込んで30分ほど眠気に耐える。すると、段々と窓の外に見覚えのある光景が流れ始めた。

「次のバス停で降ります」

そう言って沙希はバス内の壁に取り付けられていた乗降用の停車ボタンを押した。

ビーっという電子音と共に、「次、止まります」という無機質な電子音声が車内に響いた。微妙な時間帯であることも手伝って、俺たちの他に客の姿は見当たらない。

「それにしてもお前って随分と時間がかかる所に住んでるよな。これじゃあ毎朝大変じゃないか?」

概算でも片道1時間は必要だろう。以前ここへ来た時は車だったりバイクだったりしたので、それほど移動時間を感じる事はなかったが、こうしてバスだの電車だのを乗り継いでみると、結構な苦労だ。

「たしかに時間はかかりますが、慣れてしまえば問題ありません」

しかし、沙希は涼しい顔でそう言ってくれた。随分とタフなお嬢様である。たった1時間やそこらを歩いた程度で、やれ疲れただの、足の皮が剥けただのと、すぐに根を上げてくれる我が家のお嬢にも見習わせたい。

「でも朝とか辛くないか?」

学校は始業は8時10分なので、ここを出るのは最低でも7時くらいになるだろう。ともすれば、朝起きるのは6時くらいだろうか? 結構な早起きである。

「夜を早く床に着けば問題ありません」

「まあ……、それが出来るなら問題は無いんだろうけどさ」

正常な高校生の俺には、夜の12時を待たずして布団に入るような真似はなかなか出来ない。

「はい」

停止ボタンが押されてからしばらくして、バスは人気の無い炉端に停車した。設置されたバス停の隣には延々と背の高い塀が続いている。ちなみにバス停の名前が「佐久間邸前」となっていたのには驚いた。後で聞いた話だが、なんでも今は亡き沙希の親父が、このバス会社のスポンサーになっていたらしい。

「こちらです」

促されるままにその後ろをついて行く。すると、すぐに見覚えのある門が現れた。

鉄格子で閉ざされた重々しい作りの門である。ちなみに、先の件で被害を受けたこの門はは、観音開きの中央が内側に向ってひん曲がってしまっている。俺が屋敷へ入るにあたって蹴り破ったと思うのだが、今にして思うと、少し悪い事をしてしまったのかもしれない。あの時は敵の本拠地ということで、やりたい放題だったのだが、過ぎてみれば今は普通に沙希の家である。

「着きました」

沙希はスカートのポケットから取り出した鍵で門を開いた。重々しい鉄格子の片割れを押し開くと、錆びた金属が擦れる厭な音が耳に響いた。

「どうぞ」

門の間に立ってこちらを振り返り、中へ入れと促してくれる。俺は素直に頷いて庭の土を踏んだ。沙希もそれに続き、そして再び厭な音を立てて、鉄格子をもとあった場所まで戻した。鍵をかける事も忘れない。

半壊の門を越えた先には広大な庭が広がっているのだが、こちらにしても、半壊した電燈や、根元から折れた観葉樹木が目に付いた。他にも所々で地面が抉れていたり、遠くには一部が崩れた屋敷の塀があったりと、まるで人の手を離れた廃屋のようであった。

門から庭を通って続く石畳の道を進めば、その最奥には屋敷がドンと鎮座している。壁の所々に穴が開いていたり、窓ガラスが割れていたりと、初めてお目見えしたときに比べて、格段と風通しが良くなっているのが特徴だ。ちょっと哀れである

沙希の手にした鍵に応じて、カチャンと錠の落ちる音がした。

大層な彫刻が彫り込まれた、観音開きの大きな玄関扉がギィと古めかしい音を立てて開いた。

「どうぞ、お入り下さい」

「ああ」

その先にあるのは見覚えのある玄関ホールである。

ちなみに、俺がこの学校へ入学してから、初めて訪れた異性の家がこの屋敷である。なんというか、少し複雑な気分だ。しかも初訪問の理由が、拉致された友達の救出、であったりする。これは正直笑えない。

「…………」

特に言葉を交わす事無く、先行する沙希に連れられて屋敷内を進む。

やたらと天井の高いホールは上階と繋がって吹き抜けである。頭上から吊るされたシャンデリアが、今は昼だというのに煌々と明かりを灯していた。流石、金持ちの家は電気の使い方が狂っている。

入り口から見て正面にあるのは両開きの大きな扉だ。玄関の扉もかなり立派な代物だったが、こちらも負けていない。その先には一体どのような部屋があるのか、多少気になるところである。

そして、構造的には2階に位置するのだが、扉の上部には廊下が通り、屋敷を東西に伸びている。ただ、廊下とはいっても、一方は吹き抜けのホールに面している。体育館の壁に「僕は2階です」といった形で引っ付いている観客席みたいなやつを想像すれば話は早いだろう。無論、作りや装飾、それに路幅からして体育館のそれとは全く別物ではあるが、感覚としては近い。その場に立てば、ホールの全体を見渡す事が出来るだろう。また、ホールには中央の扉を挟むようにして二つの大きな階段が設置されており、各々は緩く弧を描くようにして、上階に位置するその廊下へと繋がっている。

先の件ではこの場所も死屍累々だった。たしか、この階段の最上段に沙希が立っていて、全身を真っ赤に濡らしていたのを覚えている。

「………………」

まあ、今となってはどうでもいいことだけれど。

吉川や斉藤には申し訳ないが、こうして過ぎてしまえば、この屋敷で起こったことも存外大したことのないように思えてくるから不思議だ。あれだけ痛い思いをしたのにおかしなものである。いや、もしかしたらエリーゼの影響で、俺の感性までもが鈍ってきているのかもしれないが。

「部屋はこちらでよろしいですか?」

ホールの階段を上って見覚えのある館内を歩くこと暫し、ふと前を進む沙希が足を止めた。

ドアノブが捻られて、目前にある扉がゆっくりと開かれた。

「相変わらず広い部屋だな」

その先にあったのは、広さ20畳はあろうかという一室だった。

「こちらの部屋は客室になっています。一週間前までは手入れもされていたので、利用に不便は無いと思いますが、構いませんか?」

「ああ、十分すぎるよ」

クイーンサイズのベッドは天蓋付きだし、部屋の隅には暖炉があるし、なんかワインセラーまで設置されているあたり、対処に困る平民は俺だけではあるまい。やたらに毛の深い絨毯がかえって落ち着かないのは当然の反応だと思いたい。

「では、こちらをお使い下さい。部屋にある物はご自由にしてくださって結構です。私は服を着替えてきますので、一度自室に戻ります」

「わかった」

沙希は必要事項だけを淡々と口にして、部屋から出て行った。

この屋敷へは幾回か足を運んだ経験があるが、その悉くは切羽詰った状況下にあった。おかげでゆっくりと室内の様子を眺めた事は無い。しかし、今回は客としての訪問である。部屋を自由に使ってくれて構わないという、屋敷の人間の許可も先ほど頂いた。

これだけ豪華な部屋なのだ。普段ならばあれやこれやと調度品を弄り回していることだろう。もしかしたら、勝手にワインの一本でも開けているかも知れない。

だが、昨晩の夜更かしから来る睡眠不足が祟り、それだけの気力も無いのが悲しかった。ついでに言えば、テストでやたらと神経を使ったのも影響している。

「疲れた……」

とりあえず、近くにあった値の張りそうなテーブルの上にカバンを置いて、ベッドに横になった。

自宅の硬いパイプベッドでは決して再現できない、身体を包み込んでくるような感触が心地よい。身体の半分がクッションに沈みこんでいるのではないかという錯覚さえ覚える。何を緩衝材にすれば、このようなフカフカ具合が実現できるのだろう。思わず中身を穿り出したくなる衝動に駆られた。

「ふぅぁあ……」

横になっていると、自然と欠伸が漏れた。

沙希は一度自室に戻ります、と言っていた。ということは、再びこの部屋にやって来るということなのだろうが、それまで俺は起きていられるのかどうか。

段々と下がってくる瞼は途方も無く重くて、睡魔を増徴させる空調の効いた室内環境と、高級ベッドが織り成す波状攻撃に俺は成す術を持たない。頭では起きていよう、起きていよう、と繰り返し自身に言い聞かせているのだが、それも数分後には霧散した。

連日のハードスケジュールで思いのほか疲れが溜まっていたのだろう。沙希が部屋を後にしてから5分も経たないうちに、俺は夢の世界へと旅立っていた。

そして次に目が覚めたとき、まず俺の目に映ったのはエリーゼと例の少女だった。

加えて、何故か腰がズキズキと痛む。ベッドで眠っていた筈なのに、気づいてみれば、冷たい床の上で仰向けに横たわっていた。これは一体どういうことだろう?

目が覚めたばかりで回転数の低い脳味噌では状況を判断する事すら出来ない。

「こりゃなんだよ……」

これは悪夢だろうか。痛む腰を摩りながら、ゆっくりと身体を起こす。すると、途端にエリーゼの罵倒が飛んできた。

「なんだ、ではない。お前はここで何をしているのだ」

何をしていると聞かれても、見れば分かるだろう。テストやらなにやらで色々と疲れて眠っていたのだ。それがどうしてエリーゼに文句を言われなければならないのか。

「なんでお前に文句を言われなきゃならないんだよ」

寝起きでいきなりの展開に頭痛が走った。

「そんなの当たり前だろうが。何故お前は家にも帰らずこんな所で眠っているのだ。私の昼食の支度を放棄するとは随分と良い度胸だな? えぇ?」

「それにマリーとの約束も破っているのだよっ!」

「ああ?」

エリーゼと並んで立つ少女が、眉をへの字に曲げて抗議の声を上げた。記憶に新しいズタボロのローブを纏っている。昨日の夜、少女が乾燥機から半乾きのそれを奪取していったのは記憶に新しい。

「約束だって?」

「そうなのだよっ! マリーはちゃんと昼過ぎに公園で待っていると伝えたではないですかっ! それを君という人は、何時まで待っても全然来てくれないし、いつの間にか太陽は南中高度を越えているし、ついでにおなかはペコペコだし、非常に困ったのだよっ!」

あぁ……、思い出した。

二人の喚きを聞いて、それまでの自分がどういう状況にあったのかを思い出した。

そう、「決闘」などという阿呆なイベントを企画するエリーゼと少女に付き合いきれなくなって逃げ出したのだ。そして、行く当てを無くして困っていたところを沙希に拾われ、こうして屋敷に厄介になっていたのである。

しかし、それがどうして二人は俺がここにいると分かったのだろうか? ここは隣町である。電車とバスを乗りついて1時間はかかるのだ。適当に探して見つかるようなものでもないだろう。

「っていうか、なんでお前等は俺がここに居るって知ってるんだよ」

確かにエリーゼはこの屋敷へ何度か来た事がある。しかし、だからといって俺が居ると当てを付けるには縁遠い場所だ。むしろその可能性はかなり低い。

「もしかして、俺の後をつけてたのか?」

そんな感じは微塵も無かったが。

「ふん、馬鹿が。何度同じことを教えれば覚えるんだ。言ったであろう? 吸血鬼は同じファミリーの存在を離れていても感じる事ができるのだと。そんなことも忘れてお前は私から逃げ出したのか?」

床に座り込んだままの俺を、腕を組んで仁王立つエリーゼは偉そうに見下してくれる。

「……そういえば、そんな設定もあったな」

すっかり失念していた。

「無様なものだな。やはりお前は最高に馬鹿だ、目も当てられん。こんな奴が私の下僕だと思うと、正直泣けてくるわ」

「う、うるせぇよっ!」

つまり、俺は何処へ逃げたとしても、釈迦の手の上で遊ばれる悟空の如く、その鎖から逃れる事は出来ないというわけだ。これでは昨日の話じゃないが、まさにペットそのものである。プライベートもへったくれもありゃしない。

「つーか、逃げ出したって決めつけるなよっ」

「だがその通りなのだろう?」

「こ、この野郎、黙れクソガキ」

「ほぅ……、また額を地に擦りつけたいのか?」

畜生、目覚めが悪いなんてもんじゃない。

ポケットに突っ込まれた携帯電話を取り出してみると、サブディスプレイにはPM:3:25との表示があった。眠りに付いたのが11時過ぎだったので、正味4時間程度の睡眠時間になる。睡眠時間としては破格だが、多少なりとも身体が休まってくれたおかげで、体調は朝より幾分回復していた。せめて、あと2時間ほど経ってから来てくれればよかったものを。

「さぁ、いつまでもヘタレていないで早く立て。私は腹が減っているんだ、家に帰るぞ。でなければ今ここでお前の肉を喰らってやる」

「それにマリーとの決闘も果たして貰うのだよっ!」

「ちょ、ちょっと待てよっ!」

言うが早いか、二人は踵を返して部屋を出て行こうとする。腹の減ったエリーゼは俺の手に負える代物ではない。これは素直に頷くのか吉だろう。でなければコイツは本当に喰らい付いてくるに違いない。やると言ったら必ず実行する、そういう奴なのだ。

エリーゼが手がドアノブに触れた。

そのとき、それまで俺達から一歩引いた位置で突っ立っていた沙希が、おもむろに口を開いた。

「もしよろしければ、お二人分の食事の用意を致しますが如何でしょうか?」

相当に腹が減っていたのだろう。それでエリーゼの動きがピタリと止まった。ドアノブを90度回したところで停止し、手首はまた元の角度までゆっくりと戻る。

「用意があるのか?」

振り返り口を開いた。エリーゼに釣られて少女も沙希に向き直る。

「はい。雅之さんの食事を作るにあたって、普段より多めに調理いたしましたので分量的には問題はありません」

無愛想で無機質な表情で愛想の欠片も無く淡々と語る。

どうしてエリーゼのような危険人物を食事へ誘うのか。リスクはあってもリターンは確実にゼロである。そう考えると、もしかしたら沙希は、先の件でエリーゼに対して何かしらの恩義でも感じているのかもしれない。それだったら少しは納得できるし、俺を家に招いたのも同じ理由だと考えられる。

「味の方は保障いたしかねますが、どうでしょうか?」

「ほぉ、それは殊勝な心がけだな、娘。そこの馬鹿にも見習わせたいところだ」

「おいっ! 毎日テメェの飯を作ってやってるのは誰だってんだよっ!」

その様子はまるで、よく出来たメイドとその主人といった具合だ。無論、沙希がメイドでエリーゼが主人である。勝手に人の家にやって来て、これだけデカイ態度を取れる奴はコイツを除いて他におるまい。

「そ、それはもしかしてマリーも頭数に入っちゃったりなんかしているのですか!?」

腹が減っていたのは少女も同じだったのだろう。沙希の言葉に反応してそわそわと身を震わせ始めた。ホームレス生活を送っている分、エリーゼなんかよりよっぽど食べ物に飢えているのだろう。

「はい、大したおもてなしは出来ませんが、どうぞご同席下さい」

「おぉぉぉぉぉっ!」

応じて少女は、その姿に似合わぬ奇声を上げた。

「いちいち吼えるな、五月蝿い」

「あぁ……世界は愛に満ちているのだよぉぉぉっ! これが人の優しさというものなのだね。昨日に引き続きマリーは歓喜の意をここに表明したいのですよっ!」

少女の甲高い叫びが鼓膜をビリビリと振るわせた。

まあ、腹が減っているのは俺も同じ事だ。朝食はトースト一枚だし、昼に関しては何も口にしないまま眠りこけていた。あと3,4時間すれば夕食の時刻になってしまうが、それだけの間を我慢するのも多分無理だろう。ならば今ここでご馳走になっておくのも悪くない。それに食事の準備をする手間が省けるのも嬉しい。

「では食堂へ案内しますのでこちらへどうぞ」

歩き出した沙希に続いて、俺達は部屋を後にした。

目的の食堂は屋敷の1階にあった。

玄関ホールの入って正面にあった大きな扉が食堂に続いていたのだ。ホールに二つある階段を両脇に置く、例の観音開きのやつである。沙希が手をかけると、厳つい作りをした重々しい扉は、ギィと音を立ててゆっくりと開いた。

部屋は俺達が今いる入り口から見て奥に長い作りになっており、天井からは煌びやかなシャンデリアが等間隔に並んで幾つも吊るされていた。部屋の隅には調理場へ繋がっていると思しき扉が幾つかある。これまた大した食堂ではないか。

「なんとなく予想はしてたけど、随分すごいな」

部屋の中央に設置されているのは異様に縦長なテーブルと、その両側に幾つも並んだ椅子の列である。テーブルというには大きすぎるそれは、生地の厚い高そうなテーブルクロスで装飾されており、上には銀色に輝く食器の類が綺麗に並べられていた。

「お前の家もこの程度の趣があれば良いのだがな」

「無茶言ってんじゃねぇよ」

阿呆な注文を飛ばすエリーゼに思わず反応してしまう。

「どうぞ、お好きな席へお座り下さい」

まるでメイドのような仕草の沙希に促されて部屋の奥へと進む。食器が用意されているのは入り口から遠い奥の席のみで、それも二人分だけだ。きっと、俺の分の食事を用意していてくれたのだろう。

開いた口が塞がらない俺とは対照的に、エリーゼは勝手知ったる我が家の如く進む。

「お二人の食器は食事と共にお持ちします。多少の準備と食事を暖め直すのにしばらく時間がかかるかと思いますので、少々お待ち下さい」

事務口調でそう告げた沙希は、足音も静かに扉の奥へと消えていった。

適当な椅子を引いて腰を下ろすと、隣にはエリーゼが、そしてその隣には少女が続いた。

俺の住んでいるマンションの一戸が丸々納まってしまいそうな規模のこの部屋においても、それまで俺が眠っていた部屋と同様に空調が行き届き、湿度、室温共に快適だ。この家の電気代はどうなっているのだろうか。きっと相当な額だろう。金持ちのやることは理解できない。

「それにしてもさ、お前等って本気で決闘とか言ってるのか? 今日日小学生だってそんな馬鹿なことは言い出さないぞ、普通」

他に少女と共通する話題も無かったので、俺はテーブルに頬杖をついたまま、おもむろにそう口にした。ここで説得してしまおうという魂胆である。

けれど、呆れ口調で尋ねた俺に返ってきたのは力強い頷きだった。

「当たり前なのだよっ! 言っただろう? マリーは君を認めていないのだよ。仮に今はエリーゼ君がマリーを拒否していたとしても、だからといって君が隣に居て良い訳がないのだよっ! 将来的には結ばれる二人の間に良からぬ亀裂が生じたらどうするのだい?」

「良からぬ亀裂もなにも、お前がコイツに好かれる可能性なんて微塵もないだろ?」

これは薮蛇だっただろうか。

「そ、そんなのやってみなければ分からないのだよ。今は嫌われていたとしても、信じていれば思いは必ず届くのだよっ!」

「無茶を言うな、無茶を。第一お前には説明しただろうが。俺だってこんな自己中な奴と望んで一緒にいるんじゃないんだよ。何がどう間違ったってお前の恋路の邪魔はしねぇよ」

「無茶なんかじゃないのですよっ! それに過ちは起こるから過ちというのですよ。確率論上で100%を語るなど愚の誇張だと分からないのかいっ!?」

「だけど実際そうなんだからしょうがねぇだろうが」

俺が何がしかの言葉を述べれば、少女はその全てを否定しにかかって来る。コイツを相手にして説得というのはやはり無理なのかもしれない。

「いいや、マリーは自分の目で見た今を信じて行動するのですよ。君はマリーにとって非常に危険な存在なのだよ」

「何が危険だよ。別に同性愛に文句をいうつもりは無いけど、お前のその思考のほうがよっぽど危険だろうが」

「な、なんですとっ!?」

「少しは客観的に自分を見てみろよ。ただの痛い奴だろうが。そんな性格じゃエリーゼじゃなくたって、誰だって避けて通るぞ」

「そんなことあるはず無いのだよっ! マリーの全てはエリーゼ君を愛しているがゆえっ! それが何故ただの痛い奴に成り果てるのだいっ!? というか、痛いってどういう意味なのかマリーは知らないのだよっ!」

「だったら否定するなよっ!」

「ええい五月蝿いっ! 貴様等、私の耳元で騒ぐなっ!」

それまで黙って俺と少女のやり取りに耳を傾けていたエリーゼであったが、その我慢もアッサリと限界を突破したようである。テーブルを叩いてキレる姿に俺達二人は思わず口を噤む。

シーンと静まり返った室内にエリーゼの声が反響していた。流石に部屋が広いだけあって声もよく響く。

「こうして貴様等が騒ぎ立てるから、場を設けて白黒決めるのだろうがっ! 雅之も大人しく従え呆けがっ! でなければまた貴様の肉を食いちぎるぞっ!?」

「け、けどお前さぁ……」

「“けど”も“でも”もあるかっ! お前は私の下僕なのだ、黙って主人の命に従っていればよいのだっ!」

いつもの事ながら酷い横暴である。少女はこれの何処に惚れろというのだろうか? 阿呆な妄想も程々にしてもらいたい。

「これ以上馬鹿共の騒ぎに付き合いきれるか。始めるぞ、今すぐに」

「は?」

言うが早いか、エリーゼは座ったばかりの椅子から腰を上げた。

「なんだよ、おいっ」

「今から始めると言ったのだ。場所はこの屋敷の敷地でも十分だろう」

制止の声も聞かずにエリーゼは玄関へ歩き始めた。それを追う様にしてヒョコヒョコと少女が続く。一度言い出したら何を言っても聞かないエリーゼだ。これは諦めて後を追うしか無いだろう。

仕方が無い。

調理場で鍋やらグリルやらと格闘している沙希に一言、外へ出てくる旨を伝えて、エリーゼの後を追うことにした。鼻を擽る良い匂いが流れてきたが、初めて食べる沙希の手料理に舌鼓を打つのは、暫くしてからになりそうだった。

玄関ホールを抜けて、3人は佐久間邸の庭へと赴く。

陽光の下に立ってみれば、腰に手をあててこちらを見つめてくるのは少女である。庭は所々が抉れていたり、電燈が折れて倒れていたりと殺伐した雰囲気を醸し出している。オッサンが居なくなったことで修繕の目処も立っていないのか、先週から放置されたままである。

「さぁ、いざ尋常に勝負なのだよっ!」

声高々と言い放つ少女はやる気満々だった。

だが、俺はその「決闘」とやらが一体どういうものなのか知る由も無い。まさか、どこぞの貴族様よろしく、フェンシングのミョンミョン曲がる剣を持って、突き合いをするわけでもあるまい。

「おい、エリーゼ。一体何をどうするんだよ。俺はまだルールも何も聞いてないぞっ」

いっそテニスとか水泳とか、そういうスポーツで勝負を決してくれればよいのに、どうしてこうも世事とかけ離れた方法を選んでくれるのだろう。

「ルールなどという大層なものはない。決闘といえば読んで字の如く決闘だ。どちらかが倒れるまで殴り合うだけのことだ」

それはつまり喧嘩だろう。

「なんだよそりゃ、そんなの俺は聞いてないぞっ!」

この歳になって喧嘩はないだろう。プロレスラーがリングの上で組んず解れつするのとは話が違う。

「何を寝ぼけている。他にどうしろというのだ。話し合いで決着がつかないからこうなったのだろう。いちいち文句を垂れるな」

「いや、文句を言ってんのは俺じゃなくてコイツだろうが」

目の前の少女を指差して吼える。

「やかましい、そのようなこと知るか」

聞く耳持たないエリーゼは毅然として言い放つ。

この少女を相手にして俺がどれだけ奮闘できると思っているのだ。エリーゼの馬鹿力を封じてしまうほどの奴である。速攻でKOを取られるのがオチだろう。

「それで、貴様は雅之にハンディを与えるという話だったが、それはどうした?」

俺の意思は何処吹く風で、話は勝手に進んでいく。

「その点は問題ないのだよ」

エリーゼの言葉に自信たっぷりで頷いた少女は右手を掲げて見せた。目を凝らしてみると、その中指にはキラリと光る小粒の宝石が乗った指輪が嵌められていた。

昨日会ったときには指輪などしていなかったはずだ。というと、昨日の今日で何処からか調達してきたのだろう。お金が無いお金が無いと騒いでいたホームレスは何処の誰だっただろう。まさか盗品か?

「また性懲りも無く忌々しいものを作ったな。それのおかげで私は酷い目に合ったのだが」

少女の嵌めた指輪を目にしてエリーゼの顔が歪んだ。

「何の話だい?」

そんな様子を目の当たりにして少女は首を傾げる。

指輪を見て嫌悪を抱くとしたら、それはこの屋敷での一件を思い出してのことだろう。

エリーゼが沙希の親父に無理やり嵌めさせられた例の指輪だ。小さな金属のリング一つで手の付けられない暴君がただの子供に成り下がったのである。もし、あれが俺の手の内にあったのなら、それこそ寝首を掻いてでも指を通させてやるところだ。まあ、魔力が復活してしまった今のエリーゼには何の効果も期待できないだろうが……。

「別に貴様に話すようなことでもない。用意があるならそれでいい」

「なんか、気になるのですよ」

「やかましい、貴様に話すようなことは何一つ無い。それよりも、そいつはちゃんと動作するのだろうな?」

指輪云々は、エリーゼにとっては気分の良い話題ではないだろう。あからさまな苛立ちを露にして強引に話題を変えようとする。それに少女も気づいたのだろう。今更ながら、相手の機嫌を損ねる事に抵抗を感じたらしい。それ以上は言及する事も無く、思いのほか素直に頷くと、なにやら指輪の説明を始めた。もしかしたら単純に物事を説明するのが好きなだけかもしれない。

「もちろんなのだよ。そういった点に関しては、このマリーを舐めてもらっては困るのだよ。元々はエリーゼ君の為に作ったものだからね。効能を調整して若干弱めてあるとはいえ、かなり強力な一品なのだよ」

「どの程度まで落とせるんだ?」

「そうだね、流石にゼロまで落とすわけにはいかないから、100分の1くらいを目処に作ってあるのだよ」

「それは随分と余裕だな?」

「いくらエリーゼ君の下僕とはいえ、まだ成って間もないのだろう? マリーはこの程度が無難だと思うのだよ。もちろん、道具の使用は認めてもらうのだよ?」

「ああ、いいだろう。それくらいで丁度良い。雅之にも定期的に刺激を与えてやらんとな」

会話の内容は理解しかねるが、口調からして俺が馬鹿にされているのは良く理解できた。まるでペットに餌をやる主人の様な物言いである。昨晩の暴言はまだ有効期限を過ぎていないのだろうか? できれば一生思い出したくなかったのだが。

「…………」

「なんだ、どうかしたか?」

ふと、口を噤んだ少女にエリーゼが声をかける。

「い、いや、なんでもないのだよ」

それに慌てた様子で少女は答えた。

しかし、何が悲しくてこんな馬鹿な話に付き合わなければならないのか。

小さい頃、近所の友達とやったヒーローごっこが思い出される。あの頃は無邪気だった。出もしない必殺技を叫んでは日が暮れるまで友達同士で走り回っていた。それが今では、叫んだ技が本当に出てきてしまうこの状況だ。子供の頃の稚拙な願いが10年遅れで追いついたらしい。

「言っておくが、先の約束は守ってもらうからな?」

「そ、それは重々承知しているのだよっ!」

既にエリーゼの中では俺が勝つと決められてしまっているのか、自信たっぷりの笑みを浮かべて少女を眺めている。だが、実際に事に当たるであろう俺には、その根拠を窺い知る余地が皆無だ。

「言っておくけど、俺は一度も頷いちゃいないぞ?」

これで不安にならない訳が無い。

「何を寝ぼけた事を言っている。お前が勝てば、私はこれ以上コイツに付きまとわれることも無くなるのだぞ? この機会を得ずしていつ臨むというのだ」

無駄だと知りつつ上げた抗議の声は無碍に棄却される。返ってきたのは予想通りの言葉だ。

「そりゃ、お前にとっちゃそうかもしれないけど、俺には何にも得が無いだろうに」

「主人の幸は下僕の幸だ。それで十分だろう?」

「全然足りねぇよっ!」

これは説得も無駄だろう。

エリーゼの横暴は今に始まった事ではない。そして今は己の利権が、自身が下僕と見下す奴の双肩にかかっているのだ。ならば、コイツは俺を馬車馬の如く使ってくれるに違いない。

「やかましい、私がやれと言ったのだ、背くことは許さん」

腕を組んだエリーゼは涼やかな瞳を、しかし、凛として自分の意見は曲げない芯の強さを持って向けてくる。頭の位置はこちらのほうが上にあるのに、まるで高いところから見下されているような錯覚を覚える。

「お前って最高に良い性格してるよな」

時代が時代ならば、社会史の教科書にピックアップされるような大物になっていたかもしれない。

「褒めても事は曲がらんぞ?」

「……褒めてねぇよ」

もしくは、人生一回戦で敗退して生涯短く昇天されるか。

どちらにせよ真っ当な道は進むまい。

決して頭が悪いわけではないので、ちゃんと理解しての発言なのだろうが、ここまで横柄な態度を取られれば、段々と抵抗する根性も失速していく。

「ったく」

今回は諦めて素直に従ったほうが無難なのかもしれない。

下手に往生際が悪いと、逆に痛い目に遭うのは最近よくある展開だ。ならば、たまには周囲の流れに身を任せてみるのも悪い判断ではないかもしれない。かなり妥協しての判断だが、それ以上が望めないのだから仕方が無い。

「分かったよ、やってやるから早いとこ始めてくれよ」

昼食を取っていないことで腹もかなり減っている。

早いとこ初めて、すぐにでも終らせてしまおう。別に勝っても負けても俺に不利益が生じるわけではない。そりゃ、負ければエリーゼの機嫌は悪くなるだろうが、そんなのは知ったこっちゃないわけで、適当に無視しておけばよい。約束を取り決めたのは本人なのだし、そういった面でも俺の性能を見誤ったのも本人の失態だ。言及される謂れは無い。

「よし、ならば始めるとしよう」

そんな心中を知らずして、エリーゼは俺の言葉に満足げに頷いて応じた。

「両者のどちらかが敗北を認めるまでの勝負だ。それ以外に特に制限は無い。使えるものは何でも使ってもかまわん。だが、マリーはハンディとして付けた魔力の制限を取り払った時点で強制的に負けとする。いいな?」

「了解なのだよ」

「何か聞きたいことはあるか?」

聞きたいことなど山ほどあるが、それをいちいち口にしていたのでは何時まで経っても始まりそうにないので、ここはあえて黙っておく。

すると、少女が手を上げて口を開いた。

「一つ確認しておきたいのだよ」

「なんだ?」

「エリーゼ君は、この決闘に一切の手出しをしないのだよね?」

少女は真面目な顔でエリーゼに向き合う。

質問の内容は最もだった。

たしかに性格のひん曲がったエリーゼのことだ、こちらが不利になったと見たら横槍を入れてくるかもしれない。俺としては負担がへって嬉しい限りだが、相手をしなければならない少女としては死活問題だろう。

「当たり前だ、それでは貴様に付けた制限が意味を成さないだろうが」

今は余裕の表情だが、実際に事が起きてみれば怪しいところである。

「ならいいのだよ。ただ、マリーがこうしてハンディを持っている以上、エリーゼ君にも何らかの形で制限をかけたいのだよ」

「制限だと?」

少女はゆっくりとエリーゼの元に歩み寄る。

「実はもう一つ、エリーゼ君の為に作っておいた指輪があるのだよ。これをつけて貰えないかい?」

ごそごそとローブの内側を弄る少女が取り出したのは、本人の中指に光っている指輪と若干宝石の色を異する一品だった。陽光を通して青色に光る綺麗な鉱石が、シンプルな銀のリングに乗せられている。

「これを嵌めろと言うのか?」

「もしもエリーゼ君が途中で介入してきたら、枷のあるマリーでは太刀打ちできないのだよ。だから、その対策としてこの二つの指輪をお互いに嵌めあうのですよ。この指輪は嵌めさせた者にしか抜き取ることが出来ないから、お互いに嵌めあえば、双方の最低限の安全は保障されると思うのだよ」

少女は手の平に乗せた指輪を差し出した

「…………」

エリーゼは顎に手をあてて思案する素振りを見せる。これまでの経験からして、エリーゼが魔力を制限されることに相当な抵抗を持っているのは明白である。しかし、今回は決闘からくる利益の方が大きいと判断したのだろう。それほど間を置かずして頷いた。

「いいだろう。その申し出を受け入れてやる」

「ありがとうなのだよ」

頷いて答えた少女は人差し指を立てて説明を続ける。

「マリーが嵌めている指輪と違って、こっちの指輪を嵌めると、エリーゼ君の魔力は限りなくゼロまで低減されるのだよ。もしも下僕君がピンチになっても、これを身に付けている限り君は彼を助けることは出来なくなる。いいかい?」

「ああ、好きにしろ」

一時的な処置とはいえ、やはり嫌悪を抱かずにはいられないのだろう。エリーゼはぶっきらぼうな物言いで少女の言葉に応じた。ご褒美を目の前にして嫌々と宿題に挑む小学生の様な表情だ。

「では、指輪を交換するのだよ」

少女は自らがしていた指輪を抜き取るとエリーゼに手渡した。

「貴様も準備の良い奴だな」

「何事も計画と設計が大切なのだよ」

そして、先ほど新たに取り出した蒼色の宝石が飾られる指輪を、差し出されたエリーゼの指にゆっくりと通す。エリーゼも同様にして、受け取った指輪を少女の右手の中指へと通した。

まるで結婚式のリング交換のように、二人はお互いの手にしていた指輪を交換した。エリーゼの中指には蒼い色の宝石が、そして少女の中指には緑色の宝石が輝いている。

「ちなみに、この指輪を外そうとして指ごと千切ったりすると、その効能は身体に永遠に残ることになるから注意するのだよ。魔力の封印と開封は指輪の付け外しで応答するようになっているのですよ」

「ああ、それは知っている」

頷いてエリーゼは、自身の左中指に通された指輪に目を向ける。

南中高度を過ぎ去り既に傾きつつある太陽が放つ陽光が、リングの上に乗せられた宝玉を眩く煌かせている。見た目はなんてことのない普通の指輪だが、少女の話が本当ならば、こんなものでもエリーゼの馬鹿力をゼロまで抑えてくれるのだ。出来ることならずっと身に着けていて貰いたい位だ。

「さぁ、余興はここまでだ。始めるぞ」

俺と少女へ交互に視線を向ける。

「了解なのだよっ!」

言い出しっぺである少女は至ってやる気満々だ。対する俺のテンションの低さといったらマリアナ海溝にも引けを取らぬマイナス値だが、致し方ない。ここは波に飲まれて揉まれるとするか。

「なるようになれだ」

別に無理をして勝つ必要も無い。適当なところで降参してしまえば良いだけの話だ。エリーゼには悪いが、勝負の勝敗は俺にとって何の価値も無い。

「では、始めろ」

というわけで、エリーゼの口頭により火蓋は切って落とされた。

もちろん、先手を仕掛けてくるのは無論のこと、元気一杯やる気目一杯の少女である。

「行くのだよっ!」

気合を入れたつもりか、短く叫んだ少女は颯爽と走り出す。もちろん、こちらへ向ってである。

幾ら適当に済ませるつもりであっても、沙希曰く、相手はエリーゼに匹敵するほどの存在だ。仮に指輪の効能で力が制限されていたとしても、油断して挑めば怪我は免れないだろう。それなりに集中して行動しなければならない。

少女は走り寄ってくる。

両者の間にはそれほど距離が開いていたわけではない。陸上競技のオリンピック強化選手も真っ青なスタートダッシュで、僅か数メートルの間隔はあっという間に詰められてしまった。まだ俺は一歩も動いていない。

「これは真剣勝負なのですよ。マリーは一切の手加減をしないのだよっ!」

硬く握られた小さな拳が、鳩尾めがけて一直線に滑り込んできた。

少女は既に俺の目の前にいる。この近距離から殴りかかられては、避けてやり過ごすことも出来ない。重ね合わせた手のひらで、見た目以上に強力な一発を受け止め、その勢いで後ろへ飛びずさった。

「痛っ……」

拳を受けた掌はジンジンと痺れていた。

「何を呆けているのだい」

少女は姿勢を低く構えたまま口を開く。いつでも飛び掛って行きますよ、と臨戦態勢を崩さない。

「うるせっ、誰が呆けてるかよ」

見た目が子供というのは性質が悪い。幾ら自分に言い聞かせて意気込んだとしても、本気で殴りにいくことができない。中身がどれだけ凄い事になっていようとも、外面に騙されてしまうのだ。これは精神的に結構なハンディとなっている気がする。

だが、それを言い訳にして相手の成すがままになってしまうのは非常に宜しくない。まずもって殴られれば身体が痛いし、やられっぱなしでは気分だって悪くなる。

相手は人間ではないのだ。俺も既に真っ当な人間ではないらしいが、コイツはそれ以上にぶっ飛んだ存在に違いない。エリーゼ同様、常識の欠片も無い人外魔境の一片なのだ。俺の日常に爆竹を投擲してくるようなふざけた奴なのだ。

「見てろよ、この野郎」

そう自分に言い聞かせて、無理矢理に気分を奮い立たせる。でなければ、恨み辛みの微塵も無い奴を相手にして、強制的に始めさせられた喧嘩なんぞ出来るはずも無い。テンションは最低だ。

飛び退いて得た距離は5メートル程度である。先ほどのスタートダッシュを考えれば、少女にとっては意味の無い間合いだろう。早く次の手を考えなければならない。

だが、相手は俺に物を考える時間を与えてはくれない。

「休んでいる暇は無いのだよっ!」

言うが早いか、勢い良く地を蹴って、再びこちらへ駆け寄ってくる。

「糞っ!」

今度は反応が早かった為に避けることが出来た。

勢い良く振るわれた拳を左に避けて交わす。

腹のすぐ横を通り過ぎた左腕は、伸びきる間も無く引かれ、それと位置換えるようにして今度は右腕が迫ってきた。同様に腹部を狙った一撃を、今度は右へと身体を反ってギリギリのところで避ける。

可愛らしい外見とは裏腹に、風きり音を連れて打ち込まれる拳は恐怖以外の何物でもない。まるで空手の有段者を相手にしているような心境だ。

「お、俺だってやるときはやるんだからなっ!」

もしもエリーゼが相手ならば、俺は何の抵抗も無く殴りかかっていただろう。取っ組み合いの喧嘩だって上等である。しかし、この少女とはまだ数回の面識しかない間柄なのだ。幾ら相手が馬鹿で変態で理解しがたい存在であるとはいえ、いきなり喧嘩を始めなさい、なとど言われれば戸惑うほか無いだろう。

だが、実際に手を合わせてみれば、そんな事で悩んでいる余裕も段々と失われてくる。

「ならば好きなように仕掛けてくれば良いのだよ。マリーは君に倒されるほど弱くは無いのですよっ! このエリーゼ君を思うパワーは世界を変える愛の力ぁああああっ!」

「うるせぇよ、いちいち叫ぶな馬鹿がぼへぇあああああああああああ!?」

気がつけば少女のアッパーカットが見事に命中していた。

足りない身長を飛び上がることで補っての大技だ。律儀にも相手の台詞に言葉を返していた隙を狙われた。

足が地から離れ、浮き上がったかと思うと、膝に鈍痛が走る。気がつけば身体は地面に横たわっていた。顎を打たれて脳が揺さぶられたのだろう。おかげで視界が定まらない。なんて無様なのだろう。気を失わなかったのは幸いであったのか、それとも、ここで失っておくべきだったのか。

例によって傷と痛みはすぐに引いてくれるのだが、だからといって、こんなことを繰り返していては身が持たない。肉体的にはセーフでも精神的にはアウトだ。

「さぁ、とっとと立つのだよ。まだまだこんなものでは足りないのだよ。君にはエリーゼ君との幸せな時間を過ごした分だけ、マリーの遣る瀬無い悲しみを感じてもらうのだよっ!」

「ちょ、止め……」

少女は横たわる身体に向けて拳を突き下ろしてくる。慌てて身を転がしてそれを避ける。打つべく対象を逃した拳は大地にビリビリと小さな振動を残した。恐るべき馬鹿力である。魔力多少によって攻守のバランスは変化するとエリーゼは言っていたが、これをマトモに受けたらどうなるのだろうか。風穴の一つも開きそうな気がする。

「さぁっ! どんどん行くのだよっ!」

「ちょ、ちょっと待てよコラッ!」

地を這うようにして少女の追い討ちから逃げ回る。

傍から見れば苛めっ子と苛められっ子の追いかけっこである。ただ、追いかけているのが10歳にも満たないような女の子で、追いかけられているのが男子高校生というのが笑えない。もしも、俺が少女の言葉に従って昼に公園へ向っていたとしたら、こんな痴態をご近所の奥様方や、下校途中の学生達へ見せ付ける羽目になっていたことだろう。沙希には多大な感謝をしなければなるまい。

そして、一向に反撃の色を見せない俺に我慢しかねたのか、外野からも罵声が飛んできた。

「えぇいっ、何をやっている、さっさと片付けてしまわないか馬鹿者っ!」

「う、うるせぇっ! 無茶言うんじゃねぇよっ!」

必死になって逃げ回りながら罵声を返す。

少女の攻勢は引っ切り無しの連打である。それに加えて顎に受けたダメージのおかげで相手の動きについていけない。軽い脳震盪である。相手は息をつく暇も無く打ち込んでくるので、対峙することはおろか、逃げ回ることで一杯一杯だった。

だが、暫く庭を駆け回っていると、視界が段々と鮮明になってきた。脳味噌が揺さぶられたことによる影響は吸血鬼の出鱈目な治癒力でも回復が難しいのか、切り傷や打ち傷と比べて若干時間がかかった感じがする。しかし、これでようやく反撃の兆しが見えてきたというものである。

こちらは先に一撃を受けているのだ。少々無理矢理なこじ付けだが、これならば俺としてもそれなりの大義名分を手に入れた感がある。

「随分と呆気ないけれど、これで終わりなのだよっ!」

時を同じくして、少女が大きく拳を振り上げてきた。俺の劣勢を信じての一撃だからだろう。それまでの連打と比較して振りが大きく、それに比例して隙も大きい。

「っ!」

ならば、そこを攻めない手は無い。

腰を捻り振り下ろされた拳を避けると、そのまま伸びてきた腕を脇と腕で挟むようにして捕らえた。

「よっしゃぁっ!」

そのまま手首を掴んで力任せに捻り上げる。

「うあっぐっ!」

想定外の出来事に少女の口から悲鳴が漏れた。

だが、優勢を感じられたのも僅かな間であった。

「ば、馬鹿っ! 下がれ雅之っ!」

横から割って入ってきた声を耳にして、身体はその指示に反射的に従った。

するとどうだろう。飛び退いた俺がそれまで居た場所を少女の腕が一閃していた。手に握られているのは刃の赤いナイフである。

「あ、あぶね……」

心臓が一際大きく脈打った。

まさか武器を隠し持っていたとは思わなかった。

馬鹿で一直線な猪というのが俺の少女に対する認識であったのだが、これは考えを改めなければならないかもしれない。エリーゼが教えてくれなければ今頃は腹を割かれて内臓をぶちまけていたことだろう。

「エリーゼ君、下僕君の味方をするのはずるいのだよっ!」

一方、会心の不意打ちを見抜かれて憤慨しているのは少女である。今の一撃が決まっていれば少女の勝利は間違いなかっただろう。

だが、咎められるエリーゼは涼しい顔である。

「私は一度も公平な立場に立つとは言っていないぞ? だとすれば自身の下僕を勝たせようとするのは当然の事だろう?」

しれっとした態度で言い放つ。

「そ、それはそうかもしれないけれど……、でもマリーは1人なのだし、いくら助言しただけとはいえ1対2はずるいのだよっ! 卑怯なのだよっ!」

少女は大きな碧色の瞳を見開いてエリーゼに講義する。

だが、俺としてはその台詞は頂けない。

「卑怯ってお前、いきなりナイフを抜いておいてそれはないだろっ!? 一体どういう神経してるんだよっ!」

「でも、道具の使用はエリーゼ君だって認めているのだよ。刃物だって道具の一種だろう?」

「確かに道具の使用は認めた。別に問題は無い」

少女の言葉を受けてエリーゼは静かに頷いた。

「いや、認めたってお前なぁ……」

たしかに、そういった会話を二人がしていたような気がしないでもない。しかし、幾ら道具とは言え刃物はないだろう。これでは喧嘩というよりも殺し合いになってしまう。どちらか一方が泣いたら負けというルールは何処へ行ってしまったのだろう。

「だが、私が雅之に助言をしないとは取り決めていないだろう? こうして貴様の口上にのって魔力まで制限されてやっているのだ、それくらい好きにさせろ」

「っう、くぅ……それは……そうなのだけれども……」

それっぽいエリーゼの物言いに少女は返す言葉を失う。

「でなければこの果し合いは取りやめるぞ?」

既に来るところまで来てしまっているからこその豪言だろう。

「わ、分かったのだよ。エリーゼ君による下僕君への助言を認めるのだよ。だから決闘を続行させてもらいたいのだよっ!」

惚れた弱みとでも言えばよいのだろうか。現状として、少女は絶対にエリーゼに敵わない立ち位置にある。

「ならば早く再開しろ。決着が遅れればそれだけ食事が遠のくだろうが」

「了解なのですよっ!」

「ったく、随分な理由だな、おい」

まあ、仕方が無い。立場がエリーゼの下にあるのは俺も同じことだ。コイツは俺が抗議した程度で自分の意見を曲げるような柔な性格ではない。今は素直に従うほか無いだろう。それに、ただでさえ昨日の今日で怒らせてばかりいるのだ。下手に機嫌を損ねさせてはナイフで裂かれるよりも大変な目に合いかねない。多少の怪我ならばすぐに治ってくれるのだし、これまでもこういった事が無かったわけではないのだ。なんとか頑張ってみるとしよう。

加えて、ここへ来て段々と負けるのが悔しくなってきた、というのも理由の一つである。

「では、気を取り直して覚悟っ!」

再び先手を取って少女が駆け出す。

数メートルの間合いをあっという間に詰めると、手にしたナイフを一閃させる。

「くっそっ!」

得物が手に収まっていると分かっていれば何とかならないわけでもない。余裕を持って避けれるだけの力量は無いけれど、神経を集中させていれば何とかなる範疇にある。

右へ左へと振るわれる刃を後退するすることで凌いで繋げる。幸いな事にこの屋敷は庭が広い。それなりに考えて動いていれば背水に如かれることは無いだろう。

だが、問題なのは攻めの一手である。

誰しも思うだろうが、刃物を持った相手に対して仕掛けるのはかなりの度胸が必要なのだ。

「畜生、やっぱりそれって卑怯じゃないかよっ」

戦況は相手のペースに呑まれつつある。

文句を口にしたところで何の意味も無いのだが、二進も三進も行かない現状に不満が募るのは当然だ。

「別にこれは卑怯ではないのだよ。エリーゼ君が認めてくれたのだから問題なんて皆無なのですよ。それに、刃物を恐れて尻込みしているような弱虫の君には、エリーゼ君は相応しく無いのだよっ!」

「な、なんだと!?」

まさか弱虫などと称されようとは思わなんだ。

「でなければ、何故君は仕掛けてこないのだい」

少女は攻めの手を緩めずに語りかけてくる。こっちは避けるだけで精一杯だというのに随分なことである。

「よーしゃ、やってやるよこの野郎っ」

こうなれば躊躇などしない。ここまで言われて食い下がれるほど俺は大人しい性格はしていない。ここまでやられておいて、引き下がるのはありえない。

「さぁさぁ、来たまえベーイベー!」

「うるせっ!」

左から右へナイフが振るわれた。

それを上体を反らすことにより、切っ先が学生服に触れるか触れないかのギリギリのところで避ける。正直、肝が冷える行為だが、だからと言って、これで飛び退いて終わりにするわけにはいかない。

標的を逃した刃は宙を薙ぐ。俺はそれを追う様にして左腕を伸ばした。狙うのはナイフの柄を握る少女の手である。兎にも角にもコイツさえ取り上げてしまえば脅威は無くなるのだ。

「よしっ!」

軌道上に遮蔽物が無いことを確認する。そして、遠慮も手加減も皆無に、硬く握った拳を横振りに加速させて打ち付けた。

「っ!?」

見事な一撃を受けて少女の手からナイフが弾かれる。勢いの乗った赤い刃は数メートルの距離を飛び、音を立てて地に刺ささった。

少女は慌ててその場から飛びずさる。

先の二人の会話を聞いていた限りでは、俺か少女のいずれかが降参するまでこの勝負は続けられるらしい。そうなると、相手はどうだか知らないが、少なくとも俺は長い時間を集中して動き回ることに慣れていない。ともすれば、ここで攻勢の手を緩めるのは賢くないだろう。俺は勝負に決着を着けるべく攻めて出ることに決めた。

「待てコラっ!」

地を蹴り腕を伸ばして少女の手首を掴みにかかる。

先ほどは片方を取り逃して痛い目に合ったので、今度は両腕を同時に標的とする。まさかとは思うが、また同じ手にしてやられるのはごめんである。

相手が沙希の親父のように強面な面構えをしていたのなら、何の遠慮も無く殴りつけることが出来た。しかし、やはりというか、なんというか、目の前にいる少女が相手となると、その容姿が気になって、どうにも踏ん切りの付かない部分があるのだ。おかげでこんな面倒な手段を講じるしか出来ないでいる。

エリーゼ相手ではどうなのだ、と問われれば、それはかなり微妙な話なのだが、多少の抵抗も日々の屈辱の前には霧散してくれる、というのが結論だろう。この少女の場合はそれが無いことが問題なのである。

「くっ!」

数歩足を進めたところで少女の腕を掴むことに成功した。今度はちゃんと両腕を同時にである。

このまま関節を決めてギブアップさせることが出来きれば俺としてはベストだろう。先ほど掴んだ感じでは、純粋に力関係だけを考えると、俺のほうが若干優位にある気がする。エリーゼのように腕から破壊光線を飛ばすような必殺技を持っていない以上、こういった地味な戦法で攻めるほか無い。

「ほら、ギブアップするなら今のうちだぞ」

身長差にものを言わせて、掴んだ手首を捻り上げた。

だが、それも僅かな間の出来事でしかない。

手首を掴まれて、半分地から浮いた状態にあった少女の身体が、ゆらりと大きく揺れた。

かと思いきや、ローブの下に隠れていた白く細い足が大きく横に振るわれる。

「っ!?」

拳にばかり気をとられていて、その存在を失念していた。手が封ぜられたならば、代わりに足が伸びてくるのは必至だろうが、そんな当たり前の事にさえ気づけないでいた自分の馬鹿さ加減を呆れる暇も無く、顔面を強打せんとする一撃が迫っていた。

他に対処する方法も無く、俺は捕まえていた少女の手首を放し、危なく当たるところで後ろへ飛んで避けた。もしも少女の足があと数センチ長かったなら鼻の骨がへし折られていただろう。すぐ目前で巻き起こった風に前髪がなびいていた。

「いくらなんでも甘いのだよ。この程度でマリーが根を上げると思っているのかい?」

スタッと地に立った少女は余裕の表情で俺を見つめていた。

「それとも、マリーの見た目がこんなだから手加減をしているのかい?」

良く分かっているではないか。まさにその通りである。

「お前の実年齢が何歳なのかは知らないけど、少なくとも見た目は子供だろ? それを相手にして何の抵抗も無く殴りにいける奴がいると思うか? 手加減するなって方が無理な話だろ」

俺の反応は至って世論に沿った一般的なものである。子供を相手にして本気で喧嘩を始めるような奴は精神異常者以外の何者でもない。児童虐待で新聞の一面を飾るような人間にはなりたくないし、なるつもりも無い。いくら意識して殴ろうとしても、反射的に身体が引いてしまうのは正常な人間の仕様である。

だが、返ってきたのは精神異常者の説教だった。

「君はまだこちらの世界を知ってから日が浅い。だからそれも仕方が無いかもしれないのだよ。けど、いつまでもそんな考えでいたら君の人生、先はそう長く無いのだよ?」

至って真顔でそんな事をのたまってくれる。俺はどういった反応を返せばよいのだろうか?

「……余計なお世話だよ」

そんなことはエリーゼと出合ってから今日に至るまでの間に起こった数々の出来事を通して十分に理解している。だが、幾ら注意をされたところで元からある良心との折り合いは早々簡単にはつかないのだ。

「そうかい? けれど、そうなると君は一片の勝機も手にすることが出来ずにマリーに敗れることになるのだよ。幾ら魔力を抑制しているからといって、マリーは君が手加減をして勝てるような相手じゃないのだよ。それはエリーゼ君だって理解しているはずなのだよ」

「だったらなんだっていうんだよ?」

そりゃ、この少女に勝つことが出来たなら少なからず嬉しくもあるだろう。昨日今日とエリーゼと一緒になって俺を振り回してくれているのだ。ストレスだって結構溜まってきている。その鬱憤を晴らすには丁度良い舞台ともいえる。しかし、だからといって相手を殴りつけることへの抵抗が無くなるかといえば、それは無理な相談である。

「俺はお前みたいに勝負へ固執する理由もないんだよ。そもそも無理やり始めさせられたんだから、それに熱を入れろって言われたって無茶な話だろうが」

確かに負けるのは悔しいかもしれないし、段々とやる気にもなってきてはいたが、そこまで勝敗に執着するほどのことでもない。

「なら、君にはマリーがこの世界のルールを教えてあげるのだよ」

「別に教えて貰わなくたって十分に知ってるよ」

一週間もエリーゼを相手にしていれば、魔力を筆頭に続く不思議な世界の理不尽さは十分に体感できる。

「遠慮は身体に良く無いのだよ?」

それを言うなら無理は健康に良くない、であろう。

「これは忠告なのだよ。君も痛い思いをしたくないのなら本気で掛かってくるのですよ」

少女はローブの中へ手を突っ込み、ゴソゴソとなにやら漁り始めた。

一体そこから何が出てくるのかと、少なからずの好奇心を抱いてその様子を眺めていた。すると、少女の小さな手に握られて現れたのは、先ほどまで振り回していたナイフよりも、更に一回り大きな刃を持つ大層な一品だった。俗に言うアーミーナイフと呼ばれる類のものだろうか。随分と大きい。

「うぁ、またかよ」

色々と振り出しへ戻った気分である。

「さぁ、続けるのだよっ!」

少女は大きな瞳を鋭くさせて、いつでも此方に向って飛び出せるよう身構えている。

手にしたナイフはパッと見た感じでも、刃渡りが30センチ以上ある。既にナイフと呼んで良いのかどうか怪しいサイズだろう。こんなもので突かれたなら、身体に風穴が空いてしまう。加えて、その大きさから来るプレッシャーはかなりのもので、近づき難いことこの上ない。

だが、驚くべきはそんな事ではなかった。

次の瞬間、少女は手にしたナイフをこちらに向って一振りした。

するとどうだろう、まるで霧で出来ているかのように、シルエットの霞んだブーメラン状の物体がこちら目掛けて飛んできたのである。その一端は俺の頬を掠め、かと思いきや次の瞬間には、背後でズドンと大きな音を立てていた。それは、何か重いものが地に落下したような衝撃音である。僅かではあるが、地面を伝わって来た振動が感じられた。

今度は一体どのようなマジカルが起こったというのだろうか。少女が目の前にあって、しかし、好奇心と恐怖に負けた俺は慌てて後ろを振り返った。

すると、そこには柱を上下に切断された外灯があった。

一方は地に根を落としたまま直立しており、もう一方は支えを失ってそのすぐ隣に横たわっている。また、その切断面は非常に滑らかで、金属製であろう外灯の切り口はまるで研磨加工されたかの様に光沢を放っていた。

これは一体どういうことだろうか?

頬に手をあててみると、先ほど何かが掠めた箇所には血が付着していた。触っても痛みは無いので、傷自体は小さく、すぐに治癒されたのだろうが、そこに怪我を負っていたことは間違いない。

「まさかとは思うけど、今のってお前がやったのか?」

あまり信じたく無い出来事におずおずと開く。

「そのまさかなのだよ。今のはわざと外したけれど、次からは狙っていくから覚悟するのだよ。君の柔な体組織なんて、この衝撃にかかれば、あっという間に三枚卸なのだよ」

「お、おいおい……」

既に正気の沙汰でない。

「おい、エリーゼっ! こんなのアリかよっ!?」

あんなものを好き勝手に振り回されたら、俺の身体はサイコロステーキだ。幾ら道具を使って良いとはいえ、これはやり過ぎだろう。

だが、俺の抗議の声を受けて返ってきたのはなんとも冷淡な言葉だった。

「道具の使用は認めたと言った筈だ。それがどういった物であれ一度認めたことは撤回せん。お前で何とかしろ」

「な、なんだよそれ」

というか、何をどの様に加工すれば、このような馬鹿げた道具が作れるというのだろう。自分では既に慣れたつもりの不思議な出来事達だが、やはり、相手はその上を行くのが常のようだ。

「あぁ、そういえば言い忘れていた事がある」

「これ以上何があるってんだよ?」

エリーゼは俺が狼狽する様子を楽しんで言葉を続ける。

「今、お前が挑んでいる相手は確かに救い様の無い馬鹿で阿呆な奴なのだがな、だがそれと同時に、私が知る中で最高の技術を持つ錬金術師でもある」

エリーゼの言葉を受けて少女の顔に笑みが灯る。自分が褒められたことに対して喜びを感じているのだろう。

「錬金術師ぃ?」

そして、エリーゼの口からはまた新しいファンタジーな不思議系用語が台頭してきた。

「あまり褒めるのも癪だが、実力は確かだ。舐めてかかれば本当に殺されるぞ?」

「っていうか、なんだよそれ」

このままいけば、そのうち召喚術士や呪術師といった職業の方々にも出会えるかもしれない。別に出会いたいとは毛頭思わないが。

「死にたくなければ全力で行くことだな。こいつの台詞ではないが、手加減などして勝てる相手ではないぞ」

「だから、なんだってんだよそれはっ!」

だったら俺にも何か武器とか使わせてくれてもいいんじゃないだろうか? こっちは素手だぞ。

「というわけで下僕君、いざ尋常に勝負なのだよっ!」

「く、来るなボケっ!」

少女がこちらへ向って走り出したのを受けて、慌ててその場から後退する。

護身術の通信教材等では、飛び道具と敵対する場合、間を詰めて相手の懐を取れば良い、などと書かれていることがある。しかし、相手が使う飛び道具の命中精度が分からない以上、下手に突っ込むのは危険である。というか、そんな怖いことは遠慮したい。相手の武器は金属製の外灯を苦も無く切り裂くほどの威力である。人間の身体なんて勘定に入らない勢いでサックリと逝かせてくれるだろう。

「こんなの相手にどうすりゃいいんだよっ」

これでもまだエリーゼは俺が勝つと豪語していられるのだろうか?

身体は正面を少女に向けたまま、全力で後退を続ける。その間に、振り回されるナイフが庭にある観葉植物を滅多切りにしていく。飛翔する刃は目で追えない速度ではないが、だからといって決して遅いという訳でもなく、避けるだけで一杯一杯だった。それも結構なところで運が作用している気がする。

「おいっ! 逃げてばかりいるな、とっとと攻めろ!」

そして外野からは人の気も知らぬ要請がかかって来る。

「うるせぇっ! 無茶を言うなっ!」

恐ろしいまでのプレッシャーに心臓はバクバクいっているし、集中力だって段々と低下してきている。何時までも逃げ回っている訳にはいかない。そんなことは分かっているのだが、けれど他に出来ることが無いのが悲しいところだ。

「ふふん、あっという間だったけれど、どうやらこの勝負はマリーの勝ちのようだね」

こちらを追い掛け回してくる少女の顔には余裕の笑みが浮かんでいた。

放たれたブーメランのような飛び道具は、ある程度の距離を飛ぶと勝手に霧散してしまうようだが、その距離は結構なもので、屋敷の庭にいる限りその射程から逃れることは難しい。

「糞っ」

正直、ここで素直にギブアップしてしまうのも一つの手である。この勝負は負けたところで俺には何のリスクも無い。後々エリーゼに文句を言われたり、どつかれたりするかもしれないが、それだって、今ここで少女のブーメランを相手にして身体を切り刻まれるよりは余程マシだろう。

しかし、こうして十分に動き回れる状況にあって諦めてしまうのはどうにも癪に障る。そして、そんなくだらない対抗心と、エリーゼや少女に対する絶対的な劣等感とが俺をギリギリの所で踏みとどまらせていた。少女を殴ることに抵抗があるように、ここですんなり諦めてしまうのにも抵抗があった。自分でも思うが、救い様の無い阿呆な性格である。

「せ、せめて何か返し手が無いと」

相手の武器は、その軌道上にある物がなんであろうと問答無用で切り刻んでくる。その威力の上限が掴めていない以上、何かの背後に隠れてやり過ごすのは難しい。それなりに厚みがあるものならば、多少は耐えてくれるかもしれないが、周囲を見回しても目に付くのは観葉植物や外灯くらいなものである。そして、それらの地物の悉くが盾として機能しないのは確認済みだ。

「とぉうっ!」

少女のナイフが一際大きく振るわれた。

「うをっ!?」

どういう原理でそのサイズが決まっているのかは知らないが、見る限りでは、振るわれた刃の勢いに比例して、飛来するブーメランのような物体のサイズもまた大きくなっていた。だいたい成人男性が両腕を広げた程度だろうか、今までのものが4,50センチ程度であったことを考えると脅威である。

「畜生、どうなってんだよコイツは」

もしも避けることが叶わなかったのなら、首が飛んでいただろう。膝を折り中腰になることで、危うく凶悪な一撃をやり過ごした。標的を通り過ぎた飛翔物体は勢いを失う事無く突き進む。そして、屋敷の周囲を取り囲む塀を刻んで何処へと消えていった。願うべくは、それが他の人に命中していない事である。

「まったく、あの馬鹿は一体何をやっている」

防戦一方な俺の様子を眺めるエリーゼは、遠目にも分かる不機嫌そうな顔を露にして舌打ちをした。こっちはお前の為に苦労しているというのに、随分な態度である。

だが、実際に現状はエリーゼの表情から読み取れる通りの展開である。

加えて、俺が逃げ回るにつれ、屋敷の庭は段々と荒れてゆく。先週の件もあり、元から多少なりとも荒れていたのだが、しかし、少女が所構わずにぶっ放すブーメランもどきのおかげで、既に見て取れる範囲の外灯や樹木は、ほとんどが切り倒されてしまっていた。他所の心配をする余裕があるのかといえば、それは限りなくNOなのだが、目に入ってきてしまうのだから仕方が無い。

「やはり時期尚早であったか……しかし……」

期待通りの働きを見せない俺に渋い顔をするご主人様は、こちらの様子を眺めながら何やらブツブツと呟いている。少女はエリーゼを巻き込まない為に、それなりに距離を置いて迫ってくるので、ここからでは何を言っているのか聞こえない。

いっそのことエリーゼを盾にして少女に迫ろうか? 効果絶大であるのは間違いない。しかし、ブーメランの軌道が少女の意思によって変えられないのであれば、下手をしたらエリーゼに当たってしまう。魔力が健在な状況にあるならば、それも問題ないのだが、今の状態のアイツでは危険すぎる。

「ああもう畜生っ!」

ここは覚悟を決めて特攻すべきだろうか?

もしも相手の持つ武器に限度使用回数みたいなものが設定されているのなら、こうして逃げ回っていることにも意味があるかもしれない。けれど、これだけ適当に連射している所を見ると、その可能性は低そうである。

…………糞。

足の竦む思いだが、やはり攻めて落とす他に手は無さそうだ。

「いつまでもやられっぱなしだと思うなよっ!」

それまで後ろへ進むだけであった足を前に踏み出す。

「やっと君もその気になったかい?」

少女はナイフを振るう手をそのままに、俺の言葉に応じた。

「やかましい。こんなくだらないこと、とっとと終わりにしてやる」

後進から前進へ一転することで、飛び迫るブーメランの速度は相対的に上昇する。

全力疾走で相手に向う事が叶うのなら、それが一番良いのだが、そんな事をすれば飛び交うブーメランを避けきれなくなって、あっという間に刻まれてしまうだろう。今は少女との間隔を測りながら出来る限りゆっくりと、しかし、確実に距離を詰める必要がある。

だが、攻勢に転じた俺を見て少女の動きにも変化が現れた。

それまでは駆け足で俺を追い回していたのだが、一変してこちらが距離を詰め始めると、逆にある一定の間隔を保持しようと後退を始める。

相手は俺に根負けさせてのギブアップを狙っているのだろうか? そう考えてしまうと、どうしようもなく負けるのが悔しくなってくる。力関係を考えれば明らかなのだが、見下されている感じが堪らない。第一、自ら「かかって来い」と豪語しておきながら、実際に俺が攻めに転じてみれば、途端に防戦にまわるとはどういうことか。これでは先程までの状況と大して変わらない。

暫くの間は追って追われての立場が逆転した追いかけっこが続いた。

なかなか進展しない展開にストレスと焦りを感じながらも、ひた向きに避けては迫って、避けては迫ってを繰り返した。

そんなとき、勝機は偶然訪れた。

身体の正面をこちらに向けたまま、後退を続けていた少女の身体が突如としてバランスを崩したのである。原因はその足元に倒れていた外灯の残骸だった。

「うわっとっ!?」

慌てて体勢を立て直そうとする少女だが、結構な勢いで走り回っていたのだ、それも難しい。そして、これほどの好機を逃すほど俺も馬鹿ではない。足を縺れさせ、今まさに背後へ倒れようとしている少女に向かって全力疾走だった。

何とか体勢を立て直そうとする少女は腕を振り回し、その都度迷惑な飛翔物が四方八方に撒き散らされる。だが、狙いが定まっていないのならば大したことはない。間にあった距離を一気に詰めた俺は少女の懐に入り込む。

そして、多少の躊躇を感じながらも、その腹部に握った拳を走らせた。

この少女が相手では他にギブアップを取る術はないのだろう。それは本人にも言われた事であるし、実力差を考えれば異論を挟む余地は無い。

なので、今度は申し分の無い一撃で攻めに行くことにする。そう何回も殴りたくは無いし、集中力だって消耗してきている。出来るならばこれで終わりにしたかった。

けれど、そこから先の展開は、俺の予想や想像を大きく裏切ったものだった。

「やはり君は、とってもスイィーーートなのだよ」

得意気な顔をしているのは少女である。

「な、なんだよおいっ!」

表情の変化は明らかだった。

「馬鹿者っ!」

エリーゼが叫び声を上げる。

少女が笑みを浮かべた理由は簡単だった。

決まったとばかり思っていた拳は、少女の空いた左手によって難無く受け流されており、その代わりに、バランスを崩していた筈の小さな身体は、いつの間にか体制を立て直している。そして、その手に握られたナイフの柄が今まさに俺の脇腹を横から殴打しようと迫っていた。

もしかして、俺は一杯食わされたのだろうか?

そんな疑問も次に来た衝撃で全てが吹っ飛んだ。

「っ!?」

右から外腹斜筋を強打された。

普通の殴り合いではありえない衝撃を受けて、足が地から離れる。そして、整備された芝生の上を、俺の身体は何一つ反応出来ないまま、十数メートルに渡って滑っていった。

エリーゼの罵倒も耳に遠い。

地の上を転がる身体から、勢いが失われたのはそれから数秒後である。視界は頭が地面とぶつかり合う衝撃によって暗転しており、他の感覚器官も脳味噌が揺さぶられたおかげで混乱気味だった。唯一感じられるのは横っ腹にある激しい痛みだけである。

「ぅぅううう……」

口から漏れる悲鳴がなんと無様なことか。腹を抱えてその場で横になったまま、痛みが引くのを待つしかなかった。

「君は思考が短絡的過ぎるのだよ」

ゆっくりと芝を踏みしめ、歩を進める音が聞こえてきた。

「いくらマリーがハプニングに見舞われているように見えたとしても、あそこまで無防備に近づいてくるのは不用心なのだよ。君はもう少し慎重になる事をオススメするのですよ」

そんなの余計なお世話である。

「う、うるせぇよ……」

まるで銃弾を打ち込まれたかのような痛みに涙を浮かべながら、俺は顔だけを声のする方向へ向ける。

黒く滲む視界の中で、こちらを見下ろす少女の姿がうっすらと確認できた。

「そんなことではマリーに打ち勝つなんて夢のまた夢の更に夢の、夢の夢の夢の夢の以下エンドレスなのだよ」

目前に立つ相手は、また馬鹿なことを口走っている。だが、その言い分は少なからず間違ってはいない気がした。そんな風に思ってしまうのも、今の一発がかなり効いたからだろう。

「……でも、それにしたって随分と卑怯じゃないかよ」

反則染みた飛び道具を使ってみたり、だまし討ちをしてみたり。

「そんなの負け犬の遠吠えなのだよ。勝負のルールにはちゃんと従っているのだし、何ら問題は無いのだよ」

「そりゃまあ……、確かにルールは守ってるかもしれないけど……」

少女のあどけない容姿に騙されていた感があるのは事実だ。まさか此方が手玉に取られるとは思いもしなかった。

「どちらかというと、こんな簡単に引っ掛かってくれる君の将来が不安で堪らないのだよ」

俺の将来にはナイフを持って歳半端な女の子に追いかけれるようなシチュエーションなんて存在しない。余計な心配を勝手にしないで貰いたい。

「ああ、……痛っぅ」

視界が徐々に色を取り戻してゆく。

少女の言うことは尤もだが、それでも、自分がやられたことに納得できないのは、腹部に響く痛みのせいであり、無様にも、こうして地に横たわっている身体のせいである。

「ったく、糞がっ」

最近は災厄続きだ。

段々と引き始めた痛みに思考も冷静さを取り戻していく。

やはり、この辺りが引き際なのだろうか? これだけ圧倒的な力量差を持って地に伏されたのだ。たしかに悔しい事この上ないが、だからこそ、これ以上続けても勝てる見込みが無いのは誰が見ても明らかだ。

「降参かい?」

少女から声がかかる。

段々と角度を落とし始める太陽と、それを背負う少女の長髪が放つ乱反射とが眩しかった。

仕方が無い。

ここは頷いておくのが吉だろう。これ以上粘ったとしても結果は見えているし、先程までの様子を目にしていたのなら、エリーゼも諦めはつくだろう。後で何と言われるかは想像に容易いが、その辺は追々言い訳でも考えるとする。

「…………」

ただ、それを素直に声に出すのは悔しいので、首を小さく縦に振って少女の問いに答えた。

これでようやく昼食にありつける訳だ。厨房に立っていた沙希の後ろ姿を思い出し、腹の虫が鳴る音が聞こえた。

しかし、そんな俺のギブアップに少女は意味不明な言葉を返して答えた。

「君は、今の状況をどう思うかい?」

一体何の話だ?

それは俺がお前に負けて、こうして地に伏せている事を言うのだろうか?

「何の話だ?」

いつまでも横になったままというのは格好がつかないので、腰を起こしてその場に座り込んだ。横っ腹はまだ疼いているが、他は吸血鬼の狂った治癒力のおかげで殆ど元通り、といったところである。

「エリーゼ君の指輪は今のところ有効で、その下僕であり唯一の戦力である君はマリーに敗れて地に伏しているのだよ」

「だからなんだよ?」

「エリーゼ君はずいぶんと君を買っているようだけれど、それが今は仇となったのだよ。むしろ一世一代のピンチとでも言えば分かりやすいのですよ」

無邪気な笑みを浮かべる少女の言葉に軽く血の気が引いた。

「貴様、一体どういうつもりだ?」

不穏な言葉を耳にしてエリーゼがこちらへやってきた。

「マリーはまだエリーゼ君を諦めた訳では無いのだよ。そして、その先を願うとしたら、分かるだろう? この下僕君が非常に大きな障害となるのだよ」

「ならば、どうするというのだ」

答えるエリーゼの表情は、いつにも増して焦っているように見えた。

以前も沙希の親父によって、同じように出所不明な指輪を嵌めさせられて魔力を封じられた事があったが、その時でさえ余裕の笑みを浮かべていたコイツが、今は緊張に頬の肉を張らせていた。

「そんなの決まっているのだよ。道を塞ぐ障害は排除して、然る後に美味しくエリーゼ君を頂くのだよ」

そう言い切った少女は、それでも人懐っこい笑みを浮かべていた。

「キサマッ!」

咆哮を上げて飛び出したのはエリーゼである。

だが、一切の力を封じられて、歳相応の腕力しか持たない今のコイツでは、少女に対抗できる術がない。振るわれた拳はペチッと小気味良い音を立てて、難なく相手の手の平に収まった。

「糞っ!」

少女は手にしていたナイフを脇に挟んで、エリーゼの自由であったもう一方の腕を掴み封じる。それだけで、抵抗らしい抵抗も出来ずに、呆気なく少女の手中に納まってしまった。

「病的とも取れる程に他者の介入を否定していた君が、何故ここへ来て、この下僕君に隣を許すのだい? なぜマリーではダメなのだい? 君に縁があるといえば、マリーを越えて付き合いのある者が他にいるのかい? それともこの下僕君に身を伴って執着するだけの価値があるというのかい?」

その身を引こうにも、両手首を掴まれているエリーゼは、まるで万力で固定されたようにピクリとも動けない。

「やかましい、その様なことを貴様に答える筋合いは無い。いいからこの手を離せ。それに決着は着いたのだ、この指輪をとっとと外せっ!」

「いいや、君にはまだその指輪を嵌めていてもらうのだよ」

押し問答は腕力で勝る少女の勝ちだった。

エリーゼの両腕を背後に回させ、ローブの中から取り出した麻縄で、その手首をきつく縛り上げた。無骨な植物の繊維が遠慮なくその肌にめり込んでいる。

「貴様、私にこのようなことをしておいて、ただで済むと思うなよ?」

今にも噛み付いてきそうな、まるで狭い檻の中で怒り狂う獅子の様な表情だった。

「その時はその時なのだよ。それに、今のマリーの目的は目前の障害を排除することなのですよ」

自らの思い人に縄をかけておいて愛していると叫ぶのだから、その思考は計り知れない。どういう経緯があっての結果なのかは分からないが、エリーゼが宝石の中に封印されていたのも、原因はコイツだというのだから、この状況も納得できない訳ではない。だが、普通に考えれば明らかにおかしい。

「ということで、エリーゼ君はそこで大人しくしていて欲しいのだよ」

そう言って、少女は縄をかけたエリーゼの背中をポンと押した。

「ぐっ!」

見た目は軽く小突いた程度だったが、今のエリーゼには結構な勢いであったらしい。そのまま数歩前に進むと、つんのめる様にして前に倒れた。下は芝生が広がっているので怪我をするようなことは無いだろうが、それでも両手をふさがれた状態では結構な衝撃だろう。

「き、貴様っ!!」

まさか俺と少女の決闘騒ぎで、自らが地を舐める羽目になるとは思いも寄らなかったのだろう。倒れた身体をそのままに顔だけを相手に向けて、屈辱に歪んだ表情で自身を見下げる少女を睨みつけていた。

「さぁ、そういうわけで続きなのだよ下僕君」

エリーゼの罵倒を受け流し、少女は再び手にしたナイフを構える。

「ちなみにルールはここでヴァージョンアップして、君かマリーのどちらがこの世からエスケープするまでサドンデスは終らないぃいいいいっ!」

そして何事も唐突である。

「ッ!?」

台詞も半端に少女は疾走して来た。対して、こっちはまだ地面に腰を落としたままである。これでは不意打ちも良いところだ。

「ちょっ、待てよおいっ!」

慌てて腰を浮かして後ろへ飛びずさる。

見れば、それまで俺が座っていたところには少女が手にしたナイフが深々と突き刺さっていた。どうやら相手は本気で俺を墓の下へ送りたいらしい。

「お前、ルールは守るんじゃなかったのかよっ!」

そんな事を聞いて何になるのかは知らないが、ただ相手に文句を言いたくて自然に口が開いた。

「ふっふん、ルールというのは強者が弱者に布くものなのだよ。ともすれば、この状況にあってルールを発行すべきはマリーに違いなく、そのマリーが発行したルールこそが真のルールなのだよ! というわけで君を即急にデストロォオオオオイ!」

迫り来るブーメランが頭を掠め、髪を数本薙いでいった。

「そ、そんな話があってたまるかよっ!」

「残念ながら、そんな話が今ここに存在してしまうのだよ、これが」

「ほざけっ!」

最早コイツには何を言っても無駄だろう。追いかけっこの再開である。

「ええいっ、止めろ馬鹿者っ!」

エリーゼの吼える声も聞こえては来るが、今は何の意味も無い。

非常に困る展開だった。

俺が少女に敵わないのは先程までのやり合いからして明らかである。けれど、この場には他に少女の相手を出来る奴が居ない。こういう時の頼みの綱であるエリーゼは初っ端からリタイアしてしまっているし、もし、この場に居てくれたら助けてくれるかもしれない沙希は、しかしながら屋敷の中で料理中だ。

「ど、どうすりゃいいんだよ」

それまで同様、迫り来る少女に面を向けたまま、後ろへ後ろへと間隔を求めて逃げる。

「さぁ、いつまで逃げ回っていられるかな。マリーとしては直にでも片してしまいたいのだけれど、なかなか粘ってくれるのですよ」

今までは手加減をされていたのだろうか? 相手の動きは先程と比べて素早く、容赦の無いように感じられる。飛び交うブーメランもどきの数も、明らかに増えているだろう。それでなくても一杯一杯であったのに、ここへ来て殊更危機感が高まってゆく。

「つーか、エリーゼが欲しいんだったら勝手に持ってきゃいいだろ。なんで俺が関係してるんだよ。アイツの様子見てりゃ分かるだろ? お前が思っているようなピンク色の関係なんてこれっぽっちも無いんだよっ!」

足元をすくう様に飛んできたブーメランもどきを飛び上がって避ける。際限なく襲い掛かってくる飛翔物のおかげで学生服は至る所が切り裂かれ、無残にも生地を解れさせていた。上下を揃えるだけで一体幾らかかると思っているのだ、この馬鹿は。

「それは君の主観なのだよ。客観的に見れば、今のエリーゼ君は狂っているとしか思えないのだよ。そして、その狂った挙動の対象には常に君の存在がある。無関係である筈が無いのだよっ!」

「何処をどう見たらそう解釈できるんだよっ!」

足蹴にされた覚えはあっても、愛を語られた記憶なんてあろう筈もない。

「だから、それを今説明したのだよっ!」

追いつ追われつの状況で行われる言葉のキャッチボールは両者共にノーコンだ。

「納得いくかよっ!」

「別に君が納得する必要は無いのですよっ!」

言い争いは一向に平行線を辿りそうだった。

しかし、身体能力の差は顕著である。体力だけを考えたならば、まだついて行くことも可能だが、反射神経や集中力云々を考えたとき、俺の限界はそう遠くないところまで来ていた。

「君がエリーゼ君と出合ってどの程度の時間を共に過ごしたのかは知らないけれど、エリーゼ君に関することだったらマリーだって絶対の自信があるのだよ」

語る少女は、けれど、全く攻めの勢いを弱めずに続ける。

「君が知らない彼女を沢山見てきた筈なのですよ。共に重ねた時間だって君の比じゃ無いのだよ。そう、それは植物の芽吹きも新しい春の麗らかな午後。そう、それは太陽も灼熱に輝く夏の浜辺。そう、それは木枯らしの吹き荒ぶ秋の夜。そう、それは雪が降り積もる冬の……。」

「んなこと俺に言われたって知るかよっ!」

「それが、それがどうしてこういう結末に行き着いちゃったりするのですかっ!? 答えて神様仏様っ!!」

嘆く少女はその瞳に涙を浮かべつつも、一切の遠慮無く襲い掛かってくる。

だが、いくら俺に愚痴られたところで、返す言葉なんて持ち合わせていない。

「それこそ俺じゃなくてエリーゼを問いただせよ」

「で、でも、エリーゼ君はマリーの言葉に聞く耳持ってくれないのだよぉおおおおおっ!」

叫びと連動して幾重にも振るわれるナイフ、ナイフ、ナイフ。

放たれたビッグサイズのブーメランもどきは、まるで此方の逃げ場を奪うように、四方を固めて同時に飛んで来た。全力で地を蹴り、ヘッドスライディングを決める勢いでその場を飛び出した。しかし、避け切れなかった一撃は浅く肘を切り裂く。

飛び散った血液が白いシャツを赤く斑点状に染めた。

「痛っ!」

ブーメランもどきを避けようとして飛び出した勢いと、肌を裂かれた痛みとで、バランスを崩した身体は受身を取る暇も無く芝生の上を転がった。

そして、慌てて立ち上がろうと地に手を着き、顔を上げた次の瞬間には、目前に赤い刃が突きつけられていた。

「王手、エリーゼ君取りなのだよ」

得物を構える少女の手はピタリとその場に静止して1ミリも動かない。

「取っていけるのなら、俺なんかを相手にしていないで、勝手に取っていってくれて構わないんだけどな」

俺は王将を逃がしてやりたいと切に思う。

「それでは根本的な解決にならないのだよ」

鼻先に突きつけられた刃の先端が皮膚に触れる感触と、そこから想像される恐怖が全身を駆け巡った。

「……そうかい、そりゃ残念だ」

見れば少女が手にしているナイフは、サイズこそ違うが、以前、沙希が振るっていたものと、同じようなデザインをしている。あれも刀身が赤色であった。たしか、血を吸って強くなる、とか説明されたことを覚えている。

「…………」

まあ、そんなことはどうでも良い。それよりも、今考えるべきは、この状況にあって俺はどう出るべきかである。

下手に動いて相手を刺激するのは自殺行為だろう。テンションを上げた少女が僅かでも手を動かせば、麗かな昼下がりの庭園にB級ホラーな光景が展開されること間違いない。きっと我慢できる痛みではないだろう。しかし、かといって、このまま何もせず流れに身を任せている訳にもいかない。きっと辿る道は同じである。

「ふふん、そろそろ観念するのだよ」

最後の一手をかけるべく少女が口を開く。

「お、俺としてはもう少し粘りたいところなんだけど……」

「それは遠慮してもらうのだよ」

返事は即答だった。

積極的な解決案が浮かんでこないのは、それだけ今がピンチだからだろう。適当な話題を振って時間を稼ごうと思ったのだが、それもどうやら無理らしい。

「さぁ、覚悟っ!」

ナイフを握る少女の手に力が込められる。

やられる、そう思った。

そんなとき、少女の背後からエリーゼの叫び声が飛んできた。

「貴様等は私の言葉が聞こえないのかっ! 当事者を放っておいて勝手に話を進めるなっ!」

耳を突く怒鳴り声に驚き、視線だけを声のする方へ向けると、こちらへ向かって駆けて来るエリーゼの姿があった。どうやら、少女の攻撃から逃げ回っているうちに、元居た場所から結構離れてしまっていたようである。

「コラッ! 聞いているのかっ!?」

エリーゼの声を耳にして、危ういところで少女の動きが止まった。

少女によって両手首を背面で縛られていたが、見ればそのままの状態で全力疾走だった。途中、危なくバランスを崩して倒れそうになりながらも、俺と少女の居る所までやって来た。

「貴様っ! 先程から、一体何のつもりだっ!」

息を荒くするエリーゼは、しかし、それでも声を荒げ少女に向かっていく。

「この下僕は私のものだ、勝手をするなっ!」

コイツの随分な発言も、今に限っては頼もしく耳に響いた。

だが、それでも少女の勢いを止めるには至らない。歩み寄るエリーゼに、しかし、少女は俺にナイフを突きつけたまま冷静に応じた。

「下僕君の言い分も尤もだし、もう一度だけ聞くのだよ」

「なんだというのだっ!」

走り寄ったエリーゼは少女を睨みつけるようにして仁王立つ。当たり前といえば当たり前だが、随分と興奮している様に見える。そして、その隣には地に伏した俺が座り込んでいる。

「どうして君はこの下僕君に固執するのだい? それだけの価値があると言うのかい?」

それは先ほど俺が少女に返した言葉だろう。こういう状況だからこそ、エリーゼもまた無下にしたりはしないと思う。しかし、だからといって少女に都合の良い答えが返ってくるとは限らないだろう。

「マリーだってそれなりの時間を君と共に過ごしたのだよ。それなのに、どうしてこの下僕君なんだい?」

それは何度か耳にした問いかけである。きっと、少女の頭の中では同性愛も異性愛も大差が無いのだろう。その台詞を聞いていると、段々と俺の意識まで改変されてしまいそうになる。具体的に言えば、少女がエリーゼを求める事に対して、徐々に違和感を持たなくなって来ている。

「まだその様な寝言を吐くか」

エリーゼの態度は依然として冷徹だ。

「だって、エリーゼ君はちゃんとした答えをマリーに教えてくれていないのだよ」

「やかましい、何故私が貴様にその様なことを説明せねばならんのだ」

しかし、俺に結構な危機が迫っているというのに、この態度はどうにかならないものか。もう少し相手のご機嫌取りをしてくれても良いと思うのだが、やはり、それを期待するのは相手が間違っているのだろう。

「それに、貴様の話はそもそもの前提が間違っている。どうして私がこの下僕を特別視しているなどと言えるのだ。下僕は所詮下僕に過ぎないし、それ以上でもそれ以下でもない。切ったら自然に生えてくるトカゲの尻尾のようなものだ」

加えてトドメはトカゲの尻尾扱いである。代えは幾らでも利くと言いたいのだろうか? なんにせよ酷い比喩である。

「だったら、何故そんなに必死になって走ってきたんだい?」

「それは先ほど言っただろうが。コイツは私の物だ。それを勝手に壊してくれようと言うならば、腹を立てるのは当然の事だろうが」

「でも、それだったらマリーの見てきたエリーゼ君は何だったのだい? 孤高を持していた君は幻だったのかい? 幾ら勝手をされて腹が立つとはいえ、下僕を相手にここまで必死になっている君は見たことが無いのだよ。トカゲの尻尾なら潰されたところでまた再生するのを待てばいいじゃないかい」

これで何度目になるのか、エリーゼと顔を合わせるたびに口にしてきた台詞だ。

「…………それは……」

だが、今まで適当に受け流してきた問答に対して、エリーゼは言葉を続けられずに言いよどんだ。

「答えられないのなら、君の今の尻尾はそれだけ大切なのだと受け取るほか無いのだよ」

「や、やかましい、その様な筈があるわけないだろうが」

しかし、それも僅かな間である。返された少女の言葉にエリーゼはすぐに反応した。

「貴様のような奴に、私の物が悪戯されるのを黙ってみていられないだけの話だ。貴様にしたって、自身が作った道具が目の前で壊されんとすれば、それがどんな愚作であれ腹立たしさを感じるであろうが。それが嫌悪を感じる相手ならばなおさらだ。勝手な拡大解釈をするな呆けが」

ここ数週間を一つ屋根の過ごした奴の経験談としては、少女の予期する展開は万が一にもありえないと思う。独占欲の強いコイツの事だ、今の話は耐えない生傷をもって納得できた。

だが、そんなエリーゼの返した言葉が俺に取っては致命的だった。

「となると、その語り様からしてエリーゼ君は、この下僕君に対してそれほど有用性を感じていない、ということで良いのかい?」

「当たり前だ。コイツの存在など有って無い様なものだ。替えなど幾らでも作れる」

毎日の食事を作ってやったり、服を洗濯してやったり、部屋の掃除をしてやったりと、家事一般、生活の面倒をみてやっているのは一体誰だというのだろうか、このクソガキは。

「なら、マリーは一安心なのだよ」

「どういうことだ?」

おもむろに、少女は手にしたナイフを俺の額に定めた。

「とりあえず、当初の宣言通り、この下僕君にトドメを刺させてもらうのだよ」

一体何が楽しいのか、一人にこやかな笑みを浮かべながら、そう口を開いた。

「……貴様、私の話を聞いていたのか?」

エリーゼの大きな蒼色の瞳が相手を射ぬかんと鋭く細められる。しかし、少女はいたって普通で怯む素振りも見せない。それは圧倒的な力差から来る余裕だろう。

「聞いていたのだよ。けど、エリーゼ君も忘れないで貰いたいのだよ。今、この場を制しているのはマリーに他ならないのだよ。エリーゼ君だってマリーの意向を阻害することは出来ないのだよ」

「………貴様」

再び突きつけられた事実にエリーゼは顔をしかめて口を噤んだ。

「というわけで、エリーゼ君には悪いのだけれど、トカゲの尻尾は遠慮なく切らせて貰うのですよ」

刑もいよいよ執行ですか? なんで俺はこんな所でこんな目にあっているのだろうか。正直、泣きたい気分である。

「ついでに言うと、今マリーが握っているナイフはただ衝撃を飛ばすだけが能じゃ無いのだよ」

「いちいち語る奴だな、それがどうしたというのだ」

「まあ聞くのだよ」

そう言って胸を張る少女は楽しそうに説明を始めた。

「このナイフは対象を切りつける際に、刀身に貯められた魔力を付与することが出来る奇抜な一品なのですよ。それも一時的なものでなくて、恒時的に影響を及ぼす仕様になっているから素晴らしい」

「それがどうしたというのだ」

少女を睨みつけたままのエリーゼは、つまらなそうにその先を促した。

「つまり、このナイフが与える魔力が、切りつけられた対象の魔力に勝っているならば、出来た傷は与えられた魔力が霧散して影響力を失うまで治ることが無い、ということなのだよ」

少女の説明はなんだかよく分からない。

「それは私に喧嘩を売っているのか?」

一方のエリーゼは今の説明で納得がいったのか、少女の言葉を耳にして、ただでさえ釣り上がっていた眦の傾斜を更に急にした。

「どういうことだよ?」

仕方なく口を挟んで少女に説明を促す。

「言ってしまえば簡単なことなのだよ。早い話が、たとえ指の先を掠った程度の傷だったとしても、それがこのナイフで出来た傷ならば、吸血鬼の自然治癒も働かずに、その後ずっと痛い思いをし続けなければならない、という仕様なのだよ。無論、それには対象の持つ魔力を超えるだけのものが刀身に貯えられている必要があるのだけれどね」

「だったら初めからそう言ってくれよ」

っていうか、お前、それって随分と酷いんじゃないか? 

「別に喧嘩を売っている訳じゃあないのだけれど、エリーゼ君を牽制するために作ったのは事実なのだよ。とはいえ、流石のマリーもエリーゼ君の出鱈目な魔力を越すような真似は出来ないから、完全に治癒を止める事は不可能なのだけれど、それでも、その回復を遅らせる程度には働いてくれるはずなのだよ」

まるで工作の授業で作った粘土細工を語るかのように淡々と口を開く少女だが、一体何をどう捏ね繰り回せばそんなものが出来上がるのか。

「そして、これがまた思っていたより便利な代物に仕上がってくれて、マリーも思わず狂喜乱舞なのですよ。ついでに保持している魔力を衝撃波としても出せちゃったりする辺りがマルチな感じで堪らないと思わないかい?」

「あのブーメラン機能はついでなのかよっ!?」

思わず聞き返していた。

「そうなのだよ、殆どオマケみたいなものなのだよ。エリーゼ君を相手に想定するなら、こんな機能は何の役にも立たないし、元々は庭の雑草を切り払う為に後付けした機能なのだよ」

「雑草……」

なんとオーバースペックな草刈鎌だろうか。それくらい素直にホームセンターへ買いに行って貰いたい。

「それに、一度に放出する魔力の量は微々たるものだから、使いすぎて本来の用途に不都合を与える事も無いのだよ。どうだい、すばらしいだろう?」

「…………」

少女が口を開くたびに、色々と遣る瀬無い感覚が精神を苛んでくれる。そして、それと同時に、今までそんな危険なものを相手にして逃げ回っていたのだという事実が全身に鳥肌を立てていた。

「ついでに言うと、エリーゼ君が相手だとそれほど効果は期待できないのだけれど、下僕君が相手ならばマリーがコレに貯めた魔力でも相当な期間に渡って被害を与え続けることが可能なのですよ」

少女は妙に生き生きとして説明を続ける。

「あんまり聞きたくないけど、それってどれくらいなんだ?」

厭なものを感じつつ、湧いた疑問に口を開いた。

そして、続く説明を耳にして、聞かなければ良かったと後悔の嵐だった。

「そうだね、向こう10年間は苦しんで貰うのだよ」

「マジかよっ!?」

「見たところ君はまだ新米だろう? だから魔力も低いだろうし、そうなるとこのナイフも効果が高いのだよ」

手の内にあるナイフの柄を撫でながら、純粋無垢な笑顔を浮かべる少女は懇切丁寧に説明してくれた。そのギャップがどうにも恐ろしい。この著しく常識が欠如している様子は狂人の域である。

仮に首でも裂かれた日には、人の目には信じがたい生き地獄を味わう羽目になるのだろうか。生きたまま首が取れて、けれど死ねなくて、そして10年間をのた打ち回るのだ。そんな自分の姿は想像すら難しい。

「とまあ、そういう訳で、文字通りこの下僕君は壊させて貰うのだよ」

それはまるで、近所のスーパーへ買い物へ行く様な気軽さである。しかも了解を取る相手が違うではないか。本人の意向はまるっきり無視である。

「じょ、冗談じゃねぇぞっ!」

何故俺がそんな目に合わなければならないのだ。

「嘘でも冗談でもないのだよ」

「お、おいコラっ! 止めろと言っているのが聞こえないのかっ!? 止めろっ!!」

「聞こえていても止めないのだよ」

迫るエリーゼにも構わず、少女は俺へにじり寄る。既に間合など無いに等しく、赤い刃は目前に迫っていた。

「ちょ、ちょっと待てよっ!」

そうなると、もう何も考えられなくなる。

気づいたときには無謀にも少女に背を向けて、その場から逃げ出さんと飛び出していた。

だが、手が届く所にいる相手を逃すほど少女は甘く無い。踏み出した一歩目の足が地に着く次の瞬間には背中に強烈な一撃を喰らい、草の茂る地面と衝撃的なキスをする羽目になった。

「ぅ゛っ!?」

声にならない低い悲鳴が口から漏れる。口の中に入ってきた土が舌の上を転がり不快だったが、それも続いてやって来た痛みに比べれば些細なものであった。

身体を大きく揺さぶる振動が、脳に響く低音を伴ってズンと身体を貫いた。

「ぅ……ぅうううあああああああああああああああああああああああああっ!」

痺れる様な激痛に声を上げる他なかった。

「あああ! ああああああああっ! あああああああああああああっ!」

自分の身体に一体何が起きたのか。

身体を転がし仰向けになって、痛む下半身へと視線を向けた。

すると、そこにあったのは膝から下の無くなった右足と、周囲一帯を赤く染める血の池だった。

「う、うあ、あ、あああ」

先程の説明と相まって、全身から血の気が引く思いだった。足を切られた痛みもさることながら、それが向こう10年間に渡って治らないという事実は恐怖以外の何物でもなかった。

だが、そうして怯える俺の心情を見透かしたのか、隣に立った少女はおっとりと口を開いた。

「残念ながら、その傷は刃の衝撃で切り裂いた傷だからすぐに治るのだよ」

言葉を受けて下半身に目を向けてみると、確かに、早速と傷口からは白い煙が立ち上がり始めていた。

「大人しくしていて貰えないと、狙いが外れちゃったりするかもしれないだろ? だから、とりあえず足を一本頂いたのだよ。驚いたかもしれないけれど、本番はまだまだこれからなのだよ」

「お、お前……鬼だな…………」

歯を食いしばって痛みに耐えながら言葉を返す。

「エリーゼ君を得る為だったら、マリーは鬼であろうと悪魔であろうと、何に成る事も厭わないのだよ」

随分と傍迷惑な台詞もあったものだ。おかげで俺はこんな状態にあるのだ。

「……糞が」

痛くて堪らない。

今にも泣き出してしまいそうだった。

「おい、もう止めろっ! コイツを壊したところで貴様には何の益にもならないだろうが。それでも続けるというのならば私だって黙っていないぞっ!」

「何を言っているんだい。マリーにとっての一番の障害が取り払われるのだよ? それの何処が無利益だというのだい。第一、今のエリーゼ君に出来る事なんて高が知れているのだよ」

「やかましいっ! 止めろと言ったら止めるんだっ!」

「それは出来ない相談なのだよ」

「私は相談しているのではない、命令しているのだっ!」

「どっちでも同じなのだよ」

俺と少女の間に割って入ったエリーゼが少女と口喧嘩を始める。

だが、実際の能力差からして口先でのやり取りが意味を持つはずも無い。その場で踏ん張り意見を押し通そうとするエリーゼだったが、相手を押しのけるようにして前に出た少女には敵わなかった。

「コ、コラッ! 止めろと言っているだろうがっ!!」

「エリーゼ君は隣で眺めているのだよ」

焦り喚くエリーゼに対して少女は涼しい顔で答え、その腕を大きく振り上げる。

「次はキッチリと心臓を狙ってあげるのだよ」

1メートル程度しかない身長の少女がやけに大きく見えるのは、地に伏した俺を、相手が上から見下しているからだろう。これでは逃げることも敵わない。

「血液の循環が行えなくなった体はすぐに壊死するのだよ。そして身体は末端から段々と腐っていく。けれど、吸血鬼な君は死ぬ事も出来ずにそのまま発酵を続け、ウジを全身に這いずらせながら、10年という時間を永らえるのだよ。どうだい? 正直、こうして今後の予定を口にしているマリーでさえ身震いしてしまうグロテスク加減なのですよ」

だったらそんなこと言わないで貰いたい。

口を開けば、そのまま泣き叫んでしまいそうだった

少女の隣には、依然として抗議の声を上げているエリーゼがいるが、相手は気にする素振りさえ見せようとはしない。

まさか俺は本当にやられてしまうのか?

そんなの冗談でないっ!

「や、やめろよっ!」

少女の口にした言葉が段々と現実味を帯びて襲い掛かってきた。

「さぁ、生き地獄へ旅立つのだよ」

「糞っ、やめろっ、やめろよ馬鹿野郎っ!」

足の痛みも然ることながら、その後に待つ恐怖に全身をのたうち回して暴れる。失われていない両腕と左足を必死にバタつかせる。背中を地面につけたまま這うようにして、少女から距離を取ろうと必死で足掻いた。

「君がこうなることは決闘を受けた時点で決定していたのだよ。大人しく運命を受け入れて朽ちると良いのだよ」

何が受け入れた時点で決定していた、だろうか。拒否権も無く無理やり付き合わされた、の間違いだ。

「つ、掴むんじゃねぇよっ! 離しやがれっ!」

「狙いが外れたら大変だろう? 大人しくするのだよ」

少女は暴れまわる俺の左腕を空いた手で押さえつけ、同時に下腹部に跨って、その上に座り込んだ。身体にかかる重さはそれほどでもないが、例によって規格外の馬鹿力を存分に発揮する少女が相手では、マウントポジションを奪われてしまった時点で、既に逃れる事は不可能である。

「おいっ! こんなことをしたところで私の考えは変わらないのだぞっ!? それを理解しているのか貴様はっ!」

そんな俺のピンチを目にして、エリーゼは相手へ掴みかかる勢いで声を上げる。だが、それも僅かな問答で少女の言葉に言いくるめられてしまう。

「当然なのだよ。さっき教えてもらった通り、エリーゼ君がこの下僕君に、トカゲの尻尾程度の価値しか見い出していないのは、十分に理解しているのだよ。だから、君の考えが変わらない内は、別にマリーがこの下僕君を壊してしまったところで大した問題は無いし、エリーゼ君だってそこまで困る事は無い筈なのだよ。違うかい?」

少女の言っている事は確かに辻褄があっている。

「だ、だが……、だからと言って、私の物を勝手に壊してくれるのは許せんっ! それは先程も言っただろうがっ!」

「それだったら、君の物を壊してしまった償いを、君が納得するまで十分に行うのだよ。なんだったら今マリーが使っているこのナイフをプレゼントしても良いのだよ」

「貴様はそんなことで私が納得すると思うのか?」

「でも、少なくともトカゲの尻尾なんかよりは、断然役に立つ筈なのだよ。損得勘定の得意なエリーゼ君なら、どちらが有用かなんて簡単に判断がつくだろう?」

「し、しかし、それはそうかもしれないが……、けれど、だからといって貴様が私の物を壊すという行為が許せる訳ではないのだっ!」

「期間にして10年なのだよ。それくらいだったら良いだろう?」

「時間の問題じゃ無いっ!」

「君が生きて来た時間に比べれば些細なものじゃないかい。それだけの我慢で破格の交渉が成立するのだよ?」

「やかましいっ! 貴様の言う事なんぞ聞く耳を持つかっ!」

「だったらいいのだよ。マリーも自分が考えるように行動するのですよ」

「っ!」

そして交渉は決裂であった。

もう少し粘ってくれよエリーゼ。

目の前に迫った恐怖に、そんな軽口も叩けない。

「というわけで、延びに延びてしまった執行なのだけれど、次こそ確実に遂行させて貰うのだよ」

「しなくていい、しなくていいから止めろよっ!」

切断された足の痛みをも忘れる勢いで首を横に振る。

「駄目なのだよ。さぁ、サクッと行くのですよ」

大きく振り上げられるナイフ。

狙いは心臓。

この状況で俺が助かる選択肢なんて存在するんだろうか。

いや、皆無だろう。

「っ!」

いざ振り下ろされんとする刃は陽光を反射して赤褐色に瞬く。俺はその先に待っているであろう光景に耐え切れず、自らの眼をきつく閉じた。

「……………っ」

この距離で相手が狙いを外すなんて有り得ない。次に来るのは先程の衝撃に勝るとも劣らない身を裂くような激痛だろう。そう考えるだけで無意識のうちに身を震わせていた。

しかし、想像していた衝撃とは違い、次いで俺の身体に与えられたのは、何か質量のあるものが勢い良く圧し掛かってきたような、そんな腹部への圧迫感であった。

「っ!?」

想定外の感覚に驚いて瞼を上げる。

すると、目の前には思いも寄らぬ光景があった。

そこには胸に突き刺ささるナイフなど無く、仰向けに横たわった俺の身体の上に、覆いかぶさるようにして倒れこんだエリーゼの身体があった。今の軽い衝撃はコイツが原因だろう。俺と少女の間に出来た僅かな隙間に滑り込むようにして入っていた。俺の身体と少女の身体とで、丁度サンドイッチにしたような状態である。

「お、おい……」

ただ、エリーゼがこうしている理由が分からなかった。

それに、少女のナイフはどうなったのだ? 

「おいっ! なんなんだよっ! 大丈夫かよっ!?」

もしかして庇われたのだろうか?

だとすれば、この状況に至る理由や原因はどうあれ、コイツが無事で済まないのは確かだった。しかし、刃物で刺されたにしてはおかしなことに、周囲には血の一滴も見当たらない。それどころか、硬く閉じられていた瞳は俺の問いかけに応じて、何の苦も無く開かれた。

「あ……」

思わず間の抜けた声を上げてしまう。

「…………やかましい、いちいち騒ぐな」

そう答えると、身体を横たえたまま顔だけを動かし、少女を顎で指してみせる。

エリーゼにばかり気を取られて他に目がいっていなかった。そこで初めて周囲の様子に意識を向けてみると、少女の手にしたナイフはエリーゼの背に突き刺さる一歩手前で制止していた。

どうやら危機一髪の所で助かったらしい。

よかった。

そう心の中で大きく安堵の息をついた。

ただ疑問なのは、日頃から、これでもかというほど見下していた相手に対して、どういうわけか献身的な行動に出たエリーゼである。他人を庇うなどコイツには最も縁遠いアビリティだろう。況してや先程の状況は自らの命すら危うかった。もしかしたら自分の魔力が失われている事実を忘れていたのではないのだろうか。

「やはり、エリーゼ君は嘘をついていたのだよ」

俺とエリーゼの視線を受けて少女が口を開いた。

「……何の話だ?」

答えるエリーゼの声は普段より冷たく耳に響いた。

少女は押さえ込んでいた俺の手足を解放して立ち上がる。そして、エリーゼの背に今まさに突き刺さらんとしていたナイフを退けると、もとあったローブの中へ仕舞い込んだ。

「お、おい……こんどは何だよ」

刃を止めたのはエリーゼが飛び出してきたからなのだろう。しかし、だからといって少女が身を引く理由にはならない。何故ナイフを仕舞うのだろうか? 全く先の見えない展開に疑問は残る。

「これは一つの賭けだったのですよ」

相手は先程までの高揚した口調から変わって、落ち着きを取り戻した様子だ。

「はぁ?」

それまでの戦意は何処へ行ってしまったのか。立ち上がった少女は、地に横たわったままの俺とエリーゼに向けて、やけに淡々とした口調で話し始めた。

「下僕君には少々痛い思いをさせてしまったのだけれど、雰囲気はかなり出ていたと思わないかい?」

「…………」

少女が退いたのを受けて、エリーゼもまた身体を起こし立ち上がる。俺と少女の間へ滑り込んできた際に出来たのだろう。多少膝に擦り傷が見受けられたが、他にはそれと言って外傷も見当たらない。

「もしも、エリーゼ君が何もしないで下僕君が壊される様を傍観していたのなら、マリーは気味の言葉を信じようと思ったのだよ。それだったら多少なりとも希望は持てるし、マリーだって君を諦めたくはないのだから」

「…………」

「けど、やっぱり君は嘘をついていたのだよ」

「……何が嘘だというのだ」

少女の何かを独白していくような物言いに、エリーゼは普段のそれよりも低くドスの利いた声で短く答える。やはり怒っているのだろうか? ただ、それにしては些か勢いが足りない気がする。

「だって、君は言っただろう? この下僕君は所詮トカゲの尻尾に過ぎないのだと。それが、どうして自分の身体を張ってまで助けようと言うのだい? 明らかに矛盾しているのだよ」

「…………」

少女の言い分は尤もだった。

その辺は色々と疑問が尽きない。ただ、エリーゼだって何も考えずに飛び込んでくるほど馬鹿ではないし、むしろコイツはかなり計算高い性格をしていると思う。ならば、何かしらの理由があってのことだろう。ただ、俺自身にその理由があるかというと、甚だ疑問を感じる。

「先に言っておくけれど、尻尾の切り方を忘れてしまったとは言わせないのだよ?」

「フンッ、何を寝ぼけたことを。私が間に入れば貴様が手を引くと考えただけのこと。それを勝手に下らない解釈でまとめるな」

「本当にそうなのかい?」

少女のエリーゼへの惚れ方からして、それは間違いないだろう。だが、それでアッサリと引き下がるほど少女も素直ではなかった。でなければ、決闘などと物申して人の足を叩き切ったりはしないだろう。

「確かに、君が目の前に飛び込んで来たのなら、マリーは十中八九その手を引くのだよ」

一度は頷いてみせる少女は、しかし、そこからすぐに反論へ転じる。

「けど、君が下僕の為にそこまで危険な賭けに出るのは絶対におかしいのだよ。今まで君が下僕を相手にして、そこまでの行為に至ったことがあったかい?」

少女は真剣な眼差しを向けて問う。

「前例など問題では無い。結果的に二人とも助かったのだ。現在の私が置かれた状況と、貴様との戦力差を考えれば、こんな下僕でも居ないよりはマシだろうが。それに、貴様が手を止めるという確証はあったのだ。ならばおかしな事など何も無いだろう。最善の策をとったまでのことだ」

今のエリーゼは少女の指輪で魔力を封じられた状態にある。沙希の親父とのことで、それがコイツにとって結構なストレスであることは理解している。加えて目の前に居る相手は、一度は自分を石ころの中に詰め込んでくれた相手なのだ。ならば、手の届くところに番犬を置いておきたがるのも頷ける。

「でも、仮にマリーが手を止めると予期していたとしても、勢いの付いたナイフが止まらなかったらどうするんだい? それだけは運とタイミング次第なのだよ。確実に寸止めできる保障なんて無いのだよ」

それは尤もだった。

「君だったらそれぐらい容易に理解できるだろう?」

簡単そうに見えて難しいのが、寸止めが格闘技において一つの技として認可されている所以である。一部空手などでは競技者に寸止めを義務付けている場合も有るが、有段者でさえその間隔を見誤り、相手に怪我をさせてしまうことがあらしい。それが、自分の視覚外から唐突に現れた対象に対して行うとなれば、難度は計り知れない。

「…………だが、実際にはこうして止まったではないか」

少女がそれを繰り返すように、エリーゼも同様に何が何でも相手の言葉を否定しようとする。しかし、多少の間を持って口にしたその反論には論拠が大きく欠けていた。

「それは元々、寸前で止める予定だったのだから当然の結果なのだよ」

加えて、続けざまに少女の口から明かされたのは予想外の事実だった。

「なんだと?」

髪と同じ色をした細く形の良い眉が釣りあがる。

「事後報告になってしまうのだけれど、マリーは初めからこの下僕君を壊すつもりなんて無かったのだよ。この決闘にしても狙ったシチュエーションを作る為の舞台に過ぎなかったのですよ」

少女は此方へチラリと目配せをしてそう言った。ちなみに、俺はそんな話など微塵も聞いていないし、聞かされていたとしても絶対に協力などしていなかっただろう。

「言っておくけど、俺は加担してないからな?」

「ああ、そのようなこと先程の貴様の震え具合を見ていれば理解できる」

一応、自己弁解の為に申し出てみたが、呆気なく一言で片付けられてしまった。しかし、俺はそんなに震えていたのだろうか? そう言われるとかなり恥ずかしい。

「貴様は私を騙したのか?」

エリーゼは少女に向き直り、一層強い口調で問いただした。

「その辺はすまないと思っているのだよ。けど、他に確かめようが無かったのだよ。君には何を言っても否定されてしまうし、下僕君は下僕君で何の興味も持って無いようだし、マリーも色々と悩んだのですよ」

「…………」

「だから、エリーゼ君をこういった状況に追い込んで、その反応を見ようと思った次第なのですよ。そうでもしないと君の本音は得られないと判断したのだよ」

「………くだらん。手の込んだ芝居だな」

エリーゼの意見には全面的に同意だった。そのおかげで余波をもろに喰らった俺は随分と酷い目にあったものである。まさか、それだけの為に人の足を切り飛ばすか? やはりコイツは狂人だ。

「くだらなくなんて無いのだよ。この実験の結果にマリーは全てを賭けていたのだよ。まさに一世一代の大勝負だったのですよ」

「それがくだらないと言うのだ。実験ならば巣に帰って一人でやれ」

少女とエリーゼはいたって真面目に受け答えを続ける。こいつ等にとっては俺の膝下での出来事など取るに足らない日常のワンシーンだとでもいうのだろうか。

ちなみに足の傷は、例によって吸血鬼の治癒が働いたおかげで痛みも徐々に引いてきている。ただ、切断された末端部はそのままで、足りない膝下が新しくニョキニョキと生えてくる素振りは無い。治癒が途中である事を示す白っぽい煙だけは未だに上がっているが、一体どういう規則でこの身体は治癒されているのだろうか。ちゃんと元通りになってくれるのか、後でエリーゼに聞かなければならない。

「もしも、あの場面で君が飛び出してこなかったのなら、マリーにもまだ少しは希望があると思ったのだよ。そして、それを切に願っていたのだよ。だってこんなにも君の事を愛しているのだから」

感傷に浸っているのだろうか? 意味も無く空を眺めながら少女は話を続ける。

「だとしたら、それはそれは残念だったな」

全く残念そうに無い口調で相槌を打つエリーゼ。

午後4時を回っても夏の太陽は依然として現役で、地上に立つ者の肌を汗ばませてくれる。これが冬至の前後だったのなら、そろそろ夕日の射す頃合だろうか。

「そうなのだね。君は見事に飛び出して来てくれたのだよ」

挑発的な言葉を投げかけるエリーゼに対して、少女はそれまでのテンションを何処かへ忘れてきてしまったかのような落ち着いた声で答えた。こんな馬鹿でも失恋のショックは人並みに感じているのだろうか。

「今の君は歳相応の人間と大差ない身体能力しか持っていないのだよ?」

これ以上何を語ろうというのか、少女は話題を変えて口上を続ける。

「だから何だと言うのだ。そのようなこと、貴様に指摘されるまでもない」

怒気を含んだ声色でエリーゼが答えた。

「こんなナイフでも、刺されれば一発で死んでしまうのだよ?」

少女は懐から先ほどのナイフを取り出してみせる。刀身は赤く、刃幅は30センチ程ある。こうして落ち着いてみると、刀身には銀色の線が縦に一本入っていた。

「いちいち回りくどい奴だな。言いたいことがあるのならばとっとと話せ」

同じ話題の堂々巡りにエリーゼの顔が渋り始める。

「エリーゼ君はさっき、自分の置かれた状況から下僕君の重要性を説明してくれたね」

「……それがどうしたというのだ」

苛立ちを積もらせながら、不満を露にして少女の問いに答える。

「考えてみて欲しいのだよ。仮に下僕君が壊れてしまったとしても、君が死ぬ事は無いのだよ? マリーが君を前にしてその手を止めると予期できるのなら、それぐらい理解できるだろう? それなのに、君はもしかしたら死んでしまうかもしれない危険を犯してまでも、下僕君を助けようとしたのだよ?」

まるで、教え子に勉強を教える教師のような丁寧な口調で少女は説明をする。

「…………」

「それに、この下僕君にしたって死ぬわけじゃないのだよ。10年くらい床に伏すだけで、時間が過ぎれば元通りなのだよ。これは、君が命を賭けるには不釣合い過ぎないかい?」

それまでのエリーゼの物言いは尤もだった。しかし、今のこの少女の言葉もまた、確かに頷ける。どちらが正しいかといえば、それは本人のみぞ知る、といったところだが、少女の言うことも、こうして話を聞く限りでは間違っていない気がする

まあ、どちらが正しかろうと、俺にとってはどうでも良いことだ。

「エリーゼ君が何と言おうと、今のでマリーの結論は出てしまったのだよ。別に本人にそれを強制するわけじゃないのだけれど、何か一つ、ケジメみたいなものが欲しかったのだよ」

「…………くだらん」

「エリーゼ君にとっては下らないことかもしれないけれど、マリーにとっては非常に大切な事なのだよ」

そして、そこまでを口にして、少女はおもむろにエリーゼへと近づいた。

「っ!」

咄嗟に身を引いて構えを取るエリーゼだが、身体能力の差は顕著で、何の苦労も無くその手首を取られてしまう。

「別に取って食べようってわけじゃないのだよ。その指輪を外さなければならないだろう? それにマリーの指輪も外してもらわなければならないし」

少女の指がエリーゼの左手に付けられていた指輪に触れる。

「いいのか? 今この場でコレを外したら、私は貴様に何をするかわからんぞ?」

その台詞の後に待っていた処遇は沙希の親父が身をもって教えてくれた。あのときの光景は、出来る事なら今後一生思い出したくない。付き合いが長いと豪語するだけあって、少女もそれは理解しているのだろう。頬に一滴、冷や汗が伝うのが見えた。

「だ、だったらマリーは君に一つ提案を出すのだよ」

流石のコイツも魔力の戻ったエリーゼを相手にするのは厳しいに違いない。実際のところ、少女とエリーゼのどちらがどれだけ勝っているのかは想像の域を出ないが、その様子からして、この少女が対峙したとしても、応じるエリーゼの凶悪性はかなりのものなのだろう。

「……言ってみろ」

少女にとっては、この取引が今日一番の難所に違いない。エリーゼの言葉を受けて、おずおずと言葉を口にした。

「もし、この場を見逃してくれるのなら、今後マリーは君に付きまとわないこと誓うのだよ」

少女の意外な言葉を受けて、エリーゼの眉が小さくピクンと跳ねた。

「なんだと? それは本当なのだろうな?」

少女の提案は、エリーゼがこの決闘などという下らない催しに賛同するに至った動機そのものである。それが成されるというのなら、コイツとしては万々歳だろう。

「ほ、本当なのだよ」

あからさまに訝しげな表情で聞き返すエリーゼに、少女は慌てて体裁を取り繕う。お互いの手を握り合ったまま、二人は会話を続ける。

「本当は悔しくて堪らないのだけれど、でも、さっきの光景を見てしまったのなら、マリーも君を諦めざるを得ないのだよ。あのエリーゼ君が身を挺して他人を守ろうなんて、そんな光景をまさか、マリー以外の者を対象にして見る羽目になるとは思っても見なかったのだよ」

問いに答えるその様子は少し湿った雰囲気を纏っていた。

「だ、誰がこのような奴の為に身を挺するというのだ」

「別に、君がそう思いたくないのならそれでもいいのだよ。ただ、マリーは客観的な事実を述べているだけなのだよ」

「それが虚実だというのだっ!」

「虚実かどうかはエリーゼ君自身が今後理解すれば良いのだし、この場で言及するのは避けておくのだよ」

「言及するも何も全てが貴様の勝手な妄想だろうがっ。付き合ってられんな」

魔力が下がると口上の程度も下がるのだろうか。途端に声を荒げ始めたエリーゼは、いつもに比べると幼稚な感じがしないでもない。

「それで、マリーは見逃してもらえるのかい?」

「っ!」

今回の流れは全てが少女の敷いたレールの上を動いてきている。俺達がいいように扱われているのも気のせいではないだろう。こんな馬鹿の手の上で踊らされていたというのも腹立たしい。というか、俺に限っては本気で危なかった。

「……だ、駄目かい?」

エリーゼは睨みつけるようにジッと相手を凝視している。少女はそれに応じ、相手からの反応を静かに待った。

ややあって、納得したのだろうか、それとも妥協したのだろうか、ゆっくりと首を縦に振った。

「フンッ、いいだろう」

「本当かい?」

「今更貴様と張り合ったところで何のメリットも無い、見逃してやるから何処へでも行け。それで今後付きまとわれる事が無くなるのなら安いものだ」

相変わらず偉そうな物言いだった。

「おぉ、ありがとうなのだよ」

それに少女は満面の笑みを浮かべて答えた。

「ただし、この約束が守られなかったときにはそれ相応の目に合ってもらうからな?」

「わ、分かっているのだよ。マリーは約束を絶対に守るのだよ」

さて、これで話は纏まったと考えてよいのだろうか?

再びお互いの指輪を交換して、少女はエリーゼから受け取った小さな宝玉の乗る指輪を懐へと仕舞いこんだ。嬉しいのやら悲しいのやら複雑な気分だが、これで我がご主人様の馬鹿力も元通りと相成った訳である。

「それと、その、都合上仕方が無かったとはいえ、下僕君にはすまないことをしてしまったのだよ。謝るのだよ」

自身の指輪をエリーゼに外して貰い、元あった懐へと仕舞いこんだ少女はおずおずと此方に向き直り、ゆっくりと口を開いた。

しかし、幾ら謝られたからといって、これは素直に頷けるような仕打ちではない。

「だ、だったら初めからするなよなっ」

気づけば反射的に怒鳴り返していた。少女のやりたかったことは理解できるが、関係ない奴まで巻き込むのはどうかと思う。おかげで俺は被害甚大だ。

「でも、他に打つ手が無かったのだよ」

というか、そもそもエリーゼを相手に何かしようというのが間違っている。触らぬ神に祟り無し、とは良く出来たことわざだと思わないか? 少女は静々と進言してくるが、だからと言って素直に頷けるほど俺もお人よしではない。

「普通、そういう時は諦めるんだよ、クソ痛いぞこれ、わかってんのか?」

足の痛みは吸血鬼の治癒力云々で大分収まってきているが、積もり積もった鬱憤はどうにもならない。

「も、申し訳ない……」

やり合っていたときの勢いは何処へ行ってしまったのやら、途端にしゅんとなって今にも泣き出しそうな表情を浮かべていた。その容貌と相まって、まるで俺が悪者であるような錯覚に陥りそうになる。

「つーか、元に戻るんだろうな? これ」

そうでなければ本気で泣いてしまう。

「その辺は多分大丈夫だと思うのだよ。君は新米とは言え吸血鬼なのだから、切断面を固定して暫く待てば元通りくっ付いてくれる筈なのだよ」

「そうか、まあ、ならいいけど……」

まるでパーツの折れたプラモデルの修理方法だった。遠く離れてしまった庭の一角に目を向けると、そこには依然として切り飛ばされたまま放置されている俺の左足が転がっている。随分とシュールな光景だった。

……っていうか足を切られたのだ、全然良くなんて無い!

「お、おいっ! 足切られたんだぞ!? 良いわけないだろっ!」

気づいた勢いをそのままに、思わず声を荒げて怒鳴っていた。危うく少女のペースに流されて今の状況を受け入れてしまうところであった。

「だ、だからちゃんと謝っているのだよ。申し訳なかったのだよ」

相手は申し訳なさそうな顔をして頭を下げる。エリーゼに比べれば態度が明らかなので、思わず許しそうになってしまうのは、俺がここ一週間程に渡ってろくな目に合っていないからだ。エリーゼとのギャップが非常に新鮮だった。アイツと暮らしていればどんな歪んだ性格の奴でも無理やり従順に矯正させられてしまうに違いない。

「口先で謝られたって嬉しくもなんともねぇよっ!」

いくら治る事が分かったとは言え、切り飛ばされたときの痛みを考えれば、素直に頷くのは無理な話である。とんでもなく痛かったのだ。

「けど、そういわれても既に過ぎてしまったことはどうにもなら無いのだよ。その辺はマリーも悪かったと思っているし、追々そのお詫びを送らせて頂くのだよ」

「何がお詫びだよ、人の足を切り落としておいて詫びも糞もあるかよっ!」

収まりきらない憤りを露にして少女の挑む。相手に敵意が無いと分かった途端に態度を豹変させるのだから、俺もかなり現金な奴かもしれない。とはいえ、行われた仕打ちを考えればそれも当然だと思いたい。

「その、なんと言葉にすれば良いのか分からないのだけれど、本当に申し訳なかったのだよ」

他に答える言葉もなく、俺の罵倒に少女は頭を下げて謝り続ける。

第一、足は切断されてからそれなりに時間が経っているが、何の処置もせずに放置しておいた部位が無事にくっ付いてくれるのか? それに傷口から砂やバイ菌が入ったらどうするといのだろう? 色々と疑問は積もるばかりだ。

不安が積もれば忘れかけていた憤怒も段々と鎌首を擡げ始める。俺が口を尖らせ、それに少女が頭を下げる、という不毛なやり取りが、延々繰り返されようとしていた。だが、そんな少女との終わりの見えないやり取りを耳に、腹を空かせたエリーゼが大人しく待っている筈も無い。痺れを切らせて口を挟んでくるのには、そう時間はかからなかった。

「ええい、やかましいっ! 貴様も懐の狭い男だな、過ぎた事をウダウダと愚痴っているでない。足の一本や二本で騒ぎ立てるな馬鹿が」

耳の奥まで良く響く澄んだソプラノが鼓膜を大きく振るわせた。

「足の一本や二本ってお前な、俺にとっちゃ一大事だ呆けっ!」

「はんっ、その程度の怪我で何が一大事だ」

「一大事に決まってるだろうが。俺をお前等と一緒にするんじゃねぇよっ!」

なぜこうも、こいつ等は一般常識が大きく欠如しているのか。エリーゼの言葉にしても、決して誇張や嘘で口にしているのではあるまい。馬鹿な話だが、こいつらは本当にこの怪我が大した事でないと思っているらしい。それはここ最近のやり取りで理解した。出鱈目な治癒能力があるからこその台詞だとは思うが、それでも痛いのに変わりは無い。文字通り、一体どういう神経をしているのか、甚だ疑問である。

「やかましい。下僕は黙って主人の命に従っていれば良いのだ。私が頷いたのだから貴様も黙って首を振れ。出なければ残った左足もこの場で吹き飛ばしてくれるぞ?」

魔力が戻ってテンションも上昇しているのだろう。有無を言わさぬ勢いのエリーゼに、仕方が無い、今ここは大人しく下がるほか無いようである。こんな状態で下手に逆らって手を加えられた日には逃げることも叶わない。

今日は厄日だ。

「…………糞が、勝手にしろよボケ」

「当たり前だ」

エリーゼとのやり取りは毎度の事ながら俺の負けで終る。ストレスが堪ることこの上ない。何よりも脅しに屈したという事実が頭に来る。

「それじゃあ、この度のマリーの行いは、主従両者共に見逃してもらえるという事で、許しを得たことにしてもいいのかい?」

エリーゼという免罪符に続いておずおずと少女が口を開く。

「そうだ。だから早く私の前から失せろ。そして二度とその姿を現すんじゃない。いいな?」

「え、ええっ!? 二度と現れちゃいけないのかい!? 確かに君の事は諦めると約束したけれど、恋人以上友達未満のエクセレントな関係はそのままであって欲しいのですよっ!」

「それ以上無駄口を叩くというのなら、今すぐにこの場でくびり殺すぞ?」

「ぅ……」

水を得た魚とは、まさに今のエリーゼを指すに相応しいことわざである。場の支配権を得て、懇願する少女を一喝のもと黙らせる。その瞳は爛々と力に満ち輝いていた。

「理解したならばとっとと去れ」

「わ、分かったのだよ……」

しゅんと肩を落として少女は頷いた。

「名残惜しくはあるけれど、マリーはこれで去るとするのですよ」

「いちいち宣言などしなくていい。さっさと消えろ」

エリーゼは家で俺を苛めるときのように、口の端を歪めて厭らしい笑みを作る。その対象が今は少女である事がせめてもの救いだった。

「うぅ……君は最後の最後まで酷いのだよ」

「やかましい。でなければ私が消すぞ?」

少女に向けて上げられた腕に青白い光が纏う。それはオーロラのように柔らかい光を滲ませながらエリーゼの腕を中心として回る。見た目は綺麗だが、それに触れるとどうなるのかは、俺も良く理解していた。そして、それは少女も同様であったのだろう。目の前の光景を目にして素直に頷いた

「わ、分かったのだよ。分かったからその物騒なものは引っ込めて欲しいのだよ。邪魔者はすぐに消えるのだよ」

「何が邪魔者だ、人のことを散々つけまわしておいてよく言うわ。こうして無事に巣へ帰してやるだけでも感謝しろ」

慌てて後ずさる少女の姿に満足したのか、それでエリーゼの腕は元の位置に戻った。

「けど、今回の決闘で指輪を嵌めてくれたのは、多少なりともマリーの事を信用してくれていたからだろう? それだけは感激だったのですよ」

「フンッ、馬鹿が。寝言は寝て言えっ」

「それがせめてもの救いだったと思っておくのだよ」

少女はゆっくりと屋敷の門へと向って歩き出す。

俺とエリーゼは段々と小さくなるその背を黙って見つめていた。本土を直撃した台風が、今ようやく弱い熱帯性低気圧に変化して太平洋沖へと去っていく。まったく、被害は床上浸水の比じゃない。

暫く進んだ後、捻じ曲がった門の鉄格子をくぐったあたりで少女が此方を振り返った。

「そうだ、一つ言い忘れたのだよ」

まだ何か語ることがあるらしい。俺とエリーゼは黙って少女の言葉に耳を傾けた。

「君は下僕君の事をトカゲの尻尾だと比喩していたけれど、トカゲの中には切り離した自身の尻尾の再生に体力を奪われて、そのまま死んでしまうような種もいたりすることを知っていたかい?」

それは唐突な薀蓄話だった。

「…………それがどうした」

「たとえば、この国に広く分布しているニホンカナヘビなんかがそうなのだけれど、まあ、つまりはトカゲの尻尾切りとは言っても、それはかなりリスクを伴う行為であったりするのだよ」

「貴様は何が言いたいのだ?」

返すエリーゼの声色に若干の怒気が含まれていた。

「ふふん、別に、特に意味は無いのだよ。ただ、ふと思い出しただけのことなのですよ。それじゃあ、バイバイなのだよっ!」

そして、言いたい事だけ矢継ぎ早に口にして、少女は門の外へと駆け足で消えていった。

「…………」

「…………」

後に残ったのは俺とエリーゼと、そして、なんとも形容し難い微妙な雰囲気だった。

少女によって引っ掻き回された一日は、一片として俺の意思が反映される事無く進み、そして、勝手にその幕を閉ざして終った。気づいてみれば、いつの間にか日は落ちていた。後に残ったのは、まさに台風が通り過ぎた後にある妙な開放感と虚脱感である。

そして、その後。

足の怪我を治し、腹の虫を鳴らすエリーゼと共に沙希の用意した料理を食べて、家に帰ったのが午後7時。明日も試験はあるというのに俺も随分と余裕のあることで、ほとほと疲れ切った身体を休ませたのは夜の10時を過ぎてすぐのことだった。勉強は明日の朝に早く起きてやるとしよう。そんな言い訳に身を任せて、俺は今日という日に別れを告げたのだった。