金髪ロリツンデレラノベ 第三巻

第二話

目が覚めると、俺は薄汚れた六畳間の和室に寝かされていた

柔らかで厚みのあるスプリングを持つ自宅のベッドに慣れた身体は、弾力性に欠ける薄い布団の上で、背中に多少の痛みを訴えていた。どうやら、気を失った俺に対して、少女はそれなりの待遇を持って接してくれたらしい。その点は同じ人外であってもエリーゼとは大違いだ。

横たわっていた体を起こし、布団の上に腰を下ろしたまま、周囲の様子を伺ってみる。

「…………」

部屋には、俺が寝ていた布団の他に、丸い小さなちゃぶ台と、同じくこじんまりとした、飾りっ気の無い和ダンスが一つあるだけであった。しかも、そのいずれもは強烈な昭和の趣を持っていた。剥げかけた塗装の色合いも美しい、よく言えば日本古来の伝統的な、悪く言えば古くてボロい、非常に特徴的なデザインの家具達であった。

俺の居る畳敷きの居室から、曇りガラスのはめ込まれた木製の引き戸を一枚挟んだ隣には、ベニヤ張りの台所がある。引き戸は7割程が閉められており、その隙間からは赤髪の少女が流し台に立っている姿が垣間見えた。どうやら、何か料理を作っているらしい。スチールの光沢も既に失われた赤錆の目立つコンロには、使い古されたアルミ鍋が弱火にかけられ、クツクツと小さな音をたてている。鼻腔に届く食欲をそそる匂いからは、その内容物が肉じゃがであろうことを推測させる。

「…………どこだ、ここ」

状況からして、この場が赤髪の少女の家であろうことは容易に想像できる。しかし、中世ヨーロッパの貴族や王族を思わせる彼女の特徴的な口調や振る舞い、それに縦巻きロールの髪型からして、目の前に広がる純和風の、しかも、かなり質素な部類に入るこの邸宅の様子は、不釣合いにも程があった。有り余るギャップに違和感を覚えるのは当然の事であろう。

「ん、気がつきましたわね」

俺の声に反応して、エプロン姿の少女が背後を振り返った。手には包丁を握り、まな板の上には切りかけのキュウリの漬物が乗っかっている。

「ここって、お前の家か?」

疑問をそのまま口にすると、相手は特に気にした風もなく頷いて答えた。

「そうですわ。それがどうか致しましたか?」

予想は正しかったらしい。

「いや、別に、だからどうだって訳じゃないんだけど、さ……」

視線をまな板の上のキュウリに移した少女は、他に何を喋れば良いのか分からない俺に変わって、キュウリの漬物を刻みながら言葉を続けた。

「あの後、気を失った貴方を抱えてこの家まで戻ってきたのです。まさか、エリーゼ・フォン・マルファッティのファミリーともあろう者が、あれしきの事で気絶するとは思いもしませんでしたから、一体何が起こったのかと、私まで混乱してしまいましたわ」

「あ、ああ、そりゃ悪かったな」

俺は文句を言われるような立場にいるのだろうか?

「まったくですわ」

有無を言わさぬ強い口調であった為に思わず素直に頷いてしまったが、それは人外達の常識であって、俺を含める一般人の常識ではない。とはいえ、そういった部分にいちいち突っ込みを入れていると、無駄に疲れそうなので今は遠慮しておくとしよう。

「ところで、貴方、食事は既に取ってしまっていて?」

「晩飯か?」

「ええ、そうです」

キュウリの漬物を丸一本切り終えた少女は、包丁とまな板を流しで簡単に水洗いし、濡れた手をエプロンで拭いて、再び此方に向き直った。

「あと少しで食事の仕度が整いますが、もし望むのであれば、貴方の分も用意できますけれど、いかがしますか?」

曇りガラスのはめ込まれた仕切り戸を開けて、此方の部屋にやって来た少女は、部屋に唯一あるガラス窓にかけられたカーテンを閉じて、室内灯の紐を引っ張り明かりを点ける。それまで台所から届く薄暗い光源が全てであった和室に、多少頼りなさ気な感のある蛍光灯の照明が加わった。

「俺の分まで作ってくれたのか?」

「別に一人分作るのも二人分作るのも大して変わりませんわ。それに、貴方に見られながら私だけが食事をしている、という光景も、想像してあまり心地良いものではありませんでしたから」

「そういうことなら、是非ともご相伴に預かりたいです」

「わかりましたわ」

答えた少女は布団の上に座ったままの俺の前に立ち、そして言葉を続けた。

「でしたら、とりあえず腰を上げて下さらない? 布団を仕舞いますわ」

「あ……、ああ。わかった」

特に怪我をしている感じも無かったので、慌ててその場から立ち上がり、畳の上を部屋の隅まで移動した。

少女に拉致された際には、手錠をされたり、縄で縛られたり、猿轡を噛まされたりといった風に、もっと鬼畜な展開を想像していたので、このような日常の一風景そのままなやり取りは、誘拐犯とその被害者が演じる舞台としては、何か違う気がしてならない。感覚としては友達の家に遊びに来ている学生、といった気分だった。

「よいしょっ」

短い掛け声と共に、部屋に入って左奥に設置された押入れの中へ布団を収納する。小さな体で両手一杯の布団を抱えている様は、見ていて自然と心が穏やかになった。その内に秘める身体能力を考えれば、本人にとってそれ自体は造作の無い作業なのだろう。だが、両手に余るサイズの布団を抱えて歩くその様は、自然と勝手な妄想が働いてしまうのだ。

「…………」

押入れの中を見た感じでは、布団は一組しか備えられていないようだ。どうやら彼女は自分の寝具を俺に貸してくれた様である。幾ら自分が攫って来た相手とはいえ、初対面の異性に対して自らの布団を貸し与えるとは、随分と心の広い奴である。

「………ふぅ」

トンという軽い音をたてて押入れの襖が閉まった。

「あ、どうも」

なんとなく申し訳ない気分になり、作業を終えて此方を振り返った少女に対して、俺は自然と会釈をしていた。

「何か手伝おうか?」

自分より小さな子供が働いているのに、何もしないで見ているというのは落ち着かない。そんな台詞は自然と口をついて出た。

「そうですわね。それでしたら、そこにあるテーブルを出して、食卓の準備を手伝ってくださいませんか? 食器を運ぶ程度で構いませんから」

「おう、わかった」

布団を仕舞い終えた少女は、頷く俺の姿を尻目に台所へ向かった。

そこにあるテーブルとは、足を折って畳まれ部屋の隅に立てかけられている、こげ茶色の丸いちゃぶ台の事だろう。随分と年季の入った品であり、手に持ってみると思いのほか重量があった。近年良く目にする、脚部を金属で作ったカラフルな色彩を持つそれらとは一線を画した、その背後に歴史を感じさせる巧みなちゃぶ台である。随所にある傷や凹みまでもが、逆にデザイン性を感じさせた。ダメージ加工の入ったジーンズの様なものだろうか。

「食器ってのはそっちにあるんだよな?」

そう確認しながら部屋の敷居を跨いで台所へ足を踏み入れる。

「こちらの棚にありますわ。とりあえず、箸とコップと、あと取り皿を運んでくださいまし」

「はいよ」

そして、少女の指示に従って台所と居室を数往復する内に、それほどの間を置かずして夕食の仕度は整った。二人分の食事なので準備には大した時間は必要ないのだ。

本日の晩餐は、肉じゃがと味噌汁、それにキュウリと大根の漬物という些か質素にも思えるメニューだった。とはいえ、ここ数日に渡って味の濃い西洋料理ばかりを食べていた俺の舌には逆に嬉しく思える、誠に純和風な献立であった。

「どうぞ食べてくださいまし。まあ、舌に合うかどうかは分かりませんが」

「はい、頂きます」

手にした箸を食卓のメインディッシュたる肉じゃがへ向ける。一枚の大皿に載せられたそれを、手元の小皿へ適当な量だけ取り分けた。俺が取り終えるのを待って、少女もまた自分の分を小皿へ取る。

ジャガイモと豚ばら肉を挟み、口へ運んだ。

「んぅ、結構美味い」

少女の作った食事は、事前に予想していた程度より断然に美味しいかった。自分も日常的に包丁を振るう身なので、味に関しては多少の理解もある。それを踏まえての評価だ。その容姿から大した期待もしていなかったのだが、これは予想外であった。

「そうですか? 肉じゃがならまだ鍋に少し残っているので、よろしかったらどうぞ」

「本当か? それは嬉しい」

いつもは自分が作って振舞う側にいるので、こうして他人の作った食事を食べるというのは久しぶりである。最後に知人が作った料理を口にしたのは、夏休みの始まる前に食べた沙希の料理だったか。

「こうして食事をしている内に、エリーゼ・フォン・マルファッティも自らのファミリーの所在に不安を覚えて、此方へやって来るでしょう」

茶碗を片手に持って、少女が呟いた。

「そうだなぁ、夕飯を作り途中で来ちゃったから、怒ってるかもな」

少女の言うような甲斐性をエリーゼが持っているとは到底思えないが、此処へ来る、という結論だけを論じるならば、それはきっと正しいだろう。ポケットから取り出した携帯電話の外部液晶に目を向けると、時刻は既に午後の9時を回っていた。

「というか、随分と聞くのが遅れちゃったけど、君はなんていう名前なんだ? いきなり人のことを攫ってくれて」

手にしたお椀を口元へ運びながら、直径1メートル程の大きさのちゃぶ台を挟んで対面に座る相手へ目を向けた。即席のインスタント食品では味わえないカツオの出汁が良く効いた味噌の味が口一杯に広がっていく。

「そういえば、まだ名を名乗ってはいませんでしたわね。貴方と私のつながりは一時的なものですし、別にする必要があるとは思いません。ですが、一応名前くらいはお互いに知っておいたほうが便利でしょうから教えて差し上げます」

「ああ」

別に喉から手が出るほどに知りたい、という訳ではない。しかし、エリーゼが来るまでの間を相手の名前を利用せずに代名詞だけで言語コミュニケーションを試みろ、というのは多少なりとも骨の折れる話であろう。大した苦労があるわけでも無いので、覚えておくのが無難だ。

「私の名前は、ローザ・ビルケンシュトックといいますわ。姓は、日本人には発音しにくいでしょうから、ローザと呼んで下さって結構ですわ」

手にした箸をちゃぶ台の上に置き、少女は自らの平坦な胸に手をあてて、その名を口にした。

それはまだ、俺の身長がエリーゼ並に低かった頃の話だが、この少女の様な姓の人達が多く住まう国に、数年間に渡って滞在していた経験がある。どうやらこの赤髪の少女はドイツの出身であるようだ。その割には流暢な日本語を話す事に疑問を覚えるが、まあ、その辺は自分も同じだし、相手は人間でさえないのだ。気にするだけ時間の無駄だろう。

「わかった、ローザだな」

「はい」

彼女の名前が日本名で無いのは、その白い肌や、線のくっきりとした彫りの深い顔つきから明らかであり、特に驚くべき事でもない。とはいえ、こうして改めて名前を口にされると、相手が人間かそうでないかの区別よりも前に、自分とは違う国の人間である、という意識が強く働いた。

「それで、そちらは?」

順を追って、今度は此方が名乗る番である。

「俺は近藤雅之っていう名前だ」

至って普通の日本名である。

「近藤雅之、ですわね。覚えておきますわ」

「近藤でも、雅之でも、好きなように呼んでくれて構わないから」

そう言って、小さな茶碗に盛られた白米を口に運ぶ。

「分かりましたわ。では、近藤さんと呼ばせて頂きますわ」

「ああ」

答えた少女の言葉に、口から箸を抜いて小さく頷いた。

それからしばらくの間は二人の間に大した会話も無く、黙々とした食事の時間が流れた。お互いの咀嚼音が、六畳一間の部屋にあって、嫌に大きく耳に届いたのは、きっと、多少なりとも俺が緊張を持ってその場に挑んでいたからだろう。

ただ、そんな感覚も肉じゃがの御代わりを申し出た頃から段々と薄れ初めて、当初は正座をしていた足も、その十数分の後には胡坐へと変わり、段々とくつろぎを感じられるまでに変化していった。なによりも大きかったのは、この部屋が畳敷きの和室であったことだろう。やはり、日本人は畳みの上が一番しっくりと来るものだ。

「ところで、一つ質問があるのですが、よろしいですか?」

そろそろ食事も終わろうか、という頃になって少女が視線を食卓から俺に移った。この期に及んで何を聞きたいというのだろうか? まあ、一食の礼ということもあるし、変な質問でなければ答える気はあるのだが。

「なんだ?」

茶碗にこびり付いた白米の粒を、一箇所に集める作業を一時中断して顔を上げる。

「このような事を貴方に聞くのは失礼かも知れませんが、どうしても気になるので一つだけ聞かせてください。どの様にして貴方はエリーゼ・フォン・マルファッティのファミリーと成ったのですか?」

尋ねる少女の表情は、本当に何も知らない無垢な女の子の様であった。別にそれを語ったところで問題は無いと考え、俺は素直に事の経緯を話すことにした。それは夏休みに入る前の、段々と蒸し暑さも増してきた6月の末日の出来事である。

「まあ、なんていうか、事故みたいなもんだよ」

それが素直な感想である。多分、エリーゼに同じ質問をしても、そう言葉を返すような気がする。初めて出合った時点では、相手も此方の精神さえ奪うつもりでいたらしいのだから、決して間違った推測では無いだろう。

だが、赤髪の少女は眉を顰めて難色を示した。

「事故ですか? それで、彼女は納得して貴方をファミリーに迎えたのですか?」

事故と聞いてどのような想像をしたのだろうか。まさか、現代における交通事故の様な偶発的かつ一方的な事故を思い起こしたのだろうか? 仮にあのときの出来事を交通事故に例えたとすれば、それは10tトラックに轢かれた自転車の哀れな死傷事故だろうか。無論、加害者側の10tトラックがエリーゼであり、被害者側の自転車は俺だ。そう考えれば、その想像も遠からず近からずといった所だろうか。

「確認した事は無いけど、多分、そうだと思うぞ」

そうでなければ、こうしてのうのうと暮らしてはいられないだろう。それに、エリーゼと出会う前までの俺の日常をアイツは保障すると約束してくれたのだ。それはきっと、俺が傍に居ても良い、という意思の表れなのだと信じたい。でなければ、足の指まで舐めた意味がなくなってしまう。

「やっぱり私には信じられませんわ。あのエリーゼ・フォン・マルファッティがファミリーを作るだなんて……」

「でも、現に居るんだからしょうがないだろ?」

渋る少女に、自らを示して答えた。

とはいえ、そうは言っても相手を納得させられなければ意味が無いので、俺は件の概略を語ることにした。渦中にあった時は、様々な出来事が怒涛の勢いで一挙に押し寄せて、それはもう、非常に慌しく大変なものに感じられたのだが、実際に口頭で話の流れだけをまとめたならば、それは思いのほか簡単なものであった。

エリーゼに首を噛まれた。沙希に殴られた。変な中年親父に捕まった。エリーゼに助けられた。エリーゼを助けた。一緒に変な中年親父をやっつけた。めでたしめでたし。

こんな具合だ。

こうして見ると、安いB級アクション映画の様な話の流れである。

「……………」

俺の思い出話を耳にして顎に手を当てた少女は、その場で考え込むように視線をちゃぶ台に落として静かになった。そして、少女が黙ると部屋には音が無くる。この部屋にはテレビやステレオといった音源が全く無いのである。卓上に用意された食事を空にした俺は、手持ち無沙汰なまま少女の返答を待った。

「そうですわね……。幾ら考えたところで、昼間には実際にこの目でその様子を確認したのですから、きっと事実なのでしょうね」

「証拠になるようなものなんて一切無いからな。それに、ファミリーに成ったとは言っても殆ど下僕扱いだし、挙句の果てにはペット呼ばわりされるし、溜まったもんじゃないよ。きっと、居ると便利な小間使い程度にしか思っていないんだろうな」

説得力のある根拠を挙げられないで申し訳ないが、こればかりはどうしようもない。理解を妥協して貰う他に手は無い。

「…………そうですか」

「ああ、今の生活だって事後の惰性で続いているに過ぎないしな。俺はアイツと居れば日の下でも生活できるし、アイツだって衣食住が保障される。ただそれだけの簡単な関係だよ」

「…………」

俺は尻の下に敷かれた座布団を後ろにずらして、胡坐をかいていた足を前に伸ばした。足先は円形のちゃぶ台のちょうど真ん中辺りまで至る。幾ら畳が好きであっても、椅子の生活に慣れた体は、長時間に渡って尻と足先が同じ高さにある状態に根を上げていた。

「……食後のお茶を入れてきますわ。貴方も飲みますわよね?」

すると、そんな様子を目の当たりにして、ふと少女が席を立った。そういえば、食事中は特に水分を取っていなかった。味噌汁があったので咥内が乾く事は無かったが、食卓には塩分の濃い漬物の類もあったので、水分を取りたいという欲求はある。

「ああ、是非とも欲しいです」

返答を背中に聞きながら、少女は台所へ向かっていった。

それにしても、拉致の被害に現在進行形で遭遇いる筈なのに、自宅にいるより居心地の良い環境にあるというのは、はてさて、一体どういうことか。特に何もせずに食事は出てくるし、食後はお茶まで自分で席を立たずとも手元に届くというのだ。なんだか、逆に申し訳なくなってしまう。

蛇口から水の出る音が聞こえて、それから二口あるコンロの一方に火が点った。どうやら、この家に電気ポットの類は無いらしい。少女は火のかけられたコンロの前で、ジッと湯が沸けるのを待っている様であった。

「…………なぁ」

なんとなく、他にする事も無いので声をかけた。

「なんです?」

応じて少女が此方を振り向く。

「お前って吸血鬼なのか?」

それは、コイツに出会ってから今に至るまで疑問に思っていた事だ。エリーゼ並とまではいかないが、明らかに人間離れした身体能力を有しているのだ、まさか普通の人間という訳でもあるまい。ともすれば、相手がどういった人外の種に分別される存在なのか、興味を持つのは自然なことだ。そして、エリーゼの知り合いというのなら、同じ吸血鬼なのかと勘繰った次第である。

「そうですわ。私は貴方やエリーゼと同じ吸血鬼ですわ」

すると、予想は正しかったらしく少女は問いに頷いた。

ただ、そうなると幾つかの疑問が浮かぶのだ。

「でも、お前って昼に外でエリーゼと喧嘩してたじゃん。吸血鬼って太陽の光を浴びちゃあ不味いんじゃなかったのか? それとも、エリーゼみたいに太陽の下でも問題無い体質なのか?」

「それは、あの場を思い出して下されば自ずと答えは見えてきますわ。あそこには大きな屋根があったでしょう?」

「アーケードか?」

「ええ」

なるほど、あんなものであっても直射日光さえ防ぐことが出来たのなら、日の出ている時間帯に外を動き回る事が可能なのか。今まで怖くて実験した事も無かったのだが、これは結構な情報である。

「恥ずかしながら、あの時はバイト先から帰る機を逃してしまい、太陽が沈むまでの時間を時間を潰していたのです。とはいえ、それがきっかけで彼女を見つけることが出来たのですから、棚から牡丹餅とはまさに事のことですわ」

「ふぅん」

バイトというのは、やはり深夜バイトなのだろう。陽光が天敵である吸血鬼の身では、従事できる仕事も自ずと限定される。しかし、それよりも問題なのは、実際の年齢ならばいざ知らず、外見に関しては良く見ても12,3歳程度としか判断できない、その幼い身体つきである。

「その身体で雇ってくれるようなバイト先があるのか?」

寿命の存在しない吸血鬼に対しては、現行の戸籍制度も意味を持たないだろう。つまり、社会的な身分の保障がなされないのである。そう考えてみると、こうしてアパートを借りて普通に社会生活を営んでいる事自体が不思議でならない。

「それはもう、とても苦労して見つけましたわ」

「やっぱりエロいバイトなのか?」

最近はこういった背丈の小さな少女にも大きな市場があるという。

「ち、違いますわっ! 貴方は私を何だと思っていますのっ!?」

「なんだ、違うのか……」

とても残念そうなリアクションを取ってみせると、台所に立つ少女は勢い良く背後を振り返り、眦を吊り上げ鋭い瞳を向けて大きな声を上げた。その頬には薄っすらと朱色が差しているようにも見える。どうやら、そういった下々の会話に対する免疫が無いらしい。

「当たり前ですわっ! バイト先は健全かつ真っ当な町の工場ですし、そこで働いている人達だって、どなたも親切で優しい人ばかりですっ! 非常に良い雇用先ですわっ!」

それにしても、たった一言のジョークでここまで激しく怒ってくれるとは、随分と冗談の通じない性格の持ち主である。今後は会話の内容に注意すべきだろう。

「わ、わかったよ。わかったから怒鳴るなって」

「それは貴方が私を侮辱するような口を利くからですわっ!」

「軽い冗談だよ。悪かったって」

「私はそういった下品な冗談の類は好きませんっ」

「ああ、これからは気をつけるよ」

まったく難儀な性格をしている。

それはエリーゼや沙希と出会ってから薄々感じていた事なのだが、人外の連中というのは、その身体能力のみならず精神的な面に関しても、一般的な人間とは大きくかけ離れている気がする。今まで出会ってきた人外の者達は、その誰もが洩れること無く、世間の常識とは一線を駕した性格をしていた。

「………………」

再び身体を流し台に向けて、視線をコンロの上で火にかけられているヤカンに戻した少女は、それから続ける言葉も無く黙ってしまった。仕方なく、俺もそれに習って口を閉じて、六畳一間の部屋の様子に眺めながら時間を潰す事にした。

まず、少女の暮らすこの部屋には圧倒的に家具が少ない。目に付くものは部屋の中央に置かれたちゃぶ台と、部屋に入ってその正面にある窓の右側に置かれた、俺の背丈より若干低い高さの和箪笥だけである。畳の上にも特にこれといって物が置いてあるわけでもなく、部屋は妙に閑散として寂しい感じがする。和箪笥が置いてある側とは反対の壁には押入れの襖があるが、その中も先ほど確認した限りでは、下段に収納された布団の他に、上段に古ぼけたダンボールの箱が2つほど入っているだけであった。

また、部屋自体も非常に古めかしさを感じる作りをしている。室内の四隅にある木製の柱は日に焼けて色あせ、小さな傷が幾つも付いているし、壁は日本古来より伝わる左官仕上げの土壁であって、軽く周囲を見渡しただけでも、擦れて色が薄くなっている箇所が幾つか発見できた。

今まで口に出して指摘することはしなかったが、赤髪の少女、ローザ・ビルケンシュトックの暮らしは、誰の目から見ても明らかに貧乏であった。自分の家を貧乏だと評する知り合いは幾人かはいるが、それにしたって、これほどまでの赤貧ぶりを披露してくれた者はいない。

とはいえ、小学校を卒業したかどうか、それさえも怪しいような容姿の彼女が、保護者といえるような存在も無くこの国の社会体制に従って生活していることを考えると、今あるこの六畳一間の空間を手に入れたことさえ、俺には奇跡にも感じられた。

人外の力を振るえば、幾らだって望むものを手に入れられるだろうに、わざわざ人の理に従って生きているとは、律儀と言えば律儀な奴である。そして、その待遇に見合わない容姿と言動が、妙に哀れを誘うのだ。

「…………」

気分的には中世ヨーロッパの没落貴族の令嬢を眺めている気分だった。

そんな勝手な感想を胸中に抱きつつローザの後姿を眺めていると、コンロにかけられたヤカンがその内部に溜め込んだ熱気を噴出して甲高い音を上げた。どうやら、湯が沸けたらしい。

ヤカンに満ちる湯を手際よく急須に移したローザは、湯飲み茶碗ふたつに冷凍庫から取り出した小さな四角いブロック状の氷を目一杯放り込み、急須と共にそれをお盆に乗せて、居室のちゃぶ台の上まで運んできた。

ひんやりとした冷気を放つ湯のみ茶碗に湯気の立つ熱いお茶を注ぐと、熱湯をかけられた氷はパキパチと音を立てて沈み、すぐに小さくなって消えた。ローザはそれを手に取り、どうぞ、と言って俺の手元に置く。

「なんか、新鮮な感じのするお茶の入れ方だな」

半袖一枚で生活できるようになってからは湯を沸かすも億劫なので、自宅でも外出先でもスーパーやコンビニエンスストアで購入したペットボトルの飲料水ばかりを飲んでいた。だから、このように湯を沸かして茶葉から煎れたお茶を飲むのは数週間ぶりである。

「そうですか? 別にお茶くらい幾らでも飲んでくれて結構ですわよ。そう値の張るものでもありませんし、幸いにしてこの国では水も安いですから」

「ああ、ありがとな」

「どういたしましてですわ」

口の中に広がる茶葉の風味は、決して高価な品のそれではないが、久しぶりに飲む急須から注がれた茶ということもあって、妙に美味しく感じられた。

「それにしても、エリーゼはまだやって来ませんの?」

湯飲み茶碗に満ちた薄い緑色の液体を一口飲んで、ローザがそんな事を聞いてきた。

「やって来るって、此処へだよな?」

「そうですわ。貴方も彼女のファミリーならば、相手の居場所くらい分かるでしょう?」 そういえば、そんな設定があったことを思い出した。

相手の居場所が分かる、とは言っても、相手の居場所を意識して知ろうとしなければ、自動的に頭の中に流れ込んでくるようなことも無く、逆に、相手を意識すればいつ如何なるときでもその居場所を知ることが出来る、そんな不思議な能力なのだ。

「多分、動いている気配は無いと思う」

「それは本当ですの?」

ローザは訝しげな表情を作って首を傾げる。

家から出て行く際には、やめておけと止められたにも関わらず、かなりの大見栄を切って飛び出して来たのだ。あそこまで偉そうなことを言っておいて、あっさりと敵の手中に収まったとあっては、助けに来てくれる見込みなどゼロに等しい。

「貴方と彼女はファミリーじゃありませんの?」

やはり、ローザのこの反応からして、吸血鬼における一般的なファミリーとは、それ相応の仲であるのが普通らしい。だが、俺とエリーゼの間には、男と女の甘い関係も、太い絆で結ばれた友情も、一切存在しない。

「俺とエリーゼがファミリーに成るに至った経緯はさっき話しただろ? その辺を考慮すれば分かってもらえると思うけど」

今の共同生活にしたって先の件を発端に惰性で続いているに過ぎないのだ。お互い共に居ると都合が良いから一緒に居る。少し寂しい気がしないでもないが、きっと、ただそれだけの仲なのだろう。

「………そうでしたわね。失念していましたわ」

ちゃぶ台の上に湯飲み茶碗を置いて、ローザは大きなため息をついた。これで、彼女の計画は見事に頓挫した訳だ。「蝦で鯛を釣る」とはよく言うことわざだが、俺を針に括って得られる価値は、蝦はおろか、磯に転がる石の下に潜むイソメ程も無いだろう。自分で言っていて、少々悲しい気がしないでも無いが、間違ってはいないと思う。

「となると、俺を人質にして打って出るか?」

「そうですわね、最終的には相対するに違いありませんし、それが無難でしょう。ですが、ただ人質に取っただけでは意味がありませんわね」

「なんでだ?」

ローザはエリーゼを倒す為に俺を攫ったのではないのだろうか? 軽い気持ちで疑問を投げかけると、少女はちゃぶ台に落としていた目を此方に向けて、とても真剣な表情で語り始めた。

「それには、私が彼女を追う理由から説明しなければなりませんわ」

「理由?」

「ええ、エリーゼが私に対して行った過去の悪行をですわ」

此方を見つめてくる少女の瞳は、室内照明に照らされて鋭く金色に輝いていた。

対して彼女の憎悪の対象であるエリーゼは蒼く澄んだ瞳をしているのだが、青色と黄色は加法混色及び減方混色の原色であり、お互いに補色の関係にある。補色とは混ぜれば白色になる関係の色を指す。だからなんだと言われれば、まあ、大したことではないのだが、そんな瞳の色を持つ二人だ、喧嘩をしてもお互いに白けるだけだから止めておけ、と被害者である俺は言いたい

だが、語る少女の口は止まりそうになかった。

「それは、今から年を遡ること600年、詳しくは忘れてしまいましたが、大体それくらい昔の出来事ですわ」

「随分と昔だな」

今から600年前といえば、日本は、時代区分上では中世にあり、室町時代が該当する。戦国時代の一歩手前にあって、西暦1400年前後は将軍足利義満の活躍により室町幕府の全盛の頃であった。ちなみに、この足利義満という人物は、アニメ「一休さん」に登場する将軍様であり、劇中での「屏風絵の虎が夜な夜な屏風を抜け出して暴れるので退治して欲しい」という台詞は非常に有名である。とはいえ、セル画の上では多くの子供達の目に触れている筈の彼だが、実際の知名度は思いのほか低い。

「その頃の私は、まだ日の下を歩ける普通の人間でしたわ」

まあ、そんな薀蓄はどうでも良い。

俺は大人しく少女の昔話に耳を傾ける事にした。

「当時、ドイツのレーゲンスブルクで貴族の娘として生を受けた私は、優しい両親の元で日々の暮らしに何の不自由も無く、とても幸せな毎日を送っておりましたわ」

少女は黄金色の瞳をやんわりと細めて言葉を続ける。

「小鳥の囀りとカーテンの隙間から漏れる陽光に目を覚ました私は、一流のシェフが作る少し遅めの朝食を楽しみます。そして、職人が丹精込めて整えた幾万ものバラが咲き誇る庭園を勝手気ままに散策しながら、一日の始まりを感じるのですわ」

「…………」

なんだ、その御伽噺に出てくる様なお姫様の目覚めは。

「昼は気心の知れた友人を家に招き、一緒にランチを食べながら、週末に控えた近隣諸国への旅行の予定を立てるのです。当時は年に数回程の頻度でイタリアを巡り、観光を楽しんだものですわ」

俺が特に何の反応もせずに黙っていると、少女はそのまま、自分の優雅な生い立ちをつらつらと語り始めた。まあ、別に他にやる事があるわけでもないので、仕方なくそれに付き合って聞き耳を立てることにする。

「昼食を終えてからは、麗らかな午後の日差しの下で、読書とチェンバロを嗜んでいましたわ。これでも、後者に関してはそこそこの腕前でしてよ? 幼少ながら、結構大きなコンクールで入賞した経験もありますの」

チェンバロ?

そんなの学校の音楽の時間でも習わない代物である。というか、楽器自体も写真でしか見たことが無い。それまで疑問に思っていた、少女の妙に浮世離れした言動は「貴族」の二文字で説明がついた。

「日が暮れてからは、お父様が屋敷に帰ってくるのを待って、愛すべき家族と共にディナーを取るのです。週に一度は、屋敷のシェフではなく、お母様が食事を作る日があって、私はそれが楽しみで仕方ありませんでしたわ。お母様の作る暖かなシチューの味は今でも鮮明に覚えていますわ」

「やっぱり、貴族ってシェフとか抱えてるもんなんだな」

「ええ、当時は一つの屋敷に幾人ものシェフが使えているのが普通でしたわ」

俺も一度でいいからそんな生活がしたいと思う。

「そして、一日の最後は天蓋の付いた、大きなフカフカのベッドに身を投げて、グッスリと幸せな夢を見て眠るのです。まるでシーツの海に体が吸い込まれてしまうのではないか、などと妄想してしまう程に素敵なベッドでしたわ」

「…………左様ですかい」

なるほど、それがこの少女が人間であった頃の思い出だというのか。

それは、六畳一間のボロアパートで、夕食のオカズに肉じゃがと味噌汁しか準備できない人間の言葉としては、信憑性に大きく欠けて聞こえた。

「ですが、そんな平穏な日々は長く続きはしませんでしたの」

「……残念だったな」

長い前置きを終えて、話は本題へと入る。

「ええ、それもこれも、貴方のファミリーであるエリーゼ・フォン・マルファッティが現れたからですわ」

ローザはとても憎々しげにエリーゼの名前を口にした。

「アイツはお前に何をしたんだ?」

それは昼にローザとアーケード街で出会ってから今に至るまで疑問に思っていた事だ。二人の間に何かしらのしがらみがあってのことだとは思うが、エリーゼ自身は少女を知らないと言うのだから分からない。

「言葉にすれば一言です。私の家族を殺したのですわ」

だが、いざ聞いてみれば、返ってきたのは返答に困る重たい言葉であった。

「彼女は私の愛すべき者達を一瞬にして全て奪ったのです。お父様も、お母様も、まだ小さかった弟も、私の家族は全員が殺されたのです。エリーゼの手によって!」

俺は何と言葉を返せば良いのか。

「なぁ、それって本当か?」

「本当に決まっていますわ!」

少女が両手の平でちゃぶ台を強く叩いた。

その衝撃で上に乗っていた皿や湯飲みが大きく揺れる。

「この憎しみは時が幾百年と過ぎようが、決して忘れはしませんわっ!」

その目はとても真剣で、決して嘘を言っているようには思えなかった。

「だから、今日はとても幸せな日でしたわ。これで私も家族の仇が取れます」

「エリーゼを殺してか?」

「当然ですわ。生かしておいて良い筈がありませんわっ! 彼女を放っておけば、私の様な悲しい目を見る者が増えるだけですっ!」

「………ああ、どうだろうなぁ」

確かに、この少女が言わんとすることは分からないでもない。俺だってエリーゼの破天荒な性格は重々承知している。それに、この目で実際にエリーゼが人を殺すところを目の当たりにした経験もある。放っておけば周囲に被害を与える、という点では大いに賛成である。

けれど、賛成するのはそこまでである。ここ数週間を一緒に暮らした限りでは、アイツは周囲の人間を無差別に理由無く殺すような、気の狂った奴でないことを俺は知っている。そうなると、エリーゼと少女の両親の間に何かしらの因果関係があったと考えるのが普通だろう。他にも、アイツがローザを知らないことからして、人違いの可能性も十分にありえる。

「っていうか、それって本当にエリーゼがやったのか? 人違いとかじゃないのか?」

「人違いな筈がありませんわっ! 決して忘れるものですか、燃える屋敷を背に私を見つめていた彼女の冷たい瞳をっ!」

なかなか、芯の硬いお嬢さんである。

「それだったら、お前の家族がエリーゼに何かちょっかい出したとか、そういうのが原因じゃないのか?」

俺としてはそれが一番妥当な理由だと思う。

「ええ、そうですわね、その可能性は十分に考慮すべきでしょう。私もそういった点を考慮しなかった訳ではありません。ですが、仮にそうであったとしても、家族を奪われた憎しみが消えることは無いのです。起こってしまった結果を前にしては、そこに至る過程など何の意味も無いのですわっ!」

「そりゃ……、そうかもしれないけどさ」

少女の怨恨は相当に根が深そうであった。

別に肩入れをするつもりはないが、エリーゼのファミリーである俺としては、出来れば少女には穏便に済ませて貰いたい。今日のように街の表立った場所で喧嘩をされた日には堪ったもんじゃない。

「っていうか、お前ってこの国の人間じゃないんだろ? なんで日本にいるんだよ。エリーゼだって外人だし、そもそも敵を討つ為にこんな所を探してる時点でおかしくないか?」

「それは、エリーゼがこの国にいるという有力な情報を掴んだからですわ」

「はぁ? なんだよそれ」

一体誰がそんな情報を流したというのだ。

「昨今のインターネットの普及には目を見張るものがありますわね。遠く離れた異国で撮影された映像が、その日のうちに世界中に配信されるのですから。おかげで私もこうして彼女に出会えたわけです」

返されたその言葉には思うところがひとつあった。

「…………」

夏休みが始まる前の、一学期のテスト期間中に起こった超局所的大地震及び、高校の校舎が迷路化した珍事件である。解決から数週間とうい期間を置いた今日にあっても、その記憶は新しく感じられる。それだけ強烈な出来事だったのだ。

そして、その際に魔力を封ぜられたエリーゼは、その場に居合わせた生徒達に好き勝手弄られていた。俺が駆けつけたときには、周囲にはアイツの存在を珍しがって携帯電話のカメラレンズを向けている者も多々いた。もしかしたら、そのときの映像が出回っているのかもしれない。

「その映像を初めて見たときは彼女らしくない挙動に驚かされましたわ。私も人違いであることを疑いました。けれど、画面に映るその姿は間違いなく私の家族を殺した悪魔のものでしたわ」

「それって、この国の学生が写っていたか?」

「ええ、写っていましたわ」

そうか、ならば間違いない。

あのホームレス少女はどうしようもない土産を残していってくれたようだ。

「それから私は、すぐに海を渡りこの国までやって来たのですわ。手がかりはインターネット上で手に入れた映像がだけでしたが、色々と聞き込みを続けている内に、この地域に目星が付いたのです」

「それはまぁ、遠路遥々ご苦労だったな」

「まったくですわ。せめてヨーロッパ大陸に居てくれたのなら、もっと早く見つけることが出来たでしょうに、おかげで家計は火の車ですわ」

「そうだな」

そこまでを語るとローザはふぅと肩の力を抜き大きく深呼吸をした。

「まあ、貴方にはつまらない話を聞かせてしまいましたわね。ですが、これで私がエリーゼを追う理由は分かって貰えたかしら?」

「そりゃもう、十分に理解しましたとも」

これは、下手に俺の口から情報を与えないほうが良いかもしれない。

家を出る前にエリーゼから聞いた話では、この少女の身体能力は俺のそれを遥かに越えるのだそうだ。そんな相手に関心を持たれるのは出来る限り避けるべきだろう。それでなくとも強い敵対心を持っているのだ、その矛先がファミリーである俺に向かないとも限らない。

「ですから、この数百年間に渡って続く私の怨恨は、ただ相手を殺しただけで満たされるような軽いものではありませんの。少なくとも、エリーゼには私が感じた絶望と等しいか、それ以上の感情を抱いて貰わなければ、この憎しみは決して晴れる事はないでしょう。その上で殺すというのならば、私も躊躇はありませんわ」

「随分と難儀な話だな」

「ええ、そうですわね。自分でもそう思いますわ。それがどれほど愚かで意味の無い行為なのかは重々承知しています。けれど、いくら難儀な話であったとしても、これだけは絶対に譲れないのですわ」

ちゃぶ台の上に置かれた湯飲みを両手でぎゅっと握った少女は、その力強い意志を感じさせる黄金色の瞳を、室内灯の光に反射させて輝かせていた。

「初めは、エリーゼの目前で貴方を殺すつもりでいましたわ」

「はっ!?」

な、なんだそれは、そんなの聞いてないぞっ!?

「それも、言葉では言い表せないほど凄惨な方法を用いてですわ」

「ちょ、ちょっと待ってくれよっ!! なんで俺なんだよ、やるんだったらエリーゼをやればいいだろ? 俺は何の関係も無いだろうがっ!!」

いきなり投げかけられた殺人宣言に頭の中は一瞬にしてパニックに陥った。

「ですが、今の貴方のその反応や、先ほど説明を受けた、彼女のファミリーに成るまでの経緯を整理するに、その行為には何の意味も無いのだと理解しました。ですから、そう慌てないで欲しいですわ」

「いや、お前、いきなり殺すとか言われたら誰だって慌てるぞ、普通」

「ですから、既にその意思はありませんわ。エリーゼが貴方に対して愛情を持っていないのならば、貴方を殺すことには何の意味もありません」

これは危機一髪であったと称しても良いだろう。連れ去られてから今に至るまでの間に、エリーゼを庇護するような発言をしていたのならば、俺の身はどうなっていたことか。そこから先は想像に難くない。アイツがこの場にやって来なかったのも幸いである。ここへ来てようやく、自分が拉致の被害にあっているのだという実感を持てた気がした。

「私が貴方に対して出来る説明はこの程度ですわ。満足して頂けたでしょうか?」

「満足もなにも、こんなことなら初めから知らなきゃ良かったよ」

「そうですか? 状況を判断する材料となる情報は多いに越したことありませんでしてよ?」

「俺はそこまで人間が出来てないんだよ」

これでまた俺はエリーゼの存在が発端となる厄介事に巻き込まれた訳だ。

「っていうか、それなら俺はもう家に帰ってもいいよな? これ以上ここにいてもお前の役には立たないだろ?」

「いえ、それは駄目ですわ。幾らその関係が希薄なものであろうとも、貴方がエリーゼのファミリーであることには変わりありませんわ。相手の手の内の者を押さえておいて、有利になることはあっても、不利になることはないでしょう?」

「いや、そりゃそうだけどさぁ……」

一度は自分のことを殺すと宣言した相手と、長時間に渡って同じ屋根の下に居なければならないとは、それだけで大きなストレスとなる。もし気変わりでもされた日には……、などと考えれば、それだけで胃にぽっかりと穴が開いてしまいそうだった。

「とはいえ、私も貴方を粗末に扱うつもりはありませんから、室内に居てくださるなら、適当にくつろいでいてくれて構いませんわよ」

「この状況でくつろげっていう方が無理な話だろ」

「そうですか?」

「当たり前だ」

あぁ、早く家に帰りたい。

次の日、折りたたんだ座布団を枕にして眠っていた俺を起こしたのは、枕元に置かれた目覚まし時計の電子音ではなく、ガラス窓が割られた際に発せられる甲高い破壊音であった。割られたのは部屋の南側の壁に取り付けられた、ちょうど部屋の奥へ頭を向けて身体を横たえていた俺やローザの頭の上方に位置する窓ガラスである。

「なっ、なんだっ!?」

鼓膜を強く震わせる音と、顔に降りかかってきた小さなガラスの破片に驚いて勢い良く目を覚ました。尻は布団に落としたまま、上半身を起こして周囲の様子を確認する。すると、すぐ隣で寝ていた筈のローザが、自らの顔を両手で覆って酷い悲鳴を上げながら悶絶している姿が目に入ってきた。

「お前はこんなところで何をやっているんだ?」

「っ!?」

次いで耳に届いたのは、ここ数週間で嫌という程に聞き慣れた声だ。反応して割られた窓ガラスの方を振り向く。すると、そこには例の水着の様なデザインの服を身に纏ったエリーゼの姿があった。片足を窓枠に乗せて室内の様子を眺めていたようだが、俺の存在を確認すると、すぐに靴も脱がないで割れたガラス窓の隙間を通り、土足のまま室内へと入って来た。

「何って、そりゃ、まあ、なんていうか……」

「ふん、どうせこの娘に捕まっていたのだろう? まったく、あれだけ私が注意をしたというのに、お前は本当に馬鹿な男だな。呆れてものも言えないわ」

「うっ……」

そう言われてしまうと返す言葉も無い。

エリーゼの視線が向かう先には、顔面からシュウシュウと白い煙を出しながら、畳の上で身を転がす少女がいる。どうやら、窓を割られた際に、カーテンの間から差し込んだ日の光を顔に浴びてしまったようだ。昨晩は寝る前に、カーテンの端を窓枠に洗濯ばさみで固定する等、それなりの備えを行っていたのだが、それもエリーゼの登場を前にしては無残に弾け飛んでいた。

枕元に転がる目覚まし時計へ目を向けると、時刻は朝の9時を指し示している。まさか、朝方に奇襲されるとは少女も想定していなかったらしい。

「ぅう………」

始めは耳を塞ぎたくなる様な痛々しくも激しい悲鳴を上げていたローザであったが、時間経過と共に立ち上る白い煙の量も減少していき、それに比例して悲鳴の具合も大人しくなっていった。エリーゼの血を飲んでいない状態の俺であったならば、どうなっていたか分からない。この少女の場合では、致命傷に至るほどの光量で無かったらしい。

「い、痛いですわぁ……」

そして、目を開けられる頃になると、ようやく彼女は自分の根城に攻め込んできた相手の姿を確認して、その敵意を露にした。

「エッ、エリーゼッ!!!」

昨晩までの穏やかな表情は何処吹く風で、鋭く細められた黄金色の瞳がエリーゼを射抜くように見つめる。対するエリーゼは素っ気無い表情で少女を眺めている。共に容姿は背丈の小さな子供だが、頭一つ分程度の身長差があるので、こうして並んでみると、小学校低学年と小学校高学年程度の違いが感じられた。

現在の位置関係としては、窓を割って入ってきたエリーゼを挟み、台所側から部屋に入って左側にはローザが立ち、その反対側には俺が座り込んでいる。ローザとの間にエリーゼが入ってくれたことで、昨晩から続く心労がようやく収まったように感じられた。幾ら殺さないと宣言されたとは言え、自分を遥かに凌駕する身体能力を持った相手の傍に長時間に渡って拘束されるというのは、激しいストレスとなるのだ。今なら誘拐・監禁被害者の気分を理解出来そうである。

「し、失念しておりましたわ。貴方が太陽の下で活動できると言う事を……」

ローザは憎々しげにエリーゼを睨みつける。

「お前か、私のペットを盗んでくれたのは」

腕を組んで仁王立つエリーゼはいつもどおり偉そうな物言いである。顔の治癒が終わった少女はその姿を前にして、今にも飛び掛っていきそうな雰囲気を醸し出している。

「もしかして、助けに来てくれたのか?」

この際、ペット扱いは置いておくとして、そんなことを聞いてみた。

「私がお前をか?」

此方を振り向いたエリーゼが答える。

「……違うのか?」

多少だが、期待していなかったと言えば嘘になる。

「まあ、助けに来たと言えば助けに来たのだろうが、早い話、お前が居ないと食事が出てこないからな。昨日の夕食はキッチンにあったものを適当に食べたが、それが連日ともなれば、私も困る」

だが、返ってきたのは想定通りの冷たい言葉であった。やはり、エリーゼにとっての俺の価値などその程度らしい。幾ら分かりきった回答であったとはいえ、少しショックだった。

「やっぱり、お前にとっての俺って、その程度の価値なのな」

しかし、だからと言って、そんな愚痴を零してしまったのは大きな過ちであった。

「なんだ、もっと大切にして欲しいのか?」

エリーゼの顔に小悪魔的な笑みが浮かぶ。

「い、いや、別に、そういう訳じゃないけど……」

つい勢いに任せて口にしてしまったその台詞の意味を思い返し、返された言葉に激しい気恥ずかしさを感じた。慌てた俺は否定の言葉を繰り返す。まさか、こんな奴に大切にされたところで嬉しくなんてある筈が無い、そんな筈があるわけ無いのだ。

だが、此方の言い分など知ったことか、弱みに付け込みエリーゼは言葉を続ける。

「いいだろう、家に帰ったらじっくりと可愛がってやろうじゃないか。今夜は寝れると思うなよ? 足腰が立たなくなるまで、精根共に尽きるまで、その身が干からびるまで抱いてやるよ」

淫靡な響きを持つ声でからかわれる。

何故か、その平坦な身体にあって、なかなかどうして、その声だけは妙に艶美に感じられるのだから不思議だ。肉体的な妖艶さなど皆無である筈のエリーゼの誘いだが、その誘惑が妙に強く感じられるのは、きっと、その声色に由来するに違いない。

「うるさいな、変なこと言ってんじゃねぇよ」

「なかなか、私も随分と懐かれたものだな」

「だ、だから、違うって言ってるだろっ!?」

「フフ、愛い奴だ」

「違うっ!!!」

そして、そんな俺とエリーゼの言い合いを目の当たりにして、それまで押し黙っていたローザが再び口を開いた。

「その者は貴方のファミリーなのですわよね?」

それは昨晩、俺も幾度となく尋ねられたことだ。

「ああ、そうだ。コイツは私のファミリー兼下僕兼ペットの雅之だ。昨晩は貴様の所で世話になったようだが、今日は飯の仕度がある、早々に返してもらうぞ」

声をかけられて、エリーゼはローザに向き合い応じた。

二人は立ち上がった状態で対立している。

ローザは緊張した様子で、姿勢を低くして相手の動きに警戒している。対するエリーゼは普段の素っ気無い態度を隠そうともせずに、目先に居る相手など眼中に無い、と言った様子だ。

「当初は此方から伺う予定でしたが、自らやって来てくれるとは、根城へ攻める手間が省けましたわ」

「何の話だ?」

「私の目的はエリーゼ、貴方の絶望で腹を満たすことですわっ!!」

そう叫んだローザが、エリーゼ目掛けて飛び掛る。

振りかぶられた腕は一切の躊躇無く、相手の顔を目掛けて振り下ろされた。

しかし、ローザの拳が届くより早く動いたエリーゼは、そのすぐ隣にあったガラス窓のカーテンを勢い良く解き放った。それまで外から差し込んでくる日の光を遮っていた淡い緑色の布生地が、シャッと音を立てて勢い良くカーテンレールを移動する。その動きに合わせて、それまで畳の上で細い筋状に存在していた陽光の漏れが、部屋の半分を包むほどに拡張された。

「ああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!!」

応じて少女の絶叫が部屋に響き渡った。

全身に陽光を浴びたのである。その痛みは俺も経験があるので、よく理解する事ができる。一瞬にして全身に大火傷を負ったローザは、それでもなんとか日の光が届かない場所までフラフラと移動して、畳の上に倒れ伏した。

いくら相手が、それまで自分を拉致していた者であったとしても、これは見るに耐えない仕打ちであった。室内には肉の焼ける嫌な臭いが漂っている。全身から白い煙を立ち上げている少女は、爪を剥がす勢いで畳を引っかきながら、必死に痛みに耐えていた。口から漏れるのは悲鳴と嗚咽の無様な二重奏である。その姿は、幼い頃に道徳教育の一環で読まさせられた、原子爆弾の被害を語る小説や漫画に登場する哀れな被爆者達に対する描写と大差ない。

「よもや、これしきの事でくたばる様な者が私を追ってどうにかできる筈もあるまい? ほら、さっさと立ってかかって来るがいい」

だが、苦しみのた打ち回るローザの姿を目の当たりにしてもなお、依然として態度を崩すこと無く、エリーゼは追い討ちの言葉を続ける。そして、続けざまに、閉ざされたままになっていたガラス窓を覆うもう一方のカーテンへと手を伸ばす。

「う゛ぅぅ…………」

そんな相手の動向に、ローザは気づく余裕さえない。

「お、おいっ! お前、ちょっと待てよっ!!」

俺は慌ててその背後から、布生地を握る手首を取り、エリーゼを止めた。

「邪魔をするな」

この状況を見て見ぬ振りが出来るほど、俺は強い精神力を持ち合わせてはいない。

「もういいだろ? っていうか、別にお前が何かされた訳でもないんだし、これで勘弁してやれよ」

まさか、俺が拉致されたことへの仕返しという訳でもあるまい。ただ単純に、売られた喧嘩は消費者金融を利用してでも買う、という気性の荒い性格に基づいての行為だろう。放っておけばこのまま相手を殺してしまいかねない。

「やかましい。この前は逃したが今回は逃さぬ。この私に楯突くというのだ、二度と歯向かえぬよう、その身を灰に帰してやる」

けれど、困った事に説得に応じてくれそうな雰囲気では無い。そして、コイツは俺が腕っ節で何とかできるような相手でもない。下手に強く出ても逆に反感を買って余計にローザへの風当たりが強くなってしまう。かといって弱腰では相手にもされないというジレンマだ。

「じゃ、じゃあ、こういうのはどうだ」

倒れ伏した少女とエリーゼとの間に入り、俺は必死で口上を続けた。

「ここで引いてくれたなら、俺がお前の言うことを何でも一つ聞く。夕食をお前の好きなものにしてやってもいいし、手間のかかるデザートだって作ってやる。それに……、肉を啄ばまれるのは嫌だけど、血くらいだったら、少しなら、まあ、吸わせてやる」

喋っていて何故に俺がここまで言わなければならないのか疑問も浮かぶ。とはいえ、ここは人外一匹の命がかかっているのだ。この程度の妥協は仕方が無い、と自分に言い聞かせる。

「お前は私の下僕だろう? 何故コイツの肩を持つ?」

「別に、肩を持ってるつもりは無いさ。ただ、目の前で子供が泣き叫んでる姿は精神衛生上良くないから、それで止めてるんだよ。っていうか、それぐらいの常識は持っててくれよ」

「ふん、お前の常識など私が知るか」

「どうして、お前はそんなに他人に厳しいんだよ……」

一体、どの様な経験を積み重ねれば、このような捻くれた性格を形成できるのか。親の顔が見てみたいとは、まさにコイツを前にして口にすべき常用句であろう。いや、逆にここまで酷いと、その顔を拝むのにもかなりの勇気が必要となりそうだ。

「私が厳しいのでは無く、お前が甘いんだよ」

「そんな訳あるかよ」

幾ら世知辛い世の中にあったとしても、ここまであからさまな仕打ちは無いと思う。

しかし、そんなエリーゼの言葉を耳にして数瞬の後に、俺は自らの愚かさを嫌と言うほど理解することになる。それは、いつの日かの既視感を伴って訪れた。

「ぅおっ!?」

情けなくも間抜けな声を上げてしまったのは、腹部に回された二本の細く白い腕が、圧倒的な力を持って俺の体を背後から引っ張って来たからである。予期せぬ事態に抗う事も出来ず、身体は後に倒れ、畳の上で尻餅をつく形となった。

「な、なんだよっ!?」

背を振り返れば、畳の上に腰を落としたまま俺を抱き留めているのは、意気も絶え絶えな様子のローザである。

「…………馬鹿が」

エリーゼの呟きで、状況は容易に理解できた。

「ちょ、ちょっとぉっ!!」

反射的に反論を口にしようとしたところ、首筋にひんやりとした指先が当てられた。

「お前は、こういう展開が本当に好きなようだな?」

「っ………」

別に、俺だって好きでやっている訳じゃない。

とはいえ、全ては俺の過失によるので返す言葉も見つからない。

「そ、その手を……、カーテンから離しなさい」

未だ火傷の傷が癒えきっていないローザが、今にも倒れてしまいそうな必死の形相でエリーゼに命令する。

抱きとめられて接する腕や足の肌からは、陽光に当たったことで破壊された皮下組織の、水気を伴った気持ちの悪いぐちょぐちょとした感触が伝わってくる。全身からは依然として白い煙が立ち上がり続けていた。綺麗に整った可愛らしい顔も、今は見る影も無く、まるでホラー映画のゾンビの如く、無残にも爛れてしまっている。

「その男を手に取ってどうするつもりだ?」

呆れ顔でエリーゼが問う。

「そんなこと、聞くまでも無いでしょう?」

人質を取って強硬な姿勢を作る少女は、その背を部屋の壁に付け、畳に座り込んだままの状態で言葉を続ける。

「今こそ、積年の恨みを晴らす時ですわ」

硬い爪の先が数ミリだけ首にめり込む。薄い表皮を切り裂いて、数滴の赤い雫が首筋を辿り胸元まで垂れた。エリーゼと同居を始めてから今日に至るまで、俺のTシャツの寿命が極端に短くなったのは、きっと、流血する機会が激増したからに違いない。胸元に小さな赤黒い染みが幾つか浮かび上がった。さよなら1980円。

「そいつは下僕に過ぎん。それを殺した程度で恨みが晴れると言うのなら、幾らでも殺すがいい。別に私は痛くも痒くもないのだからな」

一つ屋根の下で居を共にする相手が人質として取られているにもかかわらず、エリーゼはその横柄な態度を変える事無く、ぶっきらぼうに恐ろしい事を語ってくれる。昨晩、ローザから諸事情を説明されている俺としては気が気ではない。もしかしたら、本当に殺されかねない勢いがあるのだ。

「お、おいっ。エリーゼ……」

「その程度で私を脅そうなどと、貴様もめでたい奴だな」

エリーゼが一歩、畳の上を此方に向かって移動する。

それに合わせてローザの指が首の肉に沈む。

「っ!?」

どの程度の傷口が出来たのかを目で見て確認することは出来ない。しかし、その場にジッとしていられない程の激しい痛みが全身を駆け巡った。手首まで埋まった、とまでは言わないが、第一関節くらいまでを突っ込まれた感はある。

「ちょ、ちょぉぉっ! 痛っ……、痛い、痛いぃぃぃぃっ!!」

背後から腹部に回された片腕によって抱え込まれているので、身動きは殆ど取れない。そんな状態にあって、両手両足をジタバタと無様に振り動かして、首筋に走る痛みに必死に耐えた。幾ら日頃から痛い目に会う機会が増えたからと言って、これは声を上げずして耐えられるものではない。

「おい、私のモノを勝手に弄るな」

エリーゼの表情が若干の変化を見せた。

「あら……これは……」

それに、あざとく気づいたローザの声色に勝機が生まれた。

「どうしたの……です? この様な下僕など、別に、殺してしまっても……、良いのではなかったのですか?」

口調が挑発的なものに変化した。コイツの目的がエリーゼの打倒などで無い事は昨晩の内に聞かされている。この状況は自分にとって非常に危ういものだということは容易に理解できた。。

「やかましい。幾ら下僕とは言えそれは私のモノだ。それが貴様の様な輩に壊されるというのは、腹が立って当然のことだ」

ローザの問いに答えるエリーゼは、表立って苛立っているようには感じられない。それでも、表情に多少の変化は感じられた。まさか、焦っているのだろうか? それは俺の希望的な観測であり、微かな願望である。だが、エリーゼに限ってそれは無いだろう。なんせ、正体不明の相手に拉致られたこの身を、一晩に渡って放置してくれた程なのだ。それが今更何を思うというのだ。

「ただの下僕ですか? 私は……、昨晩に確認させて貰いましたわ。この者が貴方のファミリーであることを。それがこの場に及んで……、下僕扱いとは、貴方も随分と酷いことをなさいますわね……」

太陽の光で浴びた傷を徐々に癒して、ローザは元の勢いを取り戻していく。

「ふん、他人の家庭の事情に口を挟むな下種が。そいつはファミリーである前に下僕だ。私の生活の世話をする小間使いの様なものだ」

「お、おぃっ!!」

首に走る激痛に耐えながらも、反射的にエリーゼの毒舌に対して突っ込みを入れている辺り、自分の環境に対する順応性を感じてしまう。とはいえ、今は何でもいいから、とにかく首に刺さる指を抜いて欲しかった。涙が溢れ出る程に痛い。

「思いのほか拍子抜けな感がしないでもないですが……、まあ、良いでしょう。これで永きに渡る私の復讐劇にも、ようやく幕を下ろすことが、出来ますわ」

耳元で発せられる声は、自らの不利を感じさせないほど嬉々として喜びに弾んで聞こえた。俺の身体を押さえつける四肢から立ち上がる白い煙も、徐々にその勢いを失ってきている。その様子からして、この少女もかなり強力な自然治癒能力を備えているらしい。

「言っておくが、幾らそいつを殺したところで、次の瞬間には貴様の身体も灰と化す」

「結構ですわ。この無駄に長い生も貴方に復讐する為にあったようなものです。目的を達成した後のことなど、別にどうなろうと私は一向に構いませんわ。そこのカーテンを開け放つなり、直接手を下すなり、好きなようにしてくれて構いません。」

エリーゼを相手にしては、生半可な覚悟では復讐など出来ないと彼女自身も昨晩に語っていた。しかし、自らの不利を感じながら、それでいてこの様に堂々と語って見せるとは驚きだ。まさかここまで腹をくくっていたとは思っていなかった。

「私は、その瞬間の悲しみに歪む貴方の表情にさえ、至高の喜びを感じるでしょう」

何故に人外の奴等は、こうも頭のネジがダース単位で抜け落ちてしまっているような者ばかりなのだろうか。というか、ローザは俺を殺すことを止めてくれたのではなかったのか? 昨晩とは言っていることが違う。

「…………」

六畳一間の和室に俺の苦悶に満ちた呻きが響いている。

両者は向かい合ったまま、どちらが手を出す訳でもなく、お互いに相手を牽制するように睨み合っている。すぐに俺に止めを刺さない様子からして、ローザ自身も口では大きな事を言っているが、まだ、エリーゼにとっての俺という存在の重みを図りかねているように感じられた。

張り詰めた空気の硬さからして、首の皮一枚と言ったところか。

昨晩から蓄積されているストレスと相まって、正直、そろそろ挫けそうである。

だが、その緊張も長くは続かなかった。

凝り固まってしまった部屋の空気を解放したのは、俺では無く、エリーゼでも無く、また、ローザでもない、新たに現れた第三者の発する声であった。

「こっそりと後を付けてみれば、これはまた、なかなか面白いことになっておるようじゃのぉ?」

唐突に現れた声の主は、エリーゼの割った窓ガラスから顔を除かせて、室外から此方の様子を伺っていた。ちなみに、窓ガラスの外は人一人がぎりぎり活動できる程度のベランダがある。その者はそこに立っているらしい。

「っ!?」

その場に居た3人の注意が、一斉に窓の外の存在に向いた。

「しかし、話に聞いていた西洋の化け物は1人だけの筈じゃったが、これはどうしたことか、3人もおるではないか。しかも、なにやら穏やかでない様子じゃが、もしかして仲間割れか?」

低い響きのしわがれた声で語るその者は、その声音にふさわしい容姿を持つ、年老いた背の低い男性であった。淡い黄土色の甚平を身に纏い、手には古びた木製の杖が握られている。ただでさえ低い身長が、腰が曲がってしまっている為に、更に小さく感じられた。流石にローザやエリーゼ程とは言わないが、それに近い背丈をしている。

「ちょいと、失礼するぞ」

そして、爺さんはローザの返答を待たずに、思いのほか軽快な動作で歩を進め、割れたガラス窓の隙間から土足のまま室内へと入って来た。

「な、何者ですのっ!?」

多少狼狽した様子でローザが吼える。

「報告では、黄金色の長い髪を持った、子供の姿をした化け物だという話じゃが……」

彫りの深い皺だらけの顔には、ギョロリとした真ん丸の眼球が二つ並んで覗いている。その漆黒の瞳に写るエリーゼは、両腕を組んだまま、左にローザを、そして右に爺さんを迎える形で、左右を二人に挟まれた状態にある。

「なんだ、爺。私に用でもあるのか?」

「そうじゃのぉ。用が有ると言えばその通りじゃのぉ」

杖を体の正面に突いて立つ爺さんは、1,2メートル程度の距離を開けてエリーゼと向かい合っている。吸血鬼であるエリーゼは元より、窓から侵入してきたこの爺さんにしても、きっと正体は、真っ当な人間ではあるまい。ともすれば、その距離は二人にとってゼロにも等しい。お互いに一歩踏み込めば相手を殴ることが出来る位置に居るのだ。その気になれば、次の瞬間には、呼んで字の如く、瞬く間も無くお互いに拳を交わす事が出来ることだろう。

「主には悪いが、ここで死んで貰う」

「なんだと?」

続けられた言葉は突然の宣戦布告である。

爺さんはエリーゼを知っているようだが、エリーゼは爺さんを知らないようだ。二人の背後関係がサッパリ分からない。

「これ以上、同胞を死なせる訳にはいかんのでな」

そう言うと、爺さんは手にした杖を大きく横に一閃させた。

だが、その程度でどうにかなるエリーゼではない。気がつけば、首筋を狙って振るわれた木製の杖の末端を、右手の親指と人差し指によって摘まむことで、顔色一つ変えることなく受け止めていた。

「いきなり殴りかかってくるとは、随分と無礼な奴だな」

「悪いが、わし等には時間がないのじゃよ」

「貴様等の事情など知ったことか」

両者とも平然とした態度で短く言葉を交わす。俺とローザは部屋の隅に追いやられたまま、話に参加する事さえ叶わない。そして、首には依然として指が刺さったままになっている。

「お、おい、エリーゼっ! そんなのどうでもいいから、先にコイツを何とかしてくれよっ! すげぇ痛いんだよっ!!」

あまりの痛みに耐えかねて助けを請う。だが、そんな願いに振り向くこと無く、エリーゼは爺さんと向き合ったまま、言葉を返すことさえしない。完全に無視された。

「流石は『金毛の天使』といったところか。随分と骨が折れそうな相手じゃ」

聞きなれない単語が耳に入った。

「何だそれは?」

「お主のこの国での古き呼び名じゃ」

爺さんの言葉を耳にして、スッとエリーゼの目が細まる。

「ほぉ……、というと、これは私を知った上での狼藉か?」

口元には小さく、冷たい笑みが浮かべられていた。

「良いだろう、相手をしてやる」

蒼く鋭い瞳が相手を捉える。

「年寄りは大切にするもんじゃぞ?」

「ふん、小僧が偉そうに語ってくれるわっ!」

それが始まりの合図であった。

次の瞬間には、エリーゼの放った蹴りが相手の腰を捉えていた。

腰骨に横から強く足の甲を打ち付けられて、爺さんの小柄な体は先ほど入ってきたばかりの窓ガラスから、屋外へ向かって勢い良く吹っ飛んでいった。それを追って、エリーゼもまた室外へ飛び出していく。

「ああもう、一体何だと言うのですのっ!」

エリーゼが居なくては、ローザにしても目的の果たし様が無い。俺の首筋から指を引き抜いた。同時に身体の拘束を解放して、憤慨した様子で愚痴をこぼす。なんせ、コイツは吸血鬼なのだ。エリーゼの様に特別な力を持っている奴は別として、太陽の光を浴びたら死んでしまう、ごく一般的な吸血鬼の身にあっては、夏の陽光が激しく照りつける日中の屋外は死地に等しい。部屋を出て行かれてしまっては手の打ちようが無いのだろう。

「ったく、俺が知るかよ」

指の引き抜かれた傷口からは、すぐに白い煙が上がり始めた。背後を振り返り、不満そうに非難の声を上げるローザに目を向ける。こちらも依然として、白い煙が身体の至る所から上がっていた。ただ、その量は段々と少なくなってきており、身体の各部位から立ち上がる煙は、現状では、小さな小石サイズのドライアイスを常温で放置した程度にまで収まっていた。無残に焼け爛れていた顔や四肢も、それなりに見れる程度までは回復してきている。この様子では完全治癒も近いだろう。どうやら、あの程度の日光ではこの少女を倒しきることは不可能らしい。

「昨晩から予定が狂いっぱなしですわ」

「それはお前の読みが甘かったからだろうが。大人しく国に帰ったほうが身の為だと思うぞ。お前がエリーゼに勝てるとは微塵も思えない」

「そんな事は昨晩より百も承知ですわ。言ったでしょう、私はエリーゼの目前で貴方を殺して復讐を完結させるのだと」

「それにしたって、随分と悩んでたように見えるけどな?」

「そ、それは……」

「チャンスは一回しかないんだぞ?」

「くっ…………」

この少女は随分と素直に感情を表現する。俺の言葉を受けて、憎々しげに顔を歪めたローザは此方を睨み返してきた。

「いいのですわよ? 貴方をこの場で殺してしまっても」

それは、とても分かりやすい脅しである。

「それで本当にお前の復習は達成されるのか? 今回は諦めて、もう少し気長に生きてみて、相手に挑むだけの十分な力を付けてからでも、復讐としては遅くは無いんじゃないのか?」

だが、今は乗ってやる余裕も無い。

「少なくとも吸血鬼には寿命なんて無いんだし、時間だけは沢山あるんだ。目先の欲に眩むと、大抵の場合は良くない結果が待ってるのが世の中のお約束だぞ」

「そっ、そんなことっ、貴方に言われるまでも無く理解していますわっ!!」

吼える少女の黄金色に輝く瞳が、俺を力強く捕らえる。

家族の敵を目の前にすれば、我を忘れるほどの憎悪に駆り立てられるのは道理だろう。ローザが言わんとすることは容易に理解できる。けれど、それでは困るのだ。だって、そうなったときに被害を真っ先に受けるのは俺なのだから。

「だったら国に帰れよ」

自らの命がかかったこの説得には自然と力が入る。

「ですが、そしたら次に出会う事が叶うのは何時になるのです? それに、もしも私が復讐を果たす前に彼女が死んでしまったら、そのときは、私の怒りはどうすれば良いのですか?」

「そりゃ、まあ、その時はその時で諦めるしかないだろ。けど、エリーゼが死ぬなんて滅多な事じゃ無いだろ。第一、アイツに対抗できるだけの力を手に入れようっていうなら、それ相応の時間が必要だろう? そう考えれば、多少のスパンは問題ないと思うぞ」

「…………」

俺の説得を受けて、ローザは顔を静かに俯かせた。

やっただろうか?

期待が大きく膨らむ。

だが、ローザは首を小さく横に振って答えた。

「いえ、……まだ、有効な手が無くなった訳ではありませんわ」

「なんでだよ?」

多少の焦りを感じながら聞き返す。

「それを説明する事はできません。ですが、可能性が完全に潰えた訳ではないのです。無論、それが貴方の言う絶対的なものであるかどうかは分かりませんが、それでも多少は彼女に対抗する余地があるのですわ」

「それって、俺のことか?」

つい今し方の出来事を思い出して、恐る恐る口を開く。

だが、ローザはそれをスッパリと否定して答えた。

「いいえ、それとは別です」

「……そうかい」

まあ、いずれにせよコイツの復讐が達成されるには、その必要条件として俺の絶命がある。どのような手段を考えているにせよ、実行させる訳にはいかない。とはいえ、今はこれ以上相手を刺激するのは良くないだろう。下手に逆上されても困る。

「ところで、あの爺さんは何者なんだ?」

保身の意味も含めて、適当なところで話題を振ってみる。

「さぁ、私は知りませんわ」

「お前の仲間じゃあないのか?」

「当然ですわ。この復讐は私のものですわ。誰にも邪魔はさせませんし、手伝わせる気も毛頭ありません。私が一人で達成することに意味があるのですわ」

「じゃあ、一体なんなんだろうな……」

少なくとも、俺は始めて見る顔であった。

「私達のことを西洋の化け物などと呼称していた様子からして、彼等はこの国に元来から住んでいる者達の類でしょう。きっと私と同様に、彼女が過去にこの国で仕出かした横暴の仕返しでも考えているのではありませんか? まあ、根拠の無い予想ですけれど」

「なるほど」

エリーゼに歳を尋ねた事は無いが、出会ってから今日に至るまでの間に交わしてきた会話から推測すると、その年齢はかなりのものだと思われる。ならば、過去にこの国で何かしらの悪さをしていたとしても不思議は無い。

「でも、いいのか? あのまま放っておいたらお前が復讐をする前に、あの爺さんに倒されちまうかもしれないぞ?」

「その辺は貴方が一番良く理解しているでしょう? この私が苦労するのです。あの者がそう易々とやられる筈がありませんわ」

「まあ、それはそうかもしれないけどさ」

だからこそ、俺もこうして平然とした態度でアイツの帰りを待っていられるのだ。

会話を交わしている内に、俺とローザは共に身体に出来た傷の自然治癒を完了し、立ち上る白い煙はいつの間にか消え失せていた。指先で擦る首筋には、既に傷跡の凹凸も感じられない。

「ところで、そうなると俺は、今後もお前に捕まっていないとならないのか?」

今一番の問題である。

「そうですわね。何をするにしても今はまだ期でありませんし、あと幾日かの期間を私と共に過ごしてもらうことになりますわ。無論、貴方に拒否権が無いことは理解していますわね?」

あくまでも力関係は私が上だと言いたいのだろう。

「それはエリーゼが帰ってきてもか?」

だが、今の自分が非常に危うい立ち位置に置かれているということは、ローザ自身も良く理解しているらしい。返って来たのは、どうにも歯切れの悪い答えであった。

「それは……、今、考えているところですわ」

やはり、まだエリーゼの真意を測りきれていないのだろう。

それだけが、唯一の救いである。

実際のところ、エリーゼが俺に対して愛情や友情といった、各種情の類を感じているとは思えない。だから、その辺りの事実に早くローザが気づいてくれることを祈るばかりである。昨晩の様子からして、幾ら説得したところで、この娘は自らがエリーゼの反応を確認するまで、首を縦に振る事は無いだろう。まあ、俺が説明したところでそれは人質の命乞いに過ぎない訳で、それを信じないのは誘拐犯として妥当な判断だと言えるが。

「早くしないとアイツが帰ってくるぞ?」

再び首筋に指を立てられては堪らない。この場は一度退いてくれると嬉しいのだが、ローザも折角得た人質を手放すのは惜しかろう。とはいえ、太陽の下へ出る事が出来ない身では、人質を伴って逃げるにしても手段が無い。今後の行動に対して思い浮かぶ選択肢は二つだ。ひとつは人質を解放して命乞いをするか、もうひとつは妥協して俺を殺すか、である。だから、俺は全力で前者を推薦したい。

「それは分かっていますわ。ですが、この太陽も眩しい時間帯からして、のっぴきならない状況にあるのは理解してくれませんこと? エリーゼの血を吸って平然と太陽の下を歩いている貴方には分からない苦悩だと思いますけど」

「だったら、俺を相手に嫌味言ってる暇だって無いだろうが」

「わ、わかってますわよっ!」

ところで、何故に俺はローザに付き合ってこの場に残っているのか。

相手の身体能力が自分と比較して反則的に優れている点に関しては一抹の不安を覚える。しかし、居室の狭さと、カーテンの合間から差し込む太陽の光量からして、数メートルも窓際に移動すれば、この部屋から脱出できるかもしれないことに今更ながら気づいた。多少は心も痛むが、先ほどエリーゼがしたように、カーテンを少しずらせば、それだけで相手は近づけなくなるのだから。

エリーゼと爺さんが出て行った際に、カーテンはその半分が開いた状態で放置されている。ここで、残されたもう一方を開ければ部屋の8割は陽光に照らされる事になる。

「………」

やれるだろうか?

失敗したらタダでは済まない気がする。

とはいえ、このままこの場に残って済し崩し的に先程の再現に巻き込まれるのも遠慮したい。手早く覚悟を決めた俺は、少女がその視線を畳に落としている瞬間を狙って窓枠に向かって飛び出した。

「っ!?」

此方の動きに気づいたローザが慌てて顔を上げ、その腰を浮かせる。

だが、そのときには既に、俺の右手は窓枠にかけられたカーテンの端を握り締めていた。ちらちらと揺れる布生地の向こう側からは、真夏の焼けるような日差しが燦々と降り注いでいる。

「油断したな?」

「くっ……」

少しカーテンを動かして、ローザの座る畳のうち、その半畳ほどを陽光の射程に捕らえる。相手は背中を壁に付けたまま、追いやられるように尻を引きずって部屋の隅にまで後退した。

「やってくれますわね」

「こっちだって必死なんだよ」

さぁ、ここまでくれば、後は外へ逃げ出てしまえば事は済む。

「じゃあな」

「ま、待ちなさいっ!」

既に割れてしまっている窓ガラスの鍵を外して、破れた網戸もろとも引き戸を横にスライドさせる。そして、窓枠を越えた俺は屋外へと一息に飛び出した。ローザの部屋はアパートの2階であったらしく、着地には少々の衝撃を伴ったが、それでも、吸血鬼となったこの身体には何の問題も無い。無論、頭上を振り返っても追っ手の姿は見当たらない。

「よっしゃ、脱出成功……」

そこは丈の短い雑草が多い茂る畳4畳程の狭い庭であった。周囲はコケの生えた年代もののブロック塀に囲まれている。ローザの部屋とは違い、背の高い塀に囲まれた地上は直射日光も無く、些か陰湿な感じだ。もしアイツの部屋が一つ下の階にあったのなら、俺を逃す事もなかっただろう。

「とりあえず、エリーゼか」

目前の塀を飛び越えてアパートの敷地外へ飛び出ると、そこは俺の良く知る同じ町内の一角であった。ここから自宅までは歩いて20分程だろうか。一体どこまで連れて来られたのかと不安にも思っていたのだが、思いのほか近くて助かった。

「っていうか、アイツ何処いったんだよ」

あまり人目の多い所で喧嘩をしていなければ良いのだが。

意識を集中させてその位置を探る。

例の吸血鬼が持つ特殊能力である。

「…………あっちか」

探知できた場所は大して離れた位置でも無かった。これならば、すぐに向かう事が出来そうだ。しかし、てっきりその場ですぐに仕留めて、地に伏した相手を虐めているものだとばかり思っていたのだが、場所を移動したということは、もしかしたら、思いのほか苦戦しているのかもしれない。

「…………」

平気だろうか?

なんだか、不安になってきた。

だからだろう。

駆け出した足は胸中の鼓動が指し示す位置を目指して、徐々にその動きを早くしていった。

そこにはエリーゼと共に、見覚えの無い男が二人いた。

しかし、その二人は共に地に倒れてピクリとも動かない。

加えて、男達は頭に二本の厳つい角を生やしていたりする。無論、俺もこの期に及んで、それが人工的に作られた装飾品の類だとは思わない。きっと、目で見たとおりの存在なのだろう。

「おい、大丈夫か?」

仰向けに倒れている二人の男から視線を上げて、腕を組みつまらなそうな顔をしていたエリーゼに声をかけた。そもそも、コイツは例の爺さんと喧嘩をしていたのではなかったのか。

「私を誰だと思っている?」

「大丈夫じゃないわけないか」

無駄な心配であった。

「お前は、あの娘から上手く逃げおおせてきたようだな」

エリーゼが此方へ歩いてくる。

今、俺とエリーゼが居るこの場所は、つい数週間前にホームレスの少女を拾った自宅近くの公園である。幸いな事に、周囲に人の目は無い。この夏の猛暑は、例年ならば外で元気良く走り回っている筈の子供達さえも、エアコンの利いた宅内へと追いやってしまっていた。

「ああ、なんとかな」

今頃はローザも、あの六畳一間の部屋で悔し涙を浮かべていることだろう。

「ならば家に帰るぞ。あの馬鹿がそこらじゅうを逃げ回ってくれたおかげで、無駄に走り回って汗だくだ。冷たい水でも浴びなければ堪らん。それに腹も減った、食事だ。時間的にも頃合だろう?」

倒れた男二人については特に語ることも無く、エリーゼは俺の横を素通りして公園の出口へと向かおうとする。その背に垂れる腰下まで伸びた長い金髪が、真夏の陽光を鋭く反射して、歩みに応じて揺れる度に目を刺すような眩さを伴って輝いていた。

「お、おい、待てよっ」

公共の場にこのような人外の存在を放置しておいて良いのか、不安は尽きない。しかし、先のローザとの件もある。多少の後ろ髪を引かれる思いはあるものの、自ら進んで係わり合いを持ちたくも無い。俺は素直にエリーゼに従って、その背を追った。

灼熱の炎天下にあるせいだろう。口を開くのも億劫になって、お互いに無言のまま園内の遊歩道を歩く。それなりに規模のある公園なので、外へ出るにも距離があるのだ。加えて、それはエリーゼが居た場所が、園内でも特に奥ばった場所であった事にも起因している。

歩くペースをそのままに、額に汗を流しながら、俺は今日と昨日で起こった出来事を自分なりにまとめてみることにした。しかし、何をどの様に考えても、全ての因子はバラバラのままで、決して一本にまとまる事は無かった。牛の化け物、猿の化け物、鎌を生やした男、無駄に丁寧な口調のスーツ、ローザ、さっきの爺さん、頭に角の生えた二人。こうして列挙してみただけでかなりの数だ。何がなんだかサッパリである。

解けない疑問に頭を悩ませる。目玉焼きが焼けそうなほどの熱を靴の裏に感じながら暫く歩くと、次第に公園の出入り口となっているゲートが見えてきた。この公園を出てから自宅までは、歩いて十数分の距離である。

「………なぁ」

段々と近づいてくるアーチ状の門を眺めながら、それまでの沈黙を破って、俺は隣を歩くエリーゼに声をかけた。

「なんだ?」

進む歩みをそのままに、顔だけが此方を向く。

「昨日から今日にかけて、妙に人外な輩にばかり絡まれてるんだけど、それってやっぱりお前のせいか?」

俺としては、それ以外の原因が思い浮かばないのだ。少なくともローザに関しては、エリーゼに対する個人的な怨恨が原因であると、本人の口から確認済みである。きっと、他の奴等も大して変わらない理由だろう。

「さぁな、私も知らん」

「知らないってお前、俺だってローザに色々と話を聞いたんだぞ?」

それはコイツが何かを隠しているのか、それとも本当に何も知らないのか。全ては推測の域を出ない。けれど、こうして面と向かって確認することは無駄でない筈だ。

「あの娘にか? 言っておくが、私はあのような娘など知らんからな?」

答えるエリーゼの反応はいつも通りの素っ気無いものだ。

「けど、アイツはお前の事を知っているそうだ」

ローザが昨晩語った話が本当に真実なのか。その辺の信憑性は明らかでない。けれど、仮に彼女の言葉が正しいと仮定するならば、そのことをエリーゼに話せば、多少なりとも何かしらの反応が得られる筈だ。

「お前に家族を殺されたって、生活を壊されたって、相当な恨み具合だったぞ?」

こうして、相手側の情報を得る事が出来た事を考えれば、俺がローザに誘拐された事実も、少しは意味があったのかもしれない。などと、前向きな思考を持ってエリーゼとの会話に臨む。

「私が、あの娘の家族をか?」

「たしか、殺された家族には、父親と母親と、あと小さな弟がいたらしい。それから、住んでいた屋敷も焼かれたとか言ってた気がする。なんでも、元は結構裕福な貴族のお嬢様だったらしいぞ、あの子」

昨晩に語られた内容の要所を適当にまとめて説明する。すると、それまで真夏の熱中にあって、今にも溶け出しそうな、気だるげな表情をしていたエリーゼの顔が、ふと真面目なものに変わった。

「貴族の娘か……」

顎に手を当てて、ふむ、などと声を出して唸ってみせる。

なにか、思うところでもあるのだろうか?

「何か思い出したか?」

昨日と今日で相手をした限り、そこから伺えるローザの怨恨は相当に深い。だから、昨晩に語られた話も、俺は嘘だとは思えないのだ。だとすれば、残る選択肢はエリーゼが彼女を知らないと嘘をついているか、それとも、本当に忘れているか、または、ローザの人違いか、その三択となる。

「いや、気のせいだろう。貴族の娘など昔は腐るほど居たし、そもそも、その家族を殺したというのなら、娘自身も殺している筈だ。お前の言う様な状況を避ける為にもな」

「俗に言う、敵討ちとか?」

「そういうことだ」

まあ、本人が違うというのだから、これ以上門外漢がとやかく言ったところで仕方ない。平然とした態度を変えないまま淡々と言葉を返すエリーゼに、俺も頷くしか無かった。

とはいえ、あんなに必死に訴えてきたローザの言葉が嘘だったとも思えない。となると、最も高い可能性は人違いだろうか。あくまで推測の域を出ない結論に、ひとり胸中で今後の対ローザにおける自己の指針を決定付けた。

「それにしても、暑いよなぁ」

公園を後にして、一般道の歩道を並んで歩く。耳に届くのは左手側に面する公園の敷地内から聞こえてくる蝉の鳴き声だ。森羅万象を飲み込んでしまいそうな、まるで津波の様な勢いがある。すぐ隣の道路を走る車の排気音も、この蝉の鳴き声を間にしては申し訳程度にしか聞こえない。

「この国の夏は何度経験しても慣れん。四季豊かな気候だか何だか知らんが、そこで生活する者の身としては最悪だな」

「全くだ」

額から滝のような汗を流しつつ、無駄口を重ねる。今年の夏は例年と比べても特別に暑く感じる。今朝の天気予報でも、その旨を特に強調して説明していた。なんでも、地球温暖化の影響らしい。

「暑いだけならまだしも、この湿度はなんとかならないのか?」

「それこそ俺がお前に聞きたいよ。自慢の魔法でなんとかならないのか?」

「馬鹿言え、いちいちそんなことで魔法など使っていられるか。そもそも、私は壊したり燃やしたり爆発させたりするのが専門だ。諸生活上での利便性なんぞを求められたところで、畑違いにも程がある」

「なんだよ、使えない奴だな」

日頃からあれだけ偉そうな事を言っていたのだ。此処は一つ、周囲の環境の快適性を向上させる魔法の一つでも唱えて貰いたいところである。

「………なんなら、今この場で氷付けにしてやってもいいぞ?」

ギロリと鋭い視線が向けられる。

「…………」

分かりましたよ。

誰にだって得手不得手あるのは当然さ。

この暑さで頭の温度も沸点に近いのだろう。

「おい、狭いぞ。もう少しそっちへ寄れ」

「うるせぇな、こっちだって一杯一杯なんだよ」

シャワー口から吐き出される温水が、エリーゼの白い肌に当たり周囲に飛び散る。その飛沫の一端を顔に感じながら、すぐ隣で風呂場の椅子に座った俺は、自分の身体をボディーソープで泡立つスポンジで擦っている。

「だったら湯船の中にでも入っていろ、邪魔だ」

「お前が行けよ、シャワー浴びてるだけなんだから」

「そっちは狭いし、足元が滑るから嫌だ」

「だったら俺も嫌に決まってるだろうが」

元より複数人で入る事を想定していなかった風呂場である。自分以外に動き回る者が存在すると、室内に立ち昇り満ちる湯気と相まって、それだけで結構な息苦しさを感じる。エリーゼは身体が小さいので、現状では何とか動きを取れるが、それでも快適さを求めるのは難しい。

「もしかして、あれか? お前はそんなに私と肌を接していたいのか?」

「ち、ちげぇよ、この馬鹿っ!」

「きっと、そう言って口では尤もそうなことを吐き散らしておいて、頭の中では良からぬ妄動に耽っているんだろう? この変態が」

「うるせぇ、誰がお前なんか相手に興奮するかよ」

帰宅して直ぐに、俺とエリーゼはどちらが先にシャワーを浴びるかで喧嘩となった。

当然といえば当然の結果だろう。真夏の昼間に雲ひとつ無い晴天の下を数十分間に渡って歩いてきたのだ。幾らエアコンの効いた室内に入ろうとも、肌にまとわり付く汗の感触は一刻も早く拭いたいものである。

そして、口喧嘩から始まった争いが、やがて暴力的な力と力のぶつかり合いへと変化するのに、そう大した時間はかからなかった。無論、結果は言うまでもあるまい。いつも通りのゴリ押しで、勝者の座はエリーゼが颯爽と奪っていった。

とは言え、ただでさえクソ暑い中を歩いてきて苛々していたのだ。ただ殴られただけでなく、例によって口の中に汗臭い足の指を突っ込まれたり、顔に向って痰を吐き掛けられたりと、非情なる苦渋を舐めさせられたとあっては、最近になって徐々に温厚な性格を手に入れつつある俺としても流石に頭に来た。

そして、再三に渡りバスルームへ立てこもり、押しの押されの悶着を繰り返している内に、いい加減に我慢の限界に達したのだろう。もしくは、此方を挑発して譲歩を狙ったのかもしれない。エリーゼから「ならば共に入れば良かろう」という言葉が得られたのである。

無論、普段ならばそこで頷く事は無かっただろう。だが、それまでの過程で頭に血が上っていたその時の俺は特に考えも無く素直に首を縦に振ってしまったのだった。それが、こうしてエリーゼと共にバスルームで裸の付き合いをしている理由である。

「私の胸は、1ミリも存在せず、平坦で、洗濯板で、冷たくて、硬くて、おまけに手で揉む事も叶わない胸なのだろう? そんな寂しい胸を持つ女を相手に欲情するとは、お前も随分な変態だな」

やれやれ、といった様子で言葉を返される。

「だから、違うって言ってんだろ」

しかも、それはいつの話だ?

サッパリとした性格をしているようで、思いのほか随分と根の深い奴である。

「そうして口で否定するだけなら、誰だって出来る」

「いちいち疑うなよ、面倒くさい奴だな」

コイツの場合、実年齢を考えれば婆さんだが、身体年齢は二桁に届いているかどうかも怪しい。そんな幼い肉体を相手に、どうして欲情することが出来ようが。どちらかといえば、自室にあるコンピュータに増設した二次記憶媒体のそういうモノを入れておくフォルダには、20代後半の外国人女性の裸体を写す写真や動画が、その容量の殆どを占めている。

「まったく、相変わらずつまらない奴だな。私はお前の主人だぞ? 世辞の一つくらい言えなくてどうする。こうして主自ら下僕とコミュニケーションの場を設けてやっているというのに、なんてふてぶてしい奴だ」

「やかましい、勝手にほざいてろ」

同じ会話をするにしても、それ相応の話題を振って欲しい。こういった下らない話はお断りである。

「甲斐性の無い奴だな」

「何とでも言え」

バスルームにはシャワー口から勢い良く落ちていく水流の音がせわしなく響いている。幾ら真夏の昼間とはいえ、流石に水だけを浴びるのは冷たいので、湯沸かし器は起動させてある。おかげで室内は若干の息苦しさを伴う熱気が漂っている。そんななか、プラスチックの柄が付いたスポンジを片手に、俺はただ黙々と自分の身体を洗っていた。

エリーゼはシャワーの設置されたバスルームの奥側に、そして、身体を洗う俺は曇りガラスのはめ込まれた出入り口ドアの側にいる。相手はどうだか知らないが、幾らエリーゼが子供の姿をしているとはいえ、一応は性別を異にするのだ。互いに殆ど接するほどの距離にあることもあって、身体は脱衣所へ繋がるドアの側に向けている。視界には自分の身体しか映ることは無い。

だから、それを防ぐことが出来なかった。

「なぁ、私の身体は美しいか? それとも醜いか?」

ふと、シャワーの音が途絶えた。

「っ!?」

そして、何の予兆もなしに、突然、背中に相手の肌が触れる感触が伝わって来た。

「まったく、自分でも笑えるほどの平坦さ加減だ」

言葉通り、押し付けられているのはエリーゼの胸なのだろう。自分とは異なる体温の、じんわりと暖かな感触が身体全体に広がっていく感覚がある。その突拍子の無い行為は予測など出来る筈も無く、俺にとって、まさに究極的な不意打ちであった。

「お、お前っ、いきなり何やってんだよっ!」

首を捻り慌てて背後を振り返る。すると、そこには鼻と鼻が接するほどの距離でエリーゼの顔があった。俺の背中に身を任せて、しな垂れかかる様な体勢である。両腕は首元に巻きつけられている。その顔には可愛らしくも憎たらしい、ニヤリとした小悪魔的な笑みが浮かんでいた。

「お前が私の身体的特徴を嘲笑うというのなら、私もお前の身体的特徴を嘲笑ってやるとしよう。あれだけ大きな口を叩いてくれたんだ。さぞかし立派なモノを持っているのだろう? これで貧相なものを出してみろ、刺身にして食ってやる」

言うが早いか、両方の脇の下から細く華奢な腕がするりと伸びてきた。

「ちょっ、お、おいっ!」

相手の意思を理解して俺は慌てて立ち上がった。

おかげで、エリーゼの手が俺のモノに触れる寸前の所で、それは回避された。指先が若干掠ったような気がしないでもないが、その辺は握られなかっただけでも良しとしよう。例えこの身が吸血鬼などという化け物になろうとも、そこは男にとっての急所に違いない。こんな外道の手中に落ちた日には、それこそ、どんな地獄が待っている事か、想像に難くない。

「なんだ、逃げるのは自分に自信の無い現われか?」

「うるせぇよっ! っていうか、勝手に触るなっ!」

身体をエリーゼに背を向けたまま、両手は腰に巻いたタオルの上から急所を守っている。かなり情けない格好だった。

「別にいいだろう、減るもんじゃあるまいし」

返されたのは、何処かで聞いたことのあるような常用句だ。

「男の場合は増えるから問題なんだよっ!」

主に体積が。

「ほぉ……、それは私が相手でも増えるものなのか?」

そして、つい勢いに乗っていらぬ墓穴を掘ってしまった。

「……………」

加えて、実際に口に出して言ってしまったからだろうか。それまでは平静を保っていたというのに、此処へ来て腰に巻いたタオルの下では、息子が徐々にその鎌首を擡げ始めたではないか。それに気づいて慌てた俺は、咄嗟に御身を下腹部に押し当てて事実の偽装を図る。

「まさか、このような幼い肉体を相手にお前は欲情するとでも言うのか? あれだけ偉そうな事を言っておいて、よもや、その汚らしい肉棒を勃たせている訳ではあるまいな? なぁ、雅之?」

身体は依然として背を向けたままである。下半身の変化を相手に気づかれることは今のところ防げている。ただ、相手の挑発に乗って、反射的に視線を背後へ向けてしまったのが良くなかった。エリーゼの裸体が遠慮なく視界一杯に入って来てきてしまったのである。その視覚的な刺激は、それまでの俺の思考からは一変して、あろう事か自らの眼球運動を、その胸や女性器を中心に固定してしまったのだ。

こんなの、どう考えてもおかしい。つい数週間前にも風呂場でコイツの裸を見たことはあった。けれど、そのときはなんとも思わなかった。思ったとしても、ただ純粋に綺麗な身体だと、そう感想が思い浮かんだ程度である。なのに、今は平坦な胸や、まだ毛も生えていない縦筋だけのツルツルとした女性器が意識を奪って離さなかった。

「ここに、随分とイヤらしい視線を感じるぞ?」

それに気づいたエリーゼが指差す先は言うまでも無い。

エリーゼの言葉を受けて、俺は慌ててそこから視線を逸らした。

「お前は、変態だな」

更に、追い討ちをかけるかの如く、俺が立ち上がった事で一度は離れた両者の身体は、しかし、再び近づいて来たエリーゼによって、またも密着することとなった。二人の間にある身長差から、エリーゼは腰の辺りに背後から纏わり付き、両腕を前面に向けて回してくる。

「ち、違うっ!」

「違う? どこが違うというんだ」

その束縛を振り払おうと、咄嗟にバスルームのドアを開けた俺は、脱衣室へ逃げ出した。その過程で腰に巻いていたタオルが落ちてしまったが、それも気にしている暇なんて無い。今は何よりもエリーゼから逃げるのが優先だった。

「これではまるで、私がお前を襲っているように見えるな」

脱衣所から廊下へ抜ける閉ざされたドアの前で、身体の正面をエリーゼから隠したまま、顔だけで後ろを振り返る。

「おいこらっ、濡れた身体でこっちに来るな。床に水が垂れるだろうがっ!」

バスルームから出て直ぐのところに、エリーゼは立っていた。その顔にはニヤニヤとした厭らしい笑みが浮かべられている。俺をからかって遊んでいる事は確認せずとも明確であった。

「それはお前も同じだろう? そう言うならばお前こそ此方へ戻って来い」

片手を上げて、誘うように手を振ってみせる。胸や女性器を隠す、という思慮は一切ないらしい。その堂々とした態度は妙にカッコ良くも感じられる。水に濡れたエリーゼの身体はとても艶かしく感じられた。

「ほら、汚い尻ばかり見せてないで、身体をこっちに向けてみろ。その粗末な一物を確認してやる」

「なんでお前に見せなきゃならないんだよ」

「私もこうして見せているだろう? ならば、お前も見せるのが道理というものだろうが。そもそも、私のことを性の対象として見ていないのならば、性器を晒すことにどれほどの抵抗があるというのだ?」

それを言われてしまうと俺には返す言葉も無い。

「いわゆる裸の付き合いという奴だ」

しかし、この見事にそそり立っている息子を、今この場でエリーゼに見られようものならば、後々どのような扱いを受けるかは目に見えている。それだけはなんとしても防がなければならない。とはいえ、必死に静まれ、静まれ、と念じてはいるものの、目の前に裸のエリーゼがいる時点で、その可能性は限りなく低い。

「いや、裸の付き合いって言われたって、別にそんな事しなくても……」

「それとも、人様に見せられないほどに貧相なのか?」

「ち、違うっ!」

エリーゼから声をかけられる度に、息子は段々と固さを増していく。

どうしてなんだ……。

「ならば問題など無いだろうが」

「だからって見せる必要は無いだろ」

というか、そもそも何故に俺はエリーゼの裸で勃たせているのか。

「下僕のモノのサイズは知っておいたほうが何かと便利だろう?」

「べ、便利で堪るかっ!」

確かに、コイツが来てからはエロ本に手を伸ばす回数も減った。ストレスと同様に、そういった方面でも色々と溜まっていたのかもしれない。けれど、幾らなんでもこれは無いだろう。自分で自分のことが分からなくなってきた。

「まあいい、従わないというのならば、力尽くでも従わせるまでだ」

ゆっくりと、身体に付いた水滴をビニール張りの床にポタポタと落としながら、エリーゼが近づいて来る。仕方が無い、こうなったら持久戦である。息子が萎えるまで、ひたすらに逃げ回る他に手は無いだろう。

そう決め込んで、迫る敵から逃れる為に俺は脱衣室から廊下へと逃げ出した。

「コラッ、待てっ!」

扉を開いて廊下に飛び出す。

家の中が水で濡れるのは、後で掃除をする者としては避けたいところだ。しかし、今はそうも言っていられない。背に腹は変えられない、とはまさにこのことであろう。

だが、そんな俺のプライドと意地をかけた逃走劇は、開始から一分と経たずに終結を迎える事となった。

「おや……」

俺やエリーゼの発したものでは無い、第三者の声が耳に届いてきたからである。

声は脱衣所を出てすぐ左手側にある玄関から聞こえてきた。その声色は何処かで耳にした記憶がある。咄嗟に視線をそちらへ向ける。すると、そこには昨日にアーケード街で出会ったスーツ姿の、やたらと謙った物言いが印象的な男がいた。

「お、おい、おま……」

しかし、それを視界に納めたのも一瞬の出来事だ。俺の身体は背後から間髪置かずに突っ込んできたエリーゼによって、廊下に押し倒されてしまった。身体は背中へ受けた衝撃に耐え切れず、廊下へうつ伏せに倒れ伏す。頭を廊下の壁に、次いで、頬を床に強くに打ち付けたことで、口からは自然と無様な悲鳴が漏れていた。

「…………なんだ、貴様は」

耳に届いたのは、それまでのふざけ調子であった声色からは一変して、まるで人を刺すような冷たい言葉である。あまりの急なエリーゼの変貌と、その冷淡な物言いから連想される幾つもの忌まわしい記憶によって、実際に自分が視線を向けられている訳でも無いのに、背筋が冷たくなる感覚に襲われた。だが、その体勢は滑稽なもので、廊下を横断するように倒れた俺の背に座り込んだままである。

「い、いえ、申し訳ありません」

男もエリーゼの憤怒を即座に理解したようだ。

「先日にお話した通り、こうしてエリーゼ様のお宅まで足を運ばせて頂いた次第です。ですが、いやはや、まさかお取り込み中であったとは思いませんでした。なにぶん玄関の鍵が空いており、呼び鈴を押しても反応が無い割には、隙間からは声が聞こえておりましたので、失礼かとは思いましたが、様子を伺わせて頂きました」

矢継ぎ早に言葉を並べてヘコヘコと頭を下げてみせる。

「私は断った筈だが?」

「そこをどうかお願いしたいのですが……」

このクソ暑い真夏の昼にあって、長袖のシャツにネクタイを締め、更にその上からはスーツの上着を丁寧にボタンまで嵌めて着ている。にもかかわらず、額からは汗の一滴さえ垂らしていない。コイツは一体何者なのだろう。

「五月蝿い、何度来ようと貴様の話なんぞ誰が聞く耳を持つか」

まるで、耳元で飛び回る羽虫を追い払うかの様なぞんざいな態度で、相手を追い払うようにその手を振ってみせる。ここまで明らかな態度を取っているエリーゼをその気にさせるには、並の努力では不可能だろう。ここ数週間を共に過ごしてきた今の俺ならば、その難易度は容易に計り知ることが出来る。

「聞いた後の判断はどのようでも構いませんので、せめて、私がこうして貴方様の元へ訪れた理由だけでも説明させていただけないでしょうか」

「貴様も鬱陶しい奴だな」

「申し訳ありません、これも私に課せられた仕事の一環でして、なにとぞ、この通りです。よろしくお願いします」

男は腰を折って深々と頭を下げる。それは、気味が悪く感じてしまうほどに丁寧なものであった。しかも、それを受ける側は裸で男の背に跨っていたりするのだ。もしも、事情を知らない奴がこの光景を目の当たりにしたのならば、一体どの様な状況を想像するだろうか。

「私は嫌だと言ったんだぞ?」

だが、エリーゼは頑として否定する。

その声色は言葉を重ねる度に段々と鋭利に研ぎ澄まされていっている様な気がした。始めはペーパーナイフ程度の鋭度であったとするならば、今は研ぎ石を後にしたばかりの、研ぎ水に濡れて鈍く光っている出刃包丁の如き切れ味があるように感じられる。

「で、ですが……、そこを何とかお願いします」

男は営業周りのサラリーマンを絵に書いたように頭を下げまくる。ヘコヘコと何度も頭を下げながら必死に言葉を繰り返す姿は、見ていて哀れを誘わないでもない。

というか、俺は何時までこの馬鹿を背中に乗せていなければならないのだろう。

「おいエリーゼ、なんでもいいからお前、早く退けよ」

廊下の壁や床に打ち付けた痛みも引いてきた。いい加減、下に敷かれている事に腹立たしさを覚えて、俺は上に座っているエリーゼに遠慮することなく、横たわっていた身体を起こした。

「お、おいコラッ!?」

背中に座り込んでいたエリーゼはバランスを崩し、背後にあった脱衣所へと転がっていった。どうやら、意識をスーツの男に向けていた為に反応が遅れたらしい。コイツにしては珍しい失態である。

そして、気づいてみれば、膨張の一途を辿っていた我が息子も、いつの間にか、めでたく元の姿に戻っていた。この男の存在は、エリーゼにとっては厄介者以外の何者でもないのだろう。だが、俺にとっては救世主と言っても過言ではない。

「あの、大丈夫ですか? エリーゼ様」

脱衣所へと転がっていったエリーゼに、男はさも心配しております、といった様子で声をかける。まさか、この程度でどうにかなるような貧弱な造りをしているとは男も思っていないだろう。その辺は、取引先のご機嫌を伺おうとする接待役の条件反射に違いない。

だが、次に脱衣所から返されたのは、その男の努力にも虚しく言葉でさえなかった。転げかえったエリーゼは、ゆっくりと体を起こしながら、徐に腕を水平に上げて廊下へ突き出した。

「っ!?」

その様子を目の当たりにして、スーツの男は素早く身を玄関の壁に寄せた。エリーゼによって放たれたのは、高速で飛翔する氷柱だった。3割ほどの隙間を持って開かれていた玄関扉と、建物の外壁の間を擦り抜けて外へ向かい飛んでいく。男は上手いこと回避した。

「死にたくなければ今すぐに消えろ」

バリアフリーの敷居を跨いで脱衣所から出てきたエリーゼは、玄関扉の前に佇むスーツの男にドスの利いた声で言う。

「普段ならばこの場ですぐにでも殺しているところだ。だが、貴様にはすべき事がある。貴様はこれから雇い主の元まで帰り、そして伝えろ。何処の誰だか知らないが、次に下らない話を寄越したならば、その使い諸共、貴様を殺してやる、とな」

そうして発せられた声は、本人が向ける敵意のベクトルとは全く見当違いな場所にいる俺の背筋にさえ、嫌な汗を噴出させるほどに冷徹な響きを持っていた。

それにしても、一体どういった理由があってエリーゼはここまでに不機嫌なのか。誰に対しても冷たい反応しか返さない奴だとは思っていた。だが、今のコイツは普段にも増して怖い感じがする。少なくとも、つい数週間前に沙希の屋敷で夕食を共にした際には、沙希とも普通に会話をしていたのだ。

「あの、せめてお話だ……」

「消えろ」

水平に掲げられたエリーゼの腕の周囲に幾本もの氷の氷柱が出現する。それは長さが1メートル、太さは大人の二の腕程の大きさである。もしも、これが高速で飛翔するというのならば、拳銃の弾丸よりも性質が悪い代物である。真夏の屋内にあって、その表面からは外気との温度差より生じる冷気が霧となって揺らめいていた。

「し、仕方がありません。この場は一度引かせていただきます」

流石の男もエリーゼの放つ明らかな敵意を前にして、渋々と身を引くことを決めた。目を凝らしてみれば、身に着けたスーツの右袖には、先ほどの氷柱が原因であろう生地の裂け目があった。

「ですが、私は貴方を諦めてはいませんので、その辺はあしからず……」

男の最後の言葉を耳にして、氷の氷柱は何の反応も無く唐突に放たれた。それを俊敏な動作で避けながら、突然の来訪者は玄関のドアを越えて、真夏の太陽が輝く炎天下の屋外へと飛び去っていった。

「………」

後に残ったのは、何とも形容し難い微妙な空気である。

「まったく、あの馬鹿のせいで興ざめだっ!」

エリーゼは不機嫌さを隠す事無くそう呟いて、ポタポタと髪に含んだ水分を床に落としながらバスルームへと戻って行った。そんな後姿を眺めながら、辺り一面の惨事を理解して思わず顔を手の平で覆うのは俺の役目だ。

まったく…………、床がびしょ濡れじゃないか。