金髪ロリツンデレラノベ 第三巻

第四話

「伏せろ雅之っ!」

突然、エリーゼが俺の腕を強く引っ張って叫んだ。

場所は交通量も多い国道沿いの歩道である。

周囲には帰宅途中のサラリーマンやOL、これから夜遊びに行くのであろう若者達のグループ、制服姿で道端に座り込んだ女子学生等々、人の姿も多い。そんな状況下でまさかのハプニングだった。

肩が外れたかと思う程の衝撃を受けて、俺はアスファルトに強く両膝を打ちつけた。目頭に熱いものがジワリと湧き出てきたのを感じて、反射的に非難の声を上げようとした。すると、つい先ほどまで俺の首があった辺りを何かが甲高い風切り音を立てて通り過ぎて行ったではないか。

「な、なんだよっ!?」

また、このパターンなのかっ!?

一昨日、昨日と続いて、今日は何が起こるというのだ。

最近になって段々と慣れ始めた展開に、ウンザリしながら顔を上げる。

「私は今夜このときの巡り会わせを決して忘れる事はないでしょう」

「また貴様か。飽きない奴だな」

俺の腕を解放したエリーゼが、背後を振り返りざまに口を開く。それに習って俺も回れ右だ。すると、視線の先には良く見覚えのある人物が、此方を見つめて立っていた。縦巻きの赤髪が麗しい六畳一間の貧乏少女、ローザ・ビルケンシュトックである。

「時は満ちました。今日が貴方の嘆きの日となりましょう事を私は宣言致しますわ」

「ついに頭が狂ったか?」

「貴方は私に敗北します」

大勢の観衆の下にありながら、それをなんら気にした様子も無い。人差し指をエリーゼに対してビシリと向けて、凛とした声で言い放つ。あまりに堂々とした振る舞いは、まるで映画のワンシーンのようであった。

周囲の者達も同様に感じたのだろうか。他人同士の言い争いなんぞ、特に目を向けるような出来事でも無くなった都会にありながら、それまで路を通り過ぎるだけであった大衆が騒ぎを聞きつけて周囲に輪を作るように集まってきた。その原因は十中八九、エリーゼとローザの容姿が群を抜いたものであるからであろう。ドラマの撮影? 可愛いくない?、外人じゃん、等々、周囲からは個々人が漏らす思い思いの感想と、好奇の視線が向けられてくる。

「おいエリーゼ、ちょっとここは人が多いから……」

「分かっている」

流石にこのような大衆の面前で普段どおり暴れられては、フォローを入れるにしても限界がある。エリーゼも今回の件で、現代にあってはそれが端的なものであったとしても、人目につくことが面倒事に繋がっているのだと理解したらしい。素直に応じてくれた。

「行くぞ」

「あ、ああ」

二の腕をガシっと握られる。

そして、頷いた次の瞬間には、視界は光化学スモッグに霞む都会の星空を一面に捉えていた。足元に感じる浮遊感は空を飛んでいる証である。高度は丁度高層ビルの屋上を掠るかどうか、といった程度だ。握られた右腕には激しい痛みを感じるが、それもすぐに治るのだからと自分に言い聞かせて今は我慢しておく。

「逃がしませんわよっ!」

もちろん、相手もそう容易に逃がしてはくれないようだ。空を飛ぶという芸当は化け物達の間ではスタンダードな技術であるらしい。ローザもまた、エリーゼと同様に空を翔けて駆けて追いかけてくる。

もしかしたら、俺もいつの日か飛べるようになるのだろうか? そうなのだとしら、魔力云々に関して、エリーゼを師に学んでみるのも悪くは無いかもしれない。空を颯爽と駆るは、男だったら一度は夢見るシチュエーションだろう。

「そこの山へ降りるぞ」

かなりの速度を保持して飛翔していることで轟々と耳に届く風音に混じって、掴まれた腕の先から声が届いた。風圧に逆らい進行方向へ視線を向けると、そこには隣接市との境にある小さな山があった。

俺が着地の態勢を整えているかどうかもお構い無しである。エリーゼは小山の頂上付近に敷かれた片側一斜線の細い道路へ着陸する。なんとか両足を地面について一息ついた頃には、エリーゼに掴まれていたことで出来た腕の痣も治癒された後だった。素晴らしきは吸血鬼の治癒能力だろう。

「あら、鬼ごっこ終わりですの?」

数秒遅れて、俺とエリーゼの後方数十メートルの位置にローザが着地する。

「いつからお前が鬼になったんだ?」

声の主を振り返ったエリーゼは、腕組をしてぶっきら棒に言い放つ。夜の8時を前にして、既に太陽も沈んだ山中にあっては、十数メートル先に設置された外灯の他に光源も無く視界は非常に悪い。

「貴方が私の家族を殺した時からですわ」

加えて今日は新月である。

二人が相対している場所は道路のど真ん中だ。幸いな事に場所が山道の、それも山頂付近であるので交通量は低く、今はヘッドライトの灯りも見当たらないし、エンジン音も聞こえてこない。しかし、それも何時まで続くか分からないのだから、現代法規に慣れ親しんだ者としては、気が気でない状況だ。

「さぁ、今夜こそ復讐を成就させてみせますわよ」

エリーゼにとっては余裕の相手かもしれないが、過去二回に渡って殺されかけた俺としては、できるだけ早く片付けて頂きたいと切に願う。

「私は腹が減っているんだ、かかって来るならば早く来い」

「ええ、そうさせて頂きますわ」

そして、戦いの火蓋は気って落とされた。

先に仕掛けたのはローザである。アスファルトを蹴って駆け出した勢いをそのままに、硬く握った拳を相手の顔めがけて振り下ろした。初手で俺を狙わなかった辺り、正々堂々とエリーゼを打倒するつもりでいるらしい。一昨日にアーケードでやり合った時のことを忘れてしまったのだろうか。それとも何か策でも用意してきたのか。

「なっ!?」

そんなことを疑問に思っていると、迫るローザの姿を目の当たりにしたエリーゼの瞳が、驚愕に見開かれたのが目に入った。次いで、余裕を持って避けるなり受け止めるなりすると思っていた相手の拳が、見事にエリーゼの頬に打ち付けられたのである。

「お、おいっ!」

これは予想外の展開だった。

勢いのついた小さな体は数メートルの高さで宙を舞った。だが、放物線を描いて落下する際には、地面に激突する寸前の所で猫のように体勢を整えて両足からスタッと地面に着地した。

「貴様……、本当に同一人物か?」

「勿論ですわ」

殴られた事に対する憎しみや怒りよりも、エリーゼの顔に浮かんでいるのは純粋な驚きであった。つい先日は足元にも及ばなかった相手が自らを殴り飛ばしたという事実が、コイツの中にある既成観念を大きく崩してくれたのだろう。

「ならばこの力はなんだというのだ」

殴られた頬は、その瞬間には頭蓋骨すら歪んでいた様に見えたが、それも文字通り瞬く間に治癒され、今は口の端から垂れた血の跡だけが残っている。俺の治癒能力と比べて、エリーゼのそれは段違いに高性能だ。

「今日は新月、私が本領を発揮できる時ですわ」

ローザは両手を広げて夜空を仰ぐ。標高自体は大したことないが、それでも埃と騒音に塗れた街中と比較して山中は空気も綺麗だ。そこから眺める星空は幾分か鮮明さを増して感じられた。

「新月だと? それに何の関係があるというのだ」

「自分でも詳しくは分からりませんが、私の力は新月の日の一夜に限り、普段の数十倍に増幅されますの。賢い貴方ならば、それが一体何を指しているのか、容易に理解できるのではなくて?」

「ほぉ……」

語るローザは自信に満ちた顔でエリーゼを見つめる。

「それが貴様の策か?」

「その通りですわ」

それまでの驚愕は何処へ行ったのか、エリーゼの表情に再び余裕の笑みが戻った。

「その程度のことで私に勝ったつもりとは、貴様も随分とめでたい頭をしているな?」

「そう焦らずとも、すぐに理解させて差し上げますわ」

二人ともやる気満々だった。

「この私の頬に拳を入れたのだ、五体満足で明日の日を拝めると思うなよ」

「元より吸血鬼の私には朝日など拝む価値も無いものですわ」

「上等だ」

初手を交わした際のいい加減な対応はいつの間にか消えていた。特に身構えることはしないが、相手に対して真面目に向き直る。その顔には薄っすらと笑みが浮かんでいた。喧嘩を楽しんでいるのは明らかである。

ところで、一昨日の数十倍だというローザだが、それが一体どの程度の力なのだろうか。俺には皆目見当もつかない。大丈夫だとは思いたいが、先ほども頬を殴られていたし、万が一ということもある。エリーゼが心配だった。

「死ねっ!」

今度はエリーゼが先に動いた。

繰り出された右の拳が相手の顔を目掛けて伸びる。一昨日のローザであったのならば、その一撃でことは済んでいただろう。しかし、残念ながらそれは相手の頬を掠るだけで終わった。

それどころか、放たれた拳を半身逸らして交わしたローザは、伸びてきたエリーゼの腕を左腕で絡め取ってみせた。そして、空いたもう一方の右腕で攻撃に転じた。これは幾らなんでも避ける事は出来ない。そう感じた。ローザによって片腕を取られたエリーゼは動く事が出来ないのだ。

だが、エリーゼもエリーゼで半端無い事をやってくれた。

相手の拳が腹部に迫る中、左の手刀で自らの右腕の肩から先を切り落として身体の自由を取り戻す。間髪置かずに地を蹴って真上よりやや前方に向い跳躍した。それにより迫った攻撃を交わしつつ、頭上を越え敵の背面に向けて移動したのである。更に、宙へ飛び上がって敵の攻撃を避ける過程で、切り飛ばした右腕を一瞬のうちに蘇生させ、無防備となったローザの首を掴む。そして、前方宙返りをしながら、掴んだ相手の身体を思い切り地面に叩きつけたのである。

「っ!?」

背中をアスファルトへ強打したローザが口から赤黒い液体を吐き出す。

幾ら化け物とはいえ、ここまで来ると開いた口が塞がらない。これならば、まだ目からビームを出したり、口から火炎放射を吐いたりしていてくれた方が親近感も湧くというものだ。何よりも納得がいかないのは、自分が空中に居ながら地上に立つローザの身体を持ち上げて見せたことだ。古典物理学に喧嘩を売っているとしか思えない。

「なかなかやるようだが、それもこの程度か?」

エリーゼはこの戦いを楽しんでいる節がある

明らかに相手を挑発している声色が聞こえてきた。

「まだまだですわ……」

エリーゼとローザが殴り合いをしている場所から俺の立っている場所までは、おおよそ十数メートル程度の距離がある。これだけ離れていれば巻き添えを喰らうことは無いと思うが、万が一に備えて常に逃げ出せる体勢は保持していたりする。

「この程度では、私は倒せませんわよ」

大の字になって仰向けに横たわっていたローザだが、それも僅かな間である。エリーゼの声を耳にしてすぐさま起き上がった。どうやら、打たれ強さに関しても大幅に向上しているらしい。

「貴方こそ、そこに転がっている無様なモノはなんですの?」

「ふん、貴様も口だけは達者なようだな」

アスファルトの上に落ちていたエリーゼの腕が灰となって霧散する。

両者は共に見えない炎で背を彩りながら、数メートルの距離を置いて睨み合う。今の様子を見た限りでは、正直、どちらが優勢なのか全く分からない。ただ、魔力が正常な状態にあるエリーゼが、自分の腕を諦めなければならないような事態に発展したのは今回が初めてのことだ。

「おい、大丈夫かっ!?」

だからだろう。どうしようもない不安を感じてしまうのは。

「お前は黙ってそこで見ていろ。先に言っておくが、万が一にでも割り込んで来ようものなら、その時はどうなっても知らんからな」

「わ、分かってるよっ」

そんな危ない真似を誰がするというのだ。

「余所見している暇はありませんことよ」

「安心しろ、その程度で貴様に劣ることは無い」

「それは行動で示して頂きますわ」

そして、再びエリーゼとローザの衝突が始まる。

当初はエリーゼに若干の分があるように見えた争いであった。だが、これという決定打を決める事が出来ずに戦いが続いてくると、徐々にローザが巻き返してきた。始めはすぐに終わるだろうと思っていたのだが、現状として、共に相手を沈めるだけの一撃を当てることが出来ずに、均衡した戦いが延々と続いている。

時折飛び散る血液や肉片が路上を赤黒く染めていく様を、俺は心臓を高鳴らせながら見守るしかなかった。エリーゼが負けたら死ぬのは俺だというのに、どうしてなのか、自身の心配は全くと言って良いほど、脳裏に浮かぶ事はなかった。

二人は共に吸血鬼ということで、外傷は出来てもすぐに治癒される。見掛け上は傷の一つも見当たらない。おかげで、どちらがどれだけ疲弊しているのかも知ることが叶わずに、不安は積もるばかりだった。

それから、争いは開始から数分を経てもなお続けられた。数分というと短いようにも感じられるが、その間の運動量を考慮すれば、二人にかかっている負荷は相当なものだろう。下手な格闘ゲームよりも凄いことになっているのだ。山の土をせき止めていたコンクリート製の分厚い壁はエリーゼの放った光球により大きく抉られている。道路のアスファルトは至る所がローザが呼び出した炎の柱によって黒く焦げ付いている。周囲の木々は葉を散らし、根元から折れてしまった樹木も数知れない。全てを修繕しようとすれば、相当額の税金を投資する必要があるだろう。県民として頭の痛い話だった。

だが、そんな傍迷惑な喧嘩にも終止符の打たれる時が来た。

終わりを運んできたのは、暗闇に慣れてしまった眼に眩く差し込む強烈な照明と、耳障りな低音を響かせる排気音である。あまりに激しい戦いを前にして、俺は二人が争う場が車道にあることを失念していた。

そして、遠方より迫る排気音に気づいた頃には既に遅かった。

「エリーゼッ!!」

まさか、車に轢かれてくたばるような柔な作りはしていないだろう。しかし、能力の均衡する相手と対峙しているこの状況では、些細な出来事でさえ脅威となりうる。そして、現代の交通事情に対する知識が甘かった為か、それとも、ローザとの勝負に集中していた為なのか。俺の声が届いた時には、既に車のヘッドライトは二人の姿を捉えていた。

「っ!?」

「なっ!?」

迫る車は相当な速度で走行していた。

もし、その車が制限速度を守っていたのならば、二人にも避けるだけの余裕があったかもしれない。けれど、明らかに峠を攻めるために来ました、と言わんばかりの派手な改造が施されたスポーツカーは、無駄に華麗なテクニックを駆使してコーナーを曲がり出現したのである。

そして、車体は瞬く間に距離を詰め、ブレーキを満足にかける暇も無く、路上で争う二人のもとへ突っ込んでいった。

次いで、聞こえてきたのは鈍い衝撃音である。

「だ、大丈夫かっ!?」

反射的に叫んでは見たものの、エリーゼとローザは衝突の衝撃により俺の視界から一瞬にして、道を外れた山中の闇へ消え去っていた。また、二人を撥ねた車は勢いを殺すことなく、途中でバランスを崩しながらも道を走り去っていった。

道路のガードレールを飛び越えた俺は、ファミリーとなった相手の位置が分かる、という吸血鬼の特殊能力に従ってエリーゼのもとへ駆ける。一歩道から離れてしまうと、そこは外灯の光も届かない真っ暗闇である。加えて、縦横無尽に茂った木々が行く手を遮り、手前1メートル程度の視界さえ満足に確保できない状況だった。もし、この特殊能力が無ければ、きっとエリーゼの下にたどり着くことは不可能であっただろう。視覚ではなく脳裏に浮かぶイメージだけを頼りに、邪魔な枝をなぎ払いつつ足を急がせた。

探索対象が一定の場所に留まり続けていたおかげで、そこには数分とかかることなく辿り着いた。流石に車に撥ねられた程度では数百メートルと吹っ飛ぶようなことも無い。チクチクと肌を刺す枝と、太陽が沈んでも依然として下がらない気温に不快感を感じながら、何度と無く木の枝を払いのける作業を繰り返した末に、エリーゼは居た。

「お、おい、大丈夫かっ!?」

だが、その姿は此方の予想に反して弱々しく、木の幹に身体を預けて座り込んでいた。

まさか車に轢かれた程度で重症を負ったのか?

慌てて駆け寄る。

「その声は雅之か」

「ああ、俺だよ」

腕を伸ばせば触れられる位置まで近づいて気がついた。

エリーゼは両目を大きく抉られていた。

「ど、どうしたんだよっ!? まさか車に轢かれたからかっ!?」

「やかましい、でかい声を出すな」

普段ならば、どんな怪我でも一瞬にして治してしまうエリーゼが、これほどまでの深手を放置するなど考えられない。両目を通る線上に大きな裂傷があり、その深さは鼻の骨を砕いて頭蓋骨の内部を晒すほどのものであった。

「あの馬鹿……、なかなかやってくれるじゃないか」

「それ、治せないのか?」

暗がりだからこそ辛うじて視線を向けていられる。だが、これが陽光の下であったのなら、反射的に嘔吐してしまってもおかしくない程に、エリーゼの顔面はグロテスクなものと成れ果てていた。相手がエリーゼでなければ直ぐにでも顔を背けていただろう。

「考え事をしていて隙を突かれた、しばらく時間がかかるだろう」

「考え事?」

「別に大したことではない」

一応、現在治療中を示す白い煙は上がっているが、それまでの自然治癒の効率を考えると酷く頼りない。きっと、車に撥ねられた際に、ローザとの間で何かしらの応酬があったのだろう。憎むべきは法廷速度を守らずに突っ込んできたスポーツカーか。

「お前は反対するかもしれないけど、今は逃げるぞ」

幸いにして周囲は視界ゼロの森だ。

互いにファミリーで無い限り、容易に見つかる事は無いだろう。

「………好きにしろ」

不満そうに口元を歪ませたエリーゼを両手で抱え上げる。

「お、おいっ」

「目が見えないんだろ? 抱えてくぞ」

流石のエリーゼも視力を失った状態で満足に戦う事は不可能だと理解しているのだろう。抱き上げた小さな身体は、特にこれと言って抗うことは無かった。膝の下と背に手を回して、俗に言うお姫様抱っこの形だ。

「しかし、このような屈辱は久しぶりだ」

血液で真っ赤に染まった顔面に指を這わせながらポツリと呟く。

「お前でも負けるときがあるんだな」

これは皮肉でも何でもなく、本心からの純粋な感想である。

「やかましい、別に負けたわけではない」

「じゃあ、今は引き分けって事にしておいてやるよ」

「……勝手にしろ」

目が無いのに器用にそっぽを向いて拗ねるエリーゼ。まあ、これだけ喋れる元気があるのだ、それほど大事という訳でも無いだろう。外傷は酷いが、致命傷でなくて本当に良かった。それまで激しく脈を打っていた心臓の鼓動がようやく落ち着いてきたのを感じる。

そして、エリーゼの安否を確認したのならば、次に気になるのはローザのことだ。まさか、コイツがやられっぱなしということは無いと思う。あっちもあっちで大なり小なり負傷していることだろう。というか、それを切に期待する。出来る事なら俺達がこの山を脱するまでは大人しくしていて欲しいものだ。

「よし、それじゃ動くぞ。少し揺れるから傷に障るかもしれないけど、我慢しろよ」

もしかしたら、此方のすぐ傍にいる可能性もある。俺は出来る限り音を立てないよう気を使いながら、木々の茂る山の傾斜を下に向かい進んだ。

山を抜けるにはかなりの時間がかかった。

その最もな原因は、途中でローザと鉢合わせするのを避ける為に、舗装された道路を一切い利用せず、茂る木々の間を縫って移動した為である。街でローザと出会ったのが夜の8時頃だが、山を下り周囲に家々が見える始めた現在の時刻は、既に夜の11時を回っている。俺だって腐っても吸血鬼なので、多少の擦り傷や切り傷を覚悟すれば、森の中だろうと何だろうと遠慮なく駆けることも可能である。しかし、腕に抱いたエリーゼのことを考えると、それも憚られたのだった。

「とりあえず、沙希の家に行くか」

車通りも殆ど無い閑散とした夜の県道を眺めつつ、他に当ても無くそう呟いた。

「ああ」

エリーゼが顔に受けた怪我は下山の過程で治癒が完了している。コイツの事だから、傷が癒えたのならすぐにでも報復へ向かうかと思っていた。だが、思いのほか素直な返事が返ってきたことに、俺は少々驚いて疑問の言葉を返した。

「ローザへ仕返しに行かなくていいのか?」

「別に構わん」

「………本気か?」

これはエリーゼらしからぬ発言である。

「両手両足を飛ばしてやったから、きっと、今頃は山の中を土にまみれて這いずり回っていることだろう。どの程度ダメージを与えたのかは分からんが、しばらくは動けん筈だ。仮に日が昇るまでに治らなかったのならば、そのまま勝手にくたばるだろう。そうでなくとも、わざわざ山へ戻って探すのも面倒だ」

「そ、そうか……」

一応、やるだけのことはやって来たという訳か。それでも、治癒に時間を必要とする様な怪我を負わされて、それでいて、その相手に固執することなく、ここまで平然としているのには解せないものを感じてしまう。普段のコイツだったならば、山ごと相手を消し飛ばすと言い出してもおかしくないと思うのだが。その辺はどうなのだろうか?

「それよりも、そろそろ降ろせ」

「ん、ああ、そういえば抱いたままだったな」

言われて初めて自分がエリーゼを抱きかかえていた理由を思い出した。

「まあ、どうしても抱いていたいというのならば、家まで抱かせてやっても構わんがな。お前が初めて自発的に下僕らしい仕事をしている訳だし、その意見は尊重してやらんでもない」

「うるせぇよ」

コイツは他人に対して満足に労いの言葉を向ける事も出来ないのか。

横暴な我がご主人様の願いどおり、その身体を支える両腕を何の前置きも無く離した。勿論、腰を屈める事などせずに、相手を地面に落とすつもりで、抱え上げた高さのままである。

しかし、そこは流石の反射神経で両足からアスファルトの上に小気味良い音を立てて着地する。そうなることを見越しての対応であったが、それが予想通りの結果であったとしても、多少は憎たらしいものがある。

「主に対するものとは思えん、随分とぞんざいな扱いだな?」

「だったら、せめてもう少し可愛らしく振舞えないのか? その外見は詐欺だぞ」

「お前に可愛がられたりなどとは、想像するだけで身の毛も弥立つな」

「そういう意味じゃねぇよ」

山に面した国道沿いには、既に営業を終えたパチンコ屋や飲食店といった建物が静かに点在している。昼ならば多少は車通りもあるであろうが、夜の11時を回った今では、数分に一度の頻度で時折通り過ぎる車の他に、動いているものは何も無い。普段どおりの音量で会話をしている筈だが、その声は妙に辺りに響いて聞こえた。

「ところで、ローザはどうするんだ? 報復云々は無しにしても、放っておけばまたお前が狙われることになるんだろ?」

俺はあの少女がそう簡単にくたばるとは思えない。特殊な環境下にあったとはいえ、エリーゼと渡り合っていたのは事実だ。それに、両親と弟を殺されたという過去に対する執着には尋常でないものを感じる。

「別に放っておけばよかろう?」

「いや、でもさ……」

「確かに新月の間は厄介だが、それも月に一度だ。さして問題もあるまい? むしろ日頃の鬱憤を晴らすには丁度良い相手だ。しかも、その時になったら相手から此方を探しに来てくれるサービス付きときたもんだ」

エリーゼにとっては脅威足りえない相手かもしれない。しかし、俺にとってのローザとは命を狙ってくる天敵である。しかも、どんなに抗おうとも絶対に叶わないのだ。これが落ち着いていられる筈が無い。

「まあ……、お前はそうかもしれないけど……」

笑顔で語るエリーゼは、間違いなく此方の心中を読んだ上で語っている。

「そんなにあの娘が怖いか?」

「こ、怖くて悪いかよ?」

何時如何なるときに襲われるのか、そんなことを思いながらの生活は凄まじいストレスとなるに違いない。肉体的な傷は吸血鬼の能力によって癒す事が出来るが、精神的な脆弱性はそうもいかない。」

「フフン、無様だな」

その口元がニタァと厭らしい笑みを浮かべる。

「しょうがないだろ!」

絶対に敵わない相手から命を狙われていて、平然として居られる筈が無い。

「ならば、朝から晩まで私にしがみ付いて生活するのだな。少なくとも、その間はお前に矛先が向く事はあるまい?」

「おいおい、そんなの冗談じゃないぞ」

たしかに、エリーゼと共に居ればローザも容易には襲って来れまい。仮にチャンスがあったとしても一ヶ月に一回だ。とはいえ、それでは学校にだって行けやしないではないか。今は夏休みだから良いが、それもあと数週間の間である。

しかし、そんな俺の幼稚な反論は、その後に続けた言葉によって完膚なきまでに叩きのめされた。

「お前は何か勘違いしている様だが、そもそも、この種を蒔いたのはお前自身なのだということを忘れたのか? 私にはお前を突き放す権利はあっても、守ってやる義務など一片もないんだからな?」

「そ、それは……」

エリーゼの言葉に、ローザの家での出来事が思い出される。

「それが嫌なら、お前があの娘より強くなればよかろう?」

「無茶言うなよ……」

コイツに怪我を負わせるような相手より更に強くなるだなんて、どれだけ先の長い話だろう。あのときのエリーゼが本気であったかどうかは定かではない。けれど、それにしたって、新月でない状況でも手も足も出ないのだから、明らかに現実的でない。

けれど、そんな俺の返答にエリーゼは妙に冷たい態度で言葉を返してきた。

「それがお前の悪い癖だな」

それまでの人を嘲笑うかのような様子とは異なり、一転して攻撃的な眼差しである。

「………何がだよ?」

今の言葉がそれほど癇に触れたと言うのか。

「お前が通う学校とやらでは、向上心の無い奴は馬鹿だと教えないのか?」

それはどこかで耳にしたような一句である。

「だからって、明らかに無駄だと分かっていることに労力を割くのは、向上心の有無の前の問題だろ? それこそ馬鹿のやることだよ」

「ほぉ……」

そして、つい反射的に返した軽口にエリーゼの瞳が鋭く細められる。

「な、なんだよ」

背筋に薄ら寒いものを感じて、思わず一歩後ずさった。

「やはり、どうもお前は自分が置かれた立ち位置というものを理解していないようだな」 「だから何の話だよ」

コイツが何を言いたいのかサッパリ分からない。

俺が置かれた状況とは、ローザに命を狙われている状況を指しての事か、それとも、こうしてエリーゼに意見をしている状況を指しての事か。いずれにせよ自分ではそのどちらの状況も重々理解しているつもりだ。

「私は少々お前を甘やかし過ぎたのかもしれん……」

「はぁ?」

なんて笑えない冗談だろう。むしろその台詞は俺が言うべきではないか?

「俺がいつお前に甘えたって?」

「そんな寝惚けたことを口にしているのが何よりの証拠だ。こんな簡単な事も理解できないとは、本当に救い様の無い馬鹿だな。私が常日頃から口をすっぱくして言っていたことの意味を、お前は理解していなかったのか?」

「だから、それがどういうことなのかを聞いてるんだよ」

何故にこうまで無駄に含みを持たせているのだろうか。

「これも良い機会だ、お前には一つ身を持って教えてやろう」

「な、なんだよっ!?」

身を持って、という部分に果てし無い危機感を覚えた俺は、反射的にその場を飛び退き距離を取っていた。

「多少の期待はあったのだが、所詮、全ては馬鹿の延長線上であったのだな」

スッと右腕が地面と平行に上げられる。

同時に何やらブツブツと呟き始めた。僅かに耳に届く言葉は、それが人間が理解できる言語により成っているのかどうかも怪しい。いわゆる呪文の類であろう。エリーゼの呟きに応じて、上げられた腕の周囲には紫色の淡い光がゆらゆらと纏わり始める。

「おい……、何するつもりだよ……」

俺は逃げる事も出来ずに、気づけばパブロフの犬の如き条件反射で身を硬くして背を丸めていた。同じ屋根の下で生活しているうちに、いつの間にか、そんな情けない癖がついてしまったのだ。ファミリーであるからこそ、コイツからは逃げられないのである。こうしてみると、まるで真性のマゾヒストにでも成ってしまった様な気がして涙が出てくる。

しかし、予期する衝撃が俺を襲う事は無かった。

「おやおや、仲間割れですかな?」

しわがれた声が二人の合間を縫って聞こえてきたからである。

「また貴様か……」

エリーゼの視線が道路を挟んで反対側の歩道へ向けられる。そこにはここ一週間の間で幾回か顔を合わた老人の姿があった。ローザの家に押しかけてきたり、俺の家のリビングを滅茶苦茶にしてくれたりと、派手に好き勝手暴れてくれた爺さんだ。

「……まだ生きてたのか、この爺さん」

てっきりエリーゼが倒したものだとばかり思っていたが、そうではなかったらしい。

「ちっ……」

話に水を差されたエリーゼが不機嫌そうな表情になる。

「逃げ足ばかり速い爺が」

「褒めても何もやらんぞぉ?」

人を舐め腐った態度である。

日中であったのならば喧騒に飲まれてしまうであろうその声も、深夜では車道を二車線挟んだ距離にあって良く届いた。そして、爺さんを先頭としてズラリと群れを成して見えるのは、なにやら物騒な姿をした化け物達である。半分は人の形を保っているが、もう半分はゲームや漫画の中に登場する化け物のそれである。しかも、その数が半端で無い。ざっと眺めただけでも4,50体は居るだろう。

「今し方山のモノの知らせを聞いてな、手近に居た者達を集めて急ぎ足で来たんじゃが、どうやら大当たりじゃっのぉ。まさか、こうもすんなり見つけることが出切るとは思わなんだ」

「わざわざ死にに来るとはご苦労な奴等だ」

「なぁに、やってみなければ分からんだろう?」

長く伸びた顎鬚を撫でながら小さく笑ってみせる。

「いいだろう。丁度鬱憤が溜まっていたところだ、相手をしてやろうじゃないか」

素早い動作で紫色の光が宿るエリーゼの腕が車道を挟んで反対側へ向けられる。それは爺さんが来る前から俺に対して向けられていたものである。

「散れっ!」

相手の急な動作を受けて、それまで穏やかな調子であった爺さんの様子が豹変した。遠目にも分かるほどに大きく目を見開くと、此方の足がすくんでしまう様な大きな声で一喝したのだ。周囲の化け物達は爺さんの言葉に従い即座に四散する。それと同時に、エリーゼの腕から前方に向けて稲妻が走った。

まるで落雷を横に見た様な出来事である。

耳が痛くなるほどの炸裂音を伴って放たれた雷撃は、逃げ遅れた化け物を一瞬で黒焦げにした。雷に打たれた化け物の体はまるで影にでも成ってしまったかの様に真っ黒に炭化し、数秒だけ原型を保った後、ボロボロとその場に崩れ落ちて絶えた。

まさか、エリーゼはこんな代物を俺に向けて撃とうとしていたのか? 流石に威力を落としてくれるとは思うのだが、相当な痛覚を伴うことは間違いない。危ないところであった。そういう意味ではこの爺さんにも感謝である。

「つまらん、どいつもこいつも雑魚ばかりだな」

おおよそ半分の化け物が今の一撃で消し炭と成った。だが、依然として逃げ果せた20匹以上の化け物がそこには居る。生き残った化け物は周辺へ散り散りになって此方に向き直っていた。

「狙うは金毛の天使のみじゃっ! もう一体は無視して構わんっ!」

爺さんの叫び声が周囲に響き渡る。

「さぁ、皆の衆よ、行くぞいっ!」

幸いだったのは、事前に自分が渦中から外されたことだろうか。敵の化け物達がどれだけ強いのかは分からない。だが、その誰も彼もは俺の敵う相手ではないだろう。つい数日前には、エリーゼに頼ることなく猿の化け物を打倒出来たという事実もあるが、それによって得た自信も、ローザとの一件によって大きく失われていた。

「一人残らず皆殺しにしてくれるわっ!」

叫ぶエリーゼが宙を翔ける。

まさか負けるとは思わないけれど、それでも相手の数が数なので不安に思うところもある。こうして手も足も出せずに見ているしかない自分が情けなかった。とはいえ、無理なものは無理なので大人しく黙って戦況を眺める事にする。

ただ、そんな不安は数分と立たないうちに霧散する事となった。

相手の数が多くともエリーゼの強さは圧倒的である。勇み寄る化け物の軍勢をものともせずに、閃光と爆雷を伴って敵を駆逐する姿は見ていて清々しい程の勢いがあった。以前、化け物と人間との違いについての講釈を聞かされたが、今のエリーゼを眺めていると、その内容も素直に納得が出来る。

「脆弱だな、この程度で私を如何にか出来るとでも思っているのかっ!?」

颯爽と宙を翔けながら大きな声で吼えるエリーゼ。

それに応じるようにして、蟷螂の様な姿をした化け物が大きく両腕を振り上げて迫った。しかし、それもエリーゼの敵ではない。間髪置かずに、敵の身体を囲うようにして出現させた幾本もの氷柱を撃ち放ち、何の苦も無く打ち倒してしまう。

身に受けた氷柱の影響なのだろう。蟷螂の化け物は瞬く間に全身を凍結させて地上へ落ちていく。凍った身体は硬いアスファルトとぶつかり合い甲高い音を立てて砕けた。そして、そんな相手に目をくれることも無く、エリーゼは新たな標的に狙いを定めて空を走る。

「ぬぅ……、やはり下拵えは必要じゃったな……」

敵の大将らしき爺さんは健在である。しかし、それに連なっていた化け物の面々は既に大多数が失われていた。これでは雌雄を決するも時間の問題であろう。当のエリーゼ自身は歯応えの無さに不満を感じている様子だが、俺としては早く終わることに越した事は無いので万々歳だ。

「よくもまあ、貴様らの様な非力な輩に九尾の狐などという大層な化け物が力を貸す気になったものだな? 奴自身も元はと言えば外来の化け物だろう。封印を解いてしまえば、逆に取って食われるのがオチなんじゃないのか?」

語るエリーゼの言葉に、爺さんは苦虫を潰したような表情を作り答えた。

「ぬぅ……、やはり知っておったか」

「貴様等の頼みの綱なのだろう?」

宙に浮いたままの状態でエリーゼと爺さんが相対する。その周囲には爺さんの他に生き残った3体の化け物が二人を取り囲むように浮遊している。

「別に私はこの国がどうなろうと知ったことではない。だが、そこの馬鹿のせいで首を突っ込む羽目になってしまってな」

両腕を組んで、偉そうに空中で仁王立ちしているエリーゼは、俺を顎で指して言う。

「悪いが九尾の狐も含めて貴様等には消えてもらう。覚悟するがいい」

「こっちも今が正念場じゃ。そう易々と首は振れんのぉ」

「別にその首を立てに振ろうが横に振ろうが関係ない、有無を言わさず落とすまでだ」

紫色の淡い光を纏って、エリーゼの細い腕が振り上げられる。

これで勝負は着くだろう。そんな気がしていた。それまで数十といた相手の軍勢も残すところ4体である。加えて、満身創痍である敵の面々に対して、エリーゼはかすり傷一つ受けていない。それどころか呼吸さえ乱れていない。

ところが、予期せぬ例外というのは思いも寄らぬ所から投げられるのが常である。

「や、やっと見つけましたわよエリーゼッ!」

深夜の国道に甲高い声が響き渡る。

その声色は聞き間違う事も無い。ローザである。

「なんだ、存外早く治癒したな」

歩道の脇に接する山道とも呼べない木々の合間から、体中を血と土埃に汚した姿のローザが現れた。肩で息をしながら此方に向いゆっくりと歩いてくる。身に着けている衣類は至る所が破れている。特に右肩から胸部にかけての裂け目は大きく、破れて垂れ下がった生地と生地の合間からは、膨らみも僅かな片胸が露となっていた。また、艶々しく綺麗だった赤髪も土埃と血液で固まって、最早見る影も無い。その凄惨たる態は何時ぞやのホームレス少女を髣髴とさせた。

「私を舐めないで頂きたいですわっ」

しかし、当の本人はそれを気にした風も無く、堂々とした様子で中空に佇むエリーゼをビシリと指差して吼える。

「また負けに来たのか? 貴様も懲りない奴だな」

その様子を嘲笑うかの如く、エリーゼはやれやれと首を振ってみせる。

「先ほどは予想外の出来事に不覚を取りましたが、今回はそうはいきませんわ」

「何度やっても同じことだ」

親の敵を前にしたことで、ローザの憤怒は鰻上りだ。

そんな二人の様子を目の当たりにして、置いてきぼりを喰らい損ねた爺さんが疑問の声を上げた。

「そこな主は以前、金毛の天使と共に居った者じゃな?」

すると、それで初めて相手の存在が目に入ったかの様な素振りでローザは答えた。

「ええ、あの時はエリーゼ共々うちの窓ガラスを割って下さいまして、本当にありがとうございました。その日の夜は酷い目に合いましたわよ? エリーゼへの復讐が終わりましたら、貴方にもそれ相応の報復をさせて頂きますので覚悟していて下さいまし」

どうやら、忘れてはいなかった様だ。

「それは悪い事をしてしまったのぉ」

「あの日は身体の何箇所を蚊に刺されたか分かりませんわ。吸血鬼が他者に血を吸われるなど、笑うに笑えませんでしょう? そう、これに関してはエリーゼ、貴方にも別途報復を約束いたしますわ」

「知ったことか」

たしかに、夜中に耳元を飛び回る羽虫の羽音た耐えがたい苦痛だ。彼女の言い分には同情する。

「ところで、主の目的は何じゃ?」

依然として臨戦態勢にあることは変わりないが、ローザが現れたことでエリーゼと爺さんの衝突は若干の先送りとなったようだ。二人を囲う3体の化け物は、そこで交わされるやり取りに口を挟むことなく、静かに様子を見守っている。その様子からして、爺さんが他の化け物に持つ権力というのはかなりのものだということが分かった。ちなみに、それら生き残った残った化け物は皆人間の形をしていた。

「私の目的ですか? それは貴方の前に立っている悪魔へ復讐を果たす事ですわ」

「金毛の天使に復讐じゃと?」

人差し指と親指で顎鬚を擦る爺さんは、返された言葉に眉を顰めて反復する。

「金毛の天使? それはエリーゼを指してのことですの?」

「この国での古き呼び名じゃ」

それは、今までにも幾度か耳にする機会があった呼称である。毎度聞くたびに思うことだが、これほどエリーゼに相応しくない呼び名も無いだろう。そりゃ、見た目は天使と言っても差し支えない程度に整っている。けれど、それも外見に関してだけ話である。その実態はローザの言葉ではないが、天使というより悪魔そのものだ。

「それは初耳ですわ。とは言え、それも今夜限りで無用となる情報でしょう」

「ほぉ、そりゃまた命知らずな輩も居ったものじゃのぉ」

「あら、それは貴方も同じではなくて?」

爺さんとローザの視線が絡み合う。

そこで生まれた意思を理解するには然したる時間も要さなかった。

「それで……、話は纏まったのか?」

二人の様子を黙って眺めていたエリーゼが口を開いた。

「窓ガラスを割った貴方には継続してエリーゼの相手をして頂きますわ。その間に、私は彼女のファミリーを捕縛致します。周りに居る者達も貴方のお仲間なのでしょう? よろしく頼みますわよ」

すぐさま今後の行動を決定したローザが爺さんに命令した。

「ファミリーじゃと?」

それを受けて爺さんの表情が、新月の下にあっても遠目に分かるほど変化する。

「よろしくって?」

有無を言わせぬ口調でローザが問いかける。

「ぬぅ……、分かった、やってみよう」

吸血鬼におけるファミリーの概念を理解しているのだろう。爺さんは素直に頷いて答えた。それを後ろ目に確認して、早速、ローザは俺に向かって駆けて来た。これは非常に拙い展開である。新月で凶悪化したコイツの相手など、俺には荷が重過ぎる。

「馬鹿っ! ぼさっとしていないで早くこっちへ来いっ!」

エリーゼの叫びが耳に届いた。

とはいえ、エリーゼは空に浮いているのだ、来いと言われても行ける筈が無い。

「お、俺は飛べないんだよっ!」

ここへ来て舞台は急展開だった。

「糞っ!」

短く呟いたエリーゼが此方に向かって急降下して来た。それを逃がすまいと、背後には爺さんとその仲間達が続く。総計6体の化け物が己を目指し迫ってくる様は壮観だった。これは逃げるなという方が無茶な話だろう。

自分の置かれた状況に混乱した俺は、脱兎の如く身を翻し走り出した。幸い歩道には歩行者の姿も無く、また、車道にも車の姿は見られない。多少暴れたところで人目につくことは無いだろう。

「待ちなさいっ!」

背後でローザが何か叫んでいる。

「おいこらっ、何処へ行くっ!」

エリーゼもまた同様だ。

元より巻き添えを喰らうのが嫌で争いの場から離れていた事もあり、追っ手達との間にはそれなりに距離があった。しかし、一度その矛先が向けられてしまば、そんな間合いなど在って無いようなものであった。

「ええい、いちいち逃げるなっ!」

ただ、幸いだったのは、一番初めに俺の腕を掴んだのがエリーゼの手であったということだ。全力で走っていた身体が片腕に掛けられた力だけで急制動させられる。肘の付け根に痛みを感じて咄嗟に背後を振り向く。そして、そこにあった見慣れた顔に安堵した。

「貴様は馬鹿かっ!?」

「馬鹿かもしれないけど、あの状況だったら誰だって逃げるってっ!」

パニックに陥りそうな頭で反射的に反論する。

「ったく、まあいい。話はこいつ等を始末してからだ」

それまで走ってきた方向へ目を向けると、十メートル程度の距離を置いてローザと爺さん、それに爺さんの仲間だという3体の化け物が立っていた。

「まさか、あの金毛の天使がファミリーを得ているとはのぉ」

「今の様子からして疑う余地はありませんわ」

「そのようじゃな」

それまでの渋い顔は何処へ行ってしまったのか、ローザの参入で勝機を得た爺さんがニンマリと笑みを作って言った。一方のエリーゼは、他者にファミリーという語を口にされるのが気に入らないらしい。鋭い目つきで相手を睨みつけながら、妙に低い声色でいつもの煽り文句を返す。

「黙れ下種が。貴様等、生きて帰れると思うなよ」

此方もかなり頭に来ている様子だ。

しかし、エリーゼと出会って以来、誰も彼もエリーゼがファミリーを作った事に対して驚きの念を隠せないでいる。こいつにとってのファミリーとは、それほど縁遠い存在であったのだろうか。

「数では此方に利がありますわ。相手もファミリーを守りながらでは満足に戦う事はできないでしょう。このような構図と成ってしまった以上、先ほどの案は破棄して、総力を挙げてファミリーを狙いますわよ」

「うぬ、そうじゃな」

ローザの指揮に頷いて敵が特攻をかけて来た。

「いいだろう、まとめて消し飛ばしてくれる」

それを迎え撃つべく、エリーゼが俺と敵との間に立ち塞がる。

「……………」

ふと、その後姿を見つめながら思った。

まったく、何から何までコイツの世話になってばかりだ、と。

つい一ヶ月前の自分であったのならば、こうまで無様に逃げ回ることもなかっただろう。エリーゼと出会ってから今日に至るまでの間に、それまで知らないでいた多くの知識が身に入り、今の自分を存外臆病にさせているのだ。決して知らなければ良かったとは思わない。そうでなければ一昨日の時点で死んでいるのだから。だが、それにしたってこの状況は情けない。二、三日に一度の飲血も含めて、コイツに縋らなければ満足に日々の生活を送る事すら間々ならない自分が惨めだった。

それに、今回の件など最もな例であるが、如何せんエリーゼには敵が多いようだ。ともすれば、エリーゼのファミリーであり、ある種の弱点とも呼べる俺は、今後ずっとこのような惨めなポジションで生きて行くこととなるだろう。そう思うとなんだか切ない感傷に襲われた。

「さぁ、覚悟なさいっ!」

迫るローザの腕が振るわれる。

それにあわせて虚空より出現した身の丈を越える高さの火柱が、まるで津波の如くエリーゼを襲った。勿論、そのすぐ後ろに居る俺も同様に攻撃対象には含まれている。それはもう、本気で眦に涙が浮かんだ。

しかし、そんな状況にありながら、エリーゼは全く怯むことなく一歩前へ踏み出すと、炎に向かいおもむろに右腕を一閃させた。すると、一体どういった理屈があってのことなのか、目前にまで迫った火柱は霧散して消え失せた。まるでマジックショーを見ているような気分だった。

敵もそこまでの事は予期していたのだろう。消え去った火柱の向こうから顔を出したローザが、間髪置かずに拳を打ち込んで来た。そして、そのすぐ横を併走していた爺さんとその仲間達がエリーゼの脇を擦り抜けて俺を目指し両腕を伸ばす。

「ちぃっ!」

人を一人守りながら複数人を相手にするのは面倒なことなのだろう。すぐ横を抜けていった爺さん他3名を追って振り向いたその顔には、眉間に皺が確認できた。

「余所見をしていると怪我をしますわよっ!」

「黙れ糞がっ」

迫る敵の脇へ回し蹴りを放つ。それを避ける事も防ぐ事も出来なかったローザは、まるで打ち出された銃弾の様な勢いで炉端に茂る木々の合間へと吹っ飛んでいった。足を振るった勢いを殺さずに身体を180度反転させたエリーゼは、背後に位置する爺さん達へ向けて両腕を地面と水平に構える。

「飛べ雅之っ!」

その命令でエリーゼが何を狙っているのかが理解できた。

下半身に力を入れて、とにかく上を目指して飛び上がる。

すると、成人男性の背丈より多少高い程度まで上昇した辺りにて、眩い閃光が足元で発せられたのを見た。青白い光が爺さんとその仲間達を飲み込んでいた。それは打ち出されたエリーゼの手を始点として、前方十数メートルまでを直線状に射程として捉えていた。

そして、重力に従い俺の足が再びアスファルトを踏む頃には、閃光も勢いを失って消滅した。後に残ったのは髭や髪の毛を黒く焦がした爺さんの姿である。両腕を盾として身体を庇う様に腰を低くして立っていた。共に光に呑まれた3体の化け物の姿は何処にも見当たらない。

「ほぉ、生き残ったか」

エリーゼが感心した様子を見せる。

「こ、これは予想していた以上の相手じゃのぉ……」

「とはいえ、ほうほうの体といった所だな」

山でローザと戦ったときは手加減をしていたのだろうか。戦況としては爺さんとローザの二人を敵に回しながらエリーゼに分がありそうだ。だが、俺の立ち振舞い次第ではそれもどうなるか分からない。爺さんの背中を迂回して、すぐさま我がご主人様の庇護の下へと向かう。やっぱり、激しく惨めだった。

「貴様等なんぞ幾ら集まったところで高が知れている。これで終わりにしてやろう」

「ぬぅ………」

打つ手無し、といった様子で唸り声を上げる爺さん。

しかし、その危機はいつの間にか現場へ復帰したローザによって救われる。

「この程度で私は倒せませんことよっ!」

炉端の林を抜けて歩道まで戻ってきたようだ。木の葉を幾枚も髪の毛に絡ませている辺り、頭から思いっきり茂みに突っ込んでしまったのだろう。それでも怪我をしている様子は無い。例によって吸血鬼の治癒が働いているようだ。

「そうじゃのぉ……、ここで諦めては先に散っていった者達に申し訳がたたぬ」

「覚悟なさいっ!」

相方の復帰で元気を取り戻した爺さんが、ローザと共に俺とエリーゼを前後から挟む形で攻めてくる。

「ふん、何度来たところで結果は見えている」

共に拳を振るい殴りかかってくる相手に対して、エリーゼは俺の腕を取ると、車道を挟んで反対側の歩道まで大きく飛び退いて距離を取った。標的を見失った二人はお互いに危ういところで狙いを外し事無きを得る。

「これでお終いだ」

俺の腕を解放したエリーゼは、すぐ隣に居ても何を言っているのかサッパリ聞き取れないほどの小声で念仏のようなものを唱え始めた。恐ろしい早口である。これは例によって雷を落としたり火を出したりする際の前振りだ。

「これは拙いかもしれんぞ」

「散りますわよっ!」

その様子に気づいた二人が慌てて場から離れる。

だが、時を同じくして念仏を唱え終えたエリーゼがニヤリと笑みを浮かべた。

「塵一つ残さず消え失せるがいいっ!」

前方に向けて両腕を突き出し叫ぶ。

「kiyao shino mann sahazu kaonoukyoooooooo!!」

相変わらず何を言っているのか分からない決め台詞である。

「ぬぅううううっ!」

「っ!?」

エリーゼの両手の平からは、つい先ほど爺さんに向けて放たれたものとビジュアル的に同系統の閃光が発せられた。しかし、そのサイズは比ではない。まるでSFアニメで宇宙船が打ち出すような極太レーザー砲の如き閃光が、目にも留まらぬ勢いで二人目掛けて走っていった。

あまりの光量に逃げ惑うローザと爺さんの姿を確認する事も叶わない。それどころか、目を開けていることすら辛い。エリーゼが放った閃光は周囲の空気を震わせながら、十数秒に渡って継続して放射された。

そして、徐々に勢いを落とし掻き消えた光の奔流の後には、俺にとって今までに無い衝撃的な事実が待っていた。

「や、山が……」

爺さんとローザの背後にあった山が大きく抉れ、その形を失っていたのだ。

エリーゼが放った本人を頂点とする円錐形の閃光と山との論理積を取った部分がすっぽりと失われているのだ。本来は山の向こうにあった筈の景色が、夜の暗闇の中で見え隠れしている。決して大きいとは言えないけれど、それでも地図上ではこの町の半分を占める山が、ものの十数秒で山頂を含める全体の7割以上を失ったのだ。

「ふん、他愛ない」

構えていた腕を元の位置に戻すと、エリーゼはつまらなそうに呟く。

「た、他愛ないって……お前……」

開いた口が塞がらなかった。

こんなの反則だろう。

味方のことならが、漠然とそんな感想が思い浮かんだ。

今ならマシューがエリーゼに対して求めていたものが、一体どういったものであったのかを正しく理解できる気がする。それは本当に言葉通りの意味で、戦車であったり、大砲であったり、ミサイルであったりするのだ。

「どうした? 馬鹿みたいに口を開けて」

「いや……、なんていうか……」

とんでもない化け物と知り合ってしまったものだ。

付き合いを始めてから既に一ヶ月以上が経っているのだが、改めてそう感じた瞬間であった。しかも、当の本人はそれが何でもないことのようにケロッとしているのだ。訳が分からない。

「怖いか?」

ニヤっと口元を釣り上げて笑うエリーゼの様子は普段と別段変わりは無い。しかし、その後ろにあるモノを理解して、同時に沸き起こった畏怖の念が、普段どおりの軽口を返すだけの余裕を俺から奪っていた。

「べ、別に……」

ただ、そう呟くのが精一杯であった。

「頬が引きつっているぞ?」

「…………」

勿論、此方の胸中が読まれていないなどとは思っていない。

他にどう返して良いのか分からなかっただけである。

「これ……、どうするんだよ……」

そして、意味も無く漠然とそんな質問を返していた。

「別にどうもしない、放っておけば良いだろう」

「そ、そりゃ、放っておくしかないのは確かなんだけどさ」

「べつに山の一つや二つ消えたところで問題あるまい?」

「いや、そんなに軽いもんじゃないだろ……、普通」

これは周辺の地図を書き直さなければならないだろう。もしかしたら、山の周辺にあった家屋が巻き込まれた可能性もある。ローザと爺さんの他に死人だって出ているかもしれない。しかし、そんな事に言及する余裕さえ失ってしまう程の衝撃がそこにはあったのだった。

「さぁ、これで終わりだ。さっさと家に帰るぞ」

そう言ってエリーゼは身を翻し歩き出す。

「それと、お前の鶏頭では既に忘れているかもしれないが、先ほどの仕置きの続きも、家に着いてからたっぷりとしてやるからな。覚悟しておけよ」

背中越しに続けられた言葉は、どんな苦い薬よりも俺の顔を顰めさせた。

「………」

嫌な事を覚えている奴だ……。

とはいえ今の俺はエリーゼに口答え出来る立場に無かった。

先行するその背を渋々と追う。

身の丈1メートルと少しの子供が、今やどんな大きな山よりも高く目前に聳えている気がしてならなかった。脇目に見える形を大きく欠いて既に山とも呼べなくなったそれが、今後の俺の身に起こる厄災を暗示しているかの如く暗闇に影を落としていた。

これまでもエリーゼの圧倒的な姿は幾度と無く見てきた。そこには誰もが畏怖する力があった。しかし、今見たものはそれらより更に一線を駕すものであった。その心境を現代兵器で例えるならば、それまで火縄銃しか知らなかった戦国武将が、いきなり海を挟んだ対岸の国から核ミサイルを撃たれたようなものだ。これはもう泣くしかない。

ようやく慣れてきたエリーゼとの共同生活に、ここへきて新たな不安要素がどっしりと圧し掛かってきた。別に相手の俺に対する態度が変わったわけではない。ただ、俺の中のエリーゼ像が変化したのだ。今ならマシューや沙希の父親がエリーゼの名を前にして身を震わせていた理由が良く分かる。彼らが見ていたエリーゼという存在は、こういったものであったのだ。俺はその本質を理解するのに随分と時間がかかったようだ。

「ほら、早く来い」

「わ、わかってるよっ!」

まるで主人に首輪を引かれる犬の如くその後へ続く。

俺は先を進むエリーゼを追って駆け出した。

どれだけ強大で圧倒的であろうとも、コイツの存在は俺にとって今ある日常生活を維持するのに必要不可欠なものなのだ。慣れなければならない。それに、敵意さえ向けられなければ問題はないのだ。そう自分に言い聞かせて、一瞬にして膨らんでしまった畏怖の念を、出来る限り感じまいと念じた。

そう、何はともあれ危機は去ったのだ。

何事も前向きに考えれば良いのである。明日からはマシューの金を使って地方豪遊である。そう考えれば、一昨日からの面倒事も些細な事だと言える気がした。実際には仕事をしに行くのだが、それだって働くのはエリーゼだ。俺は楽しくやらせて貰うとしよう。

かなりヤケクソな肯定だが、それでも足を前に進めるのには十分であった。

だが、去ったものだとばかり思っていた危機は、依然として身の近くに潜んでいたのだという事を、その数瞬後に俺は理解する事となる。動き出した足が数歩と進まないうちにそれは訪れた。

危機は何の前触れもない胸部への痛みとしてやってきた。

それはあまりにも強烈な痛覚であった。

「っ!?」

痛みを感じてすぐは、驚きのあまり悲鳴を上げる事も出来なかった。

視線を下げると、鳩尾の辺りにポッカリと十数センチ程度の穴が開いていた。そして、その穴からは人のものであろう、小さな拳が頭をを覗かせていたのだ。一瞬、自分の体に何が起こったのか理解できなかった。

自然と下半身の力が抜けて、膝からアスファルトの上に崩れ落ちた。両腕を突くことも叶わずに顎を地面に強く打つつける。脳が強く揺さぶられた事で一瞬だけ視界が暗転する。続いて本格的に訪れ始めた痛みに、まるで獣の咆哮の様な悲鳴を、胸がはち切れるほどの勢いで吐き出した。同時に食道を上がってきた熱い塊が口から零れる。血液だった。

「なっ、どうしたっ!?」

俺の豹変に気づいたのだろう。エリーゼのものであろう声が耳に届いた。しかし、その姿を視界に捉えることは叶わない。目に映るのは一面のアスファルトだ。唯一理解できたのは、何者かに腕を握られている感覚だけである。他の全ては痛みにかき消されてしまっていた。

「貴様、生きていたのか……」

何かを言い合う声が聞こえてくる。

「お蔭様でこの有様ですわ」

そんなやり取りを遠くに聞きながら、俺は人間の声とは思えないような悲鳴をただ垂れ流していた。痛みは胸からやってくる。身体は風呂にでも入ってように熱かった。ただ、それでも何とか周囲の状況を把握しようと、途切れかけの理性を必死に呼び戻す。耳に届く声のもう一方はローザのようだ。どうやら、先ほどの閃光から生き延びたらしい。

「………そいつをどうするつもりだ?」

「そんなの、改めて聞くほどのことでして?」

多分、腕を掴んでいるのはローザだ。

「……………」

いつの間に近づかれていたのだろう。

全く気づくことが出来なかった。

「私も、もう形振り構っていられる状況ではありませんわ」

「ああ、そうみたいだな」

激しい痛みに全身をのたうち回しながら顔を上げると、視界の端に人の姿が入ってきた。何かに縋るように目を凝らすと、そこにあったのは、左腕を含む身体の縦半分を失い苦悶の表情を浮かべるローザであった。痛々しくも大腿骨までが露出してしまっている足で、フラフラと頼りなく立っている。元は白かったシャツは既に元の色が分からない程にどす黒く染まっている。露出した内臓組織がだらしなく傷口から垂れ下がっている様は、B級ホラーのゾンビさながらだった。

「今このときをもって、私の復讐の完了を終えさせて頂きますわ」

「ま、待てっ!」

ローザの言葉に応じて、エリーゼが反射的に短い叫びを上げた。その声を頼りに首を捻ると、エリーゼもすぐ近くに姿を確認できた。

「ふふふふ、心地良いですわね。私はその言葉が聞きたかったのですわ」

「……だったら何だと言うのだ」

低い、怒りを湛えるエリーゼの呟きが聞こえた。

「貴方の悲痛な叫びが私の心を癒すのです。愛しき家族を殺された恨みは、ただファミリーを殺した程度では晴れてくれませんわ。貴方には私が味わったものと同様の絶望を感じていただきます」

「だから、それは貴様の勘違いだと言わなかったか?」

「此処へ来てまだそんな与太話を口にしますの?」

「それは貴様が……」

エリーゼの口から、その後に続く言葉は出てこなかった。

「まあ、この期に及んで、何を言われたところで私は信じませんわ」

きっと、その場に立っているだけでも一杯一杯であろう。にもかかわらず、ローザは満面の笑みを浮かべると、俺を見下して言葉を続けた。

「貴方はエリーゼに拾われた為がゆえに死ぬのです」

つい数分前の危惧が速攻で実現してしまった訳である。

「怖いですか? 悔しいですか? 恨めしいですか? でしたらエリーゼを呪うと良いでしょう。この者と出会わなければ、少なくとも今日この場で死ぬことは無かったのですから」

ローザの言葉は全て正しい。

まったくもって、その通りである。

しかし、それは結果論を突き詰めた先あるものであって、俺はまだ自分の死を認めたわけではない。こんなギリギリな状況にあって、妙に思考が冴えてくる自分の脳味噌に感謝しながら、俺は胸部にある痛みに堪えつつゆっくりと言葉を返した。

「俺が恨むと……、お前は嬉しいの、か?」

会話の内容に特に意味は無い。

「ええ、とても清々しい、気分になりますわ」

胸は痛いが腕は動く。

俺はローザに掴まれていない自由な側の腕を動かして、その挙動を悟られないよう細心の注意を払いながら、手をズボンのポケットへ突っ込んだ。指先に触れる硬い感触。そこには普段から入れっぱなしになっている携帯電話がある。

「お前も随分と厭らしい性格してるよな」

携帯電話のメール受信ボックスには、今日の午前中にアドレスや電話番号のやり取りをしたマシューからのメールが残っている。勿論、全てはアドレス帳に登録済みだ。買い換えて一ヶ月と立っていない携帯電話だが、幸いな事に扱いは一通り覚えた後である。

「この期に及んでは、別に何を言われたところで痛くも痒くもありませんわ」

ズボンの中で二つ折りの端末を開いた俺は、画面を見ることなく慎重に手探りでボタンを押していった。目的はマシューが持つ携帯電話との回線の確立である。嬉しい事に外人の知り合いは他に居ないので、英語表記である奴の名前はアドレス帳の頭に来ている。これならば手探りでも何とか呼び出せる筈だ。

「それじゃあお前もエリーゼと変わらないじゃないか」

携帯電話を操作する指は、それが痛みによるものなのか、それとも緊張によるものなのか、ガタガタと震えていた。だが、幾回かボタンを押したところで、脳内にイメージする画面はマシューのプロフィールを呼び出し、その電話番号へとカーソルを移動させることに成功した。

後は通話ボタンを押すだけである。

「そんなことは百も承知ですわ」

お互いに瀕死の重傷を負っているため、その間のやり取りは途切れ途切れである。とはいえ、ローザの身体からは現在治療中の証である白い煙が上がっている。このまま時間が経てばコイツは再び元の状態まで回復するだろう。

「糞っ、何で俺なんだよ……」

エリーゼは俺とローザの会話に口を挟むことなくただ黙って見つめていた。

………。

さぁ、一か八かである。

祈るように通話ボタンを押した。

「どうして、俺なんだよ……」

そして、携帯電話の端に設置された受声口を手の平で隠しながら、静かにズボンの外へと露出させる。これで相手が電源を切っていたりしたのなら全てがアウトだ。けれど、そこは信じて進むしかない。

「別に俺じゃなくたっていいだろ!?」

通話ボタンを押してから十数秒を待って、俺は叫ぶように口を開いた。

「助けてくれよっ!! 俺は関係無いだろっ!? 俺だってあんな山の形を変えちまうような化け物に好き好んで付き合ってる訳じゃないんだっ! 殺さないでくれよっ! こんな奴のせいで死にたくないっ!」

「っ……」

誰かが息を呑む音が聞こえた気がした。

「頼むよっ! 許してくれよっ! 復讐ならエリーゼに直接してくれよっ! なんで俺が殺されなくちゃならないんだよっ!」

とにかく必死になって、痛む胸に鞭を打って喉を潰す勢いで叫んだ。

「は、あははは…は…ははは、聞きましたか、エリーゼ? 貴方のファミリーはこう仰っておりますわよ?」

「………………」

問われたエリーゼは答えない。

俺の無様な叫びを耳にして、ローザは心底満足した様子で笑い声を上げ始めた。人通りも車通りも無い深夜の国道に、少女の狂った笑い声は遠くまで良く響いた。コイツに関しては多少の常識を感じていたのだが、それも復讐を心の支えに数百年と生きて来ていた、という時点で疑うべきであったのかもしれない。

「今のを見ただろっ!? あんなにデカイ山が消し飛んだんだぞっ!? こんな危ない奴の傍に居たいなんて誰が思うかよっ! ファミリーにだって無理やりさせられたんだよっ! 俺は関係ないんだよっ!」

「あはは、は、楽しいですわね、嬉し涙が……止まりませんわ」

「た、助けてくれよぉ……」

此処まで来てしまうと、幾らでも惨めになれる自分がいた。

恥もプライドも捨ててしまえば存外安いものであったと知る。

「残念ですが、貴方の運命は既に決定していますわ」

「嫌っ、嫌だっ! 死にたくないっ!!」

派手に身体を動かして暴れてみせようとした。だが、少し動いただけで胸に激痛が走り、それも叶わずに四肢を丸め込んでしまった。この辺りが肉体的にも精神的にも限界なのだろうか。徐々に手足の末端が痺れて来ていることを考慮するに、かなり深い怪我であることが予想される。風呂に浸かっているかのように熱かった身体も、今は少しずつ冷えてきている。

「そうです、そうやってエリーゼを呪いながら貴方は死になさい」

だが、今はまだ時間が必要だ。

せめて後数分だけでも希望を持たせて欲しい。

死にたくないのは本当なのだから。

「さぁ……、まずは貴方が私の父をそうした様に、この者の腕を引きちぎって差し上げましょう。漏れる悲鳴は甘い甘い美酒となって私の心を満たすでしょう。この日この時の為に私は長い時を生きてきたのですから」

「おいっ、止めろっ!!」

「あら、エリーゼ。もしも手を出して御覧なさい? すぐにでもこの者は三途の川を渡ることとなりますわよ?」

「こっ、この下種がっ!」

「あは、あはははははははっ! 素敵ですわ、素敵ですわっ、素敵過ぎますわっ!」

おもむろに引き上げられた身体は、しかし、掴まれた腕の肩から先を無理やり引きちぎられ、再び地面に叩きつけられた。生きたまま腕を引きちぎられる痛みなんて、脳が理解できるはずが無い。肉体の限界を超えた脊髄反射の連続に精神が壊れてしまいそうだった。それを防ぐ為なのか、喉からはただひたすらに悲鳴だけが際限なく出てきた。

そこから先は、意識なんてあっても無いようなものだった。

ローザが何かを言っているような気がした。

エリーゼが何かを叫んでいるような気がした。

ただ、その全ては痛覚の前にかき消されて俺に意味を持たせなかった。

そして、両腕と両足の感覚が無くなった時点で、意識もまた霧に霞むように失われた。

目的の現場に着いたとき、マシューは眼下で繰り広げられている光景を目の当たりにして小さく呟いた。

「これは拙いですね」

雅之からの着信を受けて取った電話からは、彼の危機を知らせる叫びが断続的に伝えられていた。あからさまな目印があったので、空を飛ぶことが可能なマシューは、場所の特定にそれほど時間を要さなかった。比較的近場に居を構えていた事もあり、数分とかからずに指示された場所まで辿り着く事が出来たのは幸いである。

しかし、自体は予期していたよりも危うい方向へと流れていた。

両手両足を切断された雅之が地に倒れ伏し、あまつさえ、その頭にはローザの足が乗せられていた。そして、そんな彼女に向き合うエリーゼは、今にもこの街ごと相手を消し去らんとする気迫を纏っている。いや、仮に雅之が失われようものならば、本当にこの町は荒野と成り果てるだろう。既に近くの山が原形を留めずに吹き飛んでいる辺り、冗談では済まされない感がヒシヒシと伝わって来るのをマシューは感じていた。彼女が強硬手段に出ていないということは、まだ雅之が息絶えていないことを示す。だが、客観的に見る限り、いつ絶命してもおかしくない状況にあった。唯一の救いはその場に人間の野次馬が居ないことだ。

「これは、即急に手を打たねばなりませんね」

雅之はエリーゼが持つ唯一のファミリーである。そんな彼が目の前で殺されたとあっては、その後に起こる騒動は予測不可能だ。それに、雅之自身もエリーゼに対する非常に有用な窓口となる。そんな彼が失われるのは、マシューとしてもかなりの痛手であった。少なくとも、今後は彼の言葉になど微塵も耳を傾ける事は無くなるであろう。

「さて……」

地上で争うエリーゼとローザに気づかれぬよう、マシューは相手を視認できる範囲で距離を保ちつつ飛行高度を落とす。周囲には灯りも少なく、また、新月であったこともあり、闇に紛れて比較的近くまで近づく事が出来た。

エリーゼと何かしらの関連を持っているらしい、という事実から、彼自身もローザに関しては組織の助けを受けて、ここ二、三日の間で調査を行なっていた。その結果として、過去の身辺関係や、彼女が持つ特殊な能力についても十分に理解は及んでいる。それを踏まえたうえで、彼は今後の方針を素早く導き出した。

「彼女自身の損傷も激しい、これは隙を突けばいけそうですね」

おおよそ50メートルほどの距離を置いて地面に着地した。そして、歩道に面するパチンコ屋の建物の陰に隠れながらゆっくりと距離を詰めていく。

「それにしても、彼女からすれば、エリーゼ様には感謝することはあれど、恨むような過去は無かった筈ですが、一体何がどうなってこのような事態に発展したのか分かりませんね」

幾ら負傷しているとは言え、今の相手の技量が自分より遥かに上であることを理解しているマシューは、額に一滴の汗を垂らしながら愚痴るように小さく独りごちた。

「まったく、最近は面倒事ばかりでろくな事がありませんね」

目的は雅之の奪還である。彼さえ取り戻してしまえば、後はエリーゼ様が何とかしてくれるだろう。そう自分に言い聞かせてマシューは足を進めた。

それからしばらくして、舞台へ飛び出すには丁度良い位置まで歩を進めた彼は、一度立ち止まり、覚悟を決めるようにひとつ大きく深呼吸をしてから小さく呟いた。

「さぁ、行きますよ」

標的は定まった。

一撃を持ってローザと雅之を引き離す。もう一度だけ、脳内で思考を反復させる。マシューは力強く地を蹴り、コンクリートで出来た建造物の陰から歩道へ向かい飛び出して行った。

そこから雌雄を決するまでは一瞬の出来事であった。

突如として出現したマシューにローザは遅れを取った。その隙を逃すことなく放たれたマシューの飛び蹴りは、見事にローザの横腹を捕らえた。万全の状態であったのならば避ける事も出来たのだろうが、虚を突かれ、しかも負傷した身であったこともあり、あっけないほど簡単にローザの身体は宙を滑空していった。

歩道から車線を越えて、その先にあるエリーゼによって作られた、元は山であった焼け野原の上で幾回か身体を弾ませた後に、ようやくローザの身体は動きを止めた。その姿を後ろ目に確認して、マシューはすぐさま足元に倒れる雅之へ意識を向けた。

「大丈夫ですか?」

彼自身も、まさか本人が大丈夫だと言葉を返すとは思っていない。予想通り雅之は意識を失っていた。

「き、貴様が何故ここに居るっ!?」

ローザが居なくなった事で自由を取り戻したエリーゼが慌てて雅之の下に駆け寄る。

「いや、そんなことはどうでもいい。それよりも今はコイツだっ」

グッタリとして動かない雅之の身体をエリーゼが抱き起こす。

「まだ息はあるようですね」

微かに上下している胸部を見てマシューが言った。

「ああ、だが決して長くは無い」

「はい……」

このまま放っておけば死んでしまうのは誰の目にも明らかであった。普段ならば傷口から立ち上がる現在治療中を示す白い煙も、今は全く見当たらない。

「糞、あの下種が……」

瀕死の雅之を前にして憎々しげにエリーゼが呟く。

「エリーゼ様、今は彼女を恨んでも始まりません。対処法を考えましょう」

「そんなこと分かっているっ、だが、どうしろというのだっ! コイツはもう死ぬぞ? あと数分とせずに死ぬぞ? お前にコイツを救う手立てがあるのかっ!? あるのならば言ってみろっ!」

狼狽するエリーゼは攻めるような口調でマシューに問う。すると、問われたマシューは表情を一切変えることなく、事も無げにすんなりと答えて見せた。

「在ると言えば在ります」

それを受けてカッと大きく目を見開いたエリーゼは、マシューの胸倉を掴みガクガクと激しく前後に揺すった。

「ならば言えっ! 早く言えっ!」

「い、言います、言いますから手を離してください」

どう考えても冷静でないエリーゼを嗜めながら、マシューは言葉を続ける。

「それは貴方が過去にあの娘、ローザに対して行なった事と同じですよ。状況は違いますが、幸いにして今夜は新月です。やってみる価値は十分にあると思われますが、如何でしょうか」

そして、話はそれだけで通じてしまったらしい。

マシューの案を受けてエリーゼはハッと我に返った様な表情を作ると、すぐさま立ち上がった。その足が向かうのは、先ほど彼によって蹴り飛ばされたローザの下である。

「急いでください、時間がありませんよ」

「言われずとも分かっているっ!」

そう叫んだエリーゼは、かつて無い速度で地を駆けると、まだ息のあるローザの身体を掴んで即座に雅之の下まで戻ってきた。片腕を掴まれ、地を引きずるようにして運ばれた彼女は、全身に負った擦り傷と閃光によって欠けた半身とが相まって、元の愛らしい面影など微塵も感じられない肉塊へと成り果てていた。

「こ、こんな馬鹿なことが……」

念願の復讐を寸前の所で阻止された悔しさだろう。その眦には涙さえ浮かんでいた。

「貴様の血を頂く」

「………血?」

状況が理解できないのだろう。鸚鵡返しに聞き返したローザは、その後に待っていたエリーゼの手刀に短い悲鳴を上げた。

「あぐぅう!?」

失われた左腕に次いで、残っていた右腕の手首から先を切り落とされた為である。

そして、切り口から血飛沫を伴って流れ出した血液を、エリーゼは自らの口に含むと、雅之の口へ直接口移しで流し込んだ。だが、彼女の小さな口では一度に移す事が出来る血液の量など高が知れている。その作業は雅之の意識が戻るまでの間、何十回も繰り返し行なわれた。

「ん……」

ふと、眠りから目が覚めた。

それから僅かな間を置いて全身に走った激痛により、自分が気絶から立ち直ったのだと理解した。意識を失うなど、一般的な日常生活を送っていれば滅多な事では経験しない。にもかかわらず、即座に自分が気絶していたのだと理解できたのは、きっと俺がそれだけ日常とはかけ離れた場所で生活をして来た証だとも言える。

そして、全身を襲う激しい痛みに声を上げようとして口を開いた次の瞬間、突如として目前に現れたエリーゼが、その口で俺の口を塞いでいた。

「んっ、んぅううんんっ!」

熱くどろりとした、最近になって覚えた味の液体が咥内に流し込まれる。

「どうやら意識が戻ったようですね」

少しはなれた所から男の声が聞こえた。

「ぷはっ」

エリーゼの口が俺の口から離れた。

「ああ……、なんとか、持ち直したようだな」

見ればエリーゼは顔中を真っ赤に汚していた。自分も頬や口周りにベトベトとした感触がある。似た様な状態にあるのだろう。真っ赤な原因は血液である。舌で感じた味が理解させてくれた。そして、それを拭おうと腕を動かしたところで、俺は今の自分が置かれている状況を完全に思い出した。

「あ……」

動かしたはずの肩から先は存在していなかった。それはもう一方の腕も同様であり、また、両足に関しても腿から先の一切合財が無くなっていた。自分では動かした筈なのに、そこには何も無い。自分の四肢が完全に失われている。そんな現実を受けて、気づけば俺は自らの耳が痛くなるほどの悲鳴を上げていた。

「ば、馬鹿っ! 吼えるなっ!! ちゃんと治るからっ!!!」

よほど大きな声を上げたていたのだろう。エリーゼが慌てて手で口を塞いでくる。

その言葉で少しだけ冷静になれた。

依然として身体は激しく痛むが、それでも、何故か言葉を話すだけの余裕はあった。どうやら、繰り返し与えられた刺激に、ある程度の神経が麻痺して、あるいは鈍化してしまっているらしい。なんとか自分を落ち着かせて口を閉じると、ほぅと一息ついた様子でエリーゼが話しかけてきた。

「調子はどうだ? などとは聞いても無駄だろうが、一応は確認しておく。意識はしっかりしているな? 私のことが認識できるな?」

「あ、ああ。大丈夫だ」

こうして会話が出来ているのだから、その辺は平気だろう。

「そうか、ならばいい」

そう呟いてエリーゼは胸を撫で下ろした。

「でも……、酷いことになってるよな」

気がつけば、両手両足を失った俺の身体はエリーゼによって抱きかかえられていた。先程の言葉がなければ、こうして正気を保っていられた自信も無い。きっと声が枯れて血反吐を吐くまで喚き続けていただろう

「貴様にはあの娘の血を飲ませた。幸いにして夜はまだ長い、夜明けまでには両手両足も元に戻るだろう。もし、これが夜明け前であったのならお前の命もその場で絶えていただろうな」

「俺はローザの血を飲んだのか?」

「そうだ。奴の血の特性は本人が言っていた通りだ。鶏頭のお前のことだから忘れているかもしれないが、吸血鬼同士の吸血行為はお互いの能力の共有を可能とする。今のお前はあの娘の能力を共有している状態にあるんだ」

「新月の夜だけ強くなるっていうあれか?」

「そうだ。そのおかげで瀕死の重傷でありながらも、ここまで復帰する事が出来たのだ。まさか、自分を殺そうとしていた相手の力に助けられるとは皮肉なものだな」

そう言いながら、視線を俺から外したエリーゼは、すぐに横たわる小さな影に目を向けた。それが何であるのか、灯りの少ない暗がりであった為に、始めは全く分からないかった。だが、時折ピクリ、ピクリと震えている様子から、それが生き物である事を理解し、そして、ローザであることを理解した。

「な、なんか酷いことになってるな……」

ボロ雑巾という形容があまりにも似合いすぎる姿をしていた。

「あれだけ好き勝手やってくれたのだ、この下種にもそれ相応の地獄を見せてやらねばならないな」

しかし、そんな状態にあって、仕返しはまだ行なわれていない様だ。。

「まあ、何にせよ助かって良かったです」

すぐ近くに立っていたマシューが声をかけてきた。自分で呼んでおいてすっかり忘れていたのだが、ちゃんと助けに来てくれたようだ。出来ればもう少し早く来て欲しかったのだが、それでも、こうして生きているのだから感謝である。

「助かったよ、ちゃんと来てくれたんだな」

「はい、連絡は確かに届きましたよ」

そう言って、スーツの内ポケットから取り出した携帯電話を開き、ディスプレイに映し出された着信履歴を見せてくる。

「………おい、一体なんの話だ?」

耳元で疑問の声が上がった。

そういえば、エリーゼには説明も何もしていなかった。

それだけの余裕があの時は無かったのだ。

「いえ、大したことでは無いのですが、私の携帯電話に雅之さんの携帯電話から救難信号が届いたのですよ。先程、エリーゼ様も疑問を口になされていましたが、そのおかげで私はここまで辿り着く事が出来たんです」

「救難信号だと?」

首をかしげたエリーゼが、ちゃんと説明しろと此方を覗き込んでくる。

「ローザに腕を引きちぎられる前に、思いつきでポケットの中の携帯電話を操作してたんだよ。無我夢中だったけど、上手く行ったみたいで助かった」

そのおかげで今の俺がある。

「なるほど、だから声がやけに遠く聞こえた訳ですね」

一人納得したマシューが小さく頷いて答えた。

「ちゃんと聞こえてるか心配だったんだけど、大丈夫だったみたいだな」

「ええ、それなりに聞こえてましたよ。かなり大きな声で叫んで下さっていたので」

普段から声が低くて相手に伝わりにくいと評判の俺は、常時携帯電話のマイク感度を高いレベルに設定している。それも成功の一端を担ってくれていたのだろう。カラオケなどに行くと、鬱の原因となるだけであった己の喉にも、今回ばかりは感謝である。

「す、すると、この娘に迫られた時の叫びは演技であったと言うのか?」

ふと、なにかに驚いた様子でエリーゼが尋ねてきた。

「ああ、お前が山を削った後で助かったよ。あれほど良い目印になってくれるものは他に無いからな。でなけりゃ今頃は本当に死んでたんじゃないか? そう思うとお前の無駄に凶悪な能力も愛しく思えてくるから不思議だよ」

かなり露骨な口上であったのだが、俺と同様にローザ自身も復讐の達成を前にしてテンパっていたのだろう。幸い此方の意図に気づかれること無く、マシューへの連絡を行なう事ができた。

「そうか……、そうだったのか…………」

すると、一体何を納得したのか、俺の手短な説明を受けて、エリーゼは繰り返し同じ言葉を呟いた。

「でなけりゃ、お前にあんなこと怖くて言えないって」

そうでなくとも普段から酷い目に合っているのだ。これ以上自らの待遇を悪くするのは遠慮したい。まさか、何の意図も無くあの様に喚き立てるほど俺だって馬鹿ではない。少なくとも、そうすることで得られる利益は何も無いのだから。

「や、やかましいわ馬鹿者がっ!」

自然と漏れていた皮肉に額を小突かれる。

「だったら初めからそう言えっ!」

「あの状況じゃあ言いたくても言えなかったんだよ」

「うるさい、お前は素直に頷いていればいいんだ」

「なんだよそりゃ」

妙に変なところに絡んでくる奴だ。

「ま、まあ、そんなことはどうでもいい。それよりもこの下種への仕置きだ」

自分で言い出しておいてそれはないだろう、とは思ったが、それを口にしてまた因縁をつけられるのも面倒だ。素直に聞き流す事とする。ローザに意識を移したエリーゼが、俺を抱えたまま立ち上がった。

「それでしたら、私に良い案があります」

地面に横たわるローザを眺めながら、マシューが口を開いた。

「なんだ? 言ってみろ」

「はい」

エリーゼに促されてマシューは淡々と言葉を続ける。

「先程の様子からして、幾ら肉体的な苦痛を与えたところでこの者に対する仕置きとしては、エリーゼ様が満足するような結果は得られないでしょう」

「だったらどうするというんだ」

「ですから、この者に真実を話すのです。エリーゼ様もご存知の通り、この者は何かしらの勘違いをしております。そして、それに関しては私自身も裏を取ってありますので、間違いの無いことです。どうでしょうか?」

「…………」

「生きることへの執着が薄いこの者ならば、下手に肉体的な苦痛を与えるより、よほど効果があると思われますが……」

マシューの言葉を受けてエリーゼはしばらく黙り込んだ。

二人の間にある共通の知識が何であるのか、俺には窺い知れない。なので、エリーゼの沈黙の真意を図る事も出来ない。ただ、ローザが何かしらの勘違いをしている、という話は事前に聞いていたので知っている。

「そういうことをいちいち口にするのは好きじゃないんだがな?」

「勿論、エリーゼ様が嫌だと仰られるのでしたら、私としても強くは推しません」

顔を顰めるエリーゼに対して、マシューも強くは出ることは無い。しかし、よほど苛立っているのだろう。自分の嗜好と相手への影響を加味した上で、多少の後ろ髪を引かれながらも、エリーゼはその案を受け入れた。

「まあ、それが一番効果的だというのならば、たまには良いだろう」

コイツの言う真実とは一体何なのだろうか。

興味が無いといえば嘘になるので、その選択は俺としても嬉しい。

「はい」

短い返事と共に、マシューは恭しく礼を返す。

それを無視して再びローザに向き直ったエリーゼは、足元でピクピクと震えている肉塊へ視線を落とした。きっと、泣いているのだろう。小さな嗚咽が耳に届いてくる。それが痛覚に起因するものでない事は、俺にも良く理解できた。

「おい、娘」

ボロ雑巾の如き哀れな姿を前にしても容赦なく、エリーゼはブーツのつま先で相手の顔を蹴り付けた。既に反旗を翻すだけの気力も残っていないのだろう。憎々しげに此方を見上げては来るが、ただそれだけである。

「少し、楽しい話をしてやる」

「は………、早く殺しなさい。これ以上の生き恥はありませんわ」

半身を失った今となっては、最早復讐も叶わないと理解しているのだろう。

「ああ、私としては今すぐにでも殺してやりたいところだ。だが、後ろの奴の助言でな。その前に一つだけお前に教えておかなければならないことができた。耳の穴をかっぽじって良く聞け」

「………この期に及んで、なんですの?」

人間の尺度からすれば、既に死んでいてもおかしくない状態にある。しかし、傷口からは依然として自然治癒が行なわれていることを示す白い煙が上がっている。どうやら瀕死とは言え、まだ後があるらしい。エリーゼの語り掛けに答える言葉もしっかりとしたものだ。

「それはお前の過去にまつわるちょっとした小話だ」

「私の……、過去ですの?」

「ああそうだ」

小さく頷いたエリーゼは後ろを振り返る。

「いちいち説明するのは面倒だから、詳しくはコイツが喋る。まあ、聞け」

顎でマシューへ指示を出し、本人は少し離れたガードレールの上に腰を落ち着けた。

「貴方が私の何を語ってくれますの? 他人に教えて貰うまでも無く、自分の事は自分が一番良く理解しているつもりですわよ?」

「ええ、本来ならばそれが普通でしょう。ですが、貴方の場合は些か普通じゃない所がありまして、そこの説明を私が行なわせて頂くこととなりました。どうぞ、ご拝聴をお願い申し上げます」

「………」

無駄に丁寧な口調で語るマシューを、ローザは胡散臭そうな眼差しで見つめている。

「今から語ることは全てが事実です」

小さく一呼吸を置いた後に、マシューはローザに正面から向き合って口を開いた。

「貴方は大きな勘違いをしています」

「それはもう聞き飽きましたわ」

それこそ、此方としてもいい加減に聞き飽きた反応である。

しかし、そんなローザの言い分を無視してマシューは話を続ける。

「貴方は昔、まだ人間であったころに一人の吸血鬼に襲われています。その者の名はマクシミリアン・ロベスピエールと言います」

「ちょ、ちょっとお待ちなさい、私はそのような者を存じませんわよっ!」

突然の宣言にローザが声を荒げて反論する。

「マクシミリアン・ロベスピエールは吸血鬼の間でも特殊な能力を持っておりました。ですので、我々の組織もその動向に対して敏感でした。記録によれば彼が最後に人前に姿を現したのが、丁度、貴方が襲われた西暦1489年の12月31日なのです」

「……………」

だが、マシューが提示した日時が図星であったのだろう。

ローザの表情に変化が現れた。

開いていた口も自然と閉じられる。

「そろそろ年が明けようかというその日の深夜に、彼は貴方の屋敷を襲撃しました。詳しい背後関係までは調べが及んでいないので分かりませんので、実際の動機は窺い知れません。ですが、それは事実です。貴方の家族は彼によって全員が殺されたのです」

1489年とは随分と昔の話である。本人も復讐を誓って数百年間だと語っていたが、こうして改めて具体的な数字を口に出されると、それはもう御伽噺の中の出来事にしか思えない。

「その魔手は居を同じくしていた貴方にも当然のこと及びました。けれど、貴方は殺される事はなかった。そして、今を吸血鬼として生きています。これは何故だか分かりますか?」

「…………」

ローザは答えない。

胡散臭そうな顔でマシューの顔を眺めている。

「その場を偶然に通りかかったエリーゼ様によって助けられたからですよ」

だが、そんな沈黙も次の言葉を受けて驚愕を持って破られた。

「なっ!!」

大きく見開かれた瞳がマシューとエリーゼを交互に向けられる。

「なんですってっ!?」

それは当然だろう。今の今まで家族の敵だと思っていた存在が、まさか自分の命の恩人だとは思うまい。ローザの勘違いが本当だと事前に理解していた俺としても、これは驚きであった。

「そんな事がある筈ありませんわっ! 虚言もいい加減にしてくださいましっ!!」

エリーゼの性格を鑑みるにローザの主張は最もだ。

「ですが、それは事実です。それに、そうでなければ今の貴方が置かれた状況が説明出来ないのです」

「私が置かれた状況ですって?」

「貴方は何故に自分が吸血鬼として生きているのか、それを理解していますか?」

「そ、それは、エリーゼが私を吸血鬼としたからに決まっていますわっ!」

今のマシューの言葉が効いたのだろう。

ローザは慌てた様子で非難の声を上げる。

「残念ですが、それは不可能です。貴方も吸血鬼ならば下僕とファミリーの存在は理解していますね? 貴方がエリーゼ様によって吸血鬼化させられたと言うのならば、こうして自我を持っている以上、貴方はエリーゼ様のファミリーということになります。ですが、エリーゼ様のファミリーはそこに居る彼が唯一無二です」

その辺の話は俺も前にエリーゼから聞かされた覚えがある。吸血鬼から血を吸われた人間は、その吸血鬼の下僕として肉体から精神に至るまで全ての自由を奪われるのだという。そして、そんな下僕と呼称される吸血鬼に対して、血を吸った吸血鬼が自らの血を分け与えることで、お互いはファミリーと呼ばれる対等な存在となるのだそうだ。そこには今の俺のように肉体と精神の自由も保障される。

「まさか、これだけの間を生きてきて下僕の一人も作った事が無いということは無いでしょう? 吸血鬼にとっての食事とは下僕の生産にも繋がる行為ですから」

さも当然のようにマシューは言葉を続ける。

しかし、そこでローザは首を立てには振らなかった。

「た、確かに、話には聞いていましたわ。ですが、私は人間の下僕を作った事もありませんし、勿論、ファミリーを作った事もありませんっ! そもそも、吸血鬼と成ってから今日に至るまで、人間から血を吸った経験はありませんわっ!」

すると、今度はマシューが驚く番であった。

「本当ですか?」

物言いは普段どおりだが、そこに含まれている驚きの色は誰の耳にも明らかだった。

「本当ですわっ! 私を貴方達と一緒にしないで下さいましっ!!」

「でしたら、食事はどうしていたのですか? 血を吸わずに生きていくことも不可能ではないでしょう。ですが、その喉の渇きからくる欲求に抗うことは耐え難い苦痛です。それを数百年間に渡り耐えてきたとは思えません」

「そ、それは………」

マシューの問いにローザは言葉を濁すようにして、ボソボソと呟くように答えた。

「牛や羊といった家畜の血を少しずつ集めて……、それで飢えを凌いでいましたわ。で、ですが、それにしたって決して殺したりはしていませんわよ? 死なない程度に多くから少しずつを抜いていましたから」

「言っておきますが、吸血鬼によって血を吸われた存在は、それが生きている存在ならば、たとえ家畜であっても下僕化するのですよ? 牛や羊、猫、犬、どんな動物も例外ではありません」

「それでも、同じ人間の血を吸うよりは全然マシですわっ!」

ローザの言いたいことは、吸血鬼化してまだ浅い俺には良く分かる。ただ、今の俺は既に人間の血液の味を知ってしまっている。ローザの様に我慢する事はきっと叶わないだろう。特にエリーゼの与えてくれる血液は、今まで生きてきた中で口にしたどんな食品よりも美味しく感じられる。

「私が吸血鬼となってしまったのも、そこのエリーゼが何か良くないことをしたからに決まっていますわ。人間が吸血鬼化するには、吸血鬼から血を吸われる以外にも方法があると聞き及んでいます。それをご存知なくて?」

「ええ、存じております。ですが、それら手法は既に10世紀ほど昔に滅んでいます。貴方が襲われた時代では、吸血鬼との血液交換でしか吸血鬼化する方法は無いのですよ。そういった話を耳にした事は無いのですか?」

「何事にも例外はありますわっ!」

あれこれと手を打って相手を諭そうと苦心するマシューに対して、ローザは意地でも自分の主張を通そうとする。当然といえば当然である。だが、それも段々とその内容が強引なものになってきているのは、傍から見ていても明らかだった。

「ですが、仮に例外があったとしても、もう一つ証拠となりえる事情が存在します」

「……まだ言いますの?」

「それは貴方の持つ能力です」

相変わらずローザの問いには答えずに、ただ淡々とマシューは説明を続ける。

「私の能力に何の意味があるというのです?」

「新月の夜に限り通常の数十倍の力を得ることが出来るという、その非常に危うい能力は元はマクシミリアン・ロベスピエールが所持していた能力です。持つものが持てば単身で世界中の化け物を相手に出来るほどの代物です。それ故に我々も彼の同行には注意を払っていたのですよ」

その視線が一瞬だけだがエリーゼに向けられたのは、決して気のせいではないだろう。

自然と鬼に金棒という単語が思い浮かんだ。

「つい先日までの我々は、貴方がマクシミリアン・ロベスピエールの所持していた能力を共有しているという事実を知りませんでした。いえ、貴方という存在が存命であるということさえ知りませんでした。ですが、今を吸血鬼として生きている貴方の存在が、例の1489年の12月31日に起きた事件と繋がった事で、組織はその可能性を見出したのです」

「話が見えてきませんわ」

「他人の血を吸った事が無い貴方でも話には聞いたことがある筈です。吸血鬼はお互いの血を交換することで、お互いが持つ特殊な能力を共有する事ができるのです。例えば、エリーゼ様のファミリーである彼が、エリーゼ様と同様に日の下を歩けるのは、エリーゼ様の血を飲んでいるからなのです」

マシューが俺を見て言う。

どうやら、エリーゼが持つお天道様の下を歩く能力は、思いのほか有名な話らしい。

「それが私の能力と何の関係がありますの? 聞いた話によれば、そういった能力の共有は時間的な制約があると聞きましたわ。ですが、私の能力は吸血鬼化してから今に至るまで延々と続いています。これの何処が血の共有だと言いますの?」

確かに、そのおかげで俺は二日から三日に一度の頻度でエリーゼの血を飲む羽目となっている。これさえなければ別にエリーゼと共に過ごす必要も無いのだ。この依存を解消できる方法があるというのならば、是非とも教えて欲しい。

「この能力は私が独自に得た能力ですわ。マクシミリアン・ロベスピエールなどという吸血鬼は関係ありません。偶然の一致に過ぎませんわ」

「いいえ、そういった偶然は滅多にあることではありませんよ。そもそも、マクシミリアン・ロベスピエールが持っていた能力はかなり特殊な部類に入ります。私達の組織が行なった調査によれば、過去、彼以外にその能力を所持した者の記録はありません」

「そんなの貴方達の勝手な認識でしょう?」

「よって、それ以上に有力な仮説を私は提唱いたします」

「で、ですからっ、勝手な想像は止めてくださらないっ!?」

「仮説というのは貴方の体質的な問題です」

相手の主張を無視して、途切れることなく話を進めるマシューに、ローザも抵抗を諦めたらしい。相手を睨むように鋭い視線を送りつつ口を噤んだ。それを良しとしたマシューによって、話は更に続けられる。

「吸血鬼が血を利用して能力を共有する際に設けられる時間的制限は、血を飲む側の吸血鬼の体質に依存します。ある者がまる五日間に渡って共有できた能力も、別の者は数時間しか共有できなかったという報告もされています」

「まさか……、その期間が数百年に及ぶとでも?」

「ええ、そのまさかです。これに関しては我々としても非常に興味深い事実です」

「そんなことありませんわっ!」

「もし、貴方がそれを否定するというのでしたら、我々が何かしらの特殊な能力を持つ吸血鬼の血を用意いたしましょう。それで同じく数百年に渡って能力が継続しましたのならば、貴方の言い分は崩れた事になります」

「で、ですが、仮にそんな事が可能であったとしても……」

「仮にそんな事が可能であったとするのならば、答えは一つです」

自らの想像の範疇を超えた展開を受けて狼狽するローザに、マシューが最後の畳み掛けを行なう。

「窮地より救われた貴方は、しかし、不幸にもマクシミリアン・ロベスピエールによって血を吸われた後であった。そこで、エリーゼ様は何らかの手を使いマクシミリアン・ロベスピエールに対して貴方へ血を提供するよう強制させた。その結果、貴方は彼のファミリーとして自我を持つ吸血鬼となった。然る後に、マクシミリアン・ロベスピエールはエリーゼ様によって処分された。これが私の推測です」

「そんな……、そんな馬鹿な話がある筈ありませんわっ!」

「貴方がマクシミリアン・ロベスピエールを知らないというのも、マクシミリアン・ロベスピエールによって血を吸われ、彼の下僕となったことによりその間の記憶を失っていたと考えれば説明はつきます。違いますか?」

確認を求めてマシューがエリーゼに向き直った。

「………大体はそんな感じだ」

問われた本人はつまらなそうに、素っ気無い様子で言葉を返した。俺もエリーゼが進んで人助けをするとは信じがたい。しかし、こうして本人が頷いたのだから認める他に無いだろう。

「とはいっても、貴様を助けたのはただの気まぐれだがな」

まあ、そう付け加える辺りは非常にエリーゼらしいくて安心するのだけれども。

「ちなみに、エリーゼ様がマクシミリアン・ロベスピエールを滅ぼしたという記録は我々の組織にも残っていますから間違いありません。当初はエリーゼ様が彼の血を狙っているのではないかと、そういった方向性で調査を行なっていたのです。ですが事実は違っていたようで、当時の我々も酷く安心したものです。これが、私が貴方の両親の没年を知っていた理由にもなります」

「で、ですが私は見たのですっ! 燃える屋敷を背後に凄惨な笑みを浮かべるエリーゼをっ! その返り血を受けて紅く彩られた顔は、確かに、確かに私の記憶の中にあるのですっ!!」

エリーゼ本人が頷いた事で、ローザの焦りは加速する。

「では、逆に此方から問わせていただきますが、貴方は実際にエリーゼ様がご家族を殺す所を見ているのですか? マクシミリアン・ロベスピエールによって血を吸われたことにより、貧血から来る意識の混濁が起こっていなかったとも限りません。全てが終わった後に、朦朧とした意識の中でエリーゼ様の姿が反射的に網膜へ焼きついてしまったのではありませんか?」

「そ、それは………」

淡々と語るマシューに対して、ローザは満足な返答が出来なかった。

そして、これがトドメであるとばかりにマシューは言い放った。

「つまり、エリーゼ様はご両親の敵ではなく、貴方の命の恩人なのですよ」

それで全ての決着はついた。

「…………そんな、そんなことがある筈がありませんわっ!」

事実を認められないローザは嘆くように否定の言葉を繰り返す。しかし、そこに具体的な根拠を挙げるだけの知性は残っていない。ただ、受け入れられない事実を否定することで、崩壊寸前の精神を守っているだけだった。

「だって、それでは私のこれまでは何だったのですかっ!? 他者を陥れてまで望んだ復讐の意味は何ですかっ!? この晴らすことの出来ない憎しみは何処へ向ければ良いのですかっ!?」

「今までの貴方は、言うなれば観客の居ない舞台で踊る哀れな道化でしょうか」

それにしても、この男は本当に遠慮の無い性格をしている

「そんな馬鹿な話があってたまりますかっ!」

「ですが、現にこうしてあるのですよ」

「私は……、私は認めませんわっ!!」

身体を地面に横たえたまま、頭を振り回しながらその場で悶える様にして暴れている。以前、コイツの自宅に拉致された際には、復讐だけを生きがいとして来た、などと言っていたことを思い出す。自分の生きがいの全てを否定されてしまったのだから、まあ、この反応も仕方ない事のように思える。

「では、それを我々に対して示せるだけの根拠はありますか?」

優しい笑みを浮かべながら、しかし、惨酷な追い討ちをかける。

「そんなの、貴方の勝手な妄想ですわっ!!」

「ですが、当事者であるエリーゼ様も肯定されておりますし、私には自分の案を否定する材料が一切ありません」

「それもこれも、貴方やエリーゼが私を落としいれようとして共謀しているに違いありませんわっ! でなければこんなことがある筈ありませんっ!! ある筈がないのですっ!!!」

いつの間にか、ローザは話が通じる状態では無くなっていた。

そんな無様な嘆きを目の当たりにして、マシューは両手の平を肩の高さまで上げて、やれやれ、と頭を小さく捻ってみせる。どうやら、彼の言うお仕置きとは、これにて達成されたらしい。

「そんな……、そんな筈がある訳…………ないじゃないですか……」

大粒の涙を浮かべながら枯れた声で嘆くその姿は、確かに、どの様な肉体的な苦痛を与えたところで、彼女に対して求める事のできない酷く惨酷な仕打ちの末に思えた。

「私から貴方へ伝えるべき事実は以上です」

言いたいことの全てを言い終えたマシューは、腰を折って小さく頭を下げると、そう短く残して数歩後ろへ下がり身を引いた。そして、後はエリーゼの仕事だと言わんばかりに此方へ視線を送ってくる。

「おい、エリーゼ……」

けれど、当の本人はローザを眺めたまま一向に動き出そうとしない。

夜の国道には少女が漏らす嗚咽の声だけが静かに響いていた。

「なぁ、聞こえてるのか?」

読んで字の如く、今の俺は手も足も出せない。

「五月蝿い、繰り返さずとも聞こえている」

「だったら返事くらいしろよ」

「ふん、………下らんな」

短く呟くと、それまで座っていたガードレールから腰を浮かす。

「お、おい。ちょっと……」

何の指針も示すことなく無く動き出したエリーゼに俺はうろたえる。

両手両足を失って抱かれている身では、そんな些細な挙動も不安で仕方が無い。

「雅之、お前はこの下種をどうしたい?」

「どうするって、別に……」

嘆くローザは既に救いようが無いほどにボロボロで、その姿を眺めていると、そこから更に手を下そうという気も自然と失せてくる。それは俺の身体が元へ戻るという前提条件があっての余裕だった。先程のマシューによる説明で、今後ローザが俺の命を狙う意味はなくなったのだ、これ以上この少女と係わり合いになりたいとは微塵も思わない。これで下手にちょっかいを出して逆上されても困る。

「俺はもうどうでもいいよ。それよりも早く家に帰って眠りたい」

色々とあったせいで、身体は即急な睡眠を必要としていた。

「ならば、私もそうするとしよう」

俺の言葉にエリーゼもまた頷いた。

すると、その反応が意外であったらしい。

マシューが小さく驚きの声を上げた。

「よろしいのですか?」

「貴様の長ったらしい講釈のせいで気分が萎えた。それに私自身はなんら被害を受けていない。一番の被害者であるコイツがこれで良いと言っているのだ、ならば私はそれに従うまでだ」

確かに、らしくないといえばらしくない。

けれど、その判断は俺としても嬉しくある。これでまた、目の前でローザの焼死体など見せられた日には、明日をどんな気分で向かえればよいのか分からなくなってしまうだろう。

「そうですか」

何かを悟ったような表情でマシューが答えた。

「後は貴様の好きなようにしろ。私とコイツは家に帰る」

「はい、了解致しました」

マシューの返答を背に聞きながら、エリーゼは地を小さく蹴って空へ飛び上がった。その腕に抱えられながら、俺は徐々に下がりゆく瞼の自重に負けて、頬に生暖かい夏の夜風を感じながら、ゆっくりと夢の世界へ旅立っていった。