金髪ロリツンデレラノベ 第三巻

プロローグ

ガラス窓を一枚挟んで外は灼熱である。

足早に過ぎ去った梅雨も今となっては懐かしい。

ガラス越しに臨む空は憎らしいほどの快晴で、天気予報によれば日中の最高気温は36度を越えるらしい。先ほど洗濯物を干しにベランダへ出たときには、時間にして数分に過ぎないにもかかわらず、シャツの襟口が汗によってグッショリと濡れてしまった。

なんでこんなに暑いのだろう。

そんな馬鹿な疑問が浮かんでくる程の猛暑だった。

「ああ……」

ソファーに寝転んだまま、テレビ台の設置されたHDDレコーダーの液晶部に目を向けると、時刻は午前10時30分を少し回ったところだった。

これからまだまだ気温は上昇するのだろう。

四季豊かな日本の猛暑に対処すべく、我が家のリビングに設置されているエアコンは、連日、設定温度を摂氏18度として全開で運転中である。おかげで室内は長袖のトレーナーを着ていても快適に過ごせるだけの居住性が整っていた。

「………はぁ」

ただ、いかに空調が整っていたとしても、夏休みというものは無条件でダレるものである。何事にもやる気の沸かない俺は、特に何をするでもなくリビングのソファーで横になっていた。この体勢で落ち着いてから、かれこれ30分は経つだろうか。自身の事ながら、随分なヘタレ具合である。

折角、期末試験で赤点を回避し、念願の夏休みを手に入れたというのに、何をやっているのだろうか。夏の長期休暇は、何事も無いまま、既に2週間が過ぎ去っていた。無駄に時間が過ぎていく事に憤りを感じながらも、自ら行動を起こす事は決してしない。勉強なんてもってのほかだろう。とまあそんな感じで、至極例年通りの夏休みに、少し鬱になりながら、溜息だけが口から漏れるのだった。

「………なんだかなぁ」

そして、こんな状況にあっても、学生なんだから勉強しろよ、と叱咤が飛んでこないのは一人暮らしの特権だろう。今はそう声を上げる親の顔さえも懐かしい。加えて、今夏はバイトもしていないので、学校が無くなれば、本当に何もやることが無くなってしまう。

「…………」

ソファーテーブルを挟んで反対側のソファーに腰掛けているのは、腰下まで伸びた金髪の麗しい、我がご主人様ことエリーゼ・フォン・マルファッティその人である。

それまで頑なに着用を守ってきた、例の水着のような衣装を脱ぎ、今はその身を薄手の黒いワンピースで着飾っている。それは今朝方の俺の説得の賜物だった。どういう風の吹き回しか、駄目で元々ながら話をしたところ、寝起きのエリーゼは多少渋い顔をしたものの、存外素直に頷いてくれたのである。もしかしたら寝ぼけていたのかもしれない。

衣装の提供元が妹の部屋のクローゼットであり、フリル成分が豊潤に配合されていたりすることで、「普通の服」という言葉からは若干隔たりを感じるが、まあ、その辺は妥協するしかないだろう。

それに、性格はどうあれ容姿の整ったエリーゼである。着る人が着ればコスプレだ、イメクラだ、と後ろ指を指されそうな衣装のデザインに負ける事無く、存分に着こなしている。本人にそんな意識はないのだろうが、身に纏う衣装と相まって、その一挙一動が現実離れしているように感じられるのは、きっと俺の気のせいではないだろう。まるで映画の中で登場人物を演じる役者の演技を見ているかのようであった。

特にワンピースの黒い生地はエリーゼの白い肌との相性が抜群である。目を奪うようなコントラストが目前をチラついてくれて、まったく、可愛らしいから困ったものだ。小さい子供はそれだけで可愛らしく写るが、その質が良ければ、評価も鰻上りで上昇する。これであと10歳程の加齢があれば言うこと無いのに、どうしてこのちんまい状態で成長が止まったてしまったのか。それだけが、非常に悔やまれる。

「……………」

リビングには特に会話という会話も無く、テレビのスピーカーから響くゲームの BGM と、キー入力に伴って発せられるカチャカチャというボタンの連打音だけが不規則に響いていた。

ちなみに、コントローラを握っているのはエリーゼに他ならない。

ここ3週間に渡って進められていた大作 RPG は無事にハッピーエンドを終え、今はクリア後に現れた隠しダンジョンを進めている次第である。幾分か盛り上がりに欠ける展開に肩の力を抜いて向き合う姿は、いい加減、このゲームでコイツを拘束することが難しくなってきたことを示唆していた。これはまた、新しいゲームを買い与える必要がありそうだった。

「………ふわぁ……ねむ」

今日は何をしようか、眠い目を擦りながら、そんな事を漠然と考えていた。

すると、向かいに座ったエリーゼから唐突に声がかかった。

「酷い弛み様だな」

そんなの余計なお世話である。

「別に休みなんだからいいだろ。それにお前だって毎日毎日家に篭ってゲームばかりやってるんだ、似たようなもんだろうが」

エリーゼはゲーム機のコントローラをソファーテーブルの上に置き、横になったままの俺を眺めている。特に邪悪な笑みを浮かべている訳でもなく、普段からの素っ気無い表情だ。何か話でもあるのだろうか?

「お前が続けることを望んだ生活とやらは、随分と怠惰なものであったのだな。これならば切望するのも頷ける。親の脛を齧っているのだろう? ここ数週間の様子で大体は理解できた」

エリーゼはソファーに座ったまま、足をプラプラと揺らしている。その様子は本当に歳相応の子供に見えて、そんな奴に何の感慨も無く、親の脛齧りだの何だのと罵られた日にはショックもデカイ。

「す、脛齧りで悪かったな。まだ高校なんだからしょうがないだろ」

加えて今はこのだらけ具合である。俺は反射的に言い訳をしていた。

「別に悪いとは言っていない、ただ現状を口にしただけだ」

「だったら何なんだよ」

また口喧嘩でもしようというのだろうか? 多少の不機嫌さを込めた口調で返すと、それに喰らい付くこと無く、エリーゼは全く別の話題を振ってきた。

「別にどうという訳でもない。ただ、そろそろお前の身体が頃合なんじゃないかと思っただけだ」

「頃合?」

何の話だろうか?

「まさかお前、何か俺の身体に仕込んだりしたのか?」

寝ている間に首筋に噛み付いて血を吸ったり、肉を喰らったりと、コイツの場合はそんなありえない行為を平然とやってしまいそうだから怖い。だが、そう聞いた俺に、エリーゼは途端に呆れ顔となって言葉を返した。

「お前も本当に幸せな馬鹿だな。自身の身体に起こった変化をもう忘れたのか?」

「身体の変化?」

「そうだ、今のお前が太陽の下で活動できるのは、私の血の効能によって叶っているのだろうが。その摂取が2、3日に一度の頻度で必要だということも説明した筈だがな。お前の鶏頭ではそんな重要な事も2日と経たずに忘れてしまうのか?」

「あ………ああ、そういえばそんな話もあったな」

指摘されるまですっかり忘れていた。それは、つい先週も交わした会話であったような気がしないでもない。

「………先が思いやられるな」

「わ、悪かったな。ちゃんと思い出したよ」

ふとした弾みに忘れてしまうのだ。

「当たり前だ」

エリーゼが向けてくる視線が痛くて、どうにも居た堪れなくなり、身体を起こしてソファーに座り直した。別に姿勢を正す必要なんて無いのだろうが、つい2、3日前の出来事を速攻で忘れるような、揮発性の高い自分の記憶力に恥るところがあったのは確かである。

「本来ならば、お前から強請って来てもよい筈なのだが、どうやら、まだ飲ませ足りないようだな。………あと数回といったところか」

「なんだよそれ」

「直に分かることだ、気にするな」

なにやら意味深な言葉を口にするエリーゼは、対面のソファーに座る俺を誘うように腕を宙へ伸ばす。その幼い外見とは背反して、何故か艶かしく感じてしまう白く細い指先が、視界の中央でゆっくりと揺れていた。

「さぁ、来るがいい。食事の時間だ」

まったく、何たる態度だろうか。親の顔が見てみたいとはまさにこの事だ。

しかし、俺はその言葉に素直に従うしかない。エリーゼの血液を無くして今の生活はありえないのだ。初めてエリーゼと会った時の、あの陽光を全身に浴びた痛みは早々に忘れられるようなものでない。視覚さえ奪うような激痛が、脳髄さえ壊さんとして迫ってくるのだ。その記憶は、件から2週間が過ぎた今でも鮮明に思い出される。

「どうした、早く来い」

促されて立ち上がる。

「今日は何処に噛み付けばいいんだ?」

手前に置かれたソファーテーブルを迂回してその前に立つと、ソファーに座ったままの体勢にあるエリーゼは、顎を上げて此方を見上げてくる。

この前は腕だった。その前は脹脛だった。犬歯を突き立てて皮膚を破る、その感触は決して慣れることの出来るようなモノではない。ただ、そんな生理的抵抗を上回る、それ以上に恐ろしい変化が俺の中にはあった。

「そうだな…………、今日は沢山くれてやる。首でいいぞ」

そう言ってエリーゼは頭を右に傾げ、左の首筋を露にした。

肌に絡みつく金色の髪を自らの手で払いのけ、白く肌理の細かな皮膚を露出させる。正面から見て左に反らされた顔の、しかし、その眼球だけが此方を捉え見つめてくる。角度を変えて見るエリーゼの顔は、少しだけ大人びて見えて、その瞬間、相手を異性として意識してしまった自分がいた。良く分からないが、何かに負けた気分である。畜生。

「…………」

身に着けているワンピースは襟首の広いデザインなので、行為をするに当たって特に邪魔にはならない。そのまま容易に喰らいつくことができる。ただ、何も考えずに噛み付いたのでは、傷口から垂れてきた血液が服について汚れてしまう可能性が高い。特に首筋に噛み付いたとあっては、結構な量の血が出ることだろう。ともすれば、飲みこぼしが垂れる事だって必然だ。何か対策をせねばなるまい。流石に故人の物を汚すというのは気が引ける。

「なぁ、ちょっと服を脱いでくれないか?」

「は?」

言葉足らずだっただろうか?

エリーゼは頭上に疑問符を浮かべ、ポカンと口を開けたまま俺を見つめていた。

「この猛暑で頭が沸いたか?」

「い、いや、そのまま噛み付くと血で服が汚れるだろ? 下着はそのままでいいから、せめて上に着てるワンピースを脱いでくれないか? 一応妹のだし、それ」

なにやら驚き顔になっていたエリーゼに補足説明をする。

「……そういうことか。遂に狂ったかと思ったぞ」

「う、うるせぇよ」

別に変なことをした訳でもないのに羞恥の念が沸いてくるのはどうしてだろうか? 最近はコイツを相手にすると、どうにも調子が狂う。

「まったく、これだから布地の衣類は嫌なんだ……」

ブツブツと文句を口にするエリーゼは、しかし、思いのほか素直に頷いて、そそくさと服を脱ぎ始めた。もとよりブラジャーをするほどの胸も無い。ワンピースの下に着ているのは秘所を覆うショーツのみだった。ちなみに、それは俺が恥ずかしい思いをして遠方のデパートまで足を運び購入してきたものだ。

脱ぎ終えた服をソファーの上に放り投げて俺の前に立つ。

「さぁ、脱いだぞ。これで良いのだろう?」

「あ、ああ」

思わず視線が行ってしまうのは、目前に迫った首筋ではなく、それよりも位置的には下に続く裸体である。そして、お互いに1メートルと無い間隔で向き合っていれば、その視線の向うところは、否応無く捉えられてしまう。特に相手の頭部は俺の胸部よりなお低い位置にある。その身体を覗き込むように見つめていれば、相手が気づくのは当然だ。

「なんだ、欲情したのか?」

「ば、馬鹿言えっ!」

黄色人種には再現し得ない白の肌があまりにも綺麗に写り、思わず目で追ってしまっていた。胸の膨らみが無くとも、スラリと伸びた両手両足は美しく、括れた腰のラインは女性の魅力として十分なものを持っているように感じられた。いつぞや浴室で見たときも思ったことだが、憎たらしい程に可愛らしい。思わず手に取って撫で回したくなる。そんな衝動に駆られるのは、この姿を見たのならば万人に共通する欲求となることだろう。

とはいえ、それも綺麗なモノを綺麗だと感じただけのことで、それ以外の意図はない。ましてや相手は子供である。欲情する事などあり得ない。そう、これは人が人形を愛でる感覚と同じものなのだろう。ただ、それが動くか動かないかの違いである。本当である。

「脱げと言ったのはお前だろう? 人の身体をジロジロと眺めてくれて、厭らしい奴だな。平坦な胸には何の興味も無かったんじゃないのか?」

「だから違うって言ってんだろっ」

まあ、わざわざ自らの胸中を口にして、結果的にエリーゼを褒める事となるのも癪である。ここは黙り込むのが吉だろう。とっとと血を吸って終わりにするのが良い。

「どうだかな、私は視姦された気分だ」

「うるせぇよ」

ったく、調子に乗ってくれて……。

その顔には、例によって人を小馬鹿にしたような笑みを湛えている。爛々と輝く瞳は、視線を合わせているだけで吸い込まれそうなほど蒼く、笑みに応じ細められたその眼に見射抜かれた日には、それが敵意に染まったものでなくとも、自らの身体が自然と強張るのを感じる。

最近になって強く思うことなのだが、エリーゼの相手をしていると、どうにも調子が狂うのを感じる。何故だろうか? 出会って間もない頃の方が、むしろ何の気兼ねも無く接する事ができていた気がする。まあ、慣れない他人との共同生活だ。それほど気にすることでもないのかもしれないが。

それに今は、そんなことに無駄に思考を割いているよりも、目先に立つ娘っ子の相手が最優先である。ここで先手を取られたままというのも面白くない。やられたらやり返すべきだろう。

「だったら望みどおり犯してやるよ。勝手に飲ませてもらうぞ」

毎度毎度人のことをおちょくってくれる仕返しである。相手の返事も待たずに、俺はエリーゼに襲い掛かった。無論、犯すという言葉は比喩であり、実際には血を飲む為である。

右腕を背に、左手を後頭部に回した。俺とエリーゼでは結構な身長差があるので、こちらが床に膝を着いて立ち膝である。それでも頭の位置は若干此方のほうが高い所にあるだろう。とはいえ、体のサイズはちんまいが、相手は素手でコンクリートの壁を粉砕するような化け物なのだ。遠慮する必要は無い。腕中にある華奢な身体を力一杯に抱きしめ、その勢いに任せて首筋へと喰らい付いた。

エリーゼの方も、それで良しとしたのだろう。特に抵抗することも無く行為を受け入れた。犬歯が皮膚を突き破り、咥内はすぐに暖かな液体で満たされた。

「んっ……」

エリーゼが耳元で吐く小さな吐息が、やけに頭の奥まで響いて聞こえた。

「…………」

ゴクゴクと喉を鳴らして血液を胃へと送り込む。

噛み付いた際に出来た傷は、それなりの大きさを持った切り口であったのだろう。かなりの勢いで血液は噴出してくる。それを出来る外へ限り漏らさないように、咥内へと流し込んだ。

当然、口の中に満ちるのは血の味だ。

噎せ返る様な鉄の味である。

でも、それが最近は何故か不快ではなかった。

血液なんて人が飲むようには出来ていない。そんなことは十分に理解している。初めてエリーゼの血を飲んだときは、思わず吐き出しそうになった。呑み終わった後も、嘔吐感をこらえるのが大変だった。しかし、それが回数を重ねるにつれて、段々と平気になってきているのだ。これは生物としての「慣れ」なのだろうか? 

「…………」

市販の清涼飲料水を口にするかのように、ただひたすらにエリーゼの血液を飲み続ける。ただ、ここ数回の行為に関しては、その回数を重ねるにつれて、明らかに常軌を越えたおかしな感覚が、自分のなかで芽生え始めていることを感じていた。

どうしてだろう、血が美味しいのである。

それは馬鹿げているが、幾ら疑っても結論の変わらない事実として感じられるのだ。

一度自分の指を浅くカッターで裂いて、その血を吸ってみたことがある。もしかしたら、エリーゼの血液が特別に美味しく出来ているのではないか? などと考えたからだ。だが、血液は自身のモノでも美味いと感じられた。味を比べるならば、エリーゼの血液には明らかに劣って感じられたが、それでも、肯定的に味覚を刺激したことには変わりない。

「…………」

吸血鬼という存在になったことで味覚が変化したのか、それとも血液の方が変化したのか、今の時点では答えを出すに至らない。俺かエリーゼ以外の血液を口にしてみれば、その答えも分かるのだろうが、流石にそんなことを頼めるような相手はいない。第一、答えが出たとしても、別にこれといって何かが得られるわけでもない。

「……んぅ」

エリーゼは俺が血を吸うに従って、時折ピクピクと身体を震わせる。きっと、血液が体外に排出されたことによって体温が下がり、その影響を受けて身震いをしているのだろう。身体機能に関しては、普通の人間と何ら変わらないと考えられる。もしそうでなければ、歯を立てられる痛みにも増して、他人の口が皮膚に触れるこそばゆさに身を震わせているのかもしれない。

「…………」

まあ、そんな勝手な想像はどうでも良い。

それよりも、今は血を飲むのだ。

それこそエリーゼの体内に流れる全てを飲み干さんとする勢いで、俺は血液を飲み下していった。いつもならば、制止の声が掛かるであろう血量を喉奥へ送り込んだ後も、エリーゼの声は聞こえてこなかった。本人も、今日は沢山くれてやる、と言っていた。ならば遠慮することは無いだろう。だから、俺は自分が望むがままにエリーゼの血を飲み続けた。

本当にどうしてだろう、こんなにも血が美味しい。

幾ら飲んでも飲み足りない。そう思えるほどであった。

自分でも、今こうして感じている感覚が明らかにおかしいであろう事は理解していた。変態という言葉が合致するような異常な行為に及んでいることを、確かに頭では理解していた。けれど、どうしても血を飲むことを止められなかった。もしも、世間一般で麻薬として総称されるような薬剤を使ったのなら、こういった風になったりするのだろうか? そんな事を漠然と想像して寒気を感じながらも、しかし、喉を通り過ぎる温かな液体を止めるとこは出来なかった。

以前から多少なりとも美味しいとは感じていた。けれど、今日はそれにも増して、一層強く味覚が刺激された。リビングには、ただ、ひたすらに俺が喉を鳴らす音だけが響いていた。

そして、口を付けてから何分経っただろうか。胃の中が赤い液体に満たされて、段々と苦しくなってきた頃になって、ようやくエリーゼの声がかかった。

「そろそろいいだろう、口を離せ」

そう言われた。

「…………」

けれど、俺はどうしても口を離したくなかった。もっともっと、ずっとエリーゼの血を飲んでいたかった。こんなにも美味しいものから離れるだなんて考えたくなかった。すごい美味しいのだ、もっともっと、飲みたいのだ。

思い出してみれば、前回の行為の際にも、今感じているような、どうしようもない感覚に苛まれた覚えがある。あの時は、自らの意思で、行為を続けることへの羞恥心から、エリーゼの声に従って止めてしまった。

しかし、今回はどうしても従えなかった。

血が、狂おしいほどに美味しいのだ。

だから俺はエリーゼの言葉を無視して、その小さな身体を一層強く抱きしめると、そのまま血液を飲み続けた。

「………………」

「どうした、私の血が、そんなに美味いのか?」

すると、どういうわけかエリーゼは、自らの命に従わない俺を怒ること無く、楽しそうにそう語りかけてみせた。相手の首に顔を埋めているので、その表情は分からないが、笑っているのは確かだろう。声に弾みがあった。

「もしかしたら効いていないのかとも考えたが、そうでもなかったようだな。量を増やせばこの通りだ。存外我慢していたのだな、お前も」

一体何の話だろうか?

わからない。

「別に気にする必要は無い。吸血鬼とはそういうものだ。ましてや、口にした血が私のものともなれば、我を忘れて溺れるのも無理の無い話だ」

エリーゼは独白するかのような口調で話しかけてくる。

吸血鬼だから血が欲しくなる。それは御伽噺の中では有り触れた設定のひとつだ。ならば、今の俺はそんな設定に翻弄されている最中だというのか?

美味しい、そんな感覚が血への執着として利用されているとは思いもしなかった。

「とはいえ、これ以上吸われると私が干からびてしまうからな、いい加減に離せ」

抱きついていた両腕の、その内側から外へ向けて大きな力が働いた。エリーゼが両碗に力を加えたのだ。腕力勝負では勝ち目など無い。無理やり俺の拿捕を退けた両腕は、そのまま此方の両肩をがっしりと掴み、重なり合っていた身体を押し離した。

噛み付いたことで出来た傷は、口が離れるに応じてあっという間に消え失せた。恐ろしいまでの治癒力である。俺の比ではないだろう。白い煙が発生したかと思いきや、次の瞬間には一切の痕跡を残さない白い肌がそこにあった。後に残ったのは肌の上に垂れた血だけである。

そして、エリーゼの首筋から口を離すことで、咥内へ流れ込む血液の流れが遮断された俺は、そこで始めて、今まで自分が行っていた行為の全容を理解した。それがどれほど変態染みていて、異常なことであったのか。あやふやなまま、欲求に流されていた思考は若干ながら鮮明さを取り戻し、否が応でも自己嫌悪を誘ってくれた。

「何やってんだよ……」

だが、口を離してなお血が欲しいと思ってしまう。

その欲求は止められない。

「ハハハ、可愛いな。お前のそういう顔が見たかったんだよ。どうだ、私の血は美味かっただろう?」

全てを理解した上でエリーゼはからかいの声を上げる。その様子がいつに無く楽しそうに聞こえるのは、俺の無様が余程面白かったからだろう。プライドも何もかもが完膚なきまでに打ち崩された気分だった。

「う、うるせぇな、別に飲みたくなんてねぇよっ!」

だから、強がってみせる他に対応の術は無い。ここで素直に折れてしまっては、それまで必死に守ってきたものを一切合財、エリーゼに持って行かれてしまう。それだけは避けたかった。

「ほぉ? ならば、これはどうだ?」

すると、そんな俺に追い討ちをかけるべく、エリーゼは想定外の行動をとってみせた。

自らの小指を尖った犬歯で切り裂き、そこから溢れ出てくる血液を足元へと垂らし始めたのだ。切り裂かれた指は、エリーゼによってコントロールされているのか、自然に治癒されることもなく、そこに傷口を残していた。血液は滞ることなく流れ出る。フローリングの床に出来た赤い液溜まりは、拳大の大きさにまでなった。

「どうした、私の血など飲みたくないのだろう? 別に気にする必要もあるまい」

視線はそこへ釘付けだった。

「ぐっ……」

抗いがたい欲求に、口の端から涎が垂れそうになり、それを慌てて飲み込んだ。

「はっははははははは、堪らないな。可愛いなぁ? 飲みたいのなら飲むがいい。這いつくばって最後の一滴まで舐め取れば良いだろう」

「ぅう……」

俺の身体はどうしてしまったというのだろうか。

どうしてこんなにも血が欲しいのか。

しかし、ここで血を舐めようものならば、今後エリーゼにどんな扱いをされるか分かったものでない。ただでさえ下僕だのペットだのと罵られているこの身だ。これ以上不名誉な代名詞が付くことは避けなければならない。

「だ、だ……、誰がそんなことするかよっ!」

そう叫んで、足元に出来た血溜まりを自らの足で踏みつけた。

足の裏に伝わるドロっとした感触が、普段ならば気持ち悪いと感じる筈のその感触が、今はどうしてか心地よく思えてしまった。まるで足の裏にまで味覚神経が働いているかのような気分であった。

「ほぉ…………」

その様子にエリーゼは驚いたように声を上げた。

「私の血に抗うか……」

当たり前である。

「これまた随分と強靭な精神力を持っているな。無駄に威勢が良いだけでもなかったということか」

「うるさいな………。っていうか、お前、俺の身体に何をしたんだよ」

恐ろしいまでの依存性である。例えば、タバコをやめようと必死になっている者達は、このような衝動を内包する毎日を耐え忍んで生活しているのだろうか? いや、それにしたって、この欲求は強い。頭をかきむしって、床に舌を這わしたくなる欲望を必死に押さえつけた。

「私は何もしていない。何かしたとすれば、それは私の血だろう」

「血?」

「そうだ、血だ」

やはり、原因は血液らしい。

「それって、酒みたいなものなのか?」

世に言うアルコール依存症とは薬物依存症の一種であり、飲酒などアルコールの摂取によって得られる精神的、肉体的な薬理作用に強く囚われ、自らの意思で飲酒行動をコントロールできなくなり、強迫的に飲酒行為を繰り返す精神疾患である。自らの体内を流れる液体に薬物依存を発するとは想定外だが、例えるには丁度良い。

「ああ、似たようなものだな」

俺の言葉を受けて、エリーゼは満足げに頷いた。

「だが、酒のそれとは桁違いだと思っていい。お前はこれからの一生涯を、この衝動と付き合っていかなければならない」

「マジかよ……」

それはまた、なんてとんでない話だろう。

「無論、それは同様に吸血鬼である私とて例外ではない。しかし、吸血鬼に成ってそれなりに年月が経てば、その欲求も自ずとコントロールできるようになってくる。それまでの辛抱といったところだな。お前の場合はそれなりに精神面も強く出来ているようだし、2、30年もすれば苦も無くなるだろう」

「2、30年って……、そんなの聞いてないぞ?」

「当たり前だ。言ってなかったからな」

語られた真実に身を打ち振るさせる俺に対して、エリーゼはさも当然だとばかりにしれっと言ってみせた。

口に残る鉄の味が、唾液腺から絶え間なく唾液を分泌させる。床に赤く残る液体が欲しくて欲しくて、今にもその場に跪いて、フローリングの上へ舌を這わしてしまいたくなる衝動に駆られる。こんな強力な欲求と2,30年もの間に渡って、折り合いを付けていかなければならないのか? なんて、あり得ない話だろう。

「ふふふ、その顔が見たかったんだよ。堪らないだろう? 血が欲しいだろう? 吸血鬼に成ったばかりの者の中には、その欲求に打ち勝てず、自らの血を延々と啜り呑んで、そのまま果ててしまった奴さえいる。お前も注意しろよ?」

「…………」

返す言葉も無かった。

「まあ、2,3日に一度は私の血を飲ませてやる。その間の辛抱だな、我慢しろ」

語るエリーゼは、とても楽しそうに、とても嬉しそうに、厭らしい笑みを浮かべて俺を見つめていた。その憎たらしさと相まって、今にも飛び掛りたい衝動を必死に抑えるのが大変だった。何故こうも、後から後から厄介な設定を明らかにしてくれるのか。色々と妥協してコイツとの共同生活を始め、それにも段々と慣れてきたというのに、平穏無事な生活は再び俺から距離を取ろうというのか。

「私を押し倒してみるか? もしもそれが出来たのなら、今この場でもう一度、血をくれてやらないことも無いぞ?」

そんな此方の胸中を鋭く読み取ったエリーゼは挑発的な笑みを浮かべ、艶かしく手招きしてみせる。

それが我慢の限界だった。

次の瞬間には本能が理性を駆逐し、目の前に佇む小さな体へ飛びついていた。だが、結果は考えずとも明らかである。身体能力に差がありすぎるのだ。自らの2倍以上の質量を持つ身体を難なく片手で抱きかかえて、やんわりと背後のソファーに倒れこんだエリーゼは、しかし、その首筋に噛み付こうと迫った俺の顔を、もう一方の空いた手で押さえ、あろうことか、逆に此方の首筋へ噛み付き返してきたのだ。

「いっ!?」

首筋に走った予期せぬ痛みに、小さく悲鳴を上げる。

「言っておくが、お前が先に襲い掛かってきたのだからな?」

「ちょ、ちょっと待てよっ!」

慌ててその場から離れようとして、相手の肩を両手で力一杯押した。けれど、エリーゼの圧倒的な腕力を前にしては、それも何の意味も成さない行為だった。幾ら押してもピクリとも動かないのである。それどころか、背中に回された腕には更に力が込められ、胸部にはお互いの肋骨が擦れ合う感覚すら伝わってくる。小さな身体の上に覆いかぶさっている状態にあって、その相手によって強引に抱きとめられているのだ。

「ンフフフフ」

首元からくぐもった笑い声が聞こえてきた。位置的に相手の顔を伺うことは叶わないが、そこに浮かんでいるであろう表情は容易に想像できる。

「糞っ、放せよ! コラッ!」

血液が抜かれるに従って、身体は段々と虚脱感を感じ始める。それは手足の末端組織から徐々に進行して、ゆっくりと全身を巡る。血管中の血液量が減ることでヘモグロビンが不足し、体細胞が酸欠状態に陥るのだ。そして、数分と経たずに自身の身体を支えることすら困難に感じるようになるのだ。風邪を引いたときに、筋肉へ上手く力を込められなくなる事があるが、それが更に酷くなったことを考えればよいだろう。次いで、肉体的な変化が極まると、今度は意識が朦朧とし始める。徐々に鈍っていく意識は周囲の現状を把握することすらできなくなる。やがて、視界に黒い影が落ち始め、最終的に気を失うのである。

それでも、今回はよく持った方であろう。

エリーゼに抱かれること10分の後に、俺の意識は遠いところへと旅立っていった。

またこんな展開である……。