金髪ロリツンデレラノベ 第三巻

第一話

意識が戻ったのは、気を失ってから30分程が経過してからのことであった。

「先程は血液を口にした直後であったから、欲求も強力だったんだ。今がそうであるように、吸血行為を終えてしばらくすれば、感情の高ぶりも少しは落ち着くだろう。どうだ? 多少はマシになってやいまいか?」

そして、そんな重要な説明を、寝惚け眼の朦朧とした思考にぶつけられた。

「な、なんだよ、それ……」

確かに、血液に対する固執は依然として感じるが、それでも、倒れる前に感じていたような、居ても立ってもいられない、という程のものではない。我慢すればなんとかなる、といった具合だ。まったく、はじめからそう言われていれば、あの時も最後の一歩を踏み止まれた自信がある。人の苦しむ姿を眺めて悦に入るとは、なんて趣味の悪い奴だろう。

若干のふらつきを感じながらも、ソファーに横たえられていた体を起こして立ち上がった。足元に頼り無い感じが多少は残ってはいるが、流石は吸血鬼の治癒能力である。相当な量の血液を抜き取られたというのに、この僅かな時間で歩けるまでに回復している。

「まあ、これに懲りたのならより一層の精進を肝に銘じるんだな。私としては何度襲って来られても一向に構わないが、だが、そのときは、それ相応のリスクを覚悟しておけよ?」

「………誰がお前なんか襲うかよ」

「そうなのか? ふん、つまらん奴だな」

「当たり前だっ」

誰が自ら進んで恥を晒すものか。俺はそう短く吐き捨てて、相手から顔を逸らした。コイツが来てからというもの、一日平均10回以上に渡って、何某かの理由によってからかわれているような気がする。おかげで最近は、その相手をするのにも多少の慣れを感じてきていたのだけれど、それにしても、今回の件は頭に来た。

憤慨している様を露に、視線を掛け時計に向ける。すると、時刻は既に11時30分を回っていた。朝起きてから全く何もしていない上に、その間の半分を寝て過ごした末のランチタイムとは、流石は夏休みといったところか。凄まじい怠け具合である。

俺が向ける視線の先に気づいたのか、エリーゼが空腹を訴えてきた。

「そろそろ昼食の時間だな。間抜けな顔をしてないで、さっさと準備に取り掛かれ」

「うるせぇな、お前に言われなくたってやるよ」

人間とは不思議なもので、朝起きてから何もせずに、ソファーへ体を横たえて、ごろごろと怠惰な時間を謳歌していたにもかかわらず、何故か腹だけは空いているのである。他の哺乳類が1週間から、種族によっては数月に渡って、一切の食事を口にしない状態での生存に耐えることが可能であるというのに、それに比べて人間とは、なんと脆い作りをしているのだろうか。これも農耕動物としての繁栄を極めてしまった事に対する退化なのだろう。

はぁ、と大きなため息をついて、俺は小姑に命令されるがままにキッチンへと足を進めた。

しかし、そこで更なる問題が発生した。

冷蔵庫の中には、玉葱しか発見できなかったのだ。加えて、冷凍庫の中には氷しか入っていない。更に、普段ならば存在する買い置きされたカップラーメンの類は、昨日の昼に食事を作るのが面倒だという理由で食い尽くしてしまっていた。

「マジかよ」

パタンと冷蔵庫の扉を閉じ、その場で静かにうな垂れた。

買い物へ行かなければなるまい。

しかし、今から買い物に行っていたのでは、食事を始める頃には午後1時を回ってしまう。エリーゼを我慢させるにはギリギリの時間帯である。渋い顔をされるのは間違いないだろう。それに、俺としてもそれなりに腹が減っている。あまり食事の時間を遅らせたくはない。

「…………」

そこで、頭にはひとつの選択肢が浮かんだ。

これも良い機会だし、エリーゼを21世紀における人類の社会システムに触れさせてみてはどうだろうか? この家に出入りするようになってから2週間程が経つが、一緒に連れ立って外を歩いたことは一度もない。というのも、出会いが6月の末日であり、それから今日に至るまでの間にあっては、日本の夏における高温多湿の気候を嫌ったエリーゼが、家の外へ出たがらなかったからだ。だが、いつまでも家の中でゲームばかりやらせておくのも良くない。多少の面倒事は覚悟の上で、ここはひとつ、外で健康的に遊ばせるべきだろう。

うんうん、と一人静かに頷いて、キッチンからリビングにとんぼ返りである。

「なんだ? まさか、もう食事の用意が出来たのか?」

水音のひとつも立てないで戻ってきた俺を目の当たりにして、エリーゼからそんな声が上がった。

「いや、それが飯を作るにも材料が無いんだ」

「なんだと? ならば昼食はどうするんだ」

「それなんだけどさ、今日はこれから外へ食べに行かないか?」

さり気ない切り出しに、しかし、エリーゼは思いっきり嫌そうな顔をして答えた。

「このクソ暑い炎天下にあって家の外へ出るのか? 冗談も休み休みに言え」

「けど、このまま家に居ても飯は無いぞ?」

別に外で出向かずとも、出前を頼めば額に汗することなく食事を取ることは可能だが、その辺に関しては先程の件もある。わざわざ口にして説明する必要もあるまい。案の定、世間に疎いエリーゼは、俺の言葉を受けて額にしわを寄せた。

「それにしたって、別に私が外へ行く必要はあるまい。お前が材料を買ってきて、家で調理すればよいだけのことだろう?」

「でも、今から食事の支度をしても、買い物に行って帰ってきてからじゃあ、準備するだけで1時間以上かかるぞ? それまでの間をおとなしく待っていられるか? 箸を付けるのは1時を回ってからになるぞ?」

「ぐっ……」

コイツもそれなりに腹が減っている様で、その説得は効果抜群であった。カタカナのハの字を思わせる眉毛の傾きを目の当たりにして、俺は心の中で小さくガッツポーズを作った。相手の意見を尊重するならば、調理済みのお惣菜や弁当等を俺が買いに行けば良いだけの話だが、そんな提案もわざわざしてやることはしない。

「それに、外へ出るって言っても、飲食店内はエアコンが効いてるから涼しいぞ」

「……そうなのか?」

「ああ」

答えた俺の顔をジロジロと眺めていたエリーゼではあるが、空腹に負けたのだろう。しばらくして視線を逸らすと、静かに頷いて答えた。

「わかった、行く」

思いのほか簡単に説得できたのは行幸である。

「じゃあ、店が混まないうちに着けるよう、直ぐに出よう」

何よりも、エリーゼの気分が変わる前に家を出たい。

まだ、若干足取りの重い背中を押して、エアコンの効いたリビングを出る。廊下に出た途端に、茹だるほどの熱気が全身へまとわりついて来るが、その辺はでかい口をたたいた手前、我慢である。隣を見れば、そこには俺と同様、熱に歪んだ顔がある。

「準備はいいか?」

「ああ、別に準備をするだけの物も無い」

ワンピース姿の自らを眺めて言う。

言われてみればたしかに、この家にはエリーゼの私物といえるような物が何一つ無い。今回は良い機会かもしれない。食事を終えたら、その足で近くの雑貨店や洋服店を回ってみようか。

「んじゃ、行くか」

ズボンのポケットに財布で出来た膨らみがあることを確認して玄関の扉を開ける。外界はリビングを出たときとは比べ物にならない熱気と湿度を伴って、俺とエリーゼを迎えてくれた。

さて、とりあえず、まずはエリーゼの脆い堪忍袋の緒が切れないうちに、エアコンの効いた飲食店の店内へ向かうとしよう。一路バイクを走らせて、小売店舗の並ぶ地元の商店街へと向かった。

街の商店街は、この暑い日中にありながらも買い物を楽しむ人々によって雑多に賑わっていた。アーケードの内部は直射日光が当たらない分、外よりは幾分か涼しく、また、冷房の良く効いた店舗の前を歩いた時などは、その強烈な冷気に心地よさを感じることもある。だが、流石にアーケード内部を完全に冷やすことなどは出来ない訳で、額には汗の雫が浮かんでいたりする。

それにしても、こうして共に外へ出てみて改めて感じるに至ったのだが、エリーゼという存在はこの日本にあって想像以上に人目を引いた。タンデムシートに乗っけて車道を移動している間はそれほど気にならなかった人目も、連れ立って歩いてみると、嫌というほどに感じられた。近くを通り過ぎる者達の9割以上が振り返る。中には携帯電話を取り出し、その場で何の断りも無く写真を取っていく者の姿もあった。だが、一方のエリーゼはといえば、そんな周囲の者達の行為などは眼中に無いのか、平然とした顔で歩いている。

「ところで、これから何処へ行くんだ? もう食事は済ませたんだ、家に帰るんじゃないのか?」

「ん、ああ。ちょっと寄り道して行こうと思って」

家を出る際に思い立った計画を実行すべく、昼食を駅前のイタ飯屋で取った後に、バイクを駅地下の駐輪場に止めたまま、その足で商店街を回ることにしたのである。幸いにしてこの辺りは活気もあり、様々な店舗が数多く立ち並んでいる。買い物をするにしても、それなりに楽しめるだろう。

「寄り道ならば一人でしろ。私はこれ以上暑い所に居たくないんだ。家に帰ってゲームの続きをする」

しかし、そんな俺の目論見など知る由も無く、エリーゼは進行方向を真逆に変えて、元来た道を戻ろうとする。

「ちょ、ちょっと待ってくれよ。此処へはお前の買い物をしに来たんだから」

それを腕を掴んで止め、慌てて説明を加えた。別にエリーゼが伴わずとも、俺が一人で買いに行っても良いのかもしれないが、それでは意味が無い。どうせ買うなら、エリーゼの好きなものを買ってあげたいと思う。

「私の買い物だと?」

「そうだよ」

すると、歩みを止めて此方を振り返ってくれた。

「家を出る時にも言ってたけど、お前ってなにも物を持って無いだろ? 自室にだって私物は何一つ見当たらないし、思い浮かぶのは例の水着みたいな服だけだし。だから、ここで何か買っていかないか?」

「……一体どういう風の吹き回しだ?」

だが、そんな些細な心遣いに対して、エリーゼは疑心暗鬼な眼差しを向けて、眉を訝しげに曲げて応じた。とはいえ、普段から言葉を交わせばその都度お互いに罵り合っている間柄である。こうしてお互いに無駄口を叩き合うこととなるのは仕方の無いことのようにも思えた。

「べ、別に他意は無いぞ。ただ、なんとなくそう思っただけだよ」

「言っておくが、幾ら諂ったところで血はやらんぞ?」

「だから、そんな下心なんか無いって言ってんだろ」

「本当か?」

「本当だって」

これまでの経緯を考えれば、そう疑ってしまうのも仕方の無いことのように思える。けれど、この件に関しては、今説明したとおり、一切の他心無しの発案である。そこは信じて貰いたかったかった。

「やっぱり、嫌か?」

とはいえ、本当に嫌だと言うのなら、無理に連れ回すのも気が引ける。相手の機嫌を伺うように、その顔を覗き込んで返事を待った。

「…………」

俺は何故に、エリーゼの為にここまでしているのか。夏休みに入る前の自分ならば、そのような疑問の一つや二つは当然の様に沸いて持っただろう。だが、今では特に深く考えることもなく、自然に誘いの言葉を口にして、買い物を共にしようと言えるのだから、慣れというのは不思議である。

「まあ、それほどお前が私に物を贈りたいというのならば付き合ってやる」

そして、こういった突拍子の無い偉そうな発言も、慣れてしまえばどうということも無い。子供の見栄張りのようなものだろう。もしくは照れ隠しなのかもしれない。いずれにせよ可愛いものだ。

「しかし、血が目的で無いとすれば、一体どういう風の吹き回しだ?」

それは俺とエリーゼの間柄であれば当然の疑問だろう。

「どういうって言われても困るけど……、なんだろ、なんとなくの思いつき?」

「どうにも煮えきらん態度だな」

俺の態度を不信に思ったのか、ジト目で見つめてくる。

「いや、まあ、なんていうか……、さっきも言ったと思うけど、お前の部屋が殺風景なの思い出したからだよ。お前って私物とか一切無いだろ? だから、せめて部屋に人形の一つでも飾ったらどうかと思うんだよ」

エリーゼの部屋は、元は俺の母親が使っていたもので、広さ8畳の洋室である。母親は転居の際に、大型の家具を除いて身の回りの物の殆どを移住先へ持っていってしまった。なので、今はベッドと本棚、それに小さな机を除いて他には何も無く、室内の様子は酷く殺風景だ。ちなみに、本棚には一冊の蔵書も無く、それが部屋の空虚感を更に引き立てている。

「私の部屋が殺風景だと何か困る事でもあるのか?」

「別に困ることは無いけど、でも、なんか嫌だろ、気分的に」

人が寝起きしている場所に生活感が無いというのは、それだけで不安を感じるものだ。

「私には分からん感覚だな」

こういった感覚は本人には自覚できないのかもしれない。

「まあいい、そうと決めたのならば突っ立っていても仕方が無い。行くぞ」

「ああ」

もっと渋られるかとも思ったが、存外素直に乗り気になってくれてよかった。

先陣を切って歩き出したエリーゼに続いた。

商店街は夏休みということもあり非常に活気付いていた。

これは共に店舗の軒先を歩いていて気づいたことだが、エリーゼは服やアクセサリーといった装飾品の類にはそれほど興味を示さず、むしろ、アイスクリームやクレープといったお菓子の類を好んで求めていた。てっきり辛党だとばかり思っていたのだが、かなりの甘党であったらしい。これも新たな発見である。

その後、アーケードの端の一角で見つけた一軒の雑貨屋へ入ることとなったのは、そういった過程でコイツの食欲を満たしてからのことだった。

「いらっしゃいませー」

自動ドアを抜けて店内へ入ると、女性店員の穏やかな声が聞こえてきた。店には俺達のほかに客の姿は無く、BGMとして流れている一昔前に流行ったポップスが、もの静かに響いていた。商店街には中学校へ入った頃から頻繁に足を運んでいるが、この店に入ったのは俺も始めてである。

雑貨屋ということで、扱っている商品は多岐に渡り、本棚やクッションといった小型の家具から、置物や玩具、食器具に至るまで、様々な物品が、薄暗い照明の店内に所狭しと並べられていた。

「なんか色々と置いてあるな」

「食品は扱っていないようだが、この雑多な感じは万屋のようなものか……」

「万屋?」

「今で言うデパートやスーパーとやらをそのまま小さくしたような店だ」

「ああ、何でも屋ってことか」

「短絡的に言えばその通りだ」

ファンタジーなRPGゲームには良く出てくる単語だが、それが実際に何を示しているのかは知らなかった。そういった意味があったことを、このとき初めて理解した。

店の敷居を跨いでからしばらく、俺とエリーゼは至る所に並べられた店の品々に視線を巡らせながら、商品やそれを載せている棚の類に囲まれた狭い通路を、ゆっくりと奥に向かって進んでいった。

「結構凝ってるんだな……」

「そうだな、悪くない」

「外から見た感じだと、もっと狭い店かと思ったけど以外に広いし」

店は入り口から見て縦に長い作りとなっている。照明が少なく薄暗い店内や、所狭しと並べられた印象的な商品の数々とも相まって、奥へ進めば進むほど、それらによって作られる独創的な雰囲気は、店内を外のアーケード街とは別に切り離された、また一つの異なった空間として場を表現していた。

「雑貨屋ってだけあって、本当に色々あるな」

ふとエリーゼが立ち止まった。それに合わせて俺もまた歩みを止める。なんとなく、すぐ手前にあった棚に目を向けると、そこには年の小さな女の子が喜んで手に取りそうな、可愛らしい像の姿を模ったマグカップが置いてあった。長い鼻が丸められ、カップの取っ手となっている。

「ふむ………」

溢れかえる雑多な商品の数々に囲まれながら、エリーゼは店内のあちらこちらに視線を巡らせて、唸ったり、頷いたりしている。どうやら購入物品の選別に随分と真剣に悩んでいるようである。

「別に、俺の財布が耐えられる範囲内でなら、幾つ買ってもいいからな」

そう言葉を加えると、驚いたような顔をして顔を振り向かせた。どうやら少し勘違いをしていたらしい。というか、その勘違いはむしろ此方が驚きである。俺が想像するエリーゼは、欲しいものがあれば無理やり財布を奪い取ってでも、自らが欲するだけ好きなように買い込む、そんな悪女である。

「そうなのか?」

「そうだぞ?」

「な、ならばそういうことは先に言っておけ」

「いや、お前の事だから言うまでも無いと思ってたんだけどな」

エリーゼは少し恥ずかしそうな表情を作り、それから、小さく非難の言葉を口にした上で、嬉々として商品を手に取りはじめた。

「だったら、これはどうだ? なかなか良いだろう?」

両手に持って掲げてみせるのは、漫画本程度の大きさのガラスで作られた置時計である。ローマ数字として刻まれた時刻を、同様にガラス製の黒い色をした秒針が、カツカツと音を立てて指し示している。秒針及び分針、時針は共に、ガラスの筐体の中に封印されており、その概観はブロック状のガラスの塊だ。四方は面取りをされて多少の丸みを帯びているものの、殆ど直方体そのままの形をしている。

「なるほど、そういうのがお前の趣味なのか」

「悪いか?」

「いや、今までこういう会話をしたこと無かったから、少し新鮮な感じがしてさ」

現状では殺風景なエリーゼの部屋だ。何を置いたとしても、その後のレイアウト次第でどうとでもなるだろう。かなり特徴的な置時計だが、時計自体は俺もシンプルで悪くないデザインだと思う。購入するというならば賛成だ。

「いいんじゃないか?」

四角い時計の四方八方から秒針を眺めつつ、投げかけられた言葉に頷いてみせる。

横から値札を除き見てみると、そこには4900円という表記がされていた。こういう雑貨屋では思いも寄らぬ商品が、目玉の飛び出るような価格を持している場合があるので注意が必要だが、これなら支払い額としても現実的な範囲である。

「よし、とりあえずこれを一つとして、他の物を見て回るぞ」

「ああ、好きなようにしてくれ」

これと決めた商品を、とりあえずそこに置いたままにして、エリーゼは再び店内の徘徊を始めた。無論、俺もその後ろをついて回る。店には他に客も居ないし、置いておいても買われてしまう確率は低いだろう。

思い至った初めは多少の抵抗もあったが、こうして一緒に買い物をして回るというのも、なかなか、悪くないかもしれない。何よりも、相手の趣味が分かるというのは大きいと思う。これをきっかけにお互いのことを知ることができたのなら、もう少しは良好な交友関係を築けるのではないか、などと勝手な想像を膨らませてしまった。

それから、2,30分ほどの時間をかけて、ゆっくりと店内を見て回った。店舗には上階が存在し、その全てを見て回るには結構な時間がかかった。とはいえ、店に並んでいる商品は個性に富んだ物が多く、それらを眺めているだけでも十分に楽しいもので、暇を持て余すような事は無かった。

そして、そろそろエリーゼの作る購入物品のリストが、俺の財布に収められた額を越えようとしたところで、その旨を伝え、レジへ向かうこととなった。別に全てをこの店で購入せずとも、他の店を見て回ってみるのも良いのではないかと説明したが、今日はこの店で購入するのだと決めたエリーゼは、支払い可能な額の全てをこの店舗で使い切ることとなった。本人曰く、別の店での買い物は次の機会に取っておくのだそうだ。

だが、購入を決めた商品の回収に向かおうとしたその矢先、前を歩いていたエリーゼの歩みが唐突に止まった。それに気づくのが遅れた俺は、歩いている勢いをそのままに、その背にぶつかってしまった。

「な、なんだよいきなり立ち止まったりして」

とはいえ、それで押し潰されたり、転んだりするほど柔な奴では無い。その辺は良く知った間柄であるので、気遣いの声を掛けることなく、相手の両肩に手を置いて、連れの視線の向かう先に自分も意識を向けた。

「…………」

だが、数多くの商品がお互いを隠しあうように並んでいる店内にあっては、視線の向かう対象を特定するのは非常に困難である。何を見ているのかはサッパリであった。

「何かあったのか?」

後ろから声を掛ける。だが、それが耳に届いていないのか、エリーゼは何の反応も返さないまま、目の前の棚から一つの商品を手に取った。

「ペンダント?」

それは薄ら汚れた緑色の石によって飾られた、質素な作りのペンダントであった。装飾はシンプル、というか皆無に等しく、五百円玉程度の大きさを持つ緑色の石に、鉛筆の芯ほどの小さな穴が開けられており、そこに錆付いた銀色のチェーンが掛けられただけある。ペンダントというには非常に簡素な作りの品であった。

けれど、エリーゼはそれを一目見止めてから、微動だにせずに立ち竦んでいる。目の前のペンダントに対して、何か思うところでもあるのだろうか。その姿には妙な迫力が感じられた。

「おい……」

そして、もう一度声を掛けようと口を開いたとき、急にこちらを振り向くと、

「なぁ、今までの物はいらないから、代わりにこれを買ってくれ雅之」

そう懇願するようにして、手にしたペンダントを見せてきた。手の内で光る緑色の宝石を見るエリーゼの目の色が、それまでとは明らかに違って見えた。おかげで、俺は値札に示された額を確認する間もなく反射的に頷いていた。

「別にいいけど……」

いわゆる掘り出し物というものなのだろうか。

「本当か?」

「ああ、構わないけど、いきなりどうしたんだ?」

覗き込むようにして商品に付けられた値札を確認する。すると、エリーゼによって掲げられたペンダントは、その安いっぽい概観と同様に示された額も1980円と非常に安価であった。

「本当にそれだけでいいのか? そんなに高い物じゃないし、別に今まで決めていた物だって買ってもいいんだぞ?」

「いや、今日はこれだけで十分だ」

だが、そういって聞かせてみても、エリーゼは首を横に振って此方の言葉に頷くことはなかった。そのペンダントはそこまで良い物なのか。こういった古物の類に関する知識に疎い俺には意図が全く理解できない。

「まさか、このような場所でコイツに巡り合うことになろうとは、夢にも思わなかったぞ。これはお前の気まぐれに感謝しなければならないようだな。一応だが、礼を言っておくとするか」

「はぁ?」

口調からして、どうやらエリーゼはこのペンダントの存在を知っていたらしい。

しかし、エリーゼはここ300年に渡って宝石の中に封印されていた筈だろう。ともすれば、このペンダントは相当な年代物ということになる。それがこんな小さな雑貨屋の店頭で1980円という値を付けられているのだから、世の中とは良く分からないものである。

「まあいいや、それじゃあレジに行くか」

「ああ」

色々と疑問は尽きないが、コイツがこれだけ強く求めている品が目の前にあるのだ、とりあえず精算を済ませてしまうとしよう。それに、多少でもエリーゼに縁があるということは、それだけで厄災の元凶とも成りえるということだ。下手に突いて藪から蛇を誘うのも馬鹿げている。

先導する俺の後を追って、弾むような声を上げるエリーゼは、とても嬉しそうであった。まあ、喜んでくれたのならばそれで良い。そう考えて、特にペンダントに関しては突っ込まずに、商品の会計を済ませた。

店員のありがとうございました、という声を背に受けて雑貨屋から外へ出ると、時刻は既に3時を回っていた。随分と長居をしてしまったようである。通りは相変わらずの賑わいで、昼時に比べて、更に人口密度が増加しているように感じる。

「どこか店に入って休まないか? ずっと立ったままでいて疲れただろ?」

自分の足が棒になりつつあったこともあり、そんな提案をしてみる。

「ほぉ、お前にしては良い心遣いじゃないか」

「うるせぇよ」

嬉しそうにペンダントの入った紙袋を握り締めるエリーゼを尻目に、軽口を叩き合いながら、雑貨屋からアーケード街のメインストリートを挟んで、その反対側にあった小さな喫茶店へ向かう。特にコレと言って自分の物を買ったわけでは無いが、エリーゼに何か買わせる、という目標を達成したので俺も満足だった。

そんな時である。

その鮮烈な叫び声が耳に飛び込んできたのは。

「み、見つけましたわっ! エリーゼ・フォン・マルファッティィイイイッ!!!」

エリーゼのフルネームを叫ぶ声は、通りを横断しようとする俺達の左方から聞こえてきた。方角的にはアーケードの北側であり、この辺に住む人々の一般呼称としては、そちらの方面にJRの駅が存在することから、単に「駅方面」と呼ばれている側である。

アーケード街の喧騒の中にありながら、ハッキリと耳に届いたその声の持ち主は、俺とエリーゼが立つ位置から見て駅方面に居た。買い物を楽しむ客達を押しのけながら、こちらに向かい凄まじい勢いで走って来ている。その勢いは50メートルを3秒とかからずに駆け抜けてしまいそうな程である。

「な、なんだっ!?」

声を聞いて振り向いた次の瞬間には、その者はあっという間に両者の間にあった距離を詰めて、俺達の元まで駆け寄っていた。そして、こともあろうか、駆けてきた勢いをそのままに、エリーゼの顔を目掛けて拳を振り下ろしたのである。

「っ!?」

だが、その一連の光景を目の当たりにして声を上げたのは、門外漢であった俺のみである。これほど刹那的な出来事に対して、エリーゼは一切うろたえることなく、突き出した左腕を水平に上げ、迫ってきた者の額に紫電を打ち込んでいた。目にも見えない早業とはまさにこのことである。

バチッっという強電回路がショートしたときのような、電流の爆ぜる衝撃音が周囲に響いた。その音にあわせて、エリーゼに向かい迫ってきた者は、それまでの加速度ベクトルを正反対に修正され、背後に向かって勢い良く吹っ飛んで行った。距離にして十数メートルだ。もしも、普通の人間が今の軌道修正を体験したのならば、体は前後からの強大な圧力に耐えきれず、全身の骨という骨が粉々に砕けていたことだろう。

「お、おいおい……、いきなりなんだよ」

しかし、その者はエリーゼの一撃を受けてなお、空中で体を半回転捻り自らの足でアスファルトの上に着地してみせた。額には大きな青痣が出来ているあたり、無傷で、という訳では無さそうだが、それでも俺からすれば大したものであった。もし自分が同じ目に遭っていたのならば、きっと路上に倒れ伏していたことだろう。ちなみに、その額の青痣も僅かな間を置いて白煙と共にすぐに治癒される。どうやら、相手は普通の人間ではないらしい。

「誰だ貴様は」

つまらなそうな表情を作って、エリーゼは自らに拳を向けてきた者へ視線を向ける。

周囲を行きかっていた人々も足を止めて、今この場で起きた騒動に目を奪われていた。二人の間を幾十もの視線が行き来している。ただでさえ人目を引くエリーゼなのだ。そうでなくとも目立つのに、このような目立つ振る舞いをしては、周囲の意識を集めない筈が無い。

「な、なんですってっ!? 私の名前を忘れたって言うのですかっ!」

大声を上げて叫ぶ強襲者は、エリーゼより頭一つ分だけ背丈の高い少女であった。年の頃合を考えるならば、おおよそ小学生の高学年くらいだろうか。顔にはまだ幼さを残しており、胸の膨らみもあまり伺えない。眦のつり上がった気の強そうな顔作りは、先程の大胆な行動の裏づけをしているかのようにも感じられる。

「名前だと?」

その少女に関して何よりも気になったのは、中世ヨーロッパの貴族令嬢よろしく、時代錯誤にも程があると言いたくなる程の、見事な縦ロールにセットされた艶のある赤い長髪である。今まで生きてきた人生の中でも、このような奇抜な髪型の女性は見たことが無い。非常に特徴的であった。しかし、衣服に関しては腿の辺りでカットされた丈の短い短パンと、胸の辺りに英字のプリントされた白いTシャツという、非常にシンプルな夏の出で立ちをしており、その奇抜な髪型とは不釣合いなことこの上ない。首から上は大富豪のお嬢様だが、首から下は夏休みを満喫する庶民のそれだ。一度目にしたら、なかなか忘れる事の難しそうな出で立ちである。

「そう、名前ですわっ!」

会話の流れからして、少女はエリーゼの知り合いのようだ。だが、語りかけられた等の本人は、彼女の問いに続けられる言葉が思い浮かばないらしく、顎に指を当てて悩んでいる。この間のホームレス少女といい、コイツには変な知り合いばかりいるようだ。

「ま、まさか……、本当に忘れてしまっているんですのっ!?」

「ああ、ちょっとまて、もしかしたら思い出せるかもしれん」

どうやら少女は本気で怒っている様である。吐く息も荒く、血走った目でエリーゼの姿を睨みつけている。しかし、そうなると彼女の怒りは、最低でもエリーゼが封印された300年前から延々と続いていることになる。もしかしたら人違いなのではないか、そんな考えも浮かんだ。だが、先程はエリーゼの名前を大声で呼んでいたし、その線は薄いと思われる。

「駄目だ、やはり思い出せん」

そして、怒りの矛先を向けられていた本人でさえも、散々悩んだ末に、その理解から匙を投げた。まあ、出会い分かれて数百年のスパンがあるのだし、それも仕方の無いことなんかもしれない。とはいえ、当の少女はエリーゼの対応を良しとはしなかった。

「こ、このぉ……、私がどれだけの思いをして、この数百年を生きてきたと思ってるのですかっ! 貴方だけは絶対に許しませんわっ!!」

少女はエリーゼの一挙一動に反応して徐々に怒りのボルテージを上昇させていく。

「いちいち叫ぶな、五月蝿い奴だな……」

「当たり前ですわっ! 今この場で決着をつけて差し上げますっ!!」

ということで、俺には何がなんだか分からないのだが、エリーゼと少女による協議は一切の結果を出すに至らず破綻し、次いで武力対決による衝突が発生する運びと相成った。

しかも、この人目の多いアーケード街を舞台にしてである。

「お、おい、エリーゼ」

流石に、この場で喧嘩をされては俺の立場が無い。もしかしたらご近所さんが見ていたりするかもしれない。そうなっては、今後、この町での生活に多大な支障をきたすことになる。

「いいだろう。最近は家に篭ってばかりで鬱憤が溜まっていたところだ。気晴らしついでに相手をしてやる」

だが、困った事に当の本人は至ってやる気満々だった。

お互いに見つめあう二人は、客観的に眺めている分には子供が喧嘩をしているようにしか見えない。しかし、その内に秘めた反則的な身体能力は俺が間に入ったところで止められるようなものではない。下手をすれば死んでしまう。

「ちょっと待てよ、まさかこの場でやりあうつもりかっ!?」

だが、争いは始まってしまった。

俺が上げた非難の声を皮切りにして、二人は同時に駆け出した。その間にあった十数メートルの距離は一瞬で無になる。先手を仕掛けたのは、エリーゼに名前を忘れられた赤髪の縦ロールな少女である。

「朽ちなさいっ!」

自分の頭ほどの高さから振り下ろされた手刀で目前の何も無い宙をなぎ払う。それに応じて少女の手からは、まるで、そこに火炎放射器が取り付けられているかの様に、壮大な炎が吹き出てきた。炎は少女を囲うように地面から3メートルほどの高さにまで吹き上げ、その勢力を広げて標的を飲み込まんと迫る。だが、エリーゼはそれに構う事無く、駆ける足に迷いの一つも見せずに、少女目掛けて突っ込んでいった。炎の中にその小さな身体が消える。

それを目の当たりにした周囲の者達から悲鳴や叫びが上がる。それはそうだろう。赤髪の少女が放った炎は、そこから数メートルの距離を置いて立つ俺の頬さえ、チリチリと焦がしていたのだ。そこにある熱気は目の前の炎が紛い物などでは無く、見た目相応の熱量を伴った本物である事を示唆していた。

とはいえ、それに挑むはエリーゼである。躊躇せずに突っ込んでいったところから察するに、それ相応の自信があってのことだろう。まさか、こんがりウェルダンに焼けて帰って来るような失態は見せまい。

「ぁうっ!」

そして、炎の中にエリーゼが消えてから間を置かずして、すぐに悲鳴が聞こえてきた。一体そこでは何が起きているのだろうか。多くの人々が見守る中で、赤髪の少女が放った炎が風に流されて、ゆっくりと霧散してゆく。

「なんだ、口の割には大した事無かったな」

炎が消えた後に立っていたのはエリーゼだけであった。無論、身体には掠り傷一つ無い。足元には地に膝を着いて悔しそうにエリーゼを睨みつけている赤髪の少女の姿がある。どうやら、この僅かな時間で雌雄を決したらしい。

「くぅ……」

少女は歯を食いしばり、まるで親の敵を見つめるような眼差しをエリーゼに向けている。右手はわき腹をTシャツの上から押さえ、時折苦しそうな呻きを漏らす。その姿は思わず駆け寄ってしまいそうになる儚さが感じられた。

「理由は知らないが、お前は私のことが憎いのだろう? 少しは頑張って見せたらどうだ? いくらなんでもこれで終わりは無いだろう」

対して俺のご主人様は、そんな少女を頭上から見下しながら、ニヤリと人の悪そうな笑みを浮かべてご満悦の様子だ。間違いなく少女を虐めて楽しんでいる。どちらが悪者だ、と聞かれたのなら、この場に居る全員がコイツを指差すことだろう。

「こ、このぉ……」

憎々しげに声を震わせて少女が立ち上がった。エリーゼに与えられたダメージによって、身体は頼りなさ気にフラフラと揺れている。

「貴方だけは絶対に許しませんわっ!」

「口先だけなら何とでも言える。ほら、さっさと掛かって来るがいい」

「当然ですわっ!」

これ以上争ったところで結末は見えている。しかし、赤髪の少女は諦めようとはしなかった。何がそこまで彼女を必死にさせているのかサッパリ分からない。ただ、そろそろエリーゼを止めるべき頃合だというのは理解できた。このままでは周囲の者達まで巻き込みかねない。

「おい、エリーゼ。なんだか知らないけど、もう止めてやれよ」

最初に仕掛けてきたのは少女だが、現状を察するに、その分を差し引いても十分なお釣りが来るだけのことをしたと思う。それに、いつ騒ぎを聞きつけた警察が出動してくるとも分からない。既に周りには、正常な人の行き来を阻害するほどの人垣が出来てしまっているのだ。

「馬鹿を言え、折角面白くなってきたんだ。これで退く奴がいるか。第一、先に仕掛けてきたのはコイツだぞ。この私が売られた喧嘩を前にして、相手を五体満足で帰すとでも思っているのか?」

「いや、だからってお前、これ以上人が集まったら大変だろうが」

「ふん、そのようなこと知ったことか」

「おいおい……」

さて、これはどうしたものか。相手が相手なので、力ずくで、という訳にもいかない。かといって、今の様子からすると説得も難しそうだ。

「わ、私を舐めないで頂きたいですわっ!」

俺と言葉を交わしていたエリーゼの隙を突いて、赤髪の少女が吼えた。脇を押さえていた手を振り上げ、その拳で相手の頬を狙い打つ。

しかし、それさえも打たれた当人には想定の範囲内であったらしく、迫る拳は難なくエリーゼの手の平に収まった。手と手のぶつかり合う乾いた音が周囲に響く。

「この体たらくでは、舐めるなという方が無理な相談だ」

「くっ、くぅううううううっ!!!」

顔を真っ赤に染めた少女は怒り心頭の様子だ。

確かに、憎むべき相手からこの様な扱いを受けたのでは、誰だって怒りを覚えるだろう。とはいえ、これは相手が悪過ぎたのである。エリーゼを相手にして多少の怪我で済むのなら安いものだと思う。それは、日々の生活から来る実体験に基づいた感想だ。

「ほら、どうした。手を退かぬというのなら、このまま拳を砕いてしまうぞ?」

その言葉に慌てた少女が、慌てて腕を振ってもがき始める。しかし、幾ら抵抗しようとも、その馬鹿力に拿捕されてしまっては逃れる術も無い。モウセンゴケに捕らわれたハエの様に後は消化されるのを待つだけだ。

「は、放しなさいっ!」

段々と顔色を青くしていく少女の様子を楽しむように、エリーゼは凄惨な笑みを浮かべて、声を弾ませながら口上を続ける。

「潰れるぞぉ? グシャっといくだろうな」

この腐りきった性格はどうにかならないものだろうか。幾らなんでもやり過ぎである。小さな手に掴まれた拳が、ミチミチと嫌な音を立て始めた。この馬鹿は本気で少女の手を砕くつもりらしい。

「おいっ! ちょっと待てよっ!!」

その様子に危ういものを感じて、慌てて二人の下へ駆け寄った。俺がその肩に手を置いて声をかけると、エリーゼは不機嫌そうな表情を露にして口を尖らせた。

「なんだ……、お前も五月蝿い奴だな、邪魔をするな」

「するに決まってるだろ」

少女の拳を握るその腕を取って、無駄とは思いながらも説得を試みる。

「何でお前はそういう風に、すぐに手を出すんだよ。自分がやられて嫌な事は相手にするなって親に習わなかったのか? 少しは相手を思いやるっていう事をだな……」

「なら、代わりにお前が私の相手をしてくれるのか? なぁ?」

「…………」

思わず言葉に詰まる。

そう言われてしまうと此方も強くは出れない。誰だって我が身は可愛い。けれど、それにしたって、この場でこれ以上の行為を公にする訳にはいかないのである。ただでさえエリーゼは目立つ容姿をしているのだ。今後も街へ出歩くことは少なからずある筈だし、もう既に手遅れかもしれないが、これ以上目立つのはよろしくない。そう考えて両者を秤にかけた結果、その天秤は僅かだが、少女の拳に傾いた。

だが、首を縦に振ることを心に決めた瞬間、その罵声は聞こえてきた。

「コラッ! 何をしているっ!」

見れば人垣の向こうから、二人組みの警官が此方へ向かって駆け来るではないか。なんて最悪なタイミングだろう。警棒を手にした警官達は、見る見るうちに近づいてくる。きっと、誰かが携帯電話で110番でもしたのだろう。

一体どういった証言により警官を呼んだのかは疑問が残るところだが。

「ああもう、なんでもいいから逃げるぞ!」

「おい、こら掴むな、離せっ!」

「誰が離すかこの馬鹿っ!」

焦った俺はエリーゼの腕を取って駆け出そうとした。しかし、その一歩を踏み出す前に、すぐ近くまで迫った二人の警官の姿は、突如として掻き消える事となった。原因は耳に響いたコンクリートの割れる盛大な破壊音である。

「……な、なんじゃこりゃ」」

元は警官が居たであろう場所には、身の丈が3メートルはあろうかという馬面の巨漢があった。ちなみに、馬面といっても、顔の作りが馬のそれに似ているという訳ではなく、本当に馬の顔をしているのだ。突き出た鼻には金属製の鼻輪が付けられており、その下にある耳まで裂けた大きな口は、エリーゼくらいの小さな子供ならば、一息に丸呑み出来そうなサイズである。また、人間と比較してその造形を異にするという点では、身体の作りに関しても同様である。長い首や尻尾の生えた尻など人のそれとは程遠く、むしろ馬そのものといっても過言ではない。発達した四肢の筋肉は俺が両手を広げても囲いきれない程の太さがある。加えて、馬にしては何故か前足の先に五本の指があり、長さ1メートル程度の棍棒が握られていたりする。そして、そんな奴が二本の足で地に立ち、直立姿勢を保っているのだから、まさに、化け物を絵に描いたような姿だと言えよう。

「おい、こりゃなんの冗談だよ」

「なんだ、また変な奴が来たな……」

「変な奴どころの話じゃないだろこれはっ! 明らかに狂ってるぞっ!!」

馬もどきは宙から落ちてきたらしい。下敷きになった警官は巨漢によって無残にも潰され、割れたコンクリート共々地面にめり込んでいた。正直、直視できるような姿ではない。絶命しているのは明らかであった。

周囲を囲っていた大勢の買い物客達が、耳を突く喧しい悲鳴を撒き散らしながら、一斉に我先にと逃げ惑い始めた。

「まったく、五月蝿い奴等だな」

「っていうか、なんだよこれ、ありえないだろ? 馬だぞ、馬」

俺自身もかなり混乱している。人間外に知り合いはいても、その姿は人の形をしてる者が全てだ。この様な見た目から全力で化け物な奴を前にしたのは始めてである。こんな奴を前にして平然としていられる奴の方がおかしいのだ。

「お前が最近になって新しくやって来たという西洋の化け物か?」

馬もどきが口を開いた。発せられたのは驚くべき事に日本語であった。

「だとしたらどうする?」

だが、語りかけられたエリーゼは全く動じた様子も無く、赤髪の少女と相対した時と同様に、素っ気無い口調で淡々と言葉を返す。これほどまでに突拍子の無い出来事を前にして、それでも何事も無かったかのように平然としていられるとは凄い。

「ならば話は早い、今この場で死んで貰おうか」

馬もどきの足が一歩前に出た。補足すると、“足”とは言っても馬もどきは馬を無理やり二足歩行に進化させたような、気味の悪い姿をしている。なので実質的には“後ろ足”に相当する。

「貴様もまた、随分と舐めた口を利いてくれるな」

「俺は西洋の化け物が嫌いなんだよ。見てるだけで吐き気がする」

湿り気のある鼻先をヒクヒクと動かしながら鼻息を荒くして馬もどきは語る。どうやら軽い興奮状態にあるらしい。西洋の化け物が嫌いだと言うからには、コイツ自身は東洋の化け物という位置づけになるのだろうか? 分からない。

「別に貴様の好みなどどうでもいい。私が嫌いならばさっさと掛かって来い。相手をしてやる。この馬鹿な下僕の相手で積もりに積もった鬱憤を、お前にぶつけて晴らすとしようじゃないか」

この馬鹿な下僕とは、きっと俺の事だろう。最近では名前で呼ばれる頻度も増えてきたが、それでも二日に一度位の割合で下僕呼ばわりされる。たぶん、その辺はエリーゼの気分次第なのだろう。

「小娘が、口先ばかりは達者だな」

怒りと笑いを足して2で割ったような複雑な表情を浮かべている。

「そうか? 私は中身もかなり達者だがな」

普段は、エリーゼが見ず知らずの相手に危害を加えようとしたならば、先程の赤髪の少女のときのように俺も止めに入る。だが、この馬の化け物が相手となると、止める気には全くならなかった。やはり、見た目は大切である。

「ぬかせっ!」

大きく吼えて、馬もどきがエリーゼ目掛けて駆け出した。無論、その移動形態は完全な二足歩行である。大きく発達した蹄をアスファルトにガチガチと打ちたてながら向かってくる。見ていて気味の悪い事この上ない。

「西洋の化け物めがっ! くたばれっ!」

手にした棍棒が大きく振り上げられ、俺とエリーゼの頭上に迫った。

仮に直撃しようものなら、狙われた頭蓋骨は勿論のこと、体中の骨という骨は粉々に粉砕されてしまうだろう。幾ら強力な自然治癒能力があるとはいえ、痛い目を見るのはごめんである。俺は慌てて飛び退いた。

だが、エリーゼは微動だにせず直立したまま、迫る棍棒を静かな瞳で眺めている。

そんな姿を目の当たりにして、鬩ぎ合う二人の力関係は容易に理解できた。赤髪の少女と同様に、この馬もどきにしてもエリーゼに抗するには役不足という訳だ。

「フン、貴様もこの程度か」

振り下ろされた棍棒はエリーゼが頭上に掲げた手の平の上でピタリと静止した。

「な、なんだとっ!?」

馬もどきが驚愕の呻きを漏らす。相手の驚き具合からして、今の一撃がそれなりに根性の入った一手であったことは容易に想像がつく。両者の間にある力関係は歴然だった。

「まったく、私が眠っている間に世間は随分と模様代わりしてしまったようだな。貴様のような雑魚がデカイ顔をして人の町を歩いているとは、世も末とはまさにこのことだ」

「くっ……この……」

エリーゼが放つ侮蔑の言葉を受けて、馬の顔が見る見るうちに、羞恥の色に染まっていく。

「どうした? もう終わりか?」

このまま続けても馬もどきには一片の勝機も無いだろう。天に掲げられたエリーゼの手の平の上で静止したままになっていた棍棒を、素早く手元に引き寄せて、そこから数歩離れた位置まで飛び退き距離をとる。

「…………」

馬もどきは返す言葉も無いらしい。歯痒そうな表情で相手を睨みつけていた。

そして、落ち着きを取り戻した二人の様子に、それまで周囲で悲鳴を上げて逃げ惑っていた人々が、再びこちらに意識を視線を向け始めた、辺りを見渡せば、中には携帯電話のカメラを構えてシャッターを切っている者の姿も確認できる。

「まったく、どいつもこいつも、つまらん奴ばかりだな」

相手からの反応が無くなったことで、馬もどきへの関心を失ったエリーゼの視線が、再び赤髪の少女へ向かう。敵を前にして背を見せているのだから、コイツがどれだけ馬もどきを舐めているのが分かる。

「まだお前の方が、威勢が良い分だけマシだったかもしれんな」

ニヤリと冷たい笑みを浮かべて赤髪の少女をせせら笑う。

「こ、このっ……」

エリーゼの挑発を受けた赤髪の少女は、今にも飛び出していきそうな素振りを見せる。しかし、先程の拳を潰されかけた経験が教訓となったらしい。最初の一歩を踏み出せずに終わった。

「これって、どっちが悪役なんだろうな……」

馬もどきと赤髪の少女を前にして、エリーゼは世の全てに君臨する覇者とでも成ったかの様なふてぶてしい態度を露にし、気持ちよさそうに高笑いをして見せた。ハッハッハッハ、などと無駄に偉そうな笑い声が耳の奥深くまで響いてくる。きっと、周りを囲う買い物客達の目には、この様子はさぞかし滑稽な光景として写っていることだろう。商店街の催し物として開催されたヒーローショーの様にも見えないことは無いが、万人には通じない言い訳だ。

「おい、エリーゼ。もういいだろ? そろそろ家に帰るぞ」

声を掛けながら、その元へ近づく。

これ以上この場に留まって、不特定多数の人目に触れるのは避けるべきである。赤髪の少女も、正体不明の馬もどきも、その存在には少なからず興味が沸くのを感じるが、だからと言って、この街での世間体と比べるには至らない。第一、下手に足を突っ込めば痛い目を見るのは明らかだ。それは既に学習済みである。放って置くのが吉だろう。

しかし、混乱はそう簡単に収拾することはなかった。

「伏せろっ!」

突然、鋭い声を上げたエリーゼが、俺の手首を掴んで、思い切り腕を下方に引っ張ったのだ。

「痛っ!?」

肩が外れるかと思った。

かなり強い力で引っ張られた為に、それに抗いきれなかった膝はカクンと曲がり、顎を強くアスファルトに打ち付けることとなった。

「な、なにすんだよっ!」

当然、声を荒げて抗議した。

しかし、それも地面に打ち付けた顔を上げて、周囲の光景を目の当たりにしてみれば、次の瞬間には霞と消える。

「……ぇ?」

アスファルトによって舗装された道路が、俺の立っている2,3メートル後ろの位置で、深く幅広な切り口を開けて、パックリと割れていたのだ。その切り口を作った何かは、中空から俺やエリーゼの身体を狙って放たれたらしく、その断面は地面に対していくらかの角度を持っていた。ちょうど、頭上3,4メートル程度の位置から下方に向かい、非常に鋭利な何かしらを薙いだことで作られたような跡である。厚さ20センチメートル程の色黒なアスファルトの断面が垣間見える。もしも、エリーゼに腕を引かれていなければ、今頃は身体を上下真っ二つに分断されていた事だろう。

「まだ、他にも仲間が居たのか」

腰を浮かして立ち上がったエリーゼは背後を振り返り、馬もどきの居る方向へ視線を向ける。それに釣られるようにして、俺もまた、折れた膝を伸ばして立ち上がり、そちらへ意識を移す。すると、そこには怒りに顔を歪める馬もどきの他に、先ほどまでは見なかった新たな存在の姿があった。

「馬鬼よ、この場から逃げるぞ」

新顔は馬もどきの隣に立っていた。出で立ちは近くの呉服店で購入できそうな、至って普通のスーツを着た成人男性であり、年の程は30前後といったところだろうか。他に特筆すべき特徴の無く、さし当たって形容するならば、当たり障りの無い平凡なサラリーマン、といった風貌の人物である。

だが、その手の甲からは非常に大きな鎌が生えており、それを自らの体の前で構え、エリーゼをギラギラとした銀色の瞳で睨みつけている。そこからは非常に分かりやすい敵対心が感じられた。

「だ、だが鎌風よっ、ここまでやられておいて、何も仕返す事が出来ずに逃げるなどと、俺は我慢ならぬっ!」

「腹が立とうが、虫唾が走ろうが、今の私とお前ではこの者を破る事は不可能だ。ここは苦渋を舐めてでも一度退くのが得策だ。生きてさえいれば再び合間見える事も可能だろう」

「くっ……」

「それに、この報を翁に知らせただけでも大儀には違いない」

「本当に、このまま西洋の敵を前にして引くのか?」

本日3人目の不審者は、なにやら唸る馬もどきを説得している様子だ。それにしても、今日という日は何故に、こうまで変な奴等が続けざまに襲来してくるのか。最近は割りと平和な生活を送れていたのだが、それも、今日という日の為に厄災を貯めていたに過ぎなかったのか。

「お前も合間見えて理解しただろう、相手は想像以上に強力だ。ここは一度体制を立て直すべきだ」

スーツ男は非常に真剣な面持ちで馬もどきに語りかけている。

すると、しばらくは悔しげな表情を浮かべ渋っていた馬もどきも、自分がエリーゼに叶わないことは理解していたのだろう。その言葉に応じて、此方を憎々しげな表情で睨みながらも小さく頷いて見せた。

だが、彼等二人の意見が一致したところで、そうは問屋が卸さない。

「貴様等、私がそうやすやすと獲物を逃すと思っているのか?」

残虐性を日頃の7割増しで強化した問屋の嗜虐に満ちた笑みが、ジリジリと後退を始めた二人に向けられる。それにしても、エリーゼにとって俺との生活とは、それほどまでに鬱憤の溜まるものだったのだろうか? そう考えると、少しショックな気がしないでもない。

「…………」

スーツ男の額に一滴の汗が垂れる。この二人は明らかに喧嘩を売る相手を間違えていた。相手が一歩後退すると、それにあわせてエリーゼもまた一歩前にでる。そんな静かなイタチゴッコが繰り返される。

そんな様子を、二人の登場により所在を無くした赤髪の少女は、悔しげな表情で眺め立ていた。自分も彼等と同じく、どう足掻いてもエリーゼには敵わないのだと理解してのことだろう。

しばらくの睨み合いの末に緊張感と焦りから我慢の効かなくなった馬もどきが、ついに根を上げエリーゼに背を向けて脱兎のごとく逃げ出した。そんな相棒の様子を目の当たりにして、隣に居たスーツの男も後を追う。

けれど、二人の逃亡劇は駆け出して数メートルと進まないうちに終焉を迎える事となった。周囲を囲う人垣の中へ逃げ込もうと走り出した二人の姿は、その中に紛れる前に、股から縦に二つに裂けて倒れたのである。

その非常にグロテスクな様子に、それまで携帯電話のカメラを向けていた野次馬達も、まるで蜘蛛の子を散らす如く逃げ出した。幾つもの悲鳴が重なり合り鼓膜を痛いほど振るわせる。

「お、おいエリーゼっ! 幾らなんでも人前でこれは不味いだろうっ!」

慌てて隣に立つ問題児に怒鳴りかけた。

だが、返ってきたのは俺の予想を裏切る素っ気無い返事である。

「勘違いするな、今のは私じゃないぞ」

「え?」

思わず声を上げてしまった。

それでは、一体誰がやったというのか?

十数メートル前方には、大量の血液を噴出して倒れた馬もどきとスーツ男の身体が横たわっている。二人は頭の頂点から股までを、とても巨大で鋭利な何かによって切断されている。実際にそれがどの様な手法によって成されたのかは、凶器が見当たらないので定かではない。しかし、遺体の具合からして人間の手によるものでないことは明らかだった。

そして、そんな疑問に対して回答はすぐに得られた。目の前で起きた惨劇を受けて、我先にと逃げ惑う人々の集団の中から、俺やエリーゼの期待に答えるかのように、周囲の流れに逆らって人が一人現れたのである。

本日4人目の変質者だ。

もう、そろそろ勘弁して欲しかった。

一番初めに登場した赤髪の少女など、エリーゼの背後にあって、既に居ても居なくても同じような扱いを受けている。エリーゼ本人も相手を舐めきっているのか、気にするような素振りさえ見せない。

「まったく、次から次へと引っ切り無しに……、今度はなんだ?」

流石のエリーゼも、いい加減に相手をするのが面倒になってきたのか、やる気のなさを露にして応じる。馬もどきや赤髪の少女はまだマシだ。スーツの男に関しては、この場に現れてから数分と経たずに朽ちてしまったのだ。入れ替わり立ち代りが激しいにも程があるだろう。

「これはこれは、ご機嫌麗しゅうございます、エリーゼ様」

路上を逃げ惑う人々の網目を縫うようにして、ひょろりと人垣をから姿を現したその者は、エリーゼと目が会うや否や、そんな歯の浮くような台詞を口にした。同時に腰をきっちりと90度の角度で折り曲げてお辞儀をしてみせる。

「だ、誰だよコイツ……」

その突拍子も無い反応に、初対面の相手でありながら、俺は思わずそんな言葉を吐いてしまった。エリーゼの名を口にしたのだ、当然、お互いに面識があるものだと考えてのことだ。しかし、隣から返されたのは味気ない否定の言葉であった。

「さぁな」

相手に視線を向けたまま、そう短く答える。

「さ、さぁなって、お前、じゃあ何で向こうはこっちを知ってるんだよ」

「そんなこと私が知るか」

「本当に知らないのか? でも、だったら誰なんだよ」

その者は先ほどの手から鎌を生やした男と同様に、色の黒いスーツに身を包んでいる。ただ、そのスーツは非常に上等な生地と作りによる品であるらしい。そこいらのサラリーマンが着ている物とは一閃を駕しているように感じられた。

年の程は20台中盤から後半、まだ30には達していない様に感じられる。色白い肌と堀の深い顔の造形から察するに日本人では無いだろう。髪は薄い茶色で、肩にかかる程度の長さを整髪量によってオールバックに撫で付けている。身長は180センチある俺よりも更に高いので大よそ190くらいだろうか。妙に細い目が特徴的だった。

「突然の訪問をお許し下さい。私、エリーゼ様には始めてお目にかかります、ギヨーム・ド・マシューと申す者です。以後お見知りおきを」

此方のやり取りを耳にしてのことだろう。俺とエリーゼから5メートル程の距離を置いて立ち止まった男は自らを名乗りを上げると、再び深々と腰を折って御辞儀をしてみせた。その一挙一動は海の向こうの御伽噺に出てきそうな、良く出来た執事の如き物腰を感じさせるものだった。

「別に貴様の名など聞いて無い。私に何の用だ」

自らをマショーと名乗る礼儀正しい男とは対象的に、エリーゼは憮然とした態度を改めることなく聞き返した。どうやら本当に初対面の相手らしい。

「はい、この度は私、エリーゼ様に頼みごとがあって参上した次第に御座います」

マショーは馬鹿丁寧かつ流暢な日本語でエリーゼに語りかけてくる。もしかしたら、と考えて、エリーゼの背後にへたり込んだままになっていた赤髪の少女に目を向けた。だが、想像とは異なりこちらも訝しげな表情を浮かべて4人目の変質者を見つめていた。お互いに見知った相手という訳ではないようだ。

「ほぉ、頼みごとだと? 勝手に人の玩具を壊しておいて、良くもまあそんな口が利けるな?」

「そ、それは申し訳ないことをしてしまいました。此方の勘違いに御座います。どうかお許しください」

マシューはエリーゼの暴言を受けて素直に頭を下げて謝罪する。馬もどきと鎌を生やしたスーツ男を切り裂いたのは、このマシューという男の仕業らしい。どうやって、という点に関しては言及されるに至らないが、人外のやったことだ、いちいち理解を目指すだけ無駄だろう。

「ならば貴様が、あの馬面の代わりに私の相手をするか? それならば願いを聞いてやらないことも無いぞ? ただし、最後まで私の相手をすることが出来たならば、という条件付だがな」

そもそも相手にするつもりが無いのか、エリーゼは相手を鼻にかけた態度を崩そうとはしない。初対面であるにもかかわらず随分と失礼な奴だ。

「いえいえ、私のような者がエリーゼ様の相手をするだなんて恐れ多い。申し訳ありませんが、謹んで辞退させていただきます。どうかお許しください」

「ならば目障りだ、とっとと去れ」

馬もどきとスーツ男の死体を前にして騒ぎ立てる人々の喧騒を背景に、二人はそこだけがまるで、周囲の空間とは切り離された別の場であるかの様に、落ち着いた様子で話をしている。

「で、ですが、どうしても貴方様に伝えておきたい用件があるのですが……」

「五月蝿い奴だな、貴様のせいで折角の気分も萎えた。私は家に帰ってシャワーを浴びるんだ。とっとと去れ、でなければ今この場で殺してくれる」

とにかく腰の低いマシューに鬱陶しそうな目を向けて、エリーゼはワンピースの胸元をパタパタとはためかせる。幾ら屋根のあるアーケード街とはいえ、日中の平均気温は34度を超えるのだ。多少でも身体を動かせば、十分に衣服を湿らせるだけの汗が吹き出てくる。

「けれど、その用件というのは先ほどエリーゼ様に襲い掛かって来た者達とも関係した話です。お耳に入れておいても、決して損は無いかと存じます」

「貴様もくどい男だな。別にあの程度の輩が何をしようと知った事か。歯向かうというのならば応じるまでだ。たいした暇つぶしにもならんだろうが、鬱憤を晴らすには丁度良い玩具だ。わざわざ貴様の話を聞いてやる必要も無い」

必死に食い下がるマシューに、エリーゼは一切の反論を与えず言葉を返す。もしかしたら、こういった無駄に几帳面な性格の奴が嫌いなのかもしれない。少なくとも、俺は胡散臭い奴だと感じる。そんな風に考えてしまうのはエゴだろうか?

「せめてお話だけでも聞いていただけませんか?」

「知るか、面倒臭い」

そして、二人の話が平行線を辿る一方で、周囲からはそれまでになかった新しい音が聞こえてきた。甲高いサイレンが二つ、徐々に此方へ向かって近づいてくる。これは間違いなくパトカーの接近を知らせる合図だ。

「お、おい、エリーゼッ!」

その警報を耳にして慌てた俺は、男と向き合うエリーゼの腕を取る。まさか、この年で警察の世話になるのは勘弁してもらいたい。車両がこの場に到着する前に逃げ出すべきだろう。

「………そちらは?」

すると、そこで初めて俺に対して意識を向けたマシューは、眉を顰めて訝しげな表情を作ってみせた。

「役に立たない私の下僕だ」

「下僕でも何でもいいから、ほら、とっとと逃げるぞっ!」」

なかなか動き出そうとしないエリーゼの腕を両手で引いて必死に呼びかける。現代法規を放棄したこいつ等の様な化け物連中は良いかもしれない。けれど、俺には家庭とか学校とか生活とか、そういった色々な柵があるのだ。この状況は気が気でない。

「こ、これはまた、いやはや、まさかファミリーをお作りに?」

それまでとは声の質さえ変化させて、大きく目を見開いたマシューは驚愕の表情を露にした。それまでの形式ばった応対とは異なり、本当に心底驚いているように見える。口から洩れた台詞はそれほどでもないが、態度の変化は大きい。

「…………口が過ぎると長生き出来ないぞ?」

声を低くして凄むエリーゼの視線が鋭利に変化する。

「わ、分かりました」

怒りの一片を見せたエリーゼに驚いたのだろう。身体を小さく震わせてマシューは足を半歩後ろに引いた。エリーゼに関して知っているのは、その名前だけではないのだろう。沙希の親父がそうであったように、過去を知る者にとって、この背丈の小さな我侭娘は、相当な恐怖の対象であるらしい。

それにしても、何故にエリーゼは俺というファミリーの存在について言及されただけで、そこまで強く出たのだろうか? 押しても引かぬ相手に苛立ちを感じたのか? 分からない。ただ、なんとなくだが、そんな些細な事におれ自身が不満を持つ様になったのは、やはり、今までの自分からすればおかしなことなのだろう。

「私もエリーゼ様の怒りを買いに来たわけでは御座いません。この度は一度身を引かせていただきます。ですが、再び近いうちに必ず其方へ伺わせていただきますので、そのときは、是非ともよろしくお願いします」

馬もどきと手から鎌を生やしたスーツ男を一瞬にして切り裂いたマシューではあるが、それでも、エリーゼと相対するのは辛いのだろう。交渉相手の睨み顔を前にして、仕方なく、といった様子で折れた。

「ならば、とっとと去れ」

追い討ちは容赦ない。

「はい、理解しております」

短く答えたマシューは踵を返し、彼の進行方向に対して道を開ける人々の間を通り、多くの視線をその身に浴びながら、アーケード街から静かに歩み去っていった。結局、相手の素性は分からないままだった。

そして、後に残ったのはエリーゼと俺、それに赤髪の少女である。

「貴様も運が良かったな。私に喧嘩を売っておきながら五体満足で帰れるんだ。代わりに死んでいった馬と鼬に感謝しておけ」

背後を振り返ったエリーゼは赤髪の少女に冷たく言葉を投げかける。地べたに座り込んだままの少女は、そんな嘲笑に返す言葉も無く、ただジッと怨念めいた視線を向けてくるだけであった。歴然たる力量差を受けて、瞳には涙さえ浮かんでいる。

「おい、お前もそんなこと言ってないで、早く逃げるぞっ!」

「お前も本当に五月蝿いやつだな。分かったからいちいち腕を引っ張るな」

パトカーのサイレンが大きくなってくるに連れて、焦りも増してくる。駄目もとで無理やり腕を取って走り出そうとすると、エリーゼは渋々といった様子で応じ、ようやく重い足を前に進めてくれた。周囲からは「おい、逃げるぞっ」とか、「警察はまだかよっ」とか、野次馬達の声がそこらかしこから飛んでくる。もう、ここまで騒ぎが広がってしまっては、後は身元がバレていない事を祈るのみである。

まったく、とんだ厄日だ。

家に着くと、既に時刻は午後の6時を回っていた。

自宅に戻ってからは、時刻が時刻であったので、すぐに夕餉の準備に取り掛かる事となった。必要な食材は帰路の途中で、近所のスーパーに寄って購入済みである。キッチンにはまな板の上で規則正しく上下に動く包丁が奏でる、トントンという乾いた単調な繰り返し音が響いていた。コンロの上で煮詰まっているのは、皮をむいたタケノコだ。手元のキッチンワゴンの上には、調理を待つ食材がビニール袋の中で群を成している。

「まったく、なんでお前の知り合いには変人ばかりいるんだろうな?」

対面式のキッチンカウンターを挟んで、リビングにはエリーゼの姿がある。ソファーに座って家庭用ゲーム機のコントローラを握っている。部屋の角に置かれた薄型の50型液晶テレビに映し出されている映像は、そろそろコンプリートも近づいてきたテレビゲームのゲーム画面である。

「何の話だ?」

テレビ画面に目を向けたまま、家庭用ゲーム機のコントローラに付いたボタンを叩きつつ、口だけを動かして短く答える。

「外へ出かけたときの話だよ」

ふつふつと蒸気を上げる鍋の中のタケノコに箸を刺して具合を伺う。繊維にすんなりとめり込んだ箸先は、それが既に良い具合に煮上がっていることを示唆していた。弱火に設定されていたコンロのつまみを捻ってガスを止める。

「言っておくが、私はあいつ等を知らないぞ?」

「嘘付け、少なくとも赤い髪の女の子はお前の事を目の敵にしてただろうが。初対面の相手にあそこまで憎まれるなんて、普通ありえないだろ」

「それは、あの娘が勘違いしてるだけだろう。私はあのような娘など知らん。それに、仮に面識があったとしても、それは一体どれだけ昔の話だというのだ。そんな古い、しかも一方的な怨恨を覚えている程に、私はお人好しでは無いんだよ」

「…………」

人生80年だと学んでこの歳まで生きてきた現代人にとって、300年という時間は永遠にも等しい。そう言われてしまえば、返す言葉は無くなる。だが、それにしたって、幾らなんでも今日のは酷い。赤髪の少女だけならばまだしも、それに加えて、馬面の化け物やら、手に鎌を生やしたスーツ男やら、それに、やたらと口調の丁寧な軟派男やら、怒涛の勢いで、願ってもいない出会いが満載であった。

「別に、お前が気にするようなことではない」

「けどさぁ……」

あそこまで印象的な出会いは、早々に忘れられる筈が無い。しかも、相手は此方に対して一方的な敵意を放っていたのだ。そんな状況にあっては、仮にそれが、エリーゼだけを狙っていたとしても、心穏やかに生活するのは難しい事だと思う。

「本当に平気なのか?」

「少なくとも私のそばに居れば、お前に危害が及ぶ事は無いだろう。お前は下僕だが、一応ファミリーでもある。敵が来たのなら、守ってやらない事も無い」

それは、エリーゼにしては随分と殊勝な台詞だった。

包丁を動かす手を止めて、キッチンカウンターの向こうにいる相手に視線を向ける。

「随分と、お前らしからぬ発言だな?」

それまで規則正しく流れていた、包丁がまな板を叩く音が途絶えた事に反応したのか、エリーゼも此方に顔を向けてきた。コトリと小さな音をたてて、ソファーテーブルの上にゲームのコントローラが置かれる。

「あの馬や鼬は良い。お前でも十分に相手を出来る相手だろう。だが、赤い髪の娘と、馬と鼬を引き裂いて見せた胡散臭い口調の男は注意しろ。お前が敵う相手ではない。もしも敵意を向けられたのなら、まず助からないと思え」

そして、告げられたのはなんとも物騒な話だった。

「な、なんだよそれ」

「お前には圧倒的に危機感というものが足りない。人間として安穏な生活に浸かっていられたのも過去の話だ。吸血鬼になった今、お前の生命を保証してくれる様な行政や司法は存在しない」

「…………」

「その辺を理解しておけ、ということだ。でなければ死ぬぞ?」

そんなことを言われたって、具体的にどうすれば良いのかサッパリである。そもそも、概観だけを考えるならば、あの場で最も危惧すべきは馬面の化け物か、もしくは手から鎌を生やした男であろう。そう思うと、やっぱり、エリーゼの言う人外世界の事象は理解に困るものばかりだ。

「特に、あの最後に出てきた男には注意しろよ。力関係だけを考えれば、赤い髪の娘よりも腕が立つだろう。それに、何か良からぬ事を企んでいる様にも思える」

「そうなのか?」

「ああ、でなければ、わざわざ私に頼みごとをしに来る輩がいるものか」

至って真面目な表情で語りかけて来る。その様子からして、冗談で俺をからかっている訳でもないのだろう。

怪我をしても直ぐに治る、という特殊能力は人間社会においてスーパーマンと成れるだけの素晴らしい能力だ。だが、そんな反則的な能力さえ無碍に否定してくれるような存在が、新たに足を踏み入れた世界には在ると言うのだ。背筋が寒くなるのを感じる。

「まあ、その程度は気に留めておけ、という事だ」

此方の目を真っ直ぐに見つめて語るエリーゼに、俺は小さく頷いて答えた。

「分かったよ」

こんな奴でも多少は俺のことを気にかけてくれているのかも知れない。

そう考えると、少し嬉しかった。

そして、そこまでを語ると、エリーゼは再びゲーム機のコントローラを手に取りテレビ画面に向き直った。俺も夕食の準備を再開する。今晩の献立はタケノコご飯と鰤の照り焼き、それにほうれん草のおひたしである。後は電子ジャーに米と茹でたタケノコ、油揚げ等を入れてスイッチを押せば大体の作業は終了する。

しかし、夕餉前の安穏とした時間もそう長くは続かなかった。

かなり近い所から、アクション映画のワンシーンで爆弾が爆発したときに流れる様な、痛いほどに耳を突く爆音が響いてきたのである。それと同時にキッチンを含めたリビング全体が、震度2程度の弱い振動に震えた。

「な、なんだぁ!?」

突然の事に気が動転し、危うく包丁で自分の指を切るところであった。

「随分と近いな」

席を立ったエリーゼが、ベランダへ向かう。その背を追って、駆け足でキッチンカウンターを迂回した俺が続く。施錠を開けて外へ出ると、すぐに身体は生暖かい夜風に包まれた。外へ出ただけで皮膚から汗が噴出してくるのを感じる。まだ、日は落ちておらず、残る陽光がやんわりと世界を照らしていた。

「ガス爆発か?」

騒音と振動は階下から伝わってきた様に感じられた。ベランダの手摺から身を乗り出して下を除く。すると、そこには本来コンクリートの中に埋められている筈の鉄骨がむき出しとなった、完全に破壊されてしまったベランダが確認できた。遥か遠く地上には、転落防止用の壁が割れた破片の一部が見える。リビングのガラス窓も割れてしまっている様で、残ったベランダの足場には、砕けたガラス片が散らばっていた。

「ガス爆発? なんだそれは」

「いや、キッチンのコンロで使う可燃剤が漏れて、それに火がついたのかなぁ、と」

それにしても、鉄筋コンクリートで作られたベランダの強固な壁を吹き飛ばすとは、随分と凄まじいガス爆発である。こうして上階に当たる俺の部屋が無事であったのも奇跡と思える程だ。

「ほぉ……」

というか、もしこれがガス爆発によるものであったのならば、ベランダが破壊される前に、このフロアに影響が出るのが普通じゃあないだろうか? 幾らベランダがキッチンと近いとは言え、天上は更に近い位置にある。そう考えると、ガス爆発にしては不自然だった。なによりも、火が出ている様子が無い。

「いや、やっぱりガス爆発じゃないぞ、これって」

「だったらなんだというんだ」

「そんなの俺が知るかよ」

周囲の様子を伺ってみれば、俺達と同様に、異変に気づいたマンションの住人達が次々にベランダへ顔を見せていた。先ほどの爆発音はかなりのものであった。何が起こったのか興味を持つのは当然だろう。

そして、そんなギャラリーを前にして、先ほどの爆発音に続いて次に耳に届いたのは、聞いた者の脳を激しく震わせるような、甲高い女性の叫び声であった。キャー、キャー、などと可愛い叫び声ではない。完全に理性を剥ぎ取られてしまった、同じ人間が出しているのか疑いたくなるような酷い悲鳴であった。

「ひ、悲鳴!?」

「ああ、そのようだな」

さて、これはどうしたものか。

明らかに普通じゃない。例えこれが強盗の仕業だと仮定したとしても、ベランダが吹っ飛んでいることの説明に満足な根拠を上げる事は出来ない。かといって、ガス爆発や、それに類する一般家庭でのアクシデントにしては被害が大きい。

「なぁ、まさかとは思うけどさ……」

最終的に一つの結論に行き着いて、おずおずと隣に立つエリーゼに声をかけた。

「お前が考えている事も、ありえない訳では無いな」

幾らなんでもそれは無いだろう、と思いたいのだが、今日あった出来事を思い返せば可能性を否定する事は出来ない。

「まあ、いずれにせよ私やお前には関係の無いことだ」

そう短く呟いて、踵を返したエリーゼは室内へ戻っていく。

「ちょ、ちょっと待てよ」

その背を追って、俺もまた室内へ戻る。

再びソファーに座りなおしたエリーゼは、家庭用ゲーム機のコントローラを握りなおして、テレビ画面に向かう。階下での出来事には興味も失せたらしい。だが、俺はコイツの様にそう簡単にはいかない。

「もしかしたら、その原因って俺達にあるかもしれないんだろ?」

リビングに設置された、ベランダへ続く大窓の前に立ったまま、多少声を大きくして尋ねる。

「だろうな」

視線はゲーム画面を映し出す液晶ディスプレイに向けられたままである。

とても素っ気無い態度であった。

「だったら、なんとかしてあげた方がいいんじゃないのか?」

きっと、それは俺がこれから言わんとすることを予期しての態度だったのだろう。

「何故そう考える。誰が好き好んで面倒事に首を突っ込むというのだ」

「だ、だってお前、あの悲鳴聞いただろ?」

「ああ、聞いたな」

「もしかしたら、その原因は俺達なのかもしれないんだぞ?」

「そんなの私が知ったことか」

日頃のご都合主義を前面に出して、素知らぬ振りである。

確かに、余計な事には首を突っ込まない方が面倒も無く楽だろう。それは歳を取るこごとに自分も段々と理解を深めてきている事実だ。けれど、だからと言って直線距離数メートルの位置で悲鳴を上げている人間を、他人の振りをして放っておくというのも忍びないのだ。

「ちょっと、様子を見てくる」

焦りにも似た苛立ちを感じて、居ても立ってもいられなくなった俺は玄関に向かおうとした。

「おい待て。お前はさっき私がした話をもう忘れたのか?」

「忘れちゃいないさ。けど、こればっかりは性格なんだからしょうがないだろ?」

リビングから廊下へ通じるドアを開けて、そのドアノブに手を掛けたまま背後を振り返り口を開く。廊下から流れ込んで来る、湿気を多分に含んだネットリとした感触の空気が肌を撫でた。

「真性の馬鹿だな。言っておくが、私は助けになんぞ行かんからな? 何かあっても知らんぞ? 死んでしまっても知らんからな?」

それは、踏み出しかけた一歩を留まらせるに十分な脅しであった。だが、一度上昇してしまったテンションを元の位置まで下げるには足りなかったらしい。

「本当にヤバかったら逃げて来るさ」

そう言って、部屋の敷居を跨いでドアを閉めた。

動き出した足が止まってしまう前に玄関で靴を履き、マンションの外廊下へと出る。騒ぎがあったのは、このフロアの階下である。エレベータを待っている時間ももどかしく、急ぎ足で階段を駆け下りて、問題の部屋の前まで直行した。

すると、その場には既に人の姿があり、閉ざされた玄関扉の前で顔を見合わせていた。きっと、この部屋の近隣に居する人達だろう。一人はエプロンを身に着けた、20代だと思われる女性である。もう一人はスーツ姿にネクタイを締めた、眼鏡のよく似合う30代後半だと思しき男性だ。

「ん、君も騒ぎを聞きつけて来たのかい?」

俺が近づくと、スーツ姿の男性が声を掛けてきた。

「僕はこの部屋の真上に住んでいるんですが、ベランダから下の様子を眺めたら、それはもう、酷い事になっていたもので……」

「君もベランダの様子を見たのかい。あれは酷いよね。ガス爆発か何かかな?」

「初めはそうも考えましたが、ガス爆発にしては火が出ている様子も確認できないんですよね。一体何が起こってるのか」

「僕の部屋も揺れはしたけど、特に壁が崩れたりはしてないんだよね」

男性は目の前にある閉ざされたままの扉を見つめる。

鍵がかかっていて開ける事が叶わなかったのだろう。

「やっぱり、鍵がかかっているんですか?」

「今、管理人さんの所へ二つ隣の奥さんが鍵を貰いに行ってるわ」

予想を確認するように尋ねると、男性の隣にいた女性が答えてくれた。その出で立ちからして、夕食の仕度をしていたところを、爆発音に驚いて出てきた、といったところだろうか。

「私はこの部屋の右隣なんだけど、驚いたわよ。いきなりドカーンと来たでしょう?」

「凄い音がしましたね」

「凄いなんてもんじゃないわよ。鼓膜が破れるかと思ったわ。それに、すごい悲鳴が聞こえたでしょ? 気が気がじゃ無いわよ」

暫く3人で扉を前にして唸っていると、フロアを共にする周囲の部屋からも、そこに住まう人達が続々と顔を出してきた。時刻が午後の5時という事もあり、その多くは主婦であった。そして、問題の部屋の前にあって、ざわめきは段々と拡大していった。

それから数分の時を置いて、マンションの外廊下を掛けてくる人の姿が目に入った。どうやら二つ隣の奥さんとやらが、管理人さんから鍵を貰って来たらしい。その後ろにはヒーヒー言いながら後を追う60過ぎの老年女性の姿があった。

吸血鬼の馬鹿力を用いれば、この程度の扉など分けなくこじ開ける事が出来たのだろうが、他人の目がある中でそれを行うのは憚られたので、大人しく鍵が来るのを待っていた次第である。

「開けるよ」

その場で俺を除くと、唯一の男性であるスーツ姿の男が、先立って部屋の鍵を開けた。背後から部屋の中の様子を覗き込むように、扉を囲む主婦達が詰め寄る。

玄関から入って、縦に奥へ伸びる廊下はリビングを仕切るドアに突き当たり、その先を野次馬達の視界から遮っていた。だが、ドアの向こう側から聞こえてくる生々しい声は、扉を開けずとも、その先に広がる光景がどのようなものであるかを、皆に容易に想像させた。

「い、痛いよぉ……」

俺の耳にはそう届いた。

若い女性がかすり泣く声である。

痛い、痛いと訴える声がドアの反対側から断続的に聞こえてくる。そして、そんな女性の訴えとは別に、もう一つ声色を異にする声が耳に入った。

「素直に吐かぬならばこの場で殺してくれよう。さぁ、言え、言うんだ」

ドスの利いた低い男性の声であった。見れば、リビングへ通じるドアの曇りガラスには、何やら赤い色の液体が飛散している。まさに、想像した通りの展開がそこにはあった。

「ちょ、ちょっとっ!?」 「なによこれっ!?」

「強盗、強盗よねっ!?」 「警察よ、110番しなきゃっ!!」

「あれ、血よね!? 血なのよね!?」

それを目の当たりにした野次馬達が一斉に騒ぎ出した。幾重にも重なり合った甲高い声が耳に痛い。扉を開けたスーツ姿の男性も、その先へ一歩を踏み出すことが出来ずに、玄関のタイルを踏んだまま固まってしまっている。

リビングを占拠した何者か、玄関で騒ぎ立てる野次馬達の気配を察したのは、それから直ぐのことである。

「なんだぁ? なんだか外が騒がしいな」

皆の耳に強盗と思しき男の声が届く。そこからはあっという間であった。リビングの扉を開けて外へでてきた者の姿を目にした途端に、その場で騒いでいた野次馬達は、まるで蜘蛛の子を散らすように、我先にと逃げ出していった。

それもその筈である。

ドアの向こうから顔を出したのは、全うな人間の姿からは程遠い、まさに化け物そのものであったのだから。

「ほぉ……、野次馬共が集まって来おったか」

一言で表すならば、巨大化した猿である。2メートルを越える背丈を誇り、仮に熊と喧嘩をしたとしても余裕で一撃の下に勝利を収めるであろう、そんな強靭な肉体を持った化け物である。額には一本の鋭い角を生やし、ギョロリとした大きな瞳は、眼を合わした者を容易に畏怖の虜とする。

一目見て本気で腰が抜けるかと思った。

隣を見れば、逃げ遅れたスーツ姿の男性が腰を抜かして、ガタガタと震えながら、その場でへたり込んでいた。

「ついでだ、久しぶりの食事とするか」

そう呟いて、猿の化け物はゆっくりと近づいてくる。

これは、エリーゼの言う通り部屋で大人しくしているべきであっただろうか。それまでの使命感めいた善行の意思はあっという間に消え去り、脳裏に浮かぶのは、この猿の化け物からどうやって逃げ出すか、の一言に尽きていた。膝はガクガクと笑っているし、少しでもその場を動けば、身体は直ぐにでも崩れ落ちてしまいそうであった。

「き、きき、君ぃ、これは何なんだろう。僕には何がなんだか分からないよ」

膝にすがり付いてくるスーツ姿の男性が、正面を指差しながら言う。

「しかも、あそ、あそこにいる女の子はっ!? 腕が、腕が変な方向にっ」

開かれたドアの先には、身体を真っ赤に染めて横たわる女性の姿があった。肘から先が本来ありえない方向へ捻じ曲がり、頬にはパックリと開いた大きな切り傷があった。切り傷は横に3本並んで、見事なまでにピンク色の皮下組織を晒している。

「…………」

これは、死んだかもしれない。

漠然とそんな恐怖に駆られた。

ゆっくりと近づいてくる猿の化け物を前にして、俺はその場から逃げる事も出来ずにガタガタと震えていた。

こうして、実際に人ならざる存在から明らかな害意を向けられて、一つ理解した事がある。それは、昼のアーケード街で馬もどきや、手から鎌を生やした男と出合った時がそうであった様に、これ程までに恐ろしい姿をした化け物の類と相対しても、それでなお、顔色一つ変えること無く挑んでみせたエリーゼの力強さである。アイツが傍に居ないだけで、こうも状況が変わるとは思ってもみなかった。

「さぁて、どっちから食ってやろうか」

猿の化け物が大きな口を開ける。

歯と歯の間から滴り落ちた唾液が廊下を汚した。鋭い牙の生えた口は大きく、人間の頭くらいなら、余裕で丸呑みに出来そうである。それまで全く動けなかった足が、無意識のうちに背後へ後ずさっていた。

「そうだなぁ、食うなら若い肉が良いだろうなぁ? お前に決めたぞ」

猿の手がゆっくりと伸びてきた。

もう駄目だ。

そう感じて目を瞑る。大きな五本の指によって両腕の上から身体が握られ、ゆっくりと宙に持ち上げられた。床を離れた足が浮遊感を感じて自然と前後に動く。

「き、君っ!」

背後でスーツの男性が悲鳴染みた叫びを上げた。腰にすがり付いていた男の手が、自然と離れて遠退いた。

猿の肩越しに、リビングのフローリング上でぐったりと横たわっている者の姿が見えた。まだ歳も若い10代の女性であった。そして、ふとした瞬間に彼女とその視線が合った。どうやら、まだ意識を失っていないらしい。悲壮感漂う表情で此方を見つめている。

次の瞬間には、俺もこの女性と同じように朽ちた姿を晒す事となるのだろうか。

そう思うと、どうにも堪らない情動に襲われた。

身体の芯が熱に疼く様な感覚を受けて、その場でジッとしていることに耐えられなくなり、両腕に力を込めて必死に抗った。駄目で元々、最後の悪あがきという奴である。

しかし、その行為は思いも寄らぬ結果をもたらした。

「んぬっ!?」

身体を掴む5本の指から逃れるべく、自らの両腕を外へ外へと動かした。すると、化け猿の指はそれに応じて動き、容易に束縛を解くに至った。これには化け猿だけでなく、掴まれていた俺自身も驚いた。

「き、貴様は……、人間ではないな?」

瞬時に拳を開き、俺の身体を解放した化け猿は、その巨体に見合わない軽いステップで背後に飛びずさる。

「あ、……ああ」

これは、例によって吸血鬼化に由来する馬鹿力の効能か? しかし、まさか、このような化け物を相手にしても、その力が有効であったとは思いもしなかった。

「何者だ?」

「いや、何者って言われても……」

まさか本名を名乗ったところで、それが意味を持つとは思えない。そこで、仕方なくエリーゼから習った事実を伝える事にした。

「なんでも……、吸血鬼? らしいぞ」

自分で言っていて、あまりの馬鹿っぽさと気恥ずかしさに顔が熱くなるのを感じた。近くには何も知らないスーツ姿のオッサンが居るのだ。まるで、遊園地の舞台劇のステージにでも立っている気分である。

「ほぉ、ならばこれほど運の良いことは無い。今この場で殺してやろう」

すると、それを耳にした化け猿の大きな眼が、先ほどにも増して鋭く俺を捕らえた。

「な、なんだよそりゃ……」

とりあえず、一端の危機は脱したように思えるが、雲行きは限りなく怪しい。一寸先は嵐だ。どうして吸血鬼だという理由で殺されなければならないのか。さっぱり事情が見えてこない。だが、それを尋ねようと、話し合いに持ち込むべく口を開こうとしたところで、相手はいきなり襲い掛かって来た。

「くたばれ、西洋の化け物がっ!」

「ちょっ、ま、待ってくれよっ!」

此方の腕力が相手に対して有効であったことが、俺にとって大きな自信に繋がっていた。おかげで、強面の化け猿を相手にしても恐怖に固まること無く、また、緊張に震えることも無く、迫り来る拳を避ける事ができた。それも、かなりの余裕を持ってである。

「っく」

「おおっ! 意外と俺って凄いっ!?」

新しい自分を発見した瞬間である。

それは初めて補助輪を使わないで自転車に乗れるようになったときの、子供心ながら感動に打ちひしがれた懐かしき感覚を呼び起こした。昔はこういった感覚を得る機会が沢山あったことを、ふと、意味も無く思い出す。それは鉄棒での逆上がり然り、一輪車然り、それだけ色々なことに挑戦していた、という事である。

「貴様ぁっ」

化け猿は狂ったように、指を広げれば1平方メートルはありそうなサイズの拳を、幾度も繰り返し放ってくる。だが、狭いマンションの廊下にあっては、その動きも限られる。2メートルを越える巨体が満足に動ける環境では無かった。また、打ち出される拳の速度自体もエリーゼと比べれば月とすっぽんであり、大した危機を感じなかった。

「このっ、ちょこまかと動きおってっ!」

もしかしたら、楽に勝利する事が出来るのではないか。そんな希望が沸々と沸いて来る程に、両者の間には歴然とした力量差があった。そして、そうこうしている内に、巨大な拳の連打に押されて自然と後ろへ後ろへと下がっていった俺は、いつの間にか玄関を出て、マンションの外廊下に立っていた。横幅が2メートルと無い窮屈な廊下には十分なスペースが無く、後ろへ引かなければ巨大な拳を避ける事が出来なかったのだ。

外廊下には室内の様子を目の当たりにして逃げ出した者達のうち、再び現場に戻って来た者達がいた。更に距離を縮めて大衆の面前にお目見えした化け猿の姿を確認して、野次馬達の間から一際大きな喚き声が上がる。

だが、恐怖の対象たる化け猿と対等に向き合うする存在に気づいた彼等は、先程のように逃げ出すことはせず、悲鳴を徐々に小さくしていった。そして、一定の距離を置いて事態の末を見守るように観戦を始めたのだった。

そうなって来ると、気分は正義のヒーローである。

とは言え、室内には怪我をした女性が横たわっている。その旨を周囲に伝えて、俺は化け猿を誘うようにマンションの西の端に設置された非常階段へ向かって争いの場を移動させた。野次馬の幾人かは、恐る恐るながらその後を付いて来たが、それも、階段の全段を飛び降りながら、凄まじい勢いで降下を続ける俺と化け猿について来れずに、すぐに視界の外へと消えた。それから、途中でマンションの外廊下を東から西に抜けて、設置場所を別とする二つある非常階段のもう一方に移動した。当分の間は野次馬達も此方を見つけることは出来ないだろう。西に設置された非常階段から、東に設置された非常階段へ場所を移してからは再び上階へ向かって階段を駆け上り、とにかく上を目指した。

「貴様っ、どこまで逃げるつもりだっ!」

そんな俺の世間体への配慮を知ってか知らずか、背後からは怒気を多分に孕んだ化け猿の濁声が止め処なく聞こえてくる。そして、気づけば目の前にはコンクリートで出来た分厚い壁があった。どうやら最上階まで行き着いたらしい。ここまで来れば良いだろう。下手にマンションの外へ出れば、それだけで大きな騒ぎになってしまう。

「さぁ、後が無くなったぞ?」

俄然やる気満々の様子で化け猿が飛び掛ってきた。

「死ねっ!」

大きく右腕を振り上げて、まるで全身で覆い被さる様にして迫ってくる。2メートルを越える毛むくじゃらの巨体を前にしては、頭ではそれが十分に避けられる一撃なのだと理解できていても、本能的にかなりの恐怖を覚える。

だが、身体は脳が指令を飛ばした通り正常に機能してくれた。

「ぐっ!?」

頭上高く振りかぶられた右腕の下は、その身体が巨大なだけあって無防備となる範囲も広い。そこを突かない手は無いだろう。相手の右腕が左の首筋目掛けて振り下ろされるのを右に小さく踏んで避ける。然る後に、左拳を脇腹へ打ち込んだ。

拳に伝わるのは骨を砕く生々しい感触と、人間のそれを越える暖かな体温である。両者共に決して心地の良いものではなく、出来ればすぐに手を洗いたい衝動に襲われた。

「こ、この……西洋の化け物が……」

相手の身体にめり込んだ拳を引き抜くと、そこからは勢い良く鮮血が噴出した。相手の面が人間離れしているだけあって、手加減も何もなく思い切り打ち込んだのだが、随分と効果があったらしい。皮膚を割って内臓に達した拳は、化け猿の血液によって真っ赤に濡れていた。だが、そんな状態にあって更に、化け猿は再び拳を振り上げて襲い掛かって来た。凄まじい執念である。

「お、おい、ちょっと待てよ」

「黙れッ! 海の向こうの輩に負けるほど俺は弱くなど無いっ!」

放たれたのは顔面を狙った直線的な一撃であった。それを避けるのは造作も無い。膝を屈めて頭一つ分の間隔を空けることで、繰り出された左腕を難無く避ける。そして、守りにも攻めにも移ることの出来なくなった無防備な相手の頭部を、沙希の回し蹴りよろしく、飛び上がり力いっぱい蹴りつけた。

「がっ!?」

漏れた悲鳴は短いものであった。

首の骨が折れる音が思いのほか大きく周囲に響いて感じられた。昆虫以上の図体を持った生物を殺したことに対する背徳的な感傷によるものだろう。それは、想像以上に心に来るものがあった。とりあえず、相手の外見が人間から遠い存在であったことに、今は感謝しておく。

「あぁ……」

支えを失った身体は、コンクリートの壁にもたれかかる様にしてゆっくりと倒れていく。そして、ずるずるとその身を滑らしながら、最終的には肩を地に落として、冷たい灰色の床に朽ちる事となった。

どうやら完全に絶命したようだ。

「…………」

いくら相手が物の怪であったとは言え、これだけ大きな生物の、しかも人語を操るような相手を殺したのだ。その後には妙に感慨深いものがあった。とはいえ、それは特に後悔の念の様なものはなく、ああ、自分もついに化け物の仲間入りをしてしまったのだな、という諦めにも似た空虚な感傷である。

「…………いま何時だ?」

気づけば既に日は落ち空は夜の態を見せ始めていた。頭上には煌々と輝く月や、数多の瞬く星々の姿が見て取れる。ポケットの中に入っていた携帯電話を取り出してディスプレイに目をやると、そこには今が19時11分であることを示す表示がなされていた。

遠くからはパトカーや救急車の鳴らす警報が聞こえて来る。その目的地は十中八九このマンションであろう。俺も早く自室に戻った方が良さそうだ。普段ならばそろそろ箸を取る時刻である。これ以上待たせると腹を空かせたエリーゼの機嫌を損ねるのは目に見えている。もしもアイツが暴れ始めたのなら、それはこの化け猿の比で無いだろう。

さし当たって目下の問題は、目の前に横たわる化け猿の死体の処理である。その辺も含めて自宅に戻り、エリーゼに相談して何とかして貰うとしようか。でなければ、とりあえずこの辺りに隠しておいて、真夜中になったら適当な場所へ捨てに行けば良いだろう。なんなら、吉川の家で燃やさせて貰うという手もある。

だが、それでは作業に入ろうと足を一歩前に出したところで、予期せぬ例外は投げられた。

「貴方は……、エリーゼ・フォン・マルファッティのファミリーですわね?」

その問いは遥か頭上から聞こえてきた。

「っ!?」

慌てて頭上を仰ぎ、声が聞こえてきた方向に目を向ける。

そこに居たのは昼のアーケード街でエリーゼに虐められていた赤髪の少女であった。少女は非常階段の最上部のこの場にあって、更にその上にある屋上の縁に立ち、昼に見たとき着ていたのと同じ、白い英字プリントのTシャツを風にはためかせながら、此方を見下ろしていた。

「違いまして?」

Tシャツに短パンというオーソドックスな夏のスタイルに、赤い縦ロールの長髪という、その明らかに不釣合いな出で立ちは、一度目の当たりにすれば一生忘れられそうに無い。間違いなく昼に出会った少女である。

「あ……、その……、な、なんでこんなところに居るんだ?」

咄嗟の事で返す言葉が頭に浮かばずに、気づけば質問に質問を返していた。

「この辺りを散策していましたら、ちょうど貴方がこの猿の化け物と争っているところを見つけたのですわ」

なるほど。

「それで、此方の質問に関してですが、貴方はエリーゼ・フォン・マルファッティのファミリーで間違いありませんでして?」

有無を言わさぬ強い口調の少女に、俺は思わず素直に頷いてしまっていた。

「あ、ああ。そうだけど、それがどうかしたのか?」

そこが運命の分かれ目だったのかもしれない。

「なるほど。やはり、私の見立ては正しかったようですわね。まさか、あのエリーゼ・フォン・マルファッティがファミリーを作ったなどとは、本来は眉唾物ですが、昼に出会った時の様子からして、貴方の今の応答は十分な説得力を持っておりますわ」

俺の言葉に一人納得した様子でうんうんと頷いてみせる。それから、静かに屋上の縁を蹴り、俺の立つ非常階段の踊り場へ降りてきた。土埃に汚れた白いスニーカーが、スタっと軽い音をたててコンクリートの上に立つ。

「エリーゼと喧嘩をするなら他所でやってくれよ?」

俺の家が壊れるようなことがあっては堪らない。

「そうですわね、これも良い機会ですし、神様が私に下さったチャンスなのでしょう。本来ならばこういった手段を用いるのは不本意ですが、正攻法で敵わない以上、仕方ないですわね」

「何の話だ?」

「貴方を人質に取らせていただきます」

「はぁ?」

なんて自分勝手な申し入れだろう。

「ちょ、ちょっと待てよ」

会話の断片を拾うに、腕っ節でエリーゼに劣る少女が、俺を出汁にして、昼間のリベンジを果たそうという魂胆らしい。

エリーゼよりも頭一つ分ほど大きな背丈を持った少女は、今年度の身体測定で181cmを越えた俺と並べぶと、ちょうど胸のあたりに頭がくる。おおよそ140cmを少し越えたかどうか、といったところだろうか。それを踏まえると、エリーゼの身長がいかに低いかが理解できよう。頭部を大まかに20cmだと見積もっても、120cmしかない計算になる。いつか、アイツの背丈を計ってみるのも良いかもしれない。

そして、そんな視線の位置関係にあって、少女は此方を頭上に見上げながらも、腰に手を当てて自信に満ちた眼差しを向けてきた。エリーゼの語った話では、この少女の身体能力は俺のそれを遥かに凌駕するらしい。

「所詮、この世は弱肉強食が常ですわ。貴方も大人しく観念して私の手中に陥って頂きます」

「っ……」

赤髪の少女の手がスッと伸びて、俺の腕を掴んだ。

咄嗟に後ろへ下がろうとしたものの、5本の指はしっかりと二の腕を握り締めて離さない。それこそ、押しても引いてもビクともしない程にである。

「これほどの幸運を逃がすと思いまして? 先ほどの様子から、貴方自身の能力がそれほど高くないことは理解しておりますわ。まさか、エリーゼ・フォン・マルファッティのファミリーがこの程度とは驚きでけれどね」

「ひ、卑怯な事を考えてないで、正々堂々とエリーゼに挑めよ!」

その構図は、いつかの放課後、高校の教室での嫌な思い出を髣髴させた。身を捩って相手の手中から逃れようと試みるが、腕は万力によって挟まれているかの様に微動だにしない。確かに、この少女は先ほどの猿とは比べ物にならない程の化け物である。

「怪我をしなくないのなら、素直についてくるのが利口だと思いますわよ?」

エリーゼの相手を見下した嗜虐的な笑みとはまた違った、自信と力に満ち溢れた真っ直ぐな微笑を浮かべて、まるで年下の相手を諭すような、穏やかな口調で語りかけてくる。これはこれで悔しい。

「……糞っ」

やはり、エリーゼの言葉に素直に従って家で大人しくしているべきであった。

「それでは、私と共に来て頂くとしましょう。無論、貴方に拒否権はありませんわ」

「この野郎、畜生っ、離せよコラっ!」

「貴方がそこに横たわる彼にしたように、今度は私が貴方を蹂躙する番ですわ」

それは、小鹿を仕留めた食事中のハイエナを、後から来たライオンが狩る様に、法と秩序の整った現代社会では滅多にお目にかかることの敵わない、弱肉強食の手本とも言えるべき展開であった。

「大人しくしていないと、身体を打ちますわよ」

赤髪の少女は俺の腕を掴んだまま、非常階段を作るコンクリートの壁の上に飛び上がった。無理な体勢で腕を引っ張られて身体が捩れた。とても痛い。しかし、それ以上にショッキングな出来事が、次の瞬間には待っていた。

少女は一切の躊躇なく、夜の街へ飛び出したのである。

「ちょ、ちょぉおおおおおおおおおおおおおっ!」

そこから先のことは全く覚えていない。

フッと蝋燭の火が掻き消えるようにして俺の意識は掻き消えたのだった。