金髪ロリツンデレラノベ 第三巻

第三話

昼食は、茹でた乾麺の上に大根おろしとキノコ類を乗せて醤油をかけただけの、簡単なスパゲティーに決定した。玄関周辺の廊下や脱衣所に飛び散った水やボディーソープの泡を片付けるのに苦労したことで、家事への抵抗が膨れ上がっていたのが原因だ。

「それにしても、さっきのスーツの男は何なんだよ。昨日からの騒動も、もしかして、あの男の手引きだったりするんじゃないのか? なんか胡散臭いんだよな、無駄に丁寧な喋り方とか」

フォークにグルグルと麺を巻き付けながら、積もり積もった疑問と愚痴を口にする。

「フン、そんなこと私が知るか」

妙に華麗なフォーク捌きを披露して、音も無く皿の上のパスタを口へ運ぶエリーゼは、大層つまらなそうに答えた。

「お前が何を疑っているのかは知らんが、私は本当に何も知らんからな?」

「だったら、状況は尚更に悪いだろう。原因が分からないんじゃ対処の仕方もない」

「別に対処など何時でも出来る」

「お前なぁ……」

確かに、コイツは自分が強いから良いだろう。しかし、その隣で煽りを喰らう俺としては堪ったもんじゃない。そもそも、その原因を知っていようが知っていまいが、元凶がエリーゼにあることだけは誰の目からも明らかだろう。なのに、当の本人が安穏と暮らす横で、部外者の俺だけが危機に晒されるというのは納得いかない。せめて、それ相応の対応くらいは考えて貰いたいものだ。あのスーツの男への対応にしても、話を聞いて情報を得るくらい大した労力じゃないだろうに。

「少しくらいは危機感を持てよ」

「危機感? 私がか?」

「ああ、そうだよ」

一口サイズに巻き取った麺を口に放り込む。冷ややかな大根おろしと醤油の組み合わせが非常にサッパリとした、夏によく似合うパスタの一つだろう。小さい頃から母親が暑い季節の昼食に良く作っていたのを思い出して真似をしてみたが、なかなか手軽で美味い。

「お前は何か勘違いをしていないか?」

「勘違い?」

思わぬ言葉を返されて、卓上の皿に向けていた視線を上げる。

「言っておくが、私は強い」

「は?」

一体、俺が何を勘違いしているというのか。疑問を抱えて顔を向き合わせてはみたが、返された言葉はいつもの自画自賛である。認めたくは無いが、そのようなことは言われずとも理解している。わざわざ面と向かって指摘されるようなことでは無いし、勘違いもしていない。

「だから何だよ?」

人を馬鹿にしているのか? 

そんな憶測の元で、若干の苛立ちを香らせて顎を上げてみせる。

「だから、お前にひとつ教えてやる」

すると、カチャリと音を立ててフォークを皿上に置いたエリーゼは、テーブルに両腕の肘を立てて、静かに凄みを利かせた低い声色で言葉を続けた。

「私はお前の保護者じゃあ無いんだよ。お前が現状をどの様に捉えているかは容易に想像がつく。しかし、吸血鬼と化したことで得た永遠にも等しい悠久の時間を、そうやってお前はなんでもかんでも他人に頼って生きて行くつもりか?」

「………は?」

それは何だ?

「欲しいものがあるならお前の力で手に入れろ。死にたくないのならば、お前の力で生き延びろ。お前の生活はお前の力で守るんだよ」

エリーゼのそれは、同じ食卓にありながら、今までの穏やかな日常会話とは一変して、随分と人を突き放すような物言いであった。

「以前、私はお前の生活に干渉しないことを約束した。だが、それも『私は』に限った話だ。他は知らん。もしも、それが叶わないというのなら、失われようとする全てはお前にとって過ぎた代物だということなんだ、大人しく諦めろ」

「おいおい、お前、それって違うだろ。別に俺はお前に頼ろうとしている訳じゃなくて、自分が仕出かした事の責任は自分で取れって話で……」

「責任だと? また馬鹿げたことを言ってくれるじゃないか」

「な、何でだよ」

「いいか? 責任というものは、その言葉を使う者達が、お互いに対して何かしらの影響力を持たなければ成立し得ない、言わば、対等な存在が互いを縛る為のルールの一つに過ぎないんだよ。幾らお前が私の責任を叫んだところで、それが私にとって何の枷にもならないことは理解できるだろう? 私の施しが無ければ今の生活を続ける事すらままならない者が、そんな身分にあって何を意見するつもりだ?」

「…………」

そう言われてしまえば身もふたも無いのは誰の目にも明らかだ。もちろん、エリーゼの言葉には何の矛盾も無い。そこに人としての一般的な倫理観念や道徳心といったものが一切合財欠如してしまっている事を除けば、至極真っ当な意見であろう。

「面倒事が起こる度に、其の都度、他人の手を借りようなんぞと甘い考えを持つな。お前に非が無くとも、いつだって世界は止まる事無く機械的にも無情に回り続けるんだ。それに抗う事が出来るとしたら、それは自分の力以外に他ならない」

「それはまた、随分と理不尽な話だな」

「その通りだ。世の中はお前が思っている以上に理不尽なものなんだよ」

形の良い小さなピンク色の唇の間から、反論の言葉さえ忘れてしまう程の手厳しい言葉がマシンガンの様な勢いで放たれる。これまでも、コイツとはこういった言い争いを幾度と無く繰り返してきた。だが、それにしても今回のそれは唐突にして強烈なものに感じられた。

「お前の元居た世界は、親やら国やらがある程度はその身の安全を保障してくれたのかもしれない。だが、今のお前が居る世界は、誰もお前を守ってくれる奴など居ない。私だって、私のやりたいようにやるだけだ。今まではその延長上にお前の存在があったから、そのついでに助けてやることもあった。だが、それも言ってしまえば偶然に過ぎない。死にたくないなら人の力に頼らずに自分で何とかする癖を付けろ」

そう一息に言い切ったエリーゼは、鋭い眼光を持って俺を睨みつけてきた。その眼差しは、つい数十分前にスーツの男へ向けていた程のものでは無いにせよ、十分に此方の精神を揺さぶるだけの強烈な影響力を持っていた。

「…………やっぱり、お前って自己中心的な奴だよな」

「ああ、その通りだ。私は自己中心的な女だ」

せめてもの抵抗に出来る限りの皮肉を込めて言った台詞も、全く成果を上げること無く、あっさりと受け流されてしまう。

「その辺は既に十分理解しているものだとばかり思っていたのだがな? お前がそれほど地べたを舐めたいというのならば、私は幾らでも協力してやるぞ」

「うるせぇよ」

まったく、人外の世界というのは斯くも厳しいものなのか。

「分かったか? もし、分からない、などと甘えた返事を返すつもりならば、今この場で殺してやる。そうでなければ、何れにせよ、その命もそう長くは持たない無いだろう。それだけは私が保証してやる」

「……………」

「いいな?」

強く念を押すような物言いで尋ねられる。

此処で首を横に振ったのなら、コイツは本当に俺を殺そうとするだろうか?

そんな思考に意識を数瞬だけ割いてみたが、結局のところ、幾ら抵抗、反論したところで結果は見えているのだ。ならば、ここは素直に応じておくのが最良であろう。俺は仕方なく相手の言葉に頷いた。

ただ、そうして首を縦に振るに至ったのは、普段からの口喧嘩とは異なり、語るエリーゼの表情が妙に真剣なものであったことも影響している。これまでの経験上、口論の際には必ずと言ってよいほど、その表情に上がる人を見下した厭らしい笑みが、今回に限っては不思議と一切見られなかったのである。先程の俺の発言は、そんな笑みさえ消えてしまう程に癇に障るものであったのだろうか? 分からない。

「ならば、今後はそれを念頭において物事を考えろ。これでまた馬鹿な事を口にしたのなら、その舌を根から引っこ抜いてやる。覚えておけ」

「ああ、分かりましたよ……」

まさに暴君だった。

一頻り喋ったエリーゼは、俺が了解したのを確認して満足したのか、再びフォークを手に取り食事に戻った。そして、会話がそこで途切れると、食卓には食器具がお互いにぶつかり合う小さな音だけが静かに響くこととなった。不幸にもテレビの電源は落ちており、俺とエリーゼを除いて他に音源の存在しないリビングはとても静かだ。それまでの妙な会話の流れと合わせて、いつの間にか酷く居心地の悪い空間となっていた。

返す言葉が何一つとして浮かばない俺は、仕方なく手元のスパゲティーを片付ける事に意識を向けた。

だが、その三分の一を片付けた頃だろうか。それまでは特に気にもならなかったある事実に気づいた。ふと顔を上げてみると、音を立てず静かに麺を口へ運ぶ対席と比較して、口を開くたびに麺を啜る音を出してしまう自分に気づいたのだ。それまでは意識した事など無かったが、今し方の会話のせいだろう、そんな些細なことでさえ、何故かエリーゼ対して劣等感を感じてしまう自分がいた。

なんだろう、この感覚は。

憎いというよりは悔しくて、けれど、頭の何処かでは絶対に叶わない事を理解してしまっているから、どうにもならないのだと殆ど反射的に自分へ言い聞かせてしまう。でも、最終的なところで、やっぱり享受出来ないものが出てきてしまう。結果的に周囲を完全に囲まれた状況にあって、どうにもならない苛立ちを感じ始めるのだ。それだったら初めから素直に反発しておけばいいのに、それも出来ない。

「…………」

コイツの相手をしていると調子が狂う。

此方の事などまるで意に介した様子も無く食事を取るエリーゼを眺めて、はぁ、と大きなため息をついた。これ以上考えても脳資源の無駄である。そう自分に言い聞かせてフォークを動きを再開させた。折角美味い食事を作ったのだから、今はそれを素直に楽しめば良いのである。だが、食事の味が元に戻ることは無かった。

それからしばらく、皿の上で山になっていた麺を半分ほど片付けたところで、再び対席に座るエリーゼから声がかけられた。

「おい、これはまだあるのか?」

人差し指が指し示す先は空になった皿である。

「スパゲティーか?」

「そうだ」

てっきり、再三に渡って悪態や罵倒の言葉を吐かれるかとも考えた。だが、どうやらそれは思い過ごしであったようだ。

「麺も具もあるけど、それがどうかしたか?」

「見れば分かるだろう、御代わりだ」

予想通りの返答と共に、空となった白い皿を此方へ差し出してくる。

御代わりをするにしても、それくらい自分の手で済ませて貰いたいところだが、如何せん身長の低いコイツだ。加えて中途半端に現代の電化製品に対する知識が抜けていることもあり、下手にキッチンへ立たせるのは危険である。自分で行け、と喉元まで上がってきた言葉を飲み込んで、俺は素直に皿を受け取った。

「どのくらい食べるんだ?」

「さっきの半分くらい」

「分かった」

答えながら席を立ち、キッチンへと向かった。

ダイニングに面するキッチンカウンターのガスコンロには、湯上げしたスパゲティーの麺が笊に入って置いてある。そこから適当な量を皿に移し、冷蔵庫の中へ入れておいた大根おろしとシメジを上に盛り付ける。味付けには醤油を少々垂らすだけだ。そして、最後に刻んだ海苔を上からまぶせば完成である。

盛り付け終えた皿を持ってエリーゼの待つダイニングテーブルへ向かう。

そのときだった。

リビングに設置された、人が出入りする為の大型のガラス戸が突然に割れたのである。甲高い破壊音が耳を突く。窓は外からの圧力によって割れたらしい。ガラス片は室内に向かってまるで土砂降りの雨の如く降り注いできた。だが、問題なのは窓ガラスが割れたことでは無く、その割れたガラス片と共に室内へ飛び込んできた存在である。

「こ、今度は何だよっ!?」

咄嗟に背後へ飛び退いて飛び散るガラス片の被弾を回避できたのは奇跡に近い。代わりに、手に持っていたスパゲティーの盛り付けられた皿は足元でひっくり返っている。なんてこった。

窓ガラスを割って室内へ飛び込んできたのは、ジーンズにアロハシャツという出で立ちの若者であった。茶色の髪を短く刈り込んだ、色黒の男性である。背丈は180センチメートル程だろうか。

アロハの男は周囲の様子を一巡して見渡す。そして、自分から数メートル離れて、リビングのソファーテーブル上に立っているエリーゼの姿を確認すると、無言でそちらに向き直った。

「人が食事をしているというに、いきなり何の真似だ?」

一応は心配もしたのだが意味の無いことであった。流石はエリーゼといったところか。いつの間に食卓の席から移動したのだろう。あれだけのガラス片が降り注いだというに、かすり傷の一つも負っていない。ただ、食事の邪魔をされたのが癇に障ったのだろう。酷く不機嫌そうだ。

「お前がエリーゼ・フォン・マルファッティか?」

エリーゼの立つソファーテーブルの置かれた側は、俺が居るキッチンの出入り口とは乱入者を挟んで反対側だ。立ち位置の都合上その表情を伺う事はできない。

「質問に質問を返すな馬鹿が。私は何の真似だと聞いているんだ」

「何の真似かと?」

有無を言わさぬ迫力を伴ってエリーゼは言葉を投げかける。すると、強気な返答を肯定と受け取ったのか、否定と受け取ったのかは分からないが、男は小さく身体を震わせて、静かにスッと左腕を上げた。

「金色の長い髪、子供程度の背丈、間違ってはいない筈だ」

それが合図であったのだろう。

男が割って入ってきた窓ガラスから、窓枠に残るガラス片の全てを粉砕する勢いで、幾人もの人影が同時に空より室内に向かって飛翔してきた。一同は喧しい粉砕音を伴って、ダイニングテーブルやソファー等の家具を蹴散らしてリビングに着地する。その数は5人。アロハの男を含めて合計6人となる。おかげで、室内はあっという間に大震災でもあったかのような酷い有様となっていた。

「お、おいおい、なんだよお前等は……」

部屋に侵入してきた者達は、アロハの男と同様に外見は至って普通である。現代を生きる人間のそれだ。6人のうち4人が男で、残りの2人は女である。そのうち男の一人は俺も記憶に新しい、今朝、ローザの家へエリーゼに続いて押し入ってきた例の老人である。老人を除いた5人は20代から40代程度に見られる風貌の者達だ。

「ジジイ……、お前の手引きか?」

沸々と静かに怒りを高めていくエリーゼの様子が手に取るように分かる。

「そうだと言ったらどうするんじゃ?」

顎の髭を撫でながら、老人はにこやかな笑みを浮かべてみせる。

「二度は逃がさんっ」

ソファーテーブルを蹴ったエリーゼの体が宙を舞った。

「死ぬ気でかかれよ皆の衆っ!」

老人は大きく声を張り上げて構える。

彼に付き従うように身を置く5人の男女も同様だ。

この部屋の家主として、これ以上の揉め事を室内で行なって欲しくはない。だが、エリーゼがキレてしまった以上、最早それも叶わぬ願いなのだろう。正体不明な輩が攻めてきたという事実も然る事ながら、砕けてしまったダイニングセットの修理費や、部屋中に飛び散ったガラス片の掃除を考えると、今にも心が砕けてしまいそうな気分だった。

「死ねっ!」

老人の顔を狙って、エリーゼの拳が勢い良く振るわれる。だが、初手は間合いが空いていた為か、僅かに掠って終わった。それでも流石はエリーゼだろう。相手の鼻先には数センチの裂傷が出来ていた。飛沫した血液がフローリングを赤く汚す。

「ったく、本当に頼むよもぉ……」

今はエリーゼが一刻も早く、かつ最小限の損害でこの侵入者を退治してくれることを祈るのみである。ここ一ヶ月間に起こった諸事からの経験上、俺が舞台へ出て行っても役に立たないのは学習済みだ。それどころか、逆に足手まといになってしまうのが関の山だろう。唯一の選択肢は、リビングの隅で奮闘する我がご主人様の姿を眺めることか。

「くたばれ、西洋の化け物がっ!」

老人へ仕掛けたエリーゼの元へ、その脇からアロハ男が迫る。

しかし、そんな叫びに動じること無く、エリーゼは振るった左拳を引き戻すと同時に強く床を蹴って前方宙返りを決めながら老人を飛び越える。そのまま背後にあったダイニングテーブルの残骸を越えて、対面式に設置されたキッチンのカウンターの前まで移動した。キッチンからダイニングへ続く扉の前に立つ俺からは、2,3メートルの距離だ。

「大丈夫か?」

いらぬ心配かとは思うが、一応そんな事を聞いてみた。

「当然だ。そんなことより、くれぐれも言っておくが、お前は手を出すんじゃないぞ?」

「わ、分かってるよ」

その辺は、ローザ宅での出来事が教訓となっている。

「こいつ等はお前の敵う相手じゃない、そこで大人しくしていろ」

そして、それだけを短く告げると再び闖入者へと向かっていった。

それからは、本当に一言の野次も飛ばすこと無く俺は傍観者となった。どういう訳か敵も俺を狙う素振りは全く見せない。自分の置かれた非現実的な状況を、冷静に眺めている事が出来た。

幾らエリーゼでも、6人もの敵を相手にしては多少の苦戦を強いられるのではないか、などとも考えた。だが、場所が室内では相手も思うように身動きが取れないらしい。背丈の小さなエリーゼは余裕の表情で相手を翻弄していた。リビングとダイニングを合わせれば19畳もののスペースが確保されるこのマンションだが、それでも合計で7人もの人間がせわしなく動き回っていれば、狭く感じるのは仕方の無い事だろう。

そして、開戦から数分と経たないうちに敵の一人がエリーゼの鋭い爪に肩口から腰下までを一息に引き裂かれて、辺りに真っ赤な血液を跳び散らしながら絶命した。倒れたのは20代だと思しき、Tシャツにジーンズを穿いた男性である。

「うわぁ……」

体内から噴出した血液の勢いは凄まじく、周囲の壁は元より天井に至るまでが赤い液体によって汚されて、あたり一面は見るも無残な姿に成り果てた。これはもう、掃除をしてどうにかなるような状態ではなさそうだ。最低でも壁紙の張替えを行う必要がある。

男が絶命したことで、それまで強気であった老人も自分達の不利を悟ったのか、ここへ来てその意向を変更した。無言のまま、爺さんの皺にまみれた指がガラス窓の外へ伸ばされる。それに従って周囲の者達はすぐさま屋外へ向かい飛び出していった。老人も最後に続く。これまでの様子からして、敵グループのリーダーはローザ宅を強襲した老人であるらしい。

「なんだ、逃げるのか?」

その様子を目の当たりにして口元にニヤリと邪悪な笑みを浮かべたエリーゼは、嬉々として声も高々に宣言。

「言っただろう? 二度は逃がさないとなっ!」

きっと、この状況を楽しんでいる。

駆け出したエリーゼは割れた窓ガラスを抜けてベランダへ躍り出る。そして、転落防止用の手摺を越えて宙へ身を投げ出した。一瞬、心臓がドキッとしたが、なんら驚く必要は無かったらしい。闖入者達がそうであった様に、颯爽と空を飛びながら彼等の後を追っていった。

「やっぱり、空も飛ぶんだな……」

エリーゼと出会ってから今日に至るまでの間で、吸血鬼だの魔法なんだのと様々な不思議現象を目の当たりにしてきたのだ。それが先月の出来事ならいざ知らず、今日となっては声を荒げて驚く程でもなかった。とはいえ、やはり本当にそれが自分の目前で行なわれたとなれば、感嘆の言葉の一つも漏らしてしまうのは仕方の無い事だろう。

争いの場を追ってベランダへ向かう。外では高速で飛翔する幾つもの移動物体が、その座標を目まぐるしい勢いで変化させながら、ぶつかり合っていた。戦いは常に場所を移しながら行なわれているらしい。俺が目にしたときには、既に遠く、各人の顔を確認出来ない距離にまで離れてしまっていた。

しばらく待っていても近づいてくる様子は無い。

「…………」

そんな光景を目の当たりにしてとりあえず一息、俺は安堵のため息をついた。幾ら自分が狙われていなくても、すぐ近くで喧嘩をされては気が気でない。しかし、それから背後を振り返った後に訪れたのは、僅かな安堵も虚しく、逃れることの出来ない完全な絶望であった。

「ったく、これはどうするんだよ」

正体不明の敵はエリーゼが始末したとしても、その後に残った争いの爪跡はどうにもならない。加えて、室内には身体を斜めに上下二分された男性の死体が転がっているのだ。これが犬や猫、せめて人間外の化け物の姿をしていたのならば処理のしようもあるのだろう。しかし、ここまで見事に人間の姿を取られていると、その破棄さえままならない。下手をしたら警察のお世話になりかねない。

とりあえず、割れたガラス窓を通ってリビングに戻る。

エアコンによって整えられていた快適な室内環境も窓ガラスを割られたことで完全に崩壊していた。額には夏の外気に当てられて汗の粒が浮き上がっている。このまま放っておけば、数時間の内に死体から腐敗臭が上がるのは目に見えている。その前に何とかしなければ、付近住人から苦情を訴えられたりする恐れもある。

「本当に死んでるよな?」

横たわる男性の死体に恐る恐る近づいてみる。

上半身だけとなってしまった身体はピクリとも動かない。瞳は開かれたまま、表情は痛々しくも激しい形相のまま固まってしまっている。下半身は上半身から数メートルの距離を置いてリビングの入り口付近に落ちていた。随分と派手に切り飛ばされたものである。改めてエリーゼの凶暴性を理解した。

「…………」

一応、近くにあったダイニングテーブルの残骸でその首元を突いてみた。

相手は人知の及ばない化け物である。エリーゼの言葉もあるし、その完全な死亡を確認するまで下手に扱うのは危険である。不用意に近づいて手首をいきなり握られたりしたら涙ものだ。

だが、傍にしゃがみ込んで数分に渡り、木材の切れ端でそこらじゅうを突きまわしても、何も反応らしい反応は得られなかった。

「死んでるか」

とりあえずは安心して良さそうだ。

後はエリーゼに焼くなりなんなりして処分して貰おう。沙希の親父を殺したときの魔法など、証拠隠滅にとても都合良く利用できそうだ。その辺は壊したり燃やしたりするのが得意だと公言するだけのことはある。

「けど、部屋はなぁ……」

手にした木片を捨てて立ち上がり、周囲の様子を眺める。

「生臭いし、汚ったねぇし、なんか床が滑ってるし……」

部屋中を染める赤の原因がペンキによる汚れであったならば、業者を呼んで対処することも出来ただろう。だが、血液が相手となると、下手にそういった手段を講じる事も出来ない。その辺は色々と事情の通じそうな吉川に相談してみるのが無難だろうか。というか、他に思い浮かぶ手立ても無い。

まあ、何にせよ今はエリーゼを待つしかないか。

俺は空を飛ぶことも出来ないし。

「…………」

すぐ近くに内臓をぶちまけて絶命した死体があるというのは、精神衛生上よろしくない。俺は少しでも室内に漂う死臭から逃れようと、ベランダへ向かうことにした。多少暑くても、死体と同じ部屋に居るよりは全然マシだろう。

しかし、その数歩目を踏み出したところで、何かに躓いた俺はガラス片が散らばるフローリングの上によろけて両手を強くついてしまった。

「いってぇええええっ!」

当然、膝と掌には無数のガラス片や尖った木片が突き刺さっていた。傷口こそ小さいものの、その数が多いことが物理的にも精神的にも酷く痛みを感じさせた。

「ったく、なんだよっ!」

ズキズキと疼く痛みに苛立った俺は、自らを躓かせた原因を確認すべく、その足元を睨み付けた。すると、そこにあったのは驚くべき事に、先ほど確認したばかりである男性の上半身であった。

「うわっ!?」

慌てて背後へ飛び退く。

よく見てみれば、胴体一つ分程度の距離だが、少し目を離した隙に位置が移動しているではないか。

「お、おい……」

そして、もしかしたら……、などと推測が像を結ぶよりも早く、それは動いた。

血に塗れた片腕が伸ばされ、俺の右足首を掴んだのである。

「う、うぉああああああっ!」

予期せぬ事態に混乱した俺は、慌てて腿から下を激しく滅裂に振り回す。しかし、痛いほどの力で握り締めてくる男の手は、なかなか足首を離そうとはしなかった。それどころか、首を動かしてギロリとした瞳で俺を睨みつけてきた。

間違いなく生きている。

「ちょ、ちょっとまてよお前っ! 死んでたんじゃなかったのかよっ!?」

「ぅ……、うぅぅ……」

口から漏れるのはくぐもった無様な呻きである。足首を掴む手を真っ赤に染めるのは、未だに傷口から流れ出てくる真っ赤な鮮血だ。どれだけ精緻に作られた3D映像も及ぶ事が出来ない確かな現実味がそこにはあった。おかげで此方の思考は簡単な四則演算さえままならない程にパニック状態である。

「糞っ!」

とにかく早く相手の手から逃れたくて、俺は自由な左足で相手の頭部を思い切り蹴りつけた。だが、相手の緩慢な動きが止まることはない。それどころか、足首を掴む手の周囲に何やら紅い不吉な光の帯が漂い始めた。これはエリーゼが俺を虐めるときに良く目にする光景だ。

そして、ヤバイと感じた次の瞬間には足首が飛んでいた。

「ああああああああああああああっ!」

火薬が爆ぜた様な衝撃と共に踝から先が失われた。噴出した血液がフローリングに新たな血溜りを作る。痛みに耐えかねて俺は隣近所への迷惑も考えずに大きな叫び声を上げていた。体は自然とバランスを崩して床に倒れる。

それを勝機と見たのだろう。下半身を失った化け物は、唯一のこった片腕を使い地を這うように移動して、俺の上に圧し掛かってきた。内臓を撒き散らしながら迫ってくる様は凄まじい生理的嫌悪感を伴う。

「く゛っ、くるなっ!」

痛みに耐えながら、床に腰を落としたままの状態で必死に後ろへと下がる。

「き、貴様等西洋の……、化け物のせいで…………」

何か喋っている。

だが、こちとら足の痛みとお前の気持ち悪さで一杯一杯である。耳を傾けている暇など無い。怪我の無い方の足で必死に相手の体を蹴りつける。

「せめて、貴様だけでも……」

「い、痛い! 痛いんだよっ! 来るなよっ! 大人しく死んでろよっ!」

赤い光を纏う腕が伸ばされる。

それに掴まれた場所がどうなるのかは良く理解した。

だが、先ほどの出来事で腰が抜けてしまった俺は立ち上がることも出来ない。加えて、下腹部には化け物が圧し掛かってきているのだ。必死に後ろへ、後ろへと体を引きずりながら移動してはいるが、相手も同様についてきている。

「死………、死ね………」

伸ばされた腕が右の肩を掴んだ。

死に損ないの癖に凄まじい握力である。

「ま、待てよっ! おいっ!!」

背筋が凍った。

そして、予期したとおり右の肩もまた爆ぜた。

足首が吹っ飛んだときとは比べ物にならない痛みが全身に走った。足首ほどは脆い構造をしていないので、腕が千切れ飛ぶことはなかった。しかし、黒こげた肉の合間からは鎖骨が見えてしまっている。その周囲の肉の殆どは炭化してボロボロと崩れ落ちてしまっている。

もう、泣き叫ぶしかなかった。

「ふ、ふはははは……、そ、うだ……もっと喚け………」

「や、や……めっ!」

血と鼻水と唾液を撒き散らしながら必死でもがいた。

正常な方の腕で相手の顔を幾度も殴りつける。相手にしても決して此方の反撃が効いていない訳ではないらしい。鼻の骨は折れているし、いつの間にか眼球も一つ潰れていた。俺が拳を振るうたびに顔の形も少しずつ変わっていく。しかし、それを気にした風も無く、尚も赤い光を帯びた腕は伸びてくるのだ。コイツには痛覚というものが無いのか。

「……さぁ、次は……どこがいい?」

「あああああああ、もうやめろよぉおおおおおおおおおお!」

体中が痛くて痛くて仕方が無い。

近くにあったダイニングテーブルの折れた足を拾い、敵の肩に叩き付けた。すると、それが効いたのか、俺の首を今にも掴まんとしていた腕が怯んだ。その隙を付いて下から膝を立てて相手の身体浮かせると、下から這い出す事に成功した。敵が下半身を失っていたことが功を奏したようだ。

だが、依然として腰は抜けたままだ。

満足に立ち上がることも叶わない。

なんて惨めな。

「に、逃がすか……」

尻餅をついたままズルズルと後ずさる。

相手はそんな俺の姿を目に留めて喜びに目を細める。分断された下半身との切断面から内臓器を引きずりながらゆっくりと近づいてくる。本当なら二本の足で立って逃げ出したいのに、身体が言う事をきいてくれないのだ。

しかも、後退できたのは僅かな距離に過ぎなかった。

背中に硬いものが当たった感触を受けて後ろを振り返る。

気づけば壁に行き当たっていた。

「ま………マジ……………かよ…」

慌てて方向を変えようとした。だが、曲げた膝を伸ばして尻をスライド指せたところで、それまで無事であったもう一方の足が敵に掴まれてしまった。

「お、おいっ!」

叫んでも結果は変わらなかった。

「………喰らえ」

相手の呟きと時を同じくして、残ったもう一方の足首も爆ぜて飛んだ。

「あああああああああああああああっ!」

本当に挫けそうだった。

涙を流しながら、ただ声を上げて泣いていた。

そんなとき、あまりの痛みで無意識のうちに振り回していた片腕が、偶然、敵の残った眼球に命中した。ゼリー状の何かを潰す感触が指先に伝わる。それにより完全に視力を失ったことで敵の動きが一転して緩慢なものへと変化した。

「くっ………」

苦悶と戸惑いの声が聞こえてきた。

もしかしたら、これが最後のチャンスなのかもしれない。

そう自分に言い聞かせた。痛む体に鞭打って体を這わせる。上からは敵が圧し掛かってきているが、なんとかそれを押しのけて移動しようとした。目を失ってなお手探りで此方を探している。その探査を惑わすように身体を捻りながら、必死になって抵抗した。

しかし、両足首を失った状態では大したことも出来なかった。

下手に動くと体には激痛が走る。

それを庇って悶えている内に、再び相手にマウントポジションを奪われてしまった。下腹部に生暖かい臓物の感触が伝わってくる。体中に鳥肌が立つのを感じた。痛みと嫌悪とで頭は混乱を極めていた。

「お、やめ………、やめ、ろよ……」

「これで………お、わりだ………」

相手の腕が伸びてくる。

ペタペタと頬を触りながら、そこが頭部であると認識したらしい。

手探りで探し当てた俺の顔面を鷲掴みにして来た。

逃げ出そうにも恐怖に慄いた体が言う事を聞いてくれない。

「う、嘘……だろ」

幾らなんでも頭を吹き飛ばされたら死んでしまう。

吸血鬼だろうと死ぬときは死ぬのだ。

必死になって頭を振った。残った腕で抵抗した。だが、相手の腕力は衰えることを知らない。ガッチリと頭蓋骨を挟んで離さない。まるで万力で固定されている様であった。本当に俺は死に損ないを相手にしているのだろうか? そんな疑問さえ浮かんだ。

エリーゼは万全の状態のコイツを何の苦労もなく引き裂いていたのだ。なのに俺はこんな上半身だけになったこの化け物を相手に腰を抜かして窮地に陥っている。悔しくて堪らない事実だった。

「さぁ………くたばれ………」

「っ!?」

顔を掴む手に力が込められた。

思わず目を瞑って身を強張らせる。

本気で死んだと思った。

首から上を失った者の存在意義は一体どこにあるのか。思考はどうなるんだろうか。意識はどうなるのだろうか。自我は消えてしまうのだろうか。そんな哲学めいた下らない思考が凄まじい速度で脳内を駆け巡った。

しかし、俺の頭が爆ぜることは無かった。

それまで幾度か耳にした炸裂音の変わりに、すぐ近くから鈍い打撃音が聞こえてきた。同時に身体の上にあった圧迫感が一瞬にして消えうせた。驚いて目を開けると、そこにはエリーゼの姿があった。

その瞬間、俺は目から自然と涙が出てくるのを感じた。

「お前は何をやっているんだ?」

いつもの素っ気無い語りかけが、今はとんでもなく嬉しかった。

爺さん達との空中戦を帰ってきたのだろう。

「あ………お………おせぇよ」

そう返すだけで精一杯である。

「まさかとは思うが、こんな死に損ないの雑魚さえ満足に倒せないのか?」

腰に手を当てたエリーゼは、心底呆れた顔で俺を見下してくる。

「だ、だって、腰が……腰が抜けたんだから………仕方無いだろ…」

下半身を失ってなお動き回る相手の強烈なビジュアルと、早々に足首を吹っ飛ばされたのが良くなかった。受けたショックが大きくて、まともに立ち回ることが出来なかったのだ。せめて腰さえ抜けていなかったのなら、対処のしようもあったと思う。

「腰が抜けた? それでも本当にお前は私の下僕か!?」

驚いた様子で聞いてきた。

「ふ………不意打ちだった、んだよ」

体中を苛む痛みに耐えながら、喉に力を入れて搾り出すように声を上げる。

「不意打ちだろうが何だろうが腰を抜かす理由にはならんだろうが。いつもの負けん気は何処へ行ったというのだ? 折角私の血を分けてやっているのに、まるで意味がないだろうが」

リビングの一角にはエリーゼによって吹っ飛ばされたと思しき化け物の上半身がある。首の骨がおかしな方向に曲がってしまっている。流石に今度こそ死んだらしい。体はピクリとも動きはしなかった。

「俺だって……、腰さえ抜けなけりゃ……」

「まったく、怒るのを通り越して呆れるしかないな」

エリーゼはすぐ近くに転がっていた俺の足首を拾って此方へ投げてよこした。

「ほら、とりあえず怪我を治せ。しばらく傷口にあてがっておけばくっ付くだろう」

傷口からは既に現在治療中を示す白い煙が立ち上がっている。どうやら死に至るほどの怪我では無かったらしい。腹の上に落ちたグロテスクな踝以下の足先を拾う。そして、痛むのを我慢して傷口へ押し付けた。

「っ痛……」

自然と悲鳴が漏れた。

「その程度の怪我でいちいち声を上げるな、情けない」

「無茶、言うなよ……」

むしろこれだけの反応で済んでいることを褒めて欲しいくらいだ。

「無茶などではない。それが普通だ」

「普通で堪るかよっ!」

反射的に叫んでいた。

すぐそこで朽ちている化け物といい、エリーゼといい、こいつ等には痛覚というものがないのだろうか。それは前々から疑問に思っていたことだ。もしかしたら長生きをしすぎて神経が鈍化してしまっているのではないだろうか。そうでもなければ説明がつかない。

「それよりも、こんな死に損ないの雑魚を相手にして、どうやったらここまでボロボロになれるんだ? 私はそれが疑問で仕方がない」

「うぅ………」

これには返す言葉がない。

つい先日、エリーゼの力を借りることなく自分ひとりで猿の化け物を倒した。そのときと比べたら、今のやり合いなど取るに足らないものだった。相手は満足に動く事さえ出来なかったのだ。腕力こそ強力であったが、冷静に対処すればどうとでも出来た気がする。

「…………悪かったよ」

自分の不甲斐なさが辛かった。

「当然だ」

俺は部屋の壁に背を預け膝を曲げて座っている。両手は取れてしまった足首を傷口に押し当てている。その前まで戻ってきたエリーゼは目の前で仁王立ちをして、ギロリとした目を向けてくる。

「このような失態、二度と見せるなよ?」

「わ、分かってるよ。俺だって、こんな痛い思いは二度と御免だ」

有無を言わさぬ迫力を前にして、俺は素直に頷いた

爆ぜ飛ばされた足首は、エリーゼが言ったとおり数分でくっ付いた。つくづく便利な身体だと思う。それから更に数分を待つと、表皮も元通り治癒されて痛みも徐々に引いていった。肩の怪我も同様だ。骨が露出するほどの酷い怪我であったにも関わらず、失われた体組織は自然と修復され、いつの間にか元あった肌の色を取り戻していた。

こうして眺めていると、本当に自分が人間ではなくなってしまったのだと強く感じる。せめてエリーゼがそうであるように、傷も一瞬のうちに治癒してくれれば、そんな感慨も少なかっただろう。だが、妙なリアリティを持って治癒されていく傷口は、否応無しに異常性を感じさせた。

「世話の焼ける下僕だ」

「だから、悪かったよ」

俺が歩けるようになった事を確認して、再三に渡りエリーゼがしみじみと呟いた。

だったらちゃんとと止めを刺してから行けよ、という反論も喉元まで出かかったところでグッと飲み込み我慢した。俺が不甲斐なかったのは事実なのだ。それを口にしたところで自分の惨めが強調されるに過ぎない。

元は酷い裂傷があった首筋の皮膚を撫でて一息である。

「しかし……、改めて見ても酷い有様だな」

荒れ果てた室内の様子を眺めてエリーゼが小さく呟いた。

「そりゃ、好き勝手暴れてくれたからな。お前が初めから外で暴れてくれれば少しは違っていたんだろうけど」

「そういうことはあの爺に言ってやれ。先に襲い掛かって来たのは奴等だ」

両手を腰に当てて砕けたダイニングセットを眺める横顔には、小さな血飛沫が幾つも飛んでいた。それに気づいて、頭からつま先までを改めて眺めてみると、血液は他にも全身の至る箇所に付着していた。着ているのが黒い色のワンピースであったので、気づくのが遅れたようだ。

「なぁ、そこらじゅうに血がついてるけど、どこか怪我でもしたのか?」

エリーゼの馬鹿げた自然治癒効率を知っているので、そこまで慌てることは無かった。だが、それでも気になるものは気になるし、心配でもある。

「別に怪我などしていない。これは奴等の返り血だ」

「そうなのか?」

「当然だろう? お前は私があのような雑魚を相手に負傷したとでも言うのか?」

「いや、それならいいんだけどさ」

まあ、返って来たのは予想通りの回答だ。

それにしても、快適な昼食の光景が一転して地獄の絵図だ。しかも、室内は本当に血肉に塗れて地獄の態であったりするから笑えない。この惨状をどうやって復旧すればよいのか、問題は山積みである。

「ところでさ、お前が殺したコイツなんだけど、その、できれば死体の処理とかもしてくれないか? このままだと夏の熱気ですぐにでも腐ってきそうだし、かといって周囲の目もあるから、そこら辺へ適当に捨てる訳にもいかないし」

エリーゼは部屋の中央に向かって行く。

「処分してくれるか?」

「まさか、このまま放置しておく訳にもいくまい?」

その場で右手を肩と水平の位置でかざして、何やらモソモソと呟き始めた。きっと、魔法を使う為に呪文の類でも口にしているのだろう。その辺の事はサッパリだが、興味も無いので特に口出しする事も無く、静かにその様子を背後から眺める。

しばらく待つと、天上に向けられた手の平にポッと赤い灯りが3つ点った。その全ては同様にビー玉程度の大きさを持っている。冬の暖炉が放つような、とても穏やかな温かみを感じさせる小さな球状の光源であった。

いったい何をするつもりだろう。

まるで手品師を前にした観客の気分で事の成り行きを見守る。

「いけ……」

短い呟きが耳に届いた。

すると、手の平の上に浮いていた光源は地球の重力に逆らいながら、風に流れるタンポポの綿毛のようにフワフワと宙を漂い始めた。複数個存在する光源は、その全てがバラバラの方向へ動き始める。どうやら、3つ存在する光源はそれぞれ、男性の頭部、上半身、下半身へ向かっているようだ。

そして、各々が遺体の各部に触れた瞬間に発火が始まった。

光源自体はそれほど強烈な光量や熱量を伴っていた訳でもないのに、上がった火の手は火柱と呼んでも差し支えの無い程に見事なものであった。遺体から立ち昇る炎は人を一人飲み込める程の底面積を持ち、リビングの天上にまで到達する勢いで火の子を周囲へ激しく撒き散らしながら燃え上がった。

「お、おいっ! 部屋まで燃やすつもりじゃないだろうなっ!?」

静観を決め込んでいた俺も、その様子に驚き慌てて声をかけた。

「安心しろ、私はそこまで馬鹿じゃない」

「本当か?」

色々と実績があるのでコイツの言葉を素直に信用するのには抵抗がある。

「当然だ、お前は黙って見ていろ」

「…………」

だが、そう言われてしまっては仕方が無い。エリーゼと違い、俺には自力で遺体を処分する手立てが無いのだから、ここは大人しくする他に無い。無駄に心労を貯めながら、事の行く末を祈るように見つめる。

しばらくして、遺体を燃やし尽くしたのだろうか。燃え盛る火柱の勢いが徐々に弱まってきた。かとおもいきや、燃え始めの勢いと同様に、轟々と立ち上がっていた炎は、まるで穴の開いたタイヤのゴムチューブの如く、凄まじい勢いで収束し始めた。

「おぉぉぉ……」

気づけば、思わず感嘆の声を上げていた。

本当に手品のようである。

「これでいいのだろう?」

そして、急速に萎んだ火柱が消え失せた跡には、焼け焦げた遺体の骨どころか、灰の一塵さえ残ってはいなかった。まるで、神隠しにあったかの様に綺麗サッパリ消え失せてしまったのである。

一体、今の火柱はどれ程の高温であったのだろうか。一般的な火葬炉の温度が800℃から1200℃であることからして、燃焼時間を考慮しても、それ以上の値である事は間違いない。なんと、恐ろしい娘っ子であろうか。

「あ、ああ。十分だよ」

もし、本気でコイツに牙を向けられたのなら、俺はものの一分も経たないうちに消し炭と化してしまうのだろう。そう考えると、背中を嫌な汗が伝って落ちた。目の前に佇む相手の異常性を改めて認識した次第である。

とはいえ、そんな心中を素直に晒そうものならば、コイツはどれだけ付け上がって来るか分からない。その辺は胸の奥にそっと秘めて置くべきだろう。何気ない素振りで話を進めることとする。

「けど、死体はどうにかなっても、流石に部屋は無理だよな?」

死体が消えたとは言え、依然として室内が惨事にあることは変わりない。

「何を寝惚けた事を言っている。掃除は下僕の仕事だろう?」

「馬鹿言え、こりゃ掃除なんて甘いもんじゃないだろうが」

親がこの場に居ないのは不幸中の幸いだ。けど、それも年末年始には帰国の予定がある。それまでに何とかしておかなければ、家族会議どころの騒ぎではないだろう。下手をすれば身内に通報されて牢屋行き、などという切ない展開さえ容易に起こりうる。

「ならばどうするつもりだ? まさか、このままで居ろとでも言うつもりか?」

「いや、流石にそれは無いけどさ……」

頼みの綱は吉川である。

「ならば何とかしろ。私は私の仕事をしたんだ。次はお前の番だろう?」

「わ、分かってるよ。とりあえず吉川に電話してみる」

今日は夏休みだが、同時に平日でもある。

在学する高校が県下有数の進学校ともなれば、入学して2年目の夏は受験対策にも自然と力の入る時期であろう。相手が夏期講習の類へ出かけていない事を願いながら、ポケットの携帯電話を取り出した。

だが、吉川の携帯電話の番号をメモリから呼び出して、いざ通話ボタンを押そうとしたところで、リビングに玄関の呼び鈴の鳴る音が響いた。

「客か?」

「みたいだな」

この状況で来客とは運が無い。新聞や宗教の勧誘だろうか?

「ちょっと相手してくる」

「早くしろよ」

「ああ」

取り出したばかりの携帯電話を折りたたんでポケットへ仕舞い、誰とも知らぬ客の待つ玄関へと向かった。その際にはリビングと廊下を遮るドアを閉める事を忘れない。玄関からリビングまでは一直線に伸びる廊下があるだけで、その間には何の遮蔽物も存在しないからだ。

「はいはい、どちらさまですか」

鍵を外して玄関ドアを開く。

すると、その先に待っていたのは思いも寄らぬ相手であった。

「こんにちは」

てっきりスーツを着込んだむさ苦しい中年の男性が立っているものだとばかり思っていた。だが、そこにあったは、夏らしい花柄のワンピースを着た、黒く艶やかな長髪が特徴的な女性の姿であった。

「え……、沙希?」

高校に通うひとつ年下の後輩である。

「はい、突然の来訪申し訳ありません」

俺の疑問に満ちた言葉を受けて、沙希は恭しく頭を下げて言った。

「偶然、この近辺を移動していたところ、中空にて複数の敵と交戦するエリーゼさんの姿を確認したもので、微力ながら、何かお手伝い出来る事はないかと思い立ち寄らせて貰いました」

真夏の熱風を受けて、ふわりと黒髪が宙を舞う。

「中空って……、さっきのを見てたのか?」

「はい」

真っ青な夏の空の下を飛び回っていれば、人の目に触れる可能性だってそれなりだろう。けれど、こうして実際にその様子を目の当たりにした者が居るというのは多少の不安を覚える。エリーゼの存在がこの辺一体で怪奇現象扱いされなければ良いのだが。

「よくそれだけの理由で此処まで来たな」

野次馬精神という奴か?

「はい、エリーゼさんと貴方には大きな恩がありますので、少しでも手助けが出来ればと思い参りました。迷惑と感じられましたら申し訳ありません」

「ああ、そういうことか」

義理深いにも程があると思うが、しかし、人災続きの昨今にあっては、そう思われるのもなかなか悪くない。世知辛い出来事の連続で干からび始めた瞬く間に心が潤うのを感じた。

「でも、なんで俺の家を知ってるんだ?」

「その辺はエリーゼさんに関する一件で調べた経緯があります。それを覚えていました」

「あのオッサンはそんな事まで調べてたのか」

「はい」

沙希は静かに頷いた。この糞暑い季節にあって、その面持ちは涼しげなものだ。とはいえ、額には若干の汗が浮かんでいる辺り、一応コイツも同じ恒温生物であるのだと、生物学的に無駄な安心感を覚えた。

まあ、今は過ぎた出来事の詮索はどうでも良い。エリーゼとも面識のある沙希ならば、家に上げることには何の支障も無い。玄関で立ち話というのも相手に失礼だし、とりあえず上がってもらうのが良いだろう。

「上がってくれよ、中は酷い有様だけどさ」

「はい、お邪魔します」

丁寧に靴をそろえて脱いだ沙希は、廊下を先に進む俺に続いてリビングへと向かった。

それから、エリーゼとの対面を果たした沙希を相手に、俺は昨日から続く状況の説明を一通り行なった。一応、今後とも俺やエリーゼと係わり合いになるというのなら、もののついでに話しておいたほうが良いだろうと考えたからである。それにしても、実際に言葉にしてみると思いのほか多くの出来事がこの24時間中で起こっていた事実に驚きを覚えた。

「とまあ、そういう訳で昨日から変な奴等に狙われてて大変なんだよ」

意外に手間を取った説明を終えて、やれやれと大きくため息をひとつつく。

「それは災難でしたね」

「まったくだ」

ダイニングセットも、ソファーも、全ては粉砕されて床に朽ちている。おかげでリビングには腰掛ける物が一切無い。俺と沙希はその場に立ったまま話をしていた。ちなみに、エリーゼは少し離れて部屋の壁に寄りかかっている。

「それで、この部屋をどうしようか考えてるところにお前がやって来た訳だ」

現状では吉川に頼る他に案も無く、断られてしまったのならそれで打つ手は無くなってしまう。アイツならば実質的な力になれなくとも、少なからず共に悩んでくれるような気はするが、それにしたって先が暗いことには変わりない。

「私を助けるつもりで来たと言うのならば、別にお前でも構わん、この部屋をなんとかしろ。窓が無くてはエアコンも効かないと言うし、暑くて敵わん」

熱を吸収しやすい黒いワンピースの襟を、指で摘まんでハタハタと前後にはためかせながら、長い犬歯を剥き出しにして吐き散らす。きっと、今朝から続く一連の騒動で苛立ちが積もり積もっているのだろう。そろそろ我慢の限界も近そうである。とはいえ、無理なものは無理なのだから、今は我慢して貰う他に手は無い。

せめて、エアコンが効いて室内温度を下げる事が叶うならば、それで少しは宥めることも出来たのだろう。この暑さの中では、エリーゼでなくとも、全てを投げ出して暴れたい気分になる。

「わかりました。そういうことでしたら対応させていただきます」

「おい、エリーゼもエリーゼだけど、お前も何を頷いてんだよ」

自分で言っていて虚しくなるが、ここまで汚れてしまった部屋が相手では、普通に掃除をしたところで焼け石に水だ。人が居住出来るまでに戻す事はまず不可能だろう。マンションは鉄筋コンクリート製の癖に、四方を囲む壁には目に見えて明らかなひびが幾つも入り、また、血液の飛沫が所構わず四方八方に飛び散っている。家具の類に至っては全滅だし、これらを買い換えるだけでも相当な費用が掛かるだろう。

だが、そんな俺の心配など何処吹く風で、沙希は淡々と言葉を続けた。

「問題ありません。この物件の管理会社は幸いなことに佐久間グループ企業の子会社ですから、その辺りの融通は利きます。金銭的な面でもこの程度の修繕でしたら即日で対応できるレベルです」

「佐久間グループ?」

それはテレビコマーシャルや新聞の広告記事等で良く目にする、随分と耳に慣れたフレーズであった。

「はい。お父様とお姉さまが死去されてから、私が正式な跡継ぎということで認可され、先週の末日より、それまでお父様が保持していた全権は私に移行しました」

そこでひとつ思い出した。

そういえば、コイツは結構な金持ちの家の娘であったのだ。

それがまさか国で一二を争う有名企業グループであるとは思いもしなかった。けれど、その設定は随分前から聞かされていたものである。思い返してみれば、コイツの家は立地面積が数百坪という無駄に大きな洋館であった。

「そ、そうなのか……」

「はい」

ただ、今の台詞にはそれ以上に気になる発言が含まれていた。

「っていうか、お姉さまが死去って、まさか、あの態度の悪い一年のことか?」

言われてみれば、それまでは相手の方から下駄箱に手紙を入れたり、上級学年である2年の教室へやって来たりと、積極的に絡んで来ていたにも関わらず、先月での一件を境にして、沙希の言う「お姉様」とは一度も学校で顔を合わせたことが無かった。

「お父様がエリーゼさんによって封ぜられたのと同日に、屋敷へなだれ込んで来た外部の者達と屋敷の者達との交戦に巻き込まれて、その際に流れ弾を受けたお姉様は、翌日の早朝に街の市営病院で死亡が確認されました。動脈破損による出血多量であったそうです」

俺の問いに沙希は淡々と言葉を返す。

「あぁ、そういえばあの屋敷はアイツの家でもあったんだよな」

だが、それがまさか既に亡くなっていたとは夢にも思うまい。

一緒に居れば不愉快なだけの、好きか嫌いかを問われれば、間違いなく嫌いだと答えるような相手だが、それでも、何の兆しも無く唐突に「死んだ」と事後報告されると、妙に感慨深くなってしまう。

「まあ………、なんていうか、悪かったな」

他に返す言葉は思い浮かばなかった。

「いえ、お気になさらずに」

あまり実感の沸く話ではないが、居を共にしていた沙希がそう言うのだから本当なのだろう。俺としては面倒事が減った分だけ良い話である。それを素直に喜べないのは、人としての道徳心が遺憾無く発揮されているからだ。まだ、俺は心身ともに化け物になった訳ではない。

「おい、なんでもいいから直すならば早く直せ」

そんな俺と沙希のやり取りに痺れを切らしたのか、エリーゼが、声を荒げて文句を言ってきた。

「わかりました、すぐに手配をさせて頂きます」

応じる沙希は、手に持っていた小さなバッグから携帯電話を取り出し、二つ折りになっていた筐体をパチンと小さな音を立てて開いた。しかし、番号の表記されたボタンを押す前に、再びエリーゼに向き直り言葉を続ける。

「ですが、幾ら修繕が可能であるとは言え、今日中に全てを復旧させる事は難しいと思います。ですので、その間は私の住んでいる家に一時的に避難して貰うということでよろしいでしょうか? 部屋の用意でしたら直ぐに出来ますので」

それは願ってもいない提案だろう。

「別に構わん」

「本当にいいのか?」

日頃からの横柄な態度を変えずに頷く我がご主人様に対して、思わず聞き返してしまった俺は、きっと根が小心者なのだろう。それは決して恥ずべき事では無い筈だ。けれど、どういう訳か今は妙に負けた気がして悔しかった。

「はい、私は全く問題ありません」

「じゃあ、それで頼むよ」

「分かりました。そのように都合します」

そして、言うが早いか手にした携帯無線端末から何処かしらに回線を繋げた沙希は、電話越しにしばらく言葉のやり取りを行なうと、見事にこの惨状を復旧する約束を取り付けてくれた。修繕の詳細に関しては後日書類を送付してくれるのだという。

当初は吉川に相談するつもりでいた惨事だが、まさか、このような展開に落ち着くとは思いもしなかった。

「それでは先方と都合がつきましたので、とりあえず私の家に向かいましょう」

通話を終えた沙希が、手にした携帯電話を手持ちバッグに仕舞いながら語りかけてくる。途方に暮れてうろたえる俺を前にして、自ら先陣を切って話を進めてくれるその存在は、非常に神々しいものに思えて仕方が無かった。

「すぐにでも行くぞ。ここは暑すぎる」

沙希の言葉に頷いて、すぐさまエリーゼが玄関に向かい歩き出す。

「本当にありがとうな」

「いえ、気になさらないで下さい」

「お前が来てくれなかったらどうなっていたかと思うと、それだけで背筋が凍るって」

「私としても、そう感じて頂けたのなら嬉しいです」

そして、その後を俺と沙希が続く。

「おい、お前等、早く行くぞっ!」

余程、エアコンの効かなくなった室内が気に入らないのだろう。玄関のドアノブを握るエリーゼが此方を振り返り、声を張り上げて叫んだ。

「わかってるから、いちいちデカイ声を出すんじゃねーよ」

「ならば早く来いっ!」

まったく、奇想天外な夏休みもあったものだ。

日本列島を広く覆う太平洋高気圧とチベット高気圧のダブルパンチは、そこに住まう者達に対して昼夜を問わず類まれなる負担を強いていた。本日の午後2時に、その地方で今年一番の気温を38.7℃として観測した街は、太陽が沈んでからも大地に湛える熱を冷ます事無く、夜の8時を回った現在に至って尚、摂氏30℃を越える気温を保持し続けている。

「暑いですわぁ……」

時折、弱々しく頬を撫でる風は生暖かく湿っており、六畳一間の部屋のカーテンレールに下げられた風鈴を満足に鳴らすことも叶わない。

手にした団扇で顔をゆらゆらと扇ぎながら、赤髪の少女、ローザ・ビルケンシュトックは決して慣れることの出来ない高温多湿極まる日本の夏に負けて、無様にも畳の上にへたり込んでいた。

「ぅう……」

毎月の家賃が3万円を切る破格のボロアパートにはエアコンなど設置されている筈も無く、また、室内には扇風機の姿さえ見られない。彼女に許された唯一の冷房用機器は、その手に握られた一本の団扇だけであるらしい。しかも、その団扇にしても随分と年代物の風体をしており、竹製の骨組みを覆う紙は幾箇所も解れ、破れてしまっている。石油製品全盛の時代にあって何処から手に入れてきたのだろうか。

「折角頂いた久しぶりのお休みですのに、勤め先より自宅の方が居心地が悪いというのはどういうことでしょう。どうしてこの国の夏はこんなに暑いのですの? しかも湿度が尋常じゃありませんわ」

弱々しく愚痴を吐きながら、うつ伏せていた顔を上げる。彼女の視界に写るのはエリーゼが割った窓ガラスだった。室内に散乱したガラス片は片付けたものの、割れてしまった窓自体は手付かずのまま放置されている。

「それに、あの馬鹿が窓と一緒に網戸まで破っていってくれたおかげで、部屋には羽虫がわんさか入ってきますし……」

視線を頭上へ向けると、天上から吊り下げられた蛍光灯の周りを幾匹もの蛾や蚊、ハエ、といった羽虫の類が飛び回っているのが見て取れた。ローザはガックリと肩を落として深い溜息をつく。

額に浮かんだ汗が頬を伝りポタリと畳みに落ちて染みを作った。

「家に居ても何もやることはありませんし……、折角の夜なのですから外へ出かけましょうか」

渋々、といった様子で立ち上がり、玄関で靴を履く。薄い木製のドアを越えた先は室内と比べて風通しが良く、幾分か涼しく感じられた。それならば居室の価値は何なのか、などと無駄に頭が痛くなるのを感じながら、ローザはドアノブに取り付けられた鍵をカチャリと回して古ぼけたアパートを後にする。

しかし、外へ出てはみたものの彼女に行く当てなど無い。この街に越してからまだ数ヶ月と経っておらず、友達の類も皆無である。それは、彼女と同程度の外見を持つ年齢の人間にとって、深夜バイトを生活の主体に据える者と日常生活で接点を持つことが難しいことからも容易に想像できるだろう。仕事仲間として職場で多少の会話を交わす相手は居るが、それもお互いの生活に踏み入って付き合いをするような間柄ではない。それに、仕事先では、ローザ自身も学校に通えない不憫な外人の子供として扱われている節がある。対等な付き合いなど望むべくもない。

「やっぱり、この時間だとコンビニしかありませんわよね」

特に買いたい物など無いのだが他に行く当ても無い。無難に目的地を定めたローザは肩を落としてトボトボと道を歩く。時期が夏休みということもあり、深夜に外を出歩いて警察に補導された経験も幾回かあったが、彼女はそのたびに人知を超える身体能力を駆使して追っ手を振り切ってきた。この街は彼女が生活していくには余り適した場所とは言えない様である。

「…………はぁ」

頭上を仰ぐと、夜空には徐々に身を削り、あと一日二日経てば消えてしまうであろう細い月が浮かんでいた。朝から晴天続きの空は夜になっても雲ひとつ浮かぶ事無く、あたり一面には爛々と輝く星達の瞬きが広がっている。

「あと少しですわね……」

静かな郊外の夜空を眺めながら、ローザは己の拳を腿の横でキュッと硬く握り、誰に言うでもなく小さく呟いた。

「絶対に、この恨み晴らして見せますわよっ」

それは辛くも決して屈する事の無い不屈の精神に満ちた、今の彼女を支える唯一無二の誓いであった。どんなに大変な目にあっても、ただ、それだけを目的に掲げることで、ローザは家族と死別してから今に至るまでの間を耐えてきたのである。

「………とはいえ、本当にこの暑さは酷いですわね。これではやる気も萎えますわ」

ハタハタとシャツの襟をはためかせながら薄暗い夜道を歩いていく。どれだけ長い時を生きても決して慣れる事の無い孤独に、彼女はいつの間にか独り言を口にすることが癖となっていた。

しばらく暗がりの道を進むと、ローザは路上に並ぶ街頭や、通り沿いに立ち並ぶ家々の後方に、周囲の建造物よりも一際背の高い建物を見つけた。

「そういえばあれは……」

その建造物は地上23階建ての高層マンションである。住宅地と繁華街のちょうど中間地点に聳え立つ大きな建物であり、つい数年前に建造されたばかりである。繁華街を越えて駅前まで行けば、同程度の規模を持つビルも多くあるが、そのマンションが建っている周辺では他に背の高い建物も存在しない。巨大なコンクリートの塊には、各部屋の室外灯が縦横に綺麗に並び、まるで夜空にそびえる壮大なシャンデリアの様な風体を醸し出していた。

「昨日に彼女の下僕……、たしか雅之さんと言いましたっけ? 彼と出会ったのは偶然だと思っていましたが、もしかしたら二人はあそこに住んでいるのかも知れませんわね」

ローザは顎に手を当てて何やら考える素振りを見せる。彼女はまだ確証を持てないでいるが、視線の先にある高層マンションには、雅之とエリーゼの住まう一室もまた含まれている。

悩む間も僅か結論は存外簡単に出た。手前にあった電信柱を後方に見送って、数十メートルを進む間に、当面の目的地はコンビニエンスストアから、目の前にそびえる大きな集合住宅へと移っていた。

「コンビニで本を立ち読みして無駄に時間を潰すより、そのほうが断然有益ですわ」

うんうんと一人頷いて進路を変更する。

容易に視認出来ることからも明らかなとおり、彼女が今居る場所からマンションまではそう遠くない。それまでの熱にうなされて頼りなかった足取りから一変して早歩きになったローザは、心持を新たに道を急いだ。

太陽もそろそろ沈もうかという頃合のことだ。佐久間邸のリビングで優雅に紅茶なんぞを嗜んでいた俺とエリーゼに、幾枚かの紙面を手にした沙希が伝えてくれたのは、マンションの修繕を担当する業者からの見積もり報告であった。なんでも、昼に連絡を入れてから今に至るまでの間で、既に現場の下見を済ませてしまったというのだから手の早い話である。

届いた報告書によれば、昼の騒動で受けた物件の損傷はかなり酷いらしい。修繕には1週間程度の期間が必要と言われた。資金的な面に関しては全てを沙希が持ってくれるのでなんら問題は無い。だが、施工期間に関しては物理的な制限がある。その辺りは幾ら金を積もうともどうにもなら無いらしい。

そういうことで、着の身着のまま沙希の家までやってきてしまっていた俺は、当初の想定より長居する必要性を求められて、荷造りをしに自宅まで帰ってきていた。ちなみに佐久間邸から自宅までは車で送迎して貰ったのだが、帰りはバイクを動かしたいので、運転手にはその旨を伝えて先に帰って貰った。加えて言うと、特に荷物らしい荷物を持っていないエリーゼは、沙希と共に留守番だ。

「さて、これでよしっ、と」

一週間分に衣服をサックに詰めて、バイクのタンデムシートに縄で括り付ける。今が夏場という事もあり、荷物は思いのほか少なく済んだ。歯ブラシやタオルといった類の生活必需品は沙希の方で用意してくれるらしいので、持って行くのは本当に必要最低限の衣類だけだ。実を言うと、沙希は衣類に関しても用意しようかと申し出てくれたのだが、流石にそこまで世話になる訳にはいかないと断った次第である。まあ、エリーゼに関しては此方で準備できる物が物なだけにお願いしたのだが。

「しっかし、本当に暑いよな……」

既に時刻は夜の9時を回っているというのに、額からは止め処なく汗が噴出してくる。それをシャツの袖で拭い、頭上に広がる夜空を仰ぐ。憎らしいほどの晴天は夜を迎えても相変わらずであり、一面には美しく煌く星々の姿が見て取れた。この調子だと、きっと明日も暑い日になるだろう。

と、そんな想像に多少の鬱を感じていた時であった。

背後から聞き覚えのある凛とした声が聞こえてきたのは。

「あ、貴方はもしやっ!」

「ん?」

今の時間帯には相応しくない、叫びにも似た大きな声である。それが自分を指しているのかどうかも分からないまま反射的に背後を振り返る。すると、そこには昨日と今日で良く見知った奴が立っていた。

「ロ、ローザっ!?」

なんで、こんな所にコイツがいるのだ。

遠くマンションの上階から届く玄関灯と、駐輪場の天井に取り付けられた照明の薄暗い灯りに照らされて、振り向いた数メートル先に立つローザの姿は、闇夜に薄っすらと浮かぶ亡霊のように感じられた。

「たしか、雅之と言いましたわね」

「あ、ああ……」

一番会いたくない奴に一番会いたくないタイミングで出会ってしまった。まさか自宅までやって来るとは思ってもいなかった。相手の姿を確認してまず思い浮かべたのは、エリーゼも連れて来ればよかった、という後悔の念ばかりである。

足は自然と後ろへ下がっていた。だが、すぐ後ろにはエンジンを切って止められたバイクがある。そのフレームに腿が触れて、緊張した身体は反射的にびくりと震えた。

「どうやら、私の推測は正しかったようですわね。それにしても、まさか、このように到着していの一番で出会えるとは思ってもみませんでしたわ。私の運も決して捨てたものではありませんわね」

ローザは既に獲物を仕留めたつもりでいるのだろう。決して駆けることなく、ゆっくりとした歩みで距離を詰めてくる。周囲を背の高い観葉植物と、敷地を囲うコンクリートの壁で囲われた駐輪場にあっては、外部から此方の様子を知ることは出来ない。仮に、年下の小さな女の子に襲われている、などという珍妙状況に恥を忍んで助けを呼んだとしても、人が駆けつけてくる頃には俺も連れ去られた後だろう。

「なんでお前が此処に居るんだよ」

そういえば、昨日の夜に攫われたときも少女はこのマンションに現れた。もしかして此方の住所は相手に知られてしまっているのだろうか? だとしたら、これほど厄介な事は無い。そうでなくともエリーゼを狙う変な集団や、笑顔の素敵なスーツ男を相手に苦心しているのだ。それに加えてローザにまで住居を狙われたとあっては、幾ら沙希の助けで部屋の修繕が終わったとしても自宅での生活などままならない。

「貴方とエリーゼはここに居を構えている、間違いなくて?」

「…………」

それは疑問を投げかけての質問なのか、それとも確信した上での確認なのか。いずれの場合であるにせよ、返答を返せなかった時点で全ては肯定されてしまった事になる。

「やはり、そうでしたのね」

きっと、今更否定しても無駄だろう。

問われる側としては、もう黙っている他に無い。

「エリーゼは何処に居ますの?」

お互いに手が届く距離で立ち止まったローザは、そんな事を聞いてきた。きっと、俺とエリーゼが共に居ることを考慮のうえで、状況を探っているのだろう。ともすれば、それは俺にとって最後の生命線となる情報である。

「トイレに行ってるよ、けど、もうすぐに帰ってくるだろうな」

今は嘘ハッタリでどうにかするしかない。エリーゼ曰く、喧嘩をしても俺がこの少女に勝てる見込みなど皆無に等しいのだから。それは自分自身も昨日の経験から良く理解している。

「………トイレですか」

「ああ、トイレだ」

しかし、これで仮に時間を稼げたとしても、エリーゼは隣町にある沙希の家で茶でも飲んでいるのだろうから、万が一にも助けが来る筈はない。このままでは嘘がバレて再び攫われてしまうのも時間の問題である。

「それは大きい方ですの? それとも小さい方ですの?」

「………お前、そんなこと聞いてどうするんだよ」

「いえ、別に、ただの好奇心ですわ」

普通、好奇心でそんな事を聞くか?

「まあ、いずれにせよ彼女が近くに居ないというのは好都合ですわ。昼間の借りはこの場で返させていただきます」

「おいおい、俺がお前に何を貸したって言うんだよ」

コイツにとって俺を組み伏せる事など造作も無い作業なのだろう。言うが早いか、ぬっと両腕を伸ばして来たローザは、此方の両腕を力強く掴んできた。どうやら、嘘などついたところで何の意味も無かったようである。

「痛っ、痛いって、ちょっと待てよ、おいっ!」

例によって吸血鬼の馬鹿力によるものだろう。小学校高学年程度を思わせる歳半端な容姿からは想像も出来ないほどの握力が、両腕の骨を軋ませる。

「今度は絶対に逃がしませんわよ」

両腕を掴む少女は、そう言って嬉しそうに笑った。

「勘弁してくれよ」

「出来ませんわ」

ギリギリと捻りあげられる両腕から伝わる痛みに耐えかねて、俺は自然とアスファルトに両膝を着いてしまった。頭の位置がずれたことで、お互いの視線がちょうど同程度の高さで重なり合う。

「この程度で参ってしまうとは、貴方も男の癖に情けないですわね」

「う、五月蝿い奴だな……」

僅か数十センチの間隔で眺めるローザの黄金色の瞳は、暗がりの夜にあって、周囲から差し込む僅かな光を反射することで、周囲から浮かび上がっているように感じられた。堀の深い端整な顔立ちは、間近で眺めても決して色あせることなく、艶やかな肌は触れれば指先に吸い付いてきそうだ。もしも、状況が状況でなければ、そのふっくらとした頬を指で挟んで引っ張ってやりたいところである。

「さて、ではこのままエリーゼがトイレから帰ってくるのを待つとしましょうか。今朝は太陽が昇っていたこともあって遅れをとりましたけれど、今度はそうはいきませんわ」

「…………」

どうしたら良いだろうか。

ここで素直に、やっぱりエリーゼは来ない、と説明したところで解放してくれるとは思えない。そのまま、再びあの六畳一間のボロアパートに連れ去られて、昨日の二の舞となるのが目に見えている。けれど、黙っていたところで、しばらくは時間も稼げるだろうが、結局のところ行き着く先は同じだろう。

「事前に言っておきますけれど、今朝の出来事で私も色々と考えが纏まりましたの。貴方とエリーゼの関係がどういうものなのか、本人に確認するべくもありませんわ。申し訳ありませんが、今日が貴方の命日となることでしょう」

そして、ついには死の宣告が放たれた。

「だから、いい加減に勘違いするの止めてくれよ。俺だって好きでエリーゼと一緒にいるんじゃないんだし、アイツだって済し崩し的に俺に寄生してるだけなんだよ。俺が死んだって何も起こらないって」

「それは貴方の考えでしょう? 私には私の考えがありますわ。わざわざ意見して頂いても、それを覆すつもりは毛頭ありません」

語るローザは真っ直ぐと俺の目を見て言葉を続ける。

「彼女は何かしらの特別な感情を貴方に抱いていますわ。それが、愛情なのか、友情なのか、それとも家族愛なのか、その分別はつきません。けれど、そこに情が存在しているのは確かですわ」

「俺は普段から下僕呼ばわりの家政婦もいいところだぞ?」

「それこそ下らない推論ですわ。他者への情の表現方法など、それこそ千差万別ですわよ。今の貴方が感じている不平や不満も、行為自体に込められた意味が確かなのならば、受け取る側がどの様に感じていようが、私としては関係ありませんわ」

「随分と自分勝手な話だな」

「親の敵を討とうというのです、自分勝手なのは承知していますわ。それに、私の推論には確たる根拠がありますわ」

「根拠? なんだよそりゃ」

「過去に聞くエリーゼの人物像から察するに、まず、ファミリーを作ったという時点で、例えそれが偶発的な出来事であるにせよ、明らかな逸脱だと考えられますわ。私が伝え聞いた話では、仮にそういった出来事が起こったとしても、ファミリーと成ってしまった者は、次の瞬間には灰も残らず消されているでしょうから」

「…………」

それは、沙希の親父の最後を思い浮かべると納得出来ないでもない。あれは無理矢理の上での結果であった。だが、確かにローザが言うとおり、随分と惨たらしい方法で苦しめられた上で、今も人知れず館の下に封ぜられ延々と呻き苦しんでいる筈だ。

「しかも、作って放置するならまだしも、彼女は貴方の面倒を見ているでしょう? 他者の存在など塵にも等しく扱っていたという噂とは背反して、今朝は本人自らがファミリーである貴方を助けに来たではないですか」

しかし、いかに相手の言葉が正しくても自分の命が掛かっているのだ、素直に頷くわけにはいかない。だから、どんな些細な事であろうとも荒を捜して反論を加えておく。

「それはきっと、腹が減ったからだろ? 家には俺以外に食事の仕度をする奴は居ないし、そうなればゲストだって仕方なくシェフを呼びに来るものだ。どうせ包丁もろくに握れないに違いないさ」

だが、そんな意見に対して返されたローザの言葉は、俺の想定を大きく逸脱したものであった。

「そうなのですか? 私が伝え聞いた話では、ああ見えても彼女はたいそう料理が上手なのだそうですわよ? なんでも、一人で居た時間が長かったことと、諸事情あって食事を作る必要性に迫られたのだそうで」

「……は?」

料理が上手い?

「同じ面倒だというのなら、わざわざ私の家まで貴方を迎えに来るより、自分で食事を作った方が遥かに効率が良いと思いませんか?」

エリーゼが料理をしている姿など想像が出来ない。

「料理が上手いって、あのエリーゼがか?」

「ええ。私もエリーゼの友人であったという者から伝え聞いたに過ぎませんが、その腕前はかなりのものであったという話ですわ」

まさか、そんな筈は無いと、思考は全権一致で異議を申し立てていた。

「現世に伝えられている凄惨な噂話の数々とはかけ離れた印象を与えますし、多少の疑問はあります。けれど、彼女のように長く生きながらえてきた存在ならば、多くに精通していても不思議はありませんでしょう?」

「そ、そうなのか……」

なんというか、無駄に衝撃的な情報である。

「ですから、まあ、彼女の料理の腕前はどうあれ、貴方が何をどの様に感じていようと、私はそう判断した次第ですわ。無論、これに関しては意見を訂正する気もありませんし、説得はするだけ無駄ですわよ」

そう断言するローザの意思は固そうである。

「けど、それにしたって……」

「無駄ですわ」

「……………」

反射的に否定の言葉を返そうとしたが、それも即座に打ち切られてしまった。

何といっても両者の間には絶対的な力関係が存在する。下手に抗って痛い目を見るのは御免だ。無駄に抵抗することは避けるべきだろう。それ以上の抗議を行なう事はしなかった。しかし、かといって静観していられるような事態でもない。なんとか打開策を考えなければならない。

「それにしても、すぐに帰ってくると仰った割には随分と時間がかかりますわね」

俺の両腕を握ったまま、すぐ傍に高くそびえるマンションの上層部を見上げてみせる。巨大な真っ黒い影には、各階の廊下に規則的に並んだ室外灯の明かりが規則正しく並び、煌々と夜の闇を薄明かりに照らしている。地上から臨んでいたのでは、そこにある人の気配を正確に感じることは出来ない。

「もしかしたら、腹でも壊していて便器の上で唸ってるんじゃないか?」

嘘がバレると相手の機嫌を損ねる恐れがある。嘘に嘘を塗りたくるようにして、苦し紛れの言い訳をする。

「そうなんですか?」

「あ、ああ。もしかしたらな?」

背筋に冷や汗が垂れるのを感じたのは久しぶりの経験だ。

「まあ、時間はたっぷりとあります。朝日が出てくるまでに彼女が戻ってくれば事は足りるのですから、ゆっくりと待つことにしましょう。まさか、用を足しに行くだけで幾時間もかかることはないでしょうから」

「…………」

顔を合わせて向き合ったまま、それでローザは黙ってしまった。相手はどうだか知らないが、言葉も無く数十センチという間隔で視線を合わせていることに耐え切れなくなった俺は自然と顔を地に俯ける。

傍から見れば、酷く馬鹿げたシチュエーションであろう。というか、ローザの身体年齢を考慮すると、もし第三者に発見されてしまったのならば、即座に警察へ通報されかねない。しかし、そんな事を気にしている余裕さえ今の俺には無かった。生きるか死ぬかの瀬戸際とあっては、世間体を気にしている時間さえ惜しい。普段は休みがちな脳味噌を、目まぐるしい勢いで回転させて対処の手立てを模索する。

けれど、救済の手は思いも寄らぬところから俺が関することなく差し出された。

「おや……、君はエリーゼ様のファミリーではありませんか?」

耳に届いたのは、何処かで聞いた事のある妙に丁寧な物言いだった。

「っ!?」

声が聞こえてきたのはローザの背後からである。

俺の腕を掴んだまま慌てて後ろを振り向いたローザと、その肩越しに焦点を十数メートル前方へ移した俺の目に映ったのは、薄暗い闇夜に溶け込むかのようにして立つ、真っ黒なスーツを身に着けた長身の男であった。如何せん周囲が暗いので顔を確認することは叶わないが、今の声は間違いない。

「あ、貴方は確か先日の昼にアーケードに居ました……」

ローザも彼のことは覚えていたらしい。

「そちらのお嬢さんはエリーゼ様のお知り合いですか? それとも、ファミリー様のお知り合いですか? いずれにせよ妙に緊迫した雰囲気を感じますが、もし、お取り込みの最中ということでしたら、申し訳ありません」

一方の腕を背に回し、肘を90度の角度でキッチリと折り曲げたもう一方の腕を腹部の前に移して、高級ホテルの良く出来たウェイターのようにお辞儀をして見せた。

「私はエリーゼを追う者ですわ」

訝しげな声色でローザは問う。

「………貴方は何者ですの?」

既に両者の間にはお互いが人外であるという認識があるようだ。スーツの男はどうか知らないが、ローザは油断なら無い様子を露にして、一際低い声色で相手の一挙一動を探るかの如く問いかける。

「私はギヨーム・ド・マショーという者です」

「それは先日の件で耳にしています。私が知りたいのはそういうことではなくて、一体どういった意図があって、エリーゼにコンタクトを取ろうとしているのか、ということですわ」

「意図、ですか?」

ローザの言葉を受けて、マシューは顎に手をあててなにやら考える素振りを見せる。

「強いて言うならば、同盟の締結、でしょうか」

「同盟?」

「ええ、同盟です」

今までマシューの口にする一言一句をエリーゼが否定していた為に、この男に関する情報は皆無であった。それが、ここで一つ明らかとなった。とは言え、いきなり同盟などという大層な言葉が出てくるとは、一体エリーゼの奴はどれだけ面倒な出来事に巻き込まれようとしているのか。

「私の主人がエリーゼ様との同盟を強く望んでおりますゆえ、その締結の為にこの国まで足を運んだ次第です。エリーゼ様の機嫌も芳しくない為に、如何ともし難い状況に手を拱いておりますが、主人の命に答える為にも諦めるわけには行きません。ですので、こうして三度足を運んだ次第です」

きっと、その言葉はローザに対する返答だけでなく、エリーゼのファミリーである俺に対する呼びかけも含まれているのだろう。城を落すならばまずは堀から、とは良く言った格言である。

「そういうことでしたら、私としては順序さえ守っていただければ何の問題もありませんわ。此方の用件が済んだ後にどうぞご自由なさって下さいな」

決して警戒を解いた訳ではないが、相手の意向を知ったことで、ローザの緊張も若干だが和らいだように感じられた。ただ、俺の両腕を握る小さな手は、依然として痛いほどの握力で締め付けてくる。

「それでは、私からも伺わせていただきますが、貴方の用件とは何ですか?」

顎に手を当てた姿勢のまま、マシューが静かに問う。

「復讐ですわ」

答えるローザは非常に淡々としていた。

「復讐ですか……、それはまた面倒なことを考えますね」

視界が悪いので表情を確認する事は出来ない。しかし、そこに苦笑が混じっている事は聞いて取れた。

「エリーゼ様を相手に復讐を申し立てるとは、正気の沙汰とは思えませんよ。一体過去に何があったのかは知りませんが、こうして今を生きていられることに感謝すべきだと思いませんか?」

「別に、貴方には関係の無い話ですわ」

上から諭すように語り掛けるマシューに対して、多少口調を強くしたローザは突っぱねる様に言葉を返す。彼女の理屈からすれば、別に事後の生き死には関係ないのだという。ならばこその復讐なのだろうが。

「ですが、そうなると事情は少々厄介ですね。私の目的は同盟の締結な訳でして、その前に貴方がエリーゼ様を刺激するような真似をしてしまいますと、此方の交渉も難度が格段に上がってしまいます。現段階でさえ危うい状況にあるのですから、それだけは避けたいですね」

「その様なこと存じませんわ。貴方の事情に合わせて一期一会を逃したとあっては、私としてもやりきれませんもの」

当の本人を抜かしてローザとマシューは、ああでもないこうでもないと言い争うように議論葉を重ねていく。表面上は丁寧な言葉遣いなので聞こえも良い。しかし、両者が内に秘めた能力を考慮すると、俺としては背筋が寒くなる思いだ。

それでも、しばらくはお互いに交渉の余地を持って接していた。譲歩できるところは譲歩して、出来る限り楽に目的を達成しようと話し合っていた。しかし、幾ら言葉を交わしたところで、両者が共に満足のいく結論は得られなかった。

「交渉は無意味ですね」

そう切り出したのはマシューである。

「その様ですわね」

人外の者達が交渉によって相容れないと判断した場合に、次に待っているのは何だろう。人間ならば刑事にせよ民事にせよ訴訟を起こせば良いのだが、まさか化け物の世界にそんな法治システムがある筈も無い。そうなると、自然と導き出されるのは最も原始的な解決方法である。

「私も後が無いので、ここは我を通させて頂きます」

それまで一歩として動かされる事のなかった足が前に出る。

「譲る気など毛頭ありませんわ」

俺の腕を握り締めたまま、ローザもまた姿勢を低く相手の動きに備える。

「ちょ、ちょっとお前等、俺を巻き込むなよっ!」

この二人の争いに巻き込まれて無事に済む筈が無い。その場を脱するべく全身を使って必死にもがいた。エリーゼの話ではローザとマシューではマシューに分があるそうだが、それにしたって、俺を巻き込むことなくスマートにローザを打倒してくれる保障は無いのだ。

「こ、こら、いきなり暴れないで下さいなっ!」

それが意図せぬ行為であったのか、慌てた様子でローザが俺を振り返る。

決着はその時点で決まった。

「っ!?」

顔に何か暖かい飛沫が掛かったのを感じた。

それが何かを理解したのは、俺の腕を掴むローザの手から徐々に力が抜け始めてからのことあった。

「ぁ……がっ、は……ぅ……ぁ……」

背後を振り返った僅かな隙を突いて、十数メートルの距離を瞬く間に詰めたマシューの腕が、ローザの腹部に深々と突き刺さっていた。

「………ぅ、……ぬ、……ぬかり……ましたわ……」

背中から突き入れられた腕は身体を貫通し、腹部から五本の指を覗かせている。

「酷い失態ですね」

「う、五月蝿いです……わ」

ローザの小さな口からは、間髪置かずに真っ赤な血液の塊が飛び出してきた。咽返すようにして吐き出された大量の血液は、そのすぐ正面に立つ俺の顔にびちゃりと音を立てて当たった。

「ぅおっ!?」

吐き出された血液には勢いがついていた。また至近距離から吐きかけられたこともあって、目の中、鼻の中、口の中、至る所に入り込んできた。特に目の中に入ってきたのは堪らない。打ち傷や切り傷とはまた違った耐え難い刺激を受けて、思わず顔を両手で覆って屈みこんだ。その時になって気づいたが、それまで掴まれたままになっていた両腕は完全に解放されていた。

「今貴方を逃したとあっては、今後とも私の仕事に支障が出る可能性があります。申し訳ありませんが、この場で消えていただきます」

周囲をコンクリートで囲まれた駐輪場には苦しそうな呻き声が断続的に響いている。それとは対照的に、淡々とした事務口調で告げるマシューの指が、ローザの肉体にめり込んだままの状態で強く握られた。肉体の筋が切れる嫌な音が耳に響く。

「う゛ぐっ!?」

異物の侵入を受けて痛む目を人差し指で擦りながら、なんとか周囲の様子を視野に納める。

腹部を背後から突かれて小さく身体を痙攣させているローザは、すぐにでもその場に崩れ落ちてしまいそうな弱々しさがあった。それでも何とか二本の足で立っていられるのは、自らを突き刺す腕が支えとなっているからだろう。

「すぐにでも灰に返してあげましょう」

フッと優しげに微笑むマシューの拳が淡い緑色の光を発し始めた。

「こ、こんな所で死ぬ訳には…………」

自らの腹部から突き出た拳に両手の平を当てて、必死に背面へ押し出そうとしているが、腹部を貫かれたとあっては満足に力を込めることも叶わないのだろう。必死の形相であるローザに対して、マシューは涼し気な表情を崩すことなく言葉を続ける。

「来世では復讐を語ることの無い生を謳歌できると良いですね」

「ぅっ……くっ……」

マシューの腕に纏う緑色の光が勢いを増す。

このまま放っておけば、あと数分と立つ間もなく、ローザはこの世から消え去ってくれるのだろう。それまで命を狙われていた身としては願っても無いチャンスである。これでもう二度と拉致の被害に会うことも無くなるだろう。

しかし、やはりというか、なんというか、目の前で人の形をした者が死んでいくというのは、それが自分の手によるものでないとしても気分が悪い。特にそれが幼い子供の姿をしているというのであれば尚更だ。

「ちょ、ちょっとさぁ……」

だからだろう。

気づいたときには反射的に声をかけてしまっていた。

「なんですか?」

顔だけを動かしてマシューが俺に注目する。

「ちょっと待ってくれないか? そいつをどうにかする前に話があるんだけど」

ローザの返り血を受けて赤黒く染まった身体とは対照的に、マシューは人当たりの良いやんわりとした笑みを浮かべている。その姿は俺の知る世界とはあまりにかけ離れた非現実的なものであった。

「エリーゼに用があるなら俺からも頼んでやる。だから、この話は終わりにしないか?」 きっと、これが俺の持っている唯一の交渉材料だろう。

「それは、貴方が私とエリーゼ様の間に入って下さるということですか?」

幸いなことに相手も興味を持ってくれたらしい。心なしか腕にゆらゆらと纏わりついている緑の光も、それまでと比べて弱まった様に感じられる。

「そういうことだよ。だから、そいつを解放してやってくれないか?」

今まで自らが虐げていた相手に救いの手を差し伸べられるとは思っても見なかったのだろう。ローザの苦渋に満ちた顔に、驚愕の色が差したのが手に取るように分かった。俺も自分で何をやっているのだろうと疑問に思う。しかし、こうしておかないと後悔するような気がするのだから仕方が無い。

「なるほど、エリーゼ様のファミリーたる貴方の協力が頂けるのでしたら、それほど助かる事はありません。先程の懸念を天秤にかけたところで答えはすぐに出るでしょう」

「そ、そうか?」

「ええ、ですがそれは本当に約束していただけるのですか?」

それはごもっともな質問だろう。

相手がエリーゼに対して強く出れない以上、それはファミリーである俺に対しても同様だと考えて良い。ここで頷いてローザを解放してしまえば、その時点でマシューの持つ俺に対する優位性は全て失われるのだ。仮に手の平を返されたとしても縋る藁は一本たりとも無い。

「その辺はちゃんと約束するから。あと、ついでに言わせて貰うとエリーゼはもうこのマンションには居ないぞ? 今日の昼に色々と面倒があって今は別の場所に移ったんだ。今ならその転居先も教えたっていい」

「その話は本当ですか?」

「あ、貴方っ……、私を騙しましたわねっ!?」

嘘に気づいたローザが、口から血液を吐き散らしながら大きな声で吼えた。顔に嘔吐物がビチャビチャとかかった。それを服の袖で拭いながら俺は交渉を続ける。

「少なくとも、そこに止めてあるバイクの荷台には、その為の荷物が積んである」

すぐ後ろに鎮座するバイクを顎で指して見せる。

「なるほど……」

ここまで譲歩したのだ、これで頷いて貰えなければ最早交渉の余地は無いだろう。

だが、そんな俺の懸念も幸い徒労に終わったようだ。

「分かりました。そこまでおっしゃって頂けるのでしたら、貴方の意に沿いましょう」

「ああ、そうしてくれると助かる」

若干一名、頭に血が上った様子で激しく睨みつけてくる奴が居る。だが、それもマシューの手中にあっては既に問題でも何でも無い。危機は去ったと考えて良いだろう。

「それでは、この場はエリーゼ様のファミリー様の意向によりこの者を解放致します」

身体を貫通して突き刺されていたマシューの腕が、ローザの腹部から勢い良く引き抜かれた。よほど痛かったのだろう。同時に大きな悲鳴が鼓膜を強く揺さぶった。痛みに耐えかねた身体は、自然と腹部を抱えてまるまり地面にうずくまった。新月も近い暗がりの闇夜にありながら、傷口より流出する血液によってローザの足元には大きな黒い影が出来ていた。

「ぅ……ぅう…………」

ポッカリと空いた腹部の傷口からは、早速白い煙が上がり始めていた。凄まじい勢いで治癒が行なわれていく様子は、流石は吸血鬼といったところか。それでも、この様子ならばすぐ反撃に移られることも無いだろう。そうなる前にマシューを連れ立って早々に引き上げるが吉だ。

「このまま放っておいても大丈夫だよな?」

「ええ、朽ちることは無いでしょう」

ならば、とりあえずは安心だ。

「だったら早いところ此処を出発しよう。また絡まれたんじゃ堪らない」

「そうして頂けると私としても嬉しい限りです」

地に伏したローザに背を向けて俺はバイクに跨る。

「ま、待ちなさい……、私は……まだ、………諦めては……いませんわよ……」

「…………」

後ろからは諦めの悪い呻き声が聞こえてくるが、わざわざそれに振り返ることも無い。振り返ったとしてもかける言葉など無いのだし、気まずくなるだけだろう。ローザの言葉を無視した俺はシーシーバーに掛けてあったヘルメットを手に取る。そして、すぐ隣まで来ていたマシューへ声をかけた。

「準備はいいか?」

「はい、私は走って着いていきますゆえ、どうぞ先行してください」

「分かった」

差しっぱなしになっていたキーを回してクラッチを切る。セルを回してエンジンを始動させた。それから、アイドリングが安定するのを確認する間もなく、俺はローザの元から逃げ出すように、隣町の沙希の家へ向けて走りだしたのだった。

場所は佐久間の屋敷の3階に設置されたテラスである。俺が自宅へ荷物を取りに帰っている間を、エリーゼはそこに設置されたガーデンチェアに座って夜風に当たりながら、優雅に紅茶なんぞ飲んでいたらしい。

そこへ俺がマシューを連れて帰ってきた。エリーゼは手にしたティーカップに満ちた赤い色の液体に小さく水面を立てて、露骨に不機嫌な態度を示してくれた。次に口を開いた時には当然のように尋ねてくる「なんでコイツが此処に居る?」と。

マシューとの約束を果たす為に、まず俺はエリーゼに自宅で起きた騒動を説明した。ローザに襲われたこと、それをマシューに助けられたこと、そしてローザを助けたこと、その過程でエリーゼにマシューを紹介すると約束したこと、一通りである。すると、エリーゼは更に不機嫌さを増して鬼神の如き面を浮かべるに至った。手にしていたティーカップの取っ手に、ピシリと小さな音を立てて皹が入ったのを、誰もが見て見ぬ素振りをして流す。

まあ、当然といえば当然の結果だった。

「……お前は馬鹿か?」

全ての説明を終えて、まず言われたのがそれである。

「わざわざ手間を増やして、しかも厄介ごとまで抱え込んで、お前は馬鹿か?」

睨みつけてくる視線が痛かった。

「く、繰り返さなくたっていいだろっ」

そう返すだけで精一杯だった。

自分でも馬鹿なことをしたとは理解しているのだ。

「こう何度も同じ事を繰り返されれば、私だって繰り返し言いたくもなるわっ! お前は馬鹿だ、大馬鹿者だっ! この世で一番の馬鹿だっ!! お前は猿以下か!? 学習という概念は存在しないのかっ!?」

耳が痛くなるほどの声で怒鳴られた。余程怒っているのだろう。広い佐久間の屋敷の庭を越えて、隣近所の室内にまで響いてしまいそうな大声量である。

「でも、放っておいたらローザは死んでただろうし……」

「あの娘が死んだところでお前にはなんら関係ないだろうが。いや、むしろ敵が減るという意味では喜ばしいことだろう。それを何故助けたりしたんだ? 馬鹿にも限度がある」

「そ、それはそうだけどさ……」

「そんなにお前は死にたいのか?」

真面目な顔でそんな事を聞かれた。

「死にたくは無いさ。けど、どうしても放っておけなかったんだよ。同じ人の姿をしてると、どうしても無視できないんだよ。俺はお前みたいに完全に吸血鬼に成りきれてないんだ。そういう性格なんだから仕方が無いじゃないか」

「そういう性格だから仕方無い?」

ピクリとエリーゼの眉が震えた。

「そう言うのだったら初めから私になど頼らないで自分の力で何とかしろっ! 好き勝手やっておいて、最後は自分の尻拭いを私に押し付けるのか? それがお前の言う良心か!? 下僕の分際で主人を何だと思っているんだっ!」

「い、いや、でも、部下の責任は上司が取るっていうし、それに話を聞くくらいいいじゃないか。もしかしたらそれで何か得られるものもあるかもしれないだろ? なんでそこまで邪険にするんだよ」

あらかじめ予想していた以上にエリーゼとの交渉は難航しそうだった。

会話の席を設けるだけならば、それほど大変ではないだろうと高を括っていた。だが、現実はそう簡単ではなかった。思いのほかエリーゼの機嫌は悪い方へ傾いてしまっていたのだった。

「私がお前の上司だと?」

「に、似た様なもんだろ?」

テラスには俺とエリーゼの他にマシューと沙希が居る。共に俺の後ろに立って、無言のまま事の成り行きを眺めている。

「なぁ、お願いだから頼むよ」

雲息の怪しくなってきたエリーゼの機嫌に怖いものを感じた俺は、素直に頭を下げて頼み込んだ。後ろの二人に見られていると考えると多少恥ずかしいものを感じる。しかし、それも今は我慢だった。マシューとの約束はちゃんと果たさなければならない。

すると、そんな愚直な態度にエリーゼは何を思ったのだろうか。ふと思い立ったように椅子から立ち上がった。そして、有無を言わさず俺の頭を鷲掴みにすると、無理やり床に押し付けてきた。

「い、痛っ、痛い、痛いってっ!」

エリーゼを相手にしては腕力で敵う筈もない。成す術も無く膝をついた俺は、固い大理石の床に額を擦り付ける羽目となった。柔らかな顔面の皮膚は容易に傷付いて血がにじみ始める。

「どうだ、痛いか?」

「痛いに決まってるだろっ!」

額の皮膚が擦れるのを我慢して首を捻り、視界に相手の顔を捉える。すると、それまで目くじらを立てて怒鳴り声を上げていた鬼面はいつの間にか消えていた。そして、その代わりに、ニタァっと口元に厭らしい笑みを浮かべる悪魔の姿があった。勿論、目は決して笑っていない。

「………な、何が可笑しいんだよ」

この不気味な笑みを目の当たりにした後に一体どういった仕打ちが待っているのか。それはここ数週間の共同生活を経た今では容易に想像がつく。

「貴様の馬鹿は今に始まったことではないが、それも此処まで来ると教育の必要性を感じる」

「教育ってなんだよ」

不吉な響きの単語を耳にして背筋に悪寒が走った。

「そこまで言うのならば、その頼み、聞いてやらないことも無い」

「本当かっ!?」

「しかし、ミスをした部下にはそれ相応の仕置きが必要だ。お前だってそれくらい分かるだろう? まさか、何のお咎めもなく自分の失態が許されるとは思ってやいまいだろうな?」

「それは……まあ、ある程度は覚悟してたけど」

「ならば話は早い。雅之、今すぐにこの場で裸になって踊れ」

「はぁっ!?」

「はぁ? ではない。裸になって踊れ。今すぐにこの場でな」

それは笑えない冗談だった。

すぐ近くには沙希やマシューが居るのだ。そんな所で裸になって踊れと言うのか? まだエリーゼだけが相手ならば考えない事も無い。けれど、この場で今すぐにだなんて、幾らなんでも酷い仕打ちだ。

「嫌か? 嫌ならば私もお前の言う事は聞いてやらん」

「幾らなんでもそれは無いだろっ! そんなの酷いだろっ!!」

「別に酷くなんてないさ。それどころか逆に緩すぎる条件だ。ただ裸になって踊るだけで、この私がお前の我侭を聞いてやると言っているんだ。破格にも程があると思わないか? 貴様もそう思うだろう?」

そう言うエリーゼの視線が、ここへ来て初めてマシューへ向けられる。

「はい。そう思います」

「ちょ、ちょっと待てよっ!!」

マシューにこうもアッサリ頷かれてしまっては俺の立つ瀬が無いではないか。

「ほら、そういうことだ。早く服を脱いで踊れ」

ゆっくりと細められた蒼い瞳が見つめてくる。

「っ……」

だが、マシューとの約束を守るためとは言え、これは素直に呑める条件でない。人としての尊厳というか、プライドというか、そういったモノの一切合財を捨てろと言われているようなものだ。

「何か、他には無いのかよ?」

「無い」

頬を冷たい床に押し付けられたまま、視線だけを向けて許しを乞う。しかし、相手は無碍にも冷たい一言を返すだけだ。ならば、せめて後ろのギャラリーだけでも退ける事は叶わないのか。

「だったら、せめて後ろの二人が居ないところでにしてくれよ」

今こうしてエリーゼの足蹴にされている姿を晒しているのだって恥ずかしいのだ。

「何を馬鹿なことを言っている。こいつ等が居るから楽しいんだろう?」

「な、なんだよそれっ!」

こんなの小学生の虐めじゃないか。

いや、小学生だってここまで程度の低い虐めは早々やらないだろう。

「こんなことして何が楽しいんだよっ!」

「お前が必死になっている様は見ていて滑稽だ。非常に楽しいぞ?」

だが、どれだけ文句を重ねたところで、帰ってくるのは無慈悲な冷笑ばかりである。本当に心の底から俺の無様を眺めて楽しんでいる。自己中心的な性格をしているとか、自分勝手であるとか、そういったレベルの話ではない。コイツは真性のサディストだ。

「だから、ほら、さっさと服を脱げ」

「くぅ、おぉおおおっ!?」

エリーゼの言葉に合わせて勝手に体が動き始めた。

膝と頬を床に突いている状況で、唯一自由な両手がズボンのベルトを外し始めたのである。勿論、そこに俺の意思は一切無い。カチャカチャと音を立てて、ベルトの穴から留め金が容易に抜ける。

「な、なんだよっ!? どうなってんだよっ!?」

エリーゼに目を向けると、なにやらその右手の指が右へ左へ小刻みに動いているのが確認できた。まさか、それだけで身体を操られているとでもいうのだろうか? そんなの反則だ。

「おい、止めろよっ! おいっ!!」

「お前が一人で服を脱げないと言うから、わざわざ私が手伝ってやっているんだ。感謝しろよ」

「ちょ、馬鹿っ! 止めろっ!」

幾ら身体に力を込めてみても、両腕の自由は取り戻す事が出来そうに無い。それどころか、他の部位に関しても侵食は始まり、瞬く間に全身の自由を奪われてしまった。唯一自由なのは口くらいである。まるで他人の身体に精神だけが入り込んでしまったような感覚だった。

「ほら、さっさと脱げ」

「まて、まてまてまてまてぇえええ!!」

ズボンはものの数秒でアッサリと脱がされてしまった。下半身は膝立ちで、頭はエリーゼによって床に押し付けられている。なんて屈辱的な格好だろう。しかも、ズボンを脱がし終えた手はその下に穿いたトランクスへと順当に伸びる。

「ちょっと待てよ、冗談じゃないぞっ!」

「私だって冗談でお前を脱がしている訳ではない。言っただろう、これはお前に対する教育の一環なんだ。口で言って分からない馬鹿にはそれ相応の対応というものが必要だろう?」

「な、なにが教育だよっ!」

「それともなんだ、下くらいは私の手で脱がせて欲しいか?」

「ばっ、馬鹿っ!!」

何故か顔が赤くなるのを感じた。

それを見て取ったエリーゼは嬉々として言葉を続ける。

「いいだろう。脱がせてやる」

「やめ、やめっ……」

頭を押さえつけているのとは別の、それまで俺の身体を操っていた右腕がするすると太股の付け根辺りまで伸びてきた。そして、一切の遠慮なくプライドの最終防衛線である薄い布生地を引き裂いて剥ぎ取った。

「あ、お……、おいっ!」

躊躇無く引き裂かれたトランクスは、勢いをそのままにテラスの柵を越えて庭へと舞っていった。無駄に風通しの良くなった下半身がスースーして気持ちよい。しかし、それ以上に恥ずかしい。

「ほぉ、それなりに立派なものを持っているじゃないか。風呂場で隠していた理由が分からんな?」

「んな、こ、こ、こら馬鹿ッ! 勝手に見てんじゃねぇよっ!!」

露になった股間を隠す為に慌てて両手を向かわせる。だが、そんな行為もエリーゼを間にしては許されなかった。トランクスを剥ぎ取るに際して一度は戻ってきた両手の自由が再び失われたのである。エリーゼの右手の指が小刻みに動く。それに合わせて、両腕は万歳をするように天高く掲げられた。

「はっははははは、無様だな」

「こ……この野郎……」

エリーゼの前にうつ伏せる俺の背後には沙希とマシューがいる。両膝を突いて頬を床に無理やり押し付けられているこの状況では、汚い尻の穴が二人の目前に晒されているということになる。それを思うと、羞恥心でどうにかなってしまいそうな気分だった。

「いいか、良く聞け」

普段より低い高圧的な声が頭上から聞こえてきた。

「前にも言ったと思うが、自分の力で出来ないことを無理にしようとするからこういう目にあうんだ。分を弁えろとは言わない。だが、自分で拭えないような糞をするんじゃない」

テラスの屋根に設置された照明から届く明かりを受けて蒼色に輝く大きな瞳が、地を這う俺の姿を睨むように強く見つめていた。そこには、それまでの人を嘲笑うような軽い態度は感じられなかった。

「分かったな?」

まるで素行の悪い不良に注意をする教師の様な語り草である。

「分かった、分かったからもう勘弁してくれよっ!」

最早歯向かう気力も失せた。

「本当だろうな?」

「本当だよっ!」

鼻と鼻が接するほどに顔を近づけて来たエリーゼに対して、俺は自暴自棄になって叫ぶように言葉を返した。

「ならば今回は許してやる。だが、次は無いと思えよ?」

まるで脅しかけるような物言いだった。

「分かったから、だから早くこの手を退けてくれよっ!」

自分が惨めでならなかった。

そして、そこまで来てようやく、頭の上に乗せられていた手は退けられた。同時に身体の自由を奪っていた見えない力も消え失せ、両手両足共に自分の意思で動くようになる。俺は慌ててその手で股間を隠した。

「まったく、手のかかる下僕だ」

俺の体勢に合わせてしゃがみ込んでいたエリーゼは、フッと小さな笑みを浮かべて立ち上がり、もとあった椅子の上に再び腰を掛けた。そして、テーブルの上に置いたままになっていたティーカップを手に取って口をつける。

「く、糞ッ!」

穴があったら入りたいとはまさにこういう状況で利用すべき慣用句であろう。だが、大理石で出来たテラスには人が入れるような穴など開いている筈も無い。周囲には取り付く島も皆無だ。足元で脱いだままになっていたジーンズを手に取った俺は、それで前を隠すと、その場から逃げ出す様にして足早にテラスを後にした。

こんな惨めな思いをしたのは生まれて始めてである。

ベッドに横たわり塞ぎこんでいると、部屋のドアが軽い音を立てて鳴った。テラスから逃れてきて一体どれだけの時間が経過しただろうか、外からノックされたらしい。相手は誰だろうか。

「……はい」

正直、誰とも顔を合わせたい気分では無かった。

「沙希です。失礼して宜しいでしょうか?」

扉の向こうから返って来た声の主は予想通りの人物であった。

もし嫌だと言ったら放っておいてくれるのだろうか? そんな事を考えながら返答を保留していると、沙希は扉を挟んだまま言葉を続けた。

「夕食の支度が出来ましたが、お食事はいかが致しますか? 既にエリーゼさんは食卓にてお待ちです。もしも気分が優れないようでしたらお部屋までお持ちしますが」

そう言われて、ふと部屋の壁に設置されていた掛け時計に視線が行った。見ればいつの間にか時刻は午後の10時を回っていた。そして思い返してみれば、昼食は変な爺とその仲間達が乱入してきたせいで満足に食べれていなかった。

「…………」

すると、それまでの鬱は何処へやら、急な空腹感がやって来た。

だが、あれだけのことをされておきながら、食事に釣られてノコノコと出て行くというのも自尊心が痛む。

「如何しますか?」

「…………」

しかし、今はこうやって一人で部屋に引っ込んでいられるが、夜になればエリーゼだって眠りにやって来る。それに、逆にいつまでもウジウジと落ち込んでいるのも、それはそれでみっとも無い。そう考えると、これはある種のチャンスなのだとも思えた。

「分かった、行くよ」

重たい腰を持ち上げて俺は部屋のドアを開ける。

その先には、普段通り能面の様な面構えの沙希が居た。

「気分は平気ですか?」

淡々とした事務口調で聞いてくる。

「気分は最悪だけど腹は減った。食卓は下か?」

「はい、ご案内致します」

先行する沙希に付き従って進むと、いつぞや利用した見覚えのある食卓に辿り着いた。十数人の大所帯でも一同に卓を囲える程の、奥に長い作りをした長方形の広い部屋である。中央には細かな刺繍の美しい真っ白なテーブルクロスで飾られた、縦に長い荘厳な作りのテーブルが置かれている。その上には銀色に輝く食器類の数々が綺麗に並べられていた。テーブルの一端には、自らの座高よりも高い背を持つ値の張りそうな椅子に座ったエリーゼの姿があった。

「早くしろ、私は腹が減った」

俺の姿を見つけて早速叱咤を飛ばして来る。

「分かってるよ」

だが、先ほどの件について言及してくるような事はなかった。

ところで、食卓の席にはマシューの姿が見当たらない。あの後、交渉はどうなったのだろうか? まさか、あそこまで俺のやらせておいて追い返した訳では無いだろうな。そんな不安が脳裏を過ぎる。

「なぁ、アイツはどうしたんだ?」

テーブルを挟んでエリーゼと反対の側に着く。

フォークやナイフといった食器がそちらに用意してあったのだ。

「あの男の事か?」

「話はちゃんと聞いてやったんだろうな?」

でなければ俺が報われない。

「話は聞いてやった。約束だからな」

エリーゼの前に置かれた食器の類に乱れは見られない。どうやら食べないで待っていてくれたようだ。料理を取りに行くと言って食堂の一端に設置されたドアから厨房へ消えていった沙希の帰りを待ちながら、これまでの経緯の説明を求める。

「それで、どうだったんだ?」

マシューから大体の話は聞いているが、相手の言う同盟云々の中身に関しては全く知らない。勿論、エリーゼが何と答えたのかも気になる。エリーゼと同盟関係を結ぶというのなら、俺にだって多少の影響は出てくるだろう。

「新たに分かった事が幾つかある」

エリーゼは卓上に肘をつき、指を組んだ両手の上に顎を乗せる。

「一つは今日の昼に攻めてきた奴等についてだ」

「あの胡散臭い爺と取り巻きの連中か?」

「予想通り、奴等はこの国に古くから居る化け物の類らしい。それと、一昨日の昼に外を歩いただろう? あのときに攻めてきたデカイ奴と、その仲間らしきもう一匹に関しても、それは同様だそうだ」

「ああ、商店街で買い物したときのことだな」

デカイ奴というのは馬の姿をした化け物を指すのだろう。その仲間というのは、手に鎌を生やした細身の男性に違いない。聞き間違いが無ければ、彼等はお互いを馬鬼、鎌風と呼称していた。とはいえ、両名は既にマシューの手によって亡き者とされている。

「あの男の話では、なんでも連中は私を狙っているらしい」

「まさか、それってこの国の化け物全体の話なのか?」

「規模は分からんが、少なくともこの界隈にいる奴等に関しては間違い無いと言っていたな。道理で面倒事ばかり転がってくる訳だ」

薄々はそんな気がしていたが、これで完全に一昨日から続く騒動の原因を断定できた。やっぱりエリーゼが悪いのである。とはいえ、日本とはそれほど縁があるように思えないコイツが何故に狙われるのか。

「でもなんでお前が狙われなきゃならないんだ?」

まさか、過去に日本で大きな騒動でも起こしているんだろうか?

「それに関しては、別に説明しなければならんことがある」

「なんだよ」

「あの男の目的だ」

マシューの目的と言えば、エリーゼとの同盟関係の締結だろう。これまでの口ぶりからすれば、それは彼個人の思惑では無く、何らかの組織的な背景があるらしい。それ以外に目的などあるのだろうか?

「目的って、お前と同盟を組むことじゃないのか?」

「それは手段の一環に過ぎん。私の言う目的とは、何故に私との同盟関係を求めるか、ということだ。言葉を改めるならば、あの者が属する組織の目的だがな」

「ああ、なるほど」

そういえば、その辺は聞いていなかった。

「なんでも、あの者が属する組織は、この国を舞台にして化け物同士で国取り合戦をやらかしたいらしい。いや、あの素振りからすると、既に何かしらやらかしているのだろうがな」

「国取り合戦? それって随分と物騒な話だよな?」

モダンな言葉で表現するならば、早い話が戦争だろう。

「ここ百数十年で思いのほか経済発展したこの国が、外の奴等には良く肥えた豚のように見えるんだそうだ。内部では全く統合の取れていない化け物達が思い思いに好き勝手やっている。そんな状況も好ましい。などと言っていたな」

「なんだか、数世紀昔の植民地政策みたいな話だな」

化け物が人間様の経済にどの様に介入するのかは分からない。だが、それが国内での出来事にせよ、国外での出来事にせよ、新聞やテレビで化け物の姿が報道されたことは無いのだ。何かしら人目につかないところで上手い事やっているのだろう。もしくは世に居る要人の幾人かは、実は人間に化けた化け物である、ということだ。

「早い話が人間社会を利用して甘い汁を吸っている連中の遠征だろう。この国には組織的に人間の真似ごとをするような奴が少ないという話だ。見るに見かねてついつい手を出してしまった、といったところか」

「それじゃあ、お前はそこで戦車か大砲でもやるのか?」

「私への要望はそんなところだ」

俺の言葉に小さく頷いたエリーゼは、フッと下らなそうに笑みを浮かべた。

想像していたよりもずっと規模の大きい話であったが、マシューや彼の属する組織がエリーゼに求める所は依然として想定の範囲内である。

「けど、お前が一人加わった程度でそんなに違いがあるのか? 日本の化け物も随分執拗に攻めてくるけどさ」

幾ら戦車や大砲が厄介であるとは言え、それ一騎で戦況が覆される事などありえるのだろうか? 早め早めに対処をするというのは良い心がけだと思う。けれど、これから国を賭けて争おうという者達が、たった一人を相手にそこまで神経質になる理由が分からない。

「…………お前は本当に私を舐めてくれるな?」

「だって、そうだろ?」

確かにエリーゼは強い。けれどそれも個人の能力を比べての話だ。他に大勢の化け物を巻き込んで合戦を行なうというのならば、幾らエリーゼであろうとも多の中の一に過ぎないだろう。

「お前の主張は確かに人間の世では正しいのかもしれない。だが、前にも同じような事を言ったと思うが、それが化け物の世でも常に正しいとは思うなよ?」

軽い気持ちで口にした言葉であったのだが、ギロリと思い切り睨みつけられた。

「一騎当千……、ってことか?」

俺の言葉に頷いて、エリーゼは説明を始める。

「人間の能力は個人差が小さいから、数に埋もれれば個人の能力などすぐに見えなくなってしまうだろう。だが、化け物は違う。人間から化け物に成り、そして、私の隣で幾回かの争いを目の当たりにしてきたお前ならば理解できるだろう?」

そう言われて思い返したのは沙希の親父との一件である。あのときの圧倒的な様は、人間同士の喧嘩では目の当たりに出来る代物でない。

「たった一匹の化け物が、時には幾千、幾万もの化け物を駆逐する事さえあるんだよ。人間には分からん感覚かもしれないが、化け物はそれ単体で国さえ滅ぼす事が出来る存在なんだ」

「だから、お前は狙われていると?」

「ああ、なんでもインターネットとやらに私の姿が晒されて、それを見たこの国の化け物達が躍起になっているんだそうだ。あの爺の様に私の存在を知っている者がこの国にも残っていたらしいな。面倒な話もあったものだ」

やれやれと首を小さなため息をついたエリーゼは、手元に置かれていた紅茶のカップを手に取りゴクリゴクリと半分ほど残っていた内容物を飲み干した。

「インターネットに晒された?」

エリーゼの口から出てくるには、非常に似つかわしくない単語に思わず聞き返す。

「それに関してはお前の方が詳しいとあの男が言っていたが?」

一瞬、インターネットというIT用語とエリーゼとの接点が分からずに混乱した。だが、つい先日交わしたローザとの会話を思い出してその意味を理解した。そこでもエリーゼの存在を知った理由として、ローザはインターネットに上げられていた写真の存在を挙げていた。

「ああ、理解した。説明は面倒だから後でしてやるよ」

それにしても、許可なく勝手に人の写真をネット上で公開するとは迷惑な話もあったものだ。肖像権もへったくれもあったもんじゃない。いらぬところで現代の情報ネットワークの恐ろしさを感じた瞬間であった。

しかし、妖怪変化までもがインターネットを利用する時代が来るとは、世も末である。

「ところでお前って結構な有名人なんだな。知らなかったよ」

沙希の父親にしても、マシューにしても、そして例の爺さんにしても、どうしてエリーゼの事を知っているのか。そもそも300年という長い期間を誰とも接することなく宝石の中に封ぜられてきたにも関わらず、どうして忘れられることなく今に至るのか。

「それは私が強いからだろう?」

そんな素朴な質問に、エリーゼは当然のように胸を張って言葉を返した。

「自身満々だな」

「当然だ。事実だからな」

ここまで堂々としていると突っ込む気力も失せる。まあ、実際に強いのは事実なのだし、下手に突っ込んで怒りを買うと面倒なので素直に頷いておこう。自分の能力に関して、エリーゼは恐ろしいほどに高いプライドを持っているのだ。

「それで、お前はどうするんだ?」

煎じて色々と聞いたが、一番の焦点はここであろう。

「どうすると思う?」

今更聞かずともコイツの性格を考慮すれば容易に判断できる。

だが、ここで一応でも尋ねておくのが筋だと考えたのだ。

「いちいち確認するまでもなかったな。売られた喧嘩は借金をしてでも買うのがお前のポリシーだろう?」

「当然だ」

ニタリと口元を歪めて楽しそうに笑ってみせる。

「あれだけ舐めた真似をしてくれて、この私が大人しく引くわけが無かろう。目に付くこの国の化け物全てを根絶やしにしてくれるわ」

嬉々として語るエリーゼの台詞は、日本人である俺からすれば多少複雑な気分にさせられる。だが、自宅を滅茶苦茶にされた恨みを考慮したならば、その主張の数割は同調できないでもない。所詮化け物は化け物、人間とは違うのだ。

「お話の最中に申し訳ありません。お食事をお持ちしました」

スチール製の給仕ワゴンを押す沙希がエリーゼの斜め後ろから声をかける。ワゴンの上には食欲を誘う美味しそうな匂いを醸す料理の数々が乗せられていた。庶民的な食事しかした事が無いので、それらに一体どれだけの紙幣価値があるのかは分からない。だが、一目見て俺の財布の中身で太刀打ちできるような料理でないことは理解できた。前回この場で食事をしたときは、沙希自身が作ったのだと言うビーフシチューを頂いたが、今回は背後に専門のシェフの存在が感じられる。

「残りは食事が終わったら話してやる。折角の料理を前にして下らない話はしたくないからな。飯が不味くなる」

「そうだな」

お互いに意見が一致したところで、俺とエリーゼは早速手元に置かれた料理へ手を伸ばし始めた。沙希は給仕に専念するつもりらしく、一緒に食事を取ろうとはせずに、俺やエリーゼの傍に恭しく立っている。そんなメイド染みた真似をされると、贅沢に慣れていない庶民としては激しく落ち着かないのだが、それも始めの一皿目を片付けたところで、次々と並べられていく料理の数々と、鎌首を擡げ始めた食欲の前に負けて、いつの間にか気にも止めなくなっていた。それから、一時間以上の時間をかけて俺とエリーゼはゆっくりと食事を満喫した。

食後に沙希が紅茶を持って来た頃になって、話題は自然と再びマシューとエリーゼの同盟に関するものに戻った。

「それで、同盟を組むのは分かったけど、お前は具体的に何をするんだ?」

近所のスーパーで販売されているティーパックの類では再現できない、フローラルな香を漂わせる沙希の一押しを一口含んで食後の幸せな余韻を感じる。同じく満足気な表情を浮かべてカップを取るエリーゼに尋ねた。

「ああ、そういえばその事でお前に確認することがあった」

「なんだよ?」

マシューとの同盟関係は俺にも関係があることなのだろうか。

「今は夏休みとやらで学校が休みなのだろう?」

「そうだけど、それに何の関係があるんだ?」

質問の意図が分からない。

「その休みはいつ頃までなんだ?」

「夏休みか? それだったら8月の末日までだけど、それがどうかしたのか?」

「ならば丁度良い、来週の頭から少し出かけるぞ」

「は?」

それは突然の旅行宣言であった。今日が金曜である事を踏まえると、週の頭を日曜とするならば、出発は2日後の予定となる。夏休み中は特に予定も無いので、出かける分には一向に構わないが、突拍子も無い提案に少々驚いた次第である。

「出かけるって、何処へ何をしに行くんだよ」

「私も本来ならばこの近辺の化け物共を狩って憂さ晴らしでもするつもりだったんだが、あの者共には他に手を焼いている化け物が居るらしくてな。そいつの討伐へ行く事になった」

「そりゃまた面倒な話だな」

まさか他所へ出向くような事になるとは思ってもいなかった。

「私も始めはその話を聞いて同盟なんぞ止めようかと考えたんだが、あの男が言うには、その化け物と言うのはそれなりに強力な奴らしいんだ。最近はまともに身体を動かす機会も無かったし、お前のせいで色々と鬱憤も溜まってるから、派手に暴れてストレスを解消するのも良かろうと思ってな」

「それで了解したのか」

「そんなところだ」

なるほど、エリーゼらしい理由である。

「場所は何処なんだ?」

「なんでも、那須岳というところらしい」

「那須岳?」

何処なんだそこは。

せめて県名か市名を上げてくれればいいのに、そんな岳の名前を上げられても地理に疎い俺にはサッパリである。すると、続く言葉に詰まった俺の胸中を察してくれたのだろう。すぐ斜め後ろに待機していた沙希がそっと助け舟を出してくれた。

「那須岳とは栃木県那須町にある複数の火山の総称です」

コイツも中々に博識な奴だ。

「栃木県っていうと結構な遠出だな……」

新幹線を使っても移動だけで半日が潰れるだろう。

「別に同じ国内なのだろう? こんな小さな島国の中での移動ならば、例え端から端まで移動したところで高が知れている。それに、この国の鉄道技術の発達は他国のそれと比較して目覚しいものがあると、以前テレビでやっていたのを私は見たぞ?」

「そりゃ、お前みたいに外から来た奴にとっては近いと感じられるだろうよ。けど、この県内からも滅多な事じゃ出る機会の無い俺にとっては、幾つも県を跨ぐような移動は数年に一度の大旅行なんだよ」

「そんなこと知るか」

俺の言い分なんぞ聞く耳持たぬ、といった様子で無碍にも一刀される。

「でも旅費はどうするんだよ。結構かかるんだぞ?」

具体的な数字は実際に調べてみないと分からないが、新幹線を利用したのならば少なくとも一人頭1万円以上の費用がかかるだろう。それに加えて、滞在する期間分の宿泊費や生活費も考えなければならない。仮に一週間程度の滞在だとしても、それら全てを考慮すると、二人で十数万の予算が必要となるのは間違いない。

「その辺はあの男が出資すると言っていたからお前が気にする必要は無い」

「そうなのか?」

ならば、他人の金で旅行へ行くのだと割り切ってしまえば、悪くない話かもしれない。夏休みが始まって既に2週間程が経過しているが、その間に何処かへ遊びに行く機会も無く家に引き篭もってばかりいたのだ、エリーゼではないが、俺だって多少の鬱憤は溜まっているし、遠出して羽を伸ばしたいという願望はある。

「あの男が所属しているのはそれなりに規模のある組織らしいからな。金の心配はしなくて良いそうだ。それに、これは奴等が依頼してきた仕事なのだから、それくらい支払うのは当然だ」

「まあ、それもそうか」

そうでなければエリーゼが依頼を受ける筈も無い。

「けど、来週の頭ってことは明後日だろ? 随分といきなりな話だな」

「何か問題でもあるのか?」

「いや、特に問題は無いけど、余りにも唐突だったもんだから」

「ならば良かろう。あの男は明日再び此処へ来ると言っていた。金に関する話はその時にでも聞けばよかろう。お前を連れて行くという話は既に通してある。期間的にも夏休みとやらの間で片付く話だから何も問題は無いはずだ」

「分かった」

こういったエリーゼとの会話は、話の要点だけをしっかりと押さえていて、此方が特に催促することなく小気味良く話が纏まっていく。その辺りは同世代の女子学生達の回りくどいやり取りと比較して非常に好ましく思う。

「それではお二人の旅行仕度をしなければなりませんね」

ふと、それまで背後で静かに佇んでいた沙希が声を発した。

「ああ、そうだな」

俺はこの屋敷に持ってきている荷物をそのまま持って行けば良いのだが、エリーゼに関してはそうもいかない。元々身体一つで厄介になっている上に、自宅へ帰ってもまともな服など数える程も無い。室内で過ごす分には、どれだけ煌びやかな衣装を身に着けていようが構わない。しかし、流石に多くの人の目に触れるような場所へ連日出向く様ならば、それも改善する必要がある。これは明日辺りに買い物に行かなければならないだろう。

「エリーゼ、明日は街へ買い物に行くぞ」

「この私にまた人混みを歩けと?」

だが、当の本人は乗り気で無い様子だ。

「そりゃお前の買い物をするんだから当然だろ?」

金を出すのは俺なのだし、せめて同行するぐらいは当然だと思うのだが。

「もしよろしければ私が用意いたしましょうか?」

「いや、そういう風に甘やかせてばかりいるのもコイツの為にならないだろ。たまには強く言わないと駄目だ。コイツには礼儀作法の類が欠如しているみたいだからな。これを機会に少しづつ直していかないと」

財布には大きな痛手を伴う選択だが、これ以上沙希の世話になる訳にもいくまい。今でさえ衣食住の世話をしてもらっているのに、それに加えて旅行の仕度に至るまで面倒をみてもらうなどとは図々しいにも程がある。

「ほぉ、お前も随分と言う様になったな?」

「ああ、言うとも」

平然として言葉を返してやると、ニヤリと口元を釣り上げたエリーゼが俺をジッと見つめてきた。どうやら狙いは定められたらしい。だが、俺にしてもコイツの扱いには多少だが慣れてきたところだ。そう易々と負けるつもりは無い。

「先程まで下半身丸出しで私の足元にひれ伏していた奴の言動とは思えないな?」

続いて出てきたのは予想通りの返答である。

「だったら、次はお前が俺の足元にひれ伏して、その下半身を赤裸々に晒すがいいさ」

それはもう過去の話だ。

少なくとも俺は忘れた。

「良いだろう、そこまで言うのならば相手をしてやる」

すっと、エリーゼが椅子から立ち上がる。

エリーゼと俺の間には幅が3メートル近い縦長のテーブルが横たわっているが、それも相手にしてみれば部屋の敷居を跨ぐ程度の感覚で越えてしまえるものなのだろう。身体能力で大きく劣る俺からすれば、今の状況は負ける一歩手前と言える。けれど、ここで大人しく折れてしまっては見栄を張って啖呵を切った甲斐が無い。

「今度はどんな目に合いたいんだ?」

わざわざ歩いてテーブルの一端を回り、こちら側の席までやって来たエリーゼは、指の骨をポキリと小気味良く鳴らして椅子に座る俺を見つめてくる。エリーゼは背が低いので、椅子に座った状態にあっても、俺のほうがまだ高い。

「口先で勝てないから暴力に訴えるなんて、お前も幼稚な奴だよな」

「弱者はいつも最後にそう叫ぶものだ。このほうが早くて手っ取り早く片付いて便利だろうが。お前の様な奴の妄言にいちいち構っていたのでは時間がかかってしょうがない」

確かにそれはあるだろう。けれど、だからと言ってコイツの場合はそれが極端すぎるのだ。明後日には遥々栃木まで出かけるということで、移動中や滞在期間中には、普段と比べて人目に触れる機会も多くあるだろう。もしかしたら他人に話しかけられるかもしれない。その際にコイツが粗相をしたのなら、全ての責任は俺に降りかかる事となる。だからこそ、事前に色々と言い聞かせるべき事はあると思うのだ。それはエリーゼが俺のトランクスを剥ぎ取った理由と全く同じだ。

「面倒でも少しは相手に譲歩することくらい覚えろよ」

「この私がお前に譲歩しろと? 下らん、下僕の分際で馬鹿なことをほざくな」

とは言え、正攻法でせめてもこのプライドの高いエリーゼを説得するのは不可能だと思われる。なので、今は自分の身の安全がかかっていることもあり、適当なところで妥協することとした。

「ならこうしよう。俺とお前で喧嘩以外のなにかしらの勝負をして、お前が勝ったのなら俺は素直に殴られるとしよう。けど俺が勝ったのなら、お前は俺の言う事を素直に聞く、これでどうだ?」

これで相手が乗ってこなければ、又しても俺はエリーゼの拳の餌食となることが決定する。だが、幸いな事に今回は相手も遊び半分で挑発に乗っていたようだ。思いのほか素直に同意してくれた。

「それも負け犬が負ける直後に口にする常套句だが、まあ、いいだろう。此処にはテレビゲームも無いし、他にやる事も無いから相手になってやる」

「勝負の方法はいかが致しますか?」

「何か適当なものってあるか?」

「そうですね……、倉庫に古いチェス盤があったのを記憶していますが、それでもよろしいでしょうか? 時間を頂ければ他にも色々と取り揃える事が出来ますが、今すぐにですと他に目ぼしいものはありません」

沙希の言葉を受けてエリーゼに視線を送る。

「私は何でも構わん」

「じゃあ、それにしよう」

チェスならそれなりに自信はある。ボードゲームの類は小さい頃から両親を相手に遊んでいたので、同世代の友達と勝負しても負けたことは殆ど無い。

「では食事も終わりましたので、場所を移しましょう」

テーブルの上に広げられた食器の類をそのままに、先行する沙希に導かれて食堂を後にした。

食堂を出てから廊下を東に進み、階段を上って一つ上の階に設けられた一室へ向かった。そこは俺がこの屋敷へやって来てから自宅へ荷物を取りに帰る前までの間に、エリーゼと共にくつろいでいたリビングと思しき部屋である。身に着けたエプロンドレスのポケットから取り出した鍵で部屋の扉を開けて室内の照明をつけた沙希は、チェス盤を取って来ます、と言ってその足で倉庫へ向かって行った。

通された室内でしばらくエリーゼと下らない軽口の叩き合いをしていると、両手に古ぼけた大きな木箱を抱えた沙希が戻ってきた。

「随分と値の張りそうなチェス盤だな」

中から取り出されたのは一枚の厚い木の板である。薄っすらと彫られた升目には黒いインクが所々掠れながら塗り付けられ、僅かに光沢を放っている。外枠には細微な彫刻が施され、素人の目にもそれが近くのデパートや玩具やで購入できるような安物とは一線を駕していると理解できる。

「風情があって良いじゃないか」

「お父様から聞いた話では、先代の頃からこの屋敷にあったそうです。なにぶん古いもので申し訳ないですが、こちらでよろしいでしょうか?」

「構わん、さっさと駒を並べるがいい」

「お前も偉そうにしてないで手伝えよ」

古い埃の匂いを鼻に感じながら、次々と木箱から取り出される駒の数々を卓上に置かれた盤上に並べていく。駒の全てはガラス製であり、細部にわたって非常に繊細な彫刻が施されていた。万が一にも落として割ってしまわないよう気をつけて盤上へ置いていく。

「それではどうぞ楽しんでください。私は紅茶の用意をしてまいります」

「ああ、ありがとな」

小さくお辞儀をして去っていった沙希の姿をドアの向こうに見送る。

そして、俺とエリーゼはチェス盤を挟んで対峙することとなった。

「さて、先に言っておくが後で泣き言は聞かんからな?」

「そっちこそ、途中で待ったは無しだからな?」

お互いに見えない火花を静かに飛ばしながら、目前の駒に手を伸ばす。

火蓋は切って落とされた。

チェスは先手を取った側が有利となるゲームである。それを知った上でエリーゼは俺に先手を譲った。よほどチェスに自信があるのか、もしくは、よほど俺を侮っているのか。きっと両方とも真だと思うが、此方もそれなりに自信がある手前、先手を譲られたとあっては意地でも勝ちたいと思う。

対戦を始めてしばらくすると、ティーカップとポットの乗った盆を持った沙希が部屋に戻ってきた。だが、その頃になるとお互いに相手の実力を理解したのか、言葉を交わすことも無く黙々と駒を動かしあうだけの静かな戦いとなっていた。テーブルの端に置かれた湯気を立てるティーカップには目もくれず、ただジッと盤面を睨んでいる。

その場の空気を察したのか、沙希は紅茶の仕度だけを手早く済ませると、すぐに部屋を出て行った。それから、駒が盤面と当たって上がる小さな硬い音だけが響く一室にあって、チェスの勝負は静かに続けられた。

決着が着いたのはそれから2時間後のことである。

勝利を掴んだのは俺だった。

「ば、馬鹿な……」

愕然とした表情で盤面を見つめるエリーゼの姿に確かな優越感を感じる。

「この私が下僕如きに負けるなんぞ………ありえんっ!」

詰みの一手を前にして、大きく目を見開いたエリーゼは叫ぶように声を上げた。

「事実は素直に受け止めろよ」

「くっ……」

常日頃からエリーゼは俺のことを相当な馬鹿だと認識していた。そんな相手にチェスで負けたのだからショックも大きいのだろう。小刻みに肩を震わせてやり場の無い怒りに耐える様は、見ていて爽快ですらある。

「それじゃあ、約束は守ってもらうぞ? 明日は俺と一緒に街へ買い物に行くんだ」

傍から見れば、強引にデートの約束を取り付けようと必死な男の図なのだが、その辺は気にしないことにする。

「ああもう、そんなことはどうでも良い。もう一回、もう一回だっ!」

「もう一回ってお前、もう夜中の12時を過ぎてるんだぞ?」

この一戦でさえ2時間かかったのだ。これに加えて更に一戦行なうとなると、就寝時刻は夜の3時を越えてしまうだろう。明日の予定を考えるとあまり夜更かしはしたくない。それに今日は色々とあったおかげで疲れも溜まっていて、そろそろ眠くなってきたという本音もある。

「そんなこと知るか、私は今の試合に納得がいかん。もう一回勝負しろ」

「今から始めると寝るのが遅くなるけど大丈夫か? 明日はマシューが来るし、買い物へも行くんだぞ? っていうか、俺が眠いんだけど」

「お前が眠いのは知らんが、買い物へ行くという約束は守ってやる。だからもう一回勝負しろ。なんなら、次の勝負でお前が再び勝ったのならば、私はお前の言う事をなんでも一つ聞いてやる」

「本当か?」

それは非常に美味しい条件だ。

「どうだ?」

「よし良いだろう。その賭け乗ってやる」

「ああ、そうでなくては面白くない」

再び盤面を挟んでにらみ合う。

ちなみに、先程の勝利はかなりの僅差であった。だから、俺も下手に油断は出来ない。むしろ、エリーゼがエンジンのかかりが遅い性質ならば、負ける可能性も大いにある。これは十分に気合を入れて臨むべきだろう。賭けの対象が魅力的であるが故に眠気も段々と引いていくのを感じる。

「さぁ、勝負だ」

今度はエリーゼが先手である。

「ああ」

駒の冷たい感触を指先に感じながら、全身全霊で盤面の行方を追った。

翌日も前日に引き続き、窓の外には雲ひとつ無い青空が広がっていた。

「おーい、起きろよ」

窓枠の先に広がる景色から目の前に置かれたベッドへ視点を移す。

結局チェスの勝負は二回とも俺の勝利に終わった。そして、それを不服と感じたエリーゼが俺のシャツの襟を締め上げながら三度目を挑んで来たのは言うまでも無く、最終的に本人が眠気に負けて根を上げるまでの間を、明け方近くまで勝負は続けられたのだった。

室内の壁に掛けられた時計は今が午前の11時である事を示している。

「そろそろ起きてもいいんじゃないか? マシューも待ってるぞ」

きっと本人には届いていないであろう。適当に語りかけながらベッドの縁に腰を掛ける。横からはスヤスヤと安らかな寝息が聞こえてくる。ベビードールから白く細い太股を見事に肌蹴させて、節操なく大の字で横たわっている。妙にフリルが沢山着いていたり、レース生地が多く使われていたりするベビードールは、きっとコイツが昼に着ていた妹の遺品である黒のワンピースから、沙希が勝手に趣味を想像して用意したに違いない。要らぬ勘違いをしてくれたものだ。

「なぁ、そろそろ起きろよ」

肩に小刻みに揺すってみせる。

だが、よほど眠いのだろう。スッと持ち上げられた相手の腕によって、すぐに払いのけられてしまった。昨晩の状況からこうなるであろうことは容易に予測できた。だが、勝負に負けるたびに勢いを増していくエリーゼの剣幕には抗う事が出来なかったのだ。

「おーい、いい加減起きろよ」

再び肩に手を置いて揺さぶってみるが、同様にして払いのけられてしまう。

そして、俺の手を払うべく腕を動かした事で、辛うじて引っかかっていたベビードールの肩紐がズレて小さな胸の片方が露となった。以前、バスルームで見たときと変化なく、見事に平坦な胸である。膨らみの無い胸を世間では洗濯板のようだと表現ことがある。無駄な脂肪の無いエリーゼの身体は、仰向けで横になるとアバラが浮いて見えて、本当に洗濯板のようだった。

「本当に、ぺったんこだよな……」

その凹凸の無さ加減に俺は思わずしみじみと呟いてしまった。

すると、それまで完全に夢の中にあると思っていた相手が、くぐもった声色で抗議を上げてきた。

「………そのぺったんこな胸に欲情していたのは何処のどいつだ?」

よほど胸のことを指摘されるのが嫌なのだろう。俺は朝の10時から現在に至るまで、合計8回に渡って起こしに来ていた。その間には一向に目を覚まそうとはしなかったエリーゼが、胸の膨らみを指摘された事で薄っすらと瞼を開いたのである。

「うるせぇよ、誰がお前の胸なんか見て欲情するか。この洗濯板」

「お前……、あとで死なす」

別室では既に到着したマシューがエリーゼが起きて来るのを待っている。かれこれ1時間は待たせているだろうか。依然としてニコニコと人当たりの良い笑顔を浮かべているが、その下には般若の如き面が構えている様に思えて仕方が無い。

「起きたなら早く着替えて行くぞ」

そう言って沙希が用意した服をベッドの上で横になったままのエリーゼへ投げつける。それは黒を貴重としたシンプルなデザインのワンピースであり、昨日に俺がエリーゼに着せたものと良く似ていた。アイツも無駄に気の聞く奴だった。

「俺は外で待ってるから、着替えたらすぐに出て来いよ」

「……すごく眠い」

寝惚け眼のまま、呆けた様子で此方をぼんやりと眺めているエリーゼは、放っておけばそのまま夕方まで眠ってしまいそうな勢いがあった。睡眠時間を考えればそれも仕方の無いことだろう。しかし、それよりも短い睡眠時間でありながら、俺はこうして活動しているのだ。甘えは許さない。なによりもこれは身から出た錆だ。

「二度寝するなよ?」

廊下へ出て部屋のドアを閉める間際に、室内を振り返って釘を指す。

「分かっている、いちいち五月蝿いぞ」

昨晩の時点では、午前中にマシューとの話し合いを終わらせて、午後から買い物に行こうと思っていた。だが、この調子では多少予定がずれ込みそうである。

パタンと音を立てて閉じられたドアに背を預けて、小さくため息をついた。こうして身の回りの世話を焼いていると、本当に自分がエリーゼの下僕になってしまったかの様な気分だった。

それから暫くして扉は開かれた。幸いなことに二度寝はしなかったらしい。再び眠ってしまう確率を五割程度として見積もっていたので、これは優秀な成績だとしておく。再度起こす手間が省けて助かった。

「そういや、昨晩の約束は覚えているよな?」

「……なんの話だ?」

空調の良く効いた涼しい廊下を、佐久間邸の応接室へ向かい並んで歩く。

「チェスの賭けだ」

今日の買い物を賭けた初戦を除いて、その後に行なわれた2回の勝負で、エリーゼはその全てに敗退した。なので、事前にした約束どおり、俺はコイツに好きな命令を下す事が出来るのだ。これは非常に美味しい権利である。

「………いちいち確認されなくとも分かっている」

「そうか? ならいいんだけどさ」

よほど悔しいのだろう。苦虫を噛み潰したような表情だった。

「言っておくが、次は絶対に負けんからな」

「お前、まだやるつもりなのか?」

「当然だ」

前々からそうだとは思っていたが、コイツも相当な負けず嫌いである。

階段を下ってドアを幾つか通り過ぎると応接室はある。この部屋と自室を、今日は朝起きてから今に至るまでに何回往復した事か。おかげでこの屋敷の構造に関しても理解が深まった。

「ここだ」

部屋のドアを開けると、そこには一人掛けのソファーに腰を下ろしたマシューの姿と、その脇で甲斐甲斐しくお茶の御代わりなんぞを注ぐ沙希の姿があった。思えば沙希は企業グループの総頭なのだから、わざわざ自分で客人の相手をする必要も無いように感じる。この屋敷には他に使用人の類は居ないのだろうか。

「やっと起きたよ」

そう言ってマシューとは背の低い応接テーブルを挟んで反対に置かれた三人掛けのソファーに腰を下ろす。すぐ隣にはエリーゼが座った。

「いえ、此方こそお眠りの所を起こしてしまい申し訳ありませんでした」

事前にアポを取っておいたにも関わらず、此方の一方的な都合で一時間以上に渡って待っていた男は、しかし、それでもエリーゼに対して深々と頭を下げて謝罪する。どれだけ姿勢が低いのだろうか。俺だったら皮肉の一つでも口にしているところだ。

「まったくだ、貴様のせいで私は寝不足だ」

しかも当の本人は反省する素振りなど全く見せず、むしろ偉そうだ。

「なんでマシューのせいなんだよ。全てはお前の負けず嫌いな性格が原因だろ? 少しは萎縮しろよ」

「ふん、そんなこと知ったことか」

両手両足を組んで、深く掛けたソファーに踏ん反り返るその姿は、相対する者の存在を馬鹿にしているとしか思えない。

「いえ、全ては考えの至らなかった私のせいです。申し訳ありませんでした」

何故にここまで卑屈になれるのか。まあ、仕事の一環として割り切ってしまっているのだろうが、見ているだけでストレスが溜まる光景である。

「それで、私に見せる物があるのだろう?」

「はい」

きっと昨日の話の続きだろう。エリーゼの問いかけを受けて、マシューは足元に置いた鞄から幾枚かの紙面と、2Lサイズの光沢紙にプリントされた写真を一枚、それにクリップで纏められた幾枚かのA4用紙を取り出した。

「こちらがエリーゼ様に処理して頂く者の情報になります」

どうやら本格的な依頼内容の確認は本日行なう手筈となっていた様だ。取り出された書類を一枚一枚ばらして机の上に並べていく。そして、全てをテーブルの上に並べ終えると、その中で唯一カラーでプリントされた紙面、エリーゼが討伐すべき対象を被写体とした写真を指差して、マシューは言葉を続けた。

「この者に見覚えはありますか?」

そこに写されていたのは、エリーゼと年頃も変わらぬ小さな女の子であった。この国では珍しく、腰下まで伸ばした金色の長髪が非常に特徴的だ。もしも、身に着けているのが古めかしいデザインの和服でなかったのならば、遠目にはエリーゼと見間違えてしまいそうな姿をしている。

ただ、写真の少女にはエリーゼと決定的に異なる箇所がひとつあった。お尻から生えた二本の尻尾である。その形と色からして狐のそれだと思われる。だとすると、この少女は狐の化け物なのだろうか。

撮影は望遠レンズを使用して行なわれたらしい。被写体は撮影者に気づいた様子も無い。提示された一枚は、田圃に囲まれた夕暮れの田舎道をテクテクと歩いている姿を横から撮影したものであった。写真からは表情を伺う事は出来ないが、こうして見る限りそれほど凶悪な化け物には思えない。むしろ可愛らしく感じる。

「初めても何も、この写真では顔も分からんだろうが。そもそも、貴様等は化け物を外見で分別するような馬鹿なのか?」

「いえ、一応確認させて頂いただけです。もし癇に障られましたら、申し訳ありませんでした」

小さく頭を垂れたマシューは、次いでテーブルの上に並べられた紙面の内、写真のすぐ隣に置かれた一枚を指差して説明を続ける。

「此方がこの者に対する我々の調査書です」

指し示されたA4サイズのコピー用紙には英字がびっしりと並び、俺には読むことが出来ない。憎たらしいことに調査書は英語で表記されていた。そんな紙面を前にして二人は話を続ける。仕方ないので黙ってその内容に耳を傾ける事にした。

「先程とは言い方を変えて再び同じ質問をさせて頂きますが、エリーゼ様は、妲己や華陽夫人、玉藻前といった名をご存知ですか?」

マシューの言葉を耳にして、エリーゼの眉がピクリと動いた。

「また、随分と古い話を持ってきたな」

妲己、華陽夫人、玉藻前の三名で共通するものは何か。それは俺にも容易に答えが分かる。いわゆる九尾の狐伝説だろう。一般的に九尾の狐とは、狐の化け物の種別の一つを指す言葉である。マシューの示した三者に関しては、その中でも特別に白面金毛九尾の狐として個体名が付けられている。

「ご存知でしたら話が早いです」

「まさか本物か?」

それまでマシューの話など全く興味なさそうにしていたエリーゼの態度が、ここへきて若干の変化を見せた。

「はい、その通りでございます」

相手の様子に満足したのか、マシューは首を縦に振って笑顔で頷いた。

「ほぉ……、それはまた面白い」

顎に手を当てたエリーゼは考えるように卓上に置かれた紙面に視線を落とす。

白面金毛九尾の狐といえば、インド、中国、日本と三国を跨いで悪さを続けた強力な妖怪である。というのがこの国での通説となっている。吸血鬼がこうして存在しているのだから、九尾の狐だって存在していてもなんら不思議は無い。けれど、それまで空想上の生き物だと教わってきた存在が現存することを前提とした会話を耳にしていると、どうしても足の浮いた気分になる。

「現在、その者は“静奈”と名を変えて日本に居ます」

幾つもの国を陥れた化け物が冠するにしては、随分と可愛らしい名前だった。

「例の那須岳という所にか?」

「はい。今はそちらに居ます」

この国に伝わる伝説を追うならば、インドから中国を経由して遥々やって来た白面金毛九尾の狐は、日本に渡った折に、鳥羽上皇が編成した8万にも及ぶ討伐部隊によって討たれ、その身を殺生石と呼ばれる大きな石に変化させたと伝えられている。それから、数百年に渡りその形を現世に留めていた殺生石は、室町時代の初期に玄翁和尚と呼ばれる人物によって砕かれたのだという。

そして、マシューの言う那須岳こそが、白面金毛九尾の狐が鳥羽上皇によって討たれた場所なのである。昨日、那須岳という場所について携帯電話のインターネット機能を利用して情報を集めていたところ、まず出会ったのがそんな昔話の顛末だった。現在では九尾の狐伝説を全面的に押し出した観光地として全国的に有名な場所らしい。まさかなぁ、などと思いながら今日を迎えたのだが、どうやら予想は見事に的中していた。

「我々は彼女を封じていた殺生石の一つが破壊されたと見て調査を進めています。それが偶発的なものなのか、それとも誰かの意図によるものなのかは現在調査中ですが、いずれにせよ現世に復帰したのは確かです」

「殺生石?」

「その者を封じていた石の名前です」

玄翁和尚によって砕かれた殺生石は無数の破片となって日本中に飛来したと言われている。その一つは那須岳にも残り、一般的にそれは砕かれた破片の中で一番大きなものであるとされている。観光地としての那須岳の目玉の一つでもある。

「現在、白面金毛九尾の狐は那須岳に残る殺生石を狙い、我々の仲間と攻防を繰り返しています。幸いにして封印の解かれた殺生石は大した規模のものではなかったらしく、当時と比較して、現在の彼女はその足元にも満たない能力しか保持しておりません」

「ならば私に縋らずとも貴様が討てばよかろう?」

「それが、如何せん此方も人手不足でして、彼女単体でしたら問題は無いのですが、群れを成したこの国の化け物達が彼女の援護に現れまして、戦況は苦しい状況にあるのです。このままですと、彼女に殺生石を奪取されるのも時間の問題です」

「ふん、自ら攻め込んでおきながら情けない話だな」

「まったくもって、その通りでございます」

「それで、今の話からして殺生石というのは複数あるのか?」

「はい。我々が確認しただけで国内に13個存在しています。彼女は自らを完全な状態へ戻す為に、それらの全てを手中に収めるべく動くでしょう。幸いにして開封された殺生石は一つだけですが、那須岳の殺生石は規模が大きい為、押さえられてしまうと今後の戦況がどのように動くかは予想もつきません」

「まったく、雅之のせいで随分と面倒な話に巻き込まれたものだ」

「お前なぁ、昨日は鬱憤を晴らすのに丁度いいとか言ってなかったか?」

「さぁな? そんな昔のこと忘れてしまったわ」

「ったく」

調子のいい奴だ。

「那須岳の他にも、幾つかの地域において殺生石を求める国内の化け物達が交戦に打って出ています。ですが、先に白面金毛九尾の狐さえ討ってしまえば、その価値も無くなります。最悪、殺生石が開封される度に新たな白面金毛九尾の狐が出現する可能性もありますが、それも一つ一つを順次開封、討伐と繰り返していけば大した脅威とは成り得ないと考えております」

「それを私にしろと?」

「何卒、どうかよろしくお願いします」

紙面の並べられたテーブルに頭を擦り付ける勢いで、マシューは頭を垂れた。もし、それが本当ならば、最悪エリーゼは全国13箇所を旅する事になる。付き合う分には構わないが、想像しただけで足の痛くなりそうな話だ。

「ところで、お前が私に頼みごとをするのは構わないが、その見返りとして私は何を貰えるんだ? 昨日は話をするのを忘れていたが、まさかタダで働けなどと寝惚けた事は言わぬよな?」

「そ、それは勿論、当然で御座います」

ギロリと睨みつけるようにして尋ねるエリーゼに、小さく身体を震わせたマシューが慌てて場を取り繕う。

「我が主が用意した品のリストです。どうかお目通しを」

そう言って新たに鞄から取り出した一枚のA4用紙をエリーゼに手渡す。チラリと見えた限りでは、そこに並んでいた文字列に関しても他と同様に英語であった。リストを受け取ったエリーゼは暫くそれに視線を落としていたが、ややあって顔を上げた。

「如何でしょうか?」

そう尋ねるマシューは、上司の顔色を伺う中間管理職の風体そのものだ。

「こんな下らない物で私を動かそうと?」

「あ、い、いえ。申し訳ありません。新しいリストを本国から送らせますので、どうか、どうかご助力をお願いします」

一体何が書いてあったのだろうか?

エリーゼは手にしたリストをぞんざいに投げ捨ててしまった。

「ふん、まあいい。どうせ貴様等の用意するものなど大したものではなかろう。ならば、事が済んだら貴様が私の相手をするというのはどうだ? それならば、この件は受けてやろう」

「そ、それは……」

エリーゼの相手をするということは、その先にある結末は一つしかない。一度は頷いておきながら、この状況でそんな交換条件を出すなどと、どれだけ歪んだ性格をしているのか。その顔には、正直、隣に居る俺も思わず引いてしまう程の惨酷な笑みが浮かべられていた。

「嫌か? ならばこの話も無かった事にしようか」

そう言って早々に席を立つ。

「お、おい」

その腕を掴もうとして、俺は反射的に手を伸ばす。これで引き止めたとしても、コイツの意向を容易に曲げられるとは思わない。だが、流石に今のは無いと思う。しかし、指が服の生地に触れる前にあって、エリーゼの歩みはマシューの発言によって阻まれた。

「分かりました。……そういうことでしたら、謹んでお相手させて頂きます」

喉の奥に力の込められた、妙に低い声であった。

「ほう、それでいいのか?」

「はい、その条件でよろしくお願いします」

何か策でもあるのだろうか。いくら所属する組織のためとは言え、自分の命を捧げるような真似をする奴には見えない。

「よかろう。ならばこの件は受けてやる」

「ありがとうございます」

そして、この期に及んでもマシューは馬鹿丁寧に頭を下げて見せる。

「先に言っておくが、この私から逃げられるとは思うなよ?」

「承知しております」

そんなやり取りを前にして、掛ける言葉も思い浮かばずに、俺は二人の様子を黙って眺めていた。考えてみれば、今回は俺が直接被害を受ける訳でもないのだから、特に躍起になることは無いのだ。それに、これ以上マシューに肩入れして、昨日の様な苦汁を舐める羽目になるのは二度と御免である。

「それでは、話を続けさせていただきます」

「ああ、好きにしろ」

それから、マシューは静奈と呼ばれる化け物と、殺生石、那須岳に関する詳細な説明に入った。一方のエリーゼはと言えば、討伐対象に対する興味はあれど、それ以降のマシューの説明には退屈そうな表情を浮かべて、ツラツラと流れる言葉を右から左へと聞き流していた。むしろ、俺の方が熱心に聴いていた気がする。

マシューが家を訪ねてきたのは午前10時頃の出来事であったが、エリーゼの起床が11時を回ってからであった為に、二人の話し合いが終わったのは正午を回り、午後の1時近くになってからであった。

そして、昼食を食べていかないか、という沙希の申し出に対して、エリーゼの睨みを背後に感じたマシューが足早に屋敷を後にしたことで、とりあえず、今後の打ち合わせに関しては一段落着いた。

そんな訳で、午後の買い物はそれから昼食を経て、午後の3時を回ってからの出発となった。

「他人の金だと思う存分使えて気持ちが良いな」

「これくらい当然だ」

夏の太陽も徐々に高度を落とし始めた夕暮れ時の午後7時、妙な充実感を持って俺は両手に下げられた幾つもの紙袋に視線を落とした。そこにはマシューが用意したカードを利用して購入した品々が、エリーゼの衣類を筆頭として雑多に詰まっている。

「他に何か買うものはあるか?」

昼の打ち合わせのときに知ったのだが、今回の旅行に際しては、一切の勘定はマシューの所属する組織が受け持ってくれるのだという。だから、下準備から旅費、現地での買い食いに至るまで、俺の財布は全く痛みの目を見ずに済む事となった。

なので、今日の買い物は普段から溜まっていた鬱憤を晴らすかの如く、街のデパートや商店街を舞台として、要る物から要らないものまで目に着く物の全てを買い倒してやった。その充実感といったら、庶民の生活しか知らない凡人には他に代えがたいものである。

「私はもう十分だ。それよりも腹が減った、食事にしないか?」

「夕食か……、何処に入るかな」

大手デパートを後にして、今は繁華街を特に当ても無くブラブラと歩いている。近くにはそれこそ数え切れないほどの飲食店が軒を連ねているが、いざ入ろうとすると、選択肢が多い分だけ逆に悩むものだ。

「何か食いたいものってあるか?」

「お前の財布では無いのだから、普段は食べられないようなものを食えばよかろう?」

「それもそうだな」

マシューから借りたカードは、あろう事がアメリカの某有名企業が発行するブラックカードであった。上限は無いらしい。使いたいだけ使ってくれて構わないというお達しも貰ってある。

「じゃあ、寿司でも食べに行くか?」

「寿司か……、随分と久しぶりだな」

「食べた事あるのか?」

「きっと、お前の言う寿司とは全くの別物だろうが、その名を冠する食品は口にしたことがある。あまり思い出したいものでもないが、とにかく匂いのきつい食べ物だったな、あれは」

エリーゼの言う「随分と久しぶり」とは、時間にして数百年以上の期間を指すのだろう。そうなると、その間に寿司という料理も源泉とは全く趣の異なったものへと変化してきたに違いない。そんな何気ない一言で、二人の間に横たわる歴史の違いに、妙な感慨を抱いてしまった。

「じゃあ止めとくか?」

「別構わん。少なくともテレビで見た寿司は美味そうだったしな」

「んじゃ行こう」

「ああ」

とはいえ、寿司屋なんぞそう滅多に行く訳もないので知った店も無く、加えて目に付く店はどれもこれも大衆向けの寿司レストランとでも称すべきチェーン店や、小さな個人経営の店舗ばかりであった。それから、とにかく高そうな寿司屋を探して街を彷徨うこと30分も過ごせば、日も暮れて夜の態が見え隠れし始めた。

いい加減に痺れを切らしたエリーゼが非難の声を上げ始める。

「お前はどこまで行くつもりだ?」

「あー……、何処だろ。案外無いもんだな、高級店って」

「もしかして、何の考えも無く歩いていたのか?」

「……悪い」

素直に謝ると、隣からは無言で痛い視線が送られてきた。

「あれだ、次に見えた店に入ろう。それならいいだろ? どうせカードは旅行中にだって使えるんだし」

「まったく、お前は本当に甲斐性の無い男だな。呆れてものも言えん」

「だから、悪かったよ」

「まあいい、次の店に入るんだな?」

「ああ」

どうにも最近は失態続きだ。少しはカッコいいところを見せて、相手を見返してやりたいという欲望もあるのだが、それも今の状況からは、果てし無く遠いゴールに思えて仕方が無い。

そして、そんな俺の不甲斐なさは、今日という一日に思いも寄らぬ結末を生む事となった。発端は赤い縦ロールの髪が印象的な少女、昨晩に自宅マンションで別れたままとなっていたローザ・ビルケンシュトックである。